一
秋にさそわれて散る木の葉は、いつとてかぎりないほど多い。ことに霜月は秋の末、落葉も深かろう道理である。私がここに書こうとする小伝の主
一葉女史も、
病葉が、霜の
傷みに
得堪ぬように散った、世に惜まれる
女である。明治二十九年十一月二十三日午前に、この一代の天才は二十五歳のほんに短い、人世の
半にようやく達したばかりで
逝ってしまった。けれど布は幾百丈あろうともただの布であろう。
蜀江の
錦は一寸でも貴く得難い。命の短い一葉女史の生活の
頁には、それこそ私たちがこれからさき幾十年を生伸びようとも、とてもその
片鱗にも触れることの出来ないものがある。一葉女史の味わった人世の
苦味、
諦めと、
負じ魂との試練を経た哲学――
信実のところ私は、一葉女史を
畏敬し、推服してもいたが、私の
性質として何となく親しみがたく思っていた。
虚偽のない、全くの私の思っていたことで、もし傍近くにいたならば、チクチクと魂にこたえるような
辛辣なことを言われるに違いないというようにも思ったりした。それはいうまでもなくそんな事を考えたのは、一葉女史の在世中の私ではない、その折はあまり私の心が子供すぎて、ただ
豪いと思っていたに過ぎなかった。明治四十五年に、故人の日記が
公表にされてからである。私は今更、夢の多かった生活、いつも居眠りをしていたような自分を恥じもするが――幾度かその日記を
繙きかけては
止めてしまった。愛読しなかったというよりは、実は通読することすら
厭なのであった。それは私の、衰弱しきった神経が
厭ったのであったが、あの日記には美と夢とがあまりすくなくて、あんまり息苦しいほどの、
切羽詰った生活が露骨に示されているのを、私は何となく、
胸倉をとられ、締めつけられるような切なさに堪えられぬといった気持ちがして、そのため読む気になれなかった。
しかし、今はどうかというに、私も
年齢を加えている。そして、様々のことから、心の目を、少しずつ開かれ風流や趣味に逃げて、そこから判断したことの
錯誤をさとるようになった。この折こそと思って、私は長くそのままにしておいた一葉女史の日記を読むことにした。すこしでも親しみを持ちたいと思いながら――
で、お前はどう思ったか?
と誰かにたずねてもらいたいと思う。何故ならば、私はせまい見解を持ったおりに、よくこの日記を読まないでおいたと思ったことだった。
拗くれた先入観があっては、私はこの故人を、こう
彷彿と思い浮べることは出来なかったであろう。よくこそ時機のくるのを待っていたと思いながら、日記のなかの、ある行にゆくと、
瞼を引き
擦るのであった。それで私に、そのあとでの、故人の感じはと問えば、私はこう答えたい気がする。
蕗の
匂いと、あの苦味
お世辞気のちっともない答えだ。四月のはじめに出る青い蕗のあまり太くない、土から摘立てのを歯にあてると、いいようのない
爽やかな
薫りと、ほろ苦い味を与える。その二つの
香味が、一葉女史の姿であり、心意気であり、魂であり、生活であったような気がする。
文芸評に渡るようにはなるが、作物を通して見た一葉女史にも、ほろ苦い涙の味がある。どの作のどの
女を見ても、幽艶、温雅、誠実、艶美、貞淑の
化身であり、所有者でありながら、そのいずれにも何かしら作者の持っていたものを隠している。
柔風にも
得堪ない花の
一片のような少女、
萩の花の上におく露のような
手弱女に描きだされている女たちさえ、何処にか骨のあるところがある。ことに「にごり江」のお
力、「やみ夜」のお
蘭、「
闇桜」の千代子、「たま
襷」の糸子、「別れ霜」のお
高、「うつせみ」の雪子、「十三夜」のお
関、「経づくえ」のお園――と数えれば数えるものの、二十四年から二十八年へかけての五年間、二十五編の作中、一つとして同じ性格には書いてないが、その底の底を流れて、隠しても隠しきれない
拗ねた気質は、日記から読みとった作者の、どこか打解けにくいところのある、寂しい諦めと、
我執を見
逃されない。
私は一葉女史の作中の人物をかりて、女史に似通っている点をあげて見たいと思った。も一つは、どの作が作者の気に入っていた作か知りたいと思った。それよりも深く知りたいのは、どの作のどの女性が、最も深く作者の同情を得、共鳴のあるものかということであった。最も高く評価されたのは「濁り江」のお力、「十三夜」のお関、「たけくらべ」のみどりであったが、すべての女主人公を一固めにして、そして太く出た線こそ、女史の持っているほんとうの魂だという事が出来るであろう。
「経づくえ」は小説としては「にごり江」や「たけくらべ」に
競べようもない、その他の諸作よりも決して
勝れてはいない。その構想も『源氏物語』の若紫を
今様にして、あの
華やぎを見せずに男を死なせ、遠く離れたのちに、男が死んだあとで、十六の娘がその人の
情を恋うという、結末を皮肉にした短いものである。けれども、その少女お園の心持ちは、内気な
少女には、よく
頷かれもし、残りなく
書尽されてもいる。我と我身が
怨めしいというような悩みと、時機を一度失えば、もう取返しのつかない、
身悶えをしても及ばないくいちがいが、穏かに、寸分の
透もなく、
傍目もふらせぬようにぴったりと、
悔というかたちもないものの中へ押込めてしまって、長い一生を、
凝っと、
消てしまった故人の、恋心の中へと
突進めてゆかせようとするのを、私は何とも形容することの出来ない、涙と圧迫とを感じずにはいられない。――動きのとれない苦しみを知る人でなければと思うと、私はお園の上から作者の上へと涙をうつすのであった。
――私の
書方は、あんまり一葉女史を知ろうために、急ぎすぎていはしまいか。
或る人は女史を決して美人ではないといった。また
馬場孤蝶氏の記するところでは、美人ではなかったが決して醜い婦人ではない。先ず並々の容姿であったとある。親友の口からそう
極めがつけられているのを、見も逢いもせぬ私が、
何故美人にしてしまうのかと、
審しまれもしようが、私が作物を通して知っている一葉女史は、たしかに美人というのを
憚らぬと思う自信がある。写真でも知れるが、あの目のあの輝き、それだけでも私は美人の資格は立派にあるといいたい。脂粉に
彩どられた
傾国の美こそなかったかも知れないが、美の価値を、自分の目の
好悪によって定める、男の鑑賞眼は、時によって狂いがないとはいえない。あまりお化粧もしなかったらしい上に、余裕のある家庭ではなし、ことに、
