半月ばかりの避暑旅行を終って、わたしが東京へ帰って来たのは八月のまだ暑い盛りであった。ちっとばかりの土産物を持って半七老人の家をたずねると、老人は湯から今帰ったところだと云って、縁側の
「虫の中でもきりぎりすが一番江戸らしいもんですね」と、老人は云った。「そりゃあ値段も
老人はしきりに虫の講釈をはじめて、
「暦が違いますから八月でもこの通り暑うござんすよ。これが旧暦だと朝晩はぐっと冷えて来るんですがね」
老人は又むかしのお月見のはなしを始めた。そのうちにこんな話が出て、わたしの手帳に一項の記事をふやした。
文久二年八月十四日の夕方であった。半七がいつもより早く
「親分。どうも御無沙汰をいたして居りました。いつも御機嫌よろしゅう、結構でございます」
「おお、お亀さんか。久しく見えなかったね。お蝶坊も好い
「いえ、実はそのお蝶のことに就きまして、今晩お邪魔にあがりましたのでございますが、どうもわたくし共にも思案に余りましてね」
四十女のひたいの皺をみて、半七は大抵想像がついた。お亀は今年十七になるお蝶という娘を相手に、永代橋の
「じゃあ、なんだね。お蝶坊が何かこしらえて、阿母に世話を焼かせるというわけだね。まあ、ちっとぐらいのことは
お亀は
「いいえ、おまえさん。なかなかそんな訳じゃございませんので……。なに、
「おかしな話だな。一体そりゃあどうしたというんだね」
「娘がときどき影を隠しますので……」
半七はやはり笑って聴いていた。若い茶屋娘が時々に影をかくす――そんなことは殆ど問題にならないというような顔をしているので、お亀もすこし
「いいえ、それが情夫や何かのこととはまるで訳が違いますので……。まあお聴きくださいまし。丁度この五月の川開きの少し前でございました。一人のお供を連れた立派なお武家がわたくしの店のまえを通りかかりまして、ふと店にいる娘を見ましてふらふらと店へはいって来たんでございます。それからお茶を飲んでしばらく休んで、お茶代を一朱置いて行きました。まことに好いお客様でございます。それから三日ほど経つと、そのお武家がまたお出でになりましたが、今度は三十五六ぐらいの品の好い御殿風の女の
「むむ」と、半七はうなずいた。
かれらは一種のかどわかしで、身分のありそうな武士や女に化けて来て、
「娘はそれぎり帰らねえのかえ」
「いいえ。それから
お蝶はそれから奥まった座敷へつれて行かれた。三、四人の女が出て来て、かれの眼隠しや猿轡をはずして、両手の
風呂が済むと、また別の広い座敷へ案内された。そこには厚い美しい座蒲団が敷いてあった。床の間の花瓶には
この間の女が再び出て来て、お蝶に髪をあげろと云った。ほかの女たちが寄って彼女の髪をゆい直すと、今度は着物を着かえろと云った。女たちがまた手伝って、
女たちは一冊の本を机の上にひろげて、お蝶にすこし俯向いて読んでいろと云った。魂はもう半分ぬけているようなお蝶は、なにを云われても逆らう気力はなかった。かれは人形芝居の人形のように、他人の意志のままに動いているよりほかはなかった。彼女はおとなしく本に向っていると、さぞ暑かろうと云って、一人の女が絹団扇で傍から柔かにあおいでくれた。
「口を利いてはなりませんぞ」と、このあいだの女がそっと注意した。お蝶はただ窮屈そうに坐っていた。
やがて縁伝いに軽い足音が静かにきこえて、三、四人の人がここへ忍んで来るらしかったが、顔をあげてはならないと、この間の女がまた注意した。そのうちに縁側の障子が音も無しに少しあいたらしく思われた。
「見てはなりませぬぞ」と、女はおどすように小声でまた云った。
どんな恐ろしいものが窺っているのかと、お蝶はいよいよ身をすくめて、ただ一心に机を見つめていると、障子は再び音も無しにしまって、縁側の足音はしだいに遠くなってゆくらしかった。お蝶はほっとすると、腋の下から冷たい汗が雨のように流れ落ちた。
「御苦労でありました」と、女はいたわるように云った。「もう当分は打ちくつろいでいてもよかろう」
今まで薄暗かった行燈の灯はかき立てられて、座敷は俄かに明るくなった。女たちが夜食の膳を運んで来た。時分をすぎてさぞ
