震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって
惜まれる小さな遺跡や建物がある。
淡島寒月の
向島の旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして
旧廬の再興を志ざしているが、再興されても先代の
椿岳の
手沢の存する
梵雲庵が復活するのではない。
向島の
言問の手前を
堤下に
下りて、
牛の
御前の鳥居前を
小半丁も行くと左手に少し引込んで
黄蘗の禅寺がある。牛島の弘福寺といえば
鉄牛禅師の開基であって、
白金の瑞聖寺と
聯んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島名物の一つに数えられた
大伽藍が松雲和尚の刻んだ
捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に
尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳
旧棲の梵雲庵もまた
劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩得
涅槃」の両
聯も、訪客に異様な眼を

らした小さな
板碑や五輪の塔が
苔蒸してる小さな
笹藪も、小庭を前にした椿岳旧棲の四畳半の画房も皆焦土となってしまった。この画房は椿岳の
亡い後は寒月が禅を談じ俳諧に遊び
泥画を描き人形を
捻る工房となっていた。椿岳の伝統を破った
飄逸な画を鑑賞するものは先ずこの旧棲を訪うて、画房や
前栽に
漾う一種異様な
蕭散の気分に浸らなければその画を身読する事は出来ないが、今ではバラックの
仮住居で、故人を
偲ぶ旧観の片影をだも認められない。
寒月の名は
西鶴の発見者及び元禄文学の復興者として
夙に知られていたが、近時は画名が段々高くなって、
新富町の焼けた
竹葉の本店には
襖から
袋戸や
扁額までも寒月ずくめの寒月の
間というのが出来た位である。寒月の放胆
無礙な画風は先人椿岳の
衣鉢を
承けたので、寒月の画を鑑賞するものは更に椿岳に
遡るべきである。
椿岳の画の豪放
洒脱にして伝統の画法を無視した偶像破壊は明治の初期の沈滞
萎靡した画界の珍とする処だが、更にこの
畸才を産んだ時代に遡って椿岳の一家及び環境を考うるのは明治の文化史上頗る興味がある。
加うるに椿岳の生涯は江戸の末李より明治の初期に渡って新旧文化の
渦動に触れている故、その一代記は最もアイロニカルな時代の文化史的及び社会的側面を語っておる。それ故に椿岳の生涯は普通の画人伝や畸人伝よりはヨリ以上の興味に富んで、過渡期の畸形的文化の特徴が椿岳に
由て極端に人格化された如き感がある。
言換えれば椿岳は実にこの不思議な時代を象徴する不思議なハイブリッドの一人であって、その一生はあたかも江戸末李より明治の初めに
到る文明急転の絵巻を展開する如き興味に
充たされておる。椿岳小伝はまた明治の文化史の最も興味の深い一断片である。
(大正十三年十月補記)
椿岳の名は十年前に日本橋の画博堂で小さな展覧会が開かれるまでは今の新らしい人たちには余り知られていなかった。展覧会が開かれても、案内を受けて参観した人は極めて小部分に限られて、シカモ多くは椿岳を
能く知ってる人たちであったから、今だにその画をも見ずその名をすらも知らないものが決して少なくないだろう。先年或る新聞に、
和田三造が椿岳の画を見て、日本にもこんな
豪い名人がいるかといって感嘆したという噂が載っていた。この噂の虚実は別として、この新聞を見た若い美術家の中には椿岳という画家はどんな豪い芸術家であったろうと好奇心を
焔やしたものもまた決して少なくないだろう。椿岳は
芳崖や
雅邦と争うほどな巨腕ではなかったが、世間を茶にして
描き
擲った
大津絵風の得意の泥画は「
俺の画は死ねば値が出る」と生前豪語していた通りに十四、五年来著るしく随喜者を増し、書捨ての断片をさえ高価を懸けて争うようにもてはやされて来た。
椿岳の画は今の展覧会の
絵具の分量を競争するようにゴテゴテ盛上げた画とは本質的に
大に違っておる。大抵は悪紙に描きなぐった泥画であるゆえ、田舎のお大尽や成金やお大名の座敷の床の間を飾るには不向きであるが、悪紙悪墨の中に
燦めく奔放無礙の
稀有の健腕が
金屏風や錦襴表装のピカピカ光った画を
睥睨威圧するは、丁度
墨染の麻の衣の禅匠が役者のような
緋の衣の坊さんを
大喝して三十棒を
啗わすようなものである。
この椿岳は
如何なる人物であった
乎。椿岳を語る前に先ずこの不思議な人物を出した淡島氏の家系に遡って一家の来歴を語るは、江戸の文化の断片として最も興味に富んでおる。
椿岳及び寒月が淡島と名乗るは維新の新政に
方って町人もまた
苗字を戸籍に登録した時、屋号の淡島屋が世間に通りがイイというので淡島と改称したので、本姓は
服部であった。かつ椿岳は維新の時、事実上淡島屋から別戸して小林城三と名乗っていたから、本当は淡島椿岳でなくて小林椿岳であるはずだが、世間は前身の淡島屋を
能く知ってるので淡島椿岳と呼び、椿岳自身もまた淡島と名乗っていた。が、実は小林であったか、淡島であったか、ハッキリしない処が椿岳らしくてイイ。この離籍一条は後に譲るとして先ず淡島屋の祖先について語ろう。
淡島氏の祖の服部喜兵衛は今の寒月から四代前で、
本とは
上総の
長生郡の
三ヶ
谷(今の鶴枝村)の農家の子であった。次男に生れて
新家を立てたが、若い
中に妻に死なれたので幼ない
児供を残して国を飛出した。性来
頗る器用人で、
影画の紙人形を切るのを売物として、
鋏一挺で日本中を廻国した変り者だった。
挙句が江戸の
馬喰町に落付いて
旅籠屋の「ゲダイ」となった。この「ゲダイ」というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談
対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の
屋外囲の用事は何でも引受ける
重宝人であった。その頃訴訟のため
度々上府した
幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを喜兵衛は大切に保管して、翌年再び上府した時、財布の
縞柄から金の員数まで一々細かに尋ねた後に返した。これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、或時、国の親類筋に亭主に死なれて困ってる家があるが入夫となって面倒を見てもらえまいかと頼まれた。喜兵衛は納得して幸手へ行き、
若後家の入夫となって先夫の子を守育て、傾き掛った身代を首尾よく
盛返した。その家は今でも連綿として栄え、初期の議会に埼玉から多額納税者として貴族院議員に撰出された野口氏で、喜兵衛の
位牌は今でもこの野口家に
祀られている。
然るに喜兵衛が野口家の後見となって身分が
定ってから、故郷の三ヶ谷に残した子の十一歳となったを幸手に引取ったところが、
継の母との
折合が面白くなくて間もなく江戸へ逃出し、親の縁を
手頼に馬喰町の
其地此地を
放浪いて働いていた。その中に同じ
故郷人が小さな
軽焼屋の店を出していたのを譲り受け、親の名を継いで二代目服部喜兵衛と名乗って軽焼屋を初めた。その時が十六歳であった。屋号を淡島屋といったのは喜兵衛が附けたのか、あるいは以前からの屋号であったか判然しない。商牌及び袋には浅草御門内馬喰町四丁目淡島伊賀掾菅原秀慶謹製とあった。これが名物淡島軽焼屋のそもそもであった。
軽焼という名は今では殆んど忘られている。軽焼の後身の
風船霰でさえこの頃は忘られてるので、場末の駄菓子屋にだって滅多に軽焼を見掛けない。が、昔は江戸の名物の一つとして頗る
賞翫されたものだ。
軽焼は
本と南蛮渡りらしい。通称
丸山軽焼と呼んでるのは初めは長崎の丸山の名物であったのが後に京都の丸山に転じたので、軽焼もまた他の文明と同じく長崎から次第に東漸したらしい。尤も長崎から
上方に来たのはかなり古い時代で、西鶴の作にも軽焼の名が見えるから
天和貞享頃には最う上方
人に賞翫されていたものと見える。江戸に渡ったのはいつ頃か知らぬが、
