わたしは
尋常科の四年を
卒業するまで、
北海道におりました。その
頃は、尋常科は四年までしかありませんでしたから、わたしは北海道で尋常小学を卒業したわけです。
今から、ざっと二十年前になります。今では小学校の
読本は、日本中どこへいっても同じのを
使っておりますが、その
当時は、北海道用という
特別のがあって、わたしたちは、それを
習ったものです。
茶色の
表紙に青いとじ糸を使い、中の
紙も
日本紙で
片面だけに
字をすったのを二つ
折りにして
重ねとじた、
純日本式の
読本でした。その中には、
内地の人の知らない、北海道だけのお話がだいぶのっていたようです。(わたしたちは、
本州のことを
内地内地と、なつかしがって、よんでいました。)
たとえは、くまが
納屋へしのびこんで、
かずの子のほしたのをはらいっぱいに
食べ、のどがかわいたので川の水をのむと、さあ大へんです。おなかの中で、かずの子が水をすってうんとふえたからたまりません。くまは、とうとう
胃がはれつして死んでしまったというようなお話ものっていました。ほしかずの子がどんなに水へつけるとふえるものかは、おかあさま
方におききになればよくわかります。
――わたしは、またもう一つ読本の中にあったくまの
絵をありありと思いだすことができます。それは、大きなくまが後足で立って、木の
枝に
さけをたくさん
通したのをかついでいくところです。さけが川へ
上ってくるころになりますと、川はさけでいっぱいになり、さけはたがいに
身動きもできないくらいになることがあるのだそうです。そういう時をねらって、くまは川の
岸にでて、
爪にひっかけては、さけをほしいだけ
取ります。それから木の
枝を
折って、さけのあごへ通し、それをかついで
穴へ帰ろうとするのですが、さすがのくまもそこまでは気がつかないとみえ、枝のさきをとめておかないものですから、さけは、
道々、一つずり落ち二つ落ちして、ようやく
穴へ帰ったころには、枝に一ぴきものこっていない。そうしたくまの歩いたあとへ通りかかった人こそしあわせで、くまの落したさけをひろい集めさえすれば
大漁になるというお話でした。
こんなふうですから、ふだんでもくまの話は、よく耳にしました。きょうは
郵便配達が、くまに出会ってあぶないところだったとか、どこどこへくまがふいにでて、
飼い馬をただ一うちになぐり
殺したとか、そういった話をたびたびききました。
家の
父は、新しく
鉄道を
敷くために、山の中を
測量に歩いていましたので、そのたんびアイヌ人を
道案内にたのんでいました。アイヌ人は、そんな
縁故から、くまの
肉を、よく、わたしの家へ持ってきてくれたものでした。
北海道のくまといえば、こんなにも縁故が深いのです。しかし、かずの子を
食べすぎたり、さけを落して歩いたり、
猛獣ながら、どことなく、くまにはこっけいな、かわいいところがあるではありませんか。
さて、つぎにわたしがお話ししようと思うのは、北海道にはじめて
鉄道ができたころのことで、今からざっと四十年も前になりましょうか。その
当時、まだ二十
代の
青年で、あの
石狩平野を走る
列車に
車掌として乗りこんでいたおじからきいた話なのです。
以下、わたしとか自分とかいうのは、おじのことです。
――なにしろ、そのころの
鉄道といったら、人の足あとどころか、
北海道名物のからすさえもすがたを見せないような
原野を
切り
開いて通したのだから、そのさびしさといったらなかった。さびしいどころではない。すごいといおうか、なんといおうか、いってもいっても、
両がわには人間の
背よりも高い
あしや
かやがびっしりと
生え
茂っているばかりで、人間くさいものなんか一つもありはしない。まったく夕方なんぞ、
列車の
車掌室から、ひとりぼっちで外をながめていると、
泣きたくも泣けないような気もちだった。そういう時には、川のそばへさしかかって、水音をきくだけでもうれしかった。――くまなども、はじめは、
