夜にはあらじ
霧ふかき昼なりき
町は霧にて埋 もれたり
霧町に降り
降りたる霧町を埋めたり
日はあれど
月より朧 ろにて
家あれど
墓より陰影的なりき
葬礼の列なりや
そこに、ここに、行く者は?
あらじ
歩める人の群なりき
昼の鐘遠くきこえ
夜の鐘に似たれども
ただ似たるなり
霧ふかき町なれば
鐘の音迷えるなり
玩具屋ありき
会堂ありき
塔ありき
円天上の大学ありき
霧の奥にありき
堀割よ
なぜに短艇 を浮かべざるや?
いないな短艇浮かび、処女乗り、少年笛ふけど、
霧ふかければ、見えざるなりき
貴族の家に温室ありき
アラセイト――
蘭
アマリリス
レザ
白鳥花
フリジヤ
シネンセス
蟹手草
キク
スイートピー
霧の中の温室
温室の中の花
花の中の茶卓
茶卓に添える籐椅子
籐椅子によれる貴族
貴族により添える胸
乳房
唇
しかれども霧!
町々
露路
十字路
噴水
ベンチ
陰影にあらざるものはあらざりき
霧降る
放火――霧に咲く花!
姦淫 ――霧の誘惑!
ひと殺し――霧の秘密!
――町、霧に埋 もれたり――
郵便脚夫は
霧のポストより
霧のごと果敢 なき
恋文いだし
霧のごと弱き
乙女に与えき
乙女泣きける
霧
霧
霧
霧
かかる会話ありき
霧の中にて……
女「愛し給 うや?」
男「………………」
霧
沈黙
男「愛し給うや?」
女「………………」
霧
霧ふかき昼なりき
町は霧にて
霧町に降り
降りたる霧町を埋めたり
日はあれど
月より
家あれど
墓より陰影的なりき
葬礼の列なりや
そこに、ここに、行く者は?
あらじ
歩める人の群なりき
昼の鐘遠くきこえ
夜の鐘に似たれども
ただ似たるなり
霧ふかき町なれば
鐘の音迷えるなり
玩具屋ありき
会堂ありき
塔ありき
円天上の大学ありき
霧の奥にありき
堀割よ
なぜに
いないな短艇浮かび、処女乗り、少年笛ふけど、
霧ふかければ、見えざるなりき
貴族の家に温室ありき
アラセイト――
蘭
アマリリス
レザ
白鳥花
フリジヤ
シネンセス
蟹手草
キク
スイートピー
霧の中の温室
温室の中の花
花の中の茶卓
茶卓に添える籐椅子
籐椅子によれる貴族
貴族により添える胸
乳房
唇
しかれども霧!
町々
露路
十字路
噴水
ベンチ
陰影にあらざるものはあらざりき
霧降る
放火――霧に咲く花!
ひと殺し――霧の秘密!
――町、霧に
郵便脚夫は
霧のポストより
霧のごと
恋文いだし
霧のごと弱き
乙女に与えき
乙女泣きける
霧
霧
霧
霧
かかる会話ありき
霧の中にて……
女「愛し
男「………………」
霧
沈黙
男「愛し給うや?」
女「………………」
霧
沈黙
女「この薔薇を御身の飾穴へ」
男「………………」
沈黙
霧
男「この匕首 を御身の乳の下へ」
女「………………」
かかる会話ありき
霧の中にて……
出納係「盗んだ」
受附の女「妾 の情夫」
出納係「駆落だ!」
受附の女「何処へ?」
出納係「さあ直 ぐにだ」
受附の女「ちょっと社長さんへ」
出納係「畜生!」
受附の女「あの課長さんへも」
出納係「幾人あるんだ」
受附の女「あの妾より二つ年下の給仕へも」
出納係「盗まなければよかった! 霧め!」
受附の女「云いつけてやろう。……妾は出世する」
出納係「殺すことにきめた!」
受附の女「霧! 白血球の霧! お母さん!」
かかる会話ありき
霧の中にて……
老人「生き過ぎたよ」
嬰児「産まれたばかりだ」
人妻「退屈していますのよ」
姦夫「そこが俺のつけ込みどころさ」
かかる絵画ありき
霧の中に――
一つの寝台
解剖台
横倒われる女
メスを持てる外科医
腑わけ
幽暗なる室内には窓さえあらじ
………………
………………
………………
皮を剥ぐにや?
………………
心臓をえぐるにや?
………………
………………
? ?
! !
………………
………………
「え、どうだ、この陰毛は!」
………………
………………
解剖台と
外科医と
横倒われる女と
窓無き部屋に充ちたる立合いの人々の顔の奇怪さ
興味と、期待と、奇蹟と、確証とを待つ顔
………………
………………
人妻らしい女
頽廃したる肌の色
………………
………………
姦婦の表情
姦夫は?
かかる音楽ありき
霧の中に――
短嬰な調 にて始まりしが
音律なかばにて崩れたり
ヴェトーヴェンの如く英雄的には非 ざりしが、メンデルスソーンの如く葬礼式にても非ざりき
さりとて
ショパンの如くにても、
………………
………………
………………
かかる音楽!
………………
………………
モツァルトとコンスタンツェ夫人との恋にも似たる
………………
………………
女「この薔薇を御身の飾穴へ」
男「………………」
沈黙
霧
男「この
女「………………」
かかる会話ありき
霧の中にて……
出納係「盗んだ」
受附の女「
出納係「駆落だ!」
受附の女「何処へ?」
出納係「さあ
受附の女「ちょっと社長さんへ」
出納係「畜生!」
受附の女「あの課長さんへも」
出納係「幾人あるんだ」
受附の女「あの妾より二つ年下の給仕へも」
出納係「盗まなければよかった! 霧め!」
受附の女「云いつけてやろう。……妾は出世する」
出納係「殺すことにきめた!」
受附の女「霧! 白血球の霧! お母さん!」
かかる会話ありき
霧の中にて……
老人「生き過ぎたよ」
嬰児「産まれたばかりだ」
人妻「退屈していますのよ」
姦夫「そこが俺のつけ込みどころさ」
かかる絵画ありき
霧の中に――
一つの寝台
解剖台
横倒われる女
メスを持てる外科医
腑わけ
幽暗なる室内には窓さえあらじ
………………
………………
………………
皮を剥ぐにや?
………………
心臓をえぐるにや?
………………
………………
? ?
! !
………………
………………
「え、どうだ、この陰毛は!」
………………
………………
解剖台と
外科医と
横倒われる女と
窓無き部屋に充ちたる立合いの人々の顔の奇怪さ
興味と、期待と、奇蹟と、確証とを待つ顔
………………
………………
人妻らしい女
頽廃したる肌の色
………………
………………
姦婦の表情
姦夫は?
かかる音楽ありき
霧の中に――
短嬰な
音律なかばにて崩れたり
ヴェトーヴェンの如く英雄的には
さりとて
ショパンの如くにても、
………………
………………
………………
かかる音楽!
