俊寛云いけるは……神明外になし。唯我等が一念なり。……唯仏法を修行して、今度生死を出で給うべし。源平盛衰記
(俊寛)いとど思いの深くなれば、かくぞ思いつづけける。「見せばやな我を思わぬ友もがな磯のとまやの柴の庵を。」同上
俊寛様の話ですか? 俊寛様の話くらい、世間に間違って伝えられた事は、まずほかにはありますまい。いや、俊寛様の話ばかりではありません。このわたし、――
有王自身の事さえ、
飛でもない嘘が伝わっているのです。現についこの間も、ある
琵琶法師が語ったのを聞けば、俊寛様は御歎きの余り、岩に頭を打ちつけて、
狂い
死をなすってしまうし、わたしはその
御死骸を肩に、身を投げて死んでしまったなどと、云っているではありませんか? またもう一人の琵琶法師は、俊寛様はあの島の女と、夫婦の
談らいをなすった上、子供も大勢御出来になり、都にいらしった時よりも、楽しい
生涯を御送りになったとか、まことしやかに語っていました。前の琵琶法師の語った事が、
跡方もない嘘だと云う事は、この有王が生きているのでも、おわかりになるかと思いますが、後の琵琶法師の語った事も、やはり
好い加減の出たらめなのです。
一体琵琶法師などと云うものは、どれもこれも
我は
顔に、嘘ばかりついているものなのです。が、その嘘のうまい事は、わたしでも
褒めずにはいられません。わたしはあの
笹葺の小屋に、俊寛様が子供たちと、
御戯れになる所を聞けば、思わず微笑を浮べましたし、またあの浪音の高い月夜に、狂い死をなさる所を聞けば、つい涙さえ落しました。たとい嘘とは云うものの、ああ云う
琵琶法師の語った嘘は、きっと
琥珀の中の虫のように、末代までも伝わるでしょう。して見ればそう云う嘘があるだけ、わたしでも今の内ありのままに、俊寛様の事を御話しないと、琵琶法師の嘘はいつのまにか、ほんとうに変ってしまうかも知れない――と、こうあなたはおっしゃるのですか? なるほどそれもごもっともです。ではちょうど夜長を幸い、わたしがはるばる
鬼界が
島へ、俊寛様を御尋ね申した、その時の事を御話しましょう。しかしわたしは琵琶法師のように、上手にはとても話されません。ただわたしの話の取り
柄は、この有王が
目のあたりに見た、飾りのない真実と云う事だけです。ではどうかしばらくの
間、御退屈でも御聞き下さい。
わたしが鬼界が島に渡ったのは、
治承三年五月の末、ある曇った
午過ぎです。これは琵琶法師も語る事ですが、その日もかれこれ暮れかけた時分、わたしはやっと
俊寛様に、めぐり
遇う事が出来ました。しかもその場所は
人気のない海べ、――ただ灰色の
浪ばかりが、砂の上に寄せては倒れる、いかにも寂しい海べだったのです。
俊寛様のその時の御姿は、――そうです。世間に伝わっているのは、「
童かとすれば年老いてその
貌にあらず、法師かと思えばまた髪は
空ざまに
生い
上りて
白髪多し。よろずの
塵や
藻屑のつきたれども打ち払わず。
頸細くして腹大きに
脹れ、色黒うして足手細し。人にして人に非ず。」と云うのですが、これも
大抵は作り事です。殊に
頸が細かったの、腹が
脹れていたのと云うのは、
地獄変の
画からでも思いついたのでしょう。つまり鬼界が島と云う所から、
餓鬼の形容を使ったのです。なるほどその時の俊寛様は、髪も延びて
御出でになれば、色も日に焼けていらっしゃいましたが、そのほかは昔に変らない、――いや、変らないどころではありません。昔よりも
一層丈夫そうな、頼もしい
御姿だったのです。それが静かな
潮風に、
法衣の裾を吹かせながら、
浪打際を独り御出でになる、――見れば
御手には何と云うのか、笹の枝に貫いた、小さい魚を下げていらっしゃいました。
「
僧都の
御房! よく御無事でいらっしゃいました。わたしです!
