三月の創作

田山録弥




 今月は久し振で月評をする気になつた。成るたけ落ちついた静かな心持でやつて見たいと思ふ。
 一番先きに読んだのは、「中央公論」に出てゐる藤村千代の『ある女の生活』であつた。私はこの人のものは余り沢山読んでゐなかつた。唯ひとつ淡墨色の何とかいふものを読んだだけだつた。その時も才能がある人だとも思はなかつたけれども、女としては思ひ切つたことを書く一人だと思つた。何だか腐つた溝のにほひでもかぐやうな気がした。しかしそれはわるい意味ではない。『ある女の生活』も矢張さうしたものの一つといつてよかつた。何処かあらはし方に奇抜な、表現的なところはあるが、それはよいと思ふが、余りに溝をかき廻しすぎはしないか。それもかき廻す価値があるならよいが、何もありもしない溝をかき廻してはゐないか。それに、表面は突込んであるやうに見えてゐるけれども、存外本当のことは少いやうに私には思へた。事実としても本当の事実でなくて、作者がわざとかういふ風にしたといふやうな気がした。それは何故だらう? 作者がこの惨めな事実の上に立つことが出来ないためではないか。芸術としては、無論即いてゐることは必要だが、しかもあまりに惨めさを惨めさとして見ただけで、もつと見詰たり考へたりしなければならないことを少しも見詰たり考へたりしてゐなくはないか。もう一度ひつくりかへして言つて見れば、神経的ではあるが、本質的ではないといふことになりはしないか。
 但かういふ気はした。矢張女だ。男に対していつもくやし涙ばかりを流してゐて、そしていつか征服されてしまつてゐる。そこに、尖つた所があるといへば、いへるが、男の作者の書いたやうに、寛大さがない、甘さがない、大きな涙がない。従つて読んでしまつて、何処かコセコセしてゐる。虚栄に富んだ女に食ひつかれたやうな浅薄さを感じた。しかし、女として、女の作者として、正直さと大胆さとを持つてゐるものの少くない今の文壇には、この人のやうなのは特異としなければならないのは勿論である。
 次に宮地嘉六の『花子のおとづれ』といふのを読んだ。『ある女の生活』に比べると、かうも違ふかと思はれるほどそれほどのんきな、寛大な、ユウモラスな感じを私はそこから受け取つた。矢張、男の女に対する眼だなと思つた。そこには甘さがあり買かぶりがあり不徹底があり鈍い観察があつた。しかもそこには虚栄とか、くやし涙とか、異性を呪ふ心とか、さういふものは遂になかつた。素直だつた。純といふほどではないが、色気がなかつた。作の出来栄えからいつたら、あるひはこの作者のものとして決してよい方であるとはいへなかつたであらうけれども、その素直さが、そののんきさが、その馬鹿々々しさが、一種低級ではあるが、ちよつと変な、サツカリンのやうな味を持たせた。
 長田秀雄の『袈裟の魂』はすらすらとしてゐた。しかし昔からあつた袈裟の芝居にさう大して多くを加へてゐるとは思へなかつた。作者の考へでは、あの袈裟の魂といつたやうな台詞に新らしさを賦与ふよしたつもりでゐるのであらうが、私の読んで受けた感じは、却つてそのために芝居が小さく、理屈つぽく、第二義的になりはしなかつたかといふやうに感じられた。法然の出し方などもあまり好いとは思へず、またその性格なども余りよくは出てゐなかつた。この戯曲は概して前半の方が好かつた。あとに行けば行くほどわるくなつた。しかし、舞台に上せて見た上でなければ、本当のことはいへないかも知れなかつた。
「改造」に出てゐる倉田百三の『蕩児たうじの落ちる地獄』といふのは大変なものだ。よくこんなものが出せたものだと私は思つた。無論、それは道徳的にさういふのではない。ひどいのはいくらひどくたつて構はない。芸術でさへあれば構はない。春画だつて芸術であれば構はない。しかし、これは芸術どころか、低級な、通俗な、拙い田舎絵師の書いた地獄極楽の絵でも見せられたやうな気がした。あさましい気がした。
 私が宗教は好いが今の坊主が嫌ひだといふのは、実はかういふ感じをいふのであつて、人間を田舎者か何かのやうに見て、一段上に立つて、くだらぬことを説法してゐるから嫌ひなのである。ところが、この作にはやつぱりさういふイヤなにほひがある。無智な通俗を相手に田舎坊主が地獄極楽を説いてゐるやうな形がある。芸術といふものは、決してこんなものではないと私は思ふ。
 それに、書いてあることが皆空想だ。空想の誇張だ。あさましい感じを与へるために、わざとあさましくないことをあさましくしてゐる。また平凡なことを奇怪なものにしてゐる。それも好い。背景に立派な事実を持つてゐるのなら好い。しかし私はその何処にも本当の事実といふものを見出さなかつた。何かありさうなものだと思つて、丁寧に探して見たが、そこには人から聞いた馬鹿話しか、普通に戯談じやうだんにいふ笑ひ話以上に何物もない。男女のことだつて、さう大して深く知つてゐるとは思へない。普通田舎坊主の説法する程度にしか知つてゐるとは思へない。芸術といふものは、かういふものではあるまい。もつと真面目な、もつと高級な、もつと本当なものでなくてはならないと私は思つてゐる。
