綺堂君、
足下。
聡明なる読者諸君の
中にも、この物語に対して「
余り嘘らしい」という批評を下す人があるかも知れぬ。
否、足下自身も
或は
其一人であるかも知れぬ。が、
果して嘘らしいか
真実らしいかは、
終末まで読んで見れば自然に判る。
嘘らしいような不思議の話でも、
漸々に理屈を詮じ詰めて行くと、それ相当の
根拠のあることを発見するものだ。
勿論、僕は足下に対して、単にこの材料の
調書を提供するに過ぎない。
之を小説風に潤色して、更に読者の前に提供するのは、即ち足下の役目である。
宜しく頼む。
* * *
* * *
こんな手紙と原稿とを
突然に投げ付けられては、私も少しく
面食わざるを得ない。宜しく頼むと云われても、これは
余ほどの難物である。例えば、蟹だか蛸だか
鮟鱇だか
正体の判らぬ魚を
眼前へ突き付けて、「さあ、
之を
旨く食わして
呉れ」と云われては、大抵の料理番も
聊か
逡巡ぐであろう。
況んや素人の小生に於てをや。この包丁
塩梅甚だ心許ない。
随って実際は
真実らしい話も、私の廻らぬ筆に
因って、
却って嘘らしく聞えるかも知れぬが、それは
最初から
御詫を申して置いて、
扨いよいよ
本文に
取かかる。これは今から十七八年以前の昔話と御承知あれ。
北国をめぐる旅人が、
小百合火の夜燃ゆる
神通川を後に、
二人輓きの
人車に揺られつつ富山の町を出て、竹藪の多い村里に
白粉臭い女のさまよう
上大久保を過ぎると、
下大久保、
笹津の寂しい村々の柴
焚く
烟が車の上に流れて来る。
所謂越中平の平野はここに尽きて、岩を噛む神通川の激流を右に
視ながら、爪先上りに
嶮しい
山路を辿って行くと、眉を圧する
飛騨の山々は、
宛がら行手を
遮るように
峭り立って、気の弱い旅人を脅かすように見えるであろう。
けれども、地図によれば
此処らは
未だ越中の領分で、足腰の
疼痛に泣く旅人も無し、山霧に酔う女もあるまいが、更に進んで雲を
凌ぐ
庵峠を越え、川を
抱いたる
片掛村を過ぎて、越中飛騨の
国境という
加賀澤に着くと、天地の形が
愈よ変って来て、「これが飛騨へ入る第一の関門だな。」と、
何人にも一種の恐怖と警戒とを与えるであろう。
乱山重畳、
草鞋の
穿けぬ人の通るべき道ではない。
この加賀澤から更に二十里ほどの奥であると云えば、
其の地勢などは
委しく説明する必要もあるまい。そこに戸数八十戸ばかりの小さい
駅がある。山間の平地に開かれた町で、学校もあれば寺院もあり、
且は近年
其附近に銀山が拓かれるとか云うので、土地は
漸次に繁昌に
向い、小料理屋のようなものも二三軒出来て、
口臙脂の厚い女が
斯んな唄を謡う様になった。
行くにゃ辛いがお山は飛騨よ
黄金白金花が咲く
「
小旦那……小旦那……。
昨夜も
亦、
彌作の内で鶏を
盗られたと云いますよ。」
「鶏を……。誰に
盗られたろう。又、銀山の鉱夫の
悪戯かな。」と、若い主人は少しく眉を
顰めて、
雇人の七兵衛
老爺を
顧った。
「何、何、鉱夫じゃアねえ。」と、七兵衛は
頭を
掉って、「それ、例の……。」
「例の……。」
「

ですよ。」
「むむ、
山
か。ははははは。ここらでは
未そんなことを云ってるのか。」
若い主人は一笑に附し去ろうとしたが、七兵衛は固く信じて動かぬらしい。
「小旦那は幾ら東京で学問したって、そりゃア駄目でがすよ。現在、

が出て来るんだから仕方がねえ。論より証拠だ。」
若主人の名は
市郎、この
駅では第一の旧家と呼ばるる
角川家の一人息子である。
斯ういう山村に生れても、家が富裕であるお
庇に、十年以前から東京に遊学して、医術を専門に研究し、開業試験にも首尾好く合格して、今年の春から郷里に帰った。年は二十七歳で、色の浅黒い活発の
青年である。
ここは山村で昔から良い医師が無い。市郎の父は
之を憂いて、
倅には充分に医術を修業させ、将来は郷里で医師を開業させる
心組であった。市郎も
固より
其覚悟であったので、帰郷の後、半年ばかりは富山の
某病院の助手に雇われ、
此頃再び帰郷して
愈よ開業の準備に
取懸っている
中に、飛騨の山里は早くも冬を催して、霜に悩める
木葉は雨のように飛んだ。
十月の末ではあるが、朝の霜は白い。
其の白きを
履んで散歩する市郎の
許へ、
彼の七兵衛
老爺が駈けて来て、大きな眼と口とを
頻に働かせながら、
山
の一件を注進したのである。
対手が余り熱心であるので、市郎も
無下に跳ね付ける訳にも行かぬ。
「
然うかねえ。」と、軽く笑って、「僕等も
小児の時には
其んな話を聞いたことがあるが、
真実に

が出るのか。」
「
確に出ますよ。幾らも見た者があるんだから争われねえ。」
「そこで、
昨夜も彌作の
許で鶏を
盗られたんだね。」
「何でも
夜半のことだと聞きましたが、裏の
鶏舎で
羽搏の音が烈しく聞えたので、彌作が
窃と出て見ると、暗い中に例の

が立っている。彌作も
魂消て息を殺していると、

は
鶏舎の中から一羽を
握み出して、
ぎゅうと
頸を
捻って、
引抱えて
何処へか行って
了ったと云いますよ。」
「ふむ。」と、市郎は首を
拈って、「で、
其の

という奴は
何んなものだね。」
七兵衛は慌てて
遮って、更に前後を見廻して、若い主人を叱るように、
「奴なんぞと云うじゃアねえ。何処に
立聞をしていて、
何んな
祟をするか知れねえ。幾らお
前様が理屈を云ったって、

に逢ったが最後、
何んな人間だって
敵うものじゃねえから……。」
「じゃア、奴というのは
先ず取消にして、
兎にかく
其の

とかいう者に一度逢って見たいもんだね。」
「馬鹿云わっしゃい。」
若い主人は又叱られた。
ここで
鳥渡其の

なるものを説明して置く必要が有る。
此の土地に限らず、奥州にも九州にも昔から山男又は山

の名が伝えられている。
勿論、繁華の地には無いことであるが、山間の僻地では稀に
其姿を見ることがある。要するに猿とも人とも区別の付かぬ一種奇怪の動物で、中には人間の
詞を少しは解する者もあるとかいう。山

の
わろは
恐く
和郎という意味であろう。で、
大いのを山男といい、小さいのを山

と云うらしいが、
能くは判らぬ。まだ
其他に
山姥といい、
山女郎と云う者もある。これは
恐く彼等の女性であろう。
兎に
角に彼等は一種の魔物として、附近の里人から恐れられている。山深く迷い入った
猟夫が、暗い岩蔭に
嘯いて立つ奇怪の

を
視れば、銃を肩にして早々に逃げ帰る。万一
之に一発の
弾を与えたならば、熱病
其他の怖るべき
祟を
蒙って、一家は
根絶しになると信じられている。彼等は勿論深山の奥に棲んで、滅多に姿を見せることは無いが、時としては里に現われて食物を
猟る。
其場合には
矢張り一般の
盗賊の如くに、
成べく
白昼を避けて夜陰に忍び込み、鶏や米や魚や手当り次第に
攫って行く。
其の
素捷いことは
所謂猿の如くで、容易に
其影を捕捉することは
能ぬ。
又たとい
其姿を認めた者があっても、臆病な里人は決して
之を追おうとは試みない。
若し
迂濶に妨害を加えたらば、彼等は
何時如何なる復讐をするかも知れぬので、何事も殆ど

が為すままに任して置く。

に対する奇怪の伝説や歴史は、まだ
此他にも沢山あるが、概括して云えば
先ずこんなものである。
市郎も
此の土地に生れたので、
小児の時から
山
の話を聞いていた。「そんなに
悪戯をすると、山

に
与って
了いますよ。」と、
亡母から
嚇されたことも有った。が、多年東京の空気に
混っている
中に、そんなお伽話のような奇怪な伝説は、彼の
頭脳から
悉皆忘れられていたのを、今や再び七兵衛
老爺から叱るが如くに
諭されて、彼は夢のような少年当時の記憶を呼び
起すと同時に、
彼の山

なるものに
就て
尠からぬ好奇心を生じた。
「

とは何だろう。
矢はり猿か
狒々の一種か知ら。」と、市郎は
頻に考えた。
七兵衛が去った後の裏庭は
閑静であった。
旭日の紅い樹の枝に折々
小禽の啼く声が聞えた。差したる
風も無いに、落葉は相変らず
がさがさと舞って飛んだ。
「市郎、大分寒くなったな。」と、父の
安行が
背後から声をかけた。安行は今年六十歳の筈であるが、
年齢よりも
遥に若く見られた。
父がここへ来たのは
丁度幸いである。市郎は
彼の

に
就て父の意見を
訊すべく待ち構えていた。が、父の話は
其んな問題で無かった。
「時に
忠一さんから何か
消息があったか。」
「何でも来月初旬には帰郷するということでしたが……。」
「そうか。それは好都合だ。」と、父は満足の
笑を洩らした。
「ですが、私の為に
態々帰郷させるのも気の毒ですから、
此方は別に急ぐ訳でもないから、冬季休業まで延期しろと云って
与りました。」
「そう云って
与ったか。」と、安行は少しく不平らしい
口吻で、「当人が帰ると云うなら、帰って来いと云って
与れば
可いのに……。
成ほど、今の所でお前の婚礼を急ぐにも及ばないが、決った事は早く
行って
了うに限る。吉岡の
阿母さんも急いで居るんだからな。」
「でも、
一月や
二月を争うこともありますまい。」
「むむ。
阿母さんはまア
何うでも
可いとしても、
冬子さんが
嘸ぞ待っているだろう。」
市郎は少しく顔を染めた。
「まあ、
可い。」と、父は
首肯いて、「そんなら
其様に吉岡の
阿母さんの方へも云って置こうよ。
倅は
何うも冬子さんを嫌っているようですから、婚礼は当分
延しますと……。はははははは。」
安行は我子に
対っても、
何時も平気で冗談を云うのだ。市郎も笑って聞いていたが、やがて例の一件を思い出した。
「
阿父さん。あなたに伺ったら判るでしょうが、
昨夜彌作の
家で鶏を
奪られたそうですね。」
「むむ。七兵衛がそんなことを云ったよ。」
「私も七兵衛から聞いたんですが、山

が
奪ったとか云うことです。一体、

なんて云うものが実際居るんですかね。」
「さあ、居るとも云い、居ないとも云うが、俺にも
確然とは判らないね。」
「けれども、彌作は
確に
視たと云いますが……。どうも不思議ですよ。」
「不思議だね。」とばかりで、父は
此話を余り好まぬらしい。
「ねえ、
阿父さん。外国でも遠い田舎へ行くと、
種々不思議な話があるそうで……。
約り一種の迷信ですね。ここの山

なんて云うものも
矢はり
其の一つでしょう。わたくしは
之を十分に研究したいと思うんですが……。忠一君も
曾てそんな話を
為たことが有りましたよ。」
「

を研究したい。」と、安行は
稍や真面目になって、我子の顔を
凝と
視た。
「そうです。
恐く猿か何かでしょうな。」
「猿でも
猩々でも、そんなものには構わずに置くが
可い。先年駐在所の巡査が

を追って山の奥へ入ったら、
其留守に駐在所から火事が
始って、
到頭全焼になって
了ったことが有る。
加之も駐在所が一軒
焼で、近所には何の事も無かった。
其の巡査も後に病気になったそうだよ。」
物の道理を相当に心得ている筈の父安行すらも、
矢はり

を恐るる
一人であるらしい。市郎は
肚の中で
可笑く思った。

に対する市郎の好奇心は
愈よ募って来たので、彼は何とかして父を釣り出そうと試みた。
「あなたも

が怖いんですか。」
「怖いとも思わないが、好んで
其んなものに
関係う必要も無いじゃアないか。」
と、安行は
情なく答えた。
「
祖父さんは

を見たそうですね。」
「誰から聞いた。」
「死んだ
阿母さんから聞いたことがあります。」
「
祖父さんは

に殺されたのだ。」と、父は思わず
歎息を
吐いた。
市郎は驚いて飛び
上った。
「え、
祖父さんは

に……。
何うして殺されたんです。」
「そんな話は
止そうよ。」
一旦は
斯う云ったが、
到底黙って承知しそうもない我子の熱心な顔を見て、安行は又思い直したらしい。
「では、話して聞かせるから、まあ
此方へ来い。」と、父は先に立って、日当りの
好い小屋の前に進んだ。
午前十時、初冬の日は
愈よ暖かく
麗かになって、白い霜の消えて行く地面からは、
遠近に軽い煙を噴いていた。
南向の小屋の前には、二三枚の
莚が拡げて乾してあった。
父子はここに腰を
卸して、見るとも無しに
瞰上げると、青い大空を
遮る飛騨の山々も、昨日今日は落葉に痩せて尖って、
宛ら
巨大なる動物が
肋骨を
露わした
様にも見えた。
其骨の
尖角の間から洩るる大空が、気味の悪いほどに
澄切っているのは、
軈て真黒な雪雲を運び出す
先触と知られた。人馬の交通を
遮るべき厳寒の時節も
漸く迫り来るのである。
「今から
丁度五十年前の事だから、俺も
真実の話は
能くも知らない。後に
他から聞いたのだが……。」と、安行は我子を
顧って、「
矢はり今時分のことだ。お前の
祖父さんが隣村まで
用達に出かけて、日が暮れてから帰って来た。
其晩は
好い月夜で二三町先まで
能く見える。
祖父さんは少し酔っていたので、何か小唄を
謳いながら
ぶらぶら来ると、
路傍の樹の蔭から
可怪な者が
ちょこちょこ出て来た。猿のような、
小児のような者で、
矢はり
真直に立って歩いて行く。はて、不思議だと思いながら、
抜足をして
窃と
尾けて行くと、不意に赤児の泣声が聞えた。
熟視ると、
其奴が赤児を抱えていたのだ。」
市郎は息を詰めて聴いていた。
「そこで、
祖父さんも考えた。これは例の山

が
他の赤児を
攫って行くに相違ない。
対手が
対手だから大抵の事は見逃して置くが、人間を攫って行くのを
唯打捨って置く訳には行かぬ。
其当時の事だから、
祖父さんも腰に刀を
佩していたので、
突然に
ひらりと
引抜いて、
背後から「待てッ」と声をかけた。
対手は
振返って
屹と
此方を
視たが、
生憎に月を
背後にしているので
其顔は
能く判らなかった。」
「顔は判りませんでしたか。」と、市郎は失望の息を
吐いた。
「顔は判らなかったが、
暫時は
此方を睨んで居たらしかった。が、何分にも
此方は長い刃物を
振翳していたので、
対手も
流石に
気怯れがしたと見えて、抱えていた赤児を
其処へ
投り
出して、
直驀地に逃げて
了った。」
「
何地の方へ……。」
「あの山の方へ……。」と、安行は北を指さして、「
勿論、飛ぶように足が
疾いのだから、
到底追い付く訳には行かない。そこで、
祖父さんは
其の赤児を拾って帰って、
燈火の
[#「燈火の」は底本では「橙火の」]下で
熟視ると、生れてから
十月位にもなろうかと思われる男の児で、色の白い可愛い児であった。いずれ近所の人の児であろうと、
明る朝
方々へ問い合わして見たが、この
駅では
小児を
奪られた者は
一人も無い。隣村にも無い。
約り
何処から持って来たのだか判らずに
了った。」
「
其の
小児は
何うしました。」
「まあ、
漸々に話す。
其の
小児の事よりも、
先ず
祖父さんの方を話さなければならない。祖父さんは強い人であったから、別に何とも意にも
介めずにいた処が、
対手の方では執念深く怨んでいて、三日の後に残酷な復讐を
為たよ。」
安行の声は少しく
顫えて聞えた。
「復讐……。
山
が……。一体どんなことを
為ました。」と、市郎も思わず
摺寄ると、安行は今更のように嘆息した。
「それから三日目の晩に、
祖父さんは用があって又隣村まで行ったが、夜が更けても帰って来ないので、
家中の者も心配して、
松明を
点けて迎いに出た。
其晩は
真闇で、寒い山風が吹き
下していた。で、先夜山

から
小児を
奪返したという場所へ来ると、
祖父さんは血だらけになって死んでいた。さあ大騒ぎになって、よくよく死骸を
検めると、人か獣か知らないが何でも鋭い牙のある奴が、
背後から飛び付いて喉笛を食い破ったらしい。祖父さんも幾らかは防いだと見えて、手や足にも引っ掻かれた爪の痕が沢山あった。
勿論、
死人に口無しで、誰に
何うされたのか判らないが、祖父さんは
他から
恨を受けるような
記憶も無し、又普通の
追剥ならば
斯んな残酷な殺し方をする筈がない。
突然に人の喉笛に噛み付くなどと云うことは、普通の人間には容易に
能る芸で無い。それ等の事情から考えると、同じ場所といい、残酷な殺し方と云い、どうしても例の山

が先夜の復讐に来たとしか思われないのだ。いや、
確にそれに相違ないということに決着して、死骸は寺に葬った。すると、まだまだ驚くことが有る。」
斯う云って父は一息
吐いた。市郎も余りに奇怪なる物語に気を呑まれて、何とも
詞を
挿む勇気が無かった。
「それから
初七日の日に、親類一同が
式の如く寺参りに行くと、
祖父さんの墓は散々に掘り返されて、まだ生々しい死骸が椿の樹の高い枝に懸けてあった。
勿論、誰の仕業か知れないが、これも大抵は判っている。
其以来、土地の者は
愈よ山

を恐れるようになって、
今日まで誰も指をさす者が無いのだ。まあ、そんな訳だから何も好んで山

なんぞに
関係うことは無い、
打捨って置く方が
可いよ。」
「
成ほど不思議ですな。」と、市郎も何だか夢のように感じた。天狗や山男や、そんなものは未開時代の
昔語と
一図に信じていた彼の耳には、
此話が余りに新し過ぎて、殆ど虚実の判断に迷った。が、彼は一概に
之を馬鹿馬鹿しいと
蔑して
了うほどの
生物識でもなかった。市郎は
飽までも科学的に
此の怪物の秘密を
訐こうと決心したのである。
「それで、明治以後にも相変らず
其んな怪談が
屡々ありましたか。」
「さあ。」と、父も考えて、「今も云うような訳で、
此方では誰も手出しを
為ないから、
対手の方でも別に悪い事は
為ないらしい。時々に里へ出て来て鶏や野菜などを
掻っ
攫って
行くけれども、まあ
其位のことは
打捨って置くのさ。」
「警察でも構わないんですか。」
「昔は女や
小児を
攫ったと云うことだが、今は滅多にそんな噂を聞かない。で、人でも殺せば格別だが、
小泥坊をする位のことでは、警察でもまあ大目に見逃して置くらしい。
先刻も云った通り、巡査が一度
追掛けたことも有ったが、
到頭捉らなかった。何しろ、猿と同じように樹にも登る、山坂を平気で
駈る、
到底人間の足では追い付かないよ。
併し近所に銀山も拓けて、
漸々ここらも
賑かになるから、

も山奥へ隠れて
了って、余り出なくなるかも知れない。」
「そうですねえ。ここらも昔に比べると
余ほど開けて来ましたから……。」
「土地の繁昌は結構だが、銀山の鉱夫などが大勢
入込んで来たので、怪しげな料理屋などが
追々殖えて来るのは
些と困る。」と、安行は苦笑いした。
「今に山

も料理屋へ
上って、
甚九でも踊るようになるかも知れません。ははははは。」
父子は笑いながら内へ入った。
今日は
些とも風のない温かい日であった。
午餐の済んだ後、市郎は縁側に立って、庭の南天の紅い実を眺めていると、父の安行が又入って来た。
「
好い天気だな。
何うだ。運動ながら吉岡の
家へ
一所に行かないか。吉岡の
阿母さんに逢って、お前の婚礼を
延すことを一応
断って置こうと思うから……。」
「はあ、お
伴しましょう。」
市郎は散歩が
好であった。
加之も未来の妻たるべき冬子の家を訪問するのであるから、悪い
心地は
為なかった。早速に帽子を被って家を出た。
近来
賑かになったと云っても、
矢はり山間の古い
駅である。町の家々は昼も眠っているように見えた。
富山の友人から貰ったトムと云う大きな
西洋犬が、主人
父子の後を
遅々と
躡いて行った。
長くもない町を
行き
尽して、やがて
駅尽頭の
角に来ると、冬を怨む枯柳が殆ど枝ばかりで垂れている
傍に、千客万来と記した
角行燈を懸けて、
暖簾に柳屋と染め抜いた小料理屋があった。雪国の
習で、
板葺の軒は低く、奥の方は昼も薄暗い。
安行
父子が今やここの
門を通ると、
丁度出合頭に内から笑いながら出て来た女があった。年は二十二三でもあろう、髪は
銀杏返しの小粋な
風であった。
市郎の顔を見るや、
彼女は
俄に
衣紋を
繕って、「あら、若旦那……。」と、
叮嚀に挨拶した。市郎も黙って目礼した。
「よいお天気になりました。」と、女は
笑を含んで再び
詞をかけた。
「
好い天気になりましたなあ。」と、市郎も
鸚鵡返しに挨拶して、早々にここを行き過ぎた。女は枯柳の下に立って、
暫時は
其の後姿を見送っていた。
「お前はあの女を知っているのか。」
五六
間行き過ぎてから、安行は
低声で訊いた。
「いえ、知ってると云う程でも無いんですが、この夏、吉岡の忠一君が帰省した時に、
一所にあの
家へ飲みに行ったことが有るんです。何、
唯った一度ですよ。」
「そうか。
併し狭い土地だから、お前が角川の息子だと云うことは、
先方でも知ってるだろう。あんな
許へ
余り
出入するなよ。世間の口が
煩さい。」
「そうですとも……。あんな
家へは決して二度と
足踏は
為ませんよ。」と、市郎は
潔よく答えた。が、何を思い出したか、
嫣然笑いながら、「それでも忠一君は
彼の女に思惑でも有ったと見えて、
頻に
戯って騒いでいましたよ。」
「若い者には困るな。」と、安行も共に笑いながら、「あれは
酌婦だろう。何という名だ。」
「たしかお
葉と云いました。」
「お葉か。忠一が今度帰ったら
冷評て
与ろうよ。」
「
詰らない。お
止しなさいよ。あれでも表面は真面目なんですから……。」
「それだから
戯って
与るんだ。」
斯ういう
暢気な親父が、何故
山
なんぞを恐れるのだろうと、市郎は不思議に思いながら、
不図顧ると、自分達の後を追って来たトムの姿が見えない。
はて、何処へ行ったかと見廻すと、犬は
彼の柳屋の前に
止って、お葉から何か
食物を貰っているらしい。
「トム、トム……。」と、二三度呼んだが、犬は
食物に気を
奪られて、主人の声を
聞付けぬらしい。市郎は
舌打しながら
引返して来た。
「トム、トム……。」と、少しく声を
暴くして呼ぶと、犬は初めて心付いたらしく、
食物を捨てて駈け出そうとしたが、早くも
背後からお葉に抱かれて
了った。
「この犬は
良い犬ですね。」
「無闇に吠えて困るんです。」
「でも、
温良いわ。
妾、
此犬が
大好よ。」
「トム、トム……。」と、市郎は又呼んだ。犬は尾を
掉って行こうとしたが、お葉は相変らず
緊乎抱いていた。
「トム、トム……。」
市郎は重ねて呼びながら、犬の
頸に手をかけると、お葉は
傍へ寄って来て、
低声で少しく
怨恨を含んだように、
「あなた、あの
時限り
被入って下さらないのね。」
市郎は黙っていた。
「後生ですから、あなた
最う一度来て下さいな。え、お
厭ですか。え、どうしても厭……。来て下さらないの。」
「厭という事も無いんだが……。」と、市郎は返事に困って、思わず父の方を
顧ると、安行は
小半町ばかり先の
木蔭に立って、
此方を
凝と見詰めているので、市郎は何とも無しに赤面した。
「
兎にかく又来ますよ。」
詞短かに云い捨てて、無理に犬を
牽き出すと、お葉は漸く手を放したが、今度は市郎の腕に手をかけて、
「あなた、
必然ですか。
可ござんすか。
欺すと山

