チェーホフの人柄については、コロレンコ、クープリン、ブーニン、ゴーリキイの回想をはじめ、弟ミハイール、妻オリガ、スタニスラーフスキイなど芸術座の人びと、そのほか無数といっていいほどの遠近の知人による証言がある。その内容は一見驚くほど似通っていて、一つの調和あるチェーホフ像を浮びあがらせ、ほかのロシア作家に見られるような毀誉褒貶の分裂がない。コロレンコは二十七歳のチェーホフの風貌を描いて、やや上背のあるほうで線のくっきりした細おもての顔は智的であると同時に田舎青年の素朴さがあったと言い、中年から晩年へかけての彼に接したスタニスラーフスキイや友人メンシコフの話によると、人中での態度は控え目でむしろおどおどしているくらい、率直で上辺を飾らず絶えて美辞麗句を口にしない。さらにメンシコフによれば、彼は進取の気象とユーモアに富んだ生活人であり、潔癖な現実家であって、一さいのロマンチックなもの、形而上的なもの、センチメンタルなものを敵として、すこぶるイギリス型の紳士であった。――要するにこれらの証言を綜合してみると、ブーニンのいわゆる「稀れに見る美しい円満な力強い性格」の人を表象することができる。そしてそこには、ロシア的なものからの鋭い切断が感じられるのだ。
実際チェーホフは、深刻ぶった
ところでチェーホフの人および芸術に対する礼讃はまだまだつづく。――ある人にとっては彼は最も広い意味におけるヒューマニストであり、他の人にとっては彼の手紙にはいかにも芸術家らしい敏感な魂や人間愛が宿っており、或いはその作品を包んでいる客観のきびしさを[#「きびしさを」は底本では「さびしさを」]透して愛の光が射している。或いはその作品には「刻々に形成されてゆくもの」へのそこはかとない期待が漂っており、或いは「純粋無垢な唯美家であるとともに哀憐の使徒であり、人類に代って泣いてくれる人、乳母のようにわれわれをあやしてくれる人でもある。或いは大地のぬくもりであり、大地をうるおす春のぬか雨である……」といった調子で、チェーホフがもっとも苦手とした美辞麗句はめんめんと尽きないのである。
だが一方、この聖チェーホフの像から円光を消すような証言も、眼をすえて見れば決して少くはない。
まず中学や大学の級友たちの言葉によると、少年チェーホフは当時の中学生を熱狂させた問題や事件に対して冷淡であった。つまり附和雷同性がまったく無かった。謙遜であったが、それは要するに自己批判の過剰から来ており、商家の子弟に共通する性質でもあった。大学にはいってからも彼は孤独好きで、殆んど誰とも親交を結ばなかった。兄アレクサンドルが『アンクル・トム』を読んで泣かされたと書いてよこしたのに対し、十六歳のチェーホフはやや冷笑的な調子で、……このあいだ読み返したら、乾葡萄を食いすぎた時みたいな嫌な気持がした、と答えている。チェーホフの非感傷性の早期発生を物語る有力な証拠の一つだ。
小説家セルゲーエンコは中学の同級生のうち、チェーホフの死ぬ時まで交際をつづけた唯一の人だが、その回想は結論的には、チェーホフをよく調和のとれた性格の人で、その言動には均衡と一致があったとしながら、しかも細部的に見ると、彼には特に人懐こいところも、特に人好きのするところも、友情も熱情もことごとく欠けていたことを、
同様のことが、チェーホフを崇拝していたブーニンの場合にも言える。優しい追慕の情にあふれた彼の回想記にもやはり、チェーホフの愛想のいい応対には必ず一定の距離が感じられ、いくら話がはずんで来ても、或る節度を失わず、ついぞ心の奥を覗かせるような隙を見せたことがない、おそらく彼の生涯には熱烈な恋など一度もなかったろう、――と言った記述を含んでいるからである。この最後の想像も当っているらしい。メンシコフの回想によるとチェーホフは、……小説家にとって女心の知識は、彫刻家における人体の知識と同じだ、と語ったとあって、彼もやはり、結局チェーホフはツルゲーネフと同様、恋をしにくい男だったろうとつけ加えている。この比較は面白い。もっと本質的な方面についても、立派に通用する比較である。生まれも気質も時代も生活も作風も、およそ正反対と言っていいほどの二人ではあるが、おなじく「ロシアの西欧人」だった点で深く共通するものがある。
