元の末に
それは
風のない暖かな晩であった。観燈の人びとは、面白そうに喋りあったり笑いあったりして、騒ぎながら喬生の前を往来した。その人びとの中には若い女の群もあった。女達は綺麗な燈籠を持っていた。喬生はその燈に映しだされた女の姿や容貌が、自分の女房に似ていでもすると、いきいきとした眼をしたが、すぐ力のない悲しそうな眼になった。
月が傾いて往来の人もとぎれがちになってきた。それでも喬生はぽつねんと立っていた。軽い
女は白い歯をちらと見せて喬生の前を通り過ぎた。女は青い上衣を着ていた。喬生は吸い寄せられるようにその後から
「燈籠を見にいらしたのですか」
「はい、これを連れて見物に参りましたが、他に知った方はないし、ちっとも面白くないから帰るところでございます」
女は無邪気なおっとりした声で言った。
「私は宵からこうしてぶらぶらしているのですが、なんだか燈籠を見る気がしないのです、どうです、私の家は他に家内がいませんから、遠慮する者がありません、すこし休んでいらしては」
「そう、では、失礼ですが、ちょっと休まして戴きましょうか、くたびれて困ってるところでございますから」
と言って、燈籠を持った少女の方を見返って、
「
少女は引返してきた。
「すぐ、その家ですよ」
喬生は自分の家の方へ指をさした。少女は燈籠を持って
「ここですよ」
三人は喬生の家の門口へきていた。喬生は
「あなたのお住居は、何方ですか」
喬生は女の素性が知りたかった。女は美しい顔に微かに疲労の色を見せていた。
「私は湖西に住んでいる者でございます、もとは
喬生はたよりない女の身が気のどくに思われてきた。
「それはお淋しいでしょう、私も、この頃、家内を亡くして、一人ぼっちになっているのですが、同情しますよ」
「奥様を、お
「家内を持たない時には、そうでもなかったのですが、一度持っていて亡くすると、何だか不自由でしてね」
「そうでございましょうとも」
女はこう言って黒い眼を潤ませて見せた。喬生はその女と二人でしんみりと話がしたくなった。
「彼方へ行こうじゃありませんか」
女はとうとう一泊して
女は毎晩のように喬生の
「あいつ寝言を言ってるな」
しかし、その声は一晩でなしに二晩三晩と続いた。
「寝言にしちゃおかしいぞ、人もくるようにないが、それとも何人か泊りにでもくるだろうか」
老人はこんなことを言いながらやっとこさと腰をあげ、すこし
翌日になって老人は喬生を自分の家へ呼んだ。
「お前さんは、大変なことをやってるが、知ってやってるかな」
老人は物におびえるような声で言った。喬生はその意味が判らなかったが、女のことがあるのでその忠告でないかと思ってきまりが悪かった。
「さあ、なんだろう、私には判らないが」
「判らないことがあるものか、お前さんは、大変なことをやってる、気が
女のことにしては老人の顔色や言葉がそれとそぐわなかった。
「なんだね」
「なんだもないものだ、お前さんは、おっかない骸骨と抱きあってるじゃないか」
「骸骨、骸骨って、あれかね」
「笑いごとじゃないよ、お前さん、おっかない骸骨と、何をしようというのだ、お前さんは、邪鬼に魅いられてるのだよ」
喬生も薄気味悪くなってきた。
「ほんとうかね」
「嘘を言って何になる、わしはお前さんが、毎晩のようにへんなことを言うから、初めは寝言だろうと思ってたが、それでも不思議だから、昨夜、あの壁の破れから覗いて見たのだ、お前さんは、邪鬼に生命を取られようとしてるのだ」
「観燈の晩に知りあって、それから毎晩泊りにきてたが、邪鬼だろうか」
「邪鬼も邪鬼、大変な邪鬼だ」
「奉化の者で、お父さんは州判をしてたと言ったよ、湖西に
