とりっぷ・あ・ら・もうど
BUMP!
ロンドン
一九二八年――A・D――七月はじめ、それこそ
旅装と覚悟ここにまったく成り、勇気りんりんとしてあたりを払わんばかり――AHA! 言うまでもなくそれは、これから
とまあ、思いたまえ。
BUMP!
物語のいとぐちである。
さて――。
そこで、くだんの石造建築物の正面階段を登りながら、出来るだけ悠然と天を仰ぐと、空気の層がやたらに青く高く立って、テムズの
『大丈夫ね、この調子なら。』
ちょっと立ちどまった彼女が、こうかすかな声を発する。
『うん。しかし、それあ判らないさ。』私の眼はいささか意地わるく笑っていたに相違ない。『何と言ったって人間のすることだから。』
『あら! だって、こんなしずかな日。風はなし――。』
なんかと、私と彼女のあいだに、けさからもう何度となく繰り返された会話の反覆がまたしばしつづいたのち、ただちにふたりは敢然と民族的威容をととのえてその建物の内部へ進入した。
とまあ、思いたまえ。
BUMP!
いうまでもなく、チャアルス街とリジェント街の角は、
Oh ! The Air House !
なんとこの新語の

が、BUMP!
このチャアルス街
もっとも超特近代的に無頼であるべき瞬間に、不必要な「
ここにおいて私と私の常識が押問答をはじめる。
『飛行機というものは絶対に落ちないか。』
『勿論、けっして落ちない――と断言出来ない。しかし、旅客機ならまず九十九パアセントまでは安全だといってよかろう。安全
『そうかなあ。けど九十九パアセントってのがどうも気になるね。あとの一パアセントはいったい何だい?』
『それは何かの故障・錯誤・違算――きっと今までの飛行術の知らなかった、ぜんぜん新しい、ほんの針のさきみたいに小さな誤謬の突発可能性さ。それでも空中では
つねに冷淡な常識は、ここで私を突っぱなしてしまう。BUMP!
自殺的行為――墜落中の心理――その感情・光景――新聞記事――それらが私にじつに如実に想描される。
「I・Aの旅客機墜落
大木を打って一同惨死
不運の乗客中に日本人夫婦」
Or ――大木を打って一同惨死
不運の乗客中に日本人夫婦」
「飛行史上に大きな謎
原因不明の旅客機墜落
眼もあてられぬ現場」
Enough !原因不明の旅客機墜落
眼もあてられぬ現場」
だが、これらは不必要な、恐怖のための恐怖、単なる不吉のための不吉で、言わばたぶんの変態的興味をふくんでいるかも知れないが、つぎに私は、このチャアルス街エア・ハウスの第一歩に、AHAGH! より精神的に深刻な悩みをくぐらなければならなかった。
科学はいま人間をいい気にあまやかしている。一たい、この思いあがったちょこ
とこういうと、いよいよ
『大丈夫ね、このぶんなら。』
『うん。しかし、それあ判らないさ。何しろ万能にほど遠い人間が、特定の一目的のほか用をなさない機械なるものをあやつって、高く地面を下にするんだから――。』
『あら! だってこんな静かな日――。』
などと私と彼女がささやきあったとたん、それはほんの瞬間的に私を襲った一種の「はかなさ」にすぎなかったものを、いまあとからこうして解剖し描写しているだけのことなのだ。
が、運命へ向って
空の誘惑。
AH! The Air Line !
やっぱり何という「とれ・しっく」! Ultra modern !
BUMP!
『正午十二時の飛行ですね?』
声が私を哲学から呼び戻す。「科学信ずるに足るや、はたまた信ずべからざるか」の大きな、そしていつまで経っても堂々めぐりの問題から――。
で、われに返ってここチャアルス・リジェント街の角、Ⅰ・A社「
『
『そうです。』
飛行機にはもう飽きあきしているというような顔で、私が答える。
『ちょいと
『は。旅券、切符をお出し下さい。それからこの表へ御記入のうえ署名願います。』
旅券はいい。切符も二週間まえから買ってある。そこで、彼女とともにかたわらの机にならんで、めいめいに渡された紙片に所要事項を書き入れ出したが、彼女曰く。
『
『国籍、氏名、年齢、住所――なるほどこれさえ残ってれば、どこの誰が死んだのかすぐ判るわけだな。これあ何だ、ええと、たとえ墜落即死致し
なに、ただいつもの出入国の形式に過ぎないんだが、虫の知らせとみえて、どうもそんなような書類に見えてしょうがない。
停車場の待合室そっくりな部屋に、旅行者のむれが不安げにうろうろしている。その一人ひとりが、外套手荷物その他機上へ運び入れるもののすべてを身につけたまま、順々に計重器のうえに立たされて、体重とその衣類手廻品の総合重量を取られる。彼女が呼び上げられたとき、中世以来の騎士道により私がそのハンド・バックを持っていてやろうとしたら、
『彼女をして自身そのハンド・バックを持たしめよ。しかしてわれらをして彼女の身辺の全部に関する最も正確に近き重さの数字を知らしめよ。』
BUMP! 私は叱られてしまった。
