普賢菩薩のお
白象
チャッチャッチキチ、チャッチキチ、
ヒイヤラヒイヤラ、テテドンドン……
「夏祭だ」
「夏祭だ」
「天下祭でい」
「御用祭だ」
「練って来た、練って来た。あれが名代の
諫鼓鶏……」
「お次は
南伝馬町の猿の
山車」
「
日吉鷲平の猿の面。あの
山鉾ひとつで四千五百両とは豪勢なものでござります」
……三番は、
平河町の
騎射人形、……四番は、山王町の剣に
水車、……八番は、
駿河町の
春日龍神、……十七番は、
小網町の漁船の山車、……四十番が
霊岸島の
八乙女人形‥…
「熊坂」がくる、「
大鋸」がくる、「
静御前」がくる。
牛にひかせた見上げるような金ピカの屋台車の下を贅沢な
縮緬の幕で囲って、町内の師匠やお
囃子連が夢中になってチャッチャッチキチと馬鹿
囃し。
声自慢の
鳶が山車に引きそい、顔のうえに
扇子をかざして
木遣節。

やあー、小金花咲く盃で、さいつおさえつお目出たや、大盃の台のみぎわに松植えて、千代さい鶴ひなの鶴の……
芸者の揃いの
手古舞姿。
佃島の
漁夫が
雲龍の
半纏に
黒股引、古式の
侠な姿で
金棒突き佃節を唄いながら練ってくる。
挟箱を
担いだ
鬢発奴の
梵天帯。
花笠に
麻上下、馬に乗った
法師武者。
踊屋台がくる、地走り踊がくる、
獅子頭、
大神楽、底抜け屋台、
独楽廻し、
鼻高面のお天狗さま。
京都の
祇園祭、大阪の天満祭、江戸の山王祭、これを日本の三大祭という。
六月十四、十五日は
永田馬場、日吉山王権現の御祭礼。
山王権現は徳川家の
産土神。半蔵門内で将軍家の
上覧に入れる例なので、御用祭とも、天下祭ともいう。
南は芝、西は
麹町、東は霊岸島、北は神田。百六十余町から出す山車、山鉾が四十六。ほかに、
附祭といって、踊屋台、
練物、
曳物数さえつばらに知れぬほど。華美を競い、贅を尽して、その美しさは眼を驚かすにいたる。
辰年六月に日本橋
通一丁目、二丁目が年番に当った時、この二ヶ町で八千八百両の費用がかかった。
揃いの縮緬の
浴衣に
赤無垢綸子の
褌などはお安いご用。山車人形の衣裳に二千両、三千両。女房も娘も叩き売って山車の費用を出し合うのが江戸ッ子に生れた身の
冥加。
悔むどころか、これが自慢でしようがないので。
お祭が近づくと、
産子町百六十余町は仕事に手がつかない。ようよう花見がすんだばかりというのに、毎夜さ寄合って馬鹿囃しの稽古やら練物の手段。踊屋台の一件、
警固木挺の番争いから、揃い衣裳の取極め、ああでもないこうでもないと、いい齢をした旦那衆までが
血眼になって騒ぎたてる。
なかんずく、屋台へはいる師匠をきめる段になると、さすがに女のことだけあってこれがたやすくはおさまらない。狼連がそれぞれ双方に附いて、ぜひとも、うちの師匠をと、神輿ではないが、揉んで揉みぬく。この件ばかりで、いざこざが起ります。
贔屓すぎての喧嘩沙汰。頭を割られたの、片目になったのという物騒なもめごとが、毎年、一とつや二つはかならずおっぱじまるが、この年の騒ぎは大きかった。何ともいえぬ凄味のある事件で、これには、江戸中が
竦みあがった。が、それは、後の話。
行列の道筋にあたる
武家町家では、もう十三日から家の前に
桟敷をかまえ、
白幕やら紫幕。
毛氈を敷いて金屏風を引きまわし、
檐には祭礼の提灯を掛けつらね、客を大勢招んで酒宴をしながら、夜もすがらさざめいて明けるのを待っている。
何しろ江戸一の大祭なので、当日は往来を止めて
猥りに通行を許さず、
傍小路には
矢来を結い、辻々には、
大小名が
長柄や槍を出して厳重に警固する。
十四日は
渡初めといって、山車、練物はみな山王の
社に集まってここで夜を明かし、翌十五日の暁方からそろそろと練り出す。
御幣、太鼓、
榊を先に立て、
元和以来の古式に則って大伝馬町の諫鼓鶏の山車が第一番にゆく。行列長さだけで二十丁。山下門から日比谷の
壕端に沿い、桜田門の前から右へ永田町の
梨の
木坂をくだり、半蔵門から
内廓へはいって将軍家の上覧を経、
竹橋門を出て
大手前へ。それから、日本橋を通って霊岸島まで練ってゆく。
今年は麹町の年番で、一丁目から十三丁目までの町家が
御役になってこれが大変なはずみよう。毎年の猿の山車のほかに、
年番附祭の例にならい、朝鮮人来朝の練物と、小山のような大きな白象の曳物を出すというので、これが江戸中の大評判。
毎年は出さず、年番に当った年だけ曳出す。
高さは四間、頭から尻尾までの長さが六間半。鼻の長さだけでも九尺余りある。
平河町の
大経師、
張抜拵物の名人、
美濃清が二年がかりでこしらえたもの。
木枠籠胴に上質の日本紙を幾枚も水で貼り、その上へ
膠で
へちまをつけて形を整え、それを
胡粉仕上げにしたもの。
享保十三年に渡来した象を細かいところまで見て置いたと見え、芭蕉の葉のような大きな耳から眼尻の皺、鼻の曲り、尾の垂れぐあいまで、さながら生きた象を見るよう。
普賢菩薩の霊象に
倣って額に大きな
宝珠がついている。鈴と
朱房のさがった
胸掛尻掛。金銀五色の色糸で雲龍を織出した
金襴の
大段通を背中に掛け、四本の脚の中へ人間が一人ずつ入って
肩担いに担ってゆく。
象の前には、
