医学士ウラヂミル・イワノヰツチユ・ソロドフニコフは毎晩六時に、病用さへなければ、
然るに或日天気が悪かつた。早朝から濃い灰色の雲が空を蔽つてゐて、空気が湿つぽく、風が吹いてゐる。本町に出て見たが、巡査がぢつとして立つてゐる外に、人が一人もゐない。
ソロドフニコフは本町の詰まで行つて、
見習士官が丁度自分の前へ来たとき、ソロドフニコフが云つた。「いや。相変らずお元気ですな。」
ゴロロボフは丁寧に会釈をして、右の手の指を小さい帽の庇に当てた。
ソロドフニコフは只何か言はうといふ丈の心持で云つた。「どこへ行くのですか。」
見習士官は矢張丁寧に、「内へ帰ります」と答へた。
ソロドフニコフは「さうですか」と云つた。
見習士官は前に立ち留まつて待つてゐる。ソロドフニコフは何と云つて好いか分からなくなつた。一体此見習士官をば余り好く知つてゐるのではない。これ迄「どうですか」とか、「さやうなら」とかしか云ひ交はしたことはない。それだから、ソロドフニコフの為めには、先方の
ソロドフニコフは「さうですか、ゆつくり御休息なさい」と親切らしい、しかも目下に言ふやうな調子で云つた。言つて見れば、ずつと低いものではあるが、自分の立派な地位から、相当の軽い扱をせずに、親切にして遣るといふやうな風である。そして握手した。
ソロドフニコフは倶楽部に行つて、玉を三度突いて、
曲り角から三軒目の家を見ると、入口がパン屋の店になつてゐる奥の方の窓から、
ソロドフニコフは窓の前に立ち留まつて、中を見込むと、果して見習士官が見えた。丁度窓に向き合つた処にゴロロボフは顔を下に向けて、ぢつとして据わつてゐる。退屈まぎれに、一寸
見習士官はすぐに頭を挙げた。明るいランプの光が顔へまともに差した。ソロドフニコフはこの時始て此男の顔を
ゴロロボフは窓の外に立つてゐる医学士を見て、すぐに誰だといふことが分かつたといふ様子で、立ち上がつた。嚇かしたので、学士は満足して、一寸
「はてな。己を呼び入れようとするのかな」と思ひながら、ソロドフニコフは立ち留まつた。その儘行つてしまふが好いか、それとも待つてゐるが好いかと、判断に困つた。
パン屋の店の処の入口の戸が開いた。そして真黒い長方形の戸の枠からゴロロボフの声がした。
「先生。あなたですか。」
ソロドフニコフはまだどうしようとも決心が附かずにゐた。そこでためらひながら戸口に歩み寄つた。闇の中に立つてゐるゴロロボフは学士と握手をして、そして自分は腋へ寄つて、学士を通さうとした。
「いやはや、飛んだ事になつた。とう/\なんの用事もないに、人の内へ案内せられることになつた」と、学士は腹の中で思つて、そこらに置いてある空き箱やなんぞにぶつ附かりながら、這入つて行く。
廊下は焼き立てのパンと、
見習士官は先きに立つて行つて、燈火の明るくしてある部屋の戸を開けた。ソロドフニコフは随分妙な目に逢ふものだと思つて、
見習士官は不恰好な古い道具を少しばかり据ゑ附けた小さい部屋に住まつてゐる。
ソロドフニコフは外套を脱いで、新聞紙を張つた壁に順序好く打つてある釘の一つに掛けて、ゲエトルをはづして、帽子を脱いで、杖を部屋の隅に立てて置いた。
「どうぞお掛けなさい」と云ひながら、ゴロロボフは学士に椅子を勧めた。ソロドフニコフはそれに腰を掛けて
「大したお
卓の上には清潔な
「お茶を上げませうか」と、見習士官が云つた。
ソロドフニコフは茶が飲みたくもなんともないから、も少しで断るところであつた。併し茶でも出させなくては、
ゴロロボフは茶碗と茶托とを丁寧に洗つて拭いて、茶を注いだ。
「甚だ薄い茶で、お気の毒ですが」と云つて、学士に茶を出して、砂糖漬の果物の壺を押し遣つた。
「なに、構ふもんですか」と、ソロドフニコフは口で返事をしながら、腹の中では、「そんな事なら、なんだつて己をここへ連れ込んだのだ」と思つた。
