一
白鷺明神の
祠へ――一緑の森をその峰に仰いで、
小県銑吉がいざ詣でようとすると、案内に立ちそうな村の爺さんが少なからず難色を
顕わした。
この爺さんは、
「――おらが口で、
更めていうではねえがなす、内の
媼は、へい一通りならねえ
巫女でがすで。」……
若い時は、渡り仲間の、のらもので、
猟夫を片手間に、
小賭博なども
遣るらしいが、そんな事より、古女房が巫女というので、聞くものに一種の威力があったのはいうまでもない。
またその
媼巫女の、
巫術の
修煉の一通りのものでない事は、読者にも、間もなく知れよう。
一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧――街道わきの古寺、
西明寺の、見る影もなく
荒涼んだ乱塔場で偶然
知己になったので。それから――無住ではない、住職の和尚は、
斎稼ぎに出て留守だった――その寺へ伴われ、
庫裡から、ここに
准胝観世音の
御堂に詣でた。
いま、その
御廚子の前に、わずかに二三畳の
破畳の上に居るのである。
さながら
野晒の
肋骨を組合わせたように、
曝れ古びた、正面の閉した格子を透いて、向う峰の明神の森は小さな堂の屋根を包んで、街道を中に、石段は高いが、あたかも、ついそこに掛けた、一面墨絵の額、いや、ざっと彩った絵馬のごとく望まるる。
明神は女体におわす――爺さんがいうのであるが――それへ、詣ずるのは、石段の上の拝殿までだが、そこへ
行くだけでさえ、
清浄と
斎戒がなければならぬ。奥の
大巌の中腹に、祠が立って、
恭しく
斎き祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない――だから、参った処で、その
効はあるまい……と
行くのを留めたそうな
口吻であった。
「ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。」
時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、
朱唇、
白衣、
白木彫の、み姿の、片扉金具の抜けて、
自から開いた廚子から拝されて、
誰が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、
御袖、
裳に
紛いつつ、銑吉が参らせた
蝋燭の灯に、
格天井を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また
金色の影がさす。
「なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。」……
ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉の
皓きがごとく、そして
御髪が黒く、やっぱり唇は一点の紅である。
その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、
袴は、白とも、
緋ともいうが、夜の花の
朧と思え。……
どの道、
巌の奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、
偏に観世音を念じて、
彼処の面影を
偲べばよかろう。
爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂――絵馬の
裡へ、銑吉を上らせまいとするのである。
第一
可恐いのは、明神の拝殿の
蔀うち、すぐの
承塵に、いつの昔に奉納したのか
薙刀が
一振かかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、
切味の鋭さは、月の影に
翔込む
梟、小春日になく山鳩は構いない。いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は
寸断になって
蠢くほどで、虫、
獣も、今は恐れて、床、天井を損わない。
人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に
盲いて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御堂へ、村の娘を連込んだものがあった。隔ての
帳も、
簾もないのに――
――それが、何と、
明い月夜よ。明神様もけなりがッつろと、二十三夜の月待の
夜話に、森へ下弦の月がかかるのを見て
饒舌った。
不埒を働いてから十五年。四十を越えて、それまでは内々恐れて、黙っていたのだが、――
祟るものか、この通り、と鼻をさして、何の罰が当るかい。――舌も引かぬに、天井から、青い光がさし、その百姓屋の壁を抜いて、散りかかる柳の刃がキラリと座のものの目に輝いた時、色男の顔から血しぶきが立って、そぎ落された低い鼻が、
守宮のように、畳でピチピチと
刎ねた事さえある。
いま現に、町や村で、ふなあ、ふなあ、と鼻くたで、因果と、
鮒鰌を売っている、老ぼれがそれである。
村
若衆の堂の出合は、ありそうな事だけれど、こんな話はどこかに類がないでもなかろう。
しかし、なお押重ねて、爺さんが言った、……次の事実は、少からず銑吉を驚かして、胸さきをヒヤリとさせた。
余り里近なせいであろう。近頃では場所が移った。が、以前は、あの明神の森が、すぐ、いつも雪の降ったような白鷺の巣であった。近く大正の末である。一夜に二件、人間二人、もの
凄い異状が起った。
その一人は、近国の
門閥家で、地方的に名望権威があって、我が
儘の出来る
旦那方。人に、鳥博士と
称えられる、聞こえた鳥類の研究家で。家には、鳥屋というより、小さな博物館ぐらいの標本を備えもし、飼ってもいる。近県近郷の学校の教師、無論学生たち、志あるものは、都会、遠国からも見学に
来り
訪うこと、須賀川の
牡丹の観賞に
相斉しい。で、いずれの方面からも許されて、その旦那の紳士ばかりは、猟期、禁制の、時と、場所を問わず、学問のためとして、任意に、得意の猟銃の打金をカチンと打ち、生きた的に向って、ピタリと照準する事が出来る。
時に、その年は、獲ものでなしに、巣の白鷺の産卵と、生育状態の実験を思立たれたという。……
雛ッ子はどんなだろう。鶏や、雀と違って、ただ聞いても、
鴛鴦だの、白鷺のあかんぼには、博物にほとんど無関心な銑吉も、聞きつつ、早くまず耳を傾けた。
在所には、旦那方の泊るような旅館がない。片原の町へ宿を取って、鳥博士は、夏から秋へかけて、その時々。足繁くなると、ほとんど毎日のように、明神の森へ通ったが、思う壺の巣が見出せない。
――村に
猟夫が居る。
猟夫といっても、南部の
猪や、信州の熊に対するような、本職の、またぎ、おやじの
雄ではない。のらくらものの
隙稼ぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものに
困ずると、極めて内証に、森の白鷺を盗み
撃する。人目を
憚るのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、
我折れた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえどもで、夏の末のある
夜などは、ままよ
宿鳥なりと、占めようと、右の
猟夫が夜中
真暗な森を


ううちに、青白い光りものが、目一つの山の神のように動いて来るのに
出撞した。けだし光は旦那方の持つ懐中電燈であった。が、その時の鳥旦那の
装は、杉の葉を、頭や、腰のまわりに結びつけた、
面まで青い、森の悪魔のように見えて、猟夫を息を引いて驚倒せしめた。旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装の
彩を同じゅうするのが妙術だという。
それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで
真白にしていた、と話すのであった。
(……?……)
ところで、鳥博士も、
猟夫も、相互の仕事が、両方とも邪魔にはなるが、
幾度も顔を合わせるから、逢えば自然と口を利く。「ここのおつかい姫は、何だな、馬鹿に恥かしがり屋で居るんだな。なかなか産む処を見せないが。」「旦那、とんでもねえ罰が当る。」「撃つやつとどうかな。」段々秋が深くなると、「これまでのは渡りものの、やす女だ、
侍女も上等のになると、段々
勿体をつけて奥の方へ引込むな。」従って森の奥になる。「今度見つけた巣は一番上等だ。鷺の中でも貴婦人となると、産は雪の中らしい。人目を忍ぶんだな。
産屋も奥御殿という処だ。」「やれ、罰が当るてば。旦那。」「撃つやつとどうかな。」――雪の中に産育する、そんな鷺があるかどうかは知らない。爺さんの話のまま――
猟夫がこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪の
降頻る中を、朝の
間に森へ
行くと、幹と根と一面の白い上に、既に縦横に靴で踏込んだあとがあった。――畜生、こんなに
疾くから旦那が来ている。博士の、静粛な
白銀の林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、
睨まれては事こわしだ。
一旦破寺――西明寺はその一頃は無住であった――その
庫裡に引取って、炉に
