ハイデッガーが存在に問いを発するにあたって、人間に優先性をあたえたのは、人間がすでに存在の会得をもち、彼のありかた existentia によって、それが何であるか essentia を把握することができるゆえである。
人間においては Was-Sein は Wie-Sein にほかならない。
いかに生きるかということによって、それが何であるかということをあらわにする。ハイネマンは現代哲学のゆくえを、Geist より Leben に、Leben より Existenz への推移をもって説明して、「おのれみずから整えられ型づくられるところの、この生命 Leben がみずからの上にその形式と型態の原理を保持し、しかもみずからそれを意識するとき、われわれはこれを実存在 Existenz と名づける」という。
存在の会得は、みずから現存在の一つの存在規定である。Seinsverst


かかる実存在の意味において、人間は存在への通路 Zugang をもつのである。
こうしたみずからがみずからに向って、身をもってする理解 Beurteilung は、哲学もがその一部であるところの最も広い存在の問、あるいは
美の現象もまた、かかる理解の一つに属しうる。
物理的説明の変遷にもかかわらず、人間において「光」の現象は具体的に判明である。物理的説明が光の現象と等値的射影をもつではあろうけれども、まったく異なれる面の中にひろがっていると考えなければならない。「明かるさ」がなぜに軽さを、「暗さ」がなぜに重さを感ぜしめるか。光の芸術家が常におのれみずからの体系をなぜにもつかについて、物理的説明は問いかけない。
人間はその判明なる光を通して、さらに何ものかに向って問いをかけるのである。
人がみずからの肖像を鏡に映すだけで満足せずして、なぜにもう一枚の平面を架けてそれを描こうとするのか。なぜ見る喜びだけで満足せずして、描く喜びに転ずるのか。
自分はそこで、自分みずからを一枚の画布によって隔てる。エクランにおいてもまた異なった意味でそうである。存在と実存在との隔たりの
存在が光に向ってみずからを問いかけること、そしてそれによって存在を理解 beurteilen すること、かかる存在への通路を指して、われわれはこれを光の芸術とよぶことができるであろう。
光の芸術はこの意味で「見ること」の本体論的構造の一部を構成しなければならない。「考えてみる」「試みてみる」「顧みる」「見地」「意見」等々のごとき思惟ならびに倫理社会領域にまでひろがれる「見ること」の構造の一象眼を占める。
「見ること」はその本質の中に「うつすこと」をもっている。
この「うつす」ことは、それみずから次のごとき二つの意味をもっている。所動的意味の「映すこと」と能動的意味の「映すこと」の間には一つの方向の差異がある。前者においては「覆す」におけるがように被投的意味が強いに反して、後者では「移す」におけるがように描写的に投げ企てるの意味が籠っている。「見ること」の内面にある「うつす」ことはかかる二つの意味をもっていると考えられる。
私はこれが光に二つの方向を与えると考えたい。一つは geworfen 投げられたる光であり、他は entwerfen 投げる光である。
光の芸術はこの光の二つの方向において、おのおの異なれる領域をもつと共に、存在の理解のしかたにおいてそれみずからの構造をもつ。
例えば、撮影機のレンズの構造と映写機のレンズの構造は、この二つの光の方向を判明に区分する。映したフィルムと映すフィルムはこの光の二つの方向の交流の中に同一物なのである。画家の眼の構造もまたそれに似る。ただ機械は、その肉体的技術性を拡大し鮮鋭にするにすぎない。
鏡にうつすこと、画布にうつすことの差異は、この光の二方向性にあると思われる。この一方向の光より、他の方向の光に転ずるとき、そこに人間的操作が加わる。一般に技術とよんでいるところのものがそれである。それは感覚的存在としての人間を媒介機能とする。眼が「見ること」を、耳が「聴くこと」を、口が「言うこと」を、舌が「味わうこと」を、鼻が「匂うこと」を、皮膚が「触れること」を、手が「つくること」等々。さらにそれぞれの機能の特殊なる拡大としてそれぞれの”Verweisen“als Zeigen としての Zeug 道具ならびに機械がその方向転換の媒材となる。