見習士官は両足を椅子の脚の
二人共黙つてゐる。
此時になつて、ソロドフニコフは自分が主人に誤解せられたのだと云ふことに気が附いた。見習士官は杖で窓を叩かれて、これは用事があつて来たのだなと思つたに違ひない。そこで変な工合になつたらしい。かう思つて、ソロドフニコフは不愉快を感じて来た。今二人は随分馬鹿気た事をしてゐるのである。お負にそれがソロドフニコフ自身の罪なのである。体が達者で、身勝手な暮しをしてゐる人の常として、こんな事を長く我慢してゐることが出来なくなつた。
「ひどい天気ですな」と会話の口を切つたが、学士は我ながら詰まらない事を言つてゐると思つて、覚えず顔を赤くした。
「さやうです。天気は実に悪いですな」と、見習士官は早速返事をしてしまつて、跡は黙つてゐる。ソロドフニコフは腹の中で、「へんな奴だ、廻り遠い物の言ひやうをしやがる」と思つた。
併しこの有様を工合が悪いやうに思ふ感じは、学士の方では間もなく消え失せた。それは職業が医師なので、種々な変つた人、中にも初対面の人と応接する習慣があるからである。それに官吏といふものは皆馬鹿だと思つてゐる。軍人も皆馬鹿だと思つてゐる。そこでそんな人物の前では気の詰まるといふ心持がないからである。
「今君は何をさう念入りに考へてゐたのだね」と、医学士は云つて、腹の中では、こん度もきつと丁寧な、
ところが、見習士官はぢつと首をうな垂れた儘にしてゐて、「死の事ですよ」と云つた。
ソロドフニコフはも少しで吹き出す所であつた。此男の白つぽい顔や黄いろい髪と、死だのなんのと云ふ、深刻な、偉大な思想とは、
意外だと云ふ風に笑つて、学士は問ひ返した。「妙ですねえ。どうしてそんな陰気な事を考へてゐるのです。」
「誰だつて死の事は考へて見なくてはならないわけです。」
「そして重い罪障を消滅する為めに、難行苦行をしなくてはならないわけですかね」と、ソロドフニコフは
「いゝえ、単に死の事丈を考へなくてはならないのです」と、ゴロロボフは落ち着いて、慇懃な調子で繰り返した。
「
「それは誰だつて死ななくてはならないからです」と、ゴロロボフは前と同じ調子で云つた。
「それはさうさ。併しそれ丈では理由にならないね」と、学士は云つて、腹の中で、多分此男は本当のロシア人ではあるまい、ロシア人がこんなはつきりした、語格の調つた話をする筈がないからと思つた。
そしてこの色の蒼い、慇懃な見習士官と対坐してゐるのが、急に不愉快になつて、立つて帰らうかと思つた。
ゴロロボフは此時「わたくしの考へでは只今申した理由丈で十分だと思ふのです」と云つた。
「いや。別に理由が十分だの不十分だのと云つて、君と争ふ積りもないのです」と、ソロドフニコフは嘲るやうに譲歩した。そして不愉快の感じは一層強くなつて来た。それは今まで馬鹿で了簡の狭い男だと思つてゐた此見習士官が、死だのなんのと云ふ真面目な、意味の深い、恐ろしい問題を論じ出したからである。
「勿論争ふ必要はありません。併し覚悟をして置く必要はあります」と、ゴロロボフが云つた。
「何を」と云つて、ソロドフニコフは両方の眉を額へ高く吊るし上げて、微笑んだ。それは見習士官の最後の詞は、自分の予期してゐた馬鹿気た詞だと思つたからである。
「死ぬる覚悟をする為めに、死といふ事を考へるのです」と、ゴロロボフは云つた。
「馬鹿な。なぜそれを考へなくてはならないのです。わたしが毎日食つて、飲んで、寝てゐるから、それからわたしがいつかは年が寄つて、皺くちやになつて、頭が
「いゝえ。さうではありません」と、見習士官は悲し気に、ゆつくり首を
「いやはや。馬鹿気てゐない、
「いゝえ。そんな事は不可能です。死の如き恐るべき事に対して、誰だつて平気でゐられる筈がありません」と、ゴロロボフは首を掉つた。
「わたしは平気だ」と、ソロドフニコフは肩を聳やかして云つた。
