是れより先き、平民社の諸友切りに「火の柱」の出版を慫慂せらる、而して余は之に従ふこと能はざりし也、
三月の下旬、余が記名して毎日新聞に掲げたる「軍国時代の言論」の一篇、端なくも検事の起訴する所となり、同じき三十日を以て東京地方裁判所に公判開廷せらるべきの通知到来するや、廿八日の夜、余は平民社の編輯室に幸徳、堺の両兄と卓を囲んで時事を談ぜり、両兄曰く君が裁判の予想如何、余曰く時非なり、無罪の判決元より望むべからず、両兄曰く然らば則ち禁錮乎、罰金乎、余曰く余は既に禁錮を必期し居る也、然れ共幸に安んぜよ、法律は遂に余を束縛すること六月以上なる能はざるなり、且つや牢獄の裡幽寂にして尤も読書と黙想とに適す、開戦以来草忙として久しく学に荒める余に取ては、真に休養の恩典と云ふべし、両兄曰く果して然るか、君が「火の柱」の主公篠田長二を捉へて獄裡に投じたるもの豈に君の為めに讖をなせるに非ずや、君何ぞ此時を以て断然之を印行に付せざるやと、余の意俄に動きて之を諾して曰く、裁判の執行尚ほ数日の間あり、乞ふ今夜直に校訂に着手して、之を両兄に託さん入獄の後之を世に出だせよ、
斯くて九時、余は平民社を辞して去れり、何ぞ知らん、舞台は此瞬間を以て一大廻転をなさんとは、
余が去れる後数分、警吏は令状を携へて平民社を叩けり、厳達して曰く「嗚呼増税」の一文、社会の秩序を壊乱するものあり依て之を押収すと、
四月一日を以て余は判決の宣告を受けぬ、四月二日を以て堺兄の公判は開廷せられぬ、而して其の結果は共に意外なりき、余は罰金に処せられたり、堺兄は軽禁錮三月に処せられたり、而して平民新聞は発行禁止の宣告を受けたるなり、平民社は直に控訴の手続に及びぬ、
其の九日の夜、平民社演説会を神田の錦輝舘に開けり、出演せるもの社内よりは幸徳、堺、西川の三兄、社外よりは安部兄と余となりき、演説終つて後、堺兄の曰く、来る十二日控訴の公判開かれんとし花井、今村の諸君弁護の労を快諾せられぬ、然れ共我等同志が主義主張の故を以て法廷に立つこと、今後必ずしも稀なりと云ふべからず、此際我等の主張を吐露して之を国権発動の一機関たる法廷に表白する、豈に無益のことならんやと、一座賛同、而して余遂に其の選に当りて弁護人の位地に立つこととなれり、
十二日は来れり、公判は控訴院第三号大法廷に開れぬ、堺兄に先ちて一青年の召集不応の故を以て審問せらるゝあり、今村力三郎君弁護士の制服を纏ひて来り、余の肩を叩いて笑つて曰く、君近日頻りに法廷に立つ、豈に離別の旧妻に対して多少の眷恋を催ほすなからんやと、誠に然り、余が弁護士の職務を抛つてより既に八星霜、居常法律を学びしことに向て遺憾の念なきに非ざりしなり、今ま我が親友の為めに同志を代表して法廷に出づるに及び、余が不快に堪へざりし弁護士の経験が、決して無益に非ざりしことを覚り、無限の歓情禁ずべからざりし也、
既にして彼の青年の裁判は終了せり、而して堺兄は日本に於ける社会主義者の代表者として「ボックス」の中に立てり、
判事の訊問あり、検事の論告あり、弁護人の弁論あり、而して午後二時公判は終了を告げぬ、
越えて十六日、判決は言ひ渡たされぬ、堺兄は軽禁錮二月に軽減せられたり、而して発行禁止の原判決は全然取り消されたり、
吾人は堺兄の為に健康を祈ると共に、「発行禁止」の悪例の破壊せられたることを深く感謝せずんばあらず、
桜花雨に散りて、人生恨多き四月の廿一日堺兄は幼児を病妻に托して巣鴨の獄に赴けり、而して余は自ら「火の柱」の印刷校正に当らざるべからず、是れ豈に兄が余に出版を慫慂し、而して余が突嗟之を承諾したる当夜の志ならんや、只だ「刑余の徒」たるの一事のみ、兄と余と運命を同ふする所也、
枯川兄を送れるの日、毎日新聞社の編輯局に於て
木下尚江
時は九月の初め、
紅塵飜へる街頭には
尚ほ
赫燿と暑気の残りて見ゆれど、
芝山内の森の
下道行く袖には、早くも秋風の涼しげにぞひらめくなる、
「ムヽ、
是れが例の
山木剛造の家なんか」と、
石造の門に白き標札打ち見上げて、一人のツブやくを、
伴なる書生のしたり顔「
左様サ、陸海軍御用商人、九州炭山株式会社の取締、
俄大尽、
出来星紳商山木剛造殿の御宅は
此方で御座いサ」
「何だ失敬な、社会の
富を盗んで一人の腹を
肥やすのだ、
彼の煉瓦の壁の色は、貧民の血を以て塗つたのだ」
「ハヽヽヽ、君の様に悲観ばかりするものぢや無いサ、天下の富を集めて剛造
輩の腹を
肥すと思へばこそ
癪に
障るが、之を梅子と云ふ
女神の
御前に献げると
思もや、何も怒るに足らんぢや無いか」
「貴様は直ぐ
其様卑猥なことを言ふから
不可んよ」
「
是れは恐れ入つた、が、現に君の如き
石部党の
旗頭さへ、
彼の女神の為めには随喜の涙を垂れたぢや無いか」
「
嘘言ふな」
「
嘘ぢや無いよ、僕は之を実見したのだから弁解は無用だよ」
「嘘言へ」
「剛情な男だナ、ソレ、此の春上野の慈善音楽会でピアノを
弾いた佳人が
有つたらう、
左様サ、質素な風をして、眼鏡を掛けて、雪の如き
面に、花の如を
唇に、星の如き
眸の、――
彼女が
即ち山木梅子嬢サ」
「貴様、
真実か」
と
彼の書生は、木立の
間なる新築の屋根を
顧みつゝ「
何うも不思議だナ、僕は
殆ど信ずることが出来んよ」
「懐疑は悲観の
児なりサ、
彼女芳紀既に二十二―三、
未だ
出頭の
天無しなのだ、御所望とあらば、僕
聊か君の為めに
月下氷人たらんか、ハヽヽヽヽヽ」
「
然かし、貴様、剛造の様な食慾無情の悪党に、
彼いふ
令嬢の生まれると云ふのは、理解すべからざることだよ」
「が、剛造などでも、面会して見れば、案外の君子人かも知れないサ」
「そんなことがあるものか」
丸山の塔下を語りつゝ、
飯倉の方へと二人は消えぬ、
客去りて
車轍の
迹のみ
幾条となく砂上に
鮮かなる山木の玄関前、庭下駄のまゝ
枝折戸開けて、二人の
嬢の手を
携へて現はれぬ、姉なるは白きフラネルの
単衣に、
漆の如き黒髪グル/\と
無雑作に
束ね、眼鏡越しに空行く雲静かに仰ぎて、独りホヽ笑みぬ、
今しも書生の門前を
噂して過ぎしは、此の
女の上にやあらん、
紫の
単衣に赤味帯びたる髪
房々と垂らしたる十五六とも見ゆるは、
妹ならん、
去れど
何処ともなく
品格いたく
下りて、
同胞とは
殆ど疑はるゝばかり、
「ぢや、
姉さんは
何方が
好だと
仰しやるの」と、妹は姉の手を引ツ張りながら、
面顰めて
促がすを、姉は空の
彼方此方眺めやりつゝ、
「あら、
芳ちやん、私は
好も
嫌も無いと言つてるぢやありませんか」
「けれど姉さん、
何方かへ
嫁くとお
定めなさらねばならんでせう、両方へ嫁くわけにはならないんだもん」
「
左様ねエ、ぢや私、両方へ嫁きませうか」と、姉は振り返つて
嫣然と笑ふ、
「
酷いワ、姉さん、からかつて」と、妹は白い眼して姉を
睨みつ、じつと身を寄せて
又た取り
縋がり「ね、姉さん、松島
様の方にお
定めなさいよ、
私、松島さん大好きだわ、海軍大佐ですつてネ、今度
露西亜と戦争すれば、
直ぐ少将におなりなさるんですと――ほんたうに軍人は
好いわ、
活溌で、其れに陸軍よりも海軍の方が好くてよ、第一
奇麗ですものネ、其れでネ、姉さん、
昨夜も
阿父と
阿母と話して
在しつたんですよ、早く
其様決めて松島様の方へ
挨拶しなければ、
此方も困まるし、
大洞の伯父さんも仲に立つて困まるからつて」
「芳ちやんは軍人がお好きねエ」
「ぢや、姉さんは、あの吉野とか云ふ法学士の方が好いのですか、驚いたこと、
彼様ニヤけた、頭ばかり下げて、
意気地の無い」
「
左様ぢや無いの、芳ちやん」と、姉は静に妹を制しつ「
私はネ、誰の御嫁にもならないの」
妹は眼を円くして打ち仰ぎぬ「――ほんたう」
折柄門の
方に響く足音に、姉の梅子は振り返へりつ、
「長谷川牧師が
光来しつてよ」
色こそ
褪せたれ黒のフロックコート端然と着なしたる、四十
恰好の浅黒き紳士は
莞爾として
此方に
近き
来る、
是れ交際家として牧師社会に其名を知られたる、永阪教会の長谷川
某なり、
妹の芳子は
頬膨らし、
「
厭な奴ツ」とツブやくを、梅子は「あら」と小声に制しつ、
牧師は額の汗
拭ひも
敢へず、
「これは/\、
御揃ひで御散歩で
在らつしやいまするか、オヽ、『黒』さんも御一緒ですか」と、芝生に
横臥せる黒犬にまで丁重に敬礼す、是れなん
其仁、獣類にまで及べるもの
乎、
「エヽ、
本日罷り出でまする
様と、御父上から
態々のお使に預りまして」と、牧師は梅子の前に腰打ち
屈めつ「
甚だ遅刻致しまして御座りまするが、御在宅で
在らせられまするか」
妹嬢は黙つて
何処へか
去つて仕舞ひぬ、
「
御光来を願ひましたさうで御座いまして、誠に恐れ入りました」と、梅子の言ふを、
「イエ、なに、
態々と申すでは御座りませぬ、
外に此の方面へ参る所用も御座りまする、其れに久しく御父上には拝顔を得ませんで御座りまするから」
牧師は身を
反らしてニヤ/\と笑ひぬ、
梅子に導かれて牧師は壮麗なる洋風の応接室に
入りぬ、
待つ間
稍々久しくして
主人は扉を排して出で来りぬ、でつぷり
肥りたる五十前後の
頑丈造り、牧師が
椅子を離れての
慇懃なる
挨拶を、
軽くも
顋に受け流しつ、正面の大椅子にドツかとばかり身を投げたり、
「
御来宅を願つて
甚だ勝手過ぎたが、
少こし御注意せねばならぬことがあるので」と、
葉巻莨の
烟多く
棚引かせて「
他でも無い、例の
篠田長二のことであるが、近頃何か
頻りに非戦論など書き立てて
居るさうだ、
勿論彼奴等の『同胞新聞』など言ふものは、我輩などの目には新聞とは思へないので、
何せ狂気染みた壮士の空論、元より
歯牙に掛ける必要もないのだが、
然かし此頃娘共の
話して居た所を聞くと、近来教会に
於ても、
耶蘇教徒は戦争に反対せにやならぬなど、無法なことを演説すると云ふことだが、」
牧師は恐る/\口を開き「さ、其件に就きましては
私も一方ならず、心痛致し居りまするので」と弁せんとするを、剛造は
莨の灰もろ共に払ひ落としつ「
其に梅子などは
何やら其の
僻論に感染して居るらしいので、
大に其の不心得を叱つたことだ、
特に近頃
彼女の結婚に
就て相談最中のであるから、万一にも社会党等の
妄論などに誤られる様なことがあらば、其れこそ彼女ばかりでは無い、
山木一家に取つて由々しき大事なのである、で、今日君を御呼び立て致したのは、社会党を矢張り教会に入れて置かるゝ御心得か
如何を承つて、其上で
子女等を教会へお預けして置くか如何を決定したいと思ふのである」
牧師は
俯して沈黙す、
剛造はジロリ其を見やりつ「
苟も山木の家族が名を出して居る教会に、社会党だの、無政府党だのと云ふバチルスを入れて置かれては、第一我輩の名誉に関することで、又た
彼の様な其筋で筆頭の注意人物を
容れ置くと云ふのは、教会の為めにも不得策だらう、
彼様乱暴な人物も耶蘇教信者だと云ふので、無智漢の信用を
繋いで
居るのだから」
牧師は
僅に頭を
擡げぬ、
「御立腹の段は誠に
御尤で、
私に於ても一々御同感で御座りまする、が、
只だ何分にも篠田が青年等の中心になつて居りまするので」
「さ、其のことである」と、剛造は
吻を
容れぬ、「危険と言ふのは其処である、卵の如き青年の頭脳へ、社会主義など打ち込んで
如何する
積であるか、ツイ先頃も
私が
子女等の室を見廻はると、
長男の剛一が急いで読んで居た物を隠すから、無理に取り上げて見ると、篠田の書いた『社会革新論』とか云ふのだ、長谷川君、少しは考へて貰ひたいものだ、教会へは及ばずながら多少の金を取られて
居る、
而して
家庭へ
禍殃の
種子を
播かれでも
仕ようものなら、我慢が出来るか
如何だらう」
牧師は
頻りに額の汗を
拭ひつ、
「
御尤で御座りまする」
「元来を言へば長谷川君、初め篠田如き者を
迂濶に入会を許したのが君の失策である、
如何だ、
彼の新聞の
遣り
口は、政府だの資産あるものだのと見ると、事の善悪に
拘らず
罵詈讒謗の毒筆を
弄ぶのだ、
彼奴が
帰朝つて、彼の新聞に入つて以来、
僅か二三年の間に彼の毒筆に
負傷したものが何人とも知れないのだ、
私なども昨年の春、毒筆を向けられたが――
彼奴等の言ふ様な人道とか何とか、
其様単純なことで坑夫等の統御が出来るものか、少しは考へて見るが
可いのだ、石炭坑夫なんてものは、熊か狼だ、其れを人間扱ひにせよと云ふのが間違つて居るぢや無いか、
彼の時にも君に
放逐する様に注意したのだが、自分のことで
彼此云ふのは、世間の同情を失ふ
恐があるからと君が言ふので、其れも一理あると
私も辛棒したのだ、今度は、君、少しも心配するに及ぶまい、日露戦争に反対するのだから、
即ち
売国奴と言ふべきものでは無いか」
牧師は額押へて謹聴し居たりしが、やがて少しく頭を揚げつ「――一々御同感で御座りまするので――が、何分にも御承知の如き
尋常ならぬ男なので御座りまするから、執事等も陰では皆な苦慮致し居りまするものの、誰も言ひ出し兼ねて居るので御座ります――
如何で御座りませう、御足労ながら貴方から一言教会へ直接に御注意下さりましては、多分一同待ち望んで居ることと思はれまするので――」
「
私が教会などへ行つて
居れると思ふか」と、剛造は牧師を
睨みつ「
私は体の代りに
黄金を
遣つてある
筈だ――イヤ、牧師ともあるものが
左様に優柔不断ならば、私の方にも心得がある、
子女等も向後一切教会へは足踏みもさせないことに
仕よう」
「ア、山木さん、御立腹では恐れ入りまする」と、牧師は
周章しく剛造をなだめ、
「
宜しう御座りまする、
私も兼ねて其の心得で居りましたのですから、早速執事等とも協議の上、至急
御挨拶に及ぶで御座りませう」
「ウム、ぢや、早速
左様云ふことに」
剛造の
面和ぎたるに、牧師もホとばかりに胸撫で下ろしつ、
「ツイ失念致し居りまして御座りまするが、京都育児慈善会から貴方へ厚く御礼申上げ呉れる様にと精々申して参りました、
沢山に
義揖を御承諾下ださいましたので、京阪地方の富豪を説くにも誠に好都合になりましたさうで、我国でのモルガン、ロックフェラアと
言べきであらうなど、非常に貴方を称讃して
寄越まして御座りまする」
「なに、ロックフェラアか、いや、ロックフェラアも近頃の不景気では思ふ様に慈善も出来ない」と、剛造は
反り返つて
呵々と大笑せり、
牧師も
愈々笑傾け「新聞で拝見致しましたが、今回九州地方の石炭会社の同盟して
露西亜へ石炭販売を禁止なされたのも、
貴方の御発意と申すことで、実業界から
斯かる愛国の手本が出ますると云ふのは、実に近来の快事で御座りまする」
「ハヽヽヽヽ」と剛造は
一ときは高笑ひ「商売にしてからが、矢ツ張り忠君愛国と言つたやうな流行の看板を
懸けて行くのサ」
剛造はやをら立ち上がりつ、
「長谷川君、伝道なども少こし
融通の
利くやうに頼みますよ、今も言ふ通り梅子の結婚談で心配して居るんだが、信仰が
如何の、品行が如何のと、
頑固なことばかり言うて困らせ切つて仕舞ふのだ、
耶蘇でも仏でも無宗教でも構ふことは無い、男は
必竟人物にあるのだ、さうぢや無いか、一夫一婦なんてことは、日本では
未だ時期が早いよ――ぢや、君、今の篠田の一件を忘れないやうに、
是れで失敬する、
家内の室ででも
悠然遊んで行き給へ」
莨の煙
一抹を戸口に残してスラリ/\と剛造は去りぬ、
牧師は
独り思案の腕を組みつ、
夜は十時を過ぎぬ、二等煉瓦の
巷には行人既に
稀なるも、同胞新聞社の工場には今や目も
眩ふばかりに運転する機械の響
囂々として、
明日の新聞を吐き出だしつゝあり、板敷の広き一室、
瓦斯の火
急し
気に燃ゆる下に寄り
集ふたる配達夫の十四五名、若きあり、中年あり、
稍々老境に近づきたるあり、
剥たる
飛白に繩の様なる角帯せるもの何がし学校の記章打つたる帽子、
阿弥陀に
戴けるもの、或は椅子に掛かり、或は
床に
踞り、或は立つて
徘徊す、印刷
出来を待つ
間の
徒然に、機械の音と相競うての高談放笑なかなかに
賑はし、
三十五六の
剽軽らしき男、若き人達の面白き談話に耳傾けて居たりしが、やがてポンと
煙管を払ひて「書生さん方、お
羨ましいことだ、同し配達でもお前さん達は修業金の
補充に稼ぐだが、
私抔を御覧なせい、
御舘へ帰つて見りや、豚小屋から
臀の来さうな中に
御台所、
御公達、御姫様方と
御四方まで御控へめさる、
是で
私が
脚気の一つも踏み出したが最後、平家の一門同じ枕に
討死ツてつた様な幕サ、考へて見りや何の為めに生れて来たんだか、
一向合点が行かねエやうだ」
踞んで居たる四十
恰好の男「さうよ、でも此の新聞社などは
少こし毛色が変はつてるから、貧乏な代りに余り非道も
遣らねいが、外の社と来たら驚いちまはア、さんざん腹こき使つた
上句、体が悪くなつたからつて
逐つ払ひよ、チヨツ、誰の為めに体が悪くなつたんだ」
フカリ/\
烟草を吹かし居たる
柔順やかなる
爺「
年増しに世の中がヒドくなるよ、俺の隣に砲兵工廠へ通ふ男があつたが、――なんでも相当に給料も取つてるらしかつたが、其れが出しぬけにお
払函サ、外国から新発明の機械が来て、女でる間に合ふからだと云ふことだ」
彼の
剽軽なる男「フム、ぢやア
逐々女が
稼いで野郎は
男妾ツたことになるんだネ、
難有い――そこで一つ
都々逸が浮んだ『
私ヤ工場で黒汗流がし、
主は留守番、子守歌』は
如何だ、イヤ又た一つ出来た、今度は男の心意気よ『工場の夜業で
嬶が遅い、
餓鬼はむづかる、
飯や冷える』ハヽヽヽ是れぢや矢ツ張り
遣り切れねい」
「所が、お
前、女房は産後の
肥立が良くねえので床に就いたきり、野郎は車でも
挽かうツて見た所で、電車が通じたので其れも駄目よ、
彼此する中に工場で
萌した肺病が悪くなつて血を吐く、
詮方なしに煙草の会社へ通つて居た十一になる娘を
芳原へ十両で
売て、
其も手数の何のツて途中へ消えて、手に入つたのは
僅たお前、六両ぢやねいか、焼石に水どころの話ぢやねエ、
其処で野郎も考へたと見える、
寧そ俺と云ふものが無かつたら、女房も
赤児も世間の情の陰で
却て露の命を
継ぐことも出来ようツてんで、近所合壁へ立派に
依頼状を
遺して、神田川で土左衛門よ」
「成程そんな新聞を見た
覚もある」と誰やらが言ふ、
「あんな大した腕持つてる
律義な職人でせエ此の始末だ、さうかと
思もや、悪い泥棒見たいな奴が立身して、
妾置いて車で通つて居る、神も仏もあつたもんぢやねエ」
秋の夜の
更け行く風、肌に
浸みて一座粛然たり、
「だから貴様達は馬鹿だと云ふんだ」突如落雷の如き
怒罵の声は一隅より起れり、
衆目驚いて之に
注げば、
未だ
廿歳前らしき
金鈕の書生、
黙誦しつゝありし洋書を握り固めて、突ツ立てる
儘鋭き眼に見廻はし居たり、
漆黒なる五分刈の頭髪燈火に映じて針かとも見ゆ、彼は一座
怪訝の
面をギロリとばかり
睨み返へせり「君等は
苟も同胞新聞の配達人ぢやないか、新聞紙は紙と活字と記者と職工とにて出来るものぢやない、我等配達人も
亦た実に之を成立せしめる重要なる職分を
帯て居るのである、
然るに君等は我が同胞新聞の社会に存在する理由、
否な、存在せしめねばならぬ理由をさへ知らないとは、何たる間抜けだ、……人生の目的がわからぬとは何だ、――神も仏も無いかとは何だ、其の疑問を解きたいばかりに、同胞新聞はこゝに建設せられたのぢやないか、吾々は世の
酔夢に覚醒を与へんが為めに深夜、彼等の
枕頭に之を送達するのぢやないか、――馬鹿ツ」彼は胸を
抑へ、情を
呑みて、又其唇を開けり「君等には篠田主筆の心が知れないか、先生が……先生が貧苦を忍び、侮辱を忍び、迫害を忍び、
年歯三十、
尚独身生活を
守て社会主義を唱導せらるゝ血と涙とが見えないか――」
「君、さう泣くな、村井」とポンと肩を
叩いて
宥めたるは、同じく苦学の配達人、年は村井と云へるに一ツ二ツも兄ならんか、「述懐は一種の
慰藉なりサ、人誰か愚痴なからんやダ、君とても口にこそ
雄いことを吐くが、雄いことを吐くだけ腹の底には不平が、
渦を
捲いて居るんだらう」
少年村井も
首肯きつ、「ウム、羽山、まあ、さうだ」
「それ見イ、僕は是れで三年配達を
遣つてるが、肩は曲がる、血色は
減くなる、記憶力は衰へる、僕はツクヅク夜業の不衛生――と云ふよりも
寧ろ一個の罪悪であることを思ふよ、天は
万物に安眠の
牀を与へんが為めに夜テフ
天鵞絨の
幔幕を
下ろし給ふぢやないか、然るに其時間に労働する、
即ち天意を犯すのだらう、
看給へ、夜中の労働――売淫、窃盗、賭博、巡査――巡査も剣を握つて
厳めしく立つては居るが、
流石に心は眠つて居るよ、其間を肩に重き包を引ツ掛けて駆け歩くのが、アヽ実に我等新聞配達人様だ、オイ村井君、君の崇拝する篠田先生も紡績女工の夜業などには、
大分八ヶ
間敷鋭鋒を向けられるが、新聞配達の夜業はドウしたもんだイ、
他の目に
在る塵を
算へて
己の目に在る
梁木を
御存ないのか、矢ツ張り、
耶蘇教徒婦人ばかりを博愛しツてなわけか、ハヽヽヽヽヽ」
「
是りや羽山さん、出来ました」「村井さん
如何です」「ハヽヽヽヽヽ」
隣れる室の
閾に近く
此方に背を見せて、地方行の新聞に帯封施しつゝある
鵜川と言へる老人、ヤヲら振り返りつ「アハヽ村井さん、大分痛手を負ひましたナ、が、御安心なさい、此頃も
午餐の
卓で、主筆さんが社長さんと其の話して
居られましたよ」
「ドウだ羽山、恐れ入つたらう」と村井は雲を破れる朝日の如く笑ましげに、例の鋭き
眼を輝やかしつ「僕は僕の配達区域に
麻布本村町の含まれてることを感謝するよ、僕だツて雨の夜、雪の夜、
霙降る風の夜などは
疳癪も起るサ、華族だの富豪だのツて
愚妄奸悪の
輩が、
塀を高くし門を固めて暖き夢に
耽つて居るのを見ては、暗黒の空を
睨で皇天の不公平――ぢやない其の卑劣を
痛罵したくなるンだ、
特に近来仙台阪の中腹に三菱の奴が、
婿の松方何とか云ふ奴の為に
煉瓦の建築を
創たのだ、僕は其前を通る
毎に、オヽ国民の
膏血を
私せる赤き煉瓦の家よ、汝が其
礎の一つだに
遺らざる時の
来ることを思へよと言つて
呪てやるンだ、けれどネ羽山、それを上つて今度は
薬園阪の方へ下つて行く時に、僕の悩める暗き心は
忽ち天来の光明に接するのだ」
羽山は笑ひつゝ
喙を
容れぬ「金貨の一つも拾つたと云ふのか」
「馬鹿言へ、古き
槻が巨人の腕を張つた様に茂つてる陰に『篠田』と書いた
瓦斯燈が一道の光を放つてるヂヤないか、アヽ此の戸締もせぬ自由なる家の
裡に、
彼の燃ゆるが如き憂国愛民の情熱を
抱て先生が、
暫ばしの夢に
息んで
居られるかと思へば、君、其の細きランプの光が僕の胸中の悪念を一字々々に読み揚げる様に
畏れるのだ」
「一寸お待ちなせエ、戸締の
無い家たア随分不用心なものだ、
何れ程貧乏なのか知らねいが」と彼の
剽軽なる
都々逸の名人は
冷罵す、
「君等に
大人の心が
了つてたまるものか」と村井は
赫と
一睨せり「泥棒の用心するのは、
必竟自分に泥棒
根性があるからだ、世に悪人なるものなしと云ふのが先生の宗教だ、家屋の目的は
雨露を
凌ぐので、人を
拒ぐのでないと云ふのが先生の哲学だ、戸締なき家と云ふことが、先生の共産主義の立派な証拠ぢやないか」
「キヨウサンシユギつて云ふのは一体何のことかネ」と
剽軽男は問ふ、
村井は
五月蝿と云ひげに眉を
顰めしが「そりや、其のあれだ、手短に言へば皆ンなで働いて皆ンなで
用ふのだ、誰の物、彼の物なんて、そんな差別は立てないのだ――」
「ヘエー
其奴ア便利だ、電車の三銭どころの話ヂヤねいや」
頭を台湾坊主に食はれたる他の学生、帽子を以て腰掛を
叩きつゝ「だが、我輩は常に篠田さんが何故無妻なのかを疑ふよ」
突然異様の新議案に羽山は
真面目に首を傾けつ「何でも先生、
亜米利加で苦学して居た時に、
雇主の令嬢に失恋したとか云ふことだ、先生の議論の極端過ぎるのも其の結果ヂヤ無いか知ラ」村井は首打ち振りつ、「僕は必ず社会革新の為に、一身の歓楽を犠牲にせられたのだと思ふ」
時に例の
剽軽男、ニユーと首を延して声を低めつ「
嬶も矢ツ張り共産主義ツた様な一件ヂヤ
無いかナ」
一座思はずワアツとばかりに腹を抱へぬ、鵜川老人は秘蔵の入歯を吹き飛ばせり、折から
矢部と云ふ発送係の男、
頓驚なる声を振り立てて、新聞
出来を報ぜしにぞ「其れツ」と一同先きを争うて
走せ出だせり、村井のみ
悠々として最後に
室を
出て行けり、
「先生、
在らつしやいますか」と大きなる
風呂敷包を抱へて篠田長二の台所に訪れたるは、五十の阪を越したりとは見ゆれど、ドコやら若々とせる
一寸品の良き老女なり、男世帯なる篠田家に在りての玄関番たり、大宰相たり、
大膳太夫たる書生の
大和一郎が、白の前垂を
胸高に結びて、今しも
朝餐の後始末なるに、「おヤ、まア大和さん、御苦労様ですこと――先生は
在らつしやいますか」
松が枝の如きたくましき腕を
伸べて茶碗洗ひつゝありし大和は、五分刈の頭、
徐ろに
擡げて鉄縁の
近眼鏡越に打ちながめつ「あア、
老女さんですか、大層早いですなア――先生は
後圃で御運動でせウ、何か御用ですか」
「なにネ、先生と
貴郎の
衣服を持つて来ましたの、皆さんの所から
纏まらなかつたものですから、大層遅くなりましてネ、――此頃は朝晩めつきり
冷つきますから、定めて御困りなすつたでせうネ」
「ハヽヽヽ僕も先生も
未だ夏です、では其の風呂敷の中に我家の秋が包まれて居るんですか、どうも有難ウ」
「大和さん、男は礼など言ふものぢやありません、皆さんが喜んで張つたり縫つたり、仕事して下ださるんですから」
「しかし
老女さん、そりや先生の為めにでせう、僕は御礼申さにやなりませんよ」
「まア、
貴郎は今時の書生さんの様でもないのネ」
目を挙げて見れば、遠く
連れる
高輪白金の高台には樹々の
梢既にヤヽ黄を帯びて朝日に匂ひ、近く打ち続く
後圃の松林には
未だ虫の声々残りて
宛ながら夜の宿とも
謂ひつべし、
碧空澄める所には白雲高く飛んで
何処に行くを知らず、
金風そよと渡る庭の
面には、葉末の露もろくも散りて空しく
地に玉砕す、秋のあはれは
雁鳴きわたる月前の半夜ばかりかは、高朗の気
骨に
徹り清幽の情肉に浸む
朝の趣こそ比ぶるに物なけれ、今しも
仰で彼の天成の
大画に
双眸を放ち、
俯して此の自然の妙詩に
隻耳を傾け、
樹の
間をくぐり芝生を
辿り、手を振り
体を練りつゝ篠田は静かに歩みを運び
来る、
市に見る職工の
筒袖、古画に見る予言者の
頬鬚、
「先生、渡辺の
老女さんがお待ちなされてです」と呼ばれる大和の声に、彼は沈思の
面を揚げて「其れは誠に申訳がありませんでした」
「イヽエ、先生どう致しまして」と老女は縁の
障子を開けぬ、
彼は書斎へ老女を招致せり、新古の書巻
僅に膝を
容るゝばかりに堆積散乱して、
只だ壁間モーゼ火中に神と語るの一画を掛くるあるのみ、
「毎度皆様の御厄介に成りまするので、実に恐縮に存じます」
老女は手もて之ぞ
遮り「なんの先生、
貴郎に奥さんのお出来なさる迄は婦人会の方で及ばずながら御世話しようツて、皆さんの
御気込ですから――」
「しかし
老女さん、最も良き妻を持つ世界の最も幸福なる人よりも、私の方が更に幸福の様に思ひますよ」彼は茶を
喫しつゝ
斯く言ひて軽く笑ふ、
「飛んだこと、
何んなダラシの無い奥様でも、まさか十月になる迄、旦那様に
単衣をお着せ申しては置きませんからネ」とハツハ/\と老女は笑ひ興ず、
「クス/\」と隣室に漏るゝ大和の忍び笑に、老女は驚いて急に口を
掩ひ「まア、先生、御免遊ばせ、年を取ると無遠慮になりまして、御無礼ばかりして自分ながら愛想が尽きましてネ」
言ひながら、ツイと少しく
膝乗り出だし、声さへ
俄に打ちひそめて「ほんとにまア、先生、大変なことに成つて
仕舞ひましたのねエ、――昨夜もネ、井上の奥さんが先生の御羽織が出来たからつて持つていらつしやいまして、其の御話なんです、
私はネ、そんなことがあるもんですか、
今ま先生をそんなことが出来るもんですかつて申しました所が、井上の奥様がサウぢやない、是れ/\の話でツて、私なぞには解からぬ何か
六ヶ
敷事仰つしやいましてネ、其れでモウ内相談が
定まつて、来月三日の教会の廿五年の御祝が済むと、
表沙汰にするんだと
仰つしやるぢやありませんか、井上の奥さんは
彼ア云ふ気象の方なもんですから大変に御腹立でしてネ、カウ云ふ時に婦人会が少し威張らねばならねのだけれど、会長が何しても山木さんで、副会長が牧師の奥さんと来て居るんだから、手の出し様が無いツて、涙を流して怒つて居らつしやるのです、私も驚いてしまひましてネ、明日は早朝に参つて先生の御量見を伺ひませうツてお別れしたのです、先生まア
何うしたら
可いので御座いませう」
懸河滔々たる老女の能弁を
鬚を弄しつゝ聴き居たる篠田「
老女さん、其れは何事ですか、
私には
毫もわかりませぬが」
「先生、何です御わかりになりませぬ――まア驚いたこと――先生、
貴郎を教会から
逐ひ出す相談のあるのを
未だ御存知ないのですか」
「あア、
其ですか」と篠田の軽く
首肯くを、老女は黙つて穴の
開ばかりに見つめたり、
渡辺の老女は不平を頬に
膨らして「あア其れですかどころぢや有りませんよ、先生、
貴郎が
今ま
厳乎して下ださらねば、永阪教会も廿五年の御祝で死んで仕舞ひます、御祝だやら
御弔だやら訳が
解からなくなるぢやありませんか、
貴郎ネ、井上の
奥様の御話では青年会の方々も大層な意気込で、
若し篠田さんを逐ひ出すなら、自分等も一所に退会するツてネ、井上
様の
与重さん
抔先達で相談最中なさうですよ、先生、
何うして下ださる
御思召ですか」
篠田は
僅に口を開きぬ「
私の故に
数々教会に御迷惑ばかり掛けて、実に
耻入る次第であります、私を除名すると云ふ動機――其の
因縁は知りませぬが、又たそれを根掘りするにも及びませぬが、しかし其表面の理由が、私の信仰が間違つて居るから教会に置くことならぬと云ふのならば、
老女さん、私は残念ながら苦情を
申出る力が無いのです、教会の言ふ所と私の信仰とは
慥に違つて居るのですから――けれど、老女さん教会の言ふ所と私の信仰と、
何らが神様の御思召に近いかと云ふ段になると、其を裁判するのは只だ神様ばかりです、只だ御互に気を付けたいのは、
斯様なる
紛擾の時に真実、神の子らしく、
基督の信者らしく
謙遜に
柔和に、
主の栄光を
顕はすことです――私の名が永阪教会の名簿に
在ると無いとは、神の台前に出ることに何の関係もないことです、教会の皆様を思ふ私の愛情は、
毫も変はることが出来ないです、
老女さんは
何時迄も老女さんです」
老女は何時しか
頭を垂れて
膝には熱き涙の雨の如く降りぬ、
良久くして老女は
面押し
拭ひつ、涙に赤らめる
眸を上げて篠田を視上げ視下ろせり「どしたら、
貴郎のやうな
柔和いお心を持つことが出来ませう――其れに
就けても理も非もなく山木さんの言ふなり放題になさる、牧師さんや執事さん方の御心が、余り情ないと思ひますよ――私見たいな無学文盲には
六ヶ
敷事は少しも解りませぬけれど、あの山木さんなど、何年にも教会へ
御出席なされたことのあるぢや無し、それに貴郎、酒はめしあがる、
芸妓買はなさる、昨年あたりは
慥か妾を
囲つてあると云ふ
噂さへ高かつた程です、
只だ当時
黄金がおありなさると云ふばかりで、
彼様汚れた男に、此の名高い教会を自由にされるとは何と云ふ
怨めしいことでせう」
老女は又も
面を
掩うてサメザメと泣きぬ、
老女は鼻打ちかみつ、「けども先生、山木さんも
昔日から
彼様では無かつたので御座いますよ、全く今の奥様が悪いのです、――
私は
毎度日曜日に、あの
洋琴の前へ御座りなさる梅子さんを見ますと、お
亡なさつた前の奥様を思ひ出しますよ、あれはゼームスさんて宣教師さんの寄進なされた洋琴で、梅子さんの
阿母さんの雪子さんとおつしやつた方が、それをお
弾きなすつたのです、
丁度今の梅子さんと同じ御年頃で、日曜日にはキツと御夫婦で教会へ行らつしやいましてネ、山木さんも熱心にお働きなすつたものですよ、――
拍子の悪いことには梅子さんの
三歳の時に奥様がお
亡になる、それから今の奥様をお貰ひになつたのですが、
貴様、梅子さんも今の奥様には随分
酷い目にお逢ひなさいましたよ、ほんたうに前の奥様はナカ/\
雄い、好い方で御座いました、
御容姿もスツキリとした美くしいお方で――梅子さんが御容姿と云ひ、御気質と云ひ、阿母さんソツクリで
在つしやいますの、阿母さんの方が気持ち
身丈が低くて
在らしつたやうに思ひますがネ――」
老女の心は、
端なくも二十年の
昔日に返へりて、ひたすら懐旧の春にあこがれつゝ、
「先生、其頃まで山木
様は大蔵省に御勤めで御座いましてネ、何でも余程幅が
利いて
在らしつたらしかつたのです、スルと、あれはかうツと――
左様/\十四年の暮で御座いましたよ、
政府に何か騒が御座いましてネ、今の
大隈様だの、島田様だのつてエライ方々が、皆ンな
揃て
御退りになりましてネ、其時山木様も一所に役を
御免になつたのです、今まで何百ツて云ふ
貴い月給を頂いて居らつしやいましたのが、急に一文なしにおなりなすつたのですから、ほんとに御気の毒の様で御座いましたがネ、奥様が、
貴郎、
厳乎して、
丈夫に意見を
貫させる為めには、
仮令乞食になるとも
厭はぬと言ふ御覚悟でせう、
面は花の様に御美しう御座いましたが、心の雄々しく
在らしつたことは
兎ても男だつて及びませんでしたよ、山木さんの辞職なされたのも、つまり奥様の
御勧だと其頃一般の評判でしたの、――其れから奥様は学校の
教師をなさる、山木様は新聞を御書きになつたり、演説をして御歩きになつたりして、奥様はコンな幸福は無いツて喜んで在らつしやいましたが、
感冒の一寸こじれたのが
基で
敢ない御最後でせう――私は
尋常ならぬ
御恩に預つたもんですから、おしまひ迄御介抱申し上げましたがネ、先生、其の御臨終の御立派でしたこと、四十何度とか云ふ高熱で、普通の人ならば夢中になつて仕舞ふ所ですよ、――山木様の御手を
御握になりましてネ、
何卒日本の政道の上に
基督の
御栄光を
顕はして下ださる様、必ず神様への
節操をお忘れなさるなと
仰つしやいましたが、山木様が決して忘れないから安心せよと
御挨拶なさいますとネ、奥様は世に嬉しげに
莞爾御笑ひ遊ばしてネ、先生、私は今も
彼の時の御顔が目にアリ/\と見えるのです、其れから今度は梅子をと仰つしやいますからネ、
未だ
頑是ない
三歳の春の御嬢様を、私がお抱き申して
枕頭へ参りますとネ、細ウいお手に、
楓の様な可愛いお手をお取りなすつて、梅ちやんと一と声遊ばしましたがネ、お嬢様が
平生の様に未だ
片言交りに、母ちやんと御返事なさいますとネ、――ジツと
凝視て
在らしつた奥様のお目から玉の様な涙が泉の様に――」
「アヽ、思へば、先生」と老女は涙押し
拭ひつ「
未だ昨日の様で御座いますが、モウ二たむかし、其の時此の婆のお抱き申した
赤児様が、今の立派な梅子さんです、
御容姿なら御学問なら、御気象なら
何れ
阿母さんに立ち
勝つて、
彼様して
世間の花とも、教会の光とも敬はれて
在らつしやるに、
阿父の御様子ツたら、まア何事で御座います、
臨終の奥様に御誓ひなされた神様への
節操が、
何所に残つて居りますか」
老女は急に気を変へて、打ちほゝ笑み「まア、先生、朝ツぱらから
此様愚痴を申して済みませぬが、考へて見ますと、成程女と云ふものは悪魔かも知れませぬのねエ、山木様も奥様のお
亡りなされた当分は、我家の
燈が消えたと云つて
愁歎して
在らしたのですよ、
