或田舍の町である。裏通の或一部を覗くと洗張屋が一軒庭へ布を張つてあつて其庭先からは青菜の畑があるといふので、そこらをうろつく



「君何だい」
と炬燵へはひる。衣物は唐棧の洗曝しでメリヤスのシヤツは目に立つ程垢づいて居る。シヤツは二枚も襲ねて居るので手首の所が思ひ切つて不恰好に太く成つて居る。藥局生は擬ひの相馬燒の茶器に茶を入れて來る。盆を下に置いて立ちながらだらりと下つた羽織の紐が茶碗を引きずつて行つた。茶を一杯啜つて
「こりや冷たい、どうも書生と二人切りだから不自由で仕やうがないよ」
と主人の醫者は苦笑した。さうして
「松田、おい松田」
と喚んでついと表の座敷へ行つて
「汁粉を一つとつて來てくれないか、おいひよつと立つてランプへぶつゝかつちやいけないぞ」
といつた。藥局生はがらりと格子を開けて出て行く。主客の間には炬燵の火力が増すに連れて雜談が始まる。時々其癖の髭の先を撚りながら主人の醫者がいふ。髭の先をちより/\と撚る時は若い者に普通なすぐに得意になる時である。客は平打の白い羽織の紐を手の平でふわ/\と動かしながら嫣然として居る。炬燵の側に引きつけられた臺ランプの光がぼんやりと丸く大きく天井へ映つて居る。其丸い光が靜かに二人を見おろして居る。格子戸がゞらりと開いて汁粉が來た。亂暴な運びやうをしたと見えて碗の蓋は傾いて汁が碗を傳ひてこぼれて居る。
「よけりや君みんなやつてくれ給へ」
主人がいふと
「大抵あるのぢや困らないぞ」
と客はふう/\と汁を吹きながらたべる。若い主人は箸も持たずに一寸一口やつて髭を左右へ拭ひながら先刻からの雜談をつゞける。
『寄宿舍を出て素人下宿に居た時だ。其下宿といふのは表は穀屋で隱居夫婦が内職にやつて居るのであつた。生徒といふと大抵は放蕩して居るといつていゝ位であるのに僕はまだ其頃は模範にされて居たのだから特別に待遇されて居たのであつた。其時分僕の二階に先生が暫く下宿をして居た。先生はヂストマの研究で學位を授かる筈になつて居たのだけれど自分の家から出ると方位が惡いとかいつてお母さんが心配するので孝行な人だからお母さんのいふ儘に別居して居たらしいのだ。何でも一の酉の晩であつたらしい。僕の部屋へ多勢集まつて互に肉とか酒とかを買つて來て牛飮馬食會をやつた。初めは遠慮して居たがたうとう詩吟もやれば劍舞もやる大騷ぎをしてしまつた。先生は二階に勉強をして居たのだ。他の生徒は歸つてしまふのだから平氣だが僕はみんな散會してぽつゝり獨りで殘つて見ると先生が非常に迷惑であつたらうとも思ふし一寸濟まない心持にも成つたから火鉢を持つて二階へあがつて行つた。火鉢に火が熾に起つて居たからである。さうすると先生は僕の顏を見ると突然
「君は成績の惡い生徒だらう」
といふ。僕は一寸癪に障つたから
「如何にも成績の惡い生徒でありませう、然しながら今日まで席順は八番九番を下つたことは唯一囘もありません」
とかう昂然としていつた。先生も少し當てが外れた。
「それでも生徒の身で酒を飮んで騷ぐ抔といふのは宜しく無い。そんなことでは腦を惡くして將來到底いかんだらう」
といふので平凡な講釋である。それから僕は他の生徒の如く蔭に隱れてはしない。公然として愉快をとるべき時にはとるといふので批難すべき處はあるまいといふと
「だがそれはそれとして君は僕と約束をしないか」
といふ。何だか分らなかつたが大にしませうといつたのである。
「それぢや僕の指揮に從つて勉強しないか」
といふので他に返辭もないから又大に仕ませうといつたのだ。先生は殊の外滿足である。其の頃ペストの流行があつたので先生は興に乘つてペストの噺を一時間もつゞけた。酒で頭は痛むしちやんとして聽いて居なくちや成らないだりひどい辛抱をさせられた。先生の噺が途切れた所で僕はランプの始末を忘れて居たと急に氣が付いたやうなことをいつて二階を降りた。それからといふもの夜は十時となると必ずランプを消さなくちやいかんといふことで少しでも遲くなると
「おい君、こくふ田君まだ起きてるのか」
と二階梯子段から呶鳴る。初めは先生は國府田をこくふ田といつて居た。朝は五時といふと先生が呶鳴る。
「こくふ田君まだ眠いか」
といつてどん/\と戸を叩く。二階の窓の戸である。忽ち響くから起きずには居られない。規律の立つた人だから一遍でも捨てゝは置かぬ。先づさうされたから自然勉強も出來るし先生も隨つて非常に身を入れてくれる。卒業の後には助手にしてやらうとまでいつて居たものだ。それが先生がまだ下宿に居るうちにたうとう墮落してしまつたのだからいひやうは無いのである。遊びに行くのが面白く成つたのだから駄目なのである。それでも先生の目につく處では勉強しなくちや成らなかつたから先生の下宿に居るうちはまだよかつた。夜は十時にならぬうちにランプを消して置く。それには豫め戸を少し開けて置いて蒲團にくるまつて居る。梯子段からのぞいて先生のランプが消えると其時すつと拔けて塀を乘り越えて出て行く。さうして夜の明けぬうちに歸つて冷たい蒲團へもぐり込んで居る。先生はちつとも知らないから五時になると戸を叩く。まだ眠いかといつてはどん/\と叩く。實際眠いのだから隨分苦しかつた。或晩のこと例の如く塀を越えて遊びに行つて居るとヂヤン、ヂヤンと半鐘が鳴る。何處だといふとどうも僕の下宿の近くらしい。しまつたと思つてせつせと駈けて來た。見ると近くは近くだが僕の下宿ではない。藝者町だといふので飛んで行つて見たくて堪らない。所が下宿の婆さんに捉まつた。まあよく戻つてくれました。内では書生さんがみんな出てしまつたので私一人ではら/\して居たんです。なんぼあなたが心強いか知れません。どうぞ私を助けると思つて居て下さい。先生もお宅が心配になるからつてお出掛になつた處です。どうぞ後生ですからと袂をぎつしり捉へて離さない。空は一杯に赤く焦げて火の子がもろ/\と吹き上つて居る。ごう/\といふ騷ぎが聞える。醫學校の生徒が飛び込んで藝者の三味線を擔ぎ出した抔といふことであつたさうだが僕は其の時氣が氣でない。だが仕方がないから婆さんと表に立つて居ると先生も其内に歸つて來て僕の居たことを非常に悦んだ。先生は僕をすつかり信じて居たのだから慌てゝ駈けて來て婆さんにつかまつたのだとは思はない。外の書生は飛び出すのに僕一人が守つて居たのは感心だと思つたらしかつた。そこになると先生は疎いのである。其後先生は方位の何かゞ解けたのだらう自宅へ引き移つた。荷物を運ぶ手傳ひをして日曜一日を潰した。先生が居なくなつてからはもう僕は自由自在である。然し報いは覿面で俄然三十六番に落ちてしまつた。先生は驚いた。だが其時は病氣であつたからといふので一時先生を瞞着して居た。それでも何時までも欺きおほせることは出來なかつた。或時先生の試驗があつた。口頭で應答するのだからどうにか先の奴の眞似をして饒舌つたが逐うつかり捉つてしまつた。發疹窒扶斯と膓窒扶斯との鑑別診斷でぐつと行詰つてしまつた。ほんの少しの處であつたが分らなかつた。先生は疎い人だが學問の方になると非常に鋭敏だから到底欺くことは不可能であつた。君は墮落したなと先生は唯一言いつた。僕は冷水を浴せられたやうに感じた。さうしてちらりと先生の顏を見上げると先生は姿勢正しく直立した儘ぢつと僕を睨んで居た。先生はそれつきり云はなかつた。僕は身體がひどく小さく蹙められたやうで氣が疎くなつたやうで他の生徒の竊かに冷笑するのをやつと聞いたのであつた。
