天地愛好すべき者多し、
而して尤も愛好すべきは処女の純潔なるかな。もし黄金、
瑠璃、真珠を尊としとせば、処女の
純潔は人界に於ける黄金、瑠璃、真珠なり。もし人生を
汚濁穢染の
土とせば、処女の純潔は燈明の暗牢に向ふが如しと言はむ、もし世路を
荊棘の埋むところとせば、処女の純潔は無害
無痍にして荊中に点ずる百合花とや言はむ、われ語を極めて我が愛好するものを嘉賞せんとすれども、人間の言語恐らくは此至宝を形容し尽くすこと能はざるべし。
噫人生を厭悪するも厭悪せざるも、誰か処女の純潔に
遭ふて欣楽せざるものあらむ。
然れども我はわが文学の為に苦しむこと久し。悲しくも我が文学の祖先は、処女の純潔を尊とむことを知らず。徳川氏時代の戯作家は言へば更なり、古への歌人も、また
彼の霊妙なる厭世思想家
等も、遂に処女の純潔を尊むに至らず、千載の孤客をして批評の筆硯に対して先づ血涙一滴たらしむ、
嗚呼、処女の純潔に対して端然として
襟を
正うする作家、遂に我が文界に望むべからざるか。
夫れ高尚なる恋愛は、其源を無染無汚の純潔に置くなり。
純潔より恋愛に進む時に至道に
叶へる順序あり、
然れども始めより純潔なきの恋愛は、
飄漾として浪に浮かるゝ肉愛なり、何の
価直なく、何の美観なし。
わが国の文学史中に偉大なる理想家なしとは、十指の差すところなり。近世のローマンサーなる曲亭馬琴に至りては批評家の
月旦甚だ区々たり、われも今
卒かに彼を論評する事を欲せず。細論は後日を期しつ、試みに彼が一代の傑作たる
富山の奥の
伏姫を観察して見む。ロマンチック・アイデアリストとしての馬琴の一端は、之を以て
窺ひ知るを得んか。
わが美文学は、宗教との縁甚だ深からず、別して徳川氏の美文学を以て然りとなす。俳道の達士桃青翁を除くの
外、玄奥なる宗教の趣味を知りたる者あらず、是あるは恐らく馬琴なるべし、
然ども桃青と馬琴とは其方向を異にして仏教の玄奥に入れり、もし桃青の仏教を一言の
下に評するを得ば彼は入道したるなり、もし馬琴の仏教を一言の下に表はすことを得ば彼は知道なり、桃青は
履践し、馬琴は観念せり、桃青は宗教家の如くに仏道をその風流修行に応用したり、馬琴は哲学者の如くに仏道を其理想中に適用したり、桃青の仏道は
不立文字にして、馬琴の仏道は
寧ろ小乗的なるべし。われは桃青を俳道の偉人として尊敬すると共に、馬琴を文界の巨人として畏敬せざるを得ず。
軽浮剽逸なる戯作者流を圧倒して、
屹然思想界に
聳立したる彼の偉功の如きは、文学史家の大に注目すべきところなるべし。
然れども是等の事、
凡てわが論題外なり、いで富山の
洞に
寂座し玉ふ伏姫を観察せむ。
「八犬伝」一篇を縮めて、馬琴の作意に
立還らば、彼はこの大著作を二本の角の上に置けり。其一はシバルリイと儒道との混合躰にして、他の一は彼の確信より成れる因果の理法なり。全篇の大骨子を
彼の仁義八行の
珠数に示したるは、極めて美くしく儒道と仏道とを錯綜せしめたるものなり。その結構より言ふ時は、第一輯は序巻なり、而して第二輯の第一巻は全篇の大発端にして、其
実は「八犬伝」一部の脳膸なり、伏姫の中に因果あり、伏姫の中に業報あり、伏姫の中に八犬伝あるなり、伏姫の
後の諸巻は、俗を喜ばすべき侠勇談あるのみ。
伏姫に対する
八房は馬琴の創作にあらずと難ずるものもあれど、余はむしろ此を馬琴の功に帰するものなり。試みに八房を
把りて

察して見む。伏姫を観るの順序に於て斯くするを至当と思へばなり。
八房の前世は、彼の
金碗孝吉に誅せられたる奸婦
玉梓なり。
「伏姫は此
形勢を。つく/″\と見給ひて。此犬誠に
得度せり。
怨るものゝ
後身なりとも。既に仏果を得たらんには。」
云々。
又た
義実が自白の
言に「かくてかの
玉梓が。うらみはこゝに
※[#「口+慊のつくり」、107-下-12]らず。八房の犬と
生かはりて。伏姫を
将て。
深山辺に。隠れて親に物を思はせ。」
云々。
然れば、馬琴の八房は玉梓の後身たること、仏説に
拠つて因果の理を示すものなること明瞭なり、
然して、この八房をして伏姫を
背ひ去るに至らしめたる原因は何ぞと問ふに、事成る時は、伏姫の
婿にせんと言ひたる義実の一言なり。伏姫が父を
諫めて、賞罰は
政の枢機なることを説き、一言は以て
苟且にすべからざるを言ひ、身を