有王です!」
わたしは思わず駈け寄りながら、嬉しまぎれにこう叫びました。
「おお、有王か!」
俊寛様は驚いたように、わたしの顔を御覧になりました。が、もうわたしはその時には、御主人の膝を
抱いたまま、嬉し泣きに泣いていたのです。
「よく来たな。有王! おれはもう
今生では、お前にも会えぬと思っていた。」
俊寛様もしばらくの
間は、涙ぐんでいらっしゃるようでしたが、やがてわたしを御抱き起しになると、
「泣くな。泣くな。せめては
今日会っただけでも、
仏菩薩の
御慈悲と思うが
好い。」と、親のように慰めて下さいました。
「はい、もう泣きは致しません。
御房は、――御房の
御住居は、この
界隈でございますか?」
「住居か? 住居はあの山の
陰じゃ。」
俊寛様は魚を下げた御手に、間近い
磯山を御指しになりました。
「住居と云っても、
檜肌葺きではないぞ。」
「はい、それは承知して居ります。何しろこんな離れ島でございますから、――」
わたしはそう云いかけたなり、また涙に
咽びそうにしました。すると御主人は昔のように、優しい微笑を御見せになりながら、
「しかし
居心は悪くない住居じゃ。
寝所もお前には不自由はさせぬ。では一しょに来て見るが
好い。」と、気軽に案内をして下さいました。
しばらくの
後わたしたちは、浪ばかり騒がしい海べから、寂しい
漁村へはいりました。薄白い路の左右には、
梢から垂れた
榕樹の枝に、肉の厚い葉が光っている、――その木の間に点々と、
笹葺きの屋根を並べたのが、この島の土人の家なのです。が、そう云う家の中に、
赤々と
竈の火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ来たと云う、
懐しい気もちだけはして来ました。
御主人は時々振り返りながら、この家にいるのは
琉球人だとか、あの
檻には
豕が飼ってあるとか、いろいろ教えて下さいました。しかしそれよりも嬉しかったのは、
烏帽子さえかぶらない土人の男女が、俊寛様の御姿を見ると、必ず頭を下げた事です。殊に一度なぞはある家の前に、
鶏を追っていた女の児さえ、
御時宜をしたではありませんか? わたしは勿論嬉しいと同時に、不思議にも思ったものですから、何か訳のある事かと、そっと御主人に
伺って見ました。
「
成経様や
康頼様が、御話しになった所では、この島の土人も
鬼のように、
情を知らぬ事かと存じましたが、――」
「なるほど、都にいるものには、そう思われるに相違あるまい。が、
流人とは云うものの、おれたちは皆
都人じゃ。
辺土の民はいつの世にも、都人と見れば頭を下げる。
業平の
朝臣、
実方の朝臣、――皆大同小異ではないか? ああ云う都人もおれのように、
東や
陸奥へ
下った事は、思いのほか楽しい旅だったかも知れぬ。」
「しかし実方の朝臣などは、御隠れになった
後でさえ、都恋しさの一念から、
台盤所の
雀になったと、云い伝えて
居るではありませんか?」
「そう云う
噂を立てたものは、お前と同じ都人じゃ。
鬼界が
島の土人と云えば、鬼のように思う都人じゃ。して見ればこれも当てにはならぬ。」
その時また一人御主人に、頭を下げた女がいました。これはちょうど
榕樹の陰に、幼な児を抱いていたのですが、その葉に
後を
遮られたせいか、
紅染めの
単衣を着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。すると御主人はこの女に、
優しい
会釈を返されてから、
「あれが少将の
北の
方じゃぞ。」と、小声に教えて下さいました。
わたしはさすがに驚きました。
「
北の
方と申しますと、――成経様はあの女と、夫婦になっていらしったのですか?」
俊寛様は薄笑いと一しょに、ちょいと
頷いて御見せになりました。
「抱いていた児も少将の
胤じゃよ。」
「なるほど、そう伺って見れば、こう云う
辺土にも似合わない、美しい顔をして居りました。」
「何、美しい顔をしていた? 美しい顔とはどう云う顔じゃ?」
「まあ、眼の細い、
頬のふくらんだ、鼻の余り高くない、おっとりした顔かと思いますが、――」
「それもやはり都の好みじゃ。この島ではまず眼の大きい、頬のどこかほっそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顔が尊まれる。そのために今の女なぞも、ここでは誰も美しいとは云わぬ。」
わたしは思わず笑い出しました。
「やはり土人の悲しさには、美しいと云う事を知らないのですね。そうするとこの島の土人たちは、都の
上臈を見せてやっても、皆
醜いと笑いますかしら?」
「いや、美しいと云う事は、この島の土人も知らぬではない。ただ好みが違っているのじゃ。しかし好みと云うものも、
万代不変とは
請合われぬ。その証拠には
御寺御寺の、
御仏の
御姿を拝むが
好い。
三界六道の教主、
十方最勝、
光明無量、
三学無碍、
億億衆生引導の
能化、
南無大慈大悲釈迦牟尼如来も、三十二
相八十
種好の
御姿は、時代ごとにいろいろ御変りになった。
御仏でももしそうとすれば、
如何かこれ美人と云う事も、時代ごとにやはり違う筈じゃ。都でもこの
後五百年か、あるいはまた一千年か、とにかくその好みの変る時には、この島の土人の女どころか、
南蛮北狄の女のように、
凄まじい顔がはやるかも知れぬ。」
「まさかそんな事もありますまい。我国ぶりはいつの世にも、我国ぶりでいる筈ですから。」
「所がその我国ぶりも、時と場合では当てにならぬ。たとえば当世の
上臈の顔は、
唐朝の
御仏に
活写しじゃ。これは
都人の顔の好みが、
唐土になずんでいる
証拠ではないか? すると
人皇何代かの
後には、
碧眼の
胡人の女の顔にも、うつつをぬかす時がないとは云われぬ。」
わたしは自然とほほ
笑みました。御主人は以前もこう云う風に、わたしたちへ御教訓なすったのです。「変らぬのは御姿ばかりではない。御心もやはり昔のままだ。」――そう思うと何だかわたしの耳には、遠い都の鐘の声も、
通って来るような気がしました。が、御主人は
