第一部
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放浪記以前
私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。
更けゆく秋の夜 旅の空の
侘 しき思いに 一人なやむ
恋いしや古里 なつかし父母
恋いしや古里 なつかし父母
私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、
今の私の父は養父である。このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れていた人だ。私は母の連れ子になって、この父と一緒になると、ほとんど住家と云うものを持たないで暮して来た。どこへ行っても
「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」
せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが
直方の町は明けても暮れても
私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを
流行歌のおいとこそうだよの唄が
私の三銭の小遣いは双児美人の豆本とか、氷
この木賃宿には、通称シンケイ(神経)と呼んでいる、坑夫上りの狂人が居て、このひとはダイナマイトで飛ばされて馬鹿になった人だと宿の人が云っていた。毎朝早く、町の女達と一緒にトロッコを押しに出かけて行く気立の優しい狂人である。私はこのシンケイによく
「トロッコで圧されて指を取った云いよるけんど、嘘ばんた、誰ぞに切られたっとじゃろ……」
馬屋のお
木賃宿に泊っている夫婦者は、たいてい自炊で、自炊でない者達も、米を買って来て炊いてもらっていた。
ほうろくのように焼けた暑い直方の町角に、そのころカチュウシャの絵看板が立つようになった。異人娘が、頭から毛布をかぶって、雪の降っている停車場で、汽車の窓を叩いている図である。すると間もなく、頭の真ん中を二つに分けたカチュウシャの髪が流行って来た。
カチュウシャ可愛や 別れの辛さ
せめて淡雪 とけぬ間に
神に願いを ララかけましょうか。
せめて淡雪 とけぬ間に
神に願いを ララかけましょうか。
なつかしい唄である。この炭坑街にまたたく間に、このカチュウシャの唄は流行してしまった。ロシヤ女の純情な恋愛はよくわからなかったけれど、それでも、私は映画を見て来ると、非常にロマンチックな少女になってしまったのだ。浮かれ節(
そのころの私はとても元気な子供だった。
一カ月ばかり勤めていた粟おこし工場の二十三銭也にもさよならをすると、私は父が仕入れて来た、扇子や化粧品を鼠色の風呂敷に背負って、
「暑うしてたまらんなア。」この頃私には、こうして親しく言葉をかける相棒が二人ばかりあった。「松ちゃん」これは
烈々とした空の下には、掘りかえした土が口を開けて、雷のように遠くではトロッコの流れる音が聞えている。昼食時になると、
そうしてこの静かな景色の中に動いているものと云えば、棟を流れて行く昔風なモッコである。昼食が終るとあっちからもこっちからもカチュウシャの唄が流れて来ている。やがて夕顔の花のようなカンテラの灯が、薄い光で地を這って行くと、けたたましい
扇子が売れなくなると、私は一つ一銭のアンパンを売り歩くようになった。炭坑まで小一里の道程を、よく休み休み私はアンパンをつまみ食いして行ったものだ。父はその頃、商売上の事から坑夫と
十月になって、
「あんたも、四十過ぎとんなはっとじゃけん、少しは身を入れてくれんな、仕様がなかもんなァた……」
私は豆ランプの灯のかげで、一生懸命探偵小説のジゴマを読んでいた。裾にさしあって寝ている母が父に
「一軒、家ちゅうもんを、定めんとあんた、こぎゃん時に困るけんな。」
「ほんにヤカマシかな。」
父が小声で
「戦争でも始まるとよかな。」
この淫売婦の持論はいつも戦争の話だった。この世の中が、ひっくりかえるようになるといいと云った。炭坑にうんと金が流れて来るといいと云っていた。「あんたは、ほんまによか生れつきな」母にこう云われると、指の無い淫売婦は、
「小母っさんまで、そぎゃん思うとんなはると……」彼女は窓から何か投げては淋しそうに笑っていた。二十五だと云っていたが、労働者上りらしいプチプチした若さを持っていた。
十一月の声のかかる時であった。
黒崎からの帰り道、父と母と私は、大声で話しながら、軽い荷車を引いて、暗い遠賀川の堤防を歩いていた。
「お
母と私は、荷車の上に乗っかると、父は元気のいい声で唄いながら私達を引いて歩いた。
秋になると、星が幾つも流れて行く。もうじき街の入口である。後の方から、「おっさんよっ!」と呼ぶ声がした。渡り歩きの坑夫が呼んでいるらしかった。父は荷車を止めて「何ぞ!」と呼応した。二人の坑夫が這いながらついて来た。二日も食わないのだと云う。逃げて来たのかと父が聞いていた。二人共鮮人であった。折尾まで行くのだから、金を貸してくれと何度も頭をさげた。父は
しばらくして父は祖父が死んだので、岡山へ田地を売りに帰って行った。少し資本をこしらえて来て、
「じき二人は呼ぶけんのう……」
こう云って、父は陽に焼けた
このころの思い出は一生忘れることは出来ないのだ。私には、商売は一寸も苦痛ではなかった。一軒一軒歩いて行くと、五銭、二銭、三銭と云う風に、私のこしらえた財布には金がたまって行く。そして私は、自分がどんなに商売上手であるかを母に賞めてもらうのが楽しみであった。私は二カ月もアンパンを売って母と暮した。或る日、街から帰ると、美しいヒワ色の兵児帯を母が縫っていた。
「どぎゃんしたと?」
私は驚異の眼をみはったものだ。四国のお父つぁんから送って来たのだと母は云っていた。私はなぜか胸が鳴っていた。間もなく、呼びに帰って来た義父と一緒に、私達三人は、直方を引きあげて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い
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(十二月×日)
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
雪が降っている。私はこの
「
奥さんの声がしている。
あああの百合子と云う子供は私には苦手だ。よく泣くし、先生に似ていて、神経が細くて全く火の玉を背負っているような感じである。――せめてこうして便所にはいっている時だけが、私の体のような気がする。
(バナナに
気持ちが貧しくなってくると、私は妙に落書きをしたくなってくる。豚カツにバナナ、私は指で壁に書いてみた。
夕飯の支度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たりしている。
「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」
私の肩を
私は廊下の本箱から、今日はチエホフを引っぱり出して読んだ。チエホフは心の古里だ。チエホフの吐息は、姿は、みな生きて、
夜。
家政婦のお菊さんが、台所で
赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時である。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなのだけれど、不思議な事に、赤ん坊は私の背中におぶさると、すぐウトウトと眠ってしまって、家の人達が珍らしがっている。
お
うまごやしにだって、
(十二月×日)
ひまが出るなり。
別に行くところもない。大きな風呂敷包みを持って、汽車道の上に架った陸橋の上で、貰った紙包みを開いて見たら、たった二円はいっていた。二週間あまりも居て、金二円也。足の先から、冷たい血があがるような思いだった。――ブラブラ大きな風呂敷包みをさげて歩いていると、何だかザラザラした気持ちで、何もかも投げ出したくなってきた。通りすがりに
疲れて眠たくなっていたので、休んで行きたい気持ちなり。勝手口を開けてみると、
「何でもないんだ、何でもありやしないんだよ。」
言いきかせるつもりで、私は縁側の上へきっとつったっていた。
(どうしようかなア……、どうにもならないじゃないのッ!)
夜。
新宿の
みんな嘘っぱちばかりの世界だった
甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく
百貨店 の屋上のように寥々 とした全生活を振り捨てて
私は木賃宿の蒲団に静脈を延ばしている
列車にフンサイされた死骸を
私は他人のように抱きしめてみた
真夜中に煤けた障子を明けると
こんなところにも空があって月がおどけていた。
みなさまさよなら!
私は歪 んだサイコロになってまた逆もどり
ここは木賃宿の屋根裏です
私は堆積 された旅愁をつかんで
飄々 と風に吹かれていた。
甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく
私は木賃宿の蒲団に静脈を延ばしている
列車にフンサイされた死骸を
私は他人のように抱きしめてみた
真夜中に煤けた障子を明けると
こんなところにも空があって月がおどけていた。
みなさまさよなら!
私は
ここは木賃宿の屋根裏です
私は
夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。
「済みませんが……」
そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に
「オイ! お前、おきろ!」
やがて、女が一言二言何かつぶやきながら、廊下へ出て行くと、パチンと頬を殴る音が続けざまに聞えていたが、やがてまた外は無気味な、汚水のような
「今まで何をしていたのだ! 原籍は、どこへ行く、年は、両親は……」
薄汚れた男が、また私の部屋へ這入って来て、鉛筆を
「お前はあの女と知合いか?」
「いいえ、不意にはいって来たんですよ。」
クヌウト・ハムスンだって、こんな行きがかりは持たなかっただろう――。刑事が出て行くと、私は伸々と手足をのばして枕の下に入れてある財布にさわってみた。残金は一円六十五銭也。月が風に吹かれているようで、歪んだ高い窓から色々な光の
(十二月×日)
朝、
「姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」
大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。
労働者は急にニコニコしてバンコへ腰をかけた。
大きな
お母さんだけでも東京へ来てくれれば、何とかどうにか働きようもあるのだけれど……沈むだけ沈んでチンボツしてしまった私は難破船のようなものだ。
昼から荷物を宿屋にあずけて、神田の職業紹介所に行ってみる。
どこへ行っても砂原のように寥々とした思いをするので、私は胸がつまった。
(お前さんに使ってもらうんじゃないよ。)
おたんちん!
ひょっとこ!
馬鹿野郎!
何と冷たい、コウマンチキな女達なのだろう――。
桃色の吸取紙のようなカードを、紹介所の受付の女に渡すと、
「月給三十円位ですって……」
受付女史はこうつぶやくと、私の顔を見て、せせら笑っているのだ。
「女中じゃいけないの……事務員なんて、女学校出がうろうろしているんだから駄目よ、女中なら沢山あってよ。」
後から後から美しい女の群が雪崩れて来ている。まことにごもっともさまなことです。
少しも得るところなし。
紹介状は、墨汁会社と、ガソリン嬢と、
「昨夜は二分しか売れなかった。」
「
「ヘン、これだっていいって人があるんだから……」
「ハイ御苦労様なことですよ。」
十四五の娘同士のはなしなり。
(十二月×日)
こみあげてくる波のような哀しみ、まるで狂人になるような錯覚がおこる。マッチをすって、それで眉ずみをつけてみた。――午前十時。
笑って暮らしましょう。でも何だか顔がゆがみます。――異人の子が馬に乗って門から出てきた。門のそばにはこわれた門番の小屋みたいなものがあって、
結局ようりょうを得ないままで門を出てしまった。豪壮な三年町の邸町を抜けて坂を降りると、吹きあげる十二月の風に、商店の赤い旗がヒラヒラしていて心にしみた。人種が違っては人情も判りかねる、どこか他をさがしてみようかしら。電車に乗らないで、堀ばたを歩いていると、何となく故郷へ帰りたくなって来た。目当もないのに東京でまごついていたところで結局はどうにもならないと思う。電車を見ていると死ぬる事を考えるなり。
本郷の前の家へ行ってみる。叔母さんつめたし。近松氏から郵便が来ていた。出る時に
文士って薄情なのかも知れない。
夕方新宿の街を歩いていると、何と云うこともなく男の人にすがりたくなっていた。(誰か、このいまの私を助けてくれる人はないものなのかしら……)新宿駅の陸橋に、紫色のシグナルが光ってゆれているのをじっと見ていると、涙で
何でも当ってくだけてみようと思う。宿屋の小母さんに正直に話をしてみた。仕事がみつかるまで、下で一緒にいていいと言ってくれた。
「あんた、青バスの車掌さんにならないかね、いいのになると七十円位這入るそうだが……」
どこかでハタハタでも焼いているのか、とても臭いにおいが流れて来る。七十円もはいれば素敵なことだ。とにかくブラさがるところをこしらえなくてはならない……。十
――ビョウキシテ、コマッテ、イルカラ、三円クメンシテ、オクッテクダサイ。
この間の淫売婦が、いなりずしを頬ばりながらはいって来た。
「おとついはひどいめに会った。お前さんもだらしがないよ。」
「お父つぁん怒ってた?」
電気の下で見ると、もう四十位の女で、乾いたような崩れた姿をしていた。
「私の方じゃあんなのを
人の好さそうな老けたお上さんは、茶を
夜、お上さんにうどんを御馳走になる。明日はここの小父さんのくちぞえで青バスの車庫へ試験をうけに行ってみよう。暮れぢかくになって、落ちつき場所のない事は淋しいけれど、クヨクヨしていても仕様のない世の中だ。すべては自分の元気な体をたのみに働きましょう。電線が風ですさまじく鳴っている。木賃宿の片隅に、この小さな私は、汚れた蒲団に寝ころんで、壁に張ってある大黒さんの顔を見ながら、雲の上の御殿のような空想をしている。
(国へかえってお嫁にでも行こうかしら……)
*
(四月×日)
今日はメリヤス屋の安さんの案内で、地割りをしてくれるのだと云う親分のところへ酒を一升持って行く。
道玄坂の漬物屋の路地口にある、土木請負の看板をくぐって、綺麗ではないけれど、拭きこんだ格子を開けると、いつも昼間場所割りをしてくれるお爺さんが、火鉢の傍で茶を
「今晩から夜店をしなさるって、昼も夜も出しゃあ、今に
お爺さんは人のいい高笑いをして、私の持って行った一升の酒を気持ちよく受取ってくれた。
誰も知人のない東京なので、恥かしいも
夜。
私は女の万年筆屋さんと、
沢山の群集を相手に高飛車に出ている、こんな商売も面白いものだと思う。
お上品な奥様が、猿股を二十分も
「私が少しかわるから、お前は、御飯をお上り。」
お新香に
「そこにもある、ここにもあると云う品物ではございません。お手に取って御覧下さいまし。」
と大きい声で言っている。
私はふっと塩っぱい涙がこぼれて来た。母はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄を歌っていた。九州へ行っている義父さえこれでよくなっていたら、当分はお母さんの唄ではないが、たったかたのただろう。
(四月×日)
水の流れのような、薄いショールを、街を歩く娘さん達がしている。一つあんなのを欲しいものだ。洋品店の四月の窓飾りは、金と銀と桜の花で目がくらむなり。
空に拡がった桜の枝に
うっすらと血の色が染まると
ほら枝の先から花色の糸がさがって
情熱のくじびき
食えなくてボードビルへ飛び込んで
裸で踊った踊り子があったとしても
それは桜の罪ではない。
ひとすじの情
ふたすじの義理
ランマンと咲いた青空の桜に
生きとし生ける
あらゆる女の
裸の唇を
するすると奇妙な糸がたぐって行きます。
貧しい娘さん達は
夜になると
果物のように唇を
大空へ投げるのですってさ
青空を色どる桃色桜は
こうしたカレンな女の
仕方のないくちづけなのですよ
そっぽをむいた唇の跡なのですよ。
うっすらと血の色が染まると
ほら枝の先から花色の糸がさがって
情熱のくじびき
食えなくてボードビルへ飛び込んで
裸で踊った踊り子があったとしても
それは桜の罪ではない。
ひとすじの情
ふたすじの義理
ランマンと咲いた青空の桜に
生きとし生ける
あらゆる女の
裸の唇を
するすると奇妙な糸がたぐって行きます。
貧しい娘さん達は
夜になると
果物のように唇を
大空へ投げるのですってさ
青空を色どる桃色桜は
こうしたカレンな女の
仕方のないくちづけなのですよ
そっぽをむいた唇の跡なのですよ。
ショールを買う金を
電車の中まで意地悪がそろっているものだ。
九州からの音信なし。
(四月×日)
雨にあたって、お母さんが風邪を引いたので一人で夜店を出しに行く。本屋にはインキの新らしい本が沢山店頭に並んでいる。何とかして買いたいものだと思う。
いいお天気なのに道が悪い。昼から隣にかもじ屋さんが店を出した。
「安さんがお前、電車にしかれて、あぶないちゅうが……」
帰ると、母は寝床の中からこう云った。私は荷物を背負ったまま呆然としてしまった。昼過ぎ、安さんの家の者が知らせに来たのだと、母は書きつけた病院のあて名の紙をさがしていた。
夜、芝の安さんの家へ行く。若いお上さんが、眼を泣き
(四月×日)
父より長い音信が来る。長雨で、飢えにひとしい生活をしていると云う。花壺へ貯めていた十四円の金を、お母さんが皆送ってくれと云うので為替にして急いで送った。明日は明日の風が吹くだろう。安さんが死んでから、あんなに軽便な猿股も出来なくなってしまった。もう疲れきった私達は、何もかもがメンドくさくなってしまっている。
十四円九州へ送った。
「わし達ゃ三畳でよかけん、六畳は誰ぞに貸さんかい。」
かしま、かしま、かしま、私はとても嬉しくなって、子供のように紙にかしまと書き散らすと、
「来年はお前の運勢はよかぞな、今年はお前もお父さんも八方
明日から、この八方塞りはどうしてゆくつもりか! 運勢もへちまもあったものじゃない。次から次から悪運のつながりではありませんかお母さん!
腰巻も買いたし。
(五月×日)
家のかしまはあまり汚ない家なので誰もまだ借りに来ない。お母さんは八百屋が貸してくれたと云って大きなキャベツを買って来た。キャベツを見るとフクフクと湯気の立つ豚カツでもかぶりつきたいと思う。がらんとした部屋の中で、寝ころんで天井を見ていると、鼠のように、小さくなって、色んなものを食い破って歩いたらユカイだろうと思った。夜、風呂屋で母が聞いて来たと云って、派出婦にでもなったらどんなものかと相談していた。それもいいかも知れないけれど、根が野性の私である。金持ちの家風にペコペコ頭をさげる事は、腹を切るより切ない事だ。母の
腹がへっても、ひもじゅうないとかぶりを振っている時ではないのだ。明日から、今から飢えて行く私達なのである。あああの十四円は九州へとどいたかしら。東京が
(五月×日)
朝起きたらもう下駄が洗ってあった。
いとしいお母さん! 大久保百人町の派出婦会に行ってみる。中年の女の人が二人、店の間で縫いものをしていた。人がたりなかったのであろうか、そこの主人は、添書のようなものと地図を私にくれた。行く先の私の仕事は、薬学生の助手だと云うことである。――道を歩いている時が、私は一番愉しい。五月の
「御めん下さい!」
大きな家だな、こんな大きい家の助手になれるかしら……、戸口で私は何度かかえろうと思いながらぼんやり立っていた。
「貴女、派出婦さん! 派出婦会から、さっき出たって電話がかかって来たのに、おそいので坊ちゃん怒ってらっしゃるわ。」
私が通されたのは、洋風なせまい応接室だった。壁には、
「お待たせしました。」
何でもこのひとの父親は日本橋で薬屋をしているとかで、私の仕事は薬見本の整理でわけのない仕事だそうだ。
「でもそのうち、僕の仕事が忙しくなると清書してもらいたいのですがね、それに一週間程したら、三浦三崎の方へ研究に行くんですが、来てくれますか。」
この男は二十四五位かとも思う。私は若い男の年がちっとも判らないので、じっと背の高いその人の顔を見ていた。
「いっそ派出婦の方を
私も、派出婦のようないかにも品物みたいな感じのするところよりその方がいいと思ったので、一カ月三十五円で約束をしてしまった。紅茶と、洋菓子が出たけれど、まるで、日曜の教会に行ったような少女の日を思い出させた。
「君はいくつですか?」
「二十一です。」
「もう肩上げをおろした方がいいな。」
私は顔が熱くなっていた。三十五円毎月つづくといいと思う。だがこれもまた信じられはしない。――家へ帰ると、母は、岡山の祖母がキトクだと云う電報を手にしていた。私にも母にも縁のないお
「四五日内には、前借りをしますから、そしたら、送りますよ。しっかりして行っていらっしゃい。しょぼしょぼしたら馬鹿ですよ。」
母は子供のように涙をこぼしていた。
「馬鹿ね、汽車賃は、どんな事をしても送りますから、安心してお祖母さんのお世話をしていらっしゃい。」
汽車が出てしまうと、何でもなかった事が急に悲しく切なくなって、目がぐるぐるまいそうだった。省線をやめて東京駅の前の広場へ出て行った。長い事クリームを顔へ塗らないので、顔の皮膚がヒリヒリしている。涙がまるで馬鹿のように流れている。信ずる者よ来れ
*
(十一月×日)
浮世離れて奥山ずまい、こんなヒゾクな唄にかこまれて、私は毎日
「急いでくれなくちゃ困るよ。」
フンお前も私達と同じ女工上りじゃないか、「俺達ゃ機械じゃねえんだよっ。」発送部の男達がその女が来ると、舌を出して笑いあっていた。五時になると、二十分は私達の労力のおまけだった。日給袋のはいった
「あんた、今日市場へ寄らないの、私今晩のおかずを買って行くのよ……」
一皿八銭の
「この道を歩いている時だけ、あんた、楽しいと思った事ない?」
「本当にね、私
「ああ、でもあんたは一人だからうらやましいと思うわ。」
美しいお千代さんの束ねた髪に、白く埃がつもっているのを見ると、街の華やかな、一切のものに、私は火をつけてやりたいようなコウフンを感じてくる。
(十一月×日)
なぜ?
なぜ?
私達はいつまでもこんな馬鹿な生き方をしなければならないのだろうか? いつまでたっても、セルロイドの匂いに、セルロイドの生活だ。朝も晩も、ベタベタ三原色を塗りたくって、地虫のように、太陽から隔離された
だが待って下さい。私達のつくっている、キュウピーや蝶々のお垂げ止めが、貧しい子供達の頭をお祭のように飾る事を思えば、少し少しあの窓の下では、
二畳の部屋には、
あの生れたての、玄米パンよりもホヤホヤな赤ん坊達に、絹のむつきと、木綿のむつきと一たいどれだけの差をつけなければならないのだろう!
「あんたは、今日は工場は休みなのかい?」
叔母さんが障子を叩きながら
母の音信一通。
たとえ五十銭でもいいから送ってくれ、私はリュウマチで困っている。この家にお前とお父さんが早く帰って来るのを、楽しみに待っている。お父さんの方も思わしくないと云うたよりだし、お前のくらし向きも思う程でないと聞くと生きているのが辛いのです。――たどたどしいカナ文字の手紙である。最後に上様ハハよりと書いてあるのを見ると、母を手で叩きたい程可愛くなってくる。
「どっか体でも悪いのですか。」
この仕立屋に同じ間借りをしている、印刷工の松田さんが、遠慮なく障子を開けてはいって来た。背丈が十五六の子供のようにひくくて髪を肩まで長くして、私の一等厭なところをおし気もなく持っている男だった。天井を向いて考えていた私は、クルリと背をむけると蒲団を被ってしまった。この人は有難い程親切者である。だが会っていると、憂鬱なほど不快になって来る人だ。
「大丈夫なんですか!」
「ええ体の節々が痛いんです。」
店の間では商売物の菜っ葉服を小父さんが縫っているらしい。ジ……と歯を
枕元に石のように坐った松田さんは、
「済みませんが、私は体の工合が悪いんです。ものを言うのが、何だかおっくうですの、あっちい行ってて下さい。」
「当分工場を休んで下さい。その間の事は僕がしますよ。たとえ貴女が僕と一緒になってくれなくっても、僕はいい気持ちなんです。」
まあ何てチグハグな世の中であろうと思う――。
夜。
米を一升買いに出る。ついでに風呂敷をさげたまま
(十二月×日)
ヘエ、街はクリスマスでございますか。救世軍の
暮だ、急行列車だ、あの窓の風があんなに動いている。能率を上げなくてはと、汚れた壁の黒板には、二十人の女工の色塗りの仕上げ高が、毎日毎日数字になって、まるで天気予報みたいに私達をおびやかすようになってきた。規定の三百五十の仕上げが不足の時は、五銭引き、十銭引きと、日給袋にぴらぴらテープのような伝票が張られて来る。
「厭んなっちゃうね……」
女工はまるで、ササラのように腰を浮かせて御製作なのだ。同じ絵描きでも、これは又あまりにもコッケイな、ドミエの漫画のようではないか。
「まるで人間を
五時の時計が鳴っても、仕事はドンドン運ばれて来るし、日給袋は中々廻りそうにもない。工場主の小さな子供達を連れて、会計の細君が、四時頃自動車で街へ出掛けて行ったのを、一番小さいお光ちゃんが便所の窓から眺めていて、女工達に報告すると、芝居だろうと云ったり、正月の着物でも買いに行ったのだろうと云ったり、手を働かせながら、女工達の間にはまちまちの論議が噴出した。
七時半。
朝から晩まで働いて、六十銭の労働の代償をもらってかえる。土釜を七輪に掛けて、机の上に茶碗と
(十二月×日)
「何も変な風に義理立てをしないで、松田さんが、折角貸して上げると云うのに、あなたも借りたらいいじゃないの、実さい私の家は、あんた達の間代を当にしているんですからねえ。」
「何も云わないで借りて下さい。僕はあげてもいいんですが、貴女がこだわると困るから。」
そう云って、
「お望みは……」
「辛い事をやるのも一生、楽な事をやるのも一生、姉さん良く考えた方がいいですよ。」
肩掛もしていない、このみすぼらしい女に、番頭は目を細めて値ぶみを始めたのか、ジロジロ私の様子を見ている。
貴方も私も寒そうだ。
貴方も私も貧乏だ。
昼から工場に出る。生きるは辛し。
(十二月×日)
昨夜、机の引き出しに入れてあった松田さんの心づくし。払えばいいのだ、借りておこうかしら、弱き者よ
家にかえる時間となるを
ただ一つ待つことにして
今日も働けり。
ただ一つ待つことにして
今日も働けり。
啄木はこんなに楽しそうに家にかえる事を歌っているけれど、私は工場から帰ると棒のようにつっぱった足を二畳いっぱいに延ばして、大きなアクビをしているのだ。それがたった一つの楽しさなのだ。二寸ばかりのキュウピーを一つごまかして来て、茶碗の棚の上にのせて見る。私の描いた眼、私の描いた羽根、私が生んだキュウピーさん、冷飯に味噌汁をザクザクかけてかき込む淋しい夜食です。――松田さんが、妙に大きいセキをしながら窓の下を通ったとおもうと、台所からはいって来て声をかける。
「もう御飯ですか、少し待っていらっしゃい、いま肉を買って来たんですよ。」
松田さんも私と同じ自炊生活である。仲々しまった人らしい。石油コンロで、ジ……と肉を煮る匂いが、切なく口を濡らす。「済みませんが、この
「昨夜はありがとう、五円を小母さんに払って、五円残ってますから、五円お返ししときますわ。」
松田さんは沈黙って竹の皮から滴るように紅い肉片を取って鍋に入れていた。ふと見上げた歪んだ松田さんの顔に、小さい涙が一滴光っている。奥では
「アラ、御飯はまだ炊かなかったんですか。」
「ええ貴女が御飯を食べていらっしたから、肉を早く上げようと思って。」
洋食皿に分けてもらった肉が、どんな思いで私ののどを通ったか。私は色んな人の姿を思い浮べた。そしてみんなくだらなく思えた。松田さんと結婚をしてもいいと思った。夕食のあと、初めて松田さんの部屋へ遊びに行ってみる。
松田さんは新聞をひろげてゴソゴソさせながら、お正月の餅をそろえて笊へ入れていた。あんなにも、なごやかにくずれていた気持ちが、又前よりもさらに
「寿司屋もつまらないし……」
外は嵐が吹いている。キュウピーよ、早く鳩ポッポだ。吹き
*
(四月×日)
地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえと、呶鳴ったところで私は一匹の烏猫だ。世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃっている。又いつもの淋しい朝の寝覚めなり。薄い壁に掛った、黒い
「俺はもうじき食えなくなる。誰かの一座にでもはいればいいけれど……俺には俺の節操があるし。」
私は男にはとても甘い女です。
そんな言葉を聞くと、さめざめと涙をこぼして、では街に出て働いてみましょうかと云ってみるのだ。そして私はこの四五日、働く家をみつけに出掛けては、魚の
(ああ浮世は辛うござりまする。)
こうして寝ているところは円満な御夫婦である。冷たい接吻はまっぴらなのよ。あなたの体臭は、七年も連れそった女房や、若い女優の匂いでいっぱいだ。あなたはそんな女の情慾を抱いて、お勤めに私の首に手を巻いている。
ああ淫売婦にでもなった方がどんなにか気づかれがなくて、どんなにいいか知れやしない。私は飛びおきると男の枕を
(四月×日)
一度はきやすめ二度は嘘
三度のよもやにひかされて……
憎らしい私の煩悩 よ、私は女でございました。やっぱり切ない涙にくれまする。
鶏の生胆 に
花火が散って夜が来た
東西! 東西!
そろそろ男との大詰が近づいて来た。
一刀両断に切りつけた男の腸に
メダカがぴんぴん泳いでいる。
臭い臭い夜で
誰も居なけりゃ泥棒にはいりますぞ!
私は貧乏故男も逃げて行きました。
ああ真暗い頬かぶりの夜だよ。
三度のよもやにひかされて……
憎らしい私の
鶏の
花火が散って夜が来た
東西! 東西!
そろそろ男との大詰が近づいて来た。
一刀両断に切りつけた男の腸に
メダカがぴんぴん泳いでいる。
臭い臭い夜で
誰も居なけりゃ泥棒にはいりますぞ!
私は貧乏故男も逃げて行きました。
ああ真暗い頬かぶりの夜だよ。
土を
「旅興行に出ると、俺はあいつと同じ宿をとった、あいつの鞄も持ってやったっけ……でもあいつは俺の目を盗んでは、寝巻のままよその男の宿へ忍んで行っていた。」
「俺はあの女を泣かせる事に興味を覚えていた。あの女を叩くと、まるで
二人で縁側に足を投げ出していると、男は灯を消して、七年も連れ添っていた別れた女の話をしている。私は圏外に置き忘れられた、たった一人の登場人物だ、茫然と夜空を見ているとこの男とも駄目だよと誰かが云っている。あまのじゃくがどっかで
「何だか一人でいたくなったの……もうどうなってもいいから一人で暮したい。」
男は我にかえったように、太い息を切ると涙をふりちぎって、別れと云う言葉の持つ淋しい言葉に涙を流して私を抱こうとしている。これも他愛のないお芝居なのか、さあこれから忙しくなるぞ、私は男を二階に振り捨てると、
(四月×日)
街の四ツ角で、まるで他人よりも冷やかに、私も男も別れてしまった。男は市民座と云う小さい素人劇団をつくっていて、滝ノ川の稽古場に毎日通っているのだ。
私も今日から通いでお勤めだ。男に食わしてもらう事は、泥を噛んでいるよりも辛いことです。
十二時になっても、この店は素晴らしい繁昌ぶりで、私は家へ帰るのに気が気ではなかった。私とお満さんをのぞいては、皆住み込みのひとなので、平気で残っていて客にたかっては色々なものをねだっている。
「たあさん、私水菓子ね……」
「あら私かもなんよ……」
まるで野生の集りだ、笑っては食い、笑っては食い、無限に時間がつぶれて行きそうで私は焦らずにはいられなかった。私がやっと店を出た時は、もう一時近くで、店の時計がおくれていたのか、市電はとっくになかった。神田から
こんなにも辛い思いをして、私はあのひとに真実をつくさなければならないのだろうか? 不意にハッピを着て自転車に乗った人が、さっと煙のように目の前を過ぎて行った。何もかも投げ出したいような気持ちで走って行きながら、「貴方は八重垣町の方へいらっしゃるんじゃあないですかッ!」と私は大きい声でたずねてみた。
「ええそうです。」
「すみませんが田端まで帰るんですけれど、貴方のお出でになるところまで道連れになって
今は一生懸命である。私は尾を振る犬のように走って行くと、その職人体の男にすがってみた。
「私も使いがおそくなったんですが、もしよかったら自転車にお乗んなさい。」
もう何でもいい私はポックリの下駄を片手に、裾をはし折ってその人の自転車の後に乗せてもらった。しっかりとハッピのひとの肩に手を掛けて、この奇妙な深夜の自転車乗りの女は、
夜目にも白く染物とかいてあるハッピの字を眺めて、吻と安心すると、私はもう元気になって、自然に笑い出したくなっている。根津の町でその職人さんに別れると、又私は
(四月×日)
国から
今晩は市民座の公演会だ。男は早くから化粧箱と着物を持って出かけてしまった。私は長いこと水を貰わない植木鉢のように、干からびた熱情で二階の窓から男のいそいそとした後姿を眺めていた。夕方
舞台は乱暴な夫婦
私はくしゃみを何度も何度もつづけると、ぷいと帰りたくなってきて、詩人の友達二三人と、暖かい戸外へ出ていった。こんなにいい夜は、裸になって、ランニングでもしたらさぞ愉快だろうと思うなり。
(四月×日)
「僕が電報を打ったら、じき帰っておいで。」と云ってくれるけれど、このひとはまだ嘘を云ってるようだ。私はくやしいけれど十五円の金をもらうと、なつかしい停車場へ急いだ。
汐の香のしみた私の古里へ私は帰ってゆくのだ。ああ何もかも
「私は当分あっちで遊ぶつもりよ。」
「僕はこうして別れたって、きっと君が恋しくなるのはわかっているんだ。只どうにも仕様のない気持ちなんだよ今は、ほんとうにどうせき止めていいかわからない程、呆然とした気持ちなんだよ。」
汽車に乗ったら私は煙草でも吸ってみようかと思った。駅の売店で、青いバット五ツ六ツも買い込むと私は汽車の窓から、ほんとうに冷たい握手をした。
「さようなら、体を大事にしてね。」
「有難う……御機嫌よう……」
固く目をとじて、パッと
男とも別れだ!
私の胸で子供達が赤い旗を振っている
そんなによろこんでくれるか
もう私はどこへも行かず
皆と旗を振って暮らそう。
皆そうして飛び出しておくれ、
そして石を積んでくれ
そして私を胴上げして
石の城の上に乗せておくれ。
さあ男とも別れだ泣かないぞ!
しっかりしっかり旗を振ってくれ
貧乏な女王様のお帰りだ。
私の胸で子供達が赤い旗を振っている
そんなによろこんでくれるか
もう私はどこへも行かず
皆と旗を振って暮らそう。
皆そうして飛び出しておくれ、
そして石を積んでくれ
そして私を胴上げして
石の城の上に乗せておくれ。
さあ男とも別れだ泣かないぞ!
しっかりしっかり旗を振ってくれ
貧乏な女王様のお帰りだ。
外は真暗闇だ。切れては走る窓の風景に、私は目も鼻も口も
私は、これからいったい
*
(五月×日)
私はお釈迦様に恋をしました
仄 かに冷たい唇に接吻すれば
おおもったいない程の
痺 れ心になりまする。
もったいなさに
なだらかな血潮が
逆流しまする。
心憎いまでに落ちつきはらった
その男振りに
すっかり私の魂はつられてしまいました。
お釈迦様!
あんまりつれないではござりませぬか
蜂 の巣のようにこわれた
私の心臓の中に
お釈迦様
ナムアミダブツの無常を悟すのが
能でもありますまいに
その男振りで
炎のような私の胸に
飛びこんで下さりませ
俗世に汚れた
この女の首を
死ぬ程抱きしめて下さりませ
ナムアミダブツのお釈迦様!
おおもったいない程の
もったいなさに
なだらかな血潮が
逆流しまする。
心憎いまでに落ちつきはらった
その男振りに
すっかり私の魂はつられてしまいました。
お釈迦様!
あんまりつれないではござりませぬか
私の心臓の中に
お釈迦様
ナムアミダブツの無常を悟すのが
能でもありますまいに
その男振りで
炎のような私の胸に
飛びこんで下さりませ
俗世に汚れた
この女の首を
死ぬ程抱きしめて下さりませ
ナムアミダブツのお釈迦様!
妙に侘しい日だ。気の狂いそうな日だ。天気のせいかも知れない。朝から、降りどおしだった雨が、夜になると風をまじえて、身も心も、突きさしそうに実によく降っている。こんな詩を書いて、壁に張りつけてみたものの私の心はすこしも愉しくはない。
――スグコイカネイルカ
馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたいほど、いまは切ない私である。高松の宿屋で、あのひとの電報を本当に受取った私は、嬉し涙を流していた。そうして、はち切れそうな土産物を抱いて、いま、この田端の家へ帰って来たはずだのに――。半月もたたないうちに又別居だとはどうした事なのだろう。私は男に二カ月分の間代を払ってもらうと、
「やあ……」私は子供のように天真に
男と云う男はみんなくだらないじゃあないの!
私は
(六月×日)
朝。
ほがらかな、よいお天気なり。雨戸を繰ると白い蝶々が雪のように群れていて、男性的な季節の匂いが私を驚かす。雲があんなに、白や青い色をして流れている。ほんとにいい仕事をしなくちゃいけないと思う。火鉢にいっぱい散らかっていた煙草の吸殻を捨てると、屋根裏の女の一人住いも仲々いいものだと思った。
「小父さん、今日は少し高く買って頂戴ね。少し遠くまで行くんだから……」この動坂の古本屋の爺さんは、いつものように人のいい笑顔を
「一番今
「へえ……スチルネルの自我経ですか、一円で戴きましょう。」
私は二枚の五十銭銀貨を手のひらに載せると、両方の
本当にいつになったら、世間のひとのように、こぢんまりした食卓をかこんで、
瞼、瞼、薄ら瞑 った瞼を突いて、
きゅっと抉 って両眼をあける。
長崎の、長崎の
人形つくりはおそろしや!
きゅっと
長崎の、長崎の
人形つくりはおそろしや!
「こんな唄を知っでいますか、白秋の詩ですよ。貴女を見ると、この詩を思い出すんです。」
風鈴が、そっと私の心をなぶっていた。涼しい縁端に足を投げ出していた私は、灯のそばにいざりよって男の胸に顔を寄せた。悲しいような
(六月×日)
今日は隣の八畳の部屋に別れた男の友達の、
(六月×日)
種まく人たちが、今度文芸戦線と云う雑誌を出すからと云うので、私はセルロイド
(六月×日)
雨が細かな音をたてて降っている。
陽春二三月 楊柳斉作レ花
春風一夜入二閨闥一 楊花飄蕩落二南家一
含レ情出レ戸脚無レ力 拾二得楊花一涙沾レ臆
秋去春来双燕子 願銜二楊花一入
裏一
春風一夜入二閨闥一 楊花飄蕩落二南家一
含レ情出レ戸脚無レ力 拾二得楊花一涙沾レ臆
秋去春来双燕子 願銜二楊花一入

灯の下に横坐りになりながら、白花を恋した
「今頃どこへゆくの?」階下の小母さんは裁縫の手を休めて私を見ている。
「割引なのよ。」
「元気がいいのね……」
蛇の目の傘を拡げると、動坂の活動小屋に行ってみた。看板はヤングラジャと云うのである。私は割引のヤングラジャに恋心を感じた。太湖船の東洋的なオーケストラも雨の降る日だったので嬉しかった。だけど
「おそく上って済みません。」
「いいえ、私活動へ行って来たのよ。」
「あんまりおそいんで、置手紙をしてたとこなんです。」
別に話もない赤の他人なのだけれど、吉田さんは私に甘えてこようとしている。
「随分雨が降るのね……」
これ位白ばくれておかなければ、今夜こそどうにか爆発しそうで恐ろしかった。壁に背を凭せて、かの人はじっと私の顔を
「貴女は私を
「どうして?」
何と云う間の抜けた受太刀だろう。私の生々しい感傷の中へ巻き込まれていらっしゃるきりではありませんか……私は口の内につぶやきながら、このひとをこのままこさせなくするのも一寸淋しい気がしていた。ああ友達が欲しい。こうした優しさを持ったお友達が欲しいのだけれども……私は
いっその事、ひと思いに死にたいとも思う。かの人は私を
(六月×日)
淋しく候。くだらなく候。金が欲しく候。北海道あたりの、アカシヤの香る並樹道を一人できままに歩いてみたいものなり。
「もう起きましたか……」
珍らしく五十里さんの声が障子の外でしている。
「ええ起きていますよ。」
日曜なので五十里さんと静栄さんと三人で久しぶりに、
地球の廻転椅子に腰を掛けて
ガタンとひとまわりすれば
引きずる赤いスリッパが
片っ方飛んでしまった。
淋しいな……
オーイと呼んでも
誰も私のスリッパを取ってはくれぬ
度胸をきめて
廻転椅子から飛び降り
飛んだスリッパを取りに行こうか。
臆病な私の手はしっかり
廻転椅子にすがっている
オーイ誰でもいい
思い切り私の横面を
はりとばしてくれ
そしてはいているスリッパも飛ばしてくれ
私はゆっくり眠りたいのだ。
ガタンとひとまわりすれば
引きずる赤いスリッパが
片っ方飛んでしまった。
淋しいな……
オーイと呼んでも
誰も私のスリッパを取ってはくれぬ
度胸をきめて
廻転椅子から飛び降り
飛んだスリッパを取りに行こうか。
臆病な私の手はしっかり
廻転椅子にすがっている
オーイ誰でもいい
思い切り私の横面を
はりとばしてくれ
そしてはいているスリッパも飛ばしてくれ
私はゆっくり眠りたいのだ。
落ちつかない寝床の中で、私はこんな詩を頭に描いた。下で三時の鳩時計が鳴っている。
*
(六月×日)
世界は星と人とより成る。エミイル・ヴェルハアレンの「世界」と云う詩を読んでいるとこんな事が書いてあった。何もかもあくびばかりの世の中である。私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。人よ、
故郷より手紙が来る。
――現金主義になって、自分の口すぎ位はこっちに心配をかけないでくれ。才と云うものに
(六月×日)
前の
「あら!
井戸端で黒島
「ほんとう?」
寝そべっていた私も縁端に出てみたけれど、もう螢も何も見えなかった。
夜。隣の壺井夫婦、黒島夫婦遊びに見える。
壺井さん
「今日はとても面白かったよ。黒島君と二人で市場へ
「まあ! それはうらやましい、たしか、クヌウト・ハムスンの『飢え』と云う小説の中にも
私も夫も、壺井さんの話は一寸うらやましかった。――泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私達の長屋だろう。兵営の屍室と墓地と病院と、安カフエーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった。
「時に、明日はたけのこ飯にしないかね。」
「たけのこ盗みに行くか……」
三人の男たちは路の向うの
(六月×日)
美しい透きとおった空なので、丘の上の緑を見たいと云って、久し振りに貧しい私達は散歩に出る話をした。
ああ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなのだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであると云う事を、私は生活にかまけて忘れておりました。白い前垂を掛けたまま、竹藪や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りると、蒸汽船のような工場の音がしていた。ああ
「貴女! 随分さっきから立っていらっしゃいますが、何か心配ごとでもあるのではありませんか。」
今さきから、じろじろ私を見ていた二人の老婆が、馴々しく近よって来ると私の
川添いのその天理教の本部は、いかにも涼しそうに庭に水が打ってあって、
「お国はどちらでいらっしゃいますか?」
白い着物を着た中年の神主が、私にアンパンと茶をすすめながら、私の侘しい姿を見てたずねた。
「別に国と云って定まったところはありませんけれど、原籍は鹿児島県東桜島です。」
「ホウ……随分遠いんですなあ……」
私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを一つ
「お宅に少しばかりお米はありませんか?」
人のいい壺井さんの細君も、自分達の生活にへこたれてしまっているのか、私のそばに横になると、一握の米を茶碗に入れたのを持ってきて、生きる事が
「たい子さんとこは、信州から米が来たって云っていたから、あそこへ行って見ましょうか。」
「そりゃあ、ええなあ……」
そばにいた伝治さんの細君は、両手を打って子供のように喜んでいる。ほんとうに素直な人だ。
(六月×日)
久し振りに東京へ出て行った。新潮社で加藤武雄さんに会う。文章
隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であろう
生活の中の食うと云う事が満足でなかったら
描いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。
両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか
いつまでも人形を抱いて沈黙 っている私ではない
お腹がすいても
職がなくっても
ウオオ! と叫んではならないのですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。
血をふいて悶死 したって
ビクともする大地ではないのです
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるけれど
私の知らない世間は何とまあ
ピヤノのように軽やかに美しいのでしょう。
そこで初めて
神様コンチクショウと呶鳴りたくなります。
肉親とか
恋人とか
それが何であろう
生活の中の食うと云う事が満足でなかったら
描いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。
両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか
いつまでも人形を抱いて
お腹がすいても
職がなくっても
ウオオ! と叫んではならないのですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。
血をふいて
ビクともする大地ではないのです
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるけれど
私の知らない世間は何とまあ
ピヤノのように軽やかに美しいのでしょう。
そこで初めて
神様コンチクショウと呶鳴りたくなります。
長いあいだ電車にゆられていると、私は又何の慰めもない家へ帰らなければならないのがつまらなくなってきた。詩を書く事がたった一つのよき慰めなり。夜、飯田さんとたい子さんが唄いながら遊びに見えた。
俺んとこの
あの美しい
ケッコ ケッコ鳴くのが
ほしんだろう……。
あの美しい
ケッコ ケッコ鳴くのが
ほしんだろう……。
二人はそんな唄をうたっている。
壺井さんのとこで、青い豆御飯を貰った。
(六月×日)
今夜は太子堂のおまつりで、家の縁側から、前の広場の相撲場がよく見えるので、皆背のびをして集まって見る。「西! 前田河ア」と云う行司の呼び声に、縁側へ爪先立っていた私たちはドッと吹き出して哄笑した。知った人の名前なんかが呼ばれるととてもおかしくて
(六月×日)
萩原さんが遊びにみえる。
酒は呑みたし金はなしで、敷蒲団を一枚屑屋に一円五十銭で売って
平手もて
吹雪にぬれし顔を拭く
友共産を主義とせりけり。
酒呑めば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ。
吹雪にぬれし顔を拭く
友共産を主義とせりけり。
酒呑めば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ。
ああ若い私達よ、いいじゃありませんか、いいじゃないか、唄を知らない人達は、啄木を高唱してうどんをつつき焼酎を呑んでいる。その夜、萩原さんを皆と一緒におくって行って、夫が帰って来ると蚊帳がないので私達は部屋を締め切って蚊取り線香をつけて寝につくと、
「オーイ起きろ起きろ!」と大勢の足音がして、麦ふみのように地ひびきが頭にひびく。
「寝たふりをするなよオ……」
「起きているんだろう。」
「起きないと火をつけるぞ!」
「オイ! 大根を抜いて来たんだよ、うまいよ、起きないかい……」
飯田さんと萩原さんの声が入りまじって聞えている。私は笑いながら沈黙っていた。
(七月×日)
朝、寝床の中ですばらしい新聞を読んだ。
折目がついていても浴衣は浴衣なのだ。私は浴衣を着て、空想で胸をいっぱいふくらませて歩いている。
「パンをおつくりになる、あの林さんでいらっしゃいましょうか?」
女中さんがそんな事を私にきいた。どういたしまして、パンを戴きに上りました林ですと心につぶやきながら、
「
「そうですか、今愛国婦人会の方へ行っていらっしゃいますけれど、すぐお帰りですから。」
女中さんに案内をされて、六角のように突き出た窓ぎわのソファに私は腰をかけて、美しい幽雅な庭に見いっていた。青いカーテンを透かして、風までがすずやかにふくらんではいって来る。
「どう云う御用で……」
やがてずんぐりした夫人は、
「あのお先きにお風呂をお召しになりませんか……」
女中が夫人にたずねている。私は不良少女だと云う事が
「新聞で何か書いたようでしたが、ほんのそう云う事業に手助けをしているきりで、お困りのようでしたら、九段の婦人会の方へでもいらっして、仕事をなさってはいかがですか……」
私は程よく
「ねえ、洋食を食べない?」
「ヘエ?」
「カレーライス、カツライス、それともビフテキ?」
「金があるのかい?」
「うん、だって背に腹はかえられないでしょう、だから晩に洋食を取れば、明日の朝までは金を取りにこないでしょう。」
洋食をとって、初めて肉の匂いをかぎ、ずるずるした油をなめていると、めまいがしそうに嬉しくなってくる。一口位は残しておかなくちゃ変よ。腹が少し豊かになると、生きかえったように私達は私達の思想に青い芽を
私は
イビツな男とニンシキフソクの女では、一生たったとて白い御飯が食えそうにもありません。
*
(七月×日)
胸に
「お母アさん! お母アさん!」
何もかも厭になってしまって、二階の女給部屋の隅に寝ころんでいる。鼠が群をなして走っている。暗さが眼に馴れてくると、雑然と風呂敷包みが石塊のように四囲に転がっていて、寝巻や帯が、海草のように壁に乱れていた。煮えくり返るようなそうぞうしい階下の雑音の上に、おばけでも出て来そうに、女給部屋は淋しいのだ。ドクドクと流れ落ちる涙と、ガスのように抜けて行く悲しみの
しゅうねく強く
家の貧苦、酒の癖、遊怠 の癖、
みなそれだ。
ああ、ああ、ああ
切りつけろそれらに
とんでのけろ、はねとばせ
私が何べん叫びよばった事か、苦しい、
血を吐くように芸術を吐き出して狂人のように踊りよろこぼう。
家の貧苦、酒の癖、
みなそれだ。
ああ、ああ、ああ
切りつけろそれらに
とんでのけろ、はねとばせ
私が何べん叫びよばった事か、苦しい、
血を吐くように芸術を吐き出して狂人のように踊りよろこぼう。
薄暗い部屋の中に、私は
十方
「オイ! ゆみちゃんはどこへ行ったんだい?」
階下でお上さんが呼んでいる。
「ゆみちゃん居るの? お上さんが呼んでてよ。」
「歯が痛いから寝てるって云って下さい。」
八重ちゃんが乱暴に階下へ降りて行くと、漠々とした当のない痛い気持ちが、いっそ死んでしもうたならと唄い出したくなっている。メフィストフェレスがそろそろ踊り出して来たぞ! 昔おえらいルナチャルスキイとなん申します方が、――生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞや? と云っている。ルナチャルスキイならずとも、生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞやである。落ちたるマグダラのマリヤよ、自己保存の能力を叩きこわしてしまうのだ。私は頭の下に両手を入れると、死ぬる空想をしていた。毒薬を呑む空想をした。「お女郎を買いに行くより、お前が好きになった。」何と人生とはくだらなく朗かである事だろう。どうせ故郷もない私、だが一人の母のことを考えると切なくなって来る。泥棒になってしまおうかしら、女馬賊になってしまおうかしら……。別れた男の顔が、熱い
「オイ! ゆみちゃん、ひとが足りない事はよく知ってんだろう、少々位は我慢して階下へ降りて働いておくれよ。」
お上さんが、声を
(七月×日)
朝から雨なり。
造ったばかりのコートを貸してやった女は、とうとう帰って来なかった。一夜の足留りと、コートを借りて、
「あんたは人がいいのよ、昔から人を見れば泥棒と思えって言葉があるじゃないの。」
八重ちゃんが白いくるぶしを
「ヘエ! そんな言葉があったのかね。じゃ私も八重ちゃんの洋傘でも盗んで逃げて行こうかしら。」
私がこんなことを云うと、寝ころんでいた由ちゃんが、
「世の中が泥棒ばかりだったら痛快だわ……」と云っている。由ちゃんは十九で、サガレンで生れたのだと白い肌が自慢だった。八重ちゃんが肌を抜いでいる栗色の皮膚に、窓ガラスの青い雨の影が、細かく写っている。
「人間ってつまらないわね。」
「でも、木の方がよっぽどつまらないわ。」
「火事が来たって、大水が来たって、木だったら逃げられないわよ……」
「馬鹿ね!」
「ふふふふ誰だって馬鹿じゃないの――」
女達のおしゃべりは夏の青空のように朗かである。ああ私も鳥か何かに生れて来るとよかった。電気をつけて、みんなで
「ゆみちゃん、あんたいい人があるんじゃない? 私そう
「あったんだけれど遠くへ行っちゃったのよ。」
「素敵ね!」
「あら、なぜ?」
「私は別れたくっても、別れてくんないんですもの。」
八重ちゃんは空になったスプーンを
「そんな筈ないわ、
夜。酒を呑む。酒に
(七月×日)
心が留守になっているとつまずきが多いものだ。激しい雨の中を、私の自動車は八王子街道を走っている。
もっと早く!
