一
「ここだ、この音なんだよ。」
帽子も靴も
艶々と光る、三十ばかりの、しかるべき会社か銀行で当時若手の
利けものといった
風采。一ツ、
容子は似つかわしく外国語で行こう、ヤングゼントルマンというのが、その
同伴の、――すらりとして派手に
鮮麗な中に、
扱帯の結んだ端、羽織の裏、
褄はずれ、目立たないで、ちらちらと春風にちらめく
処々に
薄りと蔭がさす、何か、もの
思か、
悩が身にありそうな、ぱっと咲いて浅く
重る
花片に、
曇のある趣に似たが、風情は勝る、花の香はその
隈から、
幽に、
行違う人を誘うて時めく。
薫を
籠めて、藤、
菖蒲、色の調う一枚
小袖、
長襦袢。そのいずれも
彩糸は使わないで、ひとえに浅みどりの柳の葉を、針で運んで縫ったように、姿を通して涼しさの
靡くと同時に、袖にも褄にもすらすらと寂しの添った、
痩せぎすな美しい
女に、――今のを、ト言掛けると、
婦人は黙って
頷いた。
が、もう打頷く
咽喉の影が、半襟の縫の
薄紅梅に白く映る。……
あれ見よ。この美しい
女は、その
膚、その
簪、その
指環の玉も、とする端々
透通って色に出る、心の影がほのめくらしい。
「ここだ、この音なんだよ。」
婦人は
同伴の男にそう言われて、時に頷いたが、
傍でこれを見た松崎と云う、
絣の羽織で、鳥打を
被った男も、共に心に頷いたのである。
「成程これだろう。」
但し、松崎は、
男女、その二人の道ずれでも何でもない。当日ただ一人で、
亀井戸へ
詣でた
帰途であった。
住居は本郷。
江東橋から電車に乗ろうと、水のぬるんだ、
草萌の川通りを
陽炎に
縺れて来て、長崎橋を入江町に
掛る頃から、どこともなく、遠くで鳴物の音が聞えはじめた。
松崎は、橋の上に、欄干に
凭れて、しばらく
彳んで聞入ったほどである。
ちゃんちきちき面白そうに
囃すかと思うと、急に
修羅太鼓を
摺鉦交り、どどんじゃじゃんと鳴らす。亀井戸寄りの
町中で、屋台に山形の
段々染、
錣頭巾で、いろはを揃えた、義士が打入りの石版絵を張廻わして、よぼよぼの
飴屋の
爺様が、
皺くたのまくり手で、人寄せにその
鉦太鼓を
敲いていたのを、ちっと
前に見た身にも、珍らしく響いて、気をそそられ、胸が騒ぐ、ばったりまた激しいのが静まると、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン、悠々とした糸が聞えて、……本所駅へ、がたくた
引込む、石炭を積んだ大八車の通るのさえ、
馬士は
銜煙管で、しゃんしゃんと
轡が揺れそうな合方となる。
絶えず続いて、
音色は替っても、
囃子は留まらず、
行交う船脚は水に流れ、
蜘蛛手に、
角ぐむ
蘆の根を
潜って、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。浮けば蝶の
羽の上になり下になり、
陽炎に乗って揺れながら近づいて、
日当の橋の暖い
袂にまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと
退いて、
――おいで、おいで――
と招いていそうで。
手に取れそうな近い音。
はっ、とその手を出すほどの心になると、橋むこうの、屋根を、ひょいひょいと手踊り雀、電信柱に下向きの
傾り燕、一羽気まぐれに浮いた
鴎が、どこかの手飼いの
鶯交りに、音を捕うる
人心を、はッと同音に笑いでもする
気勢。
春たけて、日遅く、本所は
塵の上に、水に
浮んだ島かとばかり、都を離れて
静であった。
屋根の
埃も
紫雲英の
紅、
朧のような汽車が
過ぎる。
その響きにも消えなかった。
二
松崎は、――汽車の
轟きの下にも埋れず、何等か妨げ遮るものがあれば、音となく響きとなく、
飜然と軽く体を
躱わす、形のない、思いのままに勝手な
音の
湧出ずる、空を
舞繞る鼓に翼あるものらしい、その
打囃す鳴物が、――向って、
斜違の角を広々と黒塀で取廻わした片隅に、低い
樹立の松を
洩れて、
朱塗の堂の屋根が見える、
稲荷様と聞いた、境内に、何か催しがある……その音であろうと思った。
けれども、欄干に乗出して、も一つ橋越しに透かして見ると、門は
寝静ったように
鎖してあった。
いつの間にか、トチトチトン、のんきらしい
響に乗って、駅と書いた本所
停車場の建札も、
駅と読んで、白日、菜の花を
視むる心地。
真赤な
達磨が
逆斛斗を打った、忙がしい世の
麺麭屋の看板さえ、遠い鎮守の鳥居めく、
田圃道でも通る思いで、江東橋の停留所に着く。
空いた電車が五台ばかり、燕が行抜けそうにがらんとしていた。
乗るわ、降りるわ、
混合う
人数の崩るるごとき火水の戦場往来の
兵には、余り透いて、相撲最中の
回向院が野原にでもなったような電車の
体に、いささか拍子抜けの形で、お望み次第のどれにしようと、大分
歩行き廻った
草臥も交って、松崎はトボンと立つ。
例の音は
地の底から、草の蒸さるるごとく、色に
出で
萌えて留まらぬ。
「
狸囃子と云うんだよ、昔から本所の名物さ。」
「あら、嘘ばっかり。」
ちょうどそこに、美しい
女と、その若紳士が居合わせて、こう
言を交わしたのを松崎は聞取った。
さては
空音ではないらしい。
若紳士が言ったのは、例の、おいてけ堀、片葉の
蘆、足洗い屋敷、
埋蔵の
溝、
小豆婆、送り
提燈とともに、土地の七不思議に数えられた、幻の音曲である。
言った方も
戯に、聞く
女も
串戯らしく打消したが、松崎は、かえって、うっかりしていた
伝説を、夢のように思出した。
興ある事かな。
日は永し。
今宮辺の堂宮の絵馬を見て暮したという、
隙な
医師と一般、仕事に悩んで
持余した
身体なり、電車はいつでも乗れる。
となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら、橋の上で聞いたよりは、ここへ来ると、同じ的の無い
中にも、囃子の音が、間近に、
判然したらしく思われる。一つは、その声の響くのは、自分ばかりでない事を確めたせいであろう。
その上、世を避けた仙人が
碁を打つ響きでもなく、
薄隠れの
女郎花に露の
音信るる声でもない……
音色こそ違うが、
見世ものの囃子と同じく、気をそそって人を寄せる、鳴ものらしく思うから、傾く耳の誘わるる、寂しい横町へ電車を離れた。
向って
日南の、
背後は水で、思いがけず一本の
菖蒲が町に咲いた、と見た。……その美しい
女の影は、分れた背中にひやひやと
染む。……
と、チャンチキ、チャンチキ、
嘲けるがごとくに囃す。……
がらがらと鳴って、電車が出る。突如として、どどん、じゃん、じゃん。――ぶらぶら
歩行き出すと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。
三
片側はどす黒い、水の
淀んだ川に添い、がたがたと物置が並んで、米俵やら、
筵やら、炭やら、
薪やら、その中を蛇が
這うように、ちょろちょろと鼠が縫い行く。
あの鼠が太鼓をたたいて、
鼬が笛を吹くのかと思った。……人通り
全然なし。
片側は、右のその物置に、ただ戸障子を
繋合わせた
小家続き。で、一二軒、八百屋、駄菓子屋の店は見えたが、
鴉も
居らなければ犬も居らぬ。
縄暖簾も居酒屋めく米屋の店に、コトンと音をさせて鶏が一羽
歩行いていたが、通りかかった松崎を見ると、高らかに一声鳴いた。
太陽はたけなわに白い。
颯と、のんびりした雲から
落かかって、目に
真蒼に映った、物置の中の竹屋の竹さえ、茂った山吹の葉に見えた。
町はそこから曲る。
と追分で
路が替って、木曾街道へ
差掛る……
左右戸毎の
軒行燈。
ここにも、そこにも、ふらふらと、春の日を
中へ取って、白く
点したらしく、真昼浮出て
朦と明るい。いずれも御泊り
木賃宿。
で、どの家も、軒より、屋根より、これが
身上、その昼行燈ばかりが目に着く。
中には、
廂先へ高々と
燈籠のごとくに釣った、白看板の首を
擡げて、屋台骨は
地の上に
獣のごとく這ったのさえある。
吉野、高橋、清川、
槙葉。寝物語や、
美濃、
近江。ここにあわれを
留めたのは屋号にされた
遊女達。……ちょっと柳が
一本あれば滅びた白昼の
廓に
斉しい。が、
夜寒の
代に焼尽して、塚のしるしの小松もあらず……
荒寥として砂に人なき
光景は、
祭礼の
夜に地震して、土の下に埋れた町の、壁の肉も、柱の血も、そのまま一落の
白髑髏と化し果てたる趣あり。
絶壁の
躑躅と見たは、崩れた壁に、ずたずたの
襁褓のみ、
猿曵が猿に着せるのであろう。
生命の
搦む
桟橋から、
危く傾いた二階の廊下に、日も見ず、
背後むきに鼠の
布子の
背を曲げた首の色の
蒼い男を、フト一人見附けたが、軒に掛けた
蜘蛛の
囲の、ブトリと膨れた蜘蛛の腹より、人間は
痩せていた。
ここに照る月、輝く日は、
兀げた金銀の雲に乗った、
土御門家一流易道、と
真赤に目立った看板の路地から
糶出した、そればかり。
空を見るさえ
覗くよう、軒行燈の白いにつけ、両側の屋根は薄暗い。
この春の
日向の道さえ、
寂びれた町の形さえ、行燈に似て、しかもその白けた
明に映る……
表に、御泊りとかいた字の、その影法師のように、町幅の
真ただ中とも思う処に、
曳棄てたらしい荷車が一台、屋台を乗せてガタリとある。
近いて見ると、いや、荷の蔭に人が居た。
男か、女か。
と、見た
体は、
褪せた
尻切の茶の
筒袖を着て、袖を合わせて、手を
拱き、紺の
脚絆穿、
草鞋掛の細い脚を、車の裏へ、
蹈揃えて、
衝と伸ばした、
抜衣紋に
手拭を巻いたので、襟も隠れて見分けは附かぬ。編笠、ひたりと折合わせて、
紐を深く
被ったなりで、がっくりと
俯向いたは、どうやら
坐眠りをしていそう。
城の縄張りをした
体に、車の
轅の中へ、きちんと入って、腰は
床几に落したのである。
飴屋か、豆屋か、団子を売るか、いずれにも荷が勝った……おでんを売るには乾いている、その看板がおもしろい。……
四
屋台の正面を横に見せた、両方の柱を白木綿で巻立てたは寂しいが、左右へ渡して
紅金巾をひらりと釣った、下に横長な
掛行燈。
一………………………………坂東よせ鍋
一………………………………尾上天麩羅
一………………………………大谷おそば
一………………………………市川玉子焼
一………………………………片岡 椀盛
一………………………………嵐 お萩
一………………………………坂東あべ川
一………………………………市村しる粉
一………………………………沢村さしみ
一………………………………中村 洋食
初日出揃い役者役人車輪に相勤め申候
