一
伝へ聞く……
文政初年の事である。将軍家の
栄耀其極に達して、武家の
代は、
将に一転機を
劃せんとした時期だと言ふ。
京都に於て、当時第一の名門であつた、
比野大納言資治卿(仮)の
御館の内に、
一日偶と
人妖に
斉しい奇怪なる事が起つた。
其の年、
霜月十日は、
予て深く
思召し立つ事があつて、大納言卿、
私ならぬ祈願のため、御館の密室に
籠つて、
護摩の法を
修せられた、其の
結願の日であつた。冬の日は分けて短いが、まだ
雪洞の入らない、
日暮方と云ふのに、
滞りなく式が果てた。
多日の
精進潔斎である。世話に云ふ
精進落で、
其辺は人情に変りはない。久しぶりにて御休息のため、お奥に於て、厚き
心構の
夕餉の支度が出来た。
其処で、
御簾中が、奥へ
御入りある資治卿を
迎のため、
南御殿の入口までお
立出に成る。
御前を
間三
間ばかりを
隔つて其の
御先払として、
袿、
紅の
袴で、
裾を長く
曳いて、
静々と
唯一人、
折から菊、
朱葉の
長廊下を渡つて来たのは
藤の
局であつた。
此の局は、聞えた美女で、
年紀が
丁ど三十三、
比野の御簾中と同年であつた。半月ばかり、身にいたはりがあつて、
勤を引いて
引籠つて居たのが、此の日
修法ほどき、満願の
御二方の
心祝の座に列するため、久しぶりで
髪容を整へたのである。
畳廊下に影がさして、
艶麗に、
然も
軟々と、姿は黒髪とともに
撓つて見える。
背後に……たとへば
白菊と
称ふる
御厨子の
裡から、
天女の
抜出でたありさまなのは、
貴に気高い御簾中である。
作者は、
委しく知らないが、
此は事実ださうである。
他に
女の
童の影もない。比野卿の
御館の
裡に、此の時卿を迎ふるのは、
唯此の
方たちのみであつた。
また、修法の
間から、
脇廊下を
此方へ参らるゝ資治卿の方は、
佩刀を持つ
扈従もなしに、
唯一人なのである。
御家風か質素か知らない。此の頃の
恁うした場合の、江戸の将軍家――までもない、
諸侯の大奥と
表の
容体に比較して見るが
可い。
で、藤の
局の手で、隔てのお
襖をスツと
開ける。……
其処で、卿と
御簾中が、
一所にお奥へと云ふ寸法であつた。
傍とも云ふまい。片あかりして、
冷く薄暗い、其の
襖際から、氷のやうな
抜刀を提げて、ぬつと出た、身の
丈抜群な男がある。
唯、
間二三
尺隔てたばかりで、ハタと藤の局と
面を合せた。
局が、其の時、はつと
袖屏風して、
間を
遮ると
斉しく、御簾中の姿は、すつと
背後向に成つた――
丈なす黒髪が、
緋の
裳に
揺いだが、
幽に、雪よりも白き
御横顔の気高さが、
振向かれたと思ふと、月影に
虹の影の薄れ行く
趣に、廊下を
衝と
引返さる。
「
一まづ。」
と、局が声を掛けて、腰をなよやかに、片手を
膝に垂れた時、
早や其の襖際に
気勢した
資治卿の
跫音の遠ざかるのが、
静に聞えて、もとの
脇廊下の
其方に、
厳な
衣冠束帯の姿が――其の頃の
御館の
状も
偲ばれる――
襖の
羽目から、
黄菊の
薫ともろともに
漏れ透いた。
藤の局は騒がなかつた。
「
誰ぢや、何ものぢや。」
「うゝ。」
と
呻くやうに言つて、ぶる/\と、ひきつるが如く首を
掉る。
渠は、四十ばかりの
武士で、黒の
紋着、
袴、
足袋跣で居た。
鬢乱れ、
髻はじけ、
薄痘痕の
顔色が
真蒼で、
両眼が血走つて赤い。酒気は帯びない。
宛如、狂人、乱心のものと覚えたが、いまの気高い姿にも、
慌てゝあとへ
退かうとしないで、ひよろりとしながら前へ出る時、
垂々と血の
滴るばかり
抜刀の
冴が、
脈を打つてぎらりとして、腕はだらりと垂れつつも、
切尖が、じり/\と上へ
反つた。
局は、
猶予はず、肩をすれ違ふばかり、ひた/\と
寄添つて、
「
其方……
此方へ。」
ひそみもやらぬ
黛を、きよろりと
視ながら、乱髪抜刀の
武士も向きかはつた。
其をば少しづゝ、出口へ誘ふやうに、局は
静々と
紅の袴を廊下に引く。
勿論、
兇器は離さない。
上の
空の足が
躍つて、ともすれば局の袴に
躓かうとする
状は、
燃立つ
躑躅の花の
裡に、
鼬が狂ふやうである。
「関東の武家のやうに見受けますが、
何うなさつた。――
此処は、まことに
恐多い
御場所。……いはれなう、
其方たちの来る
処ではないほどに、よう気を
鎮めて、心を落着けて、
可いかえ。
咎も
被せまい、罪にもせまい。
妾が心で
見免さうから、
可いかえ、
柔順しく御殿を
出や。あれを左へ
突当つて、ずツと右へ廻つてお庭に
出や。お裏門の錠はまだ下りては
居ぬ。
可いかえ。」
「うゝ。」
「分つたな。」
「うーむ。」
雖然、
局が
立停ると、刀とともに奥の方へ
突返らうとしたから、
其処で、
袿の
袖を掛けて、
曲ものの手を取つた。それが刀を持たぬ方の手なのである。
荒き風に当るまい、
手弱女の
上
の此の
振舞は讃歎に値する。
さて手を取つて、其のまゝなやし/\、お表出入口の方へ、廊下の正面を右に取つて、
一曲り曲つて出ると、
杉戸が
開いて居て、
畳の真中に
火桶がある。
其処には、踏んで下りる程の段はないが、一段低く成つて居た。ために下りるのに、逆上した曲ものの手を取つた局は、