紀念の梅子を男の手で立派に養育して、雪子の恩に酬ゆるなんて
吹聴して在らつしやいましたがネ、其れが
貴郎、あの
投機師の
大洞利八と知り合におなりなすつたのが
抑で、大洞も山木様の才気に目を着け、演説や新聞で飯の
食るものぢや無い、
是れからの世の中は金だからつてんでネ、
御馳走はする、
贅沢はして見せる、其れに貴郎、
鰥と云ふ所を見込んでネ、丁度
俳優とドウとかで、離縁されてた大洞の妹を山木さんにくつ付けたんですよ、ほんたうにまア、ヒドいぢやありませんか、其れが、
貴郎、今の奥様のです、だから二た言目には此の山木の
財産は
己の物だつて威張るので、あんな高慢な山木様も、
家内では頭が上がらないさうです、――先生、外国人は矢ツ張り目が
肥えて居りますのネ、ゼームスつて
彼の
洋琴を寄附した宣教師さんがネ、
米国へ帰る時、
前の奥様に
呉々も仰つしやつたさうですよ、山木様は余り
悧巧だから、
貴女が常に気を付けて
過失の無い様にせねばならない、
基督の御弟子の中で一番悧巧であつたものが、
主を三十両で売り渡したイスカリヲテのユダなのだからツてネ、ほんとに先生、さうで御座いますよ、――何の
蚊のと
角ばつたことは申しますがネ、もう/\女の言ふなり次第なものです、考へて見ると世の中に、男ほど
意気地の無いものは御座いませんのねエ」
是れは飛んだことをと、言ひ放つて老女は、
窃と見上げぬ、
「実に
御辞の通りです」と篠田は
首肯き「けれど
老女さん、真実我を支配する婦人の在ることは、
男児に取つて無上の歓楽では無いでせうか」
老女は只だ
怪訝顔、
山木剛造は今しも
晩餐を終りしならん、大きなる熊の毛皮にドツかと
胡座かきて、仰げる広き額には
微醺の色を帯びて、カンカンと輝ける
洋燈の光に照れり、
茶をすゝむる妻の
小皺著き顔をテカ/\と磨きて、
忌しき迄
艶装せる姿をジロリ/\とながめつゝ「ぢやア、お
加女、つまり
何するツて云ふんだ、梅の
望は」
妻のお加女はチヨイと
抜き
襟して「どうするにも、かうするにも、
我夫、てんで訳が解つたもンぢやありませんやネ、女がなまなか学問なんかすると
彼様になるものかと愛想が尽きますよ、
何卒芳子にはモウ学問など
真平御免ですよ、チヨツ、親を馬鹿にして」
「何だか少しも解らないなア」
「其りやお解になりますまいよ、どうせ何にも知らない
継母の言ふことなどを、お聴き遊ばす御嬢様ぢや無いんですから――
我夫から
直にお指図なさるが
可う御座んすよ、其の為めの男親でさアね」
剛造の太き
眉根ビクリ動きしが、
温茶と共に
疳癪の虫グツと
呑み込みつ「ぢやア、松島を亭主にすることが
忌だと云ふのか」
「
忌なら忌で其れも
可御座んすサ、只だ其の
言ツ
振が
癪に
障りまさアネ、――ヘン、軍人は
私は
嫌です、軍人を愛するつてことは私の心が許しませぬから――チヤンチヤラ
可笑くて」言ひつゝ剛造を横目に
睨みつ「是れと云ふも
皆な
我夫が、
実母の無い児/\つて甘やかしてヤレ松島さんは少し年を取り過ぎてるの、
後妻では可哀さうだのツて、二の足踏むからでさアネ、其れ程死んだ
奥様に未練が残つて居るんですか」
「何を言ふんだ」と剛造は小声に受け流して横になれり、
お
加女はポン/\と
煙管叩きながらの独り言「吉野さんの方はどうかと聞けば、ヤレ
私が貧乏人の
女であつても貰ひたいと
仰つしやるのでせうかの、
仮令急に悪病が起つて耻かしい様な
不具になつても、
御見棄てなさらぬのでせうかの、フン、言ひたい熱を吹いて、
何処に今時、損徳も考へずに女房など貰ふ馬鹿があるものか、――不具になつても
御厭ひなさらぬか、へ、自分がドンなに
別嬪だと思つて居るんだ、
彼方からも
此方からも
引手数多のは何の為めだ、
容姿や学問やソンな詰まらぬものの為めと思ふのか、皆な此の
財産の御蔭だあネ、
面の
艶よりも今は
黄金の光ですよ、
憚りながら此の財産は
何某様の御力だと思ふんだ、――其の恩も思はんで、身分の程も知らなんで、少しばかりの容姿を鼻に掛けて、今に段々取る歳も知らないで、来年はモウ廿四になるぢやないか、構ひ手の無くなつた頃に、是れが山木お梅と申す
卒塔婆小町の成れの果で御座いツて、山の手の夜店へでも出るが
可い、どうセ
耶蘇などだもの、何を
仕散かして居るんだか、解つたもンぢやない」
ジロリ、
横はりて目を
塞ぎ居る剛造を一瞥して「
我夫、
仮睡などキメ込んでる時ぢやありませんよ、
一昨日もネ、
私、兄の所で松島さんにお目に掛かつてチヤンと御約束して来たんです、念の為と思つたから、
我儘育で、其れに
耶蘇だからツて申した所が、松島さんの
仰つしやるには、イヤ外国の軍人と交際するには、耶蘇の
嬶の方が
却て便利なので、元々梅子さんの
容姿が望のだから、耶蘇でも天理教でも何でも
仔細ないツて、ほんたうに
彼様竹を割つた様なカラリとした方ありませんよ、それに兄の言ひますには、今ま此の
露西亜の戦争と云ふ
大金儲を目の前に控へてる時に、当時海軍で飛ぶ鳥落とす松島を立腹させちやア大変だから、無理にても押し付けて仕舞ふ様にツて、
精々伝言つて来たんです、
我夫、私の顔を
潰しても
可いお
積ですか」
剛造の
仮睡して返答なきに、お
加女は
愈々打ち腹立ち「今の身分になれたのは、誰の為めだと云ふんだネ、――それを梅子のことと云へば何んでも
擁護して、
亡妻の乳母迄引き取つて、梅子に悪智恵ばかり付けさせて――
其程亡妻が可愛いけりや、骨でも掘つて来て
嘗つてるが
可い」
「何だ大きな声して――
幾歳になると思ふ」と云ひさま
跳ね起きたる剛造の
勢に、
「ハイ、
今年取つて五十三歳、旦那様に三ツ上の婆アで御座います、決して新橋あたりへ行らつしやるなと
嫉妬などは焼きませんから」
「ナニ、ありや、
已むを得ん
交際サ」
「
左様ですつてネ、
雛妓を
落籍して、月々五十円の仕送りする
交際も、近頃外国で発明されたさうですから――
我夫、明日の教会の
親睦会は御免を蒙ります、天長節は歌舞伎座へ行くものと、
往年から
私の憲法なんですから」
奥殿の風雲
転た急なる時、
襖しとやかに外より開かれて、
島田髷の小間使
慇懃に手をつかへ「旦那様、海軍の官房から電話で御座いまする」
十一月三日、
天は青々と澄みわたりて、地には菊花の芳香あり、此処都会の
紅塵を逃れたる
角筈村の、山木剛造の別荘の門には国旗
翩飜たる
下に「永阪教会廿五年紀念園遊会」と、
墨痕鮮かに大書せられぬ、
数寄を
凝らせる奥座敷の縁に、今しも六七名の婦人に囲まれて
女王の如く尊敬せらるゝ老女あり、何処にてか一度拝顔の栄を得たりしやうなりと、首を傾けて
考一考すれば、アヽ我ながら忘れてけり、昨夜芝公園は山木紳商の奥室に於て、機敏豪放を以て其名を知られたる
良人をば、小僧
同然に
叱咤操縦せるお
加女夫人にてぞありける、昨夜の趣にては、年に一度の天長節は歌舞伎座に
蓮歩を移し給ふこと何年ともなき不文憲法と拝聴致せしに、
如何なる協商の一夜の中に成立したればか、
耶蘇の会合などへは臨席し給ひけん、
今日を晴れと着飾り塗り飾りたる長谷川牧師の夫人は、一ときは
嬌笑を装ひて「
奥様が今日御出席下ださいましたことは教会に取つて、何と云ふ光栄で御座いませう、御多用の御体で
在らつしやいますから、
兎ても
六ヶ
敷いことと一同
断念めて居たので御座いますよ、
能くまア、奥様御都合がおつきなさいましたことネ――山木家は永阪教会に取つては根でもあり、花でもありなので御座いまする上に、此の
稀な紀念会を御家の御別荘で開くことが出来、奥様の御出席をも得たと云ふ、
此様な嬉しいことは覚えませぬので、
心から神様に感謝致すので御座いますよ、ホヽヽヽ」
お加女夫人は例の抜き襟一番「教会へもネ、
平生参りたいツて言ふんで御座いますよ、けれども
御存知下ださいます通り家の
内外、忙しいもンですから、思ふばかりで
一寸も出られないので御座いますから、
嬢等にもネ、
阿母は
兎ても参つて
居られないから、お
前方は阿母の代りまで勤めねばなりませんと申すので御座いますよ、ほんとに
皆様の御体が
御羨しう御座いますことネ、ですから、
貴女、婦人会の方などもネ、会長なんて大した名前を
頂戴して居りましても何の御役にも立ちませず、一切皆様に願つて居る様な始末でしてネ、ほんとにお顔向けも出来ないので御座いますよオホヽヽヽ」
「アラ、
奥様勿体ないこと、奥様の信仰の堅くて
在らつしやいますことは、
良人が
毎々御噂申上げるので御座いましてネ、お前などはホンとに
意気地が無くて
可けないツて、貴女、其の
度に
御小言を頂戴致しましてネ、家庭の
能く治まつて、
良人に不平を
抱かせず、
子女を立派に教育するのが主婦たるものの名誉だから、
兎ても及びも着かぬことではあるが、チと山木の
奥様を
見傚ふ様にツて言はれるんですよ、
御一家皆な信者で
在らつしやいまして、慈善事業と言へば御関係なさらぬはなく、ほんたうにクリスチヤンの理想の家庭と言へば山木様のやうなんでせう、――ねエ皆さん」
一同シナを作つて「ほんたうに長谷川の
奥様の仰つしやいます通りで御座いますよ、オホヽヽヽヽヽヽ」
驚て、更に視線を転ずれば、太き松の根方に設けたる
葭簀の蔭に、しきりに
此方を見ては私語しつゝある五六の婦人を発見せり、中に一人
年老れるは
則ち先きに篠田長二の
陋屋にて
識る人となれる渡辺の老女なり「井上の
奥様、一寸御覧なさい、牧師さんの奥様が、きつと又た例の
諂諛を並べ立ててるんですよ、それに
軽野の
奥様、
薄井の
嬢様、皆様お
揃ひで」
井上の
奥様と呼ばれたる四十
許りの婦人、少しケンある眼に打ち
見遣りつ「申しては失礼ですけれど、あれが牧師の妻君などとは信者全体の
汚涜です、なにも山木様の別荘なぞ借りなくとも、親睦会は出来るんです、実に気色に
障はりますけれどネ、教会の御祝だと思ふから忍んで参つたのです――其れはサウと、
老女さん、
篠田様は今日御見えになるでせうか、ほんとに、御気の毒で、
私ネ、篠田様のこと思ふと腹が立つ涙が出る、夜も
平穏と
眠られないんです、紀念式にも昨夜の演説会にも
彼の通り行らしつて、
平生の通り
聴てらツしやるでせう、自分が
逐ひ出されると
内定つて、印刷までしたプログラムから弁士の名まで削られたんでせう、普通の人で誰がソンな所へ行くものですか、先頃も
与重が青年会のことで篠田様に何か叱かられて帰つて来ましてネ、僕は篠田先生の為めなら死んでも構はんて言ふんです、――教会も
最早駄目です、神様の代りに、
黄金を拝むんですから」
何万坪テフ庭園の
彼方此方に設けたる
屋台店を、食ひ荒らして廻はる学生の
一群、
「オイ、大橋君、梅子さんが見えぬやうぢやないか」
「又た井上の梅子さん騒ぎか、
先刻一寸見えたがナ、僕は何だか気の毒の様に感じたから、挨拶もせずに過ぎたのサ、
彼女でも成るべく人の居ない方へと、
避てる様子であつたからナ、山木見たいな
爺に梅子さんのあると云ふは、君、正に一個の奇跡だよ」
「ほんたうに
左様だネ、悪魔と天女、まア好絶妙絶の美術的作品とはアレだらうか、僕は
昨夜も演説会で、梅子さんの為めに、幾度同情の涙を拭いたか知れないのだ、
彼の美しき歌も
震を帯んで、
洋琴は全く哀調を奏でて居たぢやないか、――厳粛に
座つて謹聴してる篠田先生の方を、チヨイチヨイと
看て居なすツたがネ、其胸中には何等の感想が往来してたであらうか、――先生は是れ罪なき犠牲の小羊、之を
屠る猛悪の手は
則ち自分の父」と語り
来れる井上は、
俄に声を荒らげて「見給へ、剛一は
愈々奸党に
定まつたよ、僕等でさへ先生の誠心に動かされて退会の決議を
飜へし、今日も
満腔の不平を抑へて来た程ぢやないか、剛一何物ぞ、
苟も
己が別荘で催ふさるゝ親睦会であつて見れば、一番に奔走
斡旋するのが当然だ、然るに顔さへ出さぬとは失敬極まるツ」
大橋は首打ち振り「
否な、彼の
今日来ないと云ふのが、彼の我党たる証拠だよ、彼は
爺の非義非道を
慚愧に堪へないのだ、彼は今や小松内府の窮境に
在るのだ、今頃は、君、
自宅の書斎で涙に暮れて祈つてるヨ」
「
左様か知ラ」と井上は首を傾けしが、
俄にノゾき込んで声打ちひそめ「君、僕は
昨夜からの疑問だがネ、梅子さんの胸底には
若し、
恋が潜んでるのぢや無からうか」大橋は
莞爾と打ち笑み「
勿論! 彼女の心が
恋愛の聖火に燃ゆること、
抑も一朝一夕の
故に非らずサ、
遂に
石心木腸なる井上与重の如きをして、物や思ふと問はしむる迄に至つたのだ、僕の如きは
疾の昔から彼女をして義人を得、彼をして才色兼備の良婦を得せしめ給はんことを祈つて居るんだ」
「成程、さうか、何卒早く其れを見たいものだネ」
「所が、君、
一と
通のことで無いので、作者
頗る苦心の
体サ――さア行かう、今度は
彼の菊の
鮨屋だ、諸君決して金権党の店に入るべからずだヨ」
既にして
群集の
眸子、
均しく
訝かしげに小門の方に向へり、「オヤ」「アラ」「マア」篠田長二の筒袖姿
忽然として其処に現はれしなり、
「先生
来」と学生の一群は篠田を擁して
躍り行きぬ、
お
加女夫人は
遙に之を見て顔色
忽ち一変せり、「まア、何と云ふヅウ/\しい奴でせう、
脅喝新聞、
破廉耻漢」
長谷川夫人も顔打ちひそめつ「ほんとに驚いて仕舞ふぢや御座いませんか」
庭樹の
茂に隠れ行く篠田の
後影ながめ
遣りたる渡辺老女の
瞼には、ポロリ一滴の露ぞコボれぬ「きツと、お
暇乞の
御積なんでせう」
篠田はやがて学生の群と別れて、
独り沈思の
歩を築山の
彼方、紅葉
麗はしき所に運びぬ、会衆の笑ひ興ずる声々も、いと遠く隔りて、
梢に来鳴く雀の歌も
閑かに、目を挙ぐれば雪の
不二峰、近く松林の上に其
頂を見せて、
掬はば手にも取り得んばかりなり、心の
塵吹き起す風もあらぬ
静邃閑寂の天地に、又た何事の憂きか残らん、時にふさはしき古人の詩歌など思ひ浮ぶるまに/\微吟しつ、岸の紅葉、空の白雲、
映して織れる錦の水の池に沿うて、やゝ
東屋に
近きぬ、見れば誰やらん、我より先きに人の在り、聞ゆる足音に
此方を振り向きつ、思ひも掛けず、ソは山木の令嬢梅子なり、
赧らむ
面に
嫣然として、梅子は迎へぬ、
「梅子さん、
貴嬢が
此辺に
在らつしやらうとは思ひ寄らぬことでした、」と篠田は
池畔の石に腰打ちおろし「どうです、天は
碧の幕を張り廻はし、地は
紅の
筵を敷き
連らね、鳥は歌ひ、雲は舞ふ、美妙なる自然の傑作を御覧なさい」
「けれど、篠田さん、何故人間ばかり此の様に、罪の心に悩むのでせう」
「
左様、
何人か罪の悩を
抱かぬ心を
有つでせうか」と篠田は飛び行く小鳥の影を見送りつゝ「けれど、悩はやがて慰に進む勝利の
標幟ではないでせうか」
「ですけれど、
私はドウやら悩みに悩むで
到底、救の門の開かれる望がない様に感じますの」梅子は
只だ風なくて散る
紅の一葉に、層々
擾れ行く波紋をながめて、
「ハア、
貴嬢は
劇に非常なる厭世家にお
化りでしたネ」
「
私は篠田さん、此頃ツクヅク人の世が
厭になりました」
「奇態ですネ――此春の文学会で
貴嬢が朗読なされた
遁世者諷刺の新体詩を、
私は今も尚ほ面白く記憶して居りますが――」
「今年の春」と梅子は
微かに
吐息洩らして「
浅墓な
彼の頃を
私はホンたうに耻づかしく思ひます、世を
棄て人を逃れた古人の心に、私は、篠田さん、今ま始めて真実同情を寄せることが出来るやうになりました」
篠田は仰げる眼を転じて、斜めに
彼女を
顧みたり「
私は意外なる変化を見るものです――梅子さん、
貴嬢の信仰は今ま実に恐るべき危機に臨むで居なさいます――何か非常なる
苦悶の針が今ま貴嬢の精神を刺してるのではありませぬか」
梅子は答へず、
「
貴嬢の心は今ま正に生死二途の分岐点に立つて居なさる様です、
如何です、
甚だ失礼でありますが、
御差支なくば貴嬢の苦痛の一端なりとも、御洩らし下ださい、年齢上の経験のみは、私の方が貴嬢よりも兄ですから、何か智恵の無いとも限りませぬ」
俯ける梅子の頬には
二条三条、
鬢のほつれの只だ微動するを見る、
「篠田さん、
貴郎の高き御心には」と、梅子は
良久して
僅に
面を上げぬ「
私共一家が、
何程賤しきものと御見えになるで御座いませう、――私は神様にお祈するさへ
愧かしさに堪へないので御座いますよ――」
「それは何故です――」
梅子は又た
頭を垂れぬ、長き
睫毛に露の白玉
貫ける見ゆ、
「梅子さん、
私は
未だ
貴嬢の
苦悶の原因を知ることが出来ませぬが、
何れにも致せ、貴嬢の精神が一種の暗雲に
蔽はれて居ると云ふことは、唯に貴嬢御一身の不幸ばかりではなく、教会の為め、
特に青年等の為め、
幾何ばかりの
悲哀でありませうか」
「
否、私の
苦悶が何で教会の損害になりませう、篠田さん、私の苦悶の原因と申すは、
今日教会の上に、
別けても青年の
人々の上に降りかゝつた大きな不幸悲哀で御座います」
「其れは何ですか」
「篠田さん――貴郎の除名問題で」
「
私は今更に自分の無智を
耻づかしく思ひます」梅子は又た語を
継ぎぬ「私は
今日迄、教会は
慥に世の光であると信じて居りました、今ま始めて既に悪魔の巣であつたことを見ることが出来ました、――
而かも其悪魔が私の父です――
今日の
会合は廿五年の
祝典では御座いませぬ、
光明を亡ぼす悪魔の
祝典です、――我父の打ち
壊はす神殿の滅亡を
跪いて見ねばならぬとは、何と云ふ恐ろしき刑罰でせうか」
「其れは
貴嬢の誤解です」と篠田は首を振りぬ、「
是れは
新に驚くべきことでは無いのです、失礼ながら貴嬢の父上は、神の教会を攪乱するの力を有つて居なさらぬ、梅子さん、
私が貴嬢の父上に
向て攻撃の矢を放つたことは昨日今日のことではありませぬ、貴嬢も常に其を御読み下すつたでせう、又た御聴き下だすつたでせう、けれ共私は
今日に至る迄、貴嬢との
友誼の上に何の
障礙をも見なかつたと思ふ、是れは
規定の祈祷会や晩餐会に
勝りて、天父の嘉納まします所では無いでせうか、是れは神の
殿がエルサレムでも無く、
羅馬でもなく、永阪でもなく青山でも、本郷でも無いと云ふ我々の実験ではありませぬか、――社会の富が日々に殖えて人の飢ゆるるのが
愈々増す、富めるものと貧しきものと諸共に、肉体の為に霊魂を失ふ、是れが神の国への路でせうか、ケレ共
何処の教会に此の暗黒界の燈火が
点いて居りますか、
今ま
若し
基督が出で来り給ふならば、ソして富める者の天国に入るは
駱駝の針の穴を出づるよりも難しと説き給ふならば、彼を十字架に懸けるるのは果して誰でせう、王も貴族も富豪も
皆な
盃を挙げて笑つて居ませう、けれ共王と貴族と富豪との
傲慢と罪悪とに媚びて、
縷の如き生命を
維いでる教会は
戦慄します、決して之を容赦致しませぬ」
篠田は正面に
聳ゆる富岳の雪を指しつ、「日本国民は此雪を誇ります、けれ共
私は
未だ我国民によりて我神意を発揮されたる何の産物をも見ない、彼等は兵力を誇ります、是れは神の前に耻づべきことです、万国は互に
競うて滅亡に急ぎつゝあるです、私共は彼等を呼び留めますまい、
寧ろ
退て新しき王国の
礎を据ゑませう」
彼は又た梅子を顧みつ「
貴嬢は特に青年の為に御配慮です、
乍併今日の青年は、牧者の
杖を求むる羊と云ふよりは、
母
の翼を頼む
雛であります、――枕すべき所もなき迫害の荒野に立ちて
基督の得給ひし
慰は、
単り天父の恩愛のみでしたか、
否な、彼に
扈従せる婦人の
聖き同情は、彼が必ず無量の奨励を得給ひたる地上の恵与であつたと思ふ、梅子さん、秋の
霜、枯野の風の如き劇烈なる男児の
荒涼が、
春霞の如き婦人の聖愛に包まれて始めて和楽を得、勇気を得、進路を
過たざることを得る秘密をば、貴嬢は必ず御了解なさるでせう」
恍然と仰ぎたる梅子の
面は日に輝く紅葉に匂へり、
「御嬢様! どんなに
御探がし申したか知れませんよ」と
忽如として現はれたるは乳母の老女なり「奥様が梅子は
何処へ行つたかつて、
御疳癪で御座います」
「アヽ、
左様でせう」と言ひつゝ、篠田はヤヲら石を離れたり、
去れど梅子は起たんともせず、
十一月
中旬の夜は既に
更け行きぬれど、梅子は
未だ枕にも
就かざるなり、乳母なる老婆は
傍近く座を占めて、我が
頭にも似たらん火鉢の
白灰かきならしつゝ、梅子を
怨みつかき
口説きつ、
「でも、お嬢様、今度と云ふ今度は、
従来のやうに只だ
厭ばかりでは済みませんよ、相手が名に負ふ松島様で、大洞様の御手を
経ての御縁談で御座いますから、奥様は大洞と山木の両家の浮沈に
関はることだから、無理にも
納得させねばならぬと、
彼の通りの御意気込み、其れに
旦那様も、梅も余り
撰り
嫌らひして居る中に、年を取り過ぎる様なことがあつてはと云ふ御心配で御座いましてネ、此頃も奥様の御不在の節、私を御部屋へ
御招になりまして、雪の
紀念の梅だから、何卒
天晴な
婿を取らせたいと思ふんで、松島は少こし年を取過ぎて
且つは後妻と云ふのだから、梅にはチと気の毒ではあるが、何せよ今ま海軍部内では第一の
幅利き、愈々
露西亜との戦争でもあれば少将か中将にもならうと云ふ勢、梅の
良人として決して不足が有るとは思はれぬ、其上大洞にせよ自分にせよ、
一と
通ならぬ関係があるので、
懇望されて見ると何分にも
嫌と云ふことが言はれないハメのだから、
此処を
能く
呑み込んで承知して欲しいのだと、此婆に迄頭を下げぬばかりの
御依頼なんで御座います――此婆にしましてが、
亡奥様にお乳を差上げ、又た
貴嬢をも
襁褓の中からお育て申し、此上貴嬢が立派な奥様におなり遊ばした御姿を拝見さへすれば、此世に何の思ひ残すことも御座いません、
寧そ御決心なされては
如何で御座ります」
梅子は机に
片肘もたせしまゝ、
繙ける書上に、空しく視線を落とせるのみ、
「それとも、お嬢様、外に
貴嬢の思ひ込みなされた御方が御ありなさるので御座りますか、貴嬢も
十九や
廿歳とは違ひ、
亡奥様は貴嬢の御年には、モウ、貴嬢を
膝に抱いて
在らしつたので御座いますもの、何の御遠慮が御座いませう、
是ればかりは御自分の御気に
協うたのでなければ
末始終の見込が立たぬので御座いますから、――奥様は何と
仰しやらうとも、旦那様は
彼の様に貴嬢のことを深く御心配遊ばして
在らつしやるので、御座いますから、キツと婆から良い様に御取りなし致します、御嬢様、ツイかうと婆に御洩らし下さりませぬか」
梅子は依然
言なし、
「御嬢様、其れは余りでは御座いませぬか、
婆や婆やといたはつて下ださる
平生の
貴嬢の様にも無い――今日も奥様が
例の御小言で、貴嬢の御納得なさらぬのは
私が御側で悪智恵でも御着け申すかの御口振、――こんな
口惜いことは御座いません、
此儘死にましては草葉の蔭の奥様に御合せ申す顔が無いので御座います」
老婆は横向いて鼻打ちかみつ、
「婆や、ほんたうに申訳がないのネ、お前が
其様に心配してお呉れだから、
私の心を打ち明けますがネ、私は決して人選びをして居るのぢやないのです、私は
疾うから
生涯、結婚しないと覚悟して居るのですからネ」
「いゝえ、お嬢様、
其様なこと
仰しやつても、此婆は聴きませぬ、
御容姿なら御才覚なら何に一つ不足なき
貴嬢様が、何の御不満で
左様なこと仰つしやいます、では一生、剛一様の御厄介におなり遊ばして、
異腹の
小姑で此世をお送り遊ばす御量見で
在つしやいまするか」
「婆や、さうぢやありませぬ、
私は
現在の様に何も働かずに遊んで居るのを何より心苦く思ふのでネ、――どうぞ貧乏町に住まつて、あの人達と同じ様に暮らして、
生涯其の御友達になりたいと祈つて居るのです」
「ヘエ――」と老婆は
暫ばし梅子の顔打ちまもりつ「それは、お嬢様、
御本性で仰つしやるので御座りますか」
「何で
虚欺を言ひませう」と、梅子は
首肯き「婆やの親切にホダされて、ツイ、心の秘密を明かしたのです――で、婆や、なんだか生意気らしいこと言ふ様だがネ、誰でも人は胸に燃え立つ火の
塊を
蔵めて居るものです、火の口を明けて其を外へ
噴き出さぬ程心苦しいことはありませぬ、世の中の多くは其れを一人の
男に献げて満足するのです、けれど、
若し其がならぬ揚合には、
尤も悩んでる多くの兄弟姉妹の上に
分配るのが一番道に
協つた仕方かと思ふのでネ」
「ぢや、お嬢様も其れを一人の
男にお上げなされば
可いぢや御座いませんか」
「さア――」と、梅子は行きなやみぬ、
「どうも、お嬢様、
貴嬢のお胸には
何某殿か
御在なさるに相違御座りません、――御嬢様、婆やの目が
違がひましたか」
梅子は差しうつむきて
復た無言、
「お嬢様、貴嬢は婆やを其れ程までにお隔てなさるので御座りますか、お情ないことで御座ります、あゝ、お情ないことで御座ります」
梅子は
唇かみしめて、胸を押へつ、
「婆や――
私も――
女性だよ――」
固く閉ぢたる
瞼を
溢れて、涙の玉、膝に乱れつ、
霜夜の鐘、響きぬ、
数寄屋橋門内の夜の冬、雨
蕭々として立ち並らぶ電燈の光さへ、ナカ/\に
寂寞を添ふるに過ぎず、電車は燈華
燦爛として、時を
定めて出で行けど
行人稀なれば、発車の
鈴鳴らす車掌君の顔色さへ
羞耻に見ゆめり、
今しも
闇を
衝いて
轟々と
還へり
来れるは、新宿よりか両国よりか、一見
空車かと思はるゝ
中より、ヤガて降り来れる二個の黒影、合々傘に行き過ぐるを、
此方の
土手側に宵の程より客待ちしたりける二人の車夫、御座んなれとばかり、寒さに
慄ふ声振り立てて「旦那御都合まで」「乗つて
遣つて下だせイ」と追ひ掛け
来る、二個の黒影――
二重外套と
吾妻コウト――は石像の如くして銀座の
方へ、立ち去れり、チヨツと舌打ちつゝ元の車台へ腰を下ろしたる車夫、「あゝ今夜もまたあぶれかな」「さうよ、
先刻打つたのが
服部時計台の十一時の様だ」
「時に、オイ、熊の野郎め久しく顔を見せねエが、どうしたか知つてるかイ、何か
甘い商売でも見付けたかな」
「
大違エよ、此夏脚気踏み出して
稼業は出来ねエ、
嬶は
情夫と
逃走する、腰の
立ねエ
父が、乳の
無い子を抱いて泣いてると云ふ世話場よ、そこで養育院へ送られて、当時
頗る安泰だと云ふことだ」
「ふウむ、其りや、野郎可哀さうな様だが
却て
幸福だ、
乃公の様にピチ/\してちや、養育院でも引き取つては呉れめヱ――、ま、
愈々となつたら監獄へでも参向する工夫をするのだ」
雨
一としきり降り増しぬ、
「そりや、
貴様のやうな
独身漢は牢屋へ行くなり、人夫になつて戦争に行くなり、勝手だがな、女房があり
小児がありすると、さう自由にもならねエのだ」
「
独身漢/\と言つて貰ふめエよ、是でもチヤンと片時離れず着いてやがつて、お前さん苦労でも、どうぞ
東京で車を
挽いててお
呉れ、其れ程人夫になりたくば、
私を殺して行かしやんせツて言やがるんだ、ハヽヽヽヽ、そりやサウと、オイ、
昨夜烏森の
玉翁亭に車夫のことで、演説会があつたんだ、所が警部の野郎
多衆巡査を連れて来やがつて、少し
我達の
利益になることを
云と、『中止ツ』て言やがるんだ、其れから後で、弁士の席へ押し
掛て、警視庁が車夫の
停車場に炭火を許す様に骨折て
欲いつて頼んでると、其処へ又警部が飛込んで来やがつて『解散を命ずるツ』てんよ、すると何でも
早稲田の書生さんテことだが、目を
剥き出して怒つた、つかみ掛りサウな
勢だつたが、少し年取つた人が手を抑へて、
斯様警部など相手にしても仕方が無い、
斯うしなければ警察官も免職になるのだから、
寧そ気の毒ぢやないかツてんで、
僅々収まつたが、――一体政府の奴等、
吾達を何と思つて居やがるんだ」
「そんな大きな声して巡査にでも聞かれると悪イ、が、俺も二三日前に小山を通つてツクヅク思つた、
軍艦造るの、
戦争するのツて、税は増す物は高くなる、食ふの食へねエので毎日苦んで居るんだが、
桂大臣の邸など見りや、裏の土手へ石垣を積むので、まるで御城の様な
大普請だ」
「今日も新聞で見りや、
媽の正月の
頸の飾に五千円とか六千円とか掛けるのだとよ、ヘン、自分の媽の首せエ見てりや
下民の首が
回はらなくても
可いと言ふのか、ベラ棒め」
「
何れ一と騒動なくば収まるめエかなア」
銀座街頭の大時計、
眠む気に響く、
「オ、もう十二時だ、長話しちまつた」
「でも
未だ平民社の二階にや
燈火が見えるぜ――少こし小降になつた様だ、オヽ、寒い/\」
平民週報社の楼上を
夜深けて洩るゝ
燈火は取り急ぐ
編輯の為めなるにや、否、燈火の見ゆるは編輯室にはあらで、編輯室に隣れる社会主義倶楽部の談話室なり、
燈下、
卓上を囲むで
椅子に掛かれる会員の六七名、
直に目に
映るは
鬚髯蓬々たる筒袖の篠田長二なり「では、差当り御協議したいと思つたことは、是れで終結を告げました――少こし
時間は
後れましたが、他に御相談を要する件がありますならば――」
外国通信委員
渡部伊蘇夫は卓上に堆積せる書類の中より
一片紙を取り上げつ「
露西亜のペテルブスキイ君から
今日、倶楽部宛の書面が来ました、順々に御覧下ださいませうか」
烟草燻ゆらし居たる週報主筆
行徳秋香「渡部さん、恐れ入りますが、お
序にお
誦み下ださいませんか」「其れが
可い」「どうぞ」
「ぢや、読みませう」渡部は起てり、
主義に於て常に相親交する、未だ見ぬ日本の兄弟諸君、
余は今ま露西亜に於ける同志に代りて之を諸君に書き送らんとするに際し、憤慨の情と感謝の念と交々胸間に往来して、幾度も筆を投じて黙想に沈みしことを、幸に諒察せよ、
今や日本の政府と露西亜の政府とは戦場に向て急ぎつつあり、露西亜国民の或者は日本を以て一個の狡狼と見做しつゝあり、思ふに日本国民の多数も亦た露西亜を以て暴熊視しつゝあらん、諸君、アヽ、我等は何等の多幸多福ぞや、独り此間に立ちて曾て同胞の情感を傷害せらるゝことなきなり、啻に是れのみならず、彼等の嫉妬、憎悪、奪掠、殺傷の不義非道に煩悶苦悩するを観て、愈々現在立国の基本社会組織の根底に疑ふべからざるの誤謬あることを正確に証明せり、
欧米列国は日本に党せん、去れど独逸は露西亜の友邦なるべしとは、殆ど世界の各所に於て信ぜらるゝ所なり、然れ共諸君よ、我等は此際分析を要するに非ずや、敢て問ふ、謂ふ所の独逸とは則ち何ぞや、彼等は軽忽にも独逸皇帝を指して独逸と云ふものの如し、気の毒なる哉独逸皇帝よ、汝は今夏の総選挙に於て全力を挙げて戦闘せり、曰く社会党は祖国に取つて不倶戴天の仇敵なり、一挙にして之れを全滅せざるべからずと、多謝す、アヽ独逸皇帝よ、汝の努力に依て我独逸の社会党は、忽然八十余名の大多数を議会に送ることを得たりしなり、独逸社会党の勝利は主義に繋がるゝ全兄弟の勝利なり、独逸皇帝、彼は憐むべき一個の驕慢児なるのみ、
世の露西亜を言ふもの、亦た一に露西亜の皇帝を見、宮室を見、貴族を見、軍隊を見て足れりとなす、何等の不公平にして又た何等の浅学ぞや、露西亜には不幸にして未だ真正なる民意を発表すべき国民的機関なきが故に、之を公然証明すること能はずと雖も、如何に自由独立の健全雄偉の思想と信仰とが、既に社会の裏面に普及しつつあるかは時々喧伝せらるゝ学生、農民、労働者の騒擾に依りて、乞ふ其一端を観取せられよ、
陸軍大臣クロパトキンの名は日本国民の記憶する所ならん、然れ共彼に取て目下の最大苦心問題は満洲占領に非ず、日本との戦争に非ずして、露西亜の軍隊に在り、彼等が砲剣に依て外国侵略を計画しつゝある時、看よ、社会主義の福音は既に軍隊の内部に瀰漫せんとしつゝあるを、平和主義の故を以て露国教会はトルストイを除名せり、然れ共今や学生の一揆、労働者の同盟罷工に向て進軍を肯んぜざる士官あり、発砲を拒む兵士あり、我等は既に露西亜の曙光を見たり、
渡部の声は激動せり、
其面は赤く輝けり、冷茶
一喫、彼は其の温清なる
眼を再び紙上に注ぐ、
露西亜には我等社会民主党の外に社会革命党あり、彼はバクニンの系統に属するものなり、我等は
今日に於て
未だ両者の融和を見る
能はざるを悲むと
雖も、其の
漸次接近親和すべきは疑を要せず、
蓋し今日に於て皇帝の生命を
狙ふが如きは、皇帝を了解せざるの
甚しきものなればなり、我等は露西亜皇帝に対して深厚なる一種の惰感を有す、

は尊敬に非ずして
憐憫なり、世界の
尤も気の毒なるもの恐くは露西亜皇帝ならん、彼は囚人なり、只だ
錦衣玉食するに過ぎず、
露西亜が議会を有せんこと、余り遠き将来に
非るべし、諸君を
羨むの間も、
蓋し暫時ならんか、
狂犬をして血に
吼えしめよ、
去れど我等は兄弟なり、
渡部は椅子に復せり、拍手は起れり、
「けれど普通選挙を得ざる我等と露西亜と、何の相違がある」と行徳はツブやきぬ、
「
最早、虚無党の御世話になる必要は無いよ、クルップの男色を
発いてやれば、
忽ち
頓死するし、伊太利大蔵大臣の
収賄を
素破抜いてやれば
直に自殺するしサ、爆裂弾よりも筆の方が余ツ程力があるよ、僕は
彼奴等の案外道義心の豊かなのに近来ヒドく敬服して居るのだ」
揶揄一番、全顔を口にして
呵々大笑するものは、虚無党首領クロパトキン自伝の愛読者
菱川硬次郎なり、其の頓才に満座
俄に和楽の快感を
催ほせり、彼は炭を投じて煖炉の燃え立つ色を見やりつゝ「何の運動でも、婦人が
這入つて来る様になれば
〆めたものだ、虚無党でも社会党でも其の恐ろしいのは、中心に婦人が居るからだ、日本でもポツ/\其の機運が見えて来た」
「婦人と云へば、篠田君」と行徳は
体を転じて「僕はネ、君が永阪教会を放逐されたと聞いて、ホツと安心したのだ」
菱川は大きなる鼻に
皺よせて笑ひつ「無神無霊魂の仲間が一人殖えたと云ふわけか」
一座
復び
哄笑、
行徳も、微笑を
洩らしつ「君等は直ぐ
左様云ふからこまる――今迄篠田君の
身辺には
一抹の
妖雲が
懸つて居たのだ、篠田君自身は無論知らなかつたであらうが――現に
何時であつたか、労働協会の松本君の如きも、篠田君は山木剛造の総領娘と結婚するさうぢやないか、
怪しからんことだと云ふから、君達は
未だ其れ程までに篠田君が解からないのかと
冷笑してやつたのだ」
一座の視線、篠田の面上に注がれたり、
「ハア、
左様いふことがあるんですかなア」と篠田は首を傾けぬ、
「なアに」と菱川は口を開きつ「
婦人なんてものは、
極く思想の浅薄で、感情の
脆弱なものだからナ、少こし気概でもあつて、貧乏して居る独身者でも見ると、
直きに同情を寄せるんだ、実にクダらんものだからナ」
「では、菱川君の如きは、差向き天下第一の色男と云ふ寸法のだネ」と行徳は槍を入れぬ、
「ハヽヽハヽヽヽ」と
流石の菱川も頭を
掻けり、
「
然かし、篠田君、山木の梅子と言ふのはナカ/\の
関秀ださうだネ」と談話の
新緒を開きしは家庭新誌の主幹阪井俊雄なり「文章などナカ/\立派なものだ」
「
左様、余程意思の強い
女性らしいです――何でも
亡母が偉かつたと云ふことだから」と篠田は言ふ、
「では母の遺伝だナ、山木の様な奴には不思議だと思つたのだ」
「
否や、
左様ばかりも言へないでせう、現に高等学校に居る剛一と云ふ
長男の如きも、
数々拙宅へ参りますが、実に有望の好青年です、
父親の不義に
慚愧する
反撥力が非常に
熾で、自己の職分と父の
贖罪と二重の義務を
負んでるのだからと
懺悔して居る程です、思ふに我々の
播ける
種子を
培ふものは、彼等の手でせうよ」
「サウ、
赤門にせよ、
早稲田にせよ、一生懸命社会主義を拒絶して居るに
拘らず、講堂の内面では
却て盛に其の卵が
孵化されて居るんだから、実に多望なる我々の将来ぢやないか」と渡部は豊かなる頬に
笑波を
湛へぬ、
「ヤ、君、
最早一時だ」と阪井は時計を手にしながら「
是れから
淀橋まで歩るくのか」