………………
………………
モツァルトとコンスタンツェ夫人との恋にも似たる
………………
………………
かかる建築ありき
霧の中に……
窓あれども
………………
………………
部屋あれども
………………
………………
廊下あれども
………………
………………
庭あれども
………………
………………
扉あれども
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
霧の中に……
窓あれども
………………
………………
部屋あれども
………………
………………
廊下あれども
………………
………………
庭あれども
………………
………………
扉あれども
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
「で、要するに、この……の中へ、文字を入れればいいのです。この詩はイバニエス氏の詩なんです。そうです
ああ
複滑車の理 を説明せよ
第一種
車の個数n個にして
その中 半数は定滑車なり
残りの半数は動滑車とす
然 る時は定滑車は原則として
力を減ずること能 わざれども
動滑車は一枚につき二分の一ずつの力を減ずるを得るとなす
歯車を説明せよ
歯車は一名歯輪 という
機械に於ける母体なり
A及びBなる円盤に
歯を具備するものを想像したまえ
これを想像的円という
想像的円、即 ち、ピッチ円、
歯を適当に作りなば
Aの運動をいとも正確に
Bに伝うるを得るとす
正 歯輪とは?
歪 歯輪とは?
螺旋 歯輪とは?
歯條 とは?
文明を作り
文明を野蛮にし
………………
………………
………………
高速度女人 虐殺の工場となす
コルニッシュ汽鑵
ランカシャアー汽鑵
炉戸
圧力計
量水器
節動輪
されども
安全弁 はあらじ
…………
…………
光学応用
絃の振動
u=d/Id[#「d/Id」は分数]
第一種
車の個数n個にして
その
残りの半数は動滑車とす
力を減ずること
動滑車は一枚につき二分の一ずつの力を減ずるを得るとなす
歯車を説明せよ
歯車は一名
機械に於ける母体なり
A及びBなる円盤に
歯を具備するものを想像したまえ
これを想像的円という
想像的円、
歯を適当に作りなば
Aの運動をいとも正確に
Bに伝うるを得るとす
文明を作り
文明を野蛮にし
………………
………………
………………
高速度
コルニッシュ汽鑵
ランカシャアー汽鑵
されども
…………
…………
光学応用
絃の振動
u=d/Id[#「d/Id」は分数]
「みんな関係があるのです、そうです私の物語の筋に、いや私の経験談に、よろしい、そこでお話ししましょう」
それは上海での出来事なのです。その日私は或る用件で、英国租界や米国租界や
と云うと
さよう、云ってもよいのです。
が、しばらくは黙っていましょう。いや或は永久に、黙っているかもしれませんなあ。
ですから貴方は私という人間を、詩人と思ってもよろしければ、国際的密偵と思ってもよく、漫遊者と思ってもよいのです。ひょっとすると私は考古学者――それも主として東洋の諸国、それもすっかり亡びて
その日は秋のはじめでした。租界に添って流れている河――
目的の仕事が片付いたので、私は黄浦河の岸へ出て、並木の一本へよっかかって、河を見ながら煙草を喫っていました。
これも目的の一つとして、私はそれから数日の後には、黄浦河を下り
時刻から云えば夕暮で、二百間あまりもありましょうか、そんなにも広い黄浦河に、碇泊している軍艦や商船へ、そろそろ燈がつく頃でした。
(今日はこれから何うしたものだ)
遊びのことを考えていたのでした。
旅行をしたらそうノウノウと、遊び廻わることは出来ないだろう、今の
(





などと考えておりました。
と、その時私の横へ、一人の男が寄って来ましたが、
「失礼ですが日本の方ですな」
と、これも本物の日本語で、こう話しかけたじゃァありませんか。
「さよう」
と私は云ってやりました。
「あなたも日本の方でしょうな」
「そうです」
とその男は云いました。「久しく当地にご滞在ですか?」
「…………」
私は微笑をしたばかりで、そうだかもそうで無いとも答えませんでした。うっかりそんなことに返事をすると、それからそれと尋ねますからな。どこに泊まっているか、名は何んというか、今どんな商売をしているか? そうしたあげく金を貸せだの、面白い所へ案内しようかだのと、云い出すことは知れているからです。
上海あたりにブラツイていて、紹介もないのに慣れ慣れしく、そんなように突然話しかけるような、そういう日本の人間は、九十パーセント
勿論私という人間は、そんな人間にビクツクような、そんな人間では無いのですが――又そんな臆病な人間なら、今やっている職業なんか、出来るものじゃァないのですが、併しそんなような人間に、たとえ
と、その男は黙って了いました。しつこく訊ねようとしないのです。私の心持が解ったからですかな。
その間に私はその男を、仔細に観察してやりました。
その結果私は、
(おや)と思いました。(この男は決して月並の、上海ゴロでは無さそうだ。いや、善良な人間らしい。零落した貴族の若様で、ひどく悩んでいる人間らしい)
広い額、端麗な鼻、弓形をしている上品の口、色は白皙で髪が漆黒で、それを真中から分けている。少し古くはあったけれど、よごれめの無い折目正しい背広、年は二十八九歳でした。特に私の眼を引いたのは、
(こういう眼を持っている青年に、悪い人間というものは滅多に無い)
そう私は思いました。
そこで私は警戒を解いて、私の方から話しかけて見ました。
「上海に長くお住居ですか」
「ええ、相当永く居ります」
「何か研究でもなされているので?」
「研究? それは昔のことです」
そう云った時その青年の眼に、自分自身を
「内地の大学に居りました頃にはね、私も何かしら研究したものです。……流行の社会科学なども。……が、今じゃあメチャクチャです」
「よろしかったら私の宿へ来て、いかがです茶でも召しあがったら」
とうとう私はこんなことを、その青年にすすめて了いました。私としては
「それより」
と青年が云いました。「ご迷惑で無かったら私と一緒に、しばらくでよろしうございますから、町を歩いていただき度いのです。そうして私の煩悶に
「よろしい」
と私はすぐに承知して、英租界の方へ歩き出しました。
英租界はご承知とは思いますが、租界の中で一番立派で、東西に通じている
そうです、全く宛無しだったのです。いや私から云わせると「夢のように歩き廻わって」いたのでした。こんな変なことって曾てありません。だから悪魔のまどわしの手に、引きずり廻わされたというのですが。だってそうではありませんか、私という人間は職業がら、英租界などは隅から隅まで、掌上の物を探ぐるように、知悉していなければ
濃霧の
「先生!」
と全く突然でしたが、南京路八〇号――今も云った通り歩いた道筋に就いては、正確の所は覚えていませんが、おおよそその辺へ来た時でした、青年が云ったぢゃありませんか、
「先生」と、そうです、こう私へ!
で、私は
「お父さん!」
と今度はどうでしょう、そう私に云ったじゃァありませんか、
「そうで無ければ哲学者の貴郎! 私の煩悶を解決して下さい!」
私は併し思いました。(そうだ俺は一面に於て、先生と云われてよい人間だ、哲学者と云われてもよい人間だ、俺の職業はそういうものを、一切兼ねていなければならず、又兼ねてもいるのだからな。……お父さん? さあ、これだけは困まる。
で、私は青年へ云ってやりました。
「君、
「私の名は細川繁と云います」
その青年はそう云いました。
「私には恋人があるのです」繁青年は云いつづけました。「それは日本のお嬢さんなのです」
「この上海にいるのですか?」
「そうです、上海にいるのです。……どんなに私がそのお嬢さんを――お嬢さんの名は初枝と云います。ええ然うです、
「おい待ちたまえ、何を云うのだ」
「いえ私はどうあろうとも、そのお嬢さんの命を取る! どうしても取らなければならないような、そんな境遇になっているのです」
「…………」
「私は大変悲しいのです」
「…………」
「一体、どうしたら
「…………」
「お父さん! 先生! 教えて下さい!」
「…………」
私は率直に云いますが、全くこの時は参って了いました。
(とんだ
こう思って参ったのです。
でも私は云ってやりました。
「そんなつまらないこと止めたまえ!」
「絶対に止めることは出来ないのです」
「そんな馬鹿なことあるものか! 恋人の命を取るなんて!」
「絶対にそれが出来ないのです」
「何故だろう。云って見たまえ」
「命令されているのですから」
「命令? 誰に? 云って見たまえ!」
「或る恐ろしい権力者から!」
「誰だ?