 武者小路実篤の『ある男の話』これも変なものだ。私は一体懺悔と芸術とを一緒にしてゐないが、また少しでも自己弁解乃至自己弁護の芸術の中に雑るのを嫌つてゐるが――そのために折角な芸術が芸術として味ははれなくなるのを常に恐れてゐるものであるが、これに限らず、この作者のものは、すべてさういふ点において非常に欠点があると私は常に思つてゐる。『ある男』などといふものも、私は決して芸術とは思つてゐない。
 従つてこの作者のものは、いつも材料だけしかない。歴史でいへば史料だ。だから本当のものにするのには、何うしてももう一度これをあるルツボに入れなければならない。とはいへ、これは単にその形式についていつてゐるのではない。あゝいふ形式でも、もう一度ひつくり返せば、芸術にならぬとはいはない。第一、『ある男の話』にしても、あれはもつと具象的に書くべきものではないか。あれだけでは、ほんの輪廓で、ちつともその真相が出てゐないではないか。裁判所でつくる口供くちがきぐらゐにしか出てゐないではないか。もつと詳しく鮮かに書いてこそ、そこに芸術らしい感じが出て来るので、ああいふ風につかんで書いては、楽には楽かも知れないが、折角の事実から何処かに芸術が逃げて行つてしまひはしないか。あれを、『ある男の話』程度のものを、もう一度何うかして、渾然としたものに、またはこの宇宙の空間に単にそれだけで独立して浮んでゐるやうなものにしたいと思へばこそ、我々芸術を旨とするものは、刻苦勉励してゐるのではないか。毛彫のやうに他から見ては馬鹿々々しく思はれるやうな、こまかい骨の折れる境にも努力精進して行つてゐるのではないか。しかし、俺はさうでないといふのなら、これは何うも致し方はないが――。
 谷崎潤一郎の『無明と愛染』といふ戯曲は、その布置といひ、背景といひ、またその心理的考察といひ、すべてよく纏つてゐて、すぐれた作だといふことをあぶなつけなしにいふことが出来た。それにその作者の持味である悪魔主義的の感じも非常によく滲み出してゐるし、最後まで女を、愛染を残した形も、自然に近い女性といふものについての作者の深い体験を語つてゐるといつてよかつた。またあの上人が死んで行くあたりから無明太郎の動かされ行く形も自然でよかつた。難をいへば、初めに作者に思想があつて、それを人物にあてはめたところに、いくらか見透かされるやうなところがありはしないか。そのため、人物から来る自然な感じの代りに思想から来る悪るくきまりきつた感じを受取りはしないか。つまり、無明と愛染と上人とがあまりはつきりときめられてあらはされて居はしまいか。また、楓といふ女に普通の女を代表させてゐるのはいいとしても、あまりにその作者の意図がくつきりとわかりすぎはしないか。思想の方からでなしに、人物の方から入つて来たとすれば、さうした欠点もなくなつて、もつとぼんやりしてゐてそれで活躍し、またもつと複雑してゐてそれで単純な見透かされない深い味を持つて来はしないか。しかし、さうしたことはおくとして兎に角面白い好い作であると私は思つた。
 小川未明の『雪解けの流れ』は、この作者のものとしても、余り好い方とは思へなかつた。以前の空想的なところが今の新しいといはれるところに不調和に雑り合つてゐるのも、さびしいやうな感じを私に誘つた。
「女性」に出てゐる豊島与志雄の『リンゴ』といふものをその次ぎに読んだ。この作者は昔からいいところがあつたが、この作なども決してつまらないものではなかつた。初めの中は、何だか、日本にはないやうな、否、日本人にはかういふことはないやうな気がして、この作者の特色といへば特色の、わるく顔の表情などを気にしてゐるやうな描き方と共に、外国の模倣に過ぎるやうな不満な心持がしたが、読んでゐる中に、段々さういふものもなくなつて、素直に最後までその不思議な主人公について行くことが出来た。そして読んで了つてから、狂人を書いても、かう描けばわるく興ざめ気味にならなくつてよいなと思つた。リンゴを出して食ふあたりなども、普通なら、わざとらしくて読めなくなるところだが、この作では、それがいかにも自然に行つてゐた。描きかたなどの上からいつても、何処かに新しいところがあると思つた。