道袍に三角の毛帽をかぶった朝鮮人の行列が二列になって二十四人。
「
糀街」と
唐文字を
刺繍した
唐幡と
青龍幡を先にたて、
胡弓、
蛇皮線、
杖鼓、
磬、チャルメラ、
鉄鼓と、
無闇に吹きたて叩きたて、耳も
劈けるような異様な音でけたたましく囃してゆく。
さて、事件は、こんなふうに始まった。
一番から四十六番までの山車、最後の四十六番は、
常盤町の僧正坊
牛若人形。
すぐ後が、御神輿。
各町から一人ずつ五十人の
舁人。白の浜縮緬に大きく源氏車を染め出した揃いの浴衣。
玉襷に
白足袋、向う鉢巻。
「御神輿だ、御神輿だ」
「山王様でい」
威勢よく、ワッショイワッショイと揉んでくる。
その後へ小旗、大旗、
長柄槍、
飾鉾が三本。
神馬が三匹。それから、いよいよ象の曳物。いま言ったように朝鮮人渡来の行列を先に立て、ヒラリヤドンチャン/\と賑かに近づいてくる。
「そら、象が来た」
「象だ、象だ」
町並は、ワーッという大騒ぎ。
桜田御門の前から黒田さまの屋敷を南へ、祭礼の番付板のある前をのぼって、山王神社の前を右へ。そこから永田町の梨の木坂。
ここまでは、何のこともなかった。ちょうど、梨の木坂を降りきって、これから
濠端へかかろうとするとき、
糸瓜仕立胡粉塗の象が、胸からホトホトと血を流しはじめた。
片側は水に伏す
芝塘の松。片側は、松平さまの
海鼠壁。
一間幅に敷いた白砂の上へ、雪の日に南天の実でもこぼれるように、
紅絵具のような美しい血が点々と滴り落ちる。
真先にこれを見附けたのが、すぐ近くの麹町一丁目に住む
近江屋という木綿問屋の忰で、今年、九つになる松太郎。
子供の眼は
敏く、遠慮がないから、精一杯の声で、
「やア、象の腹から血が流れてらア」
その声で、まわりの桟敷に
鮨詰めになっているのが一斉にそのほうを見る。
どうしたというのだろう、
作物の象の胸先が大輪の
牡丹の花ほどに濡れ、そこから血が赤く糸をひく。
「血だ、血だ」
「象が血を流している」
ワッ、と総立ちになる。これで、騒ぎが大きくなった。
龕燈の光で見た景
木挺役が飛んでくる。曳物の
先達が飛んでくる。鳶がくる。
麻上下がくる。
何しろ、お
曲輪も近い。年一度の天下祭が不浄の血で
穢れたとあっては、まことに以て恐れ多い。なかんずく、年番御役一統の
恐悚ぶりときたらなんと譬えようもない。
象は、あわてて麹町一丁目の詰番所
傍の
空地へ引込んで
葭簀で囲ってしまい、ご通路の白砂を敷きかえるやら、
禊祓いをするやら、てんやわんや。
さいわい片側だけの見物で、象の血を見た
人数もあまりたんとではない。さまざまに世話役が骨を折り、
舁役が怪我をしたのだと
誤魔化してようやくおさまりをつけてホッと胸を撫でおろす。あれやこれやで
小半刻。行列がようやくまた動き出す。
渡御、お
練のほうは、これでどうやら事なくすんだが、これから先がたいへん。
呉服橋北町奉行所、
曲淵甲斐守のお手先、
土州屋伝兵衛。神田
鍋町の氏子総代で麻上下に花笠。旦那のように胸を張って二十七番の山車に引き添っていた。
屋台車といっしょにお曲輪内へはいったが、そのうちに、麹町の象の曳物の胸から血が出たという噂が、誰の口からともなく風のように伝わってきた。
供奉のほうは放ったらかし、象を曳込んだという麹町一丁目の詰番所まで横ッ飛びに駆けてきて、ズイと葭簀の中へはいると、一足先に、そこへ来ていたのが、南町奉行所のお手付同心の
戸田重右衛門。これが、
出尻伝兵衛の
敵役。
もとは、麹町平河町の御用聞で、先年同心の株を買い、以来、むかしのことを忘れたように
権柄に肩で風を切る役人面。いよう、と言えば、
下るはずの首が、おう、と逆に空へ向くやつ。お前らとは身分がちがうという風に
碌な挨拶さえ返さない。これでは伝兵衛でなくとも
癪に触る。
真中の窪んだしゃくった面で、鉢のひらいた
福助頭。出ッ張ったおでこの下に、見るからにひとの悪るそうなキョロリとした
金壺眼。薄い唇をへの字にひき曲げ、青黒い沈んだ顔色で、これが痩せこけた肩をズリ下げるようにして、いつも前屈みになってセカセカ歩く。ちょうど、
餓鬼草紙の貧乏神といった
体。
伝兵衛のほうは、
綽名の通り出ッ尻で鳩胸。
草相撲の前頭とでもいった色白のいい
恰幅。何から何まで反対なので、二人が並ぶと、
実以て、対照の妙を極める。
こんなことも大いに原因している。向うでも嫌な奴だと思っているのだろうが、こちらでも気に喰わねえと、思わず眉が
顰む。そうなくても、敵同志のような南と北。しっくりゆこうはずがないので。
葭簀を分けるようにして入って行くのを、象の
後脚のところに
蹲んでいた重右衛門、首だけこちらへ
捩向けて、眼の隅から上眼で睨め上げ、ふふん、と鼻で、笑った。
「おお、出ッ尻か。この節ア、だいぶと、精が出るの」
近日
俄か仕込みの同心言葉。
気障っぽく尻上りにそう言って、
袴の
襞を掴みながらのっそりと
起ち上る。
「この月は
北番所の月番だが、何といっても
消口をとったのは俺のほうが先き。気ぶっせいかも知れねえが、常式通り相調べということにしてもらおうか。知ってもいようが、平河町から麹町十三丁は、むかしの俺の縄張り。お前だって仁義ということを知っているだろう、なア、出ッ尻。……ききゃア、この頃、平賀源内という大山師を
