私は常に東北地方を愛している者であります。私は(日本中でどこが一番好きか?)という質問に対して、いつも(東北地方)と答えるのに
東北地方の地方色が、文芸作品によって紹介されましたのは、極く最近のことでありまして、東北地方を目標としての最も古い文学である
併し、古い時代の伝説や説話などにも、既に東北地方の東北地方らしい雰囲気――いかにも東北地方らしい味わい――というようなものが出ていまして、それが現代文学の上に縦に
東北地方のそういう記録、伝記、昔話などのうちで、
それから、源平時代になりますと、牛若丸が京都の鞍馬山を出まして平泉に行きますときに、牛若丸を平泉まで
産馬の方では、佐々木四郎高綱の、宇治川の先陣のときの
昔話とか馬鹿聟話とかいうようなものは、風俗学や民俗学の方により多くの
東北地方の地方色が、曲がりなりにも、文学の上に現れましたのは、やはり、芭蕉の『奥の細道』に於いてのそれを最初のものとしなければなりますまい。
「五月朔日の事也。其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に莚を敷てあやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寐所をまうけて臥す。夜に入りて、雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤蚊 にせゝられて眠らず持病さへおこりて消入斗になん。」
これが芭蕉の眼に映じた飯塚辺の農家――たぶん農家だろうと思いますが――の有り様であります。そのような、貧しい農家の有り様は、今にして、東北地方の暗鬱な空気が感じられます。そのような暗鬱な生活の中にある生活は、真山青果氏も『南小泉村』の中で、如実に言っています。
「百姓ほどみじめなものは無い。取分け奥州の小百姓はそれが酷 い、襤褸 を着て糅飯 を食つて、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生涯を送つて居る。地を這ふ爬虫 の一生、塵埃 を嘗 めて生きてゐるのにも譬 ふれば譬へられる。からだは立つて歩いても、心は多く地を這つて居る。」
青果はこう言っているのであります。私もこれには同感であります。同時にまた、東北地方の農家の
「故里の爐辺を想ふと
心が明るくなる。
呑助の夫を助けて来た老婆の手
長い間土を掘つて来た老爺の手
多数の家族を抱へて苦闘してゐる若者の手
ずんぐりして 荒れてはゐるがみずみずしい娘の手、
取入れも済んで
木枯が吹く頃になると
今まで離れ離れであつたそれ等の手が一緒に爐辺に集まるのだ、
大根漬を噛み
渋茶を啜つて
作物 の出来不出来
陽気の加減を語り合ひ
ぼんぼんと燃える焚火にあつたまるのだ、
喜びも 悲しみも
みんなそこで語り合ひ
みんなそこから生れるのだ、
故里の爐辺を想ふと心が明るくなる。」
佐伯郁郎君はそう歌っています。これは東北地方特有の風景であります。東北独特の地方色であります。心が明るくなる。
呑助の夫を助けて来た老婆の手
長い間土を掘つて来た老爺の手
多数の家族を抱へて苦闘してゐる若者の手
ずんぐりして 荒れてはゐるがみずみずしい娘の手、
取入れも済んで
木枯が吹く頃になると
今まで離れ離れであつたそれ等の手が一緒に爐辺に集まるのだ、
大根漬を噛み
渋茶を啜つて
陽気の加減を語り合ひ
ぼんぼんと燃える焚火にあつたまるのだ、
喜びも 悲しみも
みんなそこで語り合ひ
みんなそこから生れるのだ、
故里の爐辺を想ふと心が明るくなる。」
芭蕉の『奥の細道』の中に松島の風光が詳しく記されてあります。