「それは一言も云われません」
「云えば云えるさ、云って見たまえ!」
「云ったら私の方が殺されます。……この支那の国に居る限りは」
「…………」
私はそこで考えました。
そうして或事に思い至りました。
「じゃァ
「…………」
「おい、そうだろう、云ったがいい」
「…………」
繁青年は云いませんでした。
だから――云わないから――思いました。
(可哀そうに、どうやらこの男は、青幇、紅幇、白幇、黒幇そのどれかの連中の、ひどい圧迫を受けているらしい)と。
そのため私は奮起しました。
(よしこの青年の味方になってやろう)と。
(あいつらをこの際やっつけてやろう――俺の使命と一致するのだからな――蒋介石め! その一統め! 南京政府め!
で、私は云ってやりました。
「信じたまえ、ね、僕を! そうして一切を話したまえ!」
――でも
何んと驚くじゃァありませんか、繁青年は泣いているのです。
私は叱るように云ってやりました。
「男じゃァ無いか! 何を泣くんだ! ね、云いたまえ、敵は誰だ!」と。
すると青年は云いました。
「敵は、先生、青幇なのです」
「そうだろうそうだと思ったよ」
青幇とは一体何んだろう? こう貴郎は思うでしょうね。
青幇のことをお話しましょう。
いい文献が此処にあります。
私がお話しするよりも、これを
お聞きなさい、読でみますから。
支那社会の中産階級以下に於て、最も甚だしい害毒を流しつつある二大
青幇の格式等級を
円、明、心、理、大、通、悟、覚、普、門、開、放、万、象、依、帰、羅、祖、真、伝、仏、法、玄、妙、
昔はこれに尚十六字も多かったそうであるが、其後自然にすたって現在の二十四字となった。そして一番多いのは「悟」の字「覚」の字に相当する者で、その次に多いのが「大」の字の階級に在る人、その上の「理」の字「心」の字相当者は殆ど寥々として暁天の星である。「大」の字は元より「悟」の字「覚」の字等は青幇から
幇規に就いて云えば、この幇規の最も重要な目的は
乙「老大 (初めての幇匪にはこんな尊称を用うる)は門檻に在りますかい」
すると甲匪は立って不動の姿勢で答える。
甲「祖爺の霊光に沾 いません」(これは入幇の意)
乙「そのお方(師父を指す)はどなたです」
甲「馬が名前で、上が徳、下が坊」(馬徳坊 というのは上海で有名な青紅幇の匪首である)
右のように名を三つに分 って呼ぶことは、幇匪中の子弟が師父に対する敬意だそうである。
乙「貴方の名は何というんですか」
甲「江淮 四幇です」(幇には皆名がある)
乙「老大は何の字を持っていますか」
甲「頭には二十一世 脚には二十二世でわたしの身は二十二世です」(二十二字目は通の字に当る)
乙はここで甲の着席を勧めつつ尚 尋ねる。
乙「あなたの方では現在どこの碼頭 を占めていますか」
甲「只今△△碼頭です」
乙は尚暗号のことなどを尋ねるが、それが一通り終ると今度は甲が乙に対し同じようなことを尋ねる。そして乙の方が甲より上の位であった時は、甲は座を離れて甲よりも兄貴分だと判った乙は、そこの茶代は勿論、それから旅館に連れて行って一切の費用も出してやるし、又土地の者をそこに三日間招待してその費用も乙が負担せねばならぬ。三日過ぎたら大抵その縄張りを出て行くのであるが、
幇勢最も盛んな時は、
青幇に役人が入るというのは
清末某省某州附近の十余県には幇匪の出没最も
幇匪の勢力が日に日に強大になってゆくので、時の巡撫は統領にこれが討伐を密命した。統領は約一千の兵を率いてその地方に出かけたが、何ぞ知らんこの統領も亦幇匪だったので、頭目顧三五子と会見の上これから先の発展拡張を相談し、
その後各地方からの訴えに由り省の役人が探偵を出して十八段地方に
青幇中で一番多いのは游民である。一定の職業なくぶらぶらしている連中で、よく言えば浪人悪く言えば無頼漢、これが幇勢の中心をなしてると言ってもよい位である。そして青幇の中には
架相というのは、財産のありそうな奴を見立てて自分の幇に引っ張り込む一種の誘拐者である。だから金のない
幇首は随分金の要るものでその代り又儲けもするが、その主なる入費は外都市の幇匪との交際である。遊びに来るとか又その地を過ぎる幇首に対しては必ず御馳走せねばならない。而し手許が不如意の時は上海あたりの大きな幇匪から借りてでも彼等仲間の儀礼を尽さねばノケ者にせられてしまう。こんな風に彼等は沢山の費用を要する場合がよくあるので、どこか一つ大きな碼頭を管領して置かないとその方の自由がきかぬ。又碼頭を占領して置けば旅行などの時にも頗る便利だ。而しそういう大きな幇匪の所にはいつも居候が沢山ゴロゴロしているもので、前に上海で有名な匪首であった馬徳坊の内などでは、その居候に食わせる飯を毎日三斗も焚いていたそうである。ここらは一寸日本の親分乾児の関係に似ている。金が要るから従って金が欲しい、金の為めならどんな事でもする、人でも殺す、平気で殺して報酬を受けるが、
幇匪の仲間では子供や女の事を
架相の中にも色々あるが、以上の外に
青幇の金儲けの中で碼頭
次に游民中の吃相に就て話すと、これ又四種に分ける事が出来る。その一の
吃相の中の
以上の三事を架相と称する。青幇の組織する人物に就ては
そうして一旦加入した者は、どんなことがあろうと脱けることは出来ず、又、命令に背くことは出来ず、もしもそれに違反したが最後、自分ばかりか一家一族が、根絶やしにされて
そういう青幇に繁青年が、関係しているというのですから、恐ろしいことと言わなければならず、私も昂奮した訳でした。
「繁君」
と私は云いました。
「事情を詳しく話すがいい。ね、詳しく話したまえ」
すると青年は云いました。
「私、
「場合によっては行ってもいいが、僕が行ってどうするんだね」
「私と初枝さんとを助けて下さい。お願いでございます。お願いでございます」
「だが、果たして、僕のような者に」
「先生、貴郎には何んでも出来ます。私には解っているのです!」
(不思議だな、どうしたんだろう? ……俺の素性を知っているのかしら?)
