一
寒くなると、山の手大通りの
露店に古着屋の数が
殖える。
半纏、
股引、
腹掛、
溝から引揚げたようなのを、ぐにゃぐにゃと
捩ッつ、巻いつ、
洋燈もやっと
三分心が
黒燻りの影に、よぼよぼした
媼さんが、頭からやがて
膝の上まで、
荒布とも見える
襤褸頭巾に
包まって、死んだとも言わず、生きたとも言わず、黙って溝のふちに凍り着く
見窄らしげな
可哀なのもあれば、
常店らしく張出した三方へ、
絹二子の赤大名、鼠の
子持縞という男物の
袷羽織。ここらは
甲斐絹裏を正札附、ずらりと並べて、正面左右の棚には
袖裏の
細り赤く見えるのから、
浅葱の
附紐の着いたのまで、ぎっしりと積上げて、小さな
円髷に結った、顔の四角な、肩の
肥った、きかぬ気らしい
上さんの、
黒天鵝絨の襟巻したのが、同じ色の腕までの手袋を
嵌めた手に、細い
銀煙管を持ちながら、
店が違いやす、と澄まして講談本を、ト
円心に
翳していて、行交う人の
風采を、時々、
水牛縁の眼鏡の上からじろりと
視めるのが、意味ありそうで、この連中には
小母御に見えて――
湯帰りに
蕎麦で
極めたが、この節
当もなし、と自分の
身体を
突掛けものにして、そそって通る、横町の酒屋の
御用聞らしいのなぞは、相撲の
取的が仕切ったという
逃尻の、
及腰で、
件の赤大名の襟を恐る恐る引張りながら、
「
阿母。」
などと敬意を表する。
商売
冥利、
渡世は出来るもの、
商はするもので、
五布ばかりの
鬱金の風呂敷一枚の店に、
襦袢の数々。赤坂だったら
奴の
肌脱、四谷じゃ六方を
蹈みそうな、けばけばしい胴、派手な袖。男もので手さえ通せばそこから着て
行かれるまでにして、正札が品により、二分から三両
内外まで、膝の
周囲にばらりと
捌いて、
主人はと見れば、
上下縞に折目あり。
独鈷入の
博多の帯に銀鎖を
捲いて、きちんと構えた
前垂掛。膝で
豆算盤五寸ぐらいなのを、ぱちぱちと鳴らしながら、
結立ての
大円髷、水の垂りそうな、赤い
手絡の、
容色もまんざらでない女房を引附けているのがある。
時節もので、めりやすの
襯衣、めちゃめちゃの大安売、ふらんねる
切地の見切物、浜から輸出品の
羽二重の
手巾、
棄直段というのもあり、
外套、まんと、古洋服、どれも一式の店さえ八九ヶ所。続いて多い、古道具屋は、あり
来りで。近頃古靴を売る事は……長靴は
烟突のごとく、すぽんと
突立ち、半靴は叱られた
体に
畏って、ごちゃごちゃと浮世の波に
魚の
漾う風情がある。
両側はさて軒を並べた
居附の
商人……大通りの事で、云うまでも無く
真中を電車が通る……
夜店は一列片側に並んで出る。……夏の内は、西と東を各晩であるが、秋の中ばからは一月置きになって、大空の星の沈んだ光と、どす赤い灯の影を競いつつ、末は次第に
流の
淀むように薄く
疎にはなるが、やがて
町尽れまで
断えずに続く……
宵をちと出遅れて、店と店との間へ、脚が
極め込みになる
卓子や、箱車をそのまま、場所が取れないのに、両方へ、
叩頭をして、
「いかがなものでございましょうか、飛んだお邪魔になりましょうが。」
「何、お前さん、お互様です。」
「では一ツ
御不省なすって、」
「ええ
可うございますともね。だが何ですよ。
成たけ両方をゆっくり取るようにしておかないと、当節は
喧しいんだからね。距離をその八尺ずつというお達しでさ、御承知でもございましょうがね。」
「ですからなお恐入りますんで、」
「そこにまたお目こぼしがあろうッてもんですよ、まあ、
口明をなさいまし。」
「
難有う存じます。」
などは毎々の事。
二
この次第で、露店の
間は、どうして八尺が五尺も無い。
蒟蒻、
蒲鉾、八ツ
頭、おでん屋の
鍋の中、
混雑と込合って、
食物店は、お
馴染のぶっ
切飴、今川焼、江戸前取り立ての
魚焼、と
名告を上げると、目の下八寸の
鯛焼と銘を打つ。
真似はせずとも
可い事を、
鱗焼は気味が悪い。
引続いては
兵隊饅頭、
鶏卵入の
滋養麺麭。……かるめら焼のお婆さんは、小さな店に鍋一つ、七つ五つ、孫の数ほど、ちょんぼりと並べて
寂しい。
茶めし
餡掛、一品料理、一番高い中空の
赤行燈は、牛鍋の看板で、一山三銭二銭に
鬻ぐ。
蜜柑、
林檎の水菓子屋が負けじと立てた
高張も、人の目に着く
手術であろう。
古靴屋の手に靴は
穿かぬが、
外套を売る女の、
釦きらきらと
羅紗の筒袖。
小間物店の若い娘が、毛糸の手袋
嵌めたのも、寒さを
凌ぐとは見えないで、広告めくのが
可憐らしい。
気取ったのは、一軒、古道具の主人、山高帽。売っても
可いそうな
肱掛椅子に
反身の
頬杖。がらくた壇上に
張交ぜの
二枚屏風、ずんどの
銅の花瓶に、からびたコスモスを投込んで、新式な家庭を見せると、隣の同じ道具屋の亭主は、
炬燵櫓に、ちょんと乗って、
胡坐を小さく、
風除けに、
葛籠を
押立てて、
天窓から、その尻まですっぽりと安置に及んで、秘仏はどうだ、と
達磨を
極めて、
寂寞として
定に
入る。
「や、こいつア
洒落てら。」
と往来が
讃めて
行く。
黒い