「けれ共、君、
幸に雨は止んだ」
「オヽ、星が照らして居るわ、我々の前途を」
築地二丁目の待合「浪の家」の帳場には、
女将お才の
大丸髷、頭上に
爛めく電燈目掛けて
煙草一と吹き、
長へに
嘯きつゝ「議会の解散、戦争の
取沙汰、此の
歳暮をマア
何うしろツて言ふんだねエ」
折柄バタ/\
走せ来れる女中のお仲「松島さんがネ、花吉さんが遅いので、又たお株の大じれ
込デ、
大洞さんがネ、
女将さんに一寸来て何とかして貰ひたいツて
仰しやるんですよ」
お才は美しき
眉の根ピクリ
顰めつ「チヨツ、松島の海軍だつて言はぬばかりの
面して、ほんとに
気障な奴サ――其れに又た花ちやんも
何うしたんだネ」
「いゝえネ、湖月の送別会とかへ行つてるので、
未だ貰へないんですもの」
「しやうが無いネ、今夜あたり
其様所へ行かなくツても
可いぢやないか」
「オホヽヽヽだつて
女将さん、其れも
芸妓の稼業ですもの」
お才も
嫣然歯を見せつ「だがネ、
彼妓の剛情にも因つて
仕舞ふのねエ、口の酸つぱくなる程言つて聞かせるに、松島さんの妾など
真平御免テ逃げツちまふんだもの」
「そりや女将さん、
仮令芸妓だからつて可哀さうですよ、当時流行の花吉でせう、それに菊三郎と云ふ花形
俳優が有るんですもの、松島さん見たいな
頓栗眼の
酒喰は、私にしても
厭でさアね」
「だツて、妾にならうが、奥様にならうが、
俳優買ひ位のことア勝手に出来るぢやないか」
「
其う言やマア、さうですがね、しかし
能くまア、軍人などで
芸妓を
落籍せるの、妾にするのツて、お金があつたもンですねエ」
お才は
煙管ポンと
叩いて、フヽンと
冷笑ひつ「皆ンな大洞さんの
賄賂だアネ――あれでも、まア、大事なお客様だ、日本一の松島さんてなこと言つで、お
煽てお置きよ、馬鹿馬鹿しい」
* * *
奥の二階の一室に対座せる二客、軍服の上へムク/\する如き糸織の
大温袍フハリ
被りて、がぶり/\と
麦酒傾け居るは当時実権的海軍大臣と新聞に
謡はるゝ松島大佐、
対ひ合へる
白髪頭の
肥満漢は
東亜
船会社の社長、五本の指に折らるゝ日本の紳商大洞利八、
大洞は満面に笑の波を
漲らしつ「で、松島さん、
私共は此際ですから、決して特別の御取扱を御願致す次第では
御わせん、
只だ郵船会社同様に願ひたいので――本来を申せば郵船会社の如き、
平生莫大の保護金を得て配当を多くして居ると云ふのも、一朝事ある時の為めでは
御わせんか、
然るに此の露西亜との戦争と云ふ時に
及で、私共の船は
一噸三円五十銭平均で御取上げ、郵船会社の方が
却て四円
乃至四円五十銭と申すのは、余りに公平を欠きまする様で――第一に国家の公益で無い様に思ひまするので」
「国家の公益? ハヽヽヽ其れは大洞、君等の言ふべき口上ぢや無からう、
兎に
角一旦取り
定めたものを、サウ
容易く変更することもならんからナ」
「
併かし、松島さん、万事
貴下の方寸に
在ることでは御わせんか」
「
仮令方寸に在らうが、国家の公事ぢや、君等は一家の私事さへもグツ/\して居るぢや無いか」
大洞の
聊か
解し兼ぬると言ひたげなる
面を松島はギロリ、
一瞥しつ「一体、君は山木の娘の一件を
何うするんだ、山木に直接に言ふのは
雑作もないが、
兎に
角妻にするものを、其れも余り
軽蔑した仕方と思つたからこそ、君を
媒酌人と云ふことに頼んだのだ、
最早彼此、
半歳にもなるぞ、同僚などから何時式を挙げると聞かれるので、其の
都度、実に軍人の
態面に泥を塗られる様に感ずるわイ、人を馬鹿にするも程があるぞ」
「イヤ、もう、其事に
就きましては絶えず心配して居りますので、――何分当人が、少こし
変物と来て居りますので――」
「馬鹿言へ、高が一人の
婦人ぢやないか、
其様ことで親の権力が
何処に
在る――それに大洞、吾輩は今日、実に
怪しからんことを耳に入れたぞ」満々たる
大盃取り上げて、グウーツとばかり傾けたり、
「はア」と、
訝かる
大洞の面上
目懸けて松島は酒気吹きかけつ「君、山木は
彼の同胞新聞とか云ふ
木葉新聞の篠田ツて奴に、娘を呉れて遣る内約があるンださうぢやないか、失敬ナ、篠田――
彼奴、社会党ぢやないか、国賊と縁組みして此の海軍々人の
面に泥を塗る量見か、――
此方にも其覚悟があるんだ」
大洞は始めて安心したるものの如く、両手に頭撫で廻はしつゝカンラ/\と大笑せり、
「何が
可笑しいツ」
盃取りなほして松島は打ちも掛からんずる勢、
「
戯謔仰つしやツちや、因まりますゼ、松島さん、
貴下、
其様馬鹿気たこと、何処から聞いておいでになりました」
「今日も
省内の
若漢等が、雑談中に
切りと其事を言ひ
囃して居つた」
「ハヽヽヽイヤ
何うも驚きました、成程、さすが明智の松島大佐も、恋故なれば心も
闇と云ふ
次第で
御わすかな、松島さん、シツカリ
御頼申しますよ、相手が
兎に
角露西亜ですゼ、日清戦争とは少こし呼吸が違ひますゼ」
大洞は
小盃を松島に差しつ「
私も篠田と云ふ奴を二三度見たことがありますが、顔色容体
全然壮士ぢや
御ワせんか、
仮令山木の娘が
物数寄でも、
彼様男へ
嫁うとは言ひませんよ、よし、娘が嫁うとした所で松島さん、山木も
未だ社会党を
婿に取る程
狂気にはなりませんからな、マア/\御安心の上、一日も早く
砲火を切つて
私共に
儲さして下ださい」
「しかし大洞、山木の娘も篠田と同じ
耶蘇だと云ふぢやないか」
「松島さん、
貴下の様に気を廻しなすつちや困まる、山木も篠田には年来の
怨恨がありますので、
到頭教会から
逐ひ出させたと、
妹の話で
御わしたが、
女敵退散となつた上は、御心配には及びますまい、ハヽヽヽヽ」
「ウム、其れは
先づ其れとしても、君、山木が早く
取定ないのは
不埒極まる、
今日まで彼を
庇護して遣つたことは
何程とも知れたもンぢやない、
彼の砂利の牛肉鑵詰事件の時など新聞は
八釜しい……」
と言ひ掛くるを、大洞あわてて押し留めつ
「松島さん、そんな
旧傷の洗濯は御勘弁を願ひます、まんざら御迷惑の掛け放しと云ふ次第でも
無つた様で
御わすから」
「それから
彼の靴の
請負の時はドウだ、糊付けの
踵が雨に離れて、水兵は
繩梯から落ちて
逆巻く
濤へ
行衛知れずになる、艦隊の方からは
劇しく苦情を持ち込む、本来ならば、
彼時山木にしろ、君にしろ、首の
在る
筈が無いのぢやないか」
「
御尤至極、であればこそ、松島大明神と
斯く随喜渇仰致すでは
御わせんか――ドウしたのか、花吉、ベラ棒に手間が取れる」
今は大洞受け太刀となつて、シドロモドロの折こそあれ、
襖スウと
開いて顔を見せしは、――
女将のお才「どうも松島さん、御気の毒様ですことねエ、
是も
流行妓を
情婦にした
刑罰ですヨ、――待つ身のつらさが
御解になりましたでせう、ホヽヽヽヽヽ」
松島海軍大佐をして愛妓花吉を待つに堪へざらしめたる湖月亭の宴会とは、
何某と言へる雑誌記者の、欧米漫遊を
壮にする同業知人等の送別会なりけり、
五ツの座敷ブチ抜きたる
大筵席は既に入り乱れて
盃盤狼藉、歌ふもあれば
跳ねるもあり、腕を
撫して高論するもの、
妓を擁して
喃語するもの、
彼方に調子外れの
浄瑠璃に合はして、
絃をあやつる老妓あれば、
此方にどたばた
逐ひまくられて、キヤツと
玉切る
雛妓あり、玉山
崩れて酒煙
濛々、誠に
是れ
朝に筆を
呵して天下の大勢を論じ去る
布衣宰相諸公が、
夕の脚本体なりける、
一隅に
割拠したる五六の猛士、今を盛りの
鯨飲放言、
「だが、君、今夜の最大奇観とも
謂つべきは、篠田長二の出て来たことだ、幹事の野郎も
随分人が悪いよ、餅月と夏本の両ハイカラの
真中へ、
彼の
筒袖を安置したなどは」
「所が当人、其を侮辱とも何とも感じないのだから恐れ入るんだ」
「人間も
彼程に
常識を失へば気楽なものサ」
「見給へ、
彼奴未だ四角張つて何か言つてるぜ」
「ヤ、相手が珍報社の丸井隠居ぢや、
是こそ
天然の
滑稽ぢや」
折柄、ツヽと小急ぎに行き過ぐる廿一二の
芸妓を、早くも見て取つたる一人声振り上げ「其れへ打たせ玉ふは、
烏森に其人ありと知られたる新春野屋の花吉殿ならずや」呼ばれて芸妓は振り向きつ「オヽ、
左言ふ貴殿は
河鰭氏」と晴やかなる
眼に
笑を含めて、きツと
宜しく
睨まへれば「よウ菊三郎ウ」と、何れも手を
拍つてザンザめく、
「あら、
可う御座んすよ、たんと御なぶり遊ばせ」と、
忽ち砕けで群に加はる花吉を、
相格崩しての包囲攻撃、
「近来又た海軍の松島を捕獲したツてぢやないか」「花吉の
凄腕真に驚くべしだ」「
露西亜に対する日本の態度の
曖昧なのも、君の為めだと云ふ
噂だぞ」「松島君に忠告して早く
戦争する様にして呉れ給へ」「露西亜との軍費を
捲き上げて、之を菊三郎への軍費に流用する所、好個の外務大臣だ」
誠や筆を
執つては
鷺を烏となし、灰吹から竜をも走しらす記者諸君を、只だ三寸の
鴬舌もて右に左に叩たき伏せ、有り難たがらせて余ある所、好個の外務大臣とも言ふべかりける、「時に」と、
河鰭は真赤に酔うたる顔突き出し「
是ツ
非、花ちやんに御依頼の件があるのだが」とサヽやくを、
「身に
協ふことならば」と、花吉の
芝居懸りに行く、
「
否や、
戯謔ぢやない、今度は
真面目の話だ――ソレ、
彼の向ふに北海道土人の
阿房払宜しくと云ふ
怪物が居るだらう、サウ/\、あの丸井の
禿顱と話してる、――
彼奴誠に人情を解せん石部党で、我々同業間の
面汚のだ、
其処で今夜
彼奴の来たのを
幸に、我党の人にして
遣らうと思ふんだ」
「河鰭さんの我党などにはならない方が
可う御座んすよ」
「オイ/\飛んだことを言ふ――デ、
彼奴に一杯、酒を飲ませて
遣うと思ふんだが、我々の手では駄目だから、
是に
於てか花吉大明神の御裾にお
縋り申すのだ」
妙案々々、賛成々々など
何れも叫ぶ、
「人がましくも、殿方が
頭を下げての
御依頼とあるからは、そりや随分火の中へも
這入りませう、してお名前は」
「篠田ツて言ふのだ、同胞新聞の篠田」
「ヘエ、篠田さん、ぢや、あの、自由廃業をおやりなすつた方でせう」
「さうだ/\、其のとほりの
野暮天なんだから、是非花ちやんの
済度を仰ぐのだ」
「其に
彼奴は非戦争論者で松島君の仇敵なんだ」と叫ぶもあり、
「花ちやん、一つ松島君を操縦するの余力を以て」と河鰭の言ふを「そんな、お
弄りなさるなら、
否や」とツンとスネる、
「
真平々々、是れだ/\」と手を合はすを、
「驚いたことねエ、河鰭さん、」と
微笑みつゝ花吉は、
小盃を手にしてスイと起てり、
一隅の数名は、何れも酔眼を上げ、視線を花吉に注ぎつつあり、三々伍々と入り乱れたる会衆の間を縫ひつゝ花吉は、ヤガて篠田が座を占めたる他の一隅にぞ進みける、花吉は顧みて河鰭等と
遙に目くばせしつ、ピタリ座に着きて膝を進めぬ、「篠田さん、――河鰭さんから」
談話に余念なかりし篠田は、始めて顔を上げぬ、
看よ、一個の佳人、
慇懃に
盃を捧げつゝあり、
篠田は
膝に手を置きて「
私は酒を用ひませぬから」
「お手にだけなりともおとり遊ばせ」
「イヤ、
私は一切、用ひませぬから」
丸井老人ニユウと
禿顱突き出しつ「花ちやん、篠田先生は御禁酒のだから無駄でげすよ、と云うて美人に使命を全うせしめざるも、心なき
業なり、
斯かる時局切迫の調和機関、中立地帯とも言ふべかる丸井玉吾、一つ先生の代理と行きやせう」言ひつゝヒヨイと
猿臂を延ばして、
彼女の手より
盃を奪へり、
「アラ」
「げに、酒は美人に限ること古今相同じでげす」と丸井玉吾既に
一盞を傾け尽くしつ「イヤ、どうも御禁酒の
方の代理と云ふ法も
無わけでげすな、先生、飛んだ失礼を――」と、彼は
奇麗に光る
禿顱を燈下に垂れて、ツル/\と
撫で上げ撫で下ろせり、花吉は
絹巾に
失笑を包みて、
窃と篠田を見つ、
「今もネ、花ちやん」と丸井老人は真面目顔「例の
芸妓殺――
小米の一件に
就て先生に伺つて居た所なんだ」と言ひつゝ
盃差し
出す、
花吉は是非もなげに酌をしつ「ホンとに米ちやんは気の毒なことしましたよ、
彼の晩もネ、
香雪軒の御座敷で一所になりましてネ、世の中がツクヅク
厭になつたなんて、さんざ愚痴を言ひ合つて別れたんですよ、スルと丸井さん、其の
帰路にヤラれたんですもの――けれど、男の方にも何か深い
事情があるんですツてネ」
「サ、其の男の
方を此の篠田先生が
能く
御存なので、色々御話を承つて居たのだがネ」
丸井は火鉢の上に身を
屈めつゝ「ぢや、先生、其の
兼吉と云ふのは、恋の
協はぬ意趣晴らしツてわけでは無かつたんでげすナ」
「
左様です、彼は決して
嫉妬などの為めに凶行に出でたのではありません、――
必竟、自分の最愛の妻――
仮令結婚はしないにせよ――を、姦淫の罪悪から救はねばならぬと云ふのが、彼の最終の決心であつたのです、彼の此の愛情は独り婦人に対してのみで無いのです、彼が平生、職業に対し、友人に対し、事業に対する観念が皆な
其れでした、成程、其の小米と云ふ婦人も、今ま貴女の(と花吉を
一瞥しつ)
仰つしやる通り実に気の毒でした、
然かし
彼女が
彼の如くして生きて居たからとて、一日と
雖も、一時間と雖も、幸福と云ふ感覚を
有つことは無かつたでせう、兼吉が執つた婦人に対する最後の手段は、無論正道をば
外れてたでせう、が、生まれて
此の如き清浄な男児の心を得、又た其の高潔なる愛情の手に倒れたと云ふことは、
女性としての満足なる
生涯では無いでせうか」
「ナ、成程」
花吉は黙つて篠田を
凝視せり、
「多くの新聞には、兼吉が是れ迄も
数々小米と云ふ婦人に金の迷惑を掛け、今度の凶行も、婦人が兼吉の無心を拒絶したから起つたかの如く、書かれてありましたが、あれは丸井さん、兼吉の為めに気の毒の
至極です」と、篠田は其談を継続しぬ、
「兼吉と云ふ男は決して
其様な性格の者ではありませぬ、石川島造船会社でも評判の職工で、酒は飲まず、
遊蕩などしたことなく、老母には
極めて孝行で、常に友達の為めに借金を
背負はされて居た程です、
何うも日本では今以て、
鍛冶工など云へば
直に乱暴な、
放蕩三昧な、品格の劣等の者の如く即断致しますが、
今日の新職工は決してソンなものでは無いですからな、――
今春他の一人の職工が機械で
左腕を斬り取られた時など、会社は例の如く
殆ど少しも構はない、
已むを得ず職工同志、有りもせぬ
銭を出し合つて病院へ入れたのですが、兼吉は、
此儘にしては、廿世紀の工業の耻辱であると云ふので、其の腕を
携へて、社長の宅へ面談に参つたのです、風呂敷から血に染つた片腕を出された時には、社長も顔色を失つて、逃げ掛けたサウですが、
其裾を
捉へて悲惨なる労働者の境遇を説き、資本家制度の残忍
暴戻を涙を
揮つて論じたのには、サスがの柿沢君も
一言の答弁が
無つたと云ふことです、一言に尽したならば、兼吉の如きは新式江戸ツ子とでも言ひませうか」
「しますると、兼吉と小米との
交情は
如何致したと申すのでげすナ」
「
御尤です、新聞には大抵、小米と申すのが、
未だ
賤業に
陥らぬ以前、何か兼吉と醜行でもあつた様にありますが、其れは多分小米と申すの
実母から出た誤聞であります、兼吉と
彼の婦人とは幼少時代からの
許嫁であつたのです、
然るに成人するに
及で、婦人の母と云ふが、職工
風情の妻にしたのでは自分等の安楽が出来ないと云ふので、無残にも
芸妓にして
仕舞つたので――其頃兼吉は
呉港に働いて居たのですが、
帰京つて見ると其の始末です、
私も
数々兼吉の相談に
与かつたのです、
一旦婦人の節操を汚がしたるものを
娶るのは、即ち男子の道義をも自ら破壊することになるか
如何と云ふのです、私は彼に質問したのです、――君は
彼女の節操破壊を以て自己の心より出でたるものと思つてるか
如何――所が彼の言ひまするには、私は決して
左様は思ひません、全く母親の利慾に圧制されたので、柔順なる彼女は之に抵抗することが出来なかつたのであることを疑はないと云ふのです」
「ほんたうに小米さんの様な
温順い人はありませんでしたよ」と、花吉は、
吐息を
漏らしぬ、
「
左様であつたとのことですナ」と篠田は
首肯き「
然らば君、少しも
憚る所は無い、
速に
彼女を濁流より救ひ出だして、其愛情を全うするが
可いと、忠告致しました、所が彼は
躊躇して、けれど
彼女は千円近くの借金を
背負つてるのでと
悶へますから、何を言ふのだ、霊魂を束縛する繩が何処に在ると励ましたのです」
「ヘヽヽヽ先生、御得意の自由廃業でげすな」と、丸井はツルリ
禿頭を撫でぬ、
「左様です、不道徳なる負債は、弁償の義務がありません、
否な、弁償を迫る権利がありません、――それで婦人も非常に喜んだサウです、所が何とか云ふ貴族院議員が――」
と篠田の
暫ばし其名を思ひ出し得ざるに、花吉が「あの、
金山伯爵でせう、――小米さんも
嫌がつて居たんですよ、頭の
禿げた七十近い
老爺さんでしてネ」
「花ちやん、頭の
禿げたなどは特別恐れ入りやしたわけで」と丸井は
赤光の脳天ポンと叩いて首を縮む、
「御免の毒様でしたワねエ」と花吉も口を
掩うてホヽと笑ふ、
「大事な所を
禿顱で、花ちやんにケチを付けられて
仕舞つた、デ、篠田先生、其れから
何なりました、
全で小説の様でげすなア」と、丸井玉吾は
煙草に点火しつゝ後を
促がす、
「所で、今ま貴女の
仰せられた金山と言ふ大名華族の老人が、其頃
小米と申す婦人を
外妾の如く致して居たので、
雇主――其の
芸妓屋に於ては非常なる
恐慌を
喫し、又た婦人の
実母からは、独断に廃業などして、小千円の負債の為めに両親が訴へられても顧みない量見かと云ふ様な脅迫に及ぶ、婦人も実に進退
谷まつて、最後の書状を兼吉へ送り越したのです、――
到底自分は此の苦境を逃がれることの出来ぬ何等過去の業果と思ふから、此の肉体をば
餓鬼の如き男子の
飜弄に一任するが、
然かし
郎君を
良人と思ふ心に
曾て変動を見たることの無いのは、神仏の前に誓言することが出来る、で、此の心が
何時か肉体を分離したる
未来世に於ては、幸に我妻と呼んで
呉れよと云ふ意味を、
縷々認めてありました、
言々是れ涙、
語々是れ血と云ふのは多分
此の如きものであらうと感じたのです」
「して、其の手紙は今も
何処にか残つて居ませうか」と
流石三面記者の丸井老人、直ぐ
種取的の質問、
「
左様、兼吉は大切に深く懐中に納めて居ましたから、今は必ず監獄署に預かつて居るでありませう――彼は其手紙を握り占めて真に血涙を
絞りました、遊惰なる富民の獣慾の為めに、
清浄無垢なる少女の節操の
揉躙せらるゝのを
却て
喝采歓喜する社会は果して成立の理由があるかと憤慨して、彼は実に泣きました、丸井さん、日本では
切りに虚無党を悪口致しますが、現在の社会と比較するならば、虚無党の主張の方が
寧ろ
確に真理に近いものです――私も百方慰め励まして、無分別のこと仕ない様に注意して、
丁度、夜の十時過、
老母が待つてるからと、帰つて行きましたが、翌朝新聞を見ますると、職工の
芸妓殺と云ふ二号
題目の二版がある、――アヽ、
何故無理にも前夜一泊させなかつたかと、実に
悔恨の情に堪へませんでした」
篠田は
暫らく
瞑目しつ「昨日も監獄へ参つて面会致しましたが、彼れも実に夢の様であると申して居ました、――何でも西本願寺辺まで来ました時が、既に十二時近くであつたさうですが、
何れの家も寝静まつた深夜の、
寂寞の月を
践んで来るのが、小米である、ハタと行き当つたので、兼吉の方から名を呼びかけると、
婦人は『イヽエ、
米ではありません、米は
最早死んで仕舞ひました、是れは迷つてる米の幽霊です』と云つて
面をそむけて
仕舞つたさうです、兼吉の言ひますに、其れ迄は記憶して居るが後は
何したか少しも覚えない、
不図気が付いて見ると、自分は
左腕で血に染まつた小米の
屍骸を
仰けに抱いて、右手に工場用の
大洋刀を握つて居たと云ふのです」
ジツと聴き居たる花吉は
窃と涙を
拭ひつ身を
顫はして、
「
彼晩は
貴下、香雪軒で桂さんだの、
曾禰さんだのツて大臣さん方の御座敷でしてネ、小米さんが
大盃でお酒をグイ飲みするんですよ、あんなことは今まで一度も無いのですから、
何したんだらうつて
皆な不思議がつて居ましたの、少こし酔つたから風に吹かれた方が
可いつて、無理に車を返へしましてネ、一人で歩いて帰つたんですよ、――きつとあれから
門跡様へ
参詣したのです、何事も前世からの約束ですワねエ」
「承れば先生、兼吉の
老母を御世話なされまするさうで、恐れ入りました御心掛で」
「イヤ、世話致すなど申す程のことも出来ませんが、此際先づ男の
家と、女の
家を調和させたいと思ひましたが、丸井さん、実に不思議ですなあ、小米の父親は涙に暮れまして、
是れと申すも手前共の悪るかつたからで、
聊か兼吉を怨む筋は無いと
悔いて居りまするが、母親の方は非常な
剣幕で、生涯楽隠居の
金蔓を題無しにしたと云ふ立腹です、――
女性と云ふものは、果して
此の如く残忍酷薄なものでせうか」
丸井玉吾は
鹿爪らしく首傾け「成程――花ちやん
何でげすな」
「丸井さん、ほんとに
女性の方が
酷いんですよ」
篠田は首打ち振りぬ「其れが
女性の本来でせうか――
必竟女性を鬼になしたる社会の罪では無いでせうか」
丸井は
禿顱を
撫でぬ「
御最で」
襟かき合はせて花吉は、目を閉ぢぬ、
烏森は新春野屋の長火鉢を中に、対座したる
主婦のお六と
芸妓の花吉、
「ぢや、花吉、お前
何するツて云ふんだ」と、お六は
簪もて頭掻きつゝ、顔打ちしかめ「
濁水稼業をして居る身の、思ふ男に添ひ遂げることの出来ない位は、お
前だつて、百も承知だらうぢやないか、是れが松島さんの
奥様になれつて云ふのなら野暮な軍人の、おまけに
昔気質の
姑まであるツてえから、少こし考へものなんだが、お
前、妾なら気楽なもんだあネ、
厭になつたら何時でも
左様ならをキメるまでサ――
大洞さんもサウ
仰しやるんだよ、決して長くとは言はない、
露西亜の
戦争が
何方とも
定まるまでの所、
厭でもあらうが花ちやんに、放鳥の
機嫌を取つて貰はにやならないのだからつて――
私だつて、
赤児の時から手塩にかけたお
前のことだもの、厭だつてもの無理にと言ひたかないやね、けれど
平素利益になつてる大洞さんのお
依頼と云ひ、其れにお前も知つての通りの、此の
歳暮の苦しさだからこそ、カウやつて
養女の前へ頭を下げるんぢやないか、お
前是れでも未だ解からねえのかエ」
花吉はがツくり島田の
寝巻姿、投げかけし
体を左の
肱もて火鉢に
支へつ、何とも言はず
上目遣ひに、低き天井、
斜に眺めやりたるばかり、
お六は煙草
燻らしつ、「
一昨日の晩も『浪の家』から、電話ぢや
能く解らないツてんで
態々使者まで来たぢやないか、何が面白くて湖月などにグヅついてたんだ、帰つたと
思もや、頭痛がするツて寝て仕舞つてサ、昨日も今日も御飯もたべず、頭が痛えか、腰が痛えか知らないが、一体まア、
何思つて居るんだ」
去れど花吉は答へんともせず、
ポンと、お六は灰吹叩きつ「花吉ツ、耳が
無いのか、お
前の目にや、
私と云ふものが何と見えるんだ、――
何処の者とも知れねエ乞食女の
行倒の側に、ヒイ/\泣いてる生れたばかりの女の児が、
余り可哀さうだつたから拾ひ上げて、乳の世話から
糞尿の世話、一人前に仕上げる迄、
何程の苦労だつたとも知れたもんぢやない、チヨツ、新橋の花吉が一人で出来たとでも思ふのか、オイ花吉、此の
生命は誰のお
蔭だよ」
煙管取り上げて、花吉の横顔、熱き
雁首にて突ツつきぬ、
花吉は
瞑目して
頭を垂れぬ「其の御講釈なら、
養母さん、
最早承はるに及びません、何の
因果でお前の手などに拾はれたものかと、前世の罪業が思ひやられますのでネ」
「何だ」といきまく養母の
面、ジロリ横目に花吉は見やりつ「ハイ、乞食の
母の
懐で、其時泣き
死に死んだなら、
芸妓などになり
下つて、
此様生耻曝さなくとも済んだでせうにねエ」唇
噛み
〆めて、ツと
面を
背向けぬ、
「ナニ、芸妓になり下つたト、――
余まりフザけた口きくもんぢやない、乞食の
女でも宮様だの、大臣さんだのの席へ出られると思ふのか」
「大臣が何だネ、
養母さん、お前は大臣なんてものが、
其様に
難有のかネ、――
私に取つちや一生忘られない
仇敵なんだよ――、あゝ、思うても
慄とする、三月の十五日、私の為めの何たる厄日であつたのか」
「三月十五日が、
何したと云ふんだ」
「お前が
私を拾つて下すつたのは、今から二十年前の
師走の廿五日、雪のチラつく
夕間暮と
能くお言ひだが、たツた五年の昔、三月十五日の花の夜、十六の春の一人の
処女を生きながら地獄へ落しなすつたことは、モウ
疾くにお忘れだらうネ」
花吉は、
養母の
尖唇を
怨めしげに
一瞥しつ「
養母さん、
私を食つた其鬼が、お前の
難有がる大臣サ、総理大臣の伊藤ツて人鬼サ、――私もネ、其れ
迄は世間なみの
温順い
嬢だつたことを覚えてますよ、それが官位の棒で押へられ、
黄金の
鎖に
縛られて、恐ろしい一夜を過ごした後は、泣いてもワメいても
最早取り返へしは付かず、
女性の
霊魂を引ツ裂れた
自暴女、
蕾で散つた昔の
遺恨を長き
紀念の花吉と云ふ、一生の恋知らずが、養母さん、お蔭様で一匹出来上りましたのサ――ヤレ侯爵の殿様だの、大勲位の
御前だのと、聞くさへも
穢はしい、
彼様狒見たいな
狂漢に高い
禄遣つてフザけさせて置く奴も奴だが、其れを拝み奉る世間の馬鹿も馬鹿だ、侯爵が何だ、大勲位が何だ、人をツケ――」
頬にかゝれる
鬢の乱れ、ブツリ
噛み切つて壁に吐きぬ、
「聞いた風なことホザきやがる、
銭取り道具と大目に見て居りや、菊三郎なんて大根に
逆せ上つて、――」
「オホヽヽヽ
養母さん、
逆上つて
丈は取消にして、下ださい、外聞が悪いから――それや、
狸々花吉と
異名取る程、酒を
呑みますよ、
俳優買では毎々新聞屋の御厄介にもなりますよ、
養母さん、酒でも呑んで気でも狂はせずに、
片時なりと
此様馬鹿げた稼業が勤まりますか、
俳優々々と
八釜敷言ふもんぢやありません、まア考へても御覧なネ、毎日毎夜
是れ程男の
玩弄になつて居りながら、此世で
仇讐の一つも
撃つて置かなかつたなら、未来で
閻魔様に叱かられますよ、
黄金で
叩れた
怨恨だから黄金で
叩り
復へして
遣るのさネ、俳優の様な意気地なしでも、男の片ツ端かと
思もや、養母さん、ちツとは
癪も収りまさあネ、あゝ、何卒一日も早く此様
娑婆は
御免蒙りたいものだと思つてネ」
「ヘン、
其様に
死りたきや、小米の様に殺してでも貰ふが
可いや」
「
養母さん、可哀さうにも花吉にはネ、兼さんとか云ふ様な、実意の
男が無いんですよ、
何せ
芸妓町などへウロつく奴に、真人間のある筈が無いからネ――あゝ、ほんたうに米ちやんが、
羨ましい――」
チリヽンと格子戸開きて、「
只今」と可愛い声してあがり来れる
未だ十一二の美しき
小女、只ならぬ其場の様子に、お六と花吉との顔
暫ばし黙つて
見較べつ、狭き
梯子ギシつかせて、
狐鼠狐鼠低き二階へ逃げ行けり、其の後影ながめ遣りたる花吉、「
彼の児の寿命もコヽ二三年だ――
養母さん、
最早罪造りも大抵にお
止しなねエ」言ひ棄てて起ち上がりつ、お六の叫ぶ「畜生」をフハリ聞き流がして、ツイとばかり
縁端へ出でぬ、
「――アヽ、いやだ/\」
冬枯の庭園の輝く日さへ一としほ
荒寥を添ふるが中を、
彼方此方と歩を移すは、山木の梅子と異母弟の剛一なり、
剛一は
洋杖もて庭石打ち
叩きつゝ「だから僕は不平だと言ふんです、姉さんは少しも僕を信用して下ださらんのだもの」
梅子はいとも
莞爾に「剛さん、
可笑しいのねエ、私が
何時貴郎を信用しなかつたの、私は貴郎の様な学問も品性も優等なる
弟のあることを、お友達にまで誇つて居る程ぢやありませんか」
「
虚偽ツ、
若し其れならば、姉さん、
貴嬢の苦悶を私に打ち明けて下すつても
可いぢやありませんか、秘密は即ち不信用の証拠です」
「秘密? 剛さん、私、何の秘密もありやしないワ」
云ふ顔、剛一は打ちまもりつ「其れ御覧なさい、其の通り姉さんは僕を信用なさらぬぢやありませんか、僕は
能く
貴嬢の胸中を知つてます」
赤く枯れたる芝生の上に腰をおろして、剛一は、空行く雲を
眺めやりつ「姉さん、
今春でしたがネ、僕は学校の運動場で、上野の森を見下しながら、藤野と話したことがありますよ」
突然の
新談緒に「藤野さんテ、
彼の
華厳滝でお死なすつた
操さんですか」
「
左様です、世間では彼が自殺の原因を、哲学上の疑問に在る如く言ひ
囃しましたが、あれぢや藤野の霊も浮ばれませんよ、――僕は
能ウく彼の秘密を知つてますからネ」
「ぢや、剛さん、何か深い
原因があつたのですか」
「
左様です、人生の不可解が
若し自殺の原因たるべき価値あるならば、地球は
忽ち自殺者の
屍骸を以て
蔽はれねばなりませんよ、人生の不可解は人間が墓に行く迄、片手に
提げてる継続問題ぢやありませんか、
其様乾燥無味な
理窟で、
彼の多感多情の藤野を殺すことは出来ませんよ」
「剛さんとは兄弟の様に親しくて、
私のことも姉さんと呼んで下だすつたので、ほんたうにお可哀さうだと思つてネ」
「姉さん、藤野は実に可哀さうでした――彼の自殺は失恋の結果なんです」
「エ、――失恋?」
「左様です、
彼の『
巌頭の感』は失恋の血涙の紀念です、――彼が言ふには、我輩は
彼女を思ひ浮かべる時、此の
木枯吹きすさぶが如き
荒涼の世界も、忽ち
春霞藹々たる和楽の天地に化する、
彼女を愛することに
依て我あるを知ることが出来る、――彼女は
即ち我が生命であると自白して居ましたよ、そして僕に
向て、山木、君は果して理想の佳人が無いかと詰問しますからね、僕は言つて
遣つたのです、――山木剛一にも理想の佳人があるツ」
「アラ、剛さん」
「では其人は誰かと聞きますから、僕は藤野に言つたのです――僕の理想の佳人は
家の姉さんである」
「剛さん、マ、何を
貴郎」と梅子はサツと、
面を
紅かめぬ、
「姉さん、本当です、――すると藤野も非常に感動して、君は実に幸福だと言ひました、左様です、僕は実に幸福です、御覧なさい、藤野の佳人は
忽ち他に
嫁いで
仕舞つたのです、藤野の生命は其時既に奪はれたのです、
華厳滝へ投げたのは、
空蝉の如き冷たき藤野の屍骸です、去れど姉さん、貴嬢が独身で居なさらうとも、又結婚なさらうとも、僕は永久に
貴嬢を姉さんと呼ぶことが出来るぢやありませんか」
黙して目を閉ぢたる姉の
面を見上げたる剛一「姉さん、僕は実に
此の如く
貴嬢を敬ひ、貴嬢を慕ひ、貴嬢を信じて、何事をも
隠くさないものを、姉さん、貴嬢は何故、僕を信用して下ださらないですか」
「姉さん、僕は貴嬢が母の
異つてる為めに、僕を疎遠になさるとか、
悪き母より生れたる僕の故を以て……」
梅子は、急ぎて
弟を
遮りつ「剛さん、
貴郎は何を
仰しやるんです」
「姉さん、言はせて下さイ、
何卒十分に言はせて下さイ――僕は常に母の不心得を、
仮令無教育の為めとは言ひながら実に情ないことと思ふのです、
大洞の伯父――
全で不義
貪慾の
結塊です、父さんの如きも
何ですか、薩長
藩閥と
戦て十四年に政府を退き、改進党の評議員となつて、自由民権を唱へなすつた名誉の歴史を、何と御覧なさるでせう、――其れが
何です、藩閥政府の未路の奴等に
阿媚して、国民の
膏血を分けて貰つて、不義の
栄耀に
耽り、其手先となつて
昔日の
朋友の買収運動をさへなさるとは、姉さん、まア、何と云ふ堕落でせうか」
剛一は姉の側に膝押し進めつ、「姉さん、僕は、
此の如き人の児と生まれ、此の如き人の
姪と言はれることを耻づかしくて堪まらないのです、
然るに姉さん、世間の奴等は何と云ふ
破廉耻でせう、学校の校長でも教員でも、山木剛造の児であり、大洞利八の
姪である為めに、僕に対して特別の取扱をするんです、彼等と
雖も
父や伯父の不義を知らんことは無い、
只だ黄金に
阿諛諂佞するんです――姉さん、
貴嬢は僕に比ぶれば余程幸福です、貴嬢の
実母さんは実に偉い方であつたさうですし、父さんも未だ堕落以前の人であつたんだから――けれど其の為めに姉さんが僕を
軽蔑したり、
何かなさる人でないことを確信してるから、嬉しいんです」
「剛さん、
其様こと言ふものぢやありません、
何うぞ其様こと言はないで下ださイ」
「けれど、姉さん、
何うぞ僕に言はせて下ださい、――一体僕の家は何で食つて居るんです、何で
此様贅沢が出来るんです、地代と利子と、
賭博と泥棒とぢやありませんか――
否や、姉さん、少しも
酷い言ひ分ぢやありません、
正直のことです、――実直に働いてるものは家もなく食物もなく、監獄へ往つたり、餓死したり、鉄道往生したりして、利己主義の悪人が其の血を
吸て、
栄耀栄華をするとは何事です――父さんは九州炭山の大株主で重役だと云ふので、
威張て居なさる、僕等は其の利益で
斯く安泰に生活して居るけれど、僕等を斯く安泰ならしめてる
彼の炭山坑夫の状態は
何うです、――現に父さんでさへ、彼等を熊の如き有様だと言うて居なさるぢやありませんか、
然かし彼等は熊ぢやありません、人間です、同胞兄弟です、僕は
彼の
暖炉に燃え盛る
火焔を見て、無告の坑夫等の愁訴する、
怨恨の舌では無いかと
幾度も驚ろくのです、僕は今朝『同胞新聞』を見て実に胸を打たれたです――父さんは同胞新聞を
家へ入れることを禁じなさるけれど、僕は毎朝買つて見て居るんです――九州炭山の坑夫間に
愈々同盟が出来上がらんとして、会社の方で鎮圧策に
狼狽してると云ふ通信が
載つてたのです、――僕は
端なくも篠田さんが
曾て『労働者中
尤も早く自覚するものは、
尤も世人に
軽蔑されて、尤も生活の悲惨を尽くしてる坑夫であらう』と予言された演説の一節を、思ひ浮べました、姉さん、篠田さんは
曾て此事を予言なされたのです」
剛一は「篠田」の一語に力を
籠めて姉の
面を見たり、
ベンチに腰打ち掛けたるまゝ梅子は無言なり、
剛一は少しく声をひそめつ「僕は姉さんが松島の野郎の縁談を断然拒絶なされたと聞いて、実に愉快で堪まらんのです、
彼奴の家を御覧なさい、
彼の
放蕩を御覧なさい、軍艦のコムミッションと、御用商人の
賄賂ぢやありませんか、――
貴嬢を妻に欲しいと云ふのも、決して貴嬢の学識や品性を重んじて言ふのぢや無い、
只だ貴嬢の特別財産を見込むのだ、実に失敬ナ――けれど姉さん僕は貴嬢に一つの疑問があるのです」
「疑問て、剛さん」
「姉さん、貴嬢がほんたうに僕を愛し、僕を信じて下ださるなら、
何卒僕に打ち明けて安心させて下ださいませんか、僕は姉さんの独身主義と云ふのが
解からないのです、其れは主義から出た結論でなく、境遇から来た迫害だと僕は思ふのです、――其れは貴嬢の持論に似合はぬ甚だ
卑怯なことだと思ふのです」
「卑怯つて何です」
「其れは、少しく言葉が過ぎたかも知れませんが、
然かし姉さん、旧思想の黒雲を誰か先づ踏み破る人が出なければ、世に改革の
曙光を見ることが出来ないと云ふのが、姉さんの主張ではありませんか、――今ま
貴嬢は
啻に旧思想のみならず、現時の不正なる勢力の
裡に取り囲まれて居なさるのです、
何故、姉さん、
貴姉は之を打ち破つて、幾百万の婦女子を
奴隷の境遇から救ふべき先導をなさいませんか、神聖なる愛情を殺して、独身主義などと云ふ
遁辞を作りなさるのは、僕は実に大不平です」
「剛さん」
「いや、姉さん、僕は
貴嬢の理想の
丈夫を知つて居ます、貴嬢の理想の丈夫は
即ち僕の崇拝して居る所の
丈夫です、僕は実に嬉しくて
