一
要吉は、東京の
山の
手にある、ある
盛り
場の
水菓子屋の
小僧さんです。要吉は、
半年ばかり前にいなかからでてきたのです。
要吉の
仕事の第一は、
毎朝、まっさきに
起きて、
表の重たい
雨戸をくりあけると、年上の
番頭さんを
手伝って、店さきへもちだしたえんだいの上に、いろんなくだものを、きれいに、かざりたてることでした。それがすむと、番頭さんがはたきをかけてまわるあとから要吉は、じょろで、水をまいて歩くのでした。ろう
細工のようなりんごや、青い葉の上にならべられた赤いいちごなどが、細い
水玉をつけてきらきらと
輝きます。要吉は、すがすがしい気持で、それらをながめながら、店さきの
敷石の上を、きれいにはききよめるのでした。
時計も、まだ六時前です。
電車は、黒い
割引の
札をぶらさげて、さわやかなベルの音をひびかせながら走っていました。店の前を通る人たちも、まだたいていは、しるしばんてんや、青い
職工服をきて、べんとう箱のつつみをぶらさげた人たちです。そういう人たちの中には、いつとはなしに要吉と顔なじみになっている人もありました。
「よ、おはよう。せいがでるね。」
若い人は、いせいよく声をかけながら、新しい
麻裏ぞうりで要吉のまいた水の上を、ひょいひょいと
拾い
歩きにとんでいきました。なっとう屋のおばあさんが見えなくなったと思うと、このごろでは、
金ボタンの
制服をきた少年が、「なっとなっとう」となれない
呼び
声をたてて歩いていました。
そんな朝の町すじをながめながら、店さきをはいている時は、要吉にとっては一日中でいちばん楽しい時なのでした。なぜかというと、それから朝の
食事がすむと、要吉にとってはなによりもいやな、
よりわけをしなければならなかったからです。店の
品物の中から、いたみかけたのや、くさりがひどくって、とても売りものにならないようなものを、よりわけて、それぞれ箱とかごとへべつべつにいれるのです。
枝からもぎとられると、はるばると、
汽車や
汽船でゆられてきたくだものは、
毎日毎日、つぎからつぎへといたみくさっていくのでした。要吉は、なめらかなりんごのはだに、あざのようにできた、ぶよぶよのきずにひょいとさわったり、美しい金色のネイブルに青かびがべっとりとついたりしたのを見るたび、まるで
自分のはだが、くさっていくようないたみを感ぜずにはいられませんでした。
よりわけがすむと、
今度は、
一山売りのもりわけです。いたみはじめたくだものの箱の中から、一山十
銭だの二十銭だのというぐあいに、
西洋皿へもりわけるのです。そのあんばいが、それはむずかしいのでした。
「そのくらいなのは、まだだいじょうぶだよ。」
少し、きずが大きすぎるからと思って、はねのけると、
要吉は、すぐ
主人にしかられました。それではこのくらいならいいだろう、ひとつおまけにいれといてやれと、お
皿にのせると、
「そりゃあ、あんまりひどいよ。よせよせ。」
と頭ごなしにどなりつけられます。
「おまけなんです。」
要吉がいいますと、主人は、
「ばか、よけいなことをするない、
数はちゃんときまってるんだぞ。」と、けわしい目をしてにらみつけます。
要吉は、まったく、どうしていいのかわからなくなってしまいました。ですから仕事がちっともはかどりません。そうすると主人は、「
いなかっぺはぐずでしょうがねえなあ。」ときめつけます。
要吉は、そういわれると、ただ、もじもじと赤くなるばかりでした。
二
でも、このごろはだいぶ
仕事の
こつがわかってきました。要吉は、せっせと手を動かしながら、いろんなことを考えるようになりました。
せっかく、
方々の国から送られてくるこれらのおいしい
熟したくだものが、店にかざられたまま、毎日毎日こうもたくさんくさっていくのはどうしたことだろう。それでいて、毎日おかみさんが売り上げの中から、まとまったお金を
銀行へあずけにいくところをみると、お店は
損をしているはずはない。それではこれだけのくさったくだものの
代[#ルビの「だい」は底本では「たい」]はだれが
払ってくれるのだろうか。
それから
先は要吉にはどう考えてもわかりませんでした。
一山いくらのお
皿の上には、まっ
黒くなったバナナだの、青かびのはえかけたみかんだの、黒あざのできたりんごだのがのっていました。
「こんなにならないうちに、なぜもっと安くして売ってしまわないんだろうなあ……安くさえすれば、もっとどしどし
買い
手があるだろうに……。」
要吉の考えとしては、それがせいいっぱいでした。
夜になると、
要吉には、もっともっといやな
仕事がありました。