渠を抱くばかりにしたのである。抱くばかりにしたのだが、
余所目には
手負へる
鷲に、
丹頂の
鶴が
掻掴まれたとも何ともたとふべき
風情ではなかつた。
折悪く一人の
宿直士、
番士の影も見えぬ。警護の
有余つた
御館ではない、分けて
黄昏の、それぞれに
立違つたものと見える。
欄間から、
薄もみぢを
照す日影が
映して、
大な
番火桶には、火も消えかゝつて、灰ばかり
霜を結んで
侘しかつた。
局が、自分
先づ座に
直つて、
「とにかく、落着いて下に
居や。」
曲ものは、
仁王立に成つて、じろ/\と
瞰下した。しかし
足許はふら/\して居る。
「寒いな、さ、手をかざしや。」
と、美しく
艶なお
局が、白く
嫋かな手で、
炭びつを取つて引寄せた。
「うゝ、うゝ。」
とばかりだが、それでも、どつかと
其処に坐つた。
「
其方は
煙草を持たぬかえ。」
すると、此の乱心ものは、
慌しさうに、懐中を
開け、
袂を探した。それでも
鞘へは納めないで、
大刀を、ズバツと
畳に
突刺したのである。
兇器が手を離るゝのを
視て、局は
渠が
煙草入を探す
隙に、そと身を起して、
飜然と一段、天井の雲に
紛るゝ如く、廊下に
袴の
裙が
捌けたと思ふと、
武士は
武しや
振りつくやうに
追縋つた。
「ほ、ほ、ほ。」
と、局は、もの優しく
微笑んで、また先の如く手を取つて、今度は
横斜違に、ほの暗い
板敷を
少時渡ると、
※[#「火+發」、193-13]ともみぢの緋の映る、
脇廊下の端へ出た。
言ふまでもなく、今は
疾くに、資治卿は影も見えない。
もみぢが、ちら/\とこぼれて、チチチチと小鳥が鳴く。
「
千鳥、千鳥。……」
と

たく
口誦みながら、
半ば渡ると、
白木の
階のある
処。
「千鳥、千鳥、あれ/\……」
と
且つ
指し、且つ
恍惚と聞きすます
体にして、
「千鳥や、千鳥や。」
と、やゝ声を高うした。
向う
前栽の
小縁の端へ、千鳥と云ふ、其の
腰元の、濃い
紫の姿がちらりと見えると、もみぢの中をくる/\と、
鞠が乱れて飛んで
行く。
恰も友呼ぶ千鳥の如く、お庭へ、ぱら/\と人影が黒く散つた。
其時、お
局が、階下へ導いて
下り
状に、両手で
緊と、
曲ものの
刀持つ方の手を
圧へたのである。
「うゝ、うゝむ。」
「あゝ、
御番の衆、見苦しい、お
目触りに、成ります。……
括るなら、其の刀を。――何事も
情が
卿様の
思召。……乱心ものゆゑ
穏便に、許して、
見免して
遣つてたも。」
牛蒡たばねに、
引括つた両刀を背中に
背負はせた、御番の衆は立ちかゝつて、左右から、
曲者の手を引張つて遠ざかつた。
吻と
呼吸して、
面の美しさも
凄いまで
蒼白く成りつつ、
階に、
紅の
袴をついた、お
局の手を、
振袖で抱いて、お腰元の千鳥は、震へながら泣いて居る。いまの
危さを思ふにつけ、安心の涙である。
下々の口から
漏れて、
忽ち
京中洛中は
是沙汰だが――乱心ものは行方が知れない。
二
「やあ、
小法師。……」
こゝで読者に、真夜中の箱根の山を想像して頂きたい。同時に、もみぢと、
霧と、
霜と、あの
蘆の
湖と、大空の星とを思ひ浮べて頂きたい。
繰返して言ふが、
文政初年
霜月十日の深夜なる、箱根の奥の蘆の湖の
渚である。
霧は濃くかゝつたが、関所は
然まで遠くない。
峠も
三島寄の渚に、
憚らず、ばちや/\と
水音を立てるものがある。さみしさも静けさも、霜に星のきらめくのが、かち/\と鳴りさうなのであるから、不断の滝よりは、此の音が高く響く。
鷺、
獺、
猿の
類が、
魚を
漁るなどとは言ふまい。……時と言ひ、場所と言ひ、
怪しからず
凄じいことは、さながら
狼が出て竜宮の美女たちを
追廻すやうである。
が、耳も
牙もない、
毛坊主の
円頂を、水へ
逆に
真俯向けに成つて、
麻の
法衣のもろ
膚脱いだ両手両脇へ、ざぶ/\と水を掛ける。――
恁る
霜夜に、
掻乱す水は、氷の上を
稲妻が走るかと疑はれる。
あはれ、殊勝な法師や、
捨身の
水行を
修すると思へば、
蘆の
折伏す
枯草の中に
籠を
一個差置いた。が、
鯉を
遁した
畚でもなく、草を
刈る
代でもない。
屑屋が
荷ふ
大形な
鉄砲笊に、
剰へ竹のひろひ
箸をスクと立てたまゝなのであつた。
「やあ、
小法師、小法師。」
もの幻の霧の中に、あけの明星の
光明が、
嶮山の
髄に
浸透つて、横に
一幅水が光り、縦に
一筋、
紫に
凝りつつ
真紅に燃ゆる、もみぢに添ひたる、
三抱余り見上げるやうな杉の
大木の、
梢近い葉の中から、
梟の叫ぶやうな異様なる声が響くと、
「
羽黒の小法師ではないか。――小法師。」
と言ふ/\、
枝葉にざわ/\と風を立てて、
然も、音もなく蘆の中に
下立つたのは、霧よりも濃い
大山伏の形相である。
金剛杖を
丁と
脇挟んだ、片手に、帯の
結目をみしと取つて、
黒紋着、
袴の
武士を
俯向けに
引提げた。
武士は、
紐で
引からげて胸へ結んで、大小を背中に
背負はされて居る。卑俗な
譬だけれど、
小児が何とかすると町内を三
遍廻らせられると言つた形で、此が大納言の
御館を騒がした狂人であるのは言ふまでもなからう。
「おう、」