汽車を見るとみょうなけものがやってきたぐらいに思ったらしい。
機関車の前へのこのこでてきてにげようともしないので、
汽笛をピイピイ
鳴らしてやっと
追いはらったというような話もあった。
さて、わたしが、くまと、
列車の中で
大格闘をしたという話も、まあ、そんな
時分のことなのだ。
秋のことだった。
終点の
I駅からでる
最終列車に
後部車掌をつとめることになったわたしは、列車の一ばん
後の
貨車についた三
尺ばかりしかない
制動室に乗りこんだ。制動室というのはブレーキがあるからそういうので、車掌室のことだ。自分はそこのかたい
腰かけへ腰をおろすと、うす
暗いシグナル・ランプをたよりに、かたい
鉛筆をなめなめ、
日記をつけた。つぎの
停車駅までは、
約一時間もかかる。
全線で一ばん長い
丁場だった。日記をつけてしまうと、することもなくなったので、まどから暗い外をすかして見た。黒い
立木が、かすかに夜の空にすけて見えて、時々、
機関車のはく火の
粉が、赤い線をえがいて高く低く飛びさる。風のかげんで、機関のザッザッポッポッという音が、遠くなったり近くなったりする。全線中で一ばん
危険な
場所になっている
急勾配のカーブにさしかかるにはまだだいぶ
間があるので、わたしは
安心してまた腰をおろすと、いろいろと内地の家のことなどを思いだして、しみじみとした気持になっていた。
――ふと、顔をあげて見ると、
貨車との
仕切りにはまったガラスまどに、人間の顔がぼんやりとうつっている。わたしは、それが、自分の顔だということは知っていながら、なんだか友だちでもできたようなにぎやかな気持になって、しきりに
帽子のひさしを上げたり、さげたり、目をいからしてみたり、口をまげてみたりして、ひとり
興がっていた。しまいには、シグナル・ランプを顔の前につきだしてみたりした。(その当時は、
客車にさえ、うす暗い
魚油灯をつけたもので、
車掌室はただ車掌の
持つシグナル・ランプで
照らされるばかりであった。そのほかに、ろうそくを
不時の
用意として、いつも持ってはいたが。)で、シグナル・ランプを顔のそばへ持ってきて見ると、自分の顔は、暗いガラスの中に、くっきりとうかびだすようにうつって見えた。
と、自分は、
鼻の頭に、
煤煙であろう、黒いものがべっとりとついているのを見つけて
苦笑した。
指のさきにつばをつけて、鼻の頭をこすりながら、わたしは、いままで自分の顔にむけていたランプをくるりむこうへまわすと、ガラスにうつっていた自分の
影は
消えて、サーチライトのような
いなずま形の光が、さっと、ガラスまどを通して、
貨車の
内部へさしこんだ。その貨車にはちょうど、
石狩川でとれたさけがつみこんであったので、自分は、キラキラと
銀色に光るうろこの山を
予想したのだったが、ランプの光は、ただ、ぼんやりとやみの中にとけこんでしまって、なんにも見えない。おかしいなと思ったので、自分は、立ち上がってガラスまどに
鼻をつけるようにしてのぞきこむと、おどろいた。さけの山は、
乱雑にとりくずされ、ふみにじりでもしたように、めちゃめちゃになっているのだ。
さけがぬすまれるということは、その
季節にはよくあることなので、自分は、さけどろぼうが
貨車の中まであらしたのかと思うと、思わず、むッとして、
手荒く
仕切りの
車戸をひきあけて、足をふみこんだ。もちろん、まだどろぼうが貨車の中にぐずついていようとは思わなかったけれど、
用心のために、そばにあった
信号旗のまいたのを、右手に持ち、左手にランプを高くさし上げて、用心
深く
進んだ。
車の
動揺のために、ともすると、よろけそうになるのを、じっとふみこらえて、ランプを
片すみにさしつけると、大きな
大入道のような
影法師がうしろの
板かべにいっぱいうつった。ぎょっとして、目を見はると、ふいに、すみの方でピカッと光ったものがある。自分は
瞬間、ぞおっとして、立ちすくんでしまった。光りものは二つ。ランプの光をうけて、らんらんとかがやき、ぐるぐるとほのおのようにうずまいている。