愛や結婚についてのチェーホフの言葉を少し拾ってみよう。
――僕は結婚していないのが残念だ、せめて子供でもあればいいが――と二十八歳の手紙には書いてある。――恋ができたらいいがと思う、烈しい愛のないのはさびしい――と四年後の手紙は訴えている。勿論それもこれもいつもの冗談口調だが、さりとて単純な反語でもなく、そこに現われている憧憬の表情はかなり複雑だ。いわば愛情への直接の憧憬ではなくて、その憧憬への憧憬とでもいった妙に間接的なものが感じられる。それから数年後の彼は、――愛とは昔大きかった器官が退化した[#「退化した」は底本では「退死した」]遺物か、将来大きな器官に発達するものの細胞か、そのどちらかだ――と手帖に書きとめる。これには眉をひそめたいらだたしい表情が感じられる。また同じころ、――孤独が怖ければ結婚するな――と手帖に書きこむ。更にまた数年後、――恋とは、無いものが見えることだ、とメンシコフに語る。これは或る夜更け、クリミヤの海岸道を馬車に揺られながら、いきなり言いだした文句で、彼はそう言ったなり不機嫌そうに黙りこんでしまったとメンシコフは書いている。
以上五つの独りごとめいた発言は、だいたい十年にわたって分布しているのだが、実はそのかげには二三人の女性の姿がある。たとえばその一人は、メリホヴォの隣人の娘さんでリーヂア・ミジーノヴァというのが本名だが、手紙ではリーカの愛称で通っている。二人の交際はチェーホフの三十歳ごろから、結婚の前の年まで、十年ほど続いているのだが、そのわりあい初めの一八九四年、リーヂアは声楽の勉強にパリに留学した。その年の秋、チェーホフも医者のすすめで南仏のニースへ転地療養に行っている。あとを追って行くような気持も幾分はあったのではないかと、一応は想像したいところだが、彼がパリへ出かけた形跡は見当らない。パリとニースの間の文通があるきりだ。その中でリーヂアは、チェーホフを冷たいと云って
チェーホフは四十一の年、芸術座の女優オリガ・クニッペルと結婚した。教会で式を挙げてしまうまで、母も妹も知らなかった。それどころか、その日の朝彼に会った弟のイ

要するに愛というものがチェーホフにとっては、来世とか不滅とかいうのと同じ空っぽな抽象概念にすぎず、それに対して彼の心が完全な不燃焼物であったことは、決して無根の想像ではないわけだ。のみならず、そんな空疏な概念に向っては、憧憬だって動こうはずはないので、あったものはたかだか、せめて憧憬なりとしてみたいという冷やかな試みにすぎない。この試みの空しさは彼には最初からわかりきっていたはずである。
彼の冷めたさについては、興ざめな証拠をまだまだ幾らでも並べることができる。例の『イ

事実チェーホフは、しばしば不愛想に黙りこんだ。なかでもシチューキンという司祭の初対面の感想ははなはだ特徴的である。まるで当のチェーホフは留守で、誰かが代って相手をしてくれているような気がしたという。対坐している男の眼つきは冷やかで、言葉はぽつりぽつりと切れ、まるでかさかさだった。こんな男に、永年自分が愛読して来たような「人情味にあふれ、もの悲しい歌声に似た」美しい物語の書けるはずはない、と司祭は心の中で絶叫せざるを得なかった。だが、こうしたチェーホフの沈黙を裏切るものは、二千通をこす
ところが、そこでコンマがはいる。少し意地悪な眼になって、彼の手紙の要所要所を注意してみると、話が自分の急所にふれそうになる度びごとに、巧みにそれを引っぱずす彼を発見することができるはずだ。こうした話題転換は随処に見られるが、一例を挙げれば、『六号室』を読んだスヴォーリンが、何か物足りない感じがすると言って来たのに対してチェーホフは、「それはアルコール分の不足だ」という頗る的確な表現を与えるのだが、そこでくるりと身をかわす。まあ『六号室』や僕自身のことはお預りにして、ひとつ一般問題を論じよう。その方がずっと面白い……といった筆法である。さてそれから、いかに現代が理想の黄昏であり空虚な時代であるかについて、軽快無比のアレグロ調の雄弁が際限もなく展開するのだ。だが実のところ、これはまたしても沈黙の代用の