千葉も最初は愉快であつた。學校の庭から遠く海を隔てた相州あたりの山々を得意になつて望んだものだが卒業の時にはたう/\六十八番に下落してしまつたのである。どうかすると大に發奮することもあつたが一旦墮落してはもう再び舊位置にかへることは出來ないものである。借財を背負つた身體を兄に曳かれて千葉を出たといふ姿で父兄への信用は其時失墜してしまつたのだ。迂濶なことであるが父でも兄でも僕が机一つなくなつて埃だらけな酒樽の轉がつて居る所にぽつさりと居ようとは思はなかつたのである。料理屋でも無闇に貸すのですつかり重荷を背負つたのであつた。今日こんなに郷里へ燻ぶつて束縛されて居るのも其時の祟りが[#「祟りが」は底本では「崇りが」]あるのである』
若い醫者は一寸口を噤んで碗の底に吸ひ殘した汁粉の汁を右の手から啜つて妙な手つきで左の手で箸を持つて冷たくなつた餅を噛つた。さうして汲んであつた冷たい茶を啜つた。此時まで臺ランプの下で右の肘を突いて身體を横にして聞いて居た客は徐ろに起きて一つ殘つて居た汁粉の碗へ手を懸ける。碗のいとじりが小さな輪を膳の上に描いた。客は醤油の浸みた菜漬を旨さうに噛んでやがて冷えた鐵瓶から急須へ注いで其鐵瓶を炬燵の火へ懸けた。さうして
「君足を出して引つくりかへしちやいけないぜ」
といつた。
「僕もこんな所で開業する料簡はなかつたんだがな」
と若い醫者はハンケチで髭を扱きながらいつた。
「然し事情といふものはすつかり自分を弱くしてしまふもんだからな」
若い醫者の顏には此時僅かながら苦痛が浮んだ。
天井の丸い明りはほつと息をついたやうな形で、さつきの位置から依然として二人を見おろして居る。
若い醫者はその先を續ける。
『一年志願もらちもないものであつた。學校ではうつかり落第すると醫者に成り損ねる心配もあるが志願兵では三等軍醫に成れなかつた處でどうといふこともなし百姓等と一所になつて上等兵位にこづかれてゐるのだから本氣にも成れないのだ。先づ謹愼して居るのは二週間位なものだ。そんな覺悟だから到頭隊の見習士官に憎まれてしまつた。軍隊といふ處は上官に一旦睨まれるとそれが始終附き纏つて仕やうのないものだ。何かといふと僕をがみ/\いふ。器械體操の鐵棒でも隊の中では僕がうまい。教育係の軍曹も要領は僕にならへといふ位であつたが見習士官は譽める所ではない。そんなことぢやいかん、眼付がいかんといふ。僕は背が低いのだから鐵棒へ飛びつくにも上目を使はなければならない。銃を立てゝも銃口が耳のあたりまで來る。練兵の時でも低い奴は態度がまづい。僕が短い足で歩く工合はあぶなさうな容子だといふのでミスター薄氷と綽名された位だからどうしても上目使ひになる。それを眼付がいかん臆病だからいかんといふ。或時は梁木を渡れといふ渡らぬといふ。梁木といふとあの高い橋のやうなのがさうだ。僕は決して渡らぬといつてひねくれてやつた。すると一同を整列させて置いて見習士官がいふには國府田志願兵は臆病である。恐らく學校に居た時は外科と解剖は落第點であつたらうとかうだ。それからいやそれは大に違ふ。私は外科と解剖は必ず滿點であつたのでそれが不審であるならば私の學校へ照會して貰ひたいと喧嘩を買つたら大に閉口した。或時は又かうである。整列した前に立つて「汝の劍を以て罐詰を切れといはれたらどうするか」といふ問を其見習士官が發した。劍は軍人の精神であるといふことを注入されて居るので皆切らんといふ方へ手を擧げる。僕は擧げない。なぜ擧げないと詰問する。それから若し狂人でもあつて汝の劍を以て罐詰を切れ、然らざれは直ちに汝を殺さんと迫られた時に其狂人が自分より遙かに力強いものであつた時には徒らに生命を損するよりも寧ろ我が帶劍を以て容易な罐詰を切らんと欲するものでありますとやつた。衝突といつたら何時でもこんな愚にもつかぬものであつた。僕の居た室は以前は倉庫であつたらしかつた。或晩酒保から源氏豆を一袋買つて來ておいて消燈後に二三人で噛つた。同室の一等卒にやればよかつたが遣らなかつたので其奴が密告をした。軍曹がやつて來て誰か豆を噛つたものはないかといふ。ないといふとそれでもぼり/\音がしたさうだ怪しからんといふのでランプを點けると寢臺の下に生憎二つ三つ落ちて居たので散々こづかれた。こんなことを眞面目に繰り返し繰り返し六ヶ月經過した。然し階級制度だけに六ヶ月を經過した時には僕等は一躍して軍醫生といふので曹長の資格を保つやうになつた。もう自由に診察も出來る少し羽が擴がつた。丁度實彈演習で習志野へ行軍があつた時だ。結婚したばかりの中尉であつたが病氣屆を出して行かない工夫をした奴があつた。僕が診察の番に當つて居た。軍醫仲間の相談の結果何でも屹度彼奴は假病に相違ない。本官の奴等平生餘り威張り散らすから少し懲らしてやれといふので僕が行つて見ると大層裝つて居るが假病である。それでも其一日だけは見遁して次の日から練兵に出してやることにした。僕は竊に冷笑しながら營舍の側をぶら/\歸つて來ると
「おいこら軍醫生一寸待たんか」
といふ。後を向くと大隊長が窓から首を出して居るのであつた。此の大隊長は特務曹長あがりでいゝ加減の老人である。赤銅のやうな顏で目玉がぐり/\して居る。眉が毛蟲のやうで白かつた。中尉の病氣はどんなのかと聞くのであつた。いゝ加減いふうちに段々ばれさうになつた。大隊長なか/\旨いことを聞く。
「熱はどうした」
とさういふ意外なことをきく。
「左程ありません」
といふと
「どの位か」
と突つこむので僕はうつかり
「當り前でございます」
とやつてしまつた。大隊長非常に怒つてしまつた。
「何を云ふかツ」