要吉は、
毎晩、売れ残ってくさったくだものを、大きなかごにいれて、
鉄道線路のむこうにあるやぶの中へすてにいかなければなりませんでした。ごみ箱がすぐいっぱいになるのをいやがるおかみさんは、そのやぶを見つけると、夜のうちに、こっそりと、そこへすてにいけといいつけたのです。
要吉は、うんざりしてしまいました。それで、ある時、要吉は思いきって、おかみさんにいってみました。
「こんなにならないうちに、なんとかして売ってしまうわけにはいかないもんでしょうか。安くでもして……。」
そうすると、おかみさんは、要吉をにらみつけていいました。
「
生意気おいいでないよ。なんにもわかりもしないくせに。そうそう安売りした日にゃあ商売になりゃあしないよ。」
「でも……」要吉は、もじもじしながらいいました。
「すてっちまうくらいなら、ただでやった方がまだましですね。」
要吉は、それをいったおかげで、
晩の
食事には、なんにももらうことができませんでした。要吉は、お
湯にもいかずに、
空き
腹をかかえて、こちこちのふとんの中にもぐりこまねばなりませんでした。
要吉は、その
晩、ひさしぶりにいなかの家のことを
夢に見ました。ある山国にいる要吉の家のまわりには、少しばかりの
水蜜桃の
畑がありました。
梅雨があけて、
桃の
実が葉っぱの間に、ぞくぞくとまるい頭をのぞかせるころになると、要吉の家の人びとはいっしょになって、そのひとつひとつへ小さな
紙袋をかぶせるのでした。要吉の家では、その桃を、
問屋や、かんづめ
工場などに売ったお金で一年中の
暮しをたてていたのです。夏の
盛りになると、紙袋の中で、水蜜桃は、ほんのりと
紅く色づいていきます。要吉たちは、それをまた、ひとつひとつ、まるで、
宝玉ででもあるかのように、ていねいに、そっともぎとるのでした。ですから、自分の家の桃だといっても、要吉たちの口にはいるのは、虫がついておっこったのや、形が悪いので問屋の人にはねのけられたのや、そういった、ほんのわずかのものでした。
要吉は、ある
年、
近所へ
避暑にきていた大学生たちが、自分の家のえんがわへ腰をかけて、一
粒よりの水蜜桃をむしゃむしゃと、まるで馬が道ばたの草をでもたべるようにたべちらすのを見た時の、うらやましい
驚きをいつまでも
忘れることができませんでした。
――あんなに大事にしてそだてあげた水蜜桃も、こうした東京の店へくれば、まるで
半分は、箱づみのままにくさっていくのだ。
要吉はくやしさに思わず、
太ったおかみさんのからだをむこうへつきとばした
夢を見て目をさましました。
と思うと、
今度は、やぶの中へすててきた、ネイブルだの、バナナだの、パイナップルだのが、ひとつひとつ、ぴょんぴょんととび上がって、要吉の胸の上で、わけのわからないダンスをはじめました。そうすると、いつのまにか、いなかのおとうさんや
妹たちの顔が、それをとりまいてめずらしそうに
見物しています。
――ほんとうに、家の人たちは、まだバナナさえも見たことがないのだ。要吉は、夢の中で、そういいながら、ごろんとひとつ
寝がえりをうつと、
昼間のつかれで、今度は夢もなんにも見ない、深い
眠りにおちていきました。
三
朝のうちに、店の仕事がかたづくと、要吉は、
自転車にのって、方々の家へ
御用聞きにでかけなければなりません。それはたいてい、大きな門がまえのおやしきばかりでした。
勝手口へは、どこの家でも、たいがい
女中さんがでてくるのでした。
「それではね、いちごを二
箱と、それからなにかめずらしいものがあったら、いつものくらいずつ、
届けてくださいな。」
そういったおおような
注文をする家が多かったのです。要吉は、それをひとつひとつ小さな
手帳にかきつけました。
昼からになって
配達がすむと、
今度は
店番です。つぎからつぎと、いろんなお客がやってきます。
「なるべく
上等なやつをいろいろまぜて、これだけかごにつめてくれ。ていさいよくのしをつけて。」
そういって、新しい
札をぽんとなげだす人もあります。かと思うと、一山いくらのところをあれこれと見まわってから、ごそごそと
帯の
間から
財布がわりの
封筒をとりだす、みすぼらしいおばあさんもあります。
「きんかん、これだけおくれ。」
そういって、いくらかの
銅貨を店さきになげだす子どももありました。
そういうお金のなさそうな人をみると、要吉は、うんとまけてやりたい気がしました。どうせ、売れ残ればすててしまうのだもの、買いたくっても買いたくっても買えないような人たちには、どしどしたくさんやったらよさそうなものだと思いました。しかし、そんなことをしようものなら、