「抑ことふりにたれと 松嶋は扶桑第一の好風にして 凡洞庭西湖を恥 ず 東南より海を入て 江の中三里 逝江の潮をたたふ 嶋々の数を盡して 欹 ものは天を指ふすものは波に匍匐 あるは二重にかさなり 三重に畳みて 左にわかれ 右につらなる 負るあり 抱るあり 兒孫愛すかことし 松の緑こまやかに枝葉汐風に吹たはめて 屈曲をのつからためたるかことし 其気色 然として 美人の顔を粧ふ ちはや振神のむかし 大山すみのなせるわさにや 造化の天工 いつれの人か筆をふるひ詞を盡さむ」
芭蕉はこう記してありますが、これは、単にその風景の形態だけを描いているもので、そこには何等の色彩――地方色――をも出ていないように思います。私はむしろ島崎藤村の『松島だより』を執りたく思います。島崎藤村は、『松島だより』の中で、松島を描くと同時に、東北地方の地勢のことにも触れていますが、これなどは、その地方色をよく描き出しているということが出来ましょう。島崎藤村『松島だより』
「東北の地勢は広濶なる原野なり。山嶽の偉大なるもの相比肩して互に馳せ互に没するは中国の奇葩 、東北の山脉はしからず、寧ろ広大なる丘陵の原野を走るが如き観をなせり。山もとより少なからず、しかも変幻出没して雲表に豪然たる偉容を作れるは少なし。中国の山は立てり、東北の山は横はれり、紫苑 の花萩の花女郎花もしくは秋草野花をもてかざりとなせる宮城野の一望千里雲烟の間に限り無きが如きは、独り東北の地勢にして中国に見るべからざるの広野なり。この地勢に作られこの原野にさそはれて、吾国第一勝の松島は成れり。」
藤村の眼は鋭いと思います。仙台を取り入れているものでは徳富健次郎の『
徳富健次郎『寄生木』
「出れば停車場の広小路。人の声、車の響 、電燈、洋燈 の光、賑やかで、眩しくて、美しくて、良平は胆 を潰した。眼前には巍々堂々 たる洋館、仙台ホテル、陸奥ホテル、和風では針久、大泉、其他数知らぬ旅館がある。懐淋しい良平は、毛布包をかゝへて、芒然として広小路に立つて居た。「御得意の阪本でござい。毎度御引立難有う御座りやす。奈何 ですか旦那、大分夜も遅うござりますぞ。精々 勉強して一泊二十五銭、いかゞでがす」宿引が良平の顔を覗き込むだ。二十五銭は案外廉 いと思つて居ると、宿引は良平の毛布包を引たくつて、卵提燈片手に『お客様』と店先に駈け込んだ。」
これは、徳富蘆花の『寄生木』の一節でありますから、発表されたのは明治四十二年でありますが、これを描写したのは、作中の主人公篠原良平が仙台へ飛び出して来たときのことでありまして、篠原良平が少年の眼で見たときの仙台だといたしますと、明治二十年代の有り様でありますから、今の仙台は、岩手県の渋民村辺を描いているものに石川啄木の『
石川啄木『天鵞絨』
「村といつても狭 いもの。盛岡から青森へ、北上川に縺 れて逶 と北に走つた、坦々たる其一等道路(と村人が呼ぶ)の、五六町並木の松が断絶えて、両側から傾き合つた茅葺勝の家並の数が、唯九十何戸しか無いのである。村役場と駐在所が中央 程に向合つてゐて、役場の隣が作右衛門店、萬荒物から酢醤油石油莨 、罎詰の酒もあれば、前掛半襟にする布帛 もある。箸で断 れぬ程堅い豆腐も売る。其隣の郵便局には、此村に唯一つの軒燈がついてゐるけれども、毎晩黙火 る譯ではない。」
この一節の中で、最も興味を引くのは、役場の隣の店の「……箸で東北の冬を描いて雪を取り入れない人は殆んどいないようです。
久米正雄『雪の驛路』
「雪を被つた[#「被つた」は底本では「被った」]、そして処々眞黒な屋根々々が、不揃ひに並んだS町の向うには、狭い町幅をすぐ越えて、一面の田野が処々に杜を黒ませたり、畔のやうな区畫を見せたりして、広く続いてゐた。そして其盡きるあたりに、黒い帯を曳いて、可なり大きな川が流れてゐた。それから先きは丘上りに、段々高くなつて行つて、其向うを劃つてゐるのは、襞の多い屏風のやうな連山だつた。その山々の頂は斜に洩れた日を受けて、寒さうにきらきら光つてゐた。」