焚火をして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲い入ると、段々に奥深く、やがて向うに青い水が
顕われた、土地で、大沼というのである。
今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹の
裾が、
大なる
紺青の姿見を
抱いて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い
上
が、
瑠璃の
皎殿を
繞り、
碧橋を渡って、風に舞うようにも
視められた。
この時、
煩悩も、
菩提もない。ちょうど
汀の銀の
蘆を、一むら肩でさらりと分けて、雪に
紛う鷺が一羽、人を払う
言伝がありそうに、すらりと立って歩む
出端を、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山の
嶺に、たちまち
一朶の黒雲の
湧いたのも気にしないで、
折敷にカンと打った。キャッ! と若い女の声。
魂ぎる声。
這ったか、飛んだか、
辷ったか。
猟夫が目くるめいて駆付けると、
凍てざまの白雪に、ぽた、ぽた、ぽたと
紅が染まって、どこを撃ったか、黒髪の乱れた、うつくしい女が、
仰向けに倒れ、もがいた手足をそのままに乱れ敷いていたのである。
いやが上の恐怖と
驚駭は、わずかに四五間離れた処に、鳥の旦那が
真白なヘルメット帽、警官の白い夏服で、
腹這になっている。「お助けだ――旦那、薬はねえか。」と自分が救われたそうに手を合せた。が、鳥旦那は――鷺が若い女になる――そんな魔法は、俺が使ったぞ、というように知らん顔して、遠めがねを、それも白布で巻いたので、
熟とどこかの樹を枝を
凝視めていて、ものも言わない。
猟夫は
最期と覚悟をした。……
そこで、急いで我が屋へ帰って、不断、常住、無益な殺生を、するな、なせそと戒める、古女房の老
巫女に、しおしおと、青くなって次第を話して、……その筋へなのって出るのに、すぐに
梁へ掛けたそうに
褌をしめなおすと、
梓の弓を看板に掛けて家業にはしないで、
茅屋に隠れてはいるが、うらないも
祈祷も、その道の博士だ――と言う。どういうものか、正式に学校から授けない、ものの巧者は、学士を飛越えて博士になる。博士
神巫が、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで
留めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに
喘息を病んだように響かせながら、猟夫に
真裸になれ、と歯茎を
緊めて
厳に言った。
経帷子にでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で
凍死でもさせる気だろう。しかしその
言の通りにすると、
蓑を着よ、そのようなその
羅紗の、毛くさい
破帽子などは脱いで、
菅笠を
被れという。そんで、へい、
苧殻か、青竹の
杖でもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那が
傍に居ようと、居まいと、その若い
婦女の
死骸を、蓑の下へ、
膚づけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わしている。
いや、もう、
肝魂を消して、さきに死骸の傍を離れる時から、
那須颪が
真黒になって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただ
面を打って
巴卍に打ち乱れる
紛泪の中に、かの
薙刀の刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。……
我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪を
掻いて膚におぶった、そ、その心持というものは、
紅蓮大紅蓮の
土壇とも、八寒地獄の
磔柱とも、
譬えように口も利けぬ。ただ吹雪に
怪飛んで、亡者のごとく、ふらふらと内へ戻ると、
媼巫女は、台所の
筵敷に
居敷り、出刃庖丁をドギドギと研いでいて、納戸の炉に火が燃えて、
破鍋のかかったのが、阿鼻とも焦熱とも
凄じい。……「さ、さ、帯を解け、しての、死骸を
俎の上へ、」というが、石でも
銅でもない。台所の俎で。……
媼の形相は、絵に描いた
安達ヶ原と思うのに、
頸には、狼の
牙やら、狐の目やら、
鼬の足やら、つなぎ合せた
長数珠に
三重に
捲きながらの指図でござった。
……不思議というは、青い腰も血の胸も、死骸はすっくり俎の上へ納って、首だけが土間へがっくりと垂れる。めったに使ったことのない、大俵の炭をぶちまけたように
髻が砕けて、黒髪が散りかかる雪に敷いた。媼が伸上り、じろりと
視て、「天人のような
婦やな、羽衣を
剥け、剥け。」と言う。襟も袖も引き

る、と白い優しい肩から脇の下まで
仰向けに
露われ、乳へ膝を折上げて、くくられたように、
踵を空へ
屈めた姿で、
柔にすくんでいる。「さ、その
白ッこい、
膏ののった双ももを放さっしゃれ。
獣は背中に、鳥は腹に肉があるという事いの。腹から
割かっしゃるか、それとも背から
解くかの、」と何と、ひたわななきに
戦く、猟夫の手に庖丁を渡して、「えい、それ。」媼が、女の両脚を餅のように下へ引くとな、腹が、ふわりと動いて胴がしんなりと伸び申したなす。
「観音様の前だ、旦那、許さっせえ。」
御廚子の
菩薩は、ちらちらと蝋燭の灯に瞬きたまう。
――
茫然として、銑吉は聞いていた――
血は、とろとろと流れた、が、氷ったように、
大腸小腸、
赤肝、
碧胆、五臓は見る見る解き
発かれ、続いて、首を切れと云う。その、しなりと俎の下へ伸びた
皓々とした
咽喉首に、触ると震えそうな細い筋よ、
蕨、ぜんまいが、
山賤には口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、
※[#「参らせ候」のくずし字、65-2]もかしくも見たれど、そんなものがたとえになろうか。……若菜の二葉の青いような脈筋が透いて見えて、庖丁の当てようがござらない。容顔が美麗なで、
気後れをするげな、この
痴気おやじと、媼はニヤリ、「鼻をそげそげ、思切って。ええ、それでのうては、こな
爺い、人殺しの
解死人は
免れぬぞ、」と
告り
威す。――命ばかりは
欲いと思い、ここで我が鼻も
薙刀で
引そがりょう、恐ろしさ。
古手拭で、我が鼻を、
頸窪へ
結えたが、美しい女の冷い鼻をつるりと
撮み、じょきりと庖丁で
刎ねると、ああ、あ
痛、
焼火箸で
掌を貫かれたような、その
疼痛に、くらんだ目が、はあ、でんぐり返って気がつけば、鼻のかわりに、細長い鳥の
嘴を握っていて、俎の上には、ただ腹を解いた白鷺が一羽。蓑毛も、胸毛も、散りぢりに、血は俎の上と、鷺の首と、おのが掌にたらたらと
塗れていた。
媼が世帯ぶって、口軽に、「大ごなしが済んだあとは、わしが手でぶつぶつと切っておましょ。鷺の料理は知らぬなれど、
清汁か、味噌か、焼こうかの。」と
榾をほだて、鍋を
揺ぶって見せつけて、「人間の娘も、鷺の
婦も、いのち惜しさにかわりはないぞの。」といわれた時は、俎につくばい、鳥に
屈み、媼に
這って、手をついた。断つ、断つ、ふッつりと猟を断つ、慰みの無益の殺生は、断つわいやい。
畠二三枚、つい近い、
前畷の夜の
雪路を、狸が葬式を
真似るように、陰々と火がともれて、人影のざわざわと通り過ぎたのは――
真中に戸板を
舁いていた。――鳥旦那の、凍えて
人事不省なったのを助け出した、行列であった。
町の病院で、二月以上煩ったが、凍傷のために、足の指二本、鼻の
尖が少々、とれた、そげた、欠けた、はて何といおう、もげたと言おう、もげた。
どうも
解せぬ。さて、合点のゆかない。現におつかい姫を、鉄砲で撃った猟夫は、肝を
潰しただけで、無事に助かった。旦那はまず
不具だ。巣を見るばかりで、その
祟りは、と
内証で声をひそめて、
老巫女に
伺を立てた。されば、明神様の
思召しは、鉄砲は
避けもされる。また
眷属が
怪我に打たれまいものではない。――御殿の
閨を
覗かれ、あまつさえ、
帳の奥のその奥の産屋を――おみずからではあるまいが――お
煩い……との事である。
要するに、御堂の女神は、鉄砲より、研究がおきらいなのである。――
「――万事、その気でござらっしゃれよ。」
「勿論です――」
が、まだその上にも、銑吉を一人で御堂へ
行かせるのは、気づかいらしくもあり、好もしくない様子が見えた。すなわち明神の
祠へは、孫八爺さんが一所に行こうという。銑吉とても、ただ
怯かしばかりでもなさそうな、秘密と、奇異と、第一、人気のまるでないその祠に、入口に
懸った
薙刀を思うと、掛釘が
錆朽ちていまいものでもなし、控えの綱など断切れていないと限らない。同行はむしろ便宜であったが。
さて、旧街道を――
庫裡を一廻り、寺の前から――路を
埋めた
浅茅を踏んで、横切って、石段下のたらたら
坂を昇りかかった時であった。明神の森とは、山波をつづけて、なだらかに
前来た片原の町はずれへ続く、それを
斜に見上げる、山の
端高き
青芒、
蕨の広葉の茂った中へ、ちらりと出た……さあ、いくつぐらいだろう、女の子の
紅い帯が、ふと
紅の
袴のように見えたのも
稀有であった、が、その下ななめに、
草堤を、
田螺が二つ並んで、
日中の
畝うつりをしているような人影を見おろすと、
「おん
爺いええ。」
と野へ響く、広く