堪まらんのです、――僕が此の父の罪悪の家に在りながら、常に心に光明を持つことの出来るのは、姉さん、貴嬢の純潔なる愛の為めです、――此上に貴嬢の理想の丈夫の口から『我が弟よ』と呼んで貰ふことが出来るならば、僕は世界に
於て外に求むる所はありません」
剛一はムンズとばかりに梅子の手を握りつ「姉さん、僕は常に篠田さんの写真に
向て『兄さん』と小声で呼んで見るんですよ」
梅子の手は
震ひぬ、
「姉さん、僕は今でも絶えず篠田さんの
教を受けて居るんです、篠田さんに教会放逐と云ふ侮辱を与へたものは僕の父です、父の利己心です、無論其等の事を意に介する様な篠田さんぢやない、――井上でも大橋でも脱会の決心を
飜へしたのは、篠田さんに
懇々説諭されたからでもありますが、姉さん、篠田さんの居ない教会に、寂しく残つて居なさる貴嬢を
見棄てるに忍びないと云ふのが、
尤も著しき彼等の動機なんでしたよ」
良久ありて、梅子は目をしばたゝきつ、「剛さん、
軽卒なことを仰しやつてはなりません、
貴郎は篠田さんを誤解して居なさるから――」
「誤解? 誤解とは何です」
「いエ、
慥に
貴郎は誤解して居なさいます、剛さん、貴郎は篠田さんが常に洗礼のヨハネをお説きになつたことを御聴きでせう、又た実に殆どヨハネの如く生活して居なさることも御覧でせう、家庭の歓楽と云ふ如き問題は、
最早や篠田さんのお心には無いのです、
勿論彼の様なる荘厳の御精神に感動せざる
女性の心が、
何処にありませう、けれど剛さん、若し自分一人して其の愛情を
獲たいと思ふ
女があるならば、其れは
丁度申しては、失礼ですが、
私共の父上や、貴郎の伯父上が、自分の手一つに社会の富を占領したいと
思召すのと、同じ罪悪です」
夕ばえの富士の雪とも見るべき神々しき姉の
面を仰ぎて、剛一は、
腕拱きぬ、
鳥の群、空高く歌うて過ぐ、
日露両国の間、風雲
転た急を告ぐるに連れて、梅子の頭上には結婚の回答を
促がすの声、
愈々切迫し来れり、
継母の権威さへ
遂に梅子の前に其光を失ふに及びて、今は父剛造自ら
頭を垂れて哀願せざるべからずなりぬ、
此夜彼が「梅子、相変らずの勉強か」と、いとも
柔らかに
我女の書斎を
訪れしも
是れが為めなり、
あらゆる
威嚇、甘言、情実、誘惑に対する彼女の
防禦方法は、只だ沈黙と独身主義とのみ、
流石の剛造も今は
殆ど攻めあぐみぬ、
「デ、梅子、
私は決してお前が篠田などと関係があるの何のと
思もやせぬ、私はお前が
其様馬鹿と思もやせぬから少しも気には留めぬが、
大洞が
切りに其事を言ふので、誰が言うたか松島大佐も其れが為めに
甚く感色を悪るくして居たと云ふのだから、――篠田も
最早教会を除名した上は、
風評も自然立ち消えになるであらうが、
兎角世間は
五月蝿ものだから、一層気を付けて――ナ其れに其の新聞にもある通り」と剛造ほ梅子の机上にヒロげられたる赤新聞を
一瞥しつ「篠田の奴、実に
怪しからん
放蕩漢だ、
芸妓を
誘拐して妾にする如き
乱暴漢が、
耶蘇信者などと澄まして居たのだから驚くぢやないか」
剛造は
低頭ける
我女の美くしき横顔チラと見やりて、片膝
起てつ「ぢや、梅子、
私は
明朝一番
車で九州まで行つて来るから――是れも
皆な篠田の
仕業だ、坑夫共を
煽動して、賃銭値上の同盟などさせをるのだ、愈々日露開戦になれば石炭が上ると云ふ所を見込んでの
悪策だ、――歳暮ではあり、
東京の用事も手を抜く訳にならぬけれど、今日も長文の電報で、直ぐ来て呉れねば
何なことになるも知れぬと云ふのだから
拠ない――実に梅、悪い奴共の
寄合だ、警視庁へ掛合つて社会党の
奴等片端から牢へでもブチ込まんぢや安心がならない、――其れで一週間程で帰る
積だから、其間に松島との縁談、
能く考へて置いて呉れ、
私は決してお前の
利益にならぬ様なこと勧めるのぢやない、――兼てお前は別家させる
横で、小石川の地所も公債の二万円と云ふものも、既にお前の名義に書き換へて置いたのだが、嫁に行くも
婿を取るも同じことだ、――今こそ
未だ大佐だが、薩州出身で未来の海軍大臣とまで
望を
属されて居る松島だから、梅子別段不足もあるまいぢや無いか――モー九時過ぎた、是りや梅子飛んだ勉強の邪魔した」
剛造はノサ/\と出で行けり、
* * *
徐ろに眼を開きたる梅子の視線は、いつしか机上に開展されたる赤紙の第三面に落ちて、父が墨もて円く
標せる雑報の上をたどるめり、

社会党の艶福、花吉の
行衛
婀娜たる容姿は陽春三月の桜花をして艶を失はしめ、腕の
凄さは厳冬半夜のお月様をして
面を
掩はしめたり、新橋両畔の美形雲の如き間に立ちて、独り
嬌名を
専らにせる新春野屋の花吉が、此の頃
俄に其の影を見せぬは、必定
函根の湯気
蒸す所か、
大磯の
濤音冴ゆる
辺に
何某殿と不景気知らずの
冬籠り、
嫉ましの御全盛やと思ひの外、
実に驚かるゝものは人心、気の知れぬと古人も言ひける
麻布は
本村の草深き篠田長二のむさくろしき屋台に
大丸髷の新女房……義理もヘチマも借金も踏み倒ふしの社会主義自由廃業の一手専売、
耶蘇を棄てて妻を得たとの
大涎、筒ツぽ袖には拭き尽せまじ……彼が積年の偽善の
仮面をば深くな
咎めそ、長二君とて木から生まれた男ではごんせぬ、
梅子は胸を押へて
復た目を
塞ぎぬ「――本当だらうか――」
麻布本村の阪を上がり行く牛乳屋の小僧と八百屋の小僧、
「
其処の篠田さんナ、
彼様不用心な家見たことが
無いぜ、暗いうちに
牛乳を配るにナ、表の戸を開けて
裡へ置くのだ、あれで
能く泥棒が
這入らねエものだ」
「ナニ、年中泥棒に
遭つてるださうナ、これから広尾へ掛けて貧乏人の巣だから、
堪まつたもんぢやねエやナ、所がお
前言ひ分が面白いや、書生の大和ツて
男が言ふにやネ、誰も好んで泥棒などするのでは無いだから、余つてるものが
在るなら、無いものに融通するのは人間の義務で、他人が困つてるのに自分ばかり
栄耀してるのが、ほんたうの泥棒だとよ」
「ふウム、一理あるナ、――所で近来
素敵な
別嬪が居るぢやねエか、
老母付きか何かで」
「
母子ぢや
無いよ、
老婆の方は月の初めから居るが、別嬪の方はツイ此頃だ、何でも新橋あたりの
芸妓あがりだツてことだ」
「へい、
筒袖先生、マンざら
袖無エばかりでも
無いと見えるナ」
「所が言葉の使ひツ
披から察しると、
其様らしくも無い、馬鹿丁寧なこと言ひ合つてるだ」
「どうも此の
界隈にや、渡辺国武だの、
津田仙だの、矢野二郎だの、安藤太郎だのツて
一と
風変つた連中のお揃ひだナ」「
何れ麻布七不思議ツてなことになるのだろ、ハヽヽヽヽ」
* * *
小僧等の目をさへ驚かしたる篠田方の
二個の
女性、老いたるは
芸妓殺を以て満都の口の
端に
懸りたる石川島造船会社の職工兼吉の母にて、若きは近き頃迄
烏森に
左褄取りたる花吉の変形なり、
夕日
斜に差し入る狭き
厨房、今正に
晩餐の準備最中なるらん、
冶郎蕩児の
魂魄をさへ
繋ぎ留めたる
緑滴らんばかりなる
丈なす黒髪、グル/\と引ツつめたる
無雑作の
櫛巻、
紅絹裏の長き袂、しごきの
縮緬裂いて
襷凛々敷あやどり、ぞろりとしたる
裳面倒と、クルリ
端折つてお花の水仕事、兼吉の母は
彼方向いて
竈の下せゝりつゝあり、
「考へて見ると
老女さん、ほんとに世の中は面白いものねエ、かうした処でお目に
懸つて、
此様なお世話さまにならうなどとは、夢にも思やしないんですもの、此頃中の
私の心と云ふものは、老女さん、
昨夜もお話した様なわけでネ、自分ながら思案に暮れましたの、どうせ泥水商売してるからにや、
普通の
女の様なこと思つたからとて、
詮ないことなんだから、
寧そ松島と云ふ
男の所へ行つて、思ふ存分
我儘を働いて
遣らうかなどとも迷つたりネ、
自暴になつて腹ばかり立つて、
仕様も模様も無かつたのですよ、スルと湖月の御座敷で始めて
此家の先生様にお目に掛りましてネ、兼吉さんと米ちやんとのお話を承はつてる中に、私の心が妙な風に成つて来ましてネ、
仮令女性の
節操を
涜したものでも、其が自分の心から出たのでないならば、
咎めるに及ばぬと
仰しやつたお言葉が、ヒシと私の胸を
刺ましたの、して見ると私などでも余り世間を怨んで、ヒガミ
根性ばかり起さんでも、是れからの心の持ち様一つでは、人様の前へ顔出しが出来るやうになれるかと
不図思ひ浮かびましてネ、其れから二日二晩と云ふもの考へ通しましたけれど、
如何したら
可いのか少しも方角が付かぬぢやありませんか、一つ篠田様にお願申して見る外無いと思ひましてネ、二日目の夕方、ブラリと出て新聞社へ参つたのですヨ、――先生様が、
凝と私の顔を見つめなすつて、『
貴女の御一身は
私が御引き受け致しました、御安心なさい』と仰しやつた御一言が、
森と骨にまで
浸み
徹りましてネ、有り難いのやら、嬉しいのやら、訳なしに涙が
湧き出るぢやありませんか」
言ひつゝ
彼女は
襦袢の袖もて
窃と眼を
拭ひつ「それから
老女さん、
燈が
点いて後、
此家へ連れて来て戴いたのですがネ、あの土橋を渡つて烏森の方を振り返つて見た時には、コヽに廿一年暮らしたのかと思ふと、
怨めしい様な、
懐しい様な、何とも言へない気がして胸が張り
割ける様でしたの、アヽ
此処の為めに生れも付かぬ
賤しい体になつたのだと思ひついて、そして先生様の後姿をお見上げ申すとネ、
精神が
鞏固して、
籠を出た鳥とは、此のことであらうと飛び立つ様に思ひましたよ――」
「ほんとにねエ」と兼吉の
老母も煙に
咽びつ、
「それからネ、
老女さん」と、お花は
明朝の米かしぐ手を
暫ばし休めつ「歩きながらのお話に、此頃湖月で話した兼吉の
老母が
家へ来て居ると先生様が
仰つしやるぢやありませんか、
老母さん、
私どんなに嬉しかつたか知れませんよ、お目に懸つた方でも何でも無いんでせう、けども
米ちやんのお
姑さんだと思ひますとネ、
何うやら米ちやんにでも逢ふやうな気がするんですもの、――私は
斯う云ふお転婆、米ちやんは
彼の通りの
温柔やでせう、ですけども、
何うしたわけか
能く気が合ひましてネ、
始終往来して
姉妹の様にして居たんですよ、あゝ云ふことになる晩まで、一つお座敷で色々語り合つた程ですもの――其の縁に
繋がる老母さんに
図らぬお世話様になると云ふのも、ほんとに米ちやんの引き合はせぢや無いかと思はれましてネ」
小米と聞けば直ちに一粒種の我子のこと思ひ出づる老婆は、セキ上ぐる涙を狭き袖に
抑へつ「あゝ云ふことになると云ふも、皆な前世からの約束事と
諦めてネ――それに
斯うやつて
此方の先生様が御親切にして下ださるもんですから、せめては兼吉が
生の父にも増して
頼にして居た先生様の、御身のまはりなりと御世話致したら、牢屋に居る
伜も定めて喜ぶことと思ひましてネ――」
「ほんとに
老女さん、
何したら篠田様のやうな御親切な御心が
持ませうかネ――
私ネ老女さん、男なんてものは、
皆な
我儘で、道楽で、
虚つきで、
意気地なしのものと思つてたんですよ、――
先生様で私、驚きましたの、一寸お見受け申すと、何だか大変に
怖さうで、不愛想の様で居らつしやいますが、心底に
温柔い可愛らしい所がおありなすつて、
彼れが威あつて
猛からずとでも云ふんでせうかねエ――籍の方の詰も落着したから、明日の何とか、さウ/\、クリスマスとか云ふのが済んだなら、大久保の慈愛館とやらへ行くやうにと、今朝もお話下ださいましたけれどもネ、老女さん、私、
何うやら
此家が自分の生まれた所の様に思はれて、何時までも老女さんと一所に居たい様な気がして、
堪まりませんの」
「花ちやん、
其様に
柔しく言うてお呉れだと、何だかお前さんが米ちやんの様に思はれてネ」
「
老女さん、
私も
左様ですよ、始めて
此方へ上つて――疲れたらうから早くお
寝ツて
仰つて下だすツて、老女さんの傍へ寝せて戴いた時――私、ほんとに母の懐へ抱かれでもした様な気がしましてネ、
五体が
延びりして、始めてアヽ世界は広いものだと、心の底から思ひましたの、――私、老女さん、二十年前に別れた母が未だ
存へて居て、
丁度廻り合つたのだと思つて孝行しますから――私の様なアバずれ者でも
何卒、老女さん、
行衛知れずの娘が帰つて来たと思つて下ださいナ」
老婆は涙にムセびつゝ、
首肯くのみ、
「オヽ、嬉しい」と、お花は涙一杯の美しき眼に老婆を仰ぎつ「ぢや、今から
阿母さんと言つても
可う御座んすか――何だか
全で夢の様ですのねネ――昨日までの
邪慳な心が、何処へか
去つて仕舞つたの――
私ヤ、すつかり生れ変はりましたわねエ――阿母さん、――」
* * *
障子一重の次の
室に、英文典を復習し居たる書生の大和、両手に頭抱へつゝ、涙の
霰ポロリ/\、
十二月廿五日の
夕は来りぬ、寒風枯草を吹きて、暗き空に星光る様、そぞろに二千年前の
猶大の
野辺を
偲ばしむ、
篠田長二の本村の家には戸障子明け放ちて正面の壁には
耶蘇馬槽に臥するの大画を青葉に飾り、
洋燈カン/\と輝く
下には、八九歳より十二三歳に至る少年少女二十余名打ち
集ひて
喧々囂々、兼吉の老母、お花、書生の大和など
切りと其間を
周旋しつゝあり、小急ぎに
訪ひ来れるは渡辺の老女なり、
篠田は自ら出で迎へつ「オヽ、
老女さん、
能う来て下さいました、今夜は近所の
小児等を招きまして、
基督降誕祭を営むことに致しまして、――其上、十二月廿五日と云ふ日に特別の関係ある婦人の新客がありますので、
旁々御光来を願ひました」
「何の、先生、
昨夜はネ、教会の
降誕祭で御座いましたが、今年は先生の御顔が見えず、面白い御話を御聞きすることが出来ないツてネ、去年の時のことばかり言ひ出して、皆様
寂しい思をしたので御座いますよ、今晩は先生の
御宅の御祝に
御招を受けましたので
斯様嬉しいことは、御座いません」
今や式は始まりぬ、少年少女
何れも
呼吸を殺ろし眼を円くして、
訝しげに見遣る、
大和一郎が得意の美音を振り立てて讃美歌の独吟あり、
「ひとにはみめぐみ 地にはやすき
かみにはみさかえ あれとうたふ
あまつつかひらの きよき声は
しづかにふけゆく 夜にひびけり」
「いまなほみつかひ つばさをのべ
つかれしこの世を おほひまもり
かなしむみやこに なやむ鄙に
なぐさめあたふる うたをうたふ」
「おもにをおひつゝ 世のたびぢを
ゆきなやむ人よ かしらをあげ
よろこばしき日を うたふうたの
いとたのしきこゑ きゝていこへ」
「みつかひのうたふ 平安きたり
よゝのひじりらの まちし国に
エスを大君と たゝへあがめ
あまねく世のたみ たかくうたはん」
篠田は
起つて聖書を読み、
祈祷を捧げ、
扨て
今宵の珍客なる少年少女に
向て勧話の口を開けり、
「
貴所等と
私とは長く御近所に住つて居りますが、今まで仲よく一所に遊ぶ様な
機会がありませんでした、今晩は
能くこそ来て下さいました、――今晩
貴所方をお
招申したのは、
耶蘇基督と云ふお方の御誕生日を、御一所にお祝ひ
致たさうと思つたからです、
貴所方も
皆な生れなすつた日がある、其日になると、
阿父さんや、
阿母さんが、今日は誰の誕生日だからと、何かお祝をして下ださるでせう」
「アイ、
二十日が俺の誕生日だツて、
阿母が今川焼三銭買つて、
父の仏様へ上げて、あとは俺が皆な食べたよ」と、
突如に返事したるは、
覚束なき賃仕事に細き
烟立て兼ぬる
新後家の
伜なり、
クス/\笑ふものある中に篠田は
首肯つ「
丁度其れと同じく、
基督の御誕生日には
私共一同、日本人ばかりでは無い、世界中の人が神様へ御礼を申し上げるのです、基督のことは今ま歌を歌ひなされた、大和先生から段々御聞きなさい、
私が差当り一つ御話して置くのは、――
貴所方が忘れない様に聞いて
置て頂きたいのは、――二千年
昔時にお生れになつた外国人の基督が、何時までも/\世界中の人に、誕生日を祝つて貰ふと云ふ不思議な
理由です、基督と云ふお方は
極々貧乏な
家へお生れになつたのです、此の壁に
懸けてある画にある様に、旅の宿屋の馬小屋で馬の
秣桶を、
臥床になされたのです、
阿父は貧しき大工で、基督も矢張り大工をなされたのです――
能く御聴きなさい、貧乏と云ふことは
左まで耻かしいことではありません、私も
貴所方も
皆な
汚穢着物でせう、私も貴所方も皆な貧乏人です、けれど、貧乏や着物の汚穢のを気にしてはなりませんよ、
汚穢心を持つて、奇麗な
衣服を着て居る人があるなら、其人こそ
真正に耻づかしい人です」
お花は
孰れも木綿の
揃の中に、
己れ
独り
忌はしき
紀念の絹物
纏ふを省みて、身を縮めて
俯けり、
篠田は語り
継く「人間の
尤も耻づかしいのは、
虚言を吐くことです、
喧嘩することです、
懶まけることです」
忽ち座敷の一隅に声あり「お虎さんは、今日俺に鉛筆呉れるなんて
虚言を言つたぜ」
「ウソ、熊吉さんが
私に石を
打つつけたもの」とて早くもメソ/\と泣く、
彼方の一隅には「松公ン
所の
父は朝から酒飲んでブウ/\ばかり、育つてるぢやねエか」
「何だ
手前の
母は毎晩四の橋へ
密売に出るくせしやがつて……」
お花の目には涙ありき、
少年少女は
何れも
基督降誕祭の贈物貰ひたれば、歓喜の声振り立てて帰り行けり、
「アヽ、実に今年は愉快なクリスマスを致しました」と篠田は喜色、
面に
溢る、
「それに先生、お花さんとやらに、
老女さんに、お二人まで
在らつしやるので、
何程お
賑かとも知れませんよ、殿方ばかりのお
家は、
何処となくお
寂しくて、お気の毒で御座いましてネ」渡辺の老女はホヽ笑みつゝ「大和さん、
貴郎もマア、お勝手の方を御役御免におなりなさいましたのねエ」
「なあに、
老女さん、花さんは夜が明けると大久保の慈愛館へお行でになるんだから、明日から、僕が
又た復職するんです」と大和は笑ふ、
お花は
俯きて何やら気の進まぬ
体、
「何だか
私も花ちやんにお別れするが
厭でなりませんの」とい兼吉の老母もつぶやく、
「
老女さん」と篠田は渡辺の老女を顧みつ「花さんは
大切な体です、
将来に大きな
事業をなさらねばならぬ役目を
負んで居られますので、又た花さんの性質に
極く適当した役目であると思ひますので、矢島の
老女史や、島田の
奥様に
能くお話して御依頼しましたが、
何れも快く引き受けて下ださいましたから、当分慈愛館で修業なさるのです」
「ですけども先生」とお花は顔
僅に
擡げつ、「私の様なものは
兎ても世間へ
面出しが出来なからうと思ひましてネ、
寧そ御迷惑さまでも、お
家で使つて戴いて、大和さんや、
老母さんに何か教へて戴きたいと考へますの――」
「花さん、何時の間に
貴女は
其様な弱き心にお
化りでした、――先夜始めて新聞社の二階で御面会致した時、貴女と同じ不幸に
陥つてる
女、又陥りかけてる女が何千何万とも
限ないのであるから、其を救ふ為めの
一個の
証人にならねばならぬと申したれば、貴女は身を
粉に砕いても致しますと固く約束なされたでせう」
と篠田はお花を
奨ましつ「
誠に世の中は不幸なる人の
集合と云うても
差支ない程です、現に今ま
爰へ
団欒てる五人を御覧なさい、皆な
社会の
不具者です、渡辺の老女さんは、
旦那様が鹿児島の戦争で
討死をなされた後は、
賃機織つて一人の御子息を教育なされたのが、
愈々学校卒業と云ふ時に肺結核で
御亡なり、――大和君の
家は
元と越後の豪農です、
阿父さんが国会開設の運動に、地所も家も打ち込んで仕舞ひなすつたので、今の議員などの中には、大和君の
家の厄介になつた人が幾人あるとも知れないが、今ま一人でも其の遺児を顧るものは無い、
然かし大和君は我も
殆ど乞食同様の貧しき苦痛を
嘗めたから、同じ境遇の者を救はねばならぬと、此の近所の貧乏人の
子女の為め今度学校を開いたので、今夜のクリスマスを以て其の開校式を挙げた積りのです、――兼吉君のことは花さん、既に御聞になつたでせう、兼吉君の
阿父さんが、自分の
財産を
挙げて
保証の義務を果たすと云ふ律義な人で
無つたならば、
老婆さんも今頃は塩問屋の
後室で、兼吉君は立派に米さんと云ふ方の
良人として居られるのでせう、――私自身を言うて見ても、
秩父暴動と云ふことは、明治の舞台を飾る小さき花輪になつて居るけれ共、其犠牲になつた無名氏の一人の
遺児が、父母より
譲受けた手と足とを力に、
亜米利加から
欧羅巴まで、荒き浮世の波風を
凌ぎ廻つて、今日コヽに同じ境遇の人達と
隔なく語り合つて居るのです、私の近き血縁を云へば
只た一人の伯母がある、今でも訪ふ人なき秩父の山中に
孤独で居る、世の中は不人情なものだと断念して
何しても出て来ない、――花さん、
屈辱を言へば、貴女一人の
生涯ではない、
只だ屈辱の真味を知るものが、始めて
他を屈辱から救ふことが出来るのです」
一座しんみりと
頭を垂れぬ、
「御覧なさい、救世主として
崇敬はるゝ
耶蘇の御生涯を」と篠田は壁上の
扁額を指しつ「
馬槽に始まつて、十字架に終り給うたではありませんか」
多事多難なりける明治三十六年も今日に尽きて、今は其の夜にさへなりにけり、寺々には百八煩悩の鐘鳴り響き、各教会には
除夜の
集会開かる、
永阪教会には、
過般篠田長二除名の
騒擾ありし以来、信徒の心を離れ離れとなりて、
日常の
例会もはかばかしからず、信徒の
希望なる
基督降誕祭さへ
極めて
寂蓼なりし程なれば、除夜の
集会に
人足稀なるも
道理なりけり、
時刻には
尚ほ
間あり、
詣で来し人も多くは牧師館に赴きて、広き会堂電燈
徒らに寂しき光を放つのみなるに、不思議や
妙へなる
洋琴の
調、美しき讃歌の声、固く
鎖せる
玻璃窓をかすかに
洩れて、暗夜の寒風に
慄へて急ぐ憂き世の人の足をさへ、
暫ばし
停めしむ、
洋琴の前に座したるは山木梅子、
傍に聴き
惚れたるは渡辺の老女、
「今度は
老女さんのお好きな歌を弾きませう」と、梅子が譜本繰り返へすを、老女はジツと見やりて思はず
酸鼻りぬ、
「
何うかなさいまして、
老女さん」
老女は袖口に
窃と
瞼拭ひつ「何ネ、――又た
貴嬢の
亡母さんのこと思ひ出したのですよ、――
斯様立派な貴嬢の
御容子を一目
亡奥様にお見せ申したい様な気がしましてネ、――」
答へんすべもなくて、
只だ鍵盤に
俯ける梅子の横顔を、老女は
熟く
熟くとながめ「
何して、梅子さん、
貴嬢は
斯うまで奥様に似て居らつしやるでせう、さうして居らつしやる御容子ツたら、
亡母さん
其儘で
在らつしやるんですもの――此の
洋琴はゼームス
様が亡母さんの為めに寄附なされたのですから、貴嬢が之をお弾きなされば、
奥様の
霊が
何程に喜んで聴いてらつしやるかと思ひましてネ――オホヽ梅子さん、又た
年老の愚痴話、御免遊ばせ――」
「アラ、
老女さん、そんなこと――此の教会で
亡母のこと知つてて下ださるのは、今は
最早老女さん御一人でせう、
家でもネ、
乳母が亡母のこと言ひ出しては泣きます時にネ、きツと老女さんのこと申すのですよ、
私、老女さんに抱いて戴いて、
亡母と
永訣の
挨拶をしたのですとネ、――私、老女さん、此の洋琴に向ひますとネ、
何うやら亡母が
背後から手を取つて、弾いてでも呉れる様な気が致しましてネ、
不図、振り向いて見たりなどすることがあるんですよ、――私ネ、老女さん、此の教会を棄てることの出来ないのは、こればかりなんです――」
「まア、
貴嬢、飛んでも無いこと
仰しやいます、此上貴嬢が退会でもなさろものなら、教会は
全で
闇ですよ、篠田さんの御退会で――」
思はず言ひ掛けて、老女は
俄に口に手を当てぬ、「ほんとに
老女さん、篠田さんのことでは私、皆様にお顔向けがならないのです、――老女さん、近く篠田さんに
御面会なさいまして――」
「ついネ、此の廿五日にも
参上つたのですよ、御近所の貧乏人の
子女を
御招なすつて、クリスマスの御祝をなさいましてネ、――其れに余りお広くもない
御家に築地の女殺で
八釜かつた男の
母だの、自由廃業した
芸妓だのツて御世話なすつて居らつしやるんですよ、ほんとに感心な方ですことネ――」
「其の
芸妓のことで、
老女さん、新聞などには大層、篠田さんの悪口が書いてあつたぢやありませんか」梅子の声は低く震へり、
「
左様ですツてネ、
貴嬢、篠田さんが自分の妾になさるんだとか何とか
書ましたつてネ、
余まり馬鹿々々しいぢやありませんか、ナニ、
皆な自分の心で
他を計るのですよ、クリスマスの翌日、
彼の慈愛館へ
伴れてお
行になりましたがネ、――貴嬢、私の
伜が生きてると
丁度篠田
様と同年のですよ、私、
彼の方を見ると
何時でも涙が出ましてネ」
梅子はホツと
面赧らめつ「何と云ふ失礼な新聞でせうねエ」
此時、ベンチにはボツ/\人の顔見えぬ、長谷川牧師は扉を排して入り来れり、浅き微笑を
頬辺に浮べて、
午後五時三十分、東海道の
上ぼり
車、正に大磯駅を発せんとする
刹那、プラットホームに
俄に足音
急はしく、駅長自ら
戦々兢々として、一等室の扉を
排けば、厚き
外套に身を固めたる一個の老紳士、平たき
面に半白の
疎髯ヒネリつゝ
傲然として乗り入る
後ろより、
未だ十七八の盛装せる
島田髷の少女、
肥満なる体をゆすぶりつゝ
笑傾けて従へり、
発車の笛、寒き
夕の潮風に響きて、汽車は「ガイ」と一と
動りして進行を始めぬ、駅長は
鞠躬如として窓外に平身低頭せり、
去れど車中の客は元より
一瞥だも与へず、
未だ座には着くに至らざりし
彼の少女は、突如たる
車の動揺に「オヽ、
怖ワ」と言ひつゝ老紳士の
膝に倒れぬ、
紳士は
其儘かき
抱きて、其の白きもの
施こせる額を
恍惚と
眺めつ「どうぢや、浜子、嬉しいかナ」と言ふ顔、少女は
媚を
湛へし
眸に見上げつゝ「
御前、奥様に
御睨まれ申すのが
怖くてなりませんの」
「ハヽヽヽヽ何に奥が怖いことあるものか、あれは梅干
婆と云ふのぢやから、
最早嫉くの
何うのと云ふ年ぢや無いわい、安心しちよるが
可い、――其れよりも世の中に
野暮なは、
其方の伯父ぢや、
昔時は壮士ぢやらうが、浪人ぢやらうが、今は
兎に
角芸人の
片端ぢや、此頃の乱暴は
何うぢや、
姪を売つて権門に
諂ふと世間に言はれては、新俳優の名誉に
関はるから、
其方を取り戻すなどと、イヤ、飛んだ活劇をし居つたわイ、第一
其方の
心中を察しない
不粋な仕打ぢや、ナ、浜子」
「あの時は、御前、
何うなることかと
私、ほんとに
怖う御座いましたよ、けども御前、伯父も本心から
彼様こと致したのでは御座いませぬでせうと思ひますの、御前の
御贔負に甘えまして
一寸狂言を仕組んで見たので御座いますよ」
「ウム、
其方の方が余程物が解わちよる、――アヽ、
僅かの間でも旅と思へば、浜子、誰
憚からず、気が晴々としをるわイハヽヽヽヽ」
「ほんたうに
左様で御座いますのねエ、ホヽヽヽヽ」
人なき一室を我が世と
楽みて、又た他事もなき折こそあれ、「バタリ」響ける物音に、何事と
彼方を見れば、今しも便所の扉開きて現はれたる一客あり、陽春三月の花の
天に
遽然電光
閃めけるかとばかり眉打ち
顰めたる老紳士の
面を、見るより早く
彼の一客は、殆ど
匍はんばかりに腰打ち
屈めつ、
「是れは/\伊藤侯爵閣下――」
伊藤と呼ばれし老紳士は、
膝より浜子を下ろしつゝ「ウム、山木か――」
「閣下、久しく
拝謁を見ませんでしたが、相変らず
御盛なことで恐れ入りまする」
「山木、隠居役になると、貴公等には用が無くなるからナ」
と侯爵の
冷かに笑ふを、山木剛造は額撫でつゝ「
是れは閣下、決して左様な次第では御座りませぬが、――併し
今日は誠に
可い所で拝謁を得ました、実は是非共閣下の
御権威を拝借せねばならぬ義が御座りまして――」
空嘯ける侯爵「
金儲のことなら、
我輩の所では、山木、チト方角が違ふ様ぢヤ――新年早々から
齷齪として、
金儲も骨の折れたものぢやの」
「閣下、実は旧冬から九州へ出掛けましたので――或は新聞上で御覧になりましたことかとも愚察
仕りまするが、
此度愈々炭山坑夫の同盟罷工が始まりさうなので御座りまして――」
「ふウむ」と侯爵は
葉巻の
煙よりも
淡々しき
鼻挨拶、心は遠き坑夫より、直ぐ目の前の浜子の後姿にぞ傾くめり、
浜子は
彼方向いて、
遙か窓外の雪の富士をや
詮方なしに
眺むらん、
「閣下、近来社会党がナカ/\
跋扈致しまして、今回坑夫の同盟なども全く、社会党の
煽動から起つたので御座ります、此分では将来何の事業でも発達上、非常な妨碍を
蒙りまするわけで、
何卒此際厳重に
撲滅策を
執らるゝ様、閣下より一言、政府へ御指図下ださる義を懇願致しますので――」
伊藤侯爵は空吹く風と聞き流しつ「二三の書生輩の空理空論を、
左迄恐るゝにも足らぬぢやないか、
況して労働者などグヅ/\言ふなら、構まはずに棄てて置け、直ぐ食へなくなつて、
先方から降参して来をらう」
「所が閣下、
何うやら
亜米利加の労働者などから、内々運動費を輸送し来るらしいので御座りまして、――
若し外国の勢力が
斯様なことから日本へ
這入つて来るやうになりませうならば、国体上容易ならぬ義かと心得まするので」
「ナニ、山木、別段不思議無いではないか、労働者が労働者の金を輸入するのと、君等実業家連が外資輸入を遣り居るのと、何の
違もあるまいではないか」
「では御座りまするが、閣下」と、山木は額を
撫でつ「探知致しましたる所では、近々東京に労働者等の大会を開いて、何か穏かならぬ運動を企てまする様子で、
何うせ食ふことが出来ぬ
乱暴漢の集りで御座りまするから、何事が
出来せんも
図られませぬ次第で――それに新聞と云ふ程のものでも御座りませぬが、
兎に
角同胞新聞など申す毒筆専門の機関を所持致し居りまするから、無智無学の貧民共は、ツイ誘惑されぬとは限りませぬ、
尤も警察が少こし
確乎して居りまするならば彼れ等程のものに別段心配も御座りませぬが、何分にも閣下が総理の御時代とは違ひまして、警察の方なども
緩漫極つて居りまするから――」
薄き眉ビリと動くと共に、
葉巻の灰
震ひ落としたる侯爵「山木、其の同胞新聞と云ふのは、篠田何とか云ふ奴の書き
居るのぢやないか」
「ハ、篠田長二と申すので、閣下
御存で御座りまするか」
「
否や、顔は見たことないが、実に
怪しからん奴ぢや、我輩のことなど公私に関はらず、攻撃を――」
と言ひさして、浜子を見やれば、浜子は
艶かしく仰ぎ見つ、「
御前、あの
私のこと悪口書いた新聞でせう、御前、
何卒讐討つて下ださいな」
「ウム」と
首肯きたる侯爵「先年、彼等が社会民主党を組織した時、我輩は末松に
命けて
直に禁止させたのぢや、我輩が憲法取調の為め
独逸に居た頃、丁度ビスマルクが盛に社会党鎮圧を
行りおつた、然るに
現時の内閣の者共が何も知らないから、少しも取締が届かない――
可矣、山木、早速桂に申し付けよう」
「閣下、誠に有難う御座ります」と山木は足の爪先まで両手を下げつ、「イヤどうも、政府の大小、御世話なされまするので、御静養と申すこともお出来なされず、御推察致しまする」
「ウム、何かと云ふと、直ぐ元老が呼び出されるので、
兎てもかなはん――只だ
美姫の
幸に我労を慰するに足るものありぢや、ハヽヽヽヽ、なア浜子」
汽車は早くも
大船に着けり、一海軍将校、
鷹揚として一等室に乗り込みしが、
忽ち姿勢を
正うして「侯爵閣下」
徐ろに顧みたる侯爵「ヤア、松島大佐か――
何処へ」
「横須賀からの」
「松島さん」と
慇懃に
挨拶する山木剛造を、大佐は軽く受け流しつ、伊藤侯爵と相対して腰打ち掛けぬ、
夕陽は
尚ほ濃き影を遠き
沖中の雲にとどめ、
車は既に
淡き
燈火を背負うて急ぐ、
ポケットより
巻莨取り出して大佐は点火しつ「閣下、
又た近日元老会議ださうで御座りまして、御苦労に存じます」
「松島、実に困らせをるぞ、権兵衛に
少こし
確乎せいと言うて呉れ」
「閣下、其れは
私共の方で申上げたいと存じまする所です、ヤ、モウ、先刻も横須賀へ参れば、艦隊の連中からは、大臣が弱いの、軍令部が腰抜だのと勝手な攻撃を受けます、元老方からは様々御注文が御座りまする、民間からは
出法題な非難を持ち掛ける、
斯様割の悪い役廻りは御座りませぬ」言ひつゝ、
烟草の煙の間より、浜子の姿をチラリ/\と、横目に
睨む、
大佐の
目遣ひに気つきたる侯爵「や、松島、
爰に居る山木は君の
舅さうぢやナ、――先頃誰やらが来て
切りに其の
噂し居つた、
彼の様子では
兎ても
尊氏を長追ひする勇気があるまいなどと
嫉妬し居つたぞ、非常な美人さうぢやな、
何時ぢや
合衾の式は――山木、何時ぢや、我輩も是非客にならう」
山木は頭掻きながら「ハ、
未だ何時と確定致す所にも運び兼て居りまする様な次第で――何分にも時局の解決が着きませぬでは――」
「ハヽヽヽヽ、時局と女とは何の関係もあるまい、
戦争の
門出に
祝言するなど云ふことあるぢやないか、松島も久しい
鰥暮ぢや、可哀さうぢやに早くして遣れ――それに一体、山木、誰ぢや、
媒酌は」
「ハ、
表面立つた媒酌人と申すも、
未だ取り
定めたと申す儀にも御座りませぬ、
何れ其節
何殿かに御依頼致しまする心得で――」
「フム、其りや
幸ぢや、我輩一つ媒酌人にならう、軍人と実業家の縁談を我輩がする、
皆な毛色が変つてて面白ろからう、山木、どうぢや」
「ハ、閣下が御媒酌下ださりまするならば、之に越したる光栄は御座りませぬが――」
「松島、君の方は
何ぢや」
苦笑しつゝ
烟吹かし居たる大佐「御厚意は感謝致しまするが、其れは
最早御無用です」
「ナニ、無用ぢや、松島」
大佐は
冷かに
片頬に笑みつ「はア、閣下、山木には
無骨な軍人などは駄目ださうです、既に三国一の
恋婿が
内定つて居るんださうですから」
「フウ、
外に
在るのか、其りや一ときは面白い、山木、誰ぢや、君の恋婿と云ふのは」
剛造は顔中撫で廻はして「閣下、其れは松島さんのお戯れで、決して外に約束など有る義では御座りませぬが――」
殆ど困却の山木を、松島は愉快げに尻目に掛けつ「然らば閣下、山木の
恋婿をば自分から御披露に及びませう――日本社会党の領袖、無政府主義の
張本、同胞新聞主筆篠田長二君と仰せられるのださうでツ」
「ヤ、松島さん」と色を失つて周章する剛造を、侯爵は
稍々垂れたる目尻にキツと角立てて
一睨せり、
「閣下、其れを御信用下だされましては、
遺憾千万に御座りまする、全く松島様の誤解で御座りますから――」
「松島、事実相違ないか、
何うぢや」
大佐は冷然たり「閣下、
私も帝国軍人で御座りまする」
「フム」と軽く
首肯きて侯爵は又た山木の
面を
睨めり、
「閣下、其れは余りに残酷なことで御座りまする、
私が社会党などに娘を
遣ることが出来まするものか出来ませぬものか、少し御賢察を願はしう存じまする、――近い御話が、閣下、
今回炭山の坑夫同盟でも明かでは御座りませぬか、九州の方へは菱川だとか何だとか云ふ二三人の書生を
遣つて奇激な演説などさせて、無智
蒙昧な坑夫等を
煽動させ、自分は東京に居て
総ての作戦計画をして居るので御座りまする、
皆な篠田長二の方寸から出でまするので――非戦論など
唱へて見ても誰も相手に致しませぬ所から、今度は石炭と云ふ唯一の糧道を絶つ外ないと目星を着けて、
到底相談のならない法外な給料増加の請求を坑夫等に
教唆し、其の請求の貫徹を
図ると云ふ口実の
下に、同盟罷工を
行らせると云ふのが、篠田の最初からの目的なので御座りまする、悪党とも国賊とも、名の付けられた次第では御座りませぬ、――閣下、
何して
私が
其様なものへ娘を
遣ることが出来ませう――其れで坑夫共の生活を
支へる為めに
亜米利加の社会党から運動費を取り寄せる手筈をする、其ればかりでは駄目ぢやと申すので、近々東京に全国労働者の大会を開く計画する、