「倫敦巴里間――帝国航空路」という絵紙が荷物にべたべた貼られる。だんだんこころもちが軽く――飛ぶ前だから――なる。右往左往する赤帽、制服の事務員、案内者、立ちばなし、別れの挨拶、笑い声、あわただしさ――こうなるともう普通の待合室と何らの変りもない空の停車場だ。ただ客種がよく、あらゆる設備がはるかにモダンで grand luxe なだけだ。が、エア・ハウスというのは空中旅客の市内集散所で、もちろんじっさいの「
Imperial Airways, Ltd ―― LONDON to PARIS
時間表――二十四時制
日曜以外 毎日 クロイドン発
A 七時四十五分
B 十六時三十分
C 十二時
飛行時間 二時間半から四時間B 十六時三十分
C 十二時
乗機賃、発着飛行場と市内空中館間の自動車賃を含む。
A は四磅 十四志 六片
B は五磅五志
C は五磅十五志六片
で、ABCと出発の時間が違い、各機の大小、新旧、速力、設備、二エンジンか三エンジンかによって運賃にも保険的性質の差異をきたすわけ。つまりこれが等別で、Cが一等、Bが二等、A等は三等にあたる。私たちは万善を期してCをえらんだことはいうまでもない。B は五磅五志
C は五磅十五志六片
手荷物規則
ひとりにつき三十封度 まで無代
三十封度 以上は、一封度に三片 のわりで申し受けます。
ちなみに私たちは、大型スウツケイス二個、帽子箱一個、グリップ一個、小鞄二個、ホウルド・オウル一個、ケインサック一個、シネ・コダック三十
エア・ハウスには、最後に人心をおちつけさせるため、奥にこぢんまりした別室がしつらえてある。そこへ腰を据えて
『
よって機上で消費すべく二人前のランチを命じ、代金を払って受取りがわりの切符を貰う。これを飛行機のなかで呈示してランチ
そばで品のいい
『はあ。ちょっと
奥さんの宣言である。このお婆さんも乗客とみえていささか心配そうに、
『大丈夫でございましょうねえ今日なんか――こんなしずかな日。風はなし――。』
『あたくしなんか随分みなからおどかされましたけれど、でも、この頃ではどんなに風が吹きましても平気だそうでございますよ。』自信あるもののごとく奥さんはつづける。『何でも出発のまえの晩は総がかりで徹夜して、エンジンから機体からすっかり検査してこれでいいとならなければ、決して飛ばないんだそうでございますよ。けれど、なにしろ人間のすることで御座いますから――。』
『ほんとにねえ。』
やがて、自動車の出る合図。
空の旅人を満載した二台の大きな車が、日光・無風・暑熱の場末をクロイドンへ――。
車中、じぶんへの私語。
『どうだい、胸騒ぎはやまったかい。』
安心立命!
安心立命!
あん・しん・りつ・めい!
そのうちに新開地のクロイドンの「
『ほんとにいいお天気――。』
『大丈夫ですわね、この分なら。』
『ええ。こんなしずかな日。風はなし――。』
じ・じ・じ・じい――
『
これで、ぞろぞろ野原へ吐き出される。
茫漠たる青ぐさの展開しばらく踏みおさめの土。
あ! ならんでる、並んでる! 地に翼をおろして!
飛行機・複葉・とんぼ・無数の水々しい飛行機――新鮮な果実のような、悪戯心に満ちた反撥と弾力をじっと押さえて、OH! お前たちはいま乗るべき微風を待っているのか。
引力の反逆者よ!
思うさま地を蹴れ!
雲を駈る悪魔
GRRRR――。
すでにプロペラの廻転をはじめている淡灰色の莫大な妖怪が、前世界の動物のような筋骨だらけの
定期旅客機「銀のつばさ」である。なんと雲に
あんなに積んで飛べるかしらと思うほど、客ぜんたいのトランクやらスウツケイスやら鞄やを山のように機の一部へ押しこんでいる。
広場のせいか、飛行場へ行ってみると風がある。帽子の吹きとばされそうな強さだ。
『あら! ひどい風ね。』
『こうなると運を天にまかせるんだね、文字どおり。』
見送り人の一団が遠くに――こわいとみえてそばへは来ないで――かたまって、やたらに手をふったりカメラを向けたりしている。このところちょっと「生きては再び地を踏まず」といった感慨が私たちを東洋的に昂然とさせる。言われるまま機のまえに並んでミス・ノリスのれんずへ社交用微笑を送りこんだのち、車掌――じゃない、機掌だ――に
フォウドのタキシが走り出すまえのような、へんに舞踏的な震動だ。
が、何という愉快な
一同またたく間に席へつく。中央部が一ばんいいと聞いていたので、ふたりは
女、十六人――内訳、七十歳あまりの老婆ひとり、中老七人、若い細君――彼女を入れて――四人、女学生三人、五、六歳の少女ひとり。
男、四人――うち自分を含む。但し男女とも国籍不明。これだけが「死なばもろとも」のみちづれである。
Grrrr――が高くなり加速度になり、見送人は一そう遠くへ追いやられる。出発が近いのだろう。みんな無言で一せいに椅子のはしを掴む。と、正面の小窓をとおして飛行士の
空は誘惑してやまない。
飛行士の巾ひろい背中がまえへしゃがんだ。
BUMP!