それが媒材となることは、その共通感覚としておのおのの領域の相互等値関連をともなう。例えば「音が高い」「音が低い」「柔らかい光」「渋い色」「黄な声」「声色」、色の意味における「匂い」などがそれである。
この等値関連体の無限なる射影構造がすなわち、感覚的な人間構造なのである。
光の芸術において geworfen 被投と entwerfen 投企の二方向が見ることと描くことの二つの「うつすこと」に展開するごとく、音においても聴くことと唱うことに、言葉においても聴くことということに展開する。その中間者が、すなわち技術である。
一般に美が自然美と芸術美にわかたれるのは、感覚の本質構造がかかる二方向性をもつに起因するのではあるまいか。被投的方向としての感覚型態がすなわち、自然美を構成し、投企的方向としての感覚型態がすなわち、芸術美を構成するのではあるまいか。技術美とはこの二方向の交流的中間態を構成すると思われる。
人間が純粋に芸術においてみずからをみずからの中に涵すのはこの技術美の領域においてである。制作における自己調整、自然の機能に滲透せんとする人間的機能の調和の努力、みずからの人間的機能のまったき運用の訓練、あるべき人間的統一への自然的機能の克服などのものが技術のもつ意味である。生理的身体より、心理的調整、社会的訓練、物理的機械のすべてを人間的機能は包含する。見ること、聴くこと、いうことが、この技術の構造とその変遷によって、種々の構造と同時に歴史的類型をもつ。歴史的必然が漸次人間的機能の言葉をして個人的構成を越えて、社会的集団的構成をも包含せしむるかぎり、光も音も言葉もその技術の領域を拡大すると共に、人間的問いかけの範囲をさらに広く大きくしていく。
オスカー・ベッカーが「直観的空間のアプリオリ的構造」なる論文において、空間の次元性を純粋人間的物理学の上に構成した。かかる試みは芸術にとっては、まことに貴重である。この考えかたは日本語の空間的構成においてもまた可能と思われる。例えば
もしかかる生命的空間が真に構成さるるとするならば、芸術の領域における人間学的考察は大いなる飛躍をもつであろう。空間の中に
例えばここで絵画について考察するならば、ここに一つの Vorhandensein 事物存在に対して位置と距離と範囲を規定してみる場合、単に被投性においてみるとするならば、それは平凡なる自然美的観照である。しかし、より深く視覚を
このことが投企的視覚を導きだす。画布の二次元性はかかる生命の空間によって構成される。被投的視覚の見ることにおいて、距離、位置、範囲が決定するとき、それが投企的視覚において二次元性をもつ。かくて、画布の二次元性は物理的二次元性ではなくして、被投より投企への一瞬一瞬脱落する存在的時間が実存在と現存在の隙虚に挿入する極限的切断面として考えられる。生ける空間 Raumlichkeit-In-Sein の影として画布が考察される。
この被投的視覚の距離と、位置と、範囲が、連続的自由変更を可能ならしむるとき、その視覚の深化、すなわちその投企的視覚の現象は彫刻的空間としてあらわれる。かかる空間をドイツ美学は仮象 Schein と呼びならわしているけれども、むしろかかる空間こそが
こうした関係が言語の領域でも考えられる。例えばここに「気持がよい」という言葉がある。その言葉を聴くにあたって、いかなる方向によって、いかなる範囲において被投せらるるか、すなわち、「気持がよいといいなすった」「気持がよいといった」「気持がよいとぬかした」「気持がよいとほざいた」「……と、いっただろう」「……と、いったに違いない」など、いろいろの立場が可能である。
絵画で光の現象において距離、位置、範囲を決定してうつすごとく、ここでも言葉の現象においても距離、方向、範囲を決定して聴き、それを描写して語ることが可能となる。小説の立場がそれである。そこでは投げらるる立場が一つに決定してその上に投企が成立する。演劇においてはこの方向と距離と範囲の自由変更が可能である。ただ「気持がよい」とだけ語らしめる。観衆はその言葉を無限の方向からそのおのおのの立場のもとに受けとる。また往々にして劇作家は、自分の内にその多くの立場をもてるものである。小説にまとめんにはあまりにも多くの自分をもてる場合、それは劇の姿をもって彼みずからをあらわしめる。かくのごとき絵画より彫刻への推移、小説より演劇への推移において、そこにある空間構成は空間的性格における人間の構造を解析する。
