一
「
「…………」
「耳が遠いな。平七はどこじゃ。
「へえへえ。平はこっちにおりますんで、只今、お
「庭へ廻れ」
「へえへえ。近ごろまた東京に、めっきり美人がふえましたそうで、弱ったことになりましたな」
「またそういうことを言う。貴様、少うし腰も低くなって、
「左様でございましょうか……」
「左様でございましょうかとは何じゃ。そういう言い方をするから、貴様、いつも
「新聞社でございますか」
「そうじゃ。あいつ、近ごろまた
「なにをネジ込むんでございますか」
「わしのことを、このごろまた
「どういう
「にぶい奴じゃな。山県有朋から使いが立った、と分れば、わしが現在どういう職におるか、陸軍、
「へえへえ。ではまいりますが、この通りもう夕ぐれ近い時刻でございますから、かえりは少々おそくなるかも存じませんが、今夜もやはり、こちらでございますか。それとも御本邸の方へおかえりでございますか」
「そんなつまらんことも聞かんでいい。おそくかえって、わしの姿がここに見えなかったならば、本邸へかえったと思うたらよかろう。思うたらおまえもあちらへかえったらよかろう。早く出かけい」
「…………」
風に吹かれている男のように、平七は、ふらふらと、
とうにもう秋は来ている筈なのに、空はどんよりと重く汚れて曇って、秋らしい気の澄みもみえなかった。
もしそれらしいものが感じられるとすれば、土手の青草の感じの中に、ひやりとしたものが少し感じられるくらいのものだった。
そういう秋の情景のない秋の風景は、
平七は、ぼんやりとした顔つきで、ふらふらと土手を
まだ
「川、川、川」
「舟、舟、舟だ」
「水もだんだんと濁って来たなあ……」
ふわりと止まると、平七は、コツコツとやっていたその手の中へ、投げこむように
あれからもう何年ぐらいになるか、――やはりこんなような秋の初めだった。
場所も
いずれも
騎は、三十六騎。
十二騎ずつひと組となって、平七はその第二組だった。
駒は、桜田の
葦毛には、この色が
水練は言うまでもないこと、
ド、ド、ドウ、
ハイヨウ、
ド、ド、ドウ、
と乱れ太鼓のとどろく間を、三騎、五騎とうしろに引き離して、胸にくっきりと真紅の胴が、浮きつ沈みつしぶきの中をかいくぐっていったかと思うまもなく、平七の葦毛は、ぶるぶると
ただ、夢のようなこころもちだった。
どんな叫びと顔がなだれ寄って来たか、このときぐらい平七は、旗本の家に生れたというよろこびと誇りを、しみじみと感じた一瞬はなかった。
しかし、世間は、そのよろこびをよろこびとしてくれなかった。
旗本の中堅ともなるべき若者たちが、婦女子の目をよろこばす以外に、なんの能もないような水馬の遊戯なぞに、うつつをぬかしているから、江戸勢はどこの戦いでも負けるのだ。――そういう非難と一緒に、防ごうにも防ぎきれぬ太い腕力がやって来て、なにもかもひと叩きに叩きつぶして
ほんとうにそれは、どうにもならぬ荒っぽい洪水のような腕力だった。匂いのあるところから匂いを奪いとり、色彩のあるところから色彩を消し落し、しずかな水だまりには、わざと石を投げこんでこの世をただ実用的なものにすればそれでいいと言ったような、いかにも仕方のない暴力だった。
そういう野蛮に近い腕力に
そのころから、この川の水さえも濁り出したくらいだが……。
「おい! ……」
突然、そのとき、だれかおいと言って、荒っぽく肩をどやしつけた。――平七は、面倒くさそうに顔を起すと、どんよりとした目を向けて、ふりかえった。
立っていたのは、同じ
しかし、今もなおこの幕臣の
「つまらん顔をしておるな。なんというみすぼらしい
その目で射すくめるように見おろし乍ら、新兵衛は、
平七は、だまって自分の
「ふ、ふ、ふ、ふ……」
気のぬけたように笑うと、平七は、長々とした
「おまえさん、近ごろ、なにをしておいでじゃ」
「こっちで言いたい言葉じゃ、貴公、山県狂介のところで、
「おるさ」
「見さげ果た奴じゃ。仮りにも旗本と言われたほどの幕臣が、
「とんと面白くない」
「なければ、そんなところ飛び出したらどうじゃ」
「かと言うて、世間とてもあんまり楽しくあるまい」