透った声で呼んだ。
貝の
尖の
白髪の田螺が、
「おお。」
「
爺ン
爺いよう。」
「……爺ン爺い、とこくわ――おおよ。」
「
媼ン
媼が、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。」
「酒でも餅でもあんめえが、……やあ。」
「知らねえよう。」
「客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。」
「
何でも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。」
なぜか、その女の子、その声に、いや、その
言托をするものに、銑吉さえ一種の威のあるのを感じた。
「そんでは、旦那。」
白髪の田螺は、
麦稈帽の田螺に、ぼつりと分れる。
二
「――何だ、
薙刀というのは、――絵馬の
画――これか。」
あの、爺い。口さきで人を薙刀に掛けたな。銑吉は御堂の格子を入って、床の右横の
破欄間にかかった、絵馬を
視て、
吻と息を
吐きつつ
微笑んだ。
しかし、一口に絵馬とはいうが、
入念の
彩色、塗柄の
蒔絵に唐草さえある。もっとも年数のほども分らず、
納ぬしの文字などは見分けがつかない。けれども、塗柄を受けた
服紗のようなものは、
紗綾か、
緞子か、濃い紫をその細工ものに縫込んだ。
武器は武器でも、念流、一刀流などの
猛者の手を経たものではない。流儀の名の、
静も優しい、婦人の奉納に違いない。
眉も胸も
和になった。が、ここへ来て
彳むまで、銑吉は実は瞳を据え、唇を
緊めて、
驚破といわばの
気構をしたのである。何より
聞怯じをした事は、いささかたりとも神慮に背くと、
静流がひらめくとともに、鼻を
殺がるる、というのである。
これは、
生命より
可恐い。むかし、
悪性の
唐瘡を煩ったものが、
厠から出て、
嚔をした拍子に、鼻が飛んで、鉢前をちょろちょろと這った、二十三夜講の、
前の話を思出す。――その鼻の飛んだ時、キャッと叫ぶと、顔の
真中へ舌が出て、もげた鼻を
追掛けたというのである。鳥博士のは凍傷と聞いたが、結果はおなじい。
鼻をそがれて、顔の真中へ舌が出たのでは、二度と東京が見られない。第一汽車に乗せなかろう。
草生の坂を上る時は、
日中三時さがり、やや暑さを覚えながら、幾度も
単衣の襟を正した。
銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、
金剛杖で、お山に昇る力もなく、登山靴で、
嶽を征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の
砦へ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。
石段もところどころ崩れ損じた、控綱の
欲いほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に
抽いた、と思うほど、
聳えていた。
ここに、思掛けなかったのは――不断ほとんど詣ずるもののない、
無人の境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を
蔽うていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、
常磐樹の落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を
靡かして滑かに通った事であった。
やがて近づく、
御手洗の水は乾いたが、雪の
白山の、
故郷の、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。
すぐその御手洗の
傍に、
三抱ほどなる
大榎の枝が茂って、
檜皮葺の屋根を、
森々と暗いまで緑に包んだ、棟の
鰹木を見れば、
紛うべくもない
女神である。根上りの根の、
譬えば黒い
珊瑚碓のごとく、
堆く築いて、青く白く、
立浪を砕くように床の縁下へ
蟠ったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の
空洞に、清水があって、
翠珠を
湛えて
湧くのが見える。
銑吉はそこで手を
浄めた。
階段を
静に――むしろ
密と上りつつ、ハタと胸を
衝いたのは、途中までは爺さんが一所に来る
筈だった。鍵を、もし、
錠がささっていれば、扉は
開かない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。
裡の薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。
及腰ながら
差覗くと、
廻縁の板戸は、三方とも一二枚ずつ
鎖してない。
手を扉にかけた。
裡の、その真上に、
薙刀がかかっている筈である。
そこで、銑吉がどんな
可笑な
態をしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。
「お通しを願います、失礼。」
と云った。
片扉、とって引くと、床も青く澄んで
朗か。
絵馬を見て、
彳んで、いま、その心易さに
莞爾としたのである。
思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。
桔梗、萩、
女郎花、
一幅の花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、
彩ある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ
刎ね落ちた。再び
裾へ
飜えるのは、柄長き薙刀の
刃尖である。その稲妻が、雨のごとき冷汗を
透して、再び光った。
次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に
大榎の幹を
小盾に取っていた。
どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ
遁げたその形が。――そうして、
少時して、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。
柳の影を
素膚に
絡うたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩
裳へ、腰には、
淡紅の伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を
仄に、端が
靡いて、
婦人は、頬のかかり
頸脚の白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた
褄を薄く引き、ほとんど
白脛に消ゆるに近い薄紅の
蹴出しを、ただなよなよと
捌きながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると
行き、よろよろと
還って、
往きつ戻りつしている。その取乱した
態の、あわただしい
中にも、
媚しさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく
戦ぎ
縺れるように思わせつつ、堂の縁を
往来した。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、
華奢な肩で激しく息をした。髪が
髢のごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた
裾に、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の
爪尖が震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを
取縋って、柄を高くついた、その薙刀が
倒で……
刃尖が爪先を切ろうとしている。
戦は、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を
倒についた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、
鮮血が
踵を染めて伝わりそうで、見る目も危い。
青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、
「
貴女、貴女、
誰方にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」
髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、
「あああ」
とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、
「小県さん――」
冴えて、澄み、すこし
掠れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の
梢から
化鳥が呼んだように聞えたのである。
「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」
この場合、声はまた心持
涸れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。
夏は
簾、冬は
襖、
間を隔てた、もの