機は地上をすべり出す。
――GRRRR・轟々爆々―― and then, BUMP!
BUMP!
BUMP!
BUMP!
はじめは遅く、ようやく早く、それからあせるように

もう誰もそとへなぞ何らの注意をはらう人はない。みな凝結したように無言のまま、「人生の足が土をはなれる瞬間」をじっとしずかに期待している。
私は心描する――
前世紀人のえがたいその虹を踏んで私たちはいま天を渡ろうとしているのだ。
虹の橋――何という人類の夢の実現! なんという際限もない科学の征服慾!
――まるで射撃中の野砲の内部にでもいるよう、ぷろぺらと機関の音・音・音が完全に鼓膜を独占して、耳のそばで何か言われても金魚があくびしてるように口の開閉が見えるだけだ。
となりの彼女がしきりに私を突ついては前を指さす。そしてさかんに何か耳へ詰めている。
へんなことをすると思ってよく見ると、虹の橋なんかとひとり勝手に感激していて気がつかなかったが、前列の椅子の背に、なにか書いたものといっしょに一きれの
「空の旅行者への注意」――とあるから、さっそく読んでみると、左のごとし。
「帝国空路社 ――LTD――は、この、天空旅行の便宜のために、特に以下列記されたる個条を必ず一読あるべく、われらの乗客各位がそれほど充分親切であらんことを乞いねがうものなり。何となれば、そはこれらの事項を各位の満足にまで説明すればなり。
一、飛行機――空における――の正規の運動。
二、いかにして最大の安楽のうちに天を往くべきか。
三、非常時の対策、およびその場合の心得。」
第三がずきんと私の胸を一、飛行機――空における――の正規の運動。
二、いかにして最大の安楽のうちに天を往くべきか。
三、非常時の対策、およびその場合の心得。」
「べつに飛行機に乗るために特別の着物は要りません。長時間のドライヴに適当なものなら何でも間にあいます。
離陸のさい、たとえ機が飛行場 の隅へぶつかりそうに突進することがあっても決して驚いたりあわてたりしてはなりません。飛行機はつねに風にむかって離着陸するものですから、こうしてしばらく滑走しているうちに、いつとはなしに自然に地面から浮かぶのです。
この綿をむしって耳へおつめ下さい。エンジンの音から聴覚を保護するために。
気圧の関係で一時かるいつんぼになることがあります。そうしたら鼻の穴をつまんでおいて力んで下さい。あるいは降機 のときにちょっと唾を飲みこんでもよろしい。すぐ直ります。
方向をかえる場合、飛行機はよく水平を破って一ぽうに急傾斜しますが、これはまったく安全な行動であります。
いわゆる真空 ぽけっとなるものは絶対に存在しません。BUMPと称する小急下降運動は、ちょうど船に波浪が作用するように、気流の上下動に乗って機が小刻みに揺れるだけのことです。
高いビルデングのうえから下を覗いたりする時の眼のくらくらとする感じは、飛行機には、全然ありません。地上とのあいだに何らの物的接続 がないからであります。
船に弱い人でも飛行機には酔いません。すこしでも気分のわるい方には、一こと仰言 れば、ボウイが備え付けの薬品をさしあげます。吐壺 も一つずつ皆さんの足もとにあります。が、空酔い にいちばんいいのは新鮮な冷たい空気です。自由に窓をおあけ下さい。
本社の大陸定期飛行機には、すべて後部にWCがついております。そしてどんなに皆さんが動きまわっても、そのため機が平衡 をうしなうようなことは断じてありません。
飲料水はちょっとボウイへ。ウィスキイ・ワインその他の酒類飲み物も積んでおります。
喫煙はもちろん、いかなる目的にもせよ機内で燐寸 をすることは政府の規則により固くおことわり申します。
何によらず、飛行機の窓からけっしてものを棄てないように願います。
もしその必要があれば、乗客はキャビン正面の口孔 をとおして飛行士と会話することが出来ます。
あなたの飛行士は過般の大戦の勇士、千風万雲の古つわものであります。そして飛行中、彼はつねに無線電話で目的地と通信を交換し、天候気流その他に関して絶えず豊富な報道を供給され、いかなる状況にもその用意がととのい、事実Ⅰ・A社はいま全員全力をあげてあなたの安全を守護しているのです。
海峡横断のさい万一 のために――ちょうど汽船とおなじに――救命帯がそなえつけてあります。」