捐てゝ父の義を立てんとするに至りては、宛然たるシバルリイの美玉なり。
爰に至りて伏姫の「運命」を
形くりしもの二段階あり、その一は根本の因果にして仏説をその儘なり、而して其二は一種のコンペンセイシヨンにして、一言の
失言より起れるものとす。其二の者は
蓋し哲学的観念より来れるものなるべし。
馬琴を論ずるもの、
徒らに勧善懲悪を以て彼を責むるを知つて、彼の哲学的観念の酬報説に論入せざる、評家の為に惜まざるを得ず。勧善懲悪主義は支那思想より入り来りたる小説の大本の主義なれば、馬琴と
雖是に感染せざるを得ざるは勢の然らしむる所なるが、馬琴の
中には別に勧懲主義排斥論をして浸犯するを得ざらしむるものゝ存するあるなり。父義実の一言を誤らざらんとて、一身の破滅を甘んずるは、シバルリイの極めて美はしき玉なり、而して其の
是を実行するに至りては、海潮の干満整然として、理法の円満を描くに似たり。
伏姫の運命を
形りしもの、右の二者あるの外に、驚くべき配合の美と言ふべきは、八房の他の一側なり。彼は
玉梓の悪霊を代表すると共に、仏説の
所謂凡悩なるものを代表せり、この凡悩の人間に
纏
するの実象を縮めて、之を伏姫と呼べる清浄無垢の女姫に加へたり。凡悩を見ること、他の多くの作家が為す如く
惑溺癡迷の人物に加ふる事をせず。極めて無邪気にして極めて清潔なる一処女に附き纏はしむ。悪魔の魅力を仮用して高潔なる舞台を
濁穢する泰西作家の妙腕は、即ち馬琴が八房の
中にあり。始めは伏姫徐々として八房の
後に従へり、後には八房伏姫を背にして飛鳥の如くに走れり、凡悩の人間を魅するの状を写す何ぞ一に
斯の如く霊なる。
輝武健馬に鞭ちて
逐へども遂に及ばず、凡悩の魔力何んぞ人間の及ぶところならんや。雲霧深く
籠めて、山洞又た人力を以て達すべき道なし、輝武の眼には川一条なり、
然れども霊界の幻想を以て曰へば、川一条は人界と幻界との隔てなり。「横ざまに推倒されて」以下の文章深く味ふべし。
役行者は蓋し「天命」の使者なるべし。
是に就きて言ふべき事あれど本題を離るゝ事遠ければ
茲には言はず、唯だ読者と共に記憶すべきは、伏姫が幼少の時に行者より得たる珠数の事なり。馬琴の深く因果の理法を信ずるや、普通の作家の如く
行の奇跡を以て伏姫の業因を断たしむることなく、
却つて
彼八行の珠玉を与へて、伏姫の運命の予言者とならしめ指導者とならしめたるもの、支那小説の古套とは言へ馬琴の妙筆にあらざれば、斯の如き照応を得ること能はざらむ。
次に観察すべきは
富山洞なり。富山洞はいかなる種類の幻界なるべきや。
人間世界を因果転輪の車の上に立つものとせば、富山は馬琴の想像中にありて因果の車の軸なり。因果の理法の
盈満を示したるものは
富山洞のトラヂヱヂイにして、富山はこの理法をあらはしたる舞台なり。伏姫は世を捨てつ世に捨てられて此山に入れり。この山の真相を言へば、一方に経文あり。一方に凡悩あり。一方に仙縁あり。一方に毒業あり。一方に無染あり。一方に無慾あり。一方に菩提あり。一方に畜生あり。表面を仏界なりとせば、
裡面は魔界なり。表面を魔界なりとすれば、裡面は仏界なり。仏が魔か、魔が仏か、一なるが如く他なるが如く、紛乱錯綜いづれをいづれと定め難し。斯くの如くにして業因業果の全く
盈満するまでは、
一箭の飛んで勢の尽くるまでは、落ちざるが如きを示せり。これ幻界なり。
権者の大方便と題するものは、即ち所謂コンペンセイシヨンの大法なるにあらずや。故に富山の洞を言ふ時は、馬琴の想像中に於て、因果の理法をつゞめたる一幻界に外ならじ。
この幻界に、かの妖犬に伴はれて入りぬる伏姫はいかに。
山峡に伴はるゝ時の決心は、身を妖犬に許せしなり。許せしとは
雖ども、肉膚を許せしにはあらず、誠心を許せしなり。この誠心は抛げて八房の
首にかゝれり。
渠もしこの誠心を会得すれば好し、然らざれば渠を一刀に刺殺さんとの覚悟あり。彼の感得せし水晶の珠数は
掛て今なほ襟にあり、
護身刀の袋の緒は常に
解て
右手に引着けたり、法華経八軸は暫らくも身辺を離れず、而して大凡悩大業獣に向ふこと
莫逆の朋友に対するが如し。誠心は非類にも許すべしとすれど、肉膚は堅く純潔を守りて畜生に許さず。一方には穢土穢物を嫌ひたまはざる仏の慈悲に似たるものあり、他方には餓鬼畜生の慾情と戦へる霊妙なる人類としての純潔あり。これ伏姫が
