フイロソフイストは、「人は考へる為めに生れて来た」といふが、われわれフアンテエジストは、「人は空想する為めに生れて来た」と云つてもよい程、用もない時は空想ばかり
釣りに行つて、イザ釣らうとする時、又竿をのべてアタリを待つ時、
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樹木は「善」の象徴である。
海が渓流を引くのか、水が海と山を結ぶのか、水とは白い冷い火ではないのか、或は最もよき食物であり、流れるパンではないか、ターレスは智者だつた。水を愛する者は感情家だといふことだ。
この山には、日本のジプシー、
神農民は、あらゆる草木を舐めて後、何故鮎をムシヤとやらなかつたか。
ギリシヤの神々は釣りをした。日本の神々も釣りをされたに違ひない。釣りをしない民族は不幸だつた。
パミール高原やアマゾンの奥で、一度は釣つて見たいものだ。雲南や青海省の方面の釣信を聴きたいものだ。
もし自分がこのまま帰らなかつたら滑稽だ。心臓がパタリと止まつて。
仙人になるといふことも、ある一歩のところまでは本当に出来る。
生食、裸形生活、雨露の問題、それを練習するには三年かかる。それ以前に誰しもが
山を下りて行つたら、世の中が一日で変化してゐたり、山峡づたひにペルシヤに出たり、深い無限の竪穴があつたり、桃花郷があつたり、ナポレオンと釈迦と、ガンヂーとヒツトラーなどが向ふから歩いて来たり。
女児を生後一ヶ月から渓流で教育したら、一人を唖にし、一人を聾にし、一人を裸にし、一人を鉄仮面にし……。
一日一人で笑つてゐたら発狂するだらう。
そんな空想をのんきに
なる程海は動いてゐる。何万年も動いてゐる。万物は海から這ひ上つて来たに違ひない、植物も動物も――そして人間、火は上昇した、水は沈んだ。水と火、万物の母。
海藻から、覇王樹から、柳から、蘆から、植物は這ひ上つて来た。
プラングトンから、
人間――それは最も海にとつて必要のない化物だ。
気層に羽のあるもの、地層に足のある者、水層に
鼻糞の白い日は、人間も貝殻の生活だ。
海と女――或は女の方がよく海を知つてゐるかも知れない、潮時の出産、月のもの……。
女の半面の片側のもの、魚。
魚は恋を知らない、痛疼感がない、然し彼は驚く、彼は怒る。
上層を
魚は波浪の音以外の音を嫌ふ。
上層が銀、中層は紫、最深層は紅、紅の魚は深い。
魚は近眼か、老眼か、どうも組織が反対ではないのか。
海は恋を嫌ふ。陸の灯は遥かに遠い。
海には甘水がない、こいつは不思議だ。
人間は貝殻のつもりなら生きられる。然し魚の真似は出来ない。
海から見た海、円い海、円い空、水平の一線。中の風、浮くもの、あとは何んにも見えず。
一個の人間、一個の蟹、浪にとつては同じこと。
鴎は空に、魚は潮に、人間は中ぶらりん。
日本は海から見た時のみ
地震、浪は
海は明るい、真の闇といふものは海底にしか存在しない。
魚は発光器を持つから発声器を持たない。
魚は泣かない代りに、魚は笑ふ。
海は階級だの、貨幣だのに関係のない時にのみ面白い。
海では魚よりも釣餌に苦労する。
魚のホテル、釣りのかかり、釣徒の難所。
このまま自分が帰らなかつたら悲惨だ。陸上の家族が。然し自分が海津に腐肉を啄かれるのは痛快だ。
海と死、紙一重。
海は聾である。盲目である。彼は漂流者の五官を奪ふ。
白帆――希望、島――休息、船――足であり翼である。
世界には血よりも塩が多い。
風、取去ることの出来ない世界の呼吸だ。潮の世界の血液だ――青い。
羽は欲しくないが鰭は欲しい。呼吸機関と鰭の推進器はつながらない限りはない。
紙のモーター・ボート、海の蝶々。
海水浴者は海を怖がる。釣徒は海を可愛がる。
定まつて釣れない時には、そんな事を考へて、海といふよりも、大きい明るい自然に対して、ぼんやりと驚歎してゐる。さうしてゐる時は無論虚無的になつてゐるが、然し何か大きいものに抱かれてゐるやうで、生きてゐることがいとしく、又有難いとも思ふ。そんな意味で、われわれフアンテエジストのためには、釣りが何よりの自由権であり、夢想郷への形影問答でもある。
(七年・十・十五)