磯村は朝おきると、荒れた庭をぶら/\歩いて、すぐ机の前へ来て坐つた。
庭には
白木蓮が一杯に咲いてゐた。空からの白さで明るく
透けてゐるやうに思へた。花の咲く時分になつてから、陽気が又後戻りして来て、咲きさうにしてゐた花を暫し
躊躇させてゐたが、一両日の
生温い暖かさで、それが一時に咲きそろつた。そしてその下の方に茂つてゐる大株の山吹が、二分どほり透明な黄色い
莟を
綻ばせて、何となし晩春らしい気分をさへ
醸してゐた。何かしら例年の陽気に見られない、寒さと暑さの混り合つたやうな重苦しい感じがそこに
淀んでゐるやうな日であつた。それは全くいつもの春には見られないやうな、妙に拍子ぬけのした気分であつた。
彼は何だか勝手がちがつたやうな気がしてゐたが、それは彼の神経の弱々しさも一つの原因であつたが、余り自然に興味をもちすぎる彼の習慣から来てゐるものだとも思はれた。其のうへ彼は又この二三日、ひどく
煩はしいことが彼の頭に
蔽被さつてゐることを不快に思つた。
それは磯村のやうに、家庭に多勢の子供をもつてゐると同時に、社会的にも少しは地位をもつてゐるものに取つては、
可也皮肉な出来事であつたからで、気の小さい、
極り
悪がり屋の彼は、
何うかして
甘くそれを切りぬけようと、
頭脳を悩ましてゐた。
「あの女がまた来ましたよ。」
磯村が何か深い心配事があるやうな調子で、さう言つて、妻に
脅かされたのは、三日ばかり前の夜のことであつた。
その夜彼は会があつて、帰りが思ひの外遅くなつた。おしやべりをしたり、酒を飲んだりしたので、彼はひどく疲れてゐたが、妻にさう云はれると、又かと思つて少しは胸がどきりとなつた。
勿論その女のことは人に頼んで
間へ入つてもらつて、去年の冬とにかく一段落ついた形になつてゐたが、しかし相手が
執念く出れば、彼はいつまでたつても安心する訳には行かないのであつた。
「また来たつて。」磯村は軽く問ひ返した。彼女の神経が
尖つてゐるやうに思へて、それに触るのが
辛かつた。
今となつては、それは単に彼一人の苦労ではないことは判つてゐた。
寧ろ彼女の方が、余計気にしてゐるくらゐであつた。磯村に取つては、思ひがけない災難のやうなものであつた。十年ぶりで、その女から手紙を受取つたとき、彼はそれ以来その女が何うして暮してゐたかを知りたいだけの興味で、多分いく分か生活が明るみへ出てゐるだらうと想像したところから、どこかでちよつと飯でも一緒に食べて話を聞かうと思つたに過ぎなかつたが、それが不運な彼のために用意された
陥穽であつた。彼女を一目見たときから、彼はまざ/\幻滅を感じた。
嫌悪の情がむら/\起つたが、彼女の話はやつぱり聞きたかつた。そして彼は三度まで彼女を訪問した。彼女の話すところでは、最近まで或る工場持の保護を受けてゐたけれど、財界の恐慌でその関係は絶たなければならなかつた。で、すつかり行詰つてゐたところで、磯村に呼出しをかけることを思ひついた。
「ちよつと
貴方のお名前を見たものですから、一度お目にかゝりたいと思つて、手紙を差上げましたの。でも、多分来ては下さるまいと思つてゐましたのに。」彼女は若い時分とはまるで違つた、べちやつくやうな調子で言ふのであつた。
飲食事をしながら、磯村は出来るだけ、彼女から話を引出さうと
焦慮つた結果、少しづつ小出しにそれを引出させることはできたけれど、それは
真の現在の身のうへくらゐのことであつた。
「私はどうしてかう亭主運が悪いんでせう。この子の父親とも暫く一緒に暮したんですけれど……今
憶ふと、それが私の一番幸福な時でした。」
彼女はその男の写真なぞ出して見せた。それは大礼服を着飾つた軍人であつた。そしてその子供だと云ふ、五つになる愛らしい子が、