と小法師の
擡げた顔の、鼻は
鉤形に
尖つて、色は
鳶に
斉しい。
青黒く、
滑々とした
背膚の
濡色に、星の影のチラ/\と
映す
状は、
大鯰が
藻の花を
刺青したやうである。
「これは、
秋葉山の
御行者。」
と言ひながら、水しぶきを立てて、
身体を犬ぶるひに振つた。
「
御身は京都の返りだな。」
「
然れば、
虚空を通り
掛りぢや。――
御坊によう似たものが、不思議な
振舞をするに
依つて、
大杉に足を
踏留めて、
葉越に試みに声を掛けたが、疑ひもない御坊と
視て、
拙道、
胆を
冷したぞ。はて、時ならぬ、何のための
水悪戯ぢや。
悪戯は仔細ないが、
羽ぶしの
怪我で、
湖に
墜ちて、
溺れたのではないかと思うた。」
「はゝ。」
と事もなげに笑つて、
「いや、
些と身に
汚れがあつて、
不精に、猫の
面洗ひと
遣つた。チヨイ/\とな。はゝゝゝ
明朝は天気だ。まあ休め。」
と
法衣の
袖を通して言ふ。……
吐く
呼吸の、ふか/\と灰色なのが、人間のやうには消えないで、
両個とも、其のまゝからまつて、ぱつと飛んで、湖の
面に、名の知れぬ鳥が乱れ立つ。
羽黒の
小法師、秋葉の
行者、二個は
疑もなく、魔界の一党、
狗賓の類属。東海、奥州、ともに
名代の
天狗であつた。
三
「
成程、成程、……
御坊の方は
武士であつた。」
行者が、どたりと手から放すと、草にのめつた狂人を見て、――小法師が言つたのである。
「
然れば、此ぢや。……浜松の本陣から
引攫うて持つて参つて、約束通り、京極、比野大納言殿の
御館へ、
然も、念入りに、十二
間のお廊下へドタリと
遣つた。」
「おゝ
御館では、藤の
局が、
我折れ、かよわい、
女性の
御身。
剰へ
唯一人にて、すつきりとしたすゞしき
取計ひを遊ばしたな。」
「ほゝう。」
と云つた
山伏は、真赤な鼻を
撮むやうに、つるりと
撫でて、
「最早知つたか。」
「
洛中の
是沙汰。関東一円、奥州まで、愚僧が
一山へも
立処に響いた。いづれも、
京方の
御為に
大慶に存ぜられる。此とても、お行者のお手柄だ、はて
敏捷い。」
「やあ、
如何な。すばやいは御坊ぢやが。」
「さて、其が
過失。……愚僧、
早合点の先ばしりで、思ひ
懸けない
隙入をした。
御身と同然に、愚僧
等御司配の
命令を
蒙り、京都と同じ日、
先づ/\同じ刻限に、江戸城へも事を試みる約束であつたれば、
千住の
大橋、上野の森を
一のしに、
濠端の松まで飛んで出た。かしこの威徳
衰へたりと
雖も、さすがは
征夷大将軍の
居城だ、
何処の門も、番衆、見張、厳重にして
隙間がない。……ぐるり/\と
窺ふうちに、桜田門の番所
傍の石垣から、
大な
蛇が
面を出して居るのを
偶と見つけた。
霞ヶ
関には返り
咲の桜が一面、陽気はづれの暖かさに、
冬籠りの長隠居、
炬燵から
這出したものと見える。
早や
往来は
人立だ。
処へ、
遙に
虚空から
大鳶が
一羽、矢のやうに
下いて来て、すかりと
大蛇を
引抓んで飛ばうとすると、
這奴も
地所持、
一廉のぬしと見えて、やゝ、其の手は
食はぬ。さか
鱗を立てて、
螺旋に
蜿り、
却つて石垣の穴へ引かうとする、
抓んで飛ばうとする。
揉んだ、揉んだ。――いや、
夥しい
人群集だ。――そのうちに、鳶の
羽が、少しづゝ、石垣の
間へ入る――
聊かは引いて抜くが、少しづゝ、段々に、
片翼が隠れたと思ふと、するりと
呑まれて、片翼だけ、ばさ/\ばさ、……
煽つて煽つて、
大もがきに
藻掻いて
堪へる。――見物は息を
呑んだ。」
「うむ/\。」
と、
山伏も息を呑む。
「
馬鹿鵄よ、くそ
鳶よ、
鳶、
鳶、とりもなほさず
鳶は愚僧だ、はゝゝゝ。」
と高笑ひして、
「何と、お
行者、未熟なれども、羽黒の
小法師、六
尺や一
丈の
蛇に恐れるのでない。こゝが
術だ。人間の気を奪ふため、
故らに
引込まれ/\、やがて
忽ち
其最後の
片翼も、城の石垣につツと消えると、いままで
呼吸を詰めた、
群集が、
阿も
応も
一斉に、わツと鳴つて声を揚げた。此の
人声に驚いて、番所の棒が
揃つて
飛出す、
麻上下が群れ騒ぐ、
大玄関まで騒動の波が響いた。
驚破、そのまぎれに、見物の
群集の中から、
頃合なものを
引攫つて、空からストンと、
怪我をせぬやうに
落いた。が、
丁度西の丸の
太鼓櫓の下の空地だ、
真昼間。」
「
妙。」
と、山伏がハタと手を
搏つて、
「
御坊が落した、試みのものは何ぢや。」
「
屑屋だ。」
「はて、屑屋とな。」
「
紙屑買――
即ち此だ。」
と
件の
大笊を
円袖に
掻寄せ、湖の水の星あかりに口を向けて、
松虫なんぞを
擽るやうに
笊の底を、ぐわさ/\と爪で掻くと、手足を縮めて
掻すくまつた、
垢だらけの
汚い屑屋が、ころりと出た。が、出ると大きく成つて、ふやけたやうに伸びて、ぷるツと肩を振つて、継ぎはぎの
千草の
股引を
割膝で、こくめいに、
枯蘆の
裡にかしこまる。
此の人間の気が、ほとぼりに成つて
通つたと見える。ぐたりと
蛙を
潰したやうに、手足を張つて
平ばつて居た
狂気武士が、びくりとすると、むくと起きた。が、
藍の如き
顔色して、血走つたまゝの目を

りつつ、きよとりとして居る。