もっと早く!
たまに自動車に乗るといい気持ちなり。雨の町に燈火がつきそめている。
「どこへ行く?」
「どこだっていいわ、ガソリンが切れるまで走ってよ。」
運転台の松さんの頭が少し禿げかけている。若禿げかしら。――午後からの公休日を所在なく消していると、自分で車を持っている運転手の松さんが、自動車に乗せてやろうと云ってくれる。
「こんな雨じゃア道へ出る事も出来ないわね。」
松つぁんは沈黙って煙草を吸っている。こんな善良そうな男に、芝居もどきのコンタンはあり得ない。雨は冷たくていい気持ちだった。雷も雨も破れるような響きをしている。自動車は雨に打たれたまま夜の櫟林にとまってしまった。
私は何かせっぱつまったものを感じた。機械油くさい松さんの菜っぱ服をみていると、私はおかしくもない笑いがこみ上げて来て仕方がない。十七八の娘ではないもの。私は逃げる道なんか上手に心得ている。
私がつくろって言った事は、「あんたは、まだ私を愛してるとも云わないじゃないの……暴力で来る愛情なんて、私は大嫌いよ。私が可愛かったら、もっとおとなしくならなくちゃア厭!」
私は男の腕に
遠くで
(八月×日)
女給達に手紙を書いてやる。
秋田から来たばかりの、おみきさんが鉛筆を嘗めながら眠りこんでいる。酒場ではお上さんが、一本のキング・オブ・キングスを清水で七本に利殖しているのだ。埃と、むし暑さ、氷を沢山呑むと、髪の毛が抜けると云うけれど、氷を飲まない由ちゃんも、冷蔵庫から氷の塊を盗んで来ては、一人でハリハリ噛んでいる。
「一寸! ラヴレーターって、どんな書出しがいいの……」
八重ちゃんが真黒な眼をクルクルさせて赤い唇を鳴らしている。秋田とサガレンと、鹿児島と千葉の田舎女達が、店のテーブルを囲んで、遠い古里に手紙を書いているのだ。
今日は街に出てメリンスの帯を一本買うなり。一円二銭――八尺求める――。何か落ちつける職業はないものかと、新聞の案内欄を見てみるけれどいい処もない。いつもの医専の学生の群がはいって来る。ハツラツとした男の体臭が
二階では由ちゃんが、サガレン時代の
「世の中は面白くないね。」
「ちっともね……」
私はお由さんの白い肌を見ていると、妙に悩ましい気持ちだった。
「私は、これでも子供を二人も産んだのよ。」
お由さんはハルピンのホテルの地下室で生れたのを振り出しに、色んなところを歩いて来たらしい。子供は朝鮮のお母さんにあずけて、新らしい男と東京へ流れて来ると、お由さんはおきまりの男を養うためのカフエー生活だそうだ。
「着物が一二枚出来たら、銀座へ乗り出そうかしらと思っているのよ。」
「こんなこと、いつまでもやる仕事じゃないわね、体がチャチになってよ。」
春夫の東窓残月の記を読んでいると、何だか、何もかも夢のようにと一言眼を射た優しい柔かい言葉があった。何もかも夢のように……、落ちついてみたいものなり。キハツで紫の
「そんなほん面白いの。」
「うん、ちっとも。」
「いいほんじゃないの……私高橋おでんの小説読んだわ。」
「こんなほんなんか、自分が憂鬱になるきりよ。」
(八月×日)
よそへ行って外のカフエーでも探してみようかと思う日もある。まるでアヘンでも吸っているように、ずるずるとこの仕事に溺れて行く事が悲しい。毎日雨が降っている。
――ここに吾等は芸術の二ツの道、二ツの理解を見出す。人間が
何の条件もなく、一カ月三十円もくれる人があったら、私は満々としたいい生活が出来るだろうと思う。
*
(十月×日)
一尺四方の四角な天窓を眺めて、初めて紫色に澄んだ空を見たのだ。秋が来た。コック部屋で御飯を食べながら、私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。秋はいいな。今日も一人の女が来ている。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女なり。ああ厭になってしまう、なぜか人が恋しい。――どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいい私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようなものだ。
(十月×日)
広い
冷たい涙が
「虫が鳴いてるわよ。」そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たいわね。」とお秋さんが云う。
梯子段の下に枕をしていたお俊さんまでが、「へん、あの人でも思い出したかい……」と云った。――皆淋しいお山の
(十月×日)
少しばかりのお小遣いが
隣の本屋で銀貨を一円札に替えてもらって田舎へ出す手紙の中に入れておいた。喜ぶだろうと思う。手紙の中からお札が出て来る事は私でも嬉しいもの。
ドラ焼を買って皆と食べた。
今日はひどい嵐なり。雨がとてもよく降っている。こんな日は淋しい。足が石のように固く冷える。
(十月×日)
静かな晩だ。
「お前どこだね国は?」
金庫の前に寝ている年取った主人が、この間来た俊ちゃんに話しかけていた。寝ながら他人の話を聞くのも面白いものだ。
「私でしか……樺太です。
「へえ、樺太から? お前一人で来たのかね?」
「ええ……」
「あれまあ、お前はきつい女だねえ。」
「長い事、函館の青柳町にもいた事があります。」
「いい所に居たんだね、俺も北海道だよ。」
「そうでしょうと思いました。言葉にあちらの
啄木の歌を思い出して私は俊ちゃんが好きになった。
函館の青柳町こそ悲しけれ
友の恋歌
矢車の花。
友の恋歌
矢車の花。
いい歌だと思う。生きている事も愉しいではありませんか。
(十月×日)
お母さんが例のリュウマチで、体具合が悪いと云って来た。もらいがちっとも無い。
客の切れ間に童話を書いた。題「魚になった子供の話」十一枚。何とかして国へ送ってあげよう。老いて金もなく頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。可哀想なお母さん、ちっとも金を無心して下さらないので余計どうしていらっしゃるかと心配しています。
と思う。
「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいいよ。」
三年もこの家で女給をしているお計ちゃんが男のような口のききかたで私をさそってくれた。
「ええ……行きますとも、
私はそれまで少し金を貯めようと思う。こんな処の女達の方がよっぽど親切で思いやりがあるのだ。
「私はねえ、もう愛だの恋だの、
お計さんの話を聞いていると、焦々した気持ちが、急に明るくなってくる。素敵にいい人だ。
(十月×日)
ガラス窓を眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。今日は少しかせいだ。俊ちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風器の台に腰を掛けて、憂鬱そうに身の上話をしていたが、正直な人と思った。浅草の大きなカフエーに居て、友達にいじめられて出て来たんたけれど、浅草の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいいって云ったので来たのだと云っていた。
お計さんが、「おい、ここは錦町になってるんだよ。」と云ったら、「あらそうかしら……」とつまらなそうな顔をしていた。この家では一番美しくて、一番正直で、一番面白い話を持っていた。
(十月×日)
仕事を終ってから湯にはいるとせいせいする気持ちだ。広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が洗湯をつかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいつまでも風呂を楽しむ事が出来た。湯につかっていると、朝から一寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりとしてしまう。秋ちゃんが唄い出すと、私は
この秋ちゃんについては面白い話がある。
秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食組の大学生達は、マーガレットのように秋ちゃんをカンゲイした。秋ちゃんは十九で処女で大学生が好きなのだ。私は皆の後から秋ちゃんのたくみに動く眼を見ていたけれど、眼の縁の黒ずんだ、そして生活に疲れた衿首の
その来た晩に、皆で風呂にはいる時だった、秋ちゃんは侘しそうにしょんぼり廊下の隅に何時までも立っていた。
「おい! 秋ちゃん、風呂へはいって汗を流さないと体がくさってしまうよ。」
お計さんは歯ブラシを使いながら大声で呼びたてると、やがて秋ちゃんは手拭で胸を隠しながら、そっと二坪ばかりの風呂へはいって来た。
「お前さんは、赤ん坊を生んだ事があるんだろう?」お計ちゃんがそんな事を
庭は一面に真白だ!
お前忘れやしないだろうね。ルューバ? ほら、あの長い並木道が、まるで延ばした帯皮のように、何処までも真直ぐに長く続いて、月夜の晩にはキラキラ光る。
お前覚えているだろう? 忘れやしないだろう?
…………
そうだよ。この桜の園まで借金のかたに売られてしまうのだからね、どうも不思議だと云って見た処で仕方がない……。と、桜の園のガーエフの独白を、別れたあのひとはよく云っていたものだ。私は何だか塩っぽい追憶に
「ええ私ね、二ツになる男の子があるのよ。」
秋ちゃんは何のためらいもなく、乳房を開いて勢いよく湯煙をあげて風呂へはいった。
「うふ、私、処女よもおかしなものさね。私しゃお前さんが来た時から睨んでいたのよ。だがお前さんだって何か悲しい事情があって来たんだろうに、亭主はどうしたの。」
「肺が悪くて、赤ん坊と家にいるのよ。」
不幸な女が、あそこにもここにもうろうろしている。
「あら! 私も子供を持った事があるのよ。」
肥ってモデルのようにしなしなした手足を洗っていた俊ちゃんがトンキョウに叫んだ。
「私のは三月目でおろしてしまったのよ。だって
「まあ……」
「えらいね、あんたは……」
仲間らしい讃辞がしばし
(十月×日)
「寝すぎたよ、早くしないと駄目だわよ。」
湯殿に二人の荷物を運ぶと、私はホッとしたのだ。博多帯を音のしないように締めて、髪をつくろうと、私は二人分の下駄を店の土間からもって来た。朝の七時だと云うのに、料理場は鼠がチロチロしていて、人のいい主人の
「まあこんなにあるの……」
俊ちゃんはお上りさんのような恰好で、蛇の目の傘と空色のパラソルを持ってくる。それに
「大丈夫よ! あんな家なんか出て来た方がいいのよ。自分の意志通りに動けば私は後悔なんてしない事よ。」
「元気を出して働くわねえ。あんたは一生懸命勉強するといいわ……」
私は目を伏せていると、涙があふれて仕方がなかった。たとえ俊ちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであったとしても、今のたよりない身には只わけもなく嬉しかった。ああ! 国へ帰りましょう。……お母さんの胸の中へ走って帰りましょう……自動車の窓から朝の健康な青空を見上げた。走って行く屋根を見ていた。鉄色にさびた街路樹の
うらぶれて異土のかたいとなろうとも
古里は遠きにありて思うもの……
古里は遠きにありて思うもの……
かつてこんな詩を何かで読んで感心した事があった。
(十月×日)
秋風が吹くようになった。俊ちゃんは先の御亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。
「寒くなるから……」と云って、
「飯を食わせて下さい。」
眉をひそめる人達の事を思うと、いっそ荒海のはげしいただなかへ身を投げましょうか。夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が階下から聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって来て、遠く明るい
「又、料理店でも行ってかせぐかな。」
切なくあきらめてしまった私は、おきゃがりこぼしのだるまのように、変にフラフラした体を起して、歯ブラシや石鹸や手拭を袖に入れると、私は風の吹く夕べの街へ出て行った――。女給入用のビラの出ていそうなカフエーを次から次へ野良犬のように尋ねて、只食う
*
(十月×日)
焼栗の声がなつかしい頃になった。廓を流して行く焼栗屋のにぶい声を聞いていると、妙に淋しくなってしまって、暗い部屋の中に私は一人でじっと窓を見ている。私は小さい時から、冬になりかけるとよく歯が痛んだものだ。まだ母親に甘えている時は、畳にごろごろして泣き叫び、ビタビタと梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくりをして泣いている私だった。だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした侘しいカフエーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思い出してくる。
水っぽい眼を向けてお話をする神様は、歪んだ窓外の飄々としたあのお月様ばかりだ……。
「まだ痛む?」
そっと上って来たお君さんの大きいひさし髪が、月の光りで、くらく私の上におおいかぶさる。今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと
(十月×日)
風が吹いている。
夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を
のれん越しにすがすがしい
「私は四谷で生れたのだけれど、十二の時、よその小父さんに連れられて、
客が飲み食いして行った後の、こぼれた酒で、テーブルに字を書きながら、可愛らしいお初ちゃんは、重たい口で、こんな事を云った。もう一人私より一日早くはいったお君さんは背の高い母性的な、気立のいい女だった。廓の出口にあるこの店は、案外しっとり落ちついていて、私は二人の女達ともじき仲よくなれた。こんな処に働いている女達は、初めはどんなに意地悪くコチコチに用心しあっていても、仲よくなんぞなってくれなくっても、一度何かのはずみで真心を見せ合うと、他愛もなくすぐまいってしまって、十年の知己のように、姉妹以上になってしまうのだ。客が途絶えてくると、私達はよくかたつむりのようにまあるくなって話した。
(十一月×日)
どんよりとした空である。君ちゃんとさしむかいで、じっとしていると、むかあしどこかでかいだ事のある花の匂いがする。夕方、電車通りの風呂から帰って来ると、いつも呑んだくれの大学生の水野さんが、初ちゃんに酒をつがして呑んでいた。「あんたはとうとう裸を見られたんですってよ。」お初ちゃんが笑いながら鬢窓に
「あんたが風呂に行くとすぐ水野さんが来て、あんたの事訊いたから、風呂って云ったの。」
呑んだくれの大学生は、風のように細い手を振りながら、頭をトントン叩いていた。
「嘘だよ!」
「アラ! 今そう言ったじゃないの……水野さんてば、電車通りへいそいで行ったから、どうしたのかと思ってたら、帰って来て、水野さんてば、女湯をあけたんですって、そしたら番台でこっちは女湯ですよッ……て言ったってさ、そしたら、ああ病院とまちがえましたってじっとしてたら丁度あんたが、裸になった処だって、水野さんそれゃあ大喜びなの……」
「へん! 随分助平な話ね。」
私はやけに頬紅を刷くと、大学生は薄い
(十一月×日)
若い姉さんなぜ泣くの
薄情男が恋しいの……。
薄情男が恋しいの……。
誰も彼も、誰も彼も、私を笑っている。
「キング・オブ・キングスを十杯飲んでごらん、十円のかけだ!」
どっかの呑気坊主が、厭に頭髪を光らせて、いれずみのような十円札を、卓子にのせた。
「何でもない事だわ。」私はあさましい姿を白々と電気の下に
歌うをきけば梅川よ
しばし情 を捨てよかし
いずこも恋にたわぶれて
それ忠兵衛の夢がたり
しばし
いずこも恋にたわぶれて
それ忠兵衛の夢がたり
詩をうたって、いい気持ちで、私は窓
やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るるその姿
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るるその姿
好きな歌なり。ほれぼれと涙に溺れて、私の体と心は遠い遠い地の果てにずッとあとしざりしだした。そろそろ時計のねじがゆるみ出すと、例の月はおぼろに白魚の声色屋のこまちゃくれた子供が来て、「ねえ旦那! おぼしめしで……ねえ旦那おぼしめしで……」とねだっている。
もうそんな影のうすい不具者なんか出してしまいなさい! 何だかそんな
(十一月×日)
奥で三度御飯を食べると、主人のきげんが悪いし、と云って客におごらせる事は大きらいだ。二時がカンバンだって云っても、
「厭になってしまうわ。……」
初ちゃんは袖をビールでビタビタにしたのを絞りながら、呆然とつっ立っていた。
「ビール!」
もう四時も過ぎて、ほんとになつかしく、遠くの方で鶏の鳴く声がしている。新宿駅の汽車の汽笛が鳴ると、一番最後に、私の番で銀流しみたいな男がはいって来た。
「ビールだ!」
仕方なしに、私はビールを抜いて、コップになみなみとついだ。厭にトゲトゲと天井ばかりみていた男は、その一杯のビールをグイと呑み干すと、いかにも空々しく、「何だ! えびすか、気に喰わねえ。」と、捨ぜりふを残すと、いかにもあっさりと、霧の濃い
「ビールが呑みたきゃ、ほら呑まして上げるよッ。」
けたたましい音をたてて、ビールびんは、思い切りよく、こなごなにこわれて、しぶきが飛んだ。
「何を!」
「馬鹿ッ!」
「俺はテロリストだよ。」
「へえ、そんなテロリストがあるの……案外つまんないテロリストだね。」
心配して走って来たお君ちゃんや、二三人の自動車の運転手達が来ると、面白いテロリストはあわてて路地の中へ消えて行ってしまった。こんな商売なんて止めてしまいたいと思う……。それでも、北海道から来たお父さんの手紙には、今は帰る旅費もないから、少しでもよい送ってくれと云う長い手紙だ。寒さには耐えられないお父さん、どうしても四五十円は送ってあげなければならぬ。少し働いたら、私も北海道へ渡って、お父さん達といっそ行商してまわってみようかしらとも思う。おでん屋の屋台に首を突っ込んで、
*
(十二月×日)
浅章はいい処だ。
浅草はいつ来てもよいところだ……。テンポの早い灯の中をグルリ、グルリ、私は放浪のカチュウシャです。長いことクリームを塗らない顔は瀬戸物のように固くなって、安酒に酔った私は誰もおそろしいものがない。ああ一人の酔いどれ女でございます。酒に酔えば泣きじょうこ、
早く年をとって、年をとる事はいいじゃないの。酒に酔いつぶれている自分をふいと反省すると、大道の猿芝居じゃないけれど全く頬かぶりをして歩きたくなってくる。
浅草は酒を呑むによいところ。浅草は酒にさめてもよいところだ。一杯五銭の甘酒、一杯五銭のしる粉、一
(十二月×日)
朝の寝床の中でまず煙草をくゆらす事は淋しがりやの女にとってはこの上もないなぐさめなのです。ゆらりゆらり輪を描いて浮いてゆくむらさき色のけむりは愉しい。お天陽様の光りを頭いっぱい浴びて、さて今日はいい事がありますように……。赤だの黒だの桃色だの黄いろだのの、疲れた着物を三畳の部屋いっぱいぬぎちらして、女一人のきやすさに、うつらうつら私はひだまりの亀の子のようだ。カフエーだの、牛屋だの、めんどくさい事よりも、いっそ屋台でも出しておでん屋でもしようかと思う。誰が笑おうと彼が悪口を云おうと、赤い尻からげで、あら、えっさっさだ! 一ツ屋台でも出して何とかこの年のけじめをつけてみたいものだ。コンニャク、がんもどき、竹輪につみれ、辛子のひりりッとしたのに、口にふくむような酒をつかって、青々としたほうれん草のひたしですか、元気を出しましょう。だが、あるところまで来ると私はペッチャンコに崩れてしまう。たとえそれがつまらない事であっても、そんな事の空想は、子供のようにうれしくなるものだ。
貧乏な父や母にはすがるわけにもゆかないし、と云って転々と働いたところで、月に本が一二冊買えるきりだ。わけもなく飲んで食ってそれで通ってしまう。三畳の部屋をかりて最小限度の生活はしても貯えもかぼそくなってしまった。こんなに
(十二月×日)
お君さんが誘いに来て、二人は又何かいい商売をみつけようと、小さい新聞の切抜きをもって横浜行きの省線に乗った。今まで働いていたカフエーが
「久し振りよ、海を見るのは……」
「寒いけれど、いいわね海は……」
「いいとも、こんなに男らしい海を見ていると、裸になって飛びこんでみたいわね。まるで青い色がとけてるようじゃないの。」
「ほんと! おっかないわ……」
ネクタイをひらひらさせた二人の西洋人が
「ホテルってあすこよ!」
目のはやい君ちゃんがみつけたのは、白い
「かえりましょうよ!」
「ホテルってこんなの……」
朱色の着物を着た可愛らしい女が、ホテルのポーチで黒い犬をあやして一人でキャッキャッと笑っていた。
「がっかりした……」
二人共又押し沈黙って向うの寒い茫漠とした海を見ている。烏になりたい。小さいカバンでもさげて旅をするといいだろうと思う。君ちゃんの日本風なひさし髪が風に吹かれていて、雪の降る日の柳のようにいじらしく見えた。
(十二月×日)
風が鳴る白い空だ!
冬のステキに冷たい海だ
狂人だってキリキリ舞いをして
目のさめそうな大海原だ
四国まで一本筋の航路だ。
毛布が二十銭お菓子が十銭
三等客室はくたばりかけたどじょう鍋 のように
ものすごいフットウだ。
しぶきだ雨のようなしぶきだ
みはるかす白い空を眺め
十一銭在中の財布を握っていた。
ああバットでも吸いたい
オオ! と叫んでも
風が吹き消して行くよ。
白い大空に
私に酢を呑ませた男の顔が
あんなに大きく、あんなに大きく
ああやっぱり淋しい一人旅だ!
冬のステキに冷たい海だ
狂人だってキリキリ舞いをして
目のさめそうな大海原だ
四国まで一本筋の航路だ。
毛布が二十銭お菓子が十銭
三等客室はくたばりかけたどじょう
ものすごいフットウだ。
しぶきだ雨のようなしぶきだ
みはるかす白い空を眺め
十一銭在中の財布を握っていた。
ああバットでも吸いたい
オオ! と叫んでも
風が吹き消して行くよ。
白い大空に
私に酢を呑ませた男の顔が
あんなに大きく、あんなに大きく
ああやっぱり淋しい一人旅だ!
腹の底をゆすぶるように、遠くで蒸汽の音が鳴っている。鉛色によどんだ小さな渦巻が幾つか海のあなたに一ツ一ツ消えて行って、
あんまり昨日の空が青かったので、久し振りに、古里が恋しく、私は無理矢理に汽車に乗ってしまった。そうして今朝はもう
「お客さん! 御飯ぞなッ!」
誰もいない夜明けのデッキの上に、ささけた私の空想はやっぱり古里へ背いて都へ走っている。旅の古里ゆえ、別に錦を飾って帰る必要もないのだけれども、なぜか侘しい気持ちがいっぱいだった。穴倉のように暗い三等船室に帰って、自分の毛布の上に坐っていると
ねんねころ市
おやすみなんしょ
朝もとうからおきなされ
よいの浜風ア身にしみますで
夜サは早よからおやすみよ。
おやすみなんしょ
朝もとうからおきなされ
よいの浜風ア身にしみますで
夜サは早よからおやすみよ。
あの濁った都会の片隅で疲れているよりも、こんなにさっぱりした海の上で、自由にのびのびと息を吸える事は、ああやっぱり生きている事もいいものだと思う。
(十二月×日)
真黄いろに
「お母さん! 今年は随分雪が早いね。」
「ああ。」
「お父さんも寒いから難儀しているでしょうね。」
父が北海道へ行ってから、もう四カ月あまりになる、遠くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来春だと云う父のたよりが来て、こちらも随分寒くなった。屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれて、うどん屋のだしを取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。泊る客もだんだん少くなると、母は店の
「寒うなると人が動かんけんのう……」
しっかりした故郷と云うものをもたない私達親子三人が、最近に落ちついたのがこの徳島だった。女の美しい、川の
(十二月×日)
久し振りに海辺らしいお天気なり。二三日前から泊りこんでいる
「お前もいいかげんで、遠くへ行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい。お前をもらいたいと云う人があるぞな……」
「へえ……どんなひとですか?」
「実家は京都の
「…………」
「どやろ?」
「会うてみようかしら、面白いなア……」
何もかもが子供っぽくゆかいだった。田舎娘になって、初々しく顔を赤めてお茶を召し上れか、車井戸のつるべを上げたり下げたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。ああ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたちのように吸いつくしてみたいような気がする。男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ。
東京へ行きましょう。夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅への道だ。駅の時間表を見ていると涙がにじんで来て仕方がない。
(十二月×日)
赤靴のひもをといてその男が座敷へ上って来ると、妙に胃が悪くなりそうで、私は真正面から眉をひそめてしまった。
「あんたいくつ?」
「僕ですか、二十二です。」
「ホウ……じゃ私の方が上だわ。」
げじげじ眉で、唇の厚いその顔は、私は
月のいい夜だ、星が高く光っている。
「そこまでおくってゆきましょうか……」
この男は妙によゆうのある風景だ。入れ忘れてしまった国旗の下をくぐって、月の明るい町に出てゆくと、濁った息をフッと一時に吐く事が出来た。一丁歩いても二丁歩いても二人共だまって歩いている。川の水が妙に悲しく胸に来て私自身が浅ましくなってきた。男なんて皆火を
「じゃアさよなら、あなたいいお嫁さんおもちなさいね。」
「ハア?」
いとしい男よ、田舎の人は素朴でいい。私の言葉がわかったのかわからないのか、長い月の影をひいて隣の町へ行ってしまった。明日こそ荷づくりをして旅立ちましょう……。久し振りに家の前の燈火のついたお泊宿の行燈を見ていると、不意に頭をなぐられたように母がいとしくなってきて、私はかたぶいた
「寒いのう……酒でも呑まんかいや。」
茶の間で母と差しむかいで一合の酒にいい気持ちになっている。親子はいいものだと思う、こだわりのない気安さで母の顔を見た。鼠の多い煤けた天井の下に、又母を置いて去るのは、いじらしく可哀想になってしまう。
「あんなひとは厭だわねえ。」
「気立はいい男らしいがな……」
淋しい喜劇である。ああ、東京の友達がみんな懐しがってくれるような手紙をいっぱい書こう。
*
(一月×日)
海は真白でした
東京へ旅立つその日
青い蜜柑 の初なりを籠いっぱい入れて
四国の浜辺から天神丸に乗りました。
海は気むずかしく荒れていましたが、
空は鏡のように光って
人参 燈台の紅色が眼にしみる程あかいのです。
島での悲しみは
すっぱり捨ててしまおうと
私は冷たい汐風 をうけて
遠く走る帆船をみました。
一月の白い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさぶしくしました。
東京へ旅立つその日
青い
四国の浜辺から天神丸に乗りました。
海は気むずかしく荒れていましたが、
空は鏡のように光って
島での悲しみは
すっぱり捨ててしまおうと
私は冷たい
遠く走る帆船をみました。
一月の白い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさぶしくしました。
(一月×日)
暗い雪空だった。朝の膳の上には白い味噌汁に高野豆腐に黒豆がならんでいる。何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかりなり。いっそ京都か大阪で暮してみようかと思う……。
からっぽの女は私でございます。……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ、生きてゆく美しさもない。さて残ったものは血の気の多い体ばかりだ。私は退屈すると、片方の足を曲げて、鶴のようにキリキリと座敷の中をまわってみる。長い事文字に親しまない目には、御一泊一円よりと壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。
夕方から雪が降って来た。あっちをむいても、こっちをむいても旅の空なり。もいちど四国の古里へ逆もどりしようかとも思う。とても淋しい宿だ。「
汽笛の音を聞いていると、私は窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港をながめている。青い灯をともした船がいくつもねむっている。お前も私もヴァガボンド。雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋しくなって来た。こんな夜だった。あの男は城ヶ島の唄をうたっていた。沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波が荒くなかった。二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互に見あった顔、あっけない別離だった。一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は、ピカソの画を論じ、槐多の詩を愛していた。私は頭を殴りつけている強い手の痛さを感じた。どっかで三味線の音がしている。私は呆然と坐り、いつまでも口笛を吹いていた。
(一月×日)
さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。市の職業紹介所の門を出ると、
毛布問屋は案外大きい店だった。奥行の深い、間口の広いその店は、何だか貝殻のように暗くて、働いている七八人の店員達は病的に
「東京からどうしてこっちへお出やしたん?」
「姉がいますから……」
こんな事を云ってしまった私は、又いつものめんどくさい気持ちになってしまい、断られたら断られたまでの事だと思った。女中が、美しい菓子皿とお茶を運んで来た。久しくお茶にも縁が無く、甘いものも口にしたことがない。世間にはこうしたなごやかな家もあるなり。
「一郎さん!」
女主人が静かに呼ぶと、隣の部屋から息子らしい落ちつきのある二十五六の男が、棒のようにはいって来た。
「この人が来ておくれやしたんやけど……」
役者のように細々としたその若主人は光った目で私を見た。
私はなぜか恥をかきに来たような気がして、手足が
――何をくずぐずしていますか、早くいらっしゃい。面白い商売があります。――どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいい。久し振りに私もハツラツとなる。
(一月×日)
駄目だと思っていた毛布問屋にいよいよ勤めることになった。
五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一つの飄々とした私は、もらわれて行く犬の
昼でも奥の間には、音をたててガスの燈火がついている。広いオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじっては自分の顔を叩いた。ああ幽霊にでもなりそうだ。青いガスの燈火の下でじっと両手をそろえてみていると爪の一ツ一ツが黄色に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。三時になるとお茶が出て、八ツ橋が山盛店へ運ばれて来る。店員は皆で九人いた。その中で小僧が六人、配達に出て行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さんの二人きりである。お糸さんは昔の御殿女中みたいに、眠ったような顔をしていた。関西の女は物ごしが柔かで、何を考えているのだかさっぱり判らない。
「遠くからお出やして、こんなとこしんきだっしゃろ?」
お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュと糸をしごきながら、見た事もないようなきれいな布を縫っていた。若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。――夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧達が皆どこへ引っこむのか一人一人いなくなってしまう。のりのよくきいた固い蒲団に、伸び伸びといたわるように両足をのばして天井を見上げていると、自分がしみじみあわれにみすぼらしくなって来る。お糸さんとお国さんの一緒の寝床に高下駄のような感じの黒い箱枕がちゃんと二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのしてある
(一月×日)
毎朝の芋がゆにも私は馴れてしまった。
東京で吸う赤い味噌汁はなつかしい。里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜を一緒にたいた味噌汁はいいものだ。新巻き
大根の切り口みたいな大阪のお天陽様ばかりを見ていると、塩辛いおかずでもそえて、甘味い茶漬けでも食べて見たいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく子供っぽくなって来る。
雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。――夕方、沢山荷箱を積んである
「ホウえらい霜やけやなあ。」
番頭の兼吉さんが驚いたように覗いた。
「霜やけやったら
若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれしたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。銭勘定の話ばかりしているこんな人達の間にもこんな親切がある。
(二月×日)
「お前は金の性で金は金でも、金
よく母がこんな事を云っていたけれど、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。あきっぽくて、気が小さくて、じき人にまいってしまって、ひとになじめない私の性格がいやになってくる。ああ誰もいないところで、ワアッ! と叫びあがりたいほど焦々するなり。
只一冊のワイルド・プロフォンディスにも愉しみをかけて読むなり。
――私は灰色の十一月の雨の中を
――獄中にある人々にとっては涙は日常の経験の一部分である。人が獄中にあって泣かない日は、その人の心が堅くなっている日で、その人の心が幸福である日ではない。――夜々の私の心はこんな文字を見ると、まことに痛んでしまう。お友達よ! 肉親よ! 隣人よ! わけのわからない悲しみで正直に私を嘲笑う友人が恋しくなった。お糸さんの恋愛にも祝福あれ。夜、風呂にはいってじっと天窓を見ていると、沢山星がこぼれていた。忘れかけたものをふっと思い出すように、つくづく一人ぽっちで星を見上げている。
老いぼれたような私の心に反比例して、この肉体の若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体を伸ばすと、ふいと女らしくなって来る。結婚をしようと思う。
私はしみじみと
(二月×日)
街は春の売出しで赤い旗がいっぱいひらひらしている。――女学校時代のお夏さんの手紙をもらって、私は何もかも投げ出して京都へ行きたくなっていた。
――随分苦労なすったんでしょう……という手紙を見ると、いいえどういたしまして、優しいお嬢さんのたよりは男でなくてもいいものだと思う。妙に乳くさくて、何かぷんぷんいい匂いがしている。これが一緒に学校を出たお夏さんのたよりだ。八年間の年月に、二人の間は何百里もへだたってしまっているはずだのに、お嫁に行かないで、じっと日本画家のお父さんのいい助手をして孝行をしているお夏さん、泪の出るようないい手紙だった。ちっとでも親しい人のそばに行って色々の話をしたいと思う。
お店から一日ひまをもらうと、寒い風に吹かれて京都へ発って行った。――午後六時二十分京都着。お夏さんは黒いフクフクとした肩掛に蒼白い顔を埋めてむかえに出てくれていた。
「わかった?」
「ふん。」
二人は沈黙って冷たい手を握りあった。
私にはお夏さんの姿は意外だった。まるで未亡人か何かのように、何もかも黒っぽい色で、唇だけがぐいと強く私の目を射た。
「貴女ぐらい住所の変る人はないわね、私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」
お夏さんは黒い大きな目をまたたきもさせないで私を見ている。甘えたい気持ちでいっぱいなり。
円山公園の噴水のそばを二人はまるで恋人のようによりそって歩いた。
「秋の
「行ってみましょうか!」
お夏さんは驚いたように眼をみはった。
「貴女はそれだから苦労するのよ。」
京都はいい街だ。夜霧がいっぱいたちこめた向うの立樹のところで、夜鳥が鳴いている。――下加茂のお夏さんの家の前が丁度交番になっていて、赤い燈火がついていた。門の
*
(七月×日)
丘の上に松の木が一本
その松の木の下で
じっと空を見ていた私です。
真蒼い空に老松の葉が
針のように光っていました
ああ何と云う生きる事のむずかしさ
食べる事のむずかしさ。
そこで私は
貧しい袂 を胸にあわせて
古里にいた頃の
あのなつかしい童心で
コトコト松の幹を叩いてみました。
その松の木の下で
じっと空を見ていた私です。
真蒼い空に老松の葉が
針のように光っていました
ああ何と云う生きる事のむずかしさ
食べる事のむずかしさ。
そこで私は
貧しい
古里にいた頃の
あのなつかしい童心で
コトコト松の幹を叩いてみました。
この老松の詩をふっと思い出すと、とても淋しくて、黒ずんだ緑の木立ちの間を、私はむやみに歩くのだ。――久し振りに、私の胸にエプロンもない。白粉もうすい。日傘をくるくる廻しながら、私は古里を思い出し、丘のあの老松の木を思い浮べた。――下宿にかえってくると、男の部屋には、大きな本箱が置いてあった。女房をカフエーに働かして、自分はこんな本箱を買っている。いつものように二十円ばかりの金を、原稿用紙の下に入れておくと、誰もいないきやすさに、くつろいだ気持ちで、押入れの汚れものを探してみる。
「あの、お手紙でございます。」そう云って、下宿の女中が手紙を持って来た。六銭切手をはったかなり厚い女の封書である。私は妙な気持ちで爪を
――やっぱり温泉がいいわね、とか。
――あなたの紗和子より、とか。
――あの夜泊ってからの私は、とか。
私は歯の浮くような甘い手紙に震えながらつっ立ってしまった。――温泉行きの手紙では、私もお金を用意しますけれども貴方も少しつくって下さいと書いてあるのを見ると、私はその手紙を部屋中にばらまいてやりたくなっている。原稿用紙の下にした二十円の金を袂に入れると、私はそのまま戸外に出てしまった。
あの男は、私に会うたびに、お前は薄情だとか、雑誌にかく詩や小説は、あんなに私を叩きつけたものばかりではなかったか……。私は肺病で狂人じみている、その不幸な男の為めに、あのランタンの下で、「貴方一人に身も世も捨てた……」と、唄わなくてはならなかったのだ。夕暮れの涼しい風をうけて、若松町の通りを歩いていると、新宿のカフエーにかえる気もしなかった。ヘエ! 使い果して
「貴方、私と一緒に温泉に行かない。」
私があんまり酔っぱらっているので、その夜時ちゃんは淋しい眼をして私を見ていた。
(七月×日)
ああ人生いたるところに青山ありだよ、男から
夜。
時ちゃんのお母さんが裏口へ来ている。時ちゃんに五円貸すなり。チュウインガムを噛むより味気ない世の中、何もかもが吸殻のようになってしまった。貯金でもして、久し振りに母の顔でもみてこようかしらと思う。私はコック場へ行くついでにウイスキーを盗んで呑んだ。
(七月×日)
魚屋の魚のように淋しい寝ざめなり。四人の女は、ドロドロに崩れた白い液体のように、一切を休めて眠っている。私は枕元の煙草をくゆらしながら、投げ出された時ちゃんの腕を見ていた。まだ十七で肌が桃色だ。――お母さんは
それはどろどろの街路であった
こわれた自動車のように私はつっ立っている
今度こそ身売りをして金をこしらえ
皆を喜ばせてやろうと
今朝はるばると幾十日目で又東京へ帰って来たのではないか。
どこをさがしたって買ってくれる人もないし
俺は活動を見て五十銭のうな丼 を食べたらもう死んでもいいと云った
今朝の男の言葉を思い出して
私はさめざめと涙をこぼしました。
男は下宿だし
私が居れば宿料がかさむし
私は豚のように臭みをかぎながら
カフエーからカフエーを歩きまわった。
愛情とか肉親とか世間とか夫とか
脳のくさりかけた私には
みんな縁遠いような気がします。
叫ぶ勇気もない故
死にたいと思ってもその元気もない
私の裾にまつわってじゃれていた小猫のオテクサンはどうしたろう
時計屋のかざり窓に私は女泥棒になった目つきをしてみようと思いました。
何とうわべばかりの人間がうろうろしている事よ!
肺病は馬の糞汁 を呑むとなおるって
辛い辛い男に呑ませるのは
心中ってどんなものだろう
金だ金だ金が必要なのだ!
金は天下のまわりものだって云うけど
私は働いても働いてもまわってこない。
何とかキセキはあらわれないものか
何とかどうにか出来ないものか
私が働いている金はどこへ逃げて行くのだろう
そして結局は薄情者になり
ボロカス女になり
死ぬまでカフエーだの女中だのボロカス女になり果てる
私は働き死にしなければならないのだろうか!
病にひがんだ男は、
お前は赤い豚だと云います。
矢でも鉄砲でも飛んでこい
胸くその悪い男や女の前に
芙美子さんの腸 を見せてやりたい。
こわれた自動車のように私はつっ立っている
今度こそ身売りをして金をこしらえ
皆を喜ばせてやろうと
今朝はるばると幾十日目で又東京へ帰って来たのではないか。
どこをさがしたって買ってくれる人もないし
俺は活動を見て五十銭のうな
今朝の男の言葉を思い出して
私はさめざめと涙をこぼしました。
男は下宿だし
私が居れば宿料がかさむし
私は豚のように臭みをかぎながら
カフエーからカフエーを歩きまわった。
愛情とか肉親とか世間とか夫とか
脳のくさりかけた私には
みんな縁遠いような気がします。
叫ぶ勇気もない故
死にたいと思ってもその元気もない
私の裾にまつわってじゃれていた小猫のオテクサンはどうしたろう
時計屋のかざり窓に私は女泥棒になった目つきをしてみようと思いました。
何とうわべばかりの人間がうろうろしている事よ!
肺病は馬の
辛い辛い男に呑ませるのは
心中ってどんなものだろう
金だ金だ金が必要なのだ!
金は天下のまわりものだって云うけど
私は働いても働いてもまわってこない。
何とかキセキはあらわれないものか
何とかどうにか出来ないものか
私が働いている金はどこへ逃げて行くのだろう
そして結局は薄情者になり
ボロカス女になり
死ぬまでカフエーだの女中だのボロカス女になり果てる
私は働き死にしなければならないのだろうか!
病にひがんだ男は、
お前は赤い豚だと云います。
矢でも鉄砲でも飛んでこい
胸くその悪い男や女の前に
芙美子さんの
かつて、貴方があんまり私を
(七月×日)
「神戸にでも降りてみようかしら、何か面白い仕事が転がっていやしないかな……」
明石行きの三等車は、神戸で降りてしまう人たちばかりだった。私もバスケットを降ろしたり、食べ残りのお弁当を大切にしまったりして何だか気がかりな気持ちで神戸駅に降りてしまった。
「これで又仕事がなくて食えなきぁ、ヒンケルマンじゃないけれど、汚れた世界の罪だよ。」
暑い陽ざしだった。だが私には、アイスクリームも、氷も買えない。ホームでさっぱりと顔を洗うと、生ぬるい水を腹いっぱい呑んで、黄いろい汚れた鏡に、みずひき草のように淋しい自分の顔を写して見た。さあ矢でも鉄砲でも飛んで来いだ。別に当もない私は、途中下車の切符を大事にしまうと、
古ぼけたバスケットひとつ。
骨の折れた日傘。
煙草の吸殻よりも味気ない女。
私の捨身の戦闘準備はたったこれだけなのでございます。
砂ぼこりのなかの楠公さんの境内は、おきまりの鳩と絵ハガキ屋が出ている。私は水の
何年昔になるだろう――十五位の時だったかしら、私はトルコ人の楽器屋に奉公をしていたのを思い出した。ニイーナという二ツになる女の子のお守りで黒いゴム輪の腰高な乳母車に、よくその子供を乗っけてはメリケン波止場の方を歩いたものだった。――鳩が足元近く寄って来ている。人生鳩に生れるべし。私は、東京の生活を思い出して涙があふれた。
一生たったとて、いったい何時の日には、私が何千円、何百円、何十円、たった一人のお母さんに送ってあげる事が出来るのだろうか……、私を可愛がって下さる、行商をしてお母さんを養っている気の毒なお
「お婆さん、その豆一皿くださいな。」
五銭の白銅を置くと、しなびた手でお婆さんは私の手をはらいのけた。
「ぜぜなぞほっときや。」
このお婆さんにいくつですと聞くと、七十六だと云っていた。虫の食ったおヒナ様のようにしおらしい。
「東京はもう地震はなおりましたかいな。」
歯のないお婆さんはきんちゃくをしぼったような口をして、優しい表情をする。
「お婆さんお上りなさいな。」
私がバスケットからお弁当を出すと、お婆さんはニコニコして、口をふくらまして私の玉子焼を食べた。
「お婆さん、暑うおまんなあ。」
お婆さんの友達らしく、腰のしゃんとしたみすぼらしい老婆が店の前にしゃがむと、
「お婆はん、何ぞええ、仕事ありまへんやろかな、でもな、あんまりぶらぶらしてますよって会長はんも、ええ顔しやはらへんのでなあ、なんぞ思うてまんねえ……」
「そうやなあ、栄町の宿屋はんやけど、蒲団の洗濯があるというてましたけんど、なんぼう二十銭も出すやろか……」
「そりゃええなあ、二枚洗うてもわて食えますがな……」
こだわりのない二人のお婆さんを見ていると、こんなところにもこんな世界があるのかと、淋しくなった。
とうとう夜になってしまった。港の灯のつきそめる頃はどこにも行きばのない気持ちになってしまう。朝から汗でしめっている着物の私は、ワッと泣きたい程切なかった。これでもへこたれないか! これでもか! 何かが頭をおさえつけているようで、私はまだまだへこたれるものかと口につぶやきながら、当もなく軒をひらって歩いていると、バスケット姿が、オイチニイの薬屋よりもはかなく思えた。お婆さんに聞いた商人宿はじきにわかった。全く国へ帰っても仕様のない私なのだ。お婆さんが御飯炊きならあると云ったけれど。海岸通りに出ると、チッチッと舌を鳴らして行く船員の群が多かった。
船乗りは意気で勇ましくていいものだ。私は商人宿とかいてある行燈をみつけると、
(七月×日)
坊さん
別れて来た男のバリゾウゴンを、私は唄のように天井に投げとばして、せいいっぱい息を吸った。「オーイ、オーイ」と船員達が窓の下で呼びあっている。私は宿のお上さんに頼んで、岡山行きの途中下車の切符を除虫菊の仲買の人に一円で買ってもらうと、私は兵庫から高松行きの船に乗る事にした。
元気を出して、どんな場合にでも、弱ってしまってはならない。小さな店屋で、
*
(十月×日)
呆然として
寂しければ海中にさんらんと入ろうよ、
さんらんと飛び込めば海が胸につかえる泳げば流るる
力いっぱい踏んばれ岩の上の男。
さんらんと飛び込めば海が胸につかえる泳げば流るる
力いっぱい踏んばれ岩の上の男。
秋の空気があんまり青いので、私は白秋のこんな唄を思い出した。ああこの世の中は、たったこれだけの楽しみであったのだろうか、ヒイフウ……私は指を折って、ささやかな可哀想な自分の年齢を考えてみた。「おゆみさん! 電気つけておくれッ。」お上さんの
「とても面白かったわ、新宿の待合室で四人も私を待っていたわよ、私は知らん顔をして見ててやったの……」
その頃女給達の仲間には、何人もの客に一日の公休日を共にする約束をしては一つ場所に集合をさせてすっぽかす事が
「私、今日は妹を連れて映画を見たのよ、自腹だから、スッテンテンになってしまったわ、かせがなくちゃ場銭も払えない。」
十子は汚れたエプロンを胸にかけて、皆にお土産の甘納豆をふるまっている。
今日は月の病気。胸くるしくって、立っている事が辛い。
(十月×日)
折れた鉛筆のように、女達は皆ゴロゴロ眠っている、雑記帳のはじにこんな手紙をかいてみる。――生きのびるまで生きて来たという気持ちです。随分長い事会いませんね、神田でお別れしたきりですもの……。もう、しゃにむに淋しくてならない、広い世の中に可愛がってくれる人がなくなったと思うと泣きたくなります。いつも一人ぼっちのくせに、他人の優しい言葉をほしがっています。そして一寸でも優しくされると嬉し涙がこぼれます。大きな声で深夜の街を唄でもうたって歩きたい。夏から秋にかけて、異状体になる私は働きたくっても働けなくなって弱っています故、自然と食べる事が困難です。金が欲しい。白い御飯にサクサクと歯切れのいい
弱き者よの言葉は、そっくり私に頂戴出来るんですけれど、それでいいと思います。野生的で行儀作法を知らない私は、自然へ身を投げかけてゆくより仕方がありません。このままの状態では、国への仕送りも出来ないし、私の人に対して済まない事だらけです。私はがまん強く笑って来ました。旅へ出たら、当分田舎の空や土から、健康な息を吹きかえすまで、働いて来るつもりです。体が悪いのが、何より私を困らせます。それに又、あの人も病気ですし、
フッツリ御無沙汰をしていてすみません。
お体は相変らずですか、神経がトゲトゲしているあなたにこんな手紙を差し上げるとあなたは、ひねくれた笑いをなさるでしょう。私、実さい涙がこぼれるのです。いくら別れたと云っても、病気のあなたのことを考えると、侘しくなります。困った事や、嬉しかった思い出も、あなたのひねくれた仕打ちを考えると、恨めしく味気なくなります。一円札二枚入れて置きました。怒らないで何かにつかって下さい。あの女と一緒にいないんですってね、私が大きく考え過ぎたのでしょうか。秋になりました。私の唇も冷たく凍ってゆきます。あなたとお別れしてから……。たいさんも裏で働いています。
――オカアサン。
オカネ、オクレテ、スミマセン。
アキニ、ナッテ、イロイロ、モノイリガ、シテオクレマシタ。
カラダハ、ゲンキデショウカ。ワタシモ、ゲンキデス。コノアイダ、オクッテ、クダサッタ、ハナノクスリ、オツイデノトキニ、スコシオクッテクダサイ。センジテノムト、ノボセガ、ナオッテ、カオリガヨロシイ。
オカネハ、イツモノヨウニ、ハンヲ、オシテ、アリマスカラ、コノママキョクヘ、トリニユキナサイ。
オトウサンノ、タヨリアリマスカ、ナニゴトモ、トキノクルマデ、ノンキニシテイナサイ、ワタシモ、コトシハ、アクネンユエ、タダジットシテイマス。
ナニヨリモ、カラダヲ、タイセツニ、イノリマス。フウトウヲ、イレテオキマス、ヘンジヲクダサイ。
私は顔中を涙でぬらしてしまった。せぐりあげても、せぐりあげても泣き声が止まない。こうして一人になって、こんな
(十月×日)
窓外は愁々とした秋景色である。小さなバスケット一つに一切をたくして、私は
サンプロンむかしロオマの巡礼の
知らざる穴を出でて南す。
知らざる穴を出でて南す。
私の好きな
「ここに宿屋がありますでしょうか?」
「この先の長者町までいらっしゃるとあります。」
私は
「この辺に宿屋はありませんか?」
この砂浜にたった一人の人間であるこの
「私のうちは宿屋ではないけれど、よかったらお泊りなさい。」
何の不安もなく、その娘は私を案内してくれた。うすむらさきのなぎなたほおずきを、器用に鳴らしながら、娘は私を連れて家へ引返してくれた。
日在浜のはずれで、丁度長者町にかかった砂浜の小さな破船のような茶屋である。この茶屋の老夫婦は、気持ちよく風呂をわかしてくれたりした。こんな伸々と自然のままな姿で生きていられる世界もある。私は、都会のあの荒れた酒場の空気を思い出すさえおそろしく思った。天井には、何の魚なのか、魚の
この部屋の電気も暗ければこの旅の女の心も暗い。あんなに
(十一月×日)
遠雷のような
「これで十銭ですよ。」帰り道、娘は重そうにバケツを私の前に出してこう云った。
夜は生鰯の三バイ酢に、海草の煮つけに生玉子の御馳走だった。娘はお信さんと云って、お天気のいい日は千葉から木更津にかけて魚の干物の行商に歩くのだそうである。店で茶をすすりながら、老夫婦にお信さんと雑談をしていると、水色の
(十一月×日)
富士を見た
富士山を見た
赤い雪でも降らねば
富士をいい山だと賞めるには当らない
あんな山なんかに負けてなるものか
汽車の窓から何度も思った回想
尖 った山の心は
私の破れた生活を脅かし
私の眼を寒々と見下ろす。
富士を見た
富士山を見た
烏よ
あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け
真紅 な口でひとつ嘲笑 ってやれ
風よ!