「張り合のないことを言う男じゃな。こんなところでなにをぼんやりしていたのじゃ」
「新聞社へネジ込んで来いと言うたんで、出て来たところさ」
「なにをネジ込みに行くのじゃ」
「狂介狂介と呼びずてにするから、
「行くつもりか」
「いきませんね。狂介だから狂介と言われるに不思議はないからな。
「骨があるのかないのか、まるで
「金はあるのか」
「あるから、つれていってやろうと言うのじゃ。――行くか」
「…………」
ふわりとした顔をして、平七は、のそのそとそのあとから歩き出した。
二
橋をまた向うへかえって、川沿いに右へ曲ると、新兵衛は、土手を
左側一帯は、大きな屋敷の間に、手頃な屋敷がぎっしりと並んで、江戸の境いから明治へ
そういう塀つづきのはずれに、うすい
あたり一帯を、官員屋敷に取り囲まれてしまった中にはさまって、せめてもこの
その向う角の、川に向いた一軒の、
お江戸お名残り、めずらし屋
と、少し横にすねたような
「まあ、ようこそ……」
たびたび来ているとみえて、顔なじみらしい女中がふたり、あたふたと顔を並べ乍ら下へもおかずに新兵衛を
しかし、新兵衛は、ほかに誰か目あてがあるらしく、あちらこちらと部屋をのぞきのぞき、川に向いた
その部屋のてすりにもたれて、ひらひらと髪の
「あら……」
「おお、いたのう」
探していたのはそれだったのである。まだ十七八らしく、すべすべした肌のいろが、川魚のような
「いかんぞ。そんなところで浮気をしておっては。――まあここへ坐れ」
たびたびどころか、毎日来ているとみえて、新兵衛は、無遠慮に女の手をとり乍ら、そばへ引よせた。
「きんのう来たとき、
「でも、忙しいんですもの……」
「忙しい忙しいと言うたところで、こんな家へ八
「ええ、それはそうですけれど……」
「毎日
「まあ、憎らしい……」
「このおつれさん? ……」
「うん、酒じゃ」
「あなたさまも?」
「呑もうぜ。料理もいつものようにな。きのうのようにまた
立ちあがろうとしたのを、
ぱっと首すじまで赤く染め乍ら、女は、顔をかくすようにして、下へおりていった。
しかし平七は、なにが目に這入ろうとも、まるで感じのない男のように、ぐったりと両手の中へ頤をのせたまま、物も言わなかった。
やがて、その頤のまえへ酒が運ばれた。
「さあ来たぞ。うんとやれ」
「…………」
「どうしたんじゃ。飲まんのかよ。――機嫌のわるい顔をしておるな。
なみなみと新兵衛が注いだ
別に機嫌がわるいわけではなかった。酒にさえも、平七の感情は、今もうこわばって
「仕様のない奴じゃな。折角よろこばそうと思ってつれて来てやったのに、もっとうれしそうに呑んだらどうじゃ」
「…………」
「まずいのかよ。酒が!」
「うまいさ」
「うまければもっとうまそうに呑んだらどうじゃ」
気になったとみえて、新兵衛がたしなめるように横から言った。
しかし、そう言い乍ら新兵衛も、特別うまそうに呑んでいるわけではなかった。なにか心待ちにしていることがあるらしく、何度も何度もそわそわとして、
それを裏書するように、
そわそわと待っていたのは、その合図だったとみえて、
しかし平七は、それすらもまるでよその国の出来ごとのように、ふわりとした顔をして、
「まあ。お可哀そうに。ひとりぽっちなのね」
不意にそのとき、ガラガラした声が、下からあがって来ると
「罪なことをするのね。こんなおとなしい人をひとりぽっちにしておいて、まずかったでしょう、お酒が」
「昔からおれはひとりぽっちだ」
突然、平七が怒ったように言った。――しかし本当に怒ったわけではなかった。
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……」
しばらく間をおいてから、思い出したように笑うと、ぽつりと女に言った。
「前の川は今でも深いかね」
「深いですとも、江戸が東京に変ったって、大川は浅くなりゃしないですよ」
「そういうものかな。じや江戸が東京になっても、人が死ねるところでは、やっぱり人が死ねるということになるんだな」
「まあ。気味のわるいことを
「むかしからこの前の川で何人ぐらい死んだか。変らないものはいつまで
「おい……」