「そんなら先生は自己の境界を正確に領解してお出でにならないと云ふものです。」
ソロドフニコフの頭へ血が上つた。そして腹の中で、「なんと云ふ物の言振をしやがるのだ、藁のやうな毛を生やしてゐる餓鬼奴が」と思つた。
「そんなら君は自己の境界を領解してゐますか。」
「ゐます。」
「ふん。こりやあ
「人間は誰でも死刑の宣告を受けたものと同じ境界にゐるのです。」
これは昔から知れ切つてゐる事で人が度々言ひ古した事だと、ソロドフニコフははつきり思つた。そして忽ち安心した。昔から人の言ひ古した事を、さも新しさうに云つてゐる此見習士官よりは、自分は比べ物にならない程高い処にゐると感じたのである。
「古い洒落だ」と、ソロドフニコフは云つた。そしてポケツトから葉巻入れを出して、葉巻に一本火を附けて帰らうとした。
その時ゴロロボフが云つた。「わたくしが昔から人の言はない、新しいことを言はなくてはならないといふ道理はございません。わたくしはたゞ正しい思想を言ひ表せば宜しいと思ひます。」
「ふん。なる程」と、ソロドフニコフは云つて、今の場合に、正しい思想といふことが云はれるだらうかと、覚えず考へて見た。それから「それは無論の事さ」と云つたが、まだ疑が解けずにゐた。さて「併し死に親むまでにはたつぷり時間があるから、その間に慣れれば好いのです」と結んだ。かう云つて見たが、どうも自分の言ふべき筈の事を言つたやうな心持がしないので、自分に対してではなく、却つて見習士官に対して腹を立てた。
「わたくしの考へでは、それは死刑の宣告を受けた人に取つては、慰藉とする価値が乏しいやうです。宣告を受けた人は刑せられる時の事しか思つてゐないでせう。」かう云つて置いて、さも相手の意見を聞いて見たいといふやうな顔をして学士を見ながら、語り続けた。その表情が顔の恰好に妙に不似合に見えた。
「それとも先生はさうでないとお思ひですか。」
医学士はこの表情で自分を見られたのが、自尊心に満足を与へられたやうな心持がした。そこで一寸考へて見て、口から煙を吹いて、
「いゝえ。死だつても矢張不自然な現象で、或る暴力的なものです」と、見習士官は直ぐに答へた。丁度さう云ふ問題を考へてゐた所であつたかと思はれるやうな
「ふん。それは只空虚な言語に過ぎないやうですな」と、毒々しくなく
「いゝえ。わたくしは死にたくないのに死ぬるのです。わたくしは生きたい。生き得る能力がある。それに死ぬるのです。暴力的で不自然ではありませんか。実際がさうでないなら、わたくしの申す事が空虚な言語でせう。所が、実際がさうなのですから、わたくしの申す事は空虚な言語ではありません。事実です。」ゴロロボフは此詞を真面目でゆつくり言つた。
「併し死は天則ですからね」と、ソロドフニコフは肩を聳やかして叫んだ。そして室内の空気が
「いゝえ。死刑だつて或る法則に
「それはさうです。併し我々は死ぬる月日は知らないのですからね」と、学士は不精不精に譲歩した。
「それはさうです」とゴロロボフは承認して置いて、それからかう云つた。「併し死刑の宣告を受けた人は、処刑の日を前知してゐる代りには、いよいよ刑に逢ふまで、若し赦免になりはすまいか、偶然助かりはすまいか、奇蹟がありはすまいかなんぞと思つてゐるのです。死の方になると、誰も永遠に生きられようとは思はないのです。」
「併し誰でもなる丈長く生きようと思つてゐますね。」
「そんな事は出来ません。人の一生涯は短いものです。其に生きようと思ふ慾は大いのです。」
「誰でもさうだと云ふのですか」と、嘲笑を帯びて、ソロドフニコフは問うた。そして可笑しくもない事を笑つたのが、自分ながらへんだと思つた。
「無論です。或るものは意識してさう思ふでせう。或るものは無意識にさう思ふでせう。人の生涯とは人そのものです。自己です。人は何物をも自己以上に愛するといふことはないのです。」
「だからどうだと云ふのですか。」