担ぎ出して、妙に、しゃくったような真似ばかりするが、あんまり
方図もなくのさばると、いずれ、いい眼は見ねえぜ。なア、出ッ尻、気をつけるほうがいいや、出ッ尻」
出ッ尻を売りに来やしめえし、出ッ尻、出ッ尻と気障な野郎だと思ったが、どうせ成上りの俄か同心、こんな馬鹿と正面切って渡合うほどのこともあるまいと、そこは、さすがに
蜀山人太田南畝先生の弟子だけあって、多少気が練れている。あざとく
絡んでくるのを、軽くいなして、伝兵衛、
「誰かと思ったら、これは戸田先生。先に手がつけば、相調べになることは昔からのきまり。そのご挨拶には及びませんのさ。しかし、どちらが
落を取るかは互いの腕次第」
重右衛門は、いよいよ以て苦ッ面になり、
「腕たア、
撞木の腕のことか。その腕じゃ、ゴーンと
撞いても碌な
音は出なかろう、何を吐かしやがる。……まア、そんなことはどうでもいいや。おい、御出役、お
前のくるのを今迄
痺れを切らして待っていたんだ。顔の揃ったところで、早速、改めにかかろうじゃねえか」
「おだてちゃいけません。あっしは御出役でも何でもねえ、あなたとちがって、ただの御用聞。下調べは
如何にもあたしが手掛けますが、何といってもこんな
稀有な事件。この象を
腑分したら、どんな
化物が飛び出すか知れたもんじゃねえ、御出役のこないうちに
軽率に象に手をつけるわけにはゆきません」
象のそばに寄って、じぶんの身体を柵にして、油断なく
立構えているところへ、ドヤドヤと
北番所の出役。
与力
小泉忠蔵以下、
控同心神田権太夫、伝兵衛の下ツ引
[#「下ツ引」はママ]、目ッぱの吉五郎、一名目ッ吉、御用医者の
田沢菘庵、ほかに、追廻しが六人。物々しい出役。
余談だが、神田権太夫というのは、後年、例の
谷中延命院の
蓮花往生。尻の下へ鏡を敷いて蓮の花の中へはいり、下から槍で突かせて大見得を切ったあの名同心。目ッぱの吉五郎のほうは、
享和三年、同じく延命院の伏魔殿を突きとめ、悪僧
日潤を
捕って押えたお手先。これで、
北番所の
名題どころが全部顔が揃ったわけ。
神田権太夫は、
葭簀のそばに腕組みをして突っ立っている
重右衛門をジロリと尻目にかけ、ツカツカと象の胸先のほうに寄って行って、血の
滲み出している
辺をツクヅクと眺めていたが、そばに引添っていた菘庵のほうへ振りかえり、
「先生、嗅いただけでははっきりしたことは言えませんが、これは、人間の血じゃないでしょうか。犬猫の血なら、もうすこし
毛臭えはず」
菘庵は、指先で血を取って、
指頭で捻って小首をかしげていたが、急にひき
緊った顔つきになって、
「この粘り加減では、どうやら人血」
「うむ」
「仮に、体内で死んでいるのが犬猫なら、こうまで
夥しい血の香はいたさぬはず。この葭簀へ入った途端、プンと血の香がいたしましたことから推しますと、象の腹中には相当多量の血が溜っているのだと思われます」
「ご尤も」
小泉忠蔵は、引きとって、
「菘庵先生のお
推察通り、もしこの象の中に人間が死んでおるのだとすれば、これは何とも奇ッ怪。何のためにかようなところへ死体などを塗込んだものであろう。……押問答をしている場合ではない。何はともあれ、早速、象の腹をあけて見ることにいたそう。……伝兵衛、なるったけ象を損じないようにして腹をあけて見ろ」
「ようございます」
すぐそばが、
外麹町、や組の番屋。追廻しが三、四人飛び出して行って、
竹梯子に
鳶口、
逆目鋸、
龕燈提灯などを借りて戻ってくる。
木枠といっても、桐に
朴の木をあしらったごく軽いもの。伝兵衛、梯子でのぼって行って象の左の脇腹からすこし上った辺を逆目鋸で
挽きはじめたが、骨組さえ挽切れば、後は胡粉と
膠で固めた日本紙。挽くほどもなく肩まで入るほどの穴がパックリと黒い口をあける。
「おい、龕燈」
穴から龕燈を差入れ、象の胎内を照しつける。
見るより、伝兵衛、アッと叫び声をあげた。
「象の腹の中に若い女が死んでいます」
麻の葉の派手な
浴衣に、
独鈷繋ぎの博多帯、
鬘下地に結った、二十五、六の、ゾッとするような美しい女が、浴衣の衿元から乳の上のあたりまで
露出しにしたひどく艶めいた姿で、象の下ッ腹の窪みにキッチリ
嵌込むようになって死んでいる。左の乳の下がドップリと血に濡れて。
薄くあけた
切の長い
一重目の瞼の間から
烏目がのぞき出し、ちょっと見ると、笑っているよう。
匕首かなんかで一突きに
刳られ、あッと叫ぶ間もなく
縡れたのにちがいない。この
穏かな死顔を見ると、その辺の消息が察しられるのである。
それッ、というので、象の胸先を縦に挽き切り、下ッ引が四人がかりでソロソロと死体を引出す。
地べたへ
菰を敷き、象の腹の中にいた通りのかたちに
横える。
朝の光で見ると、一段と美しい。透き通るような白い手を胸の傷口のあたりへそっとのせ、空へ眼を向けてホンノリと
眼眸を霞ませている。着付でひと眼で知れる。堅気ではない。師匠か、お囲いもの。
菰へ膝をついて、熱心に検証している菘庵へ、伝兵衛、
「先生、御検案は。……殺されてから、大体どのくらい
時刻が経っておりましょう」