毛氈の上に、
明石、
珊瑚、トンボの青玉が、こつこつと
寂びた色で、古い物語を
偲ばすもあれば、
青毛布の上に、
指環、鎖、
襟飾、
燦爛と光を放つ合成金の、新時代を語るもあり。……また合成銀と
称えるのを、大阪で発明して
銀煙草を並べて売る。
「諸君、二円五十銭じゃ言うたんじゃ、
可えか、諸君、熊手屋が。露店の売品の
値価にしては、いささか
高値じゃ思わるるじゃろうが、西洋の話じゃ、で、分るじゃろう。二円五十銭、可えか、諸君。」
と重なり合った
人群集の中に、
足許の溝の縁に、
馬乗提灯を動き出しそうに据えたばかり。店も何も無いのが、額を
仰向けにして、大口を
開いて
喋る……この学生風な五ツ紋は
商人ではなかった。
ここらへ顔出しをせねばならぬ、救世軍とか云える人物。
「そこでじゃ諸君、
可えか、その熊手の値を聞いた海軍の水兵君が言わるるには、
可、熊手屋、二円五十銭は分った、しかしながらじゃな、ここに持合わせの銭が五十銭ほか無い。すなわちこの五十銭を置いて
行く。直ぐに
後金の二円を持って来るから受取っておいてくれい。熊手は預けて
行くぞ、誰も
他のものに売らんようになあ、と云われましたが、諸君。
手附を受取って物品を預っておくんじゃからあ、」
と
俯向いて、唾を吐いて、
「じゃから諸君、誰にしても異存はあるまい。
宜しゅうございます。行っていらっしゃいと云うて、その
金子を
請取ったんじゃ、
可えか、諸君。ところでじゃ、約束通りに、あとの二円を持って、直ぐにその熊手を取りに来れば何事もありませんぞ。
そうら、それが
遣って来ん、来んのじゃ諸君、一時間
経ち、二時間経ち、十二時が過ぎ、半が過ぎ、どうじゃ諸君、やがて一時頃まで遣って来んぞ。
他の露店は皆仕舞うたんじゃ。それで無うてから既に露店の許された時間は経過して、
僅に巡行の警官が見て見ぬ
振という特別の慈悲を便りに、ぼんやりと寂しい街路の霧になって
行くのを
視めて、鼻の
尖を冷たくして待っておったぞ。
処へ、てくりてくり、」
と両腕を
奮んで振って、ずぼん下の脚を上げたり、下げたり。
「向うから
遣って来たものがある、誰じゃろうか諸君、熊手屋の待っておる水兵じゃろうか。その水兵ならばじゃ、何事も別に話は起らんのじゃ、諸君。しかるに世間というものはここが話じゃ、今来たのは一名の立派な紳士じゃ、夜会の帰りかとも思われる、
何分か酔うてのう。」
三
「皆さん、申すまでもありませんが、お家で大切なのは火の用心でありまして、その火の用心と申す
中にも、一番危険なのが
洋燈であります。なぜ危い。お話しをするまでもありません、
過失って取落しまする際に、火の消えませんのが、
壺の、この、」
と目通りで、
真鍮の壺をコツコツと叩く指が、
掌掛けて、油煙で
真黒。
頭髪を長くして、きちんと分けて、額にふらふらと
捌いた、女難なきにしもあらずなのが、渡世となれば是非も無い。
「石油が待てしばしもなく、
※[#「火+發」、422-7]と燃え移るから起るのであります。御覧なさいまし、大阪の大火、青森の大火、御承知でありましょう、失火の原因は、皆この
洋燈の墜落から転動(と妙な対句で)を起しまする。その危険な事は、
硝子壺も真鍮壺も決して差別はありません。と申すが、
唯今もお話しました通り、火が消えないからであります。そこで、手前商いまするのは、ラジーンと申して、金山鉱山におきまして金を溶かしまする処の、
炉壺にいたしまするのを使って製造いたしました、
口金の保助器は内務省お届済みの専売特許品、御使用の方法は唯今お目に懸けまするが、安全口金、一名火事知らずと申しまして、」
「何だ、何だ。」
と立合いの肩へ遠慮なく、唇の厚い、
真赤な顔を、ぬい、と出して、はたと
睨んで、酔眼をとろりと据える。
「うむ、火事知らずか、何を、」と
喧嘩腰に力を入れて、もう一息押出しながら、
「焼けたら水を
打懸けろい、げい。」
と

をするかと思うと、
印半纏の肩を
聳やかして、のッと
行く。
新姐子がばらばらと
避けて通す。
と
嶮な目をちょっと見据えて、
「ああいう親方が火元になります。」と
苦笑。
昔から
大道店に、酔払いは附いたもので、お職人親方
手合の、そうしたのは
有触れたが、
長外套に茶の
中折、
髭の生えた立派なのが居る。
辻に黒山を築いた、が
北風の通す、寒い
背後から
藪を押分けるように、
杖で背伸びをして、
「踊っとるは
誰じゃ、何しとるかい。」
「へい、面白ずくに踊ってる
[#「踊ってる」は底本では「踊つてる」]じゃござりません。唯今、鼻紙で切りました
骸骨を踊らせておりますんで、へい、」
「何じゃ、骸骨が、
踊を踊る。」
どたどたと
立合の
背に
凭懸って、
「手品か、うむ、手品を売りよるじゃな。」
「へい、
八通りばかり
認めてござりやす、へい。」
「うむ、八通り、この
通か、はッはッ、」と変哲もなく、
洒落のめして、
「どうじゃ五厘も投げてやるか。」
「ええ、投銭、お手の内は頂きやせん、
材あかしの本を売るのでげす、お求め下さいやし。」