四
此の時代の、事実として一般に信ぜられた記録がある。――
薩摩鹿児島に、
小給の武士の子で
年十四に成るのが、父の
使に書面を持つて出た。朝
五つ
時の事で、
侍町の人通りのない坂道を
上る時、
大鷲が一羽、
虚空から
巌の
落下るが如く落して来て、少年を
引掴むと、
忽ち雲を飛んで行く。少年は
夢現ともわきまへぬ。が、とに
角大空を行くのだから、落つれば
一堪りもなく、
粉微塵に成ると覚悟して、風を切る黒き帆のやうな翼の下に成るがまゝに身をすくめた。はじめは
双六の絵を敷いた如く、城が見え、町が見え、ぼうと
霞んで
村里も見えた。やがて
渾沌瞑々として風の鳴るのを聞くと、
果しも知らぬ
渺々たる海の上を
翔けるのである。いまは、運命に任せて目を
瞑ると、
偶と風も身も動かなく成つた。我に返ると、
鷲は
大なる
樹の
梢に翼を休めて居る。が、山の峰の
頂に、さながら
尖塔の立てる如き、雲を
貫いた
巨木である。片手を
密つと動かすと自由に動いた。
時に、
脇指の
柄に手を掛けはしたものの、鷲のために支へられて梢に
留まつた
身体である。――殺しおほせるまでも、
渠を
疵つけて地に落されたら、
立処に五体が砕けよう。が、此のまゝにしても
生命はあるまい。
何う処置しようと
猶予ふうちに、
一打ち
煽つて又飛んだ。飛びつつ、いつか地にやゝ近く、ものの一二
間を
掠めると見た時、此の
沈勇なる少年は、脇指を
引抜きざまにうしろ
突にザクリと突く。弱る
処を、
呼吸もつかせず、
三刀四刀さし通したので、
弱果てて鷲が
仰向けに大地に伏す、伏しつつ仰向けに
飜る腹に乗つて、
柔い
羽根蒲団に包まれたやうに、ふはふはと落ちた。
恰も鷲の腹からうまれたやうに、少年は血を浴びて出たが、四方、山また山ばかり、
山嶽重畳として更に東西を
弁じない。
とぼ/\と
辿るうち、人間の
木樵に
逢つた。木樵は絵の如く
斧を提げて居る。進んで礼して、城下を教へてと言つて、
且つ
道案内を頼むと、城下とは何んぢやと言つた。お城を知らないか、と言ふと、知んねえよ、とけろりとして居る。薄給でも其の頃の官員の
忰だから、向う見ずに腹を立てて、鹿児島だい、と大きく言ふと、鹿児島とは、
何処ぢやと言ふ。おのれ、
日本の
薩摩国鹿児島を知らぬかと呼ばはると、伸び/\とした鼻の下を
漸と縮めたのは、
大な口を
開けて
呆れたので。薩摩は
此処から何千里あるだい、と
反対に尋ねたのである。少年も少し
心着いて、
此処は
何処だらう、と聞いた時、はじめて知つた。木曾の
山中であつたのである。
此処で、二人で、始めて鷲の死体を見た。
麓へ
連下つた木樵が、やがて
庄屋に通じ、陣屋に知らせ、
郡の医師を呼ぶ騒ぎ。精神にも
身体にも、見事異状がない。――鹿児島まで、及ぶべきやうもないから、江戸の薩摩屋敷まで送り届けた。
朝
五つ
時、宙に
釣られて、少年が木曾
山中で鷲の爪を離れたのは同じ日の
夕。七つ時、
間は
五時十時間である。里数は
略四百里であると言ふ。
――鷲でさへ、まして
天狗の
業である。また
武士が刀を抜いて居たわけも、此の辺で大抵想像が着くであらう。――
ものには必ず
対がある、
序に言はう。――
是と前後して
近江の
膳所の城下でも鷲が武士の子を
攫つた――此は馬に乗つて馬場に居たのを
鞍から
引掴んで
上つたのであるが、此の時は湖水の上を
颯と
伸した。刀は抜けて
湖に沈んで、
小刀ばかり帯に残つたが、
下が
陸に成つた時、砂浜の
渚に少年を落して、鷲は目の上の絶壁の
大巌に翼を休めた。しばらくして、どつと
下いて、少年に
飛かゝつて、顔の皮を

りくらはんとする
処を、一生懸命
脇差でめくら
突きにして助かつた。人に
介抱されて、
後に、所を聞くと、此の方は近かつた。近江の湖岸で、里程は二十里。――江戸と箱根は
是より少し遠い。……
それから、人間が空をつられて行く
状に参考に成るのがある。……此は見たものの名が分つて居る。
讃州高松、松平侯の
世子で、
貞五郎と云ふのが、
近習たちと、
浜町矢の倉の
邸の庭で、
凧を揚げて遊んで居た。
些と寒いほどの西風で、凧に向つた遙か品川の海の方から、ひら/\と
紅いものが、ぽつちりと見えて、空中を次第に近づく。
唯、
真逆になった
[#「なった」はママ]女で、髪がふはりと下に流れて、
無慙や真白な足を空に、顔は
裳で包まれた。ヒイと
泣叫ぶ声が悲しげに響いて、あれ/\と見るうちに、遠く
筑波の方へ
霞んで
了つた。近習たちも皆見た。
丁ど
日中で、
然も空は晴れて居た。――
膚も
衣もうつくしく
蓑虫がぶらりと雲から
下つたやうな女ばかりで、
他に何も見えなかつた。が、
天狗が
掴んだものに相違ない、と云ふのである。
けれども、こゝなる
両個の魔は、
武士も
屑屋も
逆に
釣つたのではないらしい。
五
「ふむ、……
其処で肝要な、江戸城の
趣は
如何であつたな。」
「いや以ての
外の騒動だ。
外濠から
竜が
湧いても、天守へ
雷が転がつても、
太鼓櫓の下へ屑屋が
溢れたほどではあるまいと思ふ。又、此の屑屋が
興がつた男で、
鉄砲笊を
担いだまゝ、落ちた
処を
俯向いて、