「どうも分かりません。先生は何をお尋ねなさるのでせう」とゴロロボフが云つた。
ソロドフニコフはこの予期しない問を出されて、思量の端緒を失つてしまつた。そして暫くの間は、茫然として、顔を赤くして見習士官の顔を見てゐて、失つた思量の端緒を求めてゐた。然るにそれが獲られない。それに反して、今ゴロロボフが多分己を馬鹿だと思つてゐるだらう。己を冷笑してゐるだらうと思はれてならない。さう思ふと溜まらない心持になる。そして一旦は真蒼になつて、その跡では真赤になつた。太つた白い頸に血が一ぱい寄つて来た。間もなくこの憤懣の情が粗暴な、意地の悪い表情言語になつて
ゴロロボフはすぐに立ち上がつて、一寸会釈をした。そしてソロドフニコフがまだなんとも考へる暇のないうちに、すぐに又腰を掛けて、頗る小さい声で、しかもはつきりとかう云つた。「なんの為めでもありません。わたくしはさう感じ、さう信じてゐるからです。そして自殺しようと思つてゐるからです。」
ソロドフニコフは両方の目を大きく

「ゴロロボフ君。君はまさか気が違つてゐるのではあるまいね。」
ゴロロボフは涙ぐんで来て、高く聳やかした、狭い肩をゆすつた。「わたくしも最初はさう思ひました。」
「そして今はどう思ふのですか。」
「今ですか。今は自分が気が違つてゐない、自分が自殺しようと思ふのに、なんの不合理な処もないと思つてゐます。」
「それではなんの理由もなく自殺をするのですか。」
「理由があるからです」と、ゴロロボフは詞を遮るやうに云つた。
「その理由は」と、ソロドフニコフは何を言ふだらうかと思ふらしく問うた。
「さつきあれ程
「それは無意味ですね。そんなら暴力を
「いゝえ。暴力を遁れようとするのではありません。それは遁れられはしません。死刑の宣告を受けてゐる命を早く絶つてしまはうと云ふのです。寧ろ早く絶たうと。」
ソロドフニコフはこれを聞いたとき、なんだか心持の悪い、冷たい物を背中に浴びたやうで、両方の膝が顫えて来た。口では、「併しさうしたつて同じ事ではありませんか」と云つた。
「いゝえ。わたくしの霊が自然に打ち勝つのです。それが一つで、それから。」
「でもその君の霊といふものも、君の体と同じやうに、矢張自然が造つたもので。」
忽ちゴロロボフが微笑んだ。ソロドフニコフは始て此男の微笑むのを見た。そしてそれを見てぎよつとした。大きい口がへんにゆがんで、殆ど耳まで裂けてゐるやうになつてゐる。小さい目をしつかり
「でも誰かがその君の体を打つたら、君だつて痛くはないですか。」
「えゝ。痛いです。」
「さうして見れば。」
ゴロロボフは相手の詞を遮つた。「若しわたくしの体がわたくし自己であつたら、わたくしは生きてゐることになるでせう。なぜといふに、体といふものは永遠です。死んだ跡にも残つてゐます。さうして見れば死は処刑の宣告にはならないのです。」
ソロドフニコフは余儀なくせられたやうに微笑んだ。「これまで聞いたことのない、最も奇抜な矛盾ですね。」
「いゝえ。奇抜でもなければ、矛盾でもないです。体が永遠だと云ふ事は事実です。わたくしが死んだら、わたくしの体は分壊して原子になつてしまふのでせう。その原子は別な形体になつて、原子そのものは変化しません。又一つも消滅はしません。わたくしの体の存在してゐる間有つた丈の原子は死んだ跡でも依然として宇宙間に存在してゐます。事に依つたら、一歩を進めて、その原子が又た同じ組立を繰り返して、同じ体を拵へるといふことも考へられませう。そんな事はどうでも好いのです。霊は死にます。」
ソロドフニコフは力を入れて自分の両手を握り合せた。もう此見習士官を狂人だとは思はない。そしてその言つてゐる事が意味があるかないか、それを判断することが出来なくなつた。気が沈んで来た。見習士官の詞と、薄暗いランプの光と、自分の思量と、いやにがらんとした部屋とから、陰気なやうな、