「ふむ……投銭は謝絶する、見識じゃな、本は
幾干だ。」
「五銭、」
「何、」
「へい、お立合にも申しておりやす。へい、ええ、ことの外音声を痛めておりやすんで、お聞苦しゅう、……へい、お
極りは五銅の処、
御愛嬌に割引をいたしやす、三銭でございやす。」
「高い!」
と
喝って、
「手品屋、負けろ。」
「毛頭、お
掛値はございやせん。
宜しくばお求め下さいやし、三銭でごぜいやす。」
「一銭にせい、一銭じゃ。」
「あッあ、推量々々。」と
対手にならず、人の
環の底に
掠れた声、
地の下にて踊るよう。
「お次は相場の当る法、弁ずるまでもありませんよ。……
我人ともに年中
螻では
不可ません、
一攫千金、お茶の子の朝飯前という……次は、」
と
細字に
認めた
行燈をくるりと廻す。綱が禁札、ト捧げた
体で、
芳原被りの若いもの。別に
絣の羽織を着たのが、板本を抱えて
彳む。
「諸人に好かれる法、嫌われぬ法も一所ですな、愛嬌のお
守という条目。無銭で米の買える法、火なくして暖まる法、飲まずに酔う法、
歩行かずに道中する法、天に昇る法、色を白くする法、
婦の
惚れる法。」
四
「お
痛え、痛え、」
尾を
撮んで、にょろりと
引立てると、青黒い背筋が
畝って、びくりと鎌首を
擡げる
発奮に、手術服という白いのを
被ったのが、手を振って、飛上る。
「ええ驚いた、蛇が
啖い着くです――だが、諸君、こんなことでは無い。……この木製の蛇が、僕の手練に依って、不可思議なる種々の運動を起すです。急がない人は立って見て
行きたまえよ、奇々妙々感心というのだから。
だが、諸君、だがね、僕は手品師では無いのだよ。蛇使いではないのですが、こんな処じゃ、誰も衛生という事を心得ん。
生命が大切という事を
弁別えておらん人ばかりだから、そこで木製の蛇の運動を起すのを見て
行きたまえと云うんだ。歯の事なんか言って聞かしても、どの道分りはせんのだから、無駄だからね、無駄な話だから決して売ろうとは云わんです。売らんのだから買わんでも宜しい。見て
行きたまえ。見物をしてお出でなさい。今、運動を起す、一分間にして暴れ出す。
だが諸君、だがね諸君、
歯磨にも
種々ある。花王歯磨、ライオン象印、クラブ梅香散……ざっと
算えた処で五十種以上に及ぶです。だが、諸君、言ったって無駄だ、どうせ買いはしまい、僕も売る気は無い、こんな処じゃ分るものは無いのだから、売りやせん、売りやせんから木製の蛇の活動を見て
行きたまえ。」
と青い帽子をずぼらに
被って、目をぎろぎろと光らせながら、
憎体な
口振で、歯磨を売る。
二三軒隣では、
人品骨柄、
天晴、
黒縮緬の羽織でも着せたいのが、
悲愴なる声を揚げて、
殆ど歎願に及ぶ。
「どうぞ、お試し下さい、ねえ、是非一回御試験が仰ぎたい。口中に熱あり、歯の浮く御仁、
歯齦の
弛んだお人、お立合の中に、もしや万一です。口の臭い、舌の
粘々するお方がありましたら、ここに出しておきます、この芳口剤で一度
漱をして下さい。」
と一口がぶりと
遣って、
悵然として
仰反るばかりに星を仰ぎ、
頭髪を、ふらりと
掉って、ぶらぶらと
地へ吐き、立直ると胸を張って、これも
白衣の
上衣兜から、
綺麗な
手巾を出して、口のまわりを拭いて、ト
恍惚とする。
「
爽かに
清き事、」
と黄色い
更紗の
卓子掛を、しなやかな指で
弾いて、
「何とも
譬えようがありません。ただ一分間、一口含みまして、二三度、口中を
漱ぎますと、歯磨
楊枝を持ちまして、ものの三十分使いまするより、
遥かに快くなるのであります。口中には限りません。精神の清く爽かになりますに従うて、頭痛などもたちどころに治ります。どうぞ、お試し下さい、口は
禍の
門、諸病は口からと申すではありませんか、歯は大事にして下さい、口は綺麗にして下さいまし、ねえ、私が願います、どうぞ
諸君。」
「この
砥石が一
挺ありましたらあ、今までのよに、
盥じゃあ、湯水じゃあとウ、騒ぐにはア及びませぬウ。お座敷のウ
真中でもウ、お机、
卓子台の上エでなりとウ、ただ、こいに遣って、すぅいすぅいと
擦りますウばかりイイイ。
菜切庖丁、
刺身庖丁ウ、向ウへ向ウへとウ、十一二度、十二三度、裏を返しまして、黒い色のウ細い砥ウ
持イましてエ、
柔こう、すいと一二度ウ、二三度ウ、
撫るウ撫るウばかりイ、このウ菜切庖丁が、面白いようにイ
切まあすウる、切れまあすウる。こいに、こいに、さッくりさッくり横紙が切れますようなら、当分のウ内イ、
誰方様のウお
邸でもウ、
切ものに御不自由はございませぬウ。このウ
細い方一挺がア、定価は五銭のウ処ウ、特別のウ割引イでエ、
粗のと二ツ一所に、
名倉の
欠を添えまして、三銭、三銭でエ差上げますウ、
剪刀、
剃刀磨にイ、一度ウ磨がせましても、二銭とウ三銭とは右から左イ……」
と
賽の目に切った
紙片を、膝にも敷物にもぱらぱらと夜風に散らして、
縞の筒袖
凜々しいのを
衝と張って、菜切庖丁に
金剛砂の
花骨牌ほどな砥を当てながら、余り仰向いては人を見ぬ、包ましやかな毛糸の襟巻、頬の細いも人柄で、大道店の息子株。