たった一人そこに取り残されて、はじめて幾らかの人心地のついたお蝶は、どう考えても夢のようで何がなにやら見当が付かなかった。もしや狐に化かされているのではないかとも思った。一体ここの人達は、どういう料簡で自分をここへ連れて来て、美しい着物をきせて、旨いものを食わせて、こんな立派な座敷に住まわせて、みんなが大切そうに
なにしろ、こんな薄気味の悪いところは
「庭へ出たらどこか逃げ路が見付かるかも知れない」
お蝶は一生の勇気をふるい起して、息を殺しながらそろりそろりと
もとの座敷へ帰ってくると、いつの間にか其処には寝床が延べられて、
「もうお休みなさるがよい。ことわって置きますが、たとい夜なかにどんなことがあっても、かならず顔をあげてはなりませぬぞ」
手を取るようにして蚊帳のなかへ押し込まれて、お蝶は雪のように白い
その晩がおそろしかった。
神経のふるえているお蝶はとても安々と寝つかれる筈はなかった。生まれてから一度も寝たことのない衾や蒲団の柔か味が、却ってかれに異様の肌障りをあたえて、ふわふわと宙に浮いているような一種の不安を感じさせた。おまけに其の晩は蒸し暑かったので、かれの額や首筋には
そのあいだに
はいって来たものは薄暗い行燈の
明け方になって陽気がすこし涼しくなると、宵からの気疲れでお蝶はさすがにうとうとと眠った。眼がさめると枕もとにはゆうべの女たちが行儀よく控えていて、さらにお蝶に着物を着替えさせてくれた。蒔絵の
「さぞ窮屈でもあろうが、もう少しの辛抱でござりますぞ。退屈であろう、ちっとお庭でも歩いてみませぬか。わたし達が案内します」
女たちに左右を取りまかれて、お蝶は庭下駄をはいて広い庭に降りた。植込みの間をくぐってゆくと、そこには物凄いような大きい池が青い水草を一面にうかべて、みぎわには青い
「しッ」と、例の女が急に注意をあたえた。「池の方を見ておいでなさい。
何者かが何処かで自分を窺っているのだと気がついて、お蝶も急に身を固くした。主のひそんでいるという恐ろしい池を覗いたままで、彼女はしばらく突っ立っていると、やがてその警戒も解けたらしく、女たちはまた打ちくつろいでしずかにあるき出した。
もとの座敷へ戻ると、お蝶はまた
「今夜もまた何か来るかしら」
おびえた魂をかかえて、彼女は今夜も四ツ頃から蚊帳にはいると、その晩は宵から細かい雨がしとしとと降り出して池の蛙がしきりに鳴いていた。お蝶はやはり眠られなかった。夜もだんだんに
「あ、幽霊……」と、お蝶は慌てて衾をかぶってしまった。そうして、ふだんから信仰する観音様や水天宮様を口のうちで一心に念じていた。小半刻も経ってから彼女は怖々のぞいて見ると、白いまぼろしはいつか消えていて、どこかで一番鶏の鳴く声がきこえた。
夜があけると、すべてきのうの通りに、顔を洗って、髪をあげて、化粧をして、あさ飯が済むと庭へ連れ出された。夜になると、机のまえに坐らせられて、蚊帳にはいると、今夜も幽霊のようなものが枕もとへ迷って来た。そうした窮屈と恐怖とに夜も昼も責められて、それが七日八日とつづくうちにお蝶は自分が幽霊のように痩せ衰えて来た。
「こんな苦しみをするくらいならば、いっそ死んだほうがましだ」
彼女はしまいにはこう覚悟して、このあいだの女にむかって是非一度は家へ帰してくれと泣いて頼んだ。女もひどく困ったらしい顔をしていたが、悪くすると古池へ身でも投げそうなお蝶の決心に動かされたらしく、十日目の夕方には、とうとう一旦は帰れという許可をあたえた。
「併しこの事は決して他言はなりませぬぞ。またそのうちに迎いに行くかも知れませぬが、その時はどうぞ来てくれるように……。今から頼んで置きますぞ」
さもなければ帰すことはならないと云うので、お蝶もよんどころ無しに承知して、きっとまたまいりますと心にもない誓いを立てた。女はいろいろ心配をかけて気の毒であったと云って、奉書の紙につつんだ目録をくれた。日が暮れてあたりが薄暗くなった頃に、お蝶は目隠しをさせられた。口には猿轡を
