一
宮重大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし
浪ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる
悦びのあまり……
と
口誦むように
独言の、
膝栗毛五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。
中空は
冴切って、星が
水垢離取りそうな
月明に、踏切の桟橋を渡る影高く、
灯ちらちらと目の下に、
遠近の
樹立の骨ばかりなのを
視めながら、桑名の
停車場へ下りた旅客がある。
月の影には
相応しい、
真黒な
外套の、
痩せた
身体にちと広過ぎるを緩く着て、焦茶色の中折帽、真新しいはさて
可いが、
馴れない
天窓に山を立てて、
鍔をしっくりと耳へ
被さるばかり深く
嵌めた、あまつさえ、風に取られまいための
留紐を、ぶらりと
皺びた頬へ下げた
工合が、
時世なれば、道中、笠も
載せられず、と
断念めた風に見える。年配六十二三の、気ばかり若い
弥次郎兵衛。
さまで重荷ではないそうで、唐草模様の
天鵝絨の
革鞄に信玄袋を
引搦めて、こいつを片手。片手に
蝙蝠傘を
支きながら、
「さて……悦びのあまり名物の
焼蛤に酒
汲みかわして、……と
本文にある
処さ、
旅籠屋へ
着の前に、停車場前の茶店か何かで、一本傾けて参ろうかな。(どうだ、
喜多八。)と行きたいが、
其許は年上で、ちとそりが合わぬ。だがね、家元の弥次郎兵衛どの事も、伊勢路では、これ、
同伴の喜多八にはぐれて、一人旅のとぼとぼと、棚からぶら下った宿屋を尋ねあぐんで、泣きそうになったとあるです。ところで其許は、道中松並木で出来た道づれの格だ。その道づれと、
何んと一口
遣ろうではないか、ええ、
捻平さん。」
「また、言うわ。」
と苦い顔を渋くした、
同伴の老人は、まだ、その上を四つ五つで、やがて
七十なるべし。
臘虎皮の
鍔なし古帽子を、白い
眉尖深々と
被って、鼠の
羅紗の
道行着た、
股引を太く白足袋の
雪駄穿。色
褪せた
鬱金の風呂敷、
真中を紐で
結えた包を、
西行背負に胸で結んで、これも信玄袋を手に一つ。片手に
杖は
支いたけれども、足腰はしゃんとした、人柄の
可いお
爺様。
「その捻平は
止しにさっしゃい、人聞きが悪うてならん。道づれは
可けれども、道中松並木で出来たと言うで、何とやら、その、
私が
護摩の灰ででもあるように聞えるじゃ。」と杖を一つとんと支くと、
後の
雁が
前になって、改札口を
早々と出る。
わざと一足
後へ開いて、隠居が意見に急ぐような、
連の後姿をじろりと見ながら、
「それ、そこがそれ捻平さね。松並木で出来たと云って、何もごまのはいには限るまい。もっとも若い内は遣ったかも知れんてな。ははは、」
人も無げに笑う手から、
引手繰るように切符を取られて、はっと駅夫の顔を見て、きょとんと
生真面目。
成程、この
小父者が改札口を出た
殿で、何をふらふら道草したか、汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、
真蒼な野路を光って通る。……
「やがてここを
立出で
辿り
行くほどに、旅人の唄うを聞けば、」
と小父者、出た処で、けろりとしてまた
口誦んで、
「捻平さん、
可い文句だ、これさ。……
時雨蛤みやげにさんせ
宮のおかめが、……ヤレコリャ、よオしよし。」
「
旦那、お供はどうで、」
と
停車場前の夜の
隈に、四五台
朦朧と寂しく並んだ車の中から、車夫が一人、腕組みをして、のっそり出る。
これを聞くと弥次郎兵衛、口を
捻じて
片頬笑み、
「
有難え、図星という処へ出て来たぜ。が、同じ事を、これ、(旦那衆戻り馬乗らんせんか、)となぜ言わぬ。」
「へい、」と言ったが、車夫は変哲もない
顔色で、そのまま棒立。
二
小父者は外套の袖をふらふらと、酔ったような
風附で、
「
遣れよ、さあ、(戻馬乗らんせんか、)と、
後生だから一つ気取ってくれ。」
「へい、(戻馬乗らせんか、)と言うでございますかね、戻馬乗らんせんか。」
と早口で車夫は
実体。
「はははは、
法性寺入道前の
関白太政大臣と言ったら腹を立ちやった、法性寺入道前の関白太政大臣様と来ている。」とまたアハハと笑う。
「さあ、もし召して下さい。」
と話は
極った
筈にして、委細構わず、車夫は
取着いて
梶棒を差向ける。
小父者、目を据えてわざと見て、
「ヤレコリャ車なんぞ、よオしよし。」
「いや、よしではない。」
とそこに一人つくねんと、
添竹に、その
枯菊の
縋った、霜の
翁は、旅のあわれを、月空に知った姿で、
「早く車を雇わっしゃれ。手荷物はあり、勝手知れぬ町の中を、何を
当にぶらつこうで。」と
口叱言で半ば
呟く。
「いや、まず一つ、(よヲしよし、)と切出さんと、本文に合わぬてさ。処へ喜多八が口を出して、(しょうろく
四銭で乗るべいか。)
馬士が、(そんなら、ようせよせ。)と言いやす、馬がヒインヒインと
嘶う。」
「若いもの、その人に構うまい。車を早く。川口の
湊屋と言う
旅籠屋へ
行くのじゃ。」
「ええ、二台でござりますね。」
「何んでも構わぬ、
私は急ぐに……」と
後向きに
掴まって、乗った雪駄を
爪立てながら、
蹴込みへ入れた革鞄を
跨ぎ、首に掛けた風呂敷包みを外ずしもしないで
揺っておく。
「
一蓮託生、死なば諸共、捻平待ちやれ。」と、くすくす笑って、小父者も車にしゃんと乗る。……
「湊屋だえ、」
「おいよ。」
で、二台、月に
提灯の
灯黄色に、
広場の端へ
駈込むと……
石高路をがたがたしながら、板塀の小路、土塀の辻、
径路を縫うと見えて、寂しい処幾曲り。やがて二階屋が建続き、町幅が糸のよう、月の光を
廂で
覆うて、両側の暗い軒に、
掛行燈が
疎に白く、枯柳に星が乱れて、壁の
蒼いのが処々。長い通りの突当りには、火の見の
階子が、
遠山の霧を破って、
半鐘の形
活けるがごとし。……火の用心さっさりやしょう、
金棒の音に夜更けの景色。霜枯時の事ながら、月は格子にあるものを、桑名の
妓達は宵寝と見える、寂しい
新地へ
差掛った。
輻の下に流るる道は、細き水銀の川のごとく、柱の黒い家の
状、あたかも
獺が
祭礼をして、
白張の
地口行燈を掛連ねた、鉄橋を渡るようである。
爺様の乗った前の車が、はたと
留った。
あれ聞け……
寂寞とした
一条廓の、
棟瓦にも響き転げる、
轍の音も留まるばかり、
灘の浪を川に寄せて、千里の
果も同じ水に、筑前の沖の月影を、
白銀の糸で手繰ったように、星に
晃めく唄の声。
博多帯しめ、筑前絞、
田舎の人とは思われぬ、
歩行く姿が、柳町、
と博多節を流している。……つい目の
前の軒陰に。……白地の
手拭、
頬被、すらりと
痩ぎすな男の姿の、軒のその、うどんと
紅で書いた看板の前に、横顔ながら
俯向いて、ただ影法師のように
彳むのがあった。
捻平はフト車の上から、
頸の風呂敷包のまま振向いて、何か
背後へ声を掛けた。……と同時に弥次郎兵衛の車も、ちょうどその唄う声を、町の中で
引挟んで、がっきと留まった。が、話の意味は通ぜずに、そのまま捻平のがまた
曳出す……
後の車も続いて
駈け出す。と二台がちょっと
摺れ摺れになって、すぐ
旧の通り
前後に、流るるような月夜の車。
三
お月様がちょいと出て松の影、
アラ、ドッコイショ、
と沖の浪の月の中へ、
颯と、
撥を投げたように、霜を切って、唄い
棄てた。……
饂飩屋の
門に博多節を弾いたのは、
転進をやや縦に、
三味線の手を緩めると、撥を
逆手に、その柄で
弾くようにして、
仄のりと、薄赤い、
其屋の板障子をすらりと開けた。
「ご免なさいよ。」
頬被りの中の
清しい目が、
釜から吹出す湯気の
裏へすっきりと、出たのを一目、驚いた顔をしたのは、帳場の端に土間を
跨いで、腰掛けながら、うっかり
聞惚れていた亭主で、紺の筒袖にめくら
縞の
前垂がけ、草色の
股引で、尻からげの
形、にょいと立って、
「出ないぜえ。」
は、ずるいな。……案ずるに我が家の
門附を
聞徳に、いざ、その段になった処で、
件の(出ないぜ。)を
極めてこまそ心積りを、
唐突に頬被を
突込まれて、大分
狼狽えたものらしい。もっとも居合わした客はなかった。
門附は、澄まして、
背後じめに戸を
閉てながら、三味線を
斜にずっと入って、
「あい、親方は出ずとも
可いのさ。私の方で入るのだから。……ねえ、
女房さん、そんなものじゃありませんかね。」
とちと笑声が交って聞えた。
女房は、これも
現下の博多節に、うっかり気を取られて、釜前の湯気に
朦として立っていた。……
浅葱の
襷、白い腕を、部厚な釜の
蓋にちょっと
載せたが、
丸髷をがっくりさした、色の白い、歯を染めた
中年増。この途端に
颯と
瞼を赤うしたが、
竈の前を横ッちょに、かたかたと下駄の音で、亭主の膝を
斜交いに、帳場の
銭箱へがっちりと手を入れる。
「ああ、御心配には及びません。」
と門附は物優しく、
「
串戯だ、
強請んじゃありません。こっちが客だよ、客なんですよ。」
細長い土間の一方は、薄汚れた縦に六畳ばかりの市松畳、そこへ上れば坐れるのを、釜に近い、
床几の上に、ト足を伸ばして、
「どうもね、寒くって
堪らないから、一杯
御馳走になろうと思って。ええ、親方、決してその御迷惑を掛けるもんじゃありません。」
で、
優柔しく頬被りを取った顔を、と見ると迷惑どころかい、目鼻立ちのきりりとした、
細面の、
瞼に
窶は見えるけれども、目の清らかな、眉の濃い、二十八九の
人品な
兄哥である。
「へへへへ、いや、どうもな、」
と亭主は前へ出て、
揉手をしながら、
「しかし、このお天気続きで、まず結構でござりやすよ。」と何もない、
煤けた天井を仰ぎ仰ぎ、帳場の上の神棚へ目を
外らす。
「お師匠さん、」
女房前垂をちょっと
撫でて、
「お
銚子でございますかい。」と
莞爾する。
門附は手拭の上へ
撥を置いて、腰へ三味線を
小取廻し、
内端に片膝を上げながら、床几の上に素足の
胡坐。
ト
裾を一つ
掻込んで、
「早速一合、酒は良いのを。」
「ええ、もう飛切りのをおつけ申しますよ。」と女房は土間を
横歩行き。左側の畳に据えた火鉢の中を、邪険に
火箸で
掻い
掘って、
赫と赤くなった処を、床几の門附へずいと寄せ、
「さあ、まあ、お当りなさりまし。」
「
難有え、」
と
鉄拐に
褄へ
引挟んで、ほうと
呼吸を一つ長く
吐いた。
「世の中にゃ、こんな炭火があると思うと、里心が付いてなお寒い。
堪らねえ。
女房さん、銚子をどうかね、ヤケという
熱燗にしておくんなさい。ちっと飲んで、うんと酔おうという、卑劣な癖が付いてるんだ、お察しものですぜ、ええ、親方。」
「へへへ、お
方、それ
極熱じゃ。」
女房は染めた前歯を美しく、
「あいあい。」
四
「時に何かね、今
此家の前を車が二台、旅の人を乗せて
駈抜けたっけ、この町を、……」
と干した
猪口で
門を指して、
「二三町行った処で、左側の、屋根の大きそうな家へ着けたのが、
蒼く月明りに見えたがね、……あすこは何かい、
旅籠屋ですか。」
「
湊屋でございまさ、なあ、」と女房が、釜の前から亭主を見向く。
「湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃ、まああすこ一軒でござりますよ。古い家じゃが