と言って、チェーホフが嘘をついていることにならない。彼としてはあくまで正論であり、信念ですらあったに違いない。問題はだから彼の誠意の欠乏などになるのではなく、むしろ誠意の過剰にあるのだ。言いたいこと乃至言うべきことは、最初の二言三言で済んでおり、あとは不愛想な沈黙があるだけだ。しかしチェーホフは、自分が冷たく見えることを怖れる。相手を退屈させることを怖れ、自分の退屈ももちろん怖い。この窮地に追いつめられたチェーホフは、頗る困難でもあれば嘘をつく可能性も多分にある自己という主題をたくみに避けて、誠実で安全な一般論に突入するのだ。――自分の破産を白状するのは容易なことじゃない。まっ正直にやるのは辛い。おそろしく辛い。だから僕は黙っていたのだ。ねがわくば僕のなめたような苦しみを、君もなめずに済みますように……と、『無名氏の話』の主人公は言う。この言葉はチェーホフの手紙についても、有力な自註の役割をはたすだろう。
これで、沈黙の一形式としての彼のお喋りな手紙の意味が、おおよそ明らかになったと思う。それは正にニーチェの言うように、自己をかくす器であった。従ってまた、チェーホフの正体をさがすためには
チェーホフの
もちろん文学史的に見れば、彼を八〇年代の児とすることは正しいであろう。だがそれは主として彼の芸術の総体が結果として
このような灰色の空のもとで、ショーペンハウアーの解脱の哲学が、大いなる救いとしてロシア・インテリゲンツィヤの前に現われたのは、きわめて自然であった。トルストイは彼を「人類のうちで最も偉大な者」と呼んだ。チェーホフの『灯火』にもその厭世観の著るしい影響が認められる。もしこの影響の気分的余波のことを言うなら、それは彼の殆どすべての作品の隅々に尾を引いていると言ってもいいだろう。おそらくこの哲学は、ダーウィン、スペンサーの進化論とともに、彼の心情の形成に多少とも決定的影響を及ぼした唯二つの思想であったと思われる。
もう一つチェーホフの上に或る影響をもった「哲学」があったとすれば、それはトルストイズムだ。チェーホフ自身の言葉によるとそれは思想としてよりはむしろ一種の催眠術として心に喰いこんで来たもので、およそ六七年のあいだ彼を捕えて離さなかったが、一八九四年の春には陶酔は完全に醒めていたことになる。実際それが道徳理念としてチェーホフを多少なりと支配した期間は、すこぶる短かかったらしい。九一年の『決闘』を脱稿した頃の手紙には早くも、金銭や肉食を虚偽とすることの行過ぎが指摘されているし、翌年の『六号室』になると、医師ラーギンの破滅という主題そのものにおいて、無抵抗の教義に対する手きびしい
ところが、トルストイに対するチェーホフの態度には、理念の上の否定ということだけでは割り切れない、一種微妙なものが残っているようだ。わりあい晩年に近いチェーホフと近しくしたゴーリキイの回想によると、話がトルストイのことになると彼は、情合と当惑が半々にまじったような微笑をちらりと浮べ、これは
『すぐり』を書いてから二年の後、トルストイが
その一つは一八九〇年のサガレンへの大旅行、もう一つはその翌年秋から翌々年へかけての大飢饉の際の彼の活動である。既に二度も喀血を経験している身で、鉄道が敷ける以前のシベリヤを、雪どけの氾濫や泥濘と闘いながら、単身がた馬車に揺られどおしで横断し、首尾よく目的地に着いて冷静きわまる科学的データの蒐集に従い、帰りの海路ではインド洋を全速力で進む汽船の甲板から身を躍らせて、船尾に垂らしたロープにつかまりながら、海水浴を楽しむというような、一見無謀とも見える大遠征へチェーホフを駆り立てた真の動機については残念ながらはっきりしたことはわかっていない。