とそれから図解で救命帯の離陸のさい、たとえ機が
この綿をむしって耳へおつめ下さい。エンジンの音から聴覚を保護するために。
気圧の関係で一時かるいつんぼになることがあります。そうしたら鼻の穴をつまんでおいて力んで下さい。あるいは
方向をかえる場合、飛行機はよく水平を破って一ぽうに急傾斜しますが、これはまったく安全な行動であります。
いわゆる
高いビルデングのうえから下を覗いたりする時の眼のくらくらとする感じは、飛行機には、全然ありません。地上とのあいだに何らの物的
船に弱い人でも飛行機には酔いません。すこしでも気分のわるい方には、一こと
本社の大陸定期飛行機には、すべて後部にWCがついております。そしてどんなに皆さんが動きまわっても、そのため機が
飲料水はちょっとボウイへ。ウィスキイ・ワインその他の酒類飲み物も積んでおります。
喫煙はもちろん、いかなる目的にもせよ機内で
何によらず、飛行機の窓からけっしてものを棄てないように願います。
もしその必要があれば、乗客はキャビン正面の
あなたの飛行士は過般の大戦の勇士、千風万雲の古つわものであります。そして飛行中、彼はつねに無線電話で目的地と通信を交換し、天候気流その他に関して絶えず豊富な報道を供給され、いかなる状況にもその用意がととのい、事実Ⅰ・A社はいま全員全力をあげてあなたの安全を守護しているのです。
海峡横断のさい
「キャビンの天井に非常口があります。いざという時は下がっている輪を強く引き、出口を破り開けて下さい。
エンジンの音が止まりそうに低くなっても、決してびっくりすることはありません。それは着陸の準備か、あるいは単にあなたの飛行士が彼の判断において、速力をよわめるかまたはもっと低く飛んだほうがいいと考えて、そう実行しているまでのことですから――御安心下さい。」
もう一まい紙がはいっている。それには「エンジンの音が止まりそうに低くなっても、決してびっくりすることはありません。それは着陸の準備か、あるいは単にあなたの飛行士が彼の判断において、速力をよわめるかまたはもっと低く飛んだほうがいいと考えて、そう実行しているまでのことですから――御安心下さい。」
「本機「銀のつばさ」は、アラン・カブハム卿が倫敦 ケイプ・タウン間、ならびに英濠往復飛行に使用して大成功をおさめたるアウムストロング・シドレイ式三八五・四二五馬力冷空ジャガア・エンジン三個により推進 さる。
正エンジンは操縦席 の前面、機の鼻さきに位し、他の二つの補機関は両翼の中間にあり。
本機は特に長時間飛行のため建造 られ、キャビンの通風煖※ [#「火+房」、210-14]照明等すべて最も近代的デザインになる。
中央エンジンの後部は防火壁にして、石油は上翼下二個のタンク内に貯蔵さる。
本機の最大速力は一時間百哩 以上。
満載時の重量は約七噸 半なり。」
こう一気に読みおわった私は、あわてて綿を正エンジンは
本機は特に長時間飛行のため
中央エンジンの後部は防火壁にして、石油は上翼下二個のタンク内に貯蔵さる。
本機の最大速力は一時間百
満載時の重量は約七
BUMP!
と、風をついて
天文とジュラルミンと大胆細心と石油の共同作業は、ここに開始された。
飛び出したのだ。
Off she goes ―― The Silver Wing !
OH! Glory ! 何という刹那的な
生きながらの昇天だ。人と鞄と旅行免状とランチ
はっはっはっは!
ほう・ほう・ほ!
声は
私も笑う。うんと、うんと、笑ってやれ。
で、あははははは!
HO・HO・HO!
が、機が
そうだ。けさテムズの岸で馬にからかっていた蠅。私はいまあの一匹に化けているのだ。
だからぶうんとこの窓枠へ飛び下りて、それから机、書物と順々にとまって、そこで首をかしげて両手をこすろう――。
悪魔だ。
BUMP! そして Rolling。
機は「無」のなかを一路駈け上っている。太陽をめざし、神を望んで。
Bapt

大きな赤い屋根、頭からすぐ脚の生えている人間たち、一枚二枚と数えられる自動車――どうしてこの町はこう平べったいんだろう?
や! 丸い穴、四角い穴、何だ、煙突だ。やあ、テニスしてらあ! 馬鹿だなあ、よして上を見てらあ。顔が靴をはいてるぞ! やあい、手なんか
きちょうめんに長方形なテニス・コウトとその附近がむらさき色に
BUMP!