餉台の傍にすわつて
鰻を突ついてゐた。
強ち彼女も不真面目ではなささうに見えた。ビールに酔つてくると、彼女の生活から来た習慣で磯村の膝へもたれかゝるやうにしたりしたけれど、もう
三十年を越した彼女としては、前途の不安を感じないではゐられなかつた。
「小遣をおいて行かう。」磯村は言つた。
「いゝですよ。そんな積りぢやないんですわ。私まだお金はありますから。」彼女は言つた。
勿論さうでもないことが、その後磯村にわかつて来たとほり、彼女は田舎に縁談があるので、そこへ行くについて、少しばかり金のいることを、三度目に逢つたとき、その相談を受けてそれを賛成した磯村に打明けた。
田舎へ行つたときには、彼女はもう妊娠してゐた。磯村は彼女の大胆さ、といふよりも、恥知らずに
呆れたけれど、何うしようと云ふ気も起らなかつた。そして磯村の
酬いが皮肉に彼に
絡つて来たのであつた。
お産の前後、磯村は二三度、自身彼女に金を届けたり、
為替を組んだりした。それは磯村に取つては
可也骨の折れる仕事であつた。そして子供の顔を見た彼女の慾望が、段々大きくなつて行つた。磯村の要求がいつも裏切られた。勿論それは彼女だけの
智慧ではなかつた。
磯村は彼女がまたのこ/\遣つて来たと聞いて、うんざりしてしまつた。やつぱり本当に解決がつかなかつたのだと思つた。
「子供をつれて来ましたよ。」と、妻はわざと突きつけるやうな調子で言つた。で、
何の子供かと思つて、磯村が問ひ返すと、それは大きい方の子だと言ふので、いくらか安心した。勿論小さい方の子にしたところで、それが自分の子であるか何うかは、その時の彼女の身のまはりを、一応取調べる必要もあるのであつたが、何だか似てゐるやうにも思へるので、それを自分に見るのは無論不愉快だつたが、連れてまで来られるのは、
慄然とするほど厭であつた。勿論それは多分地震のために、人間の感情が、
総て放散的に、密度を稀薄にされてゐるせゐもあつたが、一つは一年と云ふ時日が、彼の悩みを緩和してゐた。そんな事のために
頭脳を苦しめることの馬鹿々々しいことは、彼にもはつきり判つてゐた。
「随分づうづしい女ですよ。
自家でもべちやくちやと、厭がらせを言つて行きましたが、
吾妻さんのところでも、随分色々なことを言つたさうですよ。まるで此の家が自分の家でもあるやうに、……私が好い着物を着てゐたとか、何かが殖えてゐるとか、私松をつけて、吾妻さんとこへ遣つた処ですから。その結果を聞きに、吾妻さんとこへ行つて、今帰つて来たところですよ。」
「金をやつてないのか。」
「え、あの時は怒つて貰はないと言つたとかで、その
儘になつてゐるやうですよ。今度はもつと大きく吹きかけてゐるらしいんです。」彼女は泣き出しさうな顔で口惜しさうに言つた。
「あんなに又金をほしがる奴はないからね。」
「なか/\片づきませんよ。確かに誰かついてゐるんです。」
「どんな
身装で来た。」
「え、それでも子供には
縮緬なんか着せてね。」
「それだと厄介かも知れないね。困つてゐると遣りいゝが。」
その翌日から磯村は妻の険悪を感じた。磯村以上にもそれが胸の
痞になつてゐることは判つてゐながら、彼女の態度を見ると、余り感じが好くなかつた。彼は出来るだけ口を利かないことにしてゐた。
で、今朝も彼は用事を女中たちに足してもらふことにしてゐた。花が咲くのにまた不愉快な日がつゞくのかと思ふと、頭脳が憂欝になつた。
「どこかへ行つてしまはう。」彼はさうも思つた。
勿論仕事の都合さへできれば今年は吉野の花を見に行かうなぞと思つてゐた。それとも健康を
恢復するためには、どこか静かな山の温泉が好いかとも思つてゐた。彼は毎日毎日こま/\した急ぎの仕事に追はれづめであつた。一日としてペンを手にしない日はなかつた。旅行をするためには、仕事の