「そうとも、邪鬼だよ、わしがこんなに言っても、ほんとうと思えないなら、湖西へ行って調べてみるがいいじゃないか、きっとそんな者はいないよ」
「そうかなあ、たしかに麗卿と言ってたが、じゃ行って調べてみようか」
その日喬生は月湖の
喬生は湖縁を行ったり、堤の上を行ったりして、符姓の家を訊いてまわった。
「このあたりに、符という姓の家はないでしょうか」
「さあ、符、符といいますか、そんな家は聞きませんね」
「若い女と婢の二人暮しだということですが」
「若い女と婢の二人暮し、そんな家はないようですね」
何人に訊いても同じような返辞であった。そのうちに夕方になって湖の面がねずみがかってきた。喬生はいくら訊いても女の家が判らないので、老人の言葉を信ずるようになってきた。彼は無駄骨を折るのが馬鹿馬鹿しくなったので、湖の中の堤を通って帰ってきた。
湖心寺という寺が堤に沿うて湖の中にあった。古い大きな寺で眺望が好いので遊覧する者が多かった。喬生もそこでひと休みするつもりで寺の中へ行った。
もう夕方のせいでもあろう、遊覧の客もいなかった。喬生は腰をおろす処はないかと思って、本堂の東側になった廻廊へあがって行った。朱塗の大きな柱が並木のように並んでいた。彼は東側の廻廊から西側の廻廊へ廻ってみた。その西側の廻廊の行き詰めにうす暗い陰気な
喬生は夢中になって逃げ走った。そして、やっと自分の家の門口まで帰ってきたが、恐ろしくて入れないので、その足で隣へ行った。
「ああ帰ったか、どうだね、判ったかね」
老人はこう言って訊いた。喬生の顔は蒼白くなっていた。
「いや、大変なことがあった、お前さんの言った通りだ」
「そうだろうとも、ぜんたいどんなことがあったね」
「どんなことって、湖西に行って尋ねたが、判らないので、帰ろうと思って、あの湖心寺の前まで来たが、くたびれたので、一ぷくしようと思って、寺の中へ行ってみると、西の廊下の行き詰めに、暗い室があるじゃないか、何をする室だろうと思って、覗いてみると、棺桶があって、それに故奉化符州判の女麗卿の柩と書いてあったのだ、麗卿とはあの女の名前だよ」
「じゃ、その女の邪鬼だ、だから言わないことか、お前さんが骸骨と抱き合っているところを、ちゃんとこの眼で見たのだもの」
「えらいことになった、どうしたらいいだろう、それにあの女の連れてくる婢も、藁人形だ、牡丹の飾の燈籠もやっぱりあったのだ、どうしたらいいだろう」
「そうだね、玄妙観へ行って、魏法師に頼むより他に途がないね、魏法師は、

喬生は家へ帰るのが恐ろしいので、その晩は老人の許へ泊めてもらって、翌日玄妙観へ出かけて行った。魏法師は喬生の顔を遠くのほうからじっと見ていたが、傍近くへ行くと、
「えらい妖気だ、なんと思ってここへ来た」
喬生は驚いた。そしてなるほどこの魏法師は
「私は邪鬼に魅いられて、殺されようとしているところでございます、どうかお助けを願います」
魏法師は喬生から理由を聞くと朱符を二枚出した。
「一つを門へ貼り、一つを
喬生は家へ帰って、魏法師の言ったように朱符を門と榻へ貼ったところで、怪しい女はその晩から来なくなった。
一月ばかりすると、喬生の恐怖もやや薄らいできた。彼はある日、
二人はいろいろの話をしながら飲んでいるうちに、夕方になって陽がかげってきたので、喬生は驚いて帰りかけたが、遠慮なしに打ちくつろいで飲んだ酒が気もちよく出てきたので、彼は伸び伸びした気になって歩いていた。
喬生は湖縁の路を取らずに湖の中の堤を帰っていた。堤の柳は芽を吐いて、それが柔かな風に動いていた。彼の体は湖心寺の前へ来ていた。いつの間にか日が暮れて夕月が射していた。