越は、人を思うには一段、
床しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。――
まだ人間に返り切れぬ。薙刀
怯えの蝉は、少々
震声して、
「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」
「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の
果なんですの。」
「あ、危い。」
長刀は
朽縁に倒れた。その刃の
平に、雪の
掌を置くばかり、たよたよと
崩折れて、顔に片袖を
蔽うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――
落人となって、辻堂に


った伝説を
目のあたり、見るものの目に、
幽窈、
玄麗の趣があって、
娑婆近い事のようには思われぬ。
話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために
賑った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……
その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、
山路、野道を分入った
僻村であるものを。――
――実は、銑吉は、これより先き、
麓の西明寺の
庫裡の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の
提紙入を見たし、続いて、
准胝観音の
御廚子の前に、菩薩が
求児擁護の
結縁に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女
扇子の
銀砂子の
端に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ
遥にその人の面影をしのんだばかりであったのに。
かえって、木魚に
圧された提紙入には、美女の古寺の
凌辱を
危み、三方の女扇子には、姙娠の
婦人の
生死を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある
二品のいわれに触れるのさえ
厭うらしいので、そのまま黙した事実があった。
ただ、あだには見過し
難い、その二品に対する心ゆかしと、
帰路には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。
いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……
譬にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。
三
「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」
ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。
きれぎれに、
「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」
泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を
閃めかして
薙ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、
背後むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で
秘すらしい、というだけでも、この話の運びを
辿って、読者も、あらかじめ
頷かるるであろう、この
婦は姙娠している。
「私が、そこへ
行きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」
婦は、格子に
縋って、また立った。なおその背後向きのままで居る。
「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」
「いま、そちらへ参りますよ。」
落ついて
静にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。
枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。
細りした姿で、薄い色の
褄を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を
掻合わせ掻合わせするのが、茂りの
彼方に枝透いて、
簾越に
薬玉が消えんとする。
やがて、向直って
階を下りて来た。引合わせている袖の下が、
脇明を
洩れるまで、ふっくりと、やや円い。
牡丹を
抱いた白鷺の風情である。
見まい。
「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」
と、すぐその榎の根の
湧水に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに
挿入れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ
咽喉へ通りそうに見えたが、
掬もうとすると、
掌が薄く、玉の
数珠のように、
雫が切れて皆
溢れる。
「
両掌でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も
何にもいりゃしません。」
「はい、いいえ。」
膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を
圧え、やっぱり腹部を
蔽うた、その片手を離さない。
「だって、両掌を
突込まないじゃ、いけないじゃありませんか。」
「ええ、あの
柄杓があるんですけど。」
「柄杓、」
手水鉢に。
「ああ、手近です。あげましょう。青い
苔だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」
「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」
「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」
「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」
それだと毎日この
祠へ。
「あ、あ。」
と、消えるように、息を引いて、
「おいしいこと、ああ、おいしい。」
唇も青澄んだように見える。
「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」
「私が。」
とて、柄を
手巾で
拭いたあとを、見入っていた。
「どうしました。」
「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」
「
満々と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」
とぐっと飲み、
「甘露が五臓へ
沁みます。」
と
清しく云った。
小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で
斜に
視ながら、
「まあ、おきれいですこと。」
「水?……勿論!」
「いいえ、あなたが。」
「あなたが。」
「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」
「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を
汲んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」
と、はじめて声を出して軽く笑った。
「透通るほどなのは、あなたさ。」
「ええ。」
と無邪気にうけながら、ちょっと眉を
顰めた。
乳の下を且つ
蔽う袖。
「一度、
二十許りの親類の娘を連れて、
鬼子母神へ
参詣をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした
御堂の燈明で
視た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も
凜として……白さは
白粉以上なんです。――
前刻も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」
誓はうつむく。
その襟脚はいうまでもなかろう。
「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に
籠ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」
「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」
つと寄ると、
手巾を払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、
居処をかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。