末弟ミハイールの回想によると、たまたま試験準備をしていた彼(ミハイール)の刑法や裁判法や監獄法などのノートをふと眼にして、とたんにチェーホフは「足もとから鳥の立つように」サガレン視察を思い立ったので、初めは冗談なのか本気なのかわからなかった、ということになる。一見すこぶる突飛なようだが、案外これが一番よく事の真相を衝いているかもしれない。チェーホフはたちまち「サガレン・マニヤ」にとり憑かれ、この流刑地に関する文献の渉猟に没頭した。出発前の彼の手紙からこの遠征の意図についての彼自身の証言を集めると、――彼はこの旅行が文学や科学に大して寄与をするだろうとは思っていない。それには知識も時間も自惚れも不足している。まあ百頁かそこらのものを書いて、せっかく学んだ医学にいささかの恩返しができればいいと思う。何はともあれこの旅行は、半年ほどにわたる心身二つながらの間断ない労働だと思う。自分は典型的な小ロシア人で、そろそろ怠け癖がつきだしたから、この際性根を叩き直す必要がある。まかり間違ったところで、この旅行から終生忘れられぬような悲喜いずれかの思い出ぐらいは得られるだろう。サガレン流刑の実状が許すべからざる社会悪であることは勿論で、西欧の文化国なら罪はわれわれ自身にあることが
要するにチェーホフは急に飛び出したくなったのである。そわそわして満足に口も利けぬのである。この大旅行の突発性や無根拠性は、さらに事後の彼を見ればますますはっきりする。彼は笞刑の現場を見て、幾晩か眠れなかったと語る。だが結局サガレンに、彼は震撼もされず圧倒もされなかった。何か良心の重荷をおろしたという気分も手伝ったのだろうか、かえって元気が出て、暢気にすらなった。――僕は喉もとまで食い足り満ち足りて、陶然たる気持だ。もう何も欲しいものはない。中風で死のうが赤痢で死のうが悔いなしというところだ。僕はサガレンという地獄も見たし、セイロンという極楽も見たのだ。……これがモスクワに帰って早々、彼が友人に出した手紙の調子である。この太平楽な諧謔のなかには、ただの非情と言っただけでは済まされない不敵なものがありはしないか。自己革命のためには、サガレンは結局薬が弱すぎたのである。
旅行後二年半ほどして、厖大な報告書『サガレン島』が出来あがった。いわゆる「冷厳なること重罪裁判所の公判記録のごとき」調査資料である。サガレン徒刑の制が
一八九一年から翌年へかけてヨーロッパ・ロシアの数県を総嘗めにした大飢饉は、社会情勢一変の転機をなしたと言われるほど深刻なものだった。医師として市民としてチェーホフは勿論起ち上った。だがその活動の総計をとって見ると、妙に焦点のないちぐはぐなものになる。時の内務大臣ドゥルノヴォは政治的考慮から、初めのうち救済への私人の発起を抑えて、赤十字や教会の手にこれを一任した。だがトルストイのようながむしゃらな男は、そんなことにへこたれなかった。つい一年ほど前までは、慈善などという
中篇小説『妻』は、この飢饉に直接取材した作品である。だがここで注意すべきは、この小説がじつは飢饉がまだ本格的な惨状をあらわさず、また彼自身で現地を視察に出かける二ヶ月以上も前に、書き上げられたという事実だ。つまり前もって書かれた作品なのである。これを書きながら彼は、たとえ半月でもいい、家を逃げ出さなくちゃならん、とか、僕が医者なら患者と病院が要るし、僕が文士なら民衆の中で生活する必要がある。社会的・政治的生活のほんの一っかけらでもいい、それが入用なのだ、とかスヴォーリン宛ての手紙で、しきりに音をあげている。退屈だ退屈だと言っている。つまり今度は、サガレン・マニヤならぬ飢饉マニヤに
トルストイは有名な『飢饉論』や『怖ろしい問題』などの論文を書いて世論に訴え、コロレンコも現地報告『凶作の年に』を書いた。ところがチェーホフは、スヴォーリンから何度も催促されながら、結局一行のルポルタージュも書いていない。彼自身の弁明によると、――二十回も書き出したのだが、空々しくなってその都度投げ出した。結局僕は君(スヴォーリン)と一緒に漫然と旅行して、漫然とピローグを食べただけのことらしい。ただしあのピローグはうまかったね、ということに落着くらしいのである。いったいこの諧謔の裏に何を読んだらいいのか?