名代で。
前には大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな、部屋々々も昔風そのままな
家じゃに、奥座敷の
欄干の外が、海と一所の、
大い
揖斐の
川口じゃ。白帆の船も通りますわ。
鱸は
刎ねる、
鯔は飛ぶ。とんと類のない
趣のある家じゃ。ところが、時々崖裏の石垣から、
獺が
這込んで、板廊下や
厠に
点いた
燈を消して、
悪戯をするげに言います。が、別に
可恐い化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で
鉢叩きをして見せる。……
時雨れた夜さりは、
天保銭一つ使賃で、豆腐を買いに
行くと言う。それも旅の衆の
愛嬌じゃ言うて、
豪い評判の
好い旅籠屋ですがな、……お前様、この土地はまだ何も知りなさらんかい。」
「あい、
昨夜初めてこっちへ流込んで来たばかりさ。一向方角も何も分らない。月夜も
闇の烏さね。」
と
俯向いて、一口。
「どれ延びない内、底を一つ温めよう、
遣ったり! ほっ、」
と言って、目を
擦って
面を背けた。
「利く、利く。……恐しい利く唐辛子だ。こう、親方の前だがね、ついこないだもこの手を食ったよ、
料簡が悪いのさ。何、上方筋の唐辛子だ、
鬼灯の皮が精々だろう。利くものか、と高を
括って、お
銭は要らない薬味なり、どしこと丼へぶちまけて、松坂で飛上った。……また遣ったさ、色気は無えね、涙と
涎が
一時だ。」と手の甲で
引擦る。
女房が銚子のかわり目を、ト
掌で
燗を当った。
「お師匠さん、あんたは東の
方ですなあ。」
「そうさ、
生は東だが、
身上は北山さね。」と言う時、徳利の底を振って、
垂々と
猪口へしたむ。
「で、お前様、湊屋へ泊んなさろうと言うのかな。」
それだ、と門口で断らりょう、と亭主はその段含ませたそうな気の
可い
顔色。
「
御串戯もんですぜ、泊りは
木賃と
極っていまさ。
茣蓙と
笠と
草鞋が留守居。壁の破れた処から、鼠が首を長くして、私の帰るのを待っている。四五日はこの桑名へ御厄介になろうと思う。……
上旅籠の湊屋で泊めてくれそうな御人品なら、御当家へ、一夜の御無心申したいね、どんなもんです、
女房さん。」
「こんなでよくば、泊めますわ。」
と身軽に銚子を運んで寄る。と亭主驚いた眉を動かし、
「滅相な。」と帳場を
背負って、
立塞がる
体に腰を掛けた。いや、この時まで、紺の
鯉口に手首を
縮めて、
案山子のごとく立ったりける。
「はははは、お言葉には及びません、饂飩屋さんで泊めるものは、
醤油の雨宿りか、
鰹節の行者だろう。」
と
呵々と一人で笑った。
「お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。」と女房は市松の畳の端から、薄く腰を掛込んで、土間を切って、差向いに銚子を取った。
「飛んでもない事、お忙しいに。」
「いえな、内じゃ
芸妓屋さんへ出前ばかりが
主ですから、ごらんの通りゆっくりじゃえな。ほんにお師匠さん
佳いお声ですな。なあ、
良人。」と、横顔で亭主を
流眄。
「さよじゃ。」
とばかりで、
煙草を、ぱっぱっ。
「なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました。」
五
「そう
讃められちゃお座が
醒める、酔も醒めそうで
遣瀬がない。たかが大道芸人さ。」
と
兄哥は照れた風で腕組みした。
「私がお世辞を言うものですかな、
真実ですえ。あの、その、なあ、
悚然とするような、
恍惚するような、
緊めたような、投げたような、緩めたような、まあ、
何んと言うて
可かろうやら。海の中に柳があったら、お月様の影の中へ、身を投げて死にたいような、……何んとも言いようのない心持になったのですえ。」
と、脊筋を
曲って、肩を入れる。
「お
方、お方。」
と
急込んで、訳もない事に不機嫌な
御亭が呼ばわる。
「何じゃいし。」と振向くと、……亭主いつの間にか、神棚の
下に、
斜と構えて、帳面を
引繰って、苦く
睨み、
「
升屋が
懸はまだ寄越さんかい。」
と
算盤を、ぱちりぱちり。
「今時どうしたえ、
三十日でもありもせんに。……お師匠さん。」
「師匠じゃないわ、升屋が懸じゃい。」
「そないに急に気になるなら、
良人、ちゃと行って取って
来い。」
と下唇の
刎調子。亭主ぎゃふんと参った
体で、
「二進が一進、二進が一進、
二一天作の
五、
五一三六七八九。」と、饂飩の帳の
伸縮みは、
加減だけで済むものを、
醤油に水を割算段。
と釜の湯気の白けた処へ、星の
凍てそうな
按摩の笛。
月天心の冬の町に、あたかもこれ
凩を吹込む声す。
門附の
兄哥は、ふと
痩せた肩を抱いて、
「ああ、霜に響く。」……と言った声が、物語を読むように、
朗に
冴えて、且つ、鋭く聞えた。
「按摩が通る……
女房さん、」
「ええ、笛を吹いてですな。」
「畜生、
怪しからず身に染みる、
堪らなく寒いものだ。」
と割膝に
跪坐って、飲みさしの茶の冷えたのを、茶碗に傾け、ざぶりと土間へ、
「一ツこいつへ
注いでおくんな、その方がお前さんも手数が要らない。」
「何んの、私はちっとも構うことないのですえ。」
「いや、御深切は
難有いが、
薬罐の底へ
消炭で、
湧くあとから
醒める処へ、氷で
咽喉を
抉られそうな、あのピイピイを聞かされちゃ、
身体にひびっ
裂がはいりそうだ。……持って来な。」
と手を振るばかりに、一息にぐっと
呷った。
「あれ、お見事。」
と目を

って、
「まあな、だけれどな、無理酒おしいなえ。
沢山、あの、心配する方があるのですやろ。」
「お方、八百屋の勘定は。」
と亭主
瞬きして
頤を出す。女房は面白半分、見返りもしないで、
「取りに来たらお払いやすな。」
「ええ……と三百は三銭かい。」
で、算盤を空に
弾く。
「
女房さん。」
と呼んだ門附の声が沈んだ。
「何んです。」
「立続けにもう一つ。そして
後を直ぐ、
合点かね。」
「あい。合点でございますが、あんた、
豪い
大酒ですな。」
「せめて酒でも参らずば。」
と陽気な声を出しかけたが、つと
仰向いて
眦を上げた。
「あれ、また来たぜ、按摩の笛が、北の方の辻から聞える。……ヤ、そんなにまだ夜は更けまいのに、屋根
越の町一つ、こう……
田圃の
畔かとも思う処でも吹いていら。」
と
身忙しそうに片膝立てて、
当所なく

しながら、
「
音は同じだが
音が違う……
女房さん、どれが、どんな
顔の按摩だね。」
と聞く。……その時、
白眼の座頭の首が、月に
蒼ざめて
覗きそうに、屋の棟を高く見た……目が鋭い。
「あれ、あんた、鹿の
雌雄ではあるまいし、笛の音で按摩の
容子は分りませぬもの。」
「まったくだ。」
と寂しく笑った、なみなみ
注いだる茶碗の酒を、
屹と見ながら、
「杯の月を
酌もうよ、座頭殿。」と
差俯いて
独言した。……が博多節の文句か、知らず、陰々として物寂しい、表の障子も裏透くばかり、霜の月の影冴えて、辻に、町に、按摩の笛、そのあるものは波に響く。
六
「や、按摩どのか。何んだ、
唐突に驚かせる。……要らんよ。要りませぬ。」
と弥次郎兵衛。湊屋の奥座敷、これが上段の間とも見える、次に六畳の附いた
中古の十畳。障子の
背後は直ぐに縁、
欄干にずらりと
硝子戸の外は、
水煙渺として、曇らぬ空に雲かと見る、
長洲の端に星一つ、水に近く
晃らめいた、揖斐川の流れの
裾は、
潮を
籠めた霧白く、月にも
苫を伏せ、
蓑を
乾す、
繋船の帆柱がすくすくと垣根に近い。そこに燭台を
傍にして、
火桶に手を懸け、
怪訝な顔して、
「はて、お早いお着きお
草臥れ様で、と茶を一ツ持って出て、
年増の女中が、
唯今引込んだばかりの処。これから膳にもしよう、酒にもしようと思うちょっとの隙間へ、のそりと出した、あの
面はえ?……
この方、あの年増めを見送って、
入交って来るは若いのか、と前髪の正面でも見ようと思えば、霜げた
冬瓜に
草鞋を
打着けた、という異体な
面を、
襖の影から
斜に出して、
(按摩でやす。)とまた、悪く
抜衣紋で、胸を折って、横坐りに、
蝋燭火へ
紙火屋のかかった
灯の向うへ、ぬいと半身で出た工合が、
見越入道の
御館へ、
目見得の雪女郎を連れて出た、
化の慶庵と言う
体だ。
要らぬと言えば、
黙然で、腰から
前へ、板廊下の暗い方へ、スーと消えたり……
怨敵、
退散。」
と苦笑いして、……床の正面に火桶を抱えた、
法然天窓の、
連の、その爺様を見遣って、
「捻平さん、お互に年は取りたくないてね。ちと
三絃でも、とあるべき処を、お膳の前に按摩が出ますよ。……見くびったものではないか。」
「とかく、その
年効いもなく、旅籠屋の式台口から、何んと、事も
慇懃に出迎えた、
家の隠居らしい切髪の
婆様をじろりと見て、
(ヤヤ、
難有い、仏壇の中に
美婦が見えるわ、
簀の子の天井から落ち
度い。)などと、膝栗毛の書抜きを遣らっしゃるで魔が
魅すのじゃ、屋台は古いわ、造りも広大。」
と丸木の床柱を下から見上げた。
「千年の桑かの。川の底も
料られぬ。
燈も暗いわ、
獺も出ようず。ちと
懲りさっしゃるが
可い。」
「さん
候、これに懲りぬ事なし。」
と奥歯のあたりを膨らまして
微笑みながら、両手を懐に、胸を拡く、
襖の上なる額を読む。題して
曰く、
臨風榜可小楼。
「……とある、いかさまな。」
「床に
活けたは、白の小菊じゃ、
一束にして
掴みざし、
喝采。」と
讃める。
「いや、
翁寂びた事を言うわ。」
「それそれ、たったいま懲りると言うた口の下から、何んじゃ、それは。やあ、見やれ、
其許の袖口から、茶色の手の、もそもそとした
奴が、ぶらりと出たわ、揖斐川の
獺の。」
「ほい、」
と
視めて、
「
南無三宝。」と
慌しく
引込める。
「何んじゃそれは。」
「ははははは、拙者うまれつき
粗忽にいたして、よくものを落す処から、内の
婆どのが計略で、手袋を、ソレ、ト左右糸で
繋いだものさね。袖から胸へ
潜らして、ずいと
引張って両手へ
嵌めるだ。何んと恐しかろう。捻平さん、かくまで
身上を思うてくれる婆どのに対しても、無駄な祝儀は出せませんな。ああ、
南無阿弥陀仏。」
「
狸めが。」
と背を円くして横を向く。
「それ、年増が来る。秘すべし、秘すべし。」
で、手袋をたくし込む。
処へ女中が手を
支いて、
「御支度をなさりますか。」
「いや、やっと、今
草鞋を解いたばかりだ。泊めてもらうから、支度はしません。」と真面目に言う。
色は浅黒いが
容子の
可い、その年増の女中が、これには妙な顔をして、
「へい、御飯は召あがりますか。」
「まず酒から飲みます。」
「あの、めしあがりますものは?」
「姉さん、ここは約束通り、
焼蛤が名物だの。」
七
「そのな、焼蛤は、今も町はずれの
葦簀張なんぞでいたします。やっぱり
松毬で焼きませぬと
美味うござりませんで、
当家では蒸したのを差上げます、
味淋入れて
味美う蒸します。」
「ははあ、
栄螺の
壺焼といった形、大道店で遣りますな。……松並木を向うに見て、松毬のちょろちょろ火、蛤の煙がこの月夜に立とうなら、とんと竜宮の
田楽で、
乙姫様が
洒落に
姉さんかぶりを遊ばそうという処、また一段の
趣だろうが、わざとそれがために忍んでも出られまい。……
当家の味淋蒸、それが
好かろう。」
と