享保板の『続江戸
砂子』に軽焼屋として浅草誓願寺前
茗荷屋九兵衛の名が見える。みょうが屋の商牌は今でも残っていて
好事家間に珍重されてるから、享保頃には相応に
流行っていたものであろう。二代目喜兵衛が譲り受けた軽焼屋はいつごろからの店であったか、これも解らぬが、その頃は最早軽焼屋の店は
其処にも
此処にもあってさして珍らしくなかったようだ。
が、長崎渡りの珍菓として
賞でられた軽焼があまねく世間に広がったは
疱瘡痲疹の流行が原因していた。江戸時代には一と口に痲疹は
命定め、疱瘡は
容貌定めといったくらいにこの二疫を小児の健康の関門として恐れていた。尤も今でも防疫に警戒しているが、衛生の届かない昔は殆んど一年中間断なしに流行していた。
就中疱瘡は津々浦々まで種痘が行われる今日では到底想像しかねるほど猛列に流行し、
大名高家は
魯か将軍家の大奥までをも犯した。然るにこの病気はいずれも食戒が厳しく、間食は絶対に禁じられたが、今ならカルケットやウェーファーに比すべき軽焼だけが無害として許された。殊に軽焼という名が病を軽く済ますという
縁喜から喜ばれて、
何時からとなく疱瘡痲疹の病人の間食や見舞物は軽焼に限られるようになった。
随ってこの病気が
流行れば流行るほど、恐れられれば恐れられるほど軽焼は益々
繁昌した。軽焼の売れ行は疱瘡痲疹の流行と終始していた。
二代目喜兵衛は頗る商才があった。軽焼が疱瘡痲疹の病人向きとして珍重されるので、疱瘡痲疹の
呪いとなってる
張子の赤い
木兎や赤い
達磨を一緒に売出した。店頭には四尺ばかりの大きな赤達磨を飾りつけて
目標とした。
その頃は医術も衛生思想も幼稚であったから、疱瘡や痲疹は人力の及び難ない疫神の
仕業として、神仏に頼むより外に手当の施こしようがないように恐れていた。それ故に医薬よりは迷信を
頼ったので、赤い木兎と赤い達磨と軽焼とは唯一無二の神剤であった。
疱瘡の色彩療法は医学上の根拠があるそうであるが、いつ頃からの風俗か知らぬが
蒲団から何から何までが赤いずくめで、
枕許には赤い木兎、赤い達磨を初め赤い
翫具を列べ、疱瘡ッ子の
読物として
紅摺の絵本までが
出板された。軽焼の袋もこれに
因んで木兎や達磨の紅摺であったが、喜兵衛は更に袋の新らしい
工風をした。その頃は何に
由らず彩色人の摺物は絵双紙屋組合に加入しなければ作れなかったもので、喜兵衛はこれがために組合へ加入して、世間の軽焼の袋が
紅一遍摺であるに反して、
板下に念を入れた数遍摺の美くしい錦絵のような袋を作った。疱瘡痲疹の患者は大抵児供だから、この袋が
忽ち大評判となって一層繁昌した。(椿岳の代となって自から
下画を描いた事があるそうだ。軽焼屋の袋は一時好事家間に珍がられて
俄に市価を生じたが、
就中淡島屋のは最も珍重されて菓子袋としては馬鹿げた高価を呼んだ。今では一時ほどではないが、やはり相当の価を持ってるそうだ。)
喜兵衛の商才は淡島屋の名を広めるに少しも油断がなかった。その頃は神仏
参詣が唯一の
遊山であって、流行の神仏は参詣人が群集したもんだ。今と違って遊山半分でもマジメな信心気も相応にあったから、必ず先ず
御手洗で手を清めてから参詣するのが作法であった。随って手洗い
所が一番群集するので、喜兵衛は思附いて浅草の観音を初め
深川の不動や
神田の明神や柳島の妙見や、その頃
流行った諸方の神仏の手洗い所へ
矢車の家紋と馬喰町軽焼淡島屋の名を染め抜いた
手拭を納めた。納め手拭はいつ頃から初まったか知らぬが、少くも喜兵衛は最も早く率先して盛んにこれを広告に応用した最初の一人であった。
さらぬだに淡島屋の名は美くしい錦絵のような袋で広まっていたから、淡島屋の軽焼は江戸一だという評判が益々高くなって、大名高家の奥向きから
近郷近在のものまで語り伝えてわざわざ馬喰町まで買いに来た。淡島屋のでなければ軽焼は風味も良くないし、疱瘡痲疹の
呪いにもならないように誰いうとなく言い
囃したので、疱瘡痲疹の流行時には
店前が市をなし、一々番号札を渡して
札順で売ったもんだ。自然遅れて来たものは札が請取れないから、前日に札を取って置いて翌日に買いに来るというほど繁昌した。丁度大学病院の外来患者の診察札を争うような騒ぎであったそうだ。
淡島屋の軽焼の袋の裏には次の
報条が摺込んであった。余り名文ではないが、淡島軽焼の売れた
所以がほぼ解るから、当時の広告文の見本かたがた全文を掲げる。
私店けし入軽焼の義は世上一流被為有御座候通疱瘡はしか諸病症いみもの決して無御座候に付享和三亥年はしか流行の節は御用込合順番札にて差上候儀は全く無類和かに製し上候故御先々様にてかるかるやきまたは水の泡の如く口中にて消候ゆゑあはかるやきかつ私家名淡島焼などと広く御風聴被成下店繁昌仕ありがたき仕合に奉存製法入念差上来候間年増し御疱瘡流行の折ふし御軽々々御仕上被遊候御言葉祝ひのかるかるやき水の泡の如く御いものあとさへ取候御祝儀御進物にはけしくらゐほどのいもあとも残り不申候やうにぞんじけしをのぞき差上候処文政七申年はしか流行このかた御用重なる御重詰御折詰もふんだんに達磨の絵袋売切らし私念願かな町のお稲荷様の御利生にて御得意旦那のお子さまがた疱瘡はしかの軽々焼と御評判よろしこの度再板達磨の絵袋入あひかはらず御風味被成下候様奉希候以上
以上の文句の通りに軽々と疱瘡痲疹の大厄を済まして
芥子ほどの
痘痕さえ残らぬようという縁喜が軽焼の売れた理由で、淡島屋の屋号のあわのように消えるというもまた淡島屋が殊に繁昌した所以であろう。
この文句に由ると順番札で売ったのは享和三年が初めらしいが、その後も疱瘡痲疹大流行の時は何度もこの繁昌を繰返し、喜兵衛の商略は見事に当って淡島屋はメキメキ肥り出した。
初代の喜兵衛も晩年には度々江戸に上って、淡島屋の帳場に座って
天禀の世辞愛嬌を
振播いて商売を助けたそうだ。初代もなかなか苦労人でかつ人徳があったが、淡島屋の身代の
礎を作ったのは全く二代目喜兵衛の力であった。
前記の
報条は多分喜兵衛自作の案文であろう。余り名文ではないが、喜兵衛は商人としては文雅の
嗜みがあったので、六樹園の門に入って
岡鹿楼笑名と号した。狂歌師としては無論第三流以下であって、笑名の名は狂歌の専門研究家にさえ余り知られていないが、その名は『狂歌
鐫』に残ってるそうだ。
喜兵衛は狂歌の才をも商売に利用するに
抜目がなかった。毎年の浅草の年の市(暮の十七、八の両日)には暮の
餅搗に使用する
団扇を軽焼の景物として出したが、この団扇に「景物にふくの団扇を奉る、おまめで年の市のおみやげ」という自作の狂歌を摺込んだ。この狂歌が呼び物となって、誰言うとなく淡島屋の団扇で餅を
煽ぐと運が向いて来るといい伝えた。昔は大抵な家では自宅へ職人を呼んで餅を
搗かしたもんで、就中、
下町の町家では暮の餅搗を吉例としたから淡島屋の団扇はなければならぬものとなって、毎年の年の市には景物
目的のお客が繁昌し、
魚河岸あたりの若い衆は五本も六本も団扇を
貰って行ったそうである。
これほどの才人であったが、
笑名は商売に忙がしかった
乎、但しは註文が難かしかった乎して、縁が遠くてイツまでも独身で暮していた。
その頃牛込の
神楽坂に榎本という
町医があった。毎日門前に商人が店を出したというほど流行したが、実収の多いに任して
栄耀に暮し、何人も
妾を抱えて六十何人の
児供を産ました。その何番目かの娘のおらいというは神楽坂
路考といわれた評判の美人であって、
妙齢になって御殿奉公から下がると降るほどの縁談が申込まれた。淡島軽焼の
笑名も美人の噂を聞いて申込んだ一人であった。
然るに六十何人の大家族を抱えた榎本は、
表面は
贅沢に暮していても内証は苦しかったと見え、その頃は
長袖から町家へ縁組する例は滅多になかったが、
家柄よりは身代を見込んで笑名に札が落ちた。商売運の目出たい笑名は女運にも果報があって、
老の
漸く
来らんとするころとうとう一の
富を突き当てて妙齢の美人を妻とした。
尤も笑名はその時は最早ただの軽焼屋ではなかった。将軍家大奥の台一式の御用を勤めるお
台屋の株を買って立派な旦那衆となっていた。天保の
饑饉年にも、普通の平民は余分の米を蓄える事が許されないで
箪笥に米を入れて
秘したもんだが、淡島屋だけは幕府のお台を作る