チェーホフには『芸術家の自由に関する宣言』とでも名づけていい文章がある。それによると、彼は自由主義でも保守主義でもない。漸進論者でも坊主でもなく無関心派でもない。自由な芸術であるほかに望みはない。偽善や
――われわれが不朽の作家と呼ぶ人たちはそれぞれ身分相応な目標をもっていたが、われわれ(これはチェーホフの例の一般化のくせで、この場合単数にとって少くも不都合はない)にはそれがない。手近かなところで農奴制の廃止とか祖国の解放とか政治とか美とか或いは単に酒とかを目ざした作家もあり、高遠なところで神とか死後の生活とか人類の幸福とかを目ざした作家もあるが、われわれには遠いにも近いにも目あてが一切ない。魂の中はがらん洞だ。政治もない、革命も信じない、神もない幽霊も怖くない、死ぬことも目がつぶれることも怖くない。そのくせ誰かのように泥水で酔っ払うわけにも行かない。ガルシンのように階段から身投げもできない。さりとて六〇年代の連中みたいに他人のボロ布で自分の空虚を蔽って澄ましていられるほどお目出たくもない。
――生活の目的はそれ自体だなどと言うのは、飴チョコであって人生観ではない。
――連帯性なんていうことは取引所や政治や宗教事業についてならわかるが、青年文士の連帯性なんか不可能かつ不必要だ。
否定また否定、切断また切断である。その果てに現像されるのは、おそろしいほど孤独な一人の男の姿でなければならない。
さらにこの孤独者は、なかんずく一切のエクスタシスおよび狂気から切断されているゆえに、必然的に永遠の覚醒状態にありつづける運命をもつ。さらにまた一切の目標から切断されているゆえに、闘争もなく行動もなく、従って多少とも本質的な変化というものもあり得ない。それはサガレン旅行前後の事情についてもはっきり見てとられた。しかも不断の覚醒状態に置かれた人間は、おそらく絶望の権利をも奪われざるを得ないだろう。絶望からの切断――これが人間にとって、じつは一ばん怖ろしいことかもしれないのだ。
ではどういうことになるか。人間的機能のうち、一体何がチェーホフに残されているのか。おそらくは一対の眼だけではないのか。絶対の透明の中に置かれた絶対に覚醒せる、いわば照尺ゼロの凝視だけではないのか。それにもう一つ、「昔ながらの仕来たりに従って、機械的に書く」ことだけではないのか。もっともこの「書く」ということで彼はレトリックを一新しはした。恐らくモーパッサンを乗り超えさえした。だがこれは怖ろしく退屈な仕事ではないのか。せめてその見るもの、従って書くものに、何か美しいものの切れ端でもあればいい。だが彼の照尺ゼロの凝視のなかに見出されるものは、彼がいみじくも「
ではチェーホフは、この「無言の統計」の役割をみずから引受けようというのであるか。発狂したものは何名、酒の消費量いく樽、餓死した子供何名、とただ帖面に黙々と記入するだけの仕事――それは「無言の」統計であるから、実質的には何らかの反作用を期待する「抗議」ですらあり得ない。それは一切の支えを断たれて独り歩きするリアリズムであり、絶対に「公平無私な証人」でありつづけ、いわば人間が一台の自記晴雨計に化することを意味する。世の中にこれほど非人間的な条件があるものではない。もちろん科学の猛襲の前に理想の王座がぐらつきだして以来、リアリズムの名のもとに分類される作家はフランスの自然派をはじめとして、少いどころではない。ロシアにはそれとは別に、まるで突発事故のようなゴーゴリの出現があった。だがいわゆるゴーゴリのリアリズムなるものが、じつは十字架への烈しい畏怖の潜在なしには成り立ち得なかったであろうことはもはや公然の秘密であろうし、チェーホフがその種の畏怖には完全な不感症だったこともすでに明らかである。同様にしてゾラには、人間を科学するとでもいった大それた野心が支柱をなしていたろうし、フローベルには芸術の信仰が、モーパッサンには人間獣への復讐の快感が、わが国の私小説家には卑小の礼拝というまことに手頃な宗教が、それぞれ有力な支えをなしていたはずだ。
リアリズム等というとひどく強そうに聞えるが、その独り歩きは案外むずかしいらしいことがわかる。もし純正リアリズムというものが存在するとすれば、それは怖ろしく非人間的な条件――つまり徹底的な非情の上にのみ成り立つものに違いない。チェーホフなら立派にその資格があった。そればかりか、実際にも彼は絶対写実のおそらく世界最初の実践者になったのだ。別になりたかったのではないだろう。歌いたい歌はほかにあったはずだ。だが事情やむを得ず、ひとりでにそうなった。まったく透明界に独り目ざめているような人間は、レンズでも磨くよりほかには退屈のやり場がなかろうではないか?