 その同じ雑誌に出てゐる『呑気な親子』といふ対話も読んで見た。矢張、武者小路実篤の作である。私はこれを読んで、この新年の「中央公論」で読んだ『だるま』といふ作を思ひ出した。矢張同じだな! と思つた。通俗すぎるな! と思つた。成ほどかういふものは受けるだらう。面白半分に書いてるやうなものだから……。大きな声でも立てて笑ひでもしなければならないやうなものだから……。深く自己に悩んだり秘密に悩んだり懐疑思想に悩まされたり生に退屈したりする方の作者ではないから……。有島武郎の死に対しても俺なら死なない! と簡単に極めて簡単にいひきつてしまふことの出来る作者だから……。こんな風に私は思つた。つまりこの作者の持つた軽さは、(浅薄とか軽薄とかいふ軽さではない)さういふところから来てゐることを私たちは考へて見なければならない。
「文章クラブ」に出てゐる三つの小説を読んだ。どれも感心しなかつた。中では横光利一の『穴』が単に筆致からいへば達者なのかも知れないが、若いのにこんなものを書いてゐるのはいいこととは思へなかつた。それに新年の「新潮」に出た矢張この作者の『芋とゆびわ』といふ作がうまいといふので、私も読んで見たが、それとて大したものではなかつた。第一、作の基礎になつてゐる芋とゆびわとの対照――細君にゆびわを買つてやつたために、高が土方の労働にやる賃金がやれないで留守居を使ふといふことが馬鹿々々しかつた。そんなことがこの今の世の中にあるはずがなかつた。あるひは資本と労働とを対照させるために、わざとああしたのかも知れぬが、さうならそれでもつと適切な事実がありさうなものである。それに、細君にしても、主人公にしても、土方の男にしても、皆型にはまつてゐる。まだ作者が本当にさうした人達を知つてゐないといふことを表白してゐる。中河与一の『かつら』はきいたお話しを書いただけで少しも描写されてゐない、しかしいくらか才気があるにはある。吉田金重の『再度の上京』と投書家らしい若さを取れば取るのだが――。
 次に加能作次郎の『窮鳥』を読んだ。また早稲田文学に出てゐる同じ作者の『弟の家出後』を読んだ。この作者には、他にはいい作もあらうが、この二篇だけについていへばいやに緩んだ、だらけたところがあつて、これを書いた時の作者の芸術的感興が決して振張しんちやうされてゐなかつたといふことを証することが出来た。それに早稲田に属する作者の欠点――平凡な自己描写と零細な感傷状態とから未だに脱却することが出来ないのはどうしたものか。この作者はかういふ作からとうの昔に脱却したはずではなかつたか。もつと変つた、新意を出したものに向つて進んで行つてゐたはずではなかつたか。これでは『世の中へ』あたりから更にぐつと逆転したといふ形になつて来てはいないか。それに、全体からいつても、すつきりしたところがなくなつて、いやに低級な、感傷的な分子が多くなりはしないか。しかしこの二つの作の中では『窮鳥』より『弟の家出後』の方がまだよかつた。いくらか心理的の細かいところがあつた。父親の心持なども少しは書けてゐた。新年の雑誌に出た『水彩画家』などは決していい作ではなかつた。
 同じ雑誌に出てゐる永見徳太郎の『和寇』といふ戯曲も甚だつまらないものなので失望した。私はその中から何物をも見出すことが出来なかつた。心理的にも、印象的にも、また表現的にも……。いかに題材が小めづらしいからといつて、それだけではどうにもならないものであるといふことを私はこの作で見た。この作者はもう少し台詞といふものについて考へて見なければならなかつた。また人物を描き出すといふことについてもう少し腕をみがかなければならなかつた。それに全体が低級で、まづい活動写真でも見るやうな気がした。
「女性改造」に出てゐる木村毅の『心』は矢張、甘いものだが――その筆致からいつても、観察からいつても、平凡で、光つたところがなく、時にはどうしてかう叙述的な書き方ばかりしてゐるのかと思はれたが、主人公が女と宿屋に泊るところに行つて、一種真面目な不思議な印象を受けた。『これほどしつかりと身体をかためてゐるように見える大きな帯が、帯揚を取ると、輪を解いた桶のやうにたわいもなく崩れて』といふあたりの描写はすばらしくよかつた。それに、女と床を並べて寝て、しかもどうにもしなかつたといふことが、却つてこの作の後半にツルゲネフ式のペソスを誘つた。
「女性」に出てゐる懸賞小説『巡査と二匹のすて猫』では、全く思ひも設けない拾ひ物でもしたやうな心持がした。高梨専之介といふのはどういふ人だらうか。今まで文壇に何も発表したことのない人だらうか。全くのしろうとだらうか。たれかの変名ではないだらうか。私の考へでは「文章クラブ」の三新進作家などはとても足元にもよりつかないばかりではなく、昨日あたり読んだ作家の二三の作品に比べても、この方がぐつとすぐれてゐると思はれるくらゐであつた。それはあるひは文壇の中心思想に接触してゐないとか、書いてあることが零細で内容らしい内容を持つてゐないとか、さういふ非難はあるかも知れないけれども、その物を見る眼の精確さは? 細かさは? またその見た物を表現する頭と手との聡明さは? また毛ぼりのやうに細かに心と物とをくつつけて行くその手腕は?