篦鷺のやうに、竹の
箸で
其処等を
突つきながら、
胡乱々々する。……此を
高櫓から
蟻が
葛籠を
背負つたやうに、小さく
真下に
覗いた、係りの役人の
吃驚さよ。
陽の
面の
蝕んだやうに目が
眩んで、折からであつた、
八つの太鼓を、ドーン、ドーン。」
と
小法師なるに力ある声が、湖水に響く。ドーンと、もの
凄く
谺して、
「ドーン、ドーンと十三打つた。」
「
妙。」と、又
乗出した
山伏が、
「前代未聞。」と
言の尾を沈めて、
半ば歎息して云つた。
「
謀叛人が降つて湧いて、
二の
丸へ
取詰めたやうな騒動だ。将軍の
住居は大奥まで
湧上つた。
長袴は
辷る、
上下は
蹴躓く、
茶坊主は転ぶ、女中は泣く。
追取刀、
槍、
薙刀。そのうち騎馬で
乗出した。何と、
紙屑買一人を、鉄砲づくめ、
槍襖で
捕へたが、見ものであつたよ。――
国持諸侯が
虱と
合戦をするやうだ。」
「
真か、それは?」
「云ふにや及ぶ。」
「あゝ幕府の運命は、それであらかた知れた。――」
「む、大納言殿
御館では、
大刀を抜いた
武士を、
手弱女の手一つにて、黒髪
一筋乱さずに、もみぢの廊下を毛虫の如く
撮出す。」
「征夷大将軍の江戸城に於ては、紙屑買
唯一人を、
老中はじめ合戦の混乱ぢや。」
「京都の
御ため。」
と西に向つて、草を払つて、秋葉の
行者と、羽黒の
小法師、
揃つて、手を
支いて
敬伏した。
「
小虫、
微貝の
臣等……」
「
欣幸、
慶福。」
「
謹んで、万歳を
祝し
奉る。」
六
「さて、……
町奉行が
白洲を立てて驚いた。
召捕つた屑屋を送るには、槍、鉄砲で列をなしたが、奉行
役宅で
突放すと
蟇ほどの働きもない男だ。横から
視ても、縦から視ても、
汚い屑屋に相違あるまい。奉行は
継上下、御用箱、うしろに
太刀持、
用人、
与力、
同心徒、事も厳重に堂々と並んで、威儀を正して、ずらりと
蝋燭に
灯を入れた。
灯を入れて、
更めて、町奉行が、
余の事に、
櫓下を
胡乱ついた時と、同じやうな
状をして見せろ、とな、それも
吟味の手段とあつて、屑屋を立たせて、
笊を
背負はせて、
煮しめたやうな
手拭まで
被らせた。が、
猶の事だ。今更ながら、一同の
呆れた
処を、
廂を
跨いで
倒に
覗いて
狙つた愚僧だ。つむじ風を
哄と吹かせ、
白洲の
砂利をから/\と
掻廻いて、パツと一斉に灯を消した。
逢魔ヶ
時の
暗まぎれに、ひよいと
掴んで、
空へ抜けた。お互に
此処等は手軽い。」
「いや、しかし、御苦労ぢや。
其処で何か、すぐに羽黒へ帰らいで、屑屋を掴んだまゝ、
御坊関所
近く参られたは、其の男に
後難あらせまい遠慮かな。」
「何、何、愚僧が三度息を
吹掛け、あの
身体中まじなうた。
屑買が
明日が日、奉行の鼻毛を抜かうとも、
嚔をするばかりで、
一向に目は附けん。
其処に
聊も懸念はない。が、正直な気のいゝ屑屋だ。
不便や、定めし驚いたらう。……
労力やすめに、京見物をさせて、大仏前の
餅なりと
振舞はうと思うて、足ついでに飛んで来た。が、いや、先刻の、それよ。……城の石垣に於て、
大蛇と
捏合うた、あの
臭気が
脊筋から脇へ
纏うて、飛ぶほどに、
駈けるほどに、段々
堪らぬ。よつて、此の
大盥で、
一寸行水をばちや/\
遣つた。
愚僧は
好事――お行者こそ御苦労な。江戸まで、あの荷物を
送と見えます。――
武士は何とした、
心が
萎えて、手足が
突張り、
殊の
外疲れたやうに見受けるな。」
「おゝ、其の
武士は、
部役のほかに、仔細あつて、
些と
灸を用ゐたのぢや。」
「道理こそ、……此は暑からう。待て/\、お
行者。灸と言へば、
煙草が
一吹し吹したい。
丁ど、あの
岨道に
蛍ほどのものが見える。猟師が出たな。
火縄らしい。借りるぞよ。来い。」
とハタと
掌を一つ打つと、
遙に
隔つた
真暗な
渚から、キリ/\/\と舞ひながら、森も
潜つて、水の
面を舞つて来るのを、
小法師は指の先へ宙で受けた。つはぶきの葉を
喇叭に巻いたは、
即ち
煙管で。
蘆の穂といはず、草と言はず

り取つて、
青磁色の長い爪に、火を
翳して、ぶく/\と
吸つけた。火縄を取つて、うしろ
状の、
肩越に、ポン、と投げると、杉の枝に挟まつて、ふつと消えたと思つたのが、めら/\と赤く
燃上つた。ぱち/\と鳴ると、
双子山颪颯として、
松明ばかりに燃えたのが、見る/\うちに、
轟と響いて、
凡そ
片輪車の大きさに火の
搦んだのが、
梢に
掛つて、ぐる/\ぐる/\と廻る。
此の火に
照された、二個の魔神の
状を見よ。けたゝましい
人声幽に、鉄砲を肩に、猟師が二人のめりつ、
反りつ、
尾花の波に漂うて森の中を
遁げて行く。
山兎が二三
疋、あとを追ふやうに、
躍つて
駈けた。
「小法師、あひかはらず
悪戯ぢや。」
と
兜のやうな
額皺の下に、
恐しい目を光らしながら、
山伏は赤い鼻をひこ/\と笑つたが、
「
拙道、
煙草は
不調法ぢや。
然らば
相伴に
腰兵糧は使はうよ。」
と
胡坐かいた
片脛を、づかりと
投出すと、両手で逆に取つて、上へ
反せ、
膝ぶしからボキリボキリ、ミシリとやる。
「うゝ、うゝ。」
「あつ。」
と、