糊の原料という名目で大びらに米俵を積んで置く事が出来る身分となっていた。が、富は
界隈に並ぶ者なく、妻は若くして美くしく、財福艶福が一時に集まったが、半世の奮闘の
労れは功成り意満つると共に俄に健康の衰えを来した。加うるに艶妻が
祟をなして二人の娘を挙げると間もなく
歿したが、若い美くしい寡婦は賢にして
能く婦道を守って淡島屋の
暖簾を傷つけなかった。
爰に
川越在の小ヶ谷村に内田という豪農があった。(今でもその家は歴とした豪農である。)その分家のやはり内田という農家に三人の男の子が生れた。総領は児供の時から胆略があって、草深い田舎で田の草を取って老朽ちる器でなかったから、これも早くから
一癖あった
季の弟の米三郎と二人して江戸へ乗出し、小石川は
伝通院前の
伊勢長といえばその頃の山の手切っての名代の質商伊勢屋長兵衛方へ奉公した。この兄が後に伊藤八兵衛となり、弟が椿岳となったので、川越の実家は二番目の子が相続して今でもなお連綿としておるそうだ。
椿岳の兄が伊藤の養子婿となったはどういう縁故であったか知らないが、伊藤の屋号をやはり伊勢屋といったので推すと、あるいは主家の伊勢長の一族であって、主人の
肝煎で養子に行ったのかも知れない。
伊藤というはその頃京橋十人衆といわれた幕府の勢力ある御用商人の一人で、家柄も
宜かったし、資産も持っていた。が、天下の大富豪と仰がれるようになったのは全く椿岳の兄の八兵衛の奮闘努力に由るので、幕末における伊藤八兵衛の事業は江戸の商人の
掉尾の大飛躍であると共に、明治の商業史の第一
頁を作っておる。
椿岳の米三郎が淡島屋の養子となったは兄伊藤八兵衛の世話であった。「出雲なる神や結びし淡島屋、伊勢八幡の恵み受けけり」という自祝の狂歌は縁組の径路を証明しておる。(伊勢八幡というは伊藤八兵衛の通り名を伊勢八と称したからである。)
媒合わされた娘は先代の笑名と神楽坂路考のおらいとの間に生れた総領のおくみであって、二番目の娘は分家させて質屋を営ませ、その養子婿に淡島屋嘉兵衛と名乗らした。本家は風流に隠れてしまったが、分家は今でも馬喰町に繁昌している。地震の火事で丸焼けとなったが、再興して依然町内の
老舗の
暖簾といわれおる。
椿岳の米三郎は早くから絵事に志ざした風流人であって、
算盤を
弾いて身代を肥やす商売人肌ではなかった。初めから
長袖を志望して、ドウいうわけだか
神主になる
意でいたのが兄貴の世話で淡島屋の婿養子となったのだ。であるから、金が自由になると
忽ちお
掛屋(今の銀行業のようなもの。)の株を買って、町人ながらも玄関に木剣、
刺叉、袖がらみを列べて、ただの軽焼屋の主人で満足していなかった。丁度兄の伊藤八兵衛が本所の
油堀に油
会所を建て、水藩の名義で金穀その他の運上を扱い、業務上水府の家職を初め諸藩のお留守居、勘定役等と交渉する必要があったので、伊藤は
専ら椿岳の米三郎を交際方面に当らしめた。
伊藤は
牙籌一方の人物で、眼に一丁字なく、かつて
応挙の
王昭君の幅を見て、「椿岳、これは
八百屋お七か」と
訊いたという奇抜な逸事を残したほどの無風流漢であった。随って商売上武家と交渉するには多才多芸な椿岳の
斡旋を必要としたので、八面
玲瓏の椿岳の才機は伊藤を助けて算盤玉以上に伊藤を
儲けさしたのである。
伊藤八兵衛の成功は幕末に
頂巓に達し、江戸一の大富限者として第一に指を折られた。元治年中、水戸の
天狗党がいよいよ旗上げしようとした時、八兵衛を
後楽園に呼んで小判五万両の賦金を命ずると、小判五万両の才覚は難かしいが二分金なら三万両を御用立て申しましょうと答えて、即座に二分金の耳を
揃えて三万両を出したそうだ。御一新の御東幸の時にも、
三井の献金は三万両だったが八兵衛は五万両を献上した。またどういう仔細があったか知らぬが、維新の際に七十万両の古金銀を石の
蓋匣に入れて地中に埋蔵したそうだ。八兵衛の富力はこういう事実から推しても大抵想像される。その割合には名前が余り知られていないが、一生の事業と活動とは維新の商業史の重要な頁を作っておる。今では堀田伯の住邸となってる本所の故宅の庭園は伊藤の全盛時代に椿岳が設計して金に飽かして作ったもので、一木一石が八兵衛兄弟の
豪奢と才気の名残を留めておる。地震でドウなったか知らぬが大方今は散々に荒廃したろう。(八兵衛の事蹟については某の著わした『天下之伊藤八兵衛』という単行の伝記がある、また『太陽』の第一号に依田学海の「伊藤八兵衛伝」が載っておる。実業界に徳望高い某子爵は
素と八兵衛の使用人であって、先年物故した夫人はタシカ八兵衛の遺子であった。)
椿岳は晩年には世間離れした奇人で名を売ったが、若い時には相当に世間的野心があってただの町人では満足しなかった。油会所時代に水戸の支藩の廃家の株を買って小林城三と改名し、水戸家に金千両を献上して
葵の御紋服を拝領し、帯刀の士分に列してただの軽焼屋の主人ではなくなった。椿岳が小林姓を名乗ったは妻女と折合が悪くて淡島屋を離別されたからだという説があるが全く誤聞である。椿岳が小林姓を名乗ったのは
名聞好きから士族の廃家の株を買って再興したので、小林城三と名乗って別戸してからも多くは淡島屋に
起臥して依然主人として待遇されていたので、小林城三でもありまた淡島屋でもあったのだ。
尤もその頃は武家ですらが蓄妾を許され、町家はなお更家庭の道徳が
弛廃していたから、さらぬだに放縦な椿岳は小林城三と名乗って別に一戸を構えると小林家にもまた妻らしい女を迎えた。今なら重婚であるが、その頃は
門並が殆んど一夫多妻で、妻妾一つ家に顔を列べてるのが一向珍らしくなかったのだから、女房を二人持っても格別不思議とも思われなかった。そういう時勢であったから椿岳は二軒
懸持の旦那で
頤を
撫でていたが、淡島屋の妻たるおくみは男
勝りの
利かぬ気であったから椿岳の放縦気随に
慊らないで自然段々と
疎々しくなり、勢い椿岳は小林の新らしい妻にヨリ深く
親むようになった。かつ淡島屋の身代は先代が作ったので、椿岳は天下の伊藤八兵衛の幕僚であっても、身代を作るよりは減らす方が
上手で、養家の身代を少しも伸ばさなかったから、こういう
破目となると自然淡島屋を遠ざかるのが当然であって、維新後は互に往来していても家族的関係は段々と薄らいで来た。
それ故、維新後は本姓の服部よりは世間に通りの
好い淡島と改称して、世間からも淡島と呼ばれていたが、戸籍面の本姓が小林であるばかりでなく、事実上淡島屋を別戸していた。随って椿岳の
後継は二軒に
支れ、正腹は淡島姓を継ぎ、庶出は小林姓を名乗ったが、二軒は今では関係が絶えて小林の跡は盛岡に住んでるそうだ。
が、小林にしろ淡島にしろ椿岳の画名が世間に歌われたのは維新後であって、維新前までは馬喰町四丁目の軽焼屋の服部喜兵衛、
又の名を小林城三といった油会所の
手代であった。が、伊藤八兵衛の
智嚢として円転滑脱な才気を存分に振ったにしろ、根が町人よりは
長袖を望んだ風流人
肌で、
算盤を持つのが本領でなかったから、維新の変革で油会所を閉じると同時に伊藤と手を分ち、淡島屋をも去って全く新らしい生活に入った。これからが
満幅の奇を思うままに発揮した椿岳の真生活であって、軽焼屋や油会所時代は椿岳の先史時代であった。
椿岳の浅草生活は維新後から明治十二、三年頃までであった。この時代が椿岳の最も奇を吐いた盛りであった。
伊藤八兵衛と手を分ったのは維新早々であったが、その頃は伊藤もまだ盛んであったから椿岳の財嚢もまたかなり豊からしかった。浅草の
伝法院へ度々融通したのが縁となって、その頃の伝法院の住職唯我教信と
懇ろにした。この教信は
好事の癖ある風流人であったから、椿岳と意気投合して隔てぬ中の友となり、日夕往来して
数寄の遊びを
侶にした。その頃椿岳はモウ世間の名利を思切った顔をしていたが、油会所の手代時代の算盤気分がマダ抜けなかったと見えて、世間を驚かしてやろうという道楽五分に
慾得五分の算盤玉を
弾き込んで一と山当てるツモリの商売気が十分あった。その頃どこかの
気紛れの外国人がジオラマの
古物を横浜に持って来たのを椿岳は早速買込んで、唯我教信と相談して伝法院の庭続きの茶畑を
拓き、西洋型の船に
擬えた大きな
小屋を建て、
舷側の明り窓から西洋の景色や戦争の油画を覗かせるという趣向の
見世物を
拵え、
那破烈翁や