名の上へ、藤の花を
末濃の紫。口上あと余白の処に、赤い
福面女に、黄色な
瓢箪男、
蒼い
般若の
可恐い面。黒の
松葺、浅黄の
蛤、ちょっと蝶々もあしらって、霞を薄くぼかしてある。
引寄せられて慕って来た、囃子の音には、これだけ気の合ったものは無い。が、松崎は読返してみて苦笑いした。
坂東あべ川、市村しるこ、
渠はあまい名を
春狐と号して、福面女に、瓢箪男、般若の面、……二十五座の座附きで
駈出しの狂言方であったから。――
「
串戯じゃないぜ。」
思わず、声を出して
独言。
「
親仁さん、おう、親仁さん。」
なぞのものぞ、ここに木賃の国、行燈の町に、壁を抜出た楽がきのごとく、陽炎に
顕れて、我を
諷するがごとき浅黄の
頭巾は?……
屋台の様子が、
小児を
対手で、新粉細工を売るらしい。片岡牛鍋、尾上天麩羅、そこへ並べさせてみよう
了簡。
「おい、お
爺い。」
と
閑なあまりの言葉がたき。わざと
中ッ腹に呼んでみたが、
寂寞たる事、くろんぼ同然。
で、
操の糸の切れたがごとく、手足を
突張りながら、ぐたりと眠る……俗には船を
漕ぐとこそ言え、これは
筏を流す
体。
それに対して、そのまま松崎の
分った
袂は、我ながら蝶が羽繕いをする心地であった。
まだ十歩と離れぬ。
その物売の、布子の円い背中なぞへ、同じ木賃宿のそこが
歪みなりの角から、町幅を、一息、苗代形に幅の広くなった処があって、思いがけず
甍の
堆い屋形が一軒。
斜に中空をさして
鯉の
鱗の背を見るよう、電信柱に棟の霞んで
聳えたのがある。
空屋か、知らず、窓も、
門も、皮をめくった、面に
斉しく、
大な節穴が、二ツずつ、がッくり
窪んだ
眼を揃えて、
骸骨を重ねたような。
が、月には尾花か、
日向の若草、
廂に伸びたも春めいて、町から中へ引込んだだけ、生ぬるいほどほかほかする。
四辺に似ない大構えの空屋に、――二間ばかりの
船板塀が水のぬるんだ
堰に見えて、その前に、お
玉杓子の
推競で群る
状に、大勢
小児が
集っていた。
おけらの虫は、もじゃもじゃもじゃと皆
動揺めく。
その癖静まって声を立てぬ。
直きその物売の前に立ちながら、この小さな群集の混合ったのに気が附かなかったも道理こそ、松崎は身に染みた狂言最中見ぶつのひっそりした
桟敷うらを来たも同じだと思った。
役者は舞台で飛んだり、
刎ねたり、子供芝居が、ばたばたばた。
五
大当り、
尺的に矢の
刺っただけは新粉屋の看板より念入なり。一面藤の花に、蝶々まで同じ絵を彩った一張の紙幕を、船板塀の木戸口に渡して掛けた。正面前の処へ、
破筵を三枚ばかり、じとじとしたのを敷込んだが、日に乾くか、
怪い陽炎となって、むらむらと立つ、それが舞台。
取巻いた
小児の上を、
鮒、
鯰、黒い頭、
緋鯉と見たのは赤い
切の
結綿仮髪で、幕の藤の花の末を
煽って、泳ぐように
視められた。が、近附いて見ると、坂東、沢村、市川、中村、尾上、片岡、役者の連名も、
如件、おそば、お汁粉、牛鍋なんど、紫の房の下に筆ぶとに記してあった……
松崎が、立寄った時、カイカイカイと、ちょうど塀の内で木が入って、紺の
衣服に、黒い帯した、円い
臀が、
蹠をひょい、と上げて、頭からその幕へ潜ったのを見た。――筵舞台は行儀わるく、両方へ
歪んだが。
半月形に、ほかほかとのぼせた顔して、取廻わした、小さな見物、わやわやとまた
一動揺。
中に、目の鋭い
屑屋が一人、
箸と
籠を両方に下げて、挟んで食えそうな首は無しか、とじろじろと
睨廻わす。
もう一人、
袷の
引解きらしい、汚れた
縞の
単衣ものに、
綟綟れの三尺で、
頬被りした、ずんぐり
肥った赤ら顔の
兄哥が一人、のっそり腕組をして
交る……
二人ばかり、十二三、四五ぐらいな、子守の
娘が、横ちょ、と
猪首に
小児を
背負って、唄も唄わず、肩、背を
揺る。他は皆、
茄子の
蔓に蛙の子。
楽屋――その塀の
中で、またカチカチと鳴った。
処へ、
通から、ばらばらと
駈けて来た、別に二三人の小児を先に、
奴を振らせた趣で、や! あの美しい
女と、
中折の下に眉の濃い、若い紳士と並んで来たのは、浮世の底へ霞を引いて、
天降ったように見えた。
ここだ、この音だ――と云ったその紳士の
言を聞いた、松崎は、やっぱり
渠等も囃子の音に誘われて、
男女のどちらが言出したか、それは知らぬが、連立って、
先刻の電車の終点から、ともに引寄せられて来たものだと思った。
時に、その二人も、松崎も、大方この芝居の鳴物が、遠くまで聞えたのであろうと
頷く……囃子はその癖、ここに尋ね当った
現下は何も聞えぬ。……
絵の藤の
幕間で、木は入ったが舞台は空しい。
「幕が長いぜ、開けろい。
遣らねえか、遣らねえか。」
とずんぐり者の
頬被は肩を
揺った。が、閉ったばかり、いささかも長い幕間でない事が、自分にも
可笑しいか、
鼻先の
手拭の
結目を、ひこひこと遣って笑う。
様子が、思いも掛けず、こんな場所、子供芝居の見物の
群に来た、美しい
女に対して興奮したものらしい。
実際、雲の青い山の奥から、
淡彩の
友染とも見える、名も知れない一輪の花が、細谷川を里近く流れ
出でて、
淵の
藍に影を留めて人目に触れた風情あり。
石斑魚が飛んでも松葉が散っても、そのまま直ぐに、すらすらと行方も知れず流れよう、それをしばらくでも引留めるのは、ただちっとも早く幕を開ける外はない、と松崎の目にも見て取られた。
「頼むぜ頭取。」
頬被がまた
喚く。
六
あたかもその時、役者の名の余白に描いた、
福面女、
瓢箪男の端をばさりと
捲ると、
月代茶色に、
半白のちょん
髷仮髪で、眉毛の
下った十ばかりの男の
児が、
渋団扇[#「団扇」は底本では「団扉」]の柄を
引掴んで、ひょこりと登場。
「待ってました。」
と頬被が声を掛けた。
奴は、とぼけた目をきょろんと
遣ったが、
「ちぇ、小道具め、しようがねえ。」
と高慢な口を利いて、
尻端折りの脚をすってん、
刎ねるがごとく、二つ三つ、舞台をくるくると廻るや否や、
背後向きに、ちょっきり結びの
紺兵児の
出尻で、頭から半身また幕へ
潜ったが、すぐに
摺抜けて出直したのを見れば、うどん、当り屋とのたくらせた穴だらけの
古行燈を提げて出て、
筵の上へ、ちょんと直すと、
奴はその蔭で、膝を折って、
膝開けに
踏張りながら、
件の渋団扇で、ばたばたと
煽いで、
台辞。
「米が
高値いから不景気だ。
媽々めにまた叱られべいな。」
でも、ちょっと
含羞んだか、日に焼けた顔を
真赤に
俯向く。同じ色した渋団扇、ばさばさばさ、と遣った処は
巧緻いものなり。
「いよ、牛鍋。」と頬被。
片岡牛鍋と云うのであろう、が、役は
饂飩屋の
親仁である。
チャーン、チャーン……幕の
中で
鉦を鳴らす。
――
迷児の、迷児の、迷児やあ――
呼ばわり連れると、ひょいひょいと三人出た……
団粟ほどな背丈を揃えて、
紋羽の襟巻を
頸に巻いた大屋様。
月代が
真青で、
鬢の膨れた
色身な手代、うんざり鬢の
侠が一人、これが
前へ立って、コトン、コトンと棒を突く。
「や、これ、太吉さん、」
と
差配様声を掛ける。中の
青月代が、
提灯を持替えて、
「はい、はい。」と返事をした。が、
界隈の荒れた卵塔場から、
葬礼あとを、
引攫って来たらしい、その提灯は
白張である。
大屋は、カーンと一つ
鉦を叩いて、
「大分
夜が更けました。」
「
亥刻過ぎでございましょう、……ねえ、
頭。」
「そうよね。」
と棒をコツン、で、くすくすと笑う。
「笑うな、
真面目に真面目に、」と頬被がまた声を掛ける。
差配様が小首を傾け、
「時に、もし、迷児、迷児、と呼んで
歩行きますが、
誰某と名を申して呼びませいでも、分りますものでござりましょうかね。」
「
私もさ、思ってるんで。……どうもね、ただこう、迷児と呼んだんじゃ、
前方で誰の事だか見当が附くめえてね、迷児と呼ばれて、はい、手前でござい、と顔を出す
奴もねえもんでさ。」とうんざり鬢が引取って言う。
「まずさね……それで
闇がりから顔を出せば、飛んだ
妖怪でござりますよ。」
青月代の
白男が、袖を開いて、両方を
掌で
圧え、
「
御道理でございますとも。それがでございますよ。はい、こうして鉦太鼓で
探捜に出ます騒動ではございますが、捜されます御当人の
家へ、声が聞えますような近い所で、名を呼びましては、
表向の事でも
極が悪うございましょう。それも
小児や
爺婆ならまだしも、取って十九という
妙齢の娘の事でございますから。」
と考え考え、切れ切れに台辞を運ぶ。
その内も手を休めず、ばっばっと赤い団扇、火が散るばかり、これは
鮮明。
七
青月代は
辿々しく、
「で、ございますから、遠慮をしまして、名は呼びません、でございましたが、おっしゃる通り、ただ迷児迷児と
喚きました処で分るものではございません。もう大分町も離れました、
徐々娘の名を呼びましょう。」
「成程々々、御心附至極の儀。そんなら、ここから一つ名を呼んで捜す事にいたしましょう。
頭、音頭を願おうかね。」
「迷児の音頭は
遣りつけねえが、ままよ。……
差配さん、合方だ。」
チャーンと
鉦の
音。
「お
稲さんやあ、――トこの調子かね。」
「結構でございますね、差配さん。」
差配はも一つ真顔でチャーン。
「さて、呼声に名が
入りますと、どうやら遠い処で、
幽に、はあい……」と
可哀な声。
「変な声だあ。」
と
頭は棒を
揺って震える真似する。
「この方、総入歯で、若い娘の
仮声だちね。いえさ、したが何となく返事をしそうで、
大に張合が着きましたよ。」
「その気で一つ
伸しましょうよ。」
三人この処で、声を揃えた。チャーン――
「――迷児の、迷児の、お稲さんやあ……」
と
一列び、
筵の上を六尺ばかり、ぐるりと廻る。手足も小さく
仇ない顔して、目立った
仮髪の
髷ばかり。
麦藁細工が化けたようで、黄色の声で
長せた事、ものを云う笛を吹くか、と
希有に聞える。
美しい
女は、すっと薄色の
洋傘を閉めた……ヴェールを脱いだように濃い浅黄の影が消える、と露の垂りそうな
清い目で、
同伴の男に、ト瞳を注ぎながら舞台を見返す……その様子が、しばらく
立停ろうと云うらしかった。
「
鍋焼饂飩…」
と高らかに、舞台で目を眠るまで
仰向いて呼んだ。
「……ああ、腹が空いた、饂飩屋。」
「へいへい、
頭、
難有うござります。」
うんざり
鬢は額を叩いて、
「おっと、礼はまだ早かろう。これから相談だ。ねえ、太吉さん、差配さん、ちょっぴり暖まって、行こうじゃねえかね。」
「賛成。」
と見物の頬被りは、
反を打って
大に笑う。