「何しろこの
暑気。それに、風の通さぬ張物の中。はっきりしたことは申しかねるが、まず、ざっと今から
二刻から
二刻半ぐらいまでの間……」
「すると、
大凡、白むか白まぬかのころ」
「まずその見当。……が、いまも申した通り、こういう情況では、死体の腐敗が意外に早いかも知れぬから、きっぱりした断定は下されぬ」
人垣のうしろから伸びあがって死体を覗き込んでいた、重右衛門、
「おッ、これは、
清元里春……」
と呟き、何か思い当ることがあったらしく、
「……なアるほど、そういうわけか。これで当りがついた」
あとは聞えよがしの高声、
「飛んだお邪魔。なにとぞ、ごせっかく。ずいぶん精を出して、犬骨を折って鷹に取られねえよう、ご用心」
憎まれ口をきいて、いつものように前屈みになってセカセカと出て行った。
目ッぱの吉五郎は、
忌々しそうに重右衛門の後姿を見送りながら、伝兵衛に、
「いま重右衛が呟いていたのを聴くと、これは清元里春という女だそうですが、いずれ、何か祭に絡んだ遺恨でもあったものと思われますが……」
と言いながら、小柄な身体を二つに折るようにして伝兵衛のそばへ
蹲まり、
「どんなことがあったって、死骸を脚から腹へ送り込むというわけにはいかないから、たぶん、どこかへ穴をあけてそこから死骸を放りこみ、穴をもとの通りに塞いだのにちがいねえと思いますが、あなたのお
推察はいかがです」
伝兵衛は、頷いて、
「俺もさっきからそのことを考えていたんだ。象の
周囲をグルグル廻って見たが、胴も腹も古い細工で、塗直したようなところも見当らねえ。……もしそんなところがあるとすれば、あの
段通の下。……おい、目ッ吉、象の肩にかかっているあの段通を引ン
捲って見ようじゃないか」
「ええ、やって見ましょう」
段通に
双手をかけて力任せに引き剥ぐと、ちょうど象の背中の
稜からすこし下ったあたりに、ひとが一人はいるくらいの大きさに胡粉の色が変ったところがある。
伝兵衛は、目ッ吉と眼を見合せてから梯子をのぼって色の変ったあたりへ
掌をあて、眼を近づけてためつすがめつしていると、真上から照りつける
陽の光で胡粉の中に何かキラリと一筋光るものがある。指で摘んで見ると、それは
頭髪。
「おい、目ッ吉、ここに頭髪が一本
梳きこまれているが、これア古い時代のもんじゃねえ、昨日今日のもの」
目ッ吉は、含み笑いをして、
「ねえ、親方、それアたぶん
美濃清の頭髪でしょう」
「どうしてそんなことが知れる」
「だって、こんな手際な仕事は素人には出来ません。……この通り、
糸瓜で形をつけ、胡粉で
畝皺までつくってある。……そればかりじゃない。下手な人間などはどんなことがあったって象の背中へなんぞへのぼらせない。ところで、美濃清なら、手直しとかなんとか言やア、大勢の見てる前で大っぴらにどんな芸当だって出来るんです」
伝兵衛は、首を振って、
「いやいや、ここを塗直したのは美濃清かも知れねえが、それだけのことで美濃清が里春を
殺ったと決めてかかるのはどうだろう。……この象は昨日の日暮れ方永田の馬場へ持って行って葭簀囲いにし、朝鮮人になる町内の若い者が二十人ばかり、象のまわりでチャルメラを吹くやら、
鉄鼓を叩くやら、夜の明けるまで騒いでいた。いかな美濃清でも、あれだけの人数がいる中で人を殺し、その死体を象の中へ塗込めるなんてえ芸当は出来そうもない」
「それじゃ、いったい、どういうんです。菘庵先生の話じゃ、殺されてから二刻か二刻半という御検案ですが、そうだとなりゃアこれはまるっきり雲を掴むような話」
「さっき重右衛門が、いやに
北叟笑んで駈け出して行ったが、たぶん、お前の
推察とおなじに美濃清をしょッぴくつもりなんだろうが、俺の
推察はすこしちがう」
「すると……」
「美濃清一人じゃ、この芸当は出来まいというのだ。……かならず、二人三人と同類がある」
「へえ」
「つもっても見ねえ、あの象は十四日の夕方まで伝馬町の
火避地に飾ってあったんだが、
渡初めがはじまって、四人でそれを永田馬場まで担いで行った、……その時には、象の中に死体なぞは入っていなかった。……死体が入ったのは、今朝の
暁六ツ。担ぎ出す少し以前。……なア目ッ吉、痩せていても女の身体は十二、三貫。これだけの重さが増えているのに、四人がそれに気がつかねえというはずはなかろう。……象の脚に入っていた四人が、みな、この事件の同類だという証拠だ」
と、言って、小泉と神田に向い、
「いま言ったような次第で、あっしらは四人をしょっぴいてこれから番所で
下温習をいたしますから、旦那方は、どうかお役所でご休憩願います」
伝兵衛は、六人の追廻しにどんな人間がきても象のそばへ近寄らしちゃいけねえと、しっかりと念を押して、目ッ吉と二人で葭簀から出る。
生きていた里春
仙台平の袴に
麻上下、
黒繻子前帯の
御寮人、
絽の振袖に錦の帯。織るような人波を押しわけながら、伝兵衛は声をひそめ、
「町会所では言わなかったが、里春は、象の腹の中にいたときには、まだ生きていたんだぜ」
「えッ」
「だってそうだろうじゃないか。どう張抜いたって
日本紙に