羅馬法王の油画肖像を看板として西洋
覗眼鏡という名で人気を
煽った。何しろ明治二、三年頃、江漢系統の洋画家ですら西洋の新聞画をだも
碌々見たものが少なかった時代だから、
忽ち東京中の大評判となって、当時の新らし物好きの文明開化人を初め大官貴紳までが見物に来た。人気の盛んなのは今日の帝展どころでなかった。油画の元祖の
川上冬崖は
有繋に名称を知っていて、片仮名で「ダイオラマ」と看板を書いてくれた。泰山前に
頽るるともビクともしない
大西郷どんさえも評判に釣込まれてワザワザ見物に来て、
大に感服して「万国一覧」という大字の扁額を
揮ってくれた。こういう大官や名家の折紙が附いたので
益々人気を
湧かして、浅草の西洋覗眼鏡を見ないものは文明開化人でないようにいわれ、我も我もと毎日見物の山をなして椿岳は一挙に三千円から
儲けたそうだ。
今なら三千円ぐらいは
素丁稚でも造作もなく儲けられるが、小川町や
番町あたりの大名屋敷や
旗下屋敷が御殿ぐるみ千坪十円ぐらいで
払下げ出来た時代の三千円は決して容易でなかったので、この奇利を
易々と
攫んだ椿岳の奇才は
天晴伊藤八兵衛の弟たるに恥じなかった。が、世間を思切って利慾を捨てた椿岳は、猿が木から木へと木の実を捜して飛んで行くように、金儲けから金儲けへと慾一方で
固まるのを欲しなかった。
明治七、八年頃、浅草の寺内が公園となって改修された。椿岳の
住っていた伝法院の隣地は取上げられて代地を下附されたが、代地が気に入らなくて
俺のいる所がなくなってしまったと苦情をいった。伝法院の唯我教信が
調戯半分に「淡島椿岳だから
寧そ淡島堂に住ったらどうだ?」というと、
洒落気と茶番気タップリの椿岳は忽ち
乗気となって、好きな事
仕尽して後のお
堂守も面白かろうと、それから以来椿岳は淡島堂のお堂守となった。
淡島堂というは一体何を
祀ったもの
乎祭神は不明である。
彦少名命を祀るともいうし、
神功皇后と応神天皇とを
合祀するともいうし、あるいは女体であるともいうが、
左に
右く紀州の
加太の淡島神社の分祠で、裁縫その他の女芸一切、女の病を加護する神さまには違いない。だが、この寺内の淡島堂は神仏混交の遺物であって、仏具を飾って
僧侶がお勤めをしていたから、椿岳もまた頭を
剃円めて
法体し、
本然と名を改めて
暫らくは淡島様のお守をしていた。
この淡島堂のお堂守時代が椿岳本来の面目を思う存分に発揮したので、奇名が忽ち都下に
喧伝した。当時朝から晩まで代る代るに訪ずれるのは類は友の変物奇物ばかりで、共に画を描き
骨董を品して遊んでばかりいた。
大河内子爵の先代や
下岡蓮杖や
仮名垣魯文はその頃の重なる常連であった。参詣人が来ると殊勝な顔をしてムニャムニャムニャと出放題なお経を
誦しつつお
蝋を上げ、帰ると直ぐ吹消してしまう本然坊主のケロリとした顔は随分人を喰ったもんだが、今度のお堂守さんは御奇特な感心なお
方だという評判が信徒の間に聞えた。
椿岳が浅草に
住っていたは維新後から十二、三年頃までであった。この時代が最も椿岳の奇才を発揮して奇名を売った時で、椿岳と浅草とは離れぬ縁の
聯想となった。浅草を去ったのは明治十二、三年以後で、それから後は牛島の梵雲庵に
梵唄雨声と
琵琶と三味線を
楽んでいた。
椿岳の出身した川越の内田家には
如何なる天才の血が流れていたかは知らぬが、長兄の伊藤八兵衛は末路は余り振わなかったが、一度は天下の伊藤八兵衛と鳴らした巨富を作ったし、弟の椿岳は天下を
愚弄した不思議な画家の生涯を送った。
だが、椿岳は根からの風流人でも奇人でもなかった。実は
衒気五分市気三分の
覇気満々たる男で、風流気は
僅に二分ほどしかなかった。生来の
虚飾家、エラがり屋で百姓よりも町人よりも武家格式の長袖を志ざし、伊藤八兵衛のお
庇で水府の士族の株を買って得意になって武家を気取っていた。が、幕府が
瓦解し時勢が一変し、順風に帆を揚げたような伊藤の運勢が
下り
坂に向ったのを看取すると、天性の覇気が脱線して
桁を
外れた変態生活に横流した。椿岳の生活の理想は俗世間に
凱歌を挙げて
豪奢に
傲る
乎、でなければ俗世間に
拗ねて
愚弄する乎、二つの路のドッチかより外なかった。
椿岳は奇才縦横円転滑脱で、誰にでもお愛想をいった。決して人を
外らさなかった。召使いの奉公人にまでも如才なくお世辞を
振播いて、「家の旦那さんぐらいお世辞の上手な人はない」と奉公人から
褒められたそうだ。伊藤八兵衛に用いられたのはこの円転滑脱な奇才で、油会所の外交役となってから益々練磨された。晩年変態生活を送った頃は年と共にいよいよ益々老熟して誰とでも如才なく交際し、初対面の人に対してすらも百年の友のように打解けて、
苟にも不快の感を与えるような顔を決してしなかったそうだ。
が、この円転滑脱は
天禀でもあったが、長い歳月に段々と練上げたので、ことさらに他人の機嫌を取るためではなかった。その上に余り如才がなさ過ぎて、とかく一人で取持って切廻し過ぎるのでかえって人をテレさせて、「椿岳さんが来ると座が白ける」と度々人にいわれたもんだ。円転滑脱ぶりが余りに傍若無人に過ぎていた。海に千年、山に千年の老巧手だれの交際上手であったが、人の顔色を見て
空世辞追従笑いをする人ではなかった。
淡島家の養子となっても、
後生大事に家付き娘の女房の御機嫌ばかり取る
入聟形気は
微塵もなかった。随分
内を
外の勝手
気儘に振舞っていたから、奉公人には内の旦那さんは好い旦那と褒められたが、細君には余り信用されもせず大切がられもしなかった。
殊にお
掛屋の株を買って多年の心願の一端が
協ってからは木剣、
刺股、
袖搦を玄関に飾って威儀堂々と構えて
軒並の町家を
下目に見ていた。世間並のお世辞上手な利口者なら町内の
交際ぐらいは格別
辛くも思わないはずだが、毎年の元旦に
町名主の玄関で
叩頭をして
御慶を
陳べるのを何よりも辛がっていた、負け嫌いの
意地ッ
張がこんな処に現われるので、心からの頭の低い如才ない人では決してなかった。小林城三となって後、金千両を水戸様へ献上して葵の時服を拝領してからの或時、この御紋服を着て馬上で町内へ乗込むと偶然町名主に
邂逅した。その頃はマダ葵の御紋の御威光が素晴らしい時だったから、町名主は御紋服を見ると
周章てて
土下座をして
恭やしく敬礼した。毎年の元旦に玄関で
平突張らせられた
忌々しさの
腹慰せが
漸とこさと出来て、
溜飲が
下ったようなイイ気持がしたと
嬉しがった。
表面は円転滑脱の八方美人らしく見えて、その実椿岳は容易に人に
下るを好まない
傲岸不屈の
利かん
坊であった。
作さんの家内太夫入門・東京で初めてのピヤノ弾奏者・椿岳名誉の琵琶・山門生活とお堂守・浅草の畸人の一群・椿岳の着物・椿岳の住居・天狗部屋・女道楽・明治初年の廃頽的空気
負け嫌いの椿岳は若い時から誰でも
呑んで掛って人を人臭いとも思わなかった。その頃横山町に家内太夫という
清元のお師匠さんがあった。椿岳はこのお師匠さんに弟子入りして清元の
稽古を初めたが、家族にも秘密ならお師匠さんにも淡島屋の主人であるのを秘して、手代か職人であるような顔をして作さんと称していた。それから暫らく経って椿岳の娘(寒月の姉)が同じお師匠さんに入門すると、或時家内太夫は「あなたのお店の作さんは大層出世をしたと見えてこの頃は馬に乗ってますネ、」といった。作さんという人は店に
在ないから、椿岳の娘は不思議に思って段々作さんという人の容子を聞くと、馬に乗ってるという事から推しても父の椿岳に違いないので、そんならお父さんですというと、家内太夫は初めて知って
喫驚したそうだ。椿岳は万事がこういう風に人を喰っていた。
浅草以来の椿岳の傍若無人な
畸行はこういう人を喰った気風から出ているのだ。明治四、五年頃、ピヤノやヴァイオリンが初めて横浜へ入荷した時、新らし物好きの椿岳は早速買込んで神田今川橋の或る
貸席で西洋音楽機械展覧会を開いた。今聞くと極めて珍妙な名称であるが、その頃は
頗るハイカラに響いたので、当日はいわゆる文明開化の新らしがりがギシと詰掛けた。この満場
爪も立たない聴衆の前で椿岳は
厳乎らしくピヤノの
椅子に腰を掛け、無茶苦茶に
鍵盤を
叩いてポンポン鳴らした。何しろ洋楽といえば少数の文明開化人が横浜で
赤隊(英国兵)の
喇叭を聞いたばかりの時代であったから、満場は
