土佐長岡郡の奥に
その本山に吉延と云う谷があって、其処には猪とか鹿とか大きな獣がいるので、山猟師をやっている者で其処へ眼をつけない者はなかったが、しかし、その谷には時どき不思議なことがあるので、気の弱い者は避けて往かなかった。冬の初めであった。半兵衛と云う猟師は鉄砲と
冷たい風が頭の上を吹いて通って、霜になりかけた露が時どき頬に落ちてきた。半兵衛は煙草を喫みながら耳を澄まして、獣の跫音がしやしないかと注意していた。そのうちに夜が段だんと明けて来た。仰向いて空の方を透すと空は蒼白くなって、光のなくなった星が二つばかり
林の下も次第に明るくなって木の葉の色も形もやや識別することができるようになった。
紫色に光る一つの山
(大きな蚯蚓もあるもんだ)
蚯蚓はそれっきり動かなくなった。と、その傍の黄色になった草の中からにょこにょこと動きだしたものがあった。それは土色をした蛙であった。蛙はその眼をきろきろとさしながら這いだして係蹄の傍へ往き、ちょっと立ち停って何か考えるように首を傾げていたが、やがてぱくりと口を開けたかと思うと、彼は山蚯蚓をくわえて眼を白黒にさしながら呑んでしまった。蛙はやっと一仕事終ったと云うような態をして踞んだ。
何処にいたのか黒の地に赤い斑点のある小蛇が蛙の後の方へ這いだして来た。半兵衛は眼をひかずにそれを見ていた。蛇は蛙の傍へ往くと鎌首をあげて、赤い針のような舌をちらちらと一二度出した後に蛙の
(けたいなこともあるものじゃ)
半兵衛は鬼魅がわるかった。その半兵衛の眼の前を灰毛の大きな体のものが掠めた。谷の下の方の林の中から一疋の大きな野猪が不意に出て来て、半兵衛の
(今日はけたいな日じゃな)
半兵衛は鉄砲を持ったなり考えだしたが、なんと思っても不思議でたまらない。
(今日は、ろくなことはあるまい、帰ろう、帰ろう)
半兵衛は遂に帰ることに定めた。彼は舌打ちしながら初めにあがって来た路をおりて、谷の下の方へ帰りかけた。栂の木が生えて微暗い処があった。半兵衛は其処へ往くと手に持っていた鉄砲を肩に掛けた。
「この
半兵衛は腰にさしていた山刀を抜いて、老僧の真向から切りおろした。と、二つになって倒れる筈の老僧が二人になって並んで手を拡げた。剛胆な半兵衛もこれには少し驚かされた。
「まだそんなことをしやがるか」
半兵衛はまた右側の妖僧の真向へ切りつけ、次の刀で左側の僧の胴をすくい切りに切った。
「これでどうじゃ」
妖僧は四人になって手を拡げた。
「まだそんなことをするか」
半兵衛はもう見さかいなしに山刀で切って廻った。妖僧は十四五人になった。
「くそっ」
半兵衛は滅多切りに切って廻った。そして、切りながら見ると妖僧の体は切るに従って多くなって来た。半兵衛は此処にこうしていてはかなわないと思ったので、刀を
「くそっ、くそっ、くそっ」
半兵衛は血声を揮り絞って切って廻った。そして、へとへとになってしまったところで、木の根か岩角かに躓いて刀をなくしてしまった。それでも、まごまごしていては妖僧のために命を失う恐れがあるので、彼は踞んで手に触るものをなんでもかんでも掴んで投げた。
妖僧の群は辟易しだした。妖僧は一人二人と逃げはじめた。半兵衛はそれに力を得て一層一心になって投げた。妖僧の数は益ます減ってもう此処に一人其処に一人と云うようになっていたが、それもとうとういなくなった。
半兵衛はがっかりした。それと同時に夢が覚めたようになった。それでも彼はまだ其処に妖僧がいるような気がしたので、両手に掴んだ最後の小石をばらばらと投げた。その小石は皆