を頼んで、意趣返しを
為せますよ。」
お前ならば
山女郎の方が
可かろうと云おうとしたが、
戯っていると長くなる。市郎は黙って
首肯いて、早々に
立去った。
「おや、角川のおじさん
被入しゃい。市郎さんも……。さあ、どうぞ……。」
吉岡の母お
政は、喜んで安行
父子を迎えた。吉岡も隣村では由緒ある旧家で、主人は一昨年世を去ったが、お政との間に二人の子供があった。総領は忠一と云って、帝国大学の文科に学んでいる。
妹の冬子も兄と共に上京して、
某女学校に通っていたが、昨年無事に卒業して今は郷里の実家に帰っている。地方には
能くある
習、角川の市郎と冬子とは
所謂許嫁の間柄で、市郎が医師を開業すると同時に、めでたく
祝言という
内相談になっている。
勿論、二人の間に異存は無かった。
斯ういう関係であるから、昔から両家は殆ど親類同様に親しく交際していた。殊に主人が死んだ
後は、吉岡の家では何かに付けて角川一家を力と頼んでいた。
安行
父子が座敷へ通ると、今年
二十歳の冬子も笑顔を作って出て来た。
「東京の
倅の方から一昨日手紙が参りまして、冬子の婚礼に
就て来月初旬には
必然帰って来ると云うことでした。」と、お政が
先ず口を切った。
「いや、
其事ですが……。」と、安行は市郎を
顧って、「倅の云うには、それが為に忠一さんを
態々呼び戻すにも及ぶまい。どうで
歳暮には帰郷するのだから、
其時まで
延しても
差支はあるまいと……。」
「それも
然うですが……。」と、お政は娘の顔を
視た。市郎は何の気も
注かずに、「実は私から忠一君の方へ、
然う云って
与ったんですが……。」
「まあ。」と、お政は更に市郎の顔を
視た。
「私も今朝初めて聞いたのだが、延期しては何か御都合が悪いかな。」
安行の
問に対して、
母子は即坐に何とも答えなかった。お政は
霎時考えて、
「いいえ、別に都合の悪いと云うこともありませんが……。善は急げとか云いますから、一日も早く御婚礼を済まして、
妾も安心したいと思うのですが……。是非来月で無ければ成らないと云う訳もありませんから、
約り
貴下や市郎さんの
思召次第で……妾の方は
何方でも
宜しいのです。
唯、妾の方では……こんなことを申しては何ですけれども、市郎さんも
未だお若いのですから、何かの間違いのない
中に
些とも早く……と
斯う思って居りますので……。ほほほほほ。」
お政は冗談のように笑って云ったが、
其詞の底には何かの意味があるらしくも聞えた。冬子も恨めしそうな眼をして、市郎の顔を
視ていた。
斯うなると、何だか
聞捨にもならぬような
意もするので、安行も
稍や真面目になった。
「御承知の通り、
倅もまだ書生
上りで
小児も同然だから、私も
平生から厳しく監督していますが、冬子さんとの婚礼は昨日今日に
初った話でも無し、たとい
一月や
二月延びたからと云って、決して間違いの
起るなどと云うことは……。」
「それは
然うですとも……。」と、お政は
遮って、「ですから、
妾の方でも決して心配は
為ませんが……。それでもお若い方と云うものはね。」と、又笑った。
市郎も何だか黙ってはいられぬ羽目になった。
「じゃア、おばさん、私が何か不都合な事でも
為ていると
被仰るんですか。」
「別に不都合ということは無いのですけれど、
他の噂を聞くと、市郎さんは
此頃柳屋とか云う
家にお
馴染が出来たそうで……。
皆なが
然う云っていますよ。」
「へえー。」と、市郎は眼を丸くした。柳屋と聞いて、安行の眼も少しく
晃った。
「嘘です、そりゃア実際嘘ですよ。」と、市郎は口早に、「そんなことは決してありませんよ。今も親父に話したのですけれども、
此の夏、忠一君が帰省した時に、
唯った一度行ったことが有るだけで、
其後は柳屋の
閾も
跨いだ事は無いんです。」
「そうですかねえ。」と、お政はまだ笑っていた。
其の
疑惑は
融けぬらしい。
「市郎、お前は
真実に柳屋へ
出入するのか。」と、今度は安行が問うた。
「いいえ、嘘です、嘘ですよ。何かの間違いでしょう。」と、市郎は慌てて弁解した。
「でも、忠一も
其時に云っていましたよ。市郎君は色男だ、柳屋の女が大層チヤホヤしていたと……。ねえ、
然うでしょう。」
如才ないお政は絶えず笑顔を見せているが、
対手は甚だ迷惑に感じた。と云って、ここで
何時まで争っても
究竟は
水掛論である。市郎も
終末には黙って
了った。
安行も考えた。
何方の云うことが
真実か知らぬが、
先刻市郎の話では、忠一が女と
巫山戯たと云う。今又ここの話では、市郎が女と
情交があるらしいと云う。
何方にしても、
対手は客商売の女である。要するに二人の客に対して、等分に
世辞愛嬌を
振蒔いたと云うに過ぎまい。
随って
其時だけの
遊興ならば
兎こうの論は無いが、
若し市郎が
其後も柳屋へ通っている
様ならば、少しく警戒を加えねばならぬ。
彼のお葉という女は、どんな素性来歴の者か知らぬが、
豪家の息子を丸め込んで、
揚句の
果に手切れとか足切れとか居直るのは、彼等社会に珍しからぬ
例である。殊に
此方は婚礼を眼の前に控えているから、それを
附目に何かの面倒を持ち込まれては、吉岡家に対しても気の毒、自分達も世間に対して余計な恥を
晒すようにもなる。
何うか
其んなことの無い
様にしたいものだと、
心窃かに無事を祈った。
が、誰の
考慮も同じことで、ここで
何時まで争った所で水掛論に過ぎない。これだけに釘を刺して置けば
既う
可いと思ったのであろう、お政は相変らず
嫣然笑いながら、更に話を
他に
反した。
「
好塩梅にお天気が続きますね。
併し来月になったら、急にお寒くなりましょう。来年のお正月も又雪でしょうかねえ。」
旧暦に依る
此土地では、正月は
恰も大雪の
最中である。年々の事とは云いながら、三尺、四尺、五尺、六尺と
漸次に
振積んで、町や村にあるほどの人々を、暗い家の中に一切封じ込めて
了う雪の威力を想像すると、何と無く一種の
恐怖を
懐かぬ訳には
行かぬ。四人は今更のように庭を眺め、空を仰いで、日毎に襲い来る冬の
寒気を
染々と感じた。
この時、表では犬の啼く声が
頻に聞えた。トムは何物を
視たか知らぬが、狂うが如くに吠え
哮るのであった。
「何をあんなに吠えるのだろう。」と、
手持無沙汰の市郎は、
之を
機に
起上って
門へ出た。
この家は小さい陣屋のような
構造で、
門の前には細い
流を引き
繞らし、一
間ばかりの細い板橋が
架してある。家の周囲は竹藪に包まれて、
其の
藪垣の間から栗の大木が七八本
聳えていた。トムは橋の中央に走り
出でて、凄じい
唸声を揚げているのである。
「トム、トム……。」と、市郎は
先ず声をかけながら
不図視ると、トムの五六歩前には一人の怪しい女が立っていた。
女は六十前後でもあろう。灰色の髪を
芒のように乱して、肩の下まで長く垂れていた。
彼女が若かりし春の面影は、
恐く花のようにも美しかったであろうと想像されるが、冬の
老樹の枯れ朽ちたる今の姿は、
唯凄愴いものに見られた。身には
縞目も判らぬような
襤褸の上に、獣の
生皮を
纏っていた。
其の
風体が既に奇怪であるのに、更に人を脅かすのは
其窪んだ眼の光で、
凡そ
此世界にありと有らゆる物は、総て
我敵であると云わぬばかりに睨み詰めているらしい。
狂人か、乞食か、
但しは
彼の
山
の
眷族か、殆ど正体の判らぬ
此の老女を一目見るや、市郎も
流石に
悸然とした。トムが
怪んで吠えるのも無理は無い。
併し
彼女は別に何をするでもなく、門前の往来に
飄然と立っているだけの事であるから、市郎も改まって
咎める訳には行かぬ。
唯暫時は黙って睨んでいると、老女は何と感じたか、
黄い歯を
露出して
嫣然笑いながら、
村境の丘の方へ……。姿は煙の消ゆるが如くに
失せて
了った。
市郎は夢のように
其の行方を見送っていると、トムの声を聞き付けて、この
家の
下男も内から出て来た。
其話によると、
彼の怪しの老女は北の山奥に棲むお
杉という親子
連の乞食であると云う。乞食とあれば是非もないが、何だか
唯者では無いように市郎は感じた。
「あれは山

の女房だとも云いますよ。」と、下男は更に
低声で
囁やいた。
「トムは何を吠えていたのだ。」
市郎が
旧の座敷へ戻って来ると、安行は煙草を
喫みながら
徐に訊いた。
「いや、表に変な女が立っていましてね。後で聞けばお杉とか云う乞食だそうで……。」
「ああ、お杉ですか。」と、お政
母子は眉を
顰めて
首肯いた。
「何です、
彼女は……。
頗る変な奴ですね。
狂人でしょうか。」
「さあ、幾らか気も変になっているか知れないが、
所謂狂人と云うのでも無いようだ。」と、安行は考えて、「
彼女も俺の
家に
満更縁が無いでも無いのだ。お前も知っているだろう。」
「いえ、
些とも知りませんね。一体、
彼女は何です。」と、市郎は父の顔を覗いた。
「今朝お前に話した通り、
祖父さんが五十年ほど昔に、
山
に
攫われた
小児を助けたことが有る。」
「けれども、それは男の
児でしょう。」
「まあ、黙って聞くが
可い。それには又
種々の
可怪な話が絡んでいるのだ。」
山

と怪しの老女、この関連は
愈よ市郎の好奇心を湧かした。お政も冬子も珍しそうに耳を
欹てた。
茶を一杯、それから安行はこんなことを語り出した。
市郎の祖父、即ち安行の父は山

の復讐の為に無残の死を遂げた。
併し
其手に救われた赤児は、角川家の
情に
因って無事に生長した。
固より何者の子とも判らぬので、仮に
重蔵と名を付けて、
児飼の
雇人のようにして養って置いた。角川の家は代々の郷士で、
傍らに材木
伐出しの業を営んでいたので、家の雇人等も
木挽の職人と一所に山奥へ入ることが
屡々ある。重蔵も十二三歳の時から山へ入った。
何でも彼が十五六歳の秋であった。
小児の癖に気の
暴い重蔵は、木挽の職人と何か喧嘩をした結果、同じく気の早い職人は「どうでも勝手にしろ。」と、山小屋に重蔵一人を
置去りにして帰って
了った。
而も
其処には
伐倒された杉や
山毛欅の材木が五六本残っていたので、
飽までも強情な重蔵は、自分一人で
之を
麓まで担ぎ出そうとしたが、長く大きい材木は少年の肩に余って、
到底嶮しい山坂を
降る訳には行かぬ。
兎こうする
中に日は暮れかかる。彼も
流石に途方に暮れている処へ、
恐く例の山

であろう。人か猿か判らぬ一個の怪しい者が
ふらりと出て来た。
並大抵の者ならば、驚いて慌てて逃げ出すべきであるが、重蔵は
頗る大胆であった。
咄嗟の
間に思案を
定めて、腰に提げたる
割籠から
食残りの握飯を
把出して、「これを
与るから手伝って担いで
呉れ。」と手真似で示すと、

も
合点したと見えて悠々と材木を担ぎ出した。
斯くして彼は
先棒となり、

は
後棒となって、幾本の重い材木を無事に麓まで担ぎ
下したのである。
これが一種の縁となったとでも云うのであろう、
其後も

は折々に山小屋へ姿を見せた。
但し他人のいる時は決して近寄らず、重蔵一人の時を窺って忍んで来る。
其都度に重蔵は自分の握飯を
分って、

に仕事を手伝わせていた。が、或時これを見付けた者が有って、重蔵は山

を友としているという噂が
忽ち拡がった。角川家でも
大に心配して、
其以来彼を山小屋へ
遣らぬ
[#「遣らぬ」は底本では「遺らぬ」]事とした。
それから又二三年過ぎた。
其間別に変った事も無かったが、一旦山

と親しんだという風説が、甚だ
此の
青年に
禍して、彼は附近の人々から
爪弾きされた。若い者の
寄合にも重蔵一人は殆ど
除外となって
了った。
随って彼の性質も
愈よ
僻んで来て、仕事を怠ける、喧嘩をする、酒を飲む、
甲から
乙へと堕落して、
果は第二の親とも云うべき角川一家の人々からも見放される
様になった。
が、
其間に於て独り重蔵に同情した女があった。即ち
彼のお杉である。お杉は
此の
駅尽頭の蕎麦屋の娘で、飛騨小町と謳われる程の美人であったが、
何ういう訳か不思議に縁遠いので、三十に近いまで独身で
過した。
お杉が評判の美人であるにも
拘らず、
盛を過ぎるまで縁遠いに
就ても、山里には
有勝の
種々の想像説が伝えられた。
其中でも、
彼女は蛇の
申子で、背中に三つの
鱗が有るということが、一般の人々に最も多く信ぜられていた。
お杉は重蔵に比べると、殆ど
十歳ばかりの姉であったが、
何時か
此二人が
狎馴染んで、一旦は山の奥へ身を隠した。お杉の家でも驚いて、そこの森や
彼処の
谷合を
猟り尽した末に、一里ばかりの山奥にある
虎ヶ窟という岩穴に、二人の隠れ潜んでいるのを発見して、男は主人方に
引渡され、女は実家へ連れて戻られたが、
其の
翌る夜に二人は又もや飛び出した。今度は他国へ遠く
奔ったらしい。遂に
其行方を探り得なかった。
それから十年ほど経つ
中に、お杉の家は
死絶えて
了った。二人の名も大方忘れられて
了った。
然るに
某日のこと、
樵夫が山稼ぎに出かけると、
彼の虎ヶ窟の中から白い煙の細く

るのを見た。不思議に思って近寄って窺うと、岩穴の奥には怪しい女が棲んでいた。十年
前に比べると、
顔容は
著るしく
窶れ果てたが、紛う方なき
彼のお杉で、
加之も一人の赤児を抱いていた。驚いて
其仔細を
訊したが、
彼女は何にも答えなかった。赤児は恐らく重蔵の
胤であろうと思われるが、男の
生死は一切不明であった。
それから二十余年の間、
彼女は
此の
窟を宿として、余念もなく赤児を育てていた。赤児も今は立派な大人になって、
其名を
重太郎と呼ぶそうである。で、
此の
母子は何に
因って衣食しているか判らぬが、折々に
麓の
駅に現われて物を乞うのを見れば、
先ず一種の乞食であろう。
勿論、これまでにも警官から度々
立退を命ぜられたが、今日
逐われても明日は又戻って来るという風で、殆ど手の着け
様がない。駐在所でも
終末には
持余して、彼等が悪事を働かない
限は、
其ままに捨てて置くらしい。
虎ヶ窟は
其昔、若き恋に酔えるお杉と重蔵との隠れ家であった。
彼女は今や
白髪の
嫗となっても、思い出多き
此窟を離れ得ぬのであろう。
で、単に
是だけの事ならば仔細も無いが、このお
杉婆に
就て又もや一種の怪しい風説が
起った。と云うのは、この
母子が折々に里へ出て物を乞う時、快く
之に与うれば
可矣、
若し
情なく拒んで追い払うと、彼等は黙って笑って
温順く
立去るが、
其家は
其夜必ず
山
に襲われて、
鶏か
稗かを奪われる。
或は偶然かも知れぬが、
其間に何かの関係が有るらしくも思われるので、人々は自ずと
此のお杉を忌み
且恐るるようになった。で、お杉は山

を手先に
遣うとも伝えられた。お杉は山

の女房であるとも伝えられた。
固より
確な証拠がある訳でもないが、こんなような意味からして、
老たるお杉は一種の魔女の如くにも見られていた。
或時には又こんな事もあった。お杉が
門に立って米を乞うた時に、或人が
一合ばかりの米を与えて、冗談半分に
斯う云った。「お前も知っている通り、飛騨の国は米が少いのだから、
之を十倍にして返して
呉れるか。」お杉は黙って
首肯いて去った。すると、
其晩の
中に一
升ほどの白米が、
其家の前に
蒔き散らされてあった。
又、或家に夜も昼も泣く赤児があって、お杉が
門に立った時にも、
其児は火の付くように泣いていた。
彼女は黙って
其額を撫でると、赤児は
其以来
些とも泣かなくなった。
善か、悪か、
狂か、
兎にも
角にも
彼女は普通の人間でない、一種不思議の魔力を
有っている女の
様にも見えた。
お杉に
就て安行の知っているのは、
先ず
此位の程度であったが、迷信の多い人々の説を聞いたら、まだ
此上にも
種々不可思議の実例があるらしい。
こんな話に時の移るのを忘れている
中に、庭に
囀ずる
小禽の声も止んで、冬の日影は
余ほど薄くなった。
「もうお
暇為ようか。」
安行と市郎は
暇乞いして、吉岡の家を出た。
飛騨といふ
詞は
襞を意味して、一国の
中に山多く、さながら
衣に襞多きが如くに見ゆる所から、昔の人が
此国の名を
斯く呼んだのである。
随って飛騨と云えば
直に山を
聯想するまでに、一国到る処に山を見ざるは無い。この物語の中心となっている町も村も、殆ど三方は
剣の如き山々に
囲れていた。
お杉が棲んでいる虎ヶ窟というのは、角川家のある町と吉岡家の
居村とを
境する低い丘から、約一里の山奥にあった。一里といえば人里から
左のみ遠からぬ処であるにも
拘らず、ここは殆ど通路の無いほどに岩石
嶮しく
峭り立っているのと、昔から
此辺は
魔所と唱えられているのとで、
猟夫も
樵夫も滅多に通わなかった。
苔蒸す窟は無論天然のものであったが、幾分か人工を加えて
其入口を
切拓いたらしくも見える。奥は真暗で
其深さは判らぬ。
背後は屏風のような絶壁で、右の方には
大なる谷が
繞っていた。
窟の入口には薄黒い獣の
生皮を敷いて、
Xという字のように組まれた枯木と
生木とが、紅い
炎焔や白い
烟を噴いていた。
其火に
対って
孑然と
胡坐を掻いているのは、
二十歳ばかりの極めて小作りの男であった。
何処やらで滝の音が聞えて、
石燕が窟の前を掠めて飛んだ。男は
燃未了の
薪を
把って、鳥を目がけて
礑と打つと、実に眼にも
止らぬ早業で、一羽の石燕は打つに
随って
其手下に落ちた。男は拾うより早くも
其羽を
毟り取って、燃え

る火に肉を
炙った。
やがて落葉を踏む音して、お杉
婆は
諷然と帰って来た。男は黙って鳥を
咬っていた。二人共に
暫時は何の
詞をも交さなかったが、お杉の方から
徐に口を切った。
「重太郎。何か他に
喫べる物は無いか。」
男は
彼女の
倅の重太郎であった。
其風采は母と同じく
異体に見えたが、極めて無邪気らしい、
小児のような可愛い顔であった。髪を
蓬に被った
頭を
掉って、
「何にも無いよ。」
一日や二日の断食は
此母子に珍しくもないらしい。お杉は
唯首肯いて
其処に坐ったが、
俄に思い出したように少しく
詞を改めた。
「重太郎。お前に少し話して置きたい事があるのだ。」
「
阿母さん、何だ。」
「
妾は
既う十日の
中に死ぬかも知れない。死んだら
必然仇を取ってお
呉れよ。」
「
可いとも……。どんな奴でも、
俺ア
必然仇を取って
与る。
唯は置くものか。」
重太郎は腕を叩いて潔よく答えたので、お杉も
快げに
微笑んだ。
「そこで、お前に見せて置く物が有る。今まではお前にも
秘して置いたが、
此の窟の奥には大切な宝が
蔵ってある。何か大事が
出来して、お前が
何うしても
此処に居られない
様な場合になったら、
其れを
持出して
逃るが
可い。相当な
買人を探して
売払えば、お前は乞食を
為ないでも済むのだ。」
母は
起って奥へ入ると、重太郎も黙って
其後につづいた。窟の奥は昼も真暗であったが、お杉の
点す
一挺の蝋燭に
因っておぼろおぼろに明るくなった。
行くこと七八
間にして、第一の
石門が有った。これから先は
路が狭く、岩が低くなって、
到底真直に立っては歩けなかった。
母子ともに
頭を
屈めて進むと、更に第二の石門が行手を
塞いでいた。
蝙蝠のような怪しい鳥が飛んで来て、蝋燭の火を
危く消そうとしたのを、重太郎は
矢庭に
引握んで
足下の岩に叩き付けた。
第三の石門には、扉のような大きな
扁平い岩が立て掛けてあって、
其下の裂目から
蝦蟆のように身を
縮めて
潜り込むのである。二人は
兎も
角も
此の石門を這い抜けて、更に暗い
冷い
石室に入った。
「さあ、覗いて御覧。」と、お杉は蝋燭を高く

げた。
石室の隅には広い深い岩穴があって、穴の遠い底には、風か水か知らず、
ごうごうと
微に鳴っていた。
若し一歩を誤れば、この暗い地獄の底に葬られねばならぬ。重太郎も
足下を覗いて
流石に
悚然した。
お杉は無言で蝋燭を
翳すと、深い岩穴の中腹かとも思われる所に、さながら
大蛇の眼の如き
金色爛々の光を放つものが見えた。
「判ったか。」と、お杉が蝋燭を
退けると、穴は
旧の闇に
復って、
金色の光は夢のように消えた。重太郎は呆れて立っていた。
「
阿母さん、あれは何だい。」
「何でも
可い。いざと云う時に持ち出して
他に売れば、お前は金持になれるのだ。」
穴の中では猿のような声で、キキと叫ぶ者があった。
「騒々しい。
静にお
為よ。」と、お杉は鋭い声で叱り付けると、怪しい声は
忽ち止んだ。お杉は再び無言で歩み出すと、重太郎も黙って続いて出た。
二人が
旧の入口に出た頃には、
山峡の日は早く暮れて、暗い山霧が海のように拡がって来た。重太郎は再び枯木を
焚くと、霧は音もせずに
手下まで襲って来て、燃え

る火の光は
宛ら
紗に包まれたる
様に
朧になった。
窟の奥から人か猿か判らぬ者が、
ちょこちょこと駈け出して来た。
四辺が薄暗いので正体は知れぬが、人ならば
先ず十五六歳の少年かとも思われる。髪を
颯と
振乱して、
伸上りつつ長い手をお杉の肩にかけた。
小児が親に甘えるように……。
「どこへ行くんだえ。」と、お杉は
顧って、「お前、里へ行くなら頼みたい事が有るんだよ。」と、彼の耳に口を寄せた。
怪しの者は
首肯いて、
忽ち
ひらりと飛び出したかと見る
中に、
樹根岩角を
飛越え、
跳越えて、小さい姿は霧の奥に隠れて
了った。お杉は白い息を
吐いて
呵々と笑った。
「
阿母さん、阿母さん。」と、重太郎は思い出したように声をかけた。
「何だえ。」
「お前は十日の
中に死ぬと云ったね。
俺ア
先刻も約束した通り、
必然其仇を取る。
其代りお前にも頼んで置くことが有るんだ。お前が居なくっても、俺が困らない
様に……。」
「だから、宝の
在所を教えて置いたじゃアないか。あれさえ有れば
些とも困ることは無いよ。」
「そればかりじゃア無い。」と、重太郎は少しく云い淀んで、「あの、俺に嫁を貰って
呉れないか。」
「嫁……。」と、お杉は寂しく笑った。
「むむ。実は俺ア嫁に貰いたい女があるんだ。
阿母さん、知ってるかい。」
母は黙っていた。重太郎も
流石に
面目が悪いか、
燃未了の
薪を
撥りながら、
「あの、何を……。柳屋にいるお葉という女……。
好い女だね。俺ア
大好だよ。」
人か獣か判らぬような生活をしている
此の
青年にも恋は有った。彼は
何日か柳屋のお葉を見染めたものと思われる。お杉は
憫れむように我子の顔を見た。
一口に
酌婦とは云うものの、お葉は柳屋の一枚看板で、東京生れの気前は
好し、
容貌も好し、山の中には珍しい粋な
姐さんとして、ここらの相場を狂わしている
流行児である。恋に
間隔は無いとは云え、
此方は
宿無の乞食も同様で、
山
の兄弟分とも云うべき身の上では、余りに
間隔が有り過ぎて、
到底お話にも相談にもなる訳のもので無い。
けれども、それは普通の人の考える単純の理屈である。
小児の時から人も通わぬ
此の窟を天地として、人間らしい(?)のは
阿母一人で、昔物語に聞く
山姥と金太郎とを
其のままに、山