小父者納得した顔して
頷く。
「では、蛤でめしあがりますか。」
「何?」と、わざとらしく
[#「わざとらしく」は底本では「わざとしらく」]耳を出す。
「あのな、蛤であがりますか。」
「いや、
箸で食いやしょう、はははは。」
と
独で笑って、懐中から膝栗毛の五編を一冊、ポンと出して、
「
難有い。」と額を叩く。
女中も思わず
噴飯して、
「あれ、あなたは弥次郎兵衛様でございますな。」
「その通り。……この度の参宮には、都合あって五二館と云うのへ泊ったが、
内宮様へ参る途中、
古市の旅籠屋、藤屋の前を通った時は、前度いかい世話になった気で、薄暗いまで奥深いあの
店頭に、
真鍮の
獅噛火鉢がぴかぴかとあるのを見て、略儀ながら、車の上から、帽子を脱いでお辞儀をして来た。が、町が狭いので、向う側の茶店の
新姐に、この
小兀を見せるのが辛かったよ。」
と
燈に向けて、てらりと光らす。
「ほほ、ほほ。」
「あはは。」
で捻平も打笑うと、……この機会に誘われたか、――
先刻二人が着いた頃には、三味線太鼓で、トトン、ジャカジャカじゃじゃじゃんと沸返るばかりだった――ちょうど八ツ橋形に
歩行板が
架って、土間を隔てた隣の座敷に、およそ十四五人の同勢で、女交りに騒いだのが、今しがた按摩が影を見せた時分から、
大河の
汐に引かれたらしく、ひとしきり
人気勢が、遠くへ裾拡がりに
茫と
退いて、
寂とした。ただだだっ広い中を、猿が鳴きながら走廻るように、キャキャとする
雛妓の
甲走った声が聞えて、重く、ずっしりと、
覆かぶさる風に、何を話すともなく
多人数の物音のしていたのが、この時、
洞穴から風が抜けたように
哄と
動揺めく。
女中も笑い引きに、すっと立つ。
「いや、この方は陰々としている。」
「その方が無事で可いの。」
と捻平は火桶の上へ脊くぐまって、そこへ投出した膝栗毛を
差覗き、
「しかし思いつきじゃ、
私はどうもこの寝つきが悪いで、今夜は一つ
枕許の
行燈で読んでみましょう。」
「
止しなさい、これを読むと胸が
切って、なお目が冴えて寝られなくなります。」
「何を言わっしゃる、
当事もない、膝栗毛を見て泣くものがあろうかい。
私が事を言わっしゃる、
其許がよっぽど捻平じゃ。」
と言う処へ、以前の年増に、
小女がついて出て、膳と銚子を揃えて運んだ。
「蛤は
直きに出来ます。」
「
可、可。」
「何よりも酒の事。」
捻平も、
猪口を急ぐ。
「さて
汝にも一つ遣ろう。
燗の可い処を一杯遣らっし。」と、弥次郎兵衛、酒飲みの癖で、ちとぶるぶるする手に一杯傾けた
猪口を、膳の外へ、その膝栗毛の本の
傍へ、畳の上にちゃんと置いて、
「姉さん、一つ
酌いでやってくれ。」
と真顔で言う。
小女が、きょとんとした顔を見ると、捻平に追っかけの酌をしていた年増が見向いて、
「
喜野、お酌ぎ……その旦那はな、弥次郎兵衛様じゃで、喜多八さんにお杯を上げなさるんや。」
と早や心得たものである。
八
小父者はなぜか調子を沈めて、
「ああ、よく言った。
俺を弥次郎兵衛は
難有い。
居心は
可、酒は可。これで喜多八さえ一所だったら、膝栗毛を
正のもので、太平の民となる処を、さて、杯をさしたばかりで、こう
酌いだ酒へ、
蝋燭の
灯のちらちらと映る処は、どうやら餓鬼に
手向けたようだ。あのまた馬鹿野郎はどうしている――」と膝に手を
支き、畳の杯を
凝と見て、陰気な顔する。
捻平も、ふと、この時横を向いて腕組した。
「旦那、その喜多八さんを何んでお連れなさりませんね。」
と
愛嬌造って女中は笑う。弥次郎
寂しく打笑み、
「むむ、そりゃ何よ、その本の本文にある通り、伊勢の山田ではぐれた奴さ。いい年をして
娑婆気な、酒も飲めば
巫山戯もするが、世の中は道中同然。暖いにつけ、寒いにつけ、
杖柱とも思う
同伴の若いものに別れると、六十の
迷児になって、もし、この辺に棚からぶら下がったような宿屋はござりませんかと、
賑かな町の中を独りとぼとぼと尋ね
飽倦んで、もう
落胆しやした、と云ってな、どっかり知らぬ
家の
店頭へ腰を
落込んで、一服無心をした処……あすこを読むと
串戯ではない。……捻平さん、真からもって涙が出ます。」
と言う、
瞼に映って、蝋燭の火がちらちらとする。
「姉や、
心を切ったり。」
「はい。」
と女中が向うを向く時、捻平も目をしばたたいたが、
「ヤ、あの騒ぎわい。」
と鼻の下を長くして、土間
越の
隣室へ傾き、
「
豪いぞ、
金盥まで持ち出いたわ、人間は皆裾が天井へ宙乗りして、畳を皿小鉢が躍るそうな。おおおお、三味線太鼓が
鎬を削って打合う様子じゃ。」
「もし、お騒がしゅうござりましょう、お気の毒でござります。ちょうど霜月でな、今年度の新兵さんが入営なさりますで、その送別会じゃ言うて、あっちこっち、皆、この景気でござります。でもな、お
寝ります時分には時間になるで静まりましょう。どうぞ御辛抱なさいまして。」
「いやいや、それには及ばぬ、それには及ばぬ。」
と小父者、二人の女中の顔へ、等分に手を
掉って、
「かえって賑かで大きに可い。悪く
寂寞して、また
唐突に按摩に出られては弱るからな。」
「へい、按摩がな。」と何か知らず、女中も読めぬ顔して聞返す。
捻平この話を、打消すように
咳して、
「さ、
一献参ろう。どうじゃ、こちらへも酌人をちと頼んで、……ええ、それ何んとか言うの。……桑名の殿様
時雨でお茶漬……とか言う、土地の唄でも聞こうではないかの。陽気にな、かっと一つ。旅の恥は
掻棄てじゃ。
主はソレ
叱言のような勧進帳でも遣らっしゃい。
染めようにも
髯は無いで、
私はこれ、手拭でも畳んで
法然天窓へ
載せようでの。」と捻平が坐りながら腰を
伸して高く居直る。と弥次郎
眼を

って、
「や、平家以来の
謀叛、
其許の発議は珍らしい、
二方荒神鞍なしで、
真中へ乗りやしょう。」
と
夥しく景気を直して、
「
姉え、何んでも構わん、四五人
木遣で
曳いて来い。」
と肩を張って大きに力む。
女中酌の手を差控えて、銚子を、膝に、と
真直に立てながら、
「さあ、今あっちの座敷で、もう一人二人言うて、お掛けやしたが、喜野、
芸妓さんはあったかな。」
小女が
猪首で
頷き、
「誰も居やはらぬ言うてでやんした。」
「かいな、旦那さん、お気の毒さまでござります。狭い土地に、数のない芸妓やによって、こうして会なんぞ
立込みますと、
目星い
妓たちは、ちゃっとの間に
皆出払います。そうか言うて、東京のお客様に、あんまりな人も見せられはしませずな、
容色が
好いとか、芸がたぎったとかいうのでござりませぬとなあ……」
「いや、こうなっては、宿賃を払わずに、こちとら
夜遁をするまでも、三味線を聞かなきゃ納まらない。
眇、いぐちでない以上は、古道具屋からでも呼んでくれ。」
「待ちなさりまし。おお、あの島屋の
新妓さんならきっと居るやろ。聞いて見や。喜野、ソレお急ぎじゃ、廊下走って、電話へ
掛れや。」
九
「持って来い、さあ、何んだ
風車。」
急に
勢の
可い声を出した、饂飩屋に飲む博多節の
兄哥は、霜の上の
燗酒で、月あかりに直ぐ
醒める、色の白いのもそのままであったが、二三杯、
呷切の茶碗酒で、目の
縁へ、
颯と
酔が出た。
「勝手にピイピイ吹いておれ、でんでん太鼓に
笙の笛、こっちあ
小児だ、なあ、
阿媽。……いや、
女房さん、それにしても何かね、御当処は、この桑名と云う所は、按摩の多い所かね。」と笛の音に瞳がちらつく。
「あんたもな、按摩の目は
蠣や云います。名物は
蛤じゃもの、別に何も、多い訳はないけれど、ここは
新地なり、旅籠屋のある町やに因って、つい、あの
衆が、あちこちから稼ぎに来るわな。」
「そうだ、成程
新地だった。」となぜか一人で納得して、気の抜けたような片手を
支く。
「お師匠さん、あんた、これからその
音声を
芸妓屋の
門で聞かしてお見やす。ほんに、
人死が出来ようも知れぬぜな。」と襟の処で、塗盆をくるりと廻す。
「飛んだ合せかがみだね、人死が出来て
堪るものか。第一、
芸妓屋の前へは、うっかり立てねえ。」
「なぜえ。」
「悪くすると
敵に
出会す。」と
投首する。
「あれ、芸が身を助けると言う、……お師匠さん、あんた、
芸妓ゆえの、お身の上かえ。……ほんにな、
仇だすな。」
「違った! 芸者の方で、私が敵さ。」
「あれ、のけのけと、あんな憎いこと言いなさんす。」と言う処へ、月は片明りの向う側。狭い町の、ものの
気勢にも暗い軒下を、からころ、からころ、
駒下駄の音が、土間に
浸込むように響いて来る。……と直ぐその
足許を
潜るように、按摩の笛が寂しく聞える。
門附は
屹と見た。
「噂をすれば、
芸妓はんが通りまっせ。あんた、見たいなら障子を開けやす……そのかわり、敵打たりょうと思うてな。」
「ああ、いつでも打たれてやら。ちょッ、
可厭に
煩く笛を吹くない。」
かたりと
門の戸を外から開ける。
「ええ、
吃驚すら。」
「今晩は、――饂飩六ツ急いでな。」と
草履穿きの
半纏着、背中へ白く月を浴びて、赤い鼻をぬいと出す。
「へい。」と筒抜けの高調子で、亭主帳場へ棒に
突立ち、
「お方、そりゃ早うせぬかい。」
女房は澄ましたもので、
「美しい
跫音やな、どこの?」と聞く。
「こないだ山田の新町から住替えた、こんの島家の
新妓じゃ。」と言いながら、鼻赤の若い衆は、
覗いた顔を外に曲げる。
と門附は、
背後の壁へ胸を反らして、ちょっと伸上るようにして、戸に立つ男の肩越しに、
皎とした月の
廓の、細い
通を見透かした。
駒下駄はちと音低く、まだ、からころと響いたのである。
「
沢山出なさるかな。」
「まあ、こんの饂飩のようには行かぬで。」
「その気で、すぐに届けますえ。」
「はい頼んます。」と、男は返る。
亭主帳場から
背後向きに、
日和下駄を探って下り、がたりびしりと手当り強く、そこへ
広蓋を
出掛ける。ははあ、夫婦二人のこの店、気の毒千万、御亭が出前持を兼ねると見えたり。
「裏表とも気を
注けるじゃ、
可いか、可いか。ちょっと道寄りをして来るで、可いか、お方。」
とそこいらじろじろと
睨廻して、新地の月に
提灯入らず、片手懐にしたなりで、亭主が出前、ヤケにがっと戸を開けた。
後を閉めないで、ひょこひょこ出て
行く。
釜の湯気が
颯と分れて、門附の頬に影がさした。
女房横合から来て、
「いつまで、うっかり見送ってじゃ、そんなに
敵が打たれたいの。」
「
女房さん、桑名じゃあ……芸者の箱屋は按摩かい。」と
悚気としたように肩を細く、この時やっと居直って、女房を見た、色が悪い。
十
「そうさ、いかに伊勢の
浜荻だって、按摩の箱屋というのはなかろう。私もなかろうと思うが、今向う側を何んとか屋の
新妓とか云うのが、からんころんと通るのを、何心なく見送ると、あの、一軒おき二軒おきの、
軒行燈では
浅葱になり、月影では青くなって、薄い紫の座敷着で、
褄を
蹴出さず、ひっそりと、白い襟を
俯向いて、足の運びも進まないように何んとなく
悄れて行く。……その
後から、鼠色の影法師。女の影なら月に
地を
這う
筈だに、寒い
道陸神が、のそのそと四五尺離れた処を、ずっと
前方まで附添ったんだ。腰附、肩附、
歩行く
振、
捏っちて
附着けたような
不恰好な
天窓の工合、どう見ても按摩だね、
盲人らしい、めんない千鳥よ。……私あ何んだ、だから、按摩が箱屋をすると云っちゃ
可笑い、
盲目になった箱屋かも知れないぜ。」