榕樹の陰に、ゆっくり御み足を運びながら、こんな事もまたおっしゃるのです。
「有王。おれはこの島に渡って以来、何が嬉しかったか知っているか? それはあのやかましい
女房のやつに、毎日
小言を云われずとも、暮されるようになった事じゃよ。」
その
夜わたしは
結い
燈台の光に、御主人の御飯を頂きました。本来ならばそんな事は、恐れ多い次第なのですが、御主人の
仰せもありましたし、御給仕にはこの頃御召使いの、
兎唇の
童も居りましたから、
御招伴に
預った訳なのです。
御部屋は
竹縁をめぐらせた、
僧庵とも云いたい
拵えです。縁先に垂れた
簾の外には、
前栽の
竹むらがあるのですが、
椿の油を燃やした光も、さすがにそこまでは届きません。御部屋の中には
皮籠ばかりか、
廚子もあれば机もある、――皮籠は都を御立ちの時から、御持ちになっていたのですが、廚子や机はこの島の土人が、
不束ながらも
御拵え申した、
琉球赤木とかの
細工だそうです。その廚子の上には
経文と一しょに、
阿弥陀如来の尊像が一体、端然と
金色に輝いていました。これは確か
康頼様の、都返りの
御形見だとか、伺ったように思っています。
俊寛様は
円座の上に、楽々と御坐りなすったまま、いろいろ
御馳走を下さいました。勿論この島の事ですから、
酢や
醤油は都ほど、味が
好いとは思われません。が、その御馳走の珍しい事は、汁、
鱠、
煮つけ、果物、――名さえ確かに知っているのは、ほとんど一つもなかったくらいです。御主人はわたしが
呆れたように、
箸もつけないのを御覧になると、上機嫌に御笑いなさりながら、こう
御勧め下さいました。
「どうじゃ、その汁の味は? それはこの島の名産の、
臭梧桐と云う物じゃぞ。こちらの
魚も食うて見るが
好い。これも名産の
永良部鰻じゃ。あの皿にある
白地鳥、――そうそう、あの焼き肉じゃ。――それも
都などでは見た事もあるまい。白地鳥と云う物は、背の青い、腹の白い、形は
鸛にそっくりの鳥じゃ。この島の土人はあの肉を食うと、
湿気を払うとか
称えている。その
芋も存外味は
好いぞ。名前か? 名前は
琉球芋じゃ。
梶王などは飯の代りに、毎日その芋を食うている。」
梶王と云うのはさっき申した、
兎唇の
童の名前なのです。
「どれでも勝手に
箸をつけてくれい。
粥ばかり
啜っていさえすれば、
得脱するように考えるのは、沙門にあり勝ちの
不量見じゃ。
世尊さえ
成道される時には、
牧牛の
女難陀婆羅の、
乳糜の
供養を受けられたではないか? もしあの時空腹のまま、
畢波羅樹下に坐っていられたら、第六天の魔王
波旬は、三人の魔女なぞを
遣すよりも、
六牙象王の
味噌漬けだの、
天竜八部の
粕漬けだの、
天竺の珍味を
降らせたかも知らぬ。もっとも
食足れば
淫を思うのは、我々凡夫の
慣いじゃから、乳糜を食われた世尊の前へ、三人の魔女を送ったのは、波旬も
天っ
晴見上げた才子じゃ。が、魔王の
浅間しさには、その乳糜を
献じたものが、
女人じゃと云う事を忘れて居った。牧牛の女難陀婆羅、世尊に乳糜を献じ奉る、――世尊が無上の道へ入られるには、
雪山六年の苦行よりも、これが遥かに大事だったのじゃ。『
取彼乳糜如意飽食、
悉皆浄尽。』――
仏本行経七巻の
中にも、あれほど
難有い所は沢山あるまい。――『
爾時菩薩食糜已訖従座而起。
安庠漸々向菩提樹。』どうじゃ。『
安庠漸々向菩提樹。』
女人を見、乳糜に
飽かれた、
端厳微妙の世尊の御姿が、
目のあたりに
拝まれるようではないか?」
俊寛様は楽しそうに、晩の御飯をおしまいになると、今度は涼しい
竹縁の近くへ、
円座を御移しになりながら、
「では空腹が直ったら、
都の便りでも聞かせて貰おう。」とわたしの話を
御促しになりました。
わたしは思わず眼を伏せました。兼ねて覚悟はしていたものの、いざ申し上げるとなって見ると、今更のように心が
怯れたのです。しかし御主人は無頓着に、
芭蕉の葉の
扇を御手にしたまま、もう一度
御催促なさいました。
「どうじゃ、女房は
相不変小言ばかり云っているか?」
わたしはやむを得ず
俯向いたなり、
御留守の
間に
出来した、いろいろの大変を御話しました。御主人が
御捕われなすった
後、
御近習は皆逃げ去った事、
京極の
御屋形や
鹿ヶ
谷の御山荘も、
平家の侍に奪われた事、
北の
方は去年の冬、御隠れになってしまった事、若君も重い
疱瘡のために、その跡を御追いなすった事、今ではあなたの御家族の中でも、たった一人
姫君だけが、
奈良の
伯母御前の
御住居に、人目を忍んでいらっしゃる事、――そう云う御話をしている内に、わたしの眼にはいつのまにか、燈台の
火影が曇って来ました。軒先の
簾、
廚子の上の
御仏、――それももうどうしたかわかりません。わたしはとうとう御話
半ばに、その場へ泣き沈んでしまいました。御主人は始終
黙然と、御耳を傾けていらしったようです。が、姫君の事を御聞きになると、突然さも御心配そうに、
法衣の膝を御寄せになりました。
「姫はどうじゃ? 伯母御前にはようなついているか?」
「はい。
御睦しいように存じました。」
わたしは泣く泣く俊寛様へ、姫君の
御消息をさし上げました。それはこの島へ渡るものには、
門司や
赤間が
関を船出する時、やかましい
詮議があるそうですから、
髻に隠して来た
御文なのです。御主人は
早速燈台の光に、御消息をおひろげなさりながら、ところどころ小声に御読みになりました。
「……世の中かきくらして晴るる心地なく
侍り。……さても
三人一つ島に流されけるに、……などや
御身一人残り止まり給うらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前の
御許に侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかなる
住居推し
量り給え。……さてもこの三とせまで、いかに
御心強く、
有とも
無とも承わらざるらん。……とくとく
御上り候え。恋しとも恋し。ゆかしともゆかし。……あなかしこ、あなかしこ。……」