――なまめかしいという感じを与える婦人ではなかった、艶はない、如何にもクスんだ所のある人であった、娘というよりは奥さんといいたいような人であった。当時の普通一般の女を離れて、男性の方に一歩変化しかけたように感ぜられる婦人であった。挙止は如何にもしとやかであった。言葉はいかにも上品であった。何処に女らしくないというところは挙げ得られないにかかわらず、何処となく女離れがしているように感ぜられた。多分は一葉君の気魄の人を圧するようなところがあったからであろう。要するに、共に語って痛快な婦人の一人であったろう。男が恋うることなしに親しく交わりえられる婦人の一人だと私は思っていた。 ――馬場氏記――
とあるのから見ても、そうした
婦人で、並々の容色と見えれば、厚化粧で人目を
眩惑させる美女よりも、確かであるということが出来ようかと思われる。
その上に、もし
一度興起り、想
漲り
来って、無我の境に筆をとる時の、
瞳は輝き、青白い
頬に紅潮のぼれば、それこそ他の模倣をゆるさない。
引緊った面に、物を探る額の曇り、キと結んだ紅い
唇、
懊悩と、勇躍とを混じた表情の、
閃きを思えば、類型の美人ということが出来よう。
誰に聞いても髪の毛は薄かったという事である。
背柄は中位であったという。受け答えのよい人で話
上手で、あったとも聞いた。話込んでくると頬に血がのぼってくる、それにしたがって話もはずむ。
冷嘲な調子のおりがことに面白かったとかいう。礼儀ただしいので
躯をこごめて坐っているが、退屈をすると
鬢の毛の一、二本ほつれたのを手のさきで
弄り、それを見詰めながらはなす。話に油がのってくると、
間をへだてていたのが、いつの間にか
対手の
膝の方へ、真中にはさんだ
火鉢をグイグイ押してくるほど一生懸命でもあったという。
半日に一枚の
浴衣をしたてあげる内職をしたり、あるおりは
荒物屋の店を出すとて、自ら買出しの荷物を
背負い、ある
宵は
吉原の
引手茶屋に手伝いにたのまれて、台所で御酒のおかんをしていたり、ある日は「御料理仕出し」の
招牌をたのまれて
千蔭流の筆を
揮い、そうした家の女たちから頼まれる手紙の代筆をしながらも、
小説のことに従事し始めて一年にも近くなりぬ、いまだよに出したるものもなく、我が心ゆくものもなし、親はらからなどの、なれは決断の心うとく、跡のみかへり見ればぞかく月日ばかり重ぬるなれ、名人上手と呼ばるゝ人も初作より世にもてはやさるゝべきにはあるまじ、非難せられてこそそのあたひも定まるなれと、くれ/″\せめらる、おのれ思ふにはかなき戯作のよしなしごとなるものから、我が筆とるはまことなり、衣食のためになすといへども、雨露しのぐための業といへど、拙なるものは誰が目にも拙とみゆらん、我れ筆とるといふ名ある上は、いかで大方のよの人のごと一たび読みされば屑籠に投げらるゝものは得かくまじ、人情浮薄にて、今日喜ばるゝもの明日は捨てらるゝのよといへども、真情に訴へ、真情をうつさば、一葉の戯著といふともなどかは価のあらざるべき、我れは錦衣を望むものならず、高殿を願ふならず、千載にのこさん名一時のためにえやは汚がす、一片の短文三度稿をかへて而して世の評を仰がんとするも、空しく紙筆のつひへに終らば、猶天命と観ぜんのみ。(一葉随筆、「森のした草」の中より)
おろかやわれをすね物といふ、明治の清少といひ、女西鶴といひ、祇園の百合がおもかげをしたふとさけび小万茶屋がむかしをうたふもあめり、何事ぞや身は小官吏の乙娘に生まれて手芸つたはらず文学に縁とほく、わづかに萩の舎が流れの末をくめりとも日々夜々の引まどの烟こゝろにかかりていかで古今の清くたかく新古今のあやにめづらしき姿かたちをおもひうかべえられん、ましてやにほの海に底ふかき式部が学芸おもひやらるるままにさかひはるか也、ただいささか六つななつのおさなだちより誰つたゆるとも覚えず心にうつりたるもの折々にかたちをあらはしてかくはかなき文字沙たにはなりつ、人見なばすねものなどことやうの名をや得たりけん、人はわれを恋にやぶれたる身とやおもふ、あはれやさしき心の人々に涙そそぐ我れぞかし、このかすかなる身をささげて誠をあらはさんとおもふ人もなし、さらば我一代を何がための犠牲などこと/″\敷とふ人もあらん、花は散時あり月はかくる時あり、わが如きものわが如くして過ぬべき一生なるに、はかなきすねものの呼名をかしうて、
うつせみのよにすねものといふなるは
つま子もたぬをいふにや有らん
をかしの人ごとよな(一葉随筆、「棹のしづく」より)
と、心を高く持っていたこの人のことを、私は自分の不文を恥じながらも、忠実に書かなければならないと思う。ともかくも、私はまずこの人の生れた月日と、その所縁のつづきあいとを書落さぬうちにしるしておこう。
二
一葉女史は江戸っ子だ、いや甲州生れだという小さな
口論争を私は折々聴いた。それはどっちも根拠のないあらそいではなかった。女史が生れたのは東京府庁のあった
麹町の山下町に
初声をあげた。明治五年には
他にどんな知名の人が生れたか知らぬが、私たち女性の間には、ことに文芸に携わるものには覚えていてよい年であろう。数え年の六歳に
本郷小学校へ入学した。その年は明治の年間でも、末の代まで記憶に残るであろう西南戦争のあった年で、西郷隆盛が若くから国家のために沸かした熱血を、城山の土に
濺いだ時である。翌年の七歳には特に
手習師匠にあがった。一葉女史の筆蹟が実に美事であるのも、そうした素養がある上に、後に歌人で千蔭流の筆道の達者であった中島師についたからだ。十五年の夏には
下谷池の
端の青海小学校へ移り、その翌年に退校した。その後は他で勉学したとは公にはされていない。十九年になって中島歌子
刀自の
許へ通うまでは独学時代であったろうと考えられる。
それまでが女史の両親の
揃っていた勉学時代、少女時代で、甲州は両親の出生地であった。父君は
樋口則義、母君は
滝といって、安政年間に志をたてて共に江戸に出、母は
稲葉家に仕え、父は旗本菊池家に奉公し、後に
八丁堀衆(与力同心)に加わった。そして維新後に生れた女史は、両親の第四子で二女である。
甲斐の国東山梨郡大藤村は女史の両親を生んだ
懐しい故郷なので。
小説「ゆく雲」の中には
桂次という学生の言葉をかりて、
我養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺はをしみて面かげを視さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道をとりにやりて、やう/\鮪の刺身が口に入る位――