話の腰を折るように、その時新兵衛が、向うの暗い部屋から顔だけ出すと、頤をしゃくって言った。
「もうかえるんだよ」
「……? あ、そうか。花は散ったか」
ふらりと立ちあがって、平七は、こともなげな顔をし乍ら、のそのそとおりていった。
水にも土手にも、しっとりと
どこにいるのか、暗いその川の中で、ギイギイと
「貴公どっちへかえるんじゃ」
「うん……」
「うんじゃないよ。なにをそんなところでぼんやりしておるんじゃ」
「うん……。なるほどこのあたりは、むかし通り深そうじゃな。だぶりだぶりと水が鳴っているよ」
「つまらんことを感心する奴じゃ。ぼんやりしておったら置いてゆくぞ」
不意にうしろで、リンリンと、
恥しそうに
「わるかったのね。あなたばかりひとりぽっちにしておいて、それがお
ささやくように言い乍ら近寄って、突然、軟らかく平七の手を握りしめたかと思うと、リンリンと簪を鳴らし乍ら、逃げるように門の中へ駈けこんでいった。
二階へあがって、見送ってでもいるらしく、顔のみえない窓から、同じ簪の音がかすかにリンリンときこえた。
三
「平七。――これよ、平七平七」
「…………」
「毎日毎日耳の遠い奴じゃな。平七はどこじゃ。
あくる日の夕方、また有朋が、とげとげしい声で奥から呼び立てた。
庭へ廻れというだろうと思って待っていたのに、しかし、どうしたことか、きょうは、その庭の向うから、下駄の音が近づいて来たかと思うと、声と同じように
「なんじゃ。また靴を磨いておるのか」
きのうと同じように平七は、裏木戸のそばの馬小屋の前に
それが機嫌をよくしたとみえて、有朋のとげとげしく長い細い顔が、珍らしく軟らいだ。
「おまえ、どうかすると馬鹿ではないかと思うときがあるが、使いようによっては、なかなか
「…………」
クスクスと平七が突然笑った。
「なにがおかしい! ――どこがおかしいんじゃ」
「わたしはそんなつもりで、磨いていたわけではないんですが」
「ではどんなつもりで磨いたというんじゃ」
「こうやってぼんやり手を動かしておると、心持が馬鹿になれますから、それで磨いていたんですが」
「またそういうことを言う! そういうことを言うから、なんとか出世の道を開いてやろうと思っても、する気になれんのじゃ。馬鹿になる
ぽかりと穴があいたように、突然そのときどうしたことか、平七のもたれかかっていた裏木戸が、ギイとひとりでに
すぐにそこから
きのうに変って、カラリと晴れたせいなのである。そよぎ渡るその風の間に、このあたり
「平七」
「へい」
「…………」
「…………」
「秋だな」
「秋でござりますな」
なんというわけもなかった。有朋も有朋ということを忘れて、平七も平七ということを忘れて、いつともなしにふたりは肩を並べ乍ら、すすきの径の中に出ていたのである。――足が動いているのではなかった。こころが歩いているというのが本当だった。
どこへ、というわけもなく、ふたりは肩を並べ乍ら、土手の方へあがっていった。
「おまえはどちらへ行くつもりじゃ」
「どちらでもいいですが……」
「わしもどちらでもいいが……」
なんということもなかった。
有朋もまた、いつのまにかそこへ行く約束をして了ったような顔をし乍ら、ふらふらと平七のあとからついていった。
うすい灯のいろが、ゆうべのように
「あっ。閣下じゃ。山県の
和服の着流しではあったが、尖ったその顔で有朋と気がついたのである。帳場の奥から
「どうぞ。どうぞ。さあどうぞこちらへ。こんなむさくるしいところへわざわざお越し下さいましてなんと申してよいやら。只今女たちをご
「…………」
「お雪さん! お雪! お雪! ――お雪はどこだえ!」
同時に、
「おお」
「よう」
向うとこちらから、おどろいた声と顔とが
意外にもその襖の向うには、ゆうべのあの新兵衛が、ゆうべのあの小娘のお雪を抱きかかえるようにして坐っていたのである。
しかし、その髪にはもう花簪はみえなかった。覚えたばかりのような
早くも有朋の目が、その姿にとまった。
お
「困るね。おまえ。こんなお客さん毎日のことだから、あとでもいいんだよ。御前さま、おまえにお目が止まったようだから、早くあちらへご挨拶にお行きよ!