俊寛様は御文を御置きになると、じっと腕組みをなすったまま、大きい息をおつきになりました。
「姫はもう十二になった筈じゃな。――おれも都には
未練はないが、姫にだけは一目会いたい。」
わたしは
御心中を思いやりながら、ただ涙ばかり
拭っていました。
「しかし会えぬものならば、――泣くな。
有王。いや、泣きたければ泣いても
好い。しかしこの
娑婆世界には、一々泣いては泣き尽せぬほど、悲しい事が沢山あるぞ。」
御主人は
後の
黒木の柱に、ゆっくり背中を御寄せになってから、寂しそうに御微笑なさいました。
「
女房も死ぬ。
若も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。
屋形や山荘もおれの物ではない。おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。――これがおれの今のさまじゃ。が、この
苦艱を受けているのは、何もおれ一人に限った事ではない。おれ一人
衆苦の大海に、
没在していると考えるのは、
仏弟子にも似合わぬ
増長慢じゃ。『
増長驕慢、
尚非世俗白衣所宜。』
艱難の多いのに誇る心も、やはり
邪業には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この
粟散辺土の
中にも、おれほどの苦を受けているものは、
恒河沙の
数より多いかも知れぬ。いや、
人界に生れ出たものは、たといこの島に流されずとも、皆おれと同じように、孤独の
歎を
洩らしているのじゃ。
村上の
御門第七の王子、
二品中務親王、六代の
後胤、
仁和寺の
法印寛雅が子、
京極の
源大納言雅俊卿の孫に生れたのは、こう云う
俊寛一人じゃが、
天が
下には千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛、百億の俊寛が流されているぞ。――」
俊寛様はこうおっしゃると、たちまちまた
御眼のどこかに、陽気な
御気色が
閃きました。
「一条二条の
大路の辻に、盲人が一人さまようているのは、世にも
憐れに見えるかも知れぬ。が、広い
洛中洛外、無量無数の盲人どもに、充ち満ちた所を眺めたら、――
有王。お前はどうすると思う? おれならばまっ先にふき出してしまうぞ。おれの島流しも同じ事じゃ。
十方に
遍満した俊寛どもが、皆ただ一人流されたように、泣きつ
喚きつしていると思えば、涙の
中にも笑わずにはいられぬ。有王。
三界一心と知った上は、何よりもまず笑う事を学べ。笑う事を学ぶためには、まず増長慢を捨てねばならぬ。
世尊の
御出世は我々
衆生に、笑う事を教えに来られたのじゃ。
大般涅槃の
御時にさえ、
摩訶伽葉は笑ったではないか?」
その時はわたしもいつのまにか、
頬の上に涙が乾いていました。すると御主人は
簾越しに、遠い星空を御覧になりながら、
「お前が都へ帰ったら、姫にも歎きをするよりは、笑う事を学べと云ってくれい。」と、何事もないようにおっしゃるのです。
「わたしは都へは帰りません。」
もう一度わたしの眼の中には、新たに涙が浮んで来ました。今度はそう云う御言葉を、
御恨みに思った涙なのです。
「わたしは都にいた時の通り、
御側勤めをするつもりです。年とった一人の母さえ捨て、兄弟にも
仔細は話さずに、はるばるこの島へ渡って来たのは、そのためばかりではありませんか? わたしはそうおっしゃられるほど、命が惜いように見えるでしょうか? わたしはそれほど恩義を知らぬ、
人非人のように見えるでしょうか? わたしはそれほど、――」
「それほど愚かとは思わなかった。」
御主人はまた前のように、にこにこ御笑いになりました。
「お前がこの島に
止まっていれば、姫の
安否を知らせるのは、誰がほかに勤めるのじゃ? おれは一人でも不自由はせぬ。まして
梶王と云う
童がいる。――と云ってもまさか
妬みなぞはすまいな? あれは便りのないみなし児じゃ。幼い島流しの俊寛じゃ。お前は便船のあり次第、
早速都へ帰るが
好い。その代り今夜は姫への
土産に、おれの島住いがどんなだったか、それをお前に話して聞かそう。またお前は泣いているな? よしよし、ではやはり泣きながら、おれの話を聞いてくれい。おれは独り笑いながら、勝手に話を続けるだけじゃ。」
俊寛様は悠々と、
芭蕉扇を御使いなさりながら、
島住居の御話をなさり始めました。
軒先に垂れた
簾の上には、ともし火の光を尋ねて来たのでしょう、かすかに虫の
這う音が聞えています。わたしは頭を垂れたまま、じっと御話に伺い入りました。
「おれがこの島へ流されたのは、
治承元年七月の始じゃ。おれは一度も
成親の
卿と、天下なぞを計った覚えはない。それが
西八条へ
籠められた
後、いきなり、この島へ流されたのじゃから、始はおれも
忌々しさの余り、飯を食う気さえ起らなかった。」
「しかし都の
噂では、――」
わたしは御言葉を
遮りました。
「
僧都の
御房も
宗人の一人に、おなりになったとか云う事ですが、――」
「それはそう思うに違いない。成親の卿さえ宗人の一人に、おれを数えていたそうじゃから、――しかしおれは宗人ではない。
浄海入道の天下が
好いか、成親の卿の天下が好いか、それさえおれにはわからぬほどじゃ。事によると成親の卿は、浄海入道よりひがんでいるだけ、天下の政治には不向きかも知れぬ。おれはただ
平家の天下は、ないに
若かぬと云っただけじゃ。
源平藤橘、どの天下も結局あるのはないに
若かぬ。この島の土人を見るが
好い。平家の
代でも源氏の代でも、同じように
芋を食うては、同じように子を生んでいる。天下の役人は役人がいぬと、天下も亡ぶように思っているが、それは役人のうぬ
惚れだけじゃ。」
「が
僧都の
御房の天下になれば、何御不足にもありますまい。」
俊寛様の
御眼の中には、わたしの微笑が映ったように、やはり御微笑が浮びました。
「
成親の卿の天下同様、
平家の天下より悪いかも知れぬ。
何故と云えば俊寛は、
浄海入道より物わかりが
好い。物わかりが好ければ政治なぞには、夢中になれぬ筈ではないか?