とある。その後の章には、
小仏の峠もほどなく越ゆれば、上野原、つる川、野田尻、犬目、鳥沢も過ぎて猿はし近くにその夜は宿るべし、巴峡のさけびは聞えぬまでも、笛吹川の響きに夢むすび憂く、これにも腸はたたるべき声あり勝沼よりの端書一度とゞきて四日目にぞ七里の消印ある封状二つ……かくて大藤村の人になりぬ。
と故郷の山野の景色がかなり細叙してある。
父則義氏は廿二年ごろに世を去られた。それからの女史の生活は流転をきわめている。陶工であった兄の虎之助氏は早くから別に一家をなしていたので、女史は母滝子と、妹の国子と、
疲細い女三人の手で、その日の煙りを立てなければならなかった。廿四年廿歳の時から廿九年までの六年間が製作の時代であった。
生活の流転は、その感想、随筆、日記、が
明らさまに語っている。女史の幼時にも彼女の家は転々した。本郷に移り下谷に移り、下谷
御徒町へ移り、芝
高輪へ移り、
神田神保町に行き、
淡路町になった。其処で父君を失ったので、その秋には悲しみの残る家を離れ本郷
菊坂町に住居した。その後
下谷竜泉寺町に移った。俗に
大音寺前という場処で、吉原の
構裏であった。一葉の家は
京町の非常門に近く、おはぐろ
溝の
手前側であったという。ここの住居の時分から、女史の名は高くなったのである、そして生活の窮乏も極に達していた。
荒物店をはじめたのも
此家のことであれば、母上は吉原の引手茶屋で手のない時には手伝いにも出掛けた。女史と妹の国子とは
仕立ものの内職ばかりでなく
蝉表という
下駄の
畳表をつくることもした。一葉女史のその家での書斎は、三畳ほどのところであったという。荒物店の三畳の奥で、この
閨秀の傑作が
綴りだされようと誰が知ろう、それよりもまた、その文豪が、朝は風呂敷包みを背負って、自ら
多町の問屋まで駄菓子を買出しにゆき、
蝋燭を仕入れ、羽織を着ているために
嘲笑されたと知ろうか。彼女の家から灯が暁近くなるまで
洩れるのは、彼女の創作のためばかりではなかった。あの、筆をもてば、
倏忽に想をのせて走る
貴い指さきは、一寸の針をつまんで他家の新春の
晴着を裁縫するのであった。半日に一枚の
浴衣を縫いあげるのはさして苦でもなかったらしいが、創作の気分の
漲ってくるおりでも、米の代、
小遣い銭のために
齷齪と針をはこばなくてはならなかったことを想像すると、わびしさに胸が一ぱいになる。明治廿五年の正月には、元日ですら夜まで国子氏と仕立物をしていたという事を日記が語っている。
国子当時蝉表職中一の手利に成たりと風説あり今宵は例より、酒甘しとて母君大いに酔給ひぬ。
――片町といふ所の八百屋の新芋のあかきがみえしかば土産にせんとて少しかふ、道をいそげばしとど汗に成りて目にも口にもながれいるをはんけちもておしぬぐひ/\して――
とあるのにもその生活の一片が見られる。父の則義氏は漢学の素養もあり文芸の何物かをも知っていられたが、母君は普通の
気量な、かなり激しい気質の人であったらしい。日記にあらわれた借財のことは、廿年の九月七日にはじまっている。そして、
――我身ひとつの故成りせばいかゞいやしきおり立たる業をもして、やしなひ参らせばやとおもへど、母君はいといたく名をこのみ給ふ質におはしませば、児賤業をいとなめば我死すともよし、我をやしなはんとならば人めみぐるしからぬ業をせよとなんの給ふ、そもことはりぞかし、我両方ははやく志をたて給ひてこの府にのぼり給ひしも、名をのぞみ給へば成りけめ。
とあるにも母君の面影が知れる。そうした気位が高くていながら、乏しい暮しのために、しかもそうした
堅気の士族出が、社会の最暗黒面である
廓近くに住居して、場末の下層級の者や、流れ寄った諸国の
喰詰めものや、そうでなくても
闇の女の
生血から絞りとる、
泡く
銭の
下滓を吸って生きている、低級無智な者の中にはさまれて暮していなければならなかった母君の、ジリジリした気持ち――(
気勝者)といわれる
不幸な気質は、一家三人の共通点であった。
一葉女史が近視眼だったのは、幼時土蔵の二階の窓から、ほんの
黄昏の薄明りをたよりにして、
草双紙を読んだがためだという事ではあるが、そうした世帯の、
細心の
洋燈の赤いひかりは、視力をいためたであろうし、その上に彼女は肩の凝る性分で、かつて、年若い女史にそう早く死の来ることなどは、
誰人も思いよらなかったおり(死の六年前に)医学博士佐々木東洋氏が「この肩の凝りが下へおりれば命取りだから大事にせよ」と言われたということなどを思って見ても、早世は天命であったかも知れないが、あまり身心を費消させた生活が、彼女の死を早めさせたのだ。
私は
頃日、
馬琴翁の日記を読返して見て感じたのは、あの文人が八十歳にもなり、盲目にもなっていながら、著作を捨てなかった一生が、女史のそれと同様に、
焼火箸を
咽喉もとに差込まれるような感じをさせることであった。
女史の記録を読むと、明治廿四年――(一葉廿歳の時)十月十日に兄の家は財産差押えになるという通知をうけたくだりに、金三円
斗りもあれば破産の不幸にも至るまいという書状から
推しても、
杖とも頼む男兄弟の、たよりにならなかったことがしれ、かえって妹たちの方が苦しいなかからその急を救った。
「家の方は私の
稽古着を売ってもよいから」といって、親子の
膏であり、血となる
代の金四円を、母を車に乗せて夜中ではあれど届けさせた。
ある時は貧に
倦じた老女の
繰言とはいえ、
「あな侘し、今五年さきに失なば、父君おはしますほどに失なば、かゝる憂き、よも見ざらましを我一人残りとゞまりたるこそかへす/″\口をしけれ、我詞を用ひず、世の人はたゞ我れをぞ笑ひ指さすめる、邦も夏もおだやかにすなほに我やらむといふ処、虎之助がやらむといふ処にだにしたがはゞ何条ことかはあらむ、いかに心をつくりたりとて手を尽したりとて甲斐なき女の何事をかなし得らるべき、あないやいやかかる世を見るも否也」
と朝夕に母に
掻くどかれては、どれほどに心苦しかったであろう。おなじ年(廿六年四月十三日の記に)、
母君更るまでいさめたまふ事多し、不幸の子にならじとはつねの願ひながら、折ふし御心にかなひ難きふしの有こそかなし。
とあるに知る事が出来る。
朝には買出しの包みを背負って、駄菓子問屋の者たちから「
姐さん」とよばれ、午後には貴紳の令嬢たちと
