想像力
宮本百合子
派出婦さんが、だんだん顔をあげて私を見て、笑顔になってものを云うようになった。そして、こんなことを話した。
「あたし、喧嘩する家はつくづく、やになっちゃうね」
夫婦喧嘩されると、どっちにどう云っていいのか分らないから困る。
「旦那さんと奥さんがガミガミ馬鹿にしてんのはいいけんど、奥さんが叱られると、きっとこっちへ当って来るから、ほんとにやになっちゃう」
旦那さんが細君にやられても派出婦なんかに当りちらさないが、細君はきっと当って来るものだそうだ。
「でも、御新婚なんかのところだと、あなたやきもちがやけない?」
「よくそう云われるけんど、あたしちっともそういう気持にならないわ。自分たちの仲だけのこんでこっちへ当って来ないもんね」
成程と、大いに笑って感服した。
この二十二歳の女は群馬の農村の娘である。この話をきいていると、熟した巴旦杏のような頬の色をした若い女が全く想像力をもたないたちだということを発見した。嫉妬の苦しさは想像がそこに生々しく参加するからだ。恐怖がそうであるように。この話はもう一つのことをわたしに教えた。彼女が、どんなに自分の働く条件そのものだけに自分の存在を区切って暮しているのかということについて。つまり家事労働にもあらわれている労働力搾取に対して、どんなに自分を非人間にして防衛することを学んでいるかということについて。
またこういう話もした。
「田舎の男って、ほんとにおっかないったらないの、活動見に行って、かえりなんか三十人も男がついて来るんだもの、娘十人ばっかしに、三十人も男どもがおっかけて来て、畑ん中までおっかけたりして、ほーんに野蛮だからね、おっかないったら」
この話には誇張がある。浅草紙ににじむ墨で描いた戯画のような誇張がある。そして、そのことのなかに彼女の青春の現実の単調さが訴えられている。
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