お蝶は狐が落ちた人のようにぼんやりと突っ立っていたが、急にまた何だか怖くなって一散にかけ出して、家へ駈け込んで母の顔を見るまでは、彼女もまだ半分は夢のような心持であった。狐に化かされたのだろうとお亀は云ったが、ふところに入れて来た目録は木の葉ではなかった。
「まあ、十両あるよ」と、お亀は眼をまるくして驚いた。いくら正直でも慾のない人間はすくない。この頃の相場では、妾奉公をしても月一両の給金はむずかしいのに、別になにをするでも無しに、美しい着物を着せられて、旨いものを食わされて、一日一両の手間賃になる。こんなありがたい商売はないとお亀は喜んでいたが、お蝶は身ぶるいして
「十両の金があれば店は
いつまた連れに来るかも知れないという懸念があったので、お亀は娘を店へ出さないことにした。すると、その月の末の夕方に、お亀が店をしまってくると、留守番をしている筈のお蝶が姿をかくしていた。近所で訊いても誰も知らないと云った。かならずこの間のところに連れて行かれたことと察したが、そのゆく先はもとより判らなかった。お亀は思案ながらに其の日その日を送っていると、今度も十日目にお蝶はぼんやり帰って来た。ふところにはやはり十両の目録包みを持っていて、すべてがこの間の話をくり返すに過ぎなかった。
「なるほど、好い商法のようだが、こいつはちっと変だね。お蝶坊が忌がるのも無理はねえ」と、この不思議な話を聞いて半七はひたいに小皺をよせた。
「すると、先月の末から娘がまた見えなくなったんでございます。いつもわたくしの留守を狙って来て、否応なしに担いで行ってしまうんだそうで……。外へ出れば乗物が待っていて、眼かくしをして乗せて行くんですから、どこへ連れて行かれるのか見当が付きません」
「そこで今度も無事に帰って来たのかい」
「いいえ。それが帰って来ませんの」と、お亀は顔を陰らせた。「今度はもう十日の余になりますけれども、何のたよりもございませんので、わたくしもいろいろ心配しておりますと、けさ早くに一人の女がわたくしの家へ見えまして……。それはこの間の御殿風の女でございます。仔細あって娘を当分は音信不通の約束でこちらへ貰いたいと、こう云うんです。勿論、その代りに二百両の金を渡すというんですが、わたくしもまことに困りましてね。何んぼわたくしだって、可愛い娘を金で売るわけにはまいりません。まして娘があれほど忌がっているものを、あんまり可哀そうでもございますから、一旦は断わりましたんですけれど、相手の方はなかなか承知しないんでございます。無理でもあろうが
お亀は声をふるわせて、いかにも途方に暮れているらしかった。
「そりゃあ心配だろうね。今の話の様子じゃあ相手はいずれ大きい御旗本か御大名だろうが、なぜそんなことをするんだろう。茶店の娘だって
半七に腕を組まれて、お亀はいよいよ頼りのないような顔をしていた。
「娘がこれぎり帰って来ませんようだったら、どうしましょう」と、彼女は二、三度も水をくぐったらしい銚子
「だが、その御守殿風の女とかいうのが、いずれ一日二日のうちにまた出直して来るだろうから、ともかくも俺が行って、それとなく様子を見てあげよう。その上で又なんとか好い知恵も出ようじゃねえか」と、半七は慰めるように云った。
「親分がいらしって下されば、わたくしもどんなに気丈夫だか判りません。では、まことに勝手がましゅうございますが、あしたにもちょいとお出でを願いとうございます」
お亀はしきりに念を押して頼んで帰った。あくる日は十五夜で、晴れた空には秋風が高く吹いていた。朝早くから
「おや、親分さん。どうも恐れ入りました」と、お亀は待ち兼ねたように半七を迎えた。「早速でございますが、娘がゆうべ戻ってまいりましてね」
ゆうべお亀が半七をたずねている留守に、お蝶はいつもの通りの乗物にのせられて、河岸の石置き場まで送りかえされていた。詳しいことは