富士は雪の大悲殿だ
ビュン、ビュン吹きまくれ
富士山は日本のイメージイだ
スフィンクスだ
夢の濃いノスタルジヤだ
魔の住む大悲殿だ。
富士を見ろ
富士山を見ろ
北斎 の描いたかつてのお前の姿の中に
若々しいお前の火花を見たけれど
今は老い朽ちた土まんじゅう
ギロギロした眼をいつも空にむけているお前
なぜ不透明な雪の中に逃避しているのだ
烏よ風よ
あの白々とさえかえった
富士山の肩を叩いてやれ
あれは銀の城ではない
不幸のひそむ雪の大悲殿だ
富士山よ!
お前に頭をさげない女がここにひとり立っている
お前を嘲笑 している女がここにいる。
富士山よ富士よ
颯々 としたお前の火のような情熱が
ビュンビュン唸って
ゴオジョウなこの女の首を叩き返すまで
私はユカイに口笛を吹いて待っていよう。
富士山を見た
赤い雪でも降らねば
富士をいい山だと賞めるには当らない
あんな山なんかに負けてなるものか
汽車の窓から何度も思った回想
私の破れた生活を脅かし
私の眼を寒々と見下ろす。
富士を見た
富士山を見た
烏よ
あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け
風よ!
富士は雪の大悲殿だ
ビュン、ビュン吹きまくれ
富士山は日本のイメージイだ
スフィンクスだ
夢の濃いノスタルジヤだ
魔の住む大悲殿だ。
富士を見ろ
富士山を見ろ
若々しいお前の火花を見たけれど
今は老い朽ちた土まんじゅう
ギロギロした眼をいつも空にむけているお前
なぜ不透明な雪の中に逃避しているのだ
烏よ風よ
あの白々とさえかえった
富士山の肩を叩いてやれ
あれは銀の城ではない
不幸のひそむ雪の大悲殿だ
富士山よ!
お前に頭をさげない女がここにひとり立っている
お前を
富士山よ富士よ
ビュンビュン唸って
ゴオジョウなこの女の首を叩き返すまで
私はユカイに口笛を吹いて待っていよう。
私はまた元のもくあみだ。胸にエプロンをかけながら二階の窓をあけに行くと、遠い向うに薄い富士山が見えた。あああの山の下を私は幾度か不幸な思いをして行き返りした事である。でもたとえ小さな旅でも、二日の外房州のあの
*
(一月×日)
カフエーで酔客にもらった指輪が思いがけなく役立って、十三円で質に入れると私と時ちゃんは、千駄木の町通りを買物しながら歩いた。古道具屋で箱火鉢と小さい茶ブ台を買ったり、沢庵や茶碗や、茶呑道具まで
寒い息を吐きながら、二人が重い荷物を両方から引っぱって帰った時は、丁度十時近かった。
「一寸! 前のうちねえ、小唄の師匠さんよ、ホラ……いいわね。」
傘さして
かざすや廓 の花吹雪
この鉢巻は過ぎしころ
紫におう江戸の春
かざすや
この鉢巻は過ぎしころ
紫におう江戸の春
目と鼻の路地向うの二階屋から、沈んだ三味線の
「お風呂は明日にして寝ましょう、上蒲団は借りたのかしら?」
時ちゃんはピシャリと障子を締めた。――敷蒲団はたいさんと私と一緒の時代のがたいさんが小堀さんのところへお嫁に行ったので残っていた。あの人は
「どうしたかしら、たい子さん?」
「あのひとも、今度こそは幸福になったでしょう。小堀さん、とても、ガンジョウないい人だそうだから、誰が来ても負けないわ……」
「いつか遊びに連れて行ってね。」
二人は、階下の小母さんから借りた上蒲団をかぶって寝た。日記をつける。
一、拾参円の内より
茶ブ台 壱円。
箱火鉢 壱円
シクラメン一鉢 参拾五銭。
飯茶わん 弐拾銭。 二個。
吸物わん 参拾銭。 二個。
ワサビヅケ 五銭。
沢庵 拾壱銭。
箸 五銭。 五人前。
茶呑道具 盆つき 壱円拾銭。
桃太郎の蓋物 拾五銭。
皿 弐拾銭。 二枚。
間代日割り 六円。(三畳九円)
火箸 拾銭。
餅網 拾弐銭。
ニュームのつゆ杓子 拾銭。
御飯杓子 参銭。
鼻紙一束 弐拾銭。
肌色美顔水 弐拾八銭。
御神酒 弐拾五銭。 一合。
引越し蕎麦 参拾銭。 階下へ。
一、壱円拾六銭 残金
茶ブ台 壱円。
箱火鉢 壱円
シクラメン一鉢 参拾五銭。
飯茶わん 弐拾銭。 二個。
吸物わん 参拾銭。 二個。
ワサビヅケ 五銭。
沢庵 拾壱銭。
茶呑道具 盆つき 壱円拾銭。
桃太郎の蓋物 拾五銭。
皿 弐拾銭。 二枚。
間代日割り 六円。(三畳九円)
火箸 拾銭。
餅網 拾弐銭。
ニュームのつゆ
御飯杓子 参銭。
鼻紙一束 弐拾銭。
肌色美顔水 弐拾八銭。
御神酒 弐拾五銭。 一合。
引越し
一、壱円拾六銭 残金
「たったこれだけじゃ、心細いわねえ……」
私は鉛筆のしんで頬っぺたを突つきながら、つんと鼻の高い時ちゃんの顔をこっちに向けて日記をつけた。
「炭はあるの?」
「炭は、階下の小母さんが取りつけの所から月末払いで取ってやるって云ったわ。」
時ちゃんは安心したように、
「大丈夫ってばさ、明日からうんと働くから元気を出して勉強してね。浅草を
「通いだと二人とも楽しみよねえ、一人じゃ御飯もおいしくないじゃないの。」
私は煩雑だった今日の日を思った。――萩原さんとこのお節ちゃんに、お米も二升もらったり、画描の
「当分二人で一生懸命働こうね、ほんとに元気を出して……」
「雑色のお母さんのところへは、月に三十円も送ればいいんだから。」
「私も少し位は原稿料がはいるんだから、
雪の音かしら、窓に何かササササと当っている音がしている。
「シクラメンって厭な匂いだ。」
時ちゃんは、枕元の紅いシクラメンの鉢をそっと押しやると、
(二月×日)
積る淡雪積ると見れば
消えてあとなき儚 なさよ
柳なよかに揺れぬれど
春は心のかわたれに……。
消えてあとなき
柳なよかに揺れぬれど
春は心のかわたれに……。
時ちゃんの唄声でふっと目を覚ますと、枕元に白い素足がならんでいた。
「あら、もう起きたの。」
「雪が降ってるのよ。」
起きると湯もわいていて、窓外の板の上で、御飯がグツグツ白く吹きこぼれていた。
「炭はもう来たのかしら?」
「階下の小母さんに借りたのよ。」
いつも台所をした事のない時ちゃんが、珍らしそうに、茶碗をふいていた。久し振りに猫の額程の茶ブ台の上で、幾年にもない
「やまと館の人達や、当分誰にもところを知らさないでおきましょうね。」
時ちゃんはコックリをして、小さな火鉢に手をかざしている。
「こんなに雪が降っても出掛ける?」
「うん。」
「じゃあ私も時事新聞の白木さんに会ってこよう。童話が行ってるから。」
「もらえたら、熱いものをこしらえといて、あっちこっち行って見るから、私はおそくなることよ。」
初めて、隣の六畳の古着屋さん夫婦にもあいさつをする。
「この家も前は道路に面していたんですよ。でも火事があってねえ、こんなとこへ引っこんじゃって……うちの前はお
私はおはぐろで歯をそめているお上さんを珍らしく見ていた。
「お妾さんか、道理で一寸見たけどいい女だったわよ。」
「でも階下の小母さんがあんたの事を、この近所には一寸居ない、いい娘ですってさ。」
二人は同じような銀杏返しをならべて雪の町へ出て行った。雪はまるで、気の抜けた
「金もうけは辛いね。」雪よドンドン降ってくれ、私が埋まる程、私はえこじに傘をクルクルまわして歩いた。どの窓にも灯のついている
だが時事のドアは面白いな。クルリクルリ、まるで水車のようだ。クルリと二度押すと、前へ逆もどりしている。郵便屋が笑っていた。何と小さな人間たちよ。ビルディングを見上げると、お前なんか一人生きてたって、死んだって同じじゃないかと云っているようだ。だけど、あのビルディングを売ったら、お米も間代も一生はらえて、古里に長い電報が打てるだろう。成金になるなんて云ってやったら邪けんな親類も、冷たい友人もみんな、驚くことだろう。あさましや芙美子よ、消えてしまえ。時ちゃんは、かじかんでこの雪の中を野良犬のように歩いているんだろうに――。
(二月×日)
ああ今晩も待ち
きちんきちんと、私にしまわせていた十円たらずのお金を、いつの間にか持って出てしまって、昨日も聞きそこなってしまったけれど、いったいどうしたのかしらと思う。
蒸してはおろし蒸してはおろしするので、うむし釜の御飯はビチャビチャしていた。
三時。
下のお上さんのブツブツ云う声に目を覚ますと、時ちゃんが酔っぱらったような大きな
「すみません!」
「さようならア時ちゃん!」
若々しい男の声が窓の下で消えると、路地口で間抜けた自動車の警笛が鳴っていた。
(二月×日)
二人共面伏せな気持ちで御飯をたべた。
「この頃は少しなまけているから、あなたは梯子段を拭いてね、私は洗濯をするから……」
「ええ私するから、ここほっといていいよ。」
寝ぶそくなはれぼったい時ちゃんの
「時ちゃん、その指輪はどうして?」
かぼそい薬指に、白い石が光って台はプラチナだった。
「その紫のコートはどうしたのよ?」
「…………」
「時ちゃんは貧乏がいやになってしまったのねえ?」
私は階下の小母さんに顔を合せる事は肌が痛いようだった。
「姉さん! 時坊は少しどうかしてますよ。」
水道の水と一緒に、小父さんの言葉が痛く胸に来た。
「近所のてまえがありまさあね、夜中に自動車をブウブウやられちゃあね、町内の
ああ御もっとも様で、洗いものをしている背中にビンビン言葉が当って来る。
(二月×日)
時ちゃんが帰らなくなって今日で五日である。ひたすら時ちゃんのたよりを待っている。彼女はあんな指輪や紫のコートに負けてしまっているのだ。生きてゆくめあてのないあの女の落ちて行く道かも知れないとも思う。あんなに、貧乏はけっして恥じゃあないと云ってあるのに……十八の彼女は紅も紫も欲しかったのだろう。私は五銭あった銅銭で駄菓子を五ツ買って来ると、床の中で古雑誌を読みながらたべた。貧乏は恥じゃあないと云ったもののあと五ツの駄菓子は、しょせん私の胃袋をさいどしてはくれぬ。手を延ばして押入れをあけて見る。白菜の残りをつまみ、白い御飯の舌ざわりを空想するなり。
何もないのだ。涙がにじんで来る。電気でもつけましょう……。駄菓子ではつまらないと見えて腹がグウグウ
食慾と性慾! 時ちゃんじゃないが、せめて一碗のめしにありつこうかしら。
食慾と性慾! 私は泣きたい気持ちで、この言葉を噛んでいた。
(二月×日)
何にも云わないでかんにんして下さい。指輪をもらった人に脅迫されて、浅草の待合に居ります。このひとにはおくさんがあるんですけれど、それは出してもいいって云うんです。笑わないで下さいね。その人は請負師で、今四十二のひとです。
着物も沢山こしらえてくれましたの、貴女の事も話したら、四十円位は毎月出してあげると云っていました。私嬉しいんです。
着物も沢山こしらえてくれましたの、貴女の事も話したら、四十円位は毎月出してあげると云っていました。私嬉しいんです。
読むにたえない時ちゃんの手紙の上に私はこんな筈ではなかったと涙が火のように
所を知らせないで。浅草の待合なんて何なのよッ。
四十二の男なんて!
きもの、きもの。
指輸もきものもなんだろう。信念のない女よ!
ああ、でも、野百合のように可憐であったあの可愛い姿、きめの柔かい桃色の肌、黒髪、あの女はまだ処女だったのに。何だって、最初のベエゼをそんな浮世のボオフラのような男にくれてしまったのだろう……。愛らしい首を曲げて、春は心のかわたれに……私に唄ってくれたあの少女が、四十二の男よ
「林さん書留ですよッ!」
珍らしく元気のいい小母さんの声に、梯子段に置いてある封筒をとり上げると、時事の白木さんからの書留だった。金二十三円也! 童話の稿料だった。当分ひもじいめをしないでもすむ。胸がはずむ、ああうれしい。神さま、あんまり幸福なせいか、かえって淋しくて仕様がない。神様神様、嬉しがってくれる相棒が四十二の男に抱かれているなんて……。
白木さんのいつものやさしい手紙がはいっている。いつも云う事ですが、元気で御奮闘御精励を祈りまつる。――私は窓をいっぱいあけて、上野の鐘を聞いた。晩はおいしい寿司でも食べましょう。
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第二部
[#改ページ]
(一月×日)
私は野原へほうり出された赤いマリ
力強い風が吹けば
大空高く
鷲 の如く飛びあがる
おお風よ叩け
燃えるような空気をはらんで
おお風よ早く
赤いマリの私を叩いてくれ
力強い風が吹けば
大空高く
おお風よ叩け
燃えるような空気をはらんで
おお風よ早く
赤いマリの私を叩いてくれ
(一月×日)
雪空。
どんな事をしてでも島へ行ってこなくてはいけない。島へ行ってあのひとと会って来よう。
「こっちが落目になったけん、馬鹿にしとるとじゃろ。」
私が一人で島へ行く事をお母さんは賛成をしていない。
「じゃア、今度島へお母さん達が行くときには連れて行って下さい。どうしても会って話して来たいもの……」
私に「サーニン」を送ってよこして、恋を教えてくれた男じゃないか、東京へ初めて連れて行ったのもあの男、信じていていいと言ったあのひとの言葉が胸に来る。――波止場には船がついたのか、低い雲の上に、船の煙がたなびいていた。
「気持ちのなくなっているものに、さっちついて行く事もないがの……サイナンと思うてお母さん達と一緒に又東京へ行った方がええ。」
「でも、一度会うて話をして来んことには、誰だって行き違いと云う事はあるもの……」
「考えてみなさい、もう去年の十一月からたよりがないじゃないかの、どうせ今は正月だもの、本気に考えがあれば来るがの、あれは少し気が小さいけん仕様がない。
私は男と初めて東京へ行った一年あまりの生活の事を思い出した。
晩春五月のことだった。散歩に行った
「二三日したら、わしも商売に行くけん、お前も一度行って会うて見るとええ。」
そろばんを入れていたお養父さんはこう言ってくれたりした。
「随分この家も古いのね。」
「あんたが生れた頃、この家は建ったんですよ。十四五年も前にゃア、まだこの道は海だったが、埋立して海がずっと向うへ行きやんした。」
明治三十七年生れのこの
「汽車から見て、この尾道はとても美しかったもんのう。」
港の町は、魚も野菜もうまいし、二度目の尾道帰りをいつもよろこんでいて、母は東京の私へ手紙をよこしていた。帰ってみると、家は違っていても、何もかもなつかしい。
「おばさんは、二三日うち島へ行きなさるな?」
「この十五日が工場の勘定日じゃけん、メリヤスを少し持って行こうと思ってますけに……」
「私のうちも船の方じゃあ仕事が日がつまんから、何か商売でもしたら云うて、
「そりゃアよかろうがな、職工はこの頃景気がよかとじゃけん、品さえよけりゃ買うぞな、商売は面白かもん私と行ってみなさい、これに手伝わせてもええぞな。」
「そいじゃ、おばさんと一緒にお願い申しましょう。」
船大工もこのごろ工賃が安くて人が多いし、寒い浜へ出るのは引きあわない話だそうな。
夕方。
ドックに勤めている金田さんが、「自然と人生」と云う本を持って来てくれる。金田さんは私の小学校友達なり。本を読む事が好きな人だ。桃色のツルツルしたメクリがついていて、表紙によしの芽のような絵が描いてあった。
――勝てば官軍、負けては賊の名をおわされて、降り積む雪を落花と
(一月×日)
島で母達と別れると、私は磯づたいに男の村の方へ行った。一円で買った菓子折を大事にかかえて
牛二匹。腐れた
「私、尾道から来たんでございますが……」
「誰をたずねておいでたんな。」
声には何かトゲトゲとした冷たさがあった。私は誰を尋ねて来たかと
「私は何も知らんけん、そのうち又誰ぞに相談しときましょう。」
「本人に会わせてもらえないでしょうか。」
奥から、あのひとのお父さんなのか、六十近い老人が
私を見ると、気の弱い男は驚いて眼をタジタジとさせていた。
「当分は、一人で働きたいと云っとるんじゃから、帰ってもおこらんで、気ながに待っておって下さい。何しろあいつの姉の云う事には、一軒の家もかまえておらん者の娘なんかもらえんと云うのだから……」
お父さんの話だ。あのひとは沈黙って首をたれていた。――どう
「お前は、長い間、苦労ばかりして来たのでよく人をうたがうけれども、子供になった気持ちで俺を信じておいで……」
一月の青く寒く光っている海辺に出ると、私はぼんやり沖を見ていた。
「婆さんが、こんなものをもらう理由はないから、返して来いと云うんだよ。」
私に追いすがった男の姿、お話にならないオドオドした姿だった。
「もらう理由がない? そう、じゃ海へでもほかして下さい、出来なければ私がします。」
男から菓子折を引き取ると、私はせいいっぱいの力をこめてそれを海へ投げ捨てた。
「とても、あの人達のガンコさには勝てないし、家を出るにしても、田舎でこそ知人の世話で仕事があるんだが、東京なんかじゃ、大学出なんか食えないんだからね。」
私は沈黙って泣いていた。東京での一年間、私は働いてこの男に心配かけないでいた心づかいを淋しく思い出した。
「何でもいいじゃありませんか、怒って私が菓子折を海へ投げたからって、貴方に家を出て下さいなんて云うんじゃありませんもの。私はそのうち又ひとりで東京へ帰ります。」
砂浜の汚い
「おくってなんかくれなくったっていいんですよ。そんな目先きだけの優しさなんてよして下さい。」
町の入口で男に別れると、体中を冷たい風が吹き荒れるような気がした。会ったらあれも言おう、これも言おうと思っていた気持ちが、もろく叩きこわされている。東京で描いていたイメージイが愚にもつかなかったと思えて、私はシャンと首をあげると、灰色に
造船所の入口には店を出したお養父さんとお母さんが、大工のお上さんと、もう店をしまいかけていた。
「オイ、この足袋は紙でこしらえたのかね、はいたと思ったらじき破れたよ。」
薬で黒く色染めしてあるので、はくとすぐピリッと破れるらしい。
「おばさん! 私はもう帰りますよ。皆おこって来そうで、おそろしいもん……」大工のお上さんは、再製品のその繻子足袋を一足七十銭に売っているんだからとても押が太かった。大工の上さんが一船先へ帰ると云うので、私も連れになって、一緒に船着場へ行く。
「さあ、船を出しますで!」
船長さんが鈴を鳴らすと、利久下駄をカラカラいわせていた大工の上さんは、桟橋と船に渡した渡し子をわたるとき、まだ半分も残っていた足袋の風呂敷包みを、コロリと海の中へ落してしまった。
「あんまり高いこと売りつけたんで、罰が当ったんだでな。」
上さんはヤレヤレと云いながら、棒の先で風呂敷包みをすくい取っていた。
皆、何もかも過ぎてしまう。船が私の通った砂浜の沖に出ると、灯のついたようなレモンの山が、暮色にかすんでしまっていた。三カ月も心だのみに空想を描いていた私だのに、海の上の潮風にさからって、いつまでも私は甲板に出ていた。
(一月×日)
「お前は考えが少しフラフラしていかん!」
お養父さんは、東京行きの信玄袋をこしらえている私の後から言った。
「でもなお父さん、こんなところへおっても仕様のない事じゃし、いずれわし達も東京へ行くんだから、早くやっても、同じことじゃがな。」
「わし達と一緒に行くのならじゃが、一人ではあぶないけんのう。」
「それに、お前は無方針で何でもやらかすから。」
御もっとも様でございます。方針なんて真面目くさくたてるだけでも信じられないじゃありませんか。方針なんてたてようもない今の私の気持ちである。大工のお上さんがバナナを買ってくれた。「汽車の中で弁当代りにたべなさいよ。」停車場の黒いさくに
「お母さん! あんたは、世間だの義理だの人情だのなんてよく云い云いしているけれども、世間だの義理だの人情だのが、どれだけ私達を助けてくれたと云うのです? 私達親子三人の世界なんてどこにもないんだからナニクソと思ってやって下さい。もうあの男ともさっぱり別れて来たんですからね。」
「親子三人が一緒に住めん云うてのう……」
「私は働いて、うんとお金持ちになりますよ、人間はおそろしく信じられないから、私は私一人でうんと身を粉にして働きますよ。」
いつまでも私の心から消えないお母さん、私は東京で何かにありついたらお母さんに電報でも打ってよろこばせてやりたいと思った。――段々陽のさしそめて来る港町をつっきって汽車は
*
(六月×日)
烈々とした太陽が、雲を裂き空を裂き光っている。帯の間にしまった二通の履歴書は、ぐっしょり汗ばんでしまった。暑い。
「オイ! 姉さん、五銭ほど俺にくんないかね……」
驚いて振り返って見ると、
「五銭? 私二銭しか持たないんですよ、電車切符一枚と、それきり……」
「じゃア二銭おくれよ。」
三十も過ぎているだろうこのガンジョウな男が、汗ばんだ二銭を私からもらうと、共同便所の方へ行ってしまった。あの人に二銭あげてあの人はあんなに喜んで行ったんだから、私にもきっといい事があるに違いない。
「月給は弁当つき三十五円でしてね、朝は九時から、ひけは四時です。ところで
「玉づけって何です?」
「簿記ですよ。」
「少しぐらいは出来ようと思います。」
まあ、月給が弁当つき三十五円なんて! 何とすばらしい虹の世界だろう――。三十五円、これだけあれば、私は親孝行も出来る。
お母さんや!
お母さんや!
あなたに十円位も送れたらあんたは娘の出世に胸がはちきれて、ドキドキするでしょうね。
「ええ玉づけだって、何だってやります。」
「じゃアやって見て下さい、そして二三日してからきめましょう――」
白い絹のワイシャツを、帆のように扇風器の風でふくらましたこの頭の
帰ってみたら電報が来ていた。
シュッシャニオヨバズ。
えへだ! あんなに大きい数字を毎日毎日加えてゆかなくちゃならない世界なんて、こっちから行きたくもありませんよだ。成金になりたい理想も、あんな大きな数字でへこたれるようでは一生駄目らしい。
(六月×日)
二階から見ると、赤いカンナの花が隣の庭に咲いている。
昨夜、何かわけのわからない悲しさで、転々ところがりながら泣いた私の眼に、白い雲がとてもきれいだった。隣の庭のカンナの花を見ていると、昨夜の悲しみが又
カンナの花の美しさは、瞬間だけの美しさだが、ああうらやましいお身分だよだ。またのよには、こんな赤いカンナの花にでも生れかわって来ましょう。昼から、千代田橋ぎわの株屋へ行ってみる。
――[#ここから横組み]1 2 3 4 5 6 7 8 9 10[#ここで横組み終わり]――
これだけの数字を何遍も書かせられると、私は大勢の応募者達と戸外へ出ていった。女事務員入用とあったけれど、又、簿記をつけさせるのかしら、でも、沢山の応募者達を見ると、当分私は風の子供だ。
「どちらへお帰りですの?」
私はこの魚群のような女達に別れて、銀座まで歩いてみた。銀座を歩いていると、なぜか質屋へ行くことを考えている。とある陳列箱の中の小さな水族館では、茎のような細い
空と風と
河と樹と
みんな秋の種子
流れて 飛んで
河と樹と
みんな秋の種子
流れて 飛んで
夜。
電気を消して畳に寝転んでいると、雲のない夜の空に大きい月が出ている。
「こんなに私はまだ青春があるのです。情熱があるんですよお月さん!」両手を上げて何か抱き締めてみたい侘しさ、私は月に光った自分の裸の肩をこの時程美しく感じた事はない。壁に凭れると男の匂いがする。ズシンと体をぶっつけながら、何か
(六月×日)
おとつい行った株屋から速達が来た。×日より御出社を乞う。私は胸がドキドキした。今日から株屋の店員さんだ。私は目の前が明るくなったような気がした。パラソルを二十銭で
日立商会、これが私のこれからお勤めするところなり。隣が両替屋、前が千代田橋、横が
「御縁がありましたのねイ。」
「ええ本当に、どうぞよろしくお願いします。」
この人は
ニイカイ サンヤリ!
自転車で走って小僧がかえって来ると、店の人達は忙がしそうにそれを黒板に書きつけたり電話をしている。
「奥のお客さんにお茶を一ツあげて下さい。」
重役らしい人が私の肩を叩いて奥を指差す。茶を持ってドアをあけると、黒眼鏡をかけた色の白い女のひとが、寒暖計の表のような紙に、赤鉛筆でしるしをつけていた。
「オヤ! これはありがとう、まあ、ここには女の人もいるのね、暑いでしょう……」
黒ずくめの恰好をした女のひとは、帯の間から五十銭銀貨二枚を出すと、氷でも召し上れと云って、私の掌にのせてくれた。
こんなお金を月給以外にもらっていいのかしら……前の重役らしい人に聞くと、くれるものはもらっておきなさいと云ってくれた。社の帰り、橋の上からまだ高い陽をながめて、こんなに楽な勤めならば勉強も出来ると思った。
「貴女はまだ一人なの?」
袴をはいて靴を鳴らしている彼女は、気軽そうに口笛を吹いて私にたずねた。
「私二十八なのよ、三十五円くらいじゃ食えないわね。」
私は黙って笑っていた。
(七月×日)
大分仕事も馴れた。朝の出勤はことに楽しい。電車に乗っていると、勤めの女達が、セルロイドの円い輪のついた
「お早うございます。」
「ヤア!」
事務服に着かえながら、ペンやインキを机から出していると、
「ここの扇風器をかけて。」と呼んでいる。
私は屑箱を台にすると、高いかもいのスイッチをひねった。白い部屋の中が泡立つような扇風器の音、「アラ?」私は相良さんの両手の中にかかえられていた。心に何の用意もない私の顔に大きい男の息がかかって来ると、私は両足で扇風器を突き飛ばしてやった。
「アッハハハハハいまのはじょうだんだよ。」
私は梯子段を飛びおりると、薄暗いトイレットの中でジャアジャア水を出した。頬を強く押した男の唇が、まだ固くくっついているようで、私は鏡を見ることがいやらしかった。
「いまのはじょうだんだよ……」
何度顔を洗ってもこの言葉がこびりついている。
「怒った! 馬鹿だね君は……」
ジャアジャア水を出している私を見て、降りて来た相良さんは笑って通り過ぎた。
昼。
黒い眼鏡の夫人と一緒に場の中へ行ってみる。高いベランダのようなところから拍子木が鳴ると、若い背ビロの男が、両手を拡げてパンパン手を叩いている。「買った! 買った!」ベランダの下には、芋をもむような人の頭、夫人は黒眼鏡をズリ上げながら、メモに何か書きつける。
夫人を自動車のあるところまでおくると、また、小さなのし袋に一円札のはいったのをもらう。何だかこんな幸運もまたズルリと抜けてゆきそうだ。帰ると、
「ねイ林さん! 私達もしない? 面白そうよ。」
茶碗を伏せては、サイコロを振って、皆で小銭を出しあっていた。
「おい姉さん! はいんなよ……」
「…………」
「はいるといいものを見せてやるぜ。生れて初めてだわって、嬉しがる奴を見せてやるがどうだい。」
羽二重のハッピをゾロリと着ながした一人の合百師が、私の手からペンを取って向うへ行ってしまった。
「アラ! そんないいもの……じゃアはいるわ、お金そんなにないから少しね。」
「ああ少しだよ、皆でおいなりさん買うんだってさ……」
「じゃ見せて!」
相棒はペンを捨てて皆のそばへ行くと、大きいカンセイがおきる。
「さあ! 林さんいらっしゃいよ。」
私も声につられて店の間へ行って見る。ハッピの裏いっぱいに描いた真赤な絵に私は両手で顔をおおうた。
「意気地がねえなア……」
皆は逃げ出している私の後から笑っていた。
夜。
ひとりで、新宿の街を歩いた。
(七月×日)
「ああもしもし××の
又、重役が、どっか芸者屋へ電話をかけさせているのだろう、荻谷さんのねイがビンビンひびいている。
「ねイ! 林さん、今晩須崎さんがねイ、浅草をおごってくれるんですって……」
私達は事務を早目に切りあげると、小僧一人を連れて、須崎と荻谷と私と四人で自動車に乗った。この須崎と云う男は上州の地主で、古風な白い
「ちんやにでも行くだっぺか!」
私も荻谷も吹き出して笑った。肉と酒、食う程に呑む程に、この豚男の
私は頭が痛いので、途中からかえらしてもらう。荻谷女史は妙に須崎氏と離れたがらなかった。
「二人で待合へでも行くつもりでしょう。」
小僧は須崎氏からもらった、電車の切符を二枚私に裂いてくれた。
「さよなら、又あした。」
家へかえると、八百屋と米屋と炭屋のつけが来ていた。日割でもらっても少しあまるし、来月になったら国へ少し送りましょう。階下でかたくりのねったのをよばれる。床へはいったのが十一時、今夜も隣のマズルカが流れて来る。コウフンして眠れず。
*
(九月×日)
今日もまたあの雲だ。
むくむくと湧き上る雲の流れを私は昼の蚊帳の中から眺めていた。今日こそ
「新宿まで行くんですが、大丈夫でしょうかね。」
「まだ電車も自動車もありませんよ。」
「
この青年は沈黙って無気味な暗い雲を見ていた。
「貴方はいつまで野宿をなさるおつもりですか?」
「さあ、この広場の人達がタイキャクするまでいますよ、僕は東京が原始にかえったようで、とても面白いんですよ。」
この
「御両親のところで、当分落ちつくんですか……」
「私の両親なんて、私と同様に貧乏で間借りですから、長くは居りませんよ。十二社の方は焼けてやしないでしょうかね。」
「さあ、郊外は朝鮮人が大変だそうですね。」
「でも行って来ましょう。」
「そうですか、水道橋までおくってあげましょうか。」
青年は土に突きさした洋傘を取って、クルクルまわしながら雲の間から霧のように降りて来る灰をはらった。私は四畳半の蚊帳をたたむと、崩れかけた下宿へ走った。宿の人達は、みんな荷物を片づけていた。
「林さん大丈夫ですか、一人で……」
皆が心配してくれるのを振りきって、私は木綿の風呂敷を一枚持って、時々小さい地震のしている道へ出て行った。根津の電車通りはみみずのように野宿の群がつらなっていた。青年は真黒に群れた人波を分けて、くるくる黒い洋傘をまわして歩いている。
私は下宿に昨夜間代を払わなかった事を何だかキセキのように考えている。お
干しうどんの屑を五十銭買った。母達がどんなに喜んでくれるだろうと思うなり。じりじりした暑さの中に、日傘のない私は長い青年の影をふんで歩いた。
「よくもこんなに焼けたもんですね。」
私は二升の米を背負って歩くので、はつか鼠くさい体臭がムンムンして
「すいとんでも食べましょうか。」
「私おそくなるから
青年は長い事立ち止って汗をふいていたが、洋傘をくるくるまわすとそれを私に突き出して云った。
「これで五十銭貸して下さいませんか。」
私はお
「貴方はお腹がすいてたんですね……」
「ハッハッ……」青年はそうだと云ってほがらかに
「地震って素敵だな!」
十二社までおくってあげると云う青年を無理に断って、私は一人で電車道を歩いた。あんなに美しかった女性群が、たった二三日のうちに、みんな灰っぽくなってしまって、桃色の
十二社についた時は日暮れだった。本郷からここまで四里はあるだろう。私は棒のようにつっぱった足を、父達の間借りの家へ運んだ。
「まあ入れ違いですよ。今日引っ越していらっしたんですよ。」
「まあ、こんな騒ぎにですか……」
「いいえ私達が、ここをたたんで帰国しますから。」
私は呆然としてしまった。番地も何も聞いておかなかったと云う関西者らしい薄情さを持った髪のうすいこの女を憎らしく思った。私は堤の上の水道のそばに、米の風呂敷を投げるようにおろすと、そこへごろりと横になった。涙がにじんできて仕方がない。遠くつづいた堤のうまごやしの花は、兵隊のように皆地べたにしゃがんでいる。
星が光りだした。野宿をするべく心をきめた私は、なるべく人の多いところの方へ堤を降りて行くと、とっつきの歪んだ床屋の前にポプラで囲まれた広場があった。そこには、二三の小家族が群れていた。私がそこへ行くと、「本郷から、大変でしたね……」と、人のいい床屋のお上さんは店からアンペラを持って来て、私の
「これで雨にでも降られたら、散々ですよ。」
夜警に出かけると云う、年とった御亭主が鉢巻をしながら空を見てつぶやいていた。
(九月×日)
朝。
久し振りに鏡を見てみた。古ぼけた床屋さんの鏡の中の私は、まるで山出しの女中のようだ。私は苦笑しながら髪をかきあげた。油っ気のない髪が、ばらばら額にかかって来る。床屋さんにお米二升をお礼に置いた。
「そんな事をしてはいけませんよ。」
お上さんは一丁ばかりおっかけて来て、お米をゆさゆさ抱えて来た。
「実は重いんですから……」
そう云ってもお上さんは二升のお米を困る時があるからと云って、私の背中に無理に背負わせてしまった。昨日来た道である。相変らず、足は棒のようになっていた。若松町まで来ると、
「乗っけてくれませんかッ。」
「どこまで行くんですッ!」
私はもう両手を罐詰の箱にかけていた。順天堂前で降ろされると、私は投げるように、四ツの朝日を運転手達に出した。
「ありがとう。」
「姉さんさよなら……」
みんないい人達である。
私が根津の権現様の広場へ帰った時には、大学生は例の通り、あの大きな
「入れ違いじゃったそうなのう……」と父が云った。もう二人とも涙がこぼれて仕方がなかった。
「いつ来たの? 御飯たべた? お母さんはどうしています?」
矢つぎ早やの私の言葉に、父は、昨夜朝鮮人と間違えられながらやっと本郷まで来たら、私と入れ違いだった事や、疲れて帰れないので、学生と話しながら夜を明かした事など物語った。私はお父さんに、二升の米と、半分になった朝日と、うどんの袋をもたせると、汗ばんでしっとりとしている十円札を一枚出して父にわたした。
「もらってええかの?……」
お父さんは子供のようにわくわくしている。
「お前も一しょに帰らんかい。」
「番地さえ聞いておけば大丈夫ですよ、二三日内には又行きますから……」
道を、叫びながら、人を探している人の声を聞いていると、私もお父さんも切なかった。
「産婆さんはお出でになりませんかッ……どなたか産婆さん御存知ではありませんか!」
と、産婆を探して呼んでいる人もいた。
(九月×日)
街角の電信柱に、初めて新聞が張り出された。久しぶりになつかしいたよりを聞くように、私も大勢の頭の後から新聞をのぞきこんだ。
――
何と云う素晴らしい文字だろう。ああ私の胸は嬉しさではち切れそうだった。私の胸は空想でふくらんだ。酒屋でなくったってかまうものかと思った。
旅へ出よう。美しい旅の古里へ帰ろう。海を見て来よう――。
私は二枚ばかりの
「灘の酒船の出るところはどこでしょうか?」と人にきくと、ボートのいっぱい並んでいる小屋のそばの天幕の中に、その事務所があるのがわかった。
「貴女お一人ですか……」
事務員の人達は、みすぼらしい私の姿をジロジロ
「え、そうです。知人が酒屋をしてまして、新聞を見せてくれたのです。是非乗せて
「大阪からどちらです。」
「尾道です。」
「こんな時は、もう仕様おまへん。お乗せしますよってに、これ落さんように持って行きなはれ……」
ツルツルした
私と同じ年頃なのに、私はいつも古い
女が少ないので船員達が皆私の顔を見ている。ああこんな時こそ、美しく生れて来ればよかったと思う。私は切なくなって船底へ降りてゆくと、鏡をなくした私は、ニッケルのしゃぼん箱を膝でこすって、顔をうつしてみた。せめて着物でも着替えましょう。井筒の模様の浴衣にきかえると、落ちついた私の耳のそばでドッポンドッポンと波の音が響く。
(九月×日)
もう五時頃であろうか、様々な人達の
「暑くてやり切れねえ!」
機関室から上って来たたくましい船員が、朱色の肌を拡げて、海の涼風を呼んでいる。美しい風景である。マドロスのお上さんも悪くはないなと思う。無意識に美しいポーズをつくっているその船員の姿をじっと見ていた。その一ツ一ツのポーズのうちから、苦しかった昔の激情を呼びおこした。美しい夜あけであった。清水港が夢のように近づいて来た。船乗りのお上さんも悪くはない。
午前八時半、味噌汁と御飯と香の物で朝食が終る。お茶を呑んでいると、船員達が甲板を叫びながら走って行った。
「ビスケットが焼けましたから、いらっして下さい!」
上甲板に出ると、焼きたてのビスケットを私は両の
料理人の人が「おはよう!」と声をかけてくれたので、私は昨夜蚊にせめられて寝られなかった事を話した。
「実は、そこは酒を積むところですから蚊が多いんですよ。今日は船員室でお
この料理人は、もう四十位だろうけれど、私と同じ位の背の高さなのでとてもおかしい。私を自分の部屋に案内してくれた。カーテンを引くと押入れのような寝室がある。その料理人は、カーネエションミルクをポンポン開けて私に色んなお菓子をこしらえてくれた。小さいボーイがまとめて私の荷物を運んで来ると、私はその寝室に楽々と寝そべった。
「私はね、外国航路の
大変丁寧な物云いをする人である。私は高い寝台の上から、足をぶらさげて、御馳走を食べた。
「後でないしょでアイスクリームを
船に灯がはいると、今晩は皆船底に集まってお酒盛りだと云う。料理人の人達はてんてこ舞いで忙がしい。――私は灯を消して、窓から河のように流れ込む潮風を吸っていた。フッと私は、私の足先に、生あたたかい人肌を感じた。人の手だ! 私は枕元のスイッチを
やがて、カーテンの外に
「生意気な! 汚ない真似をしよると承知せんぞ!」
サッとカーテンが開くと、料理
「くせになりますよッ!」
機関室で、なつかしいエンジンの音がしている。手をはなしながら、私は沈黙ってエンジンの音を聞いていた。
*
(二月×日)
ああ何もかも犬に食われてしまえである。寝転んで鏡を見ていると、
こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランスのかった古い花模様の蒲団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように
障子にバラバラ砂ッ風が当ると、下の土俵場から、画学生達はキャラメルをつぶてのように、三階へ投げてくれる。そのキャラメルの
「うまくやってるわ!」
私のドアを乱暴に蹴って、道具をそこへほうり出すと、私の肩に手をかけて、
「ちょいと画描きさん、もっとほうってよ、も一人ふえたんだから……」と云った。
下からは遊びに行ってもいいかと云うサインを画学生達がしている、すると、この十七の女学生は指を二本出してみせた。
「その指何の事よ。」
「これ! 何でもないわ、いらっしゃいって言う意味にも取っていいし、駄目駄目って事だっていいわ……」
この女学生は不良パパと二人きりでこのアパートに間借りをしていて、パパが帰って来ないと私の蒲団にもぐり込みに来る可愛らしい少女だった。
「私のお父さんはさくらあらいこの社長なのよ。」
だから私は
「ね、つまらないわね、私月謝がはらえないので、学校を
火鉢がないので、七輪に折り
「階下の七号に越して来た女ね、時計屋さんの
彼女の呼名はいくつもあるので判らないのだけれど、自分ではベニがねと云っていた。ベニのパパはハワイに長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベッドにベニと寝ていた。何をやっているのか見当もつかないのだけれど、桜あらいこの空袋が沢山部屋へ持ちこまれる事がある。
「私んとこのパパ、あんなにいつもニコニコ笑ってるけれど、ほんとはとても淋しいのよ、あんたお嫁さんになってくれない。」
「馬鹿ね! ベニさんは、私はあんなお爺さんは大嫌いよ。」
「だってうちのパパはね、あなたの事を一人でおくのはもったいないって、若い女が一人でゴロゴロしている事は、とてもそんだってさア。」
三階だてのこのガラガラのアパートが、火事にでもならないかしら。寝転んで新聞を見ていると、きまって目の行くところは、芸者と求妻と、貸金と女中の欄が目についてくる。
「お姉さん! こんど
ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレットを鼻の先で器用に唄っていた。
夜。
松田さんが遊びに来る。私は、この人に十円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しいのだ。あのミシン屋の二畳を引きはらって、こんな貧乏なアパートに越して来たものの、一つは松田さんの親切から逃げたい為めであった。
「貴女にバナナを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」
この人の言う事は、一ツ一ツが何か思わせぶりな言いかたにきこえてくる。本当はいい人なのだけれども、けちでしつこくて、する事が小さい事ばかり、私はこんなひとが一番嫌いだ。
「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」
いつもこう言ってあるのに、この人は毎日のように遊びに来る。さよなら! そう云ってかえって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っていても、こうして会ってみると、シャツが目立って白いのなんかも、とてもしゃくだったりする。
「いつまでもお金が返せないで、本当にすまなく思っています。」
松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぷして
「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」
松田さんのふところには、
「誰が悪いんです! 変なまねは止めて下さい。」
こんなところで、こんな好きでもない男に殺される事はたまらないと思った。私は私を捨てて行った島の男の事が、急に思い出されて来ると、こんなアパートの片隅で、私一人が辛い思いをしている事が切なかった。
「何もしません、これは自分に言いきかせるものなのです。死んでもいいつもりで話しに来たのです。」
ああ私はいつも、松田さんの優しい言葉には参ってしまう。
「どうにもならないんじゃありませんか、別れていても、いつ帰ってくるかも知れないひとがあるんですよ。それに私はとても変質者だから、駄目ですよ。お金も借りっぱなしで、とても苦しく思っていますが、四五日すれば何とかしますから……」
松田さんは立ちあがると、狂人のようにあわただしく
(三月×日)
花屋の菜の花の金色が、
「何なの……」
「新聞を見て来たんですけども……助手見習入用ってありましたでしょう。」
「こんなにせまいのに、ここではまだ助手を置くつもりかしら……」
二階の物干には、枯れたおしめが半開きの雨戸にバッタンバッタン当っていた。
「ここは女ばかりてすから、遠慮はないんですのよ、私が方々へ出ますから、事務を取って戴けばいいんです。」
このみすぼらしい産園の主人にしては美しすぎる女が、私に熱い紅茶をすすめてくれた。階下の女達が、主人と言ったのがこの女のひとなのだろうか……高価な香水の匂いが流れていて、二階のこの四畳半だけは、ぜいたくな道具がそろっていた。
「実はね、階下にいる女達は、皆素性が悪くて、子供でも産んでしまえば、それっきり逃げ出しそうなのばかりなんですよ。だから今日からでも、私の留守居をしてもらいたいんですが御都合いかが?」
あぶらのむちむちして白い柔かい手を頬に当てて、私を見ているこの女の眼には、何かキラキラした冷たさがあった。話ぶりはいかにも親しそうにしていて、眼は遠くの方を見ている。そのはるかなものを見ている彼女の眼には空もなければ山も海も、まして人間の旅愁なんて何もない。支那人形の眼のような、冷々と底知れない野心が光っていた。
「ええ今日からお手伝いをしてもよろしゅうございますわ。」
昼。
黒いボアに頬を埋めて女主人が出て行った。小女が台所で
「一寸! 厭になっちゃうね、又玉葱にしょっぺ汁かい?」
「だって、これだけしか当てがって行かねえんだもの!……」
「へん! 毎日五十銭ずつ取ってて、まるで犬ころとまちがえてるよ。」
ジロジロ
「助手さん! 貴方はお国どこです?」
「東京ですの。」
「おやおや、そうでございますの、一寸これゃごまめだわよ。」
女達は、あはあは笑いながら何か私のことに就いて話しあっていた。昼の膳の上は玉葱のいためたのに醤油をかけたのが出る。そのほかには、京菜の漬物に薄い味噌汁、八人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで、
「子供だ子供だと言って、一日延ばしに私から金を取る事ばかり考えているのよ、そして栄養食ヴィタミンBが必要ですとさ、淫売奴のくせに!」
女給が三人、田舎芸者が一人、女中が一人、未亡人が一人と云う素性の女達が去ったあと、小女が六人の女たちの説明をしてくれた。
「うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ、あの女の人達は、前からうちの先生のアレの世話になってんですの、世話料だけでも大したものでしょう。」
淫売奴、と云い散らした女の言葉が判ると、自分が一直線に落ち込んだような気がして急にフッと松田さんの顔が心に浮んで来た。不運な職業にばかりあさりつく私だ。もう何も言わないであの人と一緒になろうかしらとも思う。何でもない風をよそおい、玄関へ出る。
「どうしたの、荷物を持ったりして、もう帰るの……」
「ちょいと、先生がかえるまでは帰っちゃ駄目だわ……私達が叱られるもの、それにどんなもん持って行かれるか判らないし。」
何と云うすくいがたなき女達だろう。何がおかしいのか皆は目尻に冷笑を含んで、私が消えたら一どきに
「見て御らんなさいな、本が一冊と雑記帳ですよ、何も
「だって
女中風な女が、一番不快だった。腹が大きくなると、こんなにも、女はひねくれて動物的になるものか、彼女達の眼はまるで猿のようだった。
「困るのは勝手ですよ。」
戸外の暮色に押されて花屋の菜の花の前に来ると、初めて私は大きい息をついたのだ。ああ菜の花の咲く古里。あの女達も、この菜の花の郷愁を知らないのだろうか……。だが、何年と見きわめもつかない生活を東京で続けていたら、私自身の姿もあんな風になるかも知れないと思う。街の菜の花よ、清純な気持ちで、まっすぐに生きたいものだと思う。何とかどうにか、目標を定めたいものだ。今見て来た女達の、実もフタもないザラザラした人情を感じると、私を捨てて去って行った島の男が
(三月×日)
朝、島の男より為替を送って来た。母のハガキ一通あり。――当にならない僕なんか当にしないで、いい縁があったら結婚をして下さい。僕の生活は当分親のすねかじりなのだ。自分で自分がわからない。君の事を思うとたまらなくなるが、二人の間は一生絶望状態だろう――。男の親達が、他国者の娘なんか許さないと言ったことを思い出すと、私は子供のように泣けて来た。さあ、この十円の為替を松田さんに返しましょう、そしてせいせいしてしまいたいものだ。
オトウサンガ、キュウシュウヘ、ユクノデ、ワタシハ、オマエノトコロヘ、ユクカモシレマセン、タノシミニ、マッテイナサイ――母よりの手紙。
せいいっぱい声をはりあげて、小学生のような気持ちで本が読みたい。
ハト、マメ、コマ、タノシミニマッテイナサイか!