喬生はふと魏法師の戒めを思いだした。彼は厭な気がしたので、足早に通り過ぎようとした。
「旦那様」
それは聞き覚えのある女の声であった。喬生は驚いて眼をやった。金蓮が来て前へ立っていた。
「お嬢さんがお待ちかねでございます、どうぞいらしてくださいまし」
喬生の手首には金蓮の手が
「旦那様は、ほんとうに薄情でございますのね」
喬生は金蓮の手を振り放そうと
「そんなになさるものじゃございませんわ」
喬生はもう廻廊の上へ引きあげられていた。
「さあ、お入りくださいまし、ここでございます」
喬生は室の中へ引き込まれた。真紅の色の鮮やかな牡丹燈が
「あなたは、妖道士に騙されて、私をお疑いになっておりますが、それはあんまりじゃありませんか、ほんとうにあなたは、薄情じゃありませんか」
麗卿が燈籠の下にしんなりと坐っていた。喬生はまた逃げようとした。
「ほんとにあなたは、薄情でございます、ね、でもこうしてお眼にかかったからには、どんなことがあっても、お帰ししませんから」
女は起ってきて喬生の手を握った。と、その前にあった棺桶の蓋が急に開いた。
「さあ、この中へお入りくださいまし」
女はその棺桶の中へまず自分の体を入れてから、喬生を引き寄せた。棺桶は二人を内にして、そのまま閉じてしまった。
翌日になって喬生の隣の老人は、喬生が帰ってこないので心配して彼方此方と探してみたが、どうしても
棺桶の蓋の間から喬生の着ていた
「この女は奉化州判の符君の
住職はそれから女と喬生を西門の外へ葬ったが、その後、雨曇りの日とか月の
「わしの

土地の者は魏法師の言葉に従うて、
「わしは、こんな処へ籠っている隠者だから、そんなことはできない、それは何かの聞き違いだろう」
人びとは玄妙観の魏法師から教えられて来たと言った。
「そうか、わしは、今年で、もう、六十年も山をおりたことはないが、
道人は鶴の世話をしている童子を呼んで、それを
やがて道人は壇の上へ坐って符を書いて焚いた。と、三四人の武士がどこからともなしにあらわれてきた。皆黄いろな頭巾を被って、鎧を着、錦の
「この頃、邪鬼が祟りをして、人民を悩ますから、その者どもを即刻捕えてこい」
武士は道人の命令を聞いてどことなしに行ってしまったが、間もなく、喬生、麗卿、金蓮の三人の邪鬼に
武士は邪鬼にそれぞれ鞭を加えた。邪鬼は
「その方どもは、何故に人民を悩ますのじゃ」
道人はまず喬生からその罪を白状さして、それをいちいち書き留めさした。その邪鬼の口供の概略をあげてみると、喬生は、
伏して念 う、某、室 を喪って鰥居 し、門に倚って独り立ち、色 に在るの戒を犯し、多欲の求を動かし、孫生が両頭の蛇を見て決断せるに効 うこと能 わず、乃 ち鄭子 が九尾の狐に逢いて愛憐するが如くなるを致す。事既に追うなし。悔ゆとも将 た奚 ぞ及ばん。
符女は、
伏して念 う、某、青年にして世を棄て、白昼 隣 なし。六魄離ると雖 も、一霊未だ泯 びず、燈前月下、五百年歓喜の寃家 に逢い、世上民間、千万人風流の話本 をなす。迷いて返るを知らず、罪安 んぞ逃るべき。
金蓮は、
伏して念う、某、殺青 を骨 となし、染素 を胎 と成し、墳
に埋蔵せらる。是れ誰か俑 を作って用うる。面目機発 、人に比するに体を具えて微なり。既に名字の称ありて、精霊の異に乏しかるべけんや。因って計を得たり。豈 敢 て妖をなさんや。
武士はその供書を道人の前へさしだした。道人はこれを見て判決をくだした。




翌日土地の者は、道人に昨日の礼を言おうと思って、四明山頂の草庵へ行ったが、草庵は空になって何人もいなかった。土地の者は道人の行方を訊こうと思って玄妙観へ行ってみると、魏法師は口が利けなくなっていた。