「どんな風の、どれな。」
と
門へ出そうにする。
「いや、もう見えない。呼ばれた
家へ入ったらしい。二人とも、ずっと
前方で居なくなった。そうか。ああ、盲目の箱屋は居ねえのか。アまた
殖えたぜ……影がさす、笛の音に影がさす、按摩の笛が降るようだ。この寒い月に
積ったら、桑名の町は針の山になるだろう、
堪らねえ。」
とぐいと
呷って、
「ええ、ヤケに飲め、一杯どうだ、
女房さん附合いねえ。御亭主は留守だが、
明放しよ、……構うものか。それ向う三軒の屋根越に、雪坊主のような山の影が
覗いてら。」
と門を振向き、あ、と叫んで、
「来た、来た、来た、来やあがった、来やあがった、按摩々々、按摩。」
と
呼吸も
吐かず、続けざまに
急込んだ、自分の声に、町の中に、ぬい、と立って、杖を
脚許へ
斜交いに
突張りながら、目を白く
仰向いて、月に小鼻を照らされた流しの按摩が、呼ばれたものと心得て、そのまま
凍附くように立留まったのも、門附はよく分らぬ
状で、
「影か、影か、
阿媽、ほんとの按摩か、影法師か。」
と激しく聞く。
「ほんとなら、どうおしる。
貴下、そんなに按摩さんが恋しいかな。」
「恋しいよ! ああ、」
と
呼吸を
吐いて、見直して、眉を
顰めながら、
声高に笑った。
「ははははは、按摩にこがれてこの
体さ。おお、按摩さん、按摩さん、さあ入ってくんねえ。」
門附は、
撥を
除けて、
床几を叩いて、
「一つ頼もう。
女房さん、済まないがちょいと借りるぜ。」
「この畳へ来て横におなりな。按摩さん、お客だす、あとを閉めておくんなさい。」
「へい。」
コトコトと杖の音。
「ええ……とんと早や、影法師も同然なもので。」と
掠れ声を白く出して、黒いけんちゅう
羊羹色の
被布を着た、
燈の影は、赤くその
皺の中へさし込んだが、日和下駄から消えても
失せず、片手を泳ぎ、片手で酒の香を
嗅分けるように入った。
「聞えたか。」
とこの門附は、権のあるものいいで、五六本銚子の並んだ、膳をまた
傍へずらす。
「へへへ」とちょっと鼻をすすって、ふん、とけなりそうに
香を
嗅ぐ。
「待ちこがれたもんだから、
戸外を犬が走っても、按摩さんに見えたのさ。こう、悪く言うんじゃないぜ……そこへぬっくりと
顕れたろう、酔っている、幻かと思った。」
「ほんに待兼ねていなさったえ。あの、笛の音ばかり気にしなさるので、私もどうやら
解めなんだが、やっと分ったわな、何んともお待遠でござんしたの。」
「これは、おかみさま、
御繁昌。」
「お客はお一人じゃ、ゆっくり療治してあげておくれ。それなりにお
寝ったら、お泊め申そう。」
と言う。
按摩どの、けろりとして、
「ええ、その気で、念入りに一ツ、
掴りましょうで。」と我が手を握って、
拉ぐように、ぐいと
揉んだ。
「へい、旦那。」
「旦那じゃねえ。ものもらいだ。」とまた
呷る。
女房が
竊と
睨んで、
「滅相な、あの、言いなさる。」
十一
「いや、横になるどころじゃない、沢山だ、ここで沢山だよ。……第一背中へ
掴まられて、
一呼吸でも
応えられるかどうだか、実はそれさえ
覚束ない。悪くすると、そのまま目を
眩して
打倒れようも知れんのさ。
体よく按摩さんに掴み殺されるといった形だ。」
と真顔で言う。
「飛んだ事をおっしゃりませ、田舎でも、これでも、長年年期を入れました杉山流のものでござります。
鳩尾に
鍼をお打たせになりましても、決して間違いのあるようなものではござりませぬ。」と
呆れたように、按摩の
剥く目は
蒼かりけり。
「うまい、まずいを言うのじゃない。いつの
幾日にも
何時にも、
洒落にもな、生れてからまだ一度も按摩さんの味を知らないんだよ。」
「まあ、あんなにあんた、こがれなさった癖に。」
「そりゃ、張って張って仕様がないから、目にちらつくほど待ったがね、いざ……となると
初産です、
灸の皮切も同じ事さ。どうにも勝手が分らない。痛いんだか、
痒いんだか、
風説に因ると
擽ったいとね。多分私も擽ったかろうと思う。……ところがあいにく、
母親が操正しく、これでも
密夫の
児じゃないそうで、その擽ったがりようこの上なし。……あれ、あんなあの、
握飯を
拵えるような手附をされる、とその手で揉まれるかと思ったばかりで、もう
堪らなく擽ったい。どうも、ああ、こりゃ
不可え。」
と脇腹へ
両肱を、しっかりついて、
掻竦むように脊筋を
捻る。
「ははははは、これはどうも。」と按摩は手持不沙汰な風。
女房
更めて顔を
覗いて、
「何んと、まあ、可愛らしい。」
「同じ事を、
可哀想だ、と言ってくんねえ。……そうかと言って、こう張っちゃ、身も皮も石になって
固りそうな、
背が
詰って胸は裂ける……揉んでもらわなくては
遣切れない。遣れ、構わない。」
と激しい声して、片膝を
屹と立て、
「殺す気で
蒐れ。こっちは覚悟だ、さあ。ときに
女房さん、
袖摺り合うのも
他生の縁ッさ。旅空掛けてこうしたお世話を受けるのも
前の世の何かだろう、何んだか、おなごりが
惜いんです。
掴殺されりゃそれきりだ、も一つ
憚りだがついでおくれ、別れの杯になろうも知れん。」
と
雫を切って、ついと出すと、他愛なさもあんまりな、目の色の変りよう、
眦も
屹となったれば、女房は気を打たれ、
黙然でただ目を

る。
「さあ按摩さん。」
「ええ、」
「
女房さん
酌いどくれよ!」
「はあ、」と酌をする手がちと震えた。
この茶碗を、一息に仰ぎ干すと、按摩が手を掛けたのと一緒であった。
がたがたと身震いしたが、
面は
幸に紅潮して、
「ああ、
腸へ
沁透る!」
「何かその、何事か存じませぬが、按摩は大丈夫でござります。」と、これもおどつく。
「まず、」
と
突張った手をぐたりと緩めて、
「
生命に別条は無さそうだ、しかし、しかし
応える。」
とがっくり
俯向いたのが、ふらふらした。
「月は寒し、炎のようなその指が、火水となって骨に響く。胸は冷い、耳は熱い。
肉は燃える、血は冷える。あっ、」と言って、両手を落した。
吃驚して按摩が手を引く、その
嘴や
鮹に似たり。
兄哥は、しっかり起直って、
「いや、手をやすめず遣ってくれ、あわれと思って
静に……よしんば
徐と揉まれた処で、私は五体が砕ける思いだ。
その思いをするのが
可厭さに、いろいろに悩んだんだが、
避ければ
摺着く、過ぎれば
引張る、逃げれば追う。形が無ければ声がする……ピイピイ笛は
攻太鼓だ。こうひしひしと
寄着かれちゃ、弱いものには我慢が出来ない。
淵に臨んで、
崕の上に
瞰下ろして
踏留まる
胆玉のないものは、いっその思い、
真逆に飛込みます。破れかぶれよ、按摩さん、
従兄弟再従兄弟か、
伯父甥か、親類なら、さあ、
敵を取れ。私はね、……お仲間の按摩を一人殺しているんだ。」
十二
「今からちょうど三年前。……その年は、この月から一月
後の
師走の末に、名古屋へ用があって来た。ついでと言っては悪いけれど、
稼の繰廻しがどうにか附いて、参宮が出来るというのも、お伊勢様の
思召、
冥加のほど
難有い。ゆっくり
古市に
逗留して、それこそついでに、……
浅熊山の雲も見よう、鼓ヶ
嶽の
調も聞こう。
二見じゃ初日を拝んで、堺橋から、池の浦、沖の島で空が別れる、
上郡から志摩へ入って、
日和山を見物する。……海が
凪いだら船を出して、
伊良子ヶ崎の
海鼠で飲もう、何でも五日六日は逗留というつもりで。……山田では尾上町の藤屋へ泊った。驚くべからず――まさかその時は私だって、浴衣に
袷じゃ居やしない。
着換えに
紋付の一枚も持った、
縞で
襲衣の若旦那さ。……ま、こう、雲助が
傾城買の昔を語る……
負惜みを言うのじゃないよ。何も自分の働きでそうした訳じゃないのだから。――聞きねえ、親なり、叔父なり、師匠なり、恩人なりという、……私が稼業じゃ江戸で一番、日本中の家元の大黒柱と云う、
少兀の苦い
面した
阿父がある。
いや、その
顔色に似合わない、気さくに
巫山戯た
江戸児でね。
行年その時六十歳を、三つと刻んだはおかしいが、数え年のサバを
算んで、私が代理に宿帳をつける時は、天地人とか何んとか言って、
禅の問答をするように、指を三本、ひょいと出してギロリと
睨む……五十七歳とかけと云うのさ。
可いかね、その気だもの……旅籠屋の女中が出てお給仕をする前では、
阿父さんが大の禁句さ。……与一兵衛じゃあるめえし、
汝、
定九郎のように呼ぶなえ、と唇を
捻曲げて、叔父さんとも言わせねえ、兄さんと呼べ、との御意だね。
この叔父さんのお供だろう。道中の面白さ。酒はよし、景色はよし、日和は続く。どこへ行っても女はふらない。師走の山路に、嫁菜が盛りで、しかも
大輪が咲いていた。
とこの桑名、四日市、亀山と、伊勢路へ
掛った汽車の中から、おなじ切符のたれかれが――その
催について名古屋へ行った、私たちの、まあ……興行か……その興行の
風説をする。嘘にもどうやら、私の評判も
可さそうな。叔父はもとより。……何事も言うには及ばん。――私が口で
饒舌っては、流儀の恥になろうから、まあ、
何某と言ったばかりで、世間は承知すると思って、聞きねえ。
ところがね、その私たちの事を言うついでに、この伊勢へ入ってから、きっと一所に出る、人の名がある。可いかい、山田の古市に
惣市と云う
按摩鍼だ。」
門附はその名を言う時、うっとりと瞳を据えた。
背を
抱くように
背後に立った按摩にも、
床几に近く裾を投げて、向うに腰を掛けた女房にも、目もくれず、
凝と天井を仰ぎながら、
胸前にかかる湯気を忘れたように手で
捌いて、
「按摩だ、がその按摩が、
旧はさる大名に仕えた士族の
果で、聞きねえ。私等が流儀と、
同じその道の芸の上手。江戸の宗家も、本山も、当国古市において、一人で兼ねたり、という
勢で、自ら
宗山と
名告る
天狗。高慢も高慢だが、また出来る事も出来る。……東京の本場から、誰も来て
怯かされた。
某も参って
拉がれた。あれで一眼でも有ろうなら、三重県に居る
代物ではない。今度名古屋へ来た連中もそうじゃ、
贋物ではなかろうから、何も宗山に稽古をしてもらえとは言わぬけれど、
鰻の
他に、
鯛がある、味を知って帰れば可いに。――と
才発けた
商人風のと、でっぷりした金の入歯の、土地の物持とも思われる奴の話したのが、
風説の中でも耳に付いた。
叔父はこくこく
坐睡をしていたっけ。
私あ若気だ、襟巻で顔を隠して、
睨むように二人を見たのよ、ね。
宿の藤屋へ着いてからも、わざと、叔父を一人で湯へ遣り……女中にもちょっと聞く。……
挨拶に出た番頭にも、按摩の惣市、宗山と云う、これこれした芸人が居るか、と聞くと、誰の返事も同じ事。思ったよりは高名で、現に、この頃も藤屋に泊った、
何某侯の御隠居の御召に因って、
上下で座敷を
勤た時、(さてもな、鼓ヶ嶽が近いせいか、これほどの松風は、東京でも聞けぬ、)と御賞美。
(
的等にも聞かせたい。)と宗山が言われます、とちょろりと
饒舌った。
私が
夥間を――(的等。)と言う。
的等の
一人、かく言う私だ……」
十三
「なお聞けば、古市のはずれに、その惣市、小料理屋の店をして、
妾の三人もある、大した
勢だ、と言うだろう。――何を!……按摩の分際で、宗家の、宗の字、この道の、本山が
凄じい。
こう、按摩さん、舞台の
差は
堪忍してくんな。」
と、
竊と痛そうに胸を
圧えた。
「後で、よく気がつけば、信州のお百姓は、東京の芝居なんぞ、ほんとの