理非曲直も
弁えずに、
途方もない夢ばかり見続けている、――そこが
高平太の強い所じゃ。
小松の
内府なぞは利巧なだけに、天下を料理するとなれば、浄海入道より数段下じゃ。内府も始終病身じゃと云うが、平家一門のためを
計れば、一日も早く死んだが
好い。その上またおれにしても、
食色の二性を離れぬ事は、浄海入道と似たようなものじゃ。そう云う
凡夫の取った天下は、やはり
衆生のためにはならぬ。
所詮人界が浄土になるには、
御仏の
御天下を待つほかはあるまい。――おれはそう思っていたから、天下を計る心なぞは、
微塵も貯えてはいなかった。」
「しかしあの頃は毎夜のように、
中御門高倉の
大納言様へ、御通いなすったではありませんか?」
わたしは御不用意を責めるように、俊寛様の御顔を眺めました、ほんとうに当時の御主人は、
北の
方の御心配も御存知ないのか、夜は
京極の
御屋形にも、
滅多に御休みではなかったのです。しかし御主人は
不相変、澄ました御顔をなすったまま、
芭蕉扇を使っていらっしゃいました。
「そこが凡夫の浅ましさじゃ。ちょうどあの頃あの屋形には、
鶴の
前と云う
上童があった。これがいかなる天魔の
化身か、おれを
捉えて離さぬのじゃ。おれの一生の不仕合わせは、皆あの女がいたばかりに、
降って湧いたと云うても
好い。女房に
横面を打たれたのも、
鹿ヶ
谷の山荘を
仮したのも、しまいにこの島へ流されたのも、――しかし
有王、喜んでくれい。おれは鶴の前に夢中になっても、
謀叛の
宗人にはならなかった。
女人に愛楽を生じたためしは、古今の聖者にも
稀ではない。大幻術の
摩登伽女には、
阿難尊者さえ迷わせられた。
竜樹菩薩も在俗の時には、王宮の美人を
偸むために、
隠形の術を修せられたそうじゃ。しかし謀叛人になった聖者は、
天竺震旦本朝を問わず、ただの一人もあった事は聞かぬ。これは聞かぬのも不思議はない。
女人に愛楽を生ずるのは、
五根の欲を放つだけの事じゃ。が、
謀叛を企てるには、
貪嗔癡の三毒を具えねばならぬ。聖者は五欲を放たれても、三毒の害は受けられぬのじゃ。して見ればおれの
知慧の光も、五欲のために曇ったと云え、消えはしなかったと云わねばなるまい。――が、それはともかくも、おれはこの島へ渡った当座、毎日
忌々しい思いをしていた。」
「それはさぞかし
御難儀だったでしょう。御食事は勿論、御召し物さえ、御不自由勝ちに違いありませんから。」
「いや、衣食は
春秋二度ずつ、
肥前の国
鹿瀬の
荘から、少将のもとへ送って来た。鹿瀬の荘は少将の
舅、
平の
教盛の所領の地じゃ。その上おれは一年ほどたつと、この島の風土にも慣れてしまった。が、
忌々しさを忘れるには、一しょに流された相手が悪い。
丹波の少将
成経などは、ふさいでいなければ
居睡りをしていた。」
「成経様は御年若でもあり、父君の御不運を御思いになっては、御歎きなさるのもごもっともです。」
「何、少将はおれと同様、天下はどうなってもかまわぬ男じゃ。あの男は
琵琶でも
掻き鳴らしたり、桜の花でも眺めたり、
上臈に
恋歌でもつけていれば、それが
極楽じゃと思うている。じゃからおれに会いさえすれば、謀叛人の父ばかり怨んでいた。」
「しかし
康頼様は
僧都の
御房と、御親しいように
伺いましたが。」
「ところがこれが難物なのじゃ。康頼は何でも
願さえかければ、
天神地神諸仏菩薩、ことごとくあの男の云うなり次第に、
利益を垂れると思うている。つまり康頼の考えでは、神仏も商人と同じなのじゃ。ただ神仏は商人のように、金銭では
冥護を御売りにならぬ。じゃから
祭文を読む。香火を
供える。この
後の山なぞには、姿の
好い松が沢山あったが、皆康頼に
伐られてしもうた。伐って何にするかと思えば、千本の
卒塔婆を
拵えた上、一々それに歌を書いては、海の中へ
抛りこむのじゃ。おれはまだ康頼くらい、現金な男は見た事がない。」
「それでも
莫迦にはなりません。都の噂ではその卒塔婆が、
熊野にも一本、
厳島にも一本、流れ寄ったとか申していました。」
「千本の中には一本や二本、
日本の土地へも着きそうなものじゃ。ほんとうに
冥護を信ずるならば、たった一本流すが
好い。その上康頼は
難有そうに、千本の
卒塔婆を流す時でも、始終風向きを考えていたぞ。いつかおれはあの男が、海へ卒塔婆を流す時に、
帰命頂礼熊野三所の
権現、分けては
日吉山王、
王子の
眷属、総じては
上は
梵天帝釈、
下は
堅牢地神、殊には
内海外海竜神八部、
応護の
眦を垂れさせ給えと
唱えたから、その
跡へ並びに
西風大明神、
黒潮権現も守らせ給え、
謹上再拝とつけてやった。」
「悪い
御冗談をなさいます。」
わたしもさすがに笑い出しました。
「すると
康頼は
怒ったぞ。ああ云う
大嗔恚を起すようでは、
現世利益はともかくも、