すでに高度は千
もう
空の濁っているのが
機首はきまった――一直線に
こうなると私たちには何らの恐怖も危惧もない。あるのはただこみ上げてくる愉悦と単純な驚異の連続だけだ。
洋々たる「空の怒濤」。
おとこの雲。
おんなの雲。
こどもの雲。
みんな仲よく私たちのまわりに遊んでる。さわいでる。笑ってる。
笑うと言えば、いままで他愛なく笑っていた機内の人々は、急にじぶん達の笑いに気がついて、その笑ったことが恥しいように、あわてて「人間界」の威儀をつくり出した。そこで狂奔する音響のなかで、私のうしろのお婆さんは
彼女が私へノウトを渡す。筆談だ。書いてある。
『イカガ?』
私が返事をかく。
『ヘイキ。』
彼女がほほえむ。私もほほえむ。それからまた、むさぼるように二人は下界の観察だ。
プロペラの音、その風、自信に満ちみちて大きくうなずく銀いろの翼、私の窓のそとに泣くようにふるえている、一本の寒い
地球はいま私たちに関係なく廻っている。
何たるそれはのろくさい文明であろう! じつに笑うに耐えた平面・矮小・
上から見る生活の白じらしいはかなさ――鳥はすべて虚無主義者に相違ないと私は思う。
機内はあかるい。天井に薄い布を張った菱形の非常口があるからだ。
私は思い出す。つい一週間ほどまえ、なんとかスタインという
そう思うと、何とも飛んだことをしたような気がしてくる――ものの、この快翔に一たい何が起り得るというのだ?
ああ、悪魔だった。そも悪魔に、落ちたり死んだりすることが考えられようか。悪魔! 悪魔! 赤いももひきに赤いまんと、
BUMP! そしてRolling。
窓から手を出す。指が切れて飛びそうだ。つめたいのか痛いのかちょっと感覚の判断に迷う。
ボウイが
NOW OVER Sevenoak.
セヴノウクの町だ。
ははあ、固まってる。うすっぺらの家が、
鶏? それとも犬かしら? 白い広場に何かぽつんと黒点が見える。ゆらゆらとセヴノウクがうしろへすっ飛んだ。
畑だ。
森だ。
野だ。
畑は赤・黄・白の幾何的だんだら。森は黒い集団。野は雲の投影。
機は早い。
NOW OVER Tombridge.
おや! 帯が落ちてる。何だ、
川がある。橋がある。人が渡ってる。
川は白い絹糸、橋は六号活字の一、人はペンさきのダットだ。すぐうえに太陽があり、まわりにうすい雲が飛び去り、下は一めんに不可思議なパノラマ――すべての王国と共和国と財宝と野心と光栄と、それらがみな私への所属をねがってひろがっている。何という地上の媚態、嬌姿! だが、
私たちが夢にも知らないうちに、科学はこの
NOW OVER Dungeness.
谷・巨木・まっくろな突起。
岩・白砂・かがやくうんも。
地形に変化が多いと機は動揺する。それを逃げて一段たかく上げ
ドウヴァ海峡だ。
AHA! 水銀の池。
乗客はみんな窓から覗いて、またへらへら笑い出した。何となく馬鹿々々しく
しかし、何とこれは
海峡の色は私の食慾をそそる。
みんなと一しょに私たちも空中でランチをたべる。魔法つかいの会食。舌のサンドウィッチにトマト・桃・バナナ。彼女は水をもらう。飲みながらほほえむ。私もほほえむ。
彼女の口が大きく動いて、三つの日本発音を私に暗示する――オ・フ・ネ、と。
やあ! ほんとにオフネだ、オフネだ! 赤い立派なオフネが一そう真下の水に泳いでいる。これは汽船でもなければ、船でもない。たしかに坊やのおもちゃのオフネだ。それにしても、何てまあ横に広い坊やのオフネだろう!
ドウヴァはいそがしい。灰色の軍艦もむこうに海の
あ! なかまだ! 三台の飛行機! 二つは上に、ひとつは下に。AH!
BUMP! 空の波だ。
一同はっとして「うう!」と唸る。
BUMP!
UUGH!
BUMP!
UUGH!
しばらくがぶりがつづく。ボウイが紙に書いて苦悶中の女客へ見せてまわる。
Bumps will soon be less.
同じ悪魔でも、やはり女のほうはすこしデリケイトに出来てるらしい。いぎりすの奥さんなんか、けっして下を見ないように真正面に眼を据えたきりだ。お婆さんは相変らず新聞を読み、商人はしきりに書類をしらべ、私は首をのばしてふらんすの海岸線を待っている。
すると、出てきた。
くっきりとした地と水のさかい。屈折する陸の進出と、海の侵蝕。
この
私の全神経がぷろぺらとともにしんしんと喜悦の音を立てる。
百姓家。一つ光る湖、NO!
NOW OVER Le Touquet.
機は早い。
もう仏蘭西語の地名。
BUMP!
UUGH!
NOW OVER Abbeville.
君! もっともっとスピイドを出したまえ!
部落。
共有地。
並木。
小市街。
無視する。
黙過する。
抹殺する。
やがて巴里――異国者の開港場。
その巴里が、2・30PMのブウルジェが、ふたたび「社会」が人性が生活が、いまぐんぐん機の下に盛れあぶってきている。
やあい! 子供が走ってるぞ! ふらんすの子供が!
踏切りに荷馬車と人が重なって、汽車の通りすぎるのを待ってらあ。
その上を機は草原の中空へ――ブウルジェ飛行場だ。
虹の橋のおわり。悪魔ももとの人間に還元しなければならない。で、お婆さんは新聞をたたみ、男はねくたいへ手をやり、女は一せいにバッグをあけて鼻のあたまを叩き出す。
BUMP!