猪はないとて威張る。……な、宮重大根が日本一なら、
蕪の千枚漬も皇国無双で、早く言えば、この桑名の、焼蛤も三都無類さ。
その気で居れば可いものを、二十四の前厄なり、若気の
一図に
苛々して、第一その宗山が気に入らない。(的等。)もぐっと
癪に障れば、妾三人で
赫とした。
維新以来の世がわりに、……
一時私等の稼業がすたれて、
夥間が食うに困ったと思え。弓矢取っては一万石、大名株の芸人が、イヤ
楊枝を削る、かるめら焼を露店で売る。……
蕎麦屋の出前持になるのもあり、現在私がその
小父者などは、田舎の役場に小使いをして、濁り酒のかすに酔って、
田圃の
畝に寝たもんです。……
その妹だね、可いかい、私の
阿母が、振袖の年頃を、困る処へ附込んで、
小金を溜めた按摩めが、ちとばかりの貸を
枷に、妾にしよう、と追い廻わす。――
危く駒下駄を踏返して、
駕籠でなくっちゃ見なかった隅田川へ落ちようとしたっさ。――その話にでも嫌いな按摩が。
ええ。
待て、見えない両眼で、
汝が身の程を
明く見るよう、療治を一つしてくりょう。
で、
翌日は謹んで、参拝した。
その尊さに、その晩ばかりはちっとの酒で宵寝をした、叔父の夜具の裾を叩いて、
枕許へ水を置き、
(女中、そこいらへ見物に、)
と言った心は、穴を
圧えて、宗山を退治る
料簡。
と出た、風が荒い。荒いがこの風、
五十鈴川で
劃られて、宇治橋の向うまでは吹くまいが、相の山の長坂を下から
哄と吹上げる……これが悪く
生温くって、
灯の前じゃ砂が黄色い。月は雲の底に
淀りしている。
神路山の樹は
蒼くても、二見の波は白かろう。
酷い
勢、ぱっと吹くので、たじたじとなる。帽子が飛ぶから、そのまま、藤屋が店へ投返した……と脊筋へ
孕んで、坊さんが忍ぶように羽織の袖が
飜々する。着換えるのも面倒で、昼間のなりで、
神詣での紋付さ。――袖畳みに
懐中へ
捻込んで、何の
洒落にか、手拭で頬被りをしたもんです。
門附になる前兆さ、
状を見やがれ。」と片手を袖へ、二の腕深く
突込んだ。片手で
狙うように茶碗を
圧えて、
「ね、古市へ行くと、まだ宵だのに
寂然している。……軒が、がたぴしと鳴って、
軒行燈がばッばッ揺れる。
三味線の音もしたけれど、
吹さらわれて大屋根へ猫の姿でけし飛ぶようさ。何の事はない、今夜のこの寂しい新地へ、風を持って来て、
打着けたと思えば可い。
一軒、
地のちと
窪んだ処に、
溝板から直ぐに竹の
欄干になって、
毛氈の端は
刎上り、畳に赤い島が出来て、
洋燈は油煙に
燻ったが、
真白に塗った姉さんが一人居る、空気銃、吹矢の店へ、ひょろりとして
引掛ったね。
取着きに、
肱を
支いて、怪しく正面に
眼の光る、悟った顔の
達磨様と、女の顔とを、七分三分に狙いながら、
(この辺に宗山ッて按摩は居るかい。)とここで実は様子を聞く気さ。押懸けて
行こうたってちっとも勝手が知れないから。
(先生様かね、いらっしゃります。)と何と、(的等。)の一人に、先生を、しかも、様づけに呼ぶだろう。
(実は、その人の何を、一つ、聞きたくって来たんだが、誰が行っても頼まれてくれるだろうか。)と尋ねると、
大熨斗を書いた幕の影から、色の
蒼い、
鬢の乱れた、
痩せた
中年増が顔を出して、(
知己のない、旅の方にはどうか知らぬ、お
望なら、内から案内して上げましょうか。)と言う。
茶代を
奮発んで、頼むと言った。
(案内して上げなはれ、
可い旦那や、気を付けて、)と
目配をする、……と雑作はない、その塗ったのが、いきなり、欄干を
跨いで出る奴さ。」
十四
「両袖で口を
塞いで、風の中を
俯向いて
行く。……その女の案内で、つい向う路地を入ると、どこも吹附けるから、戸を
鎖したが、怪しげな
行燈の
煽って見える、ごたごたした両側の長屋の中に、
溝板の広い、格子戸造りで、この一軒だけ二階屋。
軒に、御手軽
御料理としたのが、宗山先生の
住居だった。
(お客様。)と云う女の送りで、ずッと入る。直ぐそこの長火鉢を取巻いて、三人ばかり、変な女が、立膝やら、横坐りやら、猫板に頬杖やら、料理の方は
隙らしい。……
上框の正面が、
取着きの狭い
階子段です。
(座敷は二階かい、)と
突然頬被を取って上ろうとすると、風立つので
燈を置かない。
真暗だからちょっと待って、と色めいてざわつき出す。とその拍子に風のなぐれで、奴等の上の
釣洋燈がぱっと消えた。
そこへ、
中仕切の障子が、次の
室の
燈にほのめいて、二枚見えた。
真中へ、ぱっと映ったのが、大坊主の額の出た、唇の
大い影法師。む、宗山め、居るな、と思うと、憎い事には……影法師の、その背中に
掴まって、坊主を
揉んでるのが
華奢らしい島田
髷で、この影は、濃く映った。
火燧々々、と女どもが云う内に、
(えへん)と
咳を太くして、
大な手で、灰吹を持上げたのが見えて、離れて
煙管が映る。――もう一倍、その時図体が拡がったのは、袖を開いたらしい。
此奴、
寝ん
寝子の
広袖を着ている。
やっと台洋燈を
点けて、
(お待遠でした、さあ、)
って二階へ。吹矢の店から送って来た女はと、中段からちょっと見ると、両膝をずしりと、そこに居た奴の
背後へ火鉢を離れて、
俯向いて坐った。
(あの
娘で
可いのかな、
他にもござりますよって。)
と六畳の表座敷で低声で言うんだ。――ははあ、商売も
大略分った、と思うと、
其奴が
(お
誂は。)
と
大な声。
(あっさりしたものでちょっと一口。そこで……)
実は……御主人の按摩さんの、
咽喉が一つ聞きたいのだ、と話した。
(咽喉?)……と其奴がね、
異に
蔑んだ笑い方をしたものです。
(先生様の……でござりますか、早速そう申しましょう。)
で、地獄の
手曳め、急に
衣紋繕いをして下りる。しばらくして上って来た
年紀の
少い十六七が、……こりゃどうした、よく言う口だが
芥溜に水仙です、鶴です。帯も襟も
唐縮緬じゃあるが、もみじのように美しい。
結綿のふっくりしたのに、
浅葱鹿の子の
絞高な手柄を掛けた。やあ、三人あると云う、妾の一人か。おおん神の、お
膝許で沙汰の限りな! 宗山坊主の背中を揉んでた島田髷の影らしい。惜しや、五十鈴川の星と澄んだその目許も、
鯰の
鰭で濁ろう、と
可哀に思う。この娘が紫の
袱紗に
載せて、薄茶を持って来たんです。
いや、御本山の御見識、その
咽喉を聞きに来たとなると……客にまず
袴を
穿かせる
仕向をするな、真剣勝負面白い。で、こっちも
勢、
懐中から羽織を出して着直したんだね。
やがて、また持出した、
杯というのが、朱塗に二見ヶ浦を
金蒔絵した、杯台に構えたのは
凄かろう。
(まず一ツ上って、こっちへ。)
と按摩の方から、この杯の指図をする。その工合が、謹んで聞け、といった、
頗る権高なものさ。どかりとそこへ構え込んだ。その
容子が膝も腹もずんぐりして、
胴中ほど
咽喉が太い。耳の
傍から
眉間へ掛けて、小蛇のように筋が
畝くる。眉が薄く、鼻がひしゃげて、ソレその唇の厚い事、おまけに頬骨がギシと出て、歯を
噛むとガチガチと鳴りそう。左の一眼べとりと
盲い、右が
白眼で、ぐるりと
飜った、しかも一面、念入の
黒痘瘡だ。
が、争われないのは、
不具者の
相格、肩つきばかりは、みじめらしくしょんぼりして、
猪の熊入道もがっくり投首の
抜衣紋で居たんだよ。」
十五
「いえな、何も私が意地悪を言うわけではないえ。」
と湊屋の女中、前垂の膝を堅くして――
傍に柔かな髪の
房りした島田の
鬢を重そうに
差俯向く……襟足白く冷たそうに、
水紅色の
羽二重の、無地の
長襦袢の肩が
辷って、寒げに脊筋の抜けるまで、
嫋やかに、
打悄れた、残んの
嫁菜花の薄紫、
浅葱のように目に淡い、藤色
縮緬の二枚着で、姿の寂しい、
二十ばかりの若い芸者を
流盻に掛けつつ、
「このお座敷は
貰うて上げるから、なあ
和女、もうちゃっと内へお
去にや。……島家の、あの
三重さんやな、和女、お三重さん、お帰り!」
と
屹と言う。
「お前さんがおいでやで、ようお客さんの御機嫌を取ってくれるであろうと、
小女ばかり附けておいて、私が勝手へ立違うている
中や、……勿体ない、お客たちの、お年寄なが気に入らぬか、近頃山田から来た言うて、こちの私の
許を見くびったか、酌をせい、と
仰有っても、
浮々とした顔はせず……
三味線聞こうとおっしゃれば、鼻の
頭で笑うたげな。
傍に居た喜野が見かねて、私の袖を引きに来た。
先刻から、ああ、こうと、口の酸くなるまで、機嫌を取るようにして、私が和女の調子を取って、よしこの一つ上方唄でも、どうぞ三味線の
音をさしておくれ。お客様がお寂しげな、座敷が浮かぬ、お見やんせ、
蝋燭の灯も白けると、頼むようにして聞かいても、知らぬ、知らぬ、と言通す。三味線は和女、禁物か。下手や言うて、知らぬ云うて、
曲なりにもお座つき一つ弾けぬ
芸妓がどこにある。
よう、思うてもお見。平の座敷か、そでないか。
貴客がたのお人柄を見りゃ分るに、何で和女、勤める気や。私が済まぬ。さ、お立ち。ええ、私が箱を下げてやるから。」
と優しいのがツンと立って、
襖際に横にした三味線を邪険に取って、
衝と
縦様に引立てる。
「ああれ。」
はっと
裳を
摺らして、
取縋るように、女中の膝を
竊と抱き、袖を引き、三味線を引留めた。お三重の姿は崩るるごとく、
芍薬の花の散るに似て、
「堪忍して下さいまし、堪忍して、堪忍して、」と、
呼吸の切れる声が
湿んで、
「お客様にも、このお内へも、な、何で私が失礼しましょう。ほんとに、あの、ほんとに三味線は出来ませんもの、姉さん、」
と
言が途絶えた。……
「今しがたも、な、
他家のお座敷、隅の方に坐っていました。不断ではない、兵隊さんの送別会、大陽気に騒ぐのに、芸のないものは置かん、
衣服を脱いで踊るんなら
可、
可厭なら下げると……私一人帰されて、主人の
家へ戻りますと、直ぐに
酷いめに逢いました、え。
三味線も弾けず、踊りも出来ぬ、座敷で
衣物が脱げないなら、内で脱げ、
引剥ぐと、な、帯も何も取られた上、台所で
突伏せられて、引窓をわざと開けた、寒いお月様のさす影で、恥かしいなあ、
柄杓で水を立続けて乳へも胸へもかけられましたの。
こちらから、あの、お座敷を掛けて下さいますと、どうでしょう、
炬燵で
温めた
襦袢を着せて、東京のお客じゃそうなと、な、取って置きの着物を出して、よう勤めて帰れや言うて、御主人が手で、駒下駄まで出すんです。
勤めるたって、どうしましょう……踊は立って
歩行くことも出来ませんし、三味線は、それが姉さん、手を当てれば誰にだって、音のせぬ事はないけれど、弾いて聞かせとおっしゃるもの、どうして私唄えます。……
不具でもないに
情ない。調子が自分で出来ません。何をどうして、お座敷へ置いて頂けようと思いますと、気が
怯けて気が怯けて、口も満足利けませんから、何が気に入らないで、失礼な顔をすると、お思い遊ばすのも無理はない、なあ。……
このお家へは、お台所で、洗い物のお手伝をいたします。姉さん、え、姉さん。」
と袖を
擦って、一生懸命、うるんだ
目許を見得もなく、
仰向けになって女中の顔。……色が見る見る
柔いで、突いて立った三味線の
棹も
撓みそうになった、と見ると、二人の客へ、向直った、ふっくりとある
綾の帯の
結目で、なおその女中の
袂を
圧えて。……
十六
お三重は、そして、
更めて
二箇の老人に手を
支いた。
「芸者でお呼び遊ばした、と思いますと……お役に立たず、