糸瓜。二刻前に殺されたものだとしたら、梨の木坂を降りるまで血が沁み出さねえことはねえはず。これから推すと、里春はお練りがはじまってしばらく経ってから象の中で殺されたんだ」
目ッ吉は、ひッ、と息をひいて、
「もちゃげるわけじゃありません、こりゃア、どうも凄いお
推察、恐れ入りました。……
仰言る通り、如何にもそうでなくっちゃ筋が通らねえ。……が、それにしても、
渡御の道筋の両側に隙間なく桟敷を結って、何千という人目がある。しかも、真ッ昼間。あれだけの人目の中で
外側から槍で突くにしろ刀で刺すにしろそんな芸当は出来そうもねえ。……だいいち、象の脇腹には突傷はおろか、
下手に窪んだとこさえありゃしねえんです。仰言ることは如何にも納得しましたが、とすると、いったいどんな方法で殺ったものでしょう」
「さア、そこまでは俺にもわからねえ。いずれ、象の胎内に何か
からくりがあるのだと思うが……」
と、言いながら、
懐中から
三椏紙を横に綴じた捕物帖を取出し、
「……象の右の前脚に入ったのは、美濃清で、左脚が植木屋の
植亀。……後脚の右が麹町十三丁目の両換屋、佐渡屋の
忰の
定太郎。……同じく後脚の左が、
箪笥町の
担呉服、
瀬田屋藤助この四人。……なア、目ッ吉、仮に、象を
背負って歩きながら里春を殺るとしたら、どいつがいちばん
歩がいいと思う」
「……象の脚の下から担いで行く四人の脚が見えているんだから、槍か何かで突くとしても、まず、前脚の二人は
覚束ない。こういう芸当が出来るとすれば、後脚の右へはいった佐渡屋の定太郎と、左へはいった瀬田屋藤助」
「尻馬に乗るわけじゃないが、俺の見込みも、大体、その辺だ」
番所までは、そこからほんのひと
跨ぎ。
入口の土間の床几に、町内の世話役らしい年配が二人。麻上下の膝へ花笠をひきつけて
気遣わしそうな顔つきで控えている。
伝兵衛が入って来たのを見ると、もろともに起ちあがって、
「土州屋さん、年に一度の祭に、こんなくだらねえ騒ぎを仕出かして、面目次第もありません」
「何といったって、ひと一人死んだことだから、穏便というわけにも行きますまいが、そこを、ひとつ、何とか手心を……」
伝兵衛は、頷いて、
「あっしにしたって、何も出ない埃まで叩き出そうというんじゃない。こういうときには針ほどのことにも
尾鰭がつくもんだから、出来るだけ内輪にやる気じゃアいるんですが……」
「あなたがそう仰言ってくださると麹町十三丁がホッと息をつきます。どうか、なにぶん……」
「……それで、あなた方が町会所へお寄りになったということを聞きましたから、まア、何といいますか、四人の
身性について、引ッ
手繰られるお手数だけでも省けるようにと思いまして、
倖い、四人のことなら、たいがいわれわれ二人が
一伍一什存じておりますから、知っておりますだけのことは逐一申上げるつもりで
薬鑵を二つ並べてここでお待ちしていたようなわけで……」
伝兵衛は、ちょっと手を下げて、
「それは、どうも有難うございました。こちからお願い申さなければならないところを」
磨き
檜の板壁に
朱房の十手がズラリと掛かっている。その下へ座蒲団を敷いて、さて、
「早速ですが、美濃屋清吉というのは、どういう素性の男なんで」
甚兵衛という
年嵩の方が、頷いて、
「はい、あなたもご存じでいらっしゃいましょう、先代の美濃清はそれこそ、
譬え話になるような頑固な名人気質。曲ったことの嫌いな竹を割ったような気性の男でしたが、これが三年前に死にまして、今は忰の清吉の代になって居ります。……
依怙贔屓になりますから、ありようをざっくばらんに申上げますが、どちらかといえば、鷹に
鳶。仕事は嫌いではなさそうですが、ちょっとばかり声が立つもんだから
清元なんかに
現を抜かして朝から晩まで里春のところに入り
浸り。半分は評判でしょうが、毎朝小ッ早く出かけて行って、里春の寝てるうちに火を起すやら水を汲むやら、大変な孝行ぶりだということです」
「この、担呉服の瀬田屋藤助というのは」
「ずっと京橋の
金助町におりまして、麹町にまいりましたのはついこの春。酒も飲まず、
実体な男というきり、くわしいことは存じませんです」
「植亀の方は、どういうんです」
「これは里春の弟子というよりも、むしろ師匠格。吉原の
男芸者、
荻江里八の弟子で、気が向くと茶を飲みに行くくらいのもの。ほかの狼連とはすこしちがうんです。庭師のほうもいい腕で、黒田さまの
白鶴園を一人で取仕切ってやったくらいの男なんです」
「じゃア、最後の佐渡屋の忰のほうをひとつ」
「定太郎は佐渡屋の
相続人なんですが、親父はすこし思惑をやり過ぎるんで、この節、だいぶ火の車で、こりゃまア、世間の評判だけでしょうが、あわや店仕舞いもしかねないほどの正念場ということです。……今度
結城の織元で、
鶴屋仁右衛門といって
下総一の金持なんですが、その姉娘と縁組ができ、結納がなんでも三千両とかいう話。この娘が見合かたがたお祭見物に江戸へ出てきて二、三日前から佐渡屋に泊っているんだそうです」
「なるほど。……それで、定太郎と里春はいったいどんな
経緯になっているんです。何か入組んだことでもあるのじゃありませんか」
折目高に袴を穿いた、尤もらしい顔つきをした方が、甚兵衛に代って、