や猿や鹿や
蝙蝠を友としつつ、
此に二十余年を送り
来った重太郎自身に取っては、人間の身分や階級などは、何の
値も無いものであった。彼は
唯自己の
情の動くがままに働くのである。彼がお葉を嫁に貰いたいと云い出したのも、決して不思議でも無理でもない。
「お前がそんなに
彼の女が
欲ければ、
妾がお嫁に貰って上げるよ。」
お杉は極めて
無雑作に
受合った。
角川安行の
父子が吉岡家を辞して、帰途に就いたのは午後四時を
過る頃であった。ここらの冬の日は驚くばかりに早く暮れて、
村境を出る頃には
足下が
漸く暗くなった。
「吉岡のおばさんは、何だか私が柳屋の女に関係でもあるように思っているらしいので、実に困りましたよ。」と、市郎は歩きながら語り出した。
「それだから気を
注けなければ
不可い。世間では針ほどの事を棒のように吹聴するのだから……。
併し
真実にお前は
彼のお葉とか云う女に関係はあるまいな。」
「大丈夫です。決して無いです。」
風は無いが、夜の気は
漸々に寒くなって来た。あなたの丘で狐の啼く声が聞えた。
「
明後日は市の立つ日だな。」と、安行は
独語のように、「
何うか天気に
為たいものだ。」
「そうです。月に一度の市ですから……。」
この時まで主人の
後に
温和く
尾いて来た
彼のトムは、
猝に何を認めたか知らず、
一声高く唸って
飛鳥の如くに駈け出した。
「トム、トム……。」と、市郎は呼び返したが聞えぬらしい、犬は
直驀地にあなたの森へ向った。市郎も心許なさに
其後を追って行くと、
唯ある
樅の大樹の蔭でトムが凄じく吠えていた。
加之も
堆かき枯葉を蹴って、何者かと挑み闘うように聞えた。
何か知らぬが、猶予はならぬ。市郎は
洋杖を
把直して、物音のする
方へ飛び込んで見ると、もう遅かった。
僅に
一足違いで、トムは既に
樹根に倒れていた。敵は髪を長く垂れた十五六の少年で、手には
晃めく
洋刃のようなものを
振翳していた。薄闇で
其形は
能くも見えぬが、人に似て人らしく無い。
「
若や
山
か。」と、市郎は
咄嗟に思い付いた。で、
先ず
其正体を見定める為に、
袂から
燐寸を
把出して、慌てて二三本
擦った。この時、敵は血に
染みたる洋刃を
揮って、更に市郎を目がけて飛び
蒐って来たが、
其の
眼前に
恰も燐寸の火が
溌と燃ゆるや、彼は電気に打たれたように、
猝に刃物を
からりと落して、両手で顔を
掩ったまま、
霎時そこに
立縮んで
了った。
この刹那に、市郎の眼に映った敵の姿は、
頗る
異形のものであった。
勿論、顔は判らぬが、
膚は
赭土色で手足は
稍長く、爪も長く
尖っていた。
身丈は低いが、
小児かと見れば大人のようでもあり、猿かと思えば人のようでもある。この寒空に全身殆ど裸で、
僅に腰の
辺に獣の皮を
纏うているのみであった。
が、
斯う見えたのも一瞬時で、
燐寸の火は
忽ち消えた。火が消えると同時に、彼は再び強くなった。地に落ちたる
洋刃を手早く拾い取って、更に市郎に
対って突いて来た。彼は
闇中でも多少は物が見えるらしい。
市郎は
透さず第二の燐寸を
擦ると、彼は再び眼を
掩った。彼は野獣に
均しく、非常に火を恐るるらしい。市郎は勝つに乗って、続けさまに燐寸を擦ると、敵は
既う
此方を向く勇気が
失せたらしく、
頭を
回らして一散に逃げ出した。市郎は
何処までもと
其後を追ったが、敵は非常に逃足が
疾い。森を出抜ける頃には、既に十五六
間も
懸隔たって
了った。
「畜生……
到底駄目だ。」と、市郎は呟きながら
引返して来ると、安行も
丁度駈付けた。トムは
咽喉を深く抉られて、既に息が絶えていた。
「可哀想な事を
為ましたな。今の奴は
何うも山

らしかったですよ。」
「そうか。」と、安行は
低声で云った。
兎に
角、愛犬を
路傍に捨てては置かれぬので、市郎は血に
染みたるトムの死骸を抱えて
起った。
「市郎、
衣類が汚れるぞ。」
「けれども、ここへ残して置くのは何だか不安心ですから……。」
自分達が去った後へ、再び山

が現われて、トムの屍骸を盗み去らぬとも限らぬ。愛犬の骨を敵に渡すのは、何だか
口惜い
様にも思われるので、市郎は
到頭トムを抱えて帰った。
其翌る日も申分のない天気であった。霜は
日増に深くなって来るが、朝の日影は
麗かであった。
鉱山のお客だとか云う三人
連が、
昨夜から柳屋の奥に飲み
明していて、
今朝も
早天から近所構わずに騒いでいたが、もう大抵騒ぎ
草臥れたと見えて、
午頃には
生酔も
漸々に倒れて
了った。酌婦の笑い声も聞えなくなった。内も外も
蕭寂となった。
心さびしや飛騨行く路は
川の鳴瀬と鹿の声
低声でこんな唄を
謳いながら、お葉は
微酔機嫌で
門に出た。お葉は東京深川生れの、色の
稍蒼白い、
細面の、眉の長い女であった。
彼女は自ら謳うが如く「心さびしい」のであろう、少しく眉を
顰めつつ晴れたる空を仰いでいた。
「お葉さん、お葉さん。」
奥から続いて出て来たのは、お
清という酌婦、色白の丸顔で、お葉よりも
二三歳若く見えた。これも幾らか酔っているらしい、苦しそうに顔を
皺めて、
「お前さん、何を見ているの。」
「何、
昨夜から飲み続けて、
余り頭が重いから、表へ
些と出て見たのさ。」と、お葉は
懶げに答えた。
「ほんとうに鉱山の人は
忌ね。お酒を飲むと、無闇に
悪巫山戯をして……。それでも鉱山が出来たお
庇で、ここらも
漸々に
賑かになったんだと云うから、仕方がないけれど……。」
「
芋掘も
忌だが、
鉱掘も忌だねえ。どうせ楽は
能きないのさ。こんな商売になっちゃア仕様がないよ。
好なお酒でも飲んで
紛らしているのさ。」
「お前さん
此頃は何だか
欝いでばかり居るね。
平生から陽気な人でも、
矢張り苦労があると見えるんだね。」
「呼んでお
呉れよ。」と、お葉は
突然にお清の腕を掴んだ。
「誰を……。」と、
対手は笑った。
「察してお
呉れな。角川の若旦那を……。お前も知ってるじゃアないか。」
「何故、あれ
限り来ないんだろう。」
「
究竟妾達が
意に
適らないからさ。けれども、
妾ア
必然呼んで見せる。昨日も
丁度ここで逢ったから、腕を掴んで
引摺上げて
与ろうと思ったんだけれど、
生憎阿父さんが
一所だったから、まあ堪忍して置いて
与ったのさ。嫌うなら嫌うが
可い、妾ア
必然祟って
与るから……。」
「だッて、そりゃア無理だ。」と、お清は益々笑い出した。
「無理なもんかね。昔から云う
安珍清姫さ。嫌えば嫌うほど執念深く祟って
与るのが
当然だアね。
先方が何とも思わなくっても、
此方が惚れていりゃア仕方がないじゃアないか。お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」
お清は
対手にならずに、相変らず笑っていた。お葉は
口惜そうに、
「今に見ておいて。
必然あの人を呼んで、お前さん達に見せ付けて
与るから……。嫌われたからと云って、
すごすご指を
啣えて
引込むようなお葉さんじゃアないんだから……。
確乎頼むよ。」
お清の腕を掴んで又
小突いた。
「痛いよ。だッて、お前さん。角川の若旦那には
判然とお嫁さんが
決ってると云うじゃアないか。」
「決っていても
可いよ。そんな悪魔は
妾が追ッ
攘って
了うから……。」
「お前さんの方が
余ッ
程悪魔だ。

の御親類かも知れないよ。」と、お清は笑いながら
不図思い出したように、「

と云えば、角川の若旦那は
昨夜
に逢ったってね。」
「若旦那が

に……。まあ、
而して
何うしたの。」と、お葉は
俄に真面目になった。
「でも、若旦那の方が強かったので、

は逃げて
了ったとさ。」
「ほんとうかい。担ぐと
肯かないよ。」
「何でも犬は殺されたとさ。」
「あ、あの犬が……。可哀想にねえ。お前、ほんとうかい。」
「この人は疑り深いね。ここらじゃア今朝から
大評判だわ。それを知らない
様じゃア、お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」
「
他真似をお
為でないよ。馬鹿……。」
「馬鹿……。」
お清は笑いながら奥へ入って
了った。人通りの
尠い往来には、
小禽が
餌を
猟っていた。
お葉は
其のまま
ふらふらと歩き出した。

の噂が何となく
意に
関ったのであろう、
彼女は
他ながら恋人の様子を探ろうとして、行くとも無しに角川家の門前まで来て
了った。
門の前には
彼の七兵衛
老爺が、
銀杏の黄なる落葉を
掃いていた。横手の材木置場には、焚火の煙が白く渦巻いて、
鋸の音に
雑る職人の笑い声も聞えた。
お葉は酔っていた。七兵衛の
傍へ進み寄って、
馴々しく声をかけた。
「あの、若旦那は
昨夜
にお逢いなすったッて、
真実ですか。」
「はあ、
酷い目に逢いましたよ。」
「
怪我でも
為すって……。」
「何、若旦那は
何うも
為ねえが、大事の
洋犬を
殺られたので、力を落していなさる
様だよ。」
お葉は
首肯いて奥を覗いた。七兵衛は無頓着に落葉を掃いていた。
この時
恰も市郎の姿が見えた。市郎は庭の空地にトムの
亡骸を葬り
了って、
鍬を片手に奥の方へ行くらしい。お葉は
其姿を見ると共に、
有合う小石を拾って投げ付けると、
礫は飛んで市郎の
袂に触れた。
振返ると門前にはお葉が立っている、
加之も
笑を含んで
小手招ぎをしている。市郎も
其の
図迂図迂しいのに少しく
惘れた。
前にも云う如く、市郎が冬子の兄忠一と
連立って、
彼の柳屋に遊んだのは、今から三四ヶ月前のことで、それも
唯一度、別に深い
馴染というでもないのに、
其後はお葉が
兎かく
附纏って、往来で逢えば
馴々しく
詞をかける。あわ
好くば自分の
家へ誘い込もうとする。
随って根も葉もない噂も立ち、吉岡の母にも有らぬ
疑惑を受ける
様になった。実に馬鹿馬鹿しい。身の潔白を立てる為には、今後
何処で
行逢おうとも決して
彼女とは口を利くまいと、
窃に決心している矢先へ、
恰も
彼のお葉が現われた。
加之も
先方から
真白昼押掛けて来て、平気でお
出でお
出でを
極めるとは、
図迂図迂しい奴、
忌々しい奴と、市郎は
惘れを通り越して、
稍勃然とした。
見ればお葉は
嫣然して、相変らず小手招ぎをしている。市郎は黙って
霎時睨んでいた。
「何故そんな怖い顔をして
被在るの。
妾、

じゃなくってよ。妾の
罰で、
貴下は

に酷い目に逢ったと云うじゃアありませんか。」
お葉は首を
掉るようにして、はははははと高く笑った。
彼女は酒の強い方であったが、昨夜以来飲み明かした地酒の
酔は
漸次に発したと見えて、今は
微酔どころでない。
「
老爺や。
其女を追っ
攘って
了え。」と、市郎は声を
暴くして云った。
「お
前は酔っている
様だ。早く帰らッせえよ。」と、七兵衛は
箒を
輟めて
顧った。
「大きにお世話よ。後生だから若旦那をここまで呼んで来て頂戴。」
「そんなこと云わねえで、帰らッせえと云うのに……。」
「どうしても呼んで
呉れないの。」
「
不可ねえと云ったら……。」
この押問答の
中に、市郎は奥へ
つかつかと入って
了った。
「若旦那……市郎さん……。」
お葉も続いて内へ入ろうとするので、七兵衛は驚いた。
「どこへ行くのだ。」
「若旦那に逢わして下さいよ。」
「馬鹿云うものでねえ。」
一酷老爺の七兵衛は、箒で
手暴く突き
退けると、酔っているお葉は
一堪りもなく転んだ。
だらしなく結んだ帯は
解けかかって、掃き寄せた落葉の上に黒く長く引いた。
「随分酷いのね。」と、お葉は落葉を掴んで
起上ったが、やがて
畜生と叫んで、
其葉を七兵衛の
横面に叩き付けた。
眼潰しを食って
老爺も慌てた。
「
阿魔、何をするだ。」
腹立紛れに箒を
取直して、お葉の弱腰を
礑と
薙ぐと、女は堪らず又倒れた。
「あら、
老爺さん。どうしたの。」
優しい声に驚いて
顧った七兵衛、
俄に色を
和げて、
「や、吉岡の嬢様……。
被入せえまし。」
市郎が途中で

に
襲れたという噂は、早くも隣村まで伝えられたので、吉岡の家でも甚だ心配して、冬子が
取敢ず見舞に来たのであった。来て見ると
此の始末で、
仔細は知らぬが七兵衛
老爺の箒の
下に、一人の女が殴り倒されているので、
制めずには
居られぬ。
「
老爺さん、まあ
其んな乱暴なことを
為ないで……。一体、どうしたの。」
「何、この
淫売婦が
家の若旦那を呼び出しに来たから、追っ
攘って
了う所で……。」
「若旦那を呼び出しに……。
若や柳屋の……。」と、冬子は眼を輝かしてお葉を
凝と
視た。お葉は落葉の上に倒れていた。
「そうでがすよ。」と、七兵衛は
首肯いて、「お
前様よく知っていなさるね。
這奴、若旦那を
釣出そうと思ったって、
然うは行かねえ。」
七兵衛は憎さげに
顧った。冬子も
嫉げに顧った。この四つの眼に睨まれたお葉は、相変らず落葉を枕にして、死んだ者のように
横わっていた。
「酔っている
様ね。」と、冬子は少しく眉を
顰めた。
「
這奴等ア毎日毎晩、酒ばかり
食っているのが
商売だからね。お
前様も用心しなせえ。こんな
阿魔が蛇のように若旦那を狙っているんだから……。」
「何しろ、
何うか
為なくっちゃア
不可まい。
兎も
角も
起して
与って……。」
「さあ、さあ、寝た
振なんぞ
為ねえで、起きろ、起きろ、横着な
阿魔だ。」
口小言を云いながら、七兵衛は進んでお葉を抱え
起そうとすると、
彼女は
其手を跳ね
退けて
衝と
起った。例えば
疾風落葉を巻くが如き勢いで、
さッと飛んで来て冬子に
獅噛付いた。あれと云う間に、
孱弱い冬子は落葉の上に
捻倒されると、お葉は
乗し
掛って
其の
庇髪を掴んだ。七兵衛は
胆を潰して、
直に
背後から抱き
縮めたが、お葉は一旦掴んだ髪を放さなかった。
「
阿魔、放せ。嬢様を
何うするだよ。」
七兵衛は息を切って制したが、お葉は
唯冷笑うのみで何とも答えなかった。余りの意外に驚いたのであろう、冬子は声をも立てなかった。
「これ、馬鹿
為るでねえ。放さねえか。」と、七兵衛は無理に
其手を
引放そうとしたが、お葉の握った拳は
些とも
弛まなかった。
彼女は冬子の前髪を掴んだままで、
凝と
対手の顔を睨んでいた。
寂しいと云っても往来である。この騒ぎを見て
忽ち五六人駈け付けた。材木置場からも職人が
駈出して来た。大勢寄って
兎も
角も二人を引き
起したが、
何うもならぬのはお葉の手であった。
彼女の石の如き拳は、
如何までも冬子の黒髪を握り詰めて放さなかった。
大勢は声を揃えて「放せ」と叫んだが、お葉の口は決して答えなかった。大勢が力を
協せて、無理に
引放そうとしたが、お葉の拳は決して開かなかった。
彼女は黙って冬子の髪を掴んでいるのである。
打っても叩いても仕方がない。
此上は、お葉の白い手を切るか、冬子の黒い髪を切るか、二つに一つを
択ぶの
他は無かった。
「強情な阿魔だなあ。」
何れも
惘れて顔を見合せている処へ、この騒ぎを聞いて市郎も奥から出て来た。人々から委細の話を聴いて、彼も驚かずには居られなかった。お葉の
傍へ進み寄って、
「お前、何故そんなことをするんだ。」
お葉は初めて口を開いた。
「
此女はあなたのお嫁さんでしょう。」
市郎は返事に困った。
「
妾、死んでも放しませんよ。」
実際、死んでも放すまいと思われた。掴まれた冬子はと見れば、不意の
驚愕と
恐怖とに失神したのであろう、
真蒼な顔に眼を
瞑じて、殆ど息も
為ない。
酔も
漸次に醒めたと見えて、お葉の顔も蒼くなって来た。
見物人は追々に
殖えて来た。柳屋のお清も駈けて来たが、
唯わやわや云うばかりで手の
着様がない。
其雑踏を掻き分けて、
ぬっと顔を出したのは
彼のお杉
婆であった。
彼女は例の如く
黄い歯を
露出して笑っていた。
前にも云う如く、お葉が角川家の前に来たのは、別に深い意味があるのでは無かった。

の一件が
意にかかるのと、二つには何と無しに
此地の方へ足が向いたと云うに過ぎないのである。けれども、
彼女は酔っていた。
酔に乗じて
種々の
捫着を
惹起している
中に、
折悪くも
其処へ冬子が来合わせたので、更にこんな面倒な事件を
演出す事となって
了った。
恋の
仇と睨まれた冬子の災難は云うまでもないが、市郎もこれには
頗る弱った。この場合に理屈を云っても仕方がない、
嚇しても仕方がない、こんな
狂気染みた女は
宥めて還すより他はあるまいと思った。
「お葉さん。何しろ、この通り
人立がしては、お前も外聞が悪かろうし、私の
家でも迷惑するから、まあ堪忍して
呉れ。
此方に不都合があるなら、
何んなにも謝るから……。」
お葉は
冷笑って答えなかった。
「ね、後生だから堪忍して
与って
呉れ。
必然お前の
意の済むようにするから……。」
迂濶口を滑らせると、黙っていたお葉は
屹と
顧った。
「
妾の
意の済むようにするんですね。」
否とも云われぬ、市郎は
首肯いた。
「じゃア、二度と
此の女をここの
家へ
入れないようにして下さい。
若し
此の女がここの
門を
潜った所を見ると、妾は
何日でも
押掛けて来て、頭の毛を一本一本引ッこ抜いて
与るから、
然う思ってお
在なさい。」
無理は
最初から知れているが、
一時逃れに市郎は承知した。
「
可、
可。それだから
最う堪忍して
与って
呉れ。頼むから……。」
「
必然ですね。」
「むむ、
必然だ。
間違はない。」
市郎は心にもない
誓を立てた。これで
漸く
意が済んだのであろう、お葉は勝利の
笑を
洩して、掴んだ手を初めて
弛めようとする時、お杉
婆が
衝と寄って来て、例の
凄愴い顔を
ぬッと突き出した。
「いや、
不可い、
不可い。それは嘘だ。」
「え。嘘だ……。」
市郎も驚いて
顧ると、怪しの
婆は傍若無人に
呵々と笑った。
「
此娘を二度とここの
家へ入れないと云うのは嘘だ。お前の顔に
判然と書いてある。ははははは。」
「
喧しい、
引込んでいろ。」と、市郎は
疳癪を
起して
呶鳴付けた。
「ははははは。怒っても駄目だ。お前の嘘は
妾が知っている。お前も
此の娘も
相互に惚れ合っている。どうして二度と逢わずに居られるものか。ははははは。」
忌々しいとは思うけれど、
婆の云うことは
確に
真実である。市郎も少しく
怯んだが、ここで弱味を見せては
落着が付かない。
「ええ、貴様の知ったことじゃアない。余計な口を出すな。
彼方へ行け。」
「はは、妾はお前に云っているのじゃアない。このお葉さんに教えて
与っているのだ。お前さん、
意をお
注けよ。幾ら
何うしたって、この男と娘とは離れるんじゃアないからね。」
お葉の火の手が折角
鎮まりかかった処へ、又もや
斯んな
狂気婆が
飛込んで来て、
横合から余計な
藁を
炙べる。重ね重ねの面倒に
小悶の来た市郎は、再び大きい声で
呶鳴付けた。
「
喧しい、
煩さい。もう
彼方へ行け。」
「ははははは。」
お杉は
嘲るように高く笑った。
如何にも
他を馬鹿にした態度である。もう
斯うなっては我慢も堪忍も
能ぬ。市郎の
疳癪は一時に爆発した。
「
彼方へ行けと云うのに……判らないか。おい、
這奴を
彼方へ
引摺って行け。」
左右を
顧って又
呶鳴ったが、
直には声に応ずる者もなかった。これが余人ならば知らず、一種の魔力を
有っているかの
様に思われているお杉
婆に
対って、
迂濶に手を
下すのは何だか
不気味でもあるので、
何れも眼と眼を見合わして、真先に進んで出る勇者を待っていた。
この臆病者等が
怯んで
動揺めく
醜態をじろじろ見廻して、
「ははははは。」
お杉は又もや
凱歌の
笑声を揚げた。
この時、
群集を
押分けて、
捫着の中へ割って入ったのは、駐在所の
塚田巡査。年の
壮い、色の黒い、
口鬚の薄い、小作りの男であった。
彼は職掌柄、
平生からお杉
婆に
就ては注意の
眼を配っている処へ、
恰もこの
騒動を見付けたのであるから、容赦は無い。
「こら、お前はここへ来て何をして
居る。ここの
家の迷惑になるから、早く
立去れ。」
お杉は
依然笑って答えず、腰に
ぶら下げた皮袋から
山毛欅の実を
把出して、生のままで悠々と
咬り初めた。
「実に困るんです。どうか
追攘って頂きたいもので……。」と、市郎も口を出した。
「よろしい。」と、巡査は
首肯いて、「さあ、早く行け。
他の迷惑になるのが判らんか。
斯ういう所に
何時までも
ぐずぐずしていると、道路妨害で
引致するぞ。」
対手は相変らず平気で笑っているので、巡査も少し
悶れ出した。
「こら、行けと云うのに……。何故
ぐずぐずして
居るのか。判らん奴だ。」
お杉の
痩腕を掴んで一つ小突いたが、
彼女は
些とも動かなかった。
見掛は枯木のようでも容易に倒れない、さながら大地に根が生えたように突ッ立っていた。巡査はいよいよ
悶れて、力一ぱいに強く
曳くと、
彼女も
流石に
二足ばかり
踉蹌いた。
「さあ、行け、行け。」
突遣っても又
ふらふらと戻って来る。市郎も見兼ねて突き戻した。巡査も
亦突き戻した。血気の男二人に、突き戻され、
押遣られて、強情なお杉も
漸次に
後へ
退ったが、やがて口一杯に
啣んだ
山毛欅の実を咬みながら、市郎の顔に向って
ふッと噴き付けた。
市郎は
あッと顔を押えながら、
腹立紛れの殆ど無意識に、お杉の胸の
辺を強く突くと、
彼女は屏風倒しに
撲地と倒れた。袋の山毛欅は四方に散乱した。
この騒ぎを聞き付けて、安行も奥から出て来た。
「こりゃア一体どうしたのだ。」
人々は
わやわや云いながらお杉の
周囲に群れ
集ると、
婆は歯を
食縛って正体もない。巡査は小膝を突いて抱え上げた。
「
偽死でもないらしい。急所でも打ったかな。」
市郎も
立寄って
検めた。彼は医師である。左右の人々に
吩附けて、
兎も
角もお杉を我家へ
舁き入れさせた。
けれども、お葉の方はまだ
埓が明かぬ。
彼女は依然として
生贄の冬子を掴んでいるのであった。市郎は気が気でない。忙しい中にも駈け寄って、
「この通りの始末だから、
委しいことは後で話す。
兎も
角も今日の処は
何うか堪忍して
呉れ。」
拝むようにして
只管頼むと、お葉は誇りがに
首肯いた。
「
可ござんす。じゃア、
先刻の約束は忘れませんね。」
「忘れない、
必然忘れない。」
お葉は初めて手を
弛めた。荒鷲の爪から逃れ出た
温め
鳥のように、冬子は初めて
ほッと息を
吐いたが、髪を
振乱した
彼女の顔には殆ど
血色を見なかった。
それも
関心ではあるが、
猶一方には気を失っているお杉が有る。市郎は
倉皇として内へ
駈込んだ。塚田巡査も続いて入った。
お杉は
南向の縁側に
横えられた。市郎の人工呼吸
其他の応急手当が効を奏して、
彼女は間もなく息を吹き返した。
「どうだ、
既う気が
注いたか。」と、巡査が問うた。
「何、死ぬものか。」
独語のように云って、お杉は
矗然と
起ち
上ったかと見る
中に、左右の人々を一々
睨め廻しながら、
彼女は
ふらふらと歩き出した。
加之も今の
騒動は忘れたように、
諷然と表へ出て行った。居合わす四五人は
其後を
尾けて行くと、お杉は
顧りもせずに、町の真中を悠々と歩いていた。
町の
尽頭まで来た時に、お杉は初めて
立止った。尾行して来た人々も
既う散って
了った。お杉は柳屋の
門に寄って、
皴枯れた声で、
「お葉さん、
居るかい。」
思うがままに恋の
仇の冬子を
呵責んだお葉は、お清に
扶けられて柳屋へ帰った。
「お前さん、随分酷いことを
為たねえ。」
「ああ、これて
清々した。」と、お葉は
酔醒の水を飲んだ。お清は
惘れて
其顔を眺めている処へ、
彼のお杉
婆の声が聞えたのである。
「お葉さん……お葉さん。」
わが名を呼ばれて、お葉は
ふらふらと
起った。お清は慌てて
其袂を
曳いた。
「お
止しよ、お前さん、もう外へ出るのは……。あんな奴にお構いでないよ。」
「お葉さん。」と、外では又呼んだ。
「あいよ。」
お葉はお清を突き
退けて、
門へ出た。門にはお杉が笑いながら立っていた。
「お前さん、少し話があるから
一所に来てお
呉れでないか。」
「あい、行きますよ。」
お葉は
弛んだ帯を結び直して、
店口に
有合う下駄を突ッ掛けると、お清はいよいよ
危んで又
抑留めた。
「お前さん、どこへ行くんだよ。」
「
可いよ、うるさい人だねえ。」
「早くお
出でよ。」と、外では又呼んだ。
「あい、あい。」
お杉は痩せた手をあげて
差招くと、お葉は
宛ら死神の
迎を受けた人のように、
唯ふらふらと
門口へ迷い出た。お清もつづいて追って出ると、
婆は
徐に
顧って、
「お前に用は無いよ。」
鋭い眼で
じろりと睨まれて、気の弱いお清は思わず
立縮んだ。
其間にお杉は出て行く。お葉も後から
躡いて行った。正午に近い冬の日は明るく晴れて、蒼い空には黒い鳥の
一群が飛んで渡った。
お葉は酒の
酔が
未だ醒めぬのかも知れぬ、
或は何かの夢か幻を
視ているのかも知れぬ。
兎にかくお杉
婆の魔力に引かれたように、殆ど無意識で
ふらふらと歩いていた。
彼女は一種の催眠術に
罹った人の
様であった。
町を行き
尽して
村境に出た。昨夜トムと