膝を交えて「夏子の君」と敬される彼女を、彼女は皮肉に感じもした。けれども恩師中島歌子は、一葉の夏子を自分の跡目をつぐものにしようとまで思っていたのであった。であればこそ、同門の令嬢たちも、一葉という文名
嘖々と登る以前にも、内弟子同様な身分である夏子を卑しめもしなかったのであろう。
ある時、女史は雨傘を一本も持たなかった。
高下駄の
爪皮もなかった。小さい
日和洋傘で大雨を
冒して師のもとへと通った。またある時は(新年のことであったと思う)晴着がないので、国子の才覚で羽織の下になるところは
小切れをはぎ、見える
場処にだけあり合せの、
共切れを寄せて作った着物をきていったことがある。
勿論裾廻しだけをつけたもので、羽織が寒さも救えば恥をも救い隠したのである。そうしても師の
許へ顔をだす事を
怠らなかったわけは、
他にもあるのであった。歌子は裁縫や
洗濯を彼女の家に頼んで、
割のよい価を支払らっていた。師弟の
情誼のうるわしさは、あるおり、夏子に恥をかかせまいとして、歌子は小紋ちりめんの三枚重ねの
引ときを、表だけではあったが与えもした。
「
蓬生日記」の十月九日のくだりには、
師の君に約し参らせたる茄子を持参す。いたく喜びたまひてこれひる飯の時に食はばやなどの給ふ、春日まんぢうひとつやきて喰ひたまふとて、おのれにも半を分て給ふ。
とあるにも師弟の関係の密なのが知られる。けれども歌子は一葉をよく知っていた。あるおり『読売新聞』の文芸担当記者が、当時の才媛について、萩の屋門下の夏子と
龍子――
三宅花圃女史――の評を求めたおり、歌子は、龍子は紫式部であり夏子は清少納言であろうと言ったとか、一葉も自分で、清少納言と共通するもののあるのを知っていたのかとも思われるのは、随感録「
棹のしづく」に、
少納言は心づからと身をもてなすよりは、かくあるべき物ぞかくあれとも教ゆる人はあらざりき。式部はおさなきより父為時がをしへ兄もありしかば、人のいもうととしてかずかずにおさゆる所もありたりけんいはゞ富家に生れたる娘のすなほにそだちて、そのほどほどの人妻に成りたるものとやいはまし――仮初の筆すさび成りける枕の草紙をひもとき侍るに、うはべは花紅葉のうるはしげなることも二度三度見もてゆくに哀れに淋しき気ぞ此中にもこもり侍る、源氏物がたりを千古の名物とたゝゆるはその時その人のうちあひてつひにさるものゝ出来にけん、少納言に式部の才なしといふべからず、式部が徳は少納言にまさりたる事もとよりなれど、さりとて少納言をおとしめるはあやまれり、式部は天つちのいとしごにて、少納言は霜ふる野辺にすて子の身の上成るべし、あはれなるは此君やといひしに、人々あざ笑ひぬ。
と同情している。
とはいえその間に女史一代の天華は開いた。
「名誉もほまれも命ありてこそ、見る目も苦しければ今宵は休み給へ」
と繰返し
諫める妹のことばもききいれず、一心に創作に
精進し、
大音寺前の荒物屋の店で、あの名作「たけくらべ」の着想を得たのであった。けれどもまた、漸く死の到来が、正面に廻って来たのでもあったが、そうとは知りようもなく、ただ家の事につき、母を楽しませる事についても、一層気掛りの
度合が増したものと見え、彼女は
相場をして見ようかとさえ思ったのだ。
私は此処まで書きながら、私も母の望みを
満そうと、そんな考えを起した事が一再ならずあったので、この思いたちが
突飛ではない、全く無理もないことだと肯定する。その相場に関して、「天啓顕真術本部」という、妙な山師のところへ彼女がいったことから、すこしばかり恋愛をさがしてみよう。
荒物店を開いた時のことも書残してはならない。
――夕刻より
着類三口持ちて本郷いせ屋にゆき、四円五十銭を得、紙類を少し仕入れ、他のものを二円ばかり仕入れたとある。
今宵はじめて荷をせをふ、中々に重きものなり。
ともいい、日々の売上げ廿八、九銭よりよくて三十九銭と帳をつけ、五厘六厘の客ゆえ、百人あまりもくるため大多忙だと
記したのを見れば、
なみ風のありもあらずも何かせん
一葉のふねのうきよなりけり
と感慨無量であった面影が
彷彿と浮かんでくる。
三
廿七年二月のある日の午後に、本郷区
真砂町卅二番地の、あぶみ坂上の、下宿屋の横を曲ったのは彼女であった。その路は
馴染のある土地であった。
菊坂の旧居は近かった。けれども其処を歩いていたのは、
謹厳深い胸に問いつ答えつして、様々に思い悩んだ末に、天啓顕真術会本部を訪れようとしていたのであった。
黒塀の、
欅の植込みのある、小道を入って、玄関に立った彼女は、その家の主、
久佐賀先生というのは、何々道人とでもいうような人物と想像していたのであろう。秋月と
仮名して取次ぎをたのんだ。
彼女は久佐賀某に面接したおり、
(
逢見ればまた思ふやうの顔したる人ぞなき)
と、『つれづれ草』の中にある
詞を思出しながら、四十ばかりの音声の静かにひくい小男に
向合った。
鑑定局という十畳ばかりの
室には、織物が敷詰められてあり、額は二ツ、その一つには静心館と書してあり、書棚、黒棚、ちがい棚などが
目苦いまでに並べたててあり、
床の
間には
二幅対の絹地の画、その床を背にして、久佐賀某は机の前に大きな火鉢を引寄せ、しとねを敷いていて彼女を引見したのであった。
「
申歳の生れの廿三、運を一時に
試し相場をしたく思えど、貧者一銭の余裕もなく、我力にてはなしがたく、思いつきたるまま先生の教えをうけたくて」
と彼女は漸くに口を切った。それに答えた顕真術の先生は、
「実に上々のお生れだが金銭の福はない。他の福禄が十分にあるお人だ。
勝れたところをあげれば、才もあり智もあり、物に
巧あり、悟道の
縁しもある。ただ惜むところは
望が大きすぎて破れるかたちが見える。
天稟にうけえた一種の福を持つ人であるから、
商いをするときいただけでも不用なことだと思うに、相場の勝負を争うことなどは
遮ってお止めする。貴女はあらゆる望みを胸中より
退いて、終生の願いを安心立命しなければいけない。それこそ貴女が天から受けた本質なのだから」
と言った。彼女は表面
慎しやかにしていても、心の底ではそれを聴いてフフンと笑ったのであろう。
「安心立命ということは出来そうもありません。望みが大に過ぎて破れるとは、何をさしておっしゃるのでしょう。老たる母に朝夕のはかなさを見せなければならないゆえ、一身を
贄にして一時の運をこそ願え、私が一生は
破ぶれて、道ばたの
乞食になるのこそ終生の願いなのです。乞食になるまでの道中をつくるとて
悶えているのです。要するところは、よき死処がほしいのです」