郵便局から帰って来ると、お隣のベニの部屋には刑事が二人も来ていて何か探していた。窓を開けると、三月の陽を浴びて、画学生達が相撲を取ったり、壁に
「そこのアパートに空間はありませんか?」
新鮮な朗かな青年達の笑い声がはじけると、一せいに男の眼が私を見上げた。その眼には、空や、山や海や、旅愁が、キラキラ水っぽく光って美しかった。
「二間あいてるんですか!」
私はベニの真似をして二本の指を出して見せた。ベニの部屋では、何か家宅捜索されているらしい。ビール箱のベッドを動かしている音がしている。
焦心。女は辛し。生きるは辛し。
*
(三月×日)
階下の台所に降りて行くと、誰が買って来たのか、アネモネの花の咲いた小さな鉢が窓ぶちに置いてあった。汚い台所の小窓に、スカートをいっぱい拡げた子供のような可愛い花の姿である。もう四月が来ると云うのに、雪でも降りそうなこの寒い空、ああ、今日は何か温かいものが食べたいものなり。
「お姉さんいますか?」
敷きっぱなしの蒲団の上で内職に
「一寸! とてもいい仕事がみつかったわ、見てごらんなさいよ……」
ベニは小さく折った新聞紙を私の前に拡げると、指を差して見せた。
――地方行きの女優募集、前借可……。
「ね、いいでしょう、初め田舎からみっちり修業してかかれば、いつだって東京へ帰れるじゃないの、お姉さんも一緒にやらない。」
「私? 女優って、あんまり好きな商売じゃないもの、昔、少し素人芝居をやった事があるけど、私の身に添わないのよ、芝居なんて……時に、あんたがそんな事をすれば、パパが心配しないかしら?」
「大丈夫よ、あんな不良パパ、この頃は、七号室のお妾さんにあらいこをやったりなんかしてるわ。」
「そんな事はいいけど、パパも刑事が来たりなんかしちゃいけないわね。」
お昼、ベニの履歴書を代筆してやる。下の一番隅っこの暗い部屋を借りている大工さんの子供が、さつま芋を醤油で炊いたのを持って来てくれた。
ベニのパパが紹介をしてくれた白樺のしおり描きはとても面白い仕事だ。型を置いては、泥絵具をベタベタ塗りさえすればいいのである。クロバーも
夜。
春日町の市場へ行って、一升の米袋を買って来る。階下まで降りるのがめんどくさいので、三階の窓でそっと炊いた。石屋のお上さんは、商売物の石材のように仲々やかましくて朝昼晩を、アパートを寄宿舎のようにみまわっているのだ。四十女ときたら、爪の
(三月×日)
昨夜、夜更けまで内職をしたので、目が覚めたのが九時ごろだった。蒲団の裾にハガキが二通来ている。病気をして入院をしていると云う松田さんのと、来る×日、万世橋駅にお出向きを乞う、白いハンカチを持っていて下さると好都合ですと云った風な私宛のハガキだった。心当りが少しもないので、色々考えた末、不図、ベニの事を思いついた。パパにも知れないように、一人者の私の名を利用したのかも知れないと思う。手に白いハンカチを持っていて下されば好都合ですか……淫売にでも叩きうられるのが関の山かも知れない。かつて、本郷の街裏で見た、女アパッシュの群達の事が胸に浮んできた。ベニは粗野で、
今日は風強し。上野の桜は咲いたかしら……桜も何年と見ないけれど、早く若芽がグングン
「林さん! 坊やはどこへ行きましたでしょうね。」
「さあ、何だか、今日は方々を歩くんだと云ってましたが……」
「しようがないな、寒いのに。」
「ベニちゃんは、もう学校を止したんですか、小父さん。」
「学校は新学期から止さしますよ。どうも落ちつかない子供だから……」
「おしいですわね、英語なんか出来たんですのに……」
「母親がないからですよ、一ツ林さんマザーになって下さい。」
「小父さんと年をくらべるより、ベニちゃんとくらべた方が早いんですからね。いやーアよ。」
「だってお半長右衛門だってあるじゃありませんか。」
私はいやらしいので沈黙ってしまった。こんな仕事師にかかっては口を動かすだけ無駄かも知れない。やがてベニが、鼻を
「お姉さん! うどんの玉、沢山買って来たから上げるわ。」
「ええありがとう、パパ早く帰って来たわよ。」
ベニは片目をとじてクスリと笑うと、立ちあがって、壁越しに「パパ!」と呼んだ。
「ハガキが来ていてよ、白いハンカチを持ってって書いてあるわ、香水ぐらいつけて行くといいわよ……」
「あらひどい!」
七号室ではお妾さんが三味線を鳴らしている。河のそばを子供達が、活動芝居をいましめてなんて、日曜学校の変なうたをうたって通った。仕事、二百六十枚出来る。松田さん、どんな病気で入院をしているのかしら、遠くから考えると、涙の出るようないいひとなのだけれども、会うとムッとする松田さんの温情主義、こいつが一番苦手なのだ。その内、何か持って見舞に行こうと思う。夜、龍之介の「戯作
(四月×日)
ベニの帰らない日が続く。
「別に心配してくれるなって、坊やからハガキが来ましたが、もう四日ですからね。」
ベニのパパは心配そうに目をしょぼしょぼさせていた。
今日は陽気ないいお天気である。もう病院を出たかも知れないと思いながら、植物園裏の松田さんの病院へ行った。そこは外科医院だった。工場のかえり、トラックにふれたのだと云って、松田さんは肩と足を大きくほうたいをしていた。
「三週間位でなおるんだそうです。根が元気だから何でもないんです。」
松田さんは、
病院から帰って来ると、ベニが私の万年床に寝ころがっていた。帯も足袋もぬぎ散らかしている。ベニははかなげに天井を見ていた。疲れているようだ。彼女は急速度に変った女の姿をしている。
「パパには沈黙っててね。」
「御飯でもたべる?」
ベニは自分の部屋には誰もいないのに、妙に帰るのをおっかながっていた。
夕刊にはもう桜が咲いたと云うニュースが出ていた。尾道の千光寺の桜もいいだろうとふっと思う。あの桜の並木の中には、私の恋人が大きい
十四円七十三銭也。八ツ山ホテル、品川へ行ったのかしら、二人で十四円七十銭、しかもこれが四日間の滞在費、八ツ山ホテルと云う歪んだ風景が目に浮んでくる。
(四月×日)
ひからびた、
軒一つの境いで、風景や静物や裸体を描いている画学生と、型の中へ泥絵具を流してはそれで食べている女と、――新聞を見ると、アルスの北原という人の家で女中が欲しいと出ている、勉強をさせてくれるかしらとも思う。もっとうんと叩かれたい。方針のない生活なんて、本当はたまらないのだから……、明日は行ってみよう。午後、ベニが風呂へ行った留守に、白いハンカチの男が私をたずねて来た。ベニはどんな風に云っているのかしら、階下へ降りてゆくと、頭を油で光らせて、眼鏡をかけた男がつったっていた。「私がそうですが。」部屋に通ると、背の高い男はすぐひざを組んで煙草に火をつけ出した。
「ホウ絵をお描きになるんですね。」
「いいえ内職ですのよ。」
およそこんな男は大きらいだ。この男の眼の中には、人を
「昨日、信越の旅から来たのですか、東京はあたたかですね。」
「そうですか。」
新劇はとてもうけると云う話だった。ベニ、外出先からすぐ帰って来る。彼女は女らしく、まるで鳴らないほおずきみたいに円くかしこまって返事をしていた。
「貴女も、芝居をなすったそうですが、芝居の方を少し手伝って戴けませんか、女優が足りなくって弱っているんです。」
「女優なんて、とても柄じゃアありませんよ。自分だけの事でもやっと生きてますのに、舞台に立つなンて私にはメンドクサクてとても出来ません。」
「仲々貴女は面白い事を言いますね。」
「そうですかね。」
「これから、しょっちゅう遊びに来させてもらいます。いいですか。」
十七八の娘って、どうしてこうシンビ眼がないのだろう。きたない男の前で、ベニはクルクルした眼をして沈黙っているのだ。夜、ベニは私の部屋に泊ると云う、パパは帰って来ない。あまり淋しいので、チエホフの「かもめ」を読んだ……。
ベニは寝床の中から「面白いわね。」と云っている。
「自分で後悔しなきゃ、何やってもいいけれど、取るにたらないような感傷に
彼女は薄っすらと涙を浮べて、まぶしそうに電気を見つめていた。
「だって逃げられなかったのよ。」
「八ツ山ホテルってところでしょう。」
「うん。」
ベニはけげんな顔をしていた。
「男の払った勘定書を持って来るのいやだわ、赤ちゃんみたいねえ、――十四円七十三銭って、こんなもの落してみっともないわよ。」
「あの男、花柳はるみを知ってるだの何だのってでたらめばかり言うのよ、からかってやるつもりだったの……」
「貴女がからかわれたんでしょう、御馳走さま。」
パパのいないベニは淋しそうだった。河水の音を聞いて、コドクを感じたものか、ベニは指を噛んで泣いている。
(四月×日)
朝。
東中野と云うところへ新聞を見て行ってみた。近松さんの家にいた事をふっと思い出した。こまめそうな奥さんが出てくる。お
「別に辛い事もないけれど、風呂水がうちじゃ大変なんですよ。」
暗い感じの家だった。北原白秋氏の弟さんの家にしては地味なかまえである。行ってみる間は何か心が燃えながら、行ってみるとどかんと淋しくなる気持ちはどうした事だろう。
ベニのパパ、詐欺横領罪で引っぱられて行ったとの事だった。帰ってみると、一人の刑事が小さな風呂敷包みをこしらえていた。ベニは呆然としてそれを見ている。アパート中の内儀さん達が、三階のベニの部屋の前に群れてべちゃくちゃ云っている。人情とは、なぜかくも薄きものか、部屋代はとるだけ取って、別にこのアパートには迷惑も掛けていないと云うのに、あらゆる
「お姉さん! 私金沢へ帰るのよ、パパからの
「そうね、こっちにいられるといいのにね。」
「アパートじゃ、じき立ちのいてくれって云うし……」
夜、ベニと貧しい別宴を張った。
「忘れないわ、二三年あっちでくらして、ぜひ東京へ来ようと思うの、田舎の生活なんて見当がつかないわ。」二人は、時間を早めに上野駅へ行く。
「桜でも見に行きましょうか?」
二人は公園の中を沈黙って歩いている。こんなに肩をくっつけて歩いている女が、もう二時間もすれば金沢へ行く汽車の中だなんて、本当にこのベニコがみじめでありませんようにと私は神様に祈っている。私はオールドローズの毛糸の肩掛をベニの肩にかけてやった。
「まだ寒いからこれをあげるわ。」
上野の桜、まだ初々たり。
*
(七月×日)
ちっとも気がつかない内に、私は
「あんたのように、そう本ばかり読んでいても困るよ。お客様が見えたら、おあいそ位云って下さい。」
酸っぱいものを食べた後のように、歯がじんと浮いてきた。本を読んでいるんじゃないんです。こんな婦人雑誌なんか、私の髪の毛でもありはしない。
夜――九時。省線を降りると、道が暗いのでハーモニカを吹きながら家へ帰った。詩よりも小説よりも、こんな単純な音だけれど音楽はいいものです。
(七月×日)
青山の貿易店も、いまは高架線のかなたになった。二週間の労働賃銀十一円也、東京での生活線なんてよく切れたがるもんだ。隣のシンガーミシンの生徒?さんが、歯をきざむようにギイギイとひっきりなしにミシンのペタルを押している。毎日の生活断片をよくうったえる秋田の娘さんである。古里から十五円ずつ送金してもらって、あとはミシンでどうやら
昼。
下宿の昼食をもらって舌つづみを打つと、女記者になって二三時間もたたない私は、鉛筆と原稿紙をもらって談話取りだ。四畳半に
「女優ってどんなのが好きですか、日本では……」
「私判らないけど、夏川静江なんか好きだわ。」
私はいまだかつて私をこんなに優しく遇してくれた女の人を知らない。二階の秋田さんの部屋には黒い手の置物があった。高村光太郎さんの作で、有島武郎さんが持っていらっしたのだとかきいた。部屋は実に雑然と古本屋の観があった。談話取りが談話がとれなくて、油汗を流していると、秋田さんは二三枚すらすらと私のノートへ手を入れて下すった。お寿司を戴く。来客数人あり。暮れたのでおくって戴く。赤い月が墓地に出ていた。火のついた街では氷を削るような音がしている。
「僕は散歩が好きですよ。」
秋田氏は楽し気にコツコツ靴を鳴らしている。
「あそこがすずらんと云うカフエーですよ。」
舞台の様なカフエーがあった。変ったマダムだって誰かに聞いたことがある。秋田氏はそのまま銀座へ行かれた。
私は何か書きたい興奮で、
(七月×日)
階下の旦那さんが二日程国へ行って来ますと云って、二階の私達へ後の事を頼みに今朝上ってみえたのに、社から帰ってみると、隣のミシンの娘さんが、帯をときかけている私を
「あのね一寸!」
低声なので、私もそっといざりよると、
「随分ひどいのよ、階下の奥さんてば外の男と酒を呑んでるのよ……」
「いいじゃないの、お客さんかも知れないじゃないですか。」
「だって、十八やそこいらの女が、あんなにデレデレして夫以外の男と酒を呑めるかしら……」
帯を巻いて、ガーゼの浴衣をたたんで、下へ顔洗いに行くと、腰障子の向うに、十八の花嫁さんは、平和そうに男と手をつなぎあって転がっていた。昔の恋人かも知れないと思う。只うらやましいだけで、ミシンの娘さんのような興味もない。夜は御飯を炊くのがめんどうだったので、町の八百屋で一山十銭のバナナを買って来てたべた。女一人は気楽だとおもうなり。
「一寸起きてますか?」
もう十時頃だろうか、隣のシンガーミシンさんが帰って来たらしい。
「ええまだねむれないでいます。」
「一寸! 大変よ!」
「どうしたんです。」
「
シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋人でも取られたように、眼をギロギロさせて、私の蚊帳にはいって来た。いつもミシンの唄に明け暮れしている平和な彼女が、私の部屋になんかめったにはいって来ない行儀のいい彼女が、断りもしないで私の蚊帳へそっともぐり込んで来るのだ。そして大きい息をついて、畳にじっと耳をつけている。
「随分人をなめているわね、旦那さんがかえって来たら皆云ってやるから、私よか十も下なくせに、ませてるわね……」
ガードを省線が、滝のような音をたてて走った。一度も縁づいた事のない彼女が、嫉妬がましい息づかいで、まるで夢遊病者のような変な狂態を演じようとしている。
「兄さんかも知れなくってよ。」
「兄さんだって、一ツ蚊帳には寝ないや。」
私は何だか淋しく、血のようなものが胸に込み上げて来た。
「眼が痛いから電気を消しますよ。」と云うと、彼女はフンゼンとして沈黙って出て行った。やがて
(七月×日)
――ビョウキスグカエレタノム
母よりの電報。本当かも知れないが、また嘘かも知れないと思った。だけど嘘の云えるような母ではないもの……、出社前なので、急いで旅支度をして旅費を借りに社へ行く。社長に電報をみせて、五円の前借りを申し込むと、前借は絶対に駄目だと云う。だが私の働いた金は取ろうと思えば十五円位はある筈なのだ。不安になって来る。廊下に置いたバスケットが妙に厭になってきた。大事な時間を「借りる!」と云う事で、それも正当な権利を主張しているのに、駄目だと云われて
「じゃ借りません! その代り止めますから今までの報酬を戴きます。」
「自分で勝手に止されるのですから、社の方では、知りませんよ。満足に勤めて下すっての報酬であって、また十二三日しかならないじゃありませんか!」
黄色にやけたアケビのバスケットをさげて、私は又二階裏へかえって来た。ミシン嬢は、あれから階下の細君と気持ちが凍って、引っ越しをするつもりでいたらしかったが、帰って見ると、どこか部屋がみつかったらしく、荷物を運び出している
(七月×日)
駅には、山や海への旅行者が白い服装で涼し気だった。下の細君に五円借りた。尾道まで七円くらいであろう。やっと財布をはたいて切符を買うと、座席を取ってまず指を折ってみた。何度目の帰郷だろうと思う。
露草の茎
粗壁 に乱れる
万里の城
万里の城
いまは何かしらうらぶれた感じが深い。昔つくった自分の詩の一章を思い出した。何もかも厭になってしまうけれど、さりとて、自分の世界は道いまだ遠しなのだ。この生ぐさきニヒリストは腹がなおると、じき腹がへるし、いい風景を見ると呆然としてしまうし、良い人間に出くわすと涙を感じるし、困った奴なり。バスケットから、新青年の古いのを出して読んだ。面白き笑話ひとつあり――。
―囚人
―宣教師答えて、「我等の父キリストなり。」
囚人が出獄して病院の小使いにやとわれると、壁に立派な写真が掛けてある。
―囚人、「あれは誰のです?」
―医師、「イエスの父なり。」
囚人、淫売婦を買って彼女の部屋に、立派な女の写真を見て――
―囚人、「あの女は誰だね。」
―淫売婦、「あれはマリヤさ、イエスの母さんよ。」
そこで囚人
(七月×日)
久し振りで見る高松の風景も、暑くなると妙に気持ちが
「可哀そうだのう、むごかのう……」
窓の向うの空に、朝鮮牛がキリキリぶらさがっている。
「あんなのを見ると、食べられんのう……」
雲の上にぶらさがっているあの牛は、二三日の内には
鰯雲がかたくりのように筋を引いてゆくと、牛の群も
「牛を食ったりおしょうろを流したり、人間も矛盾が多いんですねお母さん。」
「そら人間だもん……」
母は
*
(八月×日)
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、
貧しい私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど……。「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」しょぼしょぼして隠れるようにしている母達を、私はこう言って慰めたものだけれど……だが、あれから、あしかけ六年になる。私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。気の弱い両親をかかえた私は、当もなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。海添いの遊女屋の
尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、
船宿の時計が五時をさしている。船着場の待合所の二階から、町の
「ラムネいりやせんか!」
「玉子買うてつかアしゃア。」
物売りの声が、夕方の波止場の上を行ったり来たりしている。紫色の波にゆれて因の島行きのポッポ船が白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。あの町の灯の下で、「ポオルとヴィルジニイ」を読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰ったままの私は、「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うてであった……」と嘘をついて母が、
夜。
「皆さん、はぶい着きやんしたで!」
船員がロープをほどいている。小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。この島で長い事私を働かせて学校へはいっていた男が、安々と息をしているのだ。造船所で働いているのだ。
「この辺に安宿はありませんでしょうか。」
運送屋のお上さんが、私を宿屋まで案内して行ってくれた。糸のように細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷包みをおくと、私は雨戸を開けて海を眺めた。明日は尋ねて行ってみようとおもう。私は財布を
(八月×日)
枕元をごそごそと水色の
「会いに行きなさるというても、大変でごじゃんすで、それよりも、社宅の方へおいでんさった方が……」女中がそう云っている。私は心細くかまぼこを
「尾道から警官がいっぱい来たんじゃと。」
髪を後になびかせた若いお上さん達が、ドックを見下ろして話しあっていた。
「しっかりやれッ!」
「負けなはんな!」
「オーイ……」真昼間の、裸の職工達の肌を見ていると、私も両手をあげて叫んだ。旅の古里の言葉で、「しっかりやってつかアしゃア。」
「御亭主があそこにおってんな? うちの人は、こうなったら、もう死んでもええつもりでやる云いよりやんした。」
私はわけもなく涙があふれていた。事務員をしたりしてあんなにつくした私の男が、大学を出ると、造船所の社員になって、すました生活をしている、ここから見ていると、あんな門位はすぐ崩れてしまうようにもろく見えているのに……。
「職工は正直でがんすけん、皆体で
とうとう門が崩れた。蜂が飛ぶように黒点が散った。光った海の上を、小舟が無数に四散して行っている。
潮鳴の音を聞いたか!
茫漠と拡がった海の上の叫喚を聞いたか!
煤けたランプの灯を女房達に託して
島の職工達は磯の小石を蹴散 し
夕焼けた浜辺へ集まった。
遠い潮鳴の音を聞いたか!
何千と群れた人間の声を聞いたか!
ここは内海の静かな造船港だ
貝の蓋を閉じてしまったような
因の島の細い町並に
油で汚れたズボンや菜っぱ服の旗がひるがえっている
骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音
その音はワアン、ワアンと
島いっぱいに吠えていた。
青いペンキ塗りの通用門が勢いよく群れた肩に押されると
敏活なカメレオン達は
職工達の血と油で色どられた清算簿をかかえて
雪夜の狐のようにランチへ飛び乗って行ってしまう
表情の歪んだ固い職工達の顔から
怒りの涙がほとばしって
プチプチ音をたてているではないか
逃げたランチは
投網 のように拡がった巡警の船に横切られてしまうと
さてもこの小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は
只一筋の白い水煙に消されてしまう。
歯を噛み額を地にすりつけても
空は――昨日も今日も変りのない平凡な雲の流れだ
そこで頭のもげそうな狂人になった職工達は
波に呼びかけ海に吠え
ドックの破船の中に渦をまいて雪崩 れていった。
潮鳴の音を聞いたか!
遠い波の叫喚を聞いたか!
旗を振れッ!
うんと空高く旗を振れッ
元気な若者達が
光った肌をさらして
カララ カララ カララ
破れた赤い帆の帆綱を力いっぱい引きしぼると
海水止の堰 を喰い破って
帆船は風の唸る海へ出て行った
それ旗を振れッ
勇ましく歌を唄えッ
朽ちてはいるが元気に風を孕 んだ帆船は
白いしぶきを蹴って海へ出てゆく
寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでいる
波のように元気な叫喚に耳をそばだてよ!
可哀想な女房や子供達が
あんなにも背伸びをして
空高く呼んでいるではないか!
遠い潮鳴の音を聞いたか!
波の怒号するのを聞いたか
山の上の枯木の下に
枯木と一緒に双手 を振っている女房子供の目の底には
火の粉のように海を走って行く
勇ましい帆船がいつまでも眼に写っていたよ。
茫漠と拡がった海の上の叫喚を聞いたか!
煤けたランプの灯を女房達に託して
島の職工達は磯の小石を
夕焼けた浜辺へ集まった。
遠い潮鳴の音を聞いたか!
何千と群れた人間の声を聞いたか!
ここは内海の静かな造船港だ
貝の蓋を閉じてしまったような
因の島の細い町並に
油で汚れたズボンや菜っぱ服の旗がひるがえっている
骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音
その音はワアン、ワアンと
島いっぱいに吠えていた。
青いペンキ塗りの通用門が勢いよく群れた肩に押されると
敏活なカメレオン達は
職工達の血と油で色どられた清算簿をかかえて
雪夜の狐のようにランチへ飛び乗って行ってしまう
表情の歪んだ固い職工達の顔から
怒りの涙がほとばしって
プチプチ音をたてているではないか
逃げたランチは
さてもこの小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は
只一筋の白い水煙に消されてしまう。
歯を噛み額を地にすりつけても
空は――昨日も今日も変りのない平凡な雲の流れだ
そこで頭のもげそうな狂人になった職工達は
波に呼びかけ海に吠え
ドックの破船の中に渦をまいて
潮鳴の音を聞いたか!
遠い波の叫喚を聞いたか!
旗を振れッ!
うんと空高く旗を振れッ
元気な若者達が
光った肌をさらして
カララ カララ カララ
破れた赤い帆の帆綱を力いっぱい引きしぼると
海水止の
帆船は風の唸る海へ出て行った
それ旗を振れッ
勇ましく歌を唄えッ
朽ちてはいるが元気に風を
白いしぶきを蹴って海へ出てゆく
寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでいる
波のように元気な叫喚に耳をそばだてよ!
可哀想な女房や子供達が
あんなにも背伸びをして
空高く呼んでいるではないか!
遠い潮鳴の音を聞いたか!
波の怒号するのを聞いたか
山の上の枯木の下に
枯木と一緒に
火の粉のように海を走って行く
勇ましい帆船がいつまでも眼に写っていたよ。
宿へ帰ったら、
「宿の小母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」
「…………」
私は子供のように涙が
「ここへ来るまでは、すがれたらすがってみようと思って来たけれど、宿の小母さんの話では、奥さんも子供もあるって聞きましたよ。それに、町のストライキを見たら、どうしても、貴方に会って、はっきりとすがらなくてはいけないと思いました。」
沈黙っている二人の耳に、まだ喚声が遠く聞えて来る。
「今晩町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、一寸覗いてみなくては……」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そそくさと町へ出てしまった。私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくりを続けながら、高価な金色の腕時計をそっと自分の腕にはめてみた。涙があふれた。東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルしていて、時計の白い腹を見ていると目が廻りそうだった。
(八月×日)
宿の娘と連れだって浜を歩いた。今日でここへ来て一週間にもなる。
「くよくよおしんさんな。」私は何もかもつまらなくなって呆然としていると、宿の娘は私を心配してくれている。何も考えてやしない。何も考えようがないのだ。昨日は高松のお母さんへ電報ガワセを送ったし、私はこうして海の息を吸っているし、男がハラハラしようとしまいと、それはお勝手なのだ。私から何もかもむさぼり取ったひとなのだから、この位の事がいったい何だろうと思う。――尾道の海辺で、波止場の石垣に、お
「わしに、何も言わんもんじゃけん、苦労させやした。」
海が青く光っている。宿の娘をかえして、兄さんと二人で町はずれの兄さんの家へ歩いて行った。海近くまで、田が青々していて蜜柑山がうっそうと風に鳴っていた。
「あいつが気が弱いもんじゃけん。」
陽にやけた侘し気な顔をして兄さんは私をなぐさめてくれるなり。家では
(八月×日)
朝風をあびて、私は島へさよならとハンカチを振っている。どこへ行っても、どこにも仕様のない事だらけなのだ。東京へ帰ろう。私の財布は五六枚の十円札でふくらんでいた。兄さんの家でもらったお金とデベラの青籠と、風呂敷包みをかかえて、私は板子を渡って尾道行きの船へ乗った。
「気をつけてのう……」
「ええ! 兄さん、もうストライキはすんだんですか。」
「職工の方が折れさせられて手打ちになったが、太いもんにゃかなわないよ。」
あのひとも寝ぶそくな目をさせて波止場へ降りてきてくれていた。「体が元気だったら、又いつか会えるからね。」そんなことを小さい声で云った。船の中には露に濡れた野菜がうずたかく積んであった。
ああ何だか馬鹿になったような淋しさである。私は口笛を吹きながら遠く走る島の港を見かえっていた。岸に立っている二人の黒点が見えなくなると、静かなドックの上には、ガアン、ガアンと鉄を打つ音がひびいていた。尾道についたら半分高松へ送ってやりましょう。東京へかえったら、氷屋もいいな、せめて暑い日盛りを、ウロウロと商売をさがして歩かないように、この暮は楽に暮したいものだ。私は体を延ばして走る船の上から波に手をひたしていた。手を押しやるようにして波が白くはじけている。五本の指に
「こんどのストライキは、えれえ短かかったなあ――」
「ほんまに、どっちも不景気だけんな。」
船員達が、ガラス窓を拭きながら話している。私はもう一度ふりかえって、青い海の向うの島を眺めていた。
*
(四月×日)
――その夜
カフエーの卓子 の上に
盛花のような顔が泣いた
何のその
樹の上にカラスが鳴こうとて
――夜は辛い
両手に盛られた
わたしの顔は
みどり色の白粉 に疲れ
十二時の針をひっぱっていた。
カフエーの
盛花のような顔が泣いた
何のその
樹の上にカラスが鳴こうとて
――夜は辛い
両手に盛られた
わたしの顔は
みどり色の
十二時の針をひっぱっていた。
横浜に来て五日あまりになる。カフエー・エトランゼの黒い卓子の上に、私はこんな詩を書いてみた。「俺くらいだよ、お前と一緒にいるのは……誰がお前のような
あの東京の下宿で、男は私に思い知れ、思い知れと云う風な事を云うのです。泊るところも、たよる男も、御飯を食べるところもないとしたら、……私は小さな風呂敷包みをこしらえながら、どこにも行き場のない気持ちであった。そう云って別れてしまった男なのに、「お前が便利なように云ってやったんだよ、俺から離れいいようにね。」男は私を抱き伏せると、お前も俺と同じような病気にしてやるのだ。そう云って、肺の息をフウフウ私の顔に吐きかけてくる。あの夜以来、私は男の下宿代をかせぐために、こんなところへまで流れて来たのです。
「国へかえってみましょう、少し位は出来るかも知れませんから……」
こんなことをして金をこしらえる事を私は貞女だとでも思っているのでしょうか神様!
「もう店をしまって下さい。」
マダム・ロアの鼻の頭が油で光っている。ここは十二時にはカンバンにするのであるらしい。桃割れに結ったお菊さんと、お君さんと私、バラックの女給部屋には、重い潮風が窓から吹きこんでくる。
「ね、東京にかえりたくなったわ。」
お君さんは子供の事を思い出したのか、手拭で顔をふきながら、大きい束髪に風を入れていた。――ここのマダム・ロアは、
「私、あんたんとこの人に紹介されて来たので、本当は東京へ帰りたいんだけれど、遠慮をしていたのよ。」
「浜へ行ったら金になるなんて云って、結局はあの女と一緒になりたかったからでしょうよ。」
お君さんの御亭主は、お君さんと親子ほども年が違っているのに
「実際、私達は男の為めに苦労して生きてるようなものなのね。」
お君さんは波止場の青い灯を見ながら、着物もぬがないでぼんやり部屋に立っている。私はふっと、去年のいまごろ、寒い日にお君さんと、この浜へ来た事を思い出した。あれから半年あまり、もうお君さんとは会えないと思いながら、どっちからともなく尋ねあって行き来している事を思うと、ほほ笑ましくなって来る。――十三の時に子供を産んだと云うお君さんは、「私はまだほんとうの恋なんてした事がないのよ。」と云うなり。いまは二十二で、九つの子供のあるお君さんは、子供が恋人だとも言っていた。ふしあわせなお君さんである。養母の男であったのが、今の御亭主になって十年もお君さんはその男の為めに働いて来たのだと云う。十年も働きあげたと思うと、カフエーの女給を妾に引き入れてみたり、家の中は一人の男をめぐって、彼女に妾に養母さんと云った不思議な生活だった。彼女は、「私、本当に目をおおいたくなる時があってよ。」と涙ぐむ時がある。どんなにされても、一人の子供の為めに働いているお君さんの事を考えると、私の苦しみなんて、彼女から言えばコッケイな話かも知れない。
「電気を消して下さい!」
独逸人はしまり屋だと云うけれど、マダム・ロアが水色の夜の着物を着て私達の部屋を覗きにくるのだ。電気の消えたせまい部屋の中で、私はまるでお伽話のような
(四月×日)
九つになるお君さんの上の子供が一人でお君さんをたずねて来た。港では船がはいって来たのか、自動車がしっきりなしに店の前を走って行く。
朝。
マダム・ロアは裏のペンキのはげたポーチで編物をしていた。「お菊さんに店をたのんで一寸波止場へ行ってみない? 子供に見せたいのよ。」冷たいスープを呑んでいる私の傍で、お君さんは長い針を動かせて、子供の肩上げをたくし上げては縫ってやっていた。
「お君さんの弟かい!」
船乗り上りの年をとったコックが、煙草を吸いながら、子供をみていた。
「ええ私の子供なのよ……」
「ホー、いくつだい? よく一人で来られたね。」
「…………」
歯の
「ホラ! お船だよ、よく見ておおき、あれで外国へ行くんだよ。あれは起重機ね、荷物が空へ上って行ったろう。」
お君さんの説明をきいて、板チョコを頬ばりながら、子供はかすんだような嬉しい眼をして海を見ている。桟橋から下を見ると深い水の色がきれいで、ずるずると足を引っぱられそうだった。波止場には煙草屋だの、両替店、待合所、なんかが並んでいる。
「母さん、僕、水のみたい。」
ひざ小僧を出したお君さんの子供が、白い待合所の水道の方へ走って行くと、お君さんは
「さあ、これでお顔をおふきなさい。」
ああ何と云う美しい風景だろう、その美しい母子風景が、思い思いな苦しみに打ちのめされてはきりっと立ちあがっては前進してゆくのだ。少年が母をたずねて、この浜辺までひとりで
「あの子と一緒に間借りでもしようかとも思うのよ、でも折角、父親がいて離すのもいけないと思って我慢はしてるのだけれど、私、働き死にをしに生れて来たようで、
「ね、小母さん! ホテルって何?」
フッと見ると波止場のそばの橋の横に、何時か見たホテルと云う白い文字が見えた。
「旅をする人が泊るところよ。」
「そう……」
「ね、坊や! 皆うちにまだいるの?」
「うん、お父さん家にいるよ、お婆ちゃんも、小母ちゃんも銀座の方にこの頃通って、とても夜おそいの、だから僕だの父ちゃんが、かわりばんこに駅へむかいに行くんだよ……」
お君さんはおこったように沈黙って海の方を見ていた。
昼は伊勢佐木町に出て、三人で支那
「ね、あんた、私、写真を取りたいのよ、一緒に写ってくれない。」
「私もそう思ってたの、いつまた離ればなれになるかも判らないんですもの、丁度いいわ、坊やも一緒に取りましょう。」
支那の軍人の制服のような感じの電車に乗って、浜近い写真館に行った。
「三人で取ると、誰かが死ぬんだって、だから犬ころでもいいから借りましょうよ。」
お君さんが、不恰好なはり子の犬をひざに抱いて、坊やと私とが立っている姿を撮ってもらう。バックは、波止場の桟橋、林立した古風な帆柱が見えます。
「坊や! 今日は母ちゃんとこへ寝んねしていらっしゃいね。」
「一緒に帰るの……」
お君さんは淋しそうに、一人でスヴニールのレコードをかけていた。マダム・ロアは今日は東京へ外出していない。椅子を二つ並べてコックはぐうぐう眠っている。もらい一円たらず、私も坊や達と東京へ帰ろうと思う。
(四月×日)
「こんな旅が一生続いたらユカイよ。」
エトランゼの裏口から、一ツずつ大きい荷物を持った私たち二人の女を、マダム・ロアは気の毒そうにみて、一週間あまりしかいない私達へ給料を十円ずつ封筒へ入れてくれた。
「また来て下さい、夏はいいんですよ。」
お君さんと違って家のない私は、又ここへ逆もどりしたいなつかしい気持ちで、マダム・ロアを振り返った。沈黙った女ってしっかりしているものだ。背広を着た彼女が、二階から私達を何時までも見送ってくれていた。
「よかったら家へいらっしゃいよ。雑居だけどいいじゃないの……そしてゆっくりさがせば。」
駅でバナナをむきながら、お君さんがこう言ってくれた。東京へ行ったところで、ひねくれたあの男は、私を又殴ったり叩いたりするのかも知れない。いっそお君さんの家にでもやっかいになりましょう。サンドウイッチを買って汽車に乗った。汽車の中には桜のマークをつけたお上りさんの人達がいっぱいあふれていた。
「桜時はこれだから厭ね……」
一つの腰掛けをやっとみつけると、三人で腰を掛ける。
「子供との汽車の旅なんて何年にもない事だわ。」
夕方、お君さんの板橋の家へ着いた。
「随分、一人でやるのは心配したけれど、一人で行きたいって云うから、あたしがやったんだよ。」
髪を蓬々させたお婆さんが寝転んで煙草を吸っていた。
「この間は失礼しました、今日は何だか一緒にかえりたくなってついて来ましたのよ。」
長屋だてのギシギシした板の間をふんで、お君さんの御亭主が出て来た。
「こんなところでよければ、いつまででもいらっしゃい。またそのうちいいところがありますよ。」と云ってくれる。
部屋の中には、若い女の着物がぬぎ散らかしてあった。
夜更け。フッと目が覚めると、
「子供なんかを駅へむかいにやる必要はないじゃありませんか、貴方が行っていらっしゃい、貴方が厭だったら私が行って来ます。」
お君さんの
「オイお君! お前もいいかげん馬鹿だよ、なめられてやがって……」
向うのはじに寝ていたお婆さんが口ぎたなくお君さんをののしっている。ああ何と云う事だろう、何と云う家族なのだろうと思う。硝子窓の向うには春の夜霧が流れていた。一緒に眠っている人達の、思い思いの苦しみが、夜更けの部屋に満ちていて、私はたった一人の部屋がほしくなっていた。
(四月×日)
雨。終日坊やと遊ぶ。妾はお久さんと云って頬骨の高い女だった。お君さんの方がずっと柔かくて美しいひとだのに、縁と云うものは不思議なものだと思う。男ってどうしてこんななのだろう……。
「フンそんなに浜は不景気かね。」
肌をぬいで、髪に油を塗りながら、お久さんは髪をすいていた。
「何だよお前さんのその言いかたは……」
お婆さんが台所で釜を洗いながらお久さんに怒っていた。雨が降っている。うっとうしい四月の雨だ。路地のなかの家の前に、雨に濡れながら野菜売りが車を引いて通る。
神様以上の気持ちなのか、お君さんは笑って、八百屋とのんびり話をしていた。
「いまは丁度何でも
雨の中を、夕方、お久さんと御亭主とが街へ仕事に出て行った。婆さんと、子供とお君さんと私と四人で卓子を囲んで御飯をたべる。
「随分せいせいするよ、おしめりはあるし、二人は出て行ったし。」
お婆さんがいかにもせいせいしたようにこんなことを云った。
(五月×日)
新宿の以前いた家へ行ってみた。お由さんだけがのこっていて古い女達は皆いなくなってしまっていた。新らしい女が随分ふえていて、お上さんは病気で二階に
夜。
ここの子供とかるめらを焼いて遊ぶ。
*
(五月×日)
六時に起きた。
昨夜の無銭飲食の奴のことで、七時には警察へ行かなくてはならない。眠くって頭の
「代書へ行って届書をかいて来い、アーン!」
あぶくどもメ! 昨夜の無銭飲食者が、ここではすばらしい英雄にさえ思える。
代書屋に行って書いてもらったのが一時間あまりもかかった。茶が出たり塩せんべいが出たり、金を払うだんになると、二枚並べた塩せんべいの代金まではいっている。全く驚いてしまった。届書を渡して、引受人のような人から九円なにがしかをもらって外に出ると、もうお昼である。規律とか規則とかと云うものに、私はつばきを引っかけてけいべつをしてやりたくなった。
帰って帳場に金を渡して二階へ上ると、皆はおきて蒲団をたたんでいる処だった。掃除をすっぽかして横になる。五月の雲が真綿のように白く伸びて行くのに、私は私の魂を遠くにフッ飛ばして、棒のように石のように私は横になって目をとじているのだ。悲しや、おいたわしや、お芙美さん、一ツ手拍子そろえて歌でも唄いましょう。
陸の果てには海がある。
白帆がゆくよ。
白帆がゆくよ。
(五月×日)
時ちゃんが、私に自転車の乗りかたを教えてくれると云うので、掃除が済むと、店の自転車を借りて、
「さあ、ゆみちゃんお乗りよ、後から押してやるから。」
馬鹿げた朗かさで、ドン・キホーテの真似をする事も面白い。二三回乗っているうちにペタルが足について来て、するするとハンドルでかじが取れるようになった。
キング・オブを十杯呑ませてくれたら
私は貴方に接吻を一ツ投げましょう
おお哀れな給仕女よ
青い窓の外は雨の切子 硝子
ランタンの灯の下で
みんな酒になってしまった
カクメイとは北方に吹く風か!
酒はぶちまけてしまったんです。
卓子の酒の上に真紅 な口を開いて
火を吐いたのです
青いエプロンで舞いましょうか
金婚式、それともキャラバン
今晩の舞踏曲は……
さあまだあと三杯もある
しっかりしているかって
ええ大丈夫よ
私はお悧巧 な人なのに
本当にお悧巧なひとなのに
私は私の気持ちを
つまらない豚のような男達へ
おし気もなく切り花のように
ふりまいているんです
ああカクメイとは北方に吹く風か――
私は貴方に接吻を一ツ投げましょう
おお哀れな給仕女よ
青い窓の外は雨の
ランタンの灯の下で
みんな酒になってしまった
カクメイとは北方に吹く風か!
酒はぶちまけてしまったんです。
卓子の酒の上に
火を吐いたのです
青いエプロンで舞いましょうか
金婚式、それともキャラバン
今晩の舞踏曲は……
さあまだあと三杯もある
しっかりしているかって
ええ大丈夫よ
私はお
本当にお悧巧なひとなのに
私は私の気持ちを
つまらない豚のような男達へ
おし気もなく切り花のように
ふりまいているんです
ああカクメイとは北方に吹く風か――
さてさてあぶない
「新聞を上からかぶせとくから、少しつっぷして眠んなさい、酔っぱらって仕様がないじゃないの……」
私の蒲団は新聞で沢山なのですよ、私は
(六月×日)
太宗寺で、女給達の健康診断がある日だ。雨の中を、お由さんと時ちゃんと三人で行った。古風な寺の廊下に、紅紫とりどりの疲れた女達が、背景と二重写しみたいに、そぐわないモダンさで群れている。
夜、鼠花火を買って来て燃やす。
チップ一円二十銭也。
(六月×日)
昼、浴衣を一反買いたいと思って街に出てみると、肩の薄くなった男に出会う。争って別れた二人だけれども、偶然にこんなところで会うと、二人共
夜。
お君さんが私の処へたずねて来た。これから質屋に行くのだと云って大きい風呂敷包みを持っていた。
「こんな遠い処の質屋まで来るの?」
「前からのところなのよ。板橋の近所って、とても貸さないのよ……」
相変らず一人で苦労をしているらしいお君さんに同情するなり。
「ね、よかったらお
「ううんいいのよ、一寸人が待っているから、又ね。」
「じゃア質屋まで一緒に行く、いいでしょう。」
その後銀座の方に働いていたと云うお君さんには若い学生の恋人が出来ていた。
「私はいよいよ決心したのよ、今晩これから一寸遠くへ都落ちするつもりで、実は貴女の顔を見に来たの。」
こんなにも純情なお君さんがうらやましくて仕方がない。何もかも振り捨てて私は生れて初めて恋らしい恋をしたのだわ。ともお君さんは云うなり。
「子供も捨てて行くの?」
「それが一番身に
お君さんの新らしい男の人は、あんまり豊かでもなさそうだったけれど、若者の持つりりしい強さが、あたりを圧していた。
「貴女も早く女給なんてお
私は笑っていた。お君さんのように何もかも捨てさる情熱があったならば、こんなに一人で苦しみはしないとおもう。お君さんのお養母さんと、御亭主とじゃ、私のお母さんの美しさはヒカクになりません。どんなに私の思想の入れられないカクメイが来ようとも、千万人の人が私に矢をむけようとも、私は母の思想に生きるのです。貴方達は貴方達の道を行って下さい。私はありったけの財布をはたいて、この勇ましく都落ちする二人に祝ってあげたい。私のゼッタイのものが母であるように、お君さんの唯一の坊やを、私は蔭で見てやってもいいと思えた。
街では星をいっぱい浴びて、ラジオがセレナーデを唄っている。
私の
夜の曲。都会の夜の曲。メカニズム化したセレナーデよ、あんなに美しい唄を、ラジオは活字のように街の空で
時ちゃんは文学書生とけんかをしていた。
「何だいドテカボチャ、ひやけの
酔っぱらった文学書生がキスを盗んだというので、時ちゃんが、ソーダ水でジュウジュウ口をすすぎながら
(六月×日)
お上さんはいよいよ入院してしまった。出前持ちのカンちゃんが病院へ行って帰ってこないので、時ちゃんが自転車で出前を持って行く。べらぼうな時ちゃんの自転車乗りの姿を見ていると、涙が出る程おかしかった。とにかく、この女は自分の美しさをよく知っているからとても面白い。――夕方風呂から帰って着物をきかえていると、素硝子の一番てっぺんに星が一つチカチカ光っていた。ああ久しく私は夜明けと云うものを見ないけれど、田舎の朝空がみたいものだ。表に
「もうそろそろ自称飛行家が来る頃じゃないの……」
この自称飛行家は奇妙な事に支那そば一杯と、
三番目。
私の番に五人連のトルコ人がはいって来た。ビールを一ダース持って来させると、順々に抜いてカンパイしてゆくあざやかな呑みぶりである。白い風呂敷包みの中から、まるでトランクのように大きい
「ニカイ アガリマショウ。」
若いトルコ人が私をひざに抱くと、二階をさかんに指差している。
「ニカイノ アルトコロコノヨコチョウデス。」
「ヨコチョウ? ワカラナイ。」
私達を淫売婦とでもまちがえているらしい。
「ワタシタチ トケイヤ。」
若いのが遠い国で写したのか、珍らしい樹の下で写した小さい写真を一枚ずつくれるなり。
「ニカイ アガリマショウ、ワタシ アヤシクナイ。」
「ニカイアリマセン。ミンナ カヨイデス。」
「ニカイ アリマセン?」
またビール一ダースの追加、一人がコールドビーフを
「困ったわ、私英語なんか知らないんですもの、ゆみちゃん何を言ってんのか聞いてみてよ……」
「あの、飛行機屋さんにおききなさいよ、知ってるかも知れないわ。」
「冗談じゃない、発音がちがうから判らないよ。」
「あら飛行機屋さんにも判らないの、困っちゃうわね。」
「ソースじゃなさそうね。」
何だか
「エロウ・パウダ?」
顔から火の出る思いで聞いてみた。
「オオエス! エス!」
辛子をキュウキュウこねて持って行くと、みんな手の指を鳴らして喜んでいた。
自称飛行家はコソコソ帰っていった。
「トルコの天子さん何て言うの?」
時ちゃんが、エロウ・パウダ氏にもたれて聞いている。
「テンシサンなんて判るもんですか。」
「そう、私はこの人好きだけど通じなきゃ仕方がないわ。」
酒がまわったのか、風琴は遠い郷愁を鳴らしている。ニカイ アガリマショウの男は、盛んに私にウインクしていた。日本人とよく似た人種だと思う、トルコってどんなところだろう。私は笑いながら聞いた。
「アンタの名前、ケマルパシャ?」
五人のトルコ人は皆で私にエスエスと首を振っていた。
*
(九月×日)
古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひらった土地は、日本海に面した
富士山――暴風雨
停車場の待合所の白い紙に、いま富士山は大あれだと書いてある。フン! あんなものなんか荒れたってかまいはしない。風呂敷包み一つの私が、上野から信越線に乗ると、朝の窓の風景は、いつの間にか茫々とした秋の景色だった。あたりはすっかり秋になっている。窓を区切ってゆく、
古里の厩 は遠く去った
花がみんなひらいた月夜
港まで走りつづけた私であった
朧 な月の光りと赤い放浪記よ
首にぐるぐる白い首巻をまいて
汽船を恋した私だった。
花がみんなひらいた月夜
港まで走りつづけた私であった
首にぐるぐる白い首巻をまいて
汽船を恋した私だった。
一切合切が、何時も風呂敷包み一つの私である。私は心に気弱な熱いものを感じながら、古い詩稿や、放浪日記を風呂敷包みから出しては読みかえしてみた。体が動いているせいか、瞼の裏に熱いものがこみあげて来ても、詩や日記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれだけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きつぶして
汽車が高崎に着くと、私の周囲の空席に、旅まわりの芸人風な男女が四人で席を取った。私はボンヤリ彼等を見ていた。彼達は、私とあまり大差のないみすぼらしい姿である。上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古ぼけた三味線と、
「
同勢四人の中の、たった一人の女である姐御と呼ばれた彼女は、つぶしたような
「ああとてもひでえ目にあったぜ。」
目玉のグリグリした小さい方が、ひとわたり周囲をみまわして大きい方につぶやくと、汽車は逆もどりしながら、横川の駅に近くなった。この芸人達は、寄席芸人の一行らしいのだ。向うの男と女は、時々思い出したようにボソボソ話しあっていた。「アレ! 何だね、俺ァ気味が悪いでッ。」突然トンキョウな声がおこると、田舎者らしい子供連れのお上さんが、網棚の上を見上げた。お上さんの目を追うと、芸人達の持ちものである網棚のバスケットから、黒ずんだ赤い血のようなものがボトボトしたたりこぼれていた。
「血じゃねえかね!」
「旅のお方! お前さんのバスケットじゃねえかね。」
背中あわせの、芸人の男女に、田舎女の亭主らしいのが、大きい声で
「ソースの栓が抜けたんですわ……」
女はそう一人ごとを言いながら、自分の白い手の甲にみみずのように流れているソースの滴をなめた。その侘し気なバスケット物語が、トヤについたこの人達の幾日かの生活をものがたっている。女のひとはバスケットを棚へ上げると、あとは又汽車の
「ああ俺アつまらねえ、東京へ帰って、いまさんの座にでもへえりていや、いつまでこうしてたって、寒くなるんだしなア……」
弟子たちのこの話が耳にはいったのか、紺縮みの男は、キラリと眼をそらすと、
「オイ! たんちゃん、横川へついたら、電報一ツたのんだぜ。」
と、云った。四人共白けている。夫婦でもなさそうな二人のものの言いぶりに、私はこの男と女が妙に胸に残っていた。
夜。
直江津の駅についた。土間の上に古びたまま建っているような港の駅なり。火のつきそめた駅の前の広場には、水色に塗った板造りの西洋建ての旅館がある。その旅館の横を切って、軒の出っぱった煤けた街が見えている。嵐もよいの
(九月×日)
階下の廊下では、そうぞうしく小学生の修学旅行の群がさわいでいた。
洗面所で顔を洗っていると、
「俺ァ
山国の小学生の男の子達が魚の話を珍らしげに話していた。私は二円の宿代を払って、外へ散歩に出てみた。雲がひくくかぶさっている。街をゆく人達は、家々の深いひさしの下を歩いている。芝居小屋の前をすぎると長い木橋があった。海だろうか、河なのだろうか、水の色がとても青すぎる。ぼんやり立って流れを見ていると、目の下を
「この団子の名前は何と言うんですか?」
「ヘエ継続だんごです。」
「継続だんご……団子が続いているからですか?」
海辺の人が、何て厭な名前をつけるんでしょう、継続だんごだなんて……。駅の
低迷していた雲が切れると、灰をかぶるような激しい雨が降ってきた。
長い夜汽車に乗った。
(九月×日)
又カフエーに逆もどり。めちゃくちゃに狂いたい気持ちだった。めちゃくちゃにひとがこいしい……。ああ私は何もかもなくなってしまった酔いどれ女でございます。叩きつけてふみたくって下さい。乞食と隣りあわせのような私だ。家もなければ古里も、そしてたった一人のお母さんをいつも泣かせている私である。誰やらが何とか云いましたって……、酒を飲むと鳥が群れて飛んで来ます。樹がざわざわ鳴っているような不安で落ちつけない私の心、ヘエ! 淋しいから床を
「飲みすぎたのね、この人は感情家だから。」
サガレンのお由さんが私のことを誰かに言っている。私は血の
「酔っぱらったからお先に寝さしてもらいます。」
芙美子は強し。
(十月×日)
秋風が吹く頃になりました。わたしはアイーダーを唄っています。
「ね! ゆみちゃん、私は、どうも赤ん坊が出来たらしいのよ、厭になっちまうわ……」
「幾月ぐらいなの?」
「さあ、三月ぐらいだとおもうけど……」
「どうしたのよ……」
「いま私んとこ子供なんか出来ると困るのよ……」
二人はだまってしまった。おでんを食べに行った女達がぞろぞろかえって来る。
私のいやな男が又やって来る。えてして芝居もどきな恰好で、女を何とかしようと云うものに、ろくなのはいない。こんなお上品な男の前では、大口をあけて、何かムシャムシャ食べているに限ります。私はうで玉子を卓子の角で割りながら、お由さんと食べる。
「おゆみさんいらっしゃいよ。」
酔いどれ女の芸当がまた見たいんですか、私は表に出てゆくと、街を吹く秋の風を力いっぱい吸った。エプロンをはずして、私もこの人混の中にはいってみたいと思った。露店が雨のようにならんでいる。
「一寸おたずねしますが、お宅は女給さん
昔のスカートのように、いっぱいふくらんだ信玄袋を持った大きい女が、人混から押されて私の前に出て来た。
「さあ、いま四人もいるのですけれど、まだ入ると思いますよ、聞いてあげましょうか、待っていらっしゃい。」
ドアを押すと、あの男は酔いがまわったのか、お由さんの肩を叩いて言っていた。
「僕はどうも気が弱くてね。」
御もっとも様でございますよ。――連れて来てごらんと云うお上さんの言葉で、台所からまわって、私は信玄袋の女をまねくと、急に女は泣き出して言った。「私は田舎から出て来たばかりで、初めてなんですが、今晩行くところがないから、どうしてもつかって下さい、一生懸命働きます。」と云っている。うすら冷たい風に、メリンスの
「お上さん、とても店には女がたりないんですからおいてあげて下さいよ。」
上州生れで、
「あなた、いくつ?」
「十八です。」
「まあ若い……」
女が着物をぬいで不器用な手つきで支度をしているのをそばでじっと見ていると、私は何かしら眼頭が熱くなって来た。ああ暗がりって、どうしてこんなにいいものなのだろう、埃のいっぱいしている暗い燈の下で、唇を毒々しくルウジュで塗った女達が、せいいっぱいな唄をうたっている。おお神様いやなことです。
「ゆみちゃん! あの人がいらっしゃってよ。」
いつまでもこの暗がりで寝転がっていたいのに、由ちゃんが何か頬ばりながら二階へ上ってきた。新らしくきた女のひとにエプロンを貸してやる。妙にガサガサ荒れた手をしていた。
「私、一度世帯を持った事がありましてね。」
「…………」
「これから一生懸命働きますから、よろしくお願いいたします。」
「ここにいる人達は、皆同じことをして来た人達なんだから、皆同じようにしていりゃいいのよ。
「まあこんなせまいところにねるのですか。」
「ええそうなのよ。」
階下へ降りると、例の男がよろよろ歩いて来て私にいった。
「どっか公休日に遊びに行きませんか!」
「公休日? ホッホホホホ私とどっかへ行くと、とても金がかかりますよ。」
そうして私は帯を叩いて言ってやった。
「私赤ん坊がいるから当分駄目なんですよ。」
*
(十二月×日)
「飯田がね、
飛びついて来て、まあよく来たわね、と云ってくれるのを楽しみにしていた私は、長い事待たされて、暗い路地の中からしょんぼり出て来たたい子さんを見ると、
「どうしましょうね、今さらあのカフエーに逆もどりも出来ないし、少し廻って来ましょうか、飯田さんも私に会うのはバツが悪いでしょうから……」
「ええ、ではそうしてね。」
私は運転手の吉さんに行李をかついでもらうと、酒屋の裏口の薬局みたいな上りばなに行李を転がしてもらって、今度は軽々と、時ちゃんと二人で自動車に乗った。
「吉さん! 上野へ連れて行っておくれよ。」
時ちゃんはぶざまな行李がなくなったので、陽気にはしゃぎながら私の両手を振った。
「大丈夫かしら、たい子さんって人、貴女の親友にしちゃあ、随分冷たい人ね、泊めてくれるかしら……」
「大丈夫よ、あの人はあんな人だから、気にかけないでもいいのよ、大船に乗ったつもりでいらっしゃい。」
二人はお互に淋しさを噛み殺していた。
「何だか心細くなって来たわね。」
時ちゃんは淋しそうに涙ぐんでいる。
「もうこれ位でいいだろう、俺達も仕事しなくちゃいけないから。」
十時頃だった、星が澄んで光っている。十三屋の櫛屋のところで自動車を止めてもらうと、時ちゃんと私は、小さい財布を出して自動車代を出した。
「街中乗っけてもらったんだから、いくらかあげなきゃあ悪いわ。」
吉さんは、私達の前に汚れた手を出すと、
「馬鹿! 今日のは俺のセンベツだよ。」と云った。
吉さんの笑い声があまり大きかったので、櫛屋の人達もビックリしてこっちを見ている。
「じゃ何か食べましょう、私の心がすまないから。」
私は二人を連れると、広小路のお汁粉屋にはいった。吉さんは甘いもの好きだから、ホラお汁粉一杯上ったよ! ホラも一ツ一杯上ったよ! お爺さんのトンキョウな有名な呼び声にも今の淋しい私には笑えなかった。「吉さん! 元気でいてね。」時ちゃんは吉さんの鳥打帽子の内側をかぎながら、子供っぽく目をうるませていた。――歩いて私達が本郷の酒屋の二階へ帰って行った時はもう十二時近かった。夜更けの冷たい鋪道の上を、支那蕎麦屋の燈火が通っているきりで、二人共沈黙って白い肩掛を胸にあわせた。
酒屋の二階に上って行くと、たいさんはいなくて、見知らない紺がすりの青年が、火の気のない火鉢にしょんぼり手をかざしていた。何をする人なのかしら……私は妙に白々としたおもいだった。寒い晩である。歯がふるえて仕方がない。
「たい子さんと云うひとが帰らなければ私達は寝られないの?」
時ちゃんは、私の肩にもたれて、心細げに聞いている。
「寝たっていいのよ、当分ここにいられるんだもの、蒲団を出してあげましょうか。」
押入れをあけると、プンと淋しい女の一人ぐらしの匂いをかいだ。たい子さんだって淋しいのだ。大きなアクビにごまかして、袖で眼をふきながら、蒲団を敷いて時ちゃんをねせつけてやる。
「貴女は林さんでしょう……」
その青年はキラリと眼鏡を光らせて私を見た。
「僕、山本です。」
「ああそうですか、たいさんに始終聞いていました。」
なあんだ、私がしびれの切れた足を急に投げだすと、寒いですねと云う話から、二人の気持ちはほぐれて来た。色々話をしていると、段々この青年のいい所がめについて来る。私は一生懸命あいつを愛しているんですがと云って、山本さんは涙ぐんでいる。そして、火鉢の灰をじっとかきならしていた。
たい子さんは幸福者だと思う。私は別れて間もない男の事を考えていた。あんなに私をなぐってばかりいたひとだったけれど、このひとの純情が十分の一でもあったらと思う。時ちゃんはもういびきをかいて眠っていた。「では僕は帰りますから、明日の夕方にでも来るように云って下さいませんか。」もう二時すぎである。青年は下駄を鳴らして帰って行った。たい子さんは、あの人との子供の骨を転々と持って歩いていたけれど、いまはどうしてしまったかしら、部屋の中には折れた鏝が散乱していた。
(十二月×日)
雨が降っている。夕方時ちゃんと二人で風呂に行った。帰って髪をときつけていると、飯田さんが来る。私は袖のほころびを縫いながら、このごろおぼえた唄をフッとうたいたくなっていた。ああ厭になってしまう。別れてまでノコノコと女のそばへ来るなんて、飯田さんもおかしい人だと思う。たい子さんは沈黙っている。
「こんなに雨が降るのに行くの?」
たい子さんは侘しそうに、ふところ手をして私達を見ていた。
二人で浅草へ来た時は夕方だった。激しい雨の降る中を、一軒一軒、時ちゃんの住み込みよさそうな家をさがしてまわった。やがてきまったのはカフエー世界と云う家だった。
「どっかへ引っ越す時は知らしてね、たい子さんによろしく云ってね。」
時ちゃんはほんとうに可愛い娘だ。野性的で、行儀作法は知らないけれども、いいところのある女なり。
「久し振りで、二人で、別れのお酒もりでもしましょうか……」
「おごってくれる?」
「体を大事にして、にくまれないようにね。」
浅草の都寿司にはいると、お酒を一本つけてもらって、私達はいい気持ちに横ずわりになった。雨がひどいので、お客も少いし、バラック建てだけれども、落ちついたいい家だった。
「一生懸命勉強してね。」
「当分会えないのね時ちゃんとは……私、もう一本呑みたい。」
時ちゃんはうれしそうに手を鳴らして女中を呼んだ。やがて、時ちゃんをカフエーに置いて帰ると、たい子さんは一生懸命何か書きものをしていた。九時頃山本さんみえる。
私は一人で寝床を敷いて、たい子さんより先に寝ついた。
(十二月×日)
フッと眼を覚ますと、せまい蒲団なので、私はたい子さんと抱きあってねむっていた。二人とも笑いながら背中をむけあう。
「起きなさい。」
「私いくらでも眠りたいのよ……」
たい子さんは白い腕をニュッと出すと、カーテンをめくって、陽の光りを見上げた。――梯子段を上って来る音がしている。たい子さんは無意識に、手を引っこめると、
「寝たふりをしてましょう、うるさいから。」と云った。
私とたいさんは抱きあって寝たふりをしていた。やがて
「こんなに朝早くから来てまだ寝てるじゃありませんか。」
「でも勤め人は、朝か夜かでなきゃあ来られないよ。」
私はじっと目をとじていた。どうしたらいいのか、たいさんのやり方も手ぬるいと思った。厭なら厭なのだと、はっきりことわればいいのだ。
今日から街はりょうあんである。昼からたい子さんと二人で銀座の方へ行ってみた。
「私はね、原稿を書いて、生活費位は出来るから、うるさいあそこを引きはらって、郊外に住みたいと思っているのよ……」
たいさんは茶色のマントをふくらませて、電気スタンドの美しいのをショーウインドウに眺めながら、そのスタンドを買うのが唯一の理想のように云った。歩けるだけ歩きましょう。銀座裏の奴寿司で腹が出来ると、黒白の幕を張った街並を足をそろえて二人は歩いていた。朝でも夜でも
一種のコウフンは私達には薬かも知れない
二人は幼稚園の子供のように
足並をそろえて街の片隅を歩いていた。
同じような運命を持った女が
同じように眼と眼とみあわせて淋しく笑ったのです。
なにくそ!