極りが悪うございまして、お
銚子を持ちますにも手が震えてなりません。
下婢をお
傍へお置き遊ばしたとお思いなさいまして、お休みになりますまでお使いなすって下さいまし。お背中を
敲きましょう、な、どうぞな、お肩を
揉まして下さいまし。それなら一生懸命にきっと精を出します。」
と
惜気もなく、前髪を畳につくまで
平伏した。三指づきの折かがみが、こんな中でも、打上る。
本を開いて、道中の絵をじろじろと黙って見ていた捻平が、重くるしい口を開けて、
「子孫末代よい意見じゃ、旅で芸者を呼ぶなぞは、のう、お互に以後謹もう……」と火箸に手を置く。
所在なさそうに半眼で、
正面に
臨風榜可小楼を仰ぎながら、程を忘れた
巻莨、この時、口許へ火を吸って、慌てて灰へ
抛って、弥次郎兵衛は一つ
咽せた。
「ええ、いや、女中、……追って祝儀はする。ここでと思うが、その
娘が気が
詰ろうから、どこか小座敷へ休まして
皆で饂飩でも食べてくれ。私が
驕る。で、何か面白い話をして遊ばして、やがて
可い時分に帰すが可い。」と冷くなった
猪口を取って、寂しそうに
衝と飲んだ。
女中は、これよりさき、
支いて
突立ったその三味線を、次の
室の暗い方へ
密と
押遣って、がっくりと筋が
萎えた風に、折重なるまで
摺寄りながら、
黙然りで、
燈の影に水のごとく
打揺ぐ、お三重の背中を
擦っていた。
「島屋の亭が、そんな
酷い事をしおるかえ。可いわ、内の御隠居にそう言うて、沙汰をして上げよう。心安う思うておいで、ほんにまあ、よう
和女、顔へ
疵もつけんの。」
と、かよわい
腕を
撫下ろす。
「ああ、それも売物じゃいうだけの
斟酌に違いないな。……お客様に礼言いや。さ、そして、何かを話しがてら、御隠居の
炬燵へおいで。
切下髪に
頭巾被って、ちょうどな、
羊羹切って、茶を食べてや。
けども、」
とお三重の、その清らかな
襟許から、優しい
鬢毛を
差覗くように、
右瞻左瞻て、
「
和女、因果やな、ほんとに、三味線は弾けぬかい。ペンともシャンとも。」
で、わざと慰めるように
吻々と笑った。
人の
情に溶けたと見える……氷る涙の玉を散らして、はっと泣いた声の下で、
「はい、願掛けをしましても、塩断ちまでしましたけれど、どうしても分りません、調子が一つ出来ません。
性来でござんしょう。」
師走の
闇夜に
白梅の、
面を
蝋に照らされる。
「踊もかい。」
「は……い、」
「泣くな、弱虫、さあ一つ飲まんか! 元気をつけて。向後どこへか呼ばれた時は、
怯えるなよ。気の持ちようでどうにもなる。ジャカジャカと引鳴らせ、
糸瓜の皮で掻廻すだ。
琴も
胡弓も用はない。
銅鑼鐃
を叩けさ。
簫の笛をピイと遣れ、上手下手は誰にも分らぬ。それなら芸なしとは言われまい。踊が出来ずば体操だ。一、」
と左右へ、羽織の紐の
断れるばかり大手を拡げ、
寛濶な胸を反らすと、
「二よ。」と、庄屋殿が鉄砲二つ、ぬいと前へ突出いて、励ますごとく
呵々と弥次郎兵衛、
「これ、その位な事は出来よう。いや、それも度胸だな。見た処、そのように気が弱くては、いかな事も
遣つけられまい、可哀相に。」と声が
掠れる。
「あの……私が、自分から、言います事は出来ません、お
恥しいのでございますが、舞の
真似が少しばかり立てますの、それもただ一ツだけ。」
と云う顔を
俯向いて、恥かしそうにまた手を
支く。
「舞えるかえ、舞えるのかえ。」
と女中は嬉しそうな声をして、
「おお、踊や言うで明かんのじゃ。舞えるのなら立っておくれ。このお座敷、遠慮は
入らん。待ちなはれ、地が要ろう。これ喜野、あすこの広間へ行ってな、内の千がそう言うたて、誰でも弾けるのを借りて来やよ。」
とぽんとしていた小女の喜野が立とうとする、と、
名告ったお千が、打傾いて、優しく口許をちょいと曲げて傾いて、
「待って、待って、」
十七
「いつもと違う。……一度軍隊へ行きなさると、日曜でのうては出られぬ、……お国のためやで、
馴れぬ苦労もしなさんす。新兵さんの送別会や。女衆が大勢居ても、一人抜けてもお座敷が寂しくなるもの。
可いわ、旅の恥は掻棄てを
反対なが、一泊りのお客さんの前、私が三味線を掻廻そう。お三重さん、立つのは何? 有るものか、無いものか言うも行過ぎた……有るものとて無いけれど、どうにか間に合わせたいものではある。」
「あら、姉さん。」
と、三味線取りに立とうとした、お千の膝を、袖で
圧えて、ちとはなじろんだ、お三重の
愛嬌。
「糸に合うなら踊ります。あのな、私のはな、お能の舞の真似なんです。」と、言いも果てず、お千の膝に顔を隠して、
小父者と捻平に
背向になった初々しさ。包ましやかな姿ながら、身を
揉む姿の着崩れして、袖を離れて畳に長い、襦袢の袖は
媚かしい。
「何、その舞を舞うのかい。」と弥次郎兵衛は一言云う。
捻平膝の本をばったり伏せて、
「さて、飲もう。手酌でよし。ここで舞なぞは願い下げじゃ。せめてお題目の太鼓にさっしゃい。ふあはははは、」となぜか
皺枯れた高笑い、この時ばかり天井に
哄と響いた。
「捻平さん、捻さん。」
「おお。」
と
不性げにやっと
応える。
「何も道中の話の種じゃ、ちょっと見物をしようと思うね。」
「まず、ご免じゃ。」
「さらば、
其許は目を
瞑るだ。」
「ええ、縁起の悪い事を言わさる。……明日にも江戸へ帰って、可愛い孫娘の顔を見るまでは、死んでもなかなか目は
瞑らぬ。」
「さてさて
捻るわ、ソレそこが捻平さね。勝手になされ。さあ、あの
娘立ったり、この
爺様に遠慮は入らぬぞ。それ、何にも芸がないと云うて肩腰をさすろうと卑下をする。どんな真似でも一つ遣れば、立派な芸者の
面目が立つ。祝儀取るにも心持が
可かろうから、是非見たい。が、しかし心のままにしなよ、決して
勤を強いるじゃないぞ。」
「あんなに
仰有って下さるもの。さあ、どんな事するのや知らんが、まずうても大事ない、大事ない、それ、支度は入らぬかい。」
「あい、」
とわずかに身を起すと、紫の襟を
噛むように――ふっくりしたのが、あわれに
窶れた――
頤深く、恥かしそうに、
内懐を
覗いたが、
膚身に着けたと思わるる、……胸やや白き
衣紋を透かして、濃い紫の細い包、
袱紗の
縮緬が
飜然と
飜ると、燭台に照って、
颯と輝く、銀の地の、ああ、
白魚の指に重そうな、一本の舞扇。
晃然とあるのを押頂くよう、前髪を掛けて、扇をその、
玉簪のごとく額に当てたを、そのまま折目高にきりきりと、月の
出汐の波の影、
静に
照々と開くとともに、顔を隠して、反らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。
また川口の
汐加減、隣の広間の
人動揺めきが颯と
退く。
と見れば
皎然たる銀の地に、黄金の雲を散らして、
紺青の月、ただ一輪を描いたる、扇の影に声澄みて、
「――その時あま人申様、もしこのたまを取得たらば、この御子を世継の御位になしたまえと申しかば、子細あらじと領承したもう、さて我子ゆえに捨ん命、露ほども惜からじと、千尋のなわを腰につけ、もしこの玉をとり得たらば、このなわを動かすべし、その時人々ちからをそえ――」
と調子が
緊って、
「……ひきあげたまえと約束し、
一の利剣を抜持って、」
と扇をきりりと袖を直す、と
手練ぞ見ゆる、
自から、衣紋の位に年
長けて、瞳を定めたその
顔。
硝子戸越に月さして、霜の川浪
照添う
俤。膝
立据えた畳にも、
燭台の花颯と流るる。
「ああ、待てい。」
と捻平、力の
籠った声を掛けた。
十八
で、火鉢をずっと
傍へ引いて、
「女中、もちっとこれへ火をおくれ。いや、立つに及ばん。その、鉄瓶をはずせば
可し。」と捻平がいいつける。
この場合なり、何となく、お千も
起居に
身体が
緊った。
静に炭火を移させながら、捻平は膝をずらすと、
革鞄などは次の
室へ……それだけ床の間に差置いた……車の上でも
頸に掛けた風呂敷包を、重いもののように両手で
柔かに取って、膝の上へ据えながら、お千の顔を
除けて、火鉢の上へ片手を裏表かざしつつ、
「ああ、これ、お三重さんとか言うの、そのお
娘、手を上げられい。さ、手を上げて、」
と言う。……お三重は利剣で立とうとしたのを、
慌しく捻平に留められたので、この時まで、差開いたその舞扇が、唇の花に霞むまで、
俯向いた顔をひたと額につけて、片手を畳に
支いていた。こう捻平に声懸けられて、わずかに顔を振上げながら、きりきりと一まず閉じると、その扇を畳むに連れて、今まで、
濶と瞳を張って見据えていた
眼を、次第に
塞いだ弥次郎兵衛は、ものも言わず、火鉢のふちに、ぶるぶると震う指を、と支えた
態の、
巻莨から、音もしないで、ほろほろと灰がこぼれる。
捻平
座蒲団を
一膝出て、
「いや、
更めて、
熟と、見せてもらおうじゃが、まずこっちへ寄らしゃれ。ええ、今の
謡の、気組みと、その
形。教えも教えた、さて、習いも習うたの。
こうまでこれを教うるものは、四国の
果にも
他にはあるまい。あらかた人は分ったが、それとなく
音信も聞きたい。の、
其許も黙って聞かっしゃい。」
と弥次が
方に、捻平
目遣いを一つして、
「まず、どうして、誰から、
御身は習うたの。」
「はい、」
と弱々と返事した。お三重はもう、
他愛なく娘になって、ほろりとして、
「あの、
前刻も申しましたように、不器用も通越した、調子はずれ、その上覚えが悪うござんして、長唄の宵や待ちの
三味線のテンもツンも分りません。この間まで
居りました、山田の新町の姉さんが、朝と昼と、
手隙な時は晩方も、日に三度ずつも、あの
噛んで含めて、胸を割って刻込むように教えて下すったんでございますけれど、自分でも悲しい。……暁の、とだけ十日かかって、やっと真似だけ弾けますと、夢になってもう手が違い、心では思いながら、三の手が一へ
滑って、とぼけたような
音がします。
撥で
咽喉を引裂かれ、
煙管で胸を打たれたのも、糸を切った数より多い。
それも何も、邪険でするのではないのです。……私が、な、まだその前に、
鳥羽の
廓に居ました時、……」
「ああ、お前さんは、鳥羽のものかい、志摩だな。」
と弥次郎兵衛がフト聞入れた。
「いえ、私はな、やっぱりお伊勢なんですけれど、
父さんが
死くなりましてから、
継母に売られて行きましたの。はじめに聞いた奉公とは嘘のように違います。――お客の言うことを聞かぬ言うて、
陸で悪くば海で稼げって、
崕の下の
船着から、夜になると、男衆に
捉えられて、小船に積まれて海へ出て、月があっても、島の蔭の暗い処を、危いなあ、ひやひやする、木の葉のように浮いて
歩行いて、
寂とした海の上で……悲しい唄を唄います。そしてお客の取れぬ時は、船頭衆の胸に響いて、女が恋しゅうなる
禁厭じゃ、お
茶挽いた罰、と云って、船から海へ、びしゃびしゃと追下ろして、
汐の干た
巌へ上げて、巌の裂目へ
俯向けに口をつけさして、(こいし、こいし。)と呼ばせます。若い衆は
舳に待ってて、声が切れると、
栄螺の殻をぴしぴしと
打着けますの。汐風が濡れて吹く、夏の夜でも寒いもの。……私のそれは、師走から、寒の
中で、八百
八島あると言う、どの島も皆白い。霜風が凍りついた、巌の角は針のような、あの、その上で、(こいし、こいし。)って、唇の、しびれるばかり泣いている。
咽喉は裂け、舌は凍って、
潮を浴びた
裙から冷え通って、正体がなくなる処を、貝殻で