と言出すと、久佐賀は手を打っていった。
「
仰しゃる事は我愛する本願にかなっている」
彼女と久佐賀との面会は話が合ったのであろう。月を越してから久佐賀は手紙をもって、亀井戸の
臥龍梅へ彼女を誘った。手紙には、
君が精神の凡ならざるに感ぜり、爾来したしく交わらせ給わば余が本望なるべし
などと書いたのちに、
君がふたゝび来たらせ給ふをまちかねて、として、
とふ人やあるとこゝろにたのしみて
そゞろうれしき秋の夕暮
と歌も手も
拙ないが、才をもって世を渡るに巧みなだけな事を尽してあった。とはいえ、それを受けたのは一葉である。そんな趣向で手中にはいると思うのかと、
直に顕真術先生の胸中を
見現してしまった。日本全国に会員三万人、後藤大臣並びに夫人(
象次郎伯)の尊敬
一方でないという先生も、女史を知ることが出来ず、そんな甘い手に乗ると思ったのは彼れが一代の失策であったであろう。
彼女は久佐賀の
価値を知った。彼れは世人の前へ
被る面で、彼女も
贏得ることが出来ると思ったのであろう。彼女の手記には利己流のしれもの、二度と説を聴けば、
厭うべくきらうべく、面に
唾きをしようと思うばかりだとも言い、かかるともがらと大事を語るのは、
幼子にむかって天を論ずるが如きものだ、思えば自分ながら我も敵を知らざる事の甚だしきだと、自分をさえ
嘲笑っている。けれども久佐賀の方では、自分の方は名と富と力を貯えているものだと、慢じていたのであろう。そしてその上に、一葉の美と才と、文名とを合せればたいしたものだと
己惚たのであろう。他の者には
洩すのさえ
恥ているだろうと思われる貧乏を、自分だけがよく知っていると思いもしたのであろう。まだそれよりも、彼女が親と妹のために、物質の満足を得させたいと願っている弱みを、彼れは自分一人が承知しているのだと思い上っていた。それのみならず彼れは、一葉を説破しえたつもりでいたかも知れない。
久佐賀は、金力を持って、さも同情あるように
附込んでゆこうとした。そうした男ゆえ、俺ならば大丈夫良かろうと
錨をおろしてかかったのかも知れない。ともかく彼れはやんわりと、勝気なる、才女を怒らせないような文面をもって求婚を申入れた。それは廿七年の六月九日のことで女史が廿三歳の時である。
(貴女の御困苦が私の一身にも引くらべられて悲しいから、御成業の暁までを引受けさせて頂きたい。けれども
唯一面識のみでは、お頼みになるのも苦しいだろうから、どうか一身を私に
委ねてはくれまいか。)
そんな風な申込に対して苦笑せずにいられるだろうか? いうまでもなく彼女は彼れを評して、笑うにたえた
しれもの、投機師と
罵っている。世のくだれるをなげきて一道の光を起さんと志すものが、目前の苦しみをのがれるために、尊ぶべき
操を売ろうかと嘲笑した。とはいえ、救いは願っていたのである。そうした悲しい矛盾を忍ばねばならなかった貧乏は、彼女に女らしさを失わぬ返事を
認めさせた。
(どうかそういう事は仰しゃらないで、大事をするに足りるとお思いになるならば扶助をお与え下さい。でなければ
一言にお断り下さい)
と彼女は明らかな決心を持って、とはいえ事の破れにならぬようにと、余儀なく祈る返事を出した。その後も五十金の借用を申込んだこともある。久佐賀も彼女の家を
度々訪ずれた。
久佐賀と懇意になった
後、直に彼女の一家は本郷へ引移った。荒物店を譲って、丸山福山町の阿部家の山添いで、池にそうた小家へ移った。其処は「
守喜」という
鰻屋の離れ座敷に建てたところで、狭くても気に入った住居であったらしかった。家賃三円にて高しといったのでも、質素な暮しむきが見える。現にこの
間、歌舞伎座で河合、喜多村の両優によって、はじめて女史の作が劇として上場されたあの「濁り江」は、この家に移ってから、その近傍の新開地にありがちな飲屋の女を書いたものであった。女史は其処に移ってからもそうした種類の人たちに頼まれて手紙の代筆をしてやった。ある女は女史の代筆でなくてはならないとて、
数寄屋町の芸妓になった後もわざわざ人力車に乗って書いてもらいに来たという。「濁り江」のお力は、その芸妓になった女をモデルにしたともいわれている。そしてそこが
終焉の地となった。
引越しの動機が彼女の発起でないことは、
国子はものに堪忍ぶの気象とぼし、この分厘にいたく厭たるころとて、前後の慮なくやめにせばやとひたすら進む。母君もかく塵の中にうごめき居らんよりは小さしといへど門構への家に入り、やはらかき衣類にても重ねまほしきが願ひなり、されば我もとの心は知るやしらずや、両人とも進むること切なり。されど年比売尽し、かり尽しぬる後の事とて、この店を閉ぢぬるのち、何方より一銭の入金のあるまじきをおもへば、ここに思慮を廻らさざるべからず。さらばとて運動の方法をさだむ。まづかぢ町なる遠銀に金子五十円の調達を申込む。こは父君存生の頃よりつねに二、三百の金はかし置たる人なる上、しかも商法手広く表をうる人にさへあれば、はじめてのこととて無情くはよもとかゝりしなり。
(「塵中日記」より)
私はもうこの辺で、その人のためには、
茅屋も金殿玉楼と思いなして
訪いおとずれた、その当時はまだ若盛りであった、明治文壇の諸先輩の名をつらねることも、忘れてならない一事だろうと、ほんの、当時の往来だけでもあっさり書いておこうと思う。
第一に孤蝶子――馬場氏が日記の中で
巾をきかしている――先生の熱心と、友愛の情には、女史も心を動かされた事があったのであろう。その次には
平田禿木氏であろう、この二人のためにはかなり日記に字数が納められている。そしてこの二人の親密な友垣の間にあって、女史は淡い悲しみとゆかしさを抱いていたのであろう。
「水の上日記」五月十日の夜のくだりには、池に
蛙の声しきりに、
燈影風にしばしばまたたくところ、座するものは紅顔の美少年馬場孤蝶子、はやく高知の名物とたたえられし、兄君
辰猪が気魂を伝えて、別に詩文の別天地をたくわゆれば、優美高潔かね備えて、おしむところは短慮小心、大事のなしがたからん生れなるべけれども歳は、廿七、一度
跳らば山をも越ゆべしとある。
平田禿木は日本橋伊勢町の商家の子、家は数代の豪商にして家産今
漸くかたぶき、身に思うこと重なるころとはいえ、文学界中出色の文士、年齢は一の年少にして廿三とか聞けり。今の間に高等学校、大学校越ゆれば、学士の称号目の前にあり、彼れは