武士と屑屋は、思はず声を立てたのである。
見向きもしないで、山伏は
挫折つた其の
己が片脛を
鷲掴みに、片手で
踵が
穿いた
板草鞋を

り
棄てると、
横銜へに、ばり/\と
齧る……
鮮血の、唇を
滴々と伝ふを
視て、
武士と屑屋は
一のめりに
突伏した。
不思議な事には、へし折つた山伏の片脛のあとには、又おなじやうな脛が生えるのであつた。
杉なる火の車は影を
滅した。
寂寞として一層もの
凄い。
「骨も筋もないわ、
肝魂も消えて居る。
不便や、
武士……
詫をして取らさうか。」
と小法師が、やゝもの
静に、
「お行者よ。
灸とは何かな。」
七
此の
間に――
「
塩辛い。」
と言ふ
山伏の声がして、がぶ/\。
「塩辛い。」
と言つて、湖水の水を、がぶ/\と飲んだ――
「お
行者。」
「其の
武士は、
小堀伝十郎と申す――
陪臣なれど、それとても
千石を
食むのぢや。主人の
殿は
松平大島守と言ふ……」
「
西国方の
諸侯だな。」
「されば
御譜代。将軍家に、
流も
源も深い
若年寄ぢや。……何と
御坊。……今度、其の若年寄に、
便宜あつて、京都比野大納言殿より、(江戸隅田川の
都鳥が見たい、一羽首尾ようして送られよ。)と云ふお頼みがあつたと思へ。――御坊の羽黒、
拙道の秋葉に於いても、
旦那たちがこの
度の
一儀を思ひ立たれて、拙道
等使に立つたも此のためぢや。申さずとも、御坊は承知と存ずるが。」
「はあ、
然うか、いや知らぬ、愚僧
早走り、
早合点の癖で、用だけ聞いて、して来いな、とお先ばしりに
飛出たばかりで、
一向に仔細は知らぬ。が、
扨は、根ざす
処があるのであつたか。」
「もとよりぢや。――
大島守が、此の段、殿中に於いて披露に及ぶと、
老中はじめ
額を合せて、
此は今めかしく申すに及ばぬ。
業平朝臣の(名にしおはゞいざこととはむ)歌の心をまのあたり、鳥の姿に見たいと言ふ、花につけ、月につけ、をりからの
菊紅葉につけての
思ひ
寄には相違あるまい。……大納言
心では、将軍家は、其の風流の優しさに感じて、都鳥をば
一番、そつと取り、
紅、
紫の
房を飾つた、金銀
蒔絵の
籠に
据ゑ、
使も
狩衣に
烏帽子して、都にのぼす事と思はれよう。ぢやが、
海苔一
帖、
煎餅の袋にも、
贈物は心すべきぢや。すぐに其は
対手に向ふ、当方の
心持の
表に
相成る。……将軍家へ
無心とあれば、都鳥一羽も、城一つも同じ道理ぢや。よき折から
京方に対し、関東の武威をあらはすため、都鳥を
射て、
鴻の
羽、
鷹の
羽の矢を
胸さきに
裏掻いて
貫いたまゝを、
故と、
蜜柑箱と思ふが
如何、即ち其の昔、
権現様戦場お
持出しの
矢疵弾丸痕の残つた
鎧櫃に納めて、
槍を立てて使者を送らう。と言ふ
評定ぢや。」
「
気障な奴だ。」
「むゝ、
先づ聞けよ。――評定は評定なれど、此を
発議したは今時の
博士、
秦四書頭と言ふ
親仁ぢや。」
「あの、
親仁。……
予て
大島守に
取入ると聞いた。
成程、
其辺の
催しだな。
積つても知れる。
老耄儒者めが、
家に
引込んで、
溝端へ、
桐の
苗でも植ゑ、孫娘の嫁入道具の算段なりとして
居れば済むものを――いや、
何時の世にも当代におもねるものは、当代の学者だな。」
「塩辛い……」
と
山伏は、又したゝか水を飲んで、
「
其処でぢや……松平大島守、
邸は山ぢやが、別荘が
本所大川べりにあるに
依り、かた/″\大島守か都鳥を
射て取る事に成つた。……此の殿、
聊かものの道理を
弁へてゐながら、心得違ひな事は、諸事万端、おありがたや関東の御威光がりでな。――
一年、比野大納言、まだお
年若で、京都
御名代として、日光の
社参に
下られたを
饗応して、
帰洛を品川へ送るのに、
資治卿の
装束が、
藤色なる
水干の
裾を
曳き、
群鵆を白く
染出だせる
浮紋で、
風折烏帽子に
紫の
懸緒を着けたに負けない気で、
此大島守は、
紺染の
鎧直垂の下に、白き
菊綴なして、上には紫の陣羽織。胸をこはぜ
掛にて、
後へ
折開いた
衣紋着ぢや。
小袖と言ふのは、此れこそ見よがしで、
嘗て将軍家より拝領の、黄なる
地の
綾に、
雲形を
萌葱で
織出し、
白糸を以て
葵の
紋着。」
「うふ。」
と
小法師が
噴笑した。
「何と
御坊。――資治卿が
胴袖に
三尺もしめぬものを、大島守
其の
装で、馬に
騎つて、資治卿の
駕籠と、
演戯がかりで
向合つて、どんなものだ、とニタリとした事がある。」
「
気障な奴だ。」
「大島守は、おのれ若年寄の
顕達と、将軍家の威光、
此見よがしの上に、――
予て、資治卿が美男におはす、従つて、此の卿一生のうちに、一千人の女を
楽む念願あり、また婦人の方より
恁と知りつつ争つて
媚を捧げ、色を
呈する。
専ら当代の
在五中将と言ふ
風説がある――いや大島守、また相当の色男がりぢやによつて、一つは其
嫉みぢや……負けまい気ぢや。
されば、名にしおはゞの歌につけて、都鳥の
所望にも、一つは
曲つたものと思つて
可い。
また此の、品川で、陣羽織
菊綴で、
風折烏帽子紫の
懸緒に
張合つた次第を聞いて、――例の天下の
博士めが、(遊ばされたり、
老生も一度
其の御扮装を拝見。)などと申す。
