今年私は
まづ門傍のポプラの枝へはひ登つて、ぶらりと下がつてゐる大瓢が一つ。これはまるでくくりのない、丁度貧乏徳利みたいにそこ肥りのした奴。私がこないだ虚子先生にお目にかかりに別府迄行つてきて、汗の単帯をときすてるとすぐ見に行つたら、ほんの二日の間に見違へるほど快よくまつ青く太つてゐた。あんまりのつぺりとくくりがないので一体
一体うちでは棚をつらう/\と話しあつてゐる中に、樹に垣に地面にどの蔓もが青々と這ひまはり、そこら中に花が咲き出したのであつた。
さて私は、茄子や葉鶏頭の露にふれつつ径を歩むと、そこには瓢の葉をきれいにまきつけた低い垣根が、あちこちに長瓢をぶら下げてゐた。この瓢箪は頸の長い、瓢逸ないかにも
それに引かへ、垣根の方の長瓢は敷わらも吊もかけなかつたので、地面につけた尻の先がすこし黒いしみになりかけて来た。二三日前の朝、露つぽい草の間にかゞんで私は瓢を吊したり、わらをしいたりしてやつたが、今朝行つて見ると、折角きれいに捲きついた青い葉は、むざんにうらがへしに乱れ、瓢は誰かに頗るぐわんこに荒縄でうごきのとれぬ様しばりあげられてゐた。そして隣畠の南瓜の蔓が勢よく幾筋も瓢垣ねのあはひからこちらへ侵入してゐた。
旭はすでにポプラ並木を透して光り、
蔓毎にたれ下つた小瓢箪の愛らしさ。くゝり深く丸々と小肥りの青い瓢はうぶ毛が柔らかくはえてゐる。小さい蟻が這つてゐたり、時には暁雨の名残の小つぶな玉が汗をかいたやうにたまつてゐたりして一層愛着をまさしめる。子供らも毎日こゝへ必らずしやがみにきては、二十五なつてゐるとか、葉のかげにもう三つなつてたとか、数へてはたのしみにしてゐた。
更らにその横手の樹に、やせこけた一本の蔓が中位の瓢をつけてはひのぼつてゐた。沢山の瓢の中これが一番形も面白く俗ぬけがしてゐて、しかもひねくれすぎず、私の一番好きな瓢なのであるが、肥が足らぬのか木かげのせゐか一向ずば/\と成長せず、ほんとの一瓢きりなのである。
最後にもう一本。之れは子供のつくつてゐるので、二尺たらずのかはいゝ棚に小まゆ程のが、二つ三つ漸く最近になりはじめた。
此の夏や瓢作りに余念なく
青々と地を這ふ蔓や花瓢
晩涼やうぶ毛はえたる長瓢
青々と地を這ふ蔓や花瓢
晩涼やうぶ毛はえたる長瓢
数年前俳句をつくりはじめた頃、板櫃河畔の仮寓でも大瓢箪をつくつたが、その美事な青瓢は軒に吊るす中作りかたを知らず腐らしてしまつた。
くくりゆるくて瓢正しき形かな
梯子かけて瓢のたすきいそぎけり
梯子かけて瓢のたすきいそぎけり
今年はどうかして一つでも実が入つて、ほんとの瓢箪を得たいものである。
(昭和二年八月十日 雨の草庵にて)