それにしても、いくらチェーホフが非情の人だとは言え、人間まさか機械人形ではあるまいし、やはりそこには何か或る信念のようなもの、或いは夢想のようなものもあって、それが絶えず息抜きの働らきをしていたのではあるまいか。……なるほどそう言えば、チェーホフには少くも一つ手近な具体的な信念があった。それは個人のうちに救いを見るという思想である。彼によれば、優れた個人はそこここに散らばって、今のところ社会の端役を演じているにすぎないが、しかもその働らきを見逃すわけにはいかない。現に科学は日に月に進歩し、社会的自覚は伸長し道徳問題は波だちはじめている。それは総体としてのインテリゲンツィヤには一切無関係に行われていくのだ。――とチェーホフはオルロフ宛の手紙に書いている。この夢想はまた、『三人姉妹』の中でヴェルシーニン中佐の台詞にもなる、――現在あなたがたのような人がたった三人だとしても、やがて六人になるかもしれない。それが十二人、二十四人と殖えていって、二百年三百年たった後の地上の生活は、想像もつかぬほど美しいものに……。つまり個人のうちに、救いをみるということは、結局またしても例の進化論的倫理説に落ちつくほかはない。ただし二百年三百年後は三百年四百年後であるかもしれず、あるいは千年後かもしれない。要するに「時は問題でない」のだ[#「「時は問題でない」のだ」は底本では「「時は問題でないのだ」]。もともと進化説は非人情の哲学にすぎない。だとすれば、何かを信ずるとすれば、さしずめそれでも信じるほかはないという絶体絶命の境に追い込まれた彼の顔つきには、やはり言いようもなく非情なものが浮んでいたはずである。
――君が「前へ」と叫ぶ時は、必ず方角を示したまえ。ただ「前へ」というだけで坊主と革命家を同時に焚きつけたらどんなことになるか? ……そんな文句が『手帖』にある。チェーホフだってそのくらいのことは知らなかったのではない。しかも彼は、「君たちは悪い生活をしている。働らかなくちゃ駄目だ」と口癖のように言いながら、方向を決して示そうとはしない。もし強いて指してみろと言われたら、おそらく進化の無限の彼方をゆび指したに違いない。
僕の書く人物が陰気だと言われるが、それは僕のせいではない。メランコリックな男に限って陽気に書くし、陽気な連中はかえって悲哀を追い求める。ところで僕は陽気な男だ。少くもこれまで三十年の生涯を面白おかしく送って来た男だ――こんな言葉をチェーホフは手紙に書いている。
これはいささか瘠我慢が勝っているかもしれない。少くとも例の陽気な冗談口の一種には相違ない。だがそうした冗談口がしばしば反語的に真相を
チェーホフの笑い、あるいはユーモア。――恐らくこれほどじっくりした題目は他にあまり類例がないだろう。ところが、およそチェーホフの笑いほど世の評伝家から不当な取扱いを受けているものもあまり類例がないと言える。私見によるとチェーホフの笑いは、彼の非情に少くも劣らぬだけの重要性をもつ。それは非情と相俟って、彼の存在を支える車の両輪だったとさえ言っていい。実際もし彼に笑いがなかったら、通常われわれ人間という弱き者にとって最後に残される支えであるところの憎悪からも完全に切断されている彼の非情から生れる芸術は、一たいどんな形をとることになったか想像も及ばないのだ。チェーホフの笑いが彼の生活と芸術に与えた影響の深さについては、とてもこの短文では述べきれないのだが、以下はこの稿のしめくくりをつける意味で、問題のありかを二三指摘するにすぎない。
通説によればチェーホフの文学生活は、一八八七年『イ

彼は十九歳でモスクワ大学にはいり、はじめて北の空気を吸った。翌年の春最初の短篇小説がユーモア新聞に掲げられたのを手始めに、「チェーホンテ」、「患者のない医者」などおびただしい筆名にかくれて、七年間に四百篇を超えるユーモア短篇、小品、雑文、通信記事の類を、滑稽新聞や娯楽雑誌に書いた。一家の扶養と学資かせぎが本来の目的であったが、勿論この濫作には惰性やジャーナリズムの要求が有力に働らいていたことは疑えない。これがチェーホンテ時代のあらましである。通説によれば、これが彼の無自覚な嬉々とした小鳥の歌の時代だというのだが、この推量の荒唐無稽は、あえて彼の手紙を引合いに出すまでもなく一見して明らかだろう。それは笑いの強制労働である。ゴーゴリの場合も、その天成の笑いは若年にして北の空気によって著しく変質させられたが、チェーホフの場合はおそらくその比ではなかったに違いない。勿論その持って生まれた笑いの衝動そのものは消え失せるはずもないが、笑いの性格は殆ど旧態をとどめぬまでに歪まされたと見てよい。
