一
連句で
前句の表面に現われただけのものから得た聯想に執着してはいい附句は出来ない。
前句がそれ自身には平凡でも附句がいいと前句がぐっと活きて引立って来る。どんな平凡な句でもその奥底には色々ないいものの可能性が含まれている。それを握んで明るみへ引出して展開させるとそこからまた次に来る世界の
それをするにはやはり前句に対する同情がなければ出来ない。どんな句にでも、云い換えるとどんな「人間」にでも同情し得るだけの心の広さがなくてはいい
二
九月二十四日の暴風雨に庭の桜の樹が一本折れた。今年の春、勝手口にあった藤を移植して桜にからませた、その葉が大変に茂っていたので、これに当たる風の力が過大になって、細い樹幹の弾力では持ち切れなくなったものと思われる。
これで見ても樹木などの枝葉の量と樹幹の大きさとが、いかによく釣合が取れて、無駄がなく出来ているかが分る。それを人間がいい加減な無理をするものだから、少しの嵐にでも折れてしまうのである。
三
いわゆる頭脳のいい人はどうも研究家や思索家にはなれないらしい。むつかしい事がすぐに分るものだから、つい分らない事までも分ったつもりになってしまうようである。
頭の悪いものは、分りやすい事でも分りにくい代りにまたほんとうに分らない事を分らせ得る可能性をも
この事が哲学やその他文科方面の研究思索について真実である事はむしろよく知られた事であると思うが、理化学の方面でもやはりそうだという事はあまりよく知られていないようである。
四
ストウピンのセロの演奏を聞いた。近来にない面白い音楽を聞いた。
われわれ
ストウピンがセロを弾いているのを聞いており見ていると、いつの間にか楽器が消えてしまう。演奏者の胸の中に鳴っている音楽が、きわめて自由に何の障害もなく流れ出しているので、楽器はただほんの一つの窓のようなものに過ぎないのである。
五
ヴィオリンをやっていて、始めてセロを手にしてみると、楽器の大きさを感じるのはもちろんであるが、指頭に感じる絃の大きさ、指の開きの広さなどが、かなり不思議な心持を起させる。それで一と月二た月ヴィオリンを手にしないでいた後に、久し振りで取出して持ってみるとそれがいかにも小さくて軽くて、とてももとのヴィオリンだとは思われないのでちょっと驚かされる。一音程に対する指頭間の距離でもまるで指と指とをくっつけなければならないように感じる。
それでヴィオリンをやったり、またセロをやったり、数回繰返しているうちに、だんだんにヴィオリンはヴィオリン、セロはセロの正当な大きさや重さやその他の特徴がはっきり認識されて来るのである。
西洋から帰って銀座通りが狭く低く感じるのも同じような事で別に珍しい事でもないかもしれないが、ともかくも一つの世界に常住しているものが、一度そこをはなれてその外の世界を見る事無しに自分の世界を正当に認識する事のいかに困難であるかという事実の一例にはなると思う。
六
朝顔の色を見て、それから金山から出る緑砂紺砂の色、銅板の表面の色などの事を綜合して「誠に青色は日輪の空気なる(?)色なるを知る」などと帰納を試みたりしているのもちょっと面白かった。
新しもの好き、珍しいもの好きで、そしてそれを得るためには、昔の不便な時代に
こういう点でどこかスパランツァニに似ている。優れた自由な頭脳と強烈な盲目の功名心の結合した場合に起りやすい現象であると思う。
この随筆中に仏書の悪口をいうた条がある。釈迦が
また河水が流れ込んでも海が溢れない訳を説明する
(昭和二年一月『明星』)