と今にも攫みかゝりさうな劍幕だ。失策つたと思つたが據ないから暫く立つて居た。すると
「何を愚圖々々しちよるか、行けツ」
と叱るのである。
「えゝ一寸申上げます」
それから斯ういつて見たが聞かない。
「そんなこと要らん、何故行かんか」
と呶鳴る。
「あゝ譬へば咽喉加答兒といふ病氣がこゝにあるとしますれば此にも熱はあるのであります。さういふ熱に對しては唯今のやうな言葉が私共醫學社會には普通に用ゐられて居るのでありますが……」
と出任せを饒舌つた。軍人といふものはそこに到ると淡白である。騙されたとは知らない。
「やさうか、それは俺が惡かつた。醫學社會の通用語といふことは知らなかつた。今のは氣の毒なことであつた」
といつて六ヶ敷い顏が急に解けてしまつた。それからといふもの大隊長は僕を信用して時々診察させる。喘息持で惱むのであつた。
「どうも熱があつていかん」
といつてはいつもそれを苦にして居る。熱も無いやうなのを唯苦にして居るのだから、初めは不審に思つて居ると自分で計つては苦にするのでよく驗温器を檢べて見ると、よく/\古い狂つたので平熱でも八度近くまで騰る。七度から以上は熱だと聞かされて居たので頻りに苦にして居たのであつた。軍隊ではこんなことで日を暮して一年は過ぎてしまつた。茶化して通つたといつてもいゝので、其でもどうにか終末試驗に及第もするし心に苦痛といふことは感じないでしまつた。然し此期間に只一つ非常に困つたことがあつた。僕が少し罪を作つたやうなことがあつたので、それも罪といふ程のことではないが、其起りといへば千葉に居た時のことであつた。自分の不成績を少しく恥ぢて一奮發して見る氣に成つた時のことだが、惡友を避ける爲めに在の百姓家の一間を借りて居た。海岸であつた。暑中休暇の後であつたといふのは庭に

「抂げてもどうか兄の一家のものを安心させて戴くことは出來ますまいか」
といふ至極穩かな申出である。僕は今までそんなに心掛けて居られたかと思ふと喫驚もするし氣の毒でもありどうといつてうまい挨拶も出來兼ねるので
「一家の事情が當時許しませんものでしたから……いやどうもこんな所で何も差上げるものも御座いませんがどうか」
といつて酒保へ連れて行つた。外に方法も無かつたからである。
「それでは只今に成つては事情お運び下さる譯にまゐりますまいか、私が斯うして參りますのはよく/\のことでございますが」
と哀訴するやうな仕方である。僕は此の期間を過せば獨逸へ留學したい心算であるし、千葉での不勉強をどうにか償ひたいと思ふのだから五六年は暇どれることと思ふといふやうな苦しい嘘を吐いて其場は紛らしてしまつた。それが二度も尋ねて來られたのだから僕も要らざる罪を作つたものだと思つて當時は非常に神經を惱した。其娘はどうしたか懸念に思ふのはそれ許りだがどうにか養子も極まつたのだらう。館野には其後聞いたことがない。尤も彼とは逢ふ機會もなくて過ぎてしまつたのである』
夜はふけた。夜番の鳴子の響が遠くから段々近くなつてさうして格子戸を開けてはひつて來るかと思ふ程八釜しく響いてやがて又遠くなつた。夜番の鳴子は板へ鐵の短い棒をつけたのでそれを紐で臀のあたりへ背負つて居る。歩くに連れて臀が動く其度にがらり/\と鳴るのである。藥局生はもう眠つた。微かに鼾の聲が聞かれる。若い醫者はランプへ眼を注いで居たが
「酷く明るくないな、僕の書生は少し事情があつて世話して居るんだが然し怠けていかん」
かう呟いてランプのほやを拔かうとする。熱いので一寸手を引つこます。
「そりやかうすれば熱くないんだ」
と客は下の膨れた處を持つてついとほやを拔いた。火はゆら/\と搖れながら油煙を立てる。天井の丸い光は同時に消えて無くなる。心の燃え粕の炭のやうになつて口金へひつゝいてるのを客は炬燵から火箸を出してごり/\と擦つてほやを刺す。ランプの光は一際明るくなつて天井には再び丸い光が映つた。
噺は連續する。
『開戰は志願が濟んで幾干も經たぬうちであつた。召集されて行つたのは横須賀の衞戍病院であつた。横須賀には二ヶ月程居た。横須賀の北の山の手で坂を上つて行つた處に海軍の兵曹長の留守宅があつた。そこに暫く厄介に成つた。其頃はもう三等軍醫になつて居た。そこらは別莊か料理屋位がある處であつたが、兵曹長が或小金持の隱居と懇意をして居たので此の住ひは其隱居の別莊であつたのを借りたのであつたさうだ。兵曹長は佐世保勤務であつた。兵曹長といふと陸軍の少尉位の格だから餘りいゝ生活ではなかつた。家は八疊の間を僕が占めて次の間が六疊それから茶の間といふ小さな作りであつたが金持の新築だけに小ざつぱりとして心持のいゝ建築であつた。家族は細君と娘きりである。細君は四十一二にも成つたらうか娘は十九とかいつた。二人では寂しいといふので僕を置いたのであつた。二人共非常に親切であつた。僕も遠慮なしにして居ると細君は宅の者のやうな心持がする、どうぞ何でも柳子にやらしてくれといふのであつた。柳子といふのは娘である。當時は戰爭で人氣が湧き立つて居る上に、自分等が軍人の家族ではあるしそれに兎に角僕が軍醫であつたりしたものだから、自然普通の人に侍するとは感情が違つて居たかも知れぬ。其頃は蚊帳を吊つて居た。茶の間には細君次の間には娘が寢た。葭戸を立てる程の贅澤はなかつた。障子の儘で暑い時だからそれを引いた事はない。僕は出勤が早かつたからよく眼が覺めた。娘が起きて雨戸を二三枚開けてそれから蚊帳の釣手を外す。僕の枕元が戸袋であつたから假令まだ眠つて居た時でもがら/\と戸があくと屹度眼があいた。娘は寢間著で蚊帳を疊んで蒲團をあげて衣物を著換へる。それからそつちこつちの戸をあける。隔ての障子があいてるので毎朝それがはつきり見られるのであつた。かうして居るうちに僕は其娘を惡く思はぬやうになつてしまつた。然し以前放蕩をして居た時でも只の女に關係することは罪惡であると深く觀念して居た程であつたから實際此の娘に對しても非常に自ら抑制して顏にも出さなかつた。時々は以前の癖の藝者を買つたりして鬱を晴らすこともあつた。一時二時と夜更しをして歸ることがあつたがそれを娘は何時でも起きて待つて居て世話をしてくれる。尤も兵曹長も酒を飮んでは夜深に歸ることが度々でそれを娘がいつも介抱してやつたのだと細君はいつた。或晩僕は酒をしたゝかやつて料理屋から車に乘せられてもどつた。坂の下で車をおりて一人で庭の木戸を明けて戸袋の所へ行つて雨戸を開けようとした。爪先でがり/\と音をさせた。
「國府田さんでございますか」
と娘の聲がする。
「どうも遲くなりました」