こういう場合に本人を素直に帰してよこすというのは、いかにも物の判った仕方で、先方に悪意のないことは能く判っていた。気疲れで奥の三畳にうとうと眠っているお蝶を呼び起させて、半七は彼女から更に詳しい話を聴きとったが、やはり確かな見当は付かなかった。お蝶の話によって考えると、その屋敷はどうも然るべき大名の下屋敷であるらしく思われたが、その場所も方角も知れないので、それがどこの屋敷だか見当が付かなかった。
「今に誰か来るかも知れないから、まあ、待っていて見ようよ」と、半七も腰をおちつけて、そこに居坐っていることにした。
この頃の

飯を食ってしまって、半七は
「みんなも出て拝みなせえ。もうじきお月様があがるぜ」と、半七は声をかけた。
この途端に溝板を踏む足音がきこえて、一人の男がここの格子のまえに立った。お亀がすぐに出てみると、それは見識らない
「まあ、おれはいない積りにして置いてくんねえ」と、半七はあわてて草履をつかんで、お蝶と共に奥の三畳にかくれた。そうして襖の隙き間からそっと窺っていると、やがてはいってきたのは三十歳前後のやはり奥勤めらしい女であった。
「初めてお目にかかります」と、女はお亀にむかって丁寧に挨拶した。お亀もおどおどしながら相当の挨拶をしていた。
「早速でございますが、こちらの娘のお蝶どのの身の上について、
女は切り口上で云った。お亀はすこしその威に打たれたらしく、唯もじもじしていて、はっきりした挨拶もできなかった。
「今さら御不承知と申されては、わたくしどもの役目が立ちませぬ。まげて御承知くださるように重ねておねがい申します」
「娘はゆうべ帰りまして、それからなんだか気分が悪いとか申して、きょうも一日
お亀は一寸
「いえ、それはなりませぬ。
凛とした声できめ付けられて、お亀はいよいようろたえていると、女は
「御約束の御手当ては二百両、封のままで唯今お渡し申します。さあ、どうぞ娘御をこれへ」
「は、はい」
「あくまでも御不承知か。お役目首尾よく相勤めませねば、わたくし此の場で自害でもいたさねば相成りませぬ」
彼女は更に帯のあいだから袋に入れた懐剣のようなものを
「あの女はおまえ識っているか」と、半七は小声でお蝶にきくと、お蝶は無言で首を振った。半七はすこし考えていたが、やがて三畳から台所へ這い出して、
路地のそとは月が明るかった。角から四、五軒さきの質屋の土蔵のまえには、一挺の駕籠が下ろされて、そこには二人の
「御免くださいまし」
半七は何げなく挨拶すると、女は黙って鷹揚に
「わたくしはこのお亀の
お亀はびっくりして半七の顔を見ると、彼はつづけてこう云った。
「勿論、あなたの方にもいろいろの御都合もございましょうが、いくら音信不通のお約束でも、せめて御奉公の御屋敷様の御名前だけでも伺って置きたいと存じますのが、こりゃあ親の人情でございます。どうぞそれだけをお明かし下さいましたら……」
「折角でありますが、御屋敷の名はここでは申されません。ただ中国筋のある御大名と申すだけのことで……」
「あなた様のお勤めは……」
「表使を勤めて居ります」
「左様でございますか」と、半七は
女の眼はじろりと光った。
「なぜ御不承知と云われます」
「失礼ながら御屋敷の御家風が少し気に入りませんから」
「異なことを……。御屋敷の御家風をどうしてお前は御存じか」と、女は膝をたて直した。
「奥勤めの御女中の右の小指に
女の顔色は急に変った。
「御免くださりませ。たのみます」
格子の外で
「お出で遊ばしませ。まあ、どうぞこちらへ」
入口へ出たお亀がうろうろしながら、新しい女客を奥へ招じ入れようとすると、案内を頼んだ女は少しためらっているらしかった。
「どうやら御来客の御様子でござりますな」
「はい」
「では、重ねてまいりましょう」
引っ返そうとするらしい女を、半七は内から呼びかえした。
「あの、恐れ入りますが、しばらくお控えくださいまし。ここにあなたの偽物がまいって居りますから、どうか御立ち会いの上で御吟味をねがいとう存じますが……」
はじめの女はいよいよ顔色を変えたが、彼女はもう度胸を据えたらしく、急ににやにや笑い出した。
「親分。お見それ申して相済みません。さっきからどうも唯の人でないらしいと思っていましたが、おまえさんは三河町の親分さんでございましたね。もういけません。頭巾をぬぎましょうよ」