押並んで、めくら縞の襟の
剥げた、袖に
横撫のあとの光る、同じ紺のだふだふとした
前垂を首から下げて、千草色の
半股引、膝のよじれたのを
捻って
穿いて、ずんぐりむっくりと
肥ったのが、日和下駄で
突立って、いけずな
忰が、三徳用大根
皮剥、というのを
喚く。
五
その
鯉口の
両肱を
突張り、
手尖を八ツ口へ
突込んで、
頸を襟へ、もぞもぞと擦附けながら、
「
小母さん、買ってくんねえ、
小父的買いねえな。千六本に、おなますに、
皮剥と一所に出来らあ。内が製造元だから安いんだぜ。
大小あらあ。
大が五銭で小が三銭だ。皮剥一ツ買ったってお
前、三銭はするぜ、買っとくんねえ、あ、あ、あ、」
と
引捻れた四角な口を、額まで
闊と開けて、
猪首を
附元まで
窘める、と見ると、
仰状に
大欠伸。余り
度外れなのに、自分から
吃驚して、
「はっ、」と、
突掛る八ツ口の手を引張出して、
握拳で口の
端をポン、と
蓋をする、トほっと
真白な息を大きく吹出す……
いや、順に並んだ、立ったり居たり、凸凹としたどの店も、同じように息が白い。むらむらと沈んだ、
燻った、その癖、師走空に
澄透って、
蒼白い陰気な
灯の前を、ちらりちらりと冷たい魂が


う姿で、
耄碌頭布の
皺から、
押立てた古服の
襟許から、汚れた襟巻の
襞
の中から、
朦朧と
顕れて、揺れる
火影に入乱れる処を、ブンブンと
唸って来て、
大路の電車が風を立てつつ、
颯と
引攫って、チリチリと紫に光って消える。
とどの顔も
白茶けた、影の薄い、
衣服前垂の
汚目ばかり火影に目立って、
煤びた羅漢の、トボンとした、寂しい、濁った形が
溝端にばらばらと残る。
こんな時は、時々ばったりと往来が途絶えて、その時々、
対合った
居附の店の電燈
瓦斯の
晃々とした中に、小僧の
形や、帳場の主人、火鉢の前の
女房などが、絵草子の裏、
硝子の中、中でも
鮮麗なのは、軒に飾った
紅入友染の影に、くっきりと
顕れる。
露店は
茫として霧に沈む。
たちまち、ふらふらと黒い影が往来へ
湧いて出る。その姿が、
毛氈の赤い色、
毛布の青い色、風呂敷の黄色いの、
寂しい
媼さんの鼠色まで、フト
判然と
凄い星の下に、漆のような夜の中に、淡い
彩して顕れると、
商人連はワヤワヤと動き出して、
牛鍋の
唐紅も、
飜然と
揺ぎ、おでん屋の屋台もかッと
気競が出て、
白気濃やかに
狼煙を揚げる。翼の
鈍い、大きな
蝙蝠のように
地摺に飛んで所を定めぬ、
煎豆屋の荷に、糸のような火花が走って、
「豆や、煎豆、煎立豆や、柔い豆や。」
と高らかに
冴えて、思いもつかぬ遠くの辻のあたりに聞える。
また
一時、がやがやと口上があちこちにはじまるのである。
が、次第に引潮が早くなって、――やっと
柵にかかった海草のように、土方の手に
引摺られた
古股引を、はずすまじとて、
媼さんが曲った腰をむずむずと動かして、溝の上へ膝を
摺出す、その
効なく……博多の帯を
引掴みながら、
素見を
追懸けた亭主が、値が出来ないで舌打をして引返す……
煙草入に
引懸っただぼ
鯊を、鳥の毛の
采配で釣ろうと構えて、ストンと外した玉屋の
爺様が、
餌箱を
検べる
体に、財布を
覗いて
鬱ぎ込む、
歯磨屋の
卓子の上に、お
試用に
掬出した粉が白く散って、売るものの
鰌髯にも
薄り霜を置く――初夜過ぎになると、その
一時々々、大道店の
灯筋を、霧で
押伏せらるる間が次第に間近になって、盛返す景気がその
毎に、遅く重っくるしくなって来る。
ずらりと見渡した皆がしょんぼりする。
勿論、電燈の前、瓦斯の
背後のも、寝る前の
起居が
忙しい。
分けても、
真白な
油紙の上へ、見た目も寒い、千六本を
心太のように
引散らして、ずぶ
濡の露が、途切れ途切れにぽたぽたと足を打って、
溝縁に凍りついた
大根剥の
忰が、今度は
堪らなそうに、
凍んだ両手をぶるぶると唇へ押当てて、
貧乏揺ぎを
忙しくしながら、
「あ、あ、」
とまた
大欠伸をして、むらむらと白い息を吹出すと、筒抜けた大声で、
「大福が食いてえなッ。」
六
「大福餅が食べたいとさ、は、は、は、」
と直きその
傍に店を出した、
二分心の下で
手許暗く、
小楊枝を削っていた、人柄なだけ、
可憐らしい女隠居が、黒い
頭巾の中から、隣を振向いて、
掠れ掠れ笑って言う。
その隣の露店は、京染
正紺請合とある足袋の裏を白く
飜して、ほしほしと並べた三十ぐらいの
女房で、中がちょいと隔っただけ、三徳用の言った事が大道でぼやけて分らず……但し
吃驚するほどの大音であったので、耳を立てて聞合わせたものであった。
会得が
行くとさも無い事だけ、おかしくなったものらしい。
「大福を……ほほほ、」と笑う。
とその隣が古本屋で、
行火の上へ、
髯の伸びた
痩せた
頤を乗せて、平たく
蹲った病人らしい陰気な男が、釣込まれたやら、
「ふふふ、」
と
寂しく笑う。
続いたのが、例の
高張を揚げた威勢の
可い、水菓子屋、
向顱巻の結び目を、山から飛んで来た、と
押立てたのが、仰向けに
反を打って、