仕種を待構えていた、饂飩屋小僧は、これから、
割前の相談でもありそうな処を、もどかしがって、
「へい、お待遠様で。」と急いで、渋団扇で三人へ皆配る。
「早いんだい、まだだよ。」
と差配になったのが地声で
甲走った。が、それでも、ぞろぞろぞろぞろと口で言い言い三人、指二本で
掻込む
仕形。
「
頭、……御町内様も御苦労様でございます。お捜しなさいますのは、お子供衆で?」
「小児なものかね、
妙齢でございますよ。」
と青月代が、襟を
扱いて、ちょっと色身で
応答う。
「へい、お妙齢、殿方でござりますか、それともお娘御で。」
「妙齢の野郎と云う奴があるもんか、初厄の
別嬪さ。」と
頭は口で、ぞろりぞろり。
「ああ、さて、走り
人でござりますの。」
「はしり人というのじゃないね、同じようでも、いずれ行方は知れんのだが。」
と差配は、チンと
洟をかむ。
美しい
女の唇に
微笑が見えた……
「いつの事、どこから、そのお姿が見えなくなりました。」
と饂飩屋は、渋団扇を
筵に
支いて、ト中腰になって
訊く。
八
差配は
溜息と共に気取って
頷き、
「いつ、どこでと云ってね、お
前、縁日の宵の口や、顔見世の夜明から、見えなくなったというのじゃない。その娘はね、長い間煩らって、寝ていたんだ。それから
行方が知れなくなったよ。」
子供芝居の取留めのない
台辞でも、ちっと変な事を言う。
「へい。」
舞台の饂飩屋も異な顔で、
「それでは御病気を苦になさって、死ぬ気で
駈出したのでござりますかね。」
「寿命だよ。ふん、」と、も一つかんで、差配は鼻紙を
袂へ落す。
「御寿命、へい、何にいたせ、それは御心配な事で。お
怪我がなければ
可うございます。」
「
賽の河原は
礫原、石があるから
躓いて怪我をする事もあろうかね。」と陰気に差配。
「何を言わっしゃります。」
「いえさ、饂飩屋さん、合点の悪い。その娘はもう亡くなったんでございますよ。」と青月代が
傍から言った。
「お前様も。死んだ
迷児という事が、世の中にござりますかい。」
「六道の
闇に迷えば、はて、迷児ではあるまいか。」
「や、そんなら、お前様方は、
亡者をお捜しなさりますのか。」
「そのための、この
白張提灯。」
と青月代が、
白粉の
白けた顔を前へ、トぶらりと提げる。
「捜いて、捜いて、
暗から闇へ行く路じゃ。」
「ても……気味の悪い事を言いなさる。」
「饂飩屋、どうだ一所に来るか。」
と
頭は鬼のごとく棒を突出す。
饂飩屋は、あッと尻餅。
引被せて、青月代が、
「ともに
冥途へ
連行かん。」
「
来れや、来れ。」と
差配は異変な
声繕。
一堪りもなく、饂飩屋はのめり伏した。渋団扇で、頭を叩くと、ちょん
髷仮髪が、がさがさと鳴る。
「占めたぞ。」
「
喰遁げ。」
と
囁き合うと、三人の
児は、ひょいと躍って、蛙のようにポンポン飛込む、と幕の蔭に声ばかり。
――迷児の、迷児の、お稲さんやあ――
描ける藤は、どんよりと重く匂って、おなじ色に、
閃々と金糸のきらめく、美しい
女の半襟と、陽炎に影を通わす、
居周囲は時に
寂寞した、楽屋の
人数を、狭い処に包んだせいか、
張紙幕が中ほどから、見物に向いて、風を
孕んだか、と膨れて見える……この影が
覆蔽るであろう、
破筵は鼠色に濃くなって、
蹲み込んだ
児等の胸へ持上って、
蟻が四五疋、うようよと
這った。……が、なぜか、物の本の古びた
表面へ、――来れや、来れ……と仮名でかきちらす形がある。
見つつ松崎が思うまで、来れや、来れ……と言った
差配の言葉は、怪しいまで陰に響いて、幕の膨らんだにつけても、誰か、大人が居て、蔭で声を
助けたらしく聞えたのであった。
見物の児等は、神妙に黙って控えた。
頬被のずんぐり者は、腕を組んで立ったなり、こくりこくりと居眠る……
饂飩屋が、ぼやんとした顔を上げた。さては、差置いた荷のかわりの
行燈も、草紙の絵ではない。
蟻は隠れたのである。
九
「狐か、狸か、今のは何じゃい、どえらい目に逢わせくさった。」
と饂飩屋は坂塀はずれに、空屋の大屋根から空を仰いで、
茫然する。
美しい
女と若い紳士の、並んで立った姿が動いて、両方
木賃宿の羽目板の方を見向いたのを、――無台が寂しくなったため、もう帰るのであろうと見れば、さにあらず。
そこへ小さな縁台を据えて、二人の中に、ちょんぼりとした
円髷を
俯向けに、
揉手でお
叩頭をする古女房が一人居た。
「さあ、どうぞ、旦那様、奥様、これへお掛け遊ばして、いえ、もう汚いのでございますが、お立ちなすっていらっしゃいますより、ちっとは
増でございます。」
と
手拭で、ごしごし拭いを掛けつつ云う。その手で――一所に持って出たらしい、踏台が一つに乗せてあるのを下へおろした。
「いや、
俺たちは、」
若い紳士は、手首白いのを挙げて、払い
退けそうにした。が、美しい
女が、意を得たという晴やかな顔して、黙ってそのまま腰を掛けたので。
「
難有う。」
渠も
斉しく並んだのである。
「はい、失礼を。はいはい、はい、どうも。」と古女房は、まくし掛けて、早口に
饒舌りながら、踏台を提げて、
小児たちの
背後を、ちょこちょこ走り。で、松崎の
背後へ廻る。
「
貴方様は、どうぞこれへ。はい、はい、はい。」
「恐縮ですな。」
かねて
期したるもののごとく
猶予らわず腰を落着けた、……松崎は、美しい
女とその
連とが、去る去らないにかかわらず、――舞台の三人が
鉦をチャーンで、迷児の名を呼んだ時から、子供芝居は、とにかくこの一幕を見果てないうちは、足を返すまいと思っていた。
声々に、
可哀に、寂しく、
遠方を
幽に、――そして
幽冥の
界を
暗から闇へ
捜廻ると言った、厄年十九の娘の名は、お稲と云ったのを鋭く聞いた――
仔細あって忘れられぬ人の名なのであるから。――
「おかみさん、この芝居はどういう筋だい。」
「はいはい、いいえ、
貴下、子供が出たらめに致しますので、取留めはございませんよ。何の事でございますか、私どもは一向に分りません。それでも
稽古だの何のと申して、それは騒ぎでございましてね、はい、はい、はい。」
で手を
揉み手を揉み、
正面には顔を上げずに、ひょこひょこして言う。この古女房は、くたびれた
藍色の
半纏に、茶の着もので、紺足袋に
雪駄穿で居たのである。
「馬鹿にしやがれ。へッ、」
と
唐突に毒を吐いたは、
立睡りで居た頬被りで、
弥蔵の
肱を、ぐいぐいと
懐中から、八ツ当りに
突掛けながら、
「人、面白くもねえ、貴方様お掛け遊ばせが聞いて
呆れら。おはいはい、
襟許に着きやがって、へッ。俺の方が初手ッから立ってるんだ。
衣類に脚が生えやしめえし……
草臥れるんなら、こっちが
前だい。
服装で
価値づけをしやがって、畜生め。ああ、人間
下りたくはねえもんだ。」
古女房は聞かない
振で、ちょこちょこと走って
退いた。一体、縁台まで持添えて、どこから出て来たのか、それは知らない。そうして
引返したのは町の方。
そこに、
先刻の編笠
目深な新粉細工が、
出岬に霞んだ
捨小舟という形ちで、
寂寞としてまだ一人居る。その方へ、ひょこひょこ
行く。
ト頬被りは、じろりと見遣って、
「ざまあ見ろ、
巫女の
宰取、
活きた
兄哥の魂が分るかい。へッ、」と肩をしゃくりながら、ぶらりと見物の
群を離れた。
ついでに言おう、人間を挟みそうに、籠と
竹箸を構えた薄気味の悪い、
黙然の
屑屋は、古女房が、そっち側の二人に、縁台を進めた時、ギロリと踏台の横穴を
覗いたが、それ切りフイと居なくなった。……
いま、腰を掛けた踏台の中には、ト松崎が見ても一枚の屑も無い。
十
「おい、出て来ねえな、おお、大入道、出じゃねえか、遅いなあ。」
少々舞台に間が明いて、
魅まれたなりの
饂飩小僧は、てれた顔で、……幕越しに楽屋を呼んだ。
幕の
端から、以前の
青月代が、
黒坊の気か、
俯向けに
仮髪ばかりを
覗かせた。が、そこの絵の、狐の面が抜出したとも見えるし、古綿の黒雲から、新粉細工の三日月が覗くとも
視められる。
「まだじゃねえか、まだお前、その
行燈がかがみにならねえよ……
科が抜けてるぜ、早く
演んねえな。」
と云って、すぽりと
引込む。――はてな、行燈が、かがみに化ける……と松崎は地の
凸凹する
蹈台の腰を乗出す。
同じ思いか、
面影も映しそうに、美しい
女は
凝と
視た。ひとり紳士は気の無い顔して、
反身ながらぐったりと
凭掛った、
杖の柄を手袋の尖で突いたものなり。
饂飩屋は、行燈に向直ると、誰も居ないのに、一人で、へたへたと
挨拶する。
「
光栄なさいまし。……直ぐと暖めて差上げます。今、もし、飛んだお前さん、馬鹿な目に逢いましてね、火も台なしでござります。へい、辻の橋の
玄徳稲荷様は、御身分柄、こんな
悪戯はなさりません。狸か
獺でござりましょう。迷児の迷児の、――と
鉦を
敲いて来やがって饂飩を八杯
攫らいました……お前さん。」
と
滑稽た眉毛を、寄せたり、離したり、目をくしゃくしゃと
饒舌ったが、
「や、
一言も、お返事なしだね、
黙然坊様。鼻だの、口だの、ぴこぴこ動いてばかり。……あれ、誰か客人だと思ったら――
私の顔だ――道理で、兄弟分だと
頼母しかったに……宙に流れる川はなし――
七夕様でもないものが、
銀河には映るまい。星も隠れた、
真暗、」
と
仰向けに、空を
視る、と仕掛けがあったか、頭の上のその板塀
越、幕の内か
潜らして、両方を竹で張った、
真黒な布の
一張、
筵の上へ、ふわりと投げて
颯と拡げた。
と見て、知りつつ松崎は、
俄然として雲が
湧いたか、とぎょっとした、――電車はあっても――本郷から
遠路を掛けた当日。
麗さも
長閑さも、余り
積って身に染むばかり暖かさが過ぎたので、思いがけない
俄雨を
憂慮ぬではなかった処。
彼方の新粉屋が、ものの遠いように霞むにつけても、家路
遥かな思いがある。
また、
余所は知らず、目の前のざっと劇場ほどなその空屋の
裡には、本所の空一面に
漲らす黒雲は、畳込んで余りあるがごとくに見えた。
暗い舞台で、小さな、そして
爺様の饂飩屋は、おっかな、
吃驚、わなわな
大袈裟に震えながら、
「何に映る……
私が顔だ、――
行燈か。まさかとは思うが、行燈か、行燈か?……返事をせまいぞ。この上
手前に口を利かれては
叶わねえ。何分頼むよ。……
面の皮は、雨風にめくれたあとを、幾たびも張替えたが、火事には人先に持って
遁げる何十年
以来の
古馴染だ。
馴染がいに口を利くなよ、
私が呼んでも口を利くなよ。はて、何に映る顔だ知らん。……口を利くな、口を利くな。」
……と背の低いのが、
滅入込みそうに、
大な
仮髪の
頸を