「この方は相模屋さんが、よくご存じないようだから、わたくしが代って申しましょう。……あんなのを悪縁とでも言うのでしょうか、里春はもと
櫓下の羽織で、
春之助といったら土州屋さんもご存じかも知れない。評判の高かったあの
松葉屋の春之助のことです。……七つも齢下の定太郎にじぶんの方から首ったけになって
二進も
三進もゆかぬようになり、商法の見習で定太郎が大阪へ行けば大阪へ、名古屋へ行けば名古屋といったぐあいに、あっちこっちしてる間じゅうこの五年越し影のようについて廻り、定太郎の年季が終って江戸へ帰って来ると、十三丁目と背中合せの箪笥町で清元の師匠をはじめたんです。……気の毒だといったらいいのか馬鹿だといったらいいのか、わたくしには何とも言えません。……佐渡屋は、四谷、麹町でも名の通った
旧弊な家風。じぶんの相続人に五年も他人の飯を食わせて商法の修業をさせるほどの親父なんだから、山ッ気のほうは兎も角として、芸者の、師匠のとそういった類をどう間違ったって、家へなぞ入れようはずがない。そりゃア、里春のほうでも百も承知なんだが、矢ッ張り諦めきれないと見える。……あまりいじらしくて、この話ばかりはまだ誰にもしたことはなかったんですが、ちょうど二十日ほど前、町内に寄合があってその帰り途、佐渡屋の前を通りかかって、何気なくひょいと門口を見ますと、戸前に大きな犬のようなものが寝ている。……何だろうと思って、そっと近寄って見ると、
鳴海絞りの黒っぽい浴衣を着た里春が、片袖を顔へひき当てるようにして
檐下に寝ているんです。……酔ってるのかと思って、肩へ手をかけて揺って見ると、酔っているんじゃない、泣いているんです。……こんな地面へ寝転がっていると
夜露にあたるぜ、と言いますと、ああ、加賀屋の旦那ですか、手放しでお聞きにくいでしょうけど、あちきは毎晩ここで寝ているんです。……一尺でも定太郎に近いところで寝たいと思いましてねえ、どうぞ笑ってくださいまし……」
「そりゃ、気の毒なもんだ。……それで、定太郎のほうは、どうなんです」
加賀屋は、苦っぽろく笑って、
「土州屋さん、これはあたしが言うんじゃありません。いくら何でも、頭を禿げらかしたあたしがこんなことを言うわけがない。これは、世間の評判です、どうか、そのつもりでお聴きください。……世間じゃ、定太郎を馬鹿野郎だと言っています。馬鹿も馬鹿も大たわけ。……なるほど、相手はしがない清元の師匠。織元のお嬢さんとは比べものにはなりますまいが、人間の真情は金じゃ買われない。この世で、何が馬鹿だといって、人情を汲み取れねえ奴ぐらい馬鹿はありません……」
気が差したように、禿上った額をツルリと撫でて、
「こりゃアどうもくだらねえ無駄ッ話を……。尤も、定太郎のせいばかりじゃない。子供のときから親父のいいなり次第。張りのねえ男で、
吝ったれが盆栽を
弄るようにすっかり枝を
矯められてしまったせいなんでしょうが……」
「それほど嫌っていながら……」
「ええ、それというのは、里春が怖いからなんです。心の中じゃ
身顫いの出るほど嫌ってるんだが、あまり
素気なくすると
許嫁のところへ暴れ込まれ、せっかく纏りかけた縁談をぶち
毀されないものでもないと思って、誘われれば嫌々ながら出かけて行くといったわけあいらしいんです」
火明りに映った顔
源内先生は、ぶつくさ。
内心は、それほど嫌でもなさそうなんだが、何かひと言いわないとおさまらないのだと見える。
年に一度のお祭だというのに、今まで家で何をしていたのか、頭から
木屑だらけになり、強い薬品で焼焦げになった
古帷子を前下りに着て、妙なふうに両手をブランブランさせながら、
「ねえ、伝兵衛さん、実に、わしは迷惑なんだ。何かあるたびに、ちょいと先生、ちょいと先生……。わしはお前さんのお雇いでもなければ追い廻しでもない。ひとがせっかく究理の実験をしているところを
騙討ちみたいに連れ出して、象の腹の中へ入って見てくれとは何事です。嫌だよ、断わるよ。こんなボテ張りの化物みたいなものの胎内潜りなんか、真ッ平ごめん蒙るよ」
伝兵衛の方は、すっかり心得たもので、決して先生に
逆わない。
「ああ、そうですか。嫌なら嫌でようござんす。お忙しいところをこんなところへ引き出して申訳ありませんでした。……お詫びはいずれゆっくりいたしますが、あっしは気が
急いておりますから、じゃ、これで……」
源内先生、
狼狽えて、
「まア、そう
素気ないことを言うな。お前はひと
交際がわるくて困る。いったい、この象がどうしたんだと」
「いいえ、別にどうもこうもありゃしません」
「そう突っ放すもんじゃない。だいぶ面白そうな話だったじゃないか。……それで、四人はたしかに里春の声を聞いたというんだな」
伝兵衛は、心の
中で
北叟笑みながら、さあらぬ体で、
「ええ、そうなんです。……練出すときはさほどでもなかったが、
追々陽がのぼるにつれて、象の胎内は
蒸せっかえるような暑さになった。ひっくり返えられては困ると思って、師匠大丈夫か、と交るがわる声をかけると、里春は、その
都度、あいよ、大丈夫。山王さまの氏子が、このくらいの暑さに
萎たとあっちゃ、江戸ッ子の顔にかかわる、なんて元気な返事をしたそうです」
源内先生は、怪訝そうな顔で、