「そんなことだろうと思った」と、半七も笑った。「実は表へまわって見ると、御大名の御屋敷のお迎いが辻駕籠もめずらしい。奥女中の指には撥胝がある。どうもこれじゃあ芝居にならねえ。おめえは一体どこから化けて来たんだ。偽迎いも偽上使もいいが、役者の好い割にゃあ舞台がちっとも
「どうも恐れ入りました」と、女は頭をすこし下げた。「この芝居はちっとむずかしかろうと思ったんですが、まあ度胸でやってみろという気になって、どうにかこうにか段取りだけは付けて見たんですが、親分に逢っちゃ
彼女の名はお俊といった。母は自分のあとを
魚屋はお俊が懇意の家で、そこの娘はお亀とも心安くしているので、お蝶がときどきに怪しい使いに誘拐されてゆくという噂が自然にお俊の耳に伝わった。お蝶の
「なにしろ急仕事の偽迎いだもんですからね。ぐすぐずしていると、ほんものの方が乗り込んで来るかも知れないというので、無暗に支度を急いだもんですから、乗物までは手がまわらないで、飛んだ唯今のお笑い草となってしまいましたよ」と、お俊はさすがに悪党だけに何もかも思い切りよくしゃべってしまった。
「それでみんな判った」と、半七はうなずいた。「お前もこんなことで食らい込んじゃあ嬉しくあるめえが、半七が見た以上は、まさかに御機嫌よろしゅう、はい左様ならと云うわけには行かねえ。気の毒だが一緒にそこまで来て貰おうぜ」
「どうも仕方がありませんよ。まあ、いたわっておくんなさいまし」
併しこんな姿で引っ張って行かれるのは、乞食芝居のようで困るから、どうぞ家から
「これが表沙汰になりましては、御屋敷の名前にもかかわります。幸いに事を仕損じて誰に迷惑がかかったというでもなし、この女の罪はわたくしに免じてどうか御勘弁を願わしゅう存じます」
女がしきりに頼むので、半七は
「親分さん。どうも有難うございました。いずれお礼にうかがいます」
「礼なんぞに来なくても好いから、この後あんまり手数を掛けねえようにしてくれ」
「はい、はい」
お俊は器量を悪くしてすごすご帰って行った。これで偽物の正体はあらわれたが、ほんものの正体はやはり判らなかった。併しもうこういう
彼女はお俊のような偽物でなく、たしかに或る大名の江戸屋敷につとめている奥女中であった。主人の殿様は江戸から北の方にある領地へ帰っているが、奥方は無論に江戸屋敷に残されていた。奥方には最愛の
その頃の人は気が長い。そうして、
いよいよその本人が見付かると、それをどうして連れてくるかということについて、屋敷内では議論が二つに分かれた。ひとの娘を無得心に連れて来るというのは
それほど苦心した甲斐があって、その計略は見ごとに成功した。物狂おしい奥方は、替え玉のお蝶を夜も昼もときどき
その矢先に又一つの新しい問題が起った。それは此の年の七月から新しい
併し今度は殆ど永久的の問題で、さすがに無得心で連れ出すわけには行かないので、ともかくも本人や親許にも相談の上、一生奉公の約束で連れて行くことになった。奥女中の雪野がその使をうけたまわって、きのうも親許へたずねて来たのであった。いっそ最初からあからさまに事情を打ち明けたら、こっちもまた分別のしようがあったかも知れなかったが、ひたすらに御家の外聞という事ばかり考えていた雪野は、何事も秘密ずくめで相談をまとめようと
そのわけを聴いてみると、半七も気の毒になった。子ゆえに狂う母の心と、その母を取り鎮めようと努めている家来どもの苦心と、それに対しても余りに強いことも云われない破目になった。
三畳の隠れ家からお蝶はそろそろ這い出して来た。かれは貰い泣きの眼を拭きながら云った。
「これで何もかも判りました。
「え。ほんとうに承知して行ってくださるか」と、雪野はお蝶の手をとって押し頂かないばかりにして礼を云った。
明月は南の空へまわって来て、庭から家のなかまで一ぱいに明るく
「おふくろもとうとう承知して、娘を奉公にやることに決めましたよ」と、半七老人は云った。
「それから又話が進んで来て、いっそ