窘め、ひッつりそうな
拳を二つ、耳の処へ
威すがごとく、
張肱に、しっかと握って、腰をくなくなと、抜足差足。
で、目を据え、眉を張って、行燈に擦寄り擦寄り、
「はて、何に映った顔だ知らん、行燈か、行燈か、……口を利くなよ、行燈か。」
と
熟と
覗く。
途端に、沈んだが、通る声で、
「私……行燈だよ。」
「わい、」と叫んで、饂飩屋は舞台を
飛退く。
十一
この古行燈が、
仇も
情も、赤くこぼれた
丁子のごとく、
煤の中に色を
籠めて消えずにいて、それが、針の穴を通して、不意に口を利いたような女の声には、松崎もぎょっとした。
饂飩屋は
吃驚の呼吸を引いて、きょとんとしたが
「
俺あ
可厭だぜ。」と押殺した
低声で
独言を云ったと思うと、ばさりと
幕摺れに、ふらついて、隅から
蹌踉け込んで見えなくなった。
時に――私……行燈だよ、――と云ったのは、美しい
女である事に、松崎も心附いて、――驚いて楽屋へ
遁げた
小児の
状の
可笑さに、
莞爾、
笑を含んだ、燃ゆるがごときその
女の唇を見た。
「つい言ッちまったのよ。」
と紳士を見向く。
「困った人だね、」
と
杖を取って、立構えをしながら、
「さあ、行こうか。」
「
可いわ、もうちっと……」
「
恐怖いよう。」
と子守の
袂にぶら下った小さな児が袖を
引張って言う。
「こわいものかね、行燈じゃないわ。……綺麗な奥さんが言ったんだわ。」とその子守は
背の子を
揺り上げた。
舞台を取巻いた大勢が、わやわやとざわついて、同音に、声を揚げて
皆笑った……小さいのが
二側三側、ぐるりと黒く
塊ったのが、変にここまで間を
措いて、思出したように、
遁込んだ饂飩屋の滑稽な図を笑ったので、どっというのが、一つ、町を越した空屋の裏あたりに響いて、壁を隔てて聞くようにぼやけて寂しい。
「東西、東西。」
青月代が、例の
色身に白い、
膨りした
童顔を
真正面に舞台に出て、猫が耳を
撫でる……トいった風で、手を挙げて、見物を制しながら、おでんと書いた角行燈をひょいと廻して、ト立直して裏を見せると、かねて用意がしてあった……その
一小間が
藍を濃く
真青に塗ってあった。
行燈が化けると云った、これが、かがみのつもりでもあろう、が、上を
蔽うた黒布の下に、色が沈んで、際立って、ちょうど、間近な縁台の、美しい
女と
向合せに据えたので、雪なす
面に影を投げて、
媚かしくも
凄くも見える。
青月代は
飜然と
潜った。
それまでは、どれもこれも、吹矢に当って、バッタリと細工ものが
顕れる形に、幕へ出入りのひょっこらさ加減、絵に
描いた、
小松葺、大きな
蛤十ばかり一所に転げて出そうであったが。
舞台に姿見の
蒼い時よ。
はじめて、白玉のごとき姿を顕す……一
人の
立女形、撫肩しなりと
脛をしめつつ
褄を取った
状に、
内端に
可愛らしい足を運んで出た。糸も掛けない素の
白身、雪の
練糸を繰るように、しなやかなものである。
背丈
恰好、それも十一二の男の児が、文金高髷の
仮髪して、
含羞だか、それとも芝居の筋の
襯染のためか、胸を
啣える
俯向き加減、前髪の冷たさが、身に染む風情に、すべすべと白い肩をすくめて、乳を隠す
嬌態らしい、片手柔い
肱を外に、指を反らして、ひたりと附けた、その
頤のあたりを
蔽い、額も見せないで、なよなよと
筵に雪の
踵を散らして、
静に、行燈の紙の青い前。
十二
綿かと思う
柔な背を見物へ
背後むきに、その
擬えし姿見に向って、筵に坐ると、しなった、細い線を、左の
白脛に引いて片膝を立てた。
この膝は、松崎の方へ向く。右の
掻込んで、その腰を据えた方に、美しい
女と紳士の縁台がある。
まだ顔を見せないで、打向った青行燈の
抽斗を抜くと、そこに小道具の支度があった……
白粉刷毛の、夢の
覚際の
合歓の花、ほんのりとあるのを取って、
媚かしく化粧をし出す。
知ってはいても、それが男の児とは思われない。
耳朶に
黒子も見えぬ、
滑かな美しさ。松崎は、むざと
集って血を吸うのが
傷しさに、
蹈台の
蚊をしきりに気にした
蹈台の蚊は、おかしいけれども、はじめ腰掛けた時から、間を
措いては、ぶんと一つ、ぶんとまた一つ、穴から
唸って出る……足と足を
摺合わせたり、
頭を
掉ったり、
避けつ払いつしていたが、日脚の加減か、この折から、ぶくぶくと
溝から泡の噴く
体に数を増した。
人情、なぜか、筵の上のその
皓体に
集らせたくないので、
背後へ、町へ、両の袂を叩いて払った。
そして、この血に
餓えて
呻く虫の、次第に
勢を加えたにつけても、天気模様の
憂慮しさに、居ながら見渡されるだけの空を
覗いたが、どこのか
煙筒の煙の、一方に
雪崩れたらしい
隈はあったが、黒しと
怪む雲はなかった。ただ、町の
静さ。板の間の
乾びた、人なき、広い湯殿のようで、暖い霞の輝いて
淀んで、
漾い且つ
漲る中に、蚊を思うと、その形、むらむら波を泳ぐ
海月に似て、
槊を
横えて、餓えたる虎の唄を唄って
刎ねる。……
この影がさしたら、四ツ目あたりに咲き掛けた紅白の
牡丹も曇ろう。……
嘴を鳴らして、ひらりひらりと縦横無尽に踊る。
が、
現なの
光景は、
長閑な
日中の、それが極度であった。――
やがて、蚊ばかりではない、舞台で狐やら狸やら、太鼓を
敲き笛を吹く……本所名代の楽器に合わせて、猫が三疋。
小夜具を
被って、仁王
立、一斗
樽の三ツ目入道、裸の
小児と一所になって、さす手の扇、ひく手の手拭、揃って人も無げに
踊出した頃は、
俄雨を運ぶ機関車のごとき黒雲が、音もしないで、浮世の
破めを
切張の、木賃宿の数の行燈、薄暗いまで屋根を圧して、むくむくと、両国橋から本所の空を渡ったのである。
次第は前後した。
これより
前、姿見に向った裸の児が、濃い化粧で、
襟白粉を襟長く、くッきりと
粧うと、カタンと言わして、
刷毛と一所に、白粉を行燈の
抽斗に
蔵った時、しなりとした、立膝のままで、見物へ、ひょいと顔を見せたと思え。
島田ばかりが
房々と、やあ、目も鼻も無い、のっぺらぼう。
唇ばかり、埋め果てぬ、雪の紅梅、
蕊白く
莞爾した。
はっと美しい
女は身を引いて、肩を
摺った羽織の手先を白々と紳士の膝へ。
額も頬も一分、三分、小鼻も隠れたまで、いや塗ったとこそ言え。白粉で消した顔とは思うが、松崎さえ一目見ると変な気がした。
そこへ、
件の三ツ目入道、どろどろどろと
顕れけり
十三
樽を
張子で、鼠色の大入道、金銀張分けの大の
眼を、行燈
見越に
立はだかる、と縄からげの貧乏
徳利をぬいと突出す。
「
丑満の鐘を待兼ねたやい。……わりゃ雪女。」
とドス声で
甲を殺す……この
熊漢の前に、月からこぼれた白い
兎、天人の落し児といった風情の、
一束ねの、雪の
膚は、さては
化夥間の雪女であった。
「これい、化粧が出来たら酌をしろ、ええ。」
と、どか
胡坐、で、着ものの
裾が
堆い。
その地響きが膚に
応えて、震える
状に、脇の下を
窄めるから、雪女は横坐りに、
「あい、」と手を
支く。
「そりゃ、」
と徳利を突出した、入道は懐から、
鮑貝を
掴取って、胸を広く、腕へ引着け、
雁の首を
捻じるがごとく白鳥の口から
注がせて、
「わりゃ、わなわなと震えるが、
素膚に感じるか、いやさ、寒いか。」と、じろじろと
視めて寛々たり。
雪女細い声。
「はい……冷とうござんすわいな。」
「ふん、それはな、
三途河の
奪衣婆に
衣を
剥がれて、まだ間が無うて
馴れぬからだ。ひくひくせずと堪えくされ。雪女が寒いと
吐すと、火が火を熱い、水が水を冷い、貧乏人が
空腹いと云うようなものだ。
汝が勝手の我ままだ。」
「
情ない事おっしゃいます、辛うて辛うてなりませんもの。」
とやっぱり
戦く。その姿、あわれに寂しく、
生々とした白魚の亡者に似ている。
「もっともな、わりゃ……」
言い掛けた時であった。この見越入道、ふと絶句で、
大な樽の
面を振って、三つ目を六つに
晃々ときょろつかす。
幕の蔭と思う絵の裏で、誰とも知らず、静まった藤の房に、
生温い風の染む
気勢で、
「……
紅蓮、大紅蓮、紅蓮、大紅蓮……」と
後見をつけたものがある。
「紅蓮、大紅蓮の地獄に
来って、」
と大入道は樽の首を
揺据えた。
「わりゃ雪女となりおった。が、魔道の
酌取、
枕添、
芸妓、
遊女のかえ名と云うのだ。
娑婆、人間の
処女で……」
また絶句して、うむと一つ、樽に
呼吸を詰めて
支えると、ポカンとした
叩頭をして、
「何だっけね、」
と可愛い声。
「お稲、」と雪女が小さく言った。
松崎は耳を澄ます。
と同時であった。
「……お稲、お稲さんですって、……」と目のふちに、薄く、行燈の青い影が
射した。美しい
女は、ふと紳士を見た。
「お
稲荷、稲荷さんと云うんだね、
白狐の化けた処なんだろう。」
わけもなくそう云って、紳士は、ぱっと
巻莨に火を点ずる。
その火が狐火のように見えた。
「ああ、そうなのね。」
美しい
女は
頷いたのである。
松崎も、聞いて、成程そうらしくも見て取った。
「むむ、そのお稲で居た時の身の上話、酒の
肴に聞かさんかい。や、ただわなわなと震えくさる、まだ間が無うて馴れぬからだ。こりゃ、」
と肩へむずと手を掛けると、ひれ伏して、雪女は溶けるように
潸然と泣く。
十四
「陰気だ陰気だ、
此奴滅入って気が浮かん、こりゃ、
汝等出て
燥げやい。」
三ツ目入道、懐手の袖を
刎ねて、
飽貝の杯を、
大く
弧を描いて楽屋を招く。
これの合図に、
相馬内裏古御所の管絃。笛、太鼓に
鉦を合わせて、トッピキ、ひゃら、ひゃら、テケレンどん、幕を
煽って、どやどやと異類異形が踊って
出でた。
狐が笛吹く、狸が太鼓。猫が三疋、赤手拭、すッとこ
被り、吉原かぶり、ちょと吹流し、と気取るも交って、猫じゃ猫じゃの拍子を合わせ、トコトンと
筵を踏むと、
塵埃立交る、舞台に赤黒い渦を巻いて、吹流しが腰をしゃなりと流すと、すッとこ被りが、ひょいと
刎ねる、と吉原被りは、ト招ぎの手附。
狸の面、と、狐の面は、差配の
禿と、
青月代の
仮髪のまま、饂飩屋の
半白頭は、どっち付かず、
鼬のような面を着て、これが鉦で。
時々、きちきちきちきちという。狐はお定りのコンを鳴く。狸はあやふやに、モウと
唸って、膝にのせた、腹鼓。
囃子に合わせて、猫が三疋、踊る、踊る、いや踊る事わ。
青い行燈とその前に
突伏した、雪女の島田のまわりを、ぐるりぐるりと廻るうちに、三ツ目入道も、ぬいと立って、のしのしと踊出す。
続いて
囃方惣踊り。フト合方が、がらりと替って、楽屋で
三味線の
音を入れた。
――必ずこの事、この事必ず、丹波の太郎に沙汰するな、この事、必ず、丹波の太郎に沙汰するな――
と揃って、
異口同音に呼ばわりながら、
水車を舞込むごとく、次第びきに、ぐるぐるぐる。……幕へ
衝と消える時は、何ものか居て、操りの糸を
引手繰るように
颯と隠れた。
筵舞台に残ったのは、
青行燈と雪女。
悄れて、一人、ただうなだれているのであった。
上なる黒い布は、ひらひらと重くなった……空は化物どもが惣踊りに踊る頃から、次第に黒くなったのである。
美しい
女は、はずして、膝の上に手首に掛けた、薄色のショオルを取って、撫肩の
頸に掛けて身繕い。
此方に松崎ももう立とうとした。
青月代が、ひょいと
覗いた。幕の隙間へ
頤を乗せて、
「誰か、おい、
前掛を貸してくんな、」と見物を左右に呼んだ。
「前掛を貸しておくれよ、……よう、誰でも。」
美しい
女から、七八人
小児を離れて、二人並んでいた子守の娘が、これを聞くと
真先にあとじさりをした。言訳だけも赤い紐の前掛をしていたのは、その二人ぐらいなもので、……他は皆、横撫での袖とくいこぼしの膝、光るのはただ
垢ばかり。
傍から、また饂飩屋が出て舞台へ立った。
「これから
女形が
演処なんだぜ。居所がわりになるんだけれど、今度は亡者じゃねえよ、
活きてる娘の役だもの。裸では
不可えや、
前垂を貸しとくれよ。誰か、」
「
後生だってば、」
と青月代も口を添える。
子守の娘はまた
退った。
幼い達は妙にてれて、舞台の前で、土をいじッて
俯向いたのもあるし、ちょろちょろ町の方へ立つのもあった。
「
吝れだなあ。」
饂飩屋がチョッ、舌打する。
「貸してくれってんだぜ、……きっと返すッてえに。……
可哀相じゃないか、雪女になったなりで裸で居ら。この、お稲さんに着せるんだよ。」
と青月代も前へ出て、雪女の背筋のあたりを冷たそうに、ひたりと叩いた……
「前掛でなくては。
不可いの?」
美しい人はすッと立った。
紳士は
仰向いて、妙な
顔色。
松崎の、うっかり帰られなくなったのは言うまでもなかろう。
十五
「兄さん、
他のものじゃ間に合わない?」
あきれ顔な舞台の二人に、美しい
女は親しげにそう云った。
「他の物って、」と青月代は、ちょんぼり眉で目をぱちくる。
「羽織では。」
美しい
女は
華奢な手を
衣紋に当てた。
「羽織なら、ねえ、おい。」
「ああ、そんな
旨え事はねえんだけれど、前掛でさえ、しみったれているんだもの、貸すもんか。それだしね、羽織なんて誰も持ってやしませんぜ。」
と饂飩屋は吐出すように云う。成程、羽織を着たものは、ものの
欠片も見えぬ。
「
可ければ、私のを貸してあげるよ。」
美しい
女は、
言の下に羽織を脱いだ、手のしないは、白魚が柳を
潜って、裏は
篝火がちらめいた、
雁がねむすびの紋と見た。
「
品子さん、」
紳士は留めようとして、ずッと立つ。
「
可いのよ、
貴方。」
と見返りもしないで、
「帯がないじゃないか、さあ、これが可いわ。」と一所に肩を
辷った、その白と、薄紫と、山が霞んだような派手な
羅のショオルを落してやる……
雪女は、早く心得て、ふわりとその羽織を着た、
黒縮緬の
紋着に
緋を
襲ねて、霞を腰に、前へすらりと結んだ姿は、あたかも
可し、
小児の丈に
裾を
曳いて、振袖長く、影も三尺、左右に水が垂れるばかり、その不思議な
媚しさは、貸小袖に魂が入って立ったとも見えるし、行燈の
灯を
覆うた
裲襠の
袂に、
蝴蝶が宿って、夢が


とも見える。
「
難有う、」
「奥さん難有う。」
互に、青月代と饂飩屋が、
仮髪を叩いて喜び顔。
雪女の、その……
擬えた……姿見に向って立つ後姿を、美しい
女は、と
視めて、
「島田も
可いこと、それなりで角かくしをさしたいようだわ……ああ、でも
扱帯を前帯じゃどう。
遊女のようではなくって、」
「構わないの、お稲さんが
寝衣の処だから、」
「ああ、ちょっと。」
と美しい
女が留める間に、聞かれた饂飩屋はツイと
引込む。
「あら、やっぱりお稲さん、お稲さんですわ、貴方。」
と言う。紳士を顧みた美しい
女の
睫が動いて、
目瞼が
屹と
引緊った。
「何、
稲荷だよ、おい、稲荷だろう。」
紳士も並んで、見物の
小児の上から、舞台へ
中折を
覗かせた。
「ねえ、この人の名は?……」
黒縮緬の雪女は、さすが一座に
立女形の見識を取ったか、島田の一さえ、
端然と済まして口を利こうとしないので、美しい
女はまた青月代に、そう
訊いた。
「嵐お萩ッてえの……東西々々。」
と
飜然と隠れる。
「
芸名ではない。役の娘の名を聞かしておくれ、何て云うの、よ、お前。」
と美しい
女は、やや
急込んで言って、病身らしく胸を
圧えた。脱いだ羽織の、肩寒そうな一枚小袖の
嬌娜姿、雲を
出でたる月かと
視れば、離れた雲は、雪女に影を宿して、墨絵に
艶ある
青柳の枝。
春の月の
凄きまで、
蒼青な、姿見の前に、立直って、
「お稲です。」
と云って、ふと見向いた顔は、目鼻だち、水に
朧なものではなかった。
十六
舞台は居所がわりになるのだ、と楽屋のものが云った、――
俳優は人に知らさないのを手際に化ものの踊るうち、
俯向伏している間に、玉の
曇を
拭ったらしい。……眉は
鮮麗に、目はぱっちりと
張を持って、
口許の
凜とした……やや
強いが、
妙齢のふっくりとした、濃い
生際に
白粉の際立たぬ、色白な娘のその顔。
松崎は見て
悚然とした……
名さえ――お稲です――
肖たとは
迂哉。今年
如月、紅梅に
太陽の白き朝、同じ町内、
御殿町あたりのある家の門を、
内端な、しめやかな
葬式になって出た。……その日は霜が消えなかった――
居周囲の細君女房連が、湯屋でも、
髪結でもまだ風説を
絶さぬ、お稲ちゃんと云った評判娘にそっくりなのであった。
「私も今はじめて聞いて
吃驚したの。」
その時、松崎の女房は、二階へばたばたと
駈上り、御注進と云う処を、
鎧が
縞の
半纏で、
草摺短な格子の前掛、ものが無常だけに、ト手は
飜さず、すなわち尋常に
黒繻子の襟を合わせて、火鉢の向うへ中腰で細くなる……
髪も
櫛巻、
透切れのした繻子の帯、この段何とも
致方がない。亭主、号が春狐であるから、名だけは
蘭菊とでも
奢っておけ。
春狐は小机を横に、
座蒲団から
斜になって、
「へーい、ちっとも知らなかった。」
「私もさ……今ね、内の出窓の前に、お
隣家の
女房さんが立って、
通の方を見てしくしく泣いていなさるから、どうしたんですって聞いたんです。可哀相に……お稲ちゃんのお
葬式が出る所だって、
他家の
娘でも
最惜くってしようがないって云うんでしょう。――そう云えば成程何だわね、この節じゃ
多日姿を見なかったわね、よくお前さん、それ、あの
娘が通ると云うと、箸をカチリと置いて出窓から、お
覗きだっけがね。」
苦笑いで、春狐子。
「余計な事を言いなさんな、……しかし
惜いね、ちょっとないぜ、ここいらには、あのくらいな一枚絵は。」
「うっかり下町にだってあるもんですか。」
「などと云うがね、お前もお長屋月並だ。……生きてるうちは、そうまでは
讃めない
奴さ、顔がちっと
強すぎる、何のってな。」
「ええ、それは
廂髪でお茶の水へ通ってた時ですわ。もう去年の春から、娘になって、島田に結ってからといったら、……そりゃ、くいつきたいようだったの。
髮のいい事なんて、もっとも
盛も盛だけれども。」
「
幾歳だ。」
「十九……明けてですよ。」
「ああ、」と思わず
煙管を落した。
「勿論、お婿さんは知らずらしいね。」
「ええ、そのお婿さんの事で、まあ亡くなったんですよ。」
はっと思い、
「や、自殺か。」
「おお
吃驚した……慌てるわねえ、お前さんは。いいえ、自殺じゃないけれども、私の考えだと、やっぱり
同一だわ、自殺をしたのも。」
「じゃどうしたんだよ。」
「それがだわね。」
「
焦ったい女だな。」
「ですから
静にお聞きなさいなね、稲ちゃんの内じゃ、成りたけ
内証に
秘していたんだそうですけれど、あの
娘はね、去年の夏ごろから――その事で――
狂気になったんですって。」
「あの、綺麗な
娘が。」
「まったくねえ。」
と
俯向いて、も一つ半纏の襟を合わせる。
十七
「
妙齢で、あの
容色ですからね、もう
前にから、いろいろ縁談もあったそうですけれど、お
極りの長し短しでいた処、お稲ちゃんが二三年前まで上っていなすった……でも年二季の
大温習には高台へ出たんだそうです……長唄のお師匠さんの橋渡しで。
家は千駄木辺で、お父さんは陸軍の大佐だか少将だか、それで
非職てるの。その息子さんが新しい法学士なんですって……そこからね、是非、お嫁さんに
欲いって言ったんですとさ。
途中で、時々顔を見合って、もう見合いなんか済んでるの。男の方は大変な
惚方なのよ。もっとも家同士、知合いというんでも何でもないんですから、口を利いたことなんて、そりゃなかったんでしょうけれど、ほんに思えば思わるるとやらだわね。」
半纏着の蘭菊は、指のさきで、火鉢の
縁へちょいと当って、
「お稲ちゃんの方でも、嬉しくない事はなかったんでしょう。……でね、内々その気だったんだって、……お師匠さんは云うんですとさ、――
隣家の
女房さんの、これは
談話よ。」
まだ卒業前ですから、お
取極めは、いずれ学校が済んでからッて事で、のびのびになっていたんだそうですがね。
去年の春、お茶の水の試験が済むと、さあ、その
翌日にでも結納を取替わせる
勢で、男の方から
急込んで来たんでしょう。
けれども、こっちぢゃ
煮切らない、というのがね――あの、
娘にはお
母さんがありません。お父さんというのは病身で、滅多に
戸外へも出なさらない、何でも中気か何からしいんです――後家さんで、その妹さん、お稲ちゃんには叔母に当る、お婆さんのハイカラが取締って、あの
娘の兄さん夫婦が、すっかり内の事を
遣っているんだわね。
その兄さんというのが、何とか云う、朝鮮にも、満洲とか、台湾にも出店のある、
大な株式会社に、才子で勤めているんです。
その何ですとさ、会社の重役の
放蕩息子が、ダイヤの指輪で、春の
歌留多に、ニチャリと、お稲ちゃんの手を
圧えて、おお
可厭だ。」
と払う真似して、
「それで、落第、もう沢山。」
「どうだか。」
「ほんとうですとも。それからそのニチャリが、」
「右のな、」
と春狐は、ああと歎息する。
「ええ、ぞっこんとなって、お稲ちゃんをたってと云うの、これには
嫂が一はながけに乗ったでしょう。」
「
極りでいやあがる。」
「大分、お芝居になって来たわね。」
「余計な事を言わないで……それから、」
「兄さんの才子も、やっぱりその気だもんですからね、いよいよという
談話の時、きっぱり兄さんから断ってしまったんですって――無い御縁とおあきらめ下さい、か何かでさ。」
「その法学士の方をだな、――無い御縁が
凄じいや、てめえが勝手に人の縁を、
頤にしゃぼん玉の
泡沫を塗って、鼻の下を伸ばしながら横撫でに
粧やあがる西洋
剃刀で切ったんじゃないか。」
「ねえ……
鬱いでいましたとさ、お稲ちゃんは、
初心だし、世間見ずだから、口へ出しては何にも言わなかったそうだけれど……段々、御飯が少くなってね、
好なものもちっとも食べない。
その癖、身じまいをする事ったら、髪も朝に夕に撫でつけて、
鬢の毛一筋こぼしていた事はない。肌着も毎日のように取替えて、欠かさずに湯に入って、綺麗にお化粧をして、寝る時はきっと
寝白粧をしたんですって。
皓歯に
紅よ、
凄いようじゃない事、夜が更けた、
色艶は。
そして二三度見つかりましたとさ。起返って、帯をお太鼓にきちんと
〆めるのを――お稲や、何をおしだって、叔母さんが
咎めた時、――私はお
母さんの
許へ行くの――
そう云ってね、
枕許へちゃんと坐って、ぱっちり目を開けて天井を見ているから、起きてるのかと思うと、
現で正体がないんですとさ。
思詰めたものだわねえ。」
十八
「まだね。危いってないの。聞いても、ひやひやするのはね、夜中に
密と
箪笥の
抽斗を開けたんですよ。」
「法学士の見合いの写真?……」
「いいえ、そんなら
可いけれど、短刀を
密と持ったの、お母さんの
守護刀だそうですよ……そんな身だしなみのあったお母さんの娘なんだから、お稲ちゃんの、あの、きりりとして……
妙齢で可愛い中にも品の
可かった事を御覧なさい。」
「余り言うのはよせ、何だか気を受けて、それ、床の間の花が、」
「あれ、」
と見向く、と
朱鷺色に白の
透しの
乙女椿がほつりと一輪。
熟と
視たが、狭い座敷で袖が届く、女房は、くの字に身を開いて、色のうつるよう
掌に据えて
俯向いた。
隙間もる冷い風。
「ああ、四辻がざわざわする、お
葬式が行くんですよ。」
と前掛の片膝、障子へ片手。
「二階の
欄干から見る
奴があるものか。見送るなら
門へお出な。」
「
止しましょう、おもいの種だから……」
と胸を抱いて、
「この一輪は蔭ながら、お
手向けになったわね。」と、鼻紙へ
密と置くと、冷い風に淡い
紅……女心はかくやらむ。
窓の障子に薄日が
映した。
「じゃ死のうという短刀で怪我でもして、病院へ入ったのかい。」
「いいえ、それはもう、家中で要害が厳重よ。寝る時分には、切れものという切れものは、そっくり一つ所へ
蔵って、
錠をおろして、兄さんがその
鍵を握って寝たんだっていうんですもの。」
「ははあ、重役の
忰に奉って、手繰りつく出世の
蔓、お大事なもんですからな。……会社でも鍵を預る男だろう。あの娘の兄と云えば、まだ若かろうに何の真似だい。」
「お稲ちゃんは、またそんなでいて、しくしく泣き暮らしてでも、お
在だったかと思うと、そうじゃないの……
精々裁縫をするんですって。自分のものは、肌のものから、足袋まで、綺麗に片づけて、
火熨斗を掛けて、ちゃんと
蔵って、それなり手を通さないでも、ものの十日も
経つと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは、兄さんの
嬰児のおしめさえ折りめの着くほど洗濯してさ。」
「おやおや、兄の
嬰児の洗濯かね。」
「
嫂というのが、ぞろりとして何にもしやしませんやね。またちょっとふめるんだわ。そりゃお稲ちゃんの
傍へは
寄附けもしませんけれども。それでもね、妹が美しいから負けないようにって、――どういう
了簡ですかね、兄さんが
容色望みで
娶ったっていうんですから……
小児は二人あるし、
家は大勢だし、
小体に暮していて、別に女中っても居ないんですもの、お
守りから何から、
皆、お稲ちゃんがしたんだわ。」
「ははあ、その児だ……」
ともすると、――それが夕暮が多かった――
嬰児を
背負って、別にあやすでもなく、結いたての島田で、夕化粧したのが、顔をまっすぐに、
清い目を

って、
蝙蝠も柳も無しに、何を見るともなく、
熟と暮れかかる
向側の屋根を
視めて、
其家の
門口に
彳んだ姿を、松崎は両三度、通りがかりに見た事がある。
面影は、その時の見覚えで。
出窓の
硝子越に、娘の方が
往かえりの節などは、一体
傍目も
触らないで、竹をこぼるる露のごとく、すいすいと
歩行く
振、打水にも
褄のなずまぬ、はで姿、と思うばかりで、それはよくは目に留まらなかった。
が、思い当る……
葬式の出たあとでも、お稲はその身の
亡骸の、白い
柩で
行く
状を、あの、
門に一人立って、さも
恍惚と見送っているらしかった。
十九
女房は
語続けた――
「お稲ちゃんが、そんなに美しく身のまわりの始末をしたのも、あとで人に見られて恥かしくないように
躾んでいたんだわね――そして隙さえあれば、直ぐに死ぬ気で居たんでしょう、寝しなにお化粧をするのなんか。
ですから、病院へ入ったあとで、針箱の
抽斗にも、
畳紙の中にも、
皺になった千代紙一枚もなく……
油染みた手柄
一掛もなかったんですって。綺麗にしておいたんだわ……友達から来た手紙なんか、中には焼いたのもあるんですって、……心掛けたじゃありませんか。
惜まれる
娘は違うわね。
ぐっと
取詰めて、気が違った日は、晩方、
髪結さんが来て、鏡台に向っていた時ですって。夏の事でね、庭に
紫陽花が咲いていたせいか、知らないけれど、その姿見の
蒼さったら、月もささなかったって云うんですがね。――そして、お稲ちゃんのその時の顔ぐらい、色の白いって事は覚えないんですとさ――
髪結さんが、
隣家の
女房へ
談話なんです。
同一のが廻りますからね。
隣家と、お稲ちゃん
許と、
同一のは、そりゃ
可いけれど、まあ、飛んでもない事……その法学士さんの
家が、一つ髪結さんだったんでしょう。だもんだから、つい、その頃、法学士さんに、
余所からお嫁さんが来て、……箱根へ新婚旅行をして帰った日に頼まれて行って、初結いをしたって事を……
可ござんすか……お稲ちゃんの島田を結いながら、髪結さんが話したんです。」
「ああ、悪い。」
と春狐は聞きながら、眉を
顰めた。
同じように、
打顰んで、蘭菊は、つげの櫛で
鬢の毛を、ぐいと撫でた。
「……気を附けないと……何でも髪結さんが、得意先の女の髪を
一条ずつ取って来て、
内証で人のと人のと結び合わせて
蔵っておいて御覧なさい。
世間は直ぐに
戦争よりは余計乱れると、私、思うんですよ。
お稲さんは黙って
俯向いていたんですって。左挿しに、毛筋を通して銀の
平打を挿込んだ時、先が
突刺りやしないかと思った。はっと髪結さんが抜戻した
発奮で、飛石へカチリと落ちました。……
――
口惜しい――とお稲ちゃんが言ったんですって。
根揃え自慢で
緊めたばかりの
元結が、プッツリ切れ、背中へ音がして
颯と乱れたから、髪結さんは尻餅をつきましたとさ。
でも、髪結さんは、あの
娘の髪の事ばかり言って
惜がってるそうですよ。あんな、美しい、
柔軟な、
艶の
可い髪は見た事がないってね、――
死骸を病院から引取る時も、こう横に抱いて、看護婦が二人で担架へ移そうとすると、背中から、ずッとかかって、裾よりか長うござんしたって……ほんとうに丈にも余るというんだわね。」
「ああ……聞いても
惜い……何のために、髪までそんなに美しく世の中へ生れて来たんだ。」
春狐は思わず、
詰るがごとく
急込んで火鉢を
敲いた。
「ねえ、私にだって分りませんわ。」
「で、どうしたんだい。」
「お稲ちゃんは、髪を結った、その時きり、夢中なの。別に
駈出すの、手が
掛るのって事はなかったんだそうですけれど、たださえ細った食が、もうまるっきり通りますまい。
賺しても、叱っても。
しようがないから、病院へ入れたんです。お医者さんも
初から首をお
傾げだったそうですよ。
まあね。それでも出来るだけ手当をしたにはしたそうだけれど、やっぱり、……ねえ……おとむらいになってしまって――」
と
薄りした目のうちが、
颯とさめると、ほろりとする。
二十
春狐は肩を
聳かした。
「なったんじゃない……
葬式にされたんだ。殺されたんだよ。だから言わない事じゃない、言語道断だ、
不埒だよ。妹を
餌に、
鰌が滝登りをしようなんて。」
「ええ、そうよ……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もう
不可ないっていう時分から、
酷く何かを気にしてさ。
嬰児が先に死ぬし、それに、この
葬式の中だ、というのに、
嫂だわね、御自慢の細君が、またどっと病気で寝ているもんだから、ああ稲がとりに来たとりに来たって、蔭ではそう云っていますとさ。」
「待っていた、そうだろう。その何だ、ハイカラな叔母なんぞを血祭りに、家中
鏖殺に願いたい。ついでにお父さんの中気だけ治してな。」と妙に笑った。
「まあ、」
と目を

って、
「
串戯じゃないわ、人の気も知らないで。」
「無論、串戯ではないがね、女言
濫りに信ずべからず、半分は嘘だろう。」
「いいえ!」
「まあさ、お前の前だがね、隣の
女房というのが、また、とかく
大袈裟なんですからな。」
「勝手になさいよ、人に散々
饒舌らしといて、嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね。」
と乙女椿に
頬摺りして、鼻紙に据えて立つ……
実はそれさえ身に染みた。
床の間にも残ったが、と見ると、
莟の堅いのと、
幽に開いた二輪のみ。
「ちょっと、お待ち。」
「
何、」と
襖に手を掛ける。
「でも、少し気になるよ、肝心、
焦れ
死をされた、法学士の方は、別に聞いた沙汰なしかい。」
「
先方でもね、お稲ちゃんがその容体だってのを聞いて、それはそれは気の毒がってね――法学士さんというのが、その若い奥さんに、真になって言ったんだって――お前は二度目だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、
確に結婚したつもりだって――」
春狐はふと黙ってそれには答えず……
「ああ、その椿は、成りたけ川へ。」
「流しましょうね、ちょっと拝んで、」
と二階を下りる
[#「 と二階を下りる」は底本では「「と二階を下りる」]、……その一輪の
朱鷺色さえ、消えた娘の面影に立った。
が、幻ならず、最も目に刻んで忘れないのは、あの、夕暮を、
門に立って、
恍惚空を
視めた、およそ宇宙の極まる所は、艶やかに且つ黒きその一点の秘密であろうと思う、お稲の双の瞳であった。
同じその瞳である。同じその面影である。……
――お稲です――
と云って、振向いた時の、舞台の顔は、あまつさえ、
凝えたにせよ、向って姿見の
真蒼なと云う
行燈があろうではないか。
美しい
女は
屹と紳士を振向いた。
「
貴方。」
若い紳士は、
杖を小脇に、細い
筒袴で、
伸掛って
覗いて、
「稲荷だろう、おい、狐が化けた所なんだろう。」と
中折の
廂で
押つけるように言った。
羽織に、ショオルを前結び。またそれが、人形に着せたように、しっくりと姿に合って、
真向きに直った顔を見よ。
「いいえ、私はお稲です。」
紳士は、射られたように、縁台へ
退った。
美しい女の
褄は、
真菰がくれの
花菖蒲、で、すらりと
筵の端に
掛った……
「ああ、お稲さん。」
と、あたかもその人のように呼びかけて、
「そう。そして、どうするの。」
お稲は黙って顔を見上げた。
小さなその姿は、ちょうど、美しい
女が、脱いだ羽織をしなやかに、
肱に掛けた位置に、なよなよとして見える。
「
止せ!品子さん。」
「
可いわ。」
「見っともないよ。」
「私は構わないの。」
二十一
「ねえ、お稲さん、どうするの。」
とまた優しく聞いた。
「どうするって、何、小母さん。」
役者は、ために羽織を脱いだ
御贔屓に対して、舞台ながらもおとなしい。
「あのね、この芝居はどういう
脚色なの、それが聞きたいの。」
「小母さん見ていらっしゃい。」
と云った。
その
間も、縁台に掛けたり、立ったり、若い紳士は気が気ではなさそうであった。
「おい、もう帰ろうよ、暗くなった。」
雲にも、人にも、松崎は胸が
轟く。
「待ってて下さい。」
と見返りもしないで、
「見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かして下さいな。ね、いい
児だから。」
「だって、言ったって、芝居だって、
同一なんですもの、見ていらっしゃい。」
「急ぐから、先へ聞きたいの、ええ、
不可い。」
お稲は黙って
頭を
掉る。
「まあ、強情だわねえ。」
「強情ではござりませぬ。」
と思いがけず幕の中から、
皺がれた声を掛けた。美しい
女は瞳を注いだ、松崎は
衝と踏台を離れて立った。――その声は見越入道が絶句した時、――
紅蓮大紅蓮とつけて教えた、目に見えぬものと
同一であった。
「役者は役をしますのじゃ。何も知りませぬ。
貴女がお急ぎであらばの、
衣裳をお返し申すが
可い。」
と半ば舞台に
指揮をする。
「いいえ、羽織なんか、どうでも可いの、ただ私、気になるんです。役者が知らないなら、誰でも構いません。差支えなかったら聞かして下さい。一体ここはどこなんです。」
「六道の辻の小屋がけ芝居じゃ。」
と幕が動くように向うで言った。
松崎は、思わず紳士と目を見合った。
小児なぞは眼中にない、男は二人のみだったから。
美しい
女は、かえって恐れげもなくこう言った。
「ああ、分りました、そしてお前さんは?」
「いろいろの魂を
瓶に入れて持っている狂言方じゃ。たって望みならば聞かせようかの。」
「ええ、どうぞ。」
と
少々しいのが、あわれに聞えた。
「そこへ……
髪結が一人出るわいの。」
松崎は骨の硬くなるのを知ったのである。
「それが、そのお稲の髪を結うわいの。髪結の口からの、若い男と、美しい女と、祝言して仲の睦じい話をするのじゃ。
その男というのはの、聞かっしゃれ、お稲の恋じゃわいの、命じゃわいの。
もうもう今までとてもな、腹の
汚い、
慾に
眼の
眩んだ、兄御のために妨げられて、双方で思い思うた、繋がる縁が繋がれぬ、その切なさで、あわれや、かぼそい、白い女が、
紅蓮、大紅蓮、……」
ああ、
可厭な。
「
阿鼻焦熱の
苦悩から、手足がはり、
肉を
切こまざいた血の池の中で、
悶え
苦んで、半ば
活き、半ば死んで、生きもやらねば死にも
遣らず、死にも遣らねば生きも遣らず、
呻き悩んでいた所じゃ。
また万に一つもと、
果敢い、細い、
蓮の糸を頼んだ縁は、その話で、鼠の
牙にフッツリと食切られたが、……
ドンと落ちた穴の底は、
狂気の病院
入じゃ。この段替ればいの、狂乱の
所作じゃぞや。」
と言う。風が添ったか、紙の幕が、
煽つ――煽つ。お稲は
言につれて、すべて
科を思ったか、
振が手にうっかり乗って、
恍惚と目を

った。……
二十二
「どうするの、それから。」
細い、が
透る、力ある音調である。美しい
女のその声に、この折から、
背後のみ見返られて、雲のひだ
染みに
蔽いかかる、
桟敷裏とも思う町を、影法師のごとくようやく人脚の繁くなるのに気を取られていた、松崎は、また目を舞台に引附けられた。
舞台を見返す瞬間、むこうから、
先刻の編笠を
被った
鴉ような新粉細工が、ふと身を起して、うそうそと出て来るのを認めた。且つそれが、古綿のようにむくむくと、雲の白さが
一団残って、底に
幽に
蒼空の見える……
遥かに遠い所から、たとえば、ものの一里も離れた
前途から、黒雲を
背後に
曳いて
襲い来るごとく見て取られた。
それ、もうそこに、編笠を深く、舞台を
覗く。
いつの間にか帰って来て、三人に
床几を貸した古女房も交って立つ。
彼処に置捨てた屋台車が、
主を追うて自ら
軋るかと、
響が地を
畝って、
轟々と
雷の音。絵の藤も風に
颯と黒い。その幕の
彼方から、紅蓮、大紅蓮のその声、舌も赤う、ひらめくと覚えて、めらめらと
饒舌る。……
「まだ後が聞きとうござりますか。お稲は
狂死に死ぬるのじゃ。や、じゃが、
家眷親属の
余所で見る
眼には、鼻筋の透った、柳の眉毛、目を糸のように、
睫毛を黒う
塞いで、の、長煩らいの死ぬ身には
塵も
据らず、色が抜けるほど白いばかり。さまで
痩せもせず、
苦患も無しに、家眷息絶ゆるとは見たれども、の、心の
裡の
苦痛はよな、人の知らぬ苦痛はよな。その段を芝居で見せるのじゃ。」
「そして、後は、」
と美しい
女は、白い両手で、
確と紫の襟を
圧えた。
「死骸になっての、
空蝉の藻脱けた
膚は、人間の手を離れて
牛頭馬頭の腕に上下から
掴まれる。や、そこを見せたい。その
娘の
仮髪ぢゃ、お稲の髪には念を入れた。……島田が乱れて、糸も
切もかからぬ膚を黒く輝く、
吾が天女の後光のように包むを見さい。末は
踵に余って
曳くぞの。
鼓草の花の散るように、娘の
身体は幻に消えても、その黒髪は、
金輪、奈落、長く深く残って朽ちぬ。
百年、
千歳、
失せず、枯れず、次第に伸びて艶を増す。その髪千筋一筋ずつ、
獣が食えば野の草から、鳥が
啄めば峰の花から、同じお稲の、同じ姿
容となって、一人ずつ世に生れて、また
同一年、
同一月日に、親兄弟、家眷親属、
己が身勝手な
利慾のために、恋をせかれ、
情を破られ、縁を
断られて、
同一思いで、
狂死するわいの。あの、厄年の十九を見され、五人、三人
一時に
亡せるじゃろうがの。死ねば思いが黒髪に残ってその一筋がまた同じ女と生れる、生きかわるわいの。死にかわるわいの。
その誰もが皆揃うて、親兄弟を恨む、家眷親属を恨む、人を恨む、世を
恨む、人間五常の道乱れて、
黒白も分かず、日を
蔽い、月を塗る……魔道の
呪詛じゃ、何と! 魔の呪詛を見せますのじゃ、そこをよう見さっしゃるが
可い。
お稲の髪の、乱れて
摩く処をのう。」
「死んだお稲さんの髪が乱れて……」
と美しい
女は、
衝と
鬢に手を遣ったが、ほつれ毛よりも指が
揺いで、
「そして、それからはえ?」
と
屹と言う
「
此方、親があらば叱らさりょう。よう、それからと聞きたがるの、
根問いをするのは、
愛嬌が無うてようないぞ。
女子は分けて、うら問い
葉問をせぬものじゃ。」
雲の暗さが増すと、あたりに黒く艶が
映す。
その中に、美しい
女は、声も白いまで際立って、
「いいえ、聞きたい。」
二十三
「たって聞きたくばの、こうさしゃれ。」
幕の蔭で、
間を置いて、落着いて、
「お稲の芝居は死骸の黒髪の長いまでじゃ。ここでは知らぬによって、後は
去んで、二度
添どのに聞かっしゃれ、二度添いの
女子に聞かっしゃれ。」
「二度添とは? 何です、二度添とは。」
扱帯を手繰るように繰返して問返した。
「か、知らぬか、のう。二度添とはの、二度目の妻の事じゃ。男に取替えられた
玩弄の
女子じゃ。古い手に摘まれた、新しい花の事いの。
後妻じゃ、
後妻と申しますものじゃわいのう。」
ト一度
引かかったように見えたが、ちらりと
筵の端を、雲の影に踏んで、美しい
女の雪なす足袋は、友染
凄く舞台に乗った。
目を
明かに
凝と
視て、
「その後妻とは、二度添とは誰れ、そこに居る人。」と肩を斜め、手を、
錆びたが
楯のごとく、
行燈に
確と置く。
「おおおお、誰や知らぬ、その二度添というのはの、……お稲が
望が遂げなんだ、縁の切れた男に、後で
枕添となった
女子の事いの。……
娑婆はめでたや、虫の
可い、その男はの、我が手で水を向けて、娘の心を誘うておいて、弓でも矢でも貫こう心はなく、
先方の兄者に、ただ断り言われただけで指を
銜えて
退ったいの、その上にの。
我勝手や。娘がこがれ
死をしたと聞けば、おのれが顔をかがみで見るまで、
自惚れての。何と、早や
懐中に抱いた気で、お稲はその身の前妻じゃ。――
との、まだお稲が死なぬ前に、ちゃッと祝言した花嫁御寮に向うての、――お
主は後妻じゃ、二度目ぢゃと思うておくれい、――との。何と虫が
可かろうが。その芋虫にまた早や、
台も
蕊も
嘗められる、二度添どのもあるわいの。」
と言うかと思う、声の下で、
「ほほほほほ」
と口紅がこぼれたように、散って舞うよと花やかに笑った。
ああ、
膚が透く、心が映る、美しい
女の身の震う影が
隈なく
衣の
柳条に
搦んで揺れた。
「帰ろう、品子、何をしとる。」
紳士はずかずかと寄って、
「
詰らん、さあ、帰るんです、帰るんだ。」
とせり着くように云ったが、身動きもしないのを見て、
堪りかねた
体で、ぐいと美しい
女の肩を取った。
「帰らんですか、おい、帰らんのか。」
その手は
衝と袖で払われた。
「
貴方は何です。女の
身体に、勝手に手を触って
可いんですか。他人の癖に、……」
「何だ、他人とは。」
憤気になると、……
「舞台へ、靴で、誰、お前は。」
先刻から、ただ柳が
枝垂れたように行燈に
凭れていた、
黒紋着のその雪女が、りんとなって、両手で紳士の胸を
圧した。
トはっとした
体で、よろよろと
退ったが、腰も据らず、ひょろついて来て
縋るように寄ったと思うと、松崎は、不意にギクと手首を持たれた。
「
貴方を、
伴侶、伴侶と思います。あ、あ、あの、楽屋の中が、探険、……」
紳士は探険と言った。
「た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。」
「それはよくない。
不可ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」
「そ、そんなら、
妻を――人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、
引張出して下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。」
二十四
「いいえ、御心配には及びません。」
松崎は先んじられた……そして美しい
女は、
淵の測り知るべからざる
水底の深き瞳を、鋭く紳士の
面に流して
「私は
確です。発狂するなら貴方がなさい、
御令妹のお稲さんのために。」
と、
爽かに言った。
「私とは、他人なんです。」
「他人、何だ、何だ。」
と
喘ぐ、
「ですが、私に考えがあって、ちょっと
知己になっていたばかりなんです。」
美しい
女は、そんなものは、と
打棄る風情で、
屹とまた幕に向って立直った。
「そこに居る人……お前さんは不思議に、よく何か知っておいでだね、地獄、魔界の事まで御存じだね。
豪いのね。でも悪魔、
変化ばかりではない、人間にも
神通があります。私が問うたら、お前さんは、
去って聞けと言いましたね。
私は即座に、その二度
添、そのうわなり、その後妻に、今ここで聞きました。……
お稲さんが亡くなってから、あとのその後妻の芝居を、お前さんに聞かせましょうか。聞かせましょうか。それともお前さんは御存じかい。」
幕の内で、
「
朧気じゃ、
冥土の霧で朧気じゃ。はっきりした事を聞きたいのう。」
「ええ、聞かしてあげましょう。――男に取替えられた
玩弄は、古い手に摘まれた新しい花は、はじめは何にも知らなかったんです。清い、美しい、朝露に、
旭に向って咲いたのだと人なみに思っていました。ですが、蝶が来て、一所に遊ぶ間もなかったんです。
お稲さんの事を聞かされました。
玩弄は取替えられたんです、花は古い手に
摘れたんです……男は、潔い白い花を、後妻になれと言いました。
贅沢です、生意気です、行過ぎています。思った恋をし遂げないで、引込んだら断念めれば
可い、そのために恋人が、そうまでにして
生命を棄てたと思ったら、自分も死ねば
可いんです。死なれなければ、死んだ気になって、お念仏を唱えていれば可いんです。
力が、男に足りないで、殺させた女を前妻だ、と一人
極めにして、その上に、
新妻を後妻になれ、後妻にする、後妻の気でおれ、といけ
洒亜々々として、髪を光らしながら、
鰌髭の生えた口で言うのは何事でしょうね。」
「いよいよ発狂だ、人の前で見っともない。」
紳士は肩で息をした、その手は松崎に
縋っている。……
「ええ、人の前で、見っともないと云って、ここには
幾多居ます。指を折って数えるほどもない。夫が私を後妻にしたのは、大勢の前、世間の前、何千人、何万人の前だか知れません。
夫も夫、お稲さんの恋を破った。そこにおいでの他人も他人、
皆、女の
仇です。
幕の中の人、お聞きなさい。
二度添にされた後妻はね……それから夫の
言に、わざと喜んで従いました。
涙を流して同情して、いっそ、後妻と云うんなら、お稲さんの妹分になって、お稲さんにあやかりましょう。そのうまれ代わりになりましょう、と云って、表向きつてを求めて、お稲さんの実家に行って、そして私を――その後妻を――兄さんの妹分にして下さい、と言ったんです。
そこに居る他人は、涙を流して喜びました。もっとも、そこに居るようなハイカラさんは、
少い女が、兄さん、とさえ云ってやれば、何でも
彼でも涙を流すに
極っています。
私は
精々と
出入りしました。
先方からも毎日のように来るんです。そして兄さん、兄さんと、云ううちには、きっと袖を引くに
極っているんです。しかも奥さんは永々の病気の処、私はそれが望みでした。」
電が、南辻橋、北の辻橋、菊川橋、
撞木橋、川を射て、橋に輝くか、と
衝と町を
徹った。
二十五
「その望みが
叶ったんです。
そして、今日も、夫婦のような顔をして、二人づれで、お稲さんの墓参りに来たんです――夫は、私がこうするのを、お稲さんの
霊魂が乗りうつったんだと云って、無性に喜んでいるんです。
殺した妹の墓の土もまだ乾かないのに、私と一所に、墓参りをして、御覧なさい、
裁下ろしの洋服の襟に、乙女椿の花を挿して、お稲は、こういう娘だったと、平気で言います。
その気ですからね。」
紳士の
身体は靴を刻んで、
揺上がるようだったが、ト松崎が留めたにもかかわらず、かッと
握拳で耳を
圧えて、横なぐれに倒れそうになって、たちまち射るがごとく町を飛んだ。その
状は、人の見る目に
可笑くあるまい、
礫のごとき大粒の雨。
雨の音で、
寂寞する、と雲にむせるように息が
詰った。
「幕の内の人、」
美しい
女は、
吐息して、
更めて呼掛けて、
「お前さんが言った、その二度添いの
談話は分ったんですか。」
「それから、」
と雨に濡れたような声して言う。
「これが知れたら、男二人はどうなります。その親兄弟は? その家族はどうなると思います。それが幕なのです。」
「さて、その
後はどうなるのじゃ。」
「あら、……」
もどかしや。
「お前さんも、
根問をするのね。それで
可いではありませんか。」
「いや、
可うないわいの、まだ肝心な事が残ったぞ。」
「肝心な事って何です。」
「はて、
此方も、」
雨に、つと口を寄せた
気勢で、
「知れた事じゃ……肝心のその
二度添どのはどうなるいの。」
聞くにも堪えじ、と美しい
女の
眦が
上った。
「ええ、廻りくどい! 私ですよ。」
と激した
状で、
衝と
行燈を離れて、横ざまに幕の出入口に寄った。流るるような舞台の姿は、斜めに
電光に
颯と送られた。……
「分っているがの。」
と
鷹揚に言って、
「さてじゃ、
此方の身は
果はどうなるのじゃ。」
「…………」
ふと黙って、美しい
女は、行燈に、しょんぼりと残ったお稲の姿にその
眦を返しながら、
「お前さんの方の芝居は? この女はどうなる幕です。」
「おいの、……や、紛れて声を掛けなんだじゃで、お稲は
殊勝気に舞台じゃった。――雨に濡りょうに……折角の御見物じゃ、幕切れだけ、ものを見しょうな。」
と言うかと思うと、
唐突にどろどろと太鼓が鳴った。音を
綯交ぜに波打つ
雷鳴る。
猫が一疋と
鼬が出た。
ト
無慙や、行燈の前に、
仰向けに、
一個が
頭を、
一個が
白脛を取って、宙に釣ると、
綰ねの緩んだ
扱帯が抜けて、
紅裏が肩を
辷った……雪女は
細りとあからさまになったと思うと、すらりと落した、肩なぞえの手を枕に、がっくりと
頸が
下って、目を眠った。その面影に
颯と影、黒髪が
丈に乱れて、舞台より長く敷いたのを、兇悪異変な
面二つ、ただ
面のごとく行燈より高い所を、ずるずると引いて、美しい
女の前を通る。
幕に、それが消える時、風が
擲つがごとく、虚空から、――雨交りに、電光の青き中を、
朱鷺色が八重に縫う乙女椿の花一輪。はたと幕に当って崩れもせず……お稲の玉なす胸に留まって、たちまち隠れた。
美しい
女は
筵に
爪立って
身悶えしつつ、
「お稲さんは、お稲さんは、これからどうなるんです、どうなるんです。」
「むむ、くどいの、あとは魔界のものじゃ。雪女となっての、三つ目入道、大入道の、酌なと
伽なとしょうぞいの。わはは、」
と笑った。
美しい
女は、額を当てて、幕を
掴んで、
「生意気な事をお言いでない。幕の中の人、悪魔、私も女だよ、十九だよ……お稲さんと同じ死骸になるんだけれど、誰が、誰が、酌なんか、……可哀相にお稲さんを――女はね、女はね、そんな弱いものじゃない。私を御覧。」
はたた、はたた神。
南無三宝、電光に幕あるのみ。
「あれえ。」と聞えた。
瞬間、松崎は
猶予ったが、棄ておかれぬのは、続いて、編笠した烏と古女房が、
衝と幕を揚げて追込んだ事である。
手を掛けると、触るものなく、
篠つく雨の
簾が落ちた。
と見ると、声のしたものは何も見えない。三つ目入道、狐、狸、猫も鼬もごちゃごちゃと小さく固まっていたが、松崎の殺進に、気を打たれたか、ばらばらと、奥へ
遁げる。と
果しもなく野原のごとく広い中に、塚を崩した
空洞と思う、穴がぽかぽかと
大く
窪んで蜂の巣を拡げたような、その穴の中へ、すぽん、と
一個ずつ飛込んで、ト
貝鮹と云うものめく……頭だけ出して、ケラケラと笑って
失せた。
何等の魔性ぞ。
這奴等が群り居た、土間の雨に、
引
られた
衣の
綾を、
驚破や、
蹂躙られた美しい
女かと見ると、帯ばかり、
扱帯ばかり、
花片ばかり、葉ばかりぞ乱れたる。
途端に海のような、真昼を見た。
広場は荒廃して日久しき染物屋らしい。
縦横に並んだのは、いずれも絵の具の
大瓶である。
あわれ、その、せめて紫の瓶なれかし。鉄のひびわれたごとき、遠くの壁際の瓶の穴に、美しい
女の姿があった。
頭を編笠が抱えた、手も胸も、面影も、しろしろと、あの、舞台のお稲そのままに見えたが、ただ既に
空洞へ入って、底から足を
曳くものがあろう、美しい
女は、半身を上に曲げて、腰のあたりは隠れたのである。
雪のような胸には、同じ
朱鷺色の椿がある。
叫んで、走りかかると、瓶の
区劃に
躓いて倒れた手に、はっと
留南奇して、ひやひやと、氷のごとく触ったのは、まさしく面影を、垂れた
腕にのせながら土間を敷いて、長くそこまで
靡くのを認めた、美しい
女の黒髪の末なのであった。
この黒髪は二筋三筋指にかかって手に残った。
海に沈んだか、と目に何も見えぬ。
四ツの壁は、流るる
電と輝く雨である。とどろとどろと鳴るかみは、
大灘の波の
唸りである。
「おでんや――おでん。」
戸外を
行く、しかも女の声。
我に返って、
這うように、空屋の木戸を出ると、雨上りの星が
晃々。
後で伝え聞くと、
同一時、
同一所から、その法学士の新夫人の、行方の知れなくなったのは事実とか。……松崎は実は、うら
少い娘の余り
果敢なさに、亀井戸
詣の
帰途、その
界隈に、名誉の
巫子を尋ねて、そのくちよせを聞いたのであった……霊の
来った
状は秘密だから言うまい。
魂の
上る時、巫子は、
空を探って、何もない所から、
弦にかかった三筋ばかりの、長い黒髪を、お稲の
記念ぞとて授けたのを、とやせんとばかりで
迷の
巷。
黒髪は消えなかった。
大正二(一九一三)年五月