洞に入りたる時の有様なり。
「又あるときは。
父母のおん為に。経の
偈文を
謄写して。前なる山川におし流し。春は花を
手折て。仏に
手向奉り。秋は入る月に
嘯て。
坐に
西天を
恋めり。」といふに至りては、伏姫の心中既に大方の悲苦を
擺脱して、澄清洗ふが如くになりたらむ。八房も亦た時に至りては、読経の声に耳を傾け、心を
澄し欲を離れて、
只管姫上を
眷慕するの情を断ちぬ。更に進んで「
仄歩山
嶮けれども。
蕨を
首陽に折るの怨なく。
岩窓に梅遅けれども。
嫁て胡語を学ぶの悲みなし。」といふに至りては、伏姫の心既に平滑になりて、苦痛全く
痊え、真如鏡面又た一物の存するなし。
然れども亦た凡悩の夢に驚かさるゝ事、全く無きにあらず。
「
有一日伏姫は。
硯に水を
滴んとて。
出て
石湧を
掬給ふに。
横走せし
止水に。うつるわが影を見給へば。その
体は人にして。
頭は正しく犬なりけり。」
云々。
とありて、之より月水の
絶たることを説けり。
こゝにも亦た因果の道法を隠微の
中に示顕して至妙に達せり。月水の絶たるは、仙童に
訊ふまでもなく懐胎の
徴なり。而してこの懐胎は八犬子を生む為にあらずして、その
実、宿因の満潮を示したるものなり。これよりして強く張りたる弦は
弛みはじめたるなり。その
体は人にして其頭は犬なりと云ふは、即ち是れ宿因の絶頂に登りたるを指すにやあらむ。
更に進みて仙童に言はせたる予言の
中に、「今この
八の子を
遺せり。八は
則八房の八を
象り。又法華経の
巻の
数なり。」とあるに至りては、明らかに業と法との両者の対峙して、伏姫に臨めるを示し、遂に其宿因よりして却つて八英雄を得るに至らしめたる禍福の理法、
益明らかなり。同じ筆意にて成れる文字この
後にも見えたり、曰く「こは不思議や。と取なほして。とさまかうさま見給ふに。数とりの珠に顕れたる。如是畜生発菩提心の。
八の文字は跡もなく。いつの程にか仁義礼智忠信孝悌となりかはりて。いと
鮮に読まれたり。」
更に又た、
「やよ八房。わがいふ事をよく聞けかし。よに
幸なきもの二ツあり。又幸あるものふたつあり。
則吾儕と
汝なり。己れは国主の
息女なれども。義を重しとするゆゑに。畜生に
伴る。これこの身の不幸なり。しかれども
穢し犯されず。ゆくりなくも世を
遯れて。自得の門に三宝の
引接を
希ひしかば。遂に念願成就して。けふ往生の素懐を
遂なん。…………
又只汝は畜生なれども。国に大功あるをもて。
軈て国主の
息女を獲たり。
人畜の道
異にして。その欲を得遂げざれども。耳に妙法の
尊きを
聴て。…………おなじ流に身を
投て。共に
彼岸に到れかし。」
といふに到ては、平等無差別、遙かに人間を離れて菩薩の心備はれり。誠心は隠すところなく八房に与へたり、而して不穢不犯、
玲瓏たるチヤスチチイの処女、禍福の外に卓立し、運命の鉄柵を物ともせざるは、
実にこの馬琴の想児なり。
最後に
護身刀を引抜て真一文字に
掻切たる時に、
一朶の白気閃めき出で、空に舞ひ上りたる八珠「
粲然として
光明をはな」つに及びて、「
歓しやわが腹に。物がましきはなかりけり。神の結びし腹帯も。疑ひも
稍解たれば。心にかゝる雲もなし。」
云々と云ふに至りては、明らかに因果の結局をあらはして、八房と伏姫との関係を閉ぢたり。
要するに伏姫は因果の運命にその生涯を献じたる者なり。因果は万人に纏ひて悲苦を与ふるものなるに、万人は其
繩羅を脱すること能はずして、生死の巷に
彷徨す、伏姫は自ら進んでこの大運命に一身を
諾ねたるものなり。
義は彼をこの大運命の囚獄に連れ行きたる囚吏なり、宿因は八房に代表せられて、彼を破滅に導きたるなり。破滅は又た幸福を里見の家に
臨らせたるなり。
凡て是等の錯綜せる哲理の外に、晃々としてこの大作を輝かすものこそあれ。そを何ぞと曰ふに、伏姫の純潔なり。始めより終りまでの純潔なり。その純潔の誠実は通じて非類の八房を成仏せしめしは、尊ふとしと言ふも愚ろかなり。
わが伏姫を論ぜんと企てしは、その純潔を観察するに止めんとせしなるに、図らずも馬琴の哲学に入りて因果論等をほのめかすに至りぬ。浅学の身にして文学上の大問題に蹈入りたるは深く自ら恥づるところ。読者もしこの心して読まざれば、或は我が精神に違はむことを恐る。
(明治二十五年十月)