行水の流れに落花しばらくの春とどむる人であろうといい、(親密々々)これは何の言葉であろうと言い、情に走り、情に酔う恋の中に身を投げいれる人々と、何気なくは書いているものの、
更けて風寒く、空には雲のただずまい、月の明暗する窓によりて、沈黙する禿木氏と、
燈火の影によく語る孤蝶子との中にたって、
茶菓を取まかなっていた女史の胸は、あやしくも動いたのであろう。
此処へ川上
眉山氏がまた加わらなければならない。彼女は初めて逢った眉山氏をどう見たろうか、彼女はこう言っている。
年は廿七とか、丈高く、女子の中にもかゝる美しき人はあまた見がたかるべし、物言ひ打笑むとき頬のほどさと赤うなる。男には似合しからねど、すべて優形にのどやかなる人なり、かねて高名なる作家ともおぼえず心安げにおさなびたり。
とて、孤蝶子の美しさは秋の月、眉山君は春の花、
艶なる姿は京の舞姫のようにて、
柳橋の歌妓にも
譬えられる孤蝶子とはうらうえだと評した。
馬場氏の思いなげに振舞うのが、禿木の気を悪くするのであろうと、
侘しげにも言っている。そして眉山氏も一葉党の一人になってしまった。禿木は孤蝶子との間に疑いを入れて、ねたましげでもあったであろう。それもそのはずで、
孤蝶子よりの便りこの月に入りて文三通、長きは巻紙六枚を重ねて二枚切手の大封じなり。
とある。同じ中に、
優なるは上田君ぞかし、これもこの頃打しきりてとひ来る。されどこの人は一景色ことなり、万に学問のにほひある、洒落のけはひなき人なれども青年の学生なればいとよしかし
とあるは、柳村、
敏博士のことである。その他に一葉の周囲の男性は、
戸川秋骨、島崎藤村、星野
天知、関
如来、
正直正太夫、村上
浪六の諸氏が足近かった。
正太夫は
緑雨の別号をもつ皮肉屋である。浪六はちぬの浦浪六と号して、
撥鬢奴小説で
溜飲を下げてしかも高名であった。
渋仕立の江戸っ子の皮肉屋と、
伊達小袖で寛濶の侠気を売物の浪六と、舞姫のように物優しい眉山との
三巴は、みんな彼女を握ろうとして、仕事を巧みすぎて失敗した。眉山は
強いて一葉の写真を手に入れたのちに、他から出た
噂のようにして、眉山一葉結婚云々と
言触したのでうとまれてしまった。
正太夫年齢は廿九、痩せ姿の面やうすご味を帯びて、唯口許にいひ難き愛敬あり、綿銘仙の縞がらこまかき袷に木綿がすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹なるべくや、声びくなれど透通れるやうの細くすずしきにて、事理明白にものがたる。かつて浪六がいひつるごとく、かれは毒筆のみならず、誠に毒心を包蔵せるのなりといひしは実に当れる詞なるべし
と評した斎藤緑雨を、そう言ったほど悪くはあしらいもしなかった。かえって二人は人が思うより気が合った。皮肉屋同士は会心の笑みをうかべあいもした。妻帯の事についてもかなり打明けて語りあっている。でありながら最後に(彼れの底の心は知らぬでもない)と冷たくあしらったのは、あまり正太夫が自分の筆になる鋭利な小説評が、その当時の文壇の勢力を左右した力をもって、折々何事にもあれ一葉の行方を
差示し顔に、その力量をほのめかして、感得させようとしたのから、反抗を買ってしまった。浪六にはその前年から頼んであった金策のことで、
大晦日の夜も
待明したのであったが、その年の五月一日になってもまだ絶えて音信をしなかったので、
誰もたれも言ひがひのなき人々かな、三十金五十金のはしたなるに夫をすらをしみて出し難しとや、さらば明かに調へがたしといひたるぞよき、えせ男作りて、髭かき反せどあはれ見にくしや
と
吐[#ルビの「は」は底本では「ほ」]きだすように言われている。その他に樋口勘次郎は、身は厭世教を持したる教育者で、しかも
不娶主義の主張者でありながら、おめもじの時より骨のなき身になったといって、
勿体なくも君を恋まつれる事幾十日、別紙御一覧の上は八つざきの刑にも処したまへ
とて熱書を寄せもした。されば、
にくからぬ人のみ多し、我れはさは誰と定めて恋渡るべき、一人のために死なば、恋しにしといふ名もたつべし、万人のために死ぬればいかならん、知人なしに、怪しうこと物にやいひ下されんぞそれもよしや。
と思慕の情を寄せてくれる人々に対して誠を語っている。とはいえ、それは思われるに対してである。物思う側の彼女をも、思われた
唯一人の幸福者をも
記そう。
四
さても、さほどまでに多くの人々に懐かしまれた女史の、胸の
隠処に秘めた恋は、片恋であったであろうか、それともまた、互に口に出さずとも相恋の間柄であったであろうか。日記に見える女史の心は動揺している。すくなくとも八分の弱身はあったように見られる。はじめから女史はその人を恋人として見たのではない。最初は小説の原稿を見てもらうために、先生として逢い、同時に、原稿を
金子に代えることも頼んだのだ。その人の友達が一葉の友でもあったので、二人を紹介したのがはじめだった。ところが、その人は、友達のように親しく一葉に同情し、友達よりも深い
信実心を示した。いかほど用心深い
性質でも、若い女には若い血潮が盛られている。十九の一葉はその人を心から兄と思い慕った。そしてその慕わしさは恋心となった。
「よもぎふ日記」二十六年四月六日の記に、
こぞの春は花のもとに至恋の人となり、ことしの春は鶯の音に至恋の人をなぐさむ。
春やあらぬわが身ひとつは花鳥の
あらぬ色音にまたなかれつゝ
とある末に、
もゝのさかりの人の名をおもひて、
もゝの花さきてうつろふ池水の
ふかくも君をしのぶころかな
とある。桃の花のうつらう水というのこそ、彼女の二なき恋人の名なのである。その人こそ
現今も『朝日新聞』に世俗むきの小説を執筆し、
歌沢寅千代の夫君として、歌沢の
小唄を作りもされる
桃水、
半井氏のことである。
半井氏を一葉はどれほど思っていたであろうか、そして半井氏は――
昔時は知らずやや老いての半井氏は、訪客の談話が彼女の名にうつると、迷惑そうな顔をされるということである。そして一ことも彼女については語らぬということである。関如来氏の談によれば、ある日朝から一葉が半井氏を
訪ねたことがある。彼女の声が、訪れたということを
格子戸の外から告げられると、二階に執筆中の半井氏は
不在だと言ってくれと関氏に頼んだ。関氏が階下へおりてゆくと、彼女は上って坐って待っていた。関氏は
何時も彼女の家を絶えずおとずれる訪客の一人であって、いつも彼女に
饗応をうける側の人であったので、こういう時こそと、自らが主人気取りで、半井氏が留守ならばとしきりに