とが闘った
樅の林を過ぎると、
路は爪先上りに
嶮しくなって来た。
落葉松や
山毛欅や
扁柏の大樹が日を
遮って、
山路は
漸次に薄暗くなって来た。
何処やらで猿の声が聞えた。
天正十三年、
所謂「飛騨の
三方崩れ」という怖るべき大地震が、ここら一帯の地形を一変して、
麓近い
路にまで
剣なす岩石が
突出した。
其中には怒れる人の顔のような真蒼な岩もあった。百千人の生血を
灑ぎ掛けたような真赤な岩もあった。岩と岩との間は飛んで渡るより他はない、二人は蛇のような
山蔦の太い
蔓に
縋って、
宛ら架空線を
修繕する
工夫のように、宙に
ぶら下りながら通り越した。
お杉は通い馴れた
路であるから不思議はないが、お葉が
何うして
此の
難所を
跳越え、渡り越えたかは疑問である。
恐く夢のようで自分にも判るまい。
虎ヶ窟の入口には
彼の重太郎が
佇立んでいた。
其の
傍には猿のような、
小児のような、一種の怪しい者が
蹲踞んでいた。
「帰って来たよ。」
お杉が声をかけると、重太郎は無言で
顧った。母の
後には、帯も
裳もしどけなく、
脛も
露出に立ったるお葉の
艶なる姿が見えたので、重太郎は山猿のような笑い声を出して、猶予なく
其前に
ひらりと飛んで行った。怪しい者も同じく叫んで、後から続いて行こうとすると、
忽ちお杉に叱られた。
「お前は
彼方へ行ってお
出よ。」
怪しい者は小さくなって、
窟の奥へ逃げ込んで
了った。お葉は
茫然と立っていた。重太郎も黙って
其顔や
容に
見惚れていた。
山風が
どっと吹き
下して、岩と岩との間を掻き廻すと、そこらに
積っていた真赤な落葉は、さながら
火粉を散らすが如くに、
はらはらと乱れて飛んだ。
お杉が去り、お葉が去った
後の角川家は、
所謂大風の吹いた
後であった。塚田巡査も近所の人々も
漸次に帰って
了った。
冬子も一時は失神の
態であったが、これも市郎の手当に
因て回復して、
南向の座敷に
俯向いて坐っていた。
傍には安行と市郎の二人が
同く黙って坐っていた。
「冬子さん、
何うだね。気分は
既う
悉皆快いのかね。」と、安行は
霎時して口を切った。
「はあ、有難うございます。お
庇さまで、もう
悉皆快くなりました。」
とは云ったが、冬子の顔は
未だ蒼ざめていた。市郎は
心許なげに、
「ほんとうに
既う
快いんですか。まだ血色が
不良いようだが……。何しろ、飛んだ災難でお気の毒でしたねえ。」
冬子は黙って
俯向いていた。
「災難……実に飛んだ災難だったよ。」と、安行も
首肯いて、「あんな
狂気染みた奴が飛び込んで来るというのは、
何う云う訳だろう。私が早く知ったら、何とか無事に納めたのだが、あの七兵衛めが
一酷なことを云うもんだから、
到頭あんな騒ぎを
演出来して
了って……。そこへ出ッ
食した冬子さんは、実に運が悪かったのだ。それでも
怪我を
為ないのが
勿怪の
幸で、大事の顔へ
疵でも付けられようものなら、
取返しが付きゃアしない。何しろ、お葉とか云う奴は呆れた女だ。」
「実際、呆れた奴ですなあ。あれも少し気が
触れているんじゃアありませんか知ら。
尠くもヒステリー患者ですな。」と、市郎も眉を
顰めた。
「
何うして又、ヒステリーに
罹ったんでしょう。」と、冬子は不意に顔を
擡げた。お葉に掴み
毀された前髪の
庇は
頽れたままで、
掻上げもせぬ乱れ髪は黒幕のように
彼女の蒼い顔を
鎖していた。
其中から輝くのは
葉末の露の如き眼の光であった。
「さあ、
何うしてと云って……。」と、市郎も考えて、「ああ云う女には
能くあるんですよ。
其上に酒にも酔っている
様でしたから……。」
「酔っているばかりでも有りますまい。
妾が二度と
御当家へ来ればあの人が又暴れて来るそうですね。あの人は何故そんなに妾を恨んでいるんでしょう。妾には
些とも訳が判りません。」
口では「判りません」と云うけれども、冬子は大抵推量している。自分達
母子が
予て疑っている如く、お葉という女は市郎と
情交があるに相違ない。
左もなければ自分に対して、あんな乱暴を働く筈がない。市郎が婚礼延期などを主張するのも、
畢竟は
彼の女を恐れている為であろう。自分の夫たるべき男を
他に
奪られて、
加之に自分が
斯んな
酷い目に逢うとは、債権者が債務者から
執達吏を
差向けられたようなもので、余りに馬鹿馬鹿しい理屈である。自分には何の
科が有ってこんな
理非顛倒の侮辱を受けるのであろう。考えれば考えるほど、冬子は
口惜しくって
堪らなかった。
けれども、
彼女も若い娘である。
流石に胸一杯の嫉妬と
怨恨とを
明白地には
打出し兼ねて、
先ず遠廻しに市郎を責めているのである。自分が折角見舞に来た

の問題などは、もう
何うでも
可いことになって
了った。
「いや、誰にも判りませんよ。
彼の女は云う通りのヒステリー……
究竟狂人も同様なんですから……。」と、市郎は嘆息するように答えた。
「でも、
狂人になるには何か
仔細があるでしょう。」と、冬子は
目眦を
昴げて
追窮した。
「
余り酒でも飲み過ぎたんでしょう。」
「そうでしょうか。」と、冬子は少しく
冷笑って、「あなたは
其原因を御存知ないんですか。」
「知りません、一向知りません。」
「知らない筈は無いでしょう。」
冬子の声が
稍鋭く聞えたので、市郎も
聊か
面食って思わず
其顔を
屹と
視ると、露の如き
彼女の眼は今や火のように燃えていた。
「ああ、判った。あなたは僕を疑っているんですね。それは
冤罪です、全く冤罪です。昨日も云う通り、僕は
唯った一度
彼家へ行った
限りで、あの女と何等の関係も無いんです。
先方では
何う思っているか知らんが、
此方は
清浄潔白です。」
「それならば何故あんな乱暴を
為たのだろう。
可怪いな。」
父も我子の味方ではなかった。
お葉の問題に
就て市郎を責めるのは、実際気の毒であった。本人が自白する通り、過ぎし夏に冬子の兄忠一が帰郷した
砌、若い同士が連れ立って
唯一度
彼の柳屋へ遊びに行ったことが有る。忠一は元気の
好い男で、酔って随分騒いだ。市郎も
温順くしては居なかった。けれども、二人ながら
唯酔って騒いで帰った
丈のことで、別に
後日の面倒を
惹起すような種は
播かなかったのである。
右の通りで、
此方では何の種も
播かなかったが、結局は
此方が自ら刈らねば成らぬような羽目に陥ったのは、市郎の不幸であった。
此方には何の
考慮もなかったが、恋の種はお葉の胸に播かれた。東京の深川に生れて、十六の年から神奈川、豊橋、岐阜と東海道を股にかけたウエンチ生活の女が、二十三という
此年の夏に初めて
真の恋を知った。
市郎は
其後再び柳屋の
門を
潜らなかったが、元来が狭い町で、恋しい人の家屋敷は眼と鼻の
間にあるのだから、女は男を呼び出す術が無いでもなかった。
況てお葉は男を恐れるような弱い女では無かったが、恋に
柔げられた
此女は日頃の気性に似も
遣らず、自分の男を捉えて来ることは躊躇して、
唯往来で折々逢う毎に、
馴々しく
詞をかける
位を
切てもの
心遣りに、
二月三月を
過す
中に、飛騨の涼しい秋は早くも別れを告げて、寒い冬の山風が吹いて来た。柳屋の
門の柳が霜に痩せると共に、恋に悩める女にも
漸次に
痩が見えた。持病のヒステリーも嵩じて来た。
果は酔うて狂うて、前の如き椿事を
演出したのである。
けれども、
其対手の市郎は云うに及ばず、父の安行も
周囲の人々も、お葉の恋を
斯ばかりに熱烈なるものとは想像し得なかった。昔から世間に
能くある
習で、田舎のお
大尽を罠に掛ける酌婦の紋切形であろう位に、極めて単純に解釈していた。
況て市郎は、
最初から
彼のお葉という女を意中は
愚、眼中にも置いて居なかったのであるが、今日の一件に出逢って
聊か意外の感を
作した。
固より
半狂気の酒乱のような女が、何を云うか判ったものでは無いが、
彼女は自分の未来の妻たるべき冬子に対して、一種の根強い嫉妬心を懐いているのは事実らしく、
加之も自分に対しても、二度と
此の女をここの
家へ入れるなと誓わしめたのを見ると、
其底意は善か悪か知らず、
兎にかく自分に対して何等かの執着心を
有っているらしく思われる。
随って、冬子にも疑われ父にも
怪まれるのも無理はない。
「この
疑惑を
何うして解くか。」
市郎も考えた。が、
彼の柳屋に
就て事実の有無を証拠立てるより他に仕様もない。
「じゃア、
阿父さんと冬子さんと三人で柳屋へ行って、私が
其後遊びに行ったことが有るか無いか訊いて見ましょう。」
「馬鹿な。」と、安行は叱るが如くに苦笑いした。「親と
一所に訊きに行ったって、
先方で
真実のことを云うと思うか。」
これは至極
道理である。市郎も叱られて閉口して
了った。冬子も声を
顫わして、「
妾は死んでもあんな
家へは行きません。」と云った。これも
道理である。
「だが、お前は
真実にお葉という女と関係は無いんだな。」と、
霎時して父は問うた。
「実際です、実際関係は無いんです。」
市郎は
之より他に、自分の潔白を表明すべき
詞を知らなかった。わが子を信ずる安行は
僅に
首肯いたが、
疑惑と
嫉妬とが
蟠まれる冬子の胸は、まだ容易に解けそうにも見えなかった。
「冬子さん。」と、安行は声を
和げて、「
倅も
此の通り云うんだから、よもや嘘じゃアありますまい。で、今日のことは
阿母さんが心配しないように、
能く云って置いて下さい。
何れ私からも
委しいお話を
為ますから……。」
差当り
斯んなことを云って、冬子を
宥めるより他は無かった。冬子も
何時まで
憤っても居られないので、解けぬ
疑惑を懐いたままで、やがて我家へ帰る事となった。が、途中が何となく不安である。
「
可、私と七兵衛とで送って上げよう。」
安行と七兵衛は冬子を送って出た。
虎ヶ窟の前に立ったお葉は、
霎時夢のようであった。
襟に
沁む山風に吹き醒まされて、少しく正気に
復って見ると、自分の白い手は人か
山
か判らぬような重太郎に掴まれていた。お葉は驚いて慌てて
振放した。
「重太郎、お前のお嫁さんを連れて来たよ。」と、お杉は笑いながら云った。重太郎も
笑を含んで
首肯いた。
飛でもない話である。誰がこんな奴の嫁になるものかと、お葉は
寧ろ
可笑くなった。が、
之に伴う不安が無いでもなかった。さりとて逃げる訳にも行かぬ。彼女は相変らず黙って立っていた。
「お葉さん。お前は
倅の嫁になって
呉れるだろうね。」と、お杉は
徐に問うた。
お葉は
矢はり黙っていた。重太郎は
堪り兼ねて又飛び付こうとするのを、母は制して、
「まあ、お待ちよ。ねえ、お葉さん。
妾達も時々に町へ出るから、お前さんとも
予てお馴染だが、妾達は二十年
以来この
窟に棲んで、山

と
一所に暮している。けれども、妾の倅の重太郎は

じゃアない。
是でも立派な人間だ。
其の人間の重太郎がお前さんに惚れたのも無理ではあるまい。そこで、是非お前さんを嫁に貰って
呉れと云うから、今日お前さんを呼んで来たのだ。
何うぞまあ仲好くしてお
呉れよ。」
云う人は極めて真面目であるが、云われる方は余り馬鹿馬鹿しくて御挨拶が
能ぬ。お葉は
唯ある岩角に腰を
卸して、紅い
木葉を
弄っていた。
重太郎は
漸々に熱して来たらしい、又
飛蒐ってお葉の手を
捉ろうとするのを、母は再び
遮った。
「そんなことをすると、お葉さんに嫌われるよ。ねえ、お前さん。ここまで一所に来る位だから、
肯いて
呉れるのだろうね。」
「
妾はそんな
意で来たんじゃありません。」
「それじゃア何しに来た。」
「お前さんが呼んだから……。」
「呼ばれて来るからには、承知だろう。」
「いいえ。」と、お葉は
頭を
掉った。
併し
斯うなると、お葉も我ながら判らなくなって来た。自分は何の為にここまでお杉に附いて来たのであろう。呼ばれたから来た……とばかりでは、余りに他愛が無さ過ぎる。何か他に相当な理屈が無ければならぬ。が、
何う考えても夢の
様で、何の為に悪所絶所を越えて
斯んな処へ
入込んだのか、
其理屈は一切判らぬ。まだ酒に酔っていた
故か知らと、無理に理屈を附けても見たが、それも何だか覚束ない
様にも思われた。
酒の
酔も醒め、ヒステリー的の発作も
漸く
鎮った今の
彼女は、
所謂「狐の落ちた人」のように、
従来の自分と現在の自分とは、何だか別人の
様にも感じられた。
お杉は又もや
徐に問うた。
「お前さん、重太郎が
忌なのかえ。」
問わずとも判った話だ。お葉は
矢はり黙っていた。
「何故、忌なのだえ。」
お葉は相変らず
俯向いていた。
「はは、判った。お前は
彼の市郎に惚れているのだろう。
無効だからお
止しよ。
先方じゃアお前を嫌い抜いているのだから……。」
「嫌われていても
可ござんすよ。」と、お葉は
屹と顔を上げた。
「嫌われても思いを通すというのかえ。それは
道理だ。が、お前が市郎に嫌われても、自分の思いを通そうと云うのと同じ訳で、重太郎も幾らお前に嫌われていても、
必然自分の思いを通すよ。
然う思ってお
在。」
お杉は
嫣然笑っていた。
逃げようと思っても逃げられる筈は無い。
傍には重太郎が獣のような眼を
晃らして見張っている。窟の奥には山

らしい
怪物も居る。
路は人間も通わぬ
難所である。こんな処へ導かれて来て、こんな
怪物共に
取囲れたからは、自分の智恵や力で自分の運命を左右する訳には行かぬ。運を天に任すと云うのは、
洵に今のお葉の身の上であった。
窟の中から怪しい者の影が又現れた。
加之も二つ、うす暗い奥から
此方を覗いていたが、やがて入口の方へ
ちょこちょこ駈出して来た。
「

が又来たよ、
煩さいねえ。」と、お杉は重太郎を
顧って「少し焚火をお
為よ。」
重太郎は
燐寸を
有っていた。
有合う枯枝や落葉を積んで、手早く燐寸の火を
摺付けると、
溌々云う音と共に、
薄暗い煙が渦巻いて

った。つづいて紅い
火焔が
ひらひら動いた。
火の光を見ると、怪しい者共は
俄に恐れたらしい。キキと叫んで、早々に窟の奥へ逃げ込んで
了った。
「お葉さん、寒いだろう。
此方へ来てお当りな。」と、お杉は
徐に焚火の
傍へ寄った。お葉は岩に腰をかけたままで、返事も
為なかった。
「幾らお前が強情を張った所で、一旦ここへ連れて来た以上は、もう帰す
気配いはないから、
其意で
悠々してお
在。夜も寒くない
様に、毛皮も沢山用意してあるから……。大事の花嫁さんに風邪でも引かせると大変だからね。ははははは。」
焚火はいよいよ燃え
上って、
其の紅い光は、お杉の
尖った顔と、重太郎の丸い顔と、お葉の蒼い顔とを
鮮明に
照した。
昼も暗い
山峡では、今が何時頃だか判らぬ。あなたの峰を吹き過ぐる山風が、さながら遠雷のように響いた。
三人は
霎時黙っていた。やがてお杉は
矗然と
起った。
「お葉さん、何を考えているんだえ。もッと
此方へお
出でよ。」
対手は
矢はり黙っているので、お杉は笑いながら
其傍へ歩み寄った。
「判らない人だねえ。何でも
可いから
妾の云うことを
肯いて、素直にここの人にお成りよ。お前が惚れている市郎も、今にここへ連れて来て上げるから……。
可いだろう。」
「若旦那がここへ……。」
「ああ、妾が
必然連れて来て見せるから、
温順くして待ってお
在。え、それでも
忌かえ。ねえ、お葉さん、
確乎返事をお
為よ。」
お杉は窪んだ眼を異様に輝かして、
対手の顔を穴の明くほど
凝と見詰めると、お葉は少しく
茫となって来た。
「え、判ったかえ。」
低声に力を籠めて云うと、お葉は
小児のように
首肯いた。
彼女は
漸次に酔って来たように感じた。
「
可いかえ。
はいと返事をお
為。」
「はい。」
「重太郎のお嫁になるかい。」
「はい。」
お葉は夢心地で答えた。
「
可、
可。さあ、妾と
一所にお
出で。」
進んで
其手を
把ると、お葉は拒みもせずに
ふらふらと
起ち
上った。お杉は
此の
捕虜を窟の暗い奥へ連れ込んで
了った。焚火に映る重太郎の顔は、火よりも熱して赤く見えた。
やがて窟の奥からお杉の声で、
「重太郎、火を消してお
了いよ。」
重太郎は云わるるままに焚火を踏み消すと、
四辺は
俄に暗くなった。奥から母が再び出て来た。後につづいて例の怪しい者が二つ飛んで来た。
お杉は宙を歩むように、
傍の小高い岩角へ
するすると登った。天を
凌ぐ
山毛欅の梢の
間から、
僅に洩るる空の色を仰いで、
「もう日が暮れるのに間もあるまい。今夜はお前達に
大事の仕事があるんだよ。」
「
阿母さん、何だ。」
「角川の市郎はお前の
仇だ。
彼奴が無事に生きて居ては、お葉は
何日までも未練が残って、長くお前に附いて居まいよ。」
重太郎は眼を
瞋らして
首肯いた。
「それから
彼奴は妾にも仇だ。
先刻妾を突き倒して、半殺しの目に逢わした奴だ。お前達は
其の
復讐をしてお
呉れ。頼んだよ。」
「
可、大丈夫だ。」
勢い込んで駈け出そうとするのを、母は呼び止めて何事をか囁き示す
中に、日も
漸く暮れかかったらしい。例に
依て
濛々たる山霧が
潮の如くに湧いて来た。
「早く行ってお
出でよ。」
お杉の声を
後に聞きながら、重太郎も

も霧の中を
衝いて出た。お杉は笑いながら再び焚火を
撥り初めた。
冬子を送って隣村まで出向いた安行と七兵衛とは、日が暮れるまで戻らなかった。が、それは
左のみ珍しいことでも無い。安行が吉岡家を訪問して、半日ぐらい話し込んでいることは、
従来にも
屡々あった。
此頃は
日
が
滅切詰って、午後四時には
燈火が要る。
麗かな日も、今日は午後から
俄に
陰って、夕から雨を催した。五時を過ぎても、六時を過ぎても、二人は帰らないので、市郎も少しく不安を感じ初めた。殊に昨夜の

の一件もあるので、途中が何だか
剣呑にも思われた。
家にいて心配するよりも、迎いながら町
尽頭まで出て見ようと決心して、市郎は
洋杖を振りながら門を出ると、
恰も七兵衛の駈けて戻るのに逢った。
「
小旦那……。」
彼は
呼吸を
喘ませていた。暗くて
能くは判らぬが、
恐く顔の色も蒼くなっているだろうと思われた。
「どうしたんだ。」と、市郎も慌しく
駈寄って訊ねた。
「大旦那様は戻ったかね。」
「まだ帰らない。お前は親父と
一所じゃアないのか。」
「
一所だったが……途中で
失れて……一体どうしただろう。」
七兵衛が口早に語るのを聞くと、二人は冬子を吉岡家へ送り届けて、母のお政に昨夜の

