禅門――洞家には『永平半杓の水』という遺訓がある。それは道元禅師が、使い残しの半杓の水を桶にかえして、水の尊いこと、物を粗末にしてはならないことを戒められたのである。そういう話は現代にもある、建長寺の龍淵和尚(?)は、手水をそのまま捨てて
物に不自由してから初めてその物の尊さを知る、ということは情ないけれど、凡夫としては詮方もない事実である。海上生活をしたことのある人は水を粗末にしないようになる。水のうまさ、ありがたさはなかなか解り難いものである。
へうへうとして水を味ふ
こんな時代は身心共に過ぎてしまった。その時代にはまだ水を観念的に取扱うていたから、そして水を味うよりも自分に溺れていたから。
腹いつぱい水を飲んで来てから寝る
放浪のさびしいあきらめである。それは水のような流転であった。
岩かげまさしく水が湧いてゐる
そこにはまさしく水が湧いいた、その水のうまさありがたさは何物にも代えがたいものであった。私は水の如く湧き、水の如く流れ、水の如く詠いたい。(「三八九」第三集 昭和六年三月三十日発行)