と僕がいふとぱた/\と急いで足音をさせてかちりと掛金を外してがらりと雨戸を開けてくれた。月は短い廂から少し縁側へかけて白い光を投げた。此の夜は非常によく月が冴えて居た。腰をおろして靴を脱いで居ると
「おゝまあ涼しさうな」
といふ聲が頭の上でした。仰いで見ると娘は雨戸の縁へ手を掛けて抄ひあげるやうな體つきをして月を見て居た。僕は腰を懸けて居たから月が廂から二尺ばかり離れて居たが娘は立つて居るので月は廂へ隱れて見えなかつたのであらう。僕は上らうとして身體をひねると娘の足へ觸れた。娘は氣がついたやうに
「あれ私がしまひませう」
と靴をとつて戸袋の側の下駄箱へ入れた。ふと見ると障子の所に何か草花を

「あゝ左樣でございました、一寸ランプを拜借致します」
と障子の内側の机に載せてあつた僕のランプを點けて立つた儘引つ込ませてあつた心を出してそこへ差しつけた。射干の花であつた。此は大好きの花であるといふと
「あの先刻用事があつて町へ參りましたらこんな花がありましたので買つて參つたのでございます。さうしますと母が其では國府田さんに


といつてランプを机へもどして蚊帳の釣手を一隅外してその射干の花を掛物の側へ置いた。僕は射干の花を見ながら正服をとる。娘は側に居て一々それを折釘へ掛ける。シャツをとると
「少し汗に成りましたから明日洗濯致しませう」
と丸めて障子の外へ出した。さうして
「一寸お待ち下さいまし。只今お冷を持つて……」
言ひ捨てゝ急いで臺所に行つて金盥へ水を一杯汲んで來た。
「どうぞお拭きなすつて」
手拭が浸してある。其時机の上のランプは障子へくつゝけて閾の上へおろしてあつた。僕は雨戸の間から外の月夜を見つゝ手拭で汗を拭く。汗の身體を拭き畢つたら急に心持がせい/\とした。金盥の水を庭へ捨てようとすると娘は
「それは私が」
といつて下駄箱から下駄を出して庭へおりた。低い四つ目垣には白い草莢竹桃の花の一簇がさいて居る。娘は金盥の水を手の先で草莢竹桃の根へ掛けた。更に葉から花へ掛ける。水の掛つた葉はきら/\と月の光を宿す。垣根の先には横須賀の市街が只一目で其先には海が一杯に月光を反射して銀の板の如く見える。走水から掛けて盆石の如き猿島が攫めさうである。娘は白地の浴衣に一杯に月光を浴びて金盥を手に提げた儘
「おゝいゝ月だこと」
と獨言をいひ乍らきら/\と光る白い花簇の側に佇んだ。手に提げた金盥もきら/\と光を放つて居る。僕は恍惚として此の冴えた外の月夜を見た。さうして自分でランプを机の上へもどして蚊帳の一隈を釣つてもぐり込んだ。娘は再び雜巾で縁側を拭いて雨戸をそつと立てゝかちんと掛金をかける。蚊帳へはひると有繋に暑苦しいので
「うゝん」
と唸るやうな聲を出してごろ/\して居ると娘は又臺所へ行つて何かこと/\音を立てゝ居る。
「柳や國府田さんはお歸りなすつたのかい」
此時細君の聲がした。
「大層召して入らつしやるやうでございますからさつきの氷がまだ解けますまいと思つて……」
娘の聲が微かに聞かれた。さうしたら氷袋へ氷を入れて折つた手拭と一つに盆へ乘せて持つて來て僕の枕元からそつと蚊帳へ入れてくれた。かういふことをして貰ふことは心の底から僕は嬉しかつたが然し一方に甚だ氣の毒に感じたから
「どうぞ休んでくれませんか」
といつた。娘は
「消しませうか」
と机の上のランプの心を引つこませて立つた。次の間は障子が開けた儘であるから娘の蚊帳がはつきり見える。さつきまで蚊帳へはひつて居たと見えて蒲團はまくつて後にあつて二分心のランプが其の蚊帳の中にあつて其側に雜誌のやうなものが開けてある。こちらのランプが消えたので次の間は餘計に明かになつた。娘は向の裾をぱさ/\とあふつてついと蚊帳へはひる。まだ帶をしめた儘である。蒲團をのべて蚊帳の外へ出る。蚊帳の向はランプを手前に置いてあるから只青く見えて居る。さら/\と帶を解く音のみが聞える。軈て白い手を裾から差し込んでランプを外へ出した。それと共にぼんやりと娘の屈んだ姿が表はれた。ランプが消えて家のうちが全く闇くなつた時ぱさ/\と復た蚊帳の裾をあふる音がしてさうして箱枕がぎり/\と微かに鳴つた。其夜は酷く寢苦しくて神經が興奮して居た。娘もどうしたのか時々寢返りするのを聞いた。僕は此夜からひどく煩惱した。それでも其時は出征したいのが山々で衞戍病院長と喧嘩した位であつたし其家に居たのも其後久しくなかつたから到頭踏み外す心配もなくて濟んだ。全く機會を與へられずにしまつたのが幸ひであつた。それから幾らも經たぬうちに僕は出征したのである。横須賀の停車場へ見送りに出てくれた人の中には聯隊長もあつたが日記に堀江令孃とあるのが此の娘のことである。それからはもう四年にも成るが其月夜のことは思ひ出すとすぐに眼の前に浮ぶ。或は生涯僕の記憶を離るゝことがないだらうと思ふのである。懷かしいのは其月夜である。
出征の途中内地は只がや/″\と[#「がや/″\と」はママ]過ぎた。玄海灘へかゝる。天氣晴朗で波は靜かであつた。沖に泛んで居る漁師が運送船の通過するのを見て板子の下から魚を出しては海へはらり/\と投げて大手を擴げる。甲板では此を見て一齊に喝采する。水は空と相接して二つながら青い。兵卒の中には船が構はず進行して行くとあの空と水との間に挾まつてしまはないだらうかと懸念して居る奴があつた。七日目で青泥窪へついた。負傷兵の後送されて來るのに遭ふ。其中に一人知つてる奴があつた。穢い服の胴一杯に血が凝結して居る。數分間彼の噺を聞いた。或晩夜襲の命が下つた。砲臺からは機關砲を熾に浴せかける。土地へぴつたり伏しても自然の傾斜は顏が斜に上を向いて居る。其うち左の足がどさりと地べたへ叩きつけられたやうに感じた。そつと身體を捩つて手を觸れて見るとぬる/\とする。覺えずやられたといつた。尤も傷はどう成つて居るのか自分には分らない。繃帶を出して縛らうとすると後に居た戰友が俺がやつてやらうといふので足を投げ出して居ると其奴が急にぐつと酷い重みで自分の痛い足へのし掛つた。何をするのだといつても返辭がない。右の足でつゝついて見ても動かない。怪んで頭へ手を掛けて見るとぬる/\と血が流れ出して居る。驚いて能く探つて見ると腦天をやられて居た。それから酷く恐ろしくなつて疼痛も忘れて漸くのことで左の足を拔いてそれでも銃だけは放さずに偃ひながら下りて來た。ごろ/\して動かないのは味方の死骸である。それからどこを偃ひめぐつたか平らな處で穴があつたから轉げこむやうにして夜の明けるのを待つて居た。機關砲が時々桝から豆を戸板へまけるやうに遠く聞える。生きた思ひはなかつた。