『これは矢張、感激と燃焼との度が強かつたから出来たのだ。観察だけでかういふものを書かうと思つたつて、とても出来ることではない。深い感激とさえた頭!』かう私は自分で自分にいつた。
 これから比べたら、文壇の諸君の作には、どんなにその新鮮さが失はれてゐるだらう? またどんなにその書かうとする感興が衰退し去つてゐるだらう? 否、文壇的虚栄のために、または物質的惑溺のために、どんなにその本当の芸術的良心がなくなつてしまつてゐるだらう? それはこの作はあるひは大したものではないかも知れない。かうした零細な作品を以て堂々とした文壇の諸君の大きな作に比べるのは間違つたことであるかも知れない。しかもこの作の純な表現と真面目な感激と細かな努力とは、衰へた、うんだ、労れた諸君の清凉剤となることを私は信じて疑はないもののひとりである。現に、さういふこの身も、かうしたユニイクな筆致をうらやみかつねたまずにはゐられなかつた。懸賞小説といふことも、まんざらすてたものではないといふ気がした。
 佐藤春夫のものは、私は以前から好きだつたが、今月は大したものは出ていないやうだつた。この作者のものとしては、「婦人公論」に出てゐる『囚人』は、決してすぐれたものとはいへなかつた。女の雑誌だからといつて下げてはゐないけれども、どうもあのモクセイがぴたりとはまつて来なかつた。ねらひどころもわかつてゐるし、場合によつては、これでもぴたりと来ないことはあるまいと思はれたが、感興が伴はなかつたのか、それともまたその想像が十分にピントに合つてゐなかつたのか、読んでしまつてからも、別にこれといふすぐれた感じも受けずに終つた。
「女性改造」に出てゐる柳原白蓮びやくれんの『鳳凰天に撲つ』は未完だから、本当のことは言へまいけれども、どういふ作柄かと思つて読んで見た。いつてゐることなどにはちよつと面白いところがあり、京都の尼寺の中での生活を思はせるやうなシインもないではなかつたけれども、小説としてはちよつと困ると私は思つた。かういふ風に書かずに、もつと本当に書いて見たらどうだらうか。何も世の中のことなどを念頭におく必要はない。また世間のうわさなどを気にしてゐる必要もない。虚栄とか罪とかいふ風に考へずに、またそれと反対に反抗的な心持を持たずに真面目に本当に書いて見ることは必要ではないか。自己のためばかりではなく世間のためにも必要ではないか。
 鈴木善太郎の『娘の家』は「婦人公論」に出てゐる一幕物だが、これも女の雑誌の読み物としてより以上に一歩も出てゐるとは思へない作だつた。作者のねらひどころもいやに際立つて透いて見えてゐた。通俗でもあつた。
我観がかん」では、一番先きに正宗白鳥の『金』を読んだ。私は随分長くこの作者のものに親しんで来た。この作者の書いたものは、殆ど大抵読んでゐるといつて好かつた。小ぢんまりした構図。いやにヂロヂロと物を見るやうな観察。何物にも興味をひかないやうでそれでゐて実は種々なことが気にかかるといふやうな気質。余りに早く物わかりがして深く打込んで入つて行くことの出来ないところからひとり手に起つて来る傍観的気分。それに付随して起つて来る皮肉。その癖、決して内部が燃えてゐないのではなく、消極的に絶えず煙をはいてゐるやうな心持。さういふ印象を私は随分長く受けて来たのであつた。それに、いつまでたつても同じ調子で、わるくいへば型が出来たともいへるし、またその反対に、しつかりと握つたものを離さないだけの手堅さを持つてゐるともいへた。それに、この作者の作品には、本当のものと本当らしく見せ懸けたものとの二通りあつたが――始めは本当に見せかけたものの方をも本当と思つて見てゐたが、この頃では次第にその区別がわかつて来て、これは空想だな! ピントがぴたりと合つてゐないなといふことがはつきりとうなづかれるやうになつた。それに、この頃では、大分疲れてうんで来てゐるらしく私には思はれた。従つて今年の新年の諸作などにも、これはあまりに投げ出し過ぎたな! と思はれるやうなものも二三ないではなかつた。『千代松の芸術』などといふのもその一つといつてよかつた。先月出た『影法師』などでも、もう少し新意を出して欲しいと思つた。『金』は私にいはせれば、二通りある中の本当のものの方で、かなりに気持よく読み得ることが出来たものであつた。それに、書いてあることに無駄がなく、小ぢんまりとしてゐて、その中に「時」のことも、「金」のことも、「人生」のことも巧に織込まれてあるのを私は見た。さすがに老巧だと思つた。
