悲劇必らずしも悲を以て旨とせず、厭世必らずしも厭を以て趣とせず、別に一種の抜く可からざる他界に対する自然の観念の存するものあり、この観念は以て悲劇を人心の情世界に
愬へしめ、厭世を高遠なる思想家に迎へしむ、人間ありてよりこの観念なきはあらず、或は遠く或は近く、大なるものあり、小なるものあり、宗教この観念の上に立ち、詩想この観念の
糧に
活く。
この観念は世界の普通性なり、
而してこの観念あると共に離る可からざるものは、この観念に
二元性ある事なり。或は善悪と云ひ、或は陰陽と言ひ、或は光暗と云ふが如き、ペルシヤのむかしに、アームズトの神、アハメルの神ありし如く、イスラエルのむかしに、ヱホバ神と悪魔とを対比せし如く、顕著なると顕著ならざると、一神と多神との区別あり、あらざるとに
拘らず、彼の元を二にするの性は此観念に離れざるなり。
凡そ詩歌あるの国に於て
鬼といふ字のあらざるはなかるべく、
神といふ字のあらざるはなかるべし、コメデイ或は鬼神なきの国にも発達するを得ん、トラゼヂイに至りては必らず鬼神なきの国に興るべからず、シユレーゲルも論じて古神学は
希臘悲劇の要素なりとは言へり、げにやソホクルス以下の
名什も、彼国に鬼神なかりせば恐らくは伝ふる程の物にてはあらざりしならむ。
フヱーリイあり、ヱンゼルあり、サイレンあり、スヒンクスあり、或は空中に
棲めるものとし、或は地上の或奥遠なるところに住めりとなす、共に他界に対する観念なり、遠近は世界の広狭によりて差ありしのみ。或は聖美なるもの、或は毒悪なるもの、或は慈仁なるもの、或は
獰猛なるもの、宗教の変遷、思想の進達に従ひて其形を異にするが如しと
雖、要するに二岐に分れたる同根の観念なり。
ギヨオテのメヒストフエリスを捕捉して其曲中に入らしむるや、必らずしも
斯の如き他界の霊物実存せりと信ぜしにもあらざるべし、余が他界に対する観念を論じて、詩歌の世界に鬼神を用ふる事を言ふも、
強いて他界の鬼神を惑信するにはあらず。詩歌の世界は想像の世界にして、霊あらざるものに霊ありとし、人ならざるものに人の如くならしめ、実ならざるものを実なるが如くし、見るべからざるものを見るべきものとするは、此世界の常なり、万有教あらざる前に此世界には既に万有教の趣味あり、形而上の哲学あらざる前に此世界には既に形而上の観念あり、想像は必らずしもダニヱルの夢の如くに未来を
暁らしむるものにあらざるも、朝に暮に眼前の事に
齷齪たる実世界の動物が冷嘲する如く、無用のものにはあらざるなり。漠々茫々たる天地、英国の大詩人をして、
There are more things in heaven and earth,
Horatio,
Than are dreamt of in your philosophy.
と
畏れしめたるもの、
豈偶然ならんや。
「ハムレツト」の幽霊は実に此観念、この畏怖より、シヱークスピアの
懐裡に
産れたり。其来るや極めて厳粛に極めて
凄
なり、
恰も来らざるべからざる時に来るが如く、其去るや極めて静寂なり、極めて端整なり、恰も去らざる可からざる時に去るが如し。来るや他界より歩み来りたる跡を隠さず、去るや他界に去るの意を蔽はず、極めて
熱熾なる悲劇の真中に、極めて幽玄なる光景を描き出す、
茲に於て平生幽霊を笑ふものと雖、
悚然として人界以外に畏るべきものあるを
識り、悪の秘し遂ぐべからざるを悟る。彼一篇より幽霊の作意を除き去らばいかに、恐らくはシヱーキスピーア遂に今日のシヱーキスピーアにあらざりしなるべし。
長足の進歩をなせる近世の理学は、詩歌の想像を殺したりといふものあれど、バイロンの「マンフレツド」、ギヨオテの「フオウスト」などは実に理学の外に超絶したるものにあらずや、毒鬼を
仮来り、自由自在にネゲイシヨンの毒薬を働かせ、風雷の如き自然力を
縦にする鬼神を使役して、アルプス山に玄妙なる想像を構へたるもの、何ぞ理学の盛ならざりし時代の詩人に異ならむ、その異なるところを尋ぬれば、古代鬼神と近世鬼神との別あるのみ。詩の世界は人間界の実象のみの占領すべきものにあらず、昼を前にし夜を後にし、天を上にし地を下にする無辺無量無方の
娑婆は、即ち詩の世界なり、その中に遍満するものを日月星辰の見るべきものゝみにあらずとするは、自然の
憶度なり。
生死は人の疑ふところ、
霊魂は人の惑ふところ、この疑惑を以て三千世界に対する憶度に加ふれば、自からにして他界を観念せずんばあらず。地獄を説き天堂を談ずるは、小乗的宗教家の
癡夢とのみ思ふなかれ、詩想の上に於て地獄と天堂に対する観念ほど緊要なるものはあらざるなり。