「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」
「おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という
不了簡を起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、
祖母さんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。
墓は、草に
埋まって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ
間に――しかし、そればかりではありません。
――片原の町から寺へ来る途中、
田畝畷の道端に、お
中食処の看板が、屋根、
廂ぐるみ、朽倒れに
潰れていて、清い
小流の前に、思いがけない
緋牡丹が、」
お誓は、おくれ毛を
靡かし、顔を上げる。
「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、
斑
――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、
引啣えて、この森の空へ飛んだんです。
まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い
法衣の男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、
藪へ入って見えなくなったのが――この山
続のようですから、白鷺の飛んだ方角といい、
社のこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」
銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、
憤を含んで、
屹として、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。
「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、
口惜いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな
身体に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い
苔……」
「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」
「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、
貴方を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」
「忘れました、そういう
串戯をきいていたくはないのです。」
「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお
腹を引破って、
肝も臓腑も……」
その水色に花野の帯が、
蔀下の敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が
颯と通った。
「――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」
「何、私なら落ちたんでしょう。」
「そして、石段の
上口に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から
熟と
覗いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」
その爺さんにも逢っている。銑吉は
幾度も独りうなずいた。
「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」
「御同様です。」
「その拝殿を、
一旦むこうの隅へ急いで
遁げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も
蓬々と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか
可恐いんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」
「…………」
「その
怪ものに、
口惜い、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……
――畜生――
と声も出ないで。」
「ははあ、たちまち
一打……薙刀ですな。」
「明神様のお
持料です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――
叩倒してやろうと思って、」
「切られる分には、まだ、
不具です。薙倒されては
真二つです、危い、危い。」
と、いまは笑った。
「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、
浅間しい
獣です、畜生です、犬です、犬に
噛まれたとお思いになって。」
「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に
咬まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり
疵も負わないから、
太腹らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」
そこで、
背に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。
「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」
その黒髪は、漆の
刃のようにヒヤリとする。
水へ
辷った柄杓が、カンと響いた。
四
「……小県さん、女が、女の
不束で、絶家を起す、家を立てたい――」
「絶家を起す、家を
起てたい……」
「ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。」
「何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、
天晴れじゃありませんか。」
「私の父は、この土地のものなんです。」
「ああ、成程。」
「――この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのは
可いんですけれど、そういう人ですから、
堅気の商売が出来ないで、まだ――街道が
賑かだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋
旅籠の店を出したと申しますの。
……貴方、こちらへいらっしゃりがけに――その、あの、
牡丹、牡丹ですが。」
なぜか、引くいきに、声がかすれて、
「あの咲いております処は、今は
田畝のようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして――
牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、
暴風雨で
潰れたのが、家の
骸骨のように
路端に倒れていますわ。
母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。
――町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか――まだ、私がお腹に。……」
ふと
耳許をほんのりと薄く染めた。
「お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、
血統が絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後を
絶さないように遺言をしたんです。
私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。
こんなものでも、一つ
家に、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。」
「間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も
一条の上だとしたら、家を起す――血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、
八衢に
前途が
岐れて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。」
「まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……
昨日や今日の事とは思わなかったんですのに――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました
寄親同様。これといって
行きたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……
はじめて、泊りました、その土地の町の