ゴロロボフは首を掉つた。「それは知りません。併しそれはどうでも宜しいのです。」
「なぜどうでも好いのですか。」
「死んでから性命がない以上は、わたくしの霊は消滅するでせう。又よしやそれがあるとしても、わたくしの霊は矢張消滅するでせう。」二度目には「わたくし」といふ詞に力を入れて云つた。「わたくし自己は消滅します。霊といふものが天国へ行くにしても、地獄へ堕ちるにしても、別な物の体に
ソロドフニコフは聞いてゐて胸が悪くなつた。両脚が顫える。頭が痛む。なんだか抑圧せられるやうな、腹の立つやうな、重くろしい、恐ろしい気がする。
「どうとも勝手にしやがるが好い。気違ひだ。こゝにゐると、しまひにはこつちも気がへんになりさうだ」と学士は腹の中で思つた。そして一言「さやうなら」と云つて、人に衝き飛ばされたやうに、立ち上がつた。
ゴロロボフも矢張立ち上がつた。そして丁度さつきのやうに、慇懃に「さやうなら」と云つた。
「馬鹿をし給ふなよ。物数奇にさつき云つたやうな事を実行しては困りますぜ」と、ソロドフニコフは面白げな調子で云つたが、実際の心持は面白くもなんともなかつた。
「いゝえ。先刻も申した通り、あれはわたくしの確信なのですから。」
「馬鹿な。さやうなら」と、ソロドフニコフは憤然として言ひ放つて、
――――――――――――
ソロドフニコフは
雨は留めどもなく、ゆつくりと、ざあざあと降つてゐる。ソロドフニコフは
「馬鹿な。丸で気違ひじみた話だ」と、肩を聳やかして、極まりの悪いやうな微笑をして云つた。そして若し誰かが見てゐはすまいか、事に依つたらゴロロボフ本人が窓から見てゐはすまいかと思つた。
ソロドフニコフは意を決して踵を旋して、腹立たしげに外套の襟を立てて、帽を目深に被り直して、自分の内へ帰つた。
「丸で気違ひだ。人間といふものは、どこまで間違ふものか分からない」と、殆ど耳に聞えるやうに独言を言つた。
「併しなぜ己にはあんな考へが一度も出て来ないのだらう。無論考へたことはあるに違ひないが、無意識に考へたのだ。一体恐ろしいわけだ。かうして平気で一日一日と生きて暮らしてはゐる様なものの、どうせ誰でも死ななくてはならないのだ。それなのになんの為めにいろんな事をやつてゐるのだらう。苦労をするとか、喜怒哀楽を
この詞を二三遍繰り返して、ソロドフニコフは恐怖と絶望とを感じた。心臓は不規則に
「己といふものは亡くなつてしまふ。無論さうだ。何もかも元のままだ。
ソロドフニコフは涙ぐんだやうな心持がした。そしてそれを恥かしく思つた。それから涙が出たら、今まで自分を抑圧してゐた、溜まらない感じがなくなるだらうと思つて、喜んだ。併し目には涙が出ないで、ただ闇を凝視してゐるのである。ソロドフニコフは重くろしい溜息を衝いて、苦しさと気味悪さとに体が顫えてゐた。
「己を
体ぢゆうがぶるぶる顫えるのを感じた。窓の外で風の音がしてゐる。室内は何一つ動くものもなく、ひつそりしてゐる。
「己ももう間もなく死ぬるだらう。事に依つたら明日死ぬるかも知れない。今すぐに死ぬるかも知れない。わけもなく死ぬるだらう。頭が少しばかり痛んで、それが段々ひどくなつて死ぬるだらう。死ぬるといふことがわけもないものだといふ事は、己は知つてゐる。どうなつて死ぬるといふことは、己は知つてゐる。併しどうしてそれを防ぎやうもない。死ぬるのだな。事に依つたら明日かも知れない。今かも知れない。さつきあの窓の外に立つてゐるとき風を引いてゐる。これから死ぬるのかも知れない。どうも体は健康なやうには思はれるが、体のどこかではもう分壊作用が始まつてゐるらしい。」
ソロドフニコフは自分で脈を取つて見た。併し間もなくそれを止めた。そして絶望したやうに、暗くてなんにも見えない天井を凝視してゐた。自分の頭の上にも、体の四方にも、冷たい、濃い鼠色の暗黒がある。その闇黒の為めに自分の思想が一層恐ろしく、絶望的に感ぜられる。