の一件や、今日のお葉の一条などを話している
中に、思いの
外に時が移って、冬の日は早くも傾きかかった。二人は
暇を告げて
立出ると、お政は途中の用心に
松明を貸して
呉れた。
七兵衛が先に立って松明を
振照しながら、村と町との境まで
来蒐ると、
路は全く暗くなった。
昨夜山

に襲われたのは
此辺だなどと話していると、行手の木蔭から一人の小作りの男が
ひらりと飛んで出た。何者かと松明を突き付ける
間もなく、彼は
蝗の如くに飛んで来て、七兵衛の持ったる松明を叩き落した。
加之も落ちたる松明を取って、
傍の小川に投げ込んで
了った。
火の消えるのを相図のように、同じ木蔭から又もや怪しい者が
ばらばらと飛び出して、安行を手取り足取り
引担いで行こうとする。安行も無論抵抗した。七兵衛も進んで主人の急を救おうとすると、
最初の小さい男が這って来て七兵衛の足を
掬った。彼は倒れながらに敵の腕を取って、一旦は
膝下に
捻伏せたが、
体に似合わぬ強い奴で
忽ち又
跳返した。二人は起きつ転びつ
毟り合っている
中に、安行は自分の敵を突き
退けて十
間ばかりは逃げたらしい。敵もつづいて追って行った。
主人の身の上が
関心ではあるが、自分も一人の敵を控えているので
何うすることも
能ない。七兵衛は声をあげて救いを呼んだ。この声を遠く聞き付けて、
後の村から二三の人が駈けて来た。
其跫音を聞くと、敵も
流石に
狼狽えたらしく、力の限りに七兵衛を
突退け
刎退けて、あなたの森へ逃げ込んで
了った。
が、主人の行方も安否も判らぬ。救いに
来った人々に
仔細を話して、七兵衛も共々に
其処らを尋ね廻ったが、何分にも
暗黒と云い、
四辺には森が多いので、更に何の
手懸りも無かった。
或は首尾好く町の方へ逃げ延びたかも知れぬと、彼は念の為に
兎に
角も
駈戻ったのである。
以上の報告を聞いて、市郎も色を変えた。
対手は

か、
或は
其れに
似寄の
曲者か知らぬが、
何れにしても彼等に襲われた父の運命は、甚だ心許ないものと云わねばならぬ。
「七兵衛、早く駐在所へ行って来い。」
七兵衛が駐在所へ
駈付ける間に、市郎は
家中の者を
呼集めて、右の始末を慌しく云い聞かせると、一同は眼を
瞠って
駭いた。何しろ一刻も早く
捜査に出ろと身支度する処へ、塚田巡査も
出張した。提灯や
松明が
点された。
「角川の大旦那が

に
攫われた!」
誰云うとなく
此声が
駅中に拡がると、まだ宵ながら眠れるような町の人々は、不意に
山海嘯が出たよりも驚かされた。日頃出入の者は云うに及ばず、
屈竟の若者共は思い思いの武器を
把って
駈集まった。
塚田巡査は町の者共を従え、市郎は我家の職人や
下男を率いて、七兵衛
老翁に案内させ、前後二手に分れて
現場へ
駈向った。夜の平和は破られて、幾十の人と火とが、
町尽頭の方へ乱れて走った。
午後から
陰った冬の空は遂に雨を
齎して、闇を走る人々の上に
冷い糸の
雫を落した。が、そんなことに頓着している場合でない。
松明の火を消すほどの
強雨でも無いのを幸いに、
何れも町を駈け抜けて、隣村の境まで来て見ると、暗い森、暗い川、暗い
野路、見渡す限り
唯真黒な闇に
鎖されて、天地
寂寞、半時間前に怖るべき
椿事がここに
起ったとは、殆ど想像の付かぬ位であった。
「
老翁、この
辺かい。」と、市郎は
立止まって
顧ると、七兵衛は
水涕を
啜りながら進み出た。
「はあ、
丁度ここらでがすよ。あれ、あの
樅の木の蔭から

が出て来たので……。それから何でも大旦那は
彼地の方へ逃げたように思うのでがすが……。」
人々は松明を
振照して、七兵衛の指さす
方を仔細に検査したが、別に手懸りとなるべき足跡もなく、遺留品も見出し得なかった。
「どうも判らんな。」と、塚田巡査も失望の
嘆息を
洩した。
が、
兎に
角に
其儘では済まされぬ。巡査の率いる一隊は、森に沿うて
山路を北に登る事となった。市郎の一隊は
現場を中心として、附近の森や野原や村落を
猟る事となった。
斯くて
夜半まで草を分けて詮議したが、安行の行方は依然不明であった。
加之も夜の更けると共に、寒い雨が意地悪く
降頻るので、人々も
寒気と
飢とに疲れて来た。
「
到底今夜のことには行くまい。」と、弱い
音を吹く者も出て来た。が、市郎は容易に諦めることは
能なかった。疲れた一隊を慰め励まして、
其附近約三里の間を東西に南北に駈け廻ったが、遂に何の手懸りも無かった。懐中時計を見ると、
既う午前一時である。松明の火も
漸く尽きて来た。
此上は
矢はり山へ向うより他は無い。で、
曩に巡査等が登った
路とは方角を変えて、西の方から
山路へ
分入ろうとする途中に、小さい丘が見えた。ここらに多い
山毛欅が茂って、丘の
麓には名も無い小川が
繞っていた。
「や。人が死んでいる!」
先に立ったる一人が松明を
翳して驚き叫ぶと、
余の人々も慌てて駈け寄った。見ると、
山毛欅の大樹の根を枕にして、一人の男が赤裸で雨の中に倒れていた。
市郎は殆ど夢中で
駈寄った。消えかかる幾多の松明の火が一時にここへ集められた。
其の光に照し出されたる屍体の
有様は、身の毛も
悚立つばかりに残酷なるものであった。男は前にも云う如く、身には
一糸を附けざる赤裸で、致命傷は
咽喉であろう、
其疵口から
滾々たる
鮮血を噴いていた。更に驚くべきは、鋭利なる刃物を以て
其の顔の皮を剥ぎ取ったことである。
随って
其の顔は
判然せぬが、
僅に灰色の髪の毛に
因って、
其の六十近い老人であることを
確め得た。
「
阿父さんだ。」と、市郎は屍体を
抱いて叫んだ。七兵衛も声を揚げて泣いた。
この意外なる
光景に
胆を
挫がれて、余の人々は
唯動揺めくばかり、差当り
何うするという分別も出なかった。が、
流石は職業であるから、市郎は
先ず
其疵口を検査すると、
疵は刃物でなく、鋭い牙と爪とて
咬破り
掻裂いたものらしい。彼は再び驚くと共に、敵は
正しく

であることを悟った。
この時、あなたの山の方から
幾箇の
松明が狐火のように乱れて見えた。巡査の一隊は尋ね
飽んで、今や山を降って来たのであろう。
斯くと見るより
此方の人々は口々に叫んだ。
「大旦那はここに居たぞ。おうい、おうい。早く来いよ。」
先方でも声に応じて駈けて来た。が、惨憺たる
此場の
光景を見て、
何れも
霎時は
呆気に取られた。巡査は
剣鞘を握って進み出た。
「残酷なことを
行りましたなあ。

でしょうか。」
「無論、

です。

の仕業です。」と、市郎は
歯噛をした。
「顔の皮を
剥いだのは、
犯跡を
晦ます為でしょうか。」
「そんなことかも知れませんな。」
巡査は
首肯いて、これも一応屍体を
検めたが、やがて少しく眉を
顰めた。
「角川さん。」と、塚田巡査は市郎を
顧って、「もう一度この老人の口を……歯を
能く見て下さい。」
市郎は
死人の口を開けて見た。
「どうです。
違や
為ませんか」と、巡査は首を
拈った。
成程、違っていた。今まで気が
顛倒していたので、
流石にそこまでは
意が
注かなかったが、安行の前歯は左が少しく
缺けていた。この男の前歯は左右とも美事に揃っている。髪の色こそ似ているが、
確に人違いだ、我父では無い。市郎は
吻とした。
「違います。違います。成程、これは親父じゃアありません。」
「そうでしょう。」
「違った、違った。」と、人々は
喜悦の声を揚げた。七兵衛は嬉しさに又泣き出した。人々は消えかかった
松明が再び明るくなった
様に感じた。
が、これが安行でないとすると、
何処の何者であろう。たとい角川家の主人
其人にあらずとも、
一個の人間が惨殺されて
此処に
横わっているのは事実である。塚田巡査は職務上これを
捨置く訳には行かぬ。
取敢ず
其屍体を町へ運ばせて、
己は
其報告書を作る準備に
取かかった。
夜はいよいよ更けて、雨は益々烈しくなって来た。
此のまま雨中に立ち尽しては、
或は凍えて死ぬかも知れぬので、遺憾ながら安行の捜索は一旦中止して、一同も空しく町へ
引揚げて来た。市郎は
其夜一睡も
為なかった。
「
阿父さんは
何うしたろう。」
彼の冴えたる眼には、
彼の惨殺されたる老人の屍体がありありと映った。自分の父も
矢はり
彼のような浅ましい姿になって、人の知らぬ山奥か
谷間に倒れているのではあるまいか。それにしても、あの老人は何者であろうか。父の行方不明と
彼の惨殺事件との間に、何等かの
関聯があるのではあるまいか。こんな事を
際涯もなく思い続けている
中に、夜は白んだ。幸いに
暁方から雨は晴れた。
遠近では
鶏が勇ましく啼いた。市郎は
衾を蹴って跳ね起きた。家内の者共は作夜の激しい疲労に打たれて、一人もまだ起きていない。が、何だか
沈着いても居られないので、市郎は洋服身軽に
扮装って、
兎も
角も
庭前へ
降立った。
「今日は
先ず
何地の方面から捜して見ようか。」
頬を吹く
雨後の寒い朝風は、無数の針を含んでいる
様にも感じられたので、市郎は思わず
襟を
縮めながら、充血した眼に大空を仰ぐと、東は
漸く明るくなったが、北の山々は夜の
衣をまだ脱がぬと見えて、
頽れかかった
砲塁のような
黒雲が
堆く拡がっていた。
一昨夜はトムを殺された、昨夜は父を奪われた。
彼の
山
なるものは、何が故に執念深く自分等に祟るのか、市郎は殆ど判断に
苦んだ。が、彼は
不図こんな事を思い
泛べた。
トムは一昨日吉岡家の門前で、
彼のお杉
婆に吠え付いた。
而して
其晩に殺された。自分は昨日我家の門前で、同じくお杉婆を
突倒して気絶させた。
而して
其晩に父が行方不明になった。
果して世間で伝うる如く、お杉婆と山

との間に、何か不思議の因縁が結び
付られてあるとすれば、昨夜の
禍も
或はお杉
婆に関係が有るのではあるまいか。
「そうだ、
必然そうだろう。」
斯う考えると、彼は矢も盾も
堪らなくなった。家内の者共を呼び
起すまでもなく、自分一人で
彼の虎ヶ窟を探ろうと決心した。で、一旦内へ
引返して、応急の薬剤と
繃帯とを用意して、足早に表へ出ようとする時、七兵衛
父爺が
寝惚眼を
擦りながら裏口を
遅々出て来た。
出逢頭に
喫驚して、
「や、小旦那……。朝飯も食わねえで
何処へ……。駐在所かね。」
「いや、虎ヶ窟へ……。私は一足先へ行くから、
皆なが起きたら
直に
後から来るように
然う云って
呉れ。」
「虎ヶ窟へ……。」
七兵衛が
危む顔を
後にして、市郎は早々に飛び出して
了った。
市郎が
駅を抜けて
村境に着いた頃には、
旭日が
已に
紅々と昇った。
遠近の森では鳥が啼いて、眼も醒めるような明るい朝の景色は、彼に前途の光明を示すようにも見えたので、市郎は自ずと心が勇まれた。
例の
樅林の落葉を踏んで行くと、
漸次に
山路へ
差蒐る。岩は
俄に
嶮しくなって来た。
「
多寡が一里だ。知れたものだ。」
市郎は勇を
鼓して登った。が、彼は
所謂虎ヶ窟なるものの
在所を
委しくは知らなかった。
小児の時に友達と
一所に、一度ばかり登ったことが有るように記憶するが、今となっては
其方角も
頗る
覚束ないものであった。何でも本道から西へ入ると聞き伝えているので、心の
急く彼は
遮二無二西へと進んだ。昨日
彼のお葉が踏んだ
路である。彼も大小の岩を飛び越えねばならなかった、
山蔦に
縋って
危い綱渡りをせねばならなかった。洋服
扮装の彼は、
草鞋を
穿いて来なかったのを悔いた。
彼は又、
曾て読んだ八犬伝の
中で、
犬飼現八が
庚申山に分け入るの一段を思い出した。現八は
柔術に達していたので、岩の多い
難所を安々と飛び渡ったと書いてある。市郎には
生憎そんな素養が無かった。
「
多寡が一里だ。」と、彼は難所に逢う毎に自ら励ました。が、
或は
路を踏み違えたのかも知れぬ。
已に二時間
余を費したかと思うのに、目指す
窟を
未だ探り得なかった。この寒いのに彼は全身に汗を覚えた。岩の蔭から
瞰上れば、日は
已に高く昇ったらしい。
幾ら気が張っていても、
疲労には勝たれぬ。市郎は昨夜雨中を
駈廻った上に、終夜殆ど安眠しなかった。
加之も今朝は朝飯も食わなかった。
疲労と不眠と空腹とが
重った上に、又もや
此の難所を二時間余も
彷徨ったのであるから、
身体の疲れと気疲れとて、彼は少しく眼が
眩んで来た。脳に貧血を
来したらしい。ここで倒れては大変だ。
「これでは
到底歩かれない。」
市郎は
唯ある岩角に腰をかけて、用意の
気注薬を
啣んだ。足の下には清水が長く流れているが、屏風のような
峭立の岩であるから、下へは容易に手が
達かぬ。少しく体を前へ
屈めると、
飜筋斗打って転げ
墜ちるであろう。
斯う思うと、
飲料を用意していない彼は
愈よ
渇を覚えた。
「自分は
医師でありながら、何故
斯う不注意だろう。」と、彼は
自己を叱っても
追付かない。市郎は余りに慌てて我家を出たのであった。
「それにしても、七兵衛や
他の者は
何うしたろう。」と、彼は心細さに
斯んな事も考えた。が、今更
引返すべきではない。進め、進め、倒れるまでも進めと、市郎は勇気を振い
起して又歩き出した。あなたの梢では大きな山猿が、
他を
嘲るように笑っていた。
市郎は
何処を
何う歩いたか、
半は夢中で無闇に進んで行った。それから約一時間ばかりも経ったと思う頃、彼はあなたの大きい岩の狭間から、
一縷の細い
煙の迷い
出づるを見た。
「占めた!」
彼は喜んで躍った。で、思わず声を揚げて呼ぼうとしたが、遠方から敵を
驚かしては妙でない。
窃に近寄って
其不意を襲うに
如ずと、市郎は
故意に
跫音を
偸んで、煙のなびく
方へ岩伝いに辿った。
この
辺には大樹が多かった。大樹の
聳ゆる
下に落葉焚く煙が白く

って、
彼のお杉
婆は窟を
背後に、余念もなく
稗の
粥を煮ていたが、
彼女の耳は非常に
敏かった。
忽ち人の跫音に
心附いたと見えて、灰色のおどろ髪を
振乱しつつ
此方を
屹と
顧った。市郎は
つかつかと
其の
眼前に現れた。
お杉は騒ぐ
気色もなく、
徐に
起ち
上って軽く会釈した。
「
昨日は
何うも飛んだ御邪魔を致しました。」
「いや、僕の方でも大変失礼した。」と、市郎も尋常の挨拶をして、「時に今日来たのは他でもないが、
家の親父が
昨夕から行方知れずになったので……。」
「まあ。」と、お杉は驚いた顔をした。
市郎は少しく躊躇したが、更に
詞を次いだ。
「そこで、心当りを
方々探しているんだが、
何うも判らないので困っている。」
「それは困りましたねえ。」と、お杉も心配そうに眉を寄せた。
「村の者の話に
拠ると、親父は山の方へ登ったとも云うんだ。
若し
然うならば、万一
此地の方へでも迷い込んで来やアしないかと思って……。」
「いいえ、お
見掛申しませんね。」
お杉は昨日に
引替えて、極めて
叮嚀な
口吻であった。が、市郎は中々油断しなかった。
「親父は来なかったかね」と、考えて、「そこで、
些と云い
難いことだが、折角ここまで来たもんだから、念の為に窟の中を一応調べさして貰いたいんだが、
何うだろうね。」
「判りました。あなたは
妾を疑っているんでしょう。妾はこんな姿をして、乞食同様の
生活をしていますが、人を
攫ったり、殺したりした
記憶はありません。
山
とは違いますからね。」
「それは僕も知っているが、まあ
念晴しだ。
検めても
可いだろう。」
お杉は黙って市郎の顔を
視ていた。
「
可いだろう、
鳥渡検めても……。」
「
何うとも勝手にお
為なさい。だが、
倅の帰らない
中に早く願いますよ。」
「倅は
何処へ行った。」
「そこらへ
木実を拾いに行きました。」
「そうか。」
市郎は窟へ五六歩
踏込んだが、奥は暗いので何にも見えなかった。お杉は黙って窟の入口に立っていた。
「中は
真暗だね。」と、市郎は外を
顧って呼ぶと、お杉もつづいて入って来た。
「何か
松明か蝋燭のようなものは無いかね。暗くって仕様がない。」
「松明もあります、蝋燭もあります。」
「
何方でも
可いから貸して
呉れないか。」
お杉は黙って蝋燭に火を
点けた。
「あなた、どうぞお早く願いますよ。ここへ倅が帰って来ると
不可ませんから……。
彼児は正直者ですから、
他から
嫌疑を受けて
家捜しをされたなどと聞くと、
必然憤るに相違ありませんから……。」
「
可、
可。判った。」
お杉が照す蝋燭の淡い光を
便宜に、市郎は暗い窟の奥へ七八
間ほど進み入ると、第一の
石門が眼の前に立っていた。市郎はお杉の手から
燈火を
受取って、左右の
隅々を
照し
視たが、上も下も右も左も
唯一面の
嶮しい岩石で、片隅の低い岩の上には
母子の
寝道具かと思われる獣の生皮二三枚と、茶碗と箸と
薬鑵のたぐいが少しばかり転がっているのみで、他には別に眼に
入る物もなかった。市郎は念の為に獣の皮を一枚づつ引き
剥って見た。
「何か
見付りましたか。」と、お杉は
冷笑うような
口吻で問うたが、市郎は何とも答えなかった。これより更に奥深く進むと、第二の黒い
石門が扉のように行手を
塞いでいて、
四辺の空気は凍るばかりに寒かった。
「この先にも
路があるかね。」
「ありますから、まあ入って御覧なさい。石の下から
潜って行くんですよ。」
市郎は一旦
立止ったが、
此のまま半途で
引返しては何にもならぬ。彼は
障碍物競走をするような形で、
兎も
角も
冷い石門の下を這って通ると、
其後からお杉の痩せた身体が蛇のように
するすると抜け出して来た。
「ここが
行止りだね。」
お杉は
首肯いた。市郎は一度消えた蝋燭に再び
燐寸の火を
点けて、暗い
石室の中を仔細に
照して
視たが、所々の岩の窪みに氷のような水を宿している他には、
矢はり何物も眼に
入らなかった。
「何か
見付りましたか。」と、お杉は重ねて問うた。
其声が四方の低い石壁に響いて、何となく
凄愴いように聞えた。市郎は黙って立っていた。
市郎が唯一の
希望の光も消えた。あれほどの
難所を越えてようよう
此処を尋ね当てた
効も無く、暗い窟の奥には何の秘密も無かった。彼はお杉に有らぬ
疑惑を掛けたのを、今更
大に後悔した。
「どうも僕が悪かったよ。」
「じゃア、もう
可いんですか。」
「むむ。ここまで詮議すれば心残りは無い。もう帰ろうよ。」
とは云ったが、まだ幾分の未練が有るらしい、市郎は壁に沿うて室内を
一巡りした。
「や、あの隅に大きな穴がある……。」
お杉の眼は
晃然と光った。市郎は進んで蝋燭の火を
翳すと、岩穴は深さ幾丈、遠い地の底で
ごうごうという音が
微に聞えるばかりで、蝋燭の細い光ぐらいでは
到底達きそうも無い。穴の奥は深い闇に
埋まれていた。
市郎は更に
跪ずいて底を覗いたが、底は
唯暗いのみで何にも見えなかった。お杉は黙って
其背後に突っ立っていた。
低い狭い
石室の中は、墓場のように
鎮り返っていた。が、
其の
寂寞は
忽地に破られた。市郎は我が
背後で
微に物の動く
気息を聞いたので、
何心なく
顧ると、驚くべし
彼のお杉
婆は手に
磨ぎ
澄したる
小刀を
振翳して、あわや彼を突かんとしているのであった。
「何をするッ。」
市郎が驚いて叫ぶ間もありや無しや、お杉の兇器は
其の
頸筋へ閃いて来た。が、
咄嗟の
間に少しく
体を
躱したので、鋭い
切尖は
僅に
其の肩先を
掠ったのみであった。
空を撃ったお杉は力余って、思わず一足前へ
蹌踉く
機会に、
恐く岩角に
蹉いたのであろう、身を
翻えして穴の底へ真逆さまに転げ
墜ちた。蝋燭は消えて真の闇となった。
意外の出来事に市郎も一時は
呆気に取られたが、お杉が自分を殺そうとしたのは、
恐く
昨日の復讐ばかりではあるまい。
彼女は
此の岩穴の
中に何等かの暗い秘密を
蔵しているので、
其の発覚を恐れて
斯る兇行を企てたに相違ない。
矢はり自分が
最初に疑っていた通り、
生死不明の父は
此穴の底深き処に葬られているのかも知れぬ。それにしても、お杉は
何うしたろう。岩石に骨を砕かれて即座に命を
隕したか、
或は案外の軽傷で無事に生きているか、
先ず
其安否を
確めねばならぬ。いかに悪人にもせよ、
此のまま見殺しにするという法はあるまい。
「
兎も
角も穴へ入って見よう。」
父の行方とお杉の安否とを探る為に、市郎は直ちに
此の冒険を試みようと決心した。彼は
燐寸を
擦って再び蝋燭に火を
点けた。
其光に
因て又もや穴の中を窺うと、底の底は依然として
真暗であったが、彼は幸いに或物を見出した。それは一条の細い綱である。
今までは
些とも眼に
注かなかったが、綱は人間の
髪毛に
因て固く編まれたもので、
所謂「
毛綱」の
類であった。
其の一端は穴の
降口とも思しき処の岩角に結び付けられて、
他の端は暗い底の方に長く垂れていた。試みに
之を
手繰って見ると、綱は古代の
大蛇のように
際限もなく長いもので、
繰れども
繰れども容易に
其端には
達かなかったが、
根よく
手繰っている
中に、
漸く残りなく
引揚げた。長さは幾丈あるか
鳥渡は想像が付かぬ位で、黒い固い綱は狭い室内に
蟠蜒を巻いて、
其端は蛇の鎌首のように突っ立った。これが総て人間の
髪毛であるかと思うと、市郎は何となく薄気味悪く感じた。
が、今は猶予している場合でない。市郎は
其綱の片端を自分の胴に
緊と結び付けて、
海燕の巣を
猟る支那人のように、岩を伝って
真直に降り初めた。岩は殆ど
峭立ったように
嶮しいが、所々には足がかりとなるべき
突出の
瘤があるので、それを力に探りながら
徐々と進んだ。
降るに従って、深い穴の底はいよいよ暗かった。彼が
僅に頼みとするのは、鬼火のように燃ゆる
一挺の蝋燭の他は無かった。
市郎は
半夢中であるから、
約何のくらい降りて進んだか判らぬ。
兎にかく手がかり足がかりの岩を辿って、下へ下へと
危くも降りてゆくと、暗い中から
蝙蝠のようなものが
ひらりと飛んで来て、市郎の
横面を
礑と打った。
あッと顔を
背ける
機に、
冷い空気の煽りを受けて、頼みの蝋燭は
ふッと消えた。
「あ、
失敗った!」と、市郎は思わず
舌打した。が、現在の位置にあって再び蝋燭を
点けると云うことは、殆ど不可能であった。彼は左の手に蝋燭を持ち、右の手に岩を抱いて、辛くも
其身を支えているのであるから、
到底燐寸を
擦るべき余裕は無い。
迂濶に手を放せば、彼は底知れぬ
暗黒に転げ
墜ちて、お杉と同じ運命を追わねばならぬ。さりとて
此のままの
暗黒では仕方が無い。
彼は
霎時途方に暮れたが、
此の場合
兎も
角も進んで行くより他は無いので、市郎は探りながらに
徐に降りた。それから二三
間ほど進んだかとも思う時に、彼の左の足は硬い物に触れた。靴で
幾度か探って見ると、これは
突出した岩の角で、岩は
可成に広いらしい。ここならば両手を放しても立って居られそうに思われたので、「
可、ここで
燐寸を
点けようか。」と、市郎は更に右の足を踏み締めると、足の下は意外に
柔かであった。左は硬く、右は柔かい。少しく
可怪いとは思ったが、柔かいのは
恐く
粘土であろうと想像して、彼は
先ずここに両足を踏み固めた。
で、何よりも早く蝋燭を点けねばならぬ。市郎は手早く燐寸を擦ると、余りに慌てた結果、火は点いたが又
忽ち消えた。が、この瞬時の光に
因て、彼は我が
足下に人の
横わっているのを見た。男か女か
確とは判らぬ、
唯蒼白い顔が
朦朧と浮き出したかと思う間もなく、
四辺は再び
旧の闇に隠れて
了った。
「
阿父さんか、お杉か、
但しは別人か。」
市郎は
急いて又燐寸を擦ったが、胸の動悸に手は
顫えて、幾たびか
擦損じた。彼は
愈よ
悶れて、一度に五六本の燐寸を掴んで力任せに
引擦ると、火は
漸く点いた。
わが
足下に
横わっているのは、尋ぬる父の安行であった。わが右の足で踏んでいた柔かい物は
粘土で無い、
老たる父の左の
股であった。市郎は驚いて声も出なかった。慌てて
飛退いて更に
熟視ると、人違いでない、
確に父の安行である。が、
其顔は生ける日と
些とも変らず、極めて平和な温順な人相を現わして、
斯る変死者に
往々見る所の苦痛や煩悶の死相は少しも見えなかった。父は
恐く不意に殺されたのであろう。父は怖るべき危害の迫り来るを予知せずに突然死んだのであろう。
市郎は蝋燭を岩の
罅間に立てて、
一先ず父の
亡骸を抱き
起したが、脈は
疾うに切れて、身体は全く冷えていた。
併し一通り見た所では、
何処にも致命傷らしい
疵の痕は無かった。多分この岩の上へ突き落されて、
脳震盪を
起して死んだのではあるまいか。
勿論、これとても想像に過ぎない。
「
阿父さん……。」
切てもの
心床しに、市郎は父の名を呼んだが、
魂魄の空しい人は何とも答えなかった。
「阿父さん……。」
彼は再び呼んだ。呼んで返らぬとは知りながら、再び呼んだのである。
市郎は
一人児であった。
小児の時に
生の母には
死別れて、
今日まで
父一人子一人の生涯を送って来たのである。父は
年齢よりも若い、元気の
好い人であった。わが子に
対っても平気で冗談を云うような人であった。
加之も我子を又無く愛する親であった。遠からず我子に嫁を迎えて、自分は隠居する
意の親であった。
この
父と子と突然に
別離を告げたのである。それも尋常一様の
別離でない。父は夢のように姿を隠して、夢のように死んだのである。
加之も人間の通わぬ窟の奥、暗い蝋燭の下で
其悲しき死顔を見たのである。
市郎は父の亡骸を
抱いて泣いた。
この時、
背後の方から不意に物の
気息が聞えて、何者か忍び寄るようにも思われたので、市郎は手早く蝋燭を
把って
起上ると、余りに慌てたので、彼は父の死骸に
蹉いた。広いと云っても一坪にも足らぬ岩の上である。彼は
あッと云う間に足を踏み外して、深さも知れぬ暗い底へ転げ
墜ちた。
が、幸いに彼の身体には例の
毛綱が結び付けてあるので、市郎は岩から
墜ちる途端に、早くも綱に
取付いて
ずるずると滑り
墜ちると、二三
間にして又もや
扁平い岩の上に
止った。横さまに
跪ずいて倒れたので、左の膝を少しく痛めたが、差したることでも無いらしい。彼は
疼痛を忍んで
直に起き
上った。
其片手には消えた蝋燭を後生大事に握っていた。
斯くして彼は父の死骸から遠ざかって
了ったのである。
引返そうにも足がかりが見出されぬ。降りる方は比較的容易であったが、登るのは
余ほど困難であるらしい。
斯うなるからは
寧そのこと、どん底まで
真直に降りて行って、
彼のお杉の安否を
確めた方が
優かも知れぬ。ええ、
何うなるものか、行ける所まで行って見ろと、一種の
自棄と好奇心とが
混って、市郎は更に底深く降りることに決心した。それに付けても唯一の味方は蝋燭である。彼は又もや
燐寸を
擦付けようとする時、人か獣か何か知らぬが、
嶮しい岩を
跳越えて
ひらりと飛んで来た者がある。
身を
躱す間もあらばこそ、
彼の怪物は早くも市郎の前に
飛込んで来て、左の
外股の
辺を
礑と打った。敵は兇器を持っているらしい、打たれた所は
唯ならぬ
疼痛を感じて、市郎は思わず小膝を突いた。「