旅宿が、まわり合せですか、因縁だか、その宿の隠居夫婦が、よく昔の事を知っていました。もの珍らしいからでしょう、宿帳の田沢だけで、もう、ちっとでも片原に縁があるだろう、といいましてね。
そんなですから、隠居二人で、西明寺の父の墓も案内をしてくれますし。……まことに不思議な、久しく下草の中に消えていた、街道
端の牡丹が、去年から芽を出して、どうしてでしょう、今年の夏は、花を持った。町でも人が沢山見に
行き、下の流れを飲んで酔うといえば、
汲んで取って、香水だと
賞めるのもある。……お嬢さん……私の事です。」
と頬も冷たそうに、うら寂しく、
「故郷へ帰って来て、田沢家を起す、
瑞祥はこれで分った、と下へも置かないで、それはほんとうに深切に世話をして、牡丹さん、牡丹さん、私の部屋が牡丹の間。
餡子ではあんまりだ、黄色い
白粉でもつけましょう、牡丹亭きな子です。お一ついかが……そういってどうかすると、お客にお酌をした事もあるんです。
長逗留の退屈ばらし、それには
馴れた軽はずみ……」
歎息も弱々と、
「もっとも
煩いことでも言えば、その場から、つい立って、牡丹の間へ帰っていたんです。それというのが、ああも、こうもと、それから、それへ、商売のこと、家のこと。隠居夫婦と、主人夫婦、
家のものばかりも四人でしょう。番頭ですの、女中ですの、
入かわり相談をしてくれます。聞くだけでも
楽みで、つんだり、崩したり、切組みましたり、庭背戸まで見積って、子供の積木細工で居るうちに、日が
経ちます。……鳥居数をくぐり、門松を
視ないと、故郷とはいえない、といわれる通りの気になって、おまいりをしましたり。……逗留のうち、幾度、あの牡丹の前へ立ったでしょう。
柱一本、根太板も、親たちの手の触ったのが残っていましょう。あの骨を拾おう。どうしよう。
焚こうか、埋めようか。ちょっと九尺二間を建てるにしても、場所がいまの
田畝ではどうにもならず。(地蔵様の
祠を建てなさい、)隠居たちがいうんです。ああ、いいわねえ、そうしましょうか。
思出しても
身体がふるえる、……
今年二月の
始でした。……東京も、そうだったって聞いたんですが、この辺でも珍らしく、雪の少い、暖かな冬でしたの。……今夜の
豆撒が済むと、片原で年を取って、あかんぼも二つになると、隠居たちも笑っていました。その晩――暮方……
湯上りのいい心持の処へ、ちらちら降出しました雪が嬉しくって、生意気に、……それだし、銀座辺、あの築地辺の夜ふけの辻で、つまらない
悪戯をされました覚えもなし、またいたずらに逢ったところで、ところ久しいだけ、
門なみ知っているんです。……梅水のものですよ。それで大概、
挨拶をして離れちまいますんですもの、道の
可恐さはちっとも知らずにいたんです。――それに牡丹亭のあとまでは、つれがありましたり、一人でも幾度も行ったり来たり、屋根のない長い廊下もおんなじに思っていましたものですから、コオトも着ないで、小県さん、浴衣に襟つき一枚何かで。――
裙へ流れる水、あの小川も、梅水に居て、座敷の奥で、水調子を聞く音がします。……牡丹はもう、枝ばかり、それも枯れていたんですが、降る雪がすっきりと、白い
莟に積りました。……
大輪なのも面影に見えるようです。
向うへ、小さなお地蔵様のお堂を建てたら、お
提灯に
蔦の紋、養子が出来て、その人のと、二つなら嬉しいだろう。まあ
極りの悪い。……わざとお
賽銭箱を置いて、宝珠の玉……違った、それはお
稲荷様、と思っているうちに、こんな風に傘をさして、ちらちらと、藤の花だか、鷺だかの娘になって、踊ったこともあったっけ。――傘は、ここで、畳んだか、開いてさしたかと、うっかりしました。――
傘を、ひどい力で、上へぐいと引いたんです。天にも地にも、小県さん、観音様と、明神様のほかには、女の
身体で、口へ出して……」
キリキリと歯を
噛んで、つと
瞼の色が
褪せた。
「
癪か。しっかりなさい、お誓さん。」
さそくに
掬った
柄杓の水を、削るがごとく口に含んで、
「人間がましい、癪なんぞは、通越しているんです。ああ、この水が、そのまんま、青い煙になって焼いちまってくれればいいのに。」
しばらく、声も途絶えたのである。
「
口惜しいわ、私、小県さん、足が上へ浮く処を、うしろから、もこん、と抱込んだものを、見ました時。」
わなわなと震えたから、小県も肩にかけていた手を離した。倒れそうに腰をつくと、
褄を投げて、片手を
苔に
辷らした。
「
灰汁のような毛が一面にかぶさった。枯木のような脊の高い、蒼い顔した
※々[#「けものへん+非」、88-17]、あの、絵の※
[#「けものへん+非」、88-18]々、それの鼻、がまた高くて
巨いのが、黒雲のようにかぶさると思いましたばかり……何にも分らなくなりました。
あとで――息の返りましたのは、一軒家で
飴を売ります、お
媼さんと、お爺さんの炉端でした。裏背戸口へ、どさりと音がしたきりだった、という事です。
どんな形で、
投り出されていたんでしょう。」
褄を引合わせ、身をしめて、
「……のちに、大沼で、とれたといって、
旅宿の台所に、白い
雁が
仰向けに、
俎の上に乗ったのを、ふと見まして、もう一度ゾッとすると、ひきつけて倒れました事さえあるんです。
――その晩は、お爺さんの内から、ほんの四五町の処を、
俥にのって帰ったのです。急に、ひどい悪寒がするといって、
引被って寝ましたきり、枕も顔もあげられますもんですか。悪寒どころですか、
身体はやけますようですのに、冷い汗を絞るんです。その汗が脇の下も、乳の処も、……ずくずく……悪臭い、
鱶だか、
鮫だかの、六月いきれに、すえたような
臭いでしょう。むしりたい、切って取りたい、削りたい、身体中がむかむかして、しっきりなしに吐くんです。
無理やりに
服まされました、何の薬のせいですか、有る命は死にません。――活きているかいはなし……ただ西明寺の観音様へお
縋りにまいります。それだって、途中、牡丹のあるところを
視ます時の心もちは、ただお察しにまかせます。……何の
罪咎があるんでしょう、と思うのは、身勝手な、我身ばかりで、神様や仏様の目で、ごらんになったら。」
「お誓さん、……」
声を沈めて遮った。
「神、仏の目には、何の咎、何の罪もない。あなたのような人間を、かえって悪魔は狙うのですよ。幾年目かに朽ちた牡丹の花が咲いた……それは嘘ではありますまい。人は見て
奇瑞とするが、魔が咲かせたかも知れないんです。反対に、お誓さんが故郷へ帰った、その
瑞兆が
顕われたとして、しかも家の骨に地蔵尊を祭る奇特がある。功徳、恭養、善行、美事、その
只中を狙うのが、悪魔の役です。どっちにしろ
可恐しい、早くそこを通抜けよう。さ、あなたも目をつむって、観音様の前へおいでなさい。」
「――ある時、和尚さんが、お寺へ紅白の
切を、何ほどか寄進をして欲しいものじゃ、とおっしゃるんです。寺の用でない、
諸人の
施行のためじゃけれど、この通りの貧乏寺。……ええ、私の方から、おやくに立ちますならお願い申したいほどですわ。三反持って参りますと、六尺ずつに切りたいが、
鋏というものもなし……庖丁ではどうであろう。まあ、手で裂いても間に合いますわ。和尚さんに手伝って三方の上へ重ねました時、つい、それまでは不信心な、何にも知らずにおりました。子育ての慈愛をなさいます、
五月帯のわけを聞きまして、時も時、折も折ですし、……観音様。」
お誓が、髪を長く、すっと立って、
麓に白い手を合わせた。
「つい女気で、
紅い切を上へ積んだものですから、真上のを、
内証で、そっと、頂いたんです。」
「それは、めでたい。――結構ではないか、お誓さん。」
お誓は榎の根に、今度は
吻として憩った、それと
差むかいに、小県は、より低い処に腰を置いて、片足を前に、くつろぐ
状して、
「節分の夜の事だ。
対手を鬼と思いたまえ。が、それも出放題過ぎるなら、怪我……病気だと思ったらどうです。怪我や病気は誰もする。……その怪我にも、病気にも障りがなくって、赤ちゃんが、御免なさいよ、ま、出来たとする。昔から偉人には奇蹟が携わる、日を見て、月を見て、星を見て、いや、ちと大道うらないに似て来たかね。」
袖を開いて扇を使った。柳の影が映りそうで、
道得て、いささか
可と思ったらしい。
「鶴を
視て懐姙した
験はいくらもある。いわゆる、もうし子だとお思いなさい。その上、面倒な口を利く父親なしに、お誓さん一人で育てたら、それが生一本の田沢家の血統じゃありませんか。そうだ、悪魔などと言ったのは、私のあやまり、豊年の何とかいう雪が降って、節分には、よく降るんです。正に
春立ならんとする時、牡丹に雪の
瑞といい、地蔵菩薩の
祥といい、あなたは
授りものをしたんじゃないか、
確にそうだ、――お誓さん。」
お誓は
淡くまた
瞼を染めた。
「そんな、あの、大それた、高望みはしませんけれど、女の子かも知れないと思いました。五日、
七日、
二夜、三夜、観音様の前に
静としていますうちに、そういえば、今時、
天狗も
※々[#「けものへん+非」、91-16]も居まいし、第一
獣の
臭気がしません。くされたというは心持で、何ですか、水に
棲むもののような気がするし、森の香の、時々峰からおろす松風と一所に通って来るのも、水神、山の神に魅入られたのかも分らない。ええ、因果と業。
不具でも、虫でもいい。
鳶鴉でも、
鮒、
鰌でも構わない。その子を連れて、
勧進比丘尼で、諸国を
廻って親子の見世ものになったらそれまで、どうなるものか。……そうすると、気が易くなりました。」
「ああ、観音の利益だなあ。」