「くまだ!」
そう気がつくと、自分はかえって、一時
落着いたくらいであった。どうしてくまなぞがはいりこんだものか、そんな
疑問をいだくよゆうもなく、自分は、ランプを持った手を、ぐいと、くまの方にさしだして、
一歩しりぞいて身がまえた。くまは火をおそれる、ということをとっさの間にも、思い出したものとみえる。
「ううううううう………。」
くまもふいをうたれておどろいたらしく、ひくいうなり声をあげながら、じりじりとしりごみをしはじめた。
「このすきに、にげなければ………。」
ふっと気がついて、ランプをさしつけたまま、後ずさりにしりぞきはじめると、そのひょうしに、ひどく車がゆれて、自分は足もとのさけに足をふみすべらして、ドシンと
横だおしになげだされてしまった。くまも、それといっしょに、いやっというほど、大きなからだをかべ板にぶっつけたらしく、はげしくおこって、いっそうものすごいうなり声をたてた。自分はあわてて、とり落したランプをひろい、立ちなおった。しあわせにもランプは
消えなかったが、それといっしょに自分は、
列車が
例の
急勾配にさしかかろうとしているなと
感じて、ひやりとした。自分は、ブレーキをまかなければならないのだ。
後ずさりをして、
羽目板にぶつかってしまったくまは、のがれ道のないことをさとったものか、すごい
形相をし、
牙をむきだしてとびかかりそうな身がまえをした。自分はむちゅうでランプをさしつけたまま、後ずさりに戸口へ近づき、
旗を持っていた方の手をうしろへまわして戸口をさぐってみると、ぎくっとした。いつの
間にか戸はしまっているではないか、いまの列車の
動揺のために、ひとりでにしまったのに
相違ない。あけようと、あせっても、なにしろ前にくまをひかえて、片手をうしろにまわしての
仕事だから
困った。くまはいよいよ
牙をむきだし、いまにもとびかかろうという
気勢を見せている。
「いつものところで、ブレーキをかけることをおこたったら、列車は
脱線するかもわからない。けわしい
崖の
中腹を走っている列車は、それと
同時に
数十
尺の下に
岩をかんでいる
激流に、
墜落するよりほかはない。」
そう思うと、自分は、もうじっとしていられなかった。おそろしさもわすれて、いきなり、さけをひろい上げると、それをくまの方に
投げつけておいて、そのひまに戸をあけようとあせった。
「うわう……。」
ものすごいさけび声が列車の
騒音にもまぎれずに、ひびきわたった。ガタピシとひっかかって、戸は
動こうともしない。自分はふり
返りざま、また、気ちがいのようにランプをふりまわした。くまは、
後足で立ち上がったまま赤いランプの光におびえてか、
爪をとぐねこのように、バリバリとそばの
羽目板に爪をたてた。
一息ついた自分は、とっさに戸の
上部のガラスまどをやぶろうと考えた。いきなり、うしろをふりむくと、手にした
旗のぼうでガラスをつきくだいた。ガラガラとガラスの
破片のとびちる音が
気味悪くひびいた。
同時にくるいたったくまは
一声高くうなると、自分を目がけてとびかかってきた。あぶないところでむきなおった自分は、むちゅうで、横ざまにからだをなげだした。そのひょうしに、シグナル・ランプは、ガチャンとはげしい音をたててこわれてしまった。
なまぐさい、べとべとしたさけの中にはいつくばっている自分の、うしろの方で、くまはううううと、うなっている。さいわいに、くまの
爪にはかからなかったが、たった一つののがれ道であるまど
口を、くまのために
占領されてしまったのである。
列車は、くまと自分とを
真暗やみの
貨車の中にとじこめたまま、なにも知らずに、どんどんとはしっている。少し
速度がゆるんできたようだ。自分は、また、ブレーキのことを思い出して、ぞっとした。
「うううううう。」
くまはきゅうにまた、ものすごいうなり声をたてはじめた。さて、どうしたら、自分は
制動室へもどることができるであろうか?