笑え! 笑え! 笑え!
たった二人の女が笑ったとて
つれない世間に遠慮は無用だ
私達も街の人達に負けないで
国へのお歳暮 をしましょう。
鯛 はいいな
甘い匂いが嬉しいのです
私の古里は遠い四国の海辺
そこには父もあり母もあり
家も垣根も井戸も樹木も
ねえ、小僧さん!
お江戸日本橋のマークのはいった
大きな広告を張って下さい
嬉しさをもたない父母が
どんなに喜んで遠い近所に吹 ちょうして歩く事でしょう
――娘があなた、お江戸の日本橋から買って送って呉 れましたが、まあ一ツお上りなして
ハイ……。
信州の山深い古里を持つかの女も
茶色のマントをふくらませ
いつもの白い歯で叫んだのです。
――明日は明日の風が吹くから、ありったけの銭で買って送りましょう……。
小僧さんの持っている木箱には
さつまあげ、鮭 のごまふり、鯛の飴干 し
二人は同じような笑いを感受しあって
日本橋に立ちました。
日本橋! 日本橋!
日本橋はよいところ
白い鴎が飛んでいた。
二人はなぜか淋しく手を握りあって歩いたのです。
ガラスのように固い空気なんて突き破って行こう
二人はどん底の唄をうたいながら
気ぜわしい街ではじけるように笑いあいました。
二人は幼稚園の子供のように
足並をそろえて街の片隅を歩いていた。
同じような運命を持った女が
同じように眼と眼とみあわせて淋しく笑ったのです。
なにくそ!
笑え! 笑え! 笑え!
たった二人の女が笑ったとて
つれない世間に遠慮は無用だ
私達も街の人達に負けないで
国へのお
甘い匂いが嬉しいのです
私の古里は遠い四国の海辺
そこには父もあり母もあり
家も垣根も井戸も樹木も
ねえ、小僧さん!
お江戸日本橋のマークのはいった
大きな広告を張って下さい
嬉しさをもたない父母が
どんなに喜んで遠い近所に
――娘があなた、お江戸の日本橋から買って送って
ハイ……。
信州の山深い古里を持つかの女も
茶色のマントをふくらませ
いつもの白い歯で叫んだのです。
――明日は明日の風が吹くから、ありったけの銭で買って送りましょう……。
小僧さんの持っている木箱には
さつまあげ、
二人は同じような笑いを感受しあって
日本橋に立ちました。
日本橋! 日本橋!
日本橋はよいところ
白い鴎が飛んでいた。
二人はなぜか淋しく手を握りあって歩いたのです。
ガラスのように固い空気なんて突き破って行こう
二人はどん底の唄をうたいながら
気ぜわしい街ではじけるように笑いあいました。
私はなつかしい木箱の匂いを胸に抱いて、国へのお歳暮を愉しむ思いだった。
(十二月×日)
「今夜は、庄野さんが遊びに来てよ、ひょっとすると、貴女の詩集位は出してくれるかもわからないわね。新聞をやっているひとの息子ですってよ……」
たいさんがそんなことを云った。たいさんと二人で夕飯を食べ終ると、二人は隣の部屋の、軍人上りの株屋さんだと云う、子持ちの夫婦者のところへまねかれて遊びに行く。「貴女達は呑気ですね。」たいさんも私もニヤニヤ笑っている。お茶をよばれながら、三十分も話をしていると庄野さんがやって来た。インバネスを着て、ぞろりとした恰好だ。この人は酔っぱらっているんじゃないかと思う程クニャクニャした
飯田さんがたい子さんにおこっている。飯田さんは、たい子さんの額にインキ壺を投げつけた。唾が飛ぶ。私は男への反感がむらむらと燃えた。「何をするんですッ。又、たい子さんもどうしたのッ、これは……」たいさんは、流れる涙をせぐりあげながら話した。「飯田にいじめられていると、山本のいいところが浮んで来るの、山本のところへ行くと、山本がものたりなくなるのよ。」「どっちをお前は本当に愛しているのだ?」私は二人の男がにくらしかった。
「何だ貴方達だって、いいかげんな事をしてるじゃないのッ!」
「なにッ!」
飯田さんは私を睨む。
「私は飯田を愛しています。」
たい子さんはキッパリ云い切ると、飯田さんをジロリと見上げていた。私はたいさんが
「山本君だって飯田君だってたいさんだって、あとで聞いたら関係があると云うかも知れないね。」
「云ったっていいでしょう。貴方も公明正大なら、私も公明正大ね、一夜の宿をしてくれてもいいでしょう。蒲団がなけりゃ仕様がないもの。」
私は、私に許された領分だけ手足をのばして目をとじた。たいさんも宿が出来たかしら……目頭に熱い涙が
「庄野さん! 明日起きたら、御飯を食べさせて下さいね、それからお金もかしてね、働いて返しますから……」
私は朝まで眠ってはならないと思った。男のコウフン状態なんて、政治家と同じようなものだ、駄目だと思ったらケロリとしている。明日になったら、又どっかへ行くみちをみつけなくてはいけないと思う。
(十二月×日)
ゆかいな朝である。一人の男に打ち勝って、私は意気ようようと酒屋の二階へ帰ってきた。たいさんも帰っていた。畳の上では何か焼いた跡らしく、点々と畳が焦げていて、たいさんの茶色のマントが、見るもむざんに破られていた。
「庄野さんとこへ昨夜泊ったのよ。」
たいさんはニヤリと笑っていた。いやな笑いかたである。思うように思うがいいだろう。私はもう捨てばちであった。たいさんはいいひとが出来たと云った。そして結婚をするかも知れないと云っている。うらやましくて仕様がない。今は只沈黙っていたいと云っていた。淋しかったが、たいさんの顔は何か輝いていて幸福そうだ。みじめな者は私一人じゃないか。私はくず折れた気持ちで、片づけているたい子さんの白い手を
*
(二月×日)
黄水仙の花には何か思い出がある。窓をあけると、隣の家の座敷に燈火がついていて、二階から見える黒い卓子の上には黄水仙が三毛猫のように見えた。階下の台所から夕方の
外へ出てみる。町には魚の匂いが流れている。公園にゆくと夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。固い御飯だって
「オイ! 凸坊! おばちゃんに負けないでもっともっと大きい声で泣け、遠慮なんかしないで、汽笛の様な大きな声で泣くんだよ。」
恭ちゃんが凸坊の頭を優しく叩くと、まるで町を吹き流してくるじんたのクラリオネットみたいに、凸坊は節をつけて大声をあげて泣いた。私の胸にはおかしく温かいものが矢のように流れてくる。
「時ちゃんて娘どうして?」
「月初めに別れちゃったわ、どこへ行ったんだか、仕合せになったでしょう……」
「若いから貧乏に負けっちまうのよ。」
私は赤い毛糸のシャツを二枚持っているから、一枚を節ちゃんに上げようと思った。節ちゃんの肌が寒そうだった。寝転んで、天井を
星がラッパを吹いている。
突きさしたら血が吹きこぼれそうだ
破れ靴のように捨てられた白いベンチの上に
私はまるで淫売婦のような姿態で
無数の星の冷たさを眺めている。
朝になれば
あんな光った星は消えてしまうじゃありませんか
誰でもいい!
思想も哲学もけいべつしてしまった、白いベンチの女の上に
臭い接吻でも浴びせて下さいな
一つの現実は
しばし飢えを満たしてくれますからね。
突きさしたら血が吹きこぼれそうだ
破れ靴のように捨てられた白いベンチの上に
私はまるで淫売婦のような姿態で
無数の星の冷たさを眺めている。
朝になれば
あんな光った星は消えてしまうじゃありませんか
誰でもいい!
思想も哲学もけいべつしてしまった、白いベンチの女の上に
臭い接吻でも浴びせて下さいな
一つの現実は
しばし飢えを満たしてくれますからね。
家に帰る事が、むしょうに厭になってしまった。人間の生活とは、かくまでも侘しいものなのか! ベンチに下駄をぶらさげたまま横になっていると、星があんまりまぶしい。星は何をして生きているのだろう。
星になった女! 星から生まれた女! 頭がはっきりする事は、風が筒抜けで馬鹿のように悲しくなるだけだ。夜更け、馬に追いかけられた夢を見た。隣室の唸り声頭痛し。
(二月×日)
朝から雪混りの雨が降っている。寝床で当にならない原稿を書いていると、十子が遊びに来てくれた。
「私、どこへも行く所がなくなったのよ、二三日泊めてくれない?」
羽根のもげたこおろぎのような彼女の姿態から、押花のような匂いをかいだ。
「二三日泊めることは安いことだけれど、お米も何もないのよ、それでよかったら何日でも泊っていらっしゃい。」
「カフエーのお客って、みんなジュウみたいね、鼻のさきばかり赤くしていて、真実なんかと云うものは爪の
「カフエーのお客でなくったって、いま時、物々交換でなくちゃ……この世の中はせち辛いのよ。」
「あんなところで働くのは、体より神経の方が先に参っちゃうわね。」
十子は、帯を
寒い夜気に当って、
「どう? 少しは暖かい?」
「大丈夫よ……」
十子は蒲団を頬までずり上げると、静かに息を殺して泣き出していた。
午前一時。二人で戸外へ出て支那そばを食べた。朝から何もたべていなかった私は、その支那そばがみんな火になってしまうようなおいしい気持ちがした。炬燵がなくても、二人で蒲団にはいっていると、平和な気持ちになってくる。いいものを書きましょう、努力しましょう……。
(二月×日)
朝六枚ばかりの短篇を書きあげる。この六枚ばかりのものを持って、雑誌社をまわることは憂鬱になって来た。十子は食パンを一斤買って来てくれる。古新聞を焚いて茶をわかしていると、
「私、つくづく家でも持って落ちつきたくなったのよ、風呂敷一ツさげて、あっちこっち、カフエーやバーをめがけて歩くのは心細くなって来たの……」
「私、家なんかちっとも持ちたくなんぞならないわ。このまま煙のように呆っと消えられるものなら、その方がずっといい。」
「つまらないわね。」
「いっそ、世界中の人間が、一日に二時間だけ働くようになればいいとおもうわ、あとは野や山に裸で踊れるじゃないの、生活とは? なんて、めんどくさい事考えなくてもいいのにね。」
階下より部屋代をさいそくされる。カフエー時代に、私に安ものの、ヴァニティケースをくれた男があったけれど、あの男にでも金をかりようかしらと思う。
「あああの人? あの人ならいいわ、ゆみちゃんに参っていたんだから……」
ハガキを出してみる、神様! こんな事が悪い事だとお叱り下さいますな。
(二月×日)
思いあまって、夜、森川町の
「ね、先生! おしるこでも食べましょうよ。」
順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして、秋声氏の細い肩に
「ね、先生! 私こんどの女性の小説の題をなんてつけましょう? 考えて見て頂戴な。流れるままには少しチンプだから……」
順子さんがこんな事を云った。団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると、順子さんは、寒いから、何か
「あなた、どこか美味いところ知ってらっしゃる?」
秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、そうねとおっしゃったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。二人に別れて、やがて
(二月×日)
新聞社に原稿をあずけて帰って来ると、ハガキが一枚来ていた。今夜来ると云う、あの男からの速達だった。十ちゃんも芳ちゃんも仕事を見つけに行ったのか、部屋の中は火が消えたように淋しかった。あんな男に金を貸してくれなんて言えたものではないではないか……、十ちゃんに相談をしてみようかと思う……、妙に胸がさわがしくなってきた。あのヴァニティケースだってほてい屋の開業日だって云うので、物好きに買って来た何割引かのものなのだ。そうして、偶然に私の番だったので、くれたようなものであろう。路傍の人以外に何でもありはしないではないの。あんなハガキ一本で来ると云う速達をみて気持ち悪し。その人はもうかなりな年であったし、私は歯がズキズキする程胸さわがしくなってしまった。夜。――
「十円位ならいつでも貸してあげるよ。」
暗いガラス戸をかすめて雪が降っている。私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で「ね!」と云った。私はたまらなく汚れた憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云ったのだ。
「私はそんなンじゃないんですよ。食えないから、お金だけ貸してほしかったのです。」
隣室で、細君のクスクス笑う声が聞えている。
「誰です! 笑っているのは……笑いたければ私の前で笑って下さい!
男の出て行った後、私は二階から果物籠を地球のように路地へほうり投げてしまった。
*
(二月×日)
私は私がボロカス女だと云うことに溺れないように用心をしていた。街を歩いている女を見ると、自分のみっともなさを感じないけれども、何日も食えないで、じっと隣室の
夜。
利秋君が、富山の薬袋に米を一升持って来てくれる。この男には、何度も背負い投げを食わしたけれど、私はこんなアナキストは嫌いなのだ。「貴女が死ぬほど好きだ。」と言ってくれたところで、大和館でのように、朝も晩も朝も晩も遠くから私を監視している状態なんて、私の好かないところです。
「もう当分御飯を食べる事を休業しようかと思っていますのよ。」
私は固く扉を閉ざしてかぎをかけた。少しばかり腹を満たしたいために、不用な渦を吸いたくなかった。頭の頂天まで飢えて来ると鉄板のように体がパンパン鳴っているようで、すばらしい手紙が書きたくなってくる。だが、私はやっぱり食べたいのです。ああ私が生きてゆくには、カフエーの女給とか女中だなんて! 十本の指から血がほとばしって出そうなこの肌寒さ……さあカクメイでも何でも持って来い。ジャンダークなんて吹っ飛ばしてしまおう。だがとにかく、何もかもからっぽなのだ。階下の人達が風呂へ行ってる隙に味噌汁を盗んで飲む。神よ
あああさましや芙美子消えてしまえである。
働いていても、自分には爪の垢ほども食べるたしにはならないなんて、今までの
私はこのすばらしいエクスタシイを前にして、誰に最後の
海ぞいの黍畑 に
何の願いぞも
固き葉の颯々 と吹き荒れて
二十五の女は
真実命を切りたき思いなり
真実死にたき思いなり
伸びあがり伸び上りたる
玉蜀黍 は儚 なや実が一ツ
何の願いぞも
固き葉の
二十五の女は
真実命を切りたき思いなり
真実死にたき思いなり
伸びあがり伸び上りたる
ああこんな感傷を手紙の中にいれる事は止めましょう。イサベラ皇后様がコロンブスを見つけた興奮で、私のペン先はもうしどろもどろなのだ。ああソロモンの百合の花に、ドブドブと墨汁をなすりつけ給え!
(二月×日)
朝、冷たい霧雨が降っていた。晩あたりは雪になるかも知れない。久しく煙草も吸わない。この美しい寝ざめを、ああ石油の匂いのプンプンする新らしい新聞が読みたいものだと思う。
隣室のにぎやかな茶碗の音、我に遠きものあり。昨夜書いた二通の手紙、私は薄っすりとした笑いを心に感じると、何もかも、馬鹿くさい気がしてしまった。だけどまあ、人生なんてどっちを見ても薄情なものだ。真実めかして……ところで、問題は私の懐中に三銭の銅貨があることである。この三銭のお金にセンチメンタルを送ってもらうなんて事は、向う様に対してボウトクだけれど、十銭玉で七銭おつりを取るヨユウがあったら、私はこの二通の手紙を書かないで済んだかも知れないのだ――。日本綴りのボロボロになった「一茶句集」を出して読むなり。
きょうの日も棒ふり虫よ翌日 も又
故郷は蠅 まで人をさしにけり
思うまじ見まじとすれど我家かな
故郷は
思うまじ見まじとすれど我家かな
一茶は徹底した虚無主義者だ。だけど、いま私は飢えているのです。この本がいくらにでも売れないかしら。――寝たっきりなので、体をもち上げるとポキポキ骨が鳴ってくる。指で輪をこしらえて、私の首を巻いてみると、おいたわしや私の動脈は別に油をさしてやらないのに、ドクドク澄んだ音で血が流れを登っている。尊しや。
二通の手紙。ドッチヲサキニダシマショウカ。何と他愛もない事なのだろう。吉田氏へ手紙を出す事にきめる。さて、音のしなくなった足をふみしめて街に出てみるなり。
湯島天神に行ってみた。お爺さんが車をぶんぶんまわして、桃色の綿菓子をつくっていた。あるかなきかの桃色の泡が
「おじいさん、三銭下さいな。」
あえなくも菜っぱと小鳥の感傷が、桃色の甘い綿菓子に変ってしまった。何と愛すべき感傷であろう。私の
(三月×日)
昼夜帯と本を二三冊売って二円十銭つくる。本屋さんが家までついて来て云う事には、「お家さえ判っておりませば、又頂きに上ります。」どういたしまして、私の押入れの中はマニア作家の頭のように、がらくたばかりですよ。
昼。
浅草へ行った。浅草はちっぽけな都会心から離れた楽土です。そんなことをどっかの屋根裏作家が云いました。浅草は下品で鼻もちがならぬとね。どのお方も一カ月せっせと豚のように食っているものだから、頭ばかり
「ヤア!」
楽屋へ坐っていると、下男風な
「随分御無沙汰しています。」
「お元気でしたか。」
浅草の真中の劇場の中で久し振りに、私は別れた男の声を聞いた。
「芝居でも見ていらっしゃい、一役すんだら私のは済むんだからお茶でも飲みましょう!」
「ええ、ありがとう、奥さんもいま一緒に何か
「あああれ! 死にましたよ、肺炎で。」
あんなにも憎しみを持って別れた女優の顔が、遠くに浮んで、私はしばらくは信じられなかった。この男はとても真面目な顔をして嘘をついたから……。
「嘘でしょう。」
「貴女に嘘なんかついたって仕様がないもの、前々から体は弱かったのね。」
「本当ですか? 気の毒な……顔をつくって下さいな、私初めて貴方の楽屋を見たの。楽屋の中って随分淋しいもんね。」
男と話していると、背の高い若侍が、両刀をたばさんではいって来る。
「ああ紹介しましょう、この人は宮島
このひとはきっちりと肉のしまった、青年らしい肩つきをしていた。――随分、この男も年をとったとも思えるし、鞄の中から詩稿なぞを出しているのを見ると、この人が役者である事が場違いのような気がして仕方がない。体だって肥っているし、それに年をとって、若い渋味のない声だし、こんな若い人達ばかりの間に混って芝居なんかしているのが、気の毒に思えて仕方がなかった。私はこの男と田端に家を持った時、初めて肩上げをおろしたのを覚えている。「僕の芝居を見て下さい、そして昔のように又悪口たたかれるかな。」私は名刺をもらうと楽屋口から外へ出た。今さらあの男の芝居を見たところでしようがないし、だが、大きな雨がひとしずく私の頬にかかってきたので、あわてて小屋へはいるなり。舞台はバテレン信徒を押し込めてある
(三月×日)
五色のテープがヒラヒラ舞っていた。
どこかで爆竹の弾ける音がすさまじく耳のそばでしている。飛行機かしら、モータボートかしら……私の錯覚から、白い泡を飛ばしている海の風景が空の上に見えてきました。銀色の燈台が限の底に
「洗濯屋の二階だけれどいいところよ、引越さない?」
私は生きていたい。死にそくないの私を、いたわってくれるのは男や友人なんかではなかった。この十子一人だけが、私の額をなでていてくれている。私は生きたい。そして、何でもいいから生きて働く事が本当の事だと思う――。
[#改ページ]
私は生きる事が苦しくなると、故郷というものを考える。死ぬる時は古里で死にたいものだとよく人がこんなことも云うけれども、そんな事を聞くと、私はまた故郷と云うものをしみじみと考えてみるのだ。
毎年、春秋になると、巡査がやって来て原籍をしらべて行くけれど、私は故郷というものをそのたびに考えさせられている。「貴女のお国は、いったいどこが本当なのですか?」と、人に
夏になると、島には沢山青いゴリがなった。城山へ遠足に行った時なんか、弁当を開くと、裏で出来た
肉親とはかくもつれなきものかな! 花が何も咲いていなかったせいか、私は門を出がけに手にさわった
「チンチン行きもんそかい。」
「おじゃったもはんか。」
などと云う言葉を、母は国を出て三十年にもなるのに、東京の真中で平気でつかっているのだ。――長い事たよりのなかった私達に、姉が長い手紙をくれて言う事には、「母さん! お元気ですか、いつもお案じ申しています。私はこの春、男の子を産みましたけれど、この五月は初のせっくです、華やかに祝ってやりたくぞんじます。」私はその手紙を見て、どんなにか厭な思いであった。そうして私の心は固く冷たかった。「お母さん! 義理だとか人情だとか、そんな考えだけは捨てて下さい。長い間、私達はどれだけの義理にすがって生きていたのでしょうか、人情にすがっていたのでしょうか、いつも蹴とばされ、はねられどおしで三人はこれまで来たのですよ。私は赤ん坊に祝ってやる事をおしんでいるのではないのですけれども、覚えていますかお母さん!」困って、最後に、
ああ二十五の女心の痛みかな
遠く海の色透きて見ゆる
黍畑 に立ちたり二十五の女は
玉蜀黍 よ、玉蜀黍
かくばかり胸の痛むかな
二十五の女は海を眺めて只呆然となり果てぬ。
一ツ二ツ三ツ四ツ
玉蜀黍の粒々は、二十五の女の侘しくも物ほしげなる片言なり
蒼い海風も
黄いろなる黍畑の風も
黒い土の吐息も
二十五の女心を濡らすかな。
海ぞいの黍畑に立ちて
何の願いぞも
固き葉の颯々と吹き荒れるを見て
二十五の女は
真実命を切りたき思いなり
真実死にたき思いなり
伸びあがり伸びあがりたる
玉蜀黍は儚なや実が一ツ
ここまでたどりつきたる二十五の女の心は
真実男はいらぬもの
そは悲しくむずかしき玩具ゆえ
真実世帯に疲れるとき
生きようか、死のうか
さても侘しきあきらめかや
真実友はなつかしけれど一人一人の心故……
黍の葉の気ぜわしいやけなそぶりよ
二十五の女心は
一切を捨て走りたき思いなり
片眼をつむり片眼をひらき
ああ術 もなし男も欲しや旅もなつかし
ああもしようと思い
こうもしようと思う……
おだまきの糸つれづれに
二十五の呆然と生き果てし女は
黍畑の畝に寝ころび
いっそ深々と眠りたき思いなり
ああかくばかりせんもなき
二十五の女心の迷いかな。
遠く海の色透きて見ゆる
かくばかり胸の痛むかな
二十五の女は海を眺めて只呆然となり果てぬ。
一ツ二ツ三ツ四ツ
玉蜀黍の粒々は、二十五の女の侘しくも物ほしげなる片言なり
蒼い海風も
黄いろなる黍畑の風も
黒い土の吐息も
二十五の女心を濡らすかな。
海ぞいの黍畑に立ちて
何の願いぞも
固き葉の颯々と吹き荒れるを見て
二十五の女は
真実命を切りたき思いなり
真実死にたき思いなり
伸びあがり伸びあがりたる
玉蜀黍は儚なや実が一ツ
ここまでたどりつきたる二十五の女の心は
真実男はいらぬもの
そは悲しくむずかしき玩具ゆえ
真実世帯に疲れるとき
生きようか、死のうか
さても侘しきあきらめかや
真実友はなつかしけれど一人一人の心故……
黍の葉の気ぜわしいやけなそぶりよ
二十五の女心は
一切を捨て走りたき思いなり
片眼をつむり片眼をひらき
ああ
ああもしようと思い
こうもしようと思う……
おだまきの糸つれづれに
二十五の呆然と生き果てし女は
黍畑の畝に寝ころび
いっそ深々と眠りたき思いなり
ああかくばかりせんもなき
二十五の女心の迷いかな。
これだけがせいいっぱいの、私のいまの生きかたなのです、そしてこの頃の私は、火のような
これからの私は、私の仕事に一生懸命に没入しようと思っている。子供のような天真な心で生きて行きたいと思うけれども、この四五年の私の生活は、体の放浪や、旅愁なんかと云うなまやさしいものではなかった。行くところもないようないまだに苦しい生活の連続でした。私はうんうん唸ってすごして来ました。どこまでが真実なのか、どこまでが嘘なのか、見当もつかない色々なからくりを見て、むかしの何か愉しいものが、もういまは、ほんとうに何もなかったのだと云う淋しさ……。空へのあこがれ、土へのあこがれ、沈黙って遠い姉にも、何か祝ってやってもいいではないかとも思っています。母の弱い気持ちもなごむにちがいないのです。愚にもつかない私のひねくれた気持ちを
林芙美子と云う名前は、少々私には苦しいものになって来ました。甘くて根気がなくて淋しがりやで。私は一度、この名前をこの世の中からほんとうになくしてしまいたいとさえ考えています。道を歩いている時、雑誌のポスターの中に、「林芙美子」と云う文字を見出す時がある。いったい林芙美子とはどこの誰なのだろうと考えています。街を歩いている私は、街裏の女よりも気弱で、二三年も着古した着物を着て、石突きの長い雨傘を持って、ポクポク道を歩いている。昔の私は、着る浴衣もなくて、紅い海水着一枚で
小都会の港町に生れた赤毛の娘は、そのおいたちのままで、労働者とでも連れ添っていた方が、私にはどんなにか幸福であったかも知れない。今の生活は、私と云うものを、広告のようにキリキザンで方々へ吹き飛ばしているようなものでしょう。生活がまるで中途半端であり、生活が中途半端だからよけいに苦しい。――少しばかり生活が楽になった故、義父も母も呼びよせてはみたけれども、貧しく、あのように一つに共同しあっていた者達の気持ちが、一軒の家に集まってみると、一人一人の気持ちが東や西や南へてんでに背を向けているのでした。皆、円陣をつくって、こちらへ向いて下さいと願っても、一人一人が一国一城の
放牧の民のようであった私の一族と云うものが、いまは、一定の土地に落ちついて、私の云う、半安住生活に落ちついている異民族的な集りになりましたけれど、そして、皆々東や西や南へ向って行く気持ちは解るのだけれども、そこに暗雲が渦をなして流れて行くのは、何としてもいなみがたい事だろうと思える。私はなるたけいい生活をして行きたいと思いました。善良な人達である故に、その善良な人達を苦しめたくないと思い、この二三年、幾度となく離れたり集まってみたりもしてみました。打ち割って云えば、母と二人だけで簡素な生活に這入れる事が、ほんとうは一番の理想なのだけれども、仲々そうもゆかない。私の母はフィリップ型の女で、気弱なくせに勝気でその日その日だ。私は長い間、この母親の姿だけを恋い求めていたようです。義父は母よりも若いひとで、色々な曲折はあったけれども二十年もこの養父は母と連れ添っていました。私は自分の作品の中に、この義父の事を大変思いやり深くは書いているけれども、十七八の頃は、この義父をあまり好かなかったようです。だけど、いまは、私もあれから十年も年齢をとりました。私もひとかどの分別がついて来ると、好きとか嫌いと云うよりもまずこの父を気の毒な人であったと思い始め、養父に就いてそんなに心苦しくも思わないのだけれども、母親に対するような愛情のないのは何としても仕方がないと思っています。私は十二三歳の頃から働いていました。両親に送金を始めたのは十七八歳の頃からであったでしょう。不思議にキモノ一つ欲しいとも思わなかったせいか、働くことはあたりまえの事だと思ってわずかながらも私は送金をしていました。
現在になって、私はどうやら両親を遊ばせておける位になったのだけれども、その日その日を働いて日銭をもうけて来ている人達なので、仲々私につきそって隠居をして来ようとはしない。私から商売の資本を貰っては、今だに小商売を始めて、四五日とたたないですぐ失敗をしているのです。私はこんなことにくたびれ始めました。隠居をして草でもむしっていてくれている方が、私にはうれしいのだけれども、何としても仕方がないのです。皆が別な意味で私をたよりきっているとも云えます。収入と云えば私の「書く」と云う事だけのことで、別にしっかりした安定もないのだ。世に知れている私と云うものは、ふてぶてしくあるかも知れない。酒呑みのようにきこえているかも知れない。だが、私はほんとうは酒も煙草もきらいだ。酒をのむことで気持ちを誤魔化していられるうちは楽だけれども、いまはそんなもので誤魔化しきれなくなってしまいました。皆々あまり善良すぎる人達故に。――私はまた七年前にひそやかながら現在の夫と結婚をしている。義父にはまだ母親がいるし、私から云えば義理の祖母なのだけれども、この祖母の持論は、「お前のお母さんの為めに、私の息子が二十年間も子供もなく、男の一生が
朝起きて、小さな女中を相手に食膳をととのえ、昼は昼、夜は夜の食事から、米味噌の気づかい、自分の部屋の掃除、洗濯、来客、仲々私の生活も忙がしい。その間に自分のものも書いて行かなければならないのです。自分の作品の批評についても、私は仲々気にかかるし、反省もし、勉強も続けてはいるけれども、時々空虚なものが私を噛みます。梅雨時はとくにうっとうしいせいか、思いきりよく果ててしまいたい気も時にするときがあります。このまま消えてしまったならばせいせいするだろうと云った気持ちが切なのです。だけど、私がいなくなってしまえば、
何の雑誌であったか、最近松井須磨子の写真を見ました。実に美しかった。精練の美がにじみ出ていた。このひとの老いた顔を、この写真から想像する事は出来ない。霜のように烈々とした美しい写真であった。天才肌のこの様な女の死はひどく
私はまた一面には台所をたいへん愛しています。家族の者達を愛していることは
「お前の仕事なぞ大したもンじゃないじゃないか。」言葉の行きがかりで夫の口から時にこの様なことも聞くけれど、あんまり当り過ぎている事を、あまり身近な人間からきかされるので、痛いと云うよりも冷汗が出る思いでした。私の仕事と云えば、色々な
過去に、私はまた一つの恋愛を持っていたこともあるけれど、これにはプレイトニズムではないけれど、私の芸術の中に、「恋をするものの
私は、書けるだけ書こう。体は割合丈夫だ。その丈夫さがいとわしいのだけれど、仕事をするには、体が健全でなければならないと思っています。果てる時は果てる時だと思っている。大熊長次郎と云う人の歌にこの様なのがある。
静にぞねむらせたまえ
人間の
命死にゆく時のおわりに
人間の
命死にゆく時のおわりに
これは、ほのぼのとした歌で、強がっている私を妙に悲しがらせる。実際悲しい時がある。勉強も字を書く事も嫌になってしまう時がある。芝居や映画も久しく疎縁だ。白々しい時は、唇に両手をあててじっとしているに限る。媒介物によって身を終ってしまいたいような、そんな
どうも、私はこの頃恐怖症にかかっているのかも知れない。人がみなおそろしく思える。訪ねてくれる人より外、私は私の方からは誰も訪ねて行かない。夢をみてもおそろしい。
人にあれこれ云われなくても反省しすぎる位、反省して私は自分の事をさらけだしているつもりだ。この上何の思い出だろう。過去の事は、
今は、両親とも別居してしまいました。広い家には私は女中と二人で気抜けしたように呆んやりしているけれど、愛してほしいと云う気持ちの母親が、まるで子供みたいに遠く離れていっていますし。――新聞を見ると毎日身上相談と云うものがある。実際女と云うものの身上が、いかに
只、力を出して仕事に熱中し努力したいと思っています。それより他には私には何もなくなったのだ。何かもっと云いたい気もするけれども、心が鬱々としている時、何かはっきり云えない気持ちなのです。――静かな観照、素材の純化、孤独な地域、この様な作品を長年
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第三部
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(三月×日)
都会の上にも光る
烏が白く光る
花粉の街 電信柱のいただき
ゆれますよ ゆれてるよ
停るところがない
肺が歌う 短い景色の歌なの。
茶色の雨の中を
私は耳をおさえて歩く
耳が痛い 痛いのよ
雨中の烏が光る
もがきながら飛ぶ
肺が歌う 短い景色の歌なの。
私は何故歩くのだろう
烏の命数だ
烏のようにどこかで私は生れた
停るところのない夜
光って飛ぶ
自分が光るのではない
四囲の光線がわっと笑うのだ
私の肺が歌う それだけなの……。
独り住いの猫 独り住いの犬
誰もいない
露が消える
烏の空 光る烏
よろめき よろめき 只光る烏
肺が歌う 肺だけが歌うだけなのよ。
二つの肺の袋だけが私のような気かする。郵便がもどって来たので、ああそうかと思う。
読売新聞に送った「肺が歌う」と云う詩、清水さんと云うお方が長くて載せられぬと云う手紙だ。花柳病の薬の広告はいやにでっかく出ているけれども、貧乏な女の詩は長くて新聞には載せられないのだ。
たった八頁の新聞は馬鹿な詩なぞよちがないのだ。
ピアレスベッドの広告が出ている。私はこんな丈夫な、ハイカラなベッドに一度も寝たことがない。タイガー美人女給募集。白いエプロンをかけて、長い
さて、どっこいしょ!
いやに
肺が歌うなぞと云う、たわけた詩が金になるとは思わないけれども、それでも、世間には一人位はものずきな人間がありそうなものだ。
寝床をかたづけて髪結いに行く。
金鶴香水を一
もうじき花見なのだ。
桃割れに結って貰う。安いかもじなので、どうにも工合が悪く、眉も眼尻も
「また昼間っからやってるよ。どったんばったん
髪結さんがびんまどに、筋槍をつきたてながらくすくす笑っている。みんなも笑った。御亭主は株屋で、細君は
白いたけながをかけてもらう。結い賃が三十銭、たけながが二銭、三十五銭払う。
まるで頭の上は果物籠をのっけたような感じ、十五日ぶりでさっぱりとする。
肺が歌うがつっかえされたのだから、今度は品をかえて童話を持って行く事にする。
あんなかっこうをして生きてゆく人もある。日当はいくら位になるのかしら……。私は知らん顔をして窓の外を見ていたけれど、段々、むちゃくちゃになってもいいような気がしてきた。一人位、私と連れ添う男はないものかと思う。
私を好きだと云うひとは、私と同じようにみんな貧乏だ。風に吹かれる雨戸のようにふわふわしている。それっきりだ。
銀座へ出て滝山町の朝日新聞に行く。中野秀人と云うひとに逢う。花柳はるみと云う髪を
中野さんの赤いネクタイが
紹介状も何もない女の詩なんか、どこの新聞社だって迷惑なのだ。銀座通りを歩く。
広告に出ていたタイガーと云う店があった。並んで松月と云う店もある。みとれるように綺麗なひとがきどった小さい白まえだれをしてのぞいている。胸まであるエプロンはもう
砂まじりの強い風が吹いた。
四丁目で、コック風な男が、通りすがりの人に広告マッチを一つずつくれている。私も貰った。後がえりして二つも貰った。
ものを書いて金にしようなぞと考えた事が、まるで夢みたいに遠い事に思える。表通りの暮しは、裏通りの生活とはまるきり違うのだ。十銭の牛飯も食えないなんて……。
(三月×日)
ハイネとはどんな西洋人か知らない。
甘い詩を書く。
恋の詩も書く。ドイツのお母さんの詩も書く。そして詩が売れる。生田春月と云うひとはどんなおじさんかな……。ホンヤクと云う事は飯を煮なおして、焼飯にする事かな。ハイネと生田春月はどんなカンケイなのか知らないけれど、本屋の棚にハイネが生れた。ぽつんと立っている。
私は無政府主義者だ。
こんなきゅうくつな政冶なんてまっぴらごめんだ。人間と自然がたわむれて、ひねもす生殖のいとなみ……それでよいではございませんか。猫も夜々を哀れにないて歩いている。私もあんなにして男がほしいと云って歩きたい。
朝から水ばかり飲んでいる。盗人にはいる空想をする。どなたさまも戸締りに御用心。いまのところ、私は立派な無政府主義者を自任している。ひどいことをしてみせようと思っている。
夜。牛めしを食べて、ロート眼薬を買う。
(五月×日)
夜、牛込の生田
このひとはらい病だと聞いていたけれど、そんな事はどうでもいい。詩人になりたいと云ったら、何とか筋道をつけてくれるかもしれない。
私はもう七十銭しか持っていないのだ。
部屋の隅っこに小さくなっていると、生田氏がすっと奥から出て来た。何の変哲もない大島の光った着物を着ている、
声の小さい、優しいひとであった。
何も云わないで、原稿を見ていただきたいと云ったら、いま、すぐには見られないと云う。
私は七十銭しか持っていないので、躯中がかあと熱くなる。
「どんなひとの詩を読みましたか?」
「はい、ハイネを読みました。ホイットマンも読みました」
高級な詩を読むと云う事を、云っておかないと悪いような気がした。だけど、本当はハイネもホイットマンも私のこころからは千万里も遠いひとだ。
「プウシュキンは好きです」
私はいそいで本当の事を云った。
あなたも御病気で悲惨のきわみだけれど、私も貧乏で、悲惨のきわみなのです。四百四病の病より、貧よりつらいものはないと、うちのおっかさんが口癖に云います。だから、私はころされた大杉
広い部屋。暗い床の間に切り口の白い本が少し積み重ねてある。シタンの机が一つ。暑くるしいのに障子が閉めてある。傘のない電燈が馬鹿にくらい。
遠くに離れて坐っているので、生田さんは馬鹿に細っこく見える。四十位のひとだと思う。
何と云う事もなく、生田春月と云うひとを尋ねるべきだったと思う。婆やさんみたいなひとがお茶を持って来たので、私はがぶりと飲んだ。
病気のひとをぶじょくしてはいけないと思った。
詩の原稿をあずけて帰る。
どうにかなるだろう。どうにもならないでもそれきり。
上野広小路のビールのイルミネーションが暗い空に
おしる粉一ぱいあがったよのだみ声にさそわれて、五銭のおしる粉を食べた。夜店が
水中花、ナフタリンの花、サスペンダー、ロシヤパン、万能大根刻み、玉子の泡立器、古本屋の赤い表紙のクロポトキン、青い表紙の人形の家。ぱらぱらと頁をめくると、松井須磨子の厚化粧の舞台姿の写真が出て来る。
福神漬屋の
十三屋の
いっとき立ちどまってきく。
艶歌師がうたってくれるようないい小説が書きたい。だけど、小説は長ったらしくてめんどうくさい。ルパシカを着て、紐を前で長く結んでいる艶歌師の四角い顔が、文章
路地をはいってゆくと、湯がえりの階下のおばさんに逢った。おばさんは洗濯物を夜干していた。
「部屋代、何とかして下さいよ。本当に困るンですからね……」
はいはい、私だって本当に困るンですよ。じっさいのところ、私だって苦労しつづけたのですよと云いたかった。
明日は玉の井に身売りでもしようかと思う。
(五月×日)
地虫が鳴いている。
ぷちぷち音をたてて青葉が
階下ではばくちが始っている。
魚の骨の骨
水流に滴 る岸辺の草
魚の骨の骨
蕨色 の雲間に浮ぶ灰
今日 はと河下のあいさつ
悶 と云う字 女の字
悶は股 の中にある
嫋々 と匂う股の中にある
悶と云う字よ。
魚の骨の骨
弓をひいて奉る一筆
魚の骨の骨
還 かえってくる情愛
愁 と云う字 その字
天下の人々が口にする
腸 のなかにある
愁いの海に沈む舟よ。
一切無我!
○
この街にいろいろな人が集ってくる
飢えによる堕落の人々
萎縮 した顔 病める肉体の渦
下層階級のはきだめ
天皇陛下は狂っておいでになるそうだ
患っているもののみの東京!
一層怖 ろしい風が吹く
ああ、何処 から吹く風なのだ!
情事ははびこる かびが生える
美しい思想とか
善良な思想と云うものがない
おびえて暮している
みんな何かにおびえている。
隙間から見える蒼 ざめたる天使
不思議な無限……
神秘なことには陛下は狂っておいでになると云う。
貧弱な行為と汎神論 者の鍋
りくぞくと集ってくる人々
何かを犯しに来る人々の群
街の大時計も狂いはじめた。
水流に
魚の骨の骨
悶は
悶と云う字よ。
魚の骨の骨
弓をひいて奉る一筆
魚の骨の骨
天下の人々が口にする
愁いの海に沈む舟よ。
一切無我!
○
この街にいろいろな人が集ってくる
飢えによる堕落の人々
下層階級のはきだめ
天皇陛下は狂っておいでになるそうだ
患っているもののみの東京!