呵々と笑出す。次へ、それから、引続いて――一品料理の
天幕張の中などは、居合わせた、客交じりに、わはわはと
笑を
揺る。年内の
御重宝九星売が、
恵方の方へ
突伏して、けたけたと
堪らなそうに
噴飯したれば、苦虫と呼ばれた
歯磨屋が、うンふンと鼻で笑う。声が一所で、同音に、もぐらもちが昇天しようと、水道の鉄管を躍り抜けそうな響きで、片側
一条、夜が鳴って、
哄と云う。時ならぬに、
木の葉が散って、霧の海に
不知火と見える
灯の間を白く飛ぶ。
なごりに
煎豆屋が、かッと笑う、と遠くで
凄まじく犬が
吠えた。
軒の
辺を
通魔がしたのであろう。
北へも響いて、
町尽の方へワッと抜けた。
時に
片頬笑みさえ、
口許に
莞爾ともしない
艶なのが、露店を守って一人居た。
縦通から横通りへ、電車の
交叉点を、その町尽れの方へ
下ると、人も店も、
灯の影も薄く歯の抜けたような、間々を冷い風が渡る癖に、店を一ツ一ツ
一重ながら、
茫と渦を巻いたような霧で包む。同じ
燻ぶった
洋燈も、人の目鼻立ち、眉も、青、赤、鼠色の
地の敷物ながら、さながら
鶏卵の
裡のように、
渾沌として、ふうわり街燈の薄い影に映る。が、枯れた柳の細い枝は、幹に
行燈を
点けられたより、かえってこの中に、処々すっきりと、星に
蒼く、風に白い。
その根に、
茣蓙を一枚の店に坐ったのが、
件の
婦で。
年紀は六七……三十にまず近い。姿も顔も
窶れたから、ちと老けて見えるのであろうも知れぬ。綿らしいが、
銘仙縞の羽織を、なよなよとある肩に細く着て、同じ縞物の膝を薄く、無地ほどに細い縞の、これだけはお召らしいが、
透切れのした
前垂を
〆めて、昼夜帯の胸ばかり、
浅葱の
鹿子の
下〆なりに、乳の下あたり
膨りとしたのは、鼻紙も財布も一所に
突込んだものらしい。
ざっと一昔は風情だった、肩掛というのを四つばかりに畳んで敷いた。それを、
褄は深いほど玉は冷たそうな、膝の上へ掛けたら、と思うが、察するに上へは出せぬ
寸断の
継填らしい。火鉢も無ければ、
行火もなしに、霜の
素膚は堪えられまい。
黒繻子の襟も白く透く。
油気も無く擦切るばかりの夜嵐にばさついたが、
艶のある薄手な
丸髷がッくりと、焦茶色の絹のふらしてんの襟巻。房の切れた、男物らしいのを細く巻いたが、左の袖口を、ト乳の上へしょんぼりと
捲き込んだ
袂の下に、
利休形の
煙草入の、裏の
緋塩瀬ばかりが色めく、がそれも
褪せた。
生際の曇った影が、
瞼へ
映して、
面長なが、さして
瘠せても見えぬ。鼻筋のすっと通ったを、横に
掠めて
後毛をさらりと掛けつつ、ものうげに払いもせず……
切の長い、
睫の濃いのを
伏目になって、上気して乾くらしい唇に、吹矢の筒を、ちょいと含んで、片手で持添えた雪のような
肱を
搦む、
唐縮緬の筒袖のへりを取った、継合わせもののその、
緋鹿子の
媚かしさ。
七
三枚ばかり
附木の表へ、(
一くみ)も仮名で書き、(二せん)も仮名で記して、前に並べて、きざ柿の熟したのが、こつこつと揃ったような、昔は
螺が尼になる、これは
紅茸の
悟を開いて、ころりと参った
張子の
達磨。
目ばかり黒い、けばけばしく
真赤な
禅入を、
木兎引の木兎、で三寸ばかりの
天目台、すくすくとある上へ、大は
小児の
握拳、小さいのは
団栗ぐらいな処まで、ずらりと乗せたのを、その
俯目に、ト
狙いながら、
件の吹矢筒で、フッ。
カタリといって、
発奮もなく
引くりかえって、軽く転がる。その次のをフッ、カタリと
飜る。続いてフッ、カタリと下へ。フッフッ、カタカタカタと毛を吹くばかりの
呼吸づかいに連れて、五つ七つたちどころに、パッパッと
石鹸玉が消えるように、上手にでんぐり、くるりと落ちる。
落ちると、片端から一ツ一ツ、順々にまた並べて、
初手からフッと吹いて、カタリといわせる。……同じ事を、絶えず休まずに繰返して、この
玩弄物を売るのであるが、
玉章もなし口上もなしで、ツンとしたように黙っているので。
霧の中に
笑の
虹が、
溌と渡った時も、独り
莞爾ともせず、
傍目も
触らず、同じようにフッと吹く。
カタリと転がる。
「大福、大福、大福かい。」
とちと粘って
訛のある、ギリギリと勘走った高い声で、
亀裂を
入らせるように霧の中をちょこちょこ走りで、玩弄物屋の
婦の
背後へ、ぬっと、鼠の
中折を
目深に、
領首を
覗いて、
橙色の背広を着、小造りなのが立ったと思うと、
「大福餅、
暖い!」
また
疳走った声の下、ちょいと
蹲む、と
疾い事、
筒服の膝をとんと揃えて、横から当って、
婦の
前垂に
附着くや否や、両方の
衣兜へ両手を
突込んで、四角い肩して、一ふり、ぐいと首を振ると、ぴんと反らした鼻の下の
髯とともに、
砂除けの素通し、ちょんぼりした可愛い目をくるりと
遣ったが、ひょんな顔。
……というものは、その、
「……
暖い!……」を
機会に、
行火の箱火鉢の
蒲団の下へ、
潜込ましたと
早合点の膝小僧が、すぽりと気が抜けて、二ツ、ちょこなんと揃って、
灯に照れたからである。
橙背広のこの紳士は、通り