のみならずチェーホンテ時代の初期すでに「チェーホフの哀愁」が始まっていたことを証拠だてることも、決してむずかしい仕事ではない。例えば『おくれた花』はかなり大型な作品で二十二歳の春の作である。ある令嬢が田舎医者に恋する。さんざん躊躇したあげくやっと意中を打明けるが、その頃は肺病がよほど進んでいる。医者は自分の精神的堕落を顧みて、この告白に頗る戸迷いするが、結局彼女をつれて南仏へ転地旅行に出る。彼女は転地先で三日もたたぬうちに死ぬ。この物語から容易に思い出されるのは『イオーヌィチ』という晩年の作品である。勿論『イオーヌィチ』には前者に見られない凝縮と重厚味があるが、この二つの作品は人物のシチュエーションも同じなら、作を支配する暗い気分も同じであって、結局『イオーヌィチ』は『おくれた花』の改作といってもいいのである。して見れば、二十二歳のチェーホンテは、三十八歳のチェーホフの作品をすでに書いたということになる。
チェーホフは果して『イ

『手帖』は一八九二年から死の年に至るあいだの彼の覚え書の類を集めたものだが、その中にはヴォードヴィルの腹案や、その登場人物のための滑稽な作り名の考案が、殆ど一頁おきに出てくる。この『手帖』にも彼の日常の言動と同じく、快活と憂鬱の間断ない交替が見られる。作品を眺めても事情は殆ど変らない。笑劇『熊』は一八八八年の作だし、おなじく『結婚申込』もその年の作、『厭々ながらの悲劇役者』はその翌年の作だ。ずっと晩年に及んだ、『結婚披露』『記念祭』の二つの笑劇があるが、ともに旧作(前者は一八八九年、後者は一八九一年の作)に、相当丹念な筆を加えたものである。しかも『熊』を加えてこの三笑劇は、いずれも初期の短篇小説の脚色であることを知れば、チェーホンテとチェーホフのあいだに線を入れることの無意味さはますますはっきりするだろう。いや笑いの本質から見れば、壮年以後の彼の笑いは、青年期の強制から解き放たれて、かえって笑い本来の面目をとり戻しているといってもいいくらいだ。
ではチェーホフの笑いは、一たいどういう性格のものであったか? それを端的に
こうしたチェーホフの笑いに親しむにつれて、おそらく『三人姉妹』や『桜の園』が喜劇だという意味が、だんだんわかってくるはずである。チェーホフのつもりでは『三人姉妹』は喜劇であった。いやそれどころか、スタニスラーフスキイの回想によると、『三人姉妹』がロシア生活の暗い悲劇だという考えほどチェーホフを驚かしたものはなく、死ぬまでついに同意することができなかった。彼はそれを陽気な喜劇、ほとんど笑劇だと確信していた。これほど彼が熱心に自説を主張したことはなかったとスタニスラーフスキイは言っている。モスクワ芸術座の板にのった『三人姉妹』が完全な悲劇になってしまったことは、言うまでもない。
それに懲りたものか、『桜の園』はわざわざ「喜劇」と銘うってある。これもチェーホフに言わせると、「殆どファース」だったのだが、上演の結果はやはり『三人姉妹』と同じ運命をたどったのである。要するにスタニスラーフスキイやダンチェンコほどの人物にも、チェーホフの意図する喜劇というものが、どうしてもつかめなかったものと見える。ここにも大きな「切断」があった。
なかでも興味のあるのはロパーヒンという人物の取扱いだ。彼は『桜の園』の農奴の小伜からのし上って、ついにこの荘園の新らしい主人に納まるのであるが、チェーホフのつもりではこれがこの「喜劇」の中心人物なのだった。チェーホフはこの役をスタニスラーフスキイに振りあてようとした。