私は変に思いました。
しかし率直に云って了いましょう。
この青年はよく見抜きました。
私という人間をよく見抜きました。
そうです、青幇や
そうして私が旅行をするのも。そうです先刻も申しました通り、私は明日にも上海を立って、
と云うのが目的かもしれませんなあ。
ハッハッハッ、が、
「よろしい」私は云ってやりました。
繁青年へ云ってやりました。
「行こう、君の愛人の家へ、そうして何とかしてあげよう」
「先生、此処です。この家なのです」
オヤオヤと驚いて了いました。
行くも行かないも無かったのです。繁青年は計画的に、いつの間にか私をその家へ、彼の恋人初枝さんの家へ、私を連れて来たのですからね。
其処は×××街の八八番地の、随分閑静の住宅地でした。
その一画に洋館づくりの、宏壮の屋敷がありましたが、それが初枝さんの屋敷なのでした。
棟が
私達は玄関へかかりました。
そうして案内を乞いました。
すぐに小間使が出て来ましたので、繁青年が何か云うだろう、こう思って
つまり私を置いてけぼりにして、何処かへ立ち去って了ったのです。
私は瞬間途方にくれました。
しかし私には繁青年の意図が、何んとなく諒解されたので、躊躇せずに云ってやりました。
「お嬢様おいででございましょうか」
「はい、おいででございますが。……」
「細川繁君の友人なのですが、細川君のことに
「ちょっとお待ちを」
と云いすてて、小間使は奥へ引き込みましたが、すぐに出て来て云いました。
「どうぞお通り下さいますよう」
――そこで私は通りました。
案内されたのは玄関の横の、立派な応接間でありました。
一方に玉突の台があり、一方にグランドピアノがあって、素晴らしく広い応接間で、客間めいたところさえありました。
ソファーへ
(そうだ、真先に試みてみよう)
私はそんなように決心しました。
運ばれて来た紅茶を
と、軽い足音がし、ドアを開いて二十一二の、気高いように美しく、そうして大相無邪気な顔をした、洋装のお嬢さんが
初枝嬢だったのでございますね。
私は
と、初枝嬢はギョッとしたように、胸を
が、すぐにしまったと云うように、その手をダラリ、と下げて了うと、くず折れるように肘掛椅子の中へ体を
「ご心配には及びません。私は幇志では無いのですから。……勿論お嬢様も
私はこう云って腰かけました。
そう私に云われたので、初枝嬢はホッとしたようでした。
しかし黙って
と、不意に顔を上げ、私の顔を正視しました。
その顔を私も見詰めましたが、
(
と思わざるを得ませんでした。
徴候がすっかり出ているからです。
――物を見てはいるが見えてはいない眼付!――。
そういう眼付であったからです。
(こんな可愛らしいお嬢さんを、青幇の奴等め、ひどいことをし居る!)
私は義憤を感じると共に、初枝嬢に同情して了いました。
「お嬢さん」
と其処で話しかけました。
「お体のお加減がお悪いのでしょうね」
「はい。……いいえ。……でも
「
「…………」
「深夜でしょうな。……二時か三時頃。……」
「…………」
「併しお嬢さんご自身には、それがお解りになりますまい。
「はい、そうなのでございますの。……特にこの頃はそうなんですの。……でも、大変失礼ですけれど、どうして貴郎にはそんなことを。……あの、お医者様でいらっしゃいまして」
初枝嬢はそう云って、不思議そうに私を見ました。
「或る場合には医者にもなります。……或る場合には心理学者にも……」
「でも繁さんのお友達には……」
「いや、私と細川君とは、つい最近の交際なので、おそらくお嬢様には私の噂を、これ
「…………」
「それは然うと貴女のお父様が、
「まあ、どうしてそんな事まで……」
「総領のお姉様が変死なされたのは、恰度今から二年
「どうしてご存知なのでございましょう。……そうして貴郎はどういう方です?」
「二番目のお姉様が変死なされたのは、恰度今から一年前の、八月二十日のことでしたな」
「云って下さい、貴郎って人、どういうお方なのでいますか!」
「で、今度はお嬢様の番だ」
「お母様! お母様! 早く来て下さい!」
「お嬢さん、騒いじゃァ
さて此処で柵家に就いての、怪奇の出来事をお話ししましょう。
柵鉄也が上海へ来たのは、十八歳の時だったということで、通訳として来たのだということです。
或外人の通訳として。
その後いろいろの商館や、公司や洋行に勤務したそうで随分苦労はしたものだそうです。
苦労したが金は儲からず、又、位置なども出来なかったそうで、三十歳頃迄はこれといって、社会の表面へも現われず何んでも無い人間だったということです。
ところが
これが人々を疑わせたそうです。
しかし所が上海なので、
それに鉄也という人間が、社交上手で愛嬌があり、聡明でもあり義侠的でもあり、要するに立派な紳士だったので、尊敬こそすれ
その夫人が鉄也と同じく、社交上手で賢明だったので――
三人の娘がありました。
鉄也も好男子、夫人も美人、ですから三人の娘達が、美しかったのは云う迄もなく、これが又世間の若い男達の、柵家に好意と興味とを寄せる、大きな原因となったそうです。
で、柵家へは毎日毎夜、おびただしい人が集まって、
長女の名は
夫人の名は絹子というのです。
ところが今から五年
つまり死んだのか生きているのか、それが今に知れないのです。
当時は世間でも随分騒ぎ、警察方面でも
ところがその中に警察方面では、鉄也氏捜索を糸でも切るように、フッツリと切って了いました。
鉄也氏の居間の壁の一
さては青幇が関係しているのだなと、そう知ったからだということです。
(青幇のやった所業なら、どう
――で、断念をしたんですね。
ところが災いはこればかりで無く、長女の浦路さんが二年前の、八月二十日に変死したのです。つまり
そうして今度は末女の初枝さんが、愛人の細川繁青年によって、殺されなければならないような、悪運命に遭遇しているのです。
と、ドアをあけて一人の婦人が、部屋の中へ這入って参りました。
それは絹子夫人でした。
私の方では知っていましたが、夫人の方では知らなかったので、
「おや初枝、お客様なのかい。……失礼ですけれど何ういうお方かね」
初枝嬢が何んにも云わない先に、私から立ち上がって云いました。
「細川君の友人でございまして、松城昌三と申す者です。今後は
「細川さんのご友人、おや左様でございましたか」
夫人は何んとなく疑わしそうに、私をジロジロ見廻わしました。
有名な美貌の持主でしたが、一つは年、もう一つは、重なった不幸に打ちひしがれ、すっかり
それでも体格は立派であり、よく洋装が
性質も昔とはすっかり
しかし私はどんな婦人であろうと、話している中に、捕虜にして了い、信用させて了う一種の伎倆を――笑って下されては困まります、それは職業から来ているのですから――そういう伎倆を持っていましたので、この夫人も間もなく私という人間を、信用するようになりました。
初枝嬢が中座した隙に、私は夫人へ云いました。
「奥様、お
「…………」
すると夫人は
(無理ではないな)と思いながら、私は夫人に云いました。
「八月二十日という厭な日が、つい間近かに迫りました。……お嬢さんの初枝さんのお身の上に、ご用心なさらなければなりますまい」