か。」と、
此の刹那に市郎は
忽に悟ったが、敵が余りに近く
薄っているので、火を
点ける余裕が無い。彼は右の足を働かして強く蹴ると、敵は
足下に倒れたらしい。
暗黒で
固より見当は付かぬが、市郎は勝つに乗って
滅多矢鱈に蹴飛ばす
中に、靴の
尖には
応えがあった。敵は猿のような声を揚げて
きゃッと叫んだぎりで
霎時は動かなかった。
この隙を見て、市郎は
忙わしく
燐寸を
擦った。蝋燭の火の
揺めく影を
便宜にして、
先ず
此の怪物の正体を見定めようとする時に、一人の男が
ぬッと
其の
眼前へ現われた。市郎は
悸然として
熟視ると、これは

では無いらしい。
而も

とは大差ない程に見ゆる下級労働者らしい
扮装で、年の頃は五十前後でもあろう、髪を長く
伸して、
尖った顔に鋭い眼を
晃らせ、身には
詰襟の古洋服の破れたのを着て、足には
脚袢草鞋を
穿いていた。
其扮装を見て察するに、近来この土地へ続々流れ込んで来る坑夫か
土方の仲間らしい。
「
私は

じゃアありませんよ。御安心なせえまし。ははははは。」
男は笑いながら
馴々しく近寄って来たが、市郎は容易に油断しない、蝋燭を突き付けたままで
其顔を
屹と睨んでいた。
「

はここに居まさあ。御覧なせえまし、
此の
醜態だ。」
男が笑いながら指さす我が
足下には、何さま
異形の者が倒れていた。先夜トムを殺した奴と
確に同種類に相違ない。
赭土色の
膚で、髪の長い、手足の長い、爪の長い、人か猿か判らぬような怪物である。彼は市郎の靴で額の
真向を蹴破られたと見えて、
濃黒いような
鮮血が
其凄愴い半面を浸していた。
併し彼は死んだのでは無かった。
其の
眼前に蝋燭の火を
差付けられると共に、又もや
きゃッと叫んで跳ね起きて、血だらけの顔を抱えながら岩から岩へ、
何処へか飛んで行って
了った。
斯くして
真実の

は逃げ去ったが、

類似の怪しい男は
未だ眼の前に残っている。
此男は
果して善か悪か、敵か味方か、市郎も
其判断に
苦んで
佇立んでいると、男は
愈よ
馴々しい。
「旦那、御心配なせえますな。

なんて云うものは、意気地のねえ奴ですから、もう
蒐って来る
気配いありませんよ。はははは。」
彼は勇士である。人の恐るる山

を物の
屑とも思っていないらしい。
何しろ、得体の判らぬ男であるが、
何時まで睨み合っていても
際限がないと、市郎の口も
解れ初めた。
「お前さんは
此穴に棲んでいるのか。」
「そうじゃアありませんが、大抵勝手は心得ていますよ。」
「底までは
未だ
余ほど遠いかね。」
「何、もう
直です。御覧なせえまし、
唯た三四
間の所でさあ。」
蝋燭を
照して
視ると、底は近い。獣の牙のような大小の岩が
聳えていた。
「今、人が
墜ちたんだが……。」と、市郎は
伸上って底を覗くと、男は
首肯いた。
「もう少し前に、上から
墜ちて来た者がありましたよ。

かと思っていたが、
然うじゃア無かったか知ら。」
男は先に立って岩を降りた。市郎も続いて降りた。やがて
どん底まで辿り着くと、果して
其処にお杉の死骸が倒れている。
彼女は牙のような岩と岩との間に挟まれて、さながら
巨大なる野獣に咬まれたような形で死んでいた。
男は少しく眉を
顰めて、お杉の死顔を
凝と眺めていた。市郎は念の為に脈を取って見たが、これも手当を施すべき
依頼は切れていた。
「一体、この女は
何うして
墜ちたんだろう。旦那は
此女を御存知ですか。」
善悪判らぬ
此男に対して、市郎は
真を語らなかった。
「さあ、僕も知らない。僕は
唯この窟を探険に来たのだ。」
「じゃア、書生さんだね。」
「まあ、
然うさ。」
こんなことを云っている
中に、市郎は
漸次に足の
疼痛を感じた。今までは気が張っていたので、何も
彼も殆ど夢中であったが、
曩に岩の上へ転げ
墜ちた時に彼は左の膝を痛めた。続いて

の為に左の
股を
傷けられた。
加之も二度目の傷は刃物で突かれたと見えて、
洋袴に
滲み出る
鮮血の
温味を覚えた。
究竟彼は左の片足に二ヶ所の傷を負っているのであった。
父の行方も探し当て、お杉の
生死も
確め得たので、彼も今は気が
弛むと共に、市郎は正しく立つに
堪えられなくなって来た。
跛足を
曳きながら
傍の岩角に
跟蹌けかかって、倒れるように腰を
卸した。男も
其側へ腰をかけた。
「旦那は
何うか
為すったんですか。」
「
些と
怪我をした。」と、市郎は顔を
皺めて、「そこでお前さんに頼みたいことが有るんだが……。僕は
此の通り、足を痛めているんで
到底歩けそうもない。お前さんは
此処の勝手を知っていると云うなら、
後生だから僕の
家まで行って来て
呉れないか。
而して、僕がここに居るから迎いに来て
呉れと……。」
「旦那の
家は遠いんですか。」
男は余り気の進まぬような返事であった。市郎は
衣兜の
紙入から紙幣を探り出して、黙って男の手に渡すと、彼は
鳥渡頂いて
直に我が
洋袴の
衣兜へ
捻込んで
了った。
「じゃア、行って来ましょう。旦那のお宅は
何方です。」
「この山を降りて
樅の林を抜けると、町は
直に見える。僕の
家は角川と云うんだから、町で訊けば
直に判る。」
角川と聞いて、男の顔色は少しく動いた。市郎の顔を再び覗いて、
「あなたは角川の若旦那ですかい。」
「むむ。僕は角川の
倅だ。」
「へえ、そうですか。」と、考えて、「大旦那はまだ
御健康ですかい。」
「え、お前さんは僕の親父を知っているのか。」と、市郎は不審の眼を
晃らせると、男は
忽ち
頭を
掉った。
「いいえ、お目にかかったことは有りませんが……。何しろ、それじゃア
直に行って来ましょうよ。」
「何分頼むよ。」
「よろしい。待ってお
在なせえまし。」
男は口早に、身軽に
起上って、
衣兜から新しい手拭を
把って
頬包りした。
「旦那、この綱は大丈夫ですかい。」
「むむ、上の岩に
緊乎結び付けてある。」
市郎は自分の胴に巻いた
毛綱を
解いて、
傍の岩角に結び付けると、男は
之に
縋って登り初めた。かれは鉱山生活に慣れているらしい、手は綱に縋り、足は岩に踏みかけて、案外無造作に
するすると登って行った。穴の入口に達した時に、彼は下に向って声をかけた。
「旦那、行って来ますよ。」
虎ヶ窟に於て
是ほどの事件が
出来している間に、
彼のお葉と重太郎とは、
何処に何をしていたであろう。二人に関する昨夜以来の
成行を、ここで
簡短に説明せねばならぬ。
前にも記す如く、お葉は自分にも判らぬ心理状態の
中に
此の
山中へ
誘われ、
此の窟の奥に囚われて
了った。重太郎と
山
とは夜の更けるまで帰って来なかった。
「
妾は
何うして
斯んな処へ来たんだろう。」と、時の経つに従って、お葉は夢から醒めたように考えた。今日一日のお葉は、自分ながら何が
何うしたのか殆ど判断が付かなかった。
或は酔い、
或は醒め、
或は夢み、自分の
頭脳は
種々の混乱を
来した末に、お杉
婆の威嚇的命令の
下に重太郎の嫁たるべく約束した。が、考えて見ると
斯んな馬鹿馬鹿しいことは無い。妾は気でも
狂ったのか知らと、お葉はつくづく自分の馬鹿馬鹿しさに
愛想を
竭した。
で、何は
扨措いても、
斯んな処に長居すべきでない。自分は東京深川生れのお葉さんである。自分の
身状が悪い為に、旅から旅を流れに渡って、「
行くにゃ辛い」と唄にまで
謳わるる飛騨の
山家に落ちて来たが、それでも自分には自分の
生命が有る、自分には自分の恋が有る。こんな山奥へ
引摺込まれて、人だか

だか判らぬような
怪物共の
玩弄にされて
堪るものか。
他面白くもない、
好加減に馬鹿にしろと、
彼女は持前の
侠肌を発揮して、奮然
袂を払って
起った。
が、お葉も
流石に
彼のお杉
婆に対しては、何となく不気味の感が無いでもなかった。窟の奥から
窃と抜け出して、
先ず表の
有様を
偸み
[#「偸み」は底本では「倫み」]視ると、夜は
既う更けたらしい、山霧は雨となって細かに降っている。お杉は消えかかる焚火を前にして、
傍の岩に痩せた身体を
凭せかけたまま、さながら無言の
行とでも云いそうな形で
晏然と坐っていた。生きているのか、死んでいるのか、眠っているのか、起きているのか、一向に見当が付かない。
捉まったら
其れまでと度胸を据えて、お葉は抜足をして外へ出た。お杉婆は身動きも
為なかった。お葉は
折柄の雨を
凌ぐ為に、
有合う獣の皮を頭から
引被って、口には日頃信ずる
御祖師様の題目を唱えながら、
跫音を
偸んで忍び出た。
それから一時間も過ぎた
後に、重太郎が帰って来た、山

も帰って来た。彼等は
山蔦で
引縛った角川安行を抱えていた。
「
阿母さん、阿母さん。」
重太郎が呼んでもお杉は答えなかった。重太郎は
先ず窟の奥へ駈け込んだが、
霎時して狂気の如く飛んで来た。
「阿母さん、お葉は……。お葉は
何処へ行った。」と、彼はお杉の腕を掴んで、力任せに
引摺廻した。
「何、お葉が居ない。」と、お杉も初めて眼を

いた。
「阿母さん、寝ていたのか。」
「
例の通り、眼を
瞑って神様に祈っていたのさ。」
「そんなら判りそうなものだ。お葉は居ない、お葉は逃げた。」
重太郎は
足摺して泣き出した。
「お葉が逃げた……。」と、母も眼を
晃らしたが、「心配お
為でない。
何処へ行くものか。
家へ帰ったら又連れて来るから……。」と、さびしく笑っていた。
「
何日連れて来て
呉れる。」
「
明日でも、
明後日でも……。」
十日の
中には死ぬと予言したお杉
婆にも、
流石に
明日の自分の運命は判らなかったと見える。彼女は
沈着払って我子を慰めた。が、若い血の燃ゆる重太郎には、
明後日は
愚、
明日をも待たれなかった。彼は
宛がら狂える馬のように
跳り
上った。
「
否だ、否だ。今夜中に連れて来て
呉れ。」
「でも、今夜は
不可い。
妾は他に用が有る。明日までお待ちよ。」
重太郎は
既う耳にも入れなかった。これから
直にお葉の行方を追う
意であろう、彼は
旧来し
方へ
直驀地に駈けて行った。
お葉は虎ヶ窟から
虎口を逃れた。
逃れたのは嬉しいが、
扨其先に
種々の困難が
横わっていた。
路は
屡々記す通りの
難所である、
加之も
細雨ふる
暗夜である。
不知案内の女が暗夜に
此の難所を越えて、
恙なく里へ出られるであろうか。
けれども、今はそんなことに頓着する場合で無かった。お葉は
唯無闇に行手を急いだ。昼ならば一度越えた路に
就て、多少の心覚えや
目標も有ったか知らぬが、
真暗黒では何が何やら
些とも判ろう筈が無い。同じような岩や、同じような谷や、同じような坂が、そこにも
此処にも路を
遮って、
彼女を
遣らじと
抑留めるようにも思われた。
「死んでも構うものか」
お葉は覚悟を
極めた。

見たような奴等の
玩弄になる位ならば、
寧そ死んだ方が
優である。
彼女は足の向く方へと
遮二無二と進んだ。
其勇気は
健気とも云うべきであったが、
此種の冒険は気の強いばかりでは
押通せるものでない。
猟夫や
樵夫の荒くれ男ですら
之を魔所と唱えて、昼も
行悩む
三方崩れの悪所絶所を、女の弱い足で夜中に越そうと云うのは、余りに無謀で大胆であった。
彼女は
裳を高く

げて、
足袋跣足で歩いた。何を云うにも
暗黒で
足下も判らぬ。
剣なす岩に踏み懸けては滑り
墜ち、
攀上っては
転び落ちて、手を
傷け、
脛を痛めた。
況て飛騨山中の冬の夜は、凍えるばかりに寒かった。霧に似たる
細雨は隙間もなく
瀟々と
降頻って、濡れたる手足は
麻痺れるように感じた。
併し
彼女は
飽までも強情であった。倒るるまでは進むという覚悟で、方角も知らずに起きつ
転んづ、
盲探りに辿って行くと、
兎も
角も普通の
山路らしい処まで漕ぎ着けた。東に迷い、南に迷い、
彼女は実に幾時間を費したか知らぬが、人の
一心は怖しいもので、
何うやら
斯うやら
彼の
難所を
乗切ったらしい。
ここまで来ると、
流石のお葉も
寒気と疲労とに
堪え兼ねて、
唯ある大きな岩の蔭に這い寄ったが、再び
起ち
上る元気は無かった。
彼女は殆ど夢のように倒れて
了った。
雨は
何時か
降歇んで、
其夜も明け放れた。
暁の霧は晴れて、朝日は昇った。父を尋ぬる市郎も、同じ時刻に
此の
山路へ迷い入って、
或は
此のあたりを過ぎたかも知れぬが、お葉は遂に見出されずに
了った。
ここで市郎に見出されたら、お葉は
何んなに幸福であったろう。ここで重太郎に見出されたら、お葉は
何んなに不幸であったろう。
飽までも運の悪いお葉は、第二の
籤を取らねばならぬ不幸に陥った。
彼女はここで重太郎に見出されたのである。
重太郎はお葉の跡を追って、これも東西の
嫌い無しに
山中を駈け廻ったが、容易に女を捉え得なかった。
嶮岨に馴れたる彼は、飛ぶが如くに
駈歩いて、一旦は
麓まで降ったが又思い直して
引返した。お葉は
矢はり
山中に迷っていると信じたからであろう。
斯くて
此処よ
其処よと捜し廻る
中に、夜が明けた。彼は
目眩き朝日の光を避けて、岩の蔭を縫って歩いていると、
不図我眼の前に白い物の
横わっているのを見付けた。
「お葉だ、お葉だ。」と、重太郎は
跳って
近いた。
彼は半死半生のお葉を抱え
起して、
霎時は飽かずに
其顔を眺めていたが、やがて
傍の谷間の清水を
掏い取って、女の口に
注ぎ入れた。死んだ方が
寧そ
優のお葉は、不幸にも又
蘇生ったのである。
気が
注いて見ると、自分の手は獣のような重太郎に握られていた。驚いて
振放して
起上ると、重太郎は再び
其手を掴んだ。
「お葉さん。何故逃げるんだ。お前は
俺の女房になるという約束じゃアないか。」
「馬鹿にしてるよ。」と、お葉は蒼い顔を
瞋らして、眼を
吊上げた。
「だって、
昨夕約束したじゃアないか。」
「知らないよ。昨夕は昨夕、今日は今日さ。昨夕は雨が降っても、今日はお天気になるじゃアないか。」
「じゃア、
俺の女房にはならないのか。」
「知れたことさ。」
お葉は
罵るように答えた。
獣のような重太郎と
相対しているお葉は、
頗る危険の位置にあると云わねばならぬ。
彼の
情が激して一旦
其の野性を発揮したら、
孱弱い女に対して
何んな乱暴を
敢せぬとも限らぬ。
お葉もそれを知らぬでは無かったろうが、
彼女も或時には
其の野性を遠慮なく発揮する女であった。或時には坑夫や土方を客にして、負けず劣らずに乱暴比べをする程の勇気を
有っていた。
彼女は大抵の男を恐るるような女では無かった。昨日
彼のお杉に対して殆ど絶対的の服従を
敢したのは、自分にも判断の付かぬ一種不可思議の心理作用に
因った為で、醒めたる
後の
彼女は依然として強い女であった。
況てお杉はここに居ない。わが目前の敵は重太郎
一人である。たとい
這奴が
山
の同類にした所で、
一人と一人との勝負ならば
多寡の知れたものである。
罷り間違ったらば、
其の喉笛にでも
啖い付いて
与るまでのこと。勝負は時の運次第と、
彼女は
咄嗟の
間に度胸を据えて
了った。
対手が
斯ういう覚悟で居ようとは、重太郎は夢にも知らぬ。彼は母に甘える
小児のような態度で、
飽までもお葉に
附纏った。
「お葉さん。お前、
何うしても
俺の嫁になるのは
忌か。え、お葉さん。後生だから承知して
呉れないか。
俺ア
斯んな山の中に棲んでるけれども、
善い
宝物を沢山
有っているんだ。」
お葉は
唯冷笑うのみで、見向きも
為なかった。
「お葉さん、
真実だよ、決して嘘じゃアない。
俺ア
昨日……いや、
一昨日……
阿母さんから大事の宝物の
在所を教わったんだ。それを
持出して
他に売れば、
一足飛びに大変な金持になれるんだ。
俺も
能く知らないが、
其の宝物というのは実に立派なものだ。
真闇な処でも
ぴかぴか光って……。何だか
斯う……。」
山育ちの彼は、
之を形容すべき適当の
詞を知らなかった。重太郎は
徒爾に眼を
瞠り、手を拡げて、
其の
尊き宝であるべきことを
頻に説明
為ようと試みた。
「そんな立派な宝物がありゃア
其れで
可いじゃアないか。お前さんが金持になりゃア、
何んな
良いお嫁さんでも貰えるんだから、
妾なんぞに構ってお
呉れでないよ。」
お葉は相変らず鼻で
扱っているので、重太郎は
愈よ
急いた。
「だから、お前に頼むんだ。
俺が金持になるから、お前を嫁に貰いたいんだ。
何日だったか忘れたが、雨のふる日の夕方に、俺が町へ
食物を
猟りに出て、柳屋の
門口に立って
彷徨していると、酒に酔った奴等が四五人出て来て、
此の乞食め、
彼地へ行けと俺を突き飛ばした。
口惜いから
撲って
与ろうと思ったけれども、
対手が大勢だから我慢していると、そこへお葉さん、お前が出て来たんだ。」
彼は
其の当時の
光景を思い
泛べたらしい、今更のようにお葉の顔を
しげしげと眺めた。
「
而してお前が大きい声で、お
止しよ、そんな可哀想なことをするもんじゃアない。
其人は
妾の可愛い人なんだから……。ねえ、お葉さん。お前は
然う云ったろう。
俺は
其時に
確に聞いた。
其晩、俺は窟へ帰ると、お前と夫婦になった夢を見たんだ。それから……それから俺は、
何うしてもお前と夫婦になる気になったんだ。ねえ、お葉さん。判ったろう。俺は毎晩お前を夢に見ていたんだ。」
然う云われると、
此方に
記憶が無いでもない。
成ほど
過日そんなことも有った
様である。が、それは
固より酒の上の冗談に過ぎないのを、世間知らずの山育ちの
青年は
唯一図に
真実と信じて、
此に
飛でもない恋の種を
播いたのであろう。
対手に
因ては
迂濶冗談も云えぬものだと、お葉は今更のように思い当った。
山