スタニスラーフスキイは繊細味の勝ったインテリ役にしっくりする役者で、決して成り上り者に合うはずがない。ところがそのロパーヒン自身も、奇怪なことには「画家のようなしなやかな手をした、こまやかな優しい心情の持ち主」として書かれているのだ。のみならずチェーホフはダンチェンコやスタニスラーフスキイに宛てた手紙で――ロパーヒンは白チョッキに黄色い短靴、両手をふって大股に歩く、歩きながら考える、髪は短くない、したがってちょいちょい首を振りあげる、考えごとをする時は、髯を後から前へ指でしごく――とか、――彼は商人とはいえあらゆる意味で立派な人物だ、完全に礼儀正しく思慮のある人間として振舞うべきで、こせついたり小手先を弄したりしてはいけない――とか、チェーホフとしては珍らしくくどくどと註文をつけている。つまり彼は、そうしたロパーヒンこそこの「喜劇」の成功の鍵だと信じたのだ。
だが今度もやはりスタニスラーフスキイにはどうしてもこの註文が呑み込めなかった。彼はガーエフ役に廻り、ロパーヒン役はレオニードフという荒事を
もちろん私は、チェーホフのいう喜劇の意味が、完全にわかったなどと自惚れるつもりはない。だがロパーヒンという人物がチェーホフの註文どおりに演ぜられた姿を、あの第三幕の想像的舞台にのせてしばらく見つめていると、おぼろげながら或る暗示のようなものだけは受けとれるように思う。それを一と口に言えば、ロパーヒンが『桜の園』の主人に成り変ったのは、いかなる意味でも暴力的乃至は突発的な行動の結果ではなかった、[#「なかった、」は底本では「なかった。」]ということだ。それは主としてラネーフスカヤ夫人あるいはガーエフによって代表される貴族階級の自然的衰弱によるものであって、地球がこれまで何千年何万年にわたって、嫌というほど見て来たところの世代の移り変りの一こまにすぎない。このアンチームな事実、これまで無数に繰り返され、これからも無限に繰り返されるであろう常套事に直面して、ある者は泣き、沈み、あるものは茫然自失し、ある者は鍵束を床へ投げつけ、ある者は夢かと疑い、楽隊はためらい、万年大学生は「新生活の首途」を祝う。これがどうして「喜劇」として通らないのであるか。チェーホフとしては何としても腑に落ちなかったに違いない。なるほどロパーヒンは成り上り者だ。彼が身につけているものは一応ととのってはいるが、その全体としての調和にはおそろしくちぐはぐなものがある。しかし彼には勤勉があり努力があり誠実があり実力がある。どうしてこの愛すべき滑稽な登場者を拍手をもって喜び迎えてやる気にならないのか。ラネーフスカヤ族もまた、かつてはそのようなちぐはぐな姿をして、歴史の舞台に登場したのではなかったか。どうしてこれが喜劇ではないのか。チェーホフにとっては解けぬ謎だったに違いない。だがやがてそのロパーヒン族にも、『桜の園』から出発する日が来るに違いない。またしてもちぐはぐな恰好をした真面目な勤労者が登場して、何代か後のロパーヒナ夫人はその美しい髪をふり乱して泣き崩れるだろう。だから今こそロパーヒンを祝ってやるがいい。どうしてこれが喜ばしい祝祭劇でないのか。すっかり人びとが出ていった空っぽの舞台の静寂のなかに、桜の木を伐り倒す斧の響きが伝わってくる。なぜ人はそれを弔鐘と聞くのだろう。それは一つの進化を告げる祝祷の調べではないか。なんでそれをわざわざ悲劇に仕立てる必要があるのか。――それがチェーホフには何としても不可解だったに違いない。
チェーホフは最後に少くももう一つ、「喜劇」を書く意図があったが、この戯曲はついに書かれなかった。その代り彼は死の床で、最後の「陽気な」台詞を吐いた。彼は一九〇四年新暦七月十五日、南ドイツの鉱泉地バーデンヴァイラーの旅舎で安らかに死んだ。その臨終の言葉は、「イヒ・シテルベ」(ドイツ語で「わたしは死ぬ」の意)だったと未亡人は伝えている。人はまたしてもここに悲劇を見るだろうか。それとも科学者の冷静に感服するだろうか。二つともちがう。彼は医者のくせにドイツ語が頗る不得手だった。その不得手なドイツ語を、わざわざ妻の前で使ってみせたのである。その彼の表情を思い浮べてみるがいい。チェーホンテは最後まで健在だったのである。
(昭和二十九年十月「文芸」)