引掻かれて、やっと船で正気が付くのは、
灯もない、何の船やら、あの、まあ、鬼の
支いた棒見るような帆柱の下から、皮の
硬い
大な手が出て、
引掴んで抱込みます。
空には
蒼い星ばかり、海の水は皆黒い。
暗の夜の血の池に落ちたようで、ああ、生きているか……千鳥も鳴く、私も泣く。……お恥かしゅうござんす。」
と
翳す扇の利剣に添えて、水のような袖をあて、顔を隠したその風情。人は声なくして、ただ、ちりちりと、
蝋燭の
涙白く散る。
この物語を聞く人々、いかに日和山の頂より、志摩の島々、海の
凪、霞の池に鶴の舞う、あの、
麗朗なる景色を見たるか。
十九
「泣いてばかりいますから、気の荒いお船頭が、こんな泣虫を買うほどなら、伊良子崎の
海鼠を
蒲団で、
弥島の
烏賊を遊ぶって、どの船からも投出される。
また、あの
巌に追上げられて、霜風の
間々に、(こいし、こいし。)と泣くのでござんす。
手足は凍って貝になっても、(こいし)と泣くのが本望な。巌の裂目を沖へ通って、海の
果まで響いて欲しい。もう船も
去ね、潮も来い。……そのままで石になってしまいたいと思うほど、お客様、私は、あの、」
と乱れた襦袢の袖を
銜えた、
水紅色映る
瞼のあたり、ほんのりと薄くして、
「心でばかり長い事、思っておりまする人があって。……芸も
容色もないものが、生意気を云うようですが、……たとい殺されても、死んでもと、心願掛けておりました。
ある晩も、やっぱり
蒼い灯の船に買われて、その船頭衆の言う事を
肯かなかったので、こっちの船へ突返されると、
艫の処に
行火を
跨いで、どぶろくを飲んでいた、私を送りの若い
衆がな、
玉代だけ損をしやはれ、
此方衆の見る前で、この女を、
海士にして慰もうと、月の良い晩でした。
胴の間で着物を脱がして、
膚の紐へなわを付けて、
倒に海の深みへ沈めます。ずんずんずんと沈んでな、もう奈落かと思う時、
釣瓶のようにきりきりと、
身体を車に引上げて、髪の
雫も切らせずに、また海へ
突込みました。
この時な、その
繋り船に、長崎辺の伯父が一人乗込んでいると云うて、お
小遣の無心に来て、泊込んでおりました、二見から鳥羽がよいの馬車に、
馭者をします、寒中、
襯衣一枚に
袴服を
穿いた若い人が、私のそんなにされるのが、あんまり可哀相な、とそう云うて、伊勢へ帰って、その話をしましたので、今、あの申しました。……
この間までおりました、古市の
新地の姉さんが、随分なお
金子を出して、私を連れ出してくれましたの。
それでな、鳥羽の鬼へも
面当に、芸をよく覚えて、立派な芸子になれやッて、姉さんが、そうやって、目に涙を一杯ためて、ぴしぴし
撥で
打ちながら、三味線を教えてくれるんですが、どうした因果か、ちっとも覚えられません。
人さしと、中指と、ちょっとの間を、一日に三度ずつ、一週間も鳴らしますから、近所隣も迷惑して、御飯もまずいと言うのですえ。
また月の良い晩でした。ああ、今の御主人が、親切なだけなお辛い。……何の、
身体の切ない、苦しいだけは、
生命が絶えればそれで済む。いっそまた鳥羽へ行って、あの
巌に
掴まって、(こいし、こいし、)と泣こうか知らぬ、膚の紐になわつけて、海へ入れられるが気安いような、と島も海も目に見えて、ふらふらと月の中を、千鳥が、
冥土の使いに来て、連れて行かれそうに思いました。……格子
前へ流しが来ました。
新町の月影に、露の垂りそうな、あの、ちらちら光る
撥音で、
……博多帯しめ、筑前絞り――
と、何とも言えぬ
好い声で。
(へい、不調法、お
喧しゅう、)って、そのまま
行きそうにしたのです。
(ああ、
身震がするほど
上手い、あやかるように拝んで来な、それ、お
賽銭をあげる気で。)
と
滝縞お
召の
半纏着て、灰に袖のつくほどに、しんみり聞いてやった姉さんが、長火鉢の
抽斗からお宝を出して、キイと、あの
繻子が鳴る、帯へ
挿んだ懐紙に
捻って、私に持たせなすったのを、盆に乗せて、戸を開けると、もう一二
間行きなさいます。二人の間にある月をな、影で
繋いで、ちゃっと行って、
(
是喃。)と呼んで、出した盆を、振向いてお取りでした。私や、思わずその手に
縋って、涙がひとりでに出ましたえ。男で居ながら、こんなにも上手な方があるものを、
切めてその指一本でも、私の
身体についたらばと、つい、おろおろと泣いたのです。
頬被をしていなすった。あのその、私の手を取ったまま――黙って、少し脇の方へ
退いた処で、(何を泣く、)って優しい声で、その門附が聞いてくれます。もう恥も何も忘れてな、その、あの、どうしても三味線の覚えられぬ事を話しました。」
二十
「よく聞いて、しばらく
熟と顔を見ていなさいました。
(芸事の出来るように、神へ
願懸をすると云って、夜の明けぬ内、外へ出ろ。鼓ヶ嶽の裾にある、雑樹林の中へ来い。三日とも思うけれど、主人には、七日と頼んで。すぐ、今夜の明方から。……分ったか。若い女の途中が
危い、この入口まで来て待ってやる、
化されると思うな、夢ではない。……)
とお言いのなり、三味線を胸に
附着けて、フイと暗がりへ附着いて、黒塀を
去きなさいます。……
その事は言わぬけれど、明方の三時から、夜の白むまで
垢離取って、願懸けすると頼んだら、姉さんは、喜んで、承知してくれました。
殺されたら死ぬ気でな、――大恩のある御主人の、この格子戸も見納めか、と思うようで、軒下へ出て振返って、
門を
視めて、立っているとな。
(おいで、)
と云って、
突然、
背後から手を取りなすった、門附のそのお方。
私はな、よう覚悟はしていたが、天狗様に
攫われるかと思いましたえ。
あとは夢やら
現やら。明方内へ帰ってからも、その
後は二日も三日もただ
茫としておりましたの。……鼓ヶ嶽の松風と、五十鈴川の
流の音と聞えます、雑木の森の暗い中で、その方に教わりました。……舞も、あの、さす手も、ひく手も、ただ
背後から背中を抱いて下さいますと、私の
身体が、舞いました。それだけより存じません。
もっとも、私が、あの、鳥羽の海へ投入れられた、その身の上も話しました。その方は不思議な事で、私とは
敵のような中だ事も、いろいろ入組んではおりますけれど、鼓ヶ嶽の裾の話は、誰にも言うな、と口留めをされました。何んにも話がなりません。
五日目に、もう可いから、これを舞って座敷をせい。芸なし、とは言うまい、ッて、お
記念なり、しるしなりに、この舞扇を下さいました。」
と袖で胸へしっかと抱いて、ぶるぶると肩を震わした、
後毛がはらりとなる。
捻平
溜息をして
頷き、
「いや、よく分った。教え方も、習い方も、話されずとよく分った。時に、山田に居て、どうじゃな、その舞だけでは勤まらなんだか。」
「はい、はじめて
謡いました時は、
皆が、わっと笑うやら、中には
恐い
怖いと云う人もござんす。なぜ言うと、五日ばかり、あの私がな、天狗様に誘い出された、と
風説したのでござんすから。」
「は、いかにも師匠が魔でなくては、その立方は習われぬわ。むむ、で、何かの、伊勢にも
謡うたうものの、五人七人はあろうと思うが、その連中には見せなんだか。」
「ええ、
物好に試すって、呼んだ方もありましたが、地をお謡いなさる方が、何じゃやら、ちっとも、ものにならぬと言って、すぐにお
留めなさいましたの。」
「ははあ、いや、その足拍子を入れられては、やわな
謡は
断れて飛ぶじゃよ。ははははは、
唸る連中
粉灰じゃて。かたがたこの桑名へ、住替えとやらしたのかの。」
「狐狸や、いや、あの、
吠えて飛ぶ処は、
梟の
憑物がしよった、と皆
気違にしなさいます。姉さんも、手放すのは可哀相や言って下さいましたけれど、……
周囲の人が承知しませず、……この桑名の島屋とは、
行かいはせぬ遠い中でも、姉さんの縁続きでござんすから、預けるつもりで
寄越されましたの。」
「おお、そこで、また辛い
思をさせられるか。まずまず、それは後でゆっくり聞こう。……そのお
娘、
私も
同一じゃ。天魔でなくて、若い女が、
術をするわと、仰天したので、手を留めて済まなんだ。さあ、立直して舞うて下さい。大儀じゃろうが一さし頼む。
私も
久ぶりで
可懐しい、
御身の姿で、若師匠の御意を得よう。」
と
言の
中に、膝で解く、その風呂敷の中を見よ。土佐の名手が
画いたような、
紅い
調は
立田川、月の裏皮、表皮。玉の
砧を、打つや、うつつに、天人も聞けかしとて、雲井、と
銘ある秘蔵の
塗胴。
老の
手捌き美しく、
錦に
梭を、投ぐるよう、さらさらと緒を
緊めて、火鉢の火に高く
翳す、と……
呼吸をのんで驚いたように見ていたお千は、思わず、はっと両手を
支いた。
芸の威厳は争われず、この捻平を誰とかする、七十八歳の
翁、辺見秀之進。近頃孫に
代を譲って、
雪叟とて隠居した、小鼓取って、本朝無双の名人である。
いざや、
小父者は能役者、当流第一の老手、恩地源三郎、すなわちこれ。
この二人は、
侯爵津の
守が、参宮の、仮の
館に催された、一調の番組を勤め済まして、あとを膝栗毛で帰る途中であった。
二十一
さて、
饂飩屋では門附の
兄哥が語り次ぐ。
「いや、それから、いろいろ勿体つける所作があって、やがて大坊主が
謡出した。
聞くと、どうして、思ったより出来ている、按摩
鍼の芸ではない。……
戸外をどッどと吹く風の中へ、この声を
打撒けたら、あのピイピイ笛ぐらいに
纏まろうというもんです。成程、随分
夥間には、
此奴に(的等。)扱いにされようというのが少くない。
が、私に取っちゃ
小敵だった。けれども芸は大事です、
侮るまい、と気を
緊めて、そこで、膝を。」
と
坐直ると、肩の按摩が上へ浮いて、門附の
衣紋が
緊る。
「……この膝を
丁と叩いて、黙って二ツ三ツ拍子を取ると、この拍子が
尋常んじゃない。……親なり師匠の叔父きの膝に、
小児の時から、抱かれて習った相伝だ。
対手の節の隙間を切って、
伸縮みを
緊めつ、緩めつ、声の重味を
刎上げて、
咽喉の呼吸を突崩す。寸法を知らず、間拍子の分らない、まんざらの素人は、
盲目聾で気にはしないが、ちと商売人の端くれで、いささか心得のある
対手だと、トンと一つ打たれただけで、もう声が
引掛って、節が
不状に
蹴躓く。三味線の
間も
同一だ。どうです、意気なお方に釣合わぬ……ン、と一ツ
刎ねないと、野暮な矢の字が、とうふにかすがい、
糠に釘でぐしゃりとならあね。
さすがに心得のある奴だけ、商売人にぴたりと一ツ、拍子で声を
押伏せられると、張った調子が直ぐにたるんだ。思えば余計な若気の
過失、こっちは畜生の
浅猿しさだが、
対手は素人の悲しさだ。
あわれや宗山。見る内に、額にたらたらと
衝と汗を流し、
死声を振絞ると、
頤から胸へ
膏を絞った……あのその大きな唇が
海鼠を干したように乾いて来て、舌が
硬って
呼吸が
発奮む。わなわなと震える手で、畳を
掴むように、うたいながら
猪口を拾おうとする処、ものの本をまだ一枚とうたわぬ
前、ピシリとそこへ高拍子を打込んだのが、
下腹へ響いて、ドン底から節が抜けたものらしい。
はっと火のような
呼吸を吐く、トタンに
真俯向けに
突伏す時、長々と舌を吐いて、犬のように畳を
嘗めた。
(先生、御病気か。)
って私あ
莞爾したんだ。
(是非聞きたい、平にどうか。宗山、この上に
聾になっても、
貴下のを一番、聞かずには死なれぬ。)
と
拳を握って、せいせい言ってる。
(按摩さん。)
と私は呼んで、