主人やおかみさんに、しかられるだけならまだしも、こっぴどい目にあわされるにきまっています。
いつか、きたないなりをして、
髪をもじゃもじゃにしたそれはそれは小さな女の子が、よごれた
風呂敷づつみをぶらさげて、店の前にたっていたことがありました。それは、
朝鮮あめを売って歩く子だったのです。女の子は、いかにもほしそうに、店の品ものをながめていました。
要吉は、かわいそうになったものですから、いきなり、きずもののバナナをひとつかみつかんで、女の子にもたせました。と、
奥からでてきたおかみさんが、ふいに要吉をどなりつけました。
「なにしてるんだい。」
「え、あの、ローズものを少しやったんです。」
「よけいなことおしでないよ。」おかみさんは、いきなり、うしろから要吉のほっぺたをぴしゃんとなぐりつけました。「やってよけりゃあ、わたしがやるよ。……そんなことをした日にゃあ、店の
品もんが安っぽくなってしょうがないじゃあないか。」
要吉は、そんなことを思いだすと、みすみすすてるもんだとは思いながらも、
貧乏なおばあさんや子どもに
対しても、みかんひとつまけてやることができませんでした。
要吉は、なんということなく、毎日毎日の自分の仕事がつまらなくってたまらなくなるのでした。
要吉は、また、ある日、おやしきへ御用聞きにいきました。すると、ちょうどお勝手口へでていた女中が、まっ黒くなったバナナをごみ箱へすてていました。
「おや、どうなすったんですか。こないだお
届けしたのは新しかったはずですが。」
要吉は、びっくりして聞きました。
[#「ました。」は底本では「ました」]
「なあに、これは、もうせんにとっといたのよ。」と女中はいいました。「
到来ものやなんかが
多くって、
奥でめし上がらなかったもんで、しまっといてくさらしちゃったのさ。」
女中は
平気な顔でいいました。しかし要吉はなんともいえないくやしい気がしました。
「もったいない話ですね。そんなにならないうちに、だれかめし上がる
方はないんですか。」
「ああ、お
許しがでないとあたしたちもいただけやしないからね。それに、」と、女中は
妙な顔をして笑いながらいいました。「そんなに
心配しなくったっていいわよ。こっちでかってにくさらしたんだから、またいくらでもとってあげるわよ。お金さえ
払やぁ、おまえさんの商売に
損はないじゃあないの。」
「それはそうですけれど……」
要吉は、なんとなくむかむかするといっしょに
悲しい気持になりました。店でくさらせるばかりでなく、こうして、おやしきの
台所へきても、まだ、たべる人もなくくさらせる。大ぜいの人びとの手をかけて、やっとのことでここまで
運ばれてきたとおとい
品物がだれにもたべてもらえずにくさっていく。ただ、ごみ箱へすてられるためにばかり運ばれてくるとして、それでいいものだろうか。しかし、
一方には、くさりかけた一山いくらのものでさえも、
十分にはたべられない人びとが大ぜいいるのに。
「ああ、
今夜もまた、あのやぶへ、くさりものをすてにいかなければならないのか。」
そう思うと、
要吉はなんともいえないいやな気持になりました。
商売というものが、どうしても、こういうことを
見越してしなければならないものだったら、なんといういやなことだろう。
しかし、要吉は、水菓子屋の店をとびだすわけにはいきませんでした。要吉が
徴兵検査まで
勤めあげるという
約束で、要吉の父は、水菓子屋の主人から何百円かのお金をかりたのです。
いくら考えても、要吉には、商売のためにはたべられるものを、くさらせていいという
りくつはわかりませんでした。
「大きくなったらわかるだろう。」要吉はそういって自分をなぐさめるよりほかはありませんでした。
「それに
年期があけたら、自分でひとつ店をだすんだ。そうすればけっして、品物をむざむざとくさらせるようなことはしやしない。くさりそうだったら、ただでも人にたべてもらう。」
要吉はそうも考えてみました。しかし、それは、要吉が大きくなってみなければ、できることだかどうだかわかりません。
「……その上に、おやしきなどで、たべもせずにすててしまうのは、いったいどうしたことだろう。」
これは、なおさら要吉ひとりきりでは
解決できない
問題でした。要吉は、女中の
平気な顔を思いだすと、ただなんとなく、腹がたってたまりませんでした。
「みんな、もののねうちをしらないんだ。」
要吉はしばらくしてこうつぶやきました。しかしそれだけでは要吉の胸の中につかえている重くるしい
塊は少しも軽くはなりませんでした。
(昭3・7)