同様の分際で、深川生れのお葉さんに惚れるとは、途方もない贅沢な奴だと、今の今までは馬鹿馬鹿しくもあり、
腹立しくもあったが、
斯うなって見ると自分にも罪が無いでもない。嘘にもしろ、冗談にもしろ、自分は重太郎を可愛い人だと云った。で、
対手の方でも自分を可愛い人だと思い染めた。
究竟は無心の
小児に
対って菓子を
与ると
戯った為に、
小児は本気になって是非
呉れろと
強請って来たような理屈である。
対手が世間を知らぬ
小児同様の人間だけに、
斯うなると誠に始末が悪い。
お葉が黙って考えているので、重太郎は又もや迫り寄った。
「ねえ、お葉さん。お前は
俺が髪をこんなに
生しているので、
忌なのか。それから……こんな
獣類の皮を
被ているので、
忌なのか。髪は今でも
直に切るよ。
衣服は……金持になれば
直に
良い
衣類を買って
被るよ。お前にも
最ッと良い
衣類を
被せて
与る。それから……山に棲んでいるのが
忌なら、お前と
一所に町へ行く。
何処へでも行く。ね、
可いだろう。ね、それから……。」
云わんとすることは
未だ
種々畳っているらしいが、山育ちの悲しさには彼の口が自由に廻らぬ。重太郎は
唖か
吶のように、
半は身振や手真似で説明しながら、
其の切なき胸を訴えているのである。普通の人から見れば、彼は野蛮である、兇暴である、殆ど

の
眷属である。が、彼は決して
所謂悪人では無かった。彼が獰猛野獣の如きは
其人境遇の罪で、
其人自身の罪では無かった。
そんな理屈までは思い及ばぬにしても、お葉は気の強いと共に涙
脆い女であった。
種々考えると、
最初は
唯憎いと思っていた重太郎
其人も、今は
漸々に可哀そうにもなって来た。
先刻からの様子を見ると、彼は
飽までも無邪気である。彼は極めて明白に、正直に、
自己の
詐りなき恋を語っているのである。
形は人か猿か判らぬような
青年ではあるが、彼の恋は
深山の
清水の如く、
一点人間の
塵を交えぬ清いものであった。お葉も
其の誠には動かされた。が、
此の返事は何となろう。
「お前さん、堪忍してお
呉れよ。」
お葉は重太郎の手を
把って泣いた。
「じゃア、嫁になって
呉れるかい。」
「それが
不可いから謝るんだよ。
妾は
何うしてもお前さんのお嫁にゃアなれないんだから……。」
重太郎は黙って眼を
晃らせた。
「だから、堪忍してお
呉れと云うんだよ。」と、お葉は
賺すように重ねて云った。
「
何、
何故だ。」と、重太郎は息を
喘ませて
詰寄った。
何故と聞かれると返事に困るが、お葉も重太郎と同じように片思いの恋が有る。重太郎の片思いが哀れであると共に、お葉の片思いも哀れであった。彼女は
何うしても
彼の市郎を思い切れぬのである。
「お前さんは可哀想な人だねえ。」と、お葉は我身につまされて嘆息した。
「可哀想なら、嫁になって
呉れないか。」
重太郎は
飽までも無邪気であった。可愛いと可哀想とは
其間に少しく距離のあることを、彼は
未だ理解し得なかった。お葉は重太郎を可哀想だとは思ったが、
其同情が変じて恋とはならなかった。
「どうしても
忌か。
俺が
斯んなに云っても
肯いて
呉れないのか。」と、重太郎は泣かぬばかりに口説いた。
「堪忍してお
呉んなさいよ。」と、お葉は泣いて答えた。
「だから、何故だと云うのに……。」
以前のお葉ならば、「お前が
忌だからさ」と、木て鼻を
括ったように
情なく断ったかも知れぬ。が、今は
然うでない。
彼女は優しく重太郎の手を
把った。
「ねえ、お前さん。
妾は決してお前を嫌う訳じゃアない。それほどに妾を思って
呉れるのは、
真実に嬉しいと思っている。だが、困ることには、妾にも思っている人があるんだから……。どうしてもお前のお嫁になることは
能ないんだから、
何うぞ諦めてお
呉んなさい。ね、判ったかい。決してお前さんを嫌うんじゃないよ。世間に女は妾
一人じゃアない。お前が
真実に金持になれば、どんな
良いお嫁さんだって貰えるんだから……。妾よりも若い、
最っと綺麗な人がお
内儀さんに
能るんだから……。」
重太郎は
頭を
掉った。
其眼には熱い涙を
湛えていた。
「判らないの。」と、少しく
持余したようなお葉の声も
湿んで聞えた。
可哀想ではあるが、
何時までも
際限が無い。お葉は
捉られたる
袂を払って、
「じゃア、
左様なら。」
重太郎は
追掛けて、又
其の袂を捉えた。
お葉を追い捉えた重太郎は、定めて破れかぶれの乱暴を始めるかと思いの
外、彼は
矢はり
温順い態度であった。が、
其の
湿んだ眼は一種異様に輝いていた。
「お葉さん。どうしても帰るのか。」
「今も云ったような訳だから……。」
「どうしても帰るのか。」と、重ねて念を押した重太郎の声には、低いながらも力が籠っていた。
彼も
恐く最後の決心を固めたかも知れぬ。涙の眼は
漸次に乾いて、
険しい眉の
間に殺気を含んで来た。物を奪い、人を殺す
位のことは、彼等の仲間では別に不思議の事でもない。
お葉も
其の
眼色を早くも悟った。
「お前さん、
妾を殺す気かい。」
重太郎は黙っていた。
「殺すなら殺しても
可いよ。だが、力づくで乱暴を
為ようと云うなら、妾にも料見があるから……。」
重太郎は黙っていた。
「だから、素直にお帰りよ。」
重太郎は
矢はり黙っていた。が、やがて
傍の岩蔭に
聳えたる山椿の大樹に眼を
注けると、彼は
忽ち猿のように
其の梢に
するすると
攀登った。
南向の高い枝は既に紅い
蕾を着けているので、彼は
其の
二叉の枝を
択んで折った。
何うするのかと見ていると、重太郎は
其の枝を口に
喞えて
ひらりと飛び降りたが、物をも云わずお葉の前に歩み寄って、二叉の枝を股から二つに
引裂くと、
何方の枝にも四五輪の蕾を宿していた。彼は
其の
一枝をお葉に渡した。お葉も黙って
受取った。
二人は黙って
各自の枝を眺めていた。
「
取替えて貰おう。」と、
霎時して重太郎は自分の枝を出した。お葉も自分の枝を出した。
春待顔に紅い蕾を着けた椿の
二枝は、二人の手に
因て交換されたのである。
重太郎はお葉の枝を我が胸に
犇と
押当てた。お葉は重太郎の枝を我が袖に
抱いた。重太郎の眼には涙が見えた。お葉も何とは無しに悲しくなった。
「じゃア、もう帰りますよ。」
重太郎は無言で
首肯いた。市郎が窟にあると知ったら、お葉は無論
引返したであろうが、そんなことは夢にも知らなかった。重太郎も知らなかった。飛騨山中の寒い
朝、哀れは同じ片思いの男と女は、温かい涙を形見の花に
灑いで別れた。
重太郎は
潔よくお葉を思い切ったのであろうか。彼はお葉から
受取った椿の枝を大事に抱えて、虎ヶ窟の
方へ
悄々と
引返した。
昨夜彼が

と共に山を降って、七兵衛と闘い、安行を
奪ったのは、市郎に対する恋の
恨と母の恨とであった。が、そんなことは
既う忘れて
了ったらしい。重太郎は
唯この形見の枝を保護することにのみ屈託して、夢のように岩石の間を辿った。
窟の前に来ると、母の姿が見えぬ。少しく
怪んで内を覗いたが、奥にもお杉の姿は見えなかった。
「
阿母さん、阿母さん。」
彼は続けて呼んだ。この途端に窟の奥から一人の見馴れぬ男が飛んで出た。これは前に記した通り、市郎の
使を頼まれて、穴の底から登って来た坑夫
体の男である。
二人は
恰も入口で
礑と出逢った。
「誰だい、お前は……。」
重太郎は眼に
角立てて
詰ったが、男は
急いているのであろう、返事もせずに駈け出した。窟には母の姿が見えず、
加之も怪しい男が出て来たのであるから、重太郎の不審は
愈よ晴れぬ。
先ず飛び
蒐って男の腰に
組付いた。
「お前は誰だ。」
「誰でも
可いよ。
煩せえ。」
男は
突放して又
駈出そうとした。
「お前は
俺の
阿母さんを殺したのか。」と、重太郎は
呶鳴った。
「そんなことは知らねえ。」
男は
手暴く重太郎を突き
退けると、彼は椿の枝を持ったままで地に倒れた。これで黙っている重太郎ではない、椿の枝を口に
喞えて又跳ね起きた。
此に
忽ち掴み
合が始まった、上になり下になり、
互に転げて挑み争う
中に、
何方が先に足を滑らしたか知らず、二人は固く
引組んだままで、
傍の深い谷へ転げ
墜ちた。
山椿の下では、お葉と重太郎との詩的な
別離があった。窟の外では、重太郎と素性の知れぬ男との蛮的な格闘があった。こんな事件が続いてある
間、市郎は暗い岩穴の底に
取残されて、救いの人々の来るのを待っていた。
一本の蝋燭は
漸次に燃え
尽して、風なきに揺めく火の光は
軈て
其の消えんとするを示している。
左したる重傷ではないと知りながらも、
股と膝との
疼痛は
漸々に激しくなって来た。疲労と空腹とは
愈よ我を
悩して来た。
「七兵衛は
何うしたろう。
彼奴等も
途に迷っているのか知ら。それにしても
使の男が早く
行着いて
呉れば
可いが……。一体、あの男は何者だろう。土地不案内の為に、これも途中で迷っていられた日には、
何時まで経っても
際限があるまい。
何うか一刻も早く町へ出て貰いたいものだ。
若し
彼奴が不親切な奴で、金を貰いながら
其儘どこへか行って
了ったら
何うだろう。いや、
真逆にそんな事もあるまい。」
甲から
乙へと考えながら、市郎は硬い岩を枕に
暫く寝転んでいた。
「もう
何時だろう。」
懐中時計を
取出して
視ると、
先刻からの騒ぎで
何時何うしたか知らぬが、
硝子の蓋は
毀れて針は折れていた。
日光の
視えぬ穴の底では、今が昼か夜か、それすらも殆ど見当が付かぬ。
待つ身の辛さは今に始めぬことであるが、
取分けて
今此の場合、市郎は待つ身の辛さと侘しさとを
染々感じた。彼は
何とは無しに起き
上って、蝋燭を
照しつつ
四辺を見廻すと、
四方の壁は
峭立の岩石であるが、所々に
瘤のような
突出の大岩があって、
其岩の奥には更に暗い穴があるらしい。
「

は
此穴に棲んでいるんだろう。」と、市郎は
首肯いた。
先刻自分を
傷けた

も、
恐くあの穴へ逃げ込んだのであろう。一体、
彼の

なるものが何匹居るのか知らぬが、
若し大勢が
其処や
彼処の穴から現われて出て、自分一人を一度に襲って来たら
到底敵わぬ。
彼は何等の武器を
有って居なかった。
而も先夜の経験に
因て、彼等に対する唯一の武器は
燐寸の火であることを知っているので、市郎は慌てて燐寸の箱を
検めると、
剰す所は
僅に五六本に過ぎぬ。彼は
先刻から燐寸を濫用したのを悔いた。
で、更に念の為に蝋燭を揚げて、高い岩の上を
其処ここと
照して
視ると、遠い岩蔭に何か知らず、星のように閃く
金色の光を
視た。蝋燭の淡い光で
熟くは判らぬが、
兎にかく
其処に一種の光る物があるらしい。こんな処だから何が棲んでいるか判らぬ。
或は怪獣の眼かと市郎は
屹と
瞰上げる途端に、頭の上から小さな石が一つ飛んで来たが、幸いに身には
中らなかった。市郎は
俄に蝋燭を吹き消した。敵の
的にならぬ用心である。
「これも

の仕業だろう。」
斯う思うと中々油断はならぬ。市郎は小さくなって岩の蔭に身を寄せた。つづいて第二の石が落ちて来た。今度のは
余ほど大きいと見えて、投げると云うよりも、
寧ろ転がし落したらしい。これに頭を打たれたら人間の最期である。
市郎も
流石に
肝を冷して、
愈よ小さくなっていると、又もや石を
がらがらと投げ落す奴がある。敵は一人ではないらしい、大小の岩石が
一時に上から落ちて来た。
何人も
此の石攻めに逢っては
堪らぬ、市郎も実に途方に暮れた。頭の上では何とも形容の
能ぬ一種奇怪な笑い声が聞えた。石はつづいて落ちて来た。
「どうしたら
可かろう。」
此のまま小さくなっているのも
愚である。何とかして彼等を撃退する工夫はあるまいかと、市郎も苦し紛れに
種々考えていると、わが
傍らに
ひらりと飛んで来た者があるらしい。

め、近寄って来たなと、市郎は
直ちに用意の
燐寸を
摺った。
果して
一人の敵は刃物を
振翳して我が
眼前に立っていた。
不意に燐寸の火に出逢って、敵は例の如く
立縮んで
了った。
其隙を見て、市郎は我が
足下に落ちたる大石を両手に抱えるより早く、敵の
真向を目がけて力任せに叩き付けると、頭が割れたか顔が砕けたか、敵は悲鳴をあげて倒れた。
目前の敵を
一人殪したので、市郎は少しく勇気を回復した。敵もこれに幾分の
恐怖を
作したか、
其後は石を降らさなくなった。が、彼等は
何処に隠れているか判らぬ、又
何時不意に近寄って来るか判らぬ。
斯う思うと
些とも油断が
能ぬので、市郎は絶えず八方に気を配っていた。
併しこんな不安の
状態で
何時までも続いていたら、結局自分は
根負がして
了うに
決っている。
先刻から
余ほど時間も経っているだろうのに、救いの人々はまだ見えぬ。一旦は
勝誇った市郎も
漸次に心細くなって来た。この上は
依頼にもならぬ
救援の手を待ってはいられぬ、自分一人の力で
此の危険の地を脱出するより他はない。
「早く
然う決心すれば
可かった。」
市郎は痛む足を踏み締めて、例の
毛綱を再び我が胴に
緊と結び付け、綱を力に精一杯伸び
上って、
傍の高い岩に飛び付こうとしたが、
何うも足が自由に働かぬ。彼は飛び損じて又
墜ちた。さらでも痛い足を更に痛めた。
「
到底不可い。」と、市郎は失望の声を揚げて倒れた。
この時、遠い頭の上で例の
金色の光が淡く閃いた。市郎は眼を
定めて
熟視ると、穴の入口と覚しき所で何者か火を
照しているらしく、
其光に映じて例の金色が見えつ隠れつ漂うのであった。
「
扨は救いの人が来たか。」
市郎は我を忘れて
蹶ね起きた。精一ぱいの声を
振絞って、「助けて
呉れ。角川市郎はここにいるぞ。」
声はあなたまで響いたらしい、上でも
之に応じて、「おうい。」と、答えた。
市郎は重ねて呼んだ、上でも再び答えた。やれ
可矣と安心する途端に、
何処から飛んで来たか知らず、例の大石が
磊々と落ちて来て、市郎の左の
肱を強く撃ったので、彼は
堪らず横さまに倒れた。生きているのか死んで
了ったのか判らぬ、彼は
既う再び起き
上らなかった。
上では
其んなこととも知らないのであろう。大勢が声を揃えて市郎の名を呼んでいた。
其中には塚田巡査の
錆びた声も、七兵衛
老翁の
破鐘声も
混って聞えた。
この人々は今や
漸くここへ辿り着いたのであった。市郎が単身登山の
途に就いた
後、七兵衛は慌てて
家内の人々を呼び
起したが、疲れ切っている連中は容易に
床を離れ得なかったので、彼等が朝飯を済まして、家を出たのは午前七時を過ぎていた。塚田巡査も町の若者も
之に加わって、一隊十四五名の
人数が
草鞋穿きの
扮装甲斐甲斐しく、まだ乾きもあえぬ朝霜を
履んで虎ヶ窟を探りに出た。人々は用心の為に、思い思いの武器を携えていた。
巡査は窟の案内を心得ている筈であったが、
何うしたものか
路を踏み違えて、あらぬ
方へと迷い入った。それが為に意外の時間を費して、今や初めて窟の入口へ辿り着いた時には、一隊の多くは既に疲れ果てて、そこらに
有合う岩角に腰を
卸して
先ず
ほッと息を
吐く者もあった。
寒気を
凌ぐ為に落葉を焚く者もあった。
けれども、巡査は
流石に屈しなかった。七兵衛も頑丈であった。二人が
先ず窟の奥へ
潜り入って、第二の
石門まで仔細に検査したが、内には暗い
冷い空気が
漲っているのみで、安行の姿も見えなかった。市郎の影も見えなかった。
「どうしたのだろう。」
二人は
愈よ不安を感じて、そこらを
頻に見廻す
中に、彼等も例の岩穴を見付けた。念の為に用意の
松明をあげて、
真暗な底を
窺っていると、下から救いを呼ぶ声が遠く聞えた。安行は知らず、
兎にかく市郎だけは穴の底にいることが
確められた。
七兵衛は
引返して
斯くと報告すると、
他の人々も
どやどや入込んで来た。
「
兎も
角も降りて見よう。」
巡査は
斯う決心して、再び
四辺に鋭い眼を配ると、岩角に結び付けられたる
彼の長い
毛綱を見出した。これを
手繰ったら、市郎の身体は無事に
引揚げられたかも知れぬが、
其綱の端が彼の胴に
縛られてあると云うことを誰も知らなかった。が、
何人の考えも同じことで、巡査も
先ず
此の
毛綱に
縋って、行かれる所まで行って
試ようと思い付いた。
片手は綱に
縋り、片手は
松明を
把って、塚田巡査は左右の足を働かせながら、足がかりとなるべき大小の岩を探りつつ、
漸次に暗い底へ降りて行った。
他の人々は息を
嚥んで
其行動に注目していた。
塚田巡査が穴を
降るに
就ては、市郎ほどの危険と困難とを感じなかった。上に立つ大勢の人々は綱を
操って彼の行動を助け、
且つ幾多の
松明を
振翳して、
能う限りの
光明を彼の行手に与えて居た。
巡査も
亦大胆であった。一条の綱を力として猶予なく
するすると降りて行くと、彼は中腹の
稍扁平い岩石の上に立って、
先ず
彼の安行の死骸を発見した。驚いて
其の手足を
検めると、既に数時間の前に
縡切れたらしい、老人の肉も血も全く冷えていた。
父が
此の如き有様であるとすれば、
其子の安否も甚だ心許ないものである。巡査は念の為に市郎の名を呼んだ。が、声は四方の岩に反響するばかりで、底には何の
返答もなかった。十分前までは
頻に
救助を呼んでいた市郎が、
俄に黙って
了ったのは不可思議である。これも
若や何等かの
禍害を
蒙ったのではあるまいかと、巡査は胸を騒がした。
此上は一刻も早く底の底まで探らねばならぬ。巡査は安行の死骸を見捨てて、更に底深く降りて行くと、途中には所々に
突出した大小の岩が
聳えて、天然か人工か知らず、
其の岩の上には横に低い穴が開かれている。けれども、先を急ぐ巡査は
其穴の奥を一々検査する暇は無かった。彼は
唯真直に降りて行った。
やがて底近く来たと思う頃に、
滔々たる水の音が凄まじく聞えた。松明を
振照して
視たが水らしいものは見えぬ、
恐く地の底を流れるのであろう、岩に激するような音が
宛がら
雷のように響いた。更に二
間ばかり降りると、自分の
縋っている綱の
端には何物か
縛られているのを発見した。巡査は息も
吐かずに急いで降りると、それは人であった、
彼の市郎であった。
巡査は今や幾十尺の底に達したのである。
先其の綱を
解いて市郎を抱え
起すと、彼も
所々に負傷して、脈は既に
止っていた。が、これは
確に
血温が有る。巡査は少しく安堵の眉を開いて、
取敢ず
彼の綱を強く
曳くと、上では
直に
おうと答えた。
この時、巡査の
足下を
距る一
間ばかりの所で、怪しい
唸声が聞えた。
傷いた野獣が
喘ぐようである。松明をそなたへ向けて窺うと、岩を枕に唸っているのは、半面
血塗れの怪しい者であった。人か猿か判らぬ。「これが
所謂山

だな。」と、巡査も悟った。で、
猶能く
其正体を見届ける為に、
其傍らへ一歩進み寄ろうとする時、頭の上から大きな石が突然転げ
墜ちて来た。巡査は慌てて
飛退くと、石は
傍の岩角に
中って、更に跳ね返って
彼の

の上に落ちた。

の
傷ける顔は更に
微塵に砕けて、怪しい
唸声は止んだ。
併し
彼の大石は自然に落ちて来たのか、
或は故意に投げ落したのか、巡査には
早速の判断が附かなかった。
若し故意であるとすれば、
四辺には

の同類が
猶潜んでいるに相違ない。巡査は再度の襲撃を避ける為に、慌てて我が松明を踏み消した。
穴の底は再び
旧の闇に
復った。遠い地の下を行く水の音が聞えるばかりで、
霎時は太古の如くに
静であった。
下の松明が
俄に消えたので、上の人々は又もや不安に襲われた。七兵衛を始め、一同が声を揃えて、
おういと呼んだ。が、巡査は容易に答えなかった。
迂濶に叫ぶと、
其声を
便宜に
何処からか岩石を
投落される危険を
懼れたからである。
そうとは知らぬ人々は
愈よ不安の念に駆られて、手に手に松明を
振翳しつつ穴の底を窺ったが、底の底までは
到底達かぬ。この上は更に第二の探検隊を
降すより他は無かった。
「
可、
俺が降りて見る。」
六十に近い七兵衛
老爺が手に
唾して奮然と
起つを見ては、若い者共も黙っては
居られぬ。皆口々に、「
老爺さんは危ねえ、
私等が行く。」と、
遮り
止めた。が、
此の
毛綱を伝って降りると云うことは余り安全の方法でない。
「何か
可い物はあるまいか。」
飛騨の
山人は
打寄って、この国特有の
畚を作ることを案じ出した。
飛騨の
畚渡しは、昔から絵にも
描かれ、舞台にも
上されて甚だ有名である。
河中に岩石
突兀として橋を架ける
便宜が無いのと、水勢が極めて急激で
橋台を突き崩して
了うのとで、少しく広い
山河には一種の
籠を懸けて、旅人は
其の両岸に通ずる
大綱を
手繰りながら、畚に吊られて宙を渡って行く。
勿論、
今日では
其仕掛に多少の改良は加えられたが、天然の地形は
未だ畚渡しの全廃を許さぬ。飛騨の奥ふかく迷い入る人は、大切な
生命を一個の畚に託して、眼も
眩むばかりの急流の上を覚束なくも越えねばならぬのである。
されば今この人々は早くも畚を思い付いた。七兵衛が指揮の
下に、大勢は窟の外へ一旦
引返して、
四辺に立ったる杉や
樅の大枝を折った。或者は
山蔦の
蔓を折った。
斯くて約二十分の
後には、大きい枝を組み合わせ、長い蔓を巻き付けて、人を
容るるに足るほどの畚を作り上げた。
「これがあれば大丈夫だ。」
彼等は再び窟に
入って、畚を
卸す準備に
取懸った。畚を吊るには
彼の
毛綱が必要である。大勢が手を揃えて
其綱を
繰上げると、綱の
端には
尠からず
重量を感じたので、不審ながら
兎も
角も中途まで
引揚げると、
松明の火は
漸く
達いた。洋服姿の市郎は胴を
縛られたままで、さながら縁日で売る亀の子のように、宙に吊られつつ
揚って来たのである。人々も驚いて声を揚げた。
「や、
小旦那だ……。角川の小旦那だ……。早く
引揚げろ。」
市郎は
恙なく引揚げられた。が、彼は正体も無く
其処に倒れて
横わったので、騒ぎは
愈よ大きくなった。一隊の
中でも足の達者な
一人は、
麓まで医師を迎えに走った。
斯うなると、巡査の身の上も益々不安である。
権次という若者を乗せた
畚は
直ちに
卸された。
畚が中途まで
下って来た時、暗い岩穴の奥から
一個の怪しい者が現われた。彼は刃物を
振翳して、綱を切って落そうと試みたが、綱は案外に強いので、容易に刃が
立なかった。
而も権次が無闇に
振廻す松明の火に恐れて、彼は
忽ち逃げ去った。畚は滞りなく底に着いた。
塚田巡査は
先刻から
待侘びていたらしい、暗い中から慌しく進み寄って、
先ず
其の無事を祝した。権次は畚から降り立って、合図の綱を強く
曳くと、上では
おうと答えて、畚を
するすると
繰上げた。
「用心しないと
不可い。
何処からか石を投げる奴があるぞ。」と、巡査は注意した。権次は首を
縮めて岩のかげに隠れた。
つづいて第二第三の畚が
卸されて、穴の底にも大勢の味方が
殖えた。もう
斯うなっては、隠れたる敵も
恐怖を
作したのであろう、何等危害を加えようとも
為なかった。人々は持ったる松明を揚げて
四辺を窺うと、そこには鬼の如きお杉
婆の死顔と、猿の如き
山
の
亡骸とを発見した。
此上の
手続は
委しく記すまでもあるまい。権次が一旦上まで
引返して、一同に
其始末を報告した上で、
三個の亡骸は畚に乗せて順々に
引揚げられた。第一は安行、第二は