掛りの一杯機嫌の
素見客でも何でもない。冷かし数の子の数には漏れず、格子から降るという長い
煙草に縁のある、
煙草の
脂留、新発明
螺旋仕懸ニッケル製の、
巻莨の吸口を売る、気軽な人物。
自から称して技師と云う。
で、衆を立たせて、使用法を弁ずる時は、こんな軽々しい態度のものではない。
下目づかいに、
晃々と眼鏡を光らせ、額で
睨んで、帽子を
目深に、さも歴々が忍びの
体。冷々然として落着き澄まして、
咳さえ高うはせず、そのニコチンの害を説いて、
一吸の巻莨から生ずる多量の沈澱物をもって混濁した、恐るべき液体をアセチリンの
蒼光に
翳して、
屹と試験管を示す時のごときは、
何某の教授が理化学の講座へ
立揚ったごとく、
風采四辺を払う。
そこで、公衆は、ただ
僅に
硝子の管へ煙草を吹込んで、びくびくと
遣ると水が濁るばかりだけれども、技師の態度と、その口上のぱきぱきとするのに、ニコチンの毒の恐るべきを知って、
戦慄に及んで、五割引が
盛に売れる。
なかなかどうして、
歯科散が試験薬を用いて、
立合の口中黄色い歯から
拭取った
口塩から、たちどころに、
黴菌を躍らして見せるどころの比ではない。
よく売れるから、
益々得意で、澄まし返って説明する。
が、夜がやや深く、人影の薄くなったこうした時が、技師大得意の節で。今まで
嚔を
堪えたように、むずむずと身震いを一つすると、固くなっていた
卓子の前から、早くもがらりと
体を砕いて、飛上るように
衝と腰を軽く、
突然ひょいと隣のおでん屋へ入って、煮込を
一串引攫う。
こいつを、フッフッと吹きながら、すぺりと古道具屋の
天窓を
撫でるかと思うと、次へ飛んで、あの
涅槃に入ったような、
風除葛籠をぐらぐら
揺ぶる。
八
その時きゃっきゃっと
高笑、靴をぱかぱかと
傍へ
外れて、どの店と見当を着けるでも無く、脊を
屈めて
蹲った婆さんの
背後へちょいと
踞んで、
「寒いですね。」
と声を掛けて、トントンと肩を叩いてやったもので。
「きゃっきゃっ、」とまた笑うて、
横歩行きにすらすらすら、で、居合わす、古女房の
背をドンと
啖わす。
突然、
年増の
行火の中へ、
諸膝を
突込んで、けろりとして、
娑婆を見物、という澄ました顔付で、当っている。
露店中の
愛嬌もので、
総籬の
柳縹さん。
すなわちまた、その伝で、大福
暖いと、向う見ずに遣った処、
手遊屋の
婦は、腰のまわりに火の気が無いので、膝が
露出しに大道へ、
茣蓙の薄霜に
間拍子も無く並んだのである。
橙色の柳縹子、気の抜けた肩を
窄めて、ト一つ、大きな
達磨を眼鏡でぎらり。
婦は澄ましてフッと吹く……カタリ……
はッと
頤を引く間も無く、カタカタカタと残らず落ちると、直ぐに、そのへりの赤い筒袖の細い雪で、
一ツ
一ツ拾って並べる。
「
堪らんですね、寒いですな、」
と
髯を
捻った。が、大きに照れた風が見える。
斜違にこれを
視めて、前歯の金をニヤニヤと笑ったのは、
総髪の大きな頭に、黒の
中山高を堅く
嵌めた、色の赤い、額に
畝々と筋のある、頬骨の高い、大顔の役人風。迫った太い眉に、
大い眼鏡で、
胡麻塩髯を貯えた、
頤の
尖った、背のずんぐりと高いのが、
絣の綿入羽織を長く着て、霜降のめりやすを太く着込んだ
巌丈な腕を、客商売とて袖口へ
引込めた、その手に一条の竹の
鞭を取って、バタバタと叩いて、三州は岡崎、
備後は尾ノ道、
肥後は熊本の
刻煙草を
指示す……
「内務省は煙草専売局、印紙
御貼用済。味は至極
可えで、
喫んで見た上で買いなさい。大阪は安井銀行、第三蔵庫の担保品。
今度、同銀行蔵掃除について払下げに相成ったを、当商会において一手販売をする、抵当流れの安価な煙草じゃ、喫んで
芳ゅう、
香味、口中に
遍うしてしかしてそのいささかも
脂が無い。
私は
痰持じゃが、」
と
空咳を三ツばかり、小さくして、竹の鞭を袖へ引込め、
「この煙草を用いてから、とんと悩みを忘れた。がじゃ、荒くとも脂がありとも、ただ強いのを望むという人には決してこの煙草は向かぬぞ。香味あって脂が無い、抵当流れの
刻はどうじゃ。」
と太い声して、ちと充血した大きな
瞳をぎょろりと遣る。その
風采、高利を借りた覚えがあると、
天窓から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。
店の透いた時は、そこらの
小児をつかまえて、
「あ、
然じゃでの、」などと役人口調で、眼鏡の下に、一杯の
皺を寄せて、髯の上を
撫で下げ撫で下げ、
滑稽けた話をして喜ばせる。その
小父さんが、
「いや、若いもの。」
という
顔色で、竹の鞭を、ト
笏に取って、
尖を握って
捻向きながら、帽子の下に暗い額で、髯の白いに、金が
顕な
北叟笑。
附穂なさに振返った技師は、これを知ってなお照れた。
「今に
御覧じろ。」
と
遠灯の
目ばたきをしながら、揃えた膝をむくむくと
揺って、
「何て、寒いでしょう。おお寒い。」
と金切声を出して、ぐたりと左の肩へ
寄凭る、……体の
重量が、他愛ない、