後生往生は
覚束ないものじゃ。――が、その内に困まった事には、少将もいつか康頼と一しょに、神信心を始めたではないか? それも
熊野とか
王子とか、
由緒のある神を拝むのではない。この島の火山には
鎮護のためか、
岩殿と云う
祠がある。その岩殿へ詣でるのじゃ。――火山と云えば思い出したが、お前はまだ火山を見た事はあるまい?」
「はい、たださっき
榕樹の
梢に、薄赤い煙のたなびいた、
禿げ山の姿を眺めただけです。」
「では
明日でもおれと一しょに、頂へ登って見るが
好い。頂へ行けばこの島ばかりか、大海の景色は手にとるようじゃ。岩殿の祠も途中にある、――その岩殿へ詣でるのに、康頼はおれにも行けと云うたが、おれは
容易には行こうとは云わぬ。」
「都では
僧都の
御房一人、そう云う神詣でもなさらないために、御残されになったと申して居ります。」
「いや、それはそうかも知れぬ。」
俊寛様は
真面目そうに、ちょいと御首を御振りになりました。
「もし岩殿に霊があれば、俊寛一人を残したまま、二人の都返りを取り持つくらいは、何とも思わぬ
禍津神じゃ。お前はさっきおれが教えた、少将の女房を覚えているか? あの女もやはり岩殿へ、少将がこの島を去らぬように、毎日毎夜詣でたものじゃ。所がその
願は少しも通らぬ。すると岩殿と云う神は、天魔にも増した
横道者じゃ。天魔には
世尊御出世の時から、諸悪を行うと云う
戒行がある。もし岩殿の神の代りに、天魔があの祠にいるとすれば、少将は都へ帰る途中、船から落ちるか、熱病になるか、とにかくに死んだのに相違ない。これが少将もあの女も、同時に破滅させる唯一の
途じゃ。が、岩殿は人間のように、諸善ばかりも行わねば、諸悪ばかりも行わぬらしい。もっともこれは岩殿には限らぬ。
奥州名取郡笠島の
道祖は、都の
加茂河原の西、一条の北の
辺に住ませられる、
出雲路の
道祖の
御娘じゃ。が、この神は父の神が、まだ
聟の神も探されぬ内に、若い都の
商人と
妹背の
契を結んだ上、さっさと奥へ落ちて来られた。こうなっては凡夫も同じではないか? あの
実方の中将は、この神の前を通られる時、
下馬も
拝もされなかったばかりに、とうとう
蹴殺されておしまいなすった。こう云う人間に近い神は、五塵を離れていぬのじゃから、何を仕出かすか油断はならぬ。このためしでもわかる通り、一体神と云うものは、人間離れをせぬ限り、
崇めろと云えた義理ではない。――が、そんな事は話の
枝葉じゃ。
康頼と少将とは一心に、岩殿詣でを続け出した。それも岩殿を
熊野になぞらえ、あの浦は
和歌浦、この坂は
蕪坂なぞと、一々名をつけてやるのじゃから、まず
童たちが
鹿狩と云っては、小犬を追いまわすのも同じ事じゃ。ただ
音無の
滝だけは本物よりもずっと大きかった。」
「それでも都の噂では、
奇瑞があったとか申していますが。」
「その奇瑞の一つはこうじゃ。
結願の当日岩殿の前に、二人が
法施を
手向けていると、山風が木々を
煽った
拍子に、
椿の葉が二枚こぼれて来た。その椿の葉には二枚とも、虫の食った
跡が残っている。それが一つには
帰雁とあり、一つには二とあったそうじゃ。合せて読めば
帰雁二となる、――こんな事が嬉しいのか、康頼は翌日
得々と、おれにもその葉を見せなぞした。成程二とは読めぬでもない。が、
帰雁はいかにも無理じゃ。おれは余り
可笑しかったから、次の日山へ行った帰りに、椿の葉を何枚も拾って来てやった。その葉の虫食いを続けて読めば、帰雁二どころの
騒ぎではない。『
明日帰洛』と云うのもある。『
清盛横死』と云うのもある。『康頼
往生』と云うのもある。おれはさぞかし康頼も、喜ぶじゃろうと思うたが、――」
「それは御立腹なすったでしょう。」
「康頼は怒るのに妙を得ている。
舞も洛中に並びないが、腹を立てるのは一段と巧者じゃ。あの男は
謀叛なぞに加わったのも、
嗔恚に
牽かれたのに相違ない。その嗔恚の
源はと云えば、やはり
増長慢のなせる
業じゃ。
平家は
高平太以下皆悪人、こちらは
大納言以下皆善人、――康頼はこう思うている。そのうぬ
惚れがためにならぬ。またさっきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同様なのじゃ。が、康頼の腹を立てるのが
好いか、少将のため息をするのが好いか、どちらが好いかはおれにもわからぬ。」
「
成経様御一人だけは、御妻子もあったそうですから、御
紛れになる事もありましたろうに。」
「ところが始終蒼い顔をしては、つまらぬ
愚痴ばかりこぼしていた。たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云う。何でもそこにある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ。一度なぞはおれと一しょに、