「なに、誰が返事をしたんだって」
「誰がって、里春がでさア」
「こりゃちと
面妖だな。わしの
推察じゃ、里春は、練出さない前に殺されていたはずなんだが、死人が口をきくというのはどういうものだろう」
「源内先生、あなたはひどく見透したようなことを
仰言いますが、今も言ったように、四人がちゃんと里春の声を……」
「それはわかったが、聞いたということに証拠があるか。あったら出して見せろ」
「そんな無理を仰言ったってしようがない」
「ほら、見ろ、こう突込まれただけでよろけるようなチョロッカなことじゃ何の足しにもなりはしない。それくらいのことなら四人の口合いでも出来ることだし、ひょっとすると、そのうちの誰かが里春の
声色を使ったのかも知れない。足へ入ってる四人は、お互いに姿が見えないのだから、小智慧の廻る奴なら、そのくらいのことはやってのけるだろう」
「まア、そう言えばそうですが、ここに一つ、どうしても定太郎に
逃れられない弱い尻ッ尾があるんです」
「尻ッ尾とは、どんな尻ッ尾だ」
「この象の
拵物は、佐渡屋の親父が
洋銀の思惑であてた年、ちょうど麹町の年番に当ったのでポンと千両投げ出して先代の美濃清に作らせたものなんですが、その時、佐渡屋が美濃清に、何か人にわからないような細工をそっと一ヶ所だけ拵えておいてくれと頼んだ」
「なるほど」
「美濃清は何をしたかと思うと、後の右脚の附根を
丸刳にして
合口仕立てにし、そこから胎内へはいって行けるように拵えておいたんです」
「いったい、何のためにそんな子供染みた真似をしたのだ」
「象の胎内潜りをしてひとを驚かせようなんてえのじゃない。そんな
茶気のある親爺じゃないんです。
元文以来の
御改鋳でいずれ金の品位が高くなると見越したもんだから、田舎を廻って
天正一分判金や足利時代の
蛭藻金、甲州山下一分判金などを買い集め、月並みの金調べの眼が届かないように、そいつをそっと象の胎内にしまい込んでおいたんです。つまり、これで何年後かに大思惑をする肚……」
「ありそうなことだな」
「土蔵一つ造ると思えば、千両は安いもの。祭礼の象の
曳物の腹の中に万という小判が隠してあるとは誰も気がつかない。左前になりかかって家の中は火の車なんてえのは真赤な嘘。……定太郎と織元の娘を縁組みさせ、結納の三千両で息を吹きかえしたと見せ、たくし込んでおいた
古金でそろそろ思惑をはじめようというのが実情なんです。……ところが、象の右の後脚の
からくりを知っているのは四人の中では定太郎だけ。これは申上げるまでもない。……そもそも、里春を象の腹の中へ入れご
上覧の節、象の腹の中で小唄をうたわせて、アッといわせてやろうなんてえ発議したのは定太郎なんだから、こりゃアどうも抜き差しがなりません」
「くどい男もあればあるもの。何のためにそんな手の籠んだ真似をしたのだ」
「言うまでもないこってしょう。もう間もなく縁組みをしようというのに、里春の
纏いつきが欝陶しくてたまらない。どんなことがあっても、じぶんに疑いがかからないような方法で……、まかり間違ったら、美濃清に全部ひっかかるように充分練りに練って仕組んだことなんです」
「わかったようなわからないような変なぐあいだな。そんなことで、じぶんに疑いをかけられずにすませられるだろうか」
「だって、そうだろうじゃありませんか。あの沢山の
人眼の中を練りながら、その腹の中の人間を殺せようとは誰も考えつかない。行燈下の手暗がり。そこを狙ってやったことなんです。昨日の
白々明け、背中へ穴をあけて象の中へ里春を下し込むとき、定太郎は、じぶんだけわざとその場にいなかった」
「いよいよ以てわからなくなった。……里春を象の中へ入れるとき、その場に定太郎がいなかったとすれば、里春を殺したのは、定太郎ではないわけだ」
「こりゃア驚いた、先生もずいぶんわからない。今も言ったように、四人の中で、定太郎だけが脚から象の胎内へはいって行けるんですぜ」
「入って行けないとは言わないが、象を担ぎながらひとは殺せない。それに、菘庵が里春が二刻前に死んでると言った事実だけは、どうしたって動かすことが出来ないのだ。俺は、かならずしも定太郎が殺したのではないと言わないが、里春が殺されたのは、何といったって練出す前だったことだけはまぎれもない」
「すると、血の方はいったいどうなります。……どうしたって永田馬場を曳出す前に
沁み出していなければならないはずでしょう」
「何でもないようだが、そこに、この事件のアヤがある。……はてな」
源内先生は、腕組をして、ひどくムキな顔をして考え込んでいたが、間もなく、ポンと横手を
拍って、
「伝兵衛、わかった! 里春を殺したのは、定太郎でもなければ、担呉服でもない。いわんや、植亀などではない。こりゃアやっぱり美濃清の仕業だ」
「そ、そりゃ、いったい、どういうわけです」
「おい伝兵衛、そもそもどういう理由によって象が胸から血を
滴らした。……里春は象の腹の窪みの中で死んでいたというから、血が滲み出すなら胸からなどではなく腹から
滴るはずだ。このわけが、お前にわかるか」
伝兵衛は、面喰って、
「どうも、だしぬけで、あっしには、何のことやら……」