BUMP!
BUMP!
なつかしい地面が見るみる眼下に迫ってきている。世の中のにおい・石ころ・土・草の葉――色のくろい操縦者の横顔が笑う。下の
彼女から私への最後の筆談。
『ヒコウカニナリタイ。』
都会の顔
ちょうどいつか。そしてどこかですれ違った通行人のなかに、性格的な人の顔が何ということなしに長く頭にこびりついていて、それがときどき訳もなくふっと思い出されるようなことがあるのとおなじに、旅にも、何ら特別の意味もないのに、どういうものかいつまでも忘れられない不思議な小都会というのがある。
それはなにも、その町の
旅の
この、人見知りをしない Care-free さで、ぶらりと君がひとつの町へ下りたとする。
新しい不可思議な色彩が君のまえにある。
奇妙な文字の看板、安っぽい椅子の海が歩道へはみ出ているキャフェ、悲しい眼の女たち、意気な軍服と口笛の青年士官、モウニング・コウトに片眼鏡の紳士、どなるように客を呼ぶタキシ、四、五人で笑いさざめいてゆく町の娘、見なれない電車、
ちがった外見の、けれど内容のおなじ生活がここにも集合している。しみじみそういう気がする。そのせいだろう、もしそのとき君が、前に一度、夢でか現実にか、この町へ来たことがあるような気がしたら、そしてまた、家のならびや往来の走りぐあいが君の想像していたところと全く同一なら――多くの場合そうだが――君はどんなにその町を愛し、そこに
このあたらしい都会でぴたりとくる感じ――私はそれを町の顔と呼ぶ。
へんなことには、都会の顔は近代化した大通りや、いわゆる「
こういう「町の顔」のなかで、性格的に印象を打って長くあたまにこびりついている多くの「顔」を私は持つ――そのうちでも
ブラッセルでは、私たちはブラッセルを生きた。そのあいだ
着いたのは夜だった。
着くのは、あたらしい町へつくのは夜に限る。昼だと、旅に疲れた君の眼に一ばんさきにうつるのは白っぽい欠点だ。そして、そこにあるのはどこも同じ実務の世界だけだ。が、それがもし夜なら、闇黒と
で、着いたのは夜だった。
ブラッセル・すなっぷしゃっと。
セン河にまたがり「
オテル・ドュ・ヴィユ――市役所。ゴセックとルイ十四世式の効果的合成。十五世紀の建築。
アンシャン美術館――ルウベンス・ルウベンス・そしてルウベンス。
しょうべん小僧――ここでいうマネケンである。ルウ・ドュ・レテュルとルウ・ドュ・シエンの角。ちょいとした狭い裏通りの曲りかどに、
無名戦士の墓――コングレス
ヴェルツ美術館――ドュ・ヴォウティア街。アントニイ・ヴェルツ――一八〇六・一八六五――の個人美術館。もと彼の住宅兼工房だった建物に、大胆・異風・写実、そしてかなりの肉感・残忍・狂的・大作のコレクシオンが出来ている。いかに大作であるかは、そのうちのあるものを描くため彼は場所に困って寺院を借りようとしたところが、僧侶が彼を異端者あつかいして、貸す貸さないで
「一たい絵画において批評ということは可能かね?」
In matter of painting, is criticism possible ?
サンカンテネイル公園の芝生と池、宮殿のうえの並木街――ブラッセルの美は街路樹と街路樹の影にある――私たちは一日に何度となくその下を往ったり来たりした。ぱらぱらと小雨がおちる。木かげのベンチに腰をおろす。
お祭りで、片側にずうっと見世物小屋が並んでいた。
靴をとられそうに砂のふかい歩道にそって、力持、怪動物、毛だらけの女、めりい・ごう・らうんど、人体内器のつくり物、覗き眼鏡、手相判断、拳闘仕合、尻ふりダンス「モンマルトルの一夜」、
一
アイスクリームを買いながらタキシを呼びとめ、そのタキシのなかでアイスクリームを食べつつ帰途につく。うしろからはまだ、祭りの雑音が夜風とともにタキシを追ってきていた。
星あかりだ。
あしたの天気は楽観していい。
嘆きの原
『あれです! 一八一五年六月十七、十八の両日、ウェリントン将軍の参謀本部となった