もぎとるようにしてお雪をつれて行くと、
「なにしろこの通りの
ピシャリと、新兵衛の座敷の襖が鳴った。
白い歯を剥いて、有朋がにっと笑うと、荒々しく閉ったその襖を目でしゃくり乍ら、平七に言った。
「おまえ、あれと
「……?」
「ここにはもういなくてもよいから、あちらへ
「そうでございますか。あちらへ行くんですか……。やあ君。ゆうべは失敬。さがれと言ったからやって来たよ」
のっそりとした顔をして、平七は、追われるままに
「馬鹿めがっ」
待ちうけるようにして、新兵衛が
「なんだとて、あんなものを案内して来たんじゃ!」
「おれが案内して来たわけじゃない。ふらふらとこっちへやって来たら、和服の陸軍中将も
「なにが陸軍中将じゃ。貴様、そういうような
「そういうことになろうかも知れんの」
「知れんと思ったら、貴様はじめ、こんな真似をせねばよいのじゃ! するから、尾っぽをふるから、心のよごれぬ女までが、お雪のまうなものまでが――」
たまりかねたとみえて、新兵衛は、膝の横に寝かしてあった大刀を、じりじりと引きよせた。
しかし、なん度もなん度も膝を浮かして、襖に手をかけようとしたが、その紙ひと
「馬鹿めがっ。
「酒を運べっ。女将! おれとてお客様じゃ! 貴様が運べぬなら、おやじを呼べっ、おやじを!」
するすると襖があいて、その女将が、青ずんだ顔をのぞかせた。
しかし、のぞくにはのぞいたが、新兵衛には目もくれなかった。
「平七さんとやら、ご
「あ、左様か。今度はさきへかえれか。そういうことになれば、そういうことにするより
のっそりとした顔をして平七は、追わるるままに、また、のっそりと立ちあがった。
「まてっ。むかむかするばかりじゃ。おれも行く! ――まてっ」
いたたまらないように立ちあがると、荒々しい足音を残し乍ら、新兵衛もあとを追っていった。
しかし、そとへ出ると一緒に、その足は、行きつ戻りつして、
いくたびか、二階を
「頼む! こいつを持っていってくれっ」
「おれに斬れというのか」
「いいや、新兵衛も行く! おれも行く! 一緒にいって斬ってくれっ」
「ひとりでは山県狂介が斬れんのか」
「斬れんわけではないが、狂介ごとき、き、斬れんわけではないが……」
「斬れんわけでなければ、おぬしひとりでいって、斬ったらよかろう。それとも狂介はひとりで斬れるが、山県有朋の身のまわりにくっついている煙りが斬り難いというなら、やめることさ」
「では、貴公は、おまえは、むかしの仲間を見殺しにするつもりか!」
「つもりはないが、おぬしは腹が立っても、おれは腹が立たんとなれば、そういうことにもなるじゃろうの。――行くもよし、やめるもよし。おれはまずあしたまで、生きのびてみるつもりじゃ」
「……!」
ぽつりと声が切れたかと思うと、しばらくうしろで新兵衛の荒い息遣いがきこえていたが、やがてばたばたと駈け出した足音があがった。
四
間違いもなく平七は、そのあくる日まで無事に生きのびた。
また奥からか、庭先からか、同じように呼ぶだろうと思っていたのに、しかし有朋は、それっきり何の声もかけなかった。
いち日だけではなかった。ふつ
そういうときには、部屋も
しかし、なにかしていることだけはたしかだった。その証拠には、有朋が陸軍中将の服を着て、馬に乗ってこの別荘へやって来て、こうやって三日か
そういう穴ごもりのあるたびに、いく人かいる
実際また平七は、有朋がこの別荘に、何日閉じこもっていようとも、どんな風に世間の目をくらまして、長州陸軍の根を育てる苦心をしていようとも、
そのためにまた明日どこかへ押し流されていったら、流れ止まったところで、ふやけるのもよし、ねじ切って棄てるなら、棄てられるのもよし……。