 谷崎精二の『義母』は、その筆致においても、その観察においても、またその気分においても、決して新しいとはいへなかつたけれども、後半に近くなつて行くにつれて、次第に本当らしいところが出て来た。私は私が『生』を書いた時分のことを思ひ起した。中でも、死に面してイライラしている義母を誰もそれとは同情せずに、その生みの娘さへ同情せずに、ただ、みにくい形やみにくい言葉としてのみ取扱つて持てあましてゐるさまを本当だと思つた。ただ、作者が作中の人物と共に全くその中に没頭してゐるのが惜しかつた。作者はどうしてももう一歩出なければうそだつた。その証拠には、後半はいくらかでもそこから浮び出して来てゐるために、そのために読者が心を動かされてゐるではないか。作者は考へて見なければならない。
 加藤一夫の『皮肉な報酬』は一わたりはきこえてゐるが、またこの作者がかういふものを書くといふことも自然だが、しかしこれが第四階級の要求する作品だ! とするには余りに小さかつた。またあまりに平凡だつた。もつと烈しい深い熱情があつてしかるべきだと思つた。それに、表現の方法からいつても、新しいと思はれるやうなところは少しもなかつた。筆致も乾いた叙述的のところが多く、主人公の経て行つたシインも、作者の見たり聞いたりした光景をそのまま不調和にそれにくつつけたやうなところが多かつた。これを、前回にいつた『巡査と二匹の捨猫』のやうな筆致で心と境とのぴたりと有機的に融合してゐる筆致で、また深く熱情的に考へたやうな心持で、縦横にゑがいたなら、それこそ立派なプロレタリアートの小説が打ち立てられるであらうけれども――。
「新潮」に出てゐる藤森成吉の『お園の手紙』は、最後に書いてある一句で、偽善者といはれても構はない、兎に角自分は人を救つた。偽善であらうが、何であらうが、人を救つたのは、救はないのよりも好い。かういふ点に作者が視点をおいてゐるらしいのがわかつたが、さてそれはどういふものか。人を助けたのは助けないよりは好いに違ひないが、すぐそれをひつくりかへして、助けたがために助けた以上のわるい結果を来すことが往々にしてあるといふことをこの作者は考へて見なければならない。現に、私などもさういふことを度々経験した。人を救けると、恩に着せないつもりでゐても、いつか着せてゐる。つまり好い事をしたといふことが、さう思ふことが既に先方に恩に着せてゐる形になつてゐるのである。それに、だれだつて人を救つて好い事をしたと思はないものはない。既にこの作者自身もさう思つてゐる。『相変らずの偽善者より』といふ言葉の中にはつきりとそれがあらはれてゐる。つまり救けてやつた人に恩を着せてゐる。そこからいろいろなことが起つて来はしないかと案じられる。しかし私はそれがわるいといふのではない。ここではただ人を救ふといふことは、さう簡単に考へられないといふことをいひたいのである。この作者が他日さういふことを考へる時が来るであらうといふことをいひ度いのである。好いと信じてやつたことが少しも好くなかつたといふことを考へる時が来るであらうといふことをいひたいのである。作の上からいへば、ちよつと気のきいた短篇といつてよかつた。
 稲垣足穂の『鼻眼鏡』は大したものとは思へなかつた。それはその作者の気質だから為方がないであらうけれども、わるく取すましたやうな、小生意気なところが私の気にかかつた。勿論、文章としては拙い方ではなく、上品なところもあれば、色彩に富んでゐるやうなところもあつて、若い人達の中ではすぐれてゐる方であつたけれども、余りに才をたのみ過ぎはしないか。物を本当に見ずに、面白くばかり見過ぎはしないか。気障になりはしないか。気取りになりはしないか。
 久米正雄の『撮影』は、読んでしまつてから気がつくと、未完だつたので、折角久し振りで本当のものを読ませてもらへると思つたのがはづれてがつかりした。為方がないから新年に読んだ『黒いハヘ』でも批評して見やうと思ひ立つた。あれは大分いろいろなところでいろいろな人が批評したやうだから、今更こんなことをいふのにも及ばないかも知れないが、あのハヘがイヤだつた。あのハヘを、あの黒いハヘを出した為に作が非常に通俗になつたといふことを私はここで言つておきたいと思つた。あれはハヘは出す必要はなかつたのではないか。あれはあのハヘの出て来る前のところあたりでおしまひにした方が、かへつて好かつたのではないか。さうすればすつきりした短篇になつたのではないか。何もないのに何か意味ありげに思はせたり、また何か深い象徴でもありさうに思はせたりするといふことは、決して作の価値を高めるゆえんではないと私は思つた。しかし、真に作者がああいふ風にハヘを思つたとすれば、それは余り低級な考へ方といはなければならない。
 中河与一の『木枯の日』は、前の『かつら』などと比べると、ぐつと好かつた。これなら多少なりと作者の本当のところを見せたといふことが出来た。何より先に、型にはまつて居ないのがよく、割合に鋭い自由なところがあつて、無中に有を生じて行くといつたやうなしつかりした腕をも持つてゐた。それはどうせ、『鼻眼鏡』と同じやうに、書いてあることは大したことではなかつたけれども、それでも若々しい匂ひと感じとを何処からか受とることが出来た。中年作家のつかれてぐたぐたになつた作などよりはこちらの方がどんなに好いか。