暇を告げようとする女史を引止めたうえに、
鮨などまでとって歓待した。そして
午ごろまで語りあった。階上の半井氏は、時がたつにしたがって、階下に用事があるようになったが、さりとて留守と言わせたのでおりる事は出来ず、人を呼ぶことは出来ず、その上
灰吹をポンとならして
煙管をはたくのが癖であることを、彼女がよく知っているので、そんな事にまで不自由を忍ばなければならなかったので、彼女が辞し去ったあとで、こんな事ならば逢って時間をつぶした方がよかったと
呟いたということである。その
一事をもって
総ての推測を下すのではないが、憎くはないがこの女一人のためには、何もかも失ってもと思い込むほどの熱情は、なかったのであろう。その、どこやら物足らなさを、彼女の魂の中の暴君が、誇を
疵つけられたように感じ、恋もし、慕いもしたが、また悔みもした。
勝気の女はかなしかった。女人の誇りを、恋人の前でまで、
赤裸に投捨てられないものの恋は、かなしいが当然で、彼女は自ら火を
点けた
焔を、自らの冷たさをもって消そうと争った。
彼女の恋愛記は成恋でもなければ
勿論失恋でもない。恋というものに対して、自らの魂のなかで、冷熱相戦った手記であると同時に、肉体と霊魂との持久戦でもあった。彼女もまた旧道徳に従って、
秘に恋に苦しむのを、恋愛の至上と思っていたらしい。
彼女を恋に導いた友達――野々宮某女は、思いあがった彼女の誇りを利用して、巧みに離間しようとして成功した。とはいえ、その実それは、一葉自身の弱点でもあった。
恋するものの女らしさ――私はそう思う時に女心の優しさにほほえまずにはいられない。それは彼女が初めて島田
髷に
結った時のことである。その日彼女が半井氏を訪れたのは、人の口に
仇名がのぼり、あらぬ名をうたわれるのを憤って、暫時、絶交しようと思っての訪問であった。そうした日であるのに、珍らしくも一葉は島田髷の
初結をした。その日は二十五年六月二十五日のことである。
「しのぶぐさ日記」には、
梅雨降りつゞく頃はいと侘し、うしがもとにはいと子君伯母君二処居たり、君は次の間の書室めきたるところに打ふし居たまへり。雨いたく降りこめばにや雨戸残りなくしめこめていと闇し、いと子君伯母なる人に向ひて、御覧ぜよ樋口さまのお髪のよきこと、島田は実によく似合給へりといへば、伯母君も実に左なり/\、うしろ向きて見せたまへ、まことに昔の御殿風と見えて品よき髷の形かな。我は今様の根の下りたるはきらひなどいひ給ふ。半井君つと立て、いざや美しうなりたまひし御姿みるに余りもさし込めたる事よとて、雨戸二、三枚引あく、口の悪き男かなとて人々笑ふ。我もほゝゑむものから、あの口より世になき事やいひふらしつると思ふにくらしさに、我しらずにらまへもしつべし。
とある。けれども、何のためにさまで憎く思ったかといえば、その前日、彼女が師の家にて同門の友達と雑談にふけったおり、誰彼の
噂に夜をふかすうちに、
姦しきがつねとて、誰にはかかる醜行あり、彼れにはこうした汚行ありと
論つらうを聞いて、彼女はもう
臥床に入ろうとした師歌子の枕
許へいって身の相談をしようとした。それは、それより前の日に、伊藤夏子という人が席を立って一葉をものかげに呼び、声をひそめて、
「貴女は世の中の義理の方が重いとお思いなさるか、それとも御家名の方が
惜いと思いなさるか」
と聞かれたので、
「世の義理は重んじなければならないものだと私は思います。けれども家の名も惜くないことはありません。甲乙がないといいたいけれど、どうも私の心は家の方へ引かれがちです。
何故というのに、自分ばかりのことでなく、母もあれば
兄妹もあるので」
と答えた。
「では言わなければならないことでありますが、貴女は半井さんと交際を断つ訳にはいかないでしょうか」
といった。
彼女は友の視線があまりまぶしいので、何事と知らねど胸の中にもののたたまるように思われた。
「妙なことを仰しゃるのね。それは
何時ぞやもお
咄したとおり、あの方はお
齢も若いし、美しい御顔でもあるし私が行ったりするのは、
憚からなけりゃなるまいと思っています。幾度交際を断とうと思ったかも知れはしません。けれど受けた恩義もあり、そうは出来かねているのよ、私というものの行いに、汚れのないのを御存知でありながら……」
と彼女は
怨みもした。
「そりゃあ道理はそうですけれど――まあ訳はいずれ話しますが、どうしても交際が断てないというのならば、私でも疑うかもしれませんよ」
そういって友は立別れた。一葉は、ふとその日の
訝しい友の言葉を思い出したので、歌子によってその惑いを解いてもらおうとしたのであった。
「半井さんの事は先生がよく御承知であって、訪問をお止めにならないのを、何ぞ噂するのでございましょうか」
と歌子にたずねた。すると歌子の返事は、実に意外に彼女の耳に鳴り響いた。
「では、行末の約束を契ったのではないのか」と。
彼女は仰天して、七年の年月を傍においた弟子の愚直な心を知らないのかと、
怨み泣いた。
「でも、半井氏という人は、お前は妻だと
言触らしているというではないか。もし縁があってゆるしたのならば、他人がなんと言おうとも聞入れないがよい。もしそうでないのならば、交際しない方がよいだろう」
と歌子は
諭した。それ故にこそ彼女は梅雨の日を訪ずれたのである。そして、絶交する人の目に、島田に結んだ姿を残そうとしたのである。
愛するあまりに、妻とも言ったであろうかの恋人に、その故に絶交しなければならない彼女は、たった一月前には思う人の病を慰めるためにと、乏しい中から下谷の
伊予紋(料理店)へよって、口取りをあつらえたり、本郷の藤村へ立寄って
蒸菓子を買いととのえたりして訪れていた。ある時は、朝早くから訪れて
午過ぎまで目ざめぬ人を、雪の降る日の玄関わきの小座敷につくねんと、
火桶もなく
待あかしていたこともあった。彼女が手伝って
掃除すると、まめやかな
男主は、手製のおしるこを彼女にと進めたりした。彼女はその日のことを記した末、
半井うしがもとを出しは四時ころ成りけん、白皚々たる雪中、りん/\たる寒気をおかして帰る。中々おもしろし、堀ばた通り九段の辺、吹かくる雪におもてむけがたくて頭巾の上に肩かけすつぽりとかぶりて、折ふし目斗さし出すもをかし、種々の感情胸にせまりて、雪の日といふ小説の一編あまばやの腹稿なる。
とある。恋に対して
傲慢であった彼女にも、こうした夢幻境もあった。恋という感想に、