暖簾の相撲で、ふわりと外れて、ぐたりと膝の崩れる時、ぶるぶると震えて、堅くなったも道理こそ、
半纏の上から触っても知れた。
げっそり
懐手をしてちょいとも出さない、すらりと下った左の、その袖は、何も支えぬ、
婦は片手が無いのであった。
九
もうこの時分には、そちこちで、
徐々店を片附けはじめる。まだ九時ちっと廻ったばかりだけれども、師走の宵は、夏の頃の十二時過ぎより
帰途を急ぐ。
で、処々、張出しが
除れる、
傘が
窄まる、その上に
冷い星が光を放って、ふっふっと
洋燈が消える。
突張りの
白木の柱が、すくすくと夜風に細って、積んだ棚が、がたがた崩れる。その中へ、
炬燵が化けて
歩行き出した
体に、むっくりと、大きな風呂敷包を
背負った形が
糶上る。消え残った
灯の前に、霜に焼けた脚が赤く見える。
中には荷車が
迎に来る、自転車を引出すのもある。年寄には孫、女房にはその亭主が、どの店にも一人二人、人数が
殖えるのは、よりよりに家から片附けに来る手伝、……とそればかりでは無い。思い思いに気の合ったのが、
帰際の世間話、景気の
沙汰が主なるもので、
「相変らず
不可ますまい、そう云っちゃ失礼ですが。」
「いえ、思ったより、
昨夜よりはちっと
増ですよ。」
「また
私どもと来た日にゃ、お話になりません。」
「御多分には漏れませんな。」
「もう休もうかと思いますがね、それでも出つけますとね、一晩でも何だか皆さんの顔を見ないじゃ
気寂しくって寝られません。……無駄と知りながら出て来ます、へい、
油費えでさ。」
と
一処に
団まるから、どの店も敷物の色ばかりで、枯野に
乾した
襁褓の
光景、七星の天暗くして、
幹枝盤上に霜深し。
まだ
突立ったままで、誰も人の立たぬ店の
寂しい
灯先に、
長煙草を、と横に取って細いぼろ切れを
引掛けて、のろのろと取ったり引いたり、
脂通しの
針線に黒く
畝って
搦むのが、かかる折から、
歯磨屋の木蛇の運動より
凄いのであった。
時に、
手遊屋の
冷かに
艶なのは、
「寒い。」と技師が
寄凭って、片手の無いのに
慄然としたらしいその途端に、吹矢筒を
密と置いて、ただそれだけ使う、右の手を、すっと
内懐へ入れると、
繻子の帯がきりりと動いた。そのまま、
茄子の
挫げたような、
褪せたが、紫色の小さな
懐炉を取って、黙って
衝と技師の胸に差出したのである。
寒くば貸そう、というのであろう。……
挙動の
唐突なその上に、またちらりと見た、
緋鹿子の
筒袖の細いへりが、無い方の腕の切口に、べとりと血が
染んだ時の
状を
目前に浮べて、ぎょっとした。
どうやら、片手無い、その切口が、茶袋の口を糸でしめたように想われるのである。
「それには及ばんですよ、ええ、何の、
御新姐。」と
面啖って我知らず口走って、ニコチンの毒を説く時のような
真面目な態度になって、
衣兜に手を
突込んで、肩をもそもそと
揺って、
筒服の膝を
不状に膨らましたなりで、のそりと立上ったが、
忽ちキリキリとした声を出した。
「
嫁娶々々!」
長提灯の新しい影で、すっすと、真新しい足袋を照らして、紺地へ朱で、日の出を染めた、
印半纏の
揃衣を着たのが二十四五人、
前途に松原があるように、
背のその日の出を揃えて、線路際を
静に練る……
結構そうなお爺さんの
黒紋着、意地の悪そうな婆さんの黄色い襟も
交ったが、
男女合わせて十四五人、いずれも
俥で、星も晴々と
母衣を
刎ねた、中に一台、母衣を懸けたのが当の
夜の縁女であろう。
黒小袖の肩を円く、但し
引緊めるばかり両袖で胸を抱いた、
真白な襟を長く、のめるように
俯向いて、今時は珍らしい、
朱鷺色の
角隠に
花笄、
櫛ばかりでも
頭は重そう。ちらりと
紅の
透る、白襟を
襲ねた端に、一筋キラキラと時計の
黄金鎖が輝いた。
上が身を堅く花嫁の重いほど、乗せた車夫は始末のならぬ
容体なり。妙な処へ
楫を
極めて、
曳据えるのが、がくりとなって、ぐるぐると
磨骨の波を打つ。
十
露店の目は、言合わせたように、きょときょとと夢に
辿る、この桃の
下路を
行くような行列に集まった。
婦もちょいと振向いて、(大道
商人は、いずれも、電車を
背後にしている)
蓬莱を額に飾った、その石のような姿を見たが、
衝と
向をかえて、そこへ出した
懐炉に手を触って、上手に、片手でカチンと開けて、
熟と
俯向いて、灰を吹きつつ、
「無駄だねえ。」
と
清い声、
冷かなものであった。
「弘法大師御夢想のお
灸であすソ、利きますソ。」
と
寝惚けたように云うと
斉しく、これも嫁入を
恍惚視めて、あたかもその前に立合わせた、つい居廻りで湯帰りらしい、島田の乱れた、
濡手拭を下げた
娘の
裾へ、やにわに一束の線香を
押着けたのは、あるが中にも、幻のような坊様で。
つくねんとして、一人、影法師のように、びょろりとした
黒紬の間伸びた
被布を着て、
白髪の毛入道に、ぐたりとした真綿の帽子。
扁平く、薄く、しかも大ぶりな耳へ垂らして、
環珠数を掛けた、鼻の長い、
頤のこけた、小鼻と目が窪んで、飛出した形の八の字眉。大きな口の下唇を反らして、かッくりと