 しかしかういふことは考へて見なければならなかつた。若い人達は人生においてまだ大した重荷は負つてゐないが、それに引かへて中年になつた作家達は、家庭の重荷を負はされた上に、長い間やつて来たために疲れて、場合によつては、金を取るためにのみ書かなければならないやうなはめにおかれて、いつかその内部に芸術的活動のやんでしまつてゐるのをそのまゝにしておくやうなことがないではなかつた。勿論、それはわるい。いくら疲れたといつても、それは申訳にはならない。しかしその背負ひきれない人生の重荷を負ひ、疲労と戦ひ、倦怠と戦つて、孤往独邁こわうどくまいして行くといふ境涯は、中年の作家でなければ味ふことの出来ないもので、若い人達に取つては、想像だに許されない境涯であるといつて差支ないのである。だから、中年作家が振はないといつたところで、簡単にそれを片づけてしまふことは出来ない。兎に角に彼等はその人生の重苦しい潮の中に漂つてゐるのである。本当の荒波の中に浮きつ沈みつしてゐるのである。少くともこれから人生の海の中に飛込まうとしてゐる若い人達とは、その心持において、感じにおいて、気分において全く違つてゐるのである。これは考へて見なければならない。だから、気のぬけたやうな作が二三あつたにしても、新進作家にも劣るやうな作を書いたにしても、単にさういふことだけで若い人達と比較することは出来ないやうなところがあるのであつた。何故といふのに、中年の作家もまた燃え出して来ることがあるに相違ないから。否、燃え出して来たあかつきには、若い作家達とは全く違つたすぐれたものを書くであらうから……。
 岡田三郎の『一九二〇年時代』は立体派を以て自ら任じてゐるものださうだが、どうも少し感じが稀薄でないかといふやうな気がした。たとへ、形式はどんな形に変つてゐても、その中に隠された暗示とか感じとか気分とかいふものが何等かの形でもつとはつきりあらはれて来てゐなければならなかつた。何故なら、芸術は作者の内部に燃え立つて来た活動でなければならないから。立体派とか表現派とか言つても、皆その作者の内部に燃え上つた芸術的表現であらねばならないから……。無論私はつまらないものとは思はなかつたけれど、もう少し印象的であつても好くはないかと思つた。私はタイロフの解放された演劇などといふことをも胸に浮べて見た。
 戸川貞雄の『遠雷』は後半がちよつと好いが、あの妾の出し方なども旨いとは思つたが、それよりももつと大切なことは、この作者がもう少し自由に、もう少し大胆に、その持つた型を打ち壊してしまふことではないかと思つた。『一九二〇年時代』では余りに先きに走り過ぎはしないかといふやうな気がしたが、この作では取残されたやうな一種のさびしさを私は感じた。どんなになつたつて構はぬ。どんなに不味いといはれたつて構はぬ。ひとつ大に違つたものを書いて見やう。かういふ心持になつてもらひたいものだと私は思つた。つまり私はもつと内部の芸術的活動に富んだものを欲しいのである。
「演芸新潮」では菊池寛の『浦の苫屋とまや』を読んだ。無論、さう大したものではなかつた。しかし、エノツク・アヽデンや、モウパツサンの小話や、さういふものと同じに見せかけておいて、それをあの結末のところでひつくり返した形は、さすがはこの作者だと思つた。この作者はああいふところが旨いのだ。また一方からいつて、ああいふところが即ち戯曲などを書くもののコツではないかといふ気がした。
 もつと若い人達のものを読んで見たいと思つて、「新小説」に出てゐる川端康成の『かがり火』と金子洋文の『狼』とを読んだ。両方とも多少の面白さを持つてゐたけれども、もう少しどうかならないかと思つた。
『狼』の作者はいくらか傾向のある作者だといふことは耳にしてゐたが、これを読んだだけでは、それほどとは思へなかつた。空想としては、またセオリイとしては、突詰ても考へて居るし、さういふ方向に強ひて自己をむちうつて進めてもゐるけれども、どれだけ本当に実際に当つて痛感してゐるかといふことは疑問であらねばならなかつた。否、すくなくともさうした幻影はまだこれから先何遍も破壊されるであらうと思はれた。ことに『狼』の中に書いてある男女の争闘心理は、あれはまだ極めて初心ではないかと思つた。初心であるがために、ああいふ形に出て行つたのではないか。男女の争闘といふものはああした叙述的なものでなくて、もつとピリピリしたものではないか。説明すればすぐその気分がそこからにげて行つてしまふやうなものではないか。お互に黙つて歯を食ひしばつてゐて、そしてお互に肉体的に精神的にひとつになることをねらつてゐるやうなものではないか。