「うわう……。」
と、一声、すさまじいうなり声をあげたと思うと、いきなりとびかかってきたくまの
腹の下を、横にくぐりぬけるようにからだをなげだしたので、あぶないところで、自分はくまの
爪にかかることだけはのがれることができたのだが、さて、少し気が
落着いてくると、おそろしさと
不安とが、前の二
倍になって自分の
胸におしよせてきた。
たった一つののがれ道だと思ったガラスまどは、くまの大きなからだで、すっかりふさがれてしまったのだ。自分とくまは、さっきとはまったく、あべこべになったわけだ。自分はまるでくまのおりへ入れられたようなものだ。
さっきまでは、とにかくにげられそうな
希望があった。まどへ
両手をかけてさえしまえば、
飛越台の
要領ででも、どうにか制動室へからだを
運ぶことができると思っていた。それがだめだとなると、自分はまったくもう、どうしていいかわからなくなってしまった。自分の
命があぶないばかりでなく、
車掌として
重大な
任務をはたすことができない。
非常信号機? ――そういうものがあればいいのだが、なにしろ、むかしの
開通してまもなくの
鉄道なのだから、そういう
用意がまるでないのだ。
ともかく、じっとしてはいられないから、そろそろからだをおこしてみた。四つんばいになると、さっき
投げだした、シグナル・ランプのこわれがジャリジャリと手のひらにさわる。なまぐさい
魚のにおいにまじって、こぼれた
石油がプンと
鼻をうつ。――なによりも
大事な、たった一つの
武器とも思っていたランプが、メチャメチャになってしまったのである。
「自分はなにを持ってくまと
戦ったらいいだろうか?」
そう思うと自分はまったく
絶望してしまった。――それでも自分は、ガラスのかけらで手を
切らないように
用心しながら、そろそろとあたりをかき
探してみた。なんというあてもない、ただ自分は、むちゅうでそんなことをしていたのだ。
「うわう……。」
くまは、またうなり声をあげた。自分は、ぎょっとして、そちらを見すかしたが、
真暗やみの中で、よくは見えないが、くまは戸口に前足をかけたまま、
動かずにいるようだ。
自分は、その時、みょうなことを考えた。――いや、考えたことがらは、みょうでもなんでもないのだが、そんな、せっぱつまった
場合に、よくも、あんな、のんきなことを考えだしたものだと、それがみょうなのだ。
それは、自分がいままでにきいたくまについての、いろんなめずらしい話なのだ。そんなものが、つぎからつぎへと
頭にうかんできた。
……そのうちの一つは、ふいに山の中でくまにでくわした人の話だった。そういう場合に、死んだふりをするということはだれでも知っている。しかし、これは、それにしてもものすごい話だった。――その人は、やはり、どうすることもできず、
仕方なしにたおれて
息を
殺していたのだそうである。くまが、
頭のそばへきて、自分をかぎまわしているのが、はっきりとわかる。かれは、まったく死んだようになって、
心臓の
鼓動までも止めるようにしていた。もっとも、そんな時にはかえって心臓はドキドキとはげしく
打ったことだろうが……。
じょうだんはさておき、二
分……三分……そのうちにくまのけはいがしなくなったように思われた。その男は、もういいだろうと思って、かすかにうす目をあいて見たのだそうだ。――その
瞬間、ザクンと
一打、大きなくまの手が、かれの右の
額から頭にかけて打ちおろされた。男は、むちゅうでバネ
仕掛のようにとび上がって、あとはどうしたのか自分にはわからない。ともかくその男は
助かったそうである。
大方、くまもふいをうたれてびっくりしたのだろう。しかし、目をあいて見るまでの時間は、わずか一分か二分だったのだろうが、その男には、どんなに長く
感じられたことだろう。――
つい、話が
横道にそれた。――しかし、くまといっしょに
貨車の中にとじこめられたまま、自分はまったく、そんな、人の話などを思いだしていたのだからみょうではないか。
「ごーっ。」
というひびきが、
列車全体をつつむようにとどろきわたった。
「
鉄橋だ。」
と思うと、自分はもうじっとしていられなかった。川をわたってから
約二マイルのところが
例の
難所なのだ。
機関士も、
十分に
速度を
落しはするが、
後部のブレーキは、どうしてもまかなければならないことになっている。が、速度のついた列車が、機関車のブレーキ一つで
