明治の末頃、田辺
先生のお家は麹町の屋敷町の中に置き忘れられたやうな古いちひさい家で、八畳二間と玄関の三畳、それに二畳の板の間がお座敷の西側にあつて水屋に使はれてゐた。お弟子の私たちはお玄関にゆかず、しをり戸からお庭にはいり、お庭の飛石を渡つてすぐ椽側に上がるのだつた。三十坪ぐらゐの狭いお庭は草がとても風流に繁つて、たけの長い草は抜かれるらしく、曲りくねつた小径には苔やつる草の中にちらちら飛石が見え、その先きの方に三四本の短かい木や灌木が植込みになつて、その先きの青い世界が約束されてゐた。
先生は未婚のまま学問や和歌で加賀百万石の前田家に仕へて御老女をつとめられ、
その後先生は外出される日が多いので、留守居を置かれた。わかい後家さんで七八つの女の子をつれてゐる人だつた。八畳のお座敷の次の間も八畳で、茶の間兼寝室であつたが、留守居の人たちは食事する時と寝る時はこの部屋で、ひるまは玄関の三畳で針仕事をしてゐた。このお留守居はどこか地方の町方の人らしく意気な下町らしいところと田舎らしい質素な様子もあつて、好い人と思はれた。彼女が来てから半年とも経たないうちに、先生は不意に脳溢血で倒れて昏睡状体のまま十日ほど寝てをられたが、この人が細かに面倒を見て上げたのである。
早くから他家に縁づかれたお妹さんも電報の知らせですぐ上京したけれど、久しいあひだ遠遠しくなつてゐたお姉さんの家の事は何も分らず、ただ枕もとに坐つてゐるだけのことで、私たちお弟子も毎日のやうに顔を出して二時間ぐらゐづつは先生の看病をして上げた。内親王がたをお教へしてゐた小川女史が唯一の親友であつたから、夜になるとたびたび顔を出され色々と相談して下すつた。お留守居の人から聞いたことだが、お妹さんが上京されてすぐに箪笥の抽斗や行李の中も立合ひの上で開けて見たけれど、小だんすの抽斗に郵便局の貯金帳があつて、三千なにがしのお金があるだけで、ほかにどこにも先生のお金が見えない、お妹さんが困つていらつしやると彼女が言つてゐた。先生のやうな聡明な方が、何十年も働らいて質素な暮しをつづけて、何処かに老後のための貯へをして置かれたに違ひないが、それを先生のほかに誰が知つてゐるか、これは身寄りの方たちがずゐぶん困ることだらうと思はれた。
宮様方からは立派なお見舞のお菓子や果物の籠が届いて床の間がせまくなつてしまつた。十日目になつて先生はふいと目をあけてそこらを見廻された。妹さんやお留守居の人は喜んで声を出して呼びかけたが、口はきかれず何か探すやうな様子で、しまひには右手を出して何か持つやうな手の格好であつたので、試しに鉛筆を持たせて上げると、それを器用に持たれた、それでは紙をと、小さい手帖を出して、字が書けるやうな位置にだれかが手で押へて上げると、先生は暫らく考へる姿でやがて鉛筆をうごかして何か書かれた。そばの人たちは息をひそめて待つてゐたが、鉛筆をぱたんと落して疲れたやうに眼をつぶられた。遺言と、みんなが思つた。その手帖をとり上げて妹さんが読み、つぎつぎにそばの人も読んで、みんな首をかしげた。手帖には字もはつきりと、「子猫ノハナシ」と書いてあつた。
先生はそれきり眼をあかず眠りつづけて翌朝亡くなられた。妹さんはがつかりし、お留守居の人は興味を持つてこの話を私たちお弟子に話してくれた。新聞記者も二人ばかり訪ねて来て「子猫ノハナシ」を不思議がつたが、それはただ先生の夢の中の話なので、それきり後日談もなかつた。お葬式はすばらしく立派で賑やかで、私たちお弟子はみんな人力を連ねてお寺に送つて行つた。
ながい年月が過ぎた今でも私は時々先生をおもひ出す、先生がぴたりと坐つてをられる静かな姿と、そして最後のあの「子猫ノハナシ」と。さめない眠りの中で私も童話のやうな子猫の世界に遊びにゆけたら幸福であらうと思つたりする。