夜が明けて見ると砲臺に近い瓜畑で穴は砲彈の爆發した迹であつた。支那人が一人倒れて居る。死骸の懷を探しに來て逸れ彈を食つたのであつたかも知れぬ。瓜の花が血で赤くなつて居たといふ。自分の身體も一杯血に染んで居る。自分の上へ乘り掛つた戰友の血である。自分のは踵へ貫通銃創を負うて居たのであつた、とかういふ噺であつた。後では何でも平氣であつたが其時はそんな噺でも身體が引き締るやうに感じた。旅順へつくと間もなく横須賀から手紙が來た。僕等の衞生隊で内地の手紙を受取つたのは僕が一番早かつた。急に軟風が吹いて來たやうな感じであつた。僕も早速手紙を書いた。大小の事件は力めて報道した。陣中は暇な時は非常に暇なので出來るだけ精細に書いてやつた。それに對して一々義理をいうて來るのが待ち遠であつた。吸付煙草の評判は僕は得意になつて報道した。それはかうである。旅順の滯陣中に近傍の百姓等が病氣を診て貰ひに來た。他の軍醫等は五月蠅がつて碌々取り合はぬので遂僕の處へばかり來るやうになつた。隨つて土民の間に信用を博して其地に唯一の藪醫者とも懇意になつた。朝鮮髯の老人であつた。滑稽なことには其息子が花林糖賣であつた。少女に至るまで僕には心を置かなくなつた。少女は皆辮髮で赤い切を飾つて居る。容易に人には逢ふこともない。後家婆さんが少女と二人で住んで居る家があつた。ペラ/\した唐紙刷のよく支那から持つて來る繪紙の美人があるが額がくるりと丸くなつて居るあんな形の少女であつた。時々は裁縫までしてくれるやうになつた。脈搏を見てやらうと手をとつて見ても遁げぬ。僕はよく其婆さんの家へ行つた。それだけなら何もないのだが或時其婆さんが一口吸ひ付けて煙管を出した。雁首の開いた煙管で煙草は恐ろしく辛いのである。此は誰も知つたものはあるまいと思つて居ると隊中の評判になつてしまつた。馬丁が見て居て吹聽したのであつたのかも知れぬ。兎に角かういふ事件はもうすぐに手紙になつて横須賀へ行つた。こちらから餘計やれば先からも餘計よこす。此が陣中唯一の慰藉であつた。奉天の戰後には何と思つてか横須賀からは一々僕の手紙を淨寫して一册の本に綴つたのをよこしてくれた。自分でも其手紙の數には驚いた位であつた。月夜といへば旅順でも月夜はあつた。禿山の所々にひよろ/\と立つて居る芒をとつてビール罎に

「水が欲しい」
「繃帶がきつい」
「血が出てしやうがない」
「どうするんだあ」
「擔架ア」
と口々に訴へて叫ぶ。それで繃帶をするには何處でもぐるつと刀で服を切り拔いてそこを石鹸で洗ふのであるからシヤツへは冷たい水が浸みる。冴えた月の下に轉がつて寒さは怺へられぬ道理である。それで唸つたり泣たり慘澹たるものであつた。然し此の月夜も亦既に四年の前に成つてしまつた。講和になつた時は一日も早く横須賀へ行つて吸付烟草の噺もして見たかつたが内地へ凱旋の間際にはそのどさくさ騷ぎに紛れて遂機會を失し其内に病院へ奉職はする、それから開業して一身は束縛される。赤の他人に成つて其後はふつゝり消息もない。僕の一身は心と共に變化した。女の一身も變化したであらう。若し再び相逢ふ機會があつたとしても相互に戰爭の熱に浮されて居た時の心持になれるだらうか。それ處ではない、或は僕のことは思ひ出さないかも知れぬ。然し月夜のことは女の記憶をも去らないであらうと思はれる。一體此所へ開業するといふことが僕の本意ではなかつたのだ。だが七十になる父と喧嘩をすることも出來ず、自分の從來の失策も段々と自分の我を鈍らして到頭僕を下落さしてしまつたのだ。何だか急に藪醫者になつた心持がする。それに隣づかりが皆子供の時分からの知合ひだからどうも自分から大人らしく感ぜられぬ。先生といはれるのもいふのも調和が惡いといつたやうなものである。かういふことがある。此のすぐ裏の竹藪の先は寺の境内で大きな榎の木が一本ある。枝が横に出て居て登りいゝので其の實が黒くなると小學校の生徒がつけこんだ。榎の實は旨いので砂糖の實といつて居た。學校の歸りには屹度荷物を脊負つた儘登つては枝と枝とを渡つて歩いた。砂糖の實には椋鳥が群集して騷ぐのであつた。然し學校の放課後といふと何時も椋鳥は遠い空へ遁げて移るのであつた。僕も毎日行つた。然しこつそりと行つた。落ちたら危險だからといふので母が叱るからであつた。桑の實であると口が染つてなかなか落ちないが砂糖の實では其時捉まらなければ分らぬので腹一杯たべては平氣な顏で家へ歸るのであつた。さうすると何時か母が寺男へ頼んで置いたと見えて寺男が庭でも掃いて居るとすぐに追出される。居なければ登つてたべた。それを或時荷物は背負つて居たから取られなかつたがうつかり下駄を持つて行かれた。非常に驚いて謝罪つたが聽かない。僕は到頭泣き出してしまつた。さうしたら寺男は笑ひながら下駄を出して僕の身體を左の手で抱いて僕の足を盥へ入れて洗つてくれた。此の男が今でも白髮になつて生きて居る。此間指を腫らして診てくれといつて來た。さうして砂糖の實の噺をして何時の間にこんな先生さんに成つたかといつて涙を落した。かうしたことで郷里には懷かしいこともあるが又幅の利かぬことも多いのである……若いうちは要するに駄目だ』
かういつて主人は息をつく。
『病院へ奉職したのは二月である。宇都宮は日光颪が吹きつゝあつたけれど滿洲の冬を凌いで來た爲めか寒いとは思はなかつた。僕は外科の主任を托せられた。其時僕と相前後して看護婦長が來た。此は博愛丸に乘つて出征した女で年輩も二十五六の體格もがつしりした中々私立病院などへ燻らせるのは惜しい位な女であつたが、以前病院に居たこともあるし其郷里が近いといふので院長の懇請を容れたのだといつた。看護婦長の連れて來たのだといつて一ヶ月許りして僕の外科室附に山田といふ看護婦が來た。其前にも外科室附が一人あつたが僕が奉職して間もなく、赤十字社の病院へ行く積りで試驗を受けたが落第したとかでそれで外聞が惡いとかいつて病院を出てしまつた。然し此の女は感服しない女であつた。後から來たのは性質が柔順でそれに十日でも二十日でも後れて來るとそこに多少の遠慮もあるからして勤め方が非常にいゝ。患者でも譽めないものはない。僕が夜外出して遲くなると火鉢へ火を起し灰を掛けて置く。それで患者からの遣物でもあると屹度僕の處へ持つて來る。其位だから外科室内に必要なものはちつとも滯りなく整理して置く。僕はいゝ看護婦が來てくれたものだと思つた。性質許りでなく其容貌が丸ぼちやの色白な愛嬌のある女であつた。僕は仕事が總て愉快であつた。