「はい、そうなのでございます。……それで

「いや、ご心配なさいますな、大概私にお嬢様のお命を、取り止めることが出来そうですから」
「そうして
「まず大概は大丈夫でしょう。……そこで一二お訊ねいたしますが、浦路さんと潮子さんとが変死なさいました時、ああいう変死をなされる直前に、何か変わった出来事が――つまり二人のお嬢さんのご様子に、変わったところはございませんでしたか?」
「さあ」
と夫人は考え込みました。
「そういえば娘達は変死の前ごろから、夢でも見ているような茫然とした様子を……」
「で、
「はい、そうなのでございます。矢張り同じように、そんな様子に……ですから妾は気が気でなく……」
「お二人ながら同じ黄浦河で、同じように溺死なされたという、この点に就いて何かお考えが……」
「それもその当時から変なことだと、妾は思って居りましたが……」
「お二人ながら何者かに誘惑されて、黄浦河の方へ出て行かれ、何かの事情で河へ投ぜられたと、こんなようにお思いになりませんかな?」
「誘惑されてと申しますと?」
「誘惑には二通あるようですな。……意識的の誘惑と無意識の誘惑と」
「…………」
「で、二人のお嬢さんの場合は、後者にあたると思われるのです」
「無意識的の誘惑だと、こう
「そうです」
と私は云いました。
「そうです、無意識誘惑なのです。云い換えると不可抗的誘惑なのです。……ところで現在初枝さんが、それにかかっているのです」
「まあ」
と夫人は顔色を変えました。
「どうしたらよろしゅうございましょう。……それに無意識、不可抗的って、どんな誘惑なのでございましょう?」
「精神科学、心理学、そんなものに属しているものです。が、私にはその誘惑も、大概破壊することが出来そうですから、ご心配せずにお任かせ下さい」
「どうぞお願いいたします」
「召使も大勢でございましょうね。お屋敷が大分手広いようですから」
「はい、女中が三人に、支那ボーイが一人、爺やが一人、五人の召使を使って居ります」
それから私は尚一時間ほど、夫人を相手に話してから、柵家へ別れを告げました。
私の
自分の部屋へ帰って来て、ソファーへ腰かけて煙草を喫ったものです。
問題は今のところ簡単であり、探偵小説にあるような、複雑性などは無いのですから、考える必要も無かった訳です。
(要するに度胸の問題さ)
そんなように私は思いました。
(危険性はうんとあるが)
それは相手が青幇なのですから、命がけと云わざるを得ませんでした。
その夜私は十二時頃寝ました。
何かの気配を感じたのでしょう、私はフッと眼をさましました。
すぐに電気をつけて見ました。
卓の上に一枚の紙があり、その紙に字が書いてありました。
「柵家の事件より手を引かざることは、
貴下の生命を失うことなり。
青短剣」
貴下の生命を失うことなり。
青短剣」
(早速彼奴等やり出したな)
私はそう思って苦笑しました。
見れば裏庭に面している窓の、一枚の硝子が切り取られています。
青幇の一人が忍び込んで来て、そんなことをしてそんな紙を、卓の上へのっけて行ったのでしょう。
(ピストルで俺を殺そうとしたら、すぐにも俺は殺されたろうな。硝子を切り取った窓の穴から、手を差し入れて俺を
だから危険だと思いました。
朝になった時卓上電話のベルが、けたたましい音を立てました。
受話器を耳へ押えつけると、
「妾絹子でございますが」
と、絹子夫人の声がしました。
昨日柵家から帰える時、夫人へ私のアドレスと、電話番号とを云って置いたので、それでかけて来たのでしょう。
(何か事件が起こったと見える)
そう思って私はヒヤリとしました。
「何か事件が起こりましたか?」
「初枝が変なものを受け取りましたので」
「何んですか、変なものとは?」
「手紙なのでございますよ」
「手紙? ははあ、誰からの手紙?」
「差し出し人が解らないのです」
「…………」
「花売娘が持って来たのです」
「花売娘、こいつは詩的だ」
「まあ、そんなご冗談を。……今朝初枝が寝巻のままで、裏庭を歩いて居りますと、可愛らしい花売の娘が来て、花を買ってくれと云ったのだそうです。それで初枝が買いましたところ、花束の中に有りましたそうで。手紙があったのでございます」
「どんなことが書いてありましたかな?」
「申し上げにくいのでございますが……」
「私に関することですかな?」
「はい、そうなのでございます」
「では、私には見当がつきます。私という人間を近づけるな、近づけると恐ろしい目に逢うぞと、こんなことが書いてあったのでしょう」
「よくご存知でございますのね。そのとおりなのでございます」
「そこで夫人にお訊ねしますが、いかがです私を追っ払いますか」
「飛んでもない、そんなことを……」
「では結構、それでよろしい」
「でも、妾は恐ろしくて……」
「恐ろしいのは当日だけです」
「…………」
「八月二十日だけが恐ろしいのです」
「…………」
「いずれお訪ねしてお話ししましょう」
そこで電話を切って了いました。
それから私は考えました。
自分が柵家へ行ったことと、今度の事件へ踏み込んだことを、幾人の者が知っているだろうかと。
(細川繁と絹子夫人と、初枝嬢との三人だけだ)
答えはすぐにこう出ました。
では三人の
そこで青幇の連中が、柵家と俺とを隔てようとしたのだ。
(いや、もう一人あるらしいぞ)
が、私はそんなことより、繁青年の訪ねて来るのを、心待ちに待って居りました。
これほどの重大事を頼んだ彼です。私と柵家との会見の様子を、知り
(来たら断乎として訊いてやろう)
そう私は腹をきめていました。
果たしてその日の正午頃、繁青年は訪ねて来ました。
不安と焦燥とにオドオドして、昨日より
(こんな人間には活を入れる意味で、高飛車に出なければ成功しない)
こう私は思いましたので、
「君、そこへ掛けたまえ。……さて、君に訊ねるが、君の属している青幇の本部、何処にあるのか云って見給え!」
こう云って睨みつけてやりました。
「…………」
繁青年は答えませんでした。
「城内か、それとも

以前にもお話ししたとおり、私は私の職業柄、青幇に就いては徹底的に、研究をして居りましたので、上海に幾個本部があるか、その本部は何処と何処にあるか、そんなこともおおよそは知っていました。
繁青年は黙っていました。
「云えないことはあるまい、云って見たまえ!」
「城内です、城内の……」
「それだけでよろしい、城内だけでよろしい。……で、会長は何んていう奴かね」
「知りません、知らないのです!」
繁青年は強く云って、私の顔を怨めしそうに見ました。
私も無理には訊ねませんでした。
幹部で無ければ本部の会長の、何者であるかを知ることが出来ないという、そういう組織になって居り、もし又喩え知っていたにしても、それは絶対に云うことが出来ず、云ったが最後云った人間は、例外なく命を取られて了う。――そういうことになっていることも、私は知っていたからです。
聞く可きことが他にないので、繁青年に云ってやりました。