これは久米正雄氏の『雪の驛路』という小説の中の一節であります。東北には相違ないのですが、果たしてどこかということは白鳥省吾氏にもまた『雪の馬上』という東北の積雪の日を歌った詩があります。
白鳥省吾『雪の馬上』
「大きいマントを身に纒ひ
雪の馬上に跨れば
僕 は曳きて門を出づ
二尺に餘る堅き雪
霏々としてまた雪が降る。
車通らず人行かず
見渡す野山一色に
雪を飾りて音もなく
空に綾織る雪の舞
病を得たる身にかなし。
停車場までは路三里
その半ばにて雪霽れぬ
眩ゆき聖き荘 かの
雪の世界をざくざくと
歩む馬こそわが身こそ
現世ならぬ尊さよ。」
東北の積雪の感じは出ていると思います。雪の馬上に跨れば
二尺に餘る堅き雪
霏々としてまた雪が降る。
車通らず人行かず
見渡す野山一色に
雪を飾りて音もなく
空に綾織る雪の舞
病を得たる身にかなし。
停車場までは路三里
その半ばにて雪霽れぬ
眩ゆき聖き
雪の世界をざくざくと
歩む馬こそわが身こそ
現世ならぬ尊さよ。」
秋田地方の地方色は、金子洋文氏の『鴎』とか『赤い湖』とかいうような短篇の中によく出て来ますが、私は『牝鶏』という戯曲の背景の中に、如実にそれを見ることが出来ると思います。
金子洋文『牝鶏』
「春の黄昏近く、
東北にある湖畔の百姓家。
春の黄昏近く、開けつぱなした広い土間から美しい八郎潟の景色がみられる。
謙吉が土間に轉つてゐる木臼 に腰かけて、湖の方に眼をやりながら、ぼんやり考へこんでゐる。近くにお銀が立つてゐる。
間――。
遠く湖面を帆かけた小舟がのんびり通りすぎる。
蛙の声。」
これは『牝鶏』の冒頭の説明でありまして、これだけでは地方色も何もありませんが、舞台の背景となりまして私達の眼の前に東北にある湖畔の百姓家。
春の黄昏近く、開けつぱなした広い土間から美しい八郎潟の景色がみられる。
謙吉が土間に轉つてゐる木
間――。
遠く湖面を帆かけた小舟がのんびり通りすぎる。
蛙の声。」
金子洋文『鴎』
「鯡 船が河に十数艘入港 つた、鯡がピラミツド型に波止場の各所に積みあげられた。
鴎が海を越えて何処からとなく集つて来た、そして低い空をきやんきやん鳴きながら飛びまはつた。その下で古川町の子供等が鯡を盗んだ。
日曜で好い天気であつた、風が相変らず冷たかつたが、柳小路の奥の土藏が三つ額をあつめてゐる空地は、雪を吸ひこんだ新しい土がぽかついて、いいにほひがしてゐた。
子供等は一人もしくじらなかつた。前掛の中にそれぞれ四疋の鯡をしのばせて帰つて来た。そこで空き地に遊んでゐた鳩を追ひ拂つて、そこへ藁莚を敷いて皆が坐ることにした。
三郎といふ女のやうにきれいな子が自家の店棚から清酒の四合壜を一本盗んで来た。それから廻船附船屋の吉太郎が、銅貨箱から盗んで、赤い下帯へかくしておいた二銭銅貨で、豆腐と葱を買つた、醤油や、七輪や鍋は空地に一番近い豊公の家から持ち運んで来た。」
これも金子洋文氏の『鴎』という短篇の一節で、ここには、土崎港辺の海岸の地方色が、鴎が海を越えて何処からとなく集つて来た、そして低い空をきやんきやん鳴きながら飛びまはつた。その下で古川町の子供等が鯡を盗んだ。
日曜で好い天気であつた、風が相変らず冷たかつたが、柳小路の奥の土藏が三つ額をあつめてゐる空地は、雪を吸ひこんだ新しい土がぽかついて、いいにほひがしてゐた。
子供等は一人もしくじらなかつた。前掛の中にそれぞれ四疋の鯡をしのばせて帰つて来た。そこで空き地に遊んでゐた鳩を追ひ拂つて、そこへ藁莚を敷いて皆が坐ることにした。
三郎といふ女のやうにきれいな子が自家の店棚から清酒の四合壜を一本盗んで来た。それから廻船附船屋の吉太郎が、銅貨箱から盗んで、赤い下帯へかくしておいた二銭銅貨で、豆腐と葱を買つた、醤油や、七輪や鍋は空地に一番近い豊公の家から持ち運んで来た。」
約束の三十分が参りましたから、私の「文学に現れたる東北地方の地方色」は、これぐらいにいたして置きます。
――昭和七年(一九三二年)八月二十八日放送――