何れも其の張本は
彼の篠田で御座りまする、
左ればこそ先刻も、閣下、
彼奴等の取締に就て、御尽力を歎願したでは御座りませぬか――」
「ウム」と思案せる侯爵「成程――
何うぢや松島、山木の言ふ所道理
至極と聞かれるでは無いか」松島は
莨くゆらしつゝ「
然かし、閣下、御本尊が
嫁きたいと申すものを、之を束縛する親の権力も無いでは御座りませぬか」
山木は顔突き出し「其れは閣下、全く松島様の御聞き誤りで御座りまする、先頃迄は娘共の参る教会に篠田も居たので御座りました、其れで何かとあらぬ風評を致すものもあつたらしいで御座りまするが、
彼の様な不都合な
漢子を置くのは、国体上容易ならぬことと心着きまして、私から教会へ指図して放逐致した次第で御座りまする――承りますれば、
彼奴等平生、
露西亜の虚無党などとも通信し合つて居るさうに御座りまするし、其れに彼奴、教会を放逐された後は、何でも
駿河台のニコライなどへ
出入するとか申すので、警視庁でも、露西亜の探偵ではあるまいかなど、内々注意して居られるとか聞きまして御座りまする」
侯爵は
切りに
首肯きつ「
左様ぢやらう、松島、別段疑惑する点も無いでほ無いか――
何うぢや、我輩が
図らず
斯かる話を聞くと云ふも何かの
因縁ぢやらうから、一つ改めて我輩が
媒酌人にならう、山木、貴公の娘にも必ず異存あるまいナ」
山木剛造は平身低頭「
御念には及びませぬ、閣下、
是迄の所、何を申すも
我儘育ちの
処女で御座りまする為めに、自然決心もなり兼ねましたる点も御座りましたが、旧冬、
私出発の前夜も
能く利害を申聞け心中既に理会致して居りまする、兎に角私帰宅の上、挨拶致す様にと猶予を与へ置きましたる様の始末、帰京次第今晩にも判然致す筈で御座りまして――特に閣下が表面御媒酌下ださると申聞けましたならば、一身の名誉、一家の光栄、如何ばかり喜びませうか」
「ハヽヽヽ松島と篠田、こりや
必竟帝国主義と、社会主義との衝突ぢや、松島、
確乎せんとならんぞ」と侯爵は得意満面に松島を見やりつ「
然かし松島、才色兼備の花嫁を周旋する以上は、チト品行を
慎まんぢや困まるぞ、此頃は
切りと新春野屋の花吉に熱中しをると云ふぢやないか」
浜子は侯爵の顔さしのぞき「
御前、其の花吉と申す
芸妓は先頃廃業したさうで御座んすよ」
侯爵は打ち驚き「オ、廃業しをつた――新聞に在つたと、浜子、
其方は
能う新聞を見ちよるな、感心ぢや――松島、其の根引き
主は貴公ぢや無いか、白状せい」
松島の
苦がり切つたる
容子に、山木は気の毒顔に口を開きつ「――実は、閣下、其れも矢張篠田の奸策で御座りまする」
「ナニ、花吉を篠田が
落籍せをつたと――フム、自由廃業、社会党の
行りさうなことぢや――
彼女には我輩も多少の関係がある、
不埒な奴、松島、篠田ちふ奴は我輩に取つても敵ぢや、
可也、此上は山木の
嬢は何事があるとも、必ず松島へ
嫁らねば、我輩の名誉に
係はるわい」
意気
軒昂、面色朱を
濺ぎたる侯爵は
忽然として山木を顧みつ「
然かし山木、君もナカ/\
酷い男ぢやぞ、
何ぢや、ぽん子は相変らず
奇麗ぢやろナ、今を
蕾の花の見頃と云ふ所を、
突如に横合から根こぎにするなどは、乱暴極まるぢやないか、松島のは社会主義に対する帝国主義の敗北、我輩のは金力に対する権力の失敗ぢや」
頭掻きつゝ山木の困却の態に、侯爵は愈々興を催ふしつ「
何程花婿が
放蕩して、
大切な娘が泣きをつても、苦情を申入れる権利があるまい、ハヽヽヽヽ山木、君の様な
爺の
機嫌取つて日蔭の花で暮らさせるは、ぽん子の為めに可哀さうでならぬぢや」
剛造は只だ赤面恐縮、
大佐はニヤリと浜子を一瞥しつ「が、閣下、山木は閣下に比ぶれば、
未だ十幾つと云ふ
弟ださうですよ」
剛造ほツと一道の活路を待つ「大きに松島様の
仰の通りで、ヘヽヽヽヽ」
侯爵も頭撫でて大笑しつゝ「ヤ、松島、
最早舅の援兵か、余り現金過ぎるぞ」
「品川々々」と呼ぶ駅夫の声と共に
車は
停りぬ、
「オヽ、もう品川ぢや、浜子」と侯爵は少女の手を
採りて急がしつ「今夜は杉田の別荘に一泊するから失敬する」と言ひ棄てたるまゝ
悠然降り立ちて、
闇の
裡へと影を没せり、
窓に
凭りて見送り居たる松島は舌打ちつ「
淫乱爺の
耄碌ツ」
麹町は三番丁なる
清風女学校には、今日しも新年親睦会、
校友の控所に
充てられたる階上の一室には、盛装せる
丸髷、
束髪のいろ/\居並びて、立てこめられたる空気の、
衣の香に
薫りて百花咲き
競ふ春とも
言べかりける、
中央の椅子に
懸りたる年既に五十にも近からんと思はるゝ麦沢教授、
小皺見ゆる
頬辺に
笑の波寄せつ「皆さんが立派な奥様におなりなすつたり、
阿母さんにおなりなすつた
御容子を拝見する程、
私共に取つて
楽は御座んせんのね、之を思ふと私などは
能くまア腰が
屈つて仕舞はないと感心致しますの――
否エ、此頃は、もう、ネ、老い込んで
仕様がありませんの、自分ながら愛想が尽きる程なんですよ――
斯う御見受け申した所、夏野様の旦那様は内務の参事官、秋葉様のは衆議院議員、冬田様のは日本銀行の課長さん、春山様のは陸軍中尉、蓮池様のは大学数授、
何殿も国家の大任ですねエ、桜井様のは留学中で御帰朝の後は医学博士、松村様のは弁護士さん――」
と、次第に読み上げ行きしが、
偖其次席に
列なれる山木梅子が例の質素の
容子を見て、
暫し
躊躇ひつ「山木様は独立で、婦人社会の為に
御働なさらうと云ふ御志願で、
特に
阿父は屈指の紳商で
在つしやるのですから」
と、相当なる理由を発見して
頌徳表を呈したる時、春山と呼ばれたる陸軍中尉の妻女「あら、麦沢先生、山木様は
疾くに御約束で、
最早近々に
御輿入れになるんですよ」と、黄色な声して
嘴を
容れぬ、
「
左様ですか」と、麦沢女教授は
円くしたる
眼を、
忽ち細くして
笑みつくろひ、「山木様、まア、お
目出度御座います、存じませんでしたもんですから、ツイ、失礼致しましてネ、――シテ、春山様、
何殿」
「先生が
御存無つたとは驚きましたねエ」と春山は容子つくろひ「あの、海軍大佐の松島様へ」
「オヽ、あの松島さんへ」と女教授は驚きしが「実権海軍大臣などと新聞で拝見する松島さんへ――
左様ですか、山木様、
貴嬢にはほんとに御似合の御縁組ですよ」
一座の視線は皆な沈黙せる梅子の面上に集まりぬ、
松村と言へる弁護士の妻女は、独り初めより怪しげに打ち
目もり居たりしが「先生、
私も山木様の御縁談の
御噂をお聞き申しましたが、只今の御話とは
少こし違ふ様ですよ」
「エ、松村様、ぢや
何殿と
仰しやるのです」
松村は梅子の顔恐る/\見やりながら「間違ひましたら山木様、御免下ださいな――あの、同胞新聞社の篠田様へ――」
麦沢教授は
反歯剥き出してハツハと打ち笑へり「松村様、何を
仰しやる、山木様が何で
彼様男の所などへお
嫁でになるもんですか、
私も何時でしたか、何かの席で篠田と云ふ人見ましたがネ、
貴女、
彼は壮士ですよ、
何して
彼様貧乏人と山木様が御結婚出来ますか」
「いゝえネ、先生、只だ私は山木様の教会と関係のある人から聞いたのですから――」
と松村の穏かに弁疏するを、
彼の春山はシヤちやり出でつ「
私は
良人から聞きましたのです、現に松島様が御自分で御披露になりましたさうで、軍人社会では誰知らぬものも無いので御座います」
曰く松島自身の披露、曰く軍人社会の
輿論而して之を言ふものは、現に陸軍中尉の妻女、何人か又た之を疑はん「山木様はタシカ軍人はお
嫌の
筈でしたがネ」「独身主義の御講義を拝聴した様にも記憶致しますが」「オールド、ミスも余り立派なものでありませんからね」、など、聞えよがしの
私語も洩れぬ、
梅子が余りの沈黙に、一座いたくシラけ渡りぬ、
扉開かれて、歴年の老小使、腰打ち
屈めつ「山木様――菅原の奥様が五号室に御待ち受けで御座います」
之を機会に梅子は
椅子を離れつ「失礼」と
一揖して
温柔かに出で行けり、
第五号教室のピヤノの
側に人待ち顔なる
大丸髷の若き婦人は、外務書記官菅原道時の妻君銀子なり、扉しとやかに開かれて現はれたる美しき姿を見るより早く、嬉しげに立ち上がりつ、「オヽ梅子さん」
「銀子さん」
相見て
嫣然、
膝つき合はして
椅子に座せり、
「梅子さん、ほんとに
久濶ですことねエ、私、
貴嬢に御目に
懸りたくてならなかつたんですよ、手紙でとも思ひましたけれどもね、其れでは
何やら物足らない
心地しましてネ――今日も少こし他に用事があつたんですけれども、多分、貴嬢が
御来会になると思ひましたからネ、差繰つて参りましたの」
「
私もネ、銀子さん、此頃
切りに
貴女が
懐しくて堪らないで居ましたの、
寧そ御邪魔に上らうかと考へましたけれどネ、外交のことが
困難いさうですから、菅原様も定めて御多用で
在つしやらうし、
貴嬢にしても
矢張り御屈托で
在つしやらうと遠慮しましてネ」
「あら、梅子さん、いやですことねエ、――結婚すると御友達と疎遠になるなんて皆様仰しやるんですけれど、貴嬢まで
矢張其様事を仰つしやらうとは思ひも寄りませんでしたよ」
「銀子さん、
左様ぢやありませんよ」
銀子は
熟々と梅子の
面打ちまもり居たりしが「梅子さん、
貴嬢はほんとに
御憔悴なすツたのねエ、
如何なすつて――」
「
否、別に
如何も致しませんの」
「けども、何か御心配でもおありなさらなくて」
「
否――心配と云ふ程のこともありませんがネ――」
「心配と云ふ程で無くとも、何か
御在りなさるでせう」
と銀子は顔差し付けて声打ちひそめ「
私、
貴嬢に
御聴せねば安心ならぬことがあるんですよ――梅子さん、貴嬢、ほんとに
彼の海軍の松島
様と御約束なさいまして――」
梅子は目を閉ぢて無言なり、
「梅子さん、
私ネ、其を道時から聴きましても、
貴嬢から直接に聴かなければ安心が出来ないんですもの」
「銀子さん、貴女まで
其様風評を御信用下ださるんですか――」涙ハラ/\と膝に落ちぬ、
銀子は梅子の手を握れり「梅子さん、貴嬢は私が、
其様風評を信用するものと御疑ひ下ださいますの――」
梅子は握られし銀子の手を一ときは力を
籠めて握り返へしつ「
否、銀子さん、私は
学校に居た時と少しも変らず、貴嬢を真実の姉と
懐つて居るんです」
「梅子さん、有難う――
何うしたわけか、初めて入学した時から貴嬢とは心が会つて、私が一つ年上ばかりに貴嬢の姉と呼ばれる様になつたことは、何程嬉しいとも知れないのです、道時が何か私の非難など致します時には、
併かし私の
妹に山木梅子と云ふ真の
女丈夫が在りますよと誇つて居るのです――
丁度昨年の十月頃でしたよ、外交問題が
八釜敷なり掛けた頃と思ひますから――道時が
晩餐の時、
冷笑ひながら、お前の御自慢の梅子さんも、
到頭海軍の松島の所へ行くことになつたと言ひますからネ、私は断然之を打ち消したのです、梅子さんも御自分で是れならばと信じなさる
男子を得なすツたならば、
進で御約束もなさらうし、又た
強ひても御勧め申すけれど、軍人は人道の敵だとまで思つて居なさる梅子さんが、
特に不品行不道徳な松島様などに御承諾なさる
筈が無い、又た
若し其れが真実ならば必ず梅子さんから、
御報知がある筈だと
頑張つたのですよ、スルと
憎くらしいぢやありませんか、道時が
揶揄半分に、
仮令梅子さんからの御報知は無くとも、松島の口から出たのだから
仕様が
在るまい
抔と言ひますからネ、
彼様松島様などの言ふことが何の証拠になりますと
拒絶て
遣りましたの、
其ツきり道時も何も言ひませんでしたがネ、昨日ですよ、
外務省から帰りましてネ、服も
更ためずに言ふんです、梅子さんの結婚談も
愈々進んで、伊藤侯が媒介者となられ、近日中に式を挙げらるゝさうだと、大威張に
言ぢやありませんか、私には
如何しても解らないのです、相手が松島様で、媒介が伊藤侯と云ふんでせう、梅子さん、
貴嬢が地獄の子にでも生れ変つて来なすつたのを見た上でなくては、私は
仮令道時の言葉でも、信用することが出来ないんです」
「銀子さん、姉さん、――有難う――」梅子は目を閉ぢて涙を
堰きぬ、
「けどもネ、梅子さん、」と銀子は
容を
改めつ「
貴嬢は
飽く
迄も独身主義を
遣り
徹さうと云ふ御決心なの」
梅子は
只だ
首肯きつ、
「
私ネ、梅子さん、
貴嬢の独身主義には、
心から同情を持つてるんですよ――貴嬢の家庭の御事情は私も
能く存じて居るんですからネ――けれど私、梅子さん、怒りなすつちや
厭よ、
日常さう
思んですの、貴嬢の深い心の底にほんとに恋と
云ものが
無んだらうかと――
学校に居た頃の貴嬢のことは私、
能く知つててよ、貴嬢の御心は、
只だ亡き
阿母を
懐ふ
麗はしき
聖き愛に
溢れて、外には何物をも
容れる余地の
無つたことを――皆さんが
各々理想の
男を描いて泣いたり笑つたり、
欝したりして騒いで居なさる時にでも、
真正に貴嬢ばかりは別だつたワ――
他人様のことばかり言へないの、私だつてもネ、梅子さん、笑つちや厭よ、道時のことでは
何程貴嬢の御世話様になつたか知れないワ、私、貴嬢の御恩を忘れたこと有りませんよ――
彼頃の貴嬢の
御面は全く天女でしたのねエ――けれど梅子さん、今ま貴嬢を見ると、
何処とも無く
愁の雲が
懸つて、
時雨でも降りはせぬかの様に、
憂欝の色が見えるんですもの、そりや梅子さん貴嬢ばかりぢやない、誰でも、
齢と共に苦労も増すに
定つて居ますがネ、
只だ私、貴嬢の色に見ゆる
憂愁の底には、
女性の誰も
免れない愛情の潜んで居るのぢや無からうかと思ふんですよ――私などは
斯様軽卒なもんですから、直ぐ挙動に
顕はして
仕舞ますがネ、貴嬢の様に
強意した方は、自ら抑へるだけ、苦痛も一倍
酷いだらうと察しますの――」
俯ける梅子に、銀子は身をスリ寄せつ「
若し、梅子さん、御気に
障つたなら
赦して
頂戴な、
私只だ気になつて堪らないもんですから、心の有りたけを言ふのですよ――私だつて道時のことでは
何程耻づかしいことでも皆な打ち明けて、貴嬢に御相談したでせう、其れでこそ始めで
姉妹の契約の
実があると言ふんですわねエ――梅子さん
後生ですから
貴嬢の
現時の心中を語つて下ださいませんか」
「銀子さん」と
良久ありて梅子は声
顫はしつ「四年前の貴女の苦痛を、今になつて始めて知ることが出来ました――」
「
能く言うて下ださいました梅子さん」と銀子は嬉しげに「今度は
私が先年の御恩返しに
何様奔走でも致しますよ――梅子さん、ツイ、御名を知らして下ださいな」
「銀子さん、
貴女の御親切は御礼の申しやうもありませんが、
到底事情の許さないのですから、只だ此れだけは私に取つて秘密の一ツに許して下ださいませんか――貴女に打ち明けないと云ふのは、私も
何様に心苦しいか知れないのですけれど――」梅子は唇を
噛んで声を
呑みぬ、
銀子は
暫ばし思案に暮れしが、独り心に
首肯きつ「――梅子さん、私知つてますよ」
梅子は
愕然として銀子を見たり、
「若し梅子さん、間違つてたなら勘弁して下ださいな――あの、篠田長二さんて方ぢやありませんか――」言ひつゝ銀子は
凝乎と梅子を見たり、梅子は胸を押へて
復た只だ
俯きぬ、
「梅子さん、私、それを或る方から聞いたのですよ――ほんとに不思議なものですねエ、自分では夢にも洩らしたことの無い秘密を、世間が
何時か知つてるんですもの――
慥に宇宙の
神秘なのねエ――私、梅子さん、此の風説は心に信じたの、
何故と云ふに篠田さんて方の御性質や其の御行動が、如何にも
貴嬢の
嗜好に適合してるんですもの――梅子さん、私は
未だ篠田さんをお見掛け申したことが無いのです、けども私それと無く道時に尋ねて見ましたの、道時は
是れ迄も
能く御目に懸るさうでしてね、大層
讃めて居りましたの、恐るべき偉い人物であると敬服して居るんですよ――けれど梅子さん、私
何程一人で心を痛めたか
知ないワ――貴嬢の
阿父は篠田さんを敵の如く憎んで居らつしやるんですとねエ――まア、
何うしたら
可いんでせう――梅子さん」
「銀子さん、
皆様は私の独身主義を
全然砂原の心かの様に思つて下ださいますけれど、――
凡ては神様が御承知です」梅子はハンケチもて眼を
掩ひつ「銀子さん貴女とお別れして三年の心の歴史を、私の為めに聞いて下ださいますか」
「梅子さん、
何卒聴かして頂戴」
梅子は
暫ばし心に談話の
次序整へつ、「学校時代の私は、銀子さん、貴女
能く
御存下ださいますわねエ――
彼の一時バイロン流行の頃など、貴女を始め
皆様が
切りに恋をお語りなさいましたが、
何したわけか私には、其の興味を感ずることが出来ませんでしたの、貴女に疑はれたことなども私
能く記憶して居りますよ――私も折々自分で自分を怪しんだこともありますの、私の心が不健全であるのでは無からうか、愛情と云ふものを
宿どさない一種の精神病のではあるまいかと――けれど私は只だ亡き母を
懐ひ、慕ひ想像する以外に、
如何にしても私の心を転ずることが成らなかつたのです――皆様能く男子の集会などへ
行らつしやいましたわねエ――あら、銀子さん、貴女のこと言ふのぢやなくてよ――けれど私の
楽は日曜に、青山の母の墓に参詣して、其れから永阪の教会へ行つて、母の
弾いた
洋琴の前に
座わることの外は無かつたのです、私の文章も歌も何時も母のことばかりなんですから、貴嬢の思想は余り単調だと、先生にお
叱を
受ましたの――其れから学校を卒業する、貴女は
菅原様へ
嫁つしやる、他の
人々も
其れ
其れ方向をお
定になるのを見て、私も何が自分に適当した職分であらうかと考へたのです――貴女に御相談したことがあつたでせう――貴女も賛成して下だすつたもんですから、私は貧民の
児女を教育して見たいと思ひましてネ――
亡母の日記などの中にも同じ教育を
行るならば、貧乏人の
児女を教へて見たいと云ふことが
沢山書いてあるもんですからネ――其れを父に懇願したのです、けれど銀子さん、貴女も御承知の如き私の家庭でせう、父は私が
実母の顔さへ知らないのを気の毒に思つて居ます所から、余程私の願ひに傾いて呉れましたけれど……後には父から私に頼む様にして、其れを思ひ止まつて呉れよと言ふのですもの――私は、銀子さん
其時始めて世の中に失望と云ふことの存在を実験したのです」
「銀子さん」と梅子は語を
継ぎつ「其頃私は
貴女の
曾ての
傷心に同情しましたの、何時でしたか、貴女は夜中に私の
寄宿室に
来しつて
仰しやつたことがありませう、――
若し
如何しても菅原様へ
嫁くことが出来ないならば、私は
一旦菅原様へ献げた此の
聖き
生命の愛情を、少しも
破毀らるゝことなしに
抱いた
儘、深山幽谷へ行つて
終ふ
心算だつて――」
「あら梅子さん」と銀子は
面赧らめつ「貴女も思ひの
外、人が悪くつてネ――」
「
左様ぢやありませんよ」と、梅子も思はず
片頬に笑みつ「只だ私も其時始めて、貴女と同じ様な痛苦を感じたと云ふ迄のことお話するんぢやありませんか――それで銀子さん、私は
全然砂漠の中にでも居る様な
寂寞に堪へないでせう、
而すると又た良心は私の
甚だ薄弱であることを責めるでせう、
墓所へ
詣りましても、教会へ参りましても、私の
意気地ないことを叱る様な
亡母の声が聞えるぢやありませんか、あゝ
寧そ死んだならば、
斯様不愉快な苦境から脱れることが出来ようなどと、
幾度思ひ浮んだか知れませんよ――
斯う云ふ
厭な月日を送つて、夜も安然に夢さへ結ぶことなしに思ひ悩んで居た時へ私は――銀子さん――何とも知れない一種の感動に打たれましたの――」
言ひ
渋ぶる梅子の
容子に銀子は
嫣然一笑しつ「篠田
様に御会ひなすつたと
仰しやるんでせうツ」手を挙げて思ふさま、ビシヤリと梅子の
膝を打てり、
梅子は
真紅になりて
俯きぬ、
「それから梅子さん、
如何なすつて」
と銀子はホヽ
笑みつゝ
促がすを梅子は首打ち振りつ、
「私、いや、
貴女はお
弄りなさるんだもの――」
上気せる美くしき梅子のあどけなき
面を銀子は女ながらに
惚れ
惚れと眺め「私が悪るかつたの、梅子さん、
何卒聴かして下ださいな」
「何だか
可笑しいのねエ」と、梅子は
羞かしげにホヽ笑みつ「一昨々年の四月の初め、
丁度桜の咲き
初めた頃なの、日曜日の夜の説教をなすつたのが――銀子さん、私、何だか――」
と
面背反くるを、銀子は声低くめて「其方が篠田様であつたんでせう」
梅子は
俯目に
首肯きつ「
左様なんです、長く米国に留学なされた方で、今度永阪教会へ転会なされたと云ふんでせう、
何様な人であらうと思つて居ますとネ、やがて講壇へお立ちになつたのが、
筒袖の
極めて質朴な
風采で、
彼の
華奢な洋行帰の
容子とは表裏の相違ぢやありませんか、其晩の説教の題は『
基督の社会観』と
云のでしてネ、地上に建つべき天国に
就て、基督の理想を御述べになつたのです、今の社会の組織は全く基督の主義と反対の、利己主義を原則とするので、之を根本から破壊して新時代を造るのが、基督教の目的だと
仰しやるのです――初め私は、現在の社会の罪悪を攻撃なさる議論の余り恐ろしいので、
殆ど
身体が
戦慄へる様でしたがネ、基督の平和、博愛、犠牲の御精神を、
火焔の様な雄弁でお
演べなすつた時には、
何故とも知らず
聴衆の多くは涙に暮れて、二時間
許の説教が終つた時には、満場
只だ酔へる如き有様でした、――
彼の時の説教は私「今でも音楽の如く耳に残つて居ますの――其晩は私、一睡もせずに考へましたの、そして基督の十字架の意味が始めて心の奥に理解された様に思はれましてネ、嬉しいとも、勇ましいとも
訳らずに、心がゾク/\
躍り立つて、思ふさま有りたけの涙を流したんですよ、インスピレーションと云ふのは、
彼様した
状態を言ふのぢやないか知らと思ひますの、其れからと云ふもの、昨日迄の無情の世の中とは
打て
変て、
慥に希望のある楽しき我が身と生れ替つたのです、――そして日曜日が誠に待ち遠くて、教会が一層
懐つかしくて――
彼人の影が見えると
只嬉しく、
如何かして
御来会なさらぬ時には、非常な
寂寞を感じましてネ、私始めは何のこととも気が
着なかつたのですが、或夜、何でも
五月雨の
寂しい夜でしたがネ、余り
徒然の
儘、誰やらの詩集を見てる時
不図、アヽ
私ヤ恋してるんぢや無いか知らんと、始めて自分で
覚りましたの、――」
涙に満てる梅子の眼は熱情に輝きつ、ありし心の経過一時に燃え出でて
恍然として夢路を
辿るものの如し、
銀子も
我が
曾ての実験と思ひ
較べて、そぞろに同情の涙
堪へ難く「梅子さん
貴嬢の御心中は私
能く知ることが出来ますの」
「けれど銀子さん」と、梅子はうな
垂れつ、「其の心の
裡の喜びも
束の
間で、
苦痛の矢は
忽ち私の胸に立つたのです、其れは貴女も御聞き及びになりましたやうに、私の父と篠田
様とが、
仇敵の如き関係になつたことです、けれど――銀子さん、私は篠田様の御議論が至当だと思ひました、私は常に父などの営利事業に不愉快を感じで居たのです、決して道理にも徳義にも
協つたこととは思ひませんでしたが、篠田様の御議論を拝見して、始めて
能く父等の事業の不道理不徳義なる、説明を得たのでした、其れで私は、
彼人を
良人にすると云ふことは事情の
許るさないものと思ひ
諦め、又た一つには、私の様な
不束な者が、
彼様な偉い方の妻となりたいなど思ふのは、身の程を知らぬものと悟りましてネ、其れに彼人は既に家庭の幸福など云ふ問題は打ち忘れて、只だ
偏に主義の為めに御尽くしなさるのを知りましたものですから、私は心中に理想の良人と
奉仕いて、此身は
最早や彼人の前に献げましたと云ふことを
慥に神様に誓つたのですよ」
彼女は心押し
鎮めつ「ですから銀子さん、私の心は決して
孤独ではありません、――節操は
女性の生命ですもの、王の権力も父の威力も、此の神聖なる愛情の花園を犯すことは出来ません、――此頃父が九州からの帰途で、伊藤侯と同車したとやらで、侯爵が
媒酌人になられるからと、父が申すのです、まア何と言ふ
穢はしいことでせう、伊藤侯と云ふものは我々婦人に取つては共同の
讐敵ではありませんか、銀子さん、私が松島様の申込を拒絶する為めに、
仮令私の父が破産する如き不幸に
逢ひませうとも、私は決して節操を
涜すやうな弱い心は起しません、父の財産は不義の結果です、私は富める不義の家に悩める心を
抱いて
在よりも、貧しき清き家に楽しき
団欒を望むで居るのです――銀子さん、何卒安心して下ださいな」
梅子の美しき
面は日の如く輝けり、
銀子は袖かき合はせて傾聴しつ「――梅子さん、
貴嬢ほんとに幸福ネ――
私羨しいワ」
其の語尾の怪しくも
曇を帯べるに、梅子は
眸を
凝して之を見たり、
「銀子さん、私の
何処に
羨ましいことがありますか、貴女こそ婦人中の最も幸福な方だと、私真実思ひますよ」
答なき銀子の長き
睫毛には露の玉をさへ貫くに梅子はいよゝ
怪みつ「貴女、何かおありなすつて――」
「梅子さん」と銀子は始めて涙を呑みつ「――男と云ふものはほんとに
厭なものだと思ひましてネ、そりや女の方に足らぬ所がありもしませうけれど――」
「けれど銀子さん、道時さんに何もおありなさるんぢや
無でせう」
「梅子さん、私、
貴嬢だから何も
角もお話しますがネ――矢張有るんですよ――つまり、私の
不束故に、
良人に満足を与へることが、出来ないのですから、罪は無論私にありますけれど、――男も
亦た余り
我儘過ぎると思ひますの――梅子さん、是れは世界の男に普通のでせうか、其れとも日本の男の特性なのでせうか」
「けれど銀子さん、道時さんが不品行を遊ばすと云ふ様なことは無いでせう」
銀子は
俯きて首を振りぬ、
良久ありて銀子はホツと吐息しつ「梅子さん、ほんとに幸福と思つたのは、結婚後の一年
許でしたの、私の心が
静実に連れて、次第に私を
軽蔑する様になるんですよ――折々はネ、私の為めに余儀なく
此様結婚をして一生不幸を見たなんて、
残酷ことさへ言ふんですよ、――言はれて見れば私にも弱点があるから、言ひたいこともジツと
耐へて居ますけれども、余り身勝手過ぎるぢやありませんかネ――それにネ、着物だの、何だのも、
此頃は
斯様云ふのが流行だなんて自分で注文するんですよ、
何処の
流行かと思へば、貴嬢、皆な
新橋辺のぢやありませんか――
婦人は
矢張り日本風の
温柔いのが
可いなんて申してネ、自分が以前
盛に西洋風を
唱へたことなど忘れて仕舞つて私にまで
斯様丸髷など
結はせるんですもの、私耻づかしくて、
口惜しくて堪りませんの――」
銀子は落る涙
拭ひつゝ「それに梅子さん
他の方の
妻君など不思議だと思ひますよ、男子の不品行は日本の習慣だし、
特に外交官などは其れが職務上の
便宜にもなるんだからなんて、平気で
在つしやるんですよ――梅子さん、私は
嫉妬心が強いと云ふのでせうか」
「嫉妬心――」と梅子も覚えず、顔
紅らめつ「
如何なる人でも境遇に
打ち
克つと云ふことは余程困難ですから、私は日本の様な不道徳な社会に
在る婦人は、とても
男子から報酬を望むことは断念せねばならぬと思ひますの、受くるよりも与ふるが
寧ろ幸福ぢやありませんか、貴女が全心を挙げて常に道時さんを愛して居なさるならば必ず
慚愧して、
昔日に
優る熱き愛憎を貴女に与へなさる時が来るに
違ありません」
「アヽ、梅子さん、其れが真理なんでせうねエ――」
「銀子さん、ほんとに
貴女こそ幸福ねエ――何故ツて?――貴女は愛を
成就なされたぢやありませんか、
現今の貴女は只だ小波瀾の中に居なさるばかりです、銀子さん
何卒、私を可哀さうだと思つて下ださい、――私の全心が愛の
焔で燃え尽きませうとも、
其を知らせる
便宜さへ無いぢやありませんか、此のまゝ
焦がれて死にましても、アヽ気の毒なことしたとだに思つて貰ふことがならぬではありませんか――何と云ふ不幸な私の
鼓膜でせう、『我は汝を愛す』と云ふ一語の
耳語をさへ反響さすることなしに、墓場に行かねばなりませんよ――」
「梅子さん」突如銀子は梅子の
膝に身を投げ出し、涙に濡れたる二つの顔を重ねつ「梅子さん――寄宿舎の二階から
閃めく星を
算へながら、『自然』にあこがれた
少女の
昔日が、恋しいワ――」
ワツと泣き
洩る声を無理に制せる梅子は、ヒシとばかり銀子を
抱きつ、燃え立つ二人の花の唇、一つに合して、
暫ばし人生の
憂きを逃れぬ、
遠音に響くピヤノとウァイオリンの
[#「ウァイオリンの」はママ]節面白き合奏も、神の
御園の天楽と聴かれて、
国民の
耳目一に
露西亜問題に傾きて、
只管開戦の
速かならんことにのみ熱中する一月の中旬、社会の半面を
顧れば下層劣等の種族として度外視されたる労働者が、年々歳々其度を加ふる生活の
困苦惨憺に、
漸く目を挙げて自家の境遇を覚悟するに至り、
沸騰せんばかりの世上の戦争熱も
最早や、彼等を
魔酔するの力あらず、彼等の心の底には、「戦争に全勝せよ、
夫れど我等は益々
苦まん」との微風の如き
私語を聴く、去れば九州炭山坑夫が昨秋来増賃請求の同盟沙汰伝はりてより、同一の境遇に同一の利害を感ずる各種の労働者協同して、緩急相応ぜんとの要求日に益々激烈を加へ、四月三日を以て東京市に第一回労働者大会議を開くべきこととはなりぬ、
其の中堅は社会主義
倶楽部にして、篠田長二の同胞新聞は実に其の機関たり、
歯牙にも掛けずありける九州炭山坑夫の同盟罷工今や
将に断行せられんことの警報伝はるに
及で政府と軍隊と、実業家と、志士と論客と
皆な始めて
愕然として色を失へり、声を
連ね筆を
揃へて
一斉に之を
讒謗攻撃して
曰く「軍国多事の
隙に乗じて此事をなす
先づ売国の奸賊を
誅して征露軍門の
血祭せざるべからず――」
* * *
労働者の大会準備の為めに、
今宵しも上野
鶯渓なる
鍛工組合事務所の楼上に組合員臨時会開かれんとするなり、寒風
膚を裂いて、雪さへチラつく夕暮より集まりたるもの既に三百余名、議長の卓上には書類
堆く積まれて開会の
鈴を待ちつゝあり、
此時階下の事務室、扉を
鎖して
鳩首密議する三個の人影を見る、目を閉ぢて沈黙する四十五六とも見えて和服せるは議長の浦和
武平、眉を
昂げて
咄々罵る四十前後と
覚しき背広は幹事の松本常吉、二人を
対手に
喋々喃々する
未だ廿六七なる
怜悧の相、眉目の間に浮動する青年は同胞新聞の記者の一人
吾妻俊郎なり、
松本は
拳を固めて
卓を打ちつ「実に
怪しからん奴だ、其事は僕も
予め行徳君に注意したことがあつたが、行徳君は
無雑作に打ち消して
仕舞つた――八ツ裂きにしても此の
怨は
霽れない」
「
然かし、松本君、余りに意外な報告なので私は何分にも信用出来ませぬで――」と、浦和は
瞑目のまゝ思案に沈めり、
「イヤ、浦和さん」と吾妻は乗出で「信用なさらぬのは
御道理です、
斯く云ふ僕が最初は
如何しても出来なかつたですから、――御承知の如く僕は
従来篠田を
殆ど崇拝して居たんでせう、彼の秘書官の如く働くので、社員中に大分不平
嫉妬の声が
盛なのです、けれど一身の
毀誉褒貶の
如きは度外に
措きて、
只だ篠田の為めに
一臂の労を
執ることを無上の満足として居たのです――
然るに段々彼の内状を
詳にすると、実に其の裏面に驚くべき
卑劣の野心を包蔵することが
聊か
疑ないので――御両君、僕は実に失望落胆の為め
殆ど発狂するばかりに精神を痛めたです――
乍併更に
退て考へると、
是れは
徒らに
愁歎して居るべき時でない、僕の篠田を崇拝したのは其の主義に在るのだ、彼が主義の仮面を
被つて、
却て我等同志を売ることを目的として居る売節漢、
否な最初からの
間諜であると知つた以上は、断然我が主義の為めに之を斬らねばならぬと決心したです、故に僕は今夜
敢て両君に密告して、鍛工組合の名を以て此の
売節奴を制裁せらるゝことを希望するです」
明朗なる音声もて
滔々述べ来れる吾妻は、悲憤の涙を絞りつゝ「両君――篠田が山木剛造の娘に恋着して、其の二万円の持参金に
眩惑して、資本党の門に降参したことは、最早や一点の
疑もない――彼は今度の労働者大会を内部から
打ち
壊して、其れを
結納として結婚式を挙げるのだ――彼は我々労働者に取つて獅子身中の虫であるツ――」
「僕は吾妻君を信ずる、僕は初めから彼を疑つて居たのだ、今夜もヅウ/\しく来て居るのだ、――
可也」
と言ひ棄てて
起ち上らんとする松本を、
暫しとばかり浦和は制しつ「失礼の様ですが私には
未だ理解が出来ません」
「僕が篠田の
誣告でもすると云ふんですか」と、吾妻は
憤然として浦和に詰め寄る、
「
否や、
誣告など申すのぢやありませんがネ」と浦和はしとやかに「随分誤解と云ふこともあるものですから――篠田
様が主義を売つて山木の娘と結婚なさるなどとは何分にも想像が着きませんよ、第一、篠田様は山木の為に教会の方を除名されなすつた程ですからナ」
「サ、其れが」と吾妻はセキ込み「君、
魂胆の在る所です、其れ程に仕組まねば我が同志を欺くことは出来ないのだ、現に見給へ、既に除名と
定まつて居る教会の
親睦会へ、
而かも山木の別荘で開いた親睦会へ出席したのは
何故であるか、
特に其日山木の娘の梅子と云ふのと密会したのは何故であるか、其上に山木の
長男の剛一と云ふのなどは常に篠田の家へ
出入して居るでは無いか――
特に君等は知らぬであらうが、彼が表面非常な貧窮と質素とを装ふに
拘らず、其の実は驚くべき
華奢贅沢をして居るのだ、彼を指して道徳堅固な君子だなど思ふのは、其の裏面を知らない者の買ひかぶりである、僕の如きも現に
欺かれて居た
一人のだ、そりや君、酒は飲む
放蕩はする、篠田の偽善程恐るべき者は無い、現に其の
掩ふべからざる明証の一は、
彼の
芸妓の花吉を
誘拐して内々自分の妾にしたのでも判つて居るぢやないか」
「
左様だ/\、
毫も疑ふ所は無い」と松本は
愈々激昂しつ「現に今度の九州炭山の一件でも知ることが出来る、本来ならば篠田が自身に出掛けて
大に
煽動せにやならないのだ、然るに自分は東京に寝て居て、少しばかり新聞でお茶を濁してるんぢや無いか、僕は最初から
彼奴が嫌ひだ、
耶蘇ばかり振り廻はしやがつて――」
浦和は眼を閉ぢて沈黙す、
吾妻は声を打ちひそめて「君、新聞社内では既に篠田の売節を誰一人疑ふものは無いのだ、
只だ余り目立たずに彼を放逐しなければ社其物の名誉に関するから、非常に苦心してるのサ、――彼が内々消費する金銭のことを考へるに、尋常のもので無いことは明白だ、多分
露探ぢや無からうかと云ふ社内の
輿論だがネ、――浦和君、僕の心事は君も知つて居るぢやありませんか、僕が何を好んで我が先輩たり恩人たる彼の不利を
図るもんですか、大抵推察して呉れ給へ――」
「モウ、判つたよ、是れ程の証拠があれば充分だ、吾妻君、
若し君が無かつたならば、我党は非常な運命に
陥る所であつた」と、松本は
昂然として席を離れ「浦和君、時間が余程過ぎた」と急がしつ、ガチリ、
錠を解きて廊下に出でぬ、
浦和は
腕拱きたるまゝ其後を追へり、
* * *
やゝ待ち
倦みたる会員は
急霰の如き拍手を
以て温厚なる浦和議長を迎へたり、議長は
徐ろに開会の辞を宣して、今や書記をして今夜の議案を朗読せしめんとする時「議長ツ」と、大声に叫びて幹事松本常吉は
起ち上がりつ「本員は議事に入るに
先ちて、一個の緊急動議を提起せねばなりませぬ」
彼は
梟の如き鋭き
眼を放つて会衆を
一睨せり、満場の視線は期せずして彼の赤黒き面上に集まりぬ、
松本は
咳一咳しつ「我が
鍛工組合の評議員篠田長二君の身上に
就て、一個の動議を提出するんですから、先づ同君に
向て暫時退席を要求致します」
議席は