支え
切れないとすると、
脱線か
転覆……か。わずか二、三
両ではあるが、
混合列車のことなので客車も
連結されている。その
乗客たちの
運命は、まったく、自分ひとりの
腕にあるといっていい。
自分は、足をふみしめて立ち上がった。と、ふいに明かるい光が一すじ、目の前を走って、暗い車内にななめの線を落している。
「月だ……月の光だ!」
貨車の
横腹にある大きな
板戸の、すきまをもれていましがた上がったと思われる月がさしこんできたのであった。自分は、なんというわけもなく
勇みたった。月の光をたどって見ると、さけの山にかけられた
むしろが二、三
枚、足もとに落ちている。
「これだ。」自分は、とっさに思った。「火だ、火だ。」
自分は、あせりにあせって、ポケットのマッチをさがそうとしたところが、どうしても手がポケットにはいらない。もどかしく思って、ぐッと手をおしこもうとすると、ポキリと
折れたものがある。見ると、それはろうそくではないか。――さっき、ころんだひょうしにポケットからとびだしたのを、むちゅうで、手さぐりでつかんでいたものとみえる。
二、三本いっしょにマッチをすると、自分はまずそれをろうそくにうつした。――やぶれたガラスまどへ片手をつっこんだまま
中腰に立っているくまのすがたが、きゅうに明かるく
照らしだされた。にわかに火を見たくまの目は、ギロギロとくるいだしそうに光った。
自分は、むしろに火をつけた。メラメラともえ上がったと思うと、しめり
気があるとみえて、すぐに力なく
消えそうになる。
くまは、
低く長くうなりだした。それは、さっきまでほえたような声とちがって、
大敵に
出会った
場合に、たがいにすきをねらってにらみ合っているような、
不気味なものだった。
こっちの
火勢がよわければ、今にもとびかかろうかという
気配が見えた。
自分は、さっき
石油がこぼれたと思うあたりに、足で下に落ちているむしろをおしやり、手に持った一枚のもえかけたむしろを、
楯のようにからだの前にかざしながら、足さきで、むしろに石油をしみこませようと、ごしごしと下のむしろをふみつづけた。
くまは、まだうなりながら、自分をにらみすえている。
手に持っているむしろが、
消えないうちに、
手早く自分は、
床のむしろをひろい上げた。
石油がしみたのか、むしろがかわいていたのか、
今度は、
勢よく一時にパッともえついた。
この
機会をはずしてはと、自分は、もう、おそろしさもわすれて――
実は、おそろしさのあまりだが――もえ上がるむしろを、ちょうど、スペインの
闘牛士が使う赤いハンケチのようにふりながら、じりじりと
前進した。
鼻さきでもえる火を見ては、くまもがまんができなかったのだろう。どしんと大きな音をひびかせて、うしろへとびのいた。
それといっしょに、またまどガラスの落ちくだける音がした。くまと自分ははじめと同じ
位置にもどったわけだ。すみのかべ
板に
背中をこすりつけて、立ったくまは、まるで
まねきねこみたいなかっこうだった。(あとになってわかったことだが、くまは、ガラスまどに手をつっこんだひょうしに片手にけがをしたので、
自然そんな手つきをしたのだ。)
この時、だしぬけに
汽笛が、ヒョーと
鳴った。
下りのカーブにかかる
合図なのだ。
自分でも、よく、それが、耳にはいったと思う。――自分は、なにもかもわすれて、うしろのガラスまどへ
上半身をつっこんだ。
しかし、どうしても足がぬけない。死にものぐるいでもがいているうちに、さいわいに、手が、ブレーキのハンドルにかかった。
自分は、
宙にぶらさがったままで力をこめてハンドルをまわした。
……それから、あとのことは自分はなにもおぼえていない。
すぐつぎの
駅で、自分は
腰から下に
火傷をして、
気絶しているところを
助けられた。
ころんだ時に、ズボンのうしろにしみこませた
油に火がついたものらしいが、なるほど、しりっぺたをもやしていたのだから、くまも、よりつかなかったわけではないか。――ただ、この
間二十分か三十分のことが、自分には
実に実に長いことに思われてならない。
くまは、わけなく
生捕られた。
始発駅で、さけのつみこみを
終って、戸をしめる
すきにはいりこんだものだろうが、なにしろひとりで汽車へ
乗りこんだくまもめずらしいというので、
駅員たちがだいじに
飼っていたが、二年あまりで死んでしまった。
(昭2・3~4)