「なぜ腹から血が滴れないかと言えば、外へ血が滲み出さないように、あらかじめちゃんと支度がしてあったからだ。わしの考えでは、ちょうど血の溜りそうな象の腹の内側を
桐油張りかなにかにして置いたのだと思われる。……ところが、美濃清は、象が梨の木坂を降りることをうっかり計算に入れなかった。……
天網恢々、象が梨の木坂を降りた拍子に腹に溜っていた血がみな胸のほうへ寄ってゆき、計らざりき、思いもかけない手薄なところから滲み出してしまったというわけだ。
上手の手から洩れるというのはこの辺のことを言うのだろう。これから推すと、美濃清は、やはり象の後の脚の
からくりを知っていたんだな。……言うまでもない、こりゃア、恋の怨みで定太郎を突き落すための仕業なのさ」
「すると、美濃清は、いつ里春を殺ったのでしょう」
「たぶん、朝鮮人が寄ってけたたましく
前囃子をはじめたころででもあったろうよ。……論より証拠、のっぴきならないところを見せてやる」
と言いながら、象の腹のほうへ寄って行き、
檳榔子塗の腰刀を抜いて無造作にガリガリと胡粉を掻き落していたが、そのうちに手を休めて得意満面に伝兵衛のほうへ振りかえり、
「どうだ、伝兵衛。ここへ来て見ろ。象の下ッ腹に、この通り
桐油を五枚
梳張りにして、その上を念入に
渋でとめてある。象の腹で金魚を飼いやしまいし、こんな手の込んだことをする馬鹿はない。それに、ひと眼見てわかる通り、これは去年
一昨年のものじゃない。つい最近にやった仕事。……なア、伝兵衛、こんな仕事が出来るのは、四人のうちで美濃清だけ」
「恐れ入りました」
源内先生、ニヤリと笑って、
「お前が恐れ入ることはないさ。……しかし、これだけじゃ、美濃清の首根ッ子を押えるわけにはゆかない。親父のやったことで私は知りませんと言われたらそれっきり。……敵を
謀るはまず怖れしむるにある。……棒を持った象の番人などはみんな引っ込めてしまって、象が胸から血を滴らしたのは何故だろう何故だろうと、何気ないふうに触れて歩け。かならず美濃清が象を焼きに来る」
夕方からとの
曇って星のない夜。
まわりは空地なので、
祭礼の提燈の灯もここまではとどかない。
蓬々の草原に、降るような虫の声。
濃い
暗闇のなかに墨絵で描いた松が一本。
その幹へさしかけにした葭簀囲いの間から、闇夜にもしるく象の巨体が物の
怪のようにぼんやりと浮きあがっている。
祭礼のさざめきもおさまって、もう、かれこれ
丑満。
蛍火か。……象の脚元で
火口の火のような光がチラと見えたと思うと、どうしたのか、象が脚元からドッとばかりに燃え上った。
乾き切っていたところと見え、前脚にメラ/\とたちあがった火が、
舐めずるように胴のほうへ這って行き、
瞬く間に大きな象の
身体を
紅蓮の焔でおし包んでしまった。
象の脚元に
蹲まっている一人の男。
井桁格子の浴衣に
鬱金木綿の手拭で
頬冠り。片袖で顔を蔽って象のそばから走り出そうとすると、
人気のないはずの松の
根方から
矢庭に駈け出した一人。
「野郎ッ!」
間をおかずに、今度は葭簀の裏からまた一人。
「美濃清、御用だ」
件の男は、げッ、と息をひいて、つんのめるように
闇雲に駈け出した。と見るうちに、もやい合った夏草に足を取られて俯伏せにどッと倒れた。
同体になって一人は肩、一人は足。グイッと押えつけておいて、
「じたばたするねえ、ももんがあ
奴」
「
足掻きやがるな、
経師屋」
男は、
歯軋りをして、
「畜生ッ、
桝落しにかけやがったか」
ちえッ、と舌を鳴らすのを引起して顔を見ると、美濃屋清吉。……
肩を押えたのは、
北番所の土州屋伝兵衛。足を掴んだのは、
南番所の
戸田重右衛門だった。
薪割りから水汲みと、越後から来た
飯炊男のように実を運んでも、笹の雪、
撓うと見せて肝腎なところへくるとポンと
撥ねかえす。美濃清も愚痴な男ではないのだが、もう抜きも差しもならない恋地獄。祭礼の酒に勢いを借りて最後の手詰めの談判をして見たがどうにもいけない。定太郎のことでいっぱいで、あなたのことなんぞは思って見る暇もないという愛想尽かしだった。
定太郎がいるばっかりにと思いつめたら、もう何を考える余地もない。どんなことがあったって里春を生きたままでは定太郎に渡さねえ。
親父が死ぬときに、そっと囁いた象の後脚のからくり。ちょうどそこへ定太郎が入ることから思いついて巧く仕組んだ象の中の人殺し。
定太郎の縁組が近づくのに、里春に纏いつかれて困っていることは町内で知らないものはない。せっぱ詰って定太郎が里春を殺したと見せかけるつもり。それには象が練っている途中に殺したと見せるのでなければ
拙い。象の腹の内側に桐油を張って漆で留め、二刻ぐらいは血が外へ洩れないようにして置いた。
里春を殺したのは、象の背中から中へ入れたときだった。座蒲団を持ってじぶんも一緒に入ってゆき、隙を見すまして左手で口を蔽い、右で乳の下をグッとひと刺し、象のまわりではチャルメラや鉄鼓をかしましく囃し立てていたので、里春の
知死期の叫び声は象の脚元にいた植亀や藤助の耳にも聞えなかった。
象の中が蒸れてきて、みなが気遣って里春に声をかけると、そのたびに美濃清が里春の声色を使って返事をしていた。