騒だてり、我々は真実を以て交はる者なれば、他の議会に見る如き
忌避或は秘密等の
厭ふべき慣例を用ひざるべしとの議論
盛なりしが、篠田はやがて起ち上がりつ、
「我輩も実に其議論の主張者でありますが、既に発議者よりの要求ある以上は、発議者をして充分に言はんとする所を
尽くさしめん為め、
謹で自ら退席致します」
一揖して出で去れり、
其の後影を
一睨したる松本「諸君――
我組合が尊敬して評議員の名誉をさへ与へたる篠田長二君が、何ぞ
図らん、
却て私利私慾の為めに我々の権利と幸福を売つて資本家党に降服したる証拠を
捉へたのである」
松本は議席を見過はせり、
会衆は再び騒ぎ立てり「畜生」「馬鹿野郎」「除名せよ」「斬つて仕舞へ」等の声は一隅より
囂々と起れり「
誣告」「中傷」「証拠を示せ」等の声は他の一隅より
喧々と起れり、
「御指揮に及ばず、其証拠を御覧に入れるのです」と松本は手を揚げて之を制しつ「彼は
愈々山木剛造の長女梅子と結婚の内約
整ひ、伊藤侯爵が其
媒酌人たることを承諾したのである、彼は九州炭山坑夫同盟の真相を
悉く大株主にして其重役なる山木に内通して、予防策を講ぜしめ、又た政府の
狗となつて社会主義倶楽部及び我が組合の運動消息をば、一々府政へ密告して居るのである、
今ま
幸にして彼の内状を最も
詳にする、
尤も信用すべき人の口より其の報道を得たのは、天実に我々労働者の前途を幸ひするものと信ずるのである、
依て
此の如き獅子身中の虫を退治せんが為めに本組合
先づ
直に彼を除名することの決議をして貰ひたい――緊急動議の要旨は
是れである」
松本は
昂然会衆を見廻して、自席に復せり、満場相顧みて語なし、
議長浦和は
徐ろに其席に起てり「松本君の動議は実に驚くべき問題でありまして、自分に
於ては
大に心を
苛めて居りますが、
就きましては――」
議長の言
尚ほ
央なるに、「議長」と
呼で評議員席に起立したるは、平民週報主筆
行徳秋香なり、彼は先刻来憤怒の色を制して、松本を
睨視しつゝありしが、今は
最早や得堪へずして起ちたりしなり、満場
呼吸を殺して彼を見たり、彼は篠田と最も親交ある一人なればなり、
「松本君の只今の御説明は、我々の耳には何等の証拠をも与へたるものとは聞えない、我輩も篠田君の親友で、
恐く満場の諸君よりも同君の内状に
詳いであらうと思ふ、我輩は最も親交ある篠田君の一友人として、松本君の指摘されたる事実は、
尽く無根の
捏造説であることを断言します――
抑も此の
誣告を試みたる信用すべき人物とは、何物でありますか」
松本は猛然として、起てり「行徳君は僕を
誣告者と言はれた、
怪しからん、――諸君、僕が誣告者であるか
否は、公明正大なる諸君の判断に一任します、僕は只だ良心の命ずる所に
従て此事を言ふのである」
「証人の名を言へ」と呼ぶものあり、
声する方を松本は
睨みつ「証人の名を言ふに及ばぬ、
若し諸君が僕を信用するならば、
敢て証人の姓名を問ふに及ばぬではないか」
紛々たり、
擾々たり、
「審判なしに宣告を下だすことは
如何なる野蛮の法律も
許るさぬ」と一隅に叫けぶものあり、
松本はニヤリと冷笑を浮かべつゝ満場を
見渡たせり「諸君は証拠を要求せらるゝが、証拠を示さぬのは
必竟彼に対する恩恵だ――諸君は彼を道徳堅固なる君子と信仰せられる様だ、恐ろしい君子があつたもんだ、
芸妓買を
行つて、自由廃業をさせて、借金を踏み倒ほさして、
自宅へ引きずり込んで、其れで道徳堅固な君子と言ふんだ、成程
耶蘇教と云ふものは
偉らいもんだ」
ヒヤ/\、大ヒヤなど
頓狂なる
叫喚は他の一隅に
湧き上がれり、
笑声ドツと四壁を動かしつ、
此の
光景を
看て取つたる松本常吉「議長、満場別に異議ないやうです、採決を願ひませう」
憂色、
面に現然たる議長が何やらん
唇を開かんずる
刹那「
否ツ」と一声、巨鐘の如く席の中央より響きたり、
看よ、菱川硬二郎は
夜叉の如く口頭より
焔を吐きつゝ突ツ起ちてあり、
「君等は真面目に
其様ことを言つとるのか――労働者は無智で
軽忽で、離間者の一言で
起こしも
臥かしも出来るもんだと云ふことを発表しようとするのか――我々の周囲には日夜探偵の居ることを注意し給へ――
否な、我々の間にも或は探偵が潜伏しとるかも知れないのだ」
「誰を探偵だと云ふのか、菱川君」と松本は
疾呼大声す、「僕が
其を答へる前に、松本君、君は
尚ほ弁明の義務を
負んどるぢやないか、君は誰の言を信じて篠田君を探偵と云ふのだ、売節漢と云ふのだ」
「イヤ、其問題は既に経過した、其れとも君は此の松本を指して虚言者と云ふのか」
菱川の太き眉は釣り上がれり「其れが果して日本の労働者の言語なのか、日本の労働者は三百代言にも劣つた陰険な心を持つとるのか、――君は必ず或者から固く名前を秘する様に頼まれたのだらう、君が信用する或者とは、必ず
憎むべき探偵であるに相違ない」
松本は
沸騰する怒気に口さへ利かぬばかり、
行徳は静に言ふ「諸君は少こし考へたならば、篠田君が果して我々同志を売るものか
如何か知れるではないか、――同君が賤業婦人を救ひ出すのは珍らしいことではない、
加之諸君は之を称讃して
麗はしき社会的救済事業と認めて来たでは無いか、又た四月の大会の為め、九州炭山坑夫の為め、経費募集のことの為めに苦心
焦慮して居らるゝことは、諸君も御承知の
筈では無いか――」
「彼が募集し得た金を握つて敵陣へ降参する魂胆に、注意して貰ひたい」と松本は
遮りぬ、
「君等は
猜疑心の為めに自殺するのか」
流石に行徳も
遂に
赫怒せり、
頭を振りつゝ松本は
躍り上つて叫ぶ「諸君は
宜しく自ら決断せねばならぬ、諸君は果して僕を信ずるか、信じないか」
「労働者諸君、諸君は共和民主々義を
棄てて
擅制君主々義に従ふのか」と、手を振つて菱川は
号叫す、
「勿論、我々労働者は社会主義の空論を排斥するのである、非戦論なんて云ふ書生論に
捲き込まれるものとは違ふのである、我々
鍛工の多数は現に鉄砲を造り軍艦を造つて飯を食つて居るものである」
松本は絶叫せり、
拍手喝采の響は百雷落下と凝はれぬ、
今は議長も思ひ
決めて起ち立がれり「議長に於きましては、此の重大問題を即決致しますることは、少こしく
軽率の様にも考へます、
依て五名の調査委員を挙げて、一応調査することに致し度存じます、御異議が無くば――」
松本が
周章て起たんとする時賛成々々の声四隅に
湧出して議長の意見を嘉納し
了せり、
「あゝ、大事去れり」と行徳は涙を
揮つて
長大息せり、
菱川は髪
逆立てて怒号せり「我が労働者
未だ自覚せず」
* * *
階下の一室に
兀座せる篠田は、
俄に起る階上の拍手に沈思の
眼を開きぬ、
隙洩る雪風に燈火明滅、
正午には
尚ほ
間のあり、
同胞新聞の楼上なる、
編輯室の
暖炉の
辺には、四五の記者の立ちて新聞を
猟さるあり、椅子に
凭りて手帳を
翻へすあり、今日の勤務の打ち合はせやすらん、
足音あわただしく駆け込み来れる一人「諸君、――実に大変なことが
出来した」
其声は打ち
顫へて、其
面は色を失へり、彼は吾妻俊郎なり、
「何だ、君、そんな泥靴のまゝで」と、立ちて新聞を見居たる一人は眉を
顰めぬ「電車でも脱線したと云ふのか」
「馬鹿言つてちや困まる、我社の危急存亡に関する一大事なのだ、我々は
全然、篠田の泥靴に
蹂躙されたのだ――」吾妻の両眼は血走りて見えぬ、
「ナニ、篠田
様が
如何なされたと云ふんだ」と、居合せる面々、異口同音に吾妻を顧みたり、
吾妻は目を閉ぢ、歯を
噛締て、得堪へぬ悲憤を強ひて
抑へつ「諸君、僕は実に諸君に対する面目が無いです、――
従来僕は篠田先生に
阿媚するとか、
諂諛するとかツて、諸君の冷嘲熱罵を被つたですが、僕は
只だ先生を敬慕する余りに、左様な非難をも受くることになつたのです、然るに諸君、僕は全く
欺かれて居ました――」吾妻はハンケチもて眼を
蔽ひつ「僕が諸君の
罵詈攻撃をさへ甘んじて敬愛尊信した彼は――諸君、――売節漢であつた、
疑もなき
間諜であつた」
「
間諜ツ」と一人は吾妻を
睨めり、
「馬鹿ツ」と他の一人ほ冷然微笑せり、
一同の吾妻の言に取り合はざるに、彼は
悄然として落涙せり「アヽ、諸君、――僕の言を借用なさらぬは、
必竟僕が平素の不徳に依るですから、
已むを得ないです、が、先生を
間諜と認めたのは、僕の観察では無い、先生とは最も密接の関係ある
鍛工組合が調査の結果、昨夜の臨時総会に
於て満場異存なかつた決議です――」
「ナニ、鍛工組合が決議した――吾妻、又た
虚言吐いちや承知せぬぞ」
「騒いぢや
可かん、――
彼の松本が例の
猜忌と嫉妬の狂言なんだらう、馬鹿メ」
吾妻は目を挙げて「
左様です、
若し松本等の主張ならば、僕も驚きは致しませぬ、
然るに
彼の温良なる、
寧ろ温柔の
嫌ある浦和武平が、涙を
揮つて之を宣言したのです、余程正確なる証拠を握つて居るらしいです、昨夜は
兎に
角、調査委員を
選で公然之を審判すると云ふことにして散会したさうですが――聞く所に依れば、先生も昨夜は真ツ青になつて、一言の弁解も無つたさうです、僕は
斯かる不祥を聴かねばならぬことを、我が耳の為めに悲むです――」彼は
面を
掩うて
歔欷したり、
一同
瞑目せり、
拱手せり、沈思せり、疑団の雲霧は
漸く彼等の
心胸に往来し
初めけるなり、
階子に足音聞こゆ、疑ふべくもあらぬ篠田の其れなり、彼は今ま此の
疑雲猜霧の
裡に一歩一歩静に足を進めつゝあるなり、
皆な
眸を扉に集めぬ、
扉は開かれぬ、
篠田は入り来りぬ、
一同期せずして一歩遠ざかりつ、唇を結べるまゝ
冷やかに目礼せり、
* * *
翌朝の都下新聞紙には左の如き同一の記事を掲げられぬ、何人が通信したりけん、
●社会党と露犬 同胞新聞主筆篠田長二が、外に清貧を仮装しつゝ、内実奢侈放逸に耽れることは其筋に於て注意する所なりしが、鍛工組合に放ても内々調査したりし結果、一昨夜を以て臨時総会を開き、彼に露探の嫌疑充分なりとの故を以て審判委員五名を選定せり
「机の塵」「隣の噂」など云へる戯文欄に於て
揶揄、冷評を加へしも少からず「
基督教徒の非国家的思想」テフ大標題を掲げて、基督教は売国教なる
所以を痛論せる仏教主義の新聞もあり、
山木剛造の玄関には二輌の
腕車、其の
轅を
揃へて、
主人を待ちつゝあり、
化粧室なる
大玻璃鏡の前には、今しも梅子の
衣紋正して立ち出でんとするを、其の後姿仰ぎてありし老婆の声
湿ませつ「では、お嬢様、
何でも
行つしやるので御座いますか――
斯様こと申したらば、
老人の
愚痴とお笑ひ遊ばすかも知れませぬが、何となく
今日に限つて胸騒ぎが致しましてネ――」
梅子は
玻璃鏡に映れる老婆の影をながめて微笑しつ「婆や、私だつて、今日此頃外へ出るなど少しも好みはしませんがネ、
折角母様がお誘ひ下ださるのだから、
御伴するんです――けれど、婆や、別に心配なこと無いぢやないかネ」
「いゝえ、お嬢様、上野浅草へ
行しやるのを、心配とも何とも思ひは致しませんが――
帰途に
大洞様の橋場の御別荘へ、お寄りなさると
仰しやるぢや御座いませんか」
「
左様よ」
「サ、それが、お嬢様、何となく
心懸りなので御座います」
「
何故――婆や」
老婆は
垂頭て
語なし、
良久ありて「近頃、奥様の
御容子が、
何分不審なので御座いますよ、先日旦那様が
御帰京になりました晩、伊藤侯が
図らずも
媒酌人に
為つて下ださるからとのお話で、大勲位の御媒酌なんて有難いことは無いと、奥様も大層な
御歓喜で
在しつたで御座いませう、其れをお嬢様、貴嬢がキツパリ
御断になつたもんですから……
御両所の
彼の御立腹は
如何で御座いました、旦那様は随分
他人には
酷くお
衝りになりましても、
貴嬢ばかりには
一目置いて
居したのが、
彼の晩の御剣幕たら何事で御座います、
父子の縁も今夜限だと大きな声をなすつて、今にも
貴嬢を
打擲なさるかと、お側に居る私さへ身が
慄ひました――それに奥様の悪態を御覧遊ばせ、恩知らずの、
人非人の、
何の
角のと、
兎ても口にされる訳のものでは御座いませぬ、私でさへ
彼の
唇を引ツ裂いてあげたい程に思ひましたもの、
貴嬢能く御辛抱なされました――其れがマア、不審では御座いませぬか、一週間
経つや経たずに、貴嬢をお連れなすつての
宮寺詣り――貴嬢をお
伴れ遊ばして奥様の
御遊山は、私初めてお見受け申すので御座いますよ、是れはお嬢様、上野浅草は
託で、大洞様の御別荘が
目的に相違御座いません、今夜の橋場が、私、誠に心懸りで――
何やら永い
訣別にでもなる様な気が致しまして――」
梅子はジツと
瞑目してありしが「婆や、其れ程迄に思つてお呉れのお前の親切は、私、嬉しいとも
忝ないとも言葉には尽くされないの、けれど私、何も今日
死に行くと云ふぢやなし」
聊か
躊躇せる梅子は、思ひ返へしてホヽと打ち笑み「そりや、
婆や、お前が
日常言ふ通り、老少不常なんだから、
何時如何ことが起るまいとも知れないが、
然かし
左様心配した日には、
家の中にも居られなからうぢやないかネ、――多分遅くならうと思ふから婆や、
何卒先きに寝てお呉れよ、寒いからネ」
老婆は
歔欷して
言語なし、
開きかゝりてありし
襖の
間より下女の丸き
赭面現はれて「お嬢様、奥様が玄関で御待ち兼ねで御座んす」
「オ、
左様でせうネ」と急ぎ行かんとする梅子の袂に、老婆は
縋りつ、「――お嬢様、――お
慎深い
貴嬢へ、申すもクドいやうで御座いますが――何卒お気を着けなすつて下さいまし――御待ち申して居りますよ――」
仰ぎたる老婆の
面は、
滲々たる涙の雨に
濡れぬ、
軽く
首肯きたる梅子も、
絹巾に眼を
掩ひぬ、
* * *
二輌の
腕車は勇ましく
走せ去れり、
上野なる東照宮の境内を
遠近話しながら歩を移す山木のお
加女と梅子、
「ネ、梅子、
左様でせう、だから余ツ程考へなけりやなりませんよ、
何時までも花の
盛で居るわけにはならないからネ、お前さんなども、
何かと言へば、
最早見頃を過ぎた
齢ですよ、まア、
縹緻が
可いから一ツや二ツ
隠くしても居れようがネ――私にしてからが、
只だお前さんの行末を思へばこそ、
斯してウルさく勧めるんだアね、悪く取られて、たまつたもんぢやありませんよ」
「
阿母さん、
勿体ない、悪く取るなんてことあるものですか」
「けれど言ふことを聴いてお呉れでなきや、悪るく取つておいでとしか思はれませんよ」
樹間隠れに見ゆる若き夫婦の盛装せるが、
睦ましげに語らひ行く影を、ツクヅクとお加女は見送りながら「梅子、あれを御覧なさい、まアほんとに可愛らしい、
雛人形の様だよ――私も早くお前さんの
彼した
容子を見たいと、其ればつかりが、親の
楽だアね、大きな娘を
何時までも一人で置いては、世間体も悪るし、第一草葉の蔭のお前の
実母さんに対して、私が顔向けなりませんよ――まア御覧なネ、あの手を引き合つて、
嬉しさうに笑つて、――男でも女でも
彼が一生の極楽世界と云ふもんですよ――羨ましいとは思ひませんかネ」
ジロリと、お加女は横目に見やれり、
梅子は他方を
眺めつゝあり、
「あゝ、恐ろしいお嬢様だこと――」、お加女は目に角立てて
独言しぬ、
二人は無言のまゝ長き
舗石を、大鳥居の方に出で来れり、去れど其処には二輌の
腕車を置き棄てたるまゝ、
何処行きけん、車夫の影だも見えず、
「
何したつてんだねエ――日がモウ入りかけてるのに、
仕様があつたもんぢやない、チヨツ」と、お加女は打ち腹立てて、
的もなく当り散らしつゝあり、
通りかゝれる
職人体の三人連、
「イヨウ、素敵な
別嬪が立つてるぢやねエか――
池の
端なら、弁天様の御散歩かと拝まれる所なんだ」
「
束髪で、眼鏡で、大分西洋がつたハイカラ式の弁天様だ、
海老茶袴を
穿いてねい所が有難い」
「見ねイ、弁天様の御側に
三途川原の婆さんも御座るぜ」
「
何れ一度は
御厄介になりますが聞いて
呆きれらア、ハヽヽヽヽ」「ハヽヽヽヽヽヽ」
お加女は顔を
顰めつ「車夫は何処へ行つて
仕舞ツたらう」
日は既に森蔭に落ちたる博物舘前を、大きなる書籍の
包、小脇に抱へて
此方に来れるは、まがうべくもあらぬ篠田長二なり、図書舘よりの帰途にやあらん、
梅子は
遙に其れと見るより、サと
面を
赧らめつ、
折柄竹の台の
方より額の汗
拭ひも
敢へず、飛ぶが如くに走せ来れる二人の車夫を、お加女はガミ/\と頭から
罵りつ、ヤヲら車に乗り移りしが、
宛も其前に来れる篠田は、梅子と相見て
慇懃に黙礼し、又たスタ/\と歩み去る、
「梅子、早くおしなネ」と言ひつゝ、お加女のチヨイと振り向く時、篠田の横顔、其目に入りしにぞ、「悪党ツ」と口の
裡にツブやきつ、
恍然立てる梅子を、思ふさまグイと
睨み付けぬ、
都会の
紅塵を離れ、隅田の青流に
枕める橋場の里、
数寄を
凝らせる
大洞利八が別荘の奥二階、春寒き河風を
金屏に
遮り、銀燭の華光
燦爛たる一室に、火炉を
擁して端坐せるは、山木梅子の
母子なりけり、
珍客接待の役相勤むるは大洞の妻のお熊、黒く染めたる
頭髪を
脂滴るばかりに結びつ「加女さん、今年のやうに
寒じますと、
老婆の
難渋ですよ、お互様にネ――梅子さんの時代が
女性の花と云ふもんですねエ――」
「でも姉さんは
一寸も
御変なさいませんがネ、私ツたら、カラ
最早仕様が無いんですよ、芳子などに
始終笑はれますの――何時の間に
斯う年取つたかと、ほんとに驚いて仕舞ひますの」とお加女は目を細くして強ひて笑ひつ、
「お
客来の所へ
参りまして、伯母さん、飛んだお邪魔致しましてネ」と梅子の気兼ねするに「ほんとにねエ」とお加女も相和す、
「何の、
貴女」と、お熊は刺しつ「
日常来つしやるお客様でネ、家内同様の方なんですから、気兼も何もありやしませんよ、山木の御家内なら、
寧そ
同席に御馳走にならうつて
仰しやるんですよ、梅子さん、
磊落な方ですから、何卒御遠慮なくネ」
カラ/\と打ち笑ふ男の声聞えて、主人の利八と物語りつゝ、
階子上り
来るは、今しもお熊の
噂せる其人なるべし、
襖手荒らに開かれて現はれたる一丈天、其の
衣の身に合はず見ゆるは、
大洞のをや仮り着せるならん、既に
稍々酒気を帯びたる
面を
燈火に照らしつ、立ちたるまゝに「ヤア、山木の内君――新年先づ御目出たう」
「まア、
何殿かと思ひましたら、
貴所ですか――姉さん、
酷いことねエ、知らして下ださらぬもんですから、飛んだ失礼致したぢや御座んせんか」と、お加女はホヽと
笑傾け「あら、
私としたことが、
御挨拶も致しませんで――どうも旧年中は一方ならぬ御世話様に預りまして、何卒相変りませず」
「イヤ、
左様固く出られると
大に閉口する――お互様ぢや」と、客は
無頓着に打ち笑ひ「知らぬ方でもないので、御邪魔に来ました」
「さア、
何卒是れへ」とお加女が座をいざりて上座を譲らんとするを「ヤ、床の置物は
御免蒙むらう」と、客は
却て梅子の座側に近づかんとす、
お熊も
興がりて「其の方が
可御座んす、どうせ、
貴所は
家内の人も同様で
在つしやるんですから」と言ふを「成程、其れが西洋式でがすかナ」と利八も笑ふ、
梅子の左側に客はドツかと座に就きぬ「令嬢失礼致します」
梅子は
只だ
慇懃に黙礼せるのみ、
「オヽ、梅子」とお加女は顧み「お前さんは
未だお
初つに御目に
懸るんでしたネ、
此方が
阿父の一方ならぬ御厚情に
預る、海軍の松島様で――
御不礼無い様に
御挨拶を」
偖はと梅子の胸
轟くを、松島は
先づ口を開きつ「我輩が松島と云ふ
無骨漢です――御芳名は兼ねて承知致し居ります」
去れど梅子は
只だ重ねて黙礼せるのみ、
如才なき大洞は下婢が運べる
盃取つて松島に差しつ「ぢや、
貴所からお始め下さい」
「梅子、お酌を」と、お加女は
促がしつ、
「御酌を」と
促がされたる梅子は、
俯きたるまま、
微動だにせず、
再び促がされても、依然たり、
「
何したんだねエ、此の
女は」と、お
加女の
耐へず声荒ららぐるを、お熊はオホヽと
徳利取り上げ、
「なにネ、若い方は
兎角耻づかしいもんですよ、まア其の
間が人も花ですからねエ――松島さん、たまには、
老婆さんのお酌もお珍らしくて
可う御座んせう」
「
老女の方が実は
怖いのサ」と、松島の
呵々大笑して盃を挙ぐるを、「まア、お口のお悪いことねエ」とお熊も笑ひつ「何卒松島さんお盃はお隣へ――」
「
左様ですか、――
然かし失礼の様ですナ」と、美しき梅子の横顔、シゲ/\見入りつ「では、山木の令嬢」と
小盃をば梅子に差し付けぬ、
「梅ちやん、松島さんのお
盃ですよ」と徳利差し出して、お熊の
促がすを、梅子は手を
膝に置きたるまゝ、目を上げて見んとだにせず、
「梅子、
頂戴しないのかね」と、お加女は目に
角立てぬ、
「かう云ふ不調法もので御座いましてネ、誠に御不礼ばかり致しまして」
「なにネ、お加女さん、御婚礼前は誰でも
斯うなんですよ」と、お熊はバツを合はして「ぢやア梅ちやんの
名代に、松島さん、私が頂戴致しませう」
「こりや
奇麗な花嫁が出来ましたわイ」と利八は大笑す、
「あら、旦那、何ですねエ」と、お熊は手を
揚げて、
叩くまねしつ「
是れでも
鶯鳴かせた春もあつたんですよ」グツと飲み干してハツハと笑ふ、
何れも相和して笑ひどよめく、
梅子の眉ビクリ動きつ、帯の間より時計出して、ソと見やるを、お熊は早くも見とめて「梅ちやん、タマに来て下だすつたんだから、何卒
寛裕して下ださいナ、其れに御遠方なんだから、此の寒い夜中にお帰りなさるわけにはなりませんよ、
最早、其の
心算にして置いたのですから、
一泊りなすつてネ――ねエ、お加女さん、
可いでせう」
「ハア、遅くなつたら泊りますからツて、申しては来ましたがネ」
「ぢや、大丈夫ですよ」と、早くもお熊は酒が言はする
上機嫌「
暫く振りで梅ちやんの琴を聴かせて頂きませう――松島さん、梅ちやんは西洋のもお上手で
在つしやいますがネ、お琴が又た一ときはで在つしやるんですよ」
「
左様ですか、――是非拝聴致しませう」と松島は
盃を片手に梅子に見とるゝばかり、
酒次第に廻りて、席
漸く
濫る、
「旦那」と小声に下婢の呼ぶに、大洞は
暫ばしとばかり
退かり出でぬ、
お熊の目くばせに、お加女も何やらん用事ありげに立ち去りぬ、
お熊は松島の側近く
膝を進めて「ほんとにねエ、さうして
御両人並んで
在つしやると、
如何に御似合ひ遊ばすか知れませんよ――梅ちやん、
貴嬢も嬉しくて
居つしやいませう」と、酔顔斜めに梅子を
窺ひ、
徳利取り上げて松島に
酌がんとせしが「あら、冷えて
仕舞つたんですよ」と、ニヤり松島と顔見合はせ、
其儀スイと立つて行きぬ、微動だもせで正座し居たる梅子、今まお熊さへ出で行くと見るより、
直に立つて後を追はんとするを、松島、
忽如猿臂を伸ばして
袂を
捉へつ、「梅子さん」
「何遊ばすツ」振り
回りたる梅子の
面は憤怒の色に燃えぬ、
グイと引きたる男の力に、梅子の
袂ピリヽ破れつ、
「何あそばすツ」
と再び振り向く梅子を、力まかせに松島は引き
据ゑつ、憤怒の色、
眉宇に閃めきしが
忽にして
強て
面を
和らげ、
「梅子さん、
貴嬢、余り残酷ではありませぬか、
成程今夜の始末、定めて御立腹でもありませうが、少しは御推察をも願ひたい――私の切情は、梅子さん、
疾く御諒承下ださるでせう、貴嬢は私を御存知ありますまいが、私は
能く貴嬢を存じて居ります――私は前年先妻を
亡なつた時、
最早や終生独身と覚悟致しました、――梅子さん、仮にも帝国軍人たるものが、其の決心を打ち忘れて、斯かる痴態を演ずると云ふ、男子が
衷情の苦痛を、貴嬢は御了解下ださらぬですか」
松島は梅子の
袂をシカと握れるまゝ、ジツと其
面ながめ
遣り「斯く御婦人に対して御無礼を働きまするも――幾度も拒絶されたる貴嬢に対して、耻辱を
忍で御面会致すと言ふも、
人伝てにては何分にも靴を隔てて
痒を掻くの
憾に堪へぬからです、
今日に
至ては、
強て貴嬢の御承諾を得たいと云ふのが私の希望では御座いませぬ、只だ貴嬢の御口から
直接に断念せよと
仰しやつて下ださるならば、私は其を以て善知識の引導と嬉しく拝聴致します、不肖ながら帝国軍人です、
匹夫野人の如く飽くまで
纏綿つて貴嬢を苦め申す如き
卑怯の
挙動は、誓つて致しませぬ、――何卒、梅子さん、只だ一言
判然仰しやつて下ださい」
梅子はワナなく身を
耐へて
瞑目す、
松島は一きは声ひそめつ、「梅子さん、今に
至て考へて見れば、我ながら余りの
愚蒙と
軽忽とに
呆れるばかりです、私は初め山木君――
貴嬢の父上の御承諾を得ました時、既に貴嬢の御承諾を得たるが如く心得、歓喜の余り、親友
知己等へも
吹聴したのです、御笑ひ下ださるな、恋は
大人をも
小児にする魔術です、――去れば
今日、貴嬢から拒絶されたと云ふことが知れ渡つたものですから、同僚などから
殆ど毎日の如く冷笑される、
何時結婚式を挙げるなど
揶揄はれる
其度に、私は穴にも入りたい様に感じまするので、
寧ろ自殺して此の痛苦から逃れようかなど考へることもありまするが
併かし
是れ一に私の罪なので、誰を
怨むる
筈も無く、親の権力が其子の意思を支配し得ると云ふ野蛮思想から、
軽忽に狂喜した我が
愚を
慚愧する外はありませぬ――
併かし其の為に貴嬢の御名をも汚がすが如き結果になりましては、何分我心の不安に堪へませぬので、――海軍々人は
爾く婦人を侮辱するものと言はれては、是れ実に私一人の耻辱のみでは無いのでありますから、今晩は此の罪をも
謹で貴嬢の前に
懺悔し、
赦したと云ふ一言の御言葉を得たいと思ふので御座いまする――」
瞑目せる梅子の心中には、今日しも上野公園にて、
図らずも
邂逅せる篠田の
面影明々と見ゆるなり、
再昨年の春の夜始めて聴きたる彼の説教は、朗々と響くなり、彼を思うて人知れず絞れる
生命の涙、身も
魂も捧げて彼を愛すと誓へる神前の
祈祷、嬉しき心、
辛き
思、千万無量の感慨は胸臆三寸の間に
溢れて、父なる神の
御声、天に
在ます
亡母の幻あり/\と見えつ、聞えつ、
何故斯かる
汚穢の
筵に座して、
狼の甘き
誘惑に耳を
仮すやと叱かり給ふ、
松島は膝を正して手を
拱けり、「何卒我が過去の罪は梅子さん、お
赦し下ださい」
梅子は
面を
揚げぬ「松島さん、
貴所は必ず
女性の貞節を重んじて下ださいませうネ」
松島は
訝しげに梅子を見ぬ「――、其れは
勿論です――」
「松島さん、感謝致します――私には既に誓つた
良人があるので御座いますから――」
梅子の頬は
珊瑚の如く
紅く輝きぬ、
「何ですツ」松島の血相は
忽ち変はれり「良人があると」
「ハイ」梅子も厳然として松島を
睨み返へせり、
「フム其りや始めて承はる」と、松島は満面
軽蔑の気を
溢らしつ「
何時結婚なされた」
「
否、結婚は致しませぬ」
「
然らば、
何時約束なされた」
「約束も致しませぬ」
「
然らば御尋ね致すが、御両親も承諾されたのか」
梅子はホヽ笑みぬ「親の権力も子の意思に関渉することの出来ないのは、
貴所、只今御説明なされたでは御座いませぬか」
グツト詰まりし松島は、ヤガて冷笑一番「ウム婦人の口から
野合を自白するんだナ」
「何を
仰しやる――」
梅子のキツとなるを、松島
笑て受け
流がし、
「
左様だらう、
未だ結婚もしない、公然約束もしない、父母の承諾を得たでもない、其れで良人があるとすれば、野合の外なからう」
「――
貴所は愛の自由と神聖とをお認めになりませぬか」
「神聖も糞もあるかい」
梅子の
柳眉は
逆立てり「軍人の思想は
其程に卑劣なものですか」
「何ツ」松島は
猛獅の如く
躍り上りつ、梅子の胸を
捉へて
仰けに倒せり、「女と思つて
赦して置けば増長しやがつて――
貴様の此の
栄耀を尽くすことの出来るのは誰のお蔭だ、貴様等を今日乞食にしようと、
餓死させようと、我が方寸にあることを知らないか――軍人の卑劣とは聞き棄てならぬ一言だ――貴様の大事な篠田の受売だらう、見とれ、篠田の奴も決して安穏に許るしては置かぬぞ、貴様等の為めに帝国軍人の名誉を
毀けてなるものか」
力を
極めて押し付くるを、梅子は絶えなんばかりの声振り
絞りつ、「――人道の敵ツ」
黒髪バラリと振り掛かれる、
蒼き
面に血走る双眼、日の如く輝き、
怒に
震ふ
朱唇白くなるまで
噛み
〆めたる梅子の、心
決めて見上たる美しさ、
只凄きばかり、
炎々たる情火に松島は、気狂ひ、心
悶えて眼さへに
眩くなれり、
「――
復讐――」
今や心狂ひたる軍人の鉄腕に
擁せられたる、繊細なる梅子の身は、
鷹爪に
捉らはれたる
雛雀とも言はんか、
仮令声を限りに叫べばとて
何処より、援助来らん、一点の
汚塵だも留めたるなき一輪の白梅、あはれ半夜の狂風に
空しく
泥土に
委すらんか、
押へられたる
儘、梅子は
瞬きもせで
睨み詰めたり、
松島は梅子を引き起しつゝ、其の
繊弱き
双腕をばあはれ
背後に
捉へんずる
刹那、梅子の手は
電火の如く
閃けり、
「キヤツ」と一声、松島の大なる
躯はドウと倒れぬ、
* * *
襖を
隔てて
窺ひ居たるお熊は、
尋常ならぬ物音に
走せ出でぬ、
看よ、松島はヒシと左眼を押へて
悶絶す、手を漏れて流血
淋漓たり、
梅子はスツクと立ち上れり、其の右手には
汚血を握りつ、
「来て下ださい」
絶叫したるまゝ、お熊は倒れぬ、
何事やらんと
駆け上がりたる
大洞も、お
加女も、流るゝ血潮に驚きて、
只だ梅子の
面を見つめしのみ、
梅子は始めて唇を開きぬ「警察へ引き渡して頂きませう――私は血を流した罪人です」
死力を
籠めたる細き
拇指に、左眼
抉られたる松島は、
痛に堪へ得ぬ
面、
僅に
擡げつ「――秘密――秘密に――名誉に関はる――早く医者を、内密に――」
「名誉ツ?」梅子は突つ立てるまゝ、松島を
睨めり、「名誉とは何事です、誰の名誉に関はるのです、殺人と
掠奪を
稼業にする
汝等に、何で人間の名誉がありませうか、――
女性全体の権利と安寧との為めに、必ず之を公にして、社会の制裁力を試験せねばなりません」
梅子の視線はお加女の面上に転ぜり「
継母、貴女は
嘸ぞ御不満足で御座いませう、貴女の
女は、世にも恐ろしき流血の重罪を
犯しました、けれど
継母、貴女のお望の破操の大悪よりは、軽う御座いますよ――」
彼女の眼光は電光の如く大洞の顔を射れり「処女の神聖を
涜がさん為めに準備せられた此の建物が、野獣の
汚血に
塗れたのは、定めて浅念なことでせう――
傷けるものの為めには医師を御招きなさい、けれど、犯罪者の為めに、
何故早く警官をお呼びなさらぬ」
大洞は、色を失つて
戦慄するお加女の耳に
近きつ、「
少こし気を静めさして今夜の中に
密と帰へすが
可からう――世間に洩れては大変だ」
* * *
ヒユウ/\と枝を鳴らせる寒風も、今は収まりて、電燈の光
寂しき
芝山内の真夜中を山木剛造の玄関には、
何処にか行かんとすらん、一子剛一の
今ま自転車に点火せんとしつゝあり、
側には一人、
彼の老婆の身を縮めて「剛様、今夜は又た
一ときは寒う御座んすから
何卒、御気を着け遊ばしてネ――
貴郎が行つて下ださるので、
如何程安心で御座いませう」
「
婆や、一飛びだ――何せよ、場所が場所だからナ、僕ア心配で堪まらぬのだ、大洞の伯父だの伯母だのツて、婆や、人間の
面してる畜生なんだ、姉さんの
身上に万一のことでもあつて御覧、
何の顔して人に逢はれるか」
早や彼は車を運びて、門の方へ進み行く、
此時
忽ち
轣轆たる車声、
万籟死せる深夜の
寂寞を驚かして、山木の門前に
停まれり、剛一は足をとどめてキツとなれり、
小門、外より押されて数名の黒影は庭内に
顕はれぬ、
先きなるは母のお加女なり、中に
擁されたるは姉の梅子なり、他は大洞よりの
附け
人にやあらん、
「姉さんですか」剛一は自転車を投じて
走せ寄れり、梅子はヒシと
抱き着きぬ「剛さん――」
彼女は弟の温き胸に
頭をよせて、呼吸も絶えなんばかり、
剛一は
緊と抱きて声励ましつ「
凛乎なさい――」
老婆は只だ涙なり、「――お嬢さま――」
寝床の上に起き直りたる梅子の
枕頭には、校服のまゝなる剛一の
慰顔なる、
「ナニ、姉さん、
左様気をいら立てずと、
最少し休んで
在らつしやる方が
可いですよ」
「けれどネ、剛さん、
彼様猛悪な心が、此の胸に潜んで居るのかと思ふと、自分ながら恐ろしくて
堪りませんもの、――私は剛さん、
奇魔に死ぬことと覚悟して居たんです、
彼様乱暴しようとは、夢にも思やしませんよ、
如何した
突嗟の心の変化か、考へて見ても解らないの、矢ツ張り私の心が、
怨と
怒に満たされて居たので、其れで
彼した卑怯な
挙動に出たのですねエ――今朝からネ、一人で聖書を読んだり、お
祈したりして居たんですよ、私もう――
怖くて怖くて神様の
御前へ出られないんですもの――」
梅子は身を
顫はして
面を
掩へり、
剛一も目を閉ぢて
暫ばし言葉なかりしが、「――姉さん、篠田さんも其ことを心配してでしたよ」
「エ」と梅子は
頭を
擡げつ「
貴郎、篠田さんにお逢ひになつて――」其顔は
赧くなれり、
「ハア、
折角の日曜も姉さんの
行つしやらぬ教会で、長谷川の寝言など聞くのは馬鹿らしいから、今朝篠田
様を訪問したのです、――非常に
憤慨してでしたよ」
「私の
挙動をでせう」
「
左様ぢやないです」と剛一は
頭を
掉りつ「
仮令世界を挙げても、
処女の貞操と交換することの出来ない真理が解らぬかツて、憤慨して居られました、何でも
彼の翌日と云ふものは、警察の手を以て
彼のことの新聞へ出ない様に、百方奔走をしたんださうです、日本軍隊の威信と名誉に
関はるからと云ふんでネ――実に
怪しからんぢやありませんか、今の社会が言ふ所の威信とか名誉とか言ふのは何を指すのです、僕は此の根本を誤つてる威信論や名誉論を破壊し尽さぬ間は、
到底道義人情の精粋を発揮することは出来ぬと思ふです」
「アヽ、剛さん、――世間からは毒婦と恐れられ、神様からは悪魔と
賤しめられて
忌な
生涯を終らねばならんでせうか――私、此の右手を切つて
棄てたい様だワ――」
「姉さん」と剛一は膝を進めぬ「篠田さんの心配して居なさつたのは
其処なんです、
貴嬢の一生の危機は、先夜の危難の際では無く、虎口を脱れなすつた
今日に
在ると
仰しやるんです、――姉さん、貴嬢は今ま始めて
凡ての
束縛から逃れて、全く自由を得なすつたのです、親の権力からも、世間の
毀誉褒貶からも、又た神の慈愛からさへも自由になられたのである、今は
貴嬢が
真正に貴嬢の一心を以て、永遠の進退を定めなさるべき時機である、――愛の子か、
詛の子か――けれど君の姉さんが此際、
撰択の道を
過つ如き、弱く
愚なる人で無いことは
確に信ずると篠田さんは言うてでしたよ、――姉さん篠田さんは貴嬢を
斯くまで
篤く信じて居なさいますよ」
梅子は枕に倒れて、
咽び入りぬ、「――神様――何卒――お
赦し下ださいまし――」
ハイ――と
警むる
御者の掛声勇ましく、今しも一
輌の馬車は、揚々として
霞門より日比谷公園へぞ入り
来る、ドツかと
反り返へりたる車上の主公は、
年歯疾くに六十を越えたれども、威風堂々として
尚ほ
鞍に
拠つて
顧眄するの勇を示す、三十余年以前は西国の
一匹夫、今は国家の元老として
九重雲深き
辺にも、信任浅からぬ侯爵
何某の将軍なりとか、
陪乗したるは
清洒なる当世風の年少紳士、木立の間に
逍遙する一個の人影を認むるや
指しつつ声をヒソめ「閣下、
彼処を革命が歩るいて居りまする」
「ナニ、革命」侯爵は身を起して
彼方を
睨みつ「あの筒袖着た壮士の様な男か」
「ハ、閣下、
彼が先刻も
談柄に上りましたる、社会党の篠田と申す
男で御座りまする」