であった。最後に乗せられたお杉の亡骸は、既に頂上まで
達いたと思う頃、
何うした
機会か
其畚は斜めに傾いて、亡骸は再び遠い底へ
真逆様に転げ落ちた。更に畚に乗せて再び
吊上げると、今度も
亦中途から転げ落ちた。お杉の
霊魂は
此窟を去るのを嫌うのであろう。が、
何うしても
其儘には
捨置かれぬので、最後には畚に
緊と
縛り付けて、遂に
彼女を上まで運び出した。
これで
先ず屍体の収容は済んだ。
三個の亡骸を窟の外へ
舁き出して明るい所で検視を行うと、安行の屍体には何等負傷の痕も無く、
其顔は依然として安らかに眠っていた。が、お杉の
瞋れる顔は
宛然の鬼女であった。
加之も高い所から再三転げ落ちて、
剣の如き岩石に
撃れ
劈かれたので、古い鳥籠を
毀したように、身体中の骨は
滅裂になっていた。
更に人を
駭かしたのは、
彼の山

の最期であった。幾百年の昔から、口でこそ山

と云うけれども、誰も
明白に
其形を認め得た者は無かった。
然るに今や白昼に
其の怪しき形骸を
晒したのである。白昼に幽霊が出たように、人々は驚異の眼を
瞠って、
何れも
其の
周囲に
集り
来った。
此に
怜悧な
観世物師があったら、
直に前代未聞と吹聴すべき
山
なるものの正体は
抑何んなであったか。
勿論、彼等にも
牝牡はあろうが、今ここに屍体となって現われたのは、
確に女性であった。
脊丈は
先ず四尺ぐらいで、腰に兎の皮を
纏っている他は、全身
赤裸々である。
鮫のように硬い皮膚の色は一体に
赭土色で、薄い毛に覆われていた。頭は小さく、眼も小さく、額の
著るしく窪んでいるのが人の注意を惹いた。彼等の
或者は非常に長い髪を垂れていると伝えられるが、これは殆ど
禿頭と云っても
可い位で、脳天に
僅少ばかりの灰色の毛が
ちょぼちょぼと生えているのみであった。
鼻は猿のように低かった。耳は狐のように立っていた。口も比較的に小さい方で、
黄い
口唇から不規則に
露出している幾本の長い牙は、山犬よりも鋭く見えた。足の割には手が長く、指は
矢はり五本であるが、爪は鉄よりも硬く
且尖っていた。
手掌の皮が非常に厚く硬いのを見ると、
或場合には足の働きもして、四つ這いに歩くらしい。
これが満足で
居ても既に
此の如き
異体の怪物である。
況て市郎の為に、
最初は靴で額を蹴破られ、次に石を以て
真向を
打割られ、最後には味方の石に
因て顔一面を砕かれたのであるから、肉は砕け、骨は
露われて、
其の
醜、
其の
怪、実に形容も
能ぬ
光景であった。人々も
之に対しては何とも云うべき
詞を知らなかった。
「一体、これは何だろう。猿か知ら、人間か知ら……。」
猿か人間か
到底判らぬ、
究竟は一種の山

と云うものであると答えるより他は無かった。塚田巡査も
此の解釈には
苦んだ。
「
若し
之が生きていたらなあ。」と、呟く者もあった。実際、
之が生きていたら、人か猿かの区別が付くかも知れぬ。万一、彼が人間の
詞を
幾許か解するとすれば、訊問の結果、どんな有益な発見が無いとも限らぬ。
「そうだ。
此の機会に乗じて奴等を
生捕って
与ろう。」
塚田巡査は野心に富んでいた。又、
仮い野心が無いにしても、人間に対して
屡々危害を加える山

の如きものを、
唯見逃して置くという法は無い。殊に
昨夜の身元知れざる惨殺屍体と云い、
今日の安行殺害事件と云い、
何れも

に関係があるらしく思われるのであるから、警官の職分として、
唯見逃しては置かれぬ。巡査は再び窟に入って、
穴居の

を捕獲すべく決心したのも無理ではなかった。
巡査の決心と勇気とに励まされ、これに又幾分の好奇心も
交って、数名の若者は
其後に続いた。七兵衛等は
後に残って、
生死不分明の市郎と
三個の屍体とを厳重に守っていた。
松明を
把ったる巡査と
他数名の勇者は、
頼光の
四天王が
大江山へ
入ったような態度で、再び窟へ
引返した。巡査が
先ず
畚に乗って降りた。
他の者も順々に降りた。
穴の中は依然として暗かった。松明の光を
便宜にして、ここぞと思うあたりの岩穴を一々検査すると、岩壁を
穿ったる横穴は
数ヶ所に
拓かれていた。が、穴の天井は極めて低いので、
到底真直に立っては歩かれぬ。人々は

のように四つ這いになって進んだ。
第一の穴は
行止りになっていて、別に何者をも発見しなかった。第二の穴も
空虚であった。
「

め、もう逃げたかな。」
更に降って第三の穴を窺った。ここは比較的に大きい岩が
突出していて、
苔に包まれたる岩の
面は
卓子のように
扁平であった。巡査は松明を片手に這い寄ると、穴の奥から不意に
一個の石が飛んで来た。石は松明に
中って、火の粉は乱れ飛んだ。
素破やと一同色めいて、
何れも持ったる武器を
把直した。
若者の
一人は猟銃を携えていた。
或者は棒を持っていた。
或者は竹槍を
掻込んでいた。巡査は
剣の
柄を握って立った。
敵より投げたる
一個の石は宣戦の布告である。人間と

とは
此に
戦闘を開かねばならぬ。

はこの奥に棲んでいると見当は付いた。が、敵の方にも
何んな準備があるか測り知られぬので、巡査等も容易には進み兼ねた。敵の方でも最初の石を投げた
後は、
鎮り返って音も
為ない。
併し
此のままに
何時までも睨み合っていては、
際限が付かぬ。塚田巡査は
此に一策を案じ出した。
「
松明を消せ。
燈火を消せ。」
敵は最も火を嫌うのである。
此方が火を消したならば、
恐く勢いを得て
突出して来るであろう。そこを
待受けて囲み撃つという計略であった。守ること固きものは
誘うて
之を撃つ、我が塚田巡査は
孫子の
兵法を心得ていた。

は
果して人間よりも
愚であった。松明の火が消されると共に、
俄に石を投げ初めた。巡査等は身を
屈めて
其的に立つのを避けた。敵は
愈よ増長して、穴の奥から二匹三匹這い出して来た。彼等は我が術中に陥ったのである。
「占めたッ。」
巡査は心に喜んで、闇を探りながら
衝と寄って、
其の一匹の
襟首を掴んだ。が、敵も中々
素捷かった。
忽ち
其手を払い
退けて、口に
啣えたる刃物を
把直した。
其切先は
危くも巡査の喉を
掠めて、
背後の岩に
戞然と
中ると、
溌と立つ火花に敵は眼が
眩んだらしい。
其隙を見て巡査は再び組んだ。
背の低い敵は巡査の足を取った。
而も
此方は柔道を心得ているので、倒れながらに、敵の腕を
引担いで投げた。が、
生憎に穴の入口へ向って投げたので、彼は奇怪な
叫声を揚げながら、再び奥へ逃げ込んで
了った。

は一匹でなかったが、
他は入口に立って格闘の模様を窺っていたらしい。で、今や
真先の一匹が
斯る始末となったので、少しく
怯れが出たのかも知れぬ。
何れも奥へ
引退って、再び石を投げ初めた。何分にも暗いので始末が悪い。巡査は危険を
冒して、穴の奥へ
潜り込んだ。
他の者共も勇を
鼓して
後に続いた。
敵は屈せずに石を投げたが、幸いに石が小さいのと、距離が余りに接近しているのとで、
我には差したる損害を与えなかった。それでも二三人は顔や手に
微傷を負った。もう
斯うなれば
騎虎の勢いで、今更
後へは
引返されぬ。巡査も頬に打撲傷を受けながら、
猶も二三
間進んで行くと、天井は少しく高くなって、初めて
真直に立つことが
能きた。
敵は幾人
居るか判らぬが、
兎にかく石を投げ尽したらしい。今度は木のような物や、骨のような物を投げ初めた。骨は
尖っているので、巡査は又もや
左手を
傷けた。
もう仕方がないので、巡査は剣を抜き閃かした。
或者は猟銃を撃った。散弾が轟然として
四辺に
迸ると、頑強の敵も
流石に
胆を
挫がれたらしい、
踵を
旋して
ばらばらと逃げ出した。巡査等は
勝に乗って追い詰めると、穴は
漸く広くなった。ここが
恐く
行止りで、彼等は今や袋の鼠になったろうと思いの
外、
何処を
何う
潜ったか知らず、
漸次に
跫音も消えて
了って、後は
寂寞たる闇となった。
「奴等は
何処へ隠れたろう。」
松明は再び
点されたが、広い穴の中に何者の影も見えなかった。幾ら

でも
隠形の
術を心得ている筈はない。
恐く
何処にか隠れ家があろうと、
四辺を
隈なく
照し
視ると、穴の奥には更に小さい
間道が有った。彼等は
此処から這い込んだに相違あるまい。巡査等は続いて
其穴を
潜った。
穴は極めて低く狭いので、普通の人間には通行甚だ困難であったが、人々は
宛ら
蝦蟇のようになって
僅に這い抜けた。行くに
随って水の音が
漸々に近く聞えた。水の音ばかりで無い、日の光も薄く
洩れて来た。
路は
漸次に明るくなった。暗い湿っぽい岩穴は全く尽きて、人々は大いなる谷川の
畔に出た。岩を噛む乱流は大小の
滝布を
作して、
滔々と
漲り落ちている。川に沿うて熊笹の
藪が生い茂っていた。左右は
嶮しい岩山である。

は
此の
間道から山深く逃げ
入ったのであろう。
「
到頭逃して
了った。」
塚田巡査は
歯噛をした。
微傷ではあるが、
其の手首からは血が流れていた。
他の二三人も顔や手の傷を眺めながら、失望と疲労との為に
霎時は
茫然と立っていた。
この時、頭の上で人声が
わやわや聞えた。仰げば高き絶壁の上に、大勢の人の行き違う姿が見えた。初めて知る、ここは
恰も虎ヶ窟の前に
横われる谷底で、頭の上に
立騒いでいる人々は、
彼の七兵衛や権次の群であった。
斯くと知るや、下からは
おういおういと呼んだ。上からも答えた。中にも権次は岩の
出鼻に
縋りつつ、谷に向って大きな声で叫んだ。
「

は
何うした、
捕ったか。」
「駄目だ、駄目だ。
間道から逃げて
了った。」と、下でも叫んだ。
「
惜いことを
為たな。今お
医師が来て、角川の小旦那は
蘇生ったぞ。」
「
蘇生ったか。」
「大丈夫だとお
医師が
受合った。何しろ、早く
上って来い。」
「おお。」
上と下とて遥かに呼び合っていたが、何を云うにも
屏風のような
峭立の
懸崖幾丈、下では
徒爾に
瞰上げるばかりで、
攀登るべき
足代も無いには困った。
其中に、上では気が
注いたらしい。
「待て、待て。
畚を持って来るぞ。」
斯う云って権次は
立去った。下の人々は
唯ある大岩に腰を
卸して、
先ず
ほッと一息
吐いた。
其間も巡査は油断が無い、川に沿うて
往きつ戻りつ、ここらの地形を案じていた。
この川は人跡絶えたる山奥から湧いて来るのであろう、凄じい勢いで
滔々と流れ落ちている。
其の支流は虎ヶ窟の下を
潜っているらしい。窟の底で絶えず轟々たる
響を聞くのは
之が
為であろう。近く聞けば水の
響は、実に耳を
聾するばかりであった。
其の水音に消されて、今までは誰も
聞付けなかったが、
何処やらで
微な
唸声が聞えるようである。巡査は
忽ちに耳を
欹てた。そこか
此処かと声する
方を辿って行くと、
彌が上にも生い茂れる熊笹や
歯朶の奥に於て、
確に人の
呻くを聞いた。そこらの枝や葉は
散々に
踏躪られて、紅い山椿の
蕾が二三輪落ちていた。
巡査は進んで熊笹を
掻分けると、年の頃は五十ばかりの坑夫
体の男が、喉を突かれて倒れていた。巡査も驚いた。
他の人々も
駈集った。
昨日から
今日にかけて、
種々の出来事が
何うして
斯う続発するのであろう。一同も
聊か呆れた形であった。
「一体、これは何者だろう。」
「これも

に殺されたのか知ら。」
兎に
角も
引起して介抱すると、男には
未だ息が
通っていた。巡査は谷川の水を
掬って飲ませると、彼は
僅に眼を

いたが、警官の姿を
視るや
俄に恐怖と狼狽の色を現わして、
頻に手足を
悶いていたが、何分身動きも自由ならぬ重傷である、彼は
呻りながら又倒れた。
崖の上では
おういおういと呼んだ。畚は今や
卸されたのである。人々は順々に乗って、瀕死の男も同じく乗せられた。塚田巡査は最後に
上った。
市郎は医師の
手当に
因て、幸いに蘇生したので、
既に
麓へ
舁き去られていたが、安行とお杉と

との
三個の屍体は、まだ
其儘に枕を
駢べていた。そこへ又、
此の怪しい男が
朱に
染みたる身を
横えたのである。昔から魔所と伝えられた虎ヶ窟の前に、
斯る浅ましい姿の者が
四個までも
列んだのを見た人々は、
抑如何に感じたであろう。
白昼ではあるが山風は寒かった。人々は顔を見合わして物を云わなかった。
この驚くべき報告が麓へ拡まると、町からも村からも大勢の加勢が
駈着けた。安行の屍体は自宅へ、お杉と

の
亡骸は役場へ、
其れ
其れに
引渡しの
手続を
了えた。まだ息の
通っている怪しの男は
一先ず駐在所へ運び入れて、医師の手当を受けさせた。
塚田巡査は疲労をも厭わず、
直ちに事件の取調べに着手した。お杉と山

との死は市郎の
申立てに
因って事情判明したが、安行は
如何にして殺されたか
能く判らぬ。次に
此の瀕死の男は何者の手に
掛ったのか、それも判らぬ。彼はお杉や

に関係があるか、
或は別種の出来事か、それも判らぬ。
猶其他にも
[#「其他にも」はママ]昨夜の惨殺屍体と云うものが有る。それと
之と因縁の糸が連絡しているか
何うか、それも
亦疑問である。巡査も
此の解釈に
就ては大いに頭を
悩した。
「どうも判らぬ。」と、塚田巡査も
頻に考えた。市郎に
就ては
此上に取調べようも無い。

は逃げて
了った、重太郎は行方不明であった。
唯ここに残っているのは、重傷に
苦める
彼の坑夫
体の男
一人である。これに
就て厳重に詮議するより他はないが、何分にも
生命危篤という重体であるから、手の
着様が無い。
昨夜村境で発見した惨殺死体は、
面の皮を
剥がれているので何者か判らぬ。この男も言語不通であるから何者か
未だ判らぬ。
仮い被害者は誰にもあれ、
其の加害者は
何れも

であると断定して
了えば、無造作に解釈は着くのであるが、

以外にも何等かの因縁があるらしく感じられた。
而して又、
彼の惨殺死体と
此の負傷者との間には、何か眼に見えぬ糸が繋がっている
様にも感じられた。が、それは単に「感じられる」と云うに過ぎないので、巡査にも
其理屈は到底説明し得られなかった。
負傷者は容易に死なず、医師の説に依れば幾分か
持直した気味だと云う。巡査は
拠ろなく手を
束ねて、
其の快癒に向うのを待つ
中に、四五日は
徒爾に過ぎた。
虎ヶ窟を中心として
起れる
此の奇怪なる殺傷事件は、
忽ち飛騨一国に噂が拡まって、更に
隣国をも驚かした。明治の世の中に

が出現したと云うすらも既に新聞
種であるに、
況て
其れが人を殺したと云い、巡査と格闘したと云う。

の牝が大石で頭を砕かれたと云う。これと同時に幾多の殺人事件が
降って湧いたと云う。
鬼婆が殺されたと云う。聞く事毎に人を騒がす事ばかりなので、
或者は嘘だろうと云い消した。けれども、事実は争われぬ。地方の各新聞は筆を揃えて、
其の顛末を記載した。

の屍体の写真まで掲げられた。市郎の遭難実話が載せられた。塚田巡査の探偵談が記された。噂は更に
尾鰭を生じて、殆ど前代未聞の
大椿事とまで伝えられた。
無論、
斯うなっては塚田巡査一人の手に負える問題ではない。
高山からも警官が大勢出張した、岐阜の警察からも
昼夜兼行で応援に来た。狭い
駅中は
沸返るような混雑である。
「どうも大変な事が
起ったね。」
大学の制帽を
被って、旅行用の
大革包を
提げた若い男が、
四辺の
光景を
幾度か見返りながら、急ぎ足で角川家の門を
潜った。
門口には七兵衛
老爺が突ッ立っていた。
「やあ、吉岡の
小旦那……。どうも
苛え
騒動が出来ましてね。」
「そうだッてね。驚いたよ。」と、若い大学生は
首肯いて、「
併し市朗君は大した事もないのか。」
「はあ、お
庇様で
大分快い
方で……。何、大丈夫だとお医者も云って居ますが……。何しろ、一時は
胆を潰しましたよ。」
「そうだろう。まあ、早く行って逢おうよ。

に殺され損なうなんて、馬鹿な話だ。言語同断だよ。」
大学生は七兵衛に誘われつつ、威勢よく奥へ
駈込んだ。彼は吉岡家の長男忠一である。
妹の冬子が市郎と結婚するに
就て、十一月初旬には帰郷する心構えをしていた所が、更に市郎から年末休暇まで延期しろと云って来た。と思うと、やがて又冬子から電報が来て、大変が出来たから
直に帰れと云う。何が何だか少しく
煙に巻かれたが、
兎も
角も大変とあっては
聞捨てにならぬ。忠一は早々に旅装を整えて帰郷の途に就いた。
富山へ来ると、例の噂が
既う一面に
拡っていて、各新聞にも精細の記事が掲げられていた。読んで見ると
成ほど大変である。が、彼は
其の大変に驚くと同時に、
此事件に
就て一種の興味を
湧した。彼は
此の機会に乗じて、
所謂山

なるものを十分に研究したいと思った。冬の夜の明けぬ
中に富山を
発って、午後四時
過る頃にここへ着いたのである。
安行の葬儀は市郎全快の上で営む事に決したので、一旦は火葬に附し、
其遺骨は広い座敷の正面に祭られてあった。親戚や近所の人々も大勢控えていた。忠一の母お政も来ていた。それ等に対する挨拶は後にして、忠一は
先ず市郎の病室に入った。
市郎は書斎の八畳に寝ていた。
其傍には冬子が看護していた。
「あら、兄さん。」
「どうしたい。
飛だ騒動が
持上がったもんだね。」と、忠一は
其枕元に坐り込んだ。室内には
既う
洋燈が
点っていた。
「冬子さんから電報を打ったと云う
談は聞いたが、よく早く帰って来られたね。」
市郎は痛む手を抱えながら起きようとするのを、忠一は慌しく制した。
「まあ、無理をしずに寝て居たまえ。
阿父さんは
何うも飛んだ事だったね。そこで、君の
痛所は
何うだ。もう
快いのか。」
「いや、まだ
悉皆快いという訳には行かないよ。何でも三週間ぐらいは
懸るだろうと思うが……。
併しまあ、
生命に別条の無いのが
幸福さ。」
市郎は苦笑いした。顔の色はまだ蒼ざめていたが、元気は
左のみ衰えたようにも見えないので、忠一も
先ず安心した。
「生命に別条があって
堪るものか。
対手は
多寡が

じゃアないか。はははは。」
「でも、一時は
真実に
喫驚しましたわ。」と、冬子は眼を
丸くして云った。
「そりゃア誰でも
喫驚するさ。僕だって、一旦は驚いたよ。吉岡忠一の友人が、そんな馬鹿馬鹿しい目に逢ったかと思うと、実に唖然とせざるを得なかったよ。全体、

なんて云う者に
苦められると云うのが、文明人の恥辱だからね。と云うと、君ばかりでなく、死んだ
阿父さんまで侮辱するようだが、実際
詰らない災難に逢ったものだよ。」
「恥辱でも仕方が無いわ。
先方から不意に襲って来るんですもの。」と、冬子は少しく不平そうに兄を
顧った。
「いや、不意に襲われると云うことが
已に不覚だよ。」と、忠一は笑って、「

の如き者は一挙して全滅して
了うか、
左もなくば
之を
教化して
真人間にするか、二つに一つの方法を
択ぶより
他はないよ。
唯漫然と
打捨って置くから、往々にして
種々の
禍害を
醸すのだ。
勿論、
打捨って置いても、自然に
亡びつつあるには相違ないが、それには
未だ
尠からぬ年月を要するだろう。」
「真人間にするッて……。

は
矢張人間でしょうか。」と、冬子は眉を
顰めた。
「人間だよ、
確に人間だよ。ねえ、市郎君、この夏も君と

に
就て
種々と研究した事があったじゃないか。」
「むむ。僕も
委しく研究したいと思って、参考の為に親父にも
種々訊いている
中に、今度の
騒動さ。親父はあんな気象にも似合わず、因襲的に

を恐れていたらしかったが、
到頭こんな事になって
了った。そこで、君はいよいよ

を人間と見極めたのか。」
「

や山男のたぐいは皆人間だよ。僕も従来は
之に
就て多くの注意を払っていなかったが、
此夏君と話し合ってから、
俄に

研究を思い立って、東京へ帰ると
直に人類学の書物を
種々猟って見た。諸先輩の説も聴いた。何分研究の日が
猶浅いのだから、僕も余り詳細の説明は
能ないが、
兎にかく我々と同一の人類であると云うことだけは明白に云えるよ。
尠くも僕は
然う信じているよ。」
「我々と同じ人間が
何うして

なんぞになったのでしょう。」と、冬子の
疑惑は解けそうも無かった。
「
委しく云えば長いことだが、まあ
簡短に説明すると、こんな理屈になるんだ。」
冬子が
注いで出す茶を一杯飲んで、忠一は
鉄縁の眼鏡を掛け直しながら、今や本論に
入ろうとする時、
彼の七兵衛が
襖から顔を出した。
「あの、駐在所から塚田さんが見えましたが……。」
「むむ、
此方へ通して
呉れ。」と、市郎が
首肯いて見せると、七兵衛は心得て去った。
「塚田巡査、相変らず勤勉だね。」と、忠一は微笑した。
「実際、勤勉だよ。殊に今度の事件に関しては、殆ど寝食を忘れて奔走しているんだ。今日来たのも、何か犯人捜索上に
就て僕に
聞合せにでも来たんだろう。」
「あの巡査は

と格闘したと云うじゃアないか。職務とは