一層
ああ、
情事ははびこる かびが生える
美しい思想とか
善良な思想と云うものがない
おびえて暮している
みんな何かにおびえている。
隙間から見える
不思議な無限……
神秘なことには陛下は狂っておいでになると云う。
貧弱な行為と
りくぞくと集ってくる人々
何かを犯しに来る人々の群
街の大時計も狂いはじめた。
(五月×日)
雨。
ユーゴーの惨めな人々を読む。
ナポレオンは英雄で、ワーテルローの背景をすぐ眼に浮べるほど立派なおかたと思っていたのだけれど、共和制をくつがえして、ナポレオン帝国をたてた矛盾が、変に気にかかって来る。こうした世の中で、たった一片のパンを盗んだ男が十九年も
たった一片のパンで、十九年の牢獄生活に耐えてゆく、人間も人間。世の中も世の中なりか。
駄菓子屋へ行って一銭の
鏡を見る。愛らしいのだが、どうにもならぬ。
急に油をつけて髪をかきつけてみる。十日あまりも髪を結わないので、頭の地肌がのぼせて仕方がない。
脚がずくずくにふくらんできた。穴があく。麦飯をどっさりたべるといい。どっさり食べると云う事が問題だ。どっさりとね……。
ナポレオンのような戦術家が生れて、どいつにもこいつにも十年以上の牢獄を与える。人民はまるでそろばん玉みたいだ。不幸な国よ。朝から晩まで食べる事ばかり考えている事も悲しい生き方だ。いったい、私は誰なの? 何なのさ。どうして生きて動いているんだろう。
うで玉子飛んで来い。
あんこの
ああ、そばやのゆで汁でもただ飲みして来ようか。ユーゴー氏を売る事にきめる。五十銭もむつかしいだろう……。
良心に必要なだけの満足を
ナポレオン帝政下の天才について。
或る薬屋が軍隊のために、ボール紙の靴底を発明し、それを革として売出して四十万リーブルの年金を得たのだそうだ。或る
私は今日はこれから、この偉大なユーゴーの「みぜらぶる」と別れなければならない。
天才とは……ちっぽけな日本にはございません。気違いがいるだけ。だあれも、天才なんて見たことがない。天才とはぜいたく品みたいなものだ。日本人は狂人ばかりを見馴れて葬ることしか出来ない。
おいたわしや、気が狂ったと云う陛下も、本当は天才なのかもしれない。くるくるとおちょくごをお巻きになって、眼鏡にして臣下をごらんになったと云う伝説ごとだけれど、哀れな陛下よ。あなたは
終日雨なり。飴玉と
(五月×日)
蒼馬を見たりを生田氏より送りかえして貰う。日光にさらす。陽にあたると、紙はすぐくるりと
詩は死に通じると云うところでしょうね。ええ御返事がないところはひきょうみれん……。
「少女」と云う雑誌から三円の稿料を送って来る。半年も前に持ちこんだ原稿が十枚、題は豆を送る駅の駅長さん。一枚三十銭も貰えるなんて、私は世界一のお金持ちになったような気がした。――詩集なぞ誰だってみむきもしない。
間代二円入れておく。
おばさんは急に、にこにこしている。手紙が来て判を押すと云う事はお祭のように重大だ。三文判の効用。生きていることもまんざらではない。
急にせっせと童話を書く。
みかん箱に新聞紙を張りつけて、風呂敷を
豚の王様、
日本よりは住み心地のいいところではないかしら……。夢にみるほど恋いこがれてみたところで仕方がない。猫が汽車に乗りたいと思うようなものだ。
私のペンは不思議なペン。
私は地図のようなものを書いてみる。まず、朝鮮まで渡って、それから、一日に三里ずつ歩けば、何日目には
夜、あいなめを焼いて久しぶりに御飯をたべる。涙があふれる。平和な気持ちになった。
(五月×日)
なまぐさい風が吹く
緑が萌え立つ
夜明のしらしらとした往来が
石油色に光っている
森閑とした五月の朝。
多くの夢が煙立つ
頭蓋骨 が笑う
囚人も役人も 恋びとも
地獄の門へは同じ道づれ
みんな苛 めあうがいい
責めあうがいい
自然が人間の生活をきめてくれるのよ
ねえ そうなんでしょう?
緑が萌え立つ
夜明のしらしらとした往来が
石油色に光っている
森閑とした五月の朝。
多くの夢が煙立つ
囚人も役人も 恋びとも
地獄の門へは同じ道づれ
みんな
責めあうがいい
自然が人間の生活をきめてくれるのよ
ねえ そうなんでしょう?
夢の中で、わけもわからぬひとに逢う。宿屋の寝床で白いシーツの上に、頭蓋骨の男が寝ている。私をみるなり手をひっぱる。私はちっとも怖わがらないで、そばへ行って横になった。私は、なまめかしくさえしている。
眼がさめてから
寝床の中で詩を書く。
納豆売りのおばさんが通る。あわてて納豆売りのおばさんを二階から呼びとめて、階下へ降りてゆくと、雨あがりのせいか、ぱあっと石油色に道が光っている。まだあまり起きている家もない。雀だけが
納豆に辛子をそえて貰う。
私はこのごろ、もう自分の事だけしか考えない。家族のある、あたたかい家庭と云うものは、何万里もさきの事だ。
こころのなかで、ひそかに、私は神様を憎悪する。こころやすく死んでしまいたいと
死ぬと云えば、すぐ哀しくなってきて、何となくやりきれなくなる。
何でも出来るような気がしてくる。勇気で頭が風船のようにふくらんで来る。
昼から万朝報に行く。
まだ係りのひとが来ていないと云うので、社の前の小さいミルクホールで牛乳を一杯飲む。人力車が行く。自動車が行く。自転車が行く。お昼なので、赤い塗りの箱を山のように肩にかついで、そばやが行く。かあっと照りつける往来を見ていると、肺が歌うなぞと云う詩を持ちあるいている自分が厭になって来た。誰も知らないところで、一人でもがいている必要はない。第一、大した駄作で、いまどき、肺のことなぞ誰も考えているものか……。空気を吸うことなぞどうでもいいのだ。
ああ、金さえあれば、千頁の詩集を出版してやりたい。友達もない、金もない、只、亀の子のように、のこのこ
名もない女の詩なぞ買ってもらわなくてもいい。いまに千頁の詩集を出版しましょう。まるで仏壇のような金ピカ詩集! でこんでこんに塗りたくって、美しい絵を入れて、もう一つおまけに、詩集用のオルゴオルもつけてね、まず、きれいな音の中から、詩が飛び出して来るやつ……奇想天外詩集と云うものを出したい。どこかに、色気の深い金持ちの紳士はいないものかしら。千貢の詩集を出してくれれば、私は裸になってさかだちをしてみせてもいい。
私はいつも、新聞社のかえり、悲しくなる。広い沙漠に迷いこんだみたいに頼りどころがないのだ。ぴゅうぴゅうと風の吹くなかを、私一人が歩いているような気がする。
鬼でもいいから逢いたいものだ。
鍋町の文房具屋でハトロンの封筒も買って、郵便局で封を書いて、肺は歌うを朝日新聞に送る。何とかなるだろうと云う空想だけの勇気だ。
泣きながら歩いたので頬がつっぱるような気がする。匂いのいい文学的なクリームと云うやつはないかな。長い事、クリームもおしろいも塗った事がない。
果物屋は桜んぼうの出さかり、皿に盛って金十銭。
浅草に行く。
やたらに食物店ばかりが眼につく。ひょうたん池のところで、
私は急に役者になりたいと思った。
白いマントを着たイヴァン・モジュウヒン。なかなかよい男だ。泥絵具で、少々、イヴァン・モジュウヒンはにやけている。活動は久しくみた事がない。
玉子のげっぷが出る。
郵便局から出した詩はまだとどかないだろう。取りかえしに行きたくなった。詩を書くと云う事が、人生に何の必要があるのだろう……。早くかたづきそうらえ。何も云う事これなく候。ぽおっといつまでも明るい空。私は夜が好きだ。私は夜のように早く年をとりたい。早く三十になりたい。葬儀屋の女房になって、線香くさい飯を食うようになっているかもしれない。それとも、私は貧乏な外科医の若い学生と
浅草はいいところだ。
みんなが、何となくのぼせかえっている。躯じゅうでいきいきしている。イルミネーションが段々はっきりして来る。
誰にでもある共通な、自然なこころの置場なのよ。三角の山盛りで、黄色に塗った五銭のアイスクリン。エエひやっこいアイスクリン! その隣りが壺焼。おでん屋は皿ほどもあるがんもどきをつまみあげている。
十字の切りかたは知らないけれど、ああ神様と祈りたくなります。
全心全霊をかたむけてエホバよ。
プウシュキンは品のいい詩ばかりお書きになっていた。そして、人の魂をとろかすもの。私ときたら鼻もちならぬ。
みんな自分が可愛いのだ。どなたさまも自分に
家へかえりたくない。
一晩じゅう浅草を歩いていたい。
「十七、八となってるかな?」
私はおかしくなった。浅草に夜が来た。みんな活々と光る。楽隊は鳴りひびく。風はまことに涼やかで、私のおっぱいが一貫目もあるほど重い。感性の気違い。一目みただけで、この娘、売物と云う表情をしている、
鯉のぼりのようなのぼせかただ。たしなみのいいずぼんをはく事がきらいで、下帯一つで歩いている。もともとは原始民族なのだけど、一寸かぶれて火ぶくれをおこして来たのだ。
かんたんな火ぶくれなのよ、ねえ、塗り薬でかためて調法であろう……。苦悩を売りものにしてみたところで、もともと偽の文明。第一イルミネーションの光りの方がむじひだ。皮を
なるほど、日本は黄金島!
*
(七月×日)
山のように厚いノートはないものか、枕のようにでっかいノート。
頭のなかにたまっている、何もかも、きっちり
オカアサマ、私生児はへこたれませんよ。もうめんどうなことは考えないでいましょう。どんなに家柄がいいと云ったところで落ちぶれてどろどろになる貴族もいます。貴族とは紋のような紋。あおいの紋は立派だそうだけれど、私はやっぱり菊や桐の紋が好きです。
私は折れた鉛筆のようにごろりと眠る。
世の中はいろんなもので賑やかだ。
少しも死にたくはないのに、死にたいと思うこともある。空想が象のようにふくらんで来る。象が水ぶくれになってよたよたと
何処かで
あのひとが走って来てくれるような、長い手紙を書きたかったけれど、紙もインクもない。新宿の甲州屋の陳列のなかの万年筆が、電信柱のようににゅっと眼に浮ぶ。二円五十銭だったかな。紙はつるつるしたのが自由自在だけれど、こちらは素かんぴん。ああどうよくではござりませぬか。
森々とよく
部屋の中を見まわしてみる。かび臭い。床の間もなければ、棚も押入もない。この暑いのに、オッカサンはまだネルの着物を着ている。洗いざらしたネルの着物で、ことことさっきからキャベツを刻んでいる。部屋の隅に板切を置いて、まことにきれいな姿なり。
私たちはキャベツばっかり食べている。ソースをかけて肉なしのキャベツをたべる。それはねえ、ただ、まぼろしの料理。夢のなかの出来事さ。
さあ、そろそろ時間が来ました。
(七月×日)
朝から雨。
仕方がないからオッカサンと風呂に行く。着物をぬぐと私は元気になって来る。富士山のペンキ絵がべろんと幕を張ったよう。松が四五本あって、その横に花王せっけんの広告。
おなかの大きい不器量なおかみさんが一人、鏡の前で鼻唄をうたっている。どうして、あんなにむやみにおなかがふくれるのか私にはわからない。どうしたはずみで、あんなおなかになるのだろう。それでも、見ているととても愛らしい。何度も、まあるいおなかに湯をかけている。
窓の外を誰か口笛をふいて通っている。養父さんは北海道へ行ってそれっきり。仲々思わしい仕事もないのであろう。私も口笛を吹いてみる。
ああ、そはかのひとか、うたげのなかに、女学校時代のことがふっとなつかしく頭に浮んで来る。宝塚の歌劇学校へ行ってみたいと思った事もあった。田舎まわりの役者になりたいと思った事もあった。初恋のひとは、同級の看護婦といっしょになってしまった。
ここから尾道は何百里も遠い。まるで、虫けらみたいな生きかただ。東京には、いっぱい、いい事があると思ったけれど何もない。
裸になっている時が一等しあわせだ。
オッカサンは流しの隅っこで円くなって洗濯をしている。私は風呂の中であごまでつかって口笛を吹く。知っているうたをみんな吹いてみる。しまいには出たら目な節で吹く。出たら目な節の方がよっぽど感じが出て、しみじみと哀しくなって来る。昨夜読んだ、ユジン・オニイルの「長いかえりの船路」の中の、イヴン、てめえ、娘っ子に会いたいって
私はもう娘ではないけれど、何だか、娘さんみたいな気持ちになって来る。
夜、ひどい吹き降りになった。
電気をひくくさげて、小さいそろばんをはじく。いくらそろばんをはじいたところで、金が出て来るものでもない。オッカサンは鉛筆をなめなめ帳面づけ。いくらそろばんをはじいても、根が呆んやりと、うわのそらでいるせいか、いっこうに勘定に身がはいらない。まちがえてばかりいる。それでも只ひとりの肉親がそばにいる事は
花ちゃんやア、はあい……私はろくろ首の女だ。どこへでも首がのびて自由自在。油もなめに行く。男もなめにゆく。
(八月×日)
赤レンガの汚れた建物。広瀬中佐が雨に濡れている。
古池や
眼鏡をかけた背の高い男が私の前を通って、またふっと後がえりして立った。充分自信のあるいでたち。「広告を見たひと?」「ええそうです」その男は歩き出した。私も、犬のようにその男の後からついて行った。まさか、私が、夜店を出しているしがない女とは思うまい。私は今日は、びっくりするほど、おしろいを白くつけて来たのだ。田舎娘上京の図である。
雨の中を須田町まであるいて、小さいミルクホールへはいる。この男も、あまり金があるのでもあるまい。
双葉劇団と云うのは田舎まわりの芝居なのだそうだ。女優が少ないので、もうすぐからでもけいこにかかってもいいと云った。
白いハンカチが胸ポケットからはみ出ている。何だか忘れそうな影のうすい顔だ、いやらしいものが直感で胸に来る。どんな事でもがまんはするけれど、こんな男にだまされるのは
五銭の牛乳を二杯御ちそうして貰う。私は牛乳をわざわざ飲みたいとは思わない、揚げたてのカツレツがたべたいのだもの。
私が履歴書を出すと、その男は煙草で汚れた指で、ざっと拡げて、履歴書をポケットへしまった。履歴書よりも、この男は私の躯が必要なのかも知れない。
ボイルの浴衣に雨傘を持ったよれよれの女の姿はこの男には
事務所と云うのは空想の事務所。何もない部屋のすがたは妙に落ちつきがない。
その男は嘘ばかり云うので、私も嘘ばかり云う。世の中は味なものではございませんか。
鉛筆工場の水車の音がごっとんごっとん耳について来る。どんな芝居をやってみたいかと云うので、皿屋敷の菊と云う役、どんどろ大師のお弓、それからカチュウシャのようなのとならべたててみる。きれいな幕が見える。お客さんが手を叩く。なんなら、二階から手紙を読むお軽もいい。菊次郎と云う女形の美しい姿をおぼえているので、私の空想は自由自在だ。菊次郎も松助も、左団次もこの男は何も知らない。
いっしょに遊びたいと云ったけれど、私はもう、芝居者のような気持ちで、気が浮かないから厭だと云って立ちあがった。
急に遊びたいなんておかしいじゃないのとさっさと階下へ降りると、女中が「あら、おそばが来ましたよ」と云った。ざるそばの赤うるしのまるい
いやに、赤うるしのざるそばの重ねたのが眼についてはなれない。四つもあの男はそばを食べるのかしら……。そばが食べたいな。
(八月×日)
うれいひめたるくちうたは
うたともなりぬ けむりとも
うたともなりぬ けむりとも
長い行列のなかに立っていると、女と云うものは旗のように風まかせになって来る。早いはなしが、この長い行列の女たちだって。ただいい暮しさえあれば、こんな行列には立たなくても済むのだ。何か職がほしいと云う事だけでしばられているにすぎない。
失業は貞操のない女のように
行列は少しずつちぢまり、笑って出て来るもの、失望して出て来るもの、扉の前に立っている私達は、少しずついらいらとして来る。
菜種問屋の、たった二人ばかり入用の女事務員がざっと百人あまりも並んでいる。やっと私の番になった。履歴書と引きくらべて、まず、人品骨柄、器量がいいか悪いかできまる。しばらく
生きていて、まず、何とか生活してゆくと云う人間の大切ないとなみが、いつも失敗むざんだ。堕落してゆくに都合のいいレディーメイド。やとい主は
だけど、もし、やとってもらって、三十円も月給を貰えたら、私は血へどを吐くほど一生懸命働きたいのだけど……。もう、お天気の日を選んで夜店を出すのは厭になった。
ほんとに厭な事だ。土ぼこりをいっぱい吸って眼の前に立ちどまる人をそっと見上げて笑うしぐさにあきあきした。卑屈になって来る。私はまず何としても広いロシヤへ行きたいね。
インキを買ってかえる。
何とかしておめもじいたしたく候。
お金がほしく候。
ただの十円でもよろしく候。
マノンレスコオと、浴衣と、下駄と買いたく候。
シナそばが一杯たべたく候。
雷門 助六をききに行きたく候。
朝鮮でも満洲へでも働きに行きたく候。
たった一度おめもじいたしたく候。
本当にお金がほしく候。
何とかしておめもじいたしたく候。
お金がほしく候。
ただの十円でもよろしく候。
マノンレスコオと、浴衣と、下駄と買いたく候。
シナそばが一杯たべたく候。
朝鮮でも満洲へでも働きに行きたく候。
たった一度おめもじいたしたく候。
本当にお金がほしく候。
手紙を書いてみるがどうにもならぬ。あのひとにはもうお嫁さんがあるのだ。ただ、なぐさみに歌の文句を書いてみるだけ。
夜。
眠れないので、電気をつけて、ぼろぼろのユジン・オニイルを読む。家主の大工さんが、夜どおし、ろくろをまわして、
(八月×日)
爽やかな天気だ。まばゆいばかりの緑の十二社。池のまわりを裸馬をつれた男が通っている。馬がびろうどのような汗をかいている。しいんしいんと蝉が鳴きたてている。
氷屋の旗がびくともしない。
オッカサンも私も背中に雑貨を背負って歩いている。全く暑い。東京は暑いところだ。
新宿までの電車賃をけんやくして、鳴子坂の三好野で焼団子を五
オニイルは名もない水夫で、放浪ばかりしていて、子供の時は手におえぬ悪童で、大きくなって、ボナゼアリス行きの帆船に乗りこんで粗暴な冒険にみちた生活をしたのだそうだ。偉くなってしまえば、こんな身上話もああそうなのかと思う。私も芝居を書いてみようかな。きそう天外な芝居。それとも涙もなくなる奴。オニイルだって、いつも
時には鼻唄まじりにいいごきげんな時もあったに違いない。
よろよろと荷をかついで、小さいべっぴんさんは暑い街を歩く。どうでもいいのだ。もうやぶれかぶれなのだ。はっきりと路の上にうつした影はひきがえるのように
哀れなオッカサンが
神楽坂の床屋さんで水をのませて貰う。
今日は縁日で夕方から賑やかなのだそうだ。
きれいな芸者が沢山歩いている。しのぶ売りも金魚屋も出ている。今日は水中花を売るおばさんの隣りに場所割りがきまる。
店を出して、私は雨傘を出してゴザの上に坐る。何とも暑い夕陽だ。夕陽は何処から来るのだろう。じりじりと照りつけるなぎのような暑さ。人通りが馬鹿に多いけれど、パンツも
市松の紙の屋根を張った虫売りが前の金物屋の店さきに出た。じょうさい屋が通る。
みがきこんだおかもちをさげたてぬぐい浴衣の男が、自転車に片足かけて坂をすべってゆく。
華やかな町の姿だ。一人だって、雨傘をさしてしゃがんでいる女には気にもとめない。
おえんまさまの舌は一丈
まっかな夕陽
煮えるような空気の底
哀しみのしみこんだ鼻のかたち
その向うに発射する一つのきらめき
別に生きようとも思わぬ
たださらさらと邪魔にならぬような生存
おぼつかない冥土 の細道から
あるかなきかのけぶり けぶり
推察するようなただよいもなく
私の青春は朽ちて灰になる、
本当の事を云って下さい
只それが知りたいだけだ
人非人と同様の土ぼこりの中に
視力の近い虹 の世界が
いっぱい蝸牛 をふりおとしている
一つ一つ転げおちて草の葉の露と化して
茫 の世界に消えてゆく
悪企みは何もないもろい生き方
血と匂いを持たぬ蝸牛の世界
ああ夢の世界よ
夢の世のぜいたくな人達を呪 う
何のきっかけもない暑い夕陽の怖ろしさ。
まっかな夕陽
煮えるような空気の底
哀しみのしみこんだ鼻のかたち
その向うに発射する一つのきらめき
別に生きようとも思わぬ
たださらさらと邪魔にならぬような生存
おぼつかない
あるかなきかのけぶり けぶり
推察するようなただよいもなく
私の青春は朽ちて灰になる、
本当の事を云って下さい
只それが知りたいだけだ
人非人と同様の土ぼこりの中に
視力の近い
いっぱい
一つ一つ転げおちて草の葉の露と化して
悪企みは何もないもろい生き方
血と匂いを持たぬ蝸牛の世界
ああ夢の世界よ
夢の世のぜいたくな人達を
何のきっかけもない暑い夕陽の怖ろしさ。
私はぱりぱりに乾いてゆく傘の下で、じいっと赤い夕陽を眺めていた。
*
(九月×日)
飲食店にはいって、ふっと、
いつまでも私は不安だ。卑しくて犬のように這いずりまわっているくせに、もう、死んでしまいたいと思うくせに、誰かをだましてやろうと思っているくせに、私には何の力もない。袖口も、
食堂を出て
私はねえ、下宿料が払えないのよ。この二三日、遠慮して下宿の御飯をなるべく食べないようにしているのよ。講談なんて書けもしないくせに、浪六さんを手本にして、眼を真赤にして書いてみたけれど、結局は一文にもならぬ。赤い郵便自動車が行く。とても幸福そうだ。あのなかには、沢山沢山為替がはいっているに違いない。何処から誰に送る為替か知らないけれど、一枚や二枚、ひらひらと舞い落ちて来ないものかしら。
小石川の博文館へ行く。
どうれと、玄関番が出て来そうだ。おばけ屋敷のようだ。田舎医者の待合室みたいな畳敷きの待合室に通される。いかにも疲れたような人達が思い思いに待っている。そのひとたちがじろじろと私を見ている。まるで子守っ子のような肩あげのある私を不思議そうに見ている。まさか鳥追い女と云う講談を書いているとは思うまい。
私は
いずれ見てからお返事をしますと云う事で、私のみっともない原稿はみもしらぬ人の手に渡ってしまった。急いで博文館を出て、深呼吸をする。これでもまだ私は生きてるのだからね。あんまりいじめないで下さい。神様! 私は本当は男なんかどうでもいいのよ。お金がほしくってたまらないのよ。高利貸と云う人間はどこの町に住んでいるのだろう。植物園のなかにはいって行く。
きれいな夕陽。つるべ落しの空あい。私もはずみを食ってまっさかさま。憂鬱な空想の花火。ああ講談なんて馬鹿なことを考えたものだ。
白い
不幸とか、幸福とか、考えた事もない暮しだけれど、この瞬間は一寸いいなと思う。しみじみと草に腹這っていると、眼尻に涙が
夕焼の燃えてゆく空の
いまは眼の前に、なまめかしい、白い萩が咲いているけれど、いまに冬が来れば、この花も茎もがらがらに枯れてしまう。ざまをみろだ。男と女の間柄もそんなものなのでしょう。
私は天皇さまにジキソをしてみる空想をする。ふっと私をごらんになって、馬鹿に私が気に入って、いっしょにいいところにおいでとおっしゃるような夢をみる。夢は人間とっておきの自由だ。天皇さまに冷酒とがんもどきのおでんをさしあげたら、うまいものだねとおっしゃるに違いない。私はなぜ日本に生れたのだろう。シチリヤ人と云うのがあるそうだ。音楽が大変好きなのだそうだ。私はシチリヤ人がどんな人種なのか見たことがない。
不意にカナカナが啼きたてた。夕焼がだんだん妙な風に
(九月×日)
夜が明けかけて来たけれど、どうにもならない。
昨夜は蒲団を売る事にきめて安心して眠ったのだけれど、こう涼しくては蒲団を売るわけにもゆかない。
らっきょうと、甘いうずら豆が食べたい。キハツ油も買いたい。朝がえりの学生があると見えて、スリッパを鳴らして二階へ上ってゆく足音がする。ここから吉原まではさほどの道のりでもあるまい。吉原では女をいくら位で買ってくれるものかと思案してみる。
さて、朝になれば、いよいよまた活動出発の用意。雀がよく鳴いている。上々の天気。
ダダイズムの詩と云うのが
感化院出の誰の誰
許して下さいと云う言葉を日にいくど
頂戴とか下さいとか
雨のなかに立って物乞う姿
不安な呻吟
世の誰とも連絡がない。
感化院出の芙美子さん
人間ではない氷のかたまり
十九世紀の日本語の飴
眼がまわりますね
道中があぶない?
何をおっしゃいますやら。
感化院は官立
帝国大学も官立さ
ただそれだけの違いだよ。
許して下さいと云う言葉を日にいくど
頂戴とか下さいとか
雨のなかに立って物乞う姿
不安な
世の誰とも連絡がない。
感化院出の芙美子さん
人間ではない氷のかたまり
十九世紀の日本語の
眼がまわりますね
道中があぶない?
何をおっしゃいますやら。
感化院は官立
帝国大学も官立さ
ただそれだけの違いだよ。
私と寝たいのならさっさと這入っていらっしゃい。
起きるなり、顔も洗わないで戸外へ出る。黄いろいペンキ車をひいて、意気な牛乳屋さんが通る。苦学生にしてはいやに清潔だ。西片町に出る。そろそろ暑い陽がのぼりはじめてきた。運送屋さんの前の共同水道で、顔を洗って、ついでに水をがぶがぶと飲んで満腹のほうえつ。ついでに、髪にも水をつけて手でなでつける。
高橋新吉はいい詩人だな。
岡本潤も素敵にいい詩人だな。
壺井繁治が黒いルパシカ姿で、うなぎの寝床のような下宿住い、これも善良ムヒな詩人。
根津のゴンゲン様の境内で休む。
ゴンゲン様は何様をおまつりしてあるのかしらない。ただあらたかな気がする。気がやすまる。鳩がいる。震災の時、ここで野宿をした事を思い出す。
根津のゴンゲン裏にかつぶしを売っている大きい店がある。ここの息子が根津なにがしとか云う活動役者だそうだ。まだ一度も見たことがないけれど、定めしよい男なのであろう。千駄木町へ曲る角に、小さい時計屋さんがある。恭ちゃんの家の前を通って医専の方へ坂を上ってゆく。夜になるとここはお化けの出る坂。
昼の霧 香ばしき昼の霧
わがははの肩のあたりの霧
爪は語らず
陽もまばゆくて昼の霧よ
五里霧中のなかに泳ぐ
女だるまのすすりなく霧。
ああさんたまりあ
裸馬の肌えに巻く霧
昼の霧はバットの銀紙
すさのおのみことの恋の霧
金もなき日の埃の綿
つむぎ車のくりごとよ
昼の霧 哀しき昼の霧。
わがははの肩のあたりの霧
爪は語らず
陽もまばゆくて昼の霧よ
五里霧中のなかに泳ぐ
女だるまのすすりなく霧。
ああさんたまりあ
裸馬の肌えに巻く霧
昼の霧はバットの銀紙
すさのおのみことの恋の霧
金もなき日の埃の綿
つむぎ車のくりごとよ
昼の霧 哀しき昼の霧。
急に四囲の草木が葉裏をかえしたような妙な空あいになり、霧のようなものが立ちこめてみえる。坂の途中の電信柱に
急に体じゅうがふるえて来る。どうして生きていいのか腹が立って来る。声をたてて泣きたくなる。
八重垣町の八百屋で唐もろこしを二本買って下宿へ帰る。ダットのいきおいで部屋へ行き、唐もろこしの皮をむく。しめった唐もろこしの茶色のひげの中から、ぞうげ色の粒々が行列して出て来る。焼きたいな。こつこつと焼いて醤油をつけて食べたい。
下宿の箱火鉢に
(九月×日)
ははより十円の為替が来る。
ありがたや、かたじけなや。何もかもなむあみだぶつの心持ちなり。
どしゃぶりの雨。下宿に五円入れる。昼飯が運ばれる。切り昆布に油揚げの煮たのに
どしゃぶりの雨は西むきの硝子窓の敷居の中にまでいっぱい吹きこんで川のようにたまる。
夜も下宿の飯。
コンニャクとコロッケととろろ昆布のすまし汁。のこりの飯は握り飯にしておく。夜ふけて、野村吉哉さんが尻からげで遊びに来る。全身ずふぬれ。唇が馬鹿に紅い。中央公論に論文を書いたと云う。中央公論ってどんなのさ。千葉亀雄がおじさんだとかで、この人の紹介だそうだ。別にえらいとも思わないけれど、尊敬しなければ悪いのだと思って、感心してみせる。馬鹿に煙草を吸うひとだ。四畳半はもうもう。二階でマンドリンの音がしている。学生は金持ちでひま人ぞろいだ。吉原に行く学生もある。玉突きに行く学生もある。下宿で大事がられる学生は、いつも金だらいをさげて風呂に行っている。
野村さんと握り飯を分けあって食べる。三角の月とか星とかの詩を読んでくれたけれども、さっぱり判らない。詩を書くには泣くことも笑うことも正直でなければならない。貧乏してまで言葉の嘘を書く必要はない。白秋が好きだと云ったら野村さんは笑った。白秋は
十二時ごろ、恭ちゃんのところへ行くと云って野村さんまた尻からげで帰る。そっと襖を開けて廊下をうかがうあたり、うれしくなってしまう。馬鹿に脚の白いひとなり。
(十月×日)
渋谷の
ドン・ザッキと云う面白い人物にあう。おかっぱで、椅子の間を踊り歩く。紙がないので、新聞紙に詩を書いて張る。
おそれながら申しあげます
わたしはただ息をしている女
百万円よりも五十銭しか知らない
牛めしは十銭
葱 と犬の肉がはいってるのね
小さくてだるまみたいで
よく泣いているおこりんぼ。
いいえもういいのよ
男なんかどうでもいいの
抱きあって寝るだけのこと
十五銭のコップ酒
皿においてるけど
馬鹿に尻だかで世間をごまかす
酔えばいい気持ち
千も万も唄いたくなるのよ。
いずくにか
わがふるさとはなきものか
葡萄 の棚下に寄りそいて
寄りそいて
一房の青き実をはみ
君と語ろう ひねもす
ひねもす……。
わたしはただ息をしている女
百万円よりも五十銭しか知らない
牛めしは十銭
小さくてだるまみたいで
よく泣いているおこりんぼ。
いいえもういいのよ
男なんかどうでもいいの
抱きあって寝るだけのこと
十五銭のコップ酒
皿においてるけど
馬鹿に尻だかで世間をごまかす
酔えばいい気持ち
千も万も唄いたくなるのよ。
いずくにか
わがふるさとはなきものか
寄りそいて
一房の青き実をはみ
君と語ろう ひねもす
ひねもす……。
かえり十時。道玄坂の古本屋で、イバニエスのメイ・フラワア号を買う。四十銭也。駅の近くの居酒屋で赤松月船と酒を飲む。昆布巻き二つとコップ酒。馬鹿に勇ましくなる。
下宿へ御きかん十二時。森とした玄関に大きい金庫が坐っている。あの中に何かあるのだろう。洗面所へ行って水を飲む。冷々としている。こおろぎがないている。ふっとつまらなくなる。一日一日が無為なり。いったいどうなるのか判らぬ。一度、田舎へかえりたいと思う。下宿を出る必要がある。夜逃げをするには、逃げこむさきを考えねばならぬ。
寝ころんで、メイ・フラワア号を読む。破船の酒場が馬鹿に気に入った。
(十月×日)
詩人は共喰いの共産党だ。持ってるものは平等につかう。借金もそれ相当なもの。手近な目的はただ食べる事に追われるばっかり。人命
風が吹くので、いろいろな男のことを考える。誰のところに逃げこんで行ったらいいのかと考える。だけど考える事は何もならない。勇気だけだ。何しろ、相手を驚かせる戦術なのだからはずかしい。またマンドリンがきこえて来る。籠の鳥の方がよっぽど
こんなに童話を書き、講談を書いても一銭にもならないなんて。インキだって金がかかるのよ。
昼から風の中を仕事さがしに歩く。
何もない。人があまっている。美人はざくざく。只若いだけではどうにもならない。神田の古本屋でイバニエスを売る。二十銭にうれる。四十銭が二十銭に下落してしまった。九段下の野々宮写真館のとなりの造花問屋で女工募集をしている。何しろ手さきが不器用だから……
あまてらすおおみかみの頃には、こんなに人もあまってはいなかったのだろう。美人もうようよいなかったのだろう。あまてらすおおみかみさまは裸で岩戸からのぞいておいでになる。かがみや、たまや、みつるぎは、どこでおもとめになったのか不思議だ。にわとりはどこで生れたのだろう。ああ昔はよかったに違いない。
そのじせつになるとちゃんと秋の風が吹く。魚屋はみとれるほどの美しさ。しけであろうと嵐であろうと、魚は陸へどしどしあがって来る。胸に黄いろいあばらのついた軍服で、
おたふくさまそっくりで、少しも深刻味がない。髪の毛はまるでかもじ屋の看板のように房々として、びんがたりないので、まげがほどけかけている。世紀がふくらむごとに、大量に人がふえてゆく。悲劇の巣は東京ばかりでもあるまい。田舎の女学校では、ピタゴラスの定理をならい、
夜。また気をとりなおして童話の続きにかかる。風はますますひどくなって来た。酔っぱらいの学生が二階の廊下で女中をからかっている。時々声が小さくなる。誰かが二階から中庭へむけて小便をしていると見えて、女中がいけませんよッと叱っている。
じいと息を殺してみるのが人生
山の
気の毒なやせ馬の雲に乗って
幸福なんか来ると思うのがまちがい
地獄におちよ生きながら
地獄におちて這いまわる
罌粟の範囲で散りかかる
強迫善意のごうもん台
運命のなかでの交渉
男が悪いのではない
みんな女が不器用だからだ
やたらに自由なぞあるものか
勝手にいじめぬく好奇心の勧工場
安物の手本ばかりが並んでいる
夜が更けて来るにつれて風もしずかになり、あたり一面平野の如し。童話のなかの和製ハンネレが少しも動いてこない。第一、私はハンネレのような淋しい少女はきらい。それでも和製ハンネレを書かないことには、本屋さんはみとめてくれないのだ。一枚三十銭の原稿料とはいい気なものだ。十枚書いてまず三円。十日は満足に食べられます。
えらい童話作家になろうとは思わぬ。死ぬまで詩を書いてのたれ死にするのが関の山。おかあさんごめんなさい。芙美子さんはこれきりなのよ。これきりで死んでしまうのよ。誰が悪いのでもない。なまける心はさらさらないのだけれど、どうにも一人だちの出来ぬ生れあわせです。貧乏は平気だけれど、死ぬのは痛いのよ。首をつるのも、汽車にひかれるのも、水に飛び込むのもみんな痛い。それでも死ぬ事を考えています。
たった一度でいいから、おかあさんに、四五十円も送れる身分にはなりたいと空想して泣く事もあります。
いろはと云う牛肉店の女中になろうかと思います。せめて、手紙の中へ、十円札の一枚も入れて送ってあげましょう。
下宿住いはこりごり。収入の道もないのに、小さいお櫃の御飯がたべたいばっかりに下宿住いをしたら、こういん矢の如し。すぐ月日がたってゆくのには閉口
第一、何かものを書こうなぞとは妙なことです。でもね、私は小説と云うものを書いてみたいと思います。島田清次郎と云うひとも、あっと云うような長いものを書いたのだそうです。小説はむつかしいとは思いますけれど、馬がいななくような事を書けばいいのよ。一生懸命息はずませてね。
おかあさん元気ですか。もう、じき住所はかえます。また、誰かといっしょになろうと思います。仕方がないんですよ。靴がやぶけて水がずくずくとはいって来るような厭な気持ちなのです。小説を書いたところでひょっとしたら大した事ではないかもしれません。いつも、何だって、つっかえされてがっかりすることばかりですからね。一人でいると張合いがないのです。
自分で正しいと思う判断がまるきりつかない。自信がなくなると、人間はぼろくずのようになってしまう。はっきりと、これが恋だと思うような事をしたこともない。ただ、詩を書いている時だけが夢中の世界。
下宿住いと云うものは、人間を官吏型にしてしまう。びくびくと四囲をうかがう。大した人間にはなれない。月末には蒲団を干して、田舎から来た為替を取りに行く。たったそれだけで下宿の月日は過ぎて行くのでしょう。私のことじゃないのよ。ここにいる学生達の事なの……。ハイネ型もいなければ、チエホフ型もいない。ただ、自分を見失ってゆくくんれんを受けるだけ。
童話を書きあげて夜更け銭湯へ行く。
*
(十月×日)
宵あかり 宵の島々静かに眠る
海の底には魚の群落
ひそやかに語るひめごと
魚のささやき魚のやきもち。
遠いところから落日が見える
地の上は紙一重の夜の前ぶれ
人間は呻 きながら眠っている
宵の島々 宵あかり
兵隊は故郷をはなれ
学生は故郷へかえる。
人ごとならずとささやきながら
人々は呻きながら生きる
この世に平和があるものか
岩おこしのべとべとの感触だ
人生とは何でしょう……
拷問のつづきなのよ
人間はいじめられどおし。
いつかはこの島々も消えてゆくなり
牛と鶏だけが生きのこって
この二つの動物がまじりあう
羽根のはえた牛
とさかをもった牛
角のはえた鶏
尻尾 のある鶏。
永遠なんぞと云うものがあるものか
永遠は耳のそばを吹く風なり
宵あかり 只島々は浮いている
乳母車のようにゆれている
考古学者もほろびてしまう……。
海の底には魚の群落
ひそやかに語るひめごと
魚のささやき魚のやきもち。
遠いところから落日が見える
地の上は紙一重の夜の前ぶれ
人間は
宵の島々 宵あかり
兵隊は故郷をはなれ
学生は故郷へかえる。
人ごとならずとささやきながら
人々は呻きながら生きる
この世に平和があるものか
岩おこしのべとべとの感触だ
人生とは何でしょう……
拷問のつづきなのよ
人間はいじめられどおし。
いつかはこの島々も消えてゆくなり
牛と鶏だけが生きのこって
この二つの動物がまじりあう
羽根のはえた牛
とさかをもった牛
角のはえた鶏
永遠なんぞと云うものがあるものか
永遠は耳のそばを吹く風なり
宵あかり 只島々は浮いている
乳母車のようにゆれている
考古学者もほろびてしまう……。
下宿屋は男の巣でありながら、まことに落書のエデンの園の如く、森々とこの深夜を航海している。
小説を書きたいと思いながら、何もかも邪魔っけでどうにもならない。
文字を並べて書く。形になっているのかどうかはぎもんだ。これが詩と云うものであろうか。――恋草を力車に七車、積みて恋うらく、わが心はも。昔のえらい
一文にもならぬ事が、ふしあわせでもなければ、運の悪い者ときめてかかる事もない。希望のない航海のようなものだけれども、どこかに浮島がみえはしないかとあせるだけだ。
オニイルの鯨取りの戯曲を読んで淋しくなった。
本を読めば、本がすべてを語ってくれる。人の言葉はとらえどころがないけれども、本の中に書かれた文字は、しっかりと人の心をとらえてはなさない。
もうじき冬が来る
空がそう云った
もうじき冬が来る
山の樹がそう云った。
小雨が走って云いに来た
郵便屋さんがまるい帽子を被った。
夜が云いにきた
もうじき冬が来る
鼠が云いに来た
天井裏で鼠が巣をつくりはじめた。
冬を背負って
人間が田舎から沢山やって来る。
空がそう云った
もうじき冬が来る
山の樹がそう云った。
小雨が走って云いに来た
郵便屋さんがまるい帽子を被った。
夜が云いにきた
もうじき冬が来る
鼠が云いに来た
天井裏で鼠が巣をつくりはじめた。
冬を背負って
人間が田舎から沢山やって来る。
童謡をつくってみた。売れるかどうかは判らない。当にする事は一切やめにして、ただ無茶苦茶に書く。書いてはつっかえされて私はまた書く。山のように書く。海のように書く。私の思いはそれだけだ。そのくせ、頭の中にはつまらぬ事も浮んで来る。
あのひとも恋しい。このひともなつかしや。ナムアミダブツのおしゃか様。
首をくくって死ぬる決心がつけばそれでよろしい。その決心の前で、私は小説を一つだけ書きましょう。森田草平の
夜更けて
きらめくばかりの星屑の光。なんの目的で歩いているのかはわからないけれども、それでも私は歩く。
石屋の新しい石の白さが馬鹿に軽そうに見える。私は泣いた。行き場がなくて泣いた。石に凭れてみる。いつかは、私も墓石になるときが来る。
雨戸の奥で、石屋さんの家族の声がしている。まだ無縁な、誰の墓石になるとも判らない、新しい石に囲まれて、石屋さんは平和に眠っている。朝になれば、また
いずれの商売も同じことだ。
石に腰をかけていると、お尻がしんしんと冷い。わざと孤独に身を沈めたかっこうでいると、涙があとからあとから溢れこぼれる。
平和に雨戸を閉ざした横町が奥深くつづいている。省線の音がする。匂いのいい花の香がただようている。私はいつもおなかが空いている。少しでも金があれば、私は尾道へかえってみたいのだ。
私は多摩川にいる野村さんと一緒になろうかと思う。
どうにも、独りではやりきれないのだ。
誰も通らない星あかりの
結局はいったい、自分は何を求めているのだろうと考えてみる。金がほしい。ほんのしばらくの落ちつき場所がほしい。
知らない路地から路地を抜けて歩く。まだ起きて賑やかに話しあっている家もある。ひっそりと眠っている家もある。
(十月×日)
団子坂の友谷静栄さんの下宿へ行く。「二人」と云う同人雑誌を出す話をする。十円の金の工面も出来ない身分で、雑誌を出す事は不安なのだけれども、友谷さんが何とかしてくれるのに違いない。豊かな暮しむきでいる人の生活は不思議とも何とも云いようがない。
友谷さんに誘われて、二人で銭湯へ行く。二人の小さい裸体が朝の鏡に写っている。マイヨールの彫刻のような二人の姿が、二匹の猫がたわむれているようだ。何と云う事もなく、私は外国へ行きたくなった。バナナをいっぱい頭にのせたインド人のいる都でもいい。
詩を書いていたところで、一生うだつがあがらないし、第一飢えて
友谷さんはかたねりの
裸で道中なるものか……何かの唄にあったけれども、誰も好きだと云ってくれなければ、私はその男のひとの前で、裸で泣いてみようかと思う……。
風呂のかえり、友谷さんと、団子坂の菊そばに寄る。ざるそばの
書く。ただそれだけ。捨身で書くのだ。西洋の詩人きどりではいかものなり。きどりはおあずけ。食べたいときは食べたいと書き、
空が美しいとか、皿がきれいだとか、「ああ」と云う感歎詞ばかりでごまかさない事だ。いまに私は本格的なダダイズムの詩を書きましょう。
帰りの坂道で
小説を寝て書く人だそうだ。病人なのかな。寝て書くと云う事はむつかしい事だ。ホテルはすぐ判った。おっかなびっくりで
作家の部屋と云うものは、なんとなく
夕方、下宿へ戻る。
野村さん、日曜日には遊びにいらっしゃいと云う置手紙あり。がらんとした部屋の中に坐ってみる。落ちつかない。寝ている宇野浩二の真似でもしてみようかと思うけれども、ふとっているので、すぐ、
*
(十二月×日)
朝から降り
恭次郎さんはいい男だな。あのひとは嘘を云わない。だけど、私は恭次郎さんの詩は一向に判らない。恭次郎さんを見ると、私はすぐ岡本さんのことを思い出す。私は岡本さんが好きだ。友谷さんの旦那さんだと云うことがめざわりで仕方がない。だけど、男のひとと云うものは、私のような女は一向に眼中にはいれてくれない。
あんまり寒いので、坂の途中の寺の前のたいやき屋で、たいやきを十銭買う。芳ちゃんと歩きながら食べる。のこりの二つを一つずつ分けて、二人ともあったかい奴を八ツ口の間から肌へじかにつけてみる。
「おおあついッ」
芳ちゃんが笑った。私はたいやきを胃のあたりへ置いてみる。きいんと肌が熱くていい気持ちだ。かいろを抱いているみたいだ。我慢のならない淋しさが胃のなかにこげつきそうになって来る。雪が降る寛永寺坂。登りつめると、うぐいすだにの駅にかかった陸橋。橋を越して
お芳さんは、子供づれで稲毛へ行くと云うし、私は浅草がいいときめた。何も遠い稲毛の旅館の女中にならなくてもいい筈だと思うのだけれど、お芳さんは、馬鹿に稲毛が気にいっている。子供が小児ぜんそくと云うので、海辺で働いている方が子供の為にいいと云うのだ。子供は私生児で、その父親は代議士なのだそうだけれども、それも本当なのか嘘なのか私には判らない。ぶきりょうなお芳さんに、そんな男があるとも思えなかったし、第一、それが本当ならば、何も稲毛まで行く事もあるまい。
私は三円の手数料を払って損をしたような気がした。保証人がいらないと云うのが何よりの仕合せだ。
浅草の古本屋で、文章
いったい、どこに行ったら平和に飯が食えるのだ。飢えていては何を愛する気にもなれない。第一、こう寒くては何もかもちぢかんでしまう。
浅草へ行く。公園のなかで、うどんを一杯ずつ食べて、ついでに腹の上で冷くなった、たいやきも出して食べる。うどん屋の天幕の裾から、小雪まじりの冷い風が吹きぬけて来る。二ツの七輪から火の粉がさかんに
八銭で買った足袋にも穴があいている。私は若いのに、かさかさに乾いている。ずんぐりむっくりだ。今戸焼の
うどんのげっぷが出る。いやらしくて仕方がない。うどんに何の哲学があるのよ。天才はカステイラを食べているンでしょう? うどんの人生。そのくせ、私は、高尚だとか、文学だとか、音楽や、絵画と云うものに無関心ではいられない。――ポオルとヴィルジニイなんて、可愛らしい小説じゃあないの――。オブロモフもこの世にはいます。オネーギン様、あらあらかしこだ。いっぺんでいいから私と恋を語るひとはないものかしら……。明日から牛屋の女中だなんて悲しい。牛殺しがいっぱいやって来る。地獄の
私は女優になりたい。
浅草は人の波、ゆくえも知らぬさすらい人の巷なりけり。
(十二月×日)
ちもとの裏口からはいって行く。台所の若い男がくすりと笑った。逆毛をたてた大きい耳かくしの髪がおかしいのかも知れない。流行と云うものは私には少しも似合わないのだけれども、やっぱり当世の真似はしてみたくなる。
女中部屋からのぞいている顔。猿のように
持ちものは風呂敷包み一つ。まず朝食に、
恋などとはたかのしれたものだ
散る思いまことにたやすく
一椀の飯に崩折れる乞食の愉楽
洟水 をすすり心を捨てきる
この飯食うさまの安らかさ
これも我身なり真実の我身よ
哀れすべてを忘れ切る飢えの行
尾を振りて食う今日の飯なり。
無宿者の歩みつく道
一面の広野と化した巷の風
ああ無情の風と歎 く我身なり。
散る思いまことにたやすく
一椀の飯に崩折れる乞食の愉楽
この飯食うさまの安らかさ
これも我身なり真実の我身よ
哀れすべてを忘れ切る飢えの行
尾を振りて食う今日の飯なり。
無宿者の歩みつく道
一面の広野と化した巷の風
ああ無情の風と
脂の浮いた、どろどろに
かたねりの白粉も買わなければならない。何しろ、お風呂へ行って、首だけ白くつけると云う不思議さ。一緒に風呂へ行った澄さんと云うのが、御園白粉が一番いいと教えてくれたけれど、もういちょうがえしに結って、金はみんな出してしまったので、白粉は二三日借りる事にする。
夕方から女中部屋は大変なにぎわいなり。
赤ん坊に乳を呑ませている女もいる。みんな二十五六にはなっていそうな女ばかり。私が肩あげをしていると云うので、こそこそと笑いものになる。お芳さんから借りた着物のゆきが長いので、その説明をしようと思ったけれどめんどう臭くなってやめる。どんぐりの背くらべの身すぎ世すぎでいて、この仲間の意地の悪さに腹が立つ。
朝、私をみてくすりと笑った料理番はヨシツネさんと云った。料理場へ火さげを持って火を取りに行くと、「お前さん、西洋まげより、その髪の方がずっといいよ」と云ってくれた。そして、「ほい、みかん食べな」と云って小さいみかんを二つ投げてくれる。
ヨシツネさんは
二三日は座敷へも出ないで使い
一行の詩一つ書く気力も失せそうだ。あんなに飯をたべたいと望みながら……。夕食は、丼いっぱい山盛りの飯に、いかの煮つけ。ありがたやと食べながら、パンのみに生きるに非ずの思いが湧く。
誰も私の存在なぞ気にかけてくれる人もないだけに安楽な生活なり。ヨシツネさんは馬鹿に親切なり。
「お前さん、こんなとこ始めてかい?」
「ええ……」
「亭主はあるのかい?」
「いいえ」
「生れは何処だ?」
「丹波の山の中です」
「ほう、丹波たア何処だい?」
さア、私も知らない。黙って煮込場を出て行く。まず、一カ月がせいぜいと云った勤め場所なり。
夜、女中部屋へ落ちついたのが二時すぎ。私は呆んやりしてしまう。汚れた箱枕をあてがわれて、それに生がわきの手拭をあてて横になる。女達は、寝ながら賑やかに正月のやりくり話をしている。
どの男から何をせしめて、この男から何を工面してもらって、ああ、こんなひとたちにも男のひとがいるのかと妙な気がして来る。お芳さんは今日は子供を連れて稲毛へ行ったかしら……。私はここにいられるだけいて、その上で、多摩川の野村さんのところへお嫁に行こうかと思う。考えてみたところで、あそこよりほかに行く当もない。
(十二月×日)
ヨシツネさんが話があると云う。なんの話かと、ヨシツネさんについて、朝の街を歩く。
泥んこに掘りかえされた駒形の通りから、ぶらぶらと公園の方へ行く。六区の中の旗の行列。立ちんぼうがぶらついているひょうたん池のところまで来ると、ヨシツネさんは、紙に包んだ薄皮まんじゅうを出して三つもくれた。
「お前いくつだ」
「二十歳……」
「ほう、若く見えるなア、俺は十七八かと思った」
私が笑ったので、ヨシツネさんも頭をかいて笑った。筒っぽの
話があると云って、なかなか話がない。ああそうなのかと思う。まんざら嬉しくなくもないけれど、何となくあんまり好きな人でもない気がして来る。朝のせいか、すきすきと池のまわりは汚れて寒い。ヨシツネさんはうで玉子を四ツ買った。塩が固くくっついているのが一ツ五銭。歯にしみとおるように冷いうで玉子を、池を向いて食べる。枯れた藤棚の下に、ぼろを着た子供が二人でめんこをして遊んでいる。
「俺、いくつ位にみえる?」
背の高いヨシツネさんが、大きい唇に、玉子を頬ばりながら
「二十五ぐらい?」
「冗談云っちゃいけないよ。まだ検査前だぜ……」
へえ、そうなのかと
「あんた生れは何処?」
と、訊いてみた。
「横浜だよ」
ああ海の見えるところだなと思う。
「どうして、あんな牛屋なンかにいるの?」
「不景気でどこにも一人前の口がないからよ。検査が済んだら、さきの事を考えるつもりだ」
汚ない池の水の上に、放った玉子のからがきらきら反射している。別に話もない。物憂そうな楽隊の音がしている。石道は昨日の雪どけでべとついている。寒い。カンノン様を拝んで
「俺のとこへ来ないか?」
と、云った。
「何処?」
「松葉町に、おふくろと二階借りしてるンだよ。おふくろはよその家へ手伝いに出掛けていまいない」
私はヨシツネさんがあんまり若いので行く気がしない。子供のくせにとおかしくてたまらない。
「どうだ?」と訊かれて、私は、「いやだわ」と云った。ヨシツネさんはまた歩き出す。私も歩く。只、寒いのでやりきれない。歩いているのは平気だけれど、私は恋をするなら、もう、心の重たくなるような男がいい。ヨシツネさんの二階借りに行く気はさらさらないのだ。
仲店で、ヨシツネさんはつまみ細工の小さい
まだ、通いの人達は来ていない。小さい簪が馬鹿に美しい。澄さんの鏡をかりて髪に差してみる。変りばえもしない顔だちだけれども、首の白いのが妙に哀れに思える。何だか玉の井の女になったような寒々しい気になって来るけれども、何とない自信も湧いて来る。
馬がかんざしを差した
よろけながら荷をひく馬
一斗も汗を流して
ただ宿命にひかれてゆく馬
たづなに引かれてゆく馬
時々白い溜息 を吐いてみる
誰もみるものはない
時々激しい勢でいばりをたれ
尻っぺたにむちが来る
坂を登る駄馬
いったいどこまで歩くのだ
無意味に歩く
何も考えようがない。
よろけながら荷をひく馬
一斗も汗を流して
ただ宿命にひかれてゆく馬
たづなに引かれてゆく馬
時々白い
誰もみるものはない
時々激しい勢でいばりをたれ
尻っぺたにむちが来る
坂を登る駄馬
いったいどこまで歩くのだ
無意味に歩く
何も考えようがない。
退屈なので、鉛筆をなめながら詩を書く。女達はあれこれとやりくり話をしている。誰かが私の簪をみて、
「あら、いいのを買ったじゃアないの」
と、云った。私はみんなにみせびらかしているような気がしてきた。