戰地での經驗を應用して驚かしてくれようといふ樣な功名心もあつたが女を相手にして居るのは其頃はまだ愉快であつたのだ。戰地に足掛け二年も居て殺風景な境涯に餘儀なく働いて居たものはたま/\女を見るとどれを見ても好く見えた。丁度凱旋の途中汽車が遼陽の停車場へつくともう日本の女が居た。其時には滿載された兵卒が一時に勇み出して汽車がひつくりかへる樣な勢ひであつた。白い服を着て立ち働く看護婦も其當座僕の目には大抵よく見えたのである。手術の暇に僕が椅子に凭れて居ると看護婦は一々叮嚀に器械をガラス戸へ入れる。汚れ目のない服をきりつと腰で締めて居る。僕はそれを餘念もなく見て居るのであつた。バケツを提げて出て行く時に看護婦は扉をそつとしめながらちらと僕を見て行くことがある。さういふ時には空のバケツを提げて戻つて來て扉を開けてはひつて來る時には何となく一寸赤い顏をするのであつた。さういふ女であつたから僕は心から教へもした。兎に角外科室はいき/\して居るやうに感じた。だが世間といふものは迂濶に行かないもので尤もそれはずつと後になつて知つたのだが其の時分藥局生や其他の奴がどうも僕と其看護婦との間が變だといふ疑惑を抱いて蔭では騷いで居たさうだ。僕等は實際に於て疚しい所のあつたのではなしそんなことゝはちつとも知らずに居つたのである。固よりそれだから遠慮をしてどうといふことはなかつた。それを尚更ら不埒だといふので蔭では頻りに業を


翌年の一月である。用があつて歸省した。用はそこ/\に達して三日程の猶豫があつたから急いで上京した。女の許へは手紙を出して本郷の西片町に居た鹿沼の病院の養子だといふ醫者の處で落合ふやうにといつてやつた。彼は病院に居た時には相應の口から數次縁談があつたのであつた。それを皆拒絶した。彼は何時も餘り打ち解けることはなかつたのであるが拒絶したといふ時には屹度手柄さうに僕へ語るのであつた。それも今のやうに奉公をして居るのも僕の爲めであると思ふと濟まぬ氣がとめどもなく起るので以前から關係のある醫者に打ち明けた相談をして彼を頼まうとしたのであつた。それも一つであるが實際僕は逢ひたかつたのだ。それなら一人で逢へばよかつたものを其氣は付かずに只一身の世話をすることばかり腐心して居た僕は餘りに正直一圖であつた。極めてやつた時刻には僕は西片町へ尋ねて行つた。其醫者とは初對面であつたのだ。それを臆面もなく行つたのは僕の頭も變に成つて居たのである。格子戸を開けて案内を求めると女の下駄が一足爪先を揃へて脱いである。玄關の折釘には吾妻コートとショールとが懸つて居る。帽子と外套とをとつて此も折釘に掛けながらショールを握つて見た。女は疾から待つて居たのである。僕が座敷へ通つた時に彼はきちんと坐つて居た居ずまひを更に改めた。看護婦の白い服を脱げばいつでも唐棧の衣物であつた彼が纔の間にすつかり身なりの改まつたのには驚かずには居られなかつた。さうして坐に在る間絶えず女へ目を注いだ。僕は主人へ相談を仕掛けた。歸する處は氣の毒な彼の一身をどうかしてやつてくれといふに過ぎないのである。其時主人は彼との關係を具に語つた。主人も漸く三十位な男であつた。穩かな性質らしかつた。然し餘り氣乘りはしない容子であつたが寧ろ此は當然のことゝいはなければならぬ。主人と山田との關係は密接であつたのだ。それだから僕との關係に就いても態々手紙の往復があつたのである。若し頼むといふことになれば先方から僕に向つてすべきことであつて垢の他人から自分の深い縁故のある人間の事を殊更に依頼されるといふそんな矛盾したことがどこにあるものか。相談は不得要領に畢つた。主人は僕等の關係に疑ひを抱いて居たのであらう。始終腑に落ちぬといふ風であつた。是も咎めることは出來ない。西片町を出たのは夜の十時過ぎであつた。女はもう芝へ歸るには餘り遲くなつた。僕は主人が必ず彼を泊れといふのであらうと思つた。それを何とも云はぬ。もう深い關係のある仲と思つたのだから男と一所に出る女を留めるといふことは實際出來なかつたのであらう。女も不精無性にコートを着てショールを掛ける。僕も跋が惡く格子戸を開ける。女はつゞいて格子戸を立てる。主人はランプを持つた儘默つて玄關に立つて居た。外は寒い晩であつた。ぽつり/\と森川町の通りまで出た。急に正氣づいた樣に街頭のともし灯が輝いて見えた。後を見ると女はしよんぼりとして兩袖を胸の所に重ねてうつ向きながら跟いて來る。何處か宿屋へ泊らなければならぬと思つたが店の明りが眩いやうで何となく氣が咎めるやうでどの店へもはひることが出來なくて唯うか/\と歩いて居た。ぞろ/\と人通りの繁きなかを電車がぐわう/\と過ぎて行く。電車に乘る氣もつかず當もなく歩いて行つた。それから戻つて切通しの坂へかゝつた。坂が闇く成つた時後を見かへると二間許り後から小刻に刻みながら足を運んで女は跟いて來る。態と池の端へ出た。夜の寒さは闇い空から急に押へつけて來たやうに感じた。到頭上野まで來てしまつた。停車場の横丁で思ひ切つて宿屋の閾を跨えた。表のガラス戸を開いて僕がはひると女は躊躇して居る。僕はこつちへはひらないかといつた。西片町を出てそれまで一言もいはなかつたのである。番頭の挨拶は元氣であつた。案内されたのは少し離れのやうになつた部屋であつた。二間あつたやうであつたが隣りの間には客はなかつた。何となく安心が出來るやうな氣がした。番頭に少しばかりの心付をすると番頭は二人を見てへえ/\と頻りにお世辭をいふ。僕はすぐに風呂に暖まつて來ると電燈の下に堅炭がかん/\とほこつて居る。茶が茶碗に汲んである。褞袍に著換へて火鉢の前に坐つて少し冷めた茶を啜る。女は火鉢の側へも寄らず座蒲團の上へも乘らず堅くなつてうつ向いた儘である。風呂はどうしたと聞くと延べませうといふ。病院に居た時は打ち解けないといつても此程ではなかつた。僕も手持不沙汰に火鉢へ手を翳す。女中を呼んで酒を命じた。女中は出はひり毎に堅くなつて坐つて居る女の姿を不審さうに見て居た。さうして草履の音が態とらしくばた/\と聞えた。酒を二三杯引つ掛けて僕は火鉢の側へ寄つたらどうかといつた。漸く彼はすりよつた。それを敷いたらよからうといつたら漸く座蒲團を半分ばかり膝の下へ入れた。さうしてぢいつとして居たが
「あの先生は田端に御親戚がございますさうですが」
と漸くのことでいつた。兄がそこにも一人あるのだといふと
「昨晩は田端へお泊りなのでございませうね」
重ねてきく
「さうだ」
と僕は何氣なしにいつた。
「お兄さんのお宅へお歸りになりますと宜しいのでございますのに私のために無駄な費用をお遣ひ遊ばして誠にどうも相濟みません」