余裕をつけることが必要であつたけれど、それも当分望めさうもなかつた。彼は体を
虐げてゐることを考へるだけでも、恐ろしいやうな気がしてゐた。
磯村は、
展げられた原稿紙に向ひさうにしては、また煙草を手に取りあげてゐた。
「いや、それよりも芳太郎の試験は何うなつたらう。」磯村はいつか又その方へ気を取られはじめてゐた。
大概大丈夫らしかつた。出来ばえを調べて見たところでは、これならば先づ安心だと思はれた。しかし結果はまだ判らなかつた。
「若し今度駄目だとしたら。」
磯村は自分の失望よりも、子供の悩みを考へないではゐられなかつた。芳太郎は
咽喉の病気のために、二年間試験を受けることができなかつた。一度は地方で、一度は東京で……。地方では、彼は感冒にかゝつて、当日の朝から発熱したが、押して
俥で出て行つた。その午後から熱が四十度に昇つた。そして試験はそれきりであつた。去年は東京でK大学だけ受けることになつてゐたが、前日の夜おそくから、
扁桃腺の
腫れ出したのに気づいて、手当をしたけれど、矢張駄目だつた。彼は母と友人に送られて、頭に
氷嚢をつけて入場したのであつたが、第一の課目を終へて出て来たときには、顔は
真蒼になつてゐた。そして近所の医者の手当を受けて自動車で帰つて来た。扁桃腺は
化膿しはじめてゐた。日に/\それが
咽喉一杯に
腫れ
塞がつて行つた。声を出すのが困難であつた。呑んだ牛乳が
鼻腔からだらだら流れ出した。入院して手術を受けたところで、
漸とその苦しみから脱れることが出来た。
学校へ通ふことなしに、二年の月日をぶら/\してゐることは、文学や音楽に相当な目の開きかゝつた芳太郎に取つては、危険が伴はずにはゐられなかつた。
怯気のついた彼に取つては試験勉強ほど気分を憂欝にするものはなかつた。現代の試験その物、教育その物に幾分、疑ひを
抱かずにはゐられなかつた。そして其の間それを傍観してゐる磯村の
堪へ忍ばねばならなかつた苦痛は、むしろそれ以上であつた。何事にも
不検束な彼にも、監視と
鞭撻の余儀ないことが痛感された。彼は時々芳太郎の気分を、数学や英語の方へ
牽きつけようと力めた。その結果、彼は時々思ひのほか
苛辣な言葉を口へ出さなければならなかつた。
磯村はそれらの雑念から
脱れようとして、
強ひて机に坐り返して、原稿紙のうへの
埃を軽く吹きながら、
漸とのことでペンを動かしはじめた。
すると暫くしてから、格子戸の開く音が彼の耳へ入つた。磯村は原稿の催促か、来客かと思つて、ちよつと安易を失つた気持で、ペンを止めてゐた。そこへ縁側の方へ芳太郎の影がさした。彼は手に電報をもつてゐたが、入つてくるのを
躊躇してゐた。
「どこから。」妻の声がした。
「これあ秀ちやんだ。」芳太郎の声がした。
秀ちやんの親である、磯村の姉夫婦が、四月になつたら上京する筈であつた。やつぱり束京にゐる秀ちやんの弟が、一週間ばかり前に、そんな話をして行つた。磯村はてつきり其だと思つたが、妻の感じたところも、同じであるらしく思へた。
「時間がわかつたんでせう。」妻は言つてゐた。
「いや。」芳太郎は答へてゐたが、少しまごついたやうに、それを磯村に見せに来た。
「オイワイしますつて何だい。お前に当てたんぢやないか。局はミタだぜ。」
芳太郎は泡をくつたやうに、ちよつとどぎまぎしながら
茶の
室へ行つてしまつた。
「何だ、もう判つてゐるぢやないか。それでも知らしてくれたのは感心だ。」
秀ちやんは
閥が高くなつてゐて、もう二年も姿を見せなかつたのであつた。
「多分本当だらうと思ふが、行つて見て来たら何うだ。」
「まさか