処で、今度、隅田川
両岸の
人払、いや人よせをして、
件の陣羽織、菊綴、
葵紋服の
扮装で、拝見ものの博士を伴ひ、弓矢を
日置流に
手ばさんで
静々と
練出した。飛びも、立ちもすれば
射取られう。こゝに
可笑な事は、折から
上汐満々たる……」蘆の湖は波一
条、銀河を流す
気勢がした。
「かの隅田川に、
唯一羽なる都鳥があつて、雪なす翼は、
朱鷺色の影を
水脚に引いて、すら/\と大島守の輝いて立つ
袖の影に
入るばかり、
水岸へ寄つて来た。」
「はて、それはな?」
「誰も知るまい。――大島守の
邸に、今年二十になる(
白妙。)と言つて、
白拍子の
舞の
手だれの腰元が一人あるわ――
一年……資治卿を饗応の時、
酒宴の興に、此の女が
一さし舞つた。――ぢやが、新曲とあつて、其の
今様は、大島守の作る
処ぢや。」
「迷惑々々。」
「中に(
時鳥)何とかと言ふ一句がある。――白妙が(時鳥)とうたひながら、扇をかざして
膝をついた。時しも
屋の
棟に、時鳥が
一せいしたのぢや。大島守の得意、察するに
余ある。……ところが、時鳥は勝手に飛んだので、……こゝを聞け、
御坊よ。
白妙は、資治卿の姿に、
恍惚と成つたのぢや。
大島守は、折に触れ、資治卿の
噂をして、……その千人の女に
契ると言ふ好色をしたゝかに
詈ると、……二人三人の
妾妾、……
故とか知らぬ、
横肥りに肥つた
乳母まで、此れを聞いて
爪はじき、身ぶるひをする
中に、白妙
唯一人、(でも。)とか申して、
内々思ひをほのめかす、大島守は勝手が違ふ上に、おのれ
容色自慢だけに、いまだ
無理口説をせずに
居る。
其の白妙が、めされて都に
上ると言ふ、都鳥の
白粉の胸に、ふつくりと
心魂を
籠めて、肩も身も翼に入れて
憧憬れる……其の都鳥ぢや。何と、
遁げる
処ではあるまい。――しかし、人間には此は解らぬ。」
「むゝ、聞えた。」
「都鳥は手とらまへぢや。
蔵人の
鷺ならねども、手どらまへた都鳥を見て、将軍の御威光、殿の
恩徳とまでは仔細ない、――別荘で取つて帰つて、
羽ぶしを
結へて、桜の枝につるし上げた。何と、
雪白裸身の美女を、
梢に
的にした
面影であらうな。松平大島守
源の
何某、矢の根にしるして、例の
菊綴、
葵の
紋服、きり/\と絞つて、
兵と
射たが、射た、が。射たが、
薩張当らぬ。
尤も、此の
無慙な所業を、白妙は泣いて
留めたが、
聴かれさうな
筈はない。
拝見の
博士の手前――
二の
矢まで
射損じて、殿、
怫然とした
処を、(やあ、
飛鳥、
走獣こそ遊ばされい。
恁る
死的、殿には弓矢の
御恥辱。)と呼ばはつて、ばら/\と、散る
返咲の桜とともに、都鳥の胸をも
射抜いたるは……
……塩辛い。」
と
山伏は又湖水を飲む音。
舌打しながら、
「ソレ、
其処に控へた小堀伝十郎、即ち彼ぢや。……
拙道が
引掴んだと申して、決して不忠不義の
武士ではない。まづ言はば大島守には忠臣ぢや。
さて、
処で、矢を
貫いた都鳥を持つて、大島守
登営に及び、将軍家一覧の上にて、
如法、
鎧櫃に納めた。
故と、使者
差立てるまでもない。ぢやが、大納言の卿に、将軍家よりの
御進物。よつて、九州へ帰国の諸侯が、
途次の使者兼帯、其の
武士が、都鳥の
宰領として、
罷出でて、東海道を
上つて行く。……
秋葉の
旦那、つむじが曲つた。
颶風の如く、
御坊の羽黒と気脈を通じて、またゝく
間の今度の
催。
拙道は即ち
仰をうけて、都鳥の使者が浜松の本陣へ着いた
処を、風呂にも入れず、縁側から
引攫つた。――
武士の
這奴の帯の
結目を
掴んで
引釣ると、
斉しく、
金剛杖に
持添へた
鎧櫃は、とてもの事に、
狸が出て、
棺桶を下げると言ふ、
古槐の天辺へ掛け置いて、
大井、天竜、
琵琶湖も、
瀬多も、京の空へ
一飛ぢや。」
と又がぶりと水を飲んだ。
「時に、……時にお
行者。矢を
貫いた都鳥は何とした。」
「それぢや。……桜の枝に
掛つて、
射貫れたとともに、
白妙は胸を痛めて、どつと……息も
絶々の
床に着いた。」
「
南無三宝。」
「あはれと
思し、峰、山、
嶽の、姫たち、貴夫人たち、届かぬまでもとて、
目下御介抱遊ばさるる。」
「
珍重。」
と
小法師が言つた。
「いや、安心は
相成らぬ。が、かた/″\の
御心もじ、
御如才はないかに存ずる。やがて、此の湖上にも白い姿が映るであらう。――水も、
夜も、さて
更けた。――
武士。」
と呼んで、
居直つて、
「都鳥もし
蘇生らず、白妙なきものと成らば、大島守を其のまゝに
差置かぬぞ、と
確と申せ。いや/\待て、必ず誓つて人には
洩すな。――拙道の手に働かせたれば、
最早や
汝は
差許す。小堀伝十郎、
確とせい、伝十郎。」
「はつ。」
と
武士は、魂とともに手を
支いた。こゝに魂と云ふは、両刀の事ではない。
八
「何と御坊」
と、
少時して
山伏が云つた。
「思ひ
懸けず、
恁る
処で
行逢うた、
互の
便宜ぢや。双方、
彼等を
取替へて、
御坊は羽黒へ帰りついでに、其の
武士を
釣つて行く、
拙道は
一翼、京へ
伸して、其の
屑屋を連れ参つて、大仏前の
餅を
食はさうよ――御坊の厚意は無にせまい。」
「よい、よい、名案。」