「兎に角死ぬるのを防ぐ事は出来ない。一瞬間でも待つて貰ふことは出来ない。早いか
ソロドフニコフは忽然思量の糸を切つた。そして復活といふことと、死後の性命といふこととを考へて見た。その時或る軟い、軽い、優しいものが責めさいなまれてゐる脳髄の上へかぶさつて来るやうな心持がして、気が落ち付いて快くなつた。
併し間もなくまた憎悪、
「えゝ。馬鹿な事だ。誰がそんな事を信ずるものか。己も信じはしない。信ぜられない。そんな事になんの意味がある。誰が体のない、形のない、感情のない、個性のない霊といふものなんぞが、

「寧ろ自分で」とソロドフニコフは繰り返して、夢の中で物を見るやうに、自分の前に燃えてゐる明るい、赤い蝋燭の火と、その向うの蒼ざめた、びつくりしたやうな顔とを見た。
それは家来のパシユカの顔であつた。手に蝋燭を持つて、前に立つてゐるのである。
「旦那様。どなたかお出ですが」と、パシユカが云つた。
ソロドフニコフは茫然として家来の顔を凝視してゐて、腹の中で、なんだつてこいつは夜なかに起きて来たのだらう、あんな蒼い顔をしてと思つた。ふいと見ると、パシユカの
「なんの御用ですか」と、ソロドフニコフは物分かりの悪いやうな様子で問うた。
「先生。御免下さい」と、背後の顔が云つて、一足前へ出た。好く見れば、サアベルを吊つた、八字髭の下へ向いてゐる、背の高い警部であつた。「甚だ御苦労でございますが、ちよつとした事件が
レオニツド・グレゴレヰツチユといふのは、市医であつたといふことを、ソロドフニコフはやうやうの事で思ひ出した。
「志願兵が一名小銃で自殺しましたのです」と、警部は自殺者が無遠慮に夜なかなんぞに自殺したのに、自分が代つて謝罪するやうな
「見習士官でせう」と、ソロドフニコフは器械的に訂正した。
「さうでした。見習士官でした。もう御承知ですか。ゴロロボフといふ男です。すぐに検案して戴かなくては」と、警部は云つた。
ソロドフニコフは何かで額をうんと打たれたやうな心持がした。
「ゴロロボフですな。本当に自殺してしまひましたか」と、ひどく激した調子で叫んだ。
警部プリスタフの八字髭がひどく顫えた。「どうしてもう御存じなのですか。」
「無論知つてゐるのです。わたしに前以て話したのですから」と、医学士は半分咬み殺すやうに云つて、足の尖で長靴を探つた。
「どうして。いつですか」と、突然変つた調子で警部が問うた。
「わたしに話したのです。話したのです。あとでゆつくりお話しします」と、半分口の中でソロドフニコフが云つた。
――――――――――――
見習士官の家までは五分間で行かれるのに、門の前には辻馬車が待たせてあつた。ソロドフニコフはいつどうして其馬車に腰を掛けたやら、いつ見習士官の家の前に著いて馬車を下りたやら覚えない。只もう雨が止んで、晴れた青空から星がきらめいてゐたことだけを覚えてゐる。
パン屋の入口の戸がこん度は広く開け放してある。人道に巡査が一人と、それからよく見えない、気を揉んでゐるらしい人が二三人と立つてゐる。さつきのやうに焼き立てのパンと捏ねたパン粉との匂のする廊下へ、奉公人だの巡査だのが多勢押し込んでゐる。ソロドフニコフには其人数がひどく多いやうに思はれた。やはりさつきのやうにランプの附いてゐる、見習士官の部屋の戸も広く開いてゐる。室内は空虚で、ひつそりしてゐる。見れば、ゴロロボフはひどく不自然な姿勢で部屋の真中に、ランプの火に照らされて、猫が
「御覧なさい。小銃で自殺してゐます。散弾です。丸で銃身の半分もあるほど散弾を詰め込んで、銃口を口に含んで発射したのです。いやはや」と、警部プリスタフは云つた。
プリスタフはいろ/\な差図をした。体を持ち上げて
