一月二十二日。
日々の告白という題にしようつもりであったが、ふと、一日の労苦は一日にて足れり、という言葉を思い出し、そのまま、一日の労苦、と書きしたためた。
あたりまえの生活をしているのである。かくべつ報告したいこともないのである。
舞台のない役者は存在しない。それは、
このごろだんだん、自分の苦悩について
やさしさだけが残った。このやさしさは、ただものでない。ばか正直だけが残った。これも、ただものでない。こんなことを言っている、おめでたさ、これも、ただものでない。
その、ただものでない男が、さて、と立ちあがって、何もない。為すべきことが何もない。手がかり一つないのである。苦笑である。
発表をあきらめて、仕事をしているというのは、これは、作者の人のよさではない。これは、悪魔以上である。なかなか、おそろしいことである。
くだらないことばかり言っている。訪客あきれて、帰り支度をはじめる。べつに引きとめない。孤独の覚悟も、できている
もっともっとひどい孤独が来るだろう。仕方がない。かねて腹案の、長い小説に、そろそろ取りかかる。
いやらしい男さ。このいやらしさを恐れてはならない。私は私自身のぶざまに花を咲かせ得る。かつて、排除と反抗は作家修行の第一歩であった。きびしい潔癖を有難いものに思った。完成と秩序をこそあこがれた。そうして、芸術は枯れてしまった。サンボリスムは、枯死の一瞬前の美しい花であった。ばかどもは、この神棚の下で殉死した。私もまた、おくればせながら、この神棚の下で凍死した。死んだつもりでいたのだが、この首筋ふとき北方の百姓は、何やらぶつぶつ言いながら、むくむく起きあがった。大笑いになった。百姓は、恥かしい思いをした。
百姓は、たいへんに困った。一時は、あわてて死んだふりなどしてみたが、すべていけないのである。
百姓は、くるしい思いをした。誰にも知られぬ、くるしい思いをした。この
私は、自身の若さに気づいた。それに気づいたときには、私はひとりで涙を流して大笑いした。
排除のかわりに親和が、反省のかわりに、自己肯定が、絶望のかわりに、革命が。すべてがぐるりと急転廻した。私は、単純な男である。
むかし、古事記の時代に在っては、作者はすべて、また、作中人物であった。そこに、なんのこだわりもなかった。日記は、そのまま小説であり、評論であり、詩であった。
ロマンスの洪水の中に生育して来た私たちは、ただそのまま歩けばいいのである。一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。「思い
骨のずいまで小説的である。これに閉口してはならない。無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐心、よし。お調子もの、またよし。怠惰、よし。変人、よし。化物、よし。古典的秩序へのあこがれやら、
言い落した。これは、観念である。心構えである。日常坐臥は十分、
君の聞き上手に乗せられて、うっかり大事をもらしてしまった。これは、いけない。多少、不愉快である。
君に聞くが、サンボルでなければものを語れない人間の、愛情の細かさを、君、わかるかね。
どうも、たいへん、不愉快である。多少でも、君にわからせようと努めた、私自身の焦慮に気づいて、私は、こんなに不機嫌になってしまった。私自身の孤独の
私は、ディレッタントである。物好きである。生活が作品である。しどろもどろである。私の書くものが、それがどんな形式であろうが、それはきっと私の全存在に素直なものであった筈である。この安心は、たいしたものだ。すっかり居直ってしまった形である。自分ながらあきれている。どうにも、手のつけようがない。
ひとつ君を、笑わせてあげよう。これは小声で言うことであるが、どうも私は、このごろ少し太りすぎてしまいまして。
できすぎてしまった。図体が大きすぎて、内々、閉口している。晩成すべき大器かも知れぬ。一友人から、
俳優で言えば、彦三郎、などと、訪客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「
作家は、ロマンスを書くべきである。