抜衣紋。長々と力なげに手を伸ばして、かじかんだ膝を抱えていたのが、フト思出した途端に、居合わせた娘の姿を、男とも女とも
弁別える
隙なく、
馴れてぐんなりと手の伸びるままに、細々と煙の立つ、その線香を
押着けたものであろう。
この
坊様は、人さえ見ると、
向脛なり
踵なり、肩なり背なり、
燻ぼった鼻紙を当てて、その上から線香を押当てながら、
「おだだ、おだだ、だだだぶだぶ、」と、歯の無い口でむぐむぐと唱えて、
「それ、利くであしょ、ここで
点えるは
施行じゃいの。
艾入らずであす。熱うもあすまいがの。それ利くであしょ。利いたりゃ、利いたら、しょなしょなと消しておいて、また使うであすソ。それ利くであしょ。」と
嘗め廻す
体に、
足許なんぞじろじろと見て商う。高野山秘法の名灸。
やにわに長い手を伸ばされて、はっと後しざりをする、娘の
駒下駄、靴やら
冷飯やら、つい目が疎いかして見分けも無い、
退く端の
褄を、ぐいと引いて、
「御夢想のお灸であすソ、施行じゃいの。」
と
鯰が這うように黒被布の背を乗出して、じりじりと灸を
押着けたもの、
堪ろうか。
「あれえ、」
と叫んで、ついと
退く、ト
脛が白く、横町の
暗に消えた。
坊様、眉も
綿頭巾も、一緒くたに天を仰いで、長い顔で、きょとんとした。
「や、いささかお灸でしたね、きゃッ、きゃッ、」
と笑うて、技師はこれを
機会に、
殷鑑遠からず、と少しく
窘んで、浮足の靴ポカポカ、ばらばらと乱れた露店の暗い方を。……
さてここに、
膃肭臍を
鬻ぐ
一漢子!
板のごとくに
硬い、黒の筒袖の
長外套を、
痩せた
身体に、
爪尖まで
引掛けて、耳のあたりに襟を立てた。帽子は
被らず、
頭髪を
蓬々と
抓み
棄てたが、目鼻立の
凜々しい、頬は
窶れたが、屈強な
壮佼。
渋色の
逞しき手に、
赤錆ついた大出刃を不器用に
引握って、
裸体の
婦の
胴中を切放して
燻したような、赤肉と黒の皮と、ずたずたに、血筋を
縢った中に、骨の薄く見える、やがて
一抱もあろう……頭と尾ごと、
丸漬にした
膃肭臍を三頭。縦に、横に、仰向けに、
胴油紙の上に乗せた。
正面の
肋のあたりを、
庖丁の背でびたびたと叩いて、
「世間ではですわ、めっとせいはあるが、膃肭臍は無い、と云うたりするものがあるですが、めっとせいにも膃肭臍にも、ほんとのもんは少いですが。」
無骨な口で、
「船に乗っとるもんでもが……現在、膃肭臍を
漁った処で、それが膃肭臍、めっとせいという区別は着かんもんで。
世間で云うめっとせいというから雌でしょう、勿論、雌もあれば、雄もあるですが。
どれが雌だか、雄だか、
黒人にも分らんで、ただこの前歯を、」
と云って
推重なった中から、ぐいと、犬の顔のような
真黒なのを
擡げると、陰干の
臭が
芬として、内へ反った、しゃくんだような、霜柱のごとき長い歯を、あぐりと
剥く。
「この前歯の処ウを、
上下噛合わせて、一寸の
隙も無いのウを、雄や、(と云うのが
北国辺のものらしい)と云うですが、一分一寸ですから、
開いていても、
塞いでいても分らんのうです。
私は弁舌は
拙いですけれども、膃肭臍は
確です。膃肭臍というものは、やたらむたらにあるものではない。東京府下にも何十人売るものがあるかは知らんですがね、やたらむたらあるもんか。」
と、何かさも不平に堪えず、
向腹を立てたように言いながら、大出刃の
尖で、繊維を
掬って、
一角のごとく、薄くねっとりと肉を
剥がすのが、――遠洋漁業会社と記した、まだ油の新しい、黄色い
長提灯の影にひくひくと動く。
その紫がかった黒いのを、若々しい口を
尖らし、むしゃむしゃと噛んで、
「二頭がのは売ってしもうたですが、まだ一頭、脳味噌もあるですが。脳味噌は脳病に利くンのですが、膃肭臍の効能は、誰でも知っている事で言うがものはない。
疑わずにお買い下さい、まだ
確な証拠というたら、後脚の爪ですが、」
ト大様に
視めて、出刃を
逆手に、面倒臭い、一度に間に合わしょう、と狙って、ずるりと後脚を
擡げる、
藻掻いた形の、
水掻の中に、
空を
掴んだ爪がある。
霜風は
蝋燭をはたはたと
揺る、遠洋と書いたその
目標から、
濛々と
洋の気が
虚空に
被さる。
里心が着くかして、
寂しく二人ばかり立った客が、あとしざりになって……やがて、はらはらと急いで散った。
出刃を落した時、
赫と顔の色に赤味を帯びて、
真鍮の
鉈豆煙草の、
真中をむずと握って、糸切歯で噛むがごとく、
引啣えて、
「うむ、」
と、なぜか
呻る。
処へ、ふわふわと
橙色が
露われた。
脂留の例の技師で。
「どうですか、膃肭臍屋さん。」
「いや、」
とただ言ったばかり、不愛想。
技師は親しげに擦
寄って、
「昨夜は、飛んだ事でしたな……」
「お話になりません。」
「一体何の事ですか、」
「
何やいうて、
彼やいうて、まるでお話しにならんのですが、誰が何を見違えたやら、
突然しらべに来て、膃肭臍の中を捜すんですぞ、
真白な女の片腕があると言うて。」……
明治四十四(一九一一)年二月