教育資料としての映画の価値の多大なことは誰でも認めてはいるようであるが、しかしこの問題については、少なくも
しかしこの問題は現在考えられているよりはもっともっと重大な問題であって、当局者は勿論日本の将来という事を考えるすべての人によってもう少し真面目に講究されなければならないことである。
ウエルズの空想小説に、今から何百年後の世界を描いたものがある。その世界では現在あるような活字で印刷した書物の代りに映画のフィルムのようなものが出来ていて、書庫の棚にはその巻物がぎっしり詰っている。小説でも歴史の本でも皆そういう巻物になっていて、それを机上の器械にはめてボタンを押すとその内容が器械のスクリーンの上に映写されて出て来るというのである。これは極端な空想であってすべての書物がことごとくそういう映画で代表されようとは考えられない。例えば抽象的な論理学の書物に代用されるような映画フィルムを作ることは不可能でないまでも、現在のところでは甚だ困難な仕事である。しかしこの空想は未来における映画の応用の可能性の広大なことを暗示するものとしての価値は十分にあるであろう。
文字を読んでそれが表わす内容を頭脳に描き、そうしてそれを次に来る文字の内容とつなぎ合せて一つの文章の意味を理解する。この過程と、映画の一つ一つのカットの連続を見てその一つのシーンの内容を理解する過程とは大体において同じようなものである。映画の製作者はつまり文字の代りにフィルムの断片で文章をかいて、吾々はそれを読んで行くのである。文字の方はその意味を覚えるまでの練習を要する代りに、一度覚え込んでしまえばその意味の内容はある程度までははっきり規定されてしまう。映画の一つのカットの内容はそういう練習を待たずに直接に視覚的に頭の中に飛び込んで来るのであるが、その代りその「意味」といったようなものは非常に複雑なもので、多くの場合に一と口では云われないようなものが多い。それは一輪の朝顔の花にしても、ある朝ある家のある鉢の朝顔をある方向からある距離から撮影した具体的の朝顔の花であるのに、文字の「朝顔の花」は時間空間から抽象された朝顔の花であるからである。それだから映画のカットはむしろ一つの文章である。しかもその限定された内容はいわゆるモンタージュ、すなわち編輯法によって始めて決定されるもので、同じ朝顔の花でも前後の関係によって色々の内容をもって現わされ得ることになるのである。
こんな理由だけからでも、映画によってすべての文字を駆逐することは出来そうもない。しかしまた同じ理由によって文字では到底勤まらない役目を映画によって仕遂げることが出来るのである。云うまでもなく、朝顔を見たことのないエスキモー土人に朝顔を説明するに百万言を費やすよりも写真か映画で一分間を費やした方が早分りである。一と口に云えば映画は観客の眼の代理者でありまたその案内者なのである。観客が到底行かれぬ場所へ観客の眼を連れて行って見せたいものを見せるのである。過去のある瞬間に世界のうちのある場所で起った出来事を映写器械のレンズで見た、その影像の写しをそのままに吾々の眼を通して直接に吾々の頭の中へ写し出すのである。
教育機関としての映画の役目は、このように観客の眼の「案内者」としての役目である。何を見るべきか、それを如何に見るべきかということを教えることである。教育映画としての優劣はこの案内の仕方の優劣次第できまるのである。ここに色々の問題が起って来るのである。
動物の生活を見せる映画について考えてみる。例えば動物園へ子供を連れて行って子供に実際の
ある製造工場を見学するにしても、実際の場合は一見雑然とした機械の嵐のように運転する中を案内されて説明を聞いても眼が戸まどいをして視るべき要点を
こういう訳で、映画の眼を通してものを見るということは、実物を見るとはよほどちがった長所をもっている。映画を見ることによって吾々は凡庸な観察眼の代りに異常に鋭い観察者の眼を獲得することになる。同時に非常に長い時間と多大な費用を節約し得られるのである。ある映画監督は猫が鼠を捕る光景を撮るために七十時間とそれに相当するフィルムを費やしたそうである。
極めて平凡なものの観察でさえも映画によって始めて可能な利益があるとすれば、映画技術によってのみ得られる観察、例えば高速度撮影や反対の低速度撮影のごときものの効能は
しかしこういう教育映画を作るのはなかなか容易でないことも明白である。時間と労力と金とを費やすだけでは十分でない。撮影者が単に映画のテクニークに通暁しているばかりでなく、その対象に関する十分な知識をもっていることが絶対に必要である。それかといって単なる学者では勿論駄目である。「映像の言葉」の駆使に熟達した映画監督の資格を同時に具えていなければならない。そういう人はなかなかそう
元来教育映画は骨の折れる割合に商品価値の低いものである以上、現在日本の映画会社では到底手をつけないであろうから、どうしても政府の事業としてやる外はないと思われる。しかし現在我邦の政府で映画教育の価値がほんのわずかしか認められていないとしたら、何時になったら立派な教育映画が出来るようになるか全く見込が立たない有様である。もし誰か金持の中の変り者でもあって、月並の下らないいわゆる社会事業などに出す金をこの方面に注いで、そうして適当な監督を見出し養成すればあるいは出来るかもしれないのである。しかしそれよりも先に一般民衆が教育映画というものの価値を十分に認めること、またその将来の可能性が如何に大きいものであるかをリアライズすることが必要であるかもしれない。
実際もし映画
いわゆる思想善導の問題でも、あらゆる方法の中で最も有効有力なものは、適当な映画の制作であろうと思われるが、これについては余白がないからここれは触れない。しかしうかうかしていると、色々な妙な思想がフィルムの形になって外国から続々入り込んで全国に燃え拡がるのは事実である。
現代一部の日本人をすっかりヤンキー化させたものはほとんど全く映画の力だと云っても誇張ではあるまい。実に恐るべきことである。それだのに我国の文教の枢府ではこの事実に無神経である。
映画などは不良少年少女の見るものであるといったような時代放れのした気持が、いわゆる教育家や、特に真面目な中堅人士の間にいくらかでも残っている間は教育映画の時代は
(昭和七年八月『公民教育』)