面喰って眼を白黒しながら聴かされて煙に巻かれてピシャピシャと拍手大喝采をした。文部省が音楽取調所を創設した頃から十何年も前で、椿岳は恐らく公衆の前でピヤノを弾奏した、というよりは叩いた最初の日本人であろう。(このピヤノは後に吉原の彦太楼尾張屋の主人が買取った。この彦太楼尾張屋の主人というは
藐庵や
文楼の系統を引いた当時の廓中第一の愚慢大人で、
白無垢を着て御前と呼ばせたほどの豪奢を極め、
万年青の名品を五百鉢から持っていた
物数寄であった。ピヤノを買ったのも音楽好きよりは珍らし物好きの愚慢病であった。が、日本の洋楽が椿岳や彦太楼尾張屋の楼主から開拓されたというは明治の音楽史研究者の余り知らない
頗る
変梃な秘史である。)
椿岳は諸芸に通じ、
蹴鞠の免状までも取った多芸者であった。お玉ヶ池に住んでいた頃、或人が
不斗尋ねると、
都々逸端唄から
甚句カッポレのチリカラカッポウ
大陽気だったので、
必定お客を呼んでの
大酒宴の
真最中と、
暫らく
戸外に
佇立って
躊躇していたが、どうもそうらしくもないので、やがて玄関に音なうと、ピッタリ三味線が止んで現れたのはシラフの
真面目な椿岳で、「イヤこれはこれは、今日は
全家が出払って余り
徒然なので、番茶を
淹れて
単りで
浮れていた処サ。」と。多芸も多芸であったが、こういう世間を茶にする
真似もした。
椿岳の多芸は評判であったが、中には随分人を喰った芸もあった。椿岳は平素琵琶を愛して片時も座右を離さなかったので、椿岳の琵琶といえばかなりな名人のように聞えていた。が、実はホンの
手解きしか稽古しなかった。その頃
福地桜痴が琵琶では鼻を高くし、桜痴の琵琶には悩まされながらも感服するものが多かった。負けぬ気の椿岳は業を煮やして、桜痴が
弾くなら俺だって弾けると、誰の前でも
怯めず臆せずベロンベロンと
掻鳴らし、勝手な節をつけては盛んに平家を
唸ったものだ。意気込の
凄まじいのと態度の物々しいのとに呑まれて、聴かされたものは大抵
巧いもんだと
出鱈目を感服したので、とうとう椿岳は琵琶の名人という事になった。椿岳は諸芸に通じていたに違いないが、中にはこういう人を喰った芸も多かった。
椿岳の山門生活も有名な
咄である。
覗目鏡を初める時分であった。椿岳は
何処にもいる処がないので、目鏡の工事の監督かたがた伝法院の許しを得て山門に
住い、昔から山門に住ったものは石川五右衛門と俺の外にはあるまいと頗る得意になっていた。或人が、さぞ不自由でしょうと
訊いたら、何にも不自由はないが毎朝
虎子を棄てに行くのが苦労だといったそうだ。
有繋の椿岳も山門
住居では夜は虎子の厄介になったものと見える。
淡島堂のお堂守となったはこれから数年後であるが、一夜道心の
俄坊主が殊勝な顔をして、ムニャムニャとお経を
誦んでお蝋を上げたは山門に住んだと同じ心の
洒落から思立ったので、信仰が今日よりも一層堕落していた明治の初年の宗教破壊気分を想像される。
浅草は今では活動写真館が軒を並べてイルミネーションを
輝かし、地震で全滅しても忽ち復興し、十二階が崩壊しても階下に巣喰った
白首は依然隠顕出没して災後の新らしい都会の最も低級な享楽を提供している。が、地震では真先きに亡ぼされたが、維新の破壊の手は一番遅れて浅草に及んだので、明治十四、五年ごろまでは江戸の気分がマダ浅草には漂っていた。一つは椿岳や下岡蓮杖や
鵜飼三次というような江戸の遺老が不思議に寺内に集って盛んに江戸趣味を発揮したからであった。この鵜飼三次というは学問の造詣も深く鑑識にも長じ、蓮杖などよりも率先して写真術を学んだほどの奇才で、一と頃
町田久成の古物顧問となっていた。この
拗者の江戸の通人が耳の
垢取り道具を
揃えて元禄の昔に立返って耳の垢取り商売を初めようというと、同じ拗者仲間の
高橋由一が負けぬ気になって
何処からか
志道軒の木陰を手に入れて来て
辻談義を
目論見、椿岳の浅草絵と
鼎立して
大に江戸気分を吐こうと計画した事があった。当時の印刷局長
得能良介は鵜飼老人と
心易くしていたので、この
噂を聞くと真面目になって心配し、印刷局へ自由勤めとして老人を
聘して役目で縛りつけたので、結局この計画は中止となり、高橋の志道軒も
頓挫してしまった。マジメに実行するツモリであったかドウか知らぬが、この時分はこうした
茶気満々な計画が
殆んど実行され掛ったほどシャレた時代であった。
椿岳は普通の着物が嫌いであった。
身幅の狭いのは職人だといってダブダブした着物ばかり着ていた。或時は
無地物に
泥絵具で
やたら縞を
描いたのを着ていた。晩年には益々
昂じて舶来の織出し模様の
敷布を買って来て、中央に穴を明けてスッポリ
被り、左右の腕に垂れた個処を
袖形に
裁って縫いつけ、
恰で
酸漿のお化けのような
服装をしていた事があった。この
服装が一番似合うと
大に得意になって写真まで
撮った。服部長八の
漆喰細工の肖像館という見世物に陳列された椿岳の
浮雕塑像はこの写真から取ったのであった。
椿岳は着物ばかりでなく、そこらで売ってる
仕入物が何でも嫌いで皆
手細工であった。
紙入や銭入も決して袋物屋の
出来合を使わないで、
手近にあり合せた袋で間に合わしていた。何でも個性を発揮しなければ気が済まないのが椿岳の
性分で、
時偶市中の出来合を買って来ても必ず何かしら椿岳流の加工をしたもんだ。
なお更住居には意表外の
数寄を凝らした。地震で焼けた
向島の梵雲庵は即ち椿岳の
旧廬であるが、玄関の額も
聯も自製なら、
前栽の
小笹の中へ板碑や塔婆を無造作に排置したのもまた椿岳独特の
工風であった。この小房の縁に
踞して前栽に対する時は誰でも一種特異の気分が湧く。
就中椿岳が常住起居した四畳半の壁に
嵌込んだ
化粧窓は
蛙股の古材を両断して合掌に組合わしたのを
外框とした火燈型で、
木目を洗出された時代の
錆のある
板扉の中央に取附けた鎌倉時代の鉄の
鰕錠が頗る椿岳気分を漂わしていた。更にヨリ一層椿岳の個性を発揮したのは、モウ二十年も前に
毀たれたが、この室に続く
三方壁の明り窓のない部屋であった。周囲を杉の皮で張って
泥絵具で枝を描き、畳の
隅に三日月形の穴を開け、下から
微かに光線を取って昼なお暗き大森林を
偲ばしめる趣向で、これを天狗部屋と称していた。この人の顔さえ定かならぬ薄暗い室に端座してベロンベロンと秘蔵の琵琶を掻鳴らす時の椿岳会心の微笑を想像せよ。恐らく今日の切迫した時代では到底思い
泛べる事の出来ない
畸人伝中の最も興味ある一節であろう。
椿岳の女道楽もまた畸行の一つに数うべきである。が、
爰に一つ註釈を加えねばならないのは元来江戸のいわゆる通人間には情事を風流とする伝襲があったので、江戸の通人の女遊びは一概に不品行呼ばわりする事は出来ない。このデカダン興味は江戸の文化の
爛熟が産んだので、江戸時代の
買妓や蓄妾は必ずしも
淫蕩でなくて、その中に極めて詩趣を
掬すべき情味があった。今の道徳からいったら人情本の
常套の団円たる妻妾の三曲合奏というような歓楽は
顰蹙すべき
沙汰の限りだが、江戸時代には富豪の家庭の美くしい理想であったのだ。
が、諸藩の勤番の
田舎侍やお江戸見物の
杢十田五作の買妓にはこの江戸情調が欠けていたので、芝居や人情本ではこういう田五作や田舎侍は
無粋な
執深の嫌われ者となっている。維新の革命で江戸の洗練された文化は田舎侍の
跋扈するままに荒され、江戸特有の遊里情調もまた根底から破壊されて殺風景なただの人肉市場となってしまった。蓄妾もまた、
勝誇った田舎侍が
分捕物の一つとして扱ったから、昔の江戸の武家のお
部屋や町家の
囲女の情緒はまるで
失くなって、丁度今の殖民地の「湾妻」や「満妻」を持つような気分になってしまった。当時の成上りの田舎侍どもが郷里の
糟糠の妻を忘れた新らしい
婢妾は
権妻と称されて紳士の一資格となり、権妻を度々取換えれば取換えるほど人に
羨まれもしたし自らも誇りとした。
こういう道義的アナーキズム時代における人の品行は時代の背景を
斟酌して考慮しなければならない。椿岳は江戸末季の廃頽的空気に十分浸って来た上に、更にこういう道義的アナーキズム時代に遭逢したのだから、さらぬだに世間の
毀誉褒貶を何の
糸瓜とも思わぬ放縦な性分に江戸の通人を