「フム、松島の一眼を失つたのも、
彼の男の為めか」
「ハ、
尤も松島の負傷に
就ては、少こし事情もある様に御座りまするが――」
「イヤ、
例令如何なる事情があらうとも、此の軍国多事の際、
有為の将校に重傷を負はしむると云ふは容赦ならぬ」と、言ひつゝ将軍は
斜に篠田の後影を
睨みつ、「何して居る、
何れ善からぬ目算致して居るのであらう」
「ハ、多分今晩演説の腹案でも致し居るものと思はれまする」
「ナニ、演説――
何処で」
「ハ、神田の青年館と申すで、非戦論の演説会を」
「怪しからんこと」と将軍の眉は動けり「戦争のことは
上御一人の
御叡断に待つことで、民間の壮士などが
彼此申すは不敬
極まる、何故内務大臣は之を禁じない――ナニ――だから貴様等は
不可と言ふのだ、法律などに
拘泥して大事が出来るか、俺など皆な国禁を犯して維新の大業を成したものだ、早速電話で言うて
遣れ、俺の命令だと云うて――
輦轂の下をも
憚らず
不埒な奴等だ」
将軍は
昂然たり、
若紳士は
唯々として
頭を垂れぬ、
馬車は夕陽を浴びつゝ
迂廻して、やがて
悠々華族会館の門を入りぬ、
* * *
神田
美土代町なる青年会館の門前には、黒山の如き群集の
喧々囂々たるを見る、
「
何故入場を許さない」「集会の自由を如何にする」「圧制政府」「警察の干渉」「僕は社会主義に反対のだから
入て呉れい」「ヒヤ/\」「ノウ/\」「馬鹿野郎」「ワハヽヽ」「ワアイ/\」
星影まばらに風寒き所、
圧しつ圧されつ動揺するさま、
怒涛の闇夜寄せつ砕けつするに異らず、
鉄門は
既に固く
鎖されたり、
只だ
赤煉瓦の
塀に、高く掲げられたる
大巾の白布に、
墨痕鮮明なる「社会主義大演説会」の数文字のみ、燈台の如く仰がれぬ、
幾十となき響官の
提灯は、
吠えたける
人涛の間に浮きつ沈みつして、之を制止する声
却て難船者の救助を求むる叫喚の如くぞ響く「
最早立錐の地が無いのだ」「コラ、垣を越えては
不可」「
圧すな/\」「
提灯が
潰ぶれるワ」「痛い/\」「ヤア/\」
同じく入場し得ざる為め、少しく
隔たりて
観居たる数名、
「日本も偉いことになつて参りましたナ、此の戦争熱の最中で、非戦論の演説を
行らうツてんですから」
「
左様、其れを又た聴きたいてんで、此の
騒なんですからナ」
「
而かも
貴所、十銭傍聴料を払ふんだから、驚くぢやありませんか」
「正直な所、誰でも戦争など有難いもんぢやありませんのサ、――大きな声ぢや言はれませんがネ」
立錐の地なしと門前の警官が、絶叫したるも
宜なりけり、
左しもに広き青年会館の演説場も、
只だ人を以て埋めたるばかり、
爛々たる電燈も呼吸の為めに曇りて見えぬ、一見、其異に驚くは警官の厳重に排置せられしことなり、
演壇の右側には一警視の剣を
杖きて、弁士の横顔穴も
穿けよと
睨みつゝあり、三名の巡査は
俯して速記に
忙殺せらる、
今ま演壇には、背広の洋服ヤヽ
垢つけるを一着なしたる青年が、手を振り声を張上げて
騒々擾々たる聴衆と闘ひつつあり、行徳、坂井、松下、菱川、柴等の面々は皆な既に演じ終りたるなりと云ふ、
否な、
何れも五分十分にて中止を命ぜられしなりと云ふ、
特に最も
滑稽なりしは、菱川が登壇開口、「戦争で第一に
金儲するのは誰だか、諸君、知つてますか」の一語
未だ終らざるに、早くも「中止」の
一喝に
逢ひしことなりとぞ、是れには二階の左側に陣取れる一群の反対者も、手を
拍つて
哄笑せしにぞ、警視は
頬を
脹して
暫ばし座りも得せざりしと云ふ、
青年弁士は水ガブ/\と
飲で又た手を振り始めぬ、「諸君が
露西亜討たざるべからずと言ふけれ共ダ、露西亜の何物を討つと言ふのです」
「露西亜帝国を征伐するんだ」と叫ぶものあり、
弁士は声せし方に
向て「果して然らば僕は、我輩は――」
一隅の聴衆ワア/\と冷笑す、
「我輩は諸君の態度が
可笑しいと思ふです、
即ち諸君は
自家撞着です」
「何故自家撞着だ――馬鹿、小僧、引ツ込め」と例の階上の左側より騒ぐ、
「主戦論者は其通り無礼背徳だ」と階下より見上げて応戦するもあり、
弁士は額の汗
拭ひつ「
看給へ、
露西亜帝国政府の
無道擅制は、露西亜国民の敵ではありませんか、
然れ
共独り露西亜政府のみでは無いです、各国政府の政策と
雖も、其の手段に露骨と陰険の相違はあるか知れませぬが、其の精神は皆な露西亜と同じ侵略主義ではありませぬか」
喝采湧くが如くにして階上左側の妨害を
埋没する
刹那、警視は起てり「弁士、中止」
「見ろやアイ」「民主々義万歳」など思ひ/\の
叫喚沸騰して、悲憤の涙を
掬びたる青年弁士の降壇を送れり、
聴衆の少しく静まるを待つて、司会者の
椅子を離れたる
渡部伊蘇夫は、澄み渡る音声に次の弁士を紹介す「篠田長二君――演題は社会党の……」
皆まで言はさず、喝采の声、堂を動かせり、篠田は既に演壇に立てり、
絶叫の声は
拍手の間に響けり、満場既に
酔ひぬ、
反対者の冷笑
熱罵もコヽを
先途と
沸き上れり、「露探」「露探」「山木の婿の成りぞこね
奴」「花吉さんへ
宜しく願ひますよ」
彼は
徐ろに口を開きぬ「諸君――」
此時、聴衆の頭上を飛ぶが如くに
駈け来れる一警部が、演壇に飛び上がつて、何事か警視に
耳語せり、
瞥視は
倉皇、椅子を蹴つて起てり「解散――弁士――中止」
満場総立となれり、警官力を
極めて制すれ共聴かばこそ、「革命」「革命」「革命」
良久見てありし篠田は、右手を伸ばしぬ、
「静に」
群衆は舌を留めて篠田を見たり、
「火に油
注ぐ者の
火傷は、我等の微力に救ふことは出来ませぬ」
彼は
一揖して去れり、
満場再び湧き返へれり、
玻璃窓の砕くる響
凄まし、
中仙道熊谷を、午後の六時廿分に発したる上武鉄道の終列車は、七時廿六分に
波久礼駅に着きぬ、
秩父の雪の
山颪、身を切るばかりにして、
戸々に燃ゆる
夕食の
火影のみぞ、慕はるゝ、
「馬車が出ます/\」と、
炉火を
擁して
踞まりたる
馬丁の
濁声、闇の
裡より響く「吉田行も、大宮行も、今ま
直と出ますよ」
都の
巷には影を没せる円太郎馬車の、
寂然と大道に傾きて、
痩せたる馬の
寒天に
俯して
藁を
食めり、
二台の馬車に、客はマバラに乗り込みぬ、去れど御者も
馬丁も
悠々寛々と、炉辺に
饒舌を
皷しつゝあり、
「オヽイ、馬丁さん、早くしてお呉れよ、
躯がちぎれて飛んで
仕舞ひさうだ――
戯
ぢやねえよ」と、車の
裡なる
老爺は
鼻汁すゝりつゝ呼ぶ、
「まア、飛ばねえやうに、繩ででも
縛つて置いてお呉れなせえ、
此方の
躯もちぎれねえやうに、今ま一杯
行つてくからネ」、御者は又た
濁酒一椀を傾けつ「べら棒に寒い晩だ」と星晴れたる空を仰ぎながら、ノソリ/\と打ち連れて車台に上りぬ、
月は出でぬ、
雪の峰、
玲瓏と頭上に輝き渡り、荒川の
激湍、
巌に
吠えて、眼下に白玉を砕く、暖き春の日ならんには、目を上げて心酔ふべき天景も、吹き上ぐる川風に、客は皆な首を縮めて
瞑黙す、
御者の
鼻唄も
暫ばし
途断れて、馬の
脊に鳴る
革鞭の響、身に
浸みぬ、吉田行なる
後なる車に、先きの程より対座の客の
面、其の
容体、
訝しげに
眺め入りたる白髪の老翁、やがて
慇懃に札を施し「
旦那、失礼なこと伺ふ様ですが、失つ張り此の山の
人で
在つしやりますか」
対座の客は
首肯きつ「ハイ、山の
男ですが、只今は他郷に
流浪致し居りまするので」
「して、山は
何の
辺で
在つしやりますか」
「
粟野で御座います」
老人は
良久思案の
態なりしが「――
若し篠田様――の御縁家では――」
「ハイ、篠田の一族で御座います」
「篠田長左衛門様の――」
「
左様です、長左衛門の
伜で」
「
左様で御座りまするか」と老人は
膝の下まで
頭を下げつ「先刻からお見受け申す所が、長左衛門様
生写で
在つしやるから、
若し
左様では
在つしやるまいかと考へましたので」
老人は早くも懐旧の涙に得堪へぬものの如し「私は
小鹿野の奥の
権作と申しますもので、長左衛門様には
何程御厚情を
蒙りましたとも知れませぬ、――
彼の
騒で旦那様は
彼した御最後――が、百姓共の為めにお果てなされた長左衛門様の御恩を忘れてはならねえと、若い者等に言うて聴かせることで御座りまする――ぢやあ、
貴郎は
慥に長二様と
仰しやりました坊様で、イヤ、どうも立派な男に御成りなされました、
全然先旦那様に御目に掛るやうで御座りまする」
「
左様でありましたか」と篠田はうなづき「幼少で飛び出しましたので、誠に知人が少ないですが、故郷の山、故郷の水、故郷の人、事に触れ時に従ひて、故郷程懐しきものはありません」
「
伯母御様は御達者で
在つしやりまするか、永らく御目通りも致しませぬが――」
「ハイ、御蔭様で別状も無いやうですが――私も久しく
無沙汰致しましたから、一寸見舞にと思ひまして」
「
成程」
「ヂヤ、与太、吉田屋の婆さんに
能く言うて呉れよ、
何れ近日
返金するつてツたつてナ」と
前車の御者は
喚きつゝ、大宮行の馬車は
国神宿に停車せり、
「どうせ、
貴様から
返金して貰へるなんて思つちや居ねえツて言つたよ――其れよりかお竹の阿魔に、泣かずに
待てろツて
伝言頼むぞ、忘れると承知しねえぞ」と
後車の御者は答へつゝ、篠田と老人とを乗せたる一
輌は、
驀地に
孤り
奔せぬ、
「旦那、此
界隈もヒドく
寂れましたよ」と老人は
歎息ちつ、
雪の坂路を、馬車は右に左にガタリ/\と揺れつゝ上り行く、馬の吐息
冰りて煙の如し、夜は既に十時に近からんとす、
「
最早丁度、十年――廿年になりますナ」と老人は首傾け「イヤ、どうも月月の
経つと云ふは早いもので、
未だほんの昨日の様な気が致し居りまするが」長大息を漏らして彼は篠田の
面をシゲ/\見入りたり「土地のことも知らねえ、言葉さへ
訳らねえ様な役人が来て、
御維新は
己が
成たと言はぬばかりに威張り散らす、税は年増しに殖える、働き盛を兵隊に取られる、一つでも
可いことは
無えので、其処で長左衛門様の
御先達で朝廷へ
直訴と云ふことになつたので御座りましたよ、其れを村の巡査が途方も
無い
嘘ツぱちを
吹聴して、騒動が始まるなんて言ひ振らしたので、気早の連中が
大立腹で
闇打を食はせる、憲兵が
遣つて来るワ、高崎から鎮台が押し寄せるワ、
到頭長左衛門様は鉄砲に当つて、
彼したことにお成りなされましたので――」
老人は
暫ばし目を
塞ぎて心に浮ぶ当時の光景を
偲びつ「其れから
皆なして
遺骸を、御宅へ
担いで
参りましたが、――御大病の
御新造様が
態々玄関まで御出掛けなされて、御丁寧な
御挨拶、すると旦那、
貴郎だ、其時
丁度十二三の坊様が、長い刀を持ち出しなされて、
父ちやんの
復讐に行くと言ひなさる、其れを今の
粟野に御座る伯母御様が
緊乎抱き留めておすかしなさる――イヤもう、皆な御庭に座つて泣きましたよ」
老人は声曇らせて月影に
面を
背向けぬ、
「御老人」と篠田もソゾろ懐旧の感に
打れやしけん、
袂より取り出せる
襤褸もて老人は鼻打ちかみ「其れから間もなく御新造様は
御亡なり、
貴郎は伯母御様に手を引かれなさつて、粟野の奥へ行かしやる、――何でも長左衛門様の
讐討たんぢやならねエと言ふんで、伯母御様の所から逃げ出しなすつて、外国迄も行つて修業なすつて、
偉い
人にならしやつたと云ふことは薄々聞いて
居ましたが、――どうも思ひ掛けねエ所で御目に掛りまして、
昔時のことがアリ/\と目に見えるやうで御座りやす」
「御老人、
貴所の様に、長い目で御覧になりましたならば、世の
変遷が
能く御見えになりませうが、
偖て自分一身を顧みますと、実にお耻かしい次第でありましてナ、
亡き父などに対しても、誠に面目御座いません」
「いや/\、
左様で
無い、何でも
偉い
人に成らしやつたと云ふ
取り
沙汰で御座りまする」と、老人は首打ち振り「が、
先旦那様も偉い方で御座りましたよ、二十年前に心配しなすつた通りに、今は成り果てて仕舞ひました、何だ
角だと取られる
税は多くなる、
積れる
作物に変りは無い、其れで山へも入ることがならねい、草も
迂濶苅ることがならねい、
小児は学校へ
遣らにやならねい、
借金が出来る、田地は段々に
他の物になる、旦那今ま此の
山中で、自分の田を作つて居るものが幾人ありますかサ、――其上に
厄介なものがありますよ、兵隊と云ふ恐ろしい厄介物が、聞けば
又た戦争とか始まるさうで、
私の村からも三四人急に召し上げられましたが、兵隊に取られるものに限つて、貧乏人で御座りますよ、成程
其筈で、年中働いて居るので
身体が丈夫、丈夫だから兵隊に取られる、――此頃も郡役所の小役人が
帽子など
被つて来まして、国の為めに死ぬんだで、有難いことだなんて言ひましたが、
斯様馬鹿な話がありますか、――近い
例証が十年前の支那の戦争で、村から取られた兵隊が一人死にましたが、ヤア村の
誉になるなんて、鎮守の
杜に大きな石碑建てて、役人など多勢来て、大金使つて、大騒ぎして、お祭を
行りましたが、一人息子に死なれた
年老つた
両親は、
稼人が無くなつたので、地主から、田地を取り上げられる、税を納めねいので、役場からは有りもせぬ家財を売り払はれる、抵当に入れた馬小屋見たよな家は、金主から
逐つ立てられる、
到頭村で建てて呉れた自分の息子の石碑の横で、夫婦が首を
縊つて終ひましたよ、
爺と
媼の
情死だなんて、
皆な笑ひましたが、其時も
私、長左衛門様の御話して、
斯なることを
見透して御座つたと言うて聴かせましたが、若い者等は、ヘイ
其様人があつたのかなと驚いて居ましたよ、
最早村の奴せえ御恩を忘れて居ります様なわけで――」
老人は
鼻汁すゝり上げつ「どうせ
私などは明日にも死ぬ身だから、
関やせぬやうな物で御座りますが、子供等が可哀さうでなりませぬ、何卒、旦那――長二様、一つ長左衛門様の
魂魄を
御継ぎなされて、此の百姓共を救つて下さりまし――」
石にや乗り上げけん、馬車は
顛覆せんばかりに激動せり、
「畜生、何をフザけやがるツ」
御者は続けさまに
鞭を鳴らして打てり、
「オヽ、可哀さうだ、余り
酷くしなさるナ」と、老人は御者をなだめつ、
馬車はやがて吉田に着きぬ、
「では、御老人、お別れ致します」篠田は老人の手をシカと握りて斯く言へり、
権作爺は
幾度も何か言はんと欲して
遂に言ふこと
能はざりき、粟野の
方へ雪踏み分けて坂路を
辿る篠田の黒影見えずなる迄、月にすかして見送りぬ、涙に
霞む老眼、硬き
掌に押し
拭ひつつ、
権作老人と立ち別れて篠田は、降り積む雪をギイ/\と
鞋下に踏みつゝ、我が伯母の
孤り住む
粟野の谷へと急ぐ、氷の如き月は海の如き
碧き空に浮びて、見渡す限り
白銀を延べたるばかり、
老夫の旧懐談に心動ける彼は、
仰で此の月明に対する時、伯母の慈愛に
負きて、粟野の山を逃れる十五歳の春の
昔時より、同じ道を
辿り行く今の我に至るまで、十有六年の
心裡の経過、歴々浮び来つて無量の感慨
抑ゆべくもあらず、
只だ燃え立つ
復讐の誠意、幼き胸にかき抱きて、雄々しくも
失踪せる小さき影を、月よ、汝は
如何に哀れと観じたりけん、
焦がるゝ如き救世の野心に五尺の
体躯徒に
煩悶して、鈍き手腕、其百万の一をも成すこと
能はざる耻かしさを、月よ、
汝は
如何に
甲斐なしと照らすらん、
森々として死せるが如き無人の深夜、彼はヒシと胸を抱きて雪に倒れつ、熱涙
混々、誰
憚らず声を放つて泣きたりしが、
忽ちガパと
跳ね起きつ、足を踏みしめ、手を振つて、天地も動けと、呼ばはりぬ、
翠の帳、きらめく星 白妙の牀、かがやく雪 宏なる哉、美くしの自然 誰が為め神は、備へましけむ、
峯の嵐は、眠りたり 谷の流は、夢のうち 隈なき月の冬の影 厳かにこそ、静なれ、
眼閉づれば速く近く、何処なるらん琴の音聴こゆ 頭揚ぐれば氷の上に 冷えたる躯、一ツ坐せり 両手振つて歌唄へば 山彦の末見ゆ、高きみそら、
感謝の声の天のぼり 琴の調に入らん時 歌にこもれる人の子が 地上の罪の響きなば 弾く手とどめて天津乙女 耻かしの 色や浮ぶらめ、
父の正義のしもとにぞ 涜れし心ひれ伏さむ 母の慈愛の涙にぞ 罪のゆるしを求め泣く 御神よ我を逐ふ勿れ 神よ汝が子を逐ふ勿れ
神の心を摸型の 人てふ旨を忘れてき 神の御園の海山を 血しほ流して争へり、
万象眠る夜の床 人に逐はれし人の子の 天地を恨む力さへ 涙と共に涸れはてて 空く急ぐ滅亡を 如何に見玉ふ我神よ、
天つ御国を地の上に 建てんと叫ぶ我が舌に 燃ゆれど尽きぬ博愛の 永久の焔恵みてよ、
熟睡の窓に束の間の 罪逃がれにし人の子を 虚無の夢路にさゝやきて 聖き記憶を呼びさませ、
星の帳、雪の牀 くしく宏なる準備かな 只だ頽廃の人の心 悲しくも住むに堪へざるを、
彼の
面は
嬉々と輝きつ、
髯の氷打ち払ひて、雪を
蹴つて
小児の如く
走せぬ、伯母の家は
彼の山角の陰に在るなり、
樹の
間より
燈影の漏るゝ見ゆ、伯母は
未だ
寝ねずあるなり、
細き橋を渡り、
狭き
崖を
攀ぢて篠田は伯母の軒端近く進めり、
綿糸紡ぐ車の音
微かに聞こゆ、
彼女は此の寒き深夜、老いの身の
尚ほ働きつゝあるなり、
「伯母さん」篠田ほホト/\戸を
叩けり、
車の音
止みぬ、
去れど何の
答もなし、
篠田は再び呼べり「伯母さん」
「誰だエ」と伯母は始めて
答へぬ、
「伯母さん、私です」
「オ、――長二ぢやないか」
倉皇として起ち
来る音して、
歪みたる戸は、ガタピシと開きぬ、
「まア――」と驚きたる伯母は、雪に立ちたる月下の篠田を、嬉しげにツクヅクと見上げ見下ろせり「
能く来てお呉れだ、先頃の手紙に、忙しくて当分行くことが出来さうも無いとあつたので、春暖かにでもならねばと思つて居たのに、――
嘸ぞ寒むかつたらう、今年は珍らしい大雪での、さア、お入り、私ヤ又た狐でも呼ぶのかと思つたよ」
「狐と間違へられては大変ですネ」と篠田は
莞然笑傾けつ、
框に腰打ち掛けて雪に
冰れる
草鞋の
紐解かんとす、
「お前が来ると知つて居りや、湯も
沢山、
沸かして置いたのに」と伯母が炉上の
茶釜をせゝるを、「なに、伯母さん、雪路だから、足も
奇麗ですよ」と、篠田は早くも上りて炉辺に座りぬ、
昔ながらの
松明の
覚束なき光に見廻はせば、
寡婦暮らしの何十年に屋根は漏り、壁は破れて、幼くて
我引き取られたる頃に思ひ
較らぶれば、いたく
頽廃の色をぞ示す、
「まア、長二、お前ほんとに
吃驚させて、
斯様嬉しいことは無い」と、山の
馳走は此れ一つのみなる
榾堆きまで運び来れる伯母は、イソ/\として燃え上がる火影に
凛然たる
姪の
面ながめて「
何時も丈夫で結構だの、余り
身体使ひ過ぎて病気でも起りはせぬかと、私ヤ其ればかりが心配での」と言ひつゝ
見遣る伯母の
面は、
何時もながら若々として、神々しきばかりの
光沢漲れど、
流石に
頭髪は
去年の春よりも又た一ときは白くなり
増りたり、
榾の煙は「自然の香」なり、篠田の心は
陶然として酔へり、「私よりも、伯母さん、
貴女こそ
斯様深夜まで
夜業なさいましては、お体に
障りますよ」
「なんの、長二」と伯母は白き頭振りつ「
身体は使ふだけ
健康だがの、お前などのは、
心気を痛めるので、大毒だよ――今ではお前も健康の様だが、生れが何せ、
脆弱い
質で、
五歳六歳になるまでと云ふもの、
全で薬と
御祈祷で育てられた
躯だ――江戸の住居も
最早お止めよ、江戸は
塵と
埃の中だと云ふぢや無いか、
其様中に居る人間に、
何せ
満足なものの
在る
筈は無い、今ま直ぐと云ふわけにもなるまいが、
何卒伯母の
健康な中に
左様しなさい、
山姥金時で、猿や熊と遊んで暮らさうわ、――其れは
左様と、今度は少し
裕然泊つて行けるだらうの――」
篠田は頭掻きつゝ、口ごもりぬ「――先日も手紙で申上げたやうな
次第で、当時差し
懸つた用事がありますので、
殆ど足を抜くことが出来ないのですが――何だか
無闇に貴女が恋しくなつたもんですから、
今日不意に出掛けて参つたやうな始末でしてネ――」
伯母は
怪訝な目して
良久篠田を見つめしが「――又た明日ゆつくり話しませう、疲れたらうに早くお
寝み、
例の所にお前の床がある、――気候が寒いで、
風邪でも引かれると大変だ」
「
貴女こそ早くお寝みなさい」と篠田は笑ひぬ、
「何の、
私は寝たよりも
醒めてる方が
楽だ――此の綿を
紡で
仕舞はんぢや寝ないのが、私の
規定だ、是れもお前の
袷を織る
積なので――さア、早くお
寝み」
「
左様ですか」と篠田は暗涙を
呑で身を起しつ「誠に、恐縮に御座ります」と
襖開きて、慣れたる奥の
一室に
入れり、
伯母は膝に手を組んで
頭を垂れぬ「――何か
只ならぬ心配があると見える――此の私を急に恋しくなつたと云ふのは――
彼の剛情な男が――」
「長二や、大層
早起の、何時起きたのか、ちつとも知らなかつたよ」と言ひつゝ伯母は内より障子開く、
縁端には篠田が
悠然と腰打ち掛けて、朝日の
光輝く峯の白雲
眺めつゝあり、「そりや、伯母さん、私の方が早く寝ましたからネ――が、伯母さん、どうも実に閑静ですねエ、全く別天地です、此の節々が
延々しますよ」
「だから、江戸の様なせゝこましい所で、無駄な苦労せずに、早く先祖代々の故郷へお帰りと云ふのだ――
頼朝様よりも前から住んで居るので、
何殿に頭を下げにやならぬと云ふ様な心配もなしさ」
「
然かし、伯母さん」と篠田は笑みつ「猿や狐の友達も
可いが、人間は矢張り人間の相手が無ければ、
寂しくて
堪りませんよ、私は又た伯母さんが、
能く
斯して
孤独で居なさると不思議に思ふですよ、
何です、一つ
江戸住と改正なされたら」
「オヽ、飛んだことを、何の長二や、寂しいことがあるものか、多勢寄つて来るので、夜も寝るのが
惜い程
賑かだ」
「ヘエ、
何処から
其様に人が参りますか」と篠田の
訝かるを、伯母は事も無げに
首肯きつ「私の知つとる程の人が、皆な寄つて来るよ、――お前の
阿父も来る、
阿母も来る、
祖父も
祖母も来なさる、――
其れに、長二、私の
許嫁で亡くなつた、お前の
義伯さんも来るの、其れに
斯うしてお前も
偶には来て呉れる、
斯様嬉しいことがありますか」
ハヽヽと思はずも篠田は笑ひつ「ぢや、伯母さん私も仏様の御仲間入するんですネ」
「
左様サ」と伯母は
首肯き「神様か仏様か知らないが、矢ツ張り人間の様だよ、妙なもので、人は生きて居た時よりも、死んだ後の方が皆んな善くなるよ――生きてた時分には、怒り合つたこともあらうし、
怨み合つたこともあらうが、一度死ぬと、悪い所は
皆な墓場へ葬つて、善い所だけが
霊魂に残るものと見える、其れに死んだ人は、
羨ましいことに、年と言ふものを取らないので、誰も彼も皆な若いよ、お前の
阿父でも
阿母でも皆な若いよ、――私の亭主も
丁度二十歳で
亡つたが、其時の姿の
儘で目に見える、
私の頭が
斯様に白くなつたので、どうやら耻かしい様な気がして、
最早何時にも鏡と云ふものを見たことが無いよ――」
ほツほツと
片頬に寄する伯母の清らけき笑の波に、篠田は幽玄の気、胸に
溢れつ、振り返つて
一室に
煤げたる仏壇を
見遣れば、
金箔剥げたる黒き
位牌の林の如き前に、年
経て
朧気なる一個の写真ぞ安置せらる、
是れ此の伯母が、
未だ
合衾の式を拳ぐるに及ばずして
亡き
数に入りたる人の影なり、
伯母もチヨと
其方を見やりつ「いつであつたか、
彼の写真が判らぬ様になつたので、大きな油絵とやらに書き代へようと親切に、お前が言うて呉れたが、ナニ、決して其れには及びませぬよ、写真の顔などは見えなくなる程が
可いよ、――そりやお前、絵姿なんてものは、
極り切つた顔して居るばかりだけれど、此の心に映る姿は、物も言へば、歩きもする、怒りもすれば笑ひもする、
斯様自由自在なものは有るまいよ」
「成程」と、篠田は
瞑目して、伯母が言葉の
端々深く味ひつ、
伯母はほツほと
独り笑ひつ「私ヤ、まア、勝手なことばかり言つて居たが、長二や、其れよりもお前の
嫁の決らないのが、誠に
心懸りだよ、
何だエ、
未だ矢ツ張り心当りが無いか、――江戸あたりの
埃の中には、お前の気に
協つたものは有るまいが、ト云つて山の中にも無しの、ほんに困つて
仕舞うたよ」と首傾けて
屈托の
態なりしが「ほう」と一つ
己が
膝叩きつ「どうだエ、長二、お前、
亜米利加とかで大層お世話になつた
婦人があるぢや無いか、偉い
女性だとお前が言ふのだから、大した人に相違なかろが、一つ其
婦人を貰ふわけにやなるまいか、異人でも何でむ構やせぬよ、其れに御亭主の無い
婦人だとお言ひぢやないか、エ、長二」
篠田は腹を拘へて
噴飯せり、
「イエ、本当の話だよ」と伯母は益々
真面目也、
「伯母さん、
兼てお話した通り、偉い
女性に相違ありませぬがネ、――伯母さんより
十歳も上のお姿さんですよ」
「何だエ」と伯母は眼を
円くし「
其様豪い
婦人で、
其様歳になるまで、一度もお嫁にならんのかよ――異人てものは妙なことするものだの」
「別に不思議はありませんよ、現に伯母さんも
左様ぢやありませんか」
「ナニ、私ヤ、是でもチヤンと心に亭主があるのだよ」
「其れならば、伯母さん、御安心下ださい、私もチヤンと花嫁がありますよ」
篠田は
晃々たる雪の山々見廻はして、歓然たり、
「オヽ、お嫁があるとエ」と伯母は驚くまでに打ち喜び「して、
其れは何時きめました、早く知らせて呉れゝば
可いに」
「なに、伯母さん、改めてお知らせする程のことも無いのです、
最早疾くの
昔時のことですから」
「ほツほ、何を長二、言ふだよ、
斯様老人をお前、
弄るものぢや無いよ、其れよりも、まア、
何様婦人だか、
何故連れて来ては呉れないのだ」
「伯母さん、
最早、
貴女にも
御紹介した筈ですよ」
「
虚言うて」と伯母は口開いてカラ/\と打ち笑ひ「
私がお前のお
媽さんを忘れて
可いものかの」
「サ、伯母さん、私の花嫁と云ふのは、其の『おかみさん』のことですよ」
「其のお
媽さんの名は何と言ふのだの」
「おかみさんと云ふのです」
「長二や、お前、何を言ふだ」と、伯母は又も声高く笑ふ、
「伯母さん、本当の話です、神様が私の花嫁のです、――父とも母とも花嫁とも、有らゆる一切です」
「ヘエ」と、伯母は
良久言葉もなく、
合点行かぬ気に篠田の
面を
目もれり「お前の神様のお話も
度々聞いたが、私には
何分解らない、神様が嫁さんだなんて、
全然怪物だの」
「怪物ぢや無い、人ですよ、人の大きいのです、
必竟、人が神様の小さいのと思や
可いですよ」
「
左様云ふものかの」と伯母は思案の首傾けつ、
「現に伯母さん、貴女の所へ私の両親も来る、
貴女の旦那様も来ると
仰しやつたでせう――怪物でも、不思議でもありませんよ」
「だがの、長二や、其れは
皆な
私の知つて居る人達だが、お前の嫁の其の神様には、お前、お目に掛つたことがあるかの」
「
左様ですねエ――思ひに悩む時、心の
寂しい時、気の狂ほしい時、
熟と精神を
凝らして祈念しますと、影の如く幻の如く、其の
面も見え、其声も聴こゆるですよ、伯母さんのと格別
違ありますまい」
「其れは長二や、
未だお前には早過ぎるやうだよ」と伯母は
頭を振りぬ「私も結局
孤独の方が好いと、心から思ふやうになつたのは、十年
以来くらゐなものだよ――今だから洗ひ
渫ひ言うて仕舞ふが、二十代や三十代の、
未だ血の気の
生々した頃は、人に隠れて
何程泣いたか知れないよ、お前の
祖父が
昔気質ので、
仮令祝言の
盃はしなくとも、
一旦約束した上は、
後家を立て通すが
女性の
義務だと言はしやる、当分は其気で居たものの、まア、長二や、
勿体ないが、
父を
怨んで泣いたものよ――お前は今年
幾歳だ、三十を一つも出たばかりでないか、お前がどんな偉い人になつたにしても、マサか仙人では有るまいわ、近い話が、何か身動きもならぬ程に忙しい中を、
斯様何の相談
対手にもならぬ
私を恋しがつて、急に思ひ立つて来ると云ふも、神様の
嫁御では、物足らぬからではあるまいか、エ、長二、お前が
何程物識でも、
私の方が年を取つて居りますぞ」
篠田は
腕拱きて深思に沈みつ、
子を伴へる雌雄の
猿猴が、雪深き谷間鳴きつゝ過ぐる見ゆ、
篠田の寂しき台所の火鉢に
凭りて、首打ち垂れたる
兼吉の
老母は、
未だ罪も定まらで牢獄に
呻吟する我が愛児の上をや
気遣ふらん、折柄誰やらん
訪ふ声に、
老母は狭き袖に涙
拭ひて立ち出でつ「オヽ、花ちやん――お珍らしい、
能くお
入来だネ、さア、お上りなさい、今もネ私一人で寂しくて困つて居たのですよ――別にお変りもなくて――」
「ハア、――
老母も――」と、
嫣然として上り来れるお花は、
頭も
無雑作の
束髪に、
木綿の
衣、キリヽ着なしたる所、
殆ど新春野屋の
花吉の影を止めず、「
大和さんは学校――
左様ですか、先生は
不相変御忙しくて
在つしやいませうねエ――今日はネ、
阿母、慈愛館からお
聴が出ましてネ、御年首に上つたんですよ、私、
斯様嬉しいお正月をするの、生れて始めてでせう、
是れも皆な先生の
御蔭様なんですからねエ――其れに
阿母、兼さんから
消息がありましテ、私、
始終気になりましてネ」
老母の目は
復た
忽ち涙に曇りつ「――予審とやらは此頃やうやく済んださうですがネ――」
「
左様ですツてネ――其事は私も新聞で見ましたの、――
六ヶ
敷文句ばかり書いてあるので、
能くは解りませぬでしたが、何でも兼さんに、
小米さんを殺すなんて悪心が有つたのでは無いと云ふやうに思へましたよ、矢つ張裁判官でも人ですから、少しは
同情があると見えますわねヱ、だから
阿母、余り心配なさらぬが
可御座んすよ」
「
難有うよ」と老母は
瞼拭ひつ「
此程も伜のことを引受けて下だすつた、弁護士の方が
来しつたんでネ、先生様の御友達の方で、――
御両人で
種々御相談なすつて
在しつたがネ、君是れ程筋が立つて居るのに、
若し兼吉を無罪にすることが出来ないならば、弁護士を
廃めて仕舞へと、先生様が
仰しやるぢやないか、すると
其方もネ、
可しい約束しようと
仰しやるんだよ、花ちやん、私、嬉しくて/\……」
「本当にねエ、
阿母」と、お花はブル/\と身を
震はしつ「何と云ふ御親切な方でせう、――私、考へる
毎に――」と、
面忽ちサと
紅らめ「
彼の様にお忙しい中で、私共のことまであれも是れもとお世話下さるんですもの、
何して
阿母、世間態や人前の
表面で、出来るのぢやありませんわねエ――近頃は又戦争が始まるとか、
忌な
噂ばかり高い時節ですから、夜分お帰りも
嘸ぞ遅くて
在つしやいませうねエ」
「
左様ですよ、おつちりお
寝みなさる間も無くて
在つしやるので、御気の毒様でネ、ト云つて
御手助する訳にもならずネ――其れに又た何か急に御用でもお出来なされたと見えて、昨日新聞社から直ぐに
御郷里へ行らしつたのでネ」
「あらツ」と、お花は驚き顔「ぢや先生は
御不在なんですね――まア――
何時御帰宅になるんですの」
「
端書で言うて
御遣しになつたのだから、詳しいことは解りませんがネ、明日の晩までには、お
帰宅になりませうよ、大和さんが
左様言うてらしたから、だから花ちやん、丁度
可い所へ来てお呉れだわネ、
寂しくて居た所なんだから」
「私、まア――ぢや、私、お目に掛ること出来ないんですか――」
「そんなに急ぐのかネ、花ちやん、たまのことだから、少しは遊んで行つても
可いでせう、外の
処ぢや無いもの」
黙つてお花は
頭を振り「明日の正午までには是非
帰館らねばなりませんの」
ガラリ、
格子戸鳴りて、大和は帰り来れり「やア、花ちやん、
来つしやい、待つてたんだ、二三日、先生が御不在ので、寂しくて居た所なんだ」
「
貴郎までが、――そんナ――」とお花は泣きも
出でなんばかり、
晩餐を果てて、三人燈下に物語りつゝあり、「何だか、
阿母、先生が御不在と
思もや、
其処いらが寂しいのねエ」と、お花は、篠田の書斎の
方顧みつゝ、
「ほんとにねエ、
在しつたからとて、
是れと云ふ別段のことあるでも無いのだけれど」と、兼吉の老母も
首肯きつ、
「本当に私、申訳ないと思ひますワ」と、お花は急に思ひ出したるらしく「先生が私を御世話なすつて下さるのを、世間では
彼此申すさうぢやありませんか、私ヤ、
何うせ
斯様した
躯なんですから、ちつとも
関やしませぬけれど、其れぢや、先生に御気の毒ですものねエ」
「なアに、花ちやん」と、
大和は番茶
呑み干しつゝ、事も無げに笑ひて、「
其様ことは先生に取つて少しも珍らしく無いのだ、此頃は
尚だ
酷い
風評が立つてるんだ――山木の梅子さんて
令嬢と、先生が結婚しなさるんだツて云ふんでネ、是れには先生も少こし迷惑して居なさる様なんだ、
皆な先生を
毀けようとする者の卑劣な策略なんだから、花ちやん、
左様心配しなさるに及ばないよ」
「左様でせうか」
「けれど大和さん」と老母は顔差し出し「ツイ此頃も、其の山木のお嬢様とやらの
弟御さんが
御来になつたで御座んせう、チラと御聞きしただけですから
能くは解りませんけれど、其の
御姉さんが
何してもお嫁に行かないと仰しやるんで、トド、何か大変なことでも
出来したと云ふ様な御話で御座んしたよ」
「ウム、
彼の松島の一件か」と、大和は例の
無頓着に言ひ捨てしが、
忽ち心着きてや両手に頭
抱へつ「やツ」と言ひつゝお花を見やる、
「
何しなすツたの」と、お花も、松島と云ふ一語に顔
赫らめぬ、
「なアに、花ちやんの為にも矢張り敵なんだよ、
彼の松島大佐がネ」と大和は
茶受ムシヤ/\と
噛み込みつ「
彼が余程以前から、梅子さんを貰はうとしたんだ、梅子さんの
実父も、
継母の兄と云ふのも、
皆な有名な御用商人なんだから、
賄賂の代りに早速承諾したんだ、所が我が梅子嬢は
何しても承知しないんだ、
到頭梅子さんを
誘ひ出して、腕力で侮辱を与へようとしたもんだから、梅子さんも非常に怒つて、松島を
片眼にしたんださうな、其れを
宅の先生が何か関係でもあつて、
左様させたやうに言ひ触らして、先生の事業を妨害する奴があるんだ、或は梅子さんが先生を恋して居なさるかも知れんサ、大分世間で其の評判だから、けれど先生は御存知無いんだ、恋愛は其
対手が承諾を与へた場合に始めて成立する、
所謂双務契約なんだからなア」と、恋愛法理論を講釈したる彼は、グツと一椀、茶を傾けつ「
何うも美人てものは厄介極まる、僕は
大嫌ひだ、」
老母もお花も転がつて笑ひつ、
「それは、
屹度、其のお嬢様も
左様で
在つしやいませうよ」と、老母はやがて口を
開きて「先生様のやうに、口数がお
少くなくて、お情深くて、何から何まで物が解つて
在しつて、其れでドツしりとして居なさるんですもの、
其ヤ、女の身になれば誰でもねエ」
「まア、
厭な
阿母」
「
否エ、本当ですよ」
お花はランプの光
眩し
気に
面を
背向けつ「けれど、其のお嬢様など、お
幸福ですわねエ、
其様した立派な方なら、
仮令浮き名が立たうが、
一寸も男の
耻辱にもなりや仕ませんもの――」
大和は眼を
円くして、
襟に
頤埋めて
俯けるお花の
容子を、マジ/\と見つめぬ、
此夜お花は眠らぎりき、
「今日は又た曇つて来た、
何卒降雪ねば可いが」と、空
眺めながら伯母は篠田を見送りの為め、其の後に付いて、雪の山路を
辿り来りしが「其う云ふ
次第で、長二や、気を着けてお呉れよ、此世に
只だ伯母一人
姪一人と云ふのぢや無いか、――亭主には婚礼もせずに
逝かれる、お前の
阿父は
彼の様な
非業な最後をする、天にも地にも頼るのはお前ばかりのだ――まあ、之を御覧よ」と、眼下に白き雪の山里
指しつ「お前の
阿父は此の
秩父の百姓を助けると云ふので鉄砲に