私たちはウォタアルウ古戦場へ行く途中だった。いや、もうここがウォタアルウの町だという。見ると、いかさま「すっかり当時を心得て」いそうな建物が、ふるくて汚いくせに妙に威張って建っている。ここにおいてか私は、
『ははあ、そうかね。大したもんだね。』
と一つ、
二階が本部兼居間兼寝室だ。「すっかり当時を心得て」いそうなお婆さん――この
『これが将軍の使った椅子と机。』
『ははあ、大したもんですな。』
『これが将軍の寝台。』
『へえい! 大したもんですな。』
『これが将軍の――これが将軍の――これが将軍の――。』
弾丸だの槍だのぼろぼろの肩章だの――もちろんすべて将軍の――を一まわり見て
『これが将軍の踏んだ階段だね。』
私がこういって木の
『もちろん、そうです。』
じぶんのものみたいだ。この運転手はブラッセルの町で拾ったのだが、若いにしてはじつによく「当時を心得」ていて、
『ええ、十七日の十一時ごろから明け方へかけて土砂ぶり、ナポレオンの兵隊は
そこへ行こうとして曲り角へ出る。オテル・ドュ・コロウヌと看板を上げた村の
『一八六一年、ユーゴウはこの家に滞在して、あの「
ここでも運転手は自分が書いたような顔をする。ぞろぞろ下りて這入りこむ。
『ユーゴウのいた部屋を見たい。』
『ビイルか
バアのむこうに控えてる女は一こうに要領を得ない。その要領を得ないところを掴まえていろいろに詰問すると、まことユーゴウのいたことは事実に相違ないが、もう代が変ってすっかり判らなくなっているという。この問答を聞いて、むこうで村の坊さんがひとりでにやにや笑ってる。仕方がないから運転手君と三人でレモナアドの大杯を傾ける。今こいつに
それからまた田舎みち。モン
『この時ナポレオンは兵七万一千九百四十七を擁し、あれなる白い百姓家プランシノアに陣取りまして午前九時、あい変らずこう左手をうしろに廻して白馬に
見たようなことを言ってる。
『ははあ、どうも大したもんだな。』
『大変でしたろうねえ、ほんとに。』
ほどよく感心してビラミッドへ登ると、頂上に獅子像が頑張っていて、いま見たパノラマの現場は
天地悠久と雲が流れて、
『あれ! あすこに見えまする一本の木――
『ははあ、どうも大したもんだな。』
『大へんでしたろうね、ほんとに。』
下りてみると、
なあに、いくら酔ってても、じぶんの車だけは大事にするだろう。
ウォタアルウ古戦場で、私は計らずも一句うかんだ。ものになってるかどうか、お笑いにまで――。
夏草やつはものどもの夢のあと
オリンピック1928
日光・群集・筋肉・国旗。
開会式。曇天。寒風。近代的古代
放鳩。奏楽。
各国選手入場――ABC順。
ブルガリアは騎兵だ。
旗手ワイズミュラア。
ハイチ。黒人、一人。
日本。上、青。下、白。役員はフロックコウトに赤靴だ。
旗手
モナコ。白衣にあかい帽子。九人。
パナマ。ひとり。
参加国全四十五。
宣誓。演説。
演説。演説。演説。
日光・群集・筋肉・国旗。
百四百米。タイム五六秒五分の一、五分の三。
ピストルとストップ・ウォッチ。
続出する新記録。
世界レコウド。
また世界レコウド。
国家として切るテイプの清新さ。
オフィシェル・プログラマ? の叫び声。
高飛び。槍投げ。
予選。準決勝、そして決勝。
メインマストの国旗。全スタンド起立。
脱帽。国歌だ。
ナガタニ――イ!
オダア!
オダア!
あれは誰だ?
667――
553はあめりかのパドック。
日光・群集・筋肉・国旗。
五色の輪の踊るオリンピックの旗。あ! あそこへ行く――。
いま誰かと立ち話ししている超人ヌルミ。
おなじく人間機関車のリトラ。
ハアドル、それから走り巾とび。
ホップ・ステップ&ジャンプ。
257――わあっ! 日本の織田だ!
結果、一五二一。
セレモニ・オリンピイク!
オダ・ヤポンの声。
日章旗! 涙!
君が代が
ああ、スポウツに
帝国主義礼讃。
勝つことの礼讃。
少年のような愛国心!