一串した風流情事の慾望と、淫蕩な田舎侍に荒らされた東京の廃頽気分とが結び付いて勢い女道楽とならざるを得なかった。椿岳は取換え引換え妾を持って、通り
掛りに自分の妾よりも美くしい女を見ると直ぐ換えたというほど盛んに取換えて、一生に百六十人以上の妾を持ったというはまた時代の悪
瓦斯に毒された畸行の一つであった。だが、この椿岳の女道楽を単なる漁色とするは時代を無視した
謬見である。
椿岳は物故する前二、三年、一時
千束に
仮寓していた。その頃女の断髪が流行したので、椿岳も妻女(小林家の)の頭髪を五分刈に短く刈らして、客が来ると紹介していう、これは同庵の尼でございますと。大抵のお客は
挨拶にマゴマゴしてしまった。その頃であった、或る若い文人が椿岳を
訪ねると、椿岳は開口一番「
能く来なましたネエ」と。禅の造詣が相当に深いこの若い文人も椿岳の「能く来なましたネエ」には老禅匠の一喝よりもタジタジとなった。
椿岳の畸行は書立てれば殆んど際限がないくらい朝から晩までが畸行の連続であった。芸術即生活は椿岳に
由て真に実現されたので、椿岳の全生活は放胆自由な椿岳の画そのままの全芸術であった。それ故に椿岳の画を見るには先ずその生活を知らねばならないので、その生活を知って
然る
後に初めてその画の真趣を理解する事が出来る。椿岳の画の妙味はその畸行と照応していよいよ妙味を深くする感がある。
椿岳の実家たる川越の内田家には芸術の血が流れていたと見えて、椿岳の生家にもその本家にも画人があったそうだ。椿岳も児供の時から画才があって、十二、三歳の頃に描いた
襖画が今でも川越の家に残ってるそうだが、どんな田舎の百姓家にしろ、襖画を描くというはヘマムシ
入道や「へへののもへじ」の
凸坊の自由画でなかった事は想像される。椿岳の画才はけだし天禀であったろう。
が、正式に画を習い初めたのは淡島屋の養子となってから後であった。小さい時から
長袖が志望であったというから、あるいは画師となって立派に門戸を張る心持がまるきりなかったとも限らないが、その頃は淡島屋も繁昌していたし、椿岳の兄の伊藤八兵衛は飛ぶ鳥を落す勢いであったから、画を生活のたつきとする目的よりはやはり金持の道楽として好きな道から慰みに初めたのであろうと思う。
椿岳が師と仰いで
贄を執ったのは
大西椿年であった。当時椿年は
蔵前に画塾を開いていたので、椿年の画風を喜んだというよりは馬喰町の家から近かったのでその門に入ったのだろう。椿岳の号は即ち師の一字を許されたのであった。椿年は
南岳の弟子で、南岳は応挙の
高足源
に学んだのだから、椿岳は応挙の正統の流れを汲んだ
玄孫弟子であった。
馬喰町時代の椿岳の画は克明に師法を守って少しも
疎そかにしなかった。その時代の
若書きとして残ってるもの、例えば先年の椿岳展覧会に出品された淡島嘉兵衛旧蔵の飛燕凝粧の図の如きは純然たる椿年派であって奔放
無礙の晩年の画ばかり知ってるものは一見して偽作と思うだろう。が、その家に伝わったもので、画は面白くなくても椿岳の師伝を証する作である。(この画は先年淡島家の売立てに出たので今は誰の所有に帰しているか解らぬ。)椿年歿して後は
高久隆古に就き、隆古が死んでからは専ら
倭絵の
粉本について自得し、
旁ら
容斎の
教を受けた。隆古には殊に傾倒していたと見えて、隆古の筆意は晩年の作にまで現れていた。いわゆる浅草絵の奔放
遒勁なる筆力は椿年よりはむしろ隆古から得たのであろう。が、師伝よりは
覚猷、
蕪村、
大雅、
巣兆等の豪放洒落な画風を学んで得る処が多かったのは一見直ちに認められる。
かつ何でも新らしもの好きで、維新後には洋画を学んで水彩は本より油画までも描いた。明治の初年に渡来した英国人の画家ワグマンとも深く交わった。特にワグマンについて真面目に伝習したとは思われないが、ブラシの使い方や絵具の用法等、洋画のテクニックの種々の知識を教えられた事はあるようだ。明治八、九年頃の画家
番附に淡島椿岳の上に和洋画とあるのを以て推すと、洋画家としてもまた相応に認められていたものと見える。今、残ってる椿岳の水彩や油画はいずれも極めて幼稚な作であるが、番附面における如く洋画家としてもまた多少認められていたとすると、椿岳の名は日本の洋画史の先駆者の一人としてもまた伝えられべきである
[#「伝えられべきである」はママ]。
かつ椿岳の水彩や油画は歴史的興味以外に何の価値がない幼稚の作であるにしろ、洋画の造詣が施彩及び構図の上に清新の創意を与えたは随所に認められる。その著るしきは先年の展覧会に出品された広野健司氏所蔵の
花卉の図の如き、これを今日の若い新らしい水彩画家の作と一緒に陳列しても
裕に清新を争う事が出来る作である。
椿岳の画はかくの如く
淵原があって、椿年門とはいえ好む処のものを広く
究めて
尽く
自家薬籠中の物とし、流派の因襲に少しも縛られないで覚猷も蕪村も大雅も応挙も椿年も皆椿岳化してしまった。かつかくの如く縦横無礙に勝手
気儘に描いていても、根柢には多年の研鑽工風があったので、決して初めから
出鱈目に描きなぐって達者になったのではなかった。
椿岳の画を学ぶや売るためでなかった。画家の交際をしていても画家と称されるのを欲しなかった。その頃の書家や画家が売名の手段は書画会を開くが唯一の策であった。今日の百画会は当時の書画会の変形であるが、展覧会がなかった時代には書画会以外に書家や画家が自ら世に紹介する道がなかったから、今日の百画会が無名の小画家の生活手段であると反して、当時の書画会は画を売るよりは名を売るを目的としてしばしば高名な書家や画家にすらも主催された。書画会を開かない画家文人は殆んど一人もなかった。
この書画会の
肝煎をするのが今の榛原や
紀友のような書画の材料商であって、当時江戸では今の榛原よりは一層手広く商売した馬喰町の扇面亭というが専ら書画会の世話人をした。同じ町内の
交誼で椿岳は扇面亭の主人とはいたって心易く
交際っていて、こういう
便宜があったにもかかわらず、かつて一度も書画会を開いた事がなかった。
尤も椿岳は富有の商家の旦那であって、画師の名を売る必要はなかったのだ。が、その頃に限らず富が足る時は名を欲するのが古今の金持の通有心理で、売名のためには随分馬鹿げた真似をする。殊に江戸文化の爛熟した幕末の富有の町家は大抵文雅風流を
衒って
下手な発句の一つも
捻くり
拙い画の一枚も描けば直ぐ得意になって本職を気取るものもあった。その中で
左に
右く画家として門戸を張るだけの技倆がありながら画名を売るを欲しないで、
終に一回の書画会をだも開かなかったというは市井町人の
似而非風流の売名を
屑しとしない椿岳の見識であろう。富有な旦那の
冥利として他人の書画会のためには千円からの金を棄てても自分は
乞丐画師の仲間となるのを
甘じなかったのであろう。
この
寛闊な気象は富有な旦那の時代が去って浅草生活をするようになってからも
失せないで、画はやはり風流として
楽んでいた、画を売って
糊口する考は少しもなかった。椿岳の個性を発揮した
泥画の如きは売るための画としてはとても考え及ばないものである。
椿岳の泥画というは絵馬や
一文人形を彩色するに用ゆる下等絵具の
紅殻、
黄土、
丹、
群青、
胡粉、
緑青等に少量の墨を交ぜて描いた画である。そればかりでなく
泥面子や
古煉瓦の破片を砕いて溶かして絵具とし、
枯木の枝を折って筆とした事もあった。その上に琉球
唐紙のような下等の紙を用い、興に乗ずれば
塵紙にでも浅草紙にでも
反古の裏にでも竹の皮にでも
折の
蓋にでも何にでも描いた。泥絵具は絹や鳥の子にはかえって調和しないで、悪紙粗材の方がかえって泥絵具の妙味を発揮した。
この泥画について一笑話がある。ツイ二十年ほど前まで日本橋の海運橋の
袂に
楢屋という
老舗の紙屋があった。この楢屋の主人はその頃マダ若かったが、先代からの江戸の通人で、文人墨客と広く交際していた。或時椿岳がフラリと来て、主人に向っていうには、俺の処へ画を頼みに来るものも多いが、紙ばっかりでトンと絹を持って来ない、どうだい、一つ絹に描かしてくれないかと。そんなら羽織の
胴裏にでも描いてもらいましょうと、楢屋の主人は早速
白羽二重を取寄せて頼んだ。椿岳は常から弱輩のくせに通人顔する楢屋が気に入らなかった
乎、あるいは羽織の胴裏というのが
癪に
触った乎して、例の泥絵具で