かくて、空間的性格は芸術的素材にあるものと、芸術的作品にあるもののほかに、人間の技術の中にあるものがあらわれてくる。しかもその第三のものこそが前二者の根底に本質的に横たわるものとなるであろう。そしてそれらのもので空間の芸術的性格を構成するであろう。
芸術はそれみずから人間的である。それが人間的であることは、同時にそれが歴史的であることを意味する。このことが芸術の歴史性をもたらす。ヘーゲルが宗教と哲学史と並列して、芸術を絶対精神の歴史性の上にのみ見いだしたのもまたこの意味で興味深い。そのことは芸術的素材ならびに作品が歴史的色彩を帯びるという意味のみではない。芸術そのものが人間的歴史類型をもつということである。
例えば光そのものが人間的類型をもつことをここに注意したい。ギリシャにおいてψαινωにおける明かるさと、中世の lumine vitae という明かるさは、それみずから類型を異にしているといわなければならない。
当時かかる題材が多かったと共にまた作品も多かったという意味を離れて、中世期の絵画を支配する光がどこからさし、いかなる類型をもっているかに注意さるべきである。これらの光をドラクロア以後また印象派の人々の光と比較し、しかもそれらの光が激しい侮辱と闘争の中より出現したことを思いあわせて、人間がいかに光を獲得しきったかを深く顧みるべきである。
神の光に
電気の光も太陽の光の発見者にとっては新しい性格の出現である。太陽のごとく朗かといわんにはあまりにも内面的であり、繊細であり執拗である。神の光のごとく神秘といわんにはあまりにも現実的であり平面的であり、精緻的である。かかる情趣が近代人の光の性格でもあろう。映画の近代性はかかる情趣の上にあらわれる。その意味でエクランは集団の性格が集団の内面を顧みる一つの切断面として意味をもつとも思われる。さらに電気の光が真空管の光に転ずるとき、そのもつ情趣はさらに大いなる飛躍をもつであろう。
かかる光の人間的技術の進展をわれわれは感覚型態の名によって
例えば機械は人間の Zeug 道具である。その機械は機械に属するあらゆる細部と共に一つのオルガンをなしている。その有機的組織の構造は、人体のオルガンに相似であるように、個人が集合して構成している社会的組織にもまた相似である。そこで個人は機械に対して、関連の等値性、関連の相似性のすがたにおいてこれを見る。情熱の中に秩序を、秩序の中に情熱をもつところのオルガナイズの情趣をその中に見る。
ギュヨーが「美の感情はソリダリテの感情とユニテの感情の高い形式にすぎない。それは、われわれ個人の生活の中にある社会の意味である」といったのはこの意味で興味深い。
ここにわれわれは感情移入の美学が個人主義的観念型態に立つかぎり、それを関連の等値性の情趣に換算すべき必要に迫られているのを感ずる。
言葉の感覚型態においてもまた同じような変遷をもっている。いう言葉より書く言葉に、書く言葉より印刷する言葉に、印刷する言葉より電送する言葉に、さらに真空管の言葉に転ずる言語型態の変遷は言語そのもののもつ情趣を次から次に変じている。ことに電送する言葉の出現は新聞紙の形式を生みだすと共に今後のもつ集団的芸術を約束するであろう。真空管を通して、大空を網のごとく往来する言葉の交錯は、言葉――ヴントのいう意味の Greifen in die Ferne の意味において――の最も深い情趣でなければならない。芸術はこれらのものの将来にひろい展望をもつであろう。
音においてもまた、そうである。自然物あるいは武器の音響より(弓絃より琴が生まれたように)神に捧ぐる音響、英雄に捧ぐる音響より、機械の音響、ついにさらに真空管ならびにフィルムの音響に転ずるにしたがって、人間的技術は急角度に集団的に展開せんとしている。
かかる人間の技術的類型が感覚型態に深い関連をもち、芸術を変革し展開していき、時間の芸術的性格のひとつを形成していく過程をわれわれは深い興味をもってみずにいられない。
かかる反省が芸術における人間学的考察の粗いひとつの試みともならば、この小論の目的はたっせられるのである。