私が在米中の見聞から取材した創作でして、あちらの生活に泡のように浮んでは消える探偵小品的興味を、私の仮装児ヘンリイ・フリント君に取扱わせた短篇の一つでございます。
大戦当時の英国首相クライヴ・ジョウジ氏の大陸旅行の一隊に
電文は簡単で何んな事件が突発したのか判らなかった。それだけフリント君は不平で耐らなかった。靴へ少し水をかけた黒人の列車ボウイを危く殴り飛ばしそうな勢だった。それでも、バファロウの街の遠明りが闇に呑まれて、汽車が
何の位い眠ったか解らない。ふと眼が覚めると、汽車は平原の寒駅に止まって、虫の声がしていた。何時の間にか、田舎ふうの紳士がフリント君の前に座って、旅行案内を見ていた。
「ここは何処です」とフリント君が訊いた。
「ラカワナです。どちらまで?」
「ええ、紐育へ帰るんです」
「私も紐育までです、お供させて戴きましょう。何うもこの夜汽車の一人旅というやつは――」
紳士は
十七八の田舎娘が慌て這入って来て、向うの席に着くと、汽車は動出した。
「そうですか、葉巻はやらないですか、若し御迷惑でなかったら、一つ吸わせて戴きます。あ、お嬢さん」と彼は娘に声を掛けた、「煙草のにおいがお嫌いじゃないでしょうね」
「あの、
「ここが空いてるじゃねえか」
「あ、やったな」と青年が怒鳴った。
「あら、御免下さい。私ほんとに、何うしましょう。つい、何の気なしに押したんですもの」
「何の気なしに? へん、それで済むと思うか。そら、見ろ、こんなに滅茶滅茶に毀れたじゃないか」
上衣の隠しから彼は時計を出して、娘の前へ突きつけた。よろめきながら豪い権幕で彼は怒鳴り続けた。「何うするんだ。おい、何うして呉れるんだ」
娘は火のように赤くなった。今にも泣出しそうにおろおろしていた。中世紀の騎士の血を
「君、君、何だか知らないが言葉使いに気を付け給え、相手は女じゃないか」
「何だと、こりゃ面白い」
と青年はフリント君のほうへ向き直った。「言葉なんか何の足しにもならねえ。俺は只、時計の代を六十
「何んなにでもお詫びしますから、御免下さいな、ね、ね」
「いんや、
「車掌を呼ぼう。車掌を」
紳士が立上った。
「まあ、お待ちなさい」
フリント君が制した。
「だって、あんまりじゃありませんか」
と紳士は中腰のまま、息もつけない程憤慨していた。「なんだ、そんなものが
「おや、そんなことを仰言るなら、綺麗に形を付けて下さるんでしょうね」
「幾らだ」
「六十弗」
憤然として紳士は隠しへ手を突っ込んだ。フリント君は其の手を押さえた。
「馬鹿馬鹿しいじゃないですか」
「なあに、引っかかりです。女の児が可愛そうです。それに安いもんでさあ――」
フリント君は女の方を見た。窓に額をつけて暗い外を見ていた女は、ちらとフリント君に哀願の
「宜しい」とフリント君は
「飛んでもない、私があの時計を買おうと言い出したんですから――」
「いや、是非私に買わして下さい。私が始め口を出したのだから――」
暫らく紳士的に争った末、
「色々有難うございました」
「何うもお
一度にこういう声がした。青年と女とがにこにこ笑いながら、腕を組んで降りるところだった。善行をしたあとの快感に耽っていたフリント君は、何の気なしにそれを見送っていた。その手から時計を取りながら、紳士が叫んだ。
「遣られましたよ。御覧なさい、この時計だって前から毀れていたものです。畜生、何て野郎だろう、あの女の図々しいったらありゃしない、一つとっちめて遣らなくちゃ――」
立ち上ると一しょに紳士は二人のあとを追掛けようとした。
「お待ちなさい、ま、お待ちなさい。相手が悪い」
と言ったフリント君の頭には、俯向いている少女のしおらしい横顔が焼付けられてあった。
「何をしやがる」紳士はフリント君の手を払うと、動き出した列車から飛び下りた。三人揃って改札口を出て行くのが窓からちらっと眺められた。
何ういう風にあの三十弗を今度の旅費明細書に割り込めて、社会部長マックレガアに請求したものかしら、という楽しい問題が、紐育へ着くまでのフリント君の頭を完全に支配していた。
(「探偵文藝」一九二五年五月号)