と彼は妙に改まつたことをいひ出した。尤も彼は病院に居た時から非常に義理堅い女で姉が何かやると屹度返禮をした。餘り氣の毒だから滅多に物もやれぬと姉はいつて居た位なのであつた。
彼はかういつて
「あの私の分は私に用意がございますから」
と更にいふ。僕は
「馬鹿な、そんな心配をすることはないさ」
といつて笑ひながらぐつと杯を引つ掛けた。それからといふものは女は少し打ち解けて徳利を取り上げて漸く酒をさした。二本の徳利が空になつたけれど僕の心は混亂して居たので微醺をも帶びない位であつた。大分時間が經つたらしい。内も外もひつそりとして居る。唯時々停車場の機關車がぴゆうと鳴つてどろ/\と遠く響くのみである。呼鈴を押すと番頭が來る。
「へえ、お床は御一所に致しませうか」
と番頭は閾へ手をつく
「いゝや」
と僕は急に慌てゝ右の手を延べて疊を指しながらいつた。
「へえ/\」
と番頭は愛嬌を作つてやがて夜具を運んで來る。
「あのうランプを持參しましてございますから、エヽ御用の節は何時でもどうぞベルをお押し遊ばして……エヽ便所はすぐこちらでございますから……エヽ明日は汽車にお召しになりませんでエヽ左樣でございますか……それではお冷を只今持參させますからエヽそれではごゆつくり……」
といつて番頭は去つた。女中がやがて盆へ土瓶とコップとを持つて來て枕元へおいて默つて障子をしめ乍ら女の姿をちらりと見て行つた。便所へ立つてもどると電燈が消されてランプが點けられてあつた。さうしてランプは余の枕元で室の隅の方にくつゝけてあつた。薄闇い方で女は僕の洋服を疊んで居るのであつた。僕は床の上に胡坐をかいて見てると女はランプと反對の隅へ行つて羽織を脱いでそれから着物を脱いで襦袢の片袖を脱いで床の上の寢間着に着換へた。さうして羽織を疊んで上衣を疊んで襦袢を疊んだ。襦袢の袖は非常に派手な美しいものゝやうに見えた。僕は襦袢の袖を譽めると
「あの此の間お内儀さんのお供をして參りました時此切がありましたのでまあ綺麗な友禪だと申しますとそんなによければ取つてお行きと申して下すつたのでございます。尺が少し足りませんので袖が短かうございます」
といつて赤い襦袢で一寸顏を掩うた。前にもいつたやうに其内儀さんといふのはヒステリーで氣分のいゝ時はそれや此やと女中をいたはつてお供で出る時には何かと買つてくれる。主人も内儀さんの機嫌がよければ喜んで竊に心付するといふので近頃懷は温かである。それで貰つたり買つたりで漸く此頃では身の廻りも一通りは出來たのだといふのである。それで此の友禪の襦袢は内儀さんの供をする時には何時でも著て出るのだといつた。彼は着物の噺から一層打ち解けた。僕が心中頻りに苦悶して彼の一身に就いて將來の決心を慥めようと思つて有繋にいひ出し兼ねて居るとは知らずに威勢よく蒲團の上に躪りあがつた。それでも僕が默つて居れば其の間彼も默つて居る。噺は暫時途切れた。電燈の光に比してランプの光は薄闇い。もどかしく成つた。
「此後はどうする積りだ」
と僕は突然聞いた。其聲は僕の耳にも穩かならず響いた。彼は暫く默つて頸を垂れて居たが更に其儘うつぶしてしまつた。僕は片隅のランプをとつて二人の近くに置いた。さうして明るく
「まあ、あなた」
と女はいつて顏を赭らめた。彼があなたといつたのは前後に此時のみである。然し僕は堅唾を呑んで女の返辭を待つて居たのである。戲談の沙汰ではない。僕の顏は恐ろしげであつたらう。女は僕の顏を見ると急に色を變じた。復た突つ伏して微動もしない。僕は餘りに寒からうと思つて後の夜著を掛けてやつた。三十分も經つたかと思ふ頃女は起きあがつた。怨を含んださうして遣る瀬のないやうな顏をして只一目僕を見上げてすぐにうつ伏した。
「どうにか私の一身は私が始末をしますから先生はどうか御心配下さらぬやうに……」
と慄ひながら微かにしかもきつぱりと女はいつた。さうして近くに置いたランプの光は女の膝にこぼれた涙にきら/\と映つた。僕はまたいぢらしく成つて心が鈍つた。餘り過激ないひやうをしたことを悔いた。どうにかするといふ其の事が若い女の一身には至難のことである。それを捨てゝ見て居るといふことは僕にはどうしても濟まされぬ。後に知人に此事を噺したらそれは君には女とすつぱり離れてしまふのが心殘りなのであつたらうといつて笑つた。さういふことも當時の心の裡には潜んで居たかも知らぬ。それで其時女に對する僕の方鍼が定まつて居たかといつてもそこには何物もなかつた。決心がどうだと聞かれたとて女の心に何の定まつた考へがあらうか。腹藏なくいへば二人の間には意識されなかつた一種の強い粘著力が潜んで居たのである。要領を得なくてもどうでも二人で相對して居ればそれで其時は氣が濟んだのである。實際病院を出た當時十分彼の一身に落付が出來て再び僕に遇ふことも無いといふやうになつたであらうならば僕は果敢ない心持がしたであらうと思ふ。ランプに照らされて居る女の髮を見おろしながら雜念に惱まされつゝ腕を拱いて居た。ふと横を向くと二人の姿がぼんやり障子に映つて居る。思はずはつとした。立つて障子を開けて見廻はした。夜は益

翌朝僕は急に宇都宮へ立つた。疑懼と不安との念に驅られつゝ病院へもどつた。其夜の行爲に對して僕には心に解決のつけやうがなかつた。同宿の兄は檢事であつたので自然僕も兄の同僚と交際があつた。煩悶した結果遂に兄の同僚の二三の人に竊に判斷を求めた。或者は兄夫婦が愛して居るなら好配偶である公然細君にしたがよいといふ。或者は事情がさうであるならば斷然排斥しなくてはいかんといふ。僕の心には排斥するといふことがどれ程罪惡であるかといふことは明瞭に分つて居る。實際に於て惜しい心は十分である。然し惑つた末には人は心にもない處置をしてしまふことがあるので僕も一方病院の者や知人などに對しての恥辱をも感じたので遂やぶれかぶれで思ひ切つた手紙を出した。郵便凾へ入れてからもその手紙の處置に對して不安の念に驅られて居た。僕の心は寂寞としてとりとめもないむしやくしやしたものであつた。女の手紙がすぐに來た。非常に怨んで居る。それは知れきつたことだ。手蹟を見ると松田が書いた手紙である。松田も疾に病院を出てしまつて居た。僕等の關係から居惡くなつてしまつたのだ。後に松田に聞いて見ると其時女は神田に居た松田を尋ねて行つたさうだ。さうして散々泣いたさうだ。一所に成らうとは初めから思つては居ないのだけれど今になつてさう不人情に捨てられたのでは酷い。今さら心が咎めるから許婚の處へ知らぬ振りをして行く譯にも行かぬ。