新教勃興後の
基督教国は一般に新活気を文学に加へたり、其然る
所以のものは基督のみ是を致せしにあらず、悪魔も
与りて力あるなり、言を換へて云へば、聖善なる
天力に対する観念も、邪悪なる
魔力も共に人間の観念の区域を拡開したるものにして、一あつて他なかるべからず、基督の神性は東洋の唯心的思想が達せしむる能はざるところに観念を及さしむると共に、サタンの魔性は東洋の悪鬼思想の到らざるところまで観念を達せしむ。一神教の
裡面は一魔教なり、多神教の裡面は即ち多鬼教なり、一神教には中心の権あるが故に中心の善美あり、是と同時に一魔教にも中心の統御あるが故に中心の毒悪あり、一のポジチーブに対して一のネガチーブあり、多のポジチーブに対して多のネガチーブあるは当然の理なり。
斯の如くなるが故に、欧洲諸国に行はるゝ詩想は日本に求むべからず、善美なるものに対する観念も醜悪なるものに対する観念も、中心を有せず焦点を有せざるが故に、遠大高深なる鬼神を詩想中に産み出す事を得ざるなり。
漫然語を
為すものあり、曰く、我国にも幽玄高妙なる想詩を構ふるに足るべき古神学あるにあらずやと。余を以て是を見れば、我国の古神学は或は俗を喜ばすべき奇異譚を編むには好材料たるべきも、到底
所謂幽玄を本とする想詩を構ふるに適するものならず。其第一の理由は、到底今日を以て往古の古神学を用ふる事能はざること是なり、即ち古神の詩歌に入るは少くも古神に対する信仰ある時代にあらざれば不可なり、「フオウスト」を構へたるギヨオテは近世の鬼神を中古の物語に応用したるなり、古代の鬼神を近代の物語に
箝めて玄妙なる識想を
愬へんとするは、到底為すべからざる事なり。再言すれば我国の古神は既に文学上に於て死神なり、いかなるジニヤスの力を以ても復活せしむべからざればなり。其第二の理由は、我国の古神は霊躰にあらずして人間なること是なり、出没自在の神通力あるにあらず、宇宙万有を統治するものにあらず、報罰の全権を掌握するものにあらず、其天界に領有するところ多からず、ジニヤスの力ありとも是を仮用するに道なからむ。第三の理由は、其複数なること是なり、前に言ひたる事あれば重ねて説かず。斯の如く
我邦の文学は古神学に恵まるゝところ極めて少なし。
仏教侵来以後の日本は、他界に対する観念の発達大に著るしきを示せり。然れども想像的鬼神の輸入あると共に一方に於ては、万葉時代に行はれたる単純なる、「自然力」に対する恐怖を、其心外無法の斧を以て破砕したり。精霊の思想は以て幽霊の新題目を文学に加ふるところありしと雖、一方に於ては輪転あり、無常あり、寂滅あり、以て人間の思慕を
截断し、幽奥なる観念を
遮るに足りしなり。仏教文学の精粋と呼ばれたる謡曲の中に極めて普通なる幽霊の思想は、人間の喜怒哀楽等の情意に動かされて浮き出るものにして、人間を其儘なり、彼の O, all you host of heaven! と冒頭に書出して、幽霊と他界の悪霊と協合したるものゝ如くに
見はす者に比す可きにあらず、
況んや狂公子のみに見えて其母には見えざる如き妙味に至りては、到底わが東洋思想の企及する所にあらざるなり。母にのみ見えて公子に見えざる一事は、我が戯曲の中にも其例を得るに難からず、然れども
怨恨する目的物に見えずして狂公子にのみ見ゆるは、其倫を我文学に求むるを得ず。天界と地界と所を異にするが故に、容易に其形を現ずること能はざるは沙翁の幽霊なり、其現ずるは主観的
願欲を以て現ずるにあらず、客観的
圧抑によつて現ず、自由の意志を以て現ずるにあらず、自然の傾として現ぜしなり、「ハムレツト」の幽霊はジニヤスの力のみにて然るにあらず、その東洋の幽霊と相異なるところ、
自から其他界に対する観念の
遙に我と違ふところあればなり。
物語時代の「竹取」、謡曲時代の「羽衣」、この二篇に勝りて我邦文学の他界に対する美妙の観念を代表する者はあらず。而してこの二篇の結構を

し、その仙女の性質を察するに、両者共に月宮に対する人間の思慕を
化躰せしに過ぐるなし。「竹取」の仙女は人界に生れて人界を離れ、「羽衣」の仙女は暫らく人界に止まりて人界を去れり、共に帰るところは月宮なり。
蓋し人界の汚濁を厭ふの念はいかなる時代にも、いかなる人種にも
抽くべからざるものなるが故に、他界を冥想し、美妙を思欲するの結果として、心を月宮に寄するは自然の理なれども、この冥想、この観念の月宮にのみ