一気呵成に地獄変相の図を描いた。
頗る見事な出来だったので楢屋の主人も
大に喜んで、早速この画を胴裏として羽織を仕立てて着ると、故意乎、偶然乎、
膠が
利かなかったと見えて、絵具がベッタリ着物に附いてしまった。椿岳さんの画には
最う懲り懲りしたと、楢屋はその後椿岳の噂が出る度に頭を
掻き掻き苦笑した。
椿岳のいわゆる浅草絵というは淡島堂のお堂守をしていた頃の
徒然のすさびで、
大津絵風の泥画である。多分又平の風流に倣ったのであろう。十二枚袋入がたった一朱であった。袋の文字は大河内侯の揮毫を当時の浅草区長の町田今輔が
雕板したものだそうだ。慾も得もない書放しで、
微塵も匠気がないのが
好事の雅客に喜ばれて、浅草絵の名は忽ち好事家間に喧伝された。が、
素人眼には
下手で
小汚なかったから、自然粗末に扱われて今日残ってるものは極めて
稀である。椿岳歿後、下岡蓮杖が浅草絵の名を継いで泥画を描いていたが、蓮杖のは椿岳の真似をしたばかりで椿岳の洒脱と筆力とを欠き、同じ浅草絵でも椿岳のとは似て非なるものであった。が、その蓮杖も二、三年前故人となって、浅草絵の名は今では全く絶えてしまった。
椿岳の浅草人形というは
向島に
隠棲してから後、第二博覧会の時、工芸館へ出品した伏見焼のような
姉様や七福神の泥人形であって、一個二十五銭の札を附けた数十個が一つ残らず売れてしまった。伏見人形風の彩色の上からニスを塗ったのが如何にも
生々しくて、椿岳の作としては余り感服出来ないものである。が、椿岳の奇名が鳴っていたから、椿岳の作といえば何でも風流がってこの人形もまた相応に評判されたもんだ。今でも
時偶は残っていて、先年の椿岳展覧会にも二、三点見えたが、椿岳の作では一番感服出来ないものであった。尤もニスを塗った処が椿岳の自慢で、当時はやはり新らしかったのである。
椿岳は画を売って糊口したのではなかった。貧乏しても画を売るを
屑しとしなかった。浅草絵は浅草紙に泥絵具で描いたものにしろ、十二枚一と袋一朱ではナンボその頃でも絵具代の足しにもならなかったは明かである。
その頃
何処かの
洒落者の
悪戯であろう、椿岳の
潤筆料五厘以上と
吹聴した。すると何処からか聞きつけて「
伯父さん、絵を描いておくれ」と五厘を持って来る児供があった。コイツ面白いと、
恭やしく五厘を奉書に包んで頼みに来る洒落者もあった。椿岳は喜んで受けて五厘の潤筆料のため絵具代を損するを何とも思わなかった。
尤もその頃は今のような途方もない画料を払うものはなかった。
随って相場をする根性で描く画家も、株を買う
了簡で描いてもらう依頼者もなかった。時勢が違うので
強ち直ちに気品の問題とする事は出来ないが、当時の文人や画家は今の小説家や美術家よりも
遥かに利慾を超越していた。椿岳は晩年画かきの仲間入りをしていたが画かき根性を最も脱していた。
が、画かき根性を脱していて、画料を
貪るような
卑しい心が微塵もなかった代りに、製作慾もまた薄かったようだ。アレだけの筆力も造詣もありながら割合に大作に乏しいのは
畢竟芸術慾が風流心に
禍いされたのであろう。椿岳を大ならしめたのも風流心であるが、小ならしめたのもまた風流心であった。
椿岳を応挙とか
探幽とかいう巨匠と比較して芸術史上の位置を定めるは無用である。椿岳は画人として応挙や探幽と光を争うような巨人ではない。が、応挙や探幽の大作の全部を集めて捜しても決して発見されない椿岳独特の一線一画がある。椿岳には小さいながらも椿岳独自の領分があって、この領分は応挙や探幽のような巨匠がかつて一度も足を踏入れた事のない処女地であった。
縦令この地域は
狭隘であり
磽
であっても厳として独立した一つの王国であった。椿岳は実にこの椿岳国という新らしい王国の主人であった。
この椿岳国の第一の名産たる画はどんな作である乎、先年の椿岳展覧会は一部の好事家間に計画されたので、平生相知る間を集めて展観したのだから、この展覧会で椿岳の画の全部を知る事は出来なかったが、ほぼその画風を
窺う事は出来た。
椿岳の画は大津絵でも
鳥羽絵でもない、蕪村でも大雅でもない。尺寸の
小幀でも椿岳一個の生命を宿している。古人の
先蹤を追った歌舞伎十八番のようなものでも椿岳独自の個性が
自ずから現われておる。多い作の中には不快の感じを与えられるものもあるが、この不快は椿岳自身の性癖が禍いする不快であって、因襲の追随から生ずる不快ではない。この
瑜瑕並び
蔽わない特有の個性のありのままを少しも飾らずに
暴露けた処に椿岳の画の尊さがある。
椿岳の画は大抵小品小幀であって大作と
見做すべきものが殆んどない。尤もその頃は今の展覧会向きのような大画幅を滅多に描くものはなかったが、殊に椿岳は画を風流とする心に
累せられて、寿命を縮めるような製作を嫌っていた。十日一水を画き五日一石を画くというような
煩瑣な労作は椿岳は
屑しとしなかったらしい。が、椿岳の画は書放しのように見えていても実は決して書放しではなかった。椿岳は一つの画を作るためには何枚も何枚も
下画を描いたので、死後の
筐底に残った無数の下画や粉本を見ても平素の細心の尋常でなかったのが解る。椿岳の画は大抵一気呵成であるが、椿岳の一気呵成には人の知らない多大の準備があったのだ。
椿岳が第一回博覧会に出品した画は恐らく一生に一度の大作であろう。一体椿岳が博覧会に出品するというは奇妙に感ずるが、性来珍らし物好きであったから画名を売るよりは博覧会が珍らしかったのである。俺は貧乏人だから絹が買えないといって、
寒冷紗の裏へ黄土を塗って地獄変相図を極彩色で描いた。尤も極彩色といっても泥画の小汚い極彩色で、ことさらに寒冷紗へ描いた処に椿岳独特のアイロニイが現れておる、この画は守田宝丹が買ったはずだから、今でも宝丹の家蔵になってるわけだが、地震の火事でどうなった乎。
池の
端にあったならこの椿岳の一世一代の画も大方焼けてしまったろう。
第二回だか第三回だかの博覧会にも橋弁慶を出品して進歩二等賞の銅牌を受領した。この画は今
何処にあるか、所有者が不明である。元来椿岳というような
旋毛曲りが今なら帝展に等しい博覧会へ出品して賞牌を
貰うというは少し
滑稽の感があるが、これについて面白い
咄がある。丁度賞牌を貰って帰って来た時、下岡蓮杖が来合わした。こんなものよりか金の一両も貰った方が
宜かったと、椿岳がいうと、そんなら一両で買いましょうと、一円出して蓮杖は銅牌を貰って帰った。橋弁慶の
行衛は不明であるが、この弁慶が
分捕りした銅牌は今でも蓮杖の家に残ってるはずだが、これも多分地震でどうかしてしまったろう。
今戸の大河内家には椿岳に似つかわしい奇妙な大作があった。大河内家の先代
輝音侯というは頗る風流の貴族で常に文墨の士を近づけた。
就中、椿岳の
恬淡洒落を愛して方外の友を以て遇していた。この大河内家の客座敷から横手に見える
羽目板が
目触りだというので、椿岳は工風をして
廂を少し
突出して、羽目板へ
直接にパノラマ風に天人の画を描いた。椿岳独特の奇才はこういう処に発揮された。この天人の画は椿岳の名物の一つに数えられていたが、惜しい
哉羽目板だから破損したかあるいは
雨晒しになって
散三になってしまったろう。幸い無事に保存されていても今戸は震害地だったから地震の火事で焼けてしまったろう。
椿岳は晩年には『徒然草』を好んで、しばしば『徒然草』を画題とした。堀田伯爵のために描いた『徒然草』の
貼交ぜ
屏風一双は椿岳晩年の作として傑作の中に数うべきものであって、その下画らしいものが先年の椿岳展覧会にも二、三枚見えた。依田学海翁の漢文の椿岳伝が屏風の裏に
貼ってあったそうだが、学海の椿岳伝は『
譚海』の中にも載っていない。定めし椿岳の面目を躍如たらしめた奇文であったろうと思う。が、伯爵邸は地震の中心の本所であったから、屏風その物からして多分焼けてしまったろうし、学海の逸文もまた失われてしまったろう。
椿岳の大作ともいうべきは牛込の円福寺の本堂の
格天井の
蟠龍の図である。円福寺というは紅葉の旧棲たる横寺町の、
本との芸術座の直ぐ傍の
日蓮宗の寺である。この寺の先々住の日照というが椿岳の岳母榎本氏の出であったので、俗縁の関係上、明治十七、八年ごろ本堂が落成した時、椿岳は頼まれて本堂の格天井の画を描いた。
椿岳はこの依頼を受けると殆んど毎日東京の諸寺を