「昨日僕は初枝さんとも逢い、絹子夫人とも逢って話した。そうして僕は云ってやった。初枝さんの命は私の力で、大概取り止めてお目にかけると。で、今度は君に云おう。君がどんなに初枝さんの命を、八月二十日に取ろうとしても、僕が決して取らせないと。さあもうよろしい、今日は帰えりたまえ」
その夜私は家を出て、城内へ這入って行きました。
城内というのは云う迄も無く、支那
夜は商売をしていません。
昼間は
露路などから突然飛び出して来て、矢庭に短刀でドテッ腹をえぐり、ほんのハシタ金を奪うために、――人間の命を犬や猫より、安くつもっているような、そんな凶悪の人間ばかりが、時たま
有名な湖心亭を右に見て、私は
その間に三度ばかり人間と逢い、襲われそうになりましたが、まさか私という人間を――それは様子で解りますので――襲うような素人の
と、此処にこんな城内などに、よもや有ろうとは思われないような、鬱蒼とした森がありまして、その森の中へ踏み入るや、私の姿は忽然として、消えたであろうと思われます。
と云うのは誰かが私の後を、こっそり
で、耳を澄ましました。
少し離れた森の奥から、囁く声、歩き廻わる足音、そんなものが
で、私は進んで行きました。
此処で申し上げて置きますが、この時の私の服装は、背広などという
青幇には日本人も加入して居り、その日本人が苦力姿をして、本部の会合へ出席したのだと、そう思わせるように仕組んだのです。
果たして闇の中に十数人の男が、
私が傍へ寄って行くと、その
「来たれるは誰ぞ?」
勿論支那語で云ったのです。
私も支那語で直ぐ答えました。
「汝の兄弟」
「何のために来たれる?」
「公所(本部のこと)の会合に列せんがために来たる」
「剣と頸といずれか堅き?」
「頸堅し」
「幾人か汝と共に来たれる?」
「一人」
「汝、何を
「秘密を保たんがために」
「よし、兄弟、通るがいい」――で、私は先へ進みました。
以上は青幇の問答なので、云う事が判で
で、この仁義が云えなければ、贋物として追っ払われるのです。こうして私は第一の関門を、
第一の関門を越しさえすれば、第二、第三関門は、形式的のものなので、難無く越すことが出来るのです。
第二と第三の関門を、事実私は難無く越して、集会所の入口へ達しました。周囲一丈もありましょうか、そんなにも太い杉の木があり、その根が
私は其処から這入って行きました。
石の階段が通じていて、それを歩いて下へ行きました。
下にあったのは地下室でした。
地下室で見た光景は、凄いといえば凄いとも云われ、滑稽だといえば滑稽だとも云われる、そういったようなものでした。
催眠術をかけている所を、冷静に第三者が観察したら、滑稽に見えるじゃアありませんか。
が、同じ光景を、感激的にロマンチックに、――いや
地下室で私の見たものは、その催眠術の
もし施法をしているその人が、魔王を現わした仮面を冠り、物々しい
しかも施法者の前と後に、青い色の
その上施法者の右と左に、数人の覆面をした人間が、妙に威容をつくろって、並んでいたとしたら何うでしょう。
可成り
私が這入って行った地下室で、認めたところの光景というのが、そう云ったところのものでした。
支那の人間という奴は、こういうことを好むものです。
何事をも物々しくし、何事をも神秘化す。(これは道教の悪感化なのですが)そうして何事をも非科学的にする。
そうして彼等は催眠術というものを、ひどく巧妙に使用するのです。
義和団事件を起したところの、
だから青幇紅幇の徒が、同じように催眠術を使用して、悪事をするのは自然であり、当然であると云うことが出来ます。
併し被施法者が繁青年――細川繁であったのには、私も少し驚かされました。
そうです繁青年が、魔王のような仮面を冠った、青幇の会長の前に
「私にはどうしても今度の役目ばかりは、仕遂げることは出来ません。どうぞ他の
こう嘆願しているのでした。
しかし会長は聞き入れませんでした。
会長は呪文でも称えるかのような口調で、
「お前は役目を果たさなければならない。それだのにお前は毎日のように、力を失って行くではないか。……さまよう町の、さまよう家の、さまよう人々の中に於て、お前は役目を果たさなければならない!」
その声は厳めしく、そうして催眠術施法者の型に、そっくり
と、果たして繁青年は、その語調その態度に、すっかり圧伏されて了い、意志を喪失して了いました。
彼は云ったじゃアありませんか。
「そうです、私は、さまよう町の、さまよう家の、さまよう人々の中で、役目を果たさなければなりません」と。
(もう
と私は思いました。
(これ以上いると発見される)
で、私は帰りかけました。
ところで貴郎はこの私が、この時まで地下室の何処にいたのか、まだお解りになりますまいね。
私はこの時まで十数人の者と――いずれも青幇の会員なのですが、――一緒に次の部屋にいたのでした。
つまり私も彼等の一人として。
地下室は可成り広いのです。私達のいるこの部屋の奥に、繁青年や会長や、幹部達のいる部屋があり、尚その奥にも部屋があるのです。
繁青年に対する命令、それが終わると他の会員が呼ばれ、――次の部屋へ呼び入れられ、悪事に対する他の用件を、又会長から云い付けられるのでした。で、私といる会員達は次々にこの夜会長によって、それぞれの仕事を命ぜられる可く、集まって来ていた連中なのです。
私はこっそり地下室を出ました。
森へ出るとホッとしました。
大変も無い毒気の中から、やっと逃れ出た人間かのように、本当にホッとしたのです。
守衛達は私を咎めませんでした。
会長から命令を受け取って、地下室から出て来た会員の一人だと、こう解したからでしょう。
すがすがしい森の香を嗅ぎ乍ら、私はまるで歌うかのように、
「さまよう町の、さまよう家の、さまよう人々のその中で……」と、こう小声で呟きました。
(役目を果たさなければなりません。……役目? 殺人! 恋人殺し! 富豪の美しい令嬢殺し!)
(さまよう町の、さまよう家の、さまよう人々とは併し何んだ?)
私はこのことを考えました。
大変詩的で美しく、ミスチックでさえある言葉であることよ!
(さまよう町の、さまよう家の、さまよう人々!)
私は考えに
私が青幇の集会所の、地下室へ這入って行くという、この危険を冒したのは、会長の何者だかということと、もし探れたら何が故に、そう迄青幇の連中が、柵家へ
そうして地下室へ這入って行った結果、会長の人物は見ましたが、何者であるかという点は――その素性という点は、結局知ることは出来ませんでした。その上何が故に柵家へ、青幇の連中がそう迄
が、その代り「何ういう
「処」とは何処か?
云う迄も無い!
「さまよう町の、さまよう家の、さまよう人々」の中なのです。
が、其処は何処なのか?
そうだ、其処は何処なのか?
知らなければ不可ない! 知る必要がある! そうだ探す必要がある!
私は森を出て支那町へ這入り、城内を脱けて租界へ出、これという当もありませんでしたが、波止場の方へ歩いて行きました。
絢爛そのもののようなネオンサインが、
黄浦河上には各国の船が、――日本船や英国船や、仏国船や
私は河上をぼんやりと眺め、
(さまよう町の、さまよう家の、さまよう人々とは何んのことだろう? 何処にそういう処があるのか?)