ソロドフニコフの為めには、一切の事が夢のやうである。その癖かういふ場合にすべき事を皆してゐる。文案を作る。署名する。はつきり物を言ふ。プリスタフの問に答へる。併しそれが皆器械的で、何もかもどうでも好い、余計な事だといふやうな、ぼんやりした心理状態で遣つてゐる。又しては見習士官の寝かしてある寝台へ気が引かれてならぬのである。
ソロドフニコフはこの時はつきり見習士官ゴロロボフが死んでゐるといふことを意識してゐる。もう見習士官でもなければ、ゴロロボフでもなければ、人間でもなければ動物でもない。死骸である。いぢつても、投げ附けても、焼いても平気なものである。併しソロドフニコフは同時にこれが見習士官であつたことを意識してゐる。その見習士官がどうしてかうなつたといふことは、不可解で、無意味で、馬鹿気てゐる。併し恐ろしいやうだ。哀れだ。
かういふ悲痛の情は、気の附かないうちに、忽然浮かんで来た。
ソロドフニコフはごくりと唾を呑み込んで、深い溜息をして、その外にはしやうのないらしい様子で、絶望的な泣声を立てた。
「水を」と、プリスタフは巡査に云つた。その声がなぜだか
その巡査はどたばたして廊下へ飛び出して、その拍子にサアベルの尻を入口の柱にぶつ附けた。その
年寄つた大男の巡査が素焼の茶碗に水を入れて持つて来た。顔は途方に暮れてゐるやうである。
プリスタフはそれを受け取つて、「さあ、お上がんなさい。お上がんなさい」と
ソロドフニコフはパンと麹との匂のする
「やれやれ。御気分が直りましたでせう。さあ、門までお送り申しませう。死んだものは死んだものに致して置きませう」と、プリスタフは愉快らしく云つた。
ソロドフニコフは器械的に立ち上がつて、巡査の取つてくれる帽を受け取つて、廊下へ歩み出した。廊下はさつきの焼き立てのパンと麹との匂の外に、多勢の人間が置いて行つた
その時見えた戸外の物が、ソロドフニコフには意外なやうな心持がした。
夜が明けてゐる。空は透明に澄んでゐる。雨は止んだが、空気が湿つてゐる。何もかも洗ひ立てのやうに光つてゐる。緑色がいつもより明るく見える。丁度ソロドフニコフの歩いて行く真正面に、まだ目には見えないが、朝日が出掛かつてゐる。そこの所の空はまばゆいほど明るく照つて、燃えて、輝いてゐる。空気は自由な、偉大な、清浄な、柔軟な波動をして、震動しながらソロドフニコフの胸に流れ込むのである。
「ああ」と、ソロドフニコフは長く引いて叫んだ。
「好い朝ですな」と、プリスタフは云つて、帽を脱いで、愉快気に
雀が一羽ちよちよと鳴きながら飛んで行つた。ソロドフニコフはそのあとを眺めて、「なんといふさうざうしい小僧だらう」と、愉快に感じた。
プリスタフは人の好ささうな、無頓著らしい顔へ、無理に意味ありげな皺を寄せて、「それでは御機嫌よろしう、まだも少しこゝの内に用事がございますから」と云つた。
そして医学士と握手して、附いて来られてはならないとでも思ふやうな様子で、早足に今出た門に這入つた。
学士は帽を脱いで、微笑みながら歩き出した。
ソロドフニコフは歩きながら身の
「一体こんな奴の事は不断はなんとも思つてやらないが、旨く歩いてくれるわい」と思つた。
「何もかも今まで思つてゐたやうに単純なものではないな。驚嘆すべき美しさを持つてゐる。不可思議である。かう遣つて臂を伸ばさうと思へば、すぐ臂が伸びるのだ。」
かう云つて臂を前へ伸ばして見て微笑んだ。
「何がなんでも好い。恐怖、憂慮、悪意、なんでも好い。それが己の中で発動すれば好い。さうすれば己といふものの存在が認められる。己は存在する。歩く。考へる。見る。感ずる。何をといふことは敢て問はない。少くも己は死んではゐない。どうせ一度は死ななくてはならないのだけれど。」
ソロドフニコフはこの考へを結末まで考へて見ることを憚らなかつた。
忽然何物かが前面に燃え上がつた。まばゆい程明るく照つた。輝いた。それでソロドフニコフはまたたきをした。
朝日が昇つたのである。