「参れ。……屑屋。」
と山の
襞
を霧の包むやうに
枯蘆にぬつと立つ、此の
大なる
魔神の
裾に、小さくなつて、屑屋は頭から
領伏して手を合せて拝んだ。
「お
慈悲、お慈悲でござります、お助け下さいまし。」
「これ、身は
損なはぬ。ほね休めに、京見物をさして
遣るのぢや。」
「女房、女房がござります。
児がござります。――何として、箱根から京まで宙が飛べませう。江戸へ帰りたう存じます。……お武家様、助けて下せえ……」
と
膝行り寄る。
半ば夢心地の屑屋は、前後の事を知らぬのであるから、
武士を
視て、其の剣術に
縋つても助かりたいと思つたのである。
小法師が笑ひながら、
塵を払つて立つた。
「
可厭なものは連れては参らぬ。いや、お
行者御覧の通りだ。御苦労には及ぶまい。――屑屋、
法衣の
袖を取れ、
確と取れ、江戸へ帰すぞ。」
「えゝ、
滅相な、お慈悲、慈悲でござります。山を越えて参ります。
歩行いて帰ります。」
「
歩行けるかな。」
「
這ひます、這ひます、這ひまして帰ります。
地を這ひまして帰ります。其の方が、どれほどお
情か分りませぬ。」
「はゝ、気まゝにするが
可い、――
然らば
入交つて、……
武士、
武士、愚僧に
縋れ。」
「恐れながら、恐れながら
拙者とても、
片時も早く、もとの人間に成りまして、人間らしく、
相成りたう存じます。
峠を越えて戻ります。」
「心のまゝぢや。――御坊。」
と
山伏が
式代した。
「お行者。」
「
少時、
少時何うぞ。」
と
蹲りながら、手を挙げて、
「
唯今、思ひつきました。此には
海内第一のお関所がござります。拙者
券を持ちませぬ。夜あけを待ちましても同じ儀ゆゑに……ハタと当惑を
仕ります。」
武士はきつぱり正気に返つた。
「仔細ない。
久能山辺に於ては、森の中から、時々、(
興津鯛が食べたい、
燈籠の油がこぼれるぞよ。)なぞと声の聞える事を、
此辺でもまざ/\と信じて
居る。――関所に
立向つて、
大音に(
権現が通る。)と呼ばはれ、
速に門を
開く。」
「恐れ……
恐多い事――
承りまするも恐多い。
陪臣の
分を
仕つて、御先祖様お名をかたります如き、
血反吐を
吐いて即死をします。」
と、わな/\と震へて云つた。
「臆病もの。……
可し。」
「
計らひ取らせう。」
同音に、
「関所!」
と呼ぶと、向うから
歩行くやうに、する/\と真夜中の箱根の関所が、霧を
被いて出て来た。
山伏の首が、高く、
鎖した門を、上から
俯向いて見込む時、
小法師の姿は、ひよいと飛んで、
棟木に
蹲んだ。
「
権現ぢや。」
「
罷通るぞ!」
哄と笑つた。
小法師の姿は
東の空へ、星の中に
法衣の
袖を
掻込んで、うつむいて、すつと立つ、
早走と云つたのが、身動きもしないやうに、次第々々に高く
上る。山伏の形は、
腹這ふ
状に、
金剛杖を
櫂にして、横に霧を
漕ぐ如く、西へふは/\、くるりと廻つて、ふは/\と漂ひ去る。……
唯、仰いで見るうちに、数十人の
番士、
足軽の左右に
平伏す関の中を、二人何の苦もなく、うかうかと通り抜けた。
「お武家様、もし、お武家様。」
ハツとしたやうに、此の時、刀の
柄に手を掛けて、もの/\しく見返つた。が、
汚い屑屋に
可厭な顔して、
「何だ。」
「お
袂に
縋りませいでは、
一足も
歩行かれませぬ。」
「ちよつ。参れ。」
「お武家様、お武家様。」
「黙つて参れよ。」
小湧谷、
大地獄の音を
暗中に聞いた。
目の前の
路に、霧が横に広いのではない。するりと
無紋の幕が垂れて、ゆるく絞つた
総の
紫は、
地を
透く内側の
燈の影に、色も見えつつ、ほのかに
人声が
漏れて聞えた。
女の声である。
時に、紙屑屋の方が、
武士よりは、もの
馴れた。
そして、
跪かせて、屑屋も
地に、並んで
恭しく手を
支いた。
「江戸へ帰りますものにござります。山道に迷ひました。お通しを願ひたう存じます。」
ひつそりして、
少時すると、
「お通り。」
と、もの
柔な、優しい声。
颯と幕が消えた。
消ゆるにつれて、
朦朧として、
白小袖、
紅の
袴、また
綾錦、
振袖の、貴女たち四五人の姿とともに、中に一人、雪に
紛ふ、うつくしき裸体の女があつたと思ふと、都鳥が一羽、
瑪瑙の如き
大巌に
湛へた
温泉に白く浮いて居た。が、それも湯気とともに
蒼く消えた。
星ばかり、峰ばかり、
颯々たる松の嵐の声ばかり。
幽に、
互の顔の見えた時、
真空なる、山かづら、山の
端に、
朗な女の声して、
「矢は返すよ。」
風を切つて、目さきへ落ちる、此が刺さると
生命はなかつた。それでも
武士は腰を抜いた。
引立てても、目ばかり働いて
歩行き得ない。
屑屋が妙なことをはじめた。
「お武家様、此の
笊へお入んなせい。」
入れると、まだ
天狗のいきの、ほとぼりが消えなかつたと見えて、
鉄砲笊へ、腰からすつぽりと
納つたのである。
屑屋が腰を切つて、肩を振つて、其の笊を
背負つて立つた。
「
屑い。」
うつかりと、……
「屑い。」
落ちた矢を見ると、ひよいと、竹の
箸ではさんで拾つて、癖に成つて居るから、笊へ
抛る。
鴻の
羽の矢を
額に取つて、
蒼い顔して、頂きながら、
武士は震へて居た。