争闘は争闘でも、男同士の争闘、女同士の争闘とは、全くその種類を異にしてゐるのではないか。かう私は思つた。しかし、この作にもさういふところはいくらかあるにはある。あの背中を向けてゐた男が他愛なく女の手にまかれてしまふあたりなどがそれである。あそこいらはいい。しかし、その説明することの出来ない気分、それを表はすことがむづかしいので、作者はわるく色を濃く塗つてゐる。誇張してゐる。ケバケバしいものにしてゐる。結果として、女の言葉などまで、いひさうもないことをいはせてある。微妙な心持や気分をあらはすことの出来ないために、最初にはまつて行つた誇張から更につぎの誇張へと走つて行つてゐる。そしてその度毎にその『自然らしさ』を失つてしまつてゐる。
『かがり火』は『狼』とは正反対だ。しかし『狼』よりいいともいへなかつた。私はそこに若い感情の柔かに展げられたのを見た。『狼』のやうな暗い男女の争闘の代りに、初心な、おぼこな恋の事件のゑがかれてあるのを見た。『狼』では、苦虫をかみ潰したやうな作者を見たが、ここでは無邪気な、余りにいい気になり過ぎた作者を見た。ひとつは毒々しい赤いカンナの花、ひとつは田舎娘に似たモモの花を私は思ひ浮べた。
 これに引きかへて、田中純の『老牧師』は、モウパツサンの深いところは取らずに、その通俗なところだけ取つたといふやうな感じのする作だつた。まとまつてはゐるけれども、それは中年の作者達に常に見るまとめ方で、そこからは何等の新らしさをも輝かしさをも見出すことが出来なかつた。『狼』『かがり火』『木枯の日』『鼻眼鏡』などといふ作は、それは欠点はあるにしても、何処かに新しい、まだ型にはまらない、そこから何かすぐれたものが生れ出して来さうな感じが味ははれるけれども、『窮鳥』や『義母』や『雪解の流れ』や『皮肉の報酬』や『金』や、またはこの作からなどは、いくらうまくつても、いくらまとまつてゐても、別に大して変つたものが生れ出して来やうとは思へなかつた。それは何故だらう? それは前にもいつたが、難きを避けて易きにつき、芸術的の緊張を内部に欠き、馴れた手法で非難の少ないもののみをつくり、一刻といへども活動しなければならないはずの芸術家が、一ところに停滞して、丸で食もたれのやうな形になつてゐるためではないか。中年作家の奮励を望まずにはゐられない。
「文芸と宗教」に出てゐる山崎あきら[#「火+武」、U+2AE35、481-1]の『おせいの上京』は達者ではあるが、またその素質においては濁りはないと思ふが、ややあつけないといふ気がした。もう一節も二節もあつて然るべきものだと思つた。それに、一体かういふ書き方は、もつと濃淡の影をつけたり、事件の面白味を加へたりしなければ、全体の感じが引立つて来ないのではないかしら? 私の好みからいへば、前にいつた若い作家達のものなどよりも、技巧的には無論すぐれてゐるとは思ふけれども、しかもその作者の内部の芸術的感興においては、あまり活動してゐるとは思へなかつた。
 木村毅の『郊外の家』は小説といふべきほどのものではなかつた。しかし、家の周囲に来る小鳥だのリスだの尾長鳥だの蛇だのを書いたあたりは、ちよつと私にある興味を持たせた。無邪気な作者もよかつた。
 長田秀雄の『塹壕ざんごうの内』はちよつとした一幕物だ。結末の中隊長の言葉が、もつと強く出て来れば、一種のある深い意味を着けて来たかも知れなかつたが、これでは中隊長の部下に対する愛憎――更にいひ換れば、人間の集合の中に必然にかもされて来る愛憎をゑがいたものとしか思へなかつた。従つて舞台が塹壕の中の必死な場合であるに拘はらず、小さくしきられた感じしかそこから受取ることが出来なかつた。
 私の机の周囲に置かれてあつた雑誌は、これであら方批評し尽したが、しかも私はこれだけでは満足が出来なかつた。今月は書かなかつた人のものについても、もう少しいつて見なければ折角批評しても本当に文壇を評したとは言へないやうな気がした。久保田、芥川、里見、佐藤、室生などといふ作者については、殊にもう少し何かいつて見たかつた。しかしこれは月評だ。あまり先月や先々月のものを批評するのもおかしなものだ。否、現に、二三やつても見たが、何うも本当のことがいへないので作者にも気の毒な感じがした。だから、ここでは、これで満足して、少しばかり今の文壇についていつて見たいと思ふ。
