インドの王様が――たいていの物語はこれで始まる――二人の画家に壁画を描かしめた。その壁は相面した二つの巌壁である。ようやく期日が迫るにあたって、一人の画家は彩色美しく極楽の壮厳を描きあげていった。しかるに他の一人の画家はいっこう筆を取らない。ただ巌壁を磨いて絵の下地をのみ造っている。ついにかくして、その日はきた。王様は大きな期待をもって巌壁を訪れた。一方の壁は七宝の樹林、八功の徳水、金銀、瑠璃、玻璃、をちりばめたる清浄の地が描かれている。まさに火宅の三界をのがれて、
寂かに白露地に入るの思いがあった。王はうっとりとそれに見入るのであった。ようやくひるがえって他の一方の壁に王は視線を向ける。突如、索然たる空気が人々を覆った。そこには何も描かれてはいなかったのである。王の顔色にはあきらかに不快の徴しを現わした。「描かれてはいないではないか。」しかし、その問いよりも画家の答のほうが人々を驚かせた。
「よくごらん下さりませ。」三度の問いに対して、三度の同じ答えが繰り返された。そして長い沈黙が巌壁を支配した。どこよりともなく、誰によってともなくうめき声が洩れはじめる。そして、それはついに賛歎となってすべての人々をも
囚えた。王もまた三嘆之を久しうして去ったという。すなわち、鏡のごとく磨かれたる壁にはあい面して描かれたる寂光の土がうつしだされて、あまつさえそこに往来する王様の姿もが共にあい漾映して真の動ける十万億仏土を顕現したるがさまであったという。
画家の機知もさることながら、このミトスの中にはかなり深い意味で、芸術現象の本質的なる構造をあらわにしていると思う。
そこには
描くことと
映すことの内面にある芸術性への指示が潜んでいる。映すことの構造は
うつすが示すように
移す、
映す、
覆すなどの等値的射影を意味している。場所的に一方より一方に移動せしめ、しかも関連的等値性をそれが帯びている場合、それを
うつすと人々はよぶのである。
高山に登った人々の経験することであるが、山の頂きにたどりついて、脈々と連なる尾根を見晴らす時、何か叫びだしたくなる。そしてヨーホロロ…………ォと山に特有の調子でどこへともなく喚びかける。否、全山の清澄な空気と無限の
寂けさへ向って喚びかける。そしてしばらく耳をすます時、山々の嶺より帰りきたるみずからの声がいろいろの変形を受けながらひろびろとひろがって、かぎりない空間に消えていく、ある時は見えない谷間から人の声をもって、ヨーホロロ…………ォと喚びかえさるることすらある。一つの声が無限の空間の中に喚びかえし、
木魂し反響するその深い感興こそ、胸の中のあらゆる幾山河に響かうそのひびきにもそれは似るであろう。
かかる反響、射影こそ芸術の原現象の象徴でなくてはならない。
移し、
映し、
覆す、すべての現象は、かかるただちに声をうつしあう射影的現象でもなくてはならない。言葉の母音ならびに子音のあい反映する領域がすなわち文字の韻律である。音響の種々の変容による射影現象が作曲の意味でもある。
うつすという現象の中にこそ深い芸術の
原現象がなければならない。
すでに日本語では
かたちという視覚の根源的現象がすでに
うつすという現象と関連をもっている。
かたという言葉は辞書に見れば象、形、容、態、型、式、跡、質、の漢字をあてるごとく、存在の
ものではなくして、等質的に抽象されしその外輪、あるいはその外輪がほかの
ものに等値的に
痕せし射影、さらにその等値性よりして、それと交換しうる異質的存在を指し示す。『執語』の「ほととぎすの
かたをかきて…………」『神代記』の「国造被神之象(みかた)」は
形、
象、
容、
態を意味する。小紋の
かたあるいは「ささらがた錦のひもを…………」などは型である。「かたのごとく」という武道演劇におけるは、それは別の意味の
型、
格である。蓮如の「かたのごとく一宇を建立し…………」もまたそれである。そのほか貸金の抵当質物として「年季のこの玉を、たった三百の
かたにとって…………」と用うる場合がある。うらかた(古形)からきたと思われる「かたのよきもの」すなわち仕あわせものを意味するのは特殊の変形的使用法である。例の「ひょんな心にならんした、
かたの悪い梅川様…………」がそれである。「かたもなく散りはてて」は跡としての
かたである。また鋳物の
かたがあり、染物の
かたがみからくるのに『重井筒』の「代々伝はる紺屋の型と、共に禿げたる
頭をおろし………」などがある。
その意味するすべての内面には
型と
原存在との間の等値的射影が指示されている。
写され、
移され、
覆されている。
形式といい、様式というすべての内面には、かかる
かたとそれを築きあげる機構としての
うつすという現象が存在していることに気づかなければならない。
かくて私たちはかのインドのミトスを顧みて、深い示唆に教えられるところのものが多い。
現象学的意味で気分とも訳さるべき Stimmung という言葉も語原的には音響あるいは言語的意味の射影的等値性を指す。べッセラーは音楽の世界にそれを用いて、情趣内存在 In Stimmungsein とよんでいる。言語的領域ではそれは投票を意味している。何も私たちはドイツ語から思惟を出発しなくてもよい。日本語でもたくさんである。
こうした
うつすという現象がすでに
移す、
写す、
覆すにおけるように能動的な方向と所動的な方向がわかたれてくる。何か企画的に自動的に
移す場合と、単にそこに投げだされる意味での他動的な
覆す場合がある。これが
光の領域にあらわれる時、光の二つの方向としてあらわれる。たとえばレンズで
撮影機における現象は受動的なる単なる記録構造をもっている。これに反して、
映写機においては、光は内から外に向って方向を取っている。写真では撮影と焼付けがその構造をもつ。すなわち
うつすことと芸術の
原現象の二つの方向がここにすでに構成されている。眼球ではそれが水晶体によってされることによって複雑化されて視点がまぎれやすい。機械は常に機能の拡大であり、それはその構造の内面機構の単純化をももたらせて本質的に遊離して私たちの前にもたらしてくれる。このことは私たちには興味深い事実としてあたえられていると思う。
インドのミトスで、描くかわりに巌壁を磨いたことは、描くことの内面にひそむ
うつすことの本質現象を
囚えきたってあまさない。ナルシサスの美しさも水にうつすことによって自覚される。いわばうつすこと、それが水にもせよ、金銀にもせよ、鋼金にもせよ、水晶体にもせよ、レンズにもせよ、
うつすことその中に、芸術の始源的原型が内在せりと考えらるべきである。日本語で
うつすことがそのまま移動的意味を構成するごとく、それは芸術の移入的等値的射影性を意味すると考えたい。あらゆる意識の働きの原型もが、生命のすべての現象の等値的射影的関連にありとも考えられよう。
うつすことの原現象形態がまたそのまま文字、音楽などにもいきわたって、芸術のウルフェノメナに深い関連をもつとも考えられよう。そして今、レンズの場合、光が石英の合成体を通して、正しき屈折律をもって反射し、そこに
展べられる正確なる光の現象は、集団的意志、すなわち
見る意志の深い具象化とも考えられよう。
この
うつすことが単に投影される方向より、投影する方向に転ずることで、
うつすことは単なる
鏡より飜身して、
光画に変ずる。ここにこの二つの方向の転換の意味がモンタージュの意味の本質である。この
投げられる方向より
投げる方向への転換性、そこにこそモンタージュの機構の秘密がある。
*『光画』一九三二年七月号