文章倶楽部を読む。生田春月選と云う欄に、投書の詩が沢山のっている。
夜。ヨシツネさんがまたみかんをくれた。だんだんこの店も師走いっぱい
漂いながら夢のかずかずだ。淋しい時は淋しい時。ヨシツネさんと云うのは、義経と書くのだそうだ。
ヨシツネさんは善良そのものに見えるけれど、どうにも話が合いそうにもない。私がこのひとの二階へ行って寝たところで、私の人生に大したこともなさそうだ。このひとと一緒になったところで、私はすぐ別れてしまうに違いない。ヨシツネさんは平和なひとだ。
(十二月×日)
歳末売出しの景気だけは馬鹿にそうぞうしい。――私はやっと客の前へ出るようになった。チップはかなりあるけれど、時々女たちに意地悪をされて取られてしまう事もある。ヨシツネさんが云った。
「お前、馬鹿に本を読むのが好きだな。あんまり読むと近眼になるよ」
私はおかしくて仕方がない。もう、とっくに近眼になっているのだもの。稲毛のお芳さんから手紙。思わしくないので、正月前に、また東京へ戻りたい由。子供は風邪ばかり引いて、百日
私は、正月には野村さんのところへ行きたい。野村さんは、早く一緒になろうと云ってくれている。あのひとも貧乏な詩人。
ここで始めて紫めいせんを二反買う。金五円也。暮までには、裾まわしと、羽織の裏が買えそうだ。
今日は髪結さんのかえり、ヨシツネさんに逢った。また話があると云う。ヨシツネさんは突然「これはプラトニックラブだよ」と云った。私はおかしくなって、くすくす笑いこける。
「プラトニックラブってなによ?」
「惚れてると云うことだろう……」
私は何と云うこともなく、何も、野村さんでなくてもいいと思った。ヨシツネさんと一緒になってもいいような気がした。寒いのでミルクホールにはいる。
大きなコップに牛乳を波々とついで貰う。ヨシツネさんは紅茶がいいと云う。今日は私が御馳走する。ケシの実のついたアンパンを取って食べる。紫色のあんこが柔らかくて馬鹿にうまい。金二十銭也を払う。
ヨシツネさんは、月々五六十円位にはなるのだそうだ。子供が出来てもやってゆけない事はないと云う。私は、お芳さんの汚ない子供を思い出してぞっとしてしまう。
「私は、お嫁さんになる気はないのよ。勉強したいのよ。ヨシツネさんはもっと若い、十七八のお嫁さんがいいでしょう……」
ヨシツネさんは黙っていた。しばらくして、「何の勉強だ」と訊く。
何の勉強だと云われて私は困る。
「私は女学校の先生になりたいのよ」
ヨシツネさんは妙な顔をしていた。私も妙な気がした。何だか、罪を犯したようなやましい気になる。
夕方から雨。ヨシツネさんは馬鹿にていねいだ。プラトニックラブと云った顔が、急に中学生のように見えて来る。
澄さんの客に呼ばれて、随分酒をのまされた。少しも酔わない。客は帝大の学生ばかり。ヨシツネさんと同じ位だけれど、馬鹿に子供子供してみえる。
「このひとは、本ばかり読んでいるのよ」と、澄さんが云った。
「何の本を読んでいるンだ?」
ずんぐりした、小さい学生が私に杯をさしながら尋ねた。私は「猿飛佐助よ」と大きい声で云った。みんなわアっと笑った。猿飛佐助がどうしておかしいのか私には判らない。酔ったまぎれに、
学生とはそんなものだ。あんまり酔ったので、女中部屋へ引っこんだのだけれど、苦しくてもどしそうになる。ヨシツネさんがのぞきに来たのを幸い、洗面器を持って来て貰った。酢っぱいものがみんな出る。すべてを吐く。
「ヨシツネさん!」
「何だよ……」
「そこへつっ立ってないで、塩水でも持って来てよ」
ヨシツネさんはすぐ塩水をつくって来てくれた。帯をとくと、五十銭玉がばらばらと畳にこぼれる。
「無理して飲む奴はないよ」
「うん、プラトニックラブだから飲んだのよ。あんた、そう云ったじゃないの……」
ヨシツネさんが急にかがみこんで、私の背中をいつまでもなでてくれた。
*
(十二月×日)
火を燃やしたくなったので、からになった炭俵や、枯葉をあつめてどんどを燃やす。私はこうした条件のなかで生きる元気がない。少しもない。大切なものを探し出して燃やしてやりたくなる。部屋のなかへはいって、大切なものを探してみる。野村さんの詩の原稿を三枚ばかり持ち出して火の上にあぶってみる。焼けてしまえばこの詩は灰になるのだと思うと、憎さも憎しだけれども、何となく気おくれして、いけない事だと思い、またもとのところへしまう。
私は何も出来ない。勇気のない女になりさがってしまっている。今朝、私たちは命がけであらそった。そして、男はしたいだけの事をして街へ行ってしまった。あとかたづけをするのは私なのだ。障子は破れ、カーテンは引きちぎれ、皿も茶碗も満足なのはない。貧乏をすると云う事が、こんなに私達の心身を食い荒してしまうのだ。残酷なほどむき出しになるのだ。私は男をこんなに憎いと思ったことはない。私は
毎日のように、私は男の原稿を雑誌社に持って行った。少しも売れないのだ。何だかもう行きたくなくなったのよと冗談に云った事が、そんなに腹立たしいのだろうか……。私は、どんなに辛い時だってにこにこしている事なんかやめようと思う。どうしても行きたくない事も時にはある。わけのわからぬところへ使いに行くのはがまんがならないのだ。自分で行ってくればいいのだ。私はもう、そんな辛い使いにはあきあきした。
飯も食えないのに一人前の事を云うなッと怒った。飯が食えないと云って、物乞いのような気持ちには私はなれないのだ。
火を燃やしながら、私は今度こそ別れようと思う。そのくせ、一銭も持たないで家を飛び出した男の事を考えて無性に泣けて来る。どうしているかと哀れなのだ。
道の下の鯉の池が、石油色に光っている。大家さんの女中さんらしいのがかれすすきの唄をうたって横の道を通っている。大家さんは宮武骸骨さんと云う人なのだそうだ。家からずっと離れた丘の上に邸があるので、ここの人達を見た事がない。私の家は六畳一間に押入れに台所。土壁のないバラックで、昔は物置であったのかもしれない。私はここへ引越して来ると、新聞紙を板壁に二重に張った。蒲団は野村さんので充分だと云うので、下宿屋の払いの足しに売り払って、三円ばかし残しておいたので、私はカーテンや米を買ってお嫁入りして来たのだけれども……。火を燃やしながら、私はいろいろな事を考える。もう、これが私の人生の終りなのかもしれない。私は死にたいと思う。もう、こんな風な生きかたがめんどうくさいのだ。独りでいるには淋しいし、二人になればもっと辛いのだと思うと、世の中が妙にはかなくなって来る。
夜、破れたカーテンを繕いながら、いろいろな空想をする。火の気のない凍るような夜ふけ。あしおとがする度、きき耳をたてる。遠くで多摩川電車のごうごうと云う音がする。あんまり静かなので、耳の中がしんしんと鳴る。行末はどんなになるのか見当がつかない。どうにかなるだろうと思ってもみる。朝から飯をたべていないので、
部屋の中を
私には愚痴や不平もないのだ
ああ百方手をつくしても
このとおりのていたらく
神様も笑うておいでじゃ
折も折なれば
私はまた巡礼に出まする
時は満てり神の国は近づけり
ああ女猿飛佐助のいでたちにて
空を飛び火口を渡り
血しぶきをあげて私は闘う
福音は雷の音のようなものでしょうか
一寸おたずね申し上げまする
どうにも空腹にたえられないので、私はまた冷い着物に手を通して、
遠いあしおとは何処かで消えてしまった。
(十二月×日)
朝。思いがけなく母がまっかな顔をしてたずねて来る。探し探しして来たのだと云って小さい風呂敷包みをふりわけにかついで、硝子戸のそとに立っていた。私はわっと声をあげた。ああ、何と云うことでございましょう。浜松で買ったと云う汽車のべんとうの食い残しの折りが一ツ。うで玉子が七ツ。ネーブルが二ツ。まことにまことにこれこそ神の国の福音のような気がする。私へのネルの新しい腰巻きに包んだちりめんじゃこ。それに、母の着がえと髪の道具。顔も洗わないで、私は木の香のぷんと匂うべんとうを食べる。薄く切った
田舎も面白いことがない由なり。不景気は底をついとるぞなと母は歎く。いくら持っているのと聞くと、六十銭より持っておらぬと云う。どうするつもりなのと叱ってみる。四五日泊めて貰えれば、お父さんも商売の品物を持って来ると云う。
霜のきつい朝だったのだけれど、ぽかぽかとした陽が部屋いっぱいに射し込む。泊めたくても蒲団がないのよと云ってはみたものの、このまま何処へこのひとを追い出せると云うのだろう……。三枚の座蒲団をつないで大きい蒲団を一枚ずつ分けて何とか工夫をして寝て貰うより仕方がない。
陽のあたる処へ蒲団を引っぱって来て母に横になって貰う。母はもう部屋の様子で、私の貧しい事を察したとみえて、何も云わないで、水ばなをすすりながら羽織をぬいで、寝床の中へはいった。私は小さい火鉢に、昨日のどんど焼きの灰を入れて火を入れる。やがて、湯がしゅんしゅんとわく。茶の葉もないので、べんとうの梅干を入れて熱い湯を母へ飲ませる。
父は輪島塗りの安物を仕入れたので、それを東京で売るのだそうだ。東京には百貨店と云う便利なものがあるのを知らないのだ。夜店で並べて売ったところで、いくらも売れるものではない。私は困ってしまう。うで玉子を一つむいて食べる。あとは男へ食べさせてやりたい。
「東京も不景気かの?」
「とても不景気ですよ」
「どこも同じかのう……」
梅干をしゃぶりながら母が心細い顔つきをしている。今度の男さんは、どのような人柄で、何の商売かとも母は聞かない。非常に助かる。聞かれたところでどうしようもないのだ。母はからの茶筒に手拭をあて、
母を引きあわせようとする間をすりぬけて、机へ向いて本を読み始める。母と私は台所の板の間に座蒲団を敷いて坐った。湯をわかしてうで玉子を四つにネーブルを二つ、机のそばへ持って行って、おみやげですよと云うと、只、ほしくないよッときつく云って、みむきもしない。私はかあっとして、うで玉子を男の頭にぶちつけてやりたい気になった。何と云うひねくれたひとであろうかとやりきれなくなって来る。まだこのひとは怒っているのだろうか……。このえこじな、がんこなところが私には不安なのだ。私の書きかけの詩の原稿がくしゃくしゃにまるめられて部屋のすみに放ってある。私はそれを拾ってしわをのばしているうちに、何とも切なくなってきて、誰にもきこえないように泣いた。どうしたらいいのか自分でもわからない。母は息をころしたように台所の七輪のそばにうずくまっている。泣くだけ泣くと、すぐからりと気持ちが晴れて、私はもうどうでもいいと云う思いにつきあたって気が軽くなった。母がしょんぼりしたかっこうで、私を見るので、私はにゅっと舌を出してみせた。涙がこぼれぬ要心のために、舌を出していると、こめかみと鼻の
台所の土間へ降りて、縁の下にかくしてある風呂敷の中に、しわをのばした原稿をしまう。見られては悪いものばかりはいっている。長い間書きためた愚にもつかないものばかりだけれども、何となく捨てかねて持ち歩いている私の詩。これこそ一文にもならぬものだ。焼いてしまいたいと何度か思いながら、十年もたったさきへ行って、こんなこともあった、あんなこともあったと思うのも無駄ではないとも思える。
どうにもやりきれないので、外出をする支度をする。何処と云って行くあてはないのだけれども、一応母を連れ出してよく話をしなければならぬ。私は
「一寸、そとへお母さんと出て来ます」
と、机のそばへ行ったのだけれど、男は相変らずみむきもしない。二人で外へ出た時は、腹の底から溜息が出た。私は何度も深呼吸をした。私がそんなに
たまにささやかな金がはいって、五銭で豆腐を買い、三銭でめざしを買い、三銭でたくあんを買って、三色も御ちそうが出来たと云うと、つまらんことを自慢にすると小言が出るし、たまに風呂へ行って、よその女のように首へおしろいを塗って戻ると、君の首はいくびだから太くみえてみにくいのだと云う。どうしたらいいのか私にはわからない。この男と一生連れそってゆくうちには、はがねのようにきたえられて、泣きも笑いもしない女に訓練されそうな気がして来る。私はふところへいれて来た玉子をむいて、母へもう一つ食べなさいと口のそばへ持って行ってやった。もうほしゅうないと云うので厭な気持ち。むりやり食べさせる。
私は歩きながら、ふっと、前に別れた男のところへ行って十円程金をかりようかと思った。芝居をしていたひとなので、旅興行にでも出ていたらおしまいだと思ったけれども、運を天に任せて渋谷へ出て、それから市電で神田へ出てみる。街は賑やかで、何処も大売出し。明るい燈火が夜空にほてっている。停留所のそばには、
私は洋服を見たり、賑やかな
私は今日から、ものを書く男なぞ好きになるのはやめようと心にきめる。
母をストーヴのそばの椅子に腰かけさせる。座蒲団を借りて、腰を高くして楽にしてやる。
「御飯に、よせなべに、酒を一本頂戴」
酒が十五銭、よせなべが二人前六十銭。飯が一皿五銭。私は熱い酒を母のチョコと私のチョコについだ。酒が泡を吹いている。
空腹に酒を飲んだせいか、馬鹿に御めいてい。私は下駄をぬいで椅子に坐った。両手の中に顔を伏せていると部屋のなかがシーソーのようにゆらゆらとゆれる。何も思う事はない。只、ゆらりゆらり体がゆれているきり。不ざまな卑しい女は私なのよ。ええ、そうなの……まことにそうなンです。
盃に浮いた泡をふっと吹く。煮えたぎった酒。おっかない酒。しどろもどろの酒。千万の思いがふうっと消えてなくなってゆく酒。背中をなでて貰いたい酒。若い女が酒を飲むのを、妙な顔で学生が見ている。世間から見ればおかしなものに違いない。だいぶあたたまったのか、母も椅子の上にちょこんと坐った。私はおかしくてたまらない。
「大丈夫かの?」
母は金の事を心配している様子。私は現在のここだけが安住の場所のような気がして仕方がない。何処へも行きたくはない。
あかね射す山々、サウロ彼の殺されるをよしとせり。その日エルサレムに在る教会にむかいて大いなる迫害おこる……。ああ、すべては今日より葬れ。今日よりすべてを葬るべし。
瀬田へ戻ったのが十時。湯気のたっている熱いシュウマイをまず主にささげん。――野村さんはもう蒲団の中に寝ていた。机の横に、私の置いたままのかっこうで、玉子とネーブルがまだ生きている。私は部屋に立ったまま恐怖を感じる。足もとが震えて来る。壁の方をむいたまま動かない人を見てはもうろうとした酔いもさめ果てる。私は破れた
新聞紙を折りたたんで、母の羽織の下に入れてやる。膝にも座蒲団をかけ、私も行李の蓋の中へ坐る。まるで漂流船に乗っているようなかっこうだ。
七輪の生木がぱちぱちと弾けて、何とも云えない優しい音だ。来年は私も二十一だ。はやく悪年よ去れ! 神様、いくらでも私をこらしめて下さい。もっとぶって、打ちのめして下さい。もっと、もっと、もっと……。私は手が寒いので、羽織の肩あげをぷりぷりと破って袖口で手を包んだ。血へどを吐いてくたばるまで神様、ぶちのめして下さい。
明日はカフエーでも探して、母を
(十二月×日)
夕焼のような赤い夜明け。炭がないので、私は下の鯉屋の庭さきから、木切れを盗んで来る。七輪にやかんをかけて湯をわかす。机のそばのネーブルを一つ取って来て、母へミカン汁をしぼってそれに熱い湯をさして飲ませる。
さて、私もいよいよ昇天しなければならぬ。駅の近くの荒物屋へ行って、米を一升買う。雨戸がまだ一枚しか開いていない。暗い土間にはいって行くと、台所の方で賑やかな子供達のさわぐ声がして、味噌汁の香りが匂う。人々のだんらんとはかくも温く愉しそうなものかと羨ましい気持ちなり。男の為にバットを二箱買う。福神漬を五十匁買う。
帰ってみると、母は朝陽の射している濡れ縁のところで手鏡をたてて小さい
*
(一月×日)
侮辱拷問も……何もかも。黙って笑っている私の顔。顔は笑っている。つまんで捨てるような、ごみくその、万事がうすのろの私だけれども、心のなかでは鬼のような事を考えている。あのひとを殺してしまいたいと云う事を考えている。私の小さい名誉なぞもう、ここまでにいたれば
奇怪な
雪と云うものはいやらしいものだ。そして、しみじみと悲しいものだ。泥んこの穴蔵のなかの道につらなる木賃宿の屋根の上にも雪が降っている。
只、男のそばから逃げ出したと云う事だけがかっさい拍手。いったい、神様、私にどうしろとあなたは云うのよ。死ねばいいの? 生きてどうしようもない風に追いこむなんてつれないではございませんか! 追込み部屋の暗い六畳の部屋。まず、ごみ箱のような匂いがする。がいこつのようなよぼよぼの爺さんが一人と、四人の女。私だけが肩あげをして若い。只、若いと云うのは名ばかり。女の値打ちなぞ一向にありませんとね……。一升ばかり飲んで酔っぱらって、雪の街を裸で歩いてみたいものだ……。ええ飲まして下さるなら、一升でも二升でも飲んでみせます。
私は、じいっと台の上の豆らんぷを頼りに、自分の詩を読んでみる。
みんな本当の、はらわたをつかみ出しそうな事を書いているのに一銭にもならない。どんな事を書けば金になるのだッ。もう、殴る事なンかしない優しい男はいないのだろうか? 下手くそな字で、何がどうしたとか書いたところで、誰もああそうなのと云ってくれる者は一人もない。
明日は場末のカフエーにでも住み込んで、まずたらふくおまんまを食べなければならぬ。まず食べる事。それから、いくばくかの金をつくる事。拷問! 拷問! 私にもそれ位の生きる権利はあろう……。
みんなしたり顔で生きている。
お爺さんが起きて、煙管で煙草を吸いはじめた。寒くておちおち眠っていられないとこぼしている。問わずがたりのお爺さんの話。二日ほど前までは四谷の喜よしと云う寄席の下足番をしていたのだそうだ。心がけが悪くて子供は一人もない由なり。時には養老院にはいる事も考えるけれど、何と云ってもしゃばの愉しみはこたえられぬ。一日や二日は食わいでも、しゃばの苦労は愉しみだと爺さんが面白い事を云う。もう六十五歳だそうだ。私の半生はあんけんさつ続きで、芽の出ないずくめだと笑っていた。あんけんさつとは何なのか判らん。卑劣な生きかたとは違うらしい。さしずめ、私達はさんりんぼうの続きをやっていると云うものだろう。毎日、心の中で助けてくれッ、助けてようと唄のように
「お爺さん、玉の井って知ってる?」
「ああ知ってるよ」
「前借さしてくれるかしら?」
「ああ、それゃアさしてくれるねえ」
「私のようなものにもさしてくれるかしら?」
「ああ、さしてくれるとも……お前さん行く気かい?」
「行ってもいいと思ってるのよ。死ぬよりはましだもン」
爺さんは両手で
(一月×日)
からりとした上天気。眼もくらむような光った雪景色。四十年配のいちょうがえしの女が、寝床に坐ってバットを
私のそばに寝た三十年配の女は、銀の時計を持っている。昔はいい暮しをしていたと昨夜も何度か話していたけれど、紫のべっちん足袋は泥だらけだ。
役にもたたぬ風呂敷包みを私達は三つも持っている。別にどうと云うあてもなく、多摩川を逃げ出して来て、この木賃宿だけが楽天地のパレルモなり。
洋々たり万里の
山出しの女中さんよろしくの姿では誰も相手にしようがあるまい。玉の井で前借もむつかしいに違いあるまい。
まず、おっかさんを宿へ残して、
宿賃は一人三十五銭。当分は二人七十銭の先払いでこの宿が安住の場所。本郷バアでカキフライと、ホワイトライスを一人前取っておっかさんと私の昼飯とする。
夕方、金の星に御出勤。女は私を入れて三人。私が一番若い。ネフリュウドフはみつからぬものかと思う。心配なしに表情だけで「ねえ」と云ってみなければならぬとなれば、少々下ぶくれであっても、ひとかどの意地の悪さでチップをかせがねばならぬ。ああ、チップとは何でしょうかね。お乞食さんと少しも変らない。全身全力で「ねえ」と云わなければならぬ商売。ものを書いてたつきとなるなぞ、ああ遠い。もう眼がみえませぬと臭い便所の中で舌を出してやる。ものを書くなぞと云う希望なぞはない。何も出来っこはない。詩を書くなぞとは愚の骨頂だ。ボオドレエルが何だって? ハイネのぶわぶわネクタイは飾りものなのよ。全く、あのひと達は何で食べていたのかしら……。
ヌウザボン、ブウサベエだ。パルドン、ムッシュウ。ちょいとごめんなさいねと云う言葉だそうですね。
おかみさんに、羽織をかたにして二円借りる。一円五十銭をおっかさんにやって、電車道の富の湯へ行く。大きい鏡にうつったところはまず健康児。少しも大人らしくない、くりくりとした桃色の裸。首から上だけがお
街は雪解けで
わけのわからぬ客を相手に、二円の収入あり。まず大慶至極。泥んこ道の夜店の古本屋で、チエホフとトルストイの回想を五十銭で買う。大正十三年三月十八日印刷。ああいつになったら、私もこんな本がつくれるかしら……。
≪誰でも物を書いた時は、始めと終りとを削らなければならないと思いますよ。そこで、我々小説家は、嘘を云い勝ちですからね。そして短かく書かなければいけません。出来るだけ短かく……≫
チエホフがこんな事を云っている。
十一時頃客が
明日は太宗寺にサーカスがあるから一緒に行こうと私に云う。ろくろ首のみせものもあるのだそうだ。
旭町へ戻ったのが二時。くたくたに疲れる。今夜も同じ顔ぶれ。
何だか少しも眠れないので、豆ランプを枕もとに置いて読書。
(一月×日)
まア驚いた。トルストイと云う作家は、伯爵だったンだ。――いわゆるトルストイの無政府主義と呼ばれるものは、主要的にかつ基礎的に、我々スラヴの反国家主義を表現しているものであり、それは真実の国民的特徴であり、往時から我々の肉の中に
おかあさん、ロシヤ人のトルストイは華族さんなんですよ。驚いたものだ。私は妙な気がして躯じゅうがぞおっと寒くなった。
「えらい勉強だね」
銀時計のおばさんが髪をかきつけながら笑っている。
まことに御勉強ですとも……。トルストイが華族の出だって事は始めて知った事なンだもの、
しおしおとして金の星に御出勤。
別れた人なぞは
今日はレースのかざりのあるエプロンを買う。女給さんのマークだ。金八十銭也。
東京の哀愁を歌うにふさわしい寒々とした日。足が冷いので風呂をやめて、椅子に坐って読書。全く寒い。新しいエプロンののりの匂いが
夜。
四五人の職人風の男が私の番になる。
カツレツ、カキフライ、焼飯、それに十何本かの酒。げろを吐いて泣くのもおれば、怒ってからむのもいる。じいっと見ていると仲々面白い。一時間ほどして女郎屋へ出征との事だ。
ああ世の中は広いものだと思う。どんな女がこの男達のあいてになるのかと気の毒になって来る。玉の井に行かなくてよかったと思う。在所から売られて来た娘の、今日の行列のさまざまが思い出されて来る。
勝美さんはもう、相当酔っぱらって歌をうたい始めた。客は二人。二人ともインバネスを着た相当ないでたち。お信さんは時々レコードをかけながらするめをしゃぶっている。今夜は商売繁昌なので、やっと奥から火鉢が出る。
勝美さんの客は、私にも酒を差してくれた。美味しくも何ともない。五六杯あける。少しも酔わない。年をとった眼鏡の男の方が、お前は十七かと尋ねる。笑いたくもないのに笑ってみせる。ここのところが自分でも何ともいやらしい。
夕飯を八時頃食べる。いかの煮つけを食べながら、あのひとはいまごろ、何を食べているのだろうかと哀れになって来る。欠点のない立派なひとにも考えられる。お互いの気まずさは別れて幾日もしないうちに消えてきれいになるものだ。
一時のかんばん過ぎにも客があった。
勝美さんはすっかり酔っぱらって、
かえり二時半。
今夜はお爺さんはいないかわりに子供づれの夫婦者が寝ている。収入三円八十銭也。足袋がまっくろで気持ちが悪い。
豆ランプを引きよせて読書。ますます眠れない。
みんなが単純なことを書かなければならぬ。いかにして、ピータア・セミョノヴィッチが、マリイ・イワノヴナと結婚したか、それだけで充分です。そしてまた、なぜ、心理的研究、様子、珍奇などと小見出しを書くのでしょう。みんな単なる偽りです。見出しは出来るだけ簡単に、あなたの心の浮かんだままがよく、外のものはいけません。括弧やイタリックや、ハイフンも出来るだけ少く使うこと、みんな陳腐です。――なるほどね。私もそう思いますが、若い気持ちの中には、仲々そうはゆかない珍奇さに魅力を持つものです。でも、いまに
思いだけが渦をなして額の上を流れる。ごうごうと音をたてて流れて行く。そしてせんじつめるところは
さきの事は一切夢中。あのねえ、私はこんな事考えるのよと云うような小説でも書けないものかと思う……。
田舎へ帰りたくなったとおっかさんは云う。ごもっともな事です。私だって、田舎へ行って、久しぶりに、晴々とした田舎の空気を吸いたいのだけれども、こんなしがない小銭をかせいでいてはどうにもなるものではない。
*
(二月×日)
朝霧は船より白く
遠き涙の硝子石
酷い土中のなかの石
寒 の花も凍るよと
つれなき肌の一色は
高き声して巷 の風に
独りは歩く只歩く。
汚水の底のどろどろと
この胃袋の衰弱を
笑いも出来ぬ人ばかり
おのが思いも肩掛けに
はかなき世なりと神に問う。
人の世は灰なりとこそ
こもれる息もうたかたの
そのうたかたの浮き沈み
男こいしと唄うなり
地獄のほむら音たてて
荒く息するかたりあい。
せめてと頼むひともなく
いつかと待てど甲斐 もなく
うき世の豆の弾 ぜかえり
はかなきは土中の硝子
吹かれて光る土中の硝子。
遠き涙の硝子石
酷い土中のなかの石
つれなき肌の一色は
高き声して
独りは歩く只歩く。
汚水の底のどろどろと
この胃袋の衰弱を
笑いも出来ぬ人ばかり
おのが思いも肩掛けに
はかなき世なりと神に問う。
人の世は灰なりとこそ
こもれる息もうたかたの
そのうたかたの浮き沈み
男こいしと唄うなり
地獄のほむら音たてて
荒く息するかたりあい。
せめてと頼むひともなく
いつかと待てど
うき世の豆の
はかなきは土中の硝子
吹かれて光る土中の硝子。
善悪
やにわに、ただ心だけが走る。牛込の肴町で市電を降りて、牛込の郵便局の方へ歩く。昼夜銀行の横を曲って、
何処かへ出掛けるところとみえてあのひとが帽子をかぶって立っていた。私はやみくもに笑った。あのひともにやにや笑った。とてもいいところへ引越したのねと云うと、詩集を一冊出したので、これからは大変景気がよくなるだろうと云う。それにしても、部屋の中はがらんとしている。野村さんは、これから食堂へ飯を食いに行くのだが、五十銭貸してくれと云う。一緒に戸外へ出る。
泡盛屋の前で、はんてん着のお爺さんが酔ってたおれている。繩のれんの中にはひしめくような人だかり。銭湯のような繁昌ぶりだ。
飯田橋まで歩いて、松竹食堂と云うのにはいる。卓子は砂ぼこり。丼飯にしじみ汁、鯖の煮つけで、また、夫婦のよりが戻ったような気になる。このひとといることは身のつまる事だと思いながら、私はまた陽気な気持ちになり、うんうんといい返事ばかりしてみせる。このひとといて泣く事ばかりだったと云う事はみんな忘れてしまう。
このごろは詩の稿料も幾分かよくなったよと野村さんの話なり。新潮社と云うところは詩一つに就いて六円もくれるのだそうだ。
私は心のうちでごおんと鐘の鳴るような淋しい気持ちになった。ものを書くと云うことはみじめなものだと思った。一年に一度位六円の稿料を貰っては第一食べてはゆけないではないのと云うと、あのひとは、むっとしたそぶりで、風のなかへぺっぺっとつばきを吐いた。
アパートの前でさよならと云うと、あのひとは私なぞみむきもしないでさっさと二階へ上って行った。私はどうしたらいいのか途方にくれる。朝ぎりや、二人起きたる台所。多摩川にいた頃の二人の
誰かが扉をノックしている。私は立ちあがって、扉を開けた。見知らぬ若い男のひとが立っている。私はそのひとを救いの神のように思い、どうぞおはいり下さいと云って、そっと下駄をつかんで廊下へ出て行った。野村さんが何か云って廊下へ出て来たけれども、私は急いで表へ出て行った。風邪をひきそうに頭の痛い気持ちだった。
横寺町の狭い通りを歩きながら、私は浅草のヨシツネさんの事をふっと思い浮べた。プラトニックラブだよと云ったヨシツネさんの気持ちの方がいまの私にはありがたいのだ。
独りでいると粗暴な女になる。
夜。
酔っぱらって唄をうたっているところへ、にゅっと野村さんが這入って来た。私は客の前で唄をうたっていた唇をそっとつぼめて、黙ってしまった。私の番ではなかったけれども、あのひとに金のない事は判りきっている。胸のなかが酢っぱくなって来る。
勝美さんがほおずきを鳴らしながら酒を持って行った。私は腰から下がふわふわとして来る。そっと勝美さんを裏口へ呼んで、あのひとは私の知ってるひとで金がないのだからと云うと、勝美さんはのみこんで表へ出て行った。私はそのまま
ゆっくり時間をとって、帰ってみると、まだ野村さんはいた。そばへ行って話す。酒を飲み、焼飯を食って、平和な表情だった。私は、どんな犠牲もかまわないと思った。
十時頃野村さん帰る。
土のなかへめりこんで行きそうな気がした。愛情なぞと云うものはありようがないのだと自分で気づく。
(二月×日)
朝、大久保まで使いに行く。家賃をとどけに行くのだ。いくらはいっているのか知らないけれど、ふくらんだ封筒を見ると、これだけあれば一二カ月は黙って暮らせるのだと思う。大久保の家主は大きい植木屋さん。帳面に受取りの判こを貰って、お茶を一杯よばれて帰る。
新宿の通りはがらんとしている。花屋のウインドウに三色すみれや、ヒヤシンスや、
裏町の黄色い空に
のこぎりの目立ての音がしている
売春の町にほのめく桜 二月の桜
水族館の水に浮く金魚色の女の写真
牛太郎が蒲団を乾している
はるばると思いをめぐらした薄陽に
二階の窓々に鏡が光る。
売春はいつも女のたそがれだ
念入りな化粧がなおさら
犠牲は美しいと思いこんでいる物語
鐙 のない馬 汗をかく裸馬
レースのたびに白い息を吐く
ああこの乗心地
騎手は眼を細めて股 で締める
不思議な顔で
のぼせかえっている見物客
遊廓で馬の見立てだ。
のこぎりの目立ての音がしている
売春の町にほのめく桜 二月の桜
水族館の水に浮く金魚色の女の写真
牛太郎が蒲団を乾している
はるばると思いをめぐらした薄陽に
二階の窓々に鏡が光る。
売春はいつも女のたそがれだ
念入りな化粧がなおさら
犠牲は美しいと思いこんでいる物語
レースのたびに白い息を吐く
ああこの乗心地
騎手は眼を細めて
不思議な顔で
のぼせかえっている見物客
遊廓で馬の見立てだ。
雑貨屋で大学ノート二冊買う。四十銭也。小さいあみ目のある原稿用紙はみるのもぞっとしてしまう。あのひとを想い出すからだ。あのひとは小さいあみ目の中に、月が三角だと書き、星が直線だと書く。生きて血を噴くものにおめにかかりたいものだ。ふわふわと鼻をふくらませて第一に息を吸うこと。口にいっぱいうまいものを頬ばること第二。千松は厭で候。誰とでも寝るために女は生きている。今はそんな気がする。
ふっと気が変って、また牛込へ尋ねてゆく。野村さんは不在。神楽坂の通りをぶらぶら歩く。古本屋で立読み。このぐらいの事は書けると思いながら、古本屋の軒を出ると、もう寒々と心の中が凍るように淋しくなる。何も出来ないくせに、思う事だけは狂人のようだ。また本屋に立ち寄ってみる。手あたり次第にぱらぱらと頁をめくる。何となく気が軽くなる。そしてまた戸外へ出ると心細くなって来る。歩いていることがつまらなくなって来る。すべては手おくれになった手術のようで、死を待つばかりの心細さ……。
店へ戻ると、もう掃除は出来ていた。
医学生が三人で紅茶を飲んでいる。二階へあがって畳に腹這いごろごろと転ぶ。口のなかからかいこの糸のようなものを際限もなく吐き出してみたくなる。悲しくもないのに涙があふれる。
(二月×日)
雨。風呂のかえり牛込へ行く。
千葉亀雄さんが親類だと云うのだから、あのひとに話してみようかと思ったりする。私は動けないので、羽織を足へかけて
夕方になって眼が覚める。あのひとはむこうむきで机へ向いている。何か書いている。金だらいの手拭を取ると手拭がかちかちに凍っている。
肺の骨がどうにも痛い。灰皿は破れたまま散らかっている。
早く店へ戻りたいとも思わない。このまま朝まで眠っていたいのだ。寒さで、躯がぶるぶる震えている。風邪を引いたのか、馬鹿に頭の
そっと起きて髪を結いなおす。
その夜、起きられないので、財布を出して、あのひとに、カレーなんばんを二つ取って来て貰って二人で食べた。何も話がないので二人で仲よく寝てしまう。
(二月×日)
朝、まだ雨が降っている。みぞれのような雨。酒でも飲みたい日だ。寝床のなかで、いつまでもあれこれと考えている。野村さんは紅い唇をして眠っている。肺病やみの唇だ。肺病は馬の
もう、これが最後で、本当にお別れだと思う。何処からか味噌汁の匂いがする。むらさきのさむるも夢のゆくえかな。誰かの句をふっと思い出した。何となく、外国へ行ってみたくなる。インドのような暑い国へ行ってみたいのだ。タゴールと云う詩人もインドのひとだそうだ。
野村さんは、通いにして、また一緒に住めばいいと云ってくれたのだけれど、私は心のなかにそんな気のない事をはっきりと自覚している。私は殴られる相手として薄馬鹿な顔をしているのは沢山だ。楽天家ぶっているのには閉口。あなたが、殴りさえしなければ戻って来たいのよと嘘を云う。
店へ戻ったのがお昼。がんもどきの煮つけと冷飯。息をもつかずのどを通る。近所の薬屋で
あわれこもりいのヒヤシンス
むらさきのはなびら
うす紅のべん
におう におう
尼ぼとけの肩。
うなばらにただよう屍
根株のひげ根の波よせて
におう におう
汐 ざいの遠鳴り
波がしらみな北にむく。
伏せていこうはは
屍の炬燵
ほのかににおう
うつつ世のつかれ念仏
あくびまじりの或日の太陽。
むらさきのはなびら
うす紅のべん
におう におう
尼ぼとけの肩。
うなばらにただよう屍
根株のひげ根の波よせて
におう におう
波がしらみな北にむく。
伏せていこうはは
屍の
ほのかににおう
うつつ世のつかれ念仏
あくびまじりの或日の太陽。
自由に作曲が出来たら、こんな意味をうたいたい。
(三月×日)
うららかな好晴なり。ヨシツネさんを想い出して、公休日を幸い、ひとりで浅草へ行ってみる。なつかしいこまん堂。一銭じょうきに乗ってみたくなる。石油色の隅田川、みていると、みかんの皮、
ささくれた角帯に、クリップで小さい万年筆の頭がのぞいている。その男もお酒を飲んでいる。店さきにずらりと自転車が並び、だんだん客がふえて来る。まるで天井にかげろうがまっているような煙草のもうもうとした煙。少しの酒にいい気持ちになって来る。どじょう鍋になまずのみそ椀、香のものに御飯、それに酒が一本で八十銭。何が何だってとたんかの一つもきりたいようないい気持ちで戸外へ出る。広い道をふらふらと歩く。二天門の方へまわってみる。ごたごたと相変らずの人の波だ。裸の人形を売っている露店でしばらく人形を眺めてみる。やっぱりきりょうのいいのから売れてゆく。昼間のネオンサインがうららかな昼の光りに淡く光っている。鐘つき堂の所から公園のなかへぶらぶら歩く。
誰一人知った人もない散歩でございます。少々は酔い心地。まことに、なつかしい浅草の匂い。
池の石の上に、甲羅の乾いた亀がもそもそと歩いている。いまにいいことがあるぞと云ってくれているのではないかと、にゅっと首をあげている亀の表情をじいっとあきずに眺めている。少しはねえ、いいことがあるように、私のことも考えて下さいなと亀に話しかけてみる。慾ばってはいかん。はい、承知いたしました。何が慾しい? はい、お金がどっさりほしいです。毎日心配なく御飯がたべられるほどお金がほしいです。男はいらぬか? はい、男はいりません。当分いりません。それは本当かね? はい、本当の事でございます。男はやっかいなものです。辛くて一緒にはおられません。私は何をしたら一番いいでしょう? それは知らん。あんまり薄情な事は云わないで下さい。――亀と話をしているのは面白い。一人で私はぶつくさと亀と話をしている。
足もとの小石を拾って、汚れた池へどぽんと投げる。亀の首が縮む。その縮みかたが何だかいやらしい。わあっと笑い出したくなって来る。
こんなに賑やかなところにいて、亀も私も到って孤独だ。かんのん様が何だよと
夕方新宿へ帰る。行くところもないので店へ戻る。二階で勝ちゃんが大きな声で
疲れたので、毛布を出して横になる。
ああこれでは一生このままで終ってしまう。どうにもならぬ。ぱっとした事はないのだろうか……。何かがバクハツするような事はないのでしょうかね、神様……。毛布が馬鹿に人間臭い。暗い戸外を、「
勝ちゃんが階下からウイスキーを盗んで来た。私製ジョニオーカア。暗がりで二人でウイスキーをビンの口から飲みあう。一丈位も躯がのびたような気がする。文明人のする事ではないでしょうけれど、まあ、この女達を哀れにおぼしめして下さい。私は酔うと鼻血の出るような勇ましい気になる。
*
(六月×日)
悪魔にさらわれて行った
帽子も脱がずにみんな空を見た。
指をなめる者
パイプを
声を挙げる子供たち
暗い空に風が唸る。
月は何処かへ消えて行った。
何処かの
人々はそう云って騒ぐ。
そうして、何時の間にか
人間どもは月も忘れて生きている。
スチルネルの自我経。ヴォルテエルの哲学。ラブレエの恋文。みんな人生への断り状だ。生きていることが恥かしいのだ。労働は神聖なり、誰かがおだてて貧乏人にこんな美名をなすりつける。鼻もちもならぬほど、貧民を
幸福の馬車は、いちはやくこうした徒輩の間を一目散に走り去ってゆく。みんな見送る。ただ、ぼんやりとわめき散らす。月が盗まれたような気がして来る。虚空に浮いている幸福な金貨のような月の光りは消えた。月さえも万人の所有物ではないのだ。――私は貴族は大嫌い。皮膚に弾力のない不具者だ。
今日も南天堂は酔いどれでいっぱい。
五十里さん、俺の家には金の茶釜がいくつもあると呶鳴っている。
なにかはしらねど、心わあびて……渡辺渡が眼を細くして唄っている。私はお
辻潤訳のスチルネルがいくら売れたところで、世の中は大した変りばえもしない。日本と云うところはそう云ったところだ。がんじがらめの王国。――帰り、カゴ町の若月紫蘭邸へ寄る。東儀鉄笛の芝居の話あり。
岸輝子さん黒い服を着ている。私はこのひとの音声が好きだ。――俳優とは如何なるものであろうか……。私には何の自信もないのだけれども、只、こうして通って来るだけだ。そして、ヨカナアンを覚え、オフェリヤを猿真似のように私は朗読する。詩人にもなってみたい、俳優にもなってみたい、そして、絵描きにもなってみたい。
若い周囲には、魔法のように様々な本能が
今夜はストリンドベリイの稲妻に就いての講義あり。
帰り、カゴ町の広い草っぱらで
炭屋の二階四畳半が当座の住居。部屋代は四円。自炊するのには一山二十銭の炭を買って燃料にはことかかない。
四囲がわあっと炭臭い。炭臭くてどうにもならない。――神様、神様と云うもの……。まるい、ふわふわ、三角のとげとげ、どんな形をしているのだ、
あまり無名なものの作品は載せたくないんだと云う。読者の子供が、無名も有名も知った事ではない筈だ。一生懸命に書いてみたンですけど駄目でしょうかと必死になる。私は何時間も待たされてなぶり者になってしまう。一枚三十銭でなくてもいい、二十銭でもいいから取って下さいと頼んでみる。では特別ですよとこの間も十枚で一円五十銭くれて、まアよく勉強するンだな。アンデルゼンでも読み給え。はい、アンデルゼンを読みます。玄関を出るなりわっと割れるような息をする。
あの編輯者メ、電車にはねられて死なないものかと思う。雑誌も送って来やしない。本屋で立読みをすると、私の童話が、いつの間にか彼の名前で、堂々と巻頭を飾っている。頭も
次の原稿を持って行く時は、私は、そんなものは何も知らない顔で、にこにこと笑って行かなければならない。また二時間も待たされて、笑顔をつづけている事にくたびれてしまう。ああ、厭な仕事だと溜息が出る。神様! これでも悪人をはびこらせておくのですか。
童話が厭になると詩を書く。だけど、詩もてんから売れやしない。見ておきましょうと云って、みんなかすみのように忘れられてしまう。
神様よ。いったい、どうして生きてゆけばいいのか私は判らない。貴方は何処に立っているんですか。
(六月×日)
朝、重い頭をふらふらさせて、本郷森川町の雑誌社へ行く。電車道でナイトキャップの男に会う。笑いたくもないのに丁寧に笑って挨拶をする。その男は社へ行く道々も、詩集のようなものを読みながら歩いている。
玄関の暗い土間のところに、壁に
「赤い靴」と云う原稿を拡げて、私はいつまでも同じ行を読んでいる。もう、これ以上手を加えるところもないのだけれども、何時までも壁を見て立っているわけにはゆかないのだ。
ああ、やっぱり芝居をしようと思う。
時計は十二時を打っている。二時間以上も待った。いろんな人の出入りに、邪魔にならぬように立っていることがつまらなくなって、戸外へ出る。何だって、あの男は冷酷無情なのかさっぱり判らない。無力なものをいじめるのが心持ちがいいのかも知れない。
歩いて根津権現裏の萩原恭次郎のところへ行く。
節ちゃんは洗濯。坊やが飛びついて来る。
朝も昼も食べないので、
銀座の滝山町まで歩く。昼夜銀行前の、時事新報社で出している、少年少女と云う雑誌は割合いいのだと聞いたので行ってみる。
係の人は誰もいないので、原稿をあずけて戸外へ出る。四囲いちめん食慾をそそる匂いが渦をなしている。木村屋の店さきでは、出来たてのアンパンが陳列の硝子をぼおっとくもらせている。紫色のあんのはいった甘いパン、いったい、何処のどなたさまの胃袋を満すのだろう……。
四丁目の通りには物々しくお巡りさんが幾人も立っている。誰か皇族さまのお通りだそうだ。皇族さまとはいったいどんな顔をしているのだろう。平民の顔よりも立派なのかな。ゆっくり歩いてカフエーライオンの前へ行く。ふっと見ると、往来ばたの天幕小屋に、広告受付所、都新聞と云うビラがさがって、そのそばに、小さく広告受付係の婦人募集と出ている。天幕の中には、卓子が一つに椅子が一つ。そばへ寄って行くと、中年の男のひとが、「広告ですか?」と云う。受付係に雇われたいのだと云うと、履歴書を出しなさいと云うので、履歴書の紙を買う金がないのだと云うと、その男のひとは、吃驚した顔で、「じゃア、これへ簡単に書いて下さい。明日から来てみて下さい」と親切に云ってくれた。ざらざらの用紙に鉛筆で履歴を書いて渡す。
この辺はカフエーの女給募集の広告が多いのだそうだ。皇族がお通りだと云うので街は水を打ったように森閑となる。どの人もうつむいて動かない。巡査のサアベルが鳴る。
人々の列の向うをざわざわと自動車が通る。自動車の中の女の顔が面のように白い。ただそれだけの印象。さあっと民衆は息を吹きかえして歩きはじめる。ほっとする。
明日から来てごらんと云われて、急に私は元気になった。日給で八十銭だそうだけれども、私には過分な金だ。電車賃は別に支給してくれる由なり。その男のひとの眼尻のいぼが好人物に見える。
「明日早く参ります」と云って歩きかけると、そのひとが天幕から出て来て、私に何も云わないで十銭玉を一つくれた。おじぎをするはずみに涙があふれた。神様がほんの少しばかりそばへ寄って来たような温い幸福を感じる。執念深い飢がいつもつきまとっている私から、明日から幸福になる前ぶれの風が吹いて来たような気がする。今朝、私は米屋で貰った
あの皇族の婦人はいかなる星のもとに生れ合せたひとであろうか? 面のように白い顔が伏目になっていた。どのようなものを召上り、どのようなお考えを持たれ、たまには腹もおたてになるであろうか。あのような高貴の方も子供さんを生む。只それだけだ。人生とはそんなものだ。
夕方から雨。
傘がないので、明日の朝の事を考えると憂鬱になって来る。
夜更まで雨。どこかであやめの花を見たような紫色の色彩の思い出が瞼の中を流れる。
(六月×日)
前はライオンと云うカフエーで、その隣りは間口一間の小さいネクタイ屋さん。すだれのようにネクタイが狭い店いっぱいにさがっている。
今日で四日目だ。
三行広告受付で忙がしい。一行が五十銭の広告料は高いと思うけれども、いろんな人が広告を頼みに来る。――芸妓募集、年齢十五歳より三十歳まで、衣服相談、新宿十二社何家と云う風に申込みの人の
かんかんと陽の照る通りを、美しい女達が行く。私はまだ洗いざらしたネルを着ている。暑くて仕方がないけれど、そのうち浴衣の一反も買いたいと思う。
眼の前のカフエーライオンでは眼の覚めるような、派手なメリンスを着た女給さんが出たりはいったりしている。世の中には、美しい女達もあるものだと思う。まるで人形のようだ。第一等の美人を募集するのに違いない。
こうした賑やかな通りは、およそ、文学と云うものに縁がない。金さえあれば、いかなる享楽もほしいままなのだ。その流れの音を私は天幕の中でじいっとみつめている。たまには乞食も通る。神様らしきものは通らない。そのくせ、昼食時のサラリーマンの散歩姿は、みんな
私は天幕の中で色々な空想をする。卓子のひき出しの中には、ギザギザの大きい五十銭銀貨が
理想的な同人雑誌を出す事も出来るし、自費出版で美しい詩集を出す事も出来る。卓子の
罪人になる
何と云う罪になり、どの位カンゴクにはいるものだろう……。
神様がこんな心を与えるのだ。神がね。
「朝から夜中まで」の銀行員の気持ちにもなる。
プロシャのフレデリックは「誰でも、自分自身の方法で自分を救わなければならぬ」と云ったそうだ。ああ、誰かが金を持って、この天幕を訪れる。私は鉛筆をなめながら、註文主の代筆で三行の文章を綴る。みんな美しい奴隷を求める下心だ。その下心を三行に綴るのが私の仕事。もう、私の頭の中には詩も童話も何もない。
長い小説を書きたいと想う事があっても、それは只、思うだけだ。思うだけの一瞬がさあっと何処かへ逃げてゆく。
花柳病院の広告を頼みに来る医者もいる。まことに、芸妓募集、花柳病院とは充実したものだ。私は皮肉な笑いがこみあげて来る。あらゆるファウストは女に結婚を約束して、それからすぐ女を捨てる。三行広告にもいろいろな世相が動いている。
それが証拠には、産婆の広告も毎日やって来る。子供やりたしとか、貰いたしとか、いかようにも親切に相談とか。広告を書きながら、私は私生児を産みに行く女の唸り声を聞くような気がする。
そして、私は、毎日、いぼさんから八十銭の日給を頂戴してとことこ本郷まで歩いて帰るのだ。
感化院。養老院。狂人病院。警察。ヒミツタンテイ。ステッキガール。玉の井。根津あたりの素人淫売宿。あらゆる世相が都会の背景にある。
或る作家
私は生涯、この歩道の天幕の広告取りで終る勇気はない。天幕の中は六月の太陽でむれるように暑い。ほこりを浴びて、私はせいぜい小っぽけな鉛筆をくすねるだけで生きている。
北海道の何処かの炭坑が爆発したのだそうだ。死傷者多数ある見込み……。銀座の
株とは何なのか私は知らない。濡手で
三万人の尻っぽについて小説を書いたところで、いったい、それが何であろう、運がむかなければどうにも身動きがならぬ。
夜、独りで浅草に行く。ジンタの音を聴くのは気持ちがいい。誰かが日本のモンマルトルだと云った。私には、浅草ほど愉しいところはないのだ。八ツ目うなぎ屋の横町で、三十銭のちらし寿司をふんぱつする。茶をたらふく飲んで、店の金魚を
どの路地にもしめった風が吹いている。
ふっと、詩を書きたくなる一瞬がある。歩きながら眼を細める。何処からも相手にされない才能、あの編輯者のことを考えるとぞおっとして来る。まんまと人の原稿をすり替えた男。この不快さは一生忘れないぞと思う。私にだって憎悪の顔がある。何時も笑っているのではありません。笑顔で窒息しそうになる気持ちを幸福な人間は知るまい。私は、そんな人間の前で笑っていると、胸の中では呼吸のとまりそうな窒息感におそわれる。
一つの不運がそうさせるのだ。
残酷な人の心。チエホフの、アルビオンの娘みたいなものだ。
寿司屋では茶柱が二本も立ったので、眼をつぶってその
逢初の夜店で、ロシヤ人が油で揚げて白砂糖のついたロシヤパンを売っていた。二つ買う。
現実に戻ると、日給の八十銭は仲々ありがたい。
*
(七月×日)
薄曇り四年にわたる東京の
隙間をもれて
思い出はこの空気の濁り
午後にやむ雨
蝉 の声網目の如し
胸の轟 き小止 みめぐる血
西片町のとある垣根の野薔薇
其処 ここに捉 われる風
小さき詩人よ
所在 なくさまよう詩人
窮して舞う銭なしの詩人
寂寞の重さにひしがれ
彷徨 うは旅の夢跡
何処 やらに琴のきこゆる
消える音 消える夢
西片町の静かなる朝
金魚屋のいこう軒
浸み渡る円 の水
赤い尾ひれのたまゆらの舞い
咽喉 がかわく
真白な歯は水くぐる
歓びは枇杷 の果のしたたり
盗みて食う庭かげ
酢くしわめる舌は
英吉利 語の如し
不愉快なバイブルの革表紙
しめって臭く犬の皮むけ
西片町の邸の匂い
枇杷の実はくさったまま
木もれびの下のキジ猫
森閑と静もれる西片町
金魚屋のバッカン帽子が呟く
詩人もしゃがむ
円にうつす水鏡
雲に浮く金魚の合唱
生死のほどはいまもわからぬ
ただこの姿あるうちに召しませ
西洋洗濯のペンキ車
白い陶の表札と呼鈴
時間のとどまる一瞬の朝
この家々が澄まして悪を憎む
ペンキ車は後追う詩人
どこやらでうその鳴き声
世に叫ぶ何ものも持たざる詩人
開闢 とは今日のことなり
昨日はもうすでに消え
あるは今日のみ今の現実
明日が来るのか……
明日があるのか詩人は知らぬ
隙間をもれて
思い出はこの空気の濁り
午後にやむ雨
胸の
西片町のとある垣根の
小さき詩人よ
窮して舞う銭なしの詩人
寂寞の重さにひしがれ
消える音 消える夢
西片町の静かなる朝
金魚屋のいこう軒
浸み渡る
赤い尾ひれのたまゆらの舞い
真白な歯は水くぐる
歓びは
盗みて食う庭かげ
酢くしわめる舌は
不愉快なバイブルの革表紙
しめって臭く犬の皮むけ
西片町の邸の匂い
枇杷の実はくさったまま
木もれびの下のキジ猫
森閑と静もれる西片町
金魚屋のバッカン帽子が呟く
詩人もしゃがむ
円にうつす水鏡
雲に浮く金魚の合唱
生死のほどはいまもわからぬ
ただこの姿あるうちに召しませ
西洋洗濯のペンキ車
白い陶の表札と呼鈴
時間のとどまる一瞬の朝
この家々が澄まして悪を憎む
ペンキ車は後追う詩人
どこやらでうその鳴き声
世に叫ぶ何ものも持たざる詩人
昨日はもうすでに消え
あるは今日のみ今の現実
明日が来るのか……
明日があるのか詩人は知らぬ
(七月×日)
人生の青さの
重く軽く生きる斑々
燈火によるかげろう
只ひきずられて生きる
希望らしげな斑々の顔
悪念
どうせ死ぬ日があるまでは
ムイシュキン様の
よりにもよって暗い顔
楽しい月日の人生なぞとは
あわあわとたわけたことだ
辛抱強くよくも飽きずに
Mボタンをはずしたり閉めたり
斑々の辛抱強さの厚顔
時々はあじさいの地位名誉
下碑が鍋尻を洗う
軽く重く衝突する斑々
床の間には忠孝
欄間には洗心
壁間には欲張った風流
ああ私は下婢となって
毎日毎日鍋尻を洗うのだ
斑々の偽善!