それではあんまりだといつて泣いた。松田は女に泣かれて他の下宿のものへ身がひけたといつた。松田は女に頼まれて其時怨みを書いたのであつた。僕は衷心から悔悟した。さうしてすぐに自分の不人情を詫びてしまつた。此時ばかりは自分で自分を不人情の極だと思つた。手紙の端へは其うち逢はれることもあらうし其時に何事も腹を割つて噺をしたい。此の間の手紙は自分の眞意ではないといふやうなことを具さに書いてやつた。すぐに二月は來た。山田から又手紙が屆いた。郷里の生家に久々で行く序でがあるからお目に掛かることが出來るだらうといふのであつた。或日病院の方に暇があつたから石橋の停車場から一里半程在の元の看護婦長を訪ねていつた。其家も醫者であつた。看護婦長は氣象の勝れた女であつたから病院内の折合ひが面白からぬことがあつたので病院長が留めるのも聽かずに出てしまつたのであるが僕に一遍はどうか來てくれと再應の手紙であつたから行つたのである。此處へも山田から手紙があつた。それは暫くのことでお目に掛つてそれから宇都宮へ行くといふ文意で明日が丁度其日に當つて居た。僕は思はず時間を過して大急ぎに停車場へ驅けつけた。今一足で汽車に乘り後れる所であつた。漸く車掌に押し込まれた時には暫く胸がせか/\して居た。宇都宮へついて出口の方へ急いで行かうとすると僕は驚いた。丁度僕が通り過さうとした或室から一番後れて出た女がある。山田であつた。石橋へは降りずにこゝまで來てしまつたらしい。狐につままれたやうに思つて物も云はずに出口を出た。それから停車場の待合で少時話をした。まだ先刻まで明日看護婦長の所へ行くものと思つて居たのに同じ列車で此所へ降りようとは餘りに突然であつたといふと彼は電報で知らして置いたのだがといふ。電報は石橋の在へ出た後へついたのである。尤も僕の宿所へ打つたのではなく彼も僕も知合ひの或處へ打つたのであつた。それで電報を受取つた人は散々僕を尋ねたさうである。人の惡い病院の奴は僕の行先を明かさなかつた。それに僕の家へは其人は憚つて來なかつたのだといふ。其時の事は能く記憶して居る。停車場を出た時には寒い空氣が乾き切つた市中を吹き拂つて稍

病院の新築は落成して一ヶ月程たつた。表の鐵の垣根へ垂れた柳が黄色い芽を吹いて世間が急に春らしく成つた。四月の中旬であつた。理想通りの外科室で自分が主任で手術を施すのを僕は其の時大得意であつた。心は其方へ屈託して居た。丁度其時赤十字社の總會があつたので急に出席することに成つた。上野の花よりも何よりも上京して見ると氣掛りな山田に逢たくて堪らなかつた。二月に別れてから兎角身體の具合が惡いといつて其處は幾らか心得があるから仔細に容態を書いてよこしたことがあつた。其後二三度よこしたがどうも益


若い主人は此まで噺を續けて更に
「それは山田の方がずつといゝんだがな、なにもう構はない……だがあれも臨月だ、今夜にも知らせがあるかと思つてるんだ、それは父には祕密だがな……母の看護をさせるならあれなら此上もないのだが、然し女も身持では他人の世話どころではないから、どつちにしても駄目なことだ」
と途切れ/\に獨語した。さうして
「君これは必ず祕密にして居てくれなくちや困るぜ、世間へ知れても體裁が惡いし、そんな噂が立つと縁談などゝいふものは蹶づき易いものだしな、何もそれは自分の失策を隱して、先を欺くといふ譯ではないが病氣の母に心配を掛けたくないからな、母はもう今に嫁に世話に成れるといふやうなことをいつて悦んで居るのだからな」
若い客は此時まで身體を横にして肘を立てゝ頭を掌で支へながら聞いて居たが起き上りながら
「うんそりやさうだ、然し君の所へ來たものは却て仕合だと僕は思ふぜ」
といつた。
「なぜ」
と主人は問ひ返した。
「なぜつて君はそれ程女といふものを果敢ないものと思つて居るのだから他の者よりは同情が多い譯だらうと思ふのだ」
若い客がいふと主人は又憐れな女の上を語る。
「だから僕は六かしい事はいはないし、山田の手紙も此間みんな燒いてしまつた。……だが其後數次手紙は來たのだ。大抵松田へ宛てゝ來たのだが、私の事は御心配なく先生はどうか奧さんをお探しなすつて下さいといふので、僕の手紙も欲しいやうな書き振りだが僕は餘りやらないやうに仕て居た。近來はもうよこせなくなつた、兄へ遠慮しなくちやならないからな」
「田端に居るんだな」
客はきいた。主人は
「うんもう田端へ行つて二ヶ月に成るだらう、身輕になればあとは私自身でどうにか身を立てます、さうして浮いた心のないことを先生へお目に掛けますと手紙ではいつて來てあるが僕に配偶が出來たといつたら有繋に泣くんぢやないかと思ふんだ。自分が今結婚すると極つて居ても女にさういはれるのは惡い心持はしない。女だとて將來どうなることか分りやしないが、何だか斯う獨身で居てくれゝばいゝやうな感じがするんだ。人のものにすると思ふと惜しいな」
とかういつて
「然し男が生れても女が生れてもあれに似てればいゝ子だらうと思ふんだ。私は何だかいゝ子が生れさうに思はれますつて女の手紙には書いてあるのよ」
と微笑する。
「だがな隱し子だから當分顏も見ることが出來ないや」
と主人いひ畢つた時
「そりや女はもつと酷いだらう、生涯逢はれないかも知れないぢやないか」
と若い客は言下にいつた。
「病院に居た時分にはな、他人がよくなつて退院するのがあると神經質の奴は無闇に羨んでばかり居るので馬鹿なことだとけなして居たものだが矢つ張り自分が心配で堪らない時は人がみんな平氣な顏をして居るやうでどうも羨ましい心持になるよ……だが君等はまあいゝな」
主人はいつた。
「君まあ苦しめるだけ苦しんで見給へ。さうすれば自分に幾らか慰めることが出來るといふものだらう。それもさ他人のことだからまあいへるやうなものだが………いや然し他人のことゝいふと表面ばかり見るからよく見えるのだ。誰れでも君裏面をさらけ出したら全く清潔なものといふのは無いかも知れないぜ」
客は慰めるやうにかういつた時主人は急に自分の同情者を得たといふやうに
「君にも何かあるかい」
と問うた。
「まあそんなことはどうでもいゝや、だがもう何時だ、一時かいや一時過ぎだぜ」
客は兵兒帶から時計を出してかういつた。向うの酒藏が繁盛であるなら今頃は賑かな釀母より唄が聞かれる筈なのであるが今はそれもない。只しん/\として恐ろしい靜かな夜である。耳もとではランプの心の底の油を吸ひあげる音が微かに聞かれる。ランプの

(明治四十二年一月一日發行、ホトトギス 第十二卷第四號所載)