(尾上町の藤屋まで、どのくらい離れている。)
(何んで、)
と聞く。
(間によっては声が響く。内証で来たんだ。……藤屋には私の声が聞かしたくない、叔父が一人寝てござるんだ。勇士は霜の
気勢を知るとさ――たださえ
目敏い
老人が、この風だから寝苦しがって、フト起きてでもいるとならない、祝儀は置いた。帰るぜ。)
ト宗山が、
凝と
塞いだ目を、ぐるぐると動かして、
(
暫く、今の拍子を打ちなされ……古市から尾上町まで声が聞えようか、と言いなされる、御大言、年のお
少さ。まだ
一度も声は聞かず、顔はもとより見た事もなけれども……当流の大師匠、恩地源三郎どの養子と聞く……同じ喜多八氏の外にはあるまい。さようでござろう、恩地、)
と私の名をちゃんと言う。
ああ、酔った、」
と杯をばたりと落した。
「
饒舌って悪い私の名じゃない。叔父に済まない。二人とも、誰にも言うな。……」
と
鷹揚で、按摩と女房に目をあしらい。
「私は羽織の裾を払って、
(違ったような、当ったようだ、が、何しろ、東京の的等の一人だ。宗家の宗、本山の山、宗山か。
若布の附焼でも土産に持って、東海道を
這い上れ。恩地の台所から
音信れたら、叔父には内証で、居候の腕白が、
独楽を廻す片手間に、この浦船でも教えてやろう。)
とずっと立つ。
二十二
「
痘瘡の中に
白眼を
剥いて、よたよたと立上って、
憤った声ながら、
(
可懐いわ、若旦那、盲人の悲しさ顔は見えぬ。触らせて下され、つかまらせて下され、
一撫で、撫でさせて下され。)
と言う。
いや、撫られて
堪りますか。
摺抜けようとするんだがね、六畳の狭い座敷、
盲目でも自分の
家だ。
素早く、
階子段の降口を
塞いで、むずと、大手を拡げたろう。……影が天井へ
懸って、
充満の黒坊主が、
汗膏を流して撫じょうとする。
いや、その
嫉妬執着の、険な不思議の形相が、今もって忘れられない。
(
可厭だ、可厭だ、可厭だ。)と、こっちは夢中に出ようとする、よける、留める、行違うで、やわな、かぐら堂の二階中みしみしと鳴る。風は
轟々と当る。ただ黒雲に
捲かれたようで、
可恐しくなった、
凄さは凄し。
衝と、
引潜って、ドンと飛び摺りに、どどどと
駈け下りると、ね。
(
袖や、止めませい。)
と宗山が二階で
喚いた。
皺枯声が、風でぱっと耳に当ると、三四人立騒ぐ女の中から、すっと美しく姿を抜いて、格子を開けた
門口で、しっかり
掴まる。吹きつけて
揉む風で、
颯と
紅い
褄が
搦むように、私に
縋ったのが、
結綿の、その娘です。
背中を揉んでた、薄茶を出した、あの影法師の
妾だろう。
ものを言う
清い、
張のある目を上から見込んで、構うものか、行きがけだ。
(可愛い人だな、おい、殺されても死んでも、人の
玩弄物にされるな。)
と言捨てに
突放す。
(あれ。)と云う声がうしろへ、ぱっと吹飛ばされる風に向って、
砂塵の中へ、や、躍込むようにして一散に
駈けて返った。
後に知った、が、妾じゃない。お袖と云うその可愛いのは、宗山の娘だったね。それを娘と知っていたら、いや、その時だって気が付いたら、按摩が親の
仇敵でも、
私あ退治るんじゃなかったんだ。」
と不意にがッくりと胸を折って
俯向くと、按摩の手が、肩を
辷って、ぬいと越す。……その袖の陰で、取るともなく、落した杯を探りながら、
「もしか、按摩が尋ねて来たら、堅く
居らん、と言え、と宿のものへ
吩附けた。叔父のすやすやは、上首尾で、並べて取った床の中へ、すっぽり入って、
引被って、
可心持に寝たんだが。
ああ、寝心の
好い思いをしたのは、その晩きりさ。
なぜッて、宗山がその夜の
中に、私に
辱められたのを
口惜しがって、
傲慢な奴だけに、ぴしりと、もろい折方、憤死してしまったんだ。七代まで流儀に
祟る、と手探りでにじり
書した
遺書を残してな。死んだのは鼓ヶ嶽の裾だった。あの
広場の雑樹へ
下って、
夜が明けて、やッと
小止になった風に、ふらふらとまだ動いていたとさ。
こっちは何にも知らなかろう、風は
凪ぐ、天気は
可。叔父は一段の上機嫌。……古市を立って二見へ行った。朝の
中、朝日館と云うのへ入って、いずれ泊る、……先へ鳥羽へ行って、ゆっくりしようと、直ぐに車で、上の山から、日の出の下、二見の浦の上を通って、日和山を
桟敷に、山の上に、海を
青畳にして二人で半日。やがて朝日館へ帰る、……とどうだ。
旅籠の表は黒山の人だかりで、内の廊下もごった返す。
大袈裟な事を言うんじゃない。伊勢から私たちに逢いに来たのだ。按摩の変事と
遺書とで、その日の内に国中へ知れ渡った。別にその事について文句は申さぬ。芸事で宗山の
留を刺したほどの
豪い方々、是非に一日、山田で
謡が聞かして欲しい、と
羽織袴、フロックで押寄せたろう。
いや、叔父が怒るまいか。日本一の不所存もの、恩地源三郎が申渡す、向後
一切、謡を口にすること
罷成らん。
立処に勘当だ。さて宗山とか云う盲人、
己が
不束なを知って屈死した心、かくのごときは芸の上の
鬼神なれば、自分は、
葬式の
送迎、墓に謡を手向きょう、と人々と約束して、私はその場から追出された。
あとの事は何も知らず、その時から、津々浦々をさすらい
歩行く、門附の
果敢い身の上。」
二十三
「名古屋の大須の観音の裏町で、これも浮世に別れたらしい、三味線一
挺、古道具屋の店にあったを
工面したのがはじまりで、一銭二銭、三銭じゃ木賃で泊めぬ
夜も多し、日数をつもると野宿も半分、京大阪と
経めぐって、西は博多まで行ったっけ。
何んだか伊勢が気になって、妙に急いで、逆戻りにまた来た。……
私が言ったただ
一言、(人のおもちゃになるな。)と言ったを、
生命がけで守っている。……可愛い娘に逢ったのが一生の
思出だ。
どうなるものでもないんだから、早く影をくらましたが、四日市で煩って、
女房さん。」
と呼びかけた。
「お前さんじゃないけれど、深切な人があった。やっと足腰が立ったと思いねえ。上方筋は何でもない、間違って謡を聞いても、お百姓が、(風呂が沸いた)で
竹法螺吹くも同然だが、
東へ上って、箱根の山のどてっぱらへ手が
掛ると、もう、な、江戸の鼓が響くから、どう我慢がなるものか! うっかり謡をうたいそうで危くってならないからね、
今切は越せません。これから
大泉原、
員弁、
阿下岐をかけて、大垣街道。岐阜へ出たら
飛騨越で、
北国筋へも廻ろうかしら、と富田近所を三日稼いで、桑名へ来たのが
昨日だった。
その今夜はどうだ。不思議な人を二人見て、遣切れなくなってこの
家へ飛込んだ。が、
流の笛が
身体に
刺る。いつもよりはなお激しい。そこへまた影を見た。美しい影も見れば、
可恐しい影も見た。ここで按摩が殺す気だろう。構うもんか、勝手にしろ、似たものを
引つけて、とそう覚悟して按摩さん、背中へ
掴ってもらったんだ。
が、筋を抜かれる、身を

られる、私が五体は裂けるようだ。」
とまた
差俯向く肩を越して、按摩の手が、それも物に震えながら、はたはたと
戦きながら、背中に
獅噛んだ
面の
附着く……門附の
袷の
褪せた色は、
膚薄な胸を透かして、
動悸が筋に映るよう、あわれ、博多の柳の姿に、
土蜘蛛一つ
搦みついたように
凄く見える。
「誰や!」
と、不意に
吃驚したような女房の声、うしろ見られる神棚の
灯も暗くなる端に、べろべろと紙が濡れて、
門の腰障子に穴があいた。それを
見咎めて一つ
喚く、とがたがたと、
跫音高く、
駈け
退いたのは御亭どの。
いや、困った
親仁が、一人でない、
薪雑棒、
棒千切れで、二人ばかり、若いものを連れていた。
「御老体、」
雪叟が小鼓を
緊めたのを見て……こう言って、恩地源三郎が
儼然として顧みて、
「破格のお附合い、
恐多いな。」
と膝に扇を取って会釈をする。
「相変らず未熟でござる。」
と雪叟が礼を返して、そのまま座を下へおりんとした。
「平に、それは。」
「いや、蒲団の上では、お流儀に失礼じゃ。」
「は、その
娘の舞が、
甥の奴の
俤ゆえに、遠慮した、では私も、」
と言った時、左右へ、敷物を
斉しく
刎ねた。
「嫁女、嫁女、」
と源三郎、二声呼んで、
「お三重さんか、私は嫁と思うぞ。喜多八の叔父源三郎じゃ、
更めて一さし舞え。」
二人の名家が
屹と居直る。
瞳の動かぬ気高い顔して、
恍惚と見詰めながら、よろよろと
引退る、と黒髪うつる藤紫、肩も
腕も
嬌娜ながら、袖に構えた扇の利剣、霜夜に声も
凜々と、
「……引上げたまえと約束し、一つの利剣を抜持って……」
肩に
綾なす鼓の手影、雲井の胴に光さし、
艶が添って、名誉が
籠めた心の花に、
調の緒の色、
颯と燃え、ヤオ、と一つ声が
懸る。
「あっ、」
とばかり、
屹と見据えた――能楽界の鶴なりしを、雲隠れつ、と
惜まれた――恩地喜多八、饂飩屋の
床几から、
衝と片足を土間に落して、
「雪叟が鼓を打つ! 鼓を打つ!」と身を
揉んだ、胸を
切めて、
慌しく取って
蔽うた、手拭に、かっと血を吐いたが、かなぐり棄てると、
右手を
掴んで、按摩の手をしっかと取った。
「
祟らば、祟れ、さあ、按摩。湊屋の
門まで来い。もう一度、若旦那が聞かしてやろう。」
と、
引立てて、ずいと出た。
「(源三郎)……かくて竜宮に至りて宮中を見れば、その高さ三十丈の玉塔に、かの玉をこめ置、香花を備え、守護神は八竜並居たり、その外悪魚鰐の口、遁れがたしや我命、さすが恩愛の故郷のかたぞ恋しき、あの浪のあなたにぞ……」
その時、
漲る心の
張に、島田の
元結ふッつと切れ、肩に崩るる緑の黒髪。水に乱れて、灯に
揺めき、畳の海は
裳に澄んで、
塵も
留めぬ
舞振かな。
「(源三郎)……我子は有らん、父大臣もおわすらむ……」
と声が
幽んで、源三郎の
地謡う節が、フト途絶えようとした時であった。
この湊屋の門口で、
爽に調子を合わした。……その声、白き
虹のごとく、
衝と来て、お三重の姿に
射した。
「(喜多八)……さるにてもこのままに別れ果なんかなしさよと、涙ぐみて立ちしが……」
「やあ、大事な処、倒れるな。」
と源三郎すっと座を立ち、よろめく三重の
背を支えた、
老の
腕に
女浪の袖、この後見の大磐石に、みるの緑の黒髪かけて、
颯と
翳すや舞扇は、銀地に、その、雲も恋人の影も立添う、光を放って、
灯を
白めて舞うのである。
舞いも舞うた、謡いも謡う。はた雪叟が自得の秘曲に、桑名の海も、トトと
大鼓の拍子を添え、川浪近くタタと鳴って、太鼓の
響に
汀を打てば、
多度山の霜の頂、月の御在所ヶ
嶽の影、鎌ヶ嶽、
冠ヶ嶽も冠着て、客座に並ぶ
気勢あり。
小夜更けぬ。町
凍てぬ。どことしもなく
虚空に笛の聞えた時、恩地喜多八はただ一人、湊屋の軒の蔭に、姿
蒼く、影を濃く立って謡うと、月が棟高く
廂を照らして、
渠の
面に、扇のような光を投げた。舞の扇と、うら表に、そこでぴたりと合うのである。
「(喜多八)……また思切って手を合せ、
南無や
志渡寺の観音
薩
の力をあわせてたびたまえとて、大悲の利剣を額にあて、竜宮に飛び入れば、左右へはっとぞ
退いたりける、」
と謡い澄ましつつ、
「
背を貸せ、宗山。」と言うとともに、恩地喜多八は疲れた
状して、
先刻からその裾に、大きく何やら
踞まった、形のない、ものの影を、腰掛くるよう、取って
引敷くがごとくにした。
路一筋白くして、
掛行燈の更けたかなたこなた、杖を
支いた按摩も交って、ちらちらと人立ちする。
明治四十三(一九一〇)年一月