自分が何故こんなところにいるのか判らない。只、何となく家庭らしさをあこがれて来たようなあいまいな気持ちばかり。五円のおてあてではどうにもならぬ。――旦那さまは大学の先生だと云う。何を教えているのかさっぱり判らない。英国へ行っていたけいれきはあるのだそうだ。毎朝パン食。牛乳が一本。ひげをそって、水色裏の
喜びにつけ、悲しみにつけ、私は私の人生に
速くノートに書きとめておかなければ、この素速い文字は消えて忘れてしまうのだ。
仕方なく電気をつけ、ノートをたぐり寄せる。鉛筆を探しているひまに、さっきの光るような文字は綺麗に忘れてしまって、そのひとかけらも思い出せない。また燈火を消す。するとまた、赤ん坊の泣き声のような初々しい文字が瞼に光る。段々疲れて来る。いつの間にかうとうとと夢をみる。天幕のなかで広告とりをしていた夢、浅草の亀。物柔らかな暮しと云うものは、私の人生からはすでに燃えつくしている。自己錯覚か、異様な狂気の連続。ただ、落ちぶれて行く無意味な一隅。ハムスンの飢えのなかには、まだ、何かしらたくらみを持った希望がある。自分の生きかたが、無意味だと解った時の味気なさは下手な楽譜のように、ふぞろいな濁った
(七月×日)
暑いので、胸や背中にあせもが出来る。帯をしっかり結んでいるので、何とも暑い。蝉がジンヤジンヤと
こうしていてはどうにもならないのだ。五円の収入では田舎へ仕送りも出来ない。心の
失敗は人をおじけさせてしまう。男にも、職業にも私はつまずいてばかりいる。別に、誰が悪いと恨むわけではないのだけれども、よくもこんなに、神様は私と云うとるにたらぬ女をおいじめになるものだ。神様と云うものは意地の悪いものだ。あなたは、
やかましい音をたててジョウサイ屋が路地口に来る。物売りの男を見るたびに、行商をしている義父の事を思い出す。たまには五十円位もぽんと送ってやれないものかと思う。隣家の垣根に、ひまわりが丈高く後むきに咲いているのが見える。
来世は花に生まれて来たいような物哀しさになる。ひまわりの黄は、寛容な色彩。その色彩の輪のなかに、自然だけが何とない喜びをただよわせている。人間だけが悩み苦しむと云ういわれを妙な事だと思う。――奥さんは近いうち新潟へ帰郷の由。早くこの家を出なければならぬ。
夕方、八重垣町の縫物屋へ奥さんの夏羽織の仕立物を取りに行く。戸外を歩いていると
ふっと、田舎へ帰りたい気がする。赤い
人生と云うものはこんなに何かしらごちゃごちゃと寄り添っていながら、わざと濁った方へ、苦しい方へ、退屈な方へ流されて行ってしまっている。そして、人々は不用意に風邪を引く。何処で引いたのかは気がつかない。夜、メダカ女史が泣いていた。どのような原因なのかは知らないけれども、取りみだして泣いている。白いカバーのかかった座蒲団の重ねてある暗いところで泣いている。書斎は森閑としている。
台所で一人で食事。来る日も来る日も、なまぬるい味噌汁と御飯。ぬか漬の
奥さんが、小さい声で叱っている声がする。恩を
酢っぱい汁が舌にあふれる。
(七月×日)
濁った水を走る、小さい魚の眼にも、澄んだ真夏の空が光っている。およそ、模範的だなぞと云う人間ぐらい厭なものはない。歩いている人間がみんなそうだ。二本の足をかわりばんこに動かして、まるで、目の前に希望がぶらさがっているような、あくせくした行進だ。
この世の中にどんな模範があるのだろう。人いじめで、いやらしくて、大嘘つきで、自分ばかりをおたかく考えている人間。口に人類だの人道主義だなぞと云って、あのメダカ女史をうまいことだましたに違いない。その恋人は一生足袋をはいて暮さなければ格が落ちるとでも教育されたのに違いない。
女には反抗する姿勢がないのだ。すぐ、じめじめと泣き出す。
夜、上野の鈴本へ英子さんと行く。
猫八の物真似、雷門助六のじげむの話面白し。ああすまじきものは宮づかえ、千駄木へ戻って、井戸で水を浴びる。
物干に出て涼んでいると、星が馬鹿に綺麗だ。地虫が啼いている。蚊が唸っている。夜更けまで、何処かで木魚を叩くような音がしている。長い月日を西片町で暮していたような気がする。英子さんは、二三日して大阪へ戻る由なり。その後のことはまた考えればいいのだ。せめて、二三日、黙ってぐっすり眠りたいものなり。
(七月×日)
昼近く、読売新聞に行き、清水さんに面会に行くが、とうとう詩を返される。帰り、恭ちゃんのところへ寄る。ここも、不如意な暮しむきなり。節ちゃんと縁側で昼寝。氷水を十杯も飲みたい気持ちで眼が覚める。節ちゃんは子供を柱へくくりつけて洗濯。
何処へも行き場のない、行きくれた気持ちで縁側で足をぶらぶらさせていると、路地の外をものうい唄をうたってジンタが通る。籠の鳥でもちえある鳥は、人目しのんで逢いに来る。……何だかその唄が身につまされて心のなかが味気なくなって来る。庭のすみに、小さい朝鮮朝顔の桃色の花がいっぱい咲いている。久しぶりで、しみじみと花の咲いたのをみた。恭次郎さん仲々戻らない。財布をはたいて、釜あげうどんを二つとって節ちゃんと食べる。金は天下のまわりもの、いずれは、のろのろとした速度で、また金のはいる事もありましょう。
逢初の縁日は
香具師 がいっぱい
粉だらけの白い朝鮮飴
螢売 りに虫売り
大道手品は喝采 でいっぱい
カーチンメンドの冷し飴
臆病者の散歩
カアバイトの臭い燈火
バナナ屋のねじり鉢巻
ええあの太いのがくさるのよ
ゴム管で聴く蓄音機
ホーマーの詩でもあるのかな
深山の薄雪草にも似た宵
綿の水を吸って絹糸草が青い
水中花はコップの中で一叢
アルペンの高山植物らしく
男を売る店は一軒もない
乾いた海ほうずきの紅色
心臓が黙って歩いている
ああ五時間もすれば
またどんな人生がやって来るのだろう
不可能のなかに後退してゆく脚
少しずつ思いの色が変化する
ゴマ入りの飴玉をしゃぶる
縁には紐 のない玉手箱。
粉だらけの白い朝鮮
大道手品は
カーチンメンドの冷し飴
臆病者の散歩
カアバイトの臭い燈火
バナナ屋のねじり鉢巻
ええあの太いのがくさるのよ
ゴム管で聴く蓄音機
ホーマーの詩でもあるのかな
深山の薄雪草にも似た宵
綿の水を吸って絹糸草が青い
水中花はコップの中で
アルペンの高山植物らしく
男を売る店は一軒もない
乾いた海ほうずきの紅色
心臓が黙って歩いている
ああ五時間もすれば
またどんな人生がやって来るのだろう
不可能のなかに後退してゆく脚
少しずつ思いの色が変化する
ゴマ入りの飴玉をしゃぶる
縁には
(七月×日)
英子さんが一緒に大阪へ行かないかと云う。大阪へ行く気はしないけれど、岡山へは帰りたい。久しぶりに、母にも逢いたいものなり。英子さんの旦那さんより十円かりる。岡山まで行きさえすれば、帰りは何とかなるだろう。昼、西片町に荷物を取りに行く。メダカ女史が荷物と、五十銭玉六つくれる。この本は、貴女のではないでしょうと云って、伊勢物語を出して来る。はい、私のですと云うと、いいえ、これはうちの本ですと云う。何だかシャクゼンとしないので、これは、私が夜店で買ったのだからと、台所にいつまでも立っていた。メダカ女史しらべて来ると云って引っこんでいったけれど、
夜、英子さんと、英子さんの子供と三人で東京駅へ行く。汽車へ乗る事も久しぶりだけれども、何となく東京へなごりおしい気持ちなり。別れた人が急になつかしくなって来る。八十銭のボイルの浴衣がお母さんへの土産。
プラットホームはひっそりとして、洋食の匂いがしている。見送りの人もまばら。ホームを涼しい風が吹いている。
何ものにもとらわれる事なく、何時までも汽車旅をつづけていたいようなのんびりさだ。汽車に乗って、岡山へ帰るなぞとは昨日まで考えつかなかった事だけに愉しくて仕方がない。さきの事はさきの事で、また、何とか、人生のおもむきは変ってゆくであろう。譜面台のない人生が未来にはある。私はそう思う。自分の運命なンか少しも判ってはいないけれども、運命の神様が何とかお考えになっているのには違いない。ぞっとするような事も度々だけれど、この汽車に乗れる幸福はまことに有難いことだ。東京へ再び来る事があったら十円は身を粉にしても返さなければならない。西片町はさよなら。
何事もおぼしめしのままなる人生だ。えらそうな事を考えてみたところで、運命には抗しがたい。昔男ありけりではないが、ああ、あんな事もあった、こんな事もあったと、暗い窓を見ていると、田園の灯がどんどん後へ消えてゆく。少しも眠れない。一つのささやかな遍歴の試みが、私をますます勇気づけてくれる。何でも捨身になって働くにかぎる。詩なぞはもうこんりんざい書くまい。詩を書きたい願望や情熱は、ここのところどうにもならない。大詩人になったところで、人は何とも思わぬ。狂人のようになれぬ以上は、このみじめな環境から這い出すべしだと思う。夜の雲がはっきりみえる。
*
(八月×日)
岡山の内山下へ着いたのが九時頃。橋本では、まだみんな起きて涼んでいた。一カ月程前に、お
姉娘の清子と銭湯に行き、風呂から上って、銀行のそばの屋台でショウガ入りの冷し飴を飲む。金がないと云う事が何としても辛い。尾道までの汽車賃を明日朝云い出す事にする。
何をして働いているのか、誰も尋ねてはくれない。それも助かる。岡山は静かな街だとおもう。どおんとしたなぎ。むし暑くて寝る気がしない。いつでも、
女学校二年の光子が、二階で遅くまで英語の歌をうたっていた。トィンクル、トィンクル、リトルスター、ハオアイ、ワンダア、ホアツユウアール、ホエン、アップアバウト、インザスカイ。私もこの歌はならった事がある。何だか、遠い昔のことのような気がして来る。義父が岡山の鶴の卵と云う菓子を買って来てくれた事を思い出した。
朝。台所で朝飯をよばれたけれど、金の話を云い出しそびれる。折角来たのだから、友達を尋ねると云って戸外へ出る。
学校時代の友達に逢いに行ったところで、別にもてなして貰えると云うあてもない。暑い街の反射で汗びっしょりになって、賑やかな街に出る。狭い商店街の通りには天幕がずっと張り渡されて、
ふっと、青木と云うハイカラな西洋食器店をみつけた。暫く陳列の前に立って、コオヒイ茶碗や、アヒルの灰皿や、スカートを拡げた西洋人形の辛子入れなぞを眺めている。緑のペンキ塗りの陳列のなかのぴかぴか光る金色、赤、コバルト、陶の涼しさ。メリンスの着物に白いエプロンをした美しい子供が店さきに出て来たので、中根慶子さんはいますかと聞いてみる。
子供はすぐ奥へはいって行った。私は陳列の硝子に顔をうつしてみる。水の底の昏い皿の上に私のむくんだ顔がのっている。髪はちぢれた耳かくし。おお暑い、暑いだ。水車の音が耳に来る。洗いざらした鳴戸ちぢみの
中根さん出て来るなり、ンまアと云って驚く。尾道の学校を出て四年。一度も相逢うことなく今日に到る。紺飛白を着てきちんとした姿。何とも落ちぶれた姿の自分が、荷車にひかれた昆布のような気持ちなり。中根さん、地味な色のさめた柄の長いパラソルを持って出て来る。公園へ行こうと云う。
日本でも有名な公園の由なり。公園になぞ行く気はないのだけれども仕方なく、公園へついて行く。中根さんは無口なひとなり。まだかたづかない由にて、私に小説を書いているのかと聞く。小説の話なぞは、夢のような事なのでやめる。東京での様々を打明けたらこのひとは驚くであろう。
公園は暑くてつまらないところであった。
景色を眺める事に何の興味もない。若いせいかも知れないけれども、蝉の
赤松の
締め合わせられる、つなぐ、断れる。心がきれぎれで、ラムネのびんの玉を、からからとゆすぶっているだけ。尾道へ行く旅費。二円五十銭もあれば、羊かんも買って帰れる。きらきらと向うは陽が射している。こちらは深い蔭になって、長い縁台に眼鏡をかけた男が口を開けて昼寝をしている。氷の旗のゆれる色彩。眼をこらして四囲をみているのだけれども、この景色も、汽車の中では忘れてしまうに違いない。袂の中へがまぐちを落して、ひそかに氷とラムネ代を勘定する。
中根さんも東京へ行きたいとぽつりぽつり話しているけれども、私はうわのそらで、銅貨を数える。昔は仲が良かったと云うだけで、意味もなく公園の景色なぞを眺めていなければならないつまらなさに哀しくなって来る。
氷とラムネ代を払って、四銭残る。みえ坊で嘘つきで、ていさいのいいことばかりで、中根さんに旅費を借りる事を断念。――昼前に橋本へ帰り、勇気を出して、借銭を申し込んで二円五十銭おばさんより借りる。二人の女学生は急に
羊かんを買わないで、弁当を買う。三等の待合室で弁当を食べる。売店で青いバナナを二本買う。五銭也。
少しばかりの金が、こんなに勇気づけてくれる。公園でのびのびとラムネを飲めばよいものを、銭勘定をしながらびくびくして飲んだ事に腹立たしくなる。中根さんは別に厭な女でもないのに、吐気がする程厭に思えて来る。御馳走をした上に、びくびくして、中根さんにへりくだってものを云っている自分にやりきれなくなっていた。小説はうれるの? いいえ売れないのよ。どんなものを書いているの? どんなものって、童話みたいなものよ。一々あやまって返事をしていたようなみじめさが話していながら、ああ駄目だ駄目だと中根さんに押されて来る。奴隷根性。いつもぺこぺこ。何とかして貰うつもりもないのに笑顔をつくってへりくだってみせる。
詩や小説を書くと云う事は、会社勤めのようなものじゃありませんのよと心の中でぶつくさ云いわけしている。
尾道へ着いたのが夜。
むっと道のほてりが裾の中へはいって来る。とんかん、とんかん鉄を打つ音がしている。汐臭い匂いがする。
少しもなつかしくはないくせに、なつかしい空気を吸う。土堂の通りは知ったひとの顔ばかりなので、暗い線路添いを歩く。星がきらきら光っている。虫が四囲いちめん鳴きたてている。鉄道草の白い花がぼおっと線路添いに咲いている。神武天皇さんの社務所の裏で、小学校の高い石の段々を見上げる。右側は高い木橋。この高架橋を渡って、私ははだしで学校へ行った事を思い出す。線路添いの細い路地に出ると「ばんよりはいりゃせんかア」と魚屋が、平べったいたらいを頭に乗せて呼売りして歩いている。夜釣りの魚を
持光寺の石段下に、母の二階借りの家をたずねる。びちょびちょの外便所のそばに夕顔が
二階へ上って行くと母は
天井が低く、二階のひさしすれすれの堤の上を線路が走っている。黄いろい畳が熱い位ほてっている。見覚えのある蓋のついた本箱がある。本箱の上に
義父は夜遊びに行って留守。ばくちに夢中で、この頃は仕事もそっちのけで、借銭ばかりで夜逃げでもしなければならぬと云う。
私は、帯をといて、はだかで熱い畳に腹這う。上りの荷物列車が光りながら窓のさきを走っている。家がゆれる。
押入れも何もない汚ない部屋。
(八月×日)
愛する者よ。なんじらこの一事を忘るな。主の御前には一日は千年のごとく、千日は一日のごとし。壁に張りつけてある古い新聞紙にこんな宗教欄がある。愛する者よ。か、
朝日が北の壁ぎわにまで射し込んで暑い。線路の堤にいちめんの松葉ぼたんの花ざかり。
昼過ぎの汽車で宮様が御通過になる由にて、線路添いの貧民
障子を閉めて、はだかで、チエホフの退屈な話を読む。あまり暑いので、
母は掃除を済ませて、白い風呂敷包みの大きい荷物を背負って商売に出掛ける。
階下のおばさんが、辛子のはいったところてんを一杯ごちそうしてくれる。そろそろ、宮さんがお通りじゃンすでエ……近所の女衆が叫んでいる。
真実な一つのフイルムが、線路をすっとかき消えて行く。巡査が頭を挙げる。すばやく障子の破れから私は頭を引っこめる。
忍耐づよい貧民。力が抜ける。それきりの為に、また固く障子を閉めておく。負担になってもにこにこ笑って土下座している。只、それきりの生き方。何の違いが、一瞬の宮様にあるのだろう……。宮様は涼しい汽車で本を読んでいる。私は暑い部屋の中で、チエホフの退屈な話を読んでいるだけだ。
本箱の中に、古い私のノートあり。学生の頃の日記。大した事もなし。エルテルにのぼせあがっている感想。伊藤
当分はこのままで必死に小説を書いてみようと思う。
夕方より雨。母が、油紙を頭からかぶって戻って来る。手籠に、いちじくのはじけたのを土産に買って来てくれる。尾道では、いちじくの事をとうがきと云うなり。
義父帰らず。
母は警察へあげられたのではないかと心配している。雨で涼しいのでノートに少しばかり小説めいたものを書きつけてみるけれども、すぐ厭になってしまう。大した事もないのだ。伊勢物語読了。
ものを書いて暮すなぞと云う事はあきらめる方がいい。どうにもものにはならぬ。作曲家が耳のないのを忘れていて、音色を空想するだけ……。孤独に流されているだけでは、一字も言葉は生れて来ない。海辺の町へ戻って、まだ私は海を見ない。
夜更けて義父が戻って来た。
クレップシャツの上に毛糸の腹巻きをしている
東京は景気はどうかの。東京は不景気です。俺も今度こそ、何とかしようとは思うンじゃが、うまくゆかん……。
あんまり暑いので、母と夜更けの浜へ涼みに行き、
暗い水の上に、小舟が蚊帳を吊って、ランプをとぼしているのが
千光寺の灯が、山の上で木立の中にちらちらゆれて光っている。
(八月×日)
風琴と魚の町少しはかどる。
小説と云うものはどんな風に書くものかは知らない。只、だらだらと愚にもつかぬ事をノートに書きながら自分で泣いているのだからいやらしくなって来る。蚊が多いので夜は一切書けない。第一、小説と云うものを書く感情は存在していないのだ。すぐ詩のようなうたいかたになってしまう。物事を解剖してゆく力がない。
東京へ帰るには、二十円も工面しなければならぬと云う事が頭にちらつく。人よりに非ず、人に
警備の巡査も生きている。肩にとまったトンボも生きている。障子の中には、無作法なはだかで、チエホフをぶらさげている女が立っている。
尾道へ戻った事を後悔する。
ふるさとは遠くにありて想うものなり。たとい
死にたくもなし、生きたくもなしの無為徒然の気持ちで、今日もノートに風琴と魚の町のつづきを書く。
母も、もう一度、東京へ出て夜店を出したいと云う。義父と別れてさえくれれば、私はどんなに助かるだろうと思うけれども、母はこれもなりゆきの事故、いましばらく辛抱しなさいと云う。義父はまた今朝からばくちに出掛けてゆく。母だけが、躯をすりへらしてこっぱみじんの働きぶりなり。
只、母も私も、長い苦痛の連続のみにすがって生きているようなものなり。せめて、私が男に生れていたならばと思う。母の働いた金はみんな父のばくちのもとでに消えてしまう。
夜は母と二人で、夜の浜辺へ出て、露店でうどんを食べて済ませる。家にいると借金取りがうるさいと云うので、また、暗い海水浴。
海水は汚れてどろどろ、葬式の匂いがする。そのうち、ええこともあろうぞ……母がふっとそんな事を云う。私はさんばしの方までおよぐ。燐が燃える。向島のドックで、人の呼んでいる声がしている。こんなことでは、何の運命もない、風琴と魚の町の原稿を東京へ持って行ったところで、ぱっと華咲くようないい日が来るとは信じられぬ。いまひといき、いまひといきと暗い冷い水の方へおよいで行く。
やがて、石段に戻って、素肌にぬるい着物を着る。濡れたものをしぼっていると、うどんのげっぷが出て来る。肌がぴいんと
家へ戻ると、階下はみんな出掛けて留守。階下のおばさんも、このごろは昆布巻きの内職をなまけて遊び歩いているとの事なり。
どうしても東京へ行きたいのだけれども、いまがいま、二十円の金つくりは出来かねると母はしょげている。十円でも出来ればいいのだと思う。蚊いぶしを燃やして、小さい
どうして、いつまでも、こんな暮しなのかと思う。母はエンピツをなめながら帳面をつけている。別に大した金高でもないのに、帳面をつけているかっこうは大真面目なもの。粘土に足をとられて、身動きもならぬ暮しだ。――別れなさいよ。うん、別れようかのう。別れなさいよ。そして、二人で東京へ行って、二人で働けば、毎日飯が食べられる。飯を食う事も大切じゃが、義父さんを捨ててゆくわけにもゆくまい。別れなさいよ。もう、いい年をして、男なぞはいらないでしょう……。お前は小説を書いておってむごかこつ云う女子じゃのう……。私は、黙ってしまう。心配も愉しみの一つで、今日まで連れ添って来た母と義父とのつながりを自分にあてはめて考えてみる。母は倖せな人なのだ。
一生懸命、ノートに私ははかない事を書きつけている。もう、誰も頼りにはならぬのだ。自分の事は自分で、うんうんと力まなければ生きてはゆけぬ。だが、東京で有名な詩人も、尾道では何のあとかたもない。それでよいのだと思う。私は尾道が好きだ。ばんよりはいりゃんせんかのう……魚売りの声が路地にしている。釣りたてのぴちぴちした小魚を塩焼きにして食べたい。
その夜、義父たちは、階下の親爺さんもいっしょに警察へあげられた。夜更けてから、母は階下のおばさんと、何処かへひそかに出掛けて行った。
*
(十一月×日)
池田さんがぱアと晴れやかな顔で出て来る。今日は珍らしく夜会巻きで仲々の美人なり。店さきには、たらこや、
二人は足袋屋の横町を曲って、酒井子爵邸の古色
今日は新富座で寿美蔵の芝居がある由なり。いかにも江戸ッ子らしい池田さんの芝居ばなし。今日は寿美蔵が手拭を撤く日だから、どうしても、早い目に社を出て行くのだと大いに張りきっている。赤坂の
小学新報社というのが私たちの勤めさき。旧館の二階の日本間に、机を八ツ程あわせて、私たちは毎日せっせと帯封書きだ。今日は、鹿児島と熊本を貰う。まだ時間が早いので、窓ぎわで池田さんと、宮本さんと三人で雑談。日給をなんとかして月給制度にして貰いたいと話しあう。日給八十銭ではなんとしてもやってゆけないのだ。四谷見附から市電の電車賃を倹約してみたところで、親子三人では仲々食べてはゆけない。池田さんは親がかりなので、働いた分がみんな小遣いの由なり。羨しい話だ。八時十分前、みんな集る。私は例によって、一番暗い悪い席に坐る。頭株の富田さんが指図をするので、窓ぎわの席へは仲々坐れない。
小学校便覧の活字も小さいので、眼の近い私には、人の二倍はかかってしまう。眼鏡を買いたくても、八十銭の日給では、その日に追われて眼鏡を買うどころのさわぎではない。
もうじき一の
富田さんは今日はいちょう返しに結っている。このひとは大島
宛名を書くのがめんどう臭くなって来る。ぼんやりとしてしまう。ふっと横の砂壁にちらちらと朝の陽が動いている。幻燈のようなり。池田さんも、富田さんも大島の羽織で、日給八十銭の女事務員には見えない。池田さんは眼は細いけれども芸者にしてみたいような美人なり。干物屋の娘のせいか、いつもにきびがどこかに出来ている。
何という事もなく、夫婦別れというものは仲々出来ぬものなのかと思う。夫婦というものが、妙なつながりのように考えられて来る。昨夜も義父と母は、あんなに憎々しく
また
新聞の青インクが生かわきなので、帯封をするたびに、腕から手がいれずみのように青くなる。大正天皇と皇太子の写真が正面に出ている。大正天皇は少々気が変でいらっしゃるのだという事だけれども、こうしてみると立派な写真なり。胸いっぱいに、菊の花のようなクンショウ。刷りが悪いので、天皇さまも皇太子も顔じゅうにひげをはやしたような工合に見える。
のりをつけるもの、帯封を張るもの、県別に束ねるもの、戸外へ運び出すもの、四囲はほこりがもうもうとして、みな、たすきがけで、手拭の姉様かぶり。発送が手間取って、全部済んだのが五時過ぎ。そばを一杯ずつふるまわれて
四谷の駅ではとっぷり暗くなったので、やぶれかぶれで、四谷から夜店を見ながら新宿まで歩く。
家へ帰る気がてんでしないのだ。家へ帰って、夫婦喧嘩をみせられるのはたまらない。二人とも貧乏で小心なのだけれども、悪人よりも始末が悪いと思わないわけにはゆかない。夜店を見て歩く。焼鳥の匂いがしている。夜霧のなかに、新宿まで続いた夜店の灯がきらきらと華やいで見える。旅館、写真館、うなぎ屋、骨つぎ、三味線屋、月賦の丸二の家具屋、このあたりは、昔は女郎屋であったとかで、家並がどっしりしている。太宗寺にはサアカスがかかっていた。
行けども行けども賑やかな夜店のつづき、よくもこんなに売るものがあると思うほどなり。今日は東中野まで歩いて帰るつもりで、一杯八銭の牛丼を屋台で食べる。肉とおぼしきものは小さいのが一きれ、あとは
角筈のほてい屋デパートは建築最中とみえて、夜でも工事場に明るい燈がついている。新宿駅の高い木橋を渡って、煙草専売局の横を
家へ帰ったのが九時近く。義父は銭湯へ行って留守。台所で水をがぶがぶ飲む。母は火鉢でおからを煎りつけていた。別に遅かったねと云うわけでもない。自分の事ばかり考えている人なり。鼻を鳴らしながらおからを煎っている。鍋を
次から次から商売を替えて、一つの商売に根気のないと云う事が、義父と母を
「何を当てつけとるとな、お前の弁当のおかずをつくってやろうと思うて
私はそんな真黒いおからのおかずなんかどうでもいいのだ。黙って寝転んで、袖の中へすっぽりと頭も顔もつっこんでいると、母は急に鼻を荒くすすりながら、わし達が邪魔なら、今夜にでも荷造りをして帰ると云い始めた。木綿裏の袂の中に秋の匂いがする。おおこの匂い。季節の匂い、慰めの匂い。袂の中で眼を開けると、
「お前は八つの時から、あの義父さんに養育されたンじゃ。十二年も世話になって、いまさらお父さんはきらいとは云えんとよ」
「いいや、私はそだてられちゃいないッ」
「女学校にも上がっつろがや……」
「女学校? 何を云うとるンな、学校は、私が帆布の工場に行きながら行ったンを忘れんさったか。夏休みには女中奉公にも出たり、行商にも出たりして、私は自分で自分の事はかせいだンよ。学校を出てからも、少しずつでも送っとるのは忘れてしもうたンかな?」
云わでもの事を、私は袂の中で
「お前はむごい子じゃのう……」
「ああ、もう、こう、ごたごたするンじゃ、親子の縁を切って、あんたはお義父さんと何処へでも行きなさいッ。私は、明日からインバイでも何でもして自分のことは自分で始末つけるもン」
袂の中で涙が噴きあげる。父の下駄の音がしたので、私はぷいと裏口から川添の町を歩く。白い乳色のもやが立ちこめて、畑のあっちこっちにちらちらと人家の灯がまたたく。川添町と云ったところで、東京もここは郊外の郊外、大根畑の土の匂いが香ばしく匂う。
何処へ行くと云うあてもない。
東中野のボックスのような小さい駅へ出て、釣り堀の
(十一月×日)
豪雨。土肌を洗い流す程の大雨なり。尻からげになって会社へ行く。池田さんは、紺飛白のビロード
六本木の古本屋で、大杉栄の獄中記と、
富田さん、
左右いずれとも決しがたき宿命
悲劇は只の笑い話なり
御返事を待つまでもなく
只今は響々の雨
雨量は桝 ではかりがたく
ただ手をつかねてなりゆきを見るのみ。
犠牲は払っているわけではない
不可能の冬の薔薇
孤独と神秘を頼みとする貧乏暮し
人は革命の書をつくり
私はあははと笑う
只、何事もおかしいのだ
真面目に苦しむ事の出来ぬ性分。
自分の運命を切りひらけと云われたところで
運命は食パンではないのです。
どこからナイフをあててよいのか
人生の狩猟は力のかぎり盛大に
鼻うごめかし
涙をすすり
つばを飲み
脚をふんばりだ。
秩序の目標は青 と黒
仮説の中でひっそりと鼠を食う
その霊妙なる味と芳香
ああロマンスの仮説
誰にも黙殺されて自分の生血をすする
少しずつ少しずつの塩辛い血。
革命とは水っぽい艶々の羊かん
かんてん かんてん かんてんの泥
人間一人が孤独で戦う
群勢はいりません
家柄やお国柄では飯は食えぬ。
悲劇は只の笑い話なり
御返事を待つまでもなく
只今は響々の雨
雨量は
ただ手をつかねてなりゆきを見るのみ。
犠牲は払っているわけではない
不可能の冬の薔薇
孤独と神秘を頼みとする貧乏暮し
人は革命の書をつくり
私はあははと笑う
只、何事もおかしいのだ
真面目に苦しむ事の出来ぬ性分。
自分の運命を切りひらけと云われたところで
運命は食パンではないのです。
どこからナイフをあててよいのか
人生の狩猟は力のかぎり盛大に
鼻うごめかし
涙をすすり
つばを飲み
脚をふんばりだ。
秩序の目標は
仮説の中でひっそりと鼠を食う
その霊妙なる味と芳香
ああロマンスの仮説
誰にも黙殺されて自分の生血をすする
少しずつ少しずつの塩辛い血。
革命とは水っぽい艶々の羊かん
かんてん かんてん かんてんの泥
人間一人が孤独で戦う
群勢はいりません
家柄やお国柄では飯は食えぬ。
講談を書こうと思い始める。漱石調で水戸黄門。藤村調で唐犬ゴンベエ。鴎外調で佐倉ソウゴロ。はっしはっしと切り結ぶと云う陰惨ごとはどうにも性分にはあわないながら、売りものには花をそえて、変転自在でなければならぬ。芥川の
今夜からは、寒いので、親子三人どうしても一つの寝床にはいらねばならぬ。蒲団の後からぬっと脚をさしこむ気がしない。ああ、せめて二枚の蒲団よ、どこからか降って来ないものか。しんしんと冷える。母と義父はもう寝床で背中あわせに高いびきなり。
電気をひくくさげて、ペン先きにたっぷりとインキをふくませて、紙の上にタプタプとおとしてみる。いい考えも湧いて来そうな気がしていながら、仲々神霊は湧いて来ない。
行きくれた、この貧しい老夫婦の寝姿を横にしては胸もつまってしまう。壁ぎわに電気を吊りかえて、小さい茶餉台に向う。
二三頁も詩ばかり書きつらねて、講談は一行も書けない。トタン屋根にそうぞうしくあたる雨脚に、頭はこっぱみじんに破れそうなり。運命尽きぬオタアロオなり。
お前もわしも男運がないと云った母の言葉を想い出して、ふっと「男運」と云う小説らしきものを書いてみたき気持ちがするけれども、それもものうく馬鹿馬鹿しく、やめてしまう。
根が雑草の私生子で、男運などとは口はばたきいいなり。伊勢物語ではないけれども、昔男ありけり、性
雨は少々響々の鳴りをひそめる。
(八月×日)
高架線の下をくぐる。響々と汽車が北へ走ってゆく。
息せき切って、あの汽車は何処へ行くのかしら、もう、私は厭だ。何もかも厭だ。なまぬるい草いきれのこもった風が吹く。お母さんが腹が痛くなったと云う。堤に登って、
じりじりと陽が照る。
よくもこんなに日が照るものだと思う。何処かで山鳩が啼いている。荷物に
「おおげさな事を云うてるよ。少しそのへんでゆっくりしゃがんでなさい」
「うん、何か紙はないかの」
私は荷物の中から新聞紙を破ってお母さんへ渡した。よわりめに、たたりめ。幽霊みたいな運命の奴にたたられどうしだ。いまに見よれ。そんな運命なんか叩き返してみせる。あんまりいじめるなよ、おい、ぞうもく野郎! 私は青い空に向って男のように雑言を吐いてみる。私は、こんな生きかたは厭なんだよ。みずみずしい風が吹く。それもしみったれて少しずつ吹いている。
お母さんは裾をくるりとまくって、草の中へしゃがんだ。握りこぶし程に小さい。死んじまいなよ。何で生きてるんだよ。何年生きたって同じことだよ。お前はどうだ? 生きていたい。死にたくはござらぬぞ……。少しは色気も吸いたいし、飯もぞんぶんに食いたいのです。
寝ながら口笛を吹く。
「まだかね?」
時々、お母さんへ声をかけてやる。人間がしゃがんでいるかっこうというものは、天子様でも淋しいかっこうなんだろう。皇后さまもあんな風におしゃがみなのかねえ。金の
俺とお前は枯れすすき、花の咲かない枯れすすき……。大きい声で唄う。全く
絶世の美人に生んでくれないのがあなたの失策さ……。何処にでもあるような女なんか、世の中はみむいてもくれないのさ。
「ああ、やっと出た」
「沢山かね?」
「沢山出たぞ」
お母さんは立ちあがって、ゆっくり裾をおろした。
「えらい見晴しがいいのう」
「こんなところへ、小舎をたてて住んだらいいね」
「うん。夜は淋しいぞ……」
用を達して気持ちがいいのか、母は私の横へ来て、セルロイドの歯のかけた
大宮の町へ行って銭湯にはいりたくなった。下駄をぬぐと、鼻緒のところをのこして、象の足のように汚れた足。若い女の足とも思えぬ。爪はのび放題。指のまたにごみがたまっている。私も用を達しに行く。
また、背中を汽車が来る。地響きが足の裏にぶきみだ。
大宮の町へ出たのは三時。どおんと暑い。八百屋の店先きに胡瓜の山。
「クレップの
何処も返事もしてくれない。母が建具屋さんの店先きに腰を掛けている。何か買ってくれるらしい。三十軒も歩いた。やっと、製材所で見せてみなと云われる。
ねじり鉢巻きの男が三人、汗を拭きながら寄って来る。私は手早く材木の上へ荷物をひろげた。おが
「大阪から仕入れてるんでとても安いんですよ。輸出の残りなンですよ」
「ねえさんは、美味そうにふとってるな。旦那もちかい?」
私は心のうちでえっへ、と笑う。何持ちなんだか、さっぱり自分で自分の生態がわからないですとね。上下三円五十銭を五十銭もまけさせられて、三組売る。
大宮は少しも面白くない町なり。
東京へ戻ったのが七時頃。雨が降っていた。
ざんざ降りのなかを金魚のようにゆられて川添いに戻る。今日は十五日。豆ローソクのお光りをあげる。
苦しめば苦しむほど、生甲斐のある何かだ。
上月の夜に
何時寝るともなく
静かに眠り夢をみる
ただ食べる夢男の夢
特別残酷な笑い事の夢
耳の奥で調子を取る慾
びいんびいんと弓を鳴らす
茶碗つぎの中国人の夢
走って行って追いかえされて
けろりとして烏 のように啼く
太々しいくせに時には泣きたくなる
咬 み傷一つ誰にもつけた事のない
よぼよぼの鼠のくりごと
畸形 で、男と寝たがる意地ぎたなさ
その日その日が食ってゆければ
まず学者は論文を書く
そんなものなのだろうけれど
私は陳列を見ているといいのだ
みんな手に取ってみせる力が湧く
静かに眠り夢をみる
ただ食べる夢男の夢
特別残酷な笑い事の夢
耳の奥で調子を取る慾
びいんびいんと弓を鳴らす
茶碗つぎの中国人の夢
走って行って追いかえされて
けろりとして
太々しいくせに時には泣きたくなる
よぼよぼの鼠のくりごと
その日その日が食ってゆければ
まず学者は論文を書く
そんなものなのだろうけれど
私は陳列を見ているといいのだ
みんな手に取ってみせる力が湧く
(八月×日)
下谷の根岸に風鈴を買いに行き、円い帽子入れに風鈴を詰めて貰って、大きなかさばった荷物を背負って歩く。薄い
夜、一銭なしで、義父上京。
広島も岡山も商売は不景気な由なり。
私はこの人達から離れて暮したいと思う。一緒に暮していると、べとべとにくさってしまいそうだ。心のなかでは、何時でも気紛れな殺人を考えている。少しずつ犯人になった恐怖におそわれる。自分も死んでしまえばいいと思いながら、人間はこうした
夜更けて、ハムスンの「飢え」を読む。まだまだこの飢えなんかは天国だ。考える事も自由に歩く事も出来る国の人の小説だ。
夜更けの川添の町を心を
私は、いつでも、売春的な、いやらしい自分の心のはずみに驚く。何も驚く事はないくせに、一寸した動機で、何時でも自分をやけくそに捨ててしまえる根ざしはあるものなり。暑いせいか、私はますます原始的になり、せめて、今夜だけでも平凡ではいられないと
小さい制限のなかで生きているだけなのよ。そこから、出る事も引っこむ事も出来ない。イエス・キリストのたまわくだ。キリストがベツレヘム生れだなんて怪しいものだ。いったい、イエス・キリストなんて、大昔に生きていましたのかね。誰も見た人はないし、誰も助けられたものはない。おシャカ様にしたって怪しいものだ。
太陽や月を神様にしている孤島の人種の方がはるかに現実的で、真実性があるのに、神様だなんて、たかが人間の形をしているだけの喜劇。この環境の息苦しさを誰一人怪しむものもない。
(八月×日)
今日はさんりんぼうで、商売に出ても、大した事もないと、お母さんも義父も朝寝。みいんみいんと暑くるしく蝉が啼きたてている。前の牛小舎では、荷車に山のように白い豆腐のおからが盛りあげて、
家にいるのが厭なので、また、荷物を背負って一人で出掛ける。別に大した事もないけれど、何時もさんりんぼうのような暮しで、今日のようないい天気をとりにがすのも変な話だと、大久保へ出て、浄水から、煙草専売局へ出て、新宿まで歩く。油照りのかあっとした天気だ。
若松町へ出て、また、わけもわからずに狭い路地の中を歩いてみる。腹がへって、どうにも歩けやしない、漠然とした考えにとらわれる。第一、暑いので、気が遠くなりそうだ。ところてんでも食べたいものだ。
背中は汗びっしょり、脚の方へ汗が滴になって流れる。下宿屋をのぞいてみるが、学生はみんな帰省していてひどく閑散。
何の為に、こんなとこへまで歩いて来たのかさっぱり判らない。真実を云えば、商売をする事よりも、只、己れのセンチメンタルに引きずられて歩いていたい下心なのかも知れない。歩いて、いい事もないとなれば、それがまた、自分を悲しくやるせなくしていると、私は甘くなって、下駄を引きずりながら歩く。家にいて、親の顔なぞ見たくもないと云う、そんなわけと云うものなり。一つ蒲団に何時までも抱きあって寝ている親の姿はいやらしい。上品になりたくても上品にはなれない。親の厄介さがたまらない。何処かへ一人で行って、たった一人で暮したい。ああ、そんな事を考えて歩くと、また、べたべたと涙が溢れる。塩っぱい涙を舌のさきでなめているかと思うと、もう、けろりとして、また背中の荷物をゆすぶりあげて歩く。
小石川の博文館に、いつか小説を持って行ったが、懸賞小説はいまやっていないと断わられてしまったが、島田清次郎は、どんなに工合のいい頭をしているのかしら……。行商も駄目、書く事も駄目となれば、玉の井に躯を売り込むより仕方がないね。三好野で、三角の豆餅を一皿取って食べる。ぬるい茶がごくごくと
相変らずの下等な趣味。臆病で、弱気で、そのくせ、何かのほどこしを待っているこの精神だ。ほどこしを受けたい一心で生きているようなものだ。ねえ、私は、ねえと云う小説を書きたし。ウエルテルの嘆きと少しも変らぬ、そんなものだ。快適な地すべりをして、ウエルテルの文字は流れている。甘い事この上なしの惚れ
いっその事、神田の職業紹介所まで行って、また、あの桃色カードの女になってみようかと思う。月三十円もあれば、また、静かに書きものは出来る。畳に腹ばって、二十枚八銭の原稿紙を書きつぶす快味。たまには電気ブランの一杯もかたむけて、野宿の夢を結ぶジオゲネスの現実。面白くもないこの日常から、きりきりと結びあげたい気にもなる。
蒸気をシュッシュッと吐いて生きなければなりませんとも……。おてんとうさまよ。どうして、そんなに、じりじりと暑く照りつけて苦しめるのですか? 暑い。全く、暑くて
一銭の商売にもありつけず、夕方御きかん。
キャベツにソースをふりかけて、麦飯にありつく。義父はしのぶ売りに出掛けて留守。お母さんは腰巻一枚で洗濯。私も裸になって、井戸水をかぶる。
少女画報から、原稿返っている。
舌を出して封を切る。
奇蹟の森なぞと気取った題をつけても、原稿は案外戻って来る。何も、奇蹟なぞありようがない。信心家の貧しい少女が、パレスチイナでの地を支配する物語なぞ、犬に食われてしまうのは必定、のぼせあがって、世界一の作文なぞに思った事も
井戸水を浴びて、かっかっと
古い文章倶楽部を出して読む。相馬泰三の新宿
ああ、世の中は広いものだ。毎日、何とか、美味いものを食って、夫婦でのんびり夜店歩きの世界もある。
あれもこれも書きたい。山のように書きたい思いでありながら、私の書いたものなぞ、一枚だって売れやしない。それだけの事だ。名もなき女のいびつな片言。どんな道をたどれば
裸でころがっているといい気持ちだ。蚊にさされても平気で、私はうとうと二十年もさきの事を空想する。それでも、まだ何ともならないで、行商のしつづけ。子供の五六人も産んで、亭主はどんな男であろうか。働きもので、とにかく、毎日の御飯にことかかぬひとであれば
あんまり蚊にさされるので、また、汗くさいちぢみに手を通して、畳に
青いカビのはえた二銭銅貨よ
牛小舎の前でひらった二銭銅貨
大きくて重くてなめると甘い
蛇がまがりくねっている模様
明治三十四年生れの刻印
遠い昔だね
私はまだ生れてもいない。
ああとても倖せな手ざわり
何でも買える触感
うす皮まんじゅうも買える
大きな飴玉が四ツね
灰で磨いてぴかぴか光らせて
歴史のあかを落して
じいっと私は掌に置いて眺める
まるで金貨のようだ
ぴかぴか光る二銭銅貨
文ちんにしてみたり
裸のへその上にのせてみたり
仲良く遊んでくれる二銭銅貨よ。
牛小舎の前でひらった二銭銅貨
大きくて重くてなめると甘い
蛇がまがりくねっている模様
明治三十四年生れの刻印
遠い昔だね
私はまだ生れてもいない。
ああとても倖せな手ざわり
何でも買える触感
うす皮まんじゅうも買える
大きな飴玉が四ツね
灰で磨いてぴかぴか光らせて
歴史のあかを落して
じいっと私は掌に置いて眺める
まるで金貨のようだ
ぴかぴか光る二銭銅貨
文ちんにしてみたり
裸のへその上にのせてみたり
仲良く遊んでくれる二銭銅貨よ。