すると
「紳士、よい所へご案内しましょう」
と、
私はそこで振り返えって見ました。
一見した所は令嬢だが、仔細に見るとまぎれもない、私娼それも
此処でちょいとばかり通を云いますが、上海に於ける
で、私に呼びかけた女は、その夜遊神でありまして、その夜遊神は私娼の
私の好奇心は湧き立ちました。
で、私はからかいました。
「よい所へ? 有難う。行ってもいいね。が、どんな
すると女は云いました。
「紳士、
「
「たいして遠くはありません」
「君の家かね? ホテルかね?」
「いいえ、どっちでもありませんわ」
「ははあ、そうすると石畳の上か」
「まあ、そんな、そんな下等な。……よい
「よい氈が、そりゃア素的だ。……ベッドのスプリングも利いているだろうね」
「ホ、ホ、ホ、その通りですわ。……そうして可い音楽も……」
「よい音楽も聞かせてくれるって。そいつは豪勢な話じゃアないか。……ところで代価は? いくらなんだ?」
「ね、行ってからにしましょうよ。ね、そういうご相談は」
「いけないね、そいつはよくない、すべて取引は率直の方がいい。……で、率直にうかがうが、君の体を自由にするには、いくら程の資本が入用なのだい?」
「駄目よ、あなた、そんな無作法なこと。……ご案内すればいいんですわ。……だからご一緒に参りましょうよ。……上等のバス、上等のお酒、……
(変だな)
と私は思いました。
夜遊神などというものは、のっけに代価を云うものですのに、この女はそれを云いません。
夜遊神などというものの巣は、あさましいみすぼらしいものであって、よい音楽だの、よい
それだのにそんなものを備えているという。云い方に嘘は無さそうである。
(変だな)と思わざるを得ませんでした。
「一体どこへ行くんだい。何処へ連れて行ってくれるんだい?」
真面目に私は訊いて見ました。
すると女も真面目に答えました。
「さまよう町の、さまよう家の、さまよう人々の所へ。……ね。ご一緒に参りましょうよ」
私は一瞬間ぼんやりし、次の瞬間には用心しました。
この私の心の動揺は、
全く驚かされて
だって
私が知り
私はつくづくと女を見ました。
と、卒然と心の中へ、一つの疑問が浮かんで来ました。
(うん、この女、
それはこういう疑問でした。
が、女幇とは何んでしょう?
それに
これを読んでお聞きに入れましょう。
「
女匪の働く悪事の
ある知事が
度胸の
嘗て某公館がこの手でウンとやられた事がある。或日そこのアマが裏門のそばで洗濯していたら一人の巫女がやって来てそのアマに向い、お前の身の上には今に大変なことが起って来る。お前の印堂の黒いことはどうだ、ああ怖い怖いと言ったので、簡単なアマは大変
それから二三日経ってその公館に泥棒が入って、金銀珠玉及び現金等数千元を強奪して去ったが後になってその巫女が泥棒の手引をしたことが判った。こんな例は外にも沢山ある。
(女幇なら
私は其処で云ってやりました。
「よろしい、行こう、案内してくれたまえ」
女はチラリと私を眺め、意味ありそうに笑ってから、先に立って歩き出しました。
私は歩きながら考えましたよ。
(この
ホアンプー!
黄浦河! 上海の動脈、生命線! そのホアンプーは俺の宿命だ!)
事実その通りであったのです。ホアンプーは私の宿命でした。
だんだんお話しして行く
× × ×
さて貴郎、親愛なる貴郎、私の長話を大変神妙に、謹聴して下さる親愛なる貴郎その貴郎へ申し上げて置きます。これからお話しする私の話の、その話の話しぶりに、充分ご注意下さいとね。
と云うのは私は必要上から、写実的にお話ししないで、象徴的にお話しするからです。
神秘的、夢幻的、超現実的――こう云ったような話しぶりであると、
× × ×
さて此処は「さまよう町の、さまよう家の、さまよう人々」の、住居をしている処です。
町の道を歩いて行きました。
さまよう町の道をです。
大変細くはありましたが、綺麗で平坦で掃き清められていて、すがすがしい程でありました。
その道の左右には家々がありましたが、いずれも洋風で高尚で、こぢんまりとして居りまして、どの家もおおよそ同じ大きさで、門のドアなども似たようなもので、建築法や都市美観を、極度に
往来している人達も、大変上品で美しくて、瀟洒としていて気持がよく、それに話し合う声なども、小さくて丁寧でありました。
みんな仲よく、みんな愉快そうで、そうしてみんな何か一つの共同の目的に向かっていると、そんなように思われる人達でした。
男達の中には老人もあり、青年も中年者もありましたが、女達の中には不思議な程、ひどい年寄は見受けられませんでした。
このことがこの町をいよいよ美しく、はなやかなものにしていました。
十五六から三十五六迄の、いずれも
娯楽的建物というよりも、娯楽的設備と云った方が、よろしいように思われますが、そういうものが可成り豊富に、この町には設備されて居りました。
一つのラウンジでは優秀なバンドが、優秀な音楽を奏していました。ラウンジの広さは二百畳敷ぐらいで、天井の中央はドームになって居り、色彩絢爛の色硝子が、交互に張った装飾を持ち、その胴壁には七層朝顔型の、
何んと高尚で、こぢんまりしていて、贅沢に出来ているラウンジなのでしょう。
音楽を聞いている人達は、大概礼装をして居りました。女はドレスでありましたし、男はタキシードか燕尾かでした。
自由に
私も其処でほんの
ふと私は随分立派な、ギャレリーの中へ這入って行きました。
よい絵画がかかって居ました。
超現実派タンギーの絵画「マダムと
タンギーは貴郎もご承知でしょうが、あの荒涼たる不毛の砂地と、そうして不可能の壮大さ――こういうものを連想させる、全く独創的の天才画家で、その絵は得がたいとされていますのに、その絵がかかっているのでした。
でも私は其処を出て、ブラブラ町をさまよいました。
そうして何時ともなく、しかし自然に、一つの喫煙室へ
これも立派な
ウィリアム・エンド・メリー様式で、英国材の
大柱はマホガニーでありまして、華麗極まる大理石模様を、総体に現わしているところなど、エレガントと云ってもいい程でした。
窓が両開き硝子
文机、円テーブル、長椅子など、ことごとく上等なものであり、それに
可成りの額を賭けているようで、時々亢奮した勝負の声があちらこちらから起こりました。
私はそこでしばらくの間、賭事を眺めて居りましたが、やがて其処を出て往来へ出ました。
と、行手の曲り角を廻って、私を此処へ案内して来た、例の女が近寄って来ました。
「お気に入りまして、え、貴郎?」
「気に入りました、よい所ですね」
「お食事は
「ではご案内願いましょうか」
「いらっしゃいまし、こちらなのよ」
で私は女について――女の名は
と、私達は何時の間にか、立派な食堂へ来ていました。
仏国現代式装飾だなと、こう思いながら食堂の内部を、黄蓮とペパミントを飲み
天井は随分高くありました。柱は楕円形で太くありました。その天井とその柱の内部に、隠されて点されている電燈から、軟かい光が放射されて、それが室内を照らしているのが、特殊的でありました。
正面中央にある飾棚も、最新式のものであり、それに対した後方の壁には、飾配膳棚が備えつけられてあり、これも趣味を極めたものでした。左右の両壁には驚くばかりに、精巧を尽くした
ドーム前端の階上に、奏楽室がありまして、そこでは音楽を奏していました。
「何うォ」
と黄蓮は云いました。
「
「うん」
と私は応じました。
「ひとつ
「妾で勿論いいんでしょうね」
「いいとも、結構、君が好きだもの」
「でも他にも美しい人が、随分いると思わなくって」
「居りますね、ふんだんにいる」
「どの人だろうと大丈夫なのよ。……でも約束の出来ている人はねえ」
「いや君で充分だよ」
私はこう云って日本人好みの、細面できゃしゃな黄蓮の顔を、好意を
「しかしもう少し見て廻り
「ではその後でいらっしゃいな。……妾の所、知っていらっしゃるわね」
「後で行こう。知っているとも」
二人は食堂から外へ出て、辻で左右へ別れました。
それから私は急の坂を、下の方へ下りて行きました。
何も下の方に私の興味をそそる、特別のものがあると思って、下りて行ったのではありませんでしたが。
下の町も上の町とよく似ていて、細い往来は清潔であり、往来の左右の家々は、いずれも同じような形であり、そうしていずれもこぢんまりとしていました。
が、大体に上の町よりも、ずっと遥に質素であり、みすぼらしくさえありました。
ひとつにはこの町に不思議な程にも、人が住んでいないからでした。
いや
往来についている電燈の光も、で、ずっと暗くあれば、家々の窓からは云い合わせたように、燈火の光が洩れて来ないのでした。
さよう事実そうなのでした。
どの窓からも電燈の光が、殆ど洩れて来ないのでした。
勿論まばらに、ほんのたまたま、往来を人が通りましたが、その人が上の町の人とは
私は
と、また町がありました。
しかしその町は私の心を、憂愁にさせるに足るばかりの、陰惨としたものであり、事実私は
その町は
何処かに工場でもあると見えて、エンジンの音、ダイナモの音、
ところが
で、まるっきり廃墟のようなのです。
私は悲しみを覚えましたよ。
そうしてこんなように呟きましたっけ。
「何んとこの町は――さまよう町は――階級がハッキリしているんだ! ブルジョアの
この事が私を不快にしました。
で私は坂を上って、プチブルの住居へ帰って行きました。
それから更に一番上の町、ブルジョアの住居へ行こうとして、プチブルの町の細い往来を、少しばかり歩きました。
と、一つの窓の中から、女の泣声が聞えて来ました。
そこで窓から覗いて見ました。
窓の内側には燈火も無く、只窓から射し込んでいる、
窓はほんの小さいもので、硝子とカーテンとで
女の様子や女の泣声が、大変憐れでありましたので、私は思わず声をかけました。
「もしもし貴女、どうしたのです?」
すると女は驚いたように、窓の方へ顔を向けましたが、その容貌は美しく、そうして真面目で無邪気だったので、私は感動されました。
女は私を認めましたが、最初は
が、不意に叫びました。
「どうぞお助け下さいまし! 此処から出して下さいまし!」
「…………」
私は唖然としたでしょうか?
