御飯ができ、お汁ができて、そして薬缶を沸くようにしておいて、私は湯屋へ出かける。朝湯は今の私に与えられているゼイタクの一つである、私は悠々として、そして黙々として朝湯を享楽する(朝湯については別に扉の言葉として書く)。過現未一切の私が熱い湯の中に融けてしまう快さ、とだけ書いておく。
湯から帰ると、手製の郵便受函に投げ込まれてある郵便物を掴んで、いそいそと長火鉢の前にあぐらをかく、一つ一つ丹念に読む、読んでは微笑する、そして返事を認める、それを持って角のポストまで行く、途中きっと尿する、そこは花畑だ、紅白紫黄とりどりの美しさである、帰って来て、香ばしい茶をすする、考えるでもなく、考えないでもなく、自分が自分の自分であることを感じる。――この時ほど私は生きていることのよろこびを覚えることはない、そして死なないでよかったとしみじみ思う。
それから、朝食兼昼食がはじまるのであるが、もう余白がなくなった。余白といえば、私の生活は余白的だ、厳密にいえば、それは埋草にも値しないらしい。
(「三八九」第三集)