撃たれたのだが、お前の量見は其れよりも大きいので、
如何災難が
湧いて来ようも知れないよ、――
此様年老つた上に、
逆事など見せて呉れない様にの――」
篠田も何とやらん後髪引かるゝやう「伯母さん、
何卒心配せんで下ださい、重々御苦労を御掛け申して来た
今日ですから――
其れに私も
既三十を越したんですから、
後先見ずのことなど致しませんよ、父にも母にも
為ることの出来なかつた孝行を、
貴女御一人の上に尽くしたいのが、私の精神ですからネ」
伯母は涙
堰きも
敢へず「――長二や、――私や、
斯してお前と
歩るいて居ながら、コツクリと死にたいやうだ――」
ハヽヽヽと篠田は元気
克く打ち笑ひつ「何を伯母さん、
仰しやる、
今ま
若し貴女に死なれでもして御覧なさい、私は
殆ど此世の
希望を
亡して仕舞ふ様なもんですよ、何卒ネ、お
躯を大切にして下ださい、其のうちに又時を都合して参りますからネ」
「忙しからうがの」と、伯母は小さき
袂に
溢るゝ涙押し
拭ひつ「
何卒其うしてお呉れよ、
年増しにお前が恋しくなるので、――其れに、
復た言ふ様だが、
私の一生の御願だでの、一日も早く嫁を貰ふことにしてお呉れよ、――
女房が無いで
身締が
何の
角のなどと
其様な心配は、長二や、お前のことだもの少しも有りはせぬが、お前にしてからが何程心淋しいか知れはせぬよ、女など何の役にも立たぬ様に見えるが、偉い他人でも其の真心には及びませんよ、――
諄いと思ふだろが、お前の嫁の顔見ぬ
間は、
私は死にたくも死なれないよ」
篠田は答へんすべも無し、
* * *
顧み勝ちに篠田は
独り
下山り行く、伯母が赤心一語々々に我胸を貫きつ、
神に祈れど得も去らぬ、寂し心のなやみをば、恋てふものと伯母君の、昨日ぞ諭し玉ひたる
花の姿の美しと、乙女を見たる時もあれど、慕はしものと我が胸に、影をとどめしことあらず、
地上の罪の同胞に、代る犠牲の小羊と、神の御前に献げたる、堅き誓の我なるを、
不信の波の何時しかに、心の淵に立ち初めて、底の濁を揚げつらん、今日まで知らで我れ過ぎぬ、
汝を恋ふるばかりに、
柔しき処女の血にさへ
汚れしを知らずやテフ声、
忽ち
如何処よりか矢の如く心を射れり、山木梅子の美しき影、閉ぢたる眼前に
瞭然と笑めり、
「おのれ、長二ツ」と篠田は我と我が心を
大喝叱
して、
嚇とばかり
眼を開けり、
重畳たる灰色の雲破れて、
武甲の高根、雪に輝く、
壕水に
映つる星影寒くして、松の
梢に風音
凄く、夜も早や十時に
垂んたり、立番の巡査さへ今は
欠伸ながらに、炉を股にして身を縮むる
鍛冶橋畔の暗路を、
外套スツポリと頭から
被りて、
弓町の
方より出で来れる一黒影あり、交番の燈火にも顔を
背向けて急ぎ橋を渡りつ、土手に沿うて、トある警視庁官舎の門に没し去れり、
彼の黒影はヤガて外套を脱して、一室の扉を押せり、室内は燈火
明々として、
未だ官服のまゝなる主人は、燃え盛る
暖炉の側に安然と身を大椅子に投げて、針の如き
頬髯撫で廻はしつゝあり、
扉の開かれし音に、ギロリとせる眼を
其方に転じつ「ヤア、吾妻」
彼の黒影は同胞新聞の記者吾妻俊郎にぞありける、
吾妻はその
敏慧なる眼に微笑を含みつゝ、軽く黙礼せる儘、主人と相対して椅子に坐せり、
「川地課長、やうやく
捜し出しましたよ」
言ひつゝ彼は
裏なるポケットより一個の紙包を取り出して、主人に渡せり「
今一日後れりや、
屑屋の手に渡る所なんで――大切な原稿を間違へて、
反古の中へ入れちやつたてなことで、
屑籠を
打ちあけさせて、
一々択り分けて、本当に
酷い目に
逢ひましたよ」
主人は黙つて其の紙包を開けり、中より出でしは
皺クチヤになれる新聞の原稿なり、彼は
膝頭にて
稍々之を押し延ばしつ、口の
裡にて五六行読みもて行けり、
……彼の主戦論者の声言する所を聞くに日露両国の衝突は、自由と擅制との衝突にして、又た文明と野蛮との衝突……と云ふ、吾輩謂へらく決して然らず、是れ只だ両個擅制帝国の衝突のみ、両個野蛮政府の衝突のみ……………………財産の特権、貴族の遊食、………………総ゆる罪悪一に皇帝の名を仮りて弁疎……
川地は目を揚げて吾妻を見つ「
慥に篠田の自筆か」
「
左様です、間違ありませんよ」
「御苦労/\」と川地は
首肯きつゝ
己がポケットの底深く
蔵め「
是れが
在れば大丈夫だ、早速告発の手続に及ぶよ、実に
不埒な奴だ、――が、
彼奴、何処か旅行したさうだが、
逃でもしたのぢや
無らうナ」
吾妻は
微笑みつ「なに、郷里へ
一寸帰つただけのです、今晩あたり多分
帰京つた筈です、で、罪名は何とする
御心算ですネ」
「
左様さナ」と主人は頬
撫でつゝ「
先づ不敬罪あたりへ持つて行くのだ、吹つ掛けは
成るべく大きくないと
不可からナ」
「エ、不敬罪ですつて」と吾妻は声やゝ打ち
顫へり、
主人は鋭き眼して
睨みぬ「何だ」
「なに、
何もしやしませぬがネ」と吾妻は心押し静めつ「
何の道、大至急願ひたいものです――僕は
最早篠田の
面を見るに堪へないですからネ」
吾妻の額には恐怖の雲
懸る、
「何をビク/\するんだ」と、主人は吾妻を
一睨せり「
其様ことで探偵が勤まるか――篠田や社員の奴等に探偵と云ふことを感付かれりや
為なかろな」
「なアに、外の奴等は感付く所か、僕が余り篠田に接近すると云ふので、
却て
嫉妬して居る程です、ですから僕の流言が案外社員間には成効して、陰では
皆な充分に篠田を疑つて居るですがネ――」言ひ
淀みたる吾妻は、側なる小卓に
片肘を立てて、悩まし気に
頭を
支へぬ、
「其れが
何したと云ふのだ、篠田の方は何したと云ふのだ」
「――課長」吾妻の声は
震へり「川地さん、――
然かし篠田は
覚つて居るらしいのです、
慥に覚つて居るらしいのです」
「けれど吾妻、覚つて居ながら、探偵を
近けて居る理由もなからう――
特に
彼云悪党が」
「所が、其れが大間違ひのです
[#「大間違ひのです」はママ]」と、吾妻は姿勢を正して吐息をつけり「川地さん、正直に言ふと、彼は偉い男ですよ、彼は
慥に僕を探偵と知つてるのです、其れで僕と
差向の時には、必ず僕に説教するのです、彼は
全然坊主ですナ、其真実の言葉が、此の心の
隅から隅まで
探燈で照らし渡る様に感じて、怖くて
堪らない」
彼は
瞑目して
暫ばし
胸裡の激動を制しつ「――ト云うて、
貴官の方へは、彼の
罪迹を何か報告せねばならぬでせう――イヤ、
其様せねば
貴官の
御機嫌が悪いでせう――けれど実を言ふと、僕には彼の罪悪と云ふものを発見することが出来ないんですもの――」
川地の
眼はキラリ輝けり「ぢや、吾妻、
今日まで報告した
彼奴の秘密は、
虚事だと云ふのか」
「――
悉く虚報と云ふでもありませぬが――悉く真実と云ふ事も困難です――」
「ぢや、吾妻、
彼奴が山木の
嬢を誘惑して、其の特別財産を引き出す工夫してると云ふのは、ありや
真実か
何だ」
「――あれは少し違つてる様でした――」
「花吉を妾にして居ると云ふのは」
「あれも――少し違つて居ります」
川地は
忿怒の声荒々しく「九州炭山の同盟罷工
教唆も虚報と云ふのか」
「イヤ、
全然虚報と
云でもありませぬが――実は篠田は、同盟罷工に反対して、静粛なる手段を
執ることを熱心に勧告したのです、其の往復の書信など僕は
能く知つて居ますが、けれど勢ひ
已むを得ないと云ふことになつたもんですから、
然らば坑夫等を
無惨の失敗に終らしめてはならぬと云ふので、最も困難な兵糧方に廻つたのです、だから彼が
教唆したと云ふのは、少こし真実に遠い様でもありますが、彼が無かつたら坑夫の同盟も、今度の労働者団結も成立つことでありませんから、彼が
教唆したと報告したのも、結果から言へば全然虚報とは言はれぬ様にもなる次第のです」例の快弁に似もやらず、吾妻は汗を
拭ひつ、
弁疏せり、
「吾妻、
全で貴様は政府を
欺いて、我等を欺いて、機密費を盗んで居たのだ」
「けれど」と、吾妻は少しく
椅子を後に
退け「
其ヤ課長、無理ですよ、初め僕が同胞社に
這入り込んだ頃、僕は報告したぢやありませんか、外で考へると、内で見るとは全く事情が違つて、篠田と云ふ男、実に敬服すべき君子だと申上げたでせう、スルと
貴官は大変に立腹して、
其様筈が無い、何かあるに相違無い、政府の方針は
飽く
迄も社会党撲滅と云ふことであるから、
若し其に好都合な申告を
為ないと、今度は警察の無能と云ふんで、我々の飯の食ひ上げになる、だから何でも
可いから持つて来い、
虚誕を組立てて事実を織り出すのが探偵の手腕だと――」
「馬鹿ツ」
「馬鹿ぢやありません、今度も
左様です、松島が負傷したに就て、軍隊や元老の方からも
八釜しく言うて来て困る、是非何とかして、篠田を
引ツ
縛らねばならぬからと言ふんでせう――其りや成程、僕が最初篠田と山木の
嬢と、不正な関係がある様に
虚誕を報告して置いた結果で仕方ないですが――」
川地は再び大喝せり「馬鹿ツ」
吾妻のワナ/\と
顫へる
面を、川地課長は
冷かに
眺めて「其の
態は何だ、吾妻、貴様も年の若いに似合はず役に立つ男と思つて居たが、案外の臆病だナ、其れでも警察の飯を食つて居るのか」
吾妻は頭押へつゝ「――
其や僕も、
爺の
脛を食ひ荒して、
斯様探偵にまで成り下つたんだから、随分
惨酷なことも平気で
行つて来たんですが、――篠田には実に驚いたのです、社会党なんぞ、どうせ陰険な乱暴なものだと思つて
這入り込んだのだが、秘密と云ふものが
殆ど無いのです――以前始めて社会民主党を組織するツてた時も、
左様でしたよ、タシか土橋だと思ふが、
彼の渡部と云ふ男の所へ出掛けて行くと、先方が
却て歓迎して起草しかけて居た宣言書を見せて、一々講釈をされたので、社会主義ツてものは、実に
可いものだと感服し切つて来たが、僕も本当に
左様思ひますよ、川地さん、
貴官は篠田を悪党だの何のと言ひなさるけれど、
試に一度
逢つて御覧なさい、
屹度従来の誤解を
慚愧なさるに相違ありませんよ――僕は
斯う云ふ好人物を
毀けねばならぬかと思ふと、如何にも自分ながら情なくなつて、
寧そ自分の探偵と云ふことを白状して、本当の子分にして
貰うかと思つたことが、
幾度とも知れませんよ、近来は
最早怖くて
堪らぬから、逢はぬやうに/\と、篠田を避けて居るんだ」
川地は大口開いてカラ/\と笑ひつ「吾妻、貴様もエライ
善根があるんだナ、感心だよ」
「
仮令斯様になつても、
未だ人間には相違無いからネ」と、吾妻は
首肯き「
然かし、もう斯うなるからは、
何卒篠田に
面を見られない様にして貰ひたいのだが、其の論文にしても、
何も不敬罪とは
覚束ないからナ、裁判は警視庁や内務省が
為るんで無いからナ――
何程牽強付会をした所で、官吏侮辱位のものだ、二月か三月の
重禁錮だ、――僕ア外国へ逃げでもしなけりや、安心が出来ませんよ」
「非常な心配だナ」と、川地は冷笑しつゝ、「其れなら我輩も一ツ善根の為めに、貴様を
救けて篠田を一生
娑婆の風に当てないやうにして
遣らう」
「
笑談言つちやいけませんよ、
何程意気地の無い裁判官でも、警視庁の命令に従ひはしませんからネ」
「馬鹿だなア」と川地はポカリ煙草を
喫しつ、「裁判官は只だ法廷で、裁判するだけの仕事ぢや
無か――法律なんて
酌子定規に
拘泥して、悪党退治が出来ると思ふか――フヽム」
吾妻は
暫ばし川地の
面ながめ居りしが、
忽如、
蒼く
化りて声ひそめつ「――ぢや、又た肺病の
黴菌でも
呑まさうと
云んですか――」
川地は黙つてスイと起ちつ「吾妻、
居室へ来給へ、
一盃飲まう――骨折賃も遣らうサ」
去ど吾妻は
悄然として動きもやらず「――考へて見ると警察程、社会の安寧を
壊るものは有りませんねエ、泥棒する奴も悪いだらうが、
捉へる奴の方が
尚ほ悪党だ」
「社会の安寧?」と川地は苦笑しつ「何も、
皆な飯の
種サ」
吾妻は低声独語しぬ「飯の種、――飯の種」
大洞別荘の
椿事以来、梅子は父剛造の為めに外出を厳禁せられて、
殆ど書斎に監禁の
様なり、継母の
干渉劇しければ、老婆も今は心のまゝに出入すること
能はず、
妹芳子が時々来りては、父母が梅子に対する悪感情を、
傲りがに伝達しつ、又た姉の悲哀の容態をば
尾鰭を付けて父母に披露す、芳子は
流石にお
加女夫人の愛児なり、梅子の
苦悶を見て自ら喜び、姉を
讒訴して、母を喜ばしむ、
只だ
前よりも一層真心を
籠めて
彼女を慰め、彼女を
奨まし、唯一の
楯となりて彼女を保護するものは剛一なりける、
剛一は千葉地方へ遠足に
赴きて二三日、顔を見せざるなり、雨
蕭々として孤影
蓼々、梅子は燈下、思ひに悩んで夜の
深け行くをも知らざるなり、
「アヽ、剛さんは
如何なすつたでせう、
今夜はお帰りの日取なんだが、今頃までお帰りないのは、
大方此の雨でお泊りのでせう、お一人なら雨や雪に
頓着なさる
男ぢやないけれど、お友達と
御一所では、
左様もならないからネ」
彼女は机上の置時計を見て独語せり、
「ほんたうに剛さん、私や、
貴郎に感謝してますよ、貴郎の様な男らしい男を
弟と呼ばせ給ふ神様は、何と云ふ
恩恵深くて居らつしやるでせう、私の
嬉しく思ふのは、天では神様、そして地では、剛さん、
貴郎ばかりです――」
彼女は
忽ち眼を閉ぢて
俯けり「――
左様ぢや無い、私は
慥に身も心も献げた
尊き
丈夫が
在るのです、けれど篠田さん――貴方は少しも私の心、此の涙に
浸せる我心を少しも知つては下さいません――其れを
御怨み申しは致しません、けれど何と云ふ情ない世の中でせう、此の純潔な私の恋が――
左様です、純潔です、必ず一点の
汚涜もありません――貴方の為めに
禍の種となるのです、――篠田さん、我が
夫、何卒
御赦し下ださいまし、貴方の博大の御心には泣いて居るのです、私は
既う決心致しました、私は父から全く離れました、家庭からも全く離れました、教会からも離れました、私は天の神様をのみ父とし母として、地に散在する
憐れなる兄弟と、大きな家庭を作ることに覚悟致しました、そして此世を神様の教会と致します、――篠田さん、
貴郎は私の此の決心を、叱つて下ださいませんでせうねエ――」
彼女は
恍惚として夢の如く、心に浮ぶ篠田の
面影に
縋りて接吻せり、
「姉さん」と黄色の声して芳子は
走せつゝ入り来れり、
梅子は
遽然我に返へりつ、「あら、芳ちやん、
喫驚しましたよ、
何なすつて」
「姉さん、私、
可いこと聴いたワ」芳子は姉の
面打ち
眺めて笑ふ、
梅子は又た何か面白ろからぬ我が
噂なるべしと思へば、取り合はん心もあらず、
去れど芳子は一向
無頓着に、大勝利を報告する将軍の如くぞ勇める「姉さん、私、今ま
可いことを聴いてよ、篠田さんは
到頭縛られて、牢屋へ行きなさるんですと」
巨砲もて打たれたらん如き
驚愕を、梅子は
熟と制しつ「――
左様ですか――誰にお聴きなすつて――」
「今ネ、
何処からか電話で、――何でも警視庁とか云つてでしたの――
報して来たんです、
阿父が
阿母に話して
在らしつてよ、是れで
漸く松島さんへ、お
詫が出来るつて、ほんとに
左様だわねエ」
「ヘエ、そして
芳ちやん、
既う牢屋へ行らしつたのですか」
「
否え、明日ですつて、」
「
左様ですか――」
梅子は
強て平然と装へり、
去れど制すべからざるは其顔なり、
看よ、其の
凄き
蒼白を、芳子は
稍々予算狂へるが如く、
訝かしげに姉の
面見つめて、居たりしが、芳子々々と、ケタヽましく呼ぶ母の声に、飛ぶが如くに黙つて走せ行けり、
梅子は声を
呑んで
瞠と伏せり、
宵の雨も
何時しか雪と降り替はれり、
麻布本村町の篠田が玄関には、
深け行く寒き夜を、
大和一郎の
尚ほ
兀々と勉学に余念なし、雪バラ/\と窓を打ちて、吹き入る風に身を
慄はしつ「オヽ、寒い、
最早何時かナ、未だ十二時にはなるまい――」
顧る台所の
方には、兼吉の老母が
転輾反側の気はひ聞ゆ、
彼女も此の雪の夜の物思ひに、既に枕に
就きたるも、
容易くは夢の得も結ばれぬなるべし、
篠田が書斎の奥よりは、
洋紙を
走しるペンの音、深夜の
寂寞を破りて
漏れ来ぬ、
大和は
襟掻き合はしつ「アヽ、先生は
未だお
寝みにならんのか、何か書いて居らつしやる様だ、――明日の社説かナ、
否や、
日常お
寝の時間に仕事なさるのだから、
他に何か急用の書き物がおありなさるのであらう、手紙かナ、平民週報の寄書かナ、ア、
左様だ、
露西亜の社会民主党へ贈りなさる文章に相違無い――両国の侵略主義者が
嫉妬猜忌して兵火に訴へようとする場合に、我々同意者は相応じて世界進歩の為めに、平和の
福音を
鼓吹せねばならぬと言うて居られたから――が、先生も実にお気の毒で堪らぬ――」
大和は
瞑目して
大息せり、
「――教会を除名されなすつたなどは、別段先生の損失でもなく、
寧ろ教会の愚劣と偽善を表白したに過ぎないのだが、驚いたのは
鍛工組合の挙動だ――先生が梅子さんと結婚なさる為めに、主義を
抛棄なさるとは、何と云ふ
破廉耻な言ひ草だ、
嫉妬深い松本の暴論も、老実な浦和の主張で
未だ決議には至らぬさうだが、其れが
彼の吾妻の奸策だとは何事だ、
尤も
彼奴、
嫌な奴サ、先生の前でほヒヨコ/\頭ばかり下げて
諂諛ばかり並べて、――誰か
何時やら、政府の
狗ぢや無いかと注意したつけが、
何も先生は既に
左様と知つて居られるらしかつたよ、
彼時の御返事を見ると――
彼程敏慧な頭脳を邪路から救ひ出して
遣るものが無ければ、
啻に一人の兄弟を失ふのみならず社会は何程
毀損されるかも知れないと、――先生を殺すものは――
必竟先生の愛心だ――アヽ」
薬園阪下り行く
空腕車の音あはれに聞こゆ「ウム、
車夫も
嘸ぞ寒むからう、僕は
家に居るのだけれど」大和は机の上に両手を組みつ、
頭を
俯して又た更に思案に沈む、
「本当に
左様だ、先生を殺すものは先生の愛心だ、花ちやんを救ふ、すると直ぐ其れが先生に
禍するのだ、其れに梅子さん――
何も不思議だ、
何故社会は
虚誕を伝へて喜ぶのだらう、が、
烟の立つ所必ず火ありとも云ふぞ、――
然かし僕が若し婦人ならば矢張り
左様思ふかも知れない、僕が先生を
斯く思ふの情、是れが女性の心に宿れば恋となるのかナ――アヽ、
何卒先生に思ふ存分、腕を伸ばさして上げたいナ」
風又た吹き加はりぬ、雪の音はげし、
門戸に低く人の声す、
大和は耳を
聳てぬ、戸を
叩く音なり、
何人の何等緊急事ならん、此の寒き雪の深夜に――大和は
訝かりつゝ立つて戸を開きぬ、
吹き巻く雪中、門燈を背にして、黒き影一個立てり、
「
何殿です」と、
大和が
雪明にすかして問ふを、門前の客は
袖の雪払ひも
敢へず、ヒラリとばかり飛び込めり、
東コートに
御高祖頭巾、――アヽ
是れ婦人なり、
大和は眼を
円くして怪しげに見つめぬ、
「大和さん」、婦人の声に、大和は
愕然として一歩
退けり「ア、
貴嬢ですか」
「あの、御在宅でいらつしやいますか――是非御面会せねばならぬことが御座いますので」
深夜の雪道に
凍えてや、婦人の声の打ち
震ひて聞えぬ、
「
暫くお待ちを願ひます」と、大和は急ぎ篠田の書斎へと走せぬ、
「先生――」
驚愕と
怪訝とに心騒げる大和の声は
甚くも調子狂ひたり、
既に文書
認め
了りし篠田は、今や聖書
繙きて、就寝前の
祈祷を捧げんとしつゝありしなり、
彼は静かに顧みぬ「大和君、何です」
「――只今、あの、山木の梅子さんが
御光来になりました」
「ナニ、梅子さんが――」篠田も首傾けぬ「お一人でか」
「
左様です、何か至急の御要件ださうで御座いまして、是非御面会をと云ふことです」
「ウム此の雪中を
御光来は尋常のことでは有るまい、――早速に」
梅子は大和に導かれて篠田の室に入り来りぬ、肉やゝ落ちて色さへ
甚く衰へて見ゆ、
彼女は言葉は無くて
只だ
慇懃に
頭を下げぬ、
「
良久御目に掛りませぬでした」と、篠田も
丁重に礼を返へして、「此の
吹雪の深夜
御光来下ださるとは
甚だ
心懸に存じます、早速承るで御座いませう」
梅子は
僅に
頭を
擡げぬ「――篠田さん――私、
貴所に
御逢ひ致しまする面目が無いので御座いますけれど――今晩容易ならぬことを、耳に致しましたものですから――」
彼女は
逡巡ひつゝ、
窃と
傍の大和を見やりぬ、
容易ならぬことの一語に、
危殆の念
愈々高まれる大和は、
躊躇する梅子の様子に、
必定何等の秘密あらんと覚りつ、篠田を
一瞥して起たんとす、
篠田は制しぬ「何事か知りませぬが、梅子さん、少しも
御懸念に及びませぬ、
是れは私の弟ですから」
大和は又た座りてホと吐息を漏らしぬ、
「
否エ、篠田さん、大和さんに御遠慮申したのでは御座いませぬが」、梅子は言はんと欲して言ひ
能はざるものの如し、
「何でありまするか」と篠田は問ひぬ「何か私の一身に関係しました凶事でも御聞き込みになりましたので――」
「ハイ」と、
僅に梅子は
首肯きぬ、
大和は
拳を固めぬ、
「
如何なる件でありまするか、御遠慮なく
仰つしやつて下ださい」篠田は
火箸もて灰かきならしつゝあり、
「篠田さん」と、梅子は涙
呑み込みつ「是れは
貴郎の少しも御関係ないことです、けれど今の世の中は、貴郎を――
拘引する奸策を廻らして居るのです、冷かな手は黒き繩もて貴郎の
背後に迫つて居りますよ――」
梅子は涙輝く
眸を
揚げて、始めて篠田を凝視せり、
「やツ」と、思はず声を放つて、大和は膝を進めぬ、
「はゝア――イヤ
左様したこともありませう」と篠田は
聊か怪しむ色さへに見えず、雨戸打つ雪の音又た
劇し、
堪へずやありけん、大和は口を開きぬ「先生――御心当りがお有りなさるのですか」
「
否や、別に
心当も無いが、
災厄と云ふものは、皆な意外の所より来るのだから」
大和は
復た沈黙せしが、やがて梅子の
方に
膝を向けぬ「山木
様、何時、先生を拘引すると申すのです」
「――明朝――」
「明朝――」とばかり大和は
殆ど色を失ひしが「そして、
何れから御聴き込みになつたので御座います――
甚だ差出がましう御座いますが――」
梅子は
悄然頭を垂れぬ、
「――
何ぞ、篠田さん、
御赦下ださいまし――警視庁から
愚父へ内密の報知がありましたのを、
図らず耳にしたので御座います、お
耻しいことで御座いますが、
愚父などからも内々警察へ依頼致したのに、相違無いので御座います――篠田さん、――私は
貴所の前に一切を
懺悔致さねばならぬことが御座いますので、
御軽蔑をも
顧みず
罷り出でましたので御座いますが――」
畳に両手
支きたるまゝ、声は
震へて
口籠りぬ、
大和は
窃と立ちて
室を出でぬ、不安の胸に
腕拱きつゝ、
「梅子さん、快して御心配なさるには及びませぬ」と、篠田は微笑せり「我々の頭上に絶えず政府の警戒が厳酷なので、何時何事の破裂するか、予測することが出来ないのです、
是れは日本ばかりではありませぬ、万国に散在する私共の同志者は、皆な同一の境遇に
在るのです――ですから、
貴嬢に謝罪して頂くと云ふ様な必要は無いと思ひます」
良久して
彼女は思ひ
切て口を
開きぬ「――
貴所の御同志が政府の
憎悪を受けて居なさいますことは、兼々承知致して居りまするが、
貴所の御一身にのみ、不意の御災難が降り懸かると云ふのは、
其処に特別の原因がありまするので――そして其の機会を生み出しましたのは――私の――心の弱いからで御座います」
「――何と、篠田さん、
御詫致して
可いのか」と、はふり落つる涙を梅子は
拭ひつ「心乱れて我ながら言葉も御座いません――只だ
一言懺悔させて下ださいませうか」
「
喜で
御聴申すで御座いませう」
……………………………………………………………………
「何卒、篠田さん、御赦し下さいまし――
貴所の、御災難の
原因はと申せば、――私が貴所を御慕ひ申したからで御座います――」梅子は畳に伏せり、
歔欷の
音、時に
微に聞ゆ、
梅子は
面を
擡げぬ「――定めて
厚顔ものと
御蔑みも御座いませうが、篠田さん、――私如きものが、
貴所を御慕ひ申すと言ふことが、貴所の御高徳を
毀けることになりまするのは
能く存じて居りまするから、
只だ心の底の秘密として、
曾て一語半句も洩らした
覚のありませぬことは、神様が御承知下ださいます――其れを、結婚の申込を
悉く謝絶致します所から、人を疑つて喜ぶ世間は
種々の風評を立てまして――
貴所の御名誉に関係致しまする様な記事を、
数々新聞の上などでも読みまする毎に、何程自分で自分を叱り、陰ながら貴所に
御詫致したで御座いませう――けれど我が心に尋て見ますれば、
他の伝説を、全く
虚妄とのみ言ひ消すことが出来ませぬので、
必竟、貴所に此の最後の――
縲絏の耻辱を
御懸け申すのも、私の弱き心からで御座います」
梅子は
袖を
噛み締めて声立てじと
怺へぬ、
「何も
仰しやつて下ださいますな」と篠田は目を閉ぢつ「現社会の基礎に
斧を置きつゝある私共が、其の反撃に
逢ふのは、
毫も怪むに足らぬことで御座います」
「けれど、篠田さん、
貴所は今ま御自愛なさらねばならぬ御体で御座いませう」梅子の一語には満身の
力溢れて聞こえぬ、
「自愛致すとは」と、篠田は
訝る、
「
此儘篠田さん」と梅子は
却て怪みつ「
貴所は入獄なさるので御座いますか」
「
左様です、力を以て来るものには、只だ温順を以て応接する外無いでせう」
「けれど――
従来、
愚父などの話に依りますれば、
貴所のやうな方は、監獄内で不測の災禍にお
罹りなさる恐があると申すでは御座いませんか、出過ぎたことでは御座いますが、
暫く日本を遠のきなさいましては――外国には随分他国に身を逃れると云ふ
例もあるやうで御座いますから」
「梅子さん、
御厚誼は謝する所を知りません、けれど私の一身には一人探偵が附けてあるのです、取分け既に
拘引と確定しましたからは、今
斯くお話致し居りまする私の一言一句をさへ、戸の外に筆記して居るものがあるも知れないです、――
若し私
一己の野心から申すならば、今ま
空しく牢獄に
囚はれて、特に
只今御話の如き暴行は、随分各国の
獄裡に実験せられた所ですから、私も決して喜んで行かうとは思ひませぬ、
乍併、私共同志者の純白の心事が、斯かることの為に、政府にも国民にも社会一般に説明せられまするならば、
眇たる此一身に
取て
此上なき栄誉と思ひます、実は我々の同志者と言はれて居る間にさへ、
尚ほ心術を誤解して居るものが
尠くないので御座いますから――」
篠田は語り来つて、急に言葉を
更め「余り自身のことを語り過ぎましたが、其よりも
貴嬢の将来こそ問題でせう、実は先頃剛一君とも一寸御話致したことでありましたが」
梅子の
面は
真紅を染めぬ「有難う御座います、
貴所の温和の御精神をお聴致すに
就け何と云ふ私の恐ろしい心で御座いませう、――私は篠田さん、ほんたうに
懺悔致しました、そして決心致したので御座います、私は兼ねて
愚父から多少の地所と財産とを譲り受けて居りまするので、
所詮不義の結果の財産のですから、一には
贖罪の為め、此の身と
併せて貧民教育に貢献したいと考へて居たので御座いますが、今度
愈々着手致すことに決心しまして御座います、申す迄もなく、只だ
貴所の
御指揮をと其れのみ
心頼で御座いましたものを、――」
「ア、其れで安心致しました」と、篠田は
晴々と微笑を洩せり「梅子さん、誠に良き御計画で御座います、
若し私が自由の身で在りませうならば、充分御協議致しまして
聊か理想を実行して見たいのでありますが――
然かし決して御心配なさいますな、社会主義倶楽部の諸君は、無論
満腔の尊敬と同情とを以て、
貴嬢の御事業を賛助致しませう」
篠田の
面は輝き来れり「梅子さん、教会の為の宗教は未練なくお棄てなさい、原因を
治めない慈善事業は偽善者に御一任なさい、富の集中、富の不平均、
是れが単一なる物質的問題とは何事です、
富資が年々増殖して貧民が歳々増加する、是れ程重大なる不道徳の現象がありますか、御覧なさい、今日の生活の原則は一に
掠奪です、個人は個人を掠奪して居る、国は国を掠奪して居る、刑法が言ふ所の
窃盗、彼は
児戯です、神の見給ふ窃盗とは
則ち、今日の社会が
尤も尊敬して居る法律と愛国心です、所有権の神聖、兵役の義務、足れ皆な窃盗掠奪の符調に過ぎないのです、
而かも是れが為めに尤も悩んで居るものは、梅子さん、実に
女性でありますよ、社会主義とは何ですか、
一言に
掩へば神の御心です、
基督が道破し給へる神の御心です」
彼は机上の一冊を
右手に捧げつ「何卒、梅子さん、
呉々も
是の御研究をお忘れないことを望みます、人生の
奥義は此の
些かなる新約書の中に
溢れて、
汲めども尽くることは無いでありませう、――アヽ、梅子さん、
何卒我国に
於ける、社会主義の
母となつて下ださい、
母となつて下ださい、是れが篠田長二
畢生の御願であります」
梅子は涙
堰きも
敢へず、
隣房の時計、二ツ鳴りぬ、アヽ、
「
最早、二時」と、梅子は
頭を垂れぬ、警吏の向ふべき日は、既に二時を経過せるなり、
曙光差し
来るの時は、
則ち篠田が暗黒の底に投ぜらるべきの時なり、三年の
煩悶を此の
一夜に打ち明かして、
柔しく
嬉しく勇ましき丈夫の心をも聴くことを得たる今は、又た何をか思ひ残さん、いざ、立ち帰りなんか、――帰りとも無し、
胸も張り裂けんばかりの新しき苦悩を集中して、梅子は
凝乎と篠田を仰ぎ見ぬ、
両個相見て言葉なし、
良久くして、熱涙玉をなして梅子の頬を下りぬ、
彼女は唇を噛んで
俯きぬ、
突如、
温き手は来つて梅子の
右掌を
緊と握れり、
彼女は総身の熱血、一時に
沸騰すると覚えて、恐ろしきまでに
戦慄せり、額を上ぐれば、篠田の両眼は日の如く輝きて直ぐ前に
懸れり、
篠田は一倍の力を加へつ「梅子さん――此れは
未だ
曾て一点の
汚だも見ざる純潔の心です、今ま始めて
貴嬢の手に捧げます」
梅子は
左手を加へて篠田の
右手を抱きつ、一語も無くて身を其上に投げぬ、
風も
寝ね雪も眠りて夜は只だ
森々たり、
既にして梅子は涙の顔を
擡げぬ「篠田さんお叱りを受けますかは存じませぬが、
暫時御身を潜めて下ださることはかなひませぬか、――別段御耻辱と申すことでも御座いませんでせう――犬に真珠をお投げなさらずとも――」
篠田は首打ち
掉りつ「
如何なる場合に身を棄つべきかは、我等が浅慮の判別し得る所ではありませぬ」
「篠田さん、
最早決して弱き心は持ちませぬ」と梅子も今は心
決めつ「何時と云ふ
限も御座いませぬから、是れでお別れ致します、只今の御一言を私の
生命に致しまして――で、御一身上、私が承つて置きまして宜しいことが御座いまするならば、
何卒仰しやつて下ださいませんか――」
篠田は
暫ばし首傾けつ「では、梅子さん、一人御紹介致しますから」と、彼は大和を呼んで兼吉の老母を招きぬ、
声を呑むで泣き居たる兼吉の老母は、涙の顔を揚げも得ずして打ち伏しぬ、
「梅子さん、此の老女を
労つて下ださい、是れは先頃
芸妓殺と
唄はれた、兼吉と云ふ私の友達の実母です、――
老母、私は、或は明日から
他行するも知れないが、少しも心置なく此の
令嬢に
御信頼なさい、兼吉君は無論無罪になるのであるから、少しも心配なく、其れに
若し
両個が相許るすならば、花ちやんと結婚したらばと思つて居るのです、元より強ふることは出来ないですが」
篠田は梅子を顧みつ「只今慈愛館に居りまするが、花と云ふ婦人が
在るのです、
元と
芸妓でありまするが、余程精神の強固なのですから、将来
貴嬢の御事業の御手助となるも知れませぬ、」
梅子は思はず
赧然として
愧ぢぬ、
彼女の良心は
私語けり、
汝曾て其の婦人の為めに心に
嫉妬てふ経験を
嘗めしに非ずやと、
兼吉の老母は正体なき
迄に
咽び泣きつ、
「其から梅子さん、私一身上の御依頼が御座いますが」と、篠田は
悄然として
眼を閉ぢぬ、
「私に一人の伯母があるのです、世を
厭うて秩父の山奥に
孤独して居ります、今年既に七十を越して、
尚ほ
钁鑠としては居りますが、一朝私の
奇禍を伝へ聞ませうならば――」語断えて涙
滴々、
梅子は
耐へず
膝に
縋れり、「御安心下ださいまし――、何卒御安心下さいまし――」
篠田は梅子の肩、
両手に抱きて「心弱きものと御笑ひ下ださいますな――アヽ今こそ此心晴れ渡りて、一点
憂愁の
浮雲をも認めませぬ、――然らば梅子さん、是れでお
訣別致します」
「――心は永久に
同住で御座います」
「
勿論」
* * *
空は何時しか晴れぬ、陰暦の
何日なるらん半ば欠けたる月、
槻の巨木、花咲きたらん如き白き
梢に
懸りて、
顧み勝ちに行く梅子の影を積れる雪の上に見せぬ、
窓白く雪の夜は明けんとす、
篠田は
例の如く早く起き出でて、一大
象牙盤とも見るべき
後圃の雪、いと惜しげに下駄を
印しつゝ
逍遙す、日の光は
尚ほ
遙か地平線下に
憩ひぬれど、夜の神が
漉し成せる清新の空気は、静かに来り触れて、我が呼吸を
促がす、目を放てば高輪三田の高台より
芝山内の森に至るまで、見ゆる限りは
白妙の
帷帳の
下に、
混然として夢尚ほ
円なるものの如し、
篠田の
双眸は
不図、
円山の高塔に注がれて離れざるなり、静穏なる
哉、芝の
杜よ、幽雅なる
哉、円山の塔よ、去れど其の直下、得も寝で悲み、夜を徹して祈れるもの一人あり、美しき雪よ、彼女の目より涙を
拭へ、
清しき風よ、彼女の胸より
愁を払へ――アヽ我が梅子、
汝の為めに祈りつゝある我が愛は、汝が心の
鼓膜に響かざる
乎、――父なる神、
永遠に彼を顧み給へ、彼女に
聖力を注ぎて、
爾の
聖旨を地に成さしめ給へ、篠田は
歩を転じて表の
方に出でぬ、
雪を蹴つて来るものあり「先生――お早う御座います」言ひつゝ彼は、一葉の新聞を篠田の手に捧ぐ、
「オヽ、村井君ですか、御困難ですネ」と、篠田は新聞受け取りつゝ、「何か昨夜あつたと見えますネ、少し遅れた様ですが」
「ハ、夜中に長い電報が参りましたので、印刷が大層遅くなりました――先生、
到頭戦争を
為るのでせうか――」
「サア、
左様なりませうネ」
「
何卒、先生、主義の為めに御奮闘を願ひます」
慇懃に腰を
屈めたる少年村井は、小脇の
革嚢緊と抱へて、又た
新雪踏んで駆け行けり、
中学の校帽
凛々しく戴ける後姿見送りたる篠田は、やがて
眸子を昨日
己が造れる新紙の上に
懐かしげに転じて「労働者の位地と責任」と題せる論文に
一とわたり目を走らせつ、心は今しも村井が告げたる二面の夜中電報に急げり、
「日露外交の断絶」テフ一項の記事と
相並で、篠田の眼を射りたるものは、「九州炭山坑夫同盟の破壊」と題せる二号活字の長文電報なり、篠田の心は先づ激動せり、
……憲兵巡査の強迫は正面より来り、黄金の魔術は裏面より行はれたり……
首領株三十名今夕突然捕縛せられたり、憲兵巡査の乱暴甚しく、負傷者少からず其の多くは婦人小児なり……是れ買収政略の到底効果なきより来れるものと知らる……維持費尽く、
「首領の捕縛」「公権の乱暴」「婦女小児の負傷」
而して
噫、「維持費尽く」
新聞
右手に握り締めたるまゝ、篠田は
切歯して天の一方を
睨みぬ、
白雪一塊、突如高き
槻の
梢より落下して、篠田の肩を
健か打てり、
午前七時半、警官来れり、
今や篠田の身は只だ一片の拘引状と交換せられんとすなり、大和は其の胸に取り付きて、鏡の如き涙の眼に、我師の
面を仰ぎぬ、
篠田は
徐ろに其背を
撫しつ、「君、忘れたのか――一粒の麦種地に落ちて死なずば、
如何で多くの麦
生ひ出でん――
沙漠の旅路にも、昼は雲の柱となり、夜は火の柱と現はれて、絶えず導き玉ふ大能の
聖手がある、勇み進め、何を泣くのだ」
轍の
迹のみ雪に残して、
檻車は
遂に彼を封して去れり、
(明治三十七年一月―三月)