我はじめよりかの人に心をゆるしたることもなく、はた恋し床しなどと思ひつることかけてもなかりき。さればこそあまたたびの対面に人げなき折々はそのことゝもなく打かすめてものいひかけられしことも有しが、知らず顔につれなうのみもてなしつるなり。さるを今しもかう無き名など世にうたはれて初て処せくなりぬるなん口惜しとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやしき物なりかし、この頃降りつゞく雨の夕べなどふと有し閑居のさま、しどけなき打とけたる姿などそこともなくおもかげに浮びて、彼の時はかくいひけり、この時はかう成りけん、さりし雪の日の参会の時手づから雑煮にて給はりし事、母様の土産にしたまへと、干魚の瓶漬送られしこと、我参る度々に嬉しげにもてなして帰らんといへば今しばし/\君様と一夕の物語には積日の苦をも忘るるものを、今三十分二十五分と時計打眺めながら引止められしことまして我ためにとて雑誌の創立に及ばれしことなどいへば更なり、久しう病らひ給ひその後まだよわよわと悩ましげながら、夏子さま召上りものは何がお好きぞや、この頃の病のうち無聊堪がたく夫のみにて死ぬべかりしを朝な夕なに訪ひ給ひし御恩何にか比せん、御礼には山海の珍味も及ぶまじけれどとて、兄弟などのやうにの給ふ。我料理は甚だ得手なり殊に五もくずし調ずること得意なれば、近きに君様正客にしてこの御馳走申すべしと約束したりき。さるにてもその手づからの調理ものは、いつのよいかにして賜はることを得べきなど思ひ出るまゝに有しこと恋しく、世の人のうらめしう、今より後の身心ぼそうなど取あつめて一つ涙ひぬものから、かく成行しも誰ゆゑかは、その源はかの人みづから形もなき事まざ/\言触しうしたればこそ……
とあるが、その実は野々宮某という女友達の
嫉妬から言触らされたのを知らなかったのである。
彼女は恋人から離れたと思い信じたが、彼女の心はそうゆかなかった。或時は、
吹風のたよりはきかじ荻の葉の
みだれて物を思ふころかな
とまで思い乱れ、またある時は
伯父の病床に侍して(かゝる時の折ふしにも
猶彼の人を忘れ難きはなぞや)といい、ある時は用もなきに近き
路をえらんでゆき、その人の住む家の前を通りて見、その家の
下女に
行逢いて近状を聞き、(万感万嘆この夜
睡ることかたし)と書いたのは、彼女の青春二十一歳のことであった。次の年の一月二十九日雪の降るのを見つつ、
わが思ひ、など降る雪のつもりけん
つひにとくべき中にもあらぬを
と嘆き四月の雨の日の記には、
わが心より出たるかたちなればなどか忘れんとして忘るゝにかたき事やあると、ひたすら念じて忘れんとするほど、唯身にせまりくるがごとおもかげのまのあたりに見えて得堪ゆべくも非ず、ふと打みじろげばかの薬の香のさとかをる心地して思ひやる心や常に行通ふとそゞろおそろしきまでおもひしみたる心なり、かの六条の御息所のあさましさを思ふにげに偽りともいはれざりける。
おもひやる心かよはゞみてもこん
さてもやしばしなぐさめぬべく
恋は、
見ても聞きてもふと思ひ初むるはじめいと浅し、
いはでおもふいと浅し、
これよりもおもひかれよりも思はれぬるいと浅し、
これを大方のよに恋の成就とやいふならん、逢そめてうたがふいと浅し、
わすられてうらむいと浅し、
逢んことは願はねど相思はん事を願ふいと浅し、
名取川瀬々のうもれ木あらはればと人のため我ためををしむたぐひ、うきに過たる年月のいつぞは打とけてとはかなきをかぞへ、心はかしこに通ふものか、身は引離れてことさまになりゆく、さては操を守りて百年いたづらぶしのたぐひ、いづれか哀れならざるべき、されど恋に酔ひ恋に狂ひ、この恋の夢さめざらんなかなかこの夢のうちに死なんとぞ願ふめる、おもへば浅きことなり――誠入立ぬる恋のおくに何物かあるべきもしありといはゞみぐるしく、憎く、憂く、愁く、浅間しく、かなしく、さびしく、恨めしく取つめていはんには厭しきものよりほかあらんとも覚えず、あはれその厭ふ恋こそ恋の奥なりけれ……
彼女の恋の信仰は頑固であった。彼女は何処までも人生の
ほろにがさを好んだ。
暖かくかなしい心持を
抱いて帰った雪の途中で出来上った小説「雪の日」は、その翌年に発表された。十六になる
薄井の一人娘お
珠が、
桂木一郎という教師と家出をしたというのが筋である。「
媒は過し雪の日ぞかし」ともあれば「かくまでに師は恋しかりしかど、ゆめさらこの人を夫と呼びて、
倶に他郷の地をふまんとは、かけても思ひよらざりしを、行方なしや迷ひ……窓の
呉竹ふる雪に心
下折れて、我も人も、罪は誠の罪になりぬ」
とある。言わずともわが身――
世馴れぬ
無垢の
乙女なればこうもなろうかと、彼女自身がそうもなりかねぬ心の
裏を書いて見たものと見ることが出来よう。
彼女は恋に破れても名には勝った。困窮は
堪忍び得たが病苦には
打敗てしまった。彼女の生存の末期は作品の全盛時にむかっていた。『国民の友』の春季附録には、
江見水蔭、
星野天知、
後藤宙外、泉鏡花に加えて彼女の「別れ
路」が出た。評家は口をそろえて彼女を
讃えた。世人はそれを「
道成寺」に見たて、彼女を
白拍子一葉とし、他のものを同宿坊と言伝えたほどであった。それは二十九年一月のことである。その年の四月には
咽喉が
腫れ、七月初旬には日々卅九度の熱となった。
山竜堂樫村博士も、青山博士も医療は無効だと断言した。十一月の三日ごろから
逆上のために耳が遠くなってしまった。そして二十三日午前に
逝去した。かつて知人の死去のおりに持参する
香奠がないとて、
我こそは達磨大師になりにけれとぶらはんにもあしなしにして
といい、また他行のため
洗張りさせし衣を縫うに、はぎものに午前だけかかり、下まえのえり五つ、
袖に二つはぐとて、
宮城のにあらぬものからから衣なども木萩のしげきなるらん
と
恬然と一笑した人の墓石は、現今も
築地本願寺の墓地にある。その石の墓よりも永久に残るのは、短い五年間に書残していった千古不滅の、あの名作名篇の幾つかである。
――大正七年六月――
昭和十年末日附記 随筆集『筆のまに/\』は、佐佐木竹柏園先生御夫妻の共著だが、その一二五頁「思ひ出づるまに/\」大正七年六月の一節に「自分がいつか夏目漱石さんの所へ遊びに行って昔話などをした時、夏目さんが、自分の父と一葉さんの父とは親しい間柄で、一葉さんは幼い時に兄の許嫁のようになっていた事もあったと言われた。明治の二大文豪の間に、さる因縁があったとは面白いことである」とあった。