駈巡って格天井の蟠龍を見て歩いた。いよいよ着手してから描き終るまでは誰にも会わないで、この画のために亡師椿年から譲られた応挙伝来の秘蔵の
大明墨を使用し尽してしまったそうだ。椿岳が一生の大作として如何にこの画に精神を注いだかは想像するに余りがある。幸いこの画は地震の禍いをも受けずに今なお残っているが、画が画だからマジメに伝統の法則を守った作で、椿岳独自の画境を見る事は出来ない。が、椿岳の画の深い根柢や豪健な筆力を
窺う事が出来る大作である。
この本堂の内陣の土蔵の
扉にも椿岳の
麒麟と
鳳凰の画があったそうだが、惜しい
哉、十数年前修繕の際に
取毀たれてしまった。
円福寺の方丈の書院の床の間には
光琳風の
大浪、四壁の
欄間には林間の
羅漢の百態が描かれている。いずれも椿岳の大作に数うべきものの一つであるが、就中大浪は柱の外、
框の外までも奔浪畳波が
滔れて椿岳流の放胆な筆力が十分に現われておる。
円福寺に伝うる椿岳の諸作の中で最も見るべきものは方丈の二階の一室の九尺二枚の
大襖である。図は四条の河原の涼みであって、
仲居と舞子に
囲繞かれつつ歓楽に興ずる一団を中心として幾多の
遠近の涼み台の群れを
模糊として描き、京の夏の夜の夢のような歓楽の
軟かい気分を全幅に
漲らしておる。が、惜しい哉、十年前一見した時既に
雨漏や
鼠のための汚損が甚だしくして見る影もなかった。当時案内の
雛僧を通じて補修して大切に保存すべき由を住職に伝えたが、今はドウなったか知らん。
円福寺の画にはいずれも落款がないので椿岳の作たるを忘れられておる。椿岳の洒々落々たる画名を
市るの
鄙心がなかったのはこれを以ても知るべきである。が、落款があっても淡島椿岳が如何なる画人であるかを知るものは極めて少なく、
縦令名を知っていても芸術的価値を認むるものが更にいよいよ少ないのだから、円福寺に限らず、ドコにあっても椿岳の画は粗末に扱われて
児供の
翫弄となり鼠の巣となって亡びてしまったのがかなり多いだろう。
が、椿岳の画は大津絵や絵馬のように単なる趣味一遍で鑑賞すべきものではない。
僅に数筆を
塗抹した泥画の寸紙の中にも芸衛的詩趣が
横溢している。造詣の深さと創造の力とは誠に近世に
双びない妙手であった。
椿岳は余り旅行しなかった。晩年大河内子爵のお
伴をして俗に
柘植黙で通ってる
千家の茶人と、同気相求める三人の変物
揃いで東海道を
膝栗毛の気散じな旅をした。天龍まで来ると
川留で、半分落ちた橋の上で座禅をしたのが椿岳の最後の奇の吐きじまいであった。
臨終は明治二十二年九月二十一日であった。牛島の梵雲庵に病んでいよいよ最後の息を引取ろうとするや、
呵々大笑して
口吟んで
曰く、「今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれが初めて」と。六十七歳で眠るが如く大往生を遂げた。天王寺墓域内、「吉梵法師」と
勒された墓石は今なお
飄々たる洒脱の
風
を語っておる。
椿岳は生前画名よりは奇人で聞えていた。一風変った画を描くのは誰にも知られていたが、極彩色の土佐画や花やかな四条派やあるいは
溌墨淋漓たる
南宗画でなければ気に入らなかった当時の大多数の美術愛好者には大津絵風の椿岳の泥画は余り喜ばれなかった。椿岳の画を愛好する少数
好事家ですらが丁度朝顔や
万年青の変り種を珍らしがると同じ心持で芸術のハイブリッドとしての椿岳の奇の半面を鑑賞したに過ぎなかったのだ。
椿岳の画が俄に
管待やされ
初して市価を生じたのはマダ
漸く十年かそこらである。その市価を生じた直接の原因は、商売人の
咄に
由るとやはり外国人が
頻りに感嘆して買出したからであるそうだ。日本人はいつでも外国人に率先される。
写楽も
歌麿も
国政も
春信も外国人が買出してから騒ぎ出した。外国人が
褒めなかったなら、あるいは褒めても高い価を払わなかったなら、古い錦絵は
既くの昔し
張抜物や、屏風や襖の
下張乃至は
乾物の袋にでもなって、今頃は一枚残らず
失くなってしまったろう。少くも貧乏な
好事家に
珍重されるだけで、
精々が
黄表紙並に扱われる位なもんだろう。今でこそ写楽々々と猫も
杓子も我が物顔に感嘆するが、外国人が折紙を附けるまでは日本人はかなりな浮世絵好きでも写楽の写の字も知らなかったものだ。その通りに椿岳の画も外国人が買出してから俄に市価を生じ、日本人はあたかも魔術者の杖が石を化して金とするを驚異する如くに眼を

って忽ち椿岳
蒐集熱を長じた。
因襲を知るものは勢い因襲に
俘われる。日本人は画の理解があればあるほど
狩野派とか四条派とか南宗とか北宗とかの在来の各派の画風に
規矩され、
雪舟とか
光琳とか
文晁とか
容斎とかいう昔しの巨匠の作に
泥んだ眼で杓子定規に鑑賞するから、
偶々芸術上のハイブリッドを発見しても容易に芸術的価値を与えようとしない。外国人は因襲を知らないから少しも因襲に
累わされないで、自己の鑑賞力の認めるままに直ちに芸術的価値を定める。この通弊は単に画のみの問題でなく、また
独り日本ばかりの問題でもない。
総ての公平な判断や真実の批評は常に民族的因襲や国民的偏見に累わされない外国人から聞かされる。就中、芸術の真価が外国人の批評で確定される場合の多いは
啻に日本の錦絵ばかりではないのだ。
二十年前までは椿岳の
旧廬たる梵雲庵の画房の戸棚の隅には椿岳の遺作が
薦縄搦げとなっていた。余り沢山あるので
椽の下に
投り込まれていたものもあった。寒月の咄に由ると、くれろというものには誰にでも
与ったが、余り沢山あったので与り切れず、その頃は欲しがるものもまた余りなかったそうだ。ところが椿岳の市価が出ると忽ちバッチラがいで持ってってしまって、梵雲庵には書捨ての
反古すら残らなかった。椿岳から何代目かの淡島堂のお堂守は椿岳の相場が高くなったと聞いて、一枚ぐらいはドコかに
貼ってありそうなもんだと、お堂の
壁張を残る
隈なく
引剥がして見たが、とうとう一枚も発見されなかったそうだ。
だが、椿岳の市価は西洋人が買出してから俄に高くなったのだが、それより以前に椿岳の画の価値を認めたものが日本人にまるきりないわけではなかった。洋画界の長老
長原止水の如きは最も早くから椿岳を随喜した一人であった。ツイ昨年
易簀した洋画界の
羅馬法王たる
黒田清輝や
好事の聞え高い前の
暹羅公使の
松方正作の如きもまた早くから椿岳を蒐集していた。が、椿岳の感嘆者また蒐集家としては以上の数氏よりも遅れているが、最も熱心に蒐集したのは銀座の
天
居であった。天

居といっては誰も余り知るまいが、天金といったら東京の名物の一つとしてお
上りさんの赤ゲットにも知られてる
旗亭の主人である。天

居は風雅の好事家で、珍書稀本書画骨董の蒐集家として聞えているが、近年殊に椿岳に傾倒して天

居の
買占が椿岳の相場を狂わして俄に騰貴したといわれるほど金に糸目を附けないで集めたもんで、
瞬く間に百数十幅以上を蒐集した。
啻だ数量ばかりでなく優品をも収得したので、天

居は
追ては蒐集した椿岳の画集を出版する計画があったが、この計画が実現されない中に、
惜い
哉、この比類のない蒐集は大震災で
烏有に帰した。天

居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に
頒った椿岳の画短冊は
劫火の中から
辛うじて拾い出された椿岳蒐集の記念の片影であった。
が、椿岳の最も
勝れた蒐集が烏有に帰したといっても遺作はマダ散在している。椿岳の傑作の多くは
下町に所蔵されていたから、大抵震火に亡びてしまったろうと想像されるが、椿岳独特の画境は大作よりはむしろ尺寸の小幀に発揮されてるから、再び展覧会が開かれたら意外の名幅がドコからか現れるかも知れない。かつ高価を支払われて外国へ流出したものも沢山あるらしいから、
追付けクルトやズッコのお
仲間が日本人の余り知らない傑作の複製を挿図した椿岳画伝を出版して欧洲読画界を動揺する事がないとも限られない。「俺の画は死ねば値が出る」と
傲語した椿岳は
苔下に会心の微笑を
湛えつつ、「そウら見さっしゃい、印象派の表現派のとゴテ付いてるが、ゴークやセザンヌは
疾っくに俺がやってる哩」とでも
脂下ってるだろう。
(大正十四年三月補訂)