磯山へ
吾を
摘みに行ったら、ああ、わたしはどうすれば
好いのか、ここには
加茂川の流れもないと云うた。おれがあの時吹き出さなかったのは、我立つ
杣の
地主権現、
日吉の
御冥護に違いない。が、おれは
莫迦莫迦しかったから、ここには
福原の
獄もない、
平相国入道浄海もいない、
難有い難有いとこう云うた。」
「そんな事をおっしゃっては、いくら少将でも御腹立ちになりましたろう。」
「いや、
怒られれば本望じゃ。が、少将はおれの顔を見ると、悲しそうに首を振りながら、あなたには何もおわかりにならない、あなたは仕合せな
方ですと云うた。ああ云う返答は、怒られるよりも難儀じゃ。おれは、――実はおれもその時だけは、妙に気が沈んでしもうた。もし少将の云うように、何もわからぬおれじゃったら、気も沈まずにすんだかも知れぬ。しかしおれにはわかっているのじゃ。おれも一時は少将のように、眼の中の涙を誇ったことがある。その涙に
透かして見れば、あの死んだ
女房も、どのくらい美しい女に見えたか、――おれはそんな事を考えると、急に少将が気の毒になった。が、気の毒になって見ても、
可笑しいものは可笑しいではないか? そこでおれは笑いながら、言葉だけは
真面目に慰めようとした。おれが少将に怒られたのは、跡にも先にもあの時だけじゃ。少将はおれが慰めてやると、急に恐しい顔をしながら、嘘をおつきなさい。わたしはあなたに慰められるよりも、笑われる方が本望ですと云うた。その
途端に、――妙ではないか? とうとうおれは吹き出してしもうた。」
「少将はどうなさいました?」
「四五日の間はおれに
遇うても、
挨拶さえ
碌にしなかった。が、その
後また遇うたら、悲しそうに首を振っては、ああ、都へ返りたい、ここには
牛車も通らないと云うた。あの男こそおれより仕合せものじゃ。――が、少将や
康頼でも、やはり居らぬよりは、いた方が
好い。二人に都へ帰られた当座、おれはまた二年ぶりに、毎日寂しゅうてならなかった。」
「都の
噂では御寂しいどころか、御歎き
死にもなさり兼ねない、
御容子だったとか申していました。」
わたしは出来るだけ
細々と、その御噂を御話しました。
琵琶法師の語る言葉を借りれば、
「天に仰ぎ地に
俯し、悲しみ給えどかいぞなき。……
猶も船の
纜に取りつき、腰になり脇になり、
丈の及ぶほどは、引かれておわしけるが、丈も及ばぬほどにもなりしかば、また
空しき
渚に泳ぎ返り、……
是具して行けや、
我乗せて行けやとて、おめき叫び給えども、
漕ぎ行く船のならいにて、跡は
白浪ばかりなり。」と云う、
御狂乱の一段を御話したのです。俊寛様は御珍しそうに、その話を聞いていらっしゃいましたが、まだ船の見える
間は、
手招ぎをなすっていらしったと云う、今では名高い御話をすると、
「それは
満更嘘ではない。何度もおれは
手招ぎをした。」と、
素直に
御頷きなさいました。
「では都の噂通り、あの
松浦の
佐用姫のように、御別れを御惜しみなすったのですか?」
「二年の間同じ島に、話し合うた友だちと別れるのじゃ。別れを惜しむのは当然ではないか? しかし何度も手招ぎをしたのは、別れを惜しんだばかりではない。――一体あの時おれの所へ、船のはいったのを知らせたのは、この島にいる
琉球人じゃ。それが浜べから飛んで来ると、息も切れ切れに船々と云う。船はまずわかったものの、何の船がはいって来たのか、そのほかの言葉はさっぱりわからぬ。あれはあの男もうろたえた余り、日本語と琉球語とを
交る
交る、
饒舌っていたのに違いあるまい。おれはともかくも船と云うから、早速浜べへ出かけて見た。すると浜べにはいつのまにか、土人が
大勢集っている。その上に高い
帆柱のあるのが、云うまでもない迎いの船じゃ。おれもその船を見た時には、さすがに心が
躍るような気がした。少将や
康頼はおれより先に、もう船の側へ駈けつけていたが、この喜びようも一通りではない。現にあの琉球人なぞは、二人とも
毒蛇に
噛まれた
揚句、気が狂ったのかと思うたくらいじゃ。その内に
六波羅から使に立った、
丹左衛門尉基安は、少将に
赦免の教書を渡した。が、少将の読むのを聞けば、おれの名前がはいっていない。おれだけは赦免にならぬのじゃ。――そう思ったおれの心の
中には、わずか
一弾指の
間じゃが、いろいろの事が浮んで来た。姫や
若の顔、
女房の
罵る声、
京極の
屋形の庭の景色、
天竺の
早利即利兄弟、
震旦の
一行阿闍梨、本朝の
実方の
朝臣、――とても一々数えてはいられぬ。ただ今でも
可笑しいのは、その中にふと車を引いた、
赤牛の尻が見えた事じゃ。しかしおれは一心に、
騒がぬ
容子をつくっていた。勿論少将や康頼は、気の毒そうにおれを慰めたり、俊寛も一しょに乗せてくれいと、使にも頼んだりしていたようじゃ。が、赦免の