いいえそんなことはありません。
この町がどういう町であるか、この町にある家々が、家々に住んでいる人々が――更に率直に繰りかえして云えば「さまよう町のさまよう家のさまよう人々」の如何なるものであるかを、既に確かめている私にとっては、この女がどういう女であるか――どういう運命で此処へ来て、今何ういう運命にあるか、そうして私が助けなかったら、将来どういう運命になるかを、これ又知って居りましたので、決して唖然とはしませんでした。
「よろしい」と私は云いました。「出来るだけお力になりましょう。……併し果たしてこの私に、貴女をお救いする力があるか何うか、これが実は
「いいえ大丈夫でございます。私のことを日本の領事館へ、至急お知らせ下さいましたら、妾は助かるのでございますから」
云いおくれましたがその女は、日本ムスメだったのでございます。
「それは屹度引き受けました」
こう私が云った時に、私は私の背後にあたって、物の
で、敏捷に振り返り、素早く拳を
私の足下へ倒れたのは、鞭を持った
(事情は随分切迫しているらしい)
こう私は感じましたので、
「どうです貴女、大丈夫ですか? 今夜一晩大丈夫ですか?」
こう急いで訊いて見ました。
「何んでございますの、大丈夫かとは?」
「貞操のことです、貴女の貞操……」
「守ります! 屹度、守って見せます!」
「何時貴女ここへいらっしゃった?」
「はい、今から三日前に」
「三日前に、それはあぶない、彼等は彼等の掟として、三日以上は待ちませんよ」
「でも妾、きっと頑強に……」
「いや
私は思い付いて云いました。
「私の恋人におなりなさい」
「…………」
「私に今夜買われなさい」
「
「いや誤解しては不可ません。
女は合点がついたようでした。
うな
(さてこの野郎だが何うしたものかな)
気絶している支那人を、私は足でこづき乍ら、その始末を考えました。が、どうせその中に蘇生するのですから、何処かへころがして置けばよいと、こう思って少しばかり離れたところにある、四辻の隅へ引っ張って行きました。
それから一時間も経った頃、私とその娘とは上の町の、迚も華麗な
娘の名は澄子と云い、十九歳だということでした。
よい体格のしっかりした気象の、好感の持てる娘でした。
澄子は身の上を語りました。
それによると彼女は名古屋の産れで、女学校も卒業し、職業婦人になろうと思って、いろいろ職を求めたが、思わしい職業が見付からない。それに彼女は見掛け以上に、志操も堅固であれば大胆でもあり、冒険心と猟奇心とに、可成りに富んでいたところから、この頃盛んに日本の内地で、上海に於ける自由の生活が、
そこで
勿論彼女は承知しなかった。
と、彼女は折檻された。
そうして今日に及んだのである。
――と云うのが彼女の話でした。
「上海にはザラにあることです」
私は彼女にそう云いました。
「もう私がお眼にかかった以上、どうともしてあなたはお助けして見せます」
そうも私は云ってやりました。
彼女は礼を云いました。
すっかり安心している様子なのです。
この部屋も随分立派でした。
ソファー、アームチェア、ライチングデスク、それらの物は
桃色の絹の
窓があって其窓にも、桃色のカーテンがかかっていました。
窓の向うを通って行く人の、ひそひそとした会話なども、おおらかに聞えて参りました。
「ラウンジダンスがはじまっているよ」
「そうね、行って踊りましょうよ」
などと話して行く者もあり、
「ね、今夜は飲み明かしましょうよ」
「うん、よかろう、シャンパンでも抜こう」
などと云って行く者もありました。
(さて是から何うしたものだ?)
私はここで考えました。
この女にオールナイトの
(さて是から何うしたものだ)
不図よい考えが浮かんで来ました。
で、ボーイを呼びました。
「黄蓮を呼んでくれ給え」間も無く黄蓮がやって来ました。
黄蓮は人の好い女でした。
お前の代りに澄子という女を買うよ、だからマネージヤーに交渉してくれ――こう私が頼んだところ、
それより此処のマネージャーが、その澄子が一議に及ばず、私という人間に買われてもよいと――つまり是
「黄蓮」と私は話しかけました。
「君は何時頃から此処にいるのだね?」
「そりゃア随分以前からだわ」
「以前からって、何時頃からだい」
「そうですねえ、三年も前から」
「三年も前から。こいつは古いなあ。……それでは一つ聞きたいことがあるが、去年の八月二十日という日に、一人の日本のお嬢さんが、此処へ入り込んでは来なかったかね?」
「去年の八月二十日ですって? 随分昔のことなのね、何うだったかしら、……でも何んなお嬢さんですの?」
「美しい上品な上流の家庭の、典型的のお嬢さんなのだ。柵潮子さんという人だ」
「あ、その人なら知っていますわ」
「ほー、知っているか、それは有難い」
「変った事件がありましたのでね、それで妾おぼえているんですわ」
「ねえ黄蓮」と私は云いました。
「その変った事件というのを、詳しく話してくれないかね。僕は是非とも聞きたいんだが」
こう云って私は若干の金を、又彼女にやりました。
「ええええよろしゅうございますとも、知っているだけ妾お話ししますわ」
作者附記――この不思議なさまよう町のさまよう家に於て、黄蓮というさまよう女が話す話は何か? それに、さまよう町のさまよう家、その物の正体は何か? 読者諸君よ、次号以下に於て夫れらの疑問は解かれるであろう。期待されんことを。
(以下中絶)