つと顔を背けると、肩をそいで、お誓は、はらはらと涙を落した。
「その御利益を、小県さん、頂いてだけいればよかったんですけれど――早くから、関屋からこの辺かけて、鳥の学者、博士が居ます。」
「…………」
「鳥の巣に近づくため、撃つために、いろいろな……あんな
形もする、こうもする。……頭に樹の枝をかぶったり、かずらや枯葉を腰へ巻いたり……何の気もなしに、孫八ッて……その飴屋の爺さんが夜話するのを、一言……」
(!…………)
「焼火箸を脇の下へ
突貫かれた気がしました。
扇子をむしって
棄ちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手が
痺れて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ
噛みつこうか、とガチガチと歯が震える。……
路傍のつぶれ屋を、石油を掛けて焼消そうか。牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。
もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、
口惜くって、もどかしくって
居堪らなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、
祟の鋭い、明神様に、
一昨日と、
昨日、今日……」
――誓ただひとりこの
御堂に――
「独り居れば、ひとり居るほど、血が動き、肉が震えて、つきます息も、千本の針で身体中さすようです。――
前刻も前刻、絵馬の中に、白い女の
裸身を仰向けにくくりつけ、膨れた腹を裂いています、
安達ヶ原の
孤家の、もの
凄いのを見ますとね。」
(――実は、その絵馬は違っていた――)
「ああ、さぞ、せいせいするだろう。あの女は羨しいと思いますと、お腹の
裡で、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと
這うような、ものをいうような、ぐっぐっ、と
巨きな鼻が息をするような、その鼻が
舐めるような、舌を出すような、
蒼黄色い顔――畜生――牡丹の根で気絶して、
生死も知らないでいたうちの事が
現に
顕われて、お腹の中で、
土蜘蛛が黒い手を拡げるように動くんですもの。
帯を解いて、投げました。
ええ、男に許したのではない。
自分の腹を
露出したんです。
芬と、
麝香の
薫のする、
金襴の袋を解いて、
長刀を、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、
丁子の香がしましたのです。」……
この薙刀を、もとのなげしに納める時は、二人がかりで、それはいいが、お誓が刃の方を支えたのだから、おかしい。
誰も、ここで、薙刀で腹を切ったり、切らせたりするとは思うまい。
――しかも、これを取はずしたという時に落したのであろう。女の長い切髪の、いつ納めたか、
元結を掛けて黒い水引でしめたのが落ちていた。見てさえ気味の悪いのを、
静に掛直した。お誓は偉い!……落着いている。
そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。
下じめ――腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って……
ちっと
擽ったいばかり。こういう時の男の
起居挙動は、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬を
視ていた。薙刀の、それからはじめて。――
一度横目を流したが、その時は、投げた
単衣の
後褄を、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、
蹴出しの色の片膝を立て、それによりかかるように
脛をあらわに、おくれ毛を
撫でつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。
「その絵馬なんですわ、小県さん。」
起つと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、
気勢は通ずる。安達ヶ原の……
「お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、
俎の上へ――
裸体の恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、もの
凄い
鬼婆々じゃなくって、
鮹の口を
尖らした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは
願事でなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。」
事情も
解めている。半ば上の空でいううちに、小県のまた
視めていたのは、その次の絵馬で。
はげて、くすんだ、泥絵具で
一刷毛なすりつけた、波の線が太いから、海を
被いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、
鰈、
比目魚には、どんよりと色が赤い。
赤
だ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、
待女郎の意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。
斑
だ。斑

が留っていた。
「お誓さん、お誓さん。――その辺に、
綺麗な虫が一つ居はしませんか、虫が。」
「ええ。」
「居る?」
「ええ。居ますわ。」
バタリと口に
啣えた
櫛が落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その
引掛けを手繰っていたが、
「玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、
簪も
衣ものも
欲いんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。」
筐の簪、
箪笥の
衣、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。
いや、懸念に堪えない。
「玉虫どころか……」
名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。
「大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。」
「櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、
鬢の毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな
身体を、構わんですわ。」
ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと
断念がよく聞えた。いやが上に、それも
可哀で、その、いじらしさ。
「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」
再び
巨榎の
翠の蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を
視た。
水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。
「ああ、さっき水を飲んだ時でなくて
可かった。」
引立てて
階を下りた、その
蔀格子の暗い処に、カタリと音がした。
「あれ、薙刀がはずれましたか。」
清水の
面が、
柄杓の
苔を、
琅
のごとく、
梢もる
透間を、
銀象嵌に
鏤めつつ、そのもの音の響きに揺れた。
「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」……
榎の梢を、兎のような雲にのって。
「桃色の三日月様のように。」
と言った。
松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、
陽炎を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の
鋭き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、
水紅の
羅して、あま
翔る鳥の翼を見よ。
「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」
「行って、どうします? 行って。」
「もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。
抽斗にしまって封をすれば、仏様の
情を
仇の女の邪念で、蛇、
蛭に、のびちぢみ、ちぎれて、
蜘蛛になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お
諭しなんです。小県さん。あの沼は、
真中が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……」
と、銑吉の
袂の端を
確と取った。
「
行く道が分っていますか。」
「ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。」――