下らぬものは、何をどうしても、船へは乗れぬ。おれは不動心を振い起しながら、
何故おれ一人赦免に
洩れたか、その訳をいろいろ考えて見た。
高平太はおれを憎んでいる。――それも確かには違いない。しかし高平太は
憎むばかりか、内心おれを恐れている。おれは
前の
法勝寺の
執行じゃ。
兵仗の道は知る筈がない。が、天下は思いのほか、おれの議論に応ずるかも知れぬ。――高平太はそこを恐れているのじゃ。おれはこう考えたら、
苦笑せずにはいられなかった。山門や
源氏の侍どもに、
都合の
好い議論を
拵えるのは、
西光法師などの
嵌り役じゃ。おれは
眇たる一
平家に、心を労するほど
老耄れはせぬ。さっきもお前に云うた通り、天下は誰でも取っているが
好い。おれは一巻の
経文のほかに、
鶴の
前でもいれば
安堵している。しかし
浄海入道になると、浅学短才の悲しさに、俊寛も
無気味に思うているのじゃ。して見れば首でも
刎ねられる代りに、この島に一人残されるのは、まだ仕合せの内かも知れぬ。――そんな事を思うている
間に、いよいよ船出と云う時になった。すると少将の妻になった女が、あの赤児を抱いたまま、どうかその船に乗せてくれいと云う。おれは気の毒に思うたから、女は
咎めるにも及ぶまいと、使の
基安に頼んでやった。が、基安は取り合いもせぬ。あの男は勿論役目のほかは、何一つ知らぬ
木偶の坊じゃ。おれもあの男は咎めずとも
好い。ただ罪の深いのは少将じゃ。――」
俊寛様は御腹立たしそうに、ばたばた
芭蕉扇を御使いなさいました。
「あの女は気違いのように、何でも船へ乗ろうとする。
舟子たちはそれを乗せまいとする。とうとうしまいにあの女は、少将の
直垂の
裾を
掴んだ。すると少将は
蒼い顔をしたまま、
邪慳にその手を
刎ねのけたではないか? 女は浜べに倒れたが、それぎり二度と乗ろうともせぬ。ただおいおい泣くばかりじゃ。おれはあの一瞬間、
康頼にも負けぬ
大嗔恚を起した。少将は
人畜生じゃ。康頼もそれを見ているのは、
仏弟子の
所業とも思われぬ。おまけにあの女を乗せる事は、おれのほかに誰も頼まなかった。――おれはそう思うたら、今でも不思議な気がするくらい、ありとあらゆる
罵詈讒謗が、口を
衝いて
溢れて来た。もっともおれの使ったのは、
京童の云う
悪口ではない。
八万法蔵十二部経中の
悪鬼羅刹の名前ばかり、矢つぎ早に浴びせたのじゃ。が、船は見る見る遠ざかってしまう。あの女はやはり泣き伏したままじゃ。おれは浜べにじだんだを
踏みながら、返せ返せと手招ぎをした。」
御主人の御腹立ちにも
関らず、わたしは御話を伺っている内に、自然とほほ
笑んでしまいました。すると御主人も御笑いになりながら、
「その手招ぎが伝わっているのじゃ。嗔恚の
祟りはそこにもある。あの時おれが
怒りさえせねば、俊寛は都へ帰りたさに、狂いまわったなぞと云う事も、
口の
端へ
上らずにすんだかも知れぬ。」と、仕方がなさそうにおっしゃるのです。
「しかしその
後は
格別に、御歎きなさる事はなかったのですか?」
「
歎いても仕方はないではないか? その
上時のたつ内には、寂しさも次第に消えて行った。おれは今では
己身の
中に、
本仏を見るより望みはない。
自土即浄土と観じさえすれば、
大歓喜の笑い声も、火山から
炎の
迸るように、自然と
湧いて来なければならぬ。おれはどこまでも
自力の信者じゃ。――おお、まだ一つ忘れていた。あの女は泣き伏したぎり、いつまでたっても動こうとせぬ。その内に土人も散じてしまう。船は青空に
紛れるばかりじゃ。おれは余りのいじらしさに、慰めてやりたいと思うたから、そっと
後手に
抱き起そうとした。するとあの女はどうしたと思う? いきなりおれをはり倒したのじゃ。おれは目が
眩らみながら、
仰向けにそこへ倒れてしもうた。おれの肉身に宿らせ給う、
諸仏諸菩薩諸明王も、あれには驚かれたに相違ない。しかしやっと起き上って見ると、あの女はもう村の方へ、すごすご歩いて行く所じゃった。何、おれをはり倒した訳か? それはあの女に聞いたが
好い。が、事によると
人気はなし、
凌ぜられるとでも思ったかも知れぬ。」
わたしは御主人とその翌日、この島の火山へ登りました。それから一月ほど
御側にいた
後、御名残り惜しい思いをしながら、もう一度都へ帰って来ました。「見せばやなわれを思わむ友もがな
磯のとまやの
柴の
庵を」――これが
御形見に頂いた歌です。
俊寛様はやはり今でも、あの離れ島の
笹葺きの家に、
相不変御一人悠々と、御暮らしになっている事でしょう。事によると今夜あたりは、
琉球芋を召し上りながら、
御仏の事や天下の事を御考えになっているかも知れません。そう云う御話はこのほかにも、まだいろいろ伺ってあるのですが、それはまたいつか申し上げましょう。
(大正十年十二月)