「陸軍の大将さん。
海軍の大将さん。
さつまはお
ちょうしゅうは大砲。
ちくと
「だれじゃ! そんな唄を唄うのは! 平七か!」
「わたしが、――ですか。なにも唄ったような覚えがないですが……」
「いや、よし、分った。近所の
「あ、なるほど、軍服も靴もお着けでござりまするな。ではゆるりゆるりとまいりましょうか」
三日の間、そこに来ては寝ころんでいた
不思議なことに平七は、まっすぐ土手を石原町の方へ下っていった。
「違うぞ。平七。吾妻橋を渡るんじゃ」
「そうでございますか……。こちらへいっては、お屋敷へまいられませんか」
「行って行かれないことはないが、半蔵門へかえるのに、本所なぞへいっては大廻りじゃ。吾妻橋へ引っ返せ」
「でも、馬がまいりますもんですから……」
「…………」
だまって、首をかしげていた有朋が、突然、
「なるほど、そうか。ハハハ……。さては、おまえ……」
「なにかおかしいことがあるんでございますか」
「あれに、お雪に参っておるな」
「わたしが! そうでございましょうかしら……。そんな筈はないんだが、いち度もそんなことを思ったことはないつもりですが……」
しかし、こないだの夕ぐれもそうだった。きょうはなおさらそうだった。なにか耳の底できこえているようなこころもちがして、その
その音がなんであるか。
くらい耳の底へ、慕いさがしているその音が、リンリンリンと
思わず平七は顔を赤らめた。
「そうれみろ、知らず知らずに思い
「いいえ! いいえ! 可哀そうなのは平七さまではござりませぬ! わたくしでござります! お待ち下されませ! ご
不意に、はちきれたような叫びがきこえたかと思うと、道のわきからか、門の中からか、分らぬほども早く白い
お雪なのだ。
「お前か! たわけっ。なにをするのじゃ!」
「いいえ! いいえ! 放しませぬ! 人でなし! 人でなし! 嘘つきのご前さまの人でなし! わたしをだまして、こんな悲しい目に会わして、だれがなんと
「たわけっ。なにを言うのじゃ! 人が
「いいえ! 死んだとてこの靴は放しませぬ! どうせ嘘とは思いましたけれど、とうとう悲しい目に会いましたゆえ、もしや、もしや、ときょうまで待っておりましたのに、それを、それを、嘘つき! 人でなし! いいえ! いいえ! そればかりではありませぬ。あの人を、新兵衛さままでをも、なんの罪もないのに、あんなむごい目に会わして、お役人に、お牢屋に引っ立てなくともいいではありませぬか! お可哀そうに、あんな負けた人までも、世の中に負けた人まで引っくくって、放しませぬ! ご前さまが、このお雪に
「馬鹿めがっ。わしが新兵衛のことなぞ知るものか! あやつが刀なぞ引き抜いて、あばれに来たゆえ、くくられたのじゃ!
「いいえ! たとえこの身が
「まだ言うかっ」
お雪の叫びよりも、いつのまにか
「平七! 行くぞ! さきへ!」
逃げるように
突然、目をつりあげて、その平七が横から飛びつくと、お雪の放した有朋の靴へ、
「なんじゃ! たわけっ。おまえが、おまえが、なにをするのじゃ。放せ! 放せ!」
しかし、平七の手は放れなかった。武者ぶりついたかとみるまに、ずるずると片靴を引きぬいた。
反抗でもなかった。
抜き取ったその靴をしっかり両手で抱いて、ぼろぼろと泣き乍ら、土手を下へおりていったかと思うと、まだ
とみるまに、すうと深く水の底へ沈んでいった。
「あっ。ありゃ、ありゃたしかに金城寺の旦那さまの筈だが、――お見事だなあ」
寄り
「金城寺の旦那さまなら、水練に達者の筈だが、泳ぎの出来るものが
しかし、水の底からは、それっきりなにも浮きあがらなかった。
自分を持ちこたえる気力のないものが、自分を