凝注したるは、我文学の不幸なり。月宮は有形の物なり、月宮は宇宙の一小部分なり、人界に近き一塊物なり、その中には自在力あらず、その中には大魔力あらず、無辺無涯の美妙を支給すべきにあらざるなり。故に月宮を美妙の観念の中心としたる我文学は(前述二篇に就きて曰ふ)、一神教国に於ける宇宙万有の上に臨める聖善なるものを中心として、万有趣味の観念を加へしめたるものに、及ぶ能はず。竹、羽、二篇は実に固有の古神思想と仏教思想とを併せ備へたるものなるに、その結果斯の如くなりとせば、我邦理想詩人の前途、
豈※然[#「りっしんべん+音」、112-上-23]ならざらんや。(嵯峨のやの「夢現境」をも参考あらん事を請ふ。)
我風流吟客を迷はせたるもの、雪月花の外はあらず、此一事も亦た以て我文学の他界に対する美妙の観念に乏しきを証するに足るべし。我文学を繊細巧妙にならしめて、崇高壮偉にならしむる能はざりしもの、
畢竟するに他界の観念なくして、接近せる物にのみ寄想したればなり。
我文学に恋愛なるものゝ甚だ
野鄙にして熱着ならざりしも、
亦た他界に対する観念の欠乏せるに因するところ多し、「もろ/\の星くづを君の姿にして」などやうなる
詞は、到底我詩界に求むること能はじ。実界にのみ馳求する思想は、高遠なる思慕を
産まず、我恋愛道の、肉情を先にして真正の愛情を後にする所以、
茲に起因するところ少しとせず。
少時、劇に誘はれて大江山の鬼を観たりし事あり、三尺の童子たりし時にすら畏怖の念よりも寧ろ嘲笑の念を抱きたりしを記憶す、而して大江山の鬼は
土蜘蛛等と共に中古の鬼物なり、是を彼のバツグビーア、ウイツチなどに比較せばいかに、その
妖魅力の差違いかに遠きかは一見して知るべし。妖魅力を鬼物自らに属するものとするは我鬼神の思想なり、妖魅力をセタンより授けられたるものとするは一魔教の思想なり、一魔教(仮に此語を作りて)の魔業は天地を包める事、前にも言ひたり、我国の妖魅力は一勇者渡辺綱にも、頼光にも制伏せらるゝ程の微力なり、
九尾狐の妖力を以ても那須与一の一箭に斃れたり、要するに我国文学上の妖魅力は人威に勝つこと能はざるものなり、是れも亦た我邦に他界に対する観念の乏しきを証するに足れり。
「死てふ眠の中にいかなる夢をや見るらむ。」と歌ひたる詩家は泰西にあれども、「死んで仕舞へば真くらやみ。」と説いたる小説家は日本にあり。死は眠なり、と言ふと、死は終なりと言ふと、思想の上に莫大の差違あり、一はエターニチイの基督教的思想より来り、一は無常迅速の仏教思想より来れり。
But that the dread of something after death,――
The undiscover'd country, from whose bourn
No traveller returns,―― puzzles the will,
の如きに至りては、到底彼国の観念に見るを得べくして我想界に求むる事を得ず。是も亦た我文学に他界に対する観念の欠乏せるを告ぐるものなり。
忍月居士
嘗て外来物を論じて、詩人が外来物の補助を借り方便にすべき事を言ひたる事ありしが、他界に対する観念は補助又は方便にすと言ふが如き卑下なる者にあらず。
恰も潜者の水底に沈みて真珠を拾ふが如く自然界の奥に
闖入し、冥想を以て他界の物を
攫取し来るを以て詩人の尊む可きところとはするなり。居士が外来物を方便にする一例として篁村氏の「良夜」を引きたるが如きは、尤も我心を得ず。さはあれ是も亦た我国文学に他界に対する観念の乏しきを証するに足るなり。
禅学は北条氏以後の思想を支配し、儒学は徳川氏以後の思想を支配したる事は史家の承諾する事実なるが、この二者も亦た他界に対する観念の大敵なり、禅は心を法として想像を閉ぢ、儒は実際的思想を尊んで他界の美醜を想せず、この二者の日本文学に於ける関係は一朝一夕に論ずべきものにあらずと雖、その他界に対する観念に不利なりし事は明瞭なる事実なり。
我文学の他界に対する観念に乏しきことは、
概前述の如し。写実派と理想派との区別漸く立たんとする今日の文壇に、理想詩人の、万人に願求せられながら出現することの
晩きも、
強ち怪しむに足らじと思はるゝなり。
ギヨオテの想児フオウストと共に
Oh! if indeed Spirits be in the air,
Moving 'twixt heaven and earth with lordly wings,
Come from your golden“incense-breathing”sphere,
Waft me to new and varied life away.
と絶叫する理想詩人、遂に我文壇に待つべきや否や。疑はしと言ふべし。
(明治二十五年十月)