 私の考では今の文壇は、余りに技巧的になり過ぎてはゐないか。第一義的でなくて、第二義的第三義的になりつつありはしないか。面白いといふことを中心にしてはゐないか。否、中心にしないまでにも、無意識にさういふ風になりつつありはしないか。社会運動などを社会的と誤解して通俗小説が好いなどと思つてはしないか。一体技巧的になるといふことは、労れたことだ。本当に内部の芸術的活動が盛んであれば、ひとり手に技巧が伴つて来るのはあたり前のことである。技巧はいふをまたないことといつて好いのである。だから作者としては、本当に感ずる。本当に第一義的にこの人生と人間とに触れる。第一義的に社会の欠陥にも触れる。そして内部の芸術的活動を盛んにする。かういふ意志が先づ一番先きに動いて行かなければならないはずである。そしてその次に至つて初めて好いものを書かう、すぐれたものを書かうといふ作者的要求が起つて来なければならない筈である。ところが、意志の発達の盛んな時には、さういふことは元より当然で、別に疑ひを持つてゐず、ドシドシ刹那的に、また燃焼的に新陳代謝して行つてゐるけれども、少しでもその体と心とが衰へて来れば、眼に見えて技巧的にか低徊的にかなつて来るのはまことに止むを得ないことである。
 だから技巧的になるといふことは好いことではない。また、面白いものを書かうと思ふことも好いことではない。作者の頭は常に活溌々地で、何んなものでも、すぐひびいて来るやうでなければいけない。それから長く停滞してゐる形が好くない。
 大抵の作者は一段階をつくるまでは努力奮闘するが、一度そこに達すると、誰でもほつと呼吸をつくものである。いや、ほつと息をつくぐらゐなら好いけれども、大抵はそこらでえらくなつて停滞する。そして今まで骨を折つてつくつて来た作なり作の心持なりに愛着する。それがいけない。つまりそれが張詰てゐない証拠である。もつと努力がさかんで内部の芸術的活動が盛んであれば、完成したものとして、振返つても見ずに、すぐ先きの活動に移つて行くはずである。自分でつくつたものがよく出来たとか、このり方が旨いとか、このしわやひだのきざみ方が細かいとか、また他の書いたものが拙いとか、うまいとか、なつてゐるとかゐないとかいつて低徊してゐるやうなことはないはずである。否、もう一度いひ換へれば、この人生や宇宙が片時も活動をやめてゐないと同じやうに絶えず活躍をつづけて行かなければならないはずである。それが作者達の第一義的生命である。
 従つて文壇的意識――自己の文壇に於ける位置とか、自己の文壇に於ける勢力とか、自己が折角奮闘してつくり上げた傾向とか、さういふものにこだはつて来るといふことは、その作者の内部の低徊的に技巧的に立つて来た第一歩で、そこから内部の活動が次第に鈍つて行くのである。中年の作者が振はないのなども、ひとつは前に言つたやうに生活の重荷から、ひとつはさういふ形からやはり孕まれて来てはゐはしないかと私は思ふ。
 それからもう一歩進むと、かういふことが言へる。内部の活動が刹那的、燃焼的であれば、一方は大きな自然にもそのまま肉迫して行くことが出来ると共に、一方では社会の欠陥、社会の堕落といふことにも、人一倍敏感的になつて行つて、本能的にそれに触れて行くことが出来るやうになる。従つて自然的作家であると共に、社会的作家であることが出来る。しかしこの境は非常にむづかしい。大抵な人は、これを一緒にせずに、離れ/″\に見てしまふ。現に、ある人にいはせると、心境的といふこと、自然的といふことは、それは静止的なもので、それにこだはつてゐては、とても活溌々地に心を動かして行くことが出来ないといつてゐるけれども、それは見方が小さいので、棒を空中に廻した円のその円端の動くのだけを見て、その円の中心から動いてゐるのを見ないやうなものである。自然はひとところに停滞してゐるやうに見えてゐても、実は矢張すさまじい力を持つて絶えずこの空間に回転してゐるのである。
 だから、この刹那的に燃焼した心境を常に保持してゐるといふことが一番肝心で、これさへ活躍して居れば、何もいふことはないのである。その中には、社会問題も、階級問題も、文化問題も、何も彼も入つて行つてしまつてゐるのである。宗教も芸術も何も彼もその中に解けて入つて行つてしまつてゐるのである。久し振りで、文壇諸君の作に接して、感ずるところも得るところも多かつた。礼を失するやうな言葉も中にはあつたと思ふが、それは何うか許してもらひたいと思ふ。(十三年三月十一日)





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「夜坐」金星堂
   1925(大正14)年6月20日
初出:「報知新聞 第一六九〇九〜第一六九一九号」
   1924(大正13)年3月3日〜13日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:岡村和彦
2018年2月25日作成
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●表記について

「火+武」、U+2AE35    481-1


●図書カード