日光・群集・筋肉・国旗。
おらんだ国巡遊手引き
自序として、
ハランド――どうも独立国らしく思われる。地理については、地理の本の
気候。
歴史。歴史の本に詳し。
名所。国をあげて遊覧客のためにのみ存在す。
国民性。偉大なる饒舌家。老若男女を問わずよく外国語――日本語以外――をあやつり、即時職業的ガイドに変ず。自己ならびに過去を語るを好み、向上心に乏しく、安逸と
名物。風車、木靴、にせダイヤ、おらんだ人形、銀細工、ゆだや人、運河。
アムステルダム――ことしはオリムピックという柄にもない重荷をしょって、町じゅう汗たらたらだった。おかげで私たちも暑い思いをする。
宮殿――百貨店と間違えて靴下を買いに這入ったりしないよう注意を要す――
一度停車場まえの橋下からベルグマンの
フォレンダムとマルケンの島――遊覧船で一日。風と浪とに送られて――それだけ。
ヘイグ――モウリツホイス美術館のレムブラント筆
ちょっと電車でシュヘヴェニンゲンの海水浴場へ行くといい。人ごみのカシノで食事し、一ギルダ出して人混みの桟橋を歩いてしまうと、まずおらんだはこれでENDだ。
で、END。
かんしん出来ないもの、人心と
飛ばない鷲の巣
せまい田舎みちの両側に木造の低い家がならんで、道には馬糞の繊維が真昼のファンタジイを踊り、二階の張出しでは若い女が揺り椅子に腰かけて編物をしていた。そして――いまどき若い女が神妙に揺り椅子に腰かけて編物をするくらいだから、その周囲の風景も押して知れよう。すなわち、化けそうな自転車があちこち入口の前に寝そべり、それを
では、一たいどうして私たちが、この何なに郡大字なんとかのドュウルン村へこつぜんと姿を現わしたかというと、なにもわざわざ小犬がしっぽ――小犬じしんの――に戯れるのを見に来たわけではない。これには一条の立派な理由があるのだ。
知ってる人は知ってるだろう。前
順序としてそもそもからはじめる。
そもそも私たちはアムステルダム市にひとりの知友をもつ。ヴァン・ポウル氏と言って船具会社の重役だが、ある日、私たちが通行人のなかから物色して、
私『この田舎のドュウルンに。』
氏『ええ。カイゼルがいますよ。ドュウルンは私の故郷で、このあいだもちょっと帰ってきました。』
私『それあ有難い! あなたの御尽力で彼に会えないでしょうか。』
氏『彼って、カイゼルにですか。会ってどうするんです?』
私『どうってただあいたいんです。ぜひ一つ何とかして下さい。』
氏『さあ、困りましたな。私もべつに
と、
猫・木靴・ひまわり、麦の農村の平和と、ホテルの主人の昼寝とを一しょに妨げてしまう。いやに太陽の近い感じのする暑さだ。
ややあって出てきたあるじパブスト氏は、村びとの環視のなかで、急がずあわてずまず紹介状の封を切り、それから眼鏡を出していろいろ
『お前さん方、ほんとの日本人かね?』
私があわてて、そのほんとの正真正銘の日本人なることを力説し主張すると、かれパブスト老は急に述懐的口調になって、
『しばらく日本人を見ませんでしたよ。そうさ、かれこれもう六、七年になるかなあ、夏でした。いや秋!
どうも綿々として尽きない。仕方がないから黙って笑っていると、老人もひとりでに事務へ返って、最後にもう一度手紙を読みなおしてから、特権をもつ人の非常な重要さでつぎのように言った。
第一に、私たちはいま一に運命の動きにかかる
『オウルド・ビリイはこの客間がばかに気に入りましてね、お屋敷のなかへこれとおんなじ部屋を一室つくらせましたよ。』
そういって彼は、その自慢の応接室へ私たちを招じ入れた。
それはさして広くもない黒い板張りの一間で、カアテンから机かけ敷物にいたるまですべて
が、いつとも知れないその報告を当てに、ホテルの二階にのんべんだらりとしているわけにも往かないから、またパブスト氏をつかまえてカイゼルの現在の人相をくわしく訊き
そうするとやはり往還すじに馬糞がダンスし、そのなかを猫が悠歩し、猫に
せまい村うちだから、すぐにカイゼル幽閉の家のまえへ出た。ちょっと土地の豪農といった構えで、アウチ風の門に門番が立っている。私がきく。
『EX・カイゼルはいまいますか。いま何しています?』
彼は笑って答えない。しばらくしてこんなことを言った。
『
そして切符のようなものを二枚渡してくれたので、念のため、
『幾らですか。』
『おぼしめしで結構です。』
思うにカイゼルへのお
むこうに本館が見えて、あけはなした窓に白いレイスが動いている。傷ついたゲルマンの
それからロザリアムへまわる。邸宅と小道をへだてた一劃で、もとの皇帝ウィリアム二世は、ここで余念もなく薔薇をつくっているのだ。ちょうど季節もよかった。前陛下の御丹精になる色とりどりの花が咲き乱れ、そこここに二、三の園丁が鋏の音を立てて、上には、夏の空に団々たる雲のかたまりが静止していた。ここにも児島高徳らしい独逸人がかなり逍遥している。その児島君のひとりに頼んで、薔薇を背景に私たちをスナップしてもらう。
邸は高い木に取りまかれ、鉄柵がめぐらしてある。その直ぐそとに
刑事のように私たちも長いこと家の周囲に張り込んだ。
気早に歩く灰いろの背広、草を打つステッキ――それは私の幻想だった。
ドュウルンに夜がきて、夜が明けた。
運命はついに私達のうえにほほえまなかった。が、私は会わなかったことを感謝している。前帝王が路傍に私という無礼者の奇襲を受けていらいらする場面――老いたるウィルヘルムはいま心しずかに薔薇をつくっている。君! これでもうたくさんじゃあありませんか。
あくる日はまた白日に物音ひとつない青天だった。
ユウトラクト街道に馬糞の粉末が巻き上り、そのなかをのそりと猫が横ぎり、もう一匹よこぎり、二階ではきのうの女が編物をつづけ、それへ
カイゼルに会い、いろいろと談じ食事をともにしました。特にあなたへ宜しくとのことでした。