ぢやないでせう。この頃どこかあちらの方へ勤めてゐるさうですから、確かに見たんでせう。」妻もさう言つて
襖をあけて、入つて来た。
「さうだらうとは思ふがね。無論さうだらう。」
「まあ可かつた。」
「これで己もいくらか
吻とした。」磯村も言つた。
「今度駄目だつたら、もう御父さんには心配かけない、自分で何うかすると言つてゐましたけれど。」
「おれも学校なんか止めさせて、皆で何か商売でもして、一緒に働かうかと思つた。」
暫くすると、磯村はまたペンを動かしはじめた。そしてそれを出させてしまふと、
漸と解放されたやうな気持で、庭へ飛び出した。そして軽い気持で、昨日から運びこんだまゝになつてゐる植木を植ゑるために、
鍬とシャベルを裏の物置から引張りだして来た。木でも植ゑたら
廃んだ庭が、少しは生気づくだらうと思はれた。
それが済んでから、軽い疲れを楽しみながら、縁側でパンを食べながら、牛乳を呑んでゐると、そこへ吾妻夫婦が訪ねて来た。
「また遣つて来たさうですが……。」磯村は不安さうに
訊いた。
「いや、実は今日その、私んとこへ来ることになつてゐましてね。」吾妻はさう言つて、袂から半紙に何か書きつけたものを出して、突きつけながら、
「それでまあかう云ふことにしておきました。」
磯村はそれを受取つて目を通した。金の受取と、そして今後何事があつても何等の迷惑を持込まないことと、子供が磯村に関係ないこととが、
定法どほりに女の手によつて
認められてあつた。
「そのくらゐにしておけば、たとひ何んな事があつても大丈夫です。」
「いや、どうも。」磯村はちよつとお辞儀をした。
「よく聞くと、あの大きい子供のお父さんの、海軍大佐のところへ、金を無心に行くらしいんです。その支度や旅費や何かでね。どうも方々
簗をかけておくですからな。大佐も毎月養育料を取られてゐるうへに、時々大きく持込まれるらしいんで、
他所事ながら、お察ししますよ。」吾妻はさう言つて笑つた。
「だが、そんなに
質のわるい女でもありませんね。家内が色々に言つて聞かしたら、すつかり其の気になつたらしいんです。子供も手放すらしいです。」
「子供を実際もつてゐるんですか。」磯村はきいた。
「もつてゐますとも。連れて来たのがさうですもの。」吾妻は答へた。
磯村の妻は「さうでしたか。」と言つて

けてゐたが、実を告げなかつた彼女の気持は磯村にはわかつてゐた。
「それも奥さんの気持が素直だからですよ。あの女をそこまで
宥めていくのは、大抵ぢやありませんね。」磯村はさう言つて夫人に感謝した。
「全くですわ。どうせ
貴女にしれたからは、私も
公然に子供をつれて、是からちよく/\伺ひますなんて、私も腹が立ちました。」
「えゝさうですわ。自分の子供を、お宅の坊ちやんや何かと同じやうにね。」夫人も言つた。
「解らないんですよ。格別悪いと云ふ女ぢやないんだ。それだけ始末がわるい。」磯村も批判者の地位に立てたことを、愉快に感じた。
「お蔭で私も安心しましたわ。」
やがて四人は、
卓の側へ集つて紅茶など飲んだ。そこに
先刻の電報が、吾妻の目にもついた。
長閑な天気であつた。
「坊ちやん好かつたんですか。」
「え、お蔭さまで。」
「桜が咲きますな。一つお花見にでも出かけようぢやありませんか。」吾妻が出しぬけに言つた。
「え、好いですね。」磯村の妻も早速賛成した。
けれどまだ何処かに安心し切れない何かが、彼女に残つてゐた。磯村にはそれが何であるかがよく解つてゐた。それを彼女の利己心だとばかりも思へなかつた。彼はこの出来事を、思ひのほか重大視してゐる彼女の心を、今までにも
屡経験する機会をもつてゐた。それは
寧ろ
曾て見たこともなかつたやうな、彼女の
可憐しさだとしか思へなかつた。
(大正十三年四月)