欄干の折れた西の縁の
出端から、袖形に地の
靡く、向うの末の、
雑樹茂り、
葎蔽い、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、
猶予らわず
潜る時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が
畝って通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ
退ったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、
縞絹に黒髪した
遁水のごとき姿を追ったからである。
沼は、
不忍の池を、その
半にしたと思えば
可い。ただ周囲に
蓊鬱として、樹が茂って暗い。
森をくぐって、青い姿見が
蘆間に映った時である。
汀の、
斜向うへ――
巨な赤い蛇が
顕われた。蘆
萱を引伏せて、鎌首を挙げたのは、
真赤なヘルメット帽である。
小県が
追縋る
隙もなかった。
衝と
行く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、
白妙なる、乳首の深秘は、
幽に雪間の
菫を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、
「畜生……」
と云った、女の声とともに、
谺が冴えて、銃が響いた。
小県は草に、
伏の
構を取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで
行るかも知れない……爪さきに
接吻をしようとしたのではない。ものいう
間もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。
その
草伏の小県の目に、お誓の姿が――峰を
抽いて、高く、
金色の夕日に
聳って見えた。
斉しく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の
尖った、
巨なる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また
投るのを視た。足でなく、頭で
雀躍したのである。たちまち、
法衣を脱ぎ、手早く靴を投ると、
勢よく沼へ入った。
続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。
中心へ近づくままに、
掻く手の
肱の上へ
顕われた鼻の、黄色に青みを帯び、
茸のくさりかかったような
面を視た。水に
拙いのであろう。
喘ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する
隠形の
一術であろうも計られぬ。
「ばか。」
投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。
早く解いて流した
紅の腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ
翼を添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の
来り迫る波がしらと直線に、水脚を切って
行く。その、
花片に、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。
鼻を仰向け、
諸手で、腹帯を
掴むと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに
飜った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。
ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八
爺が押えたのが見える。押えられて、手を
突込んだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、
蟋蟀のように

いて、頭で
臼を
搗いていた。
「――そろそろと
歩行いて
行き、ただ一番あとのものを助けるよう――」
途中から女の子に呼戻させておいて、
媼巫女、その孫八爺さんに命ずるがごとくに云って――方角を教えた。
ずんぐりが一番あとだったのを、孫八が来て見出したとともに、助けたのである。
この少年は、少なからぬ便宜を与えた。――
検する官人の前で、
「――三日以来、大沼が、日に三度ずつ、水の色が
真赤になる情報があったであります。
緋の鳥が一羽ずつ来るのだと鳥博士が申されました。奇鳥で、非常な価値である。十分に準備を整えて出向ったであります。果して、対岸に
真紅な鳥が居る。撃ったであります。銃の命中したその鳥は、沼の中心へ落ちたであります。従って高級なる猟犬として泳いだのであります。」
と明確に言った。
のみならず、紳士の舌には、斑

がねばりついていた。
一人として事件に煩わされたものはない。
汀で、お誓を抱いた時、惜しや、かわいそうに、もういけないと思った。胸に
硝薬のにおいがしたからである。
水を
汲もうとする処へ、少年を促がしつつ、廻り
駈けに駈けつけた孫八が
慌しく留めた。水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には、沼の水を見さっせえ、お
前等がいった、毒虫が、ポカリポカリ浮いてるだ。……
明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。
清水につくと、
魑魅が枝を下り、茂りの中から
顕われたように見えたが、早く尾根づたいして、
八十路に近い、脊の低い柔和なお
媼さんが、片手に
幣結える
榊を持ち、
杖はついたが、
健に来合わせて、
「苦労さしゃったの。もうよし、よし。」
と、お誓のそのふくよかな腹を、袖の下で
擦って
微笑んだ。そこがちょうど結び目の帯留の金具を射て、
弾丸は
外れたらしい。小指のさきほどの打身があった。
淡いふすぼりが、
媼の手が榊を清水にひたして冷すうちに、ブライツッケルの
冷罨法にも
合えるごとく、やや青く、薄紫にあせるとともに、
乳が銀の露に汗ばんで、濡色の
睫毛が生きた。
町へ急ぐようにと云って、媼はなおあとへ残るから、
「お前様は?」
お誓が聞くと、
「姫神様がの、お冠の
纓が解けた、と御意じゃよ。」
これを聞いて、活ける
女神が、なぜみずからのその手にて、などというものは、
烏帽子折を思わるるがいい。早い処は、さようなお方は、恋人に羽織をきせられなかろう。袴腰も、御自分で当て、帽子も、御自分で取っておかぶりなさい。
五
神巫たちは、
数々、顕霊を示し、
幽冥を通じて、俗人を驚かし、郷土に一種の権力をさえ
把持すること、今も昔に、そんなにかわりなく、奥羽地方は、特に多い、と聞く。
むかし、秋田何代かの太守が郊外に
逍遥した。小やすみの庄屋が、殿様の歌人なのを知って、家に持伝えた人麿の木像を献じた。お覚えのめでたさ、その御機嫌の段いうまでもない――帰途に、身が領分に
口寄の
巫女があると聞く、いまだ試みた事がない。それへ
案内をせよ。太守は人麿の声を聞こうとしたのである。
しのびで、裏町の軒へ寄ると、
破屋を包む霧寒く、松韻
颯々として、
白衣の巫女が口ずさんだ。
「ほのぼのと……」
太守は
門口を
衝と引いた。「これよ。」「ははッ。」「巫女に謝儀をとらせい。……あの
輩の教化は、士分にまで及ぶであろうか。」「泣きみ、笑いみ……ははッ、ただ婦女子のもてあそびものにござりまする。」「さようか――その儀ならば、」……
仔細ない。
が、孫八の
媼は、その秋田辺のいわゆる(おかみん)ではない。
越後路から
流漂した、その頃は色白な年増であった。呼込んだ孫八が、九郎判官は恐れ多い。弁慶が、ちょうはん、熊坂ではなく、
賽の目の口でも寄せようとしたのであろう。が、その女
振を
視て、
口説いて、口を
遁げられたやけ腹に、巫女の命とする秘密の箱を
攫って我が家を遁げて帰らない。この奇略は、モスコオの退都に似ている。悪孫八が勝ち、無理が通った。それも縁であろう。越後
巫女は、
水飴と荒物を売り、軒に
草鞋を
釣して、ここに
姥塚を築くばかり、あとを
留めたのであると聞く。
――前略、当寺檀那、孫八どのより申上げ候。入院中流産なされ候御婦人は、いまは大方に
快癒、
鬱散のそとあるきも出来候との事、御安心下され
度候趣、さて、ここに一昨夕、大夕立これあり、孫八老、
其の
砌某所墓地近くを通りかかり候折から、天地
晦冥、
雹の降ること
凄まじく、
且は電光の
中に、清げなる婦人一
人、同所、鳥博士の新墓の前に
彳み候が、冷く
莞爾といたし候とともに、手の壺
微塵に砕け、一塊の鮮血、あら土にしぶき流れ、降積りたる雹を染め候が、赤き霜柱の如く、
暫時は消えもやらず
有之候よし、貧道など口にいたし候もいかが、相頼まれ申候ことづてのみ、いずれ仏菩薩の思召す処にはこれあるまじく、
奇しく
厳しき明神の
嚮導指示のもとに、化鳥の類の
所為にもやと存じ候――
西明寺 木魚。
和尚さんも、貧地の癖に「木魚」などと
洒落れている。が、それはとにかく――(上人の手紙は取意の事)東京の小県へこの来書の趣は、婦人が
受辱、
胎蔵の
玻璃を粉砕して、
汚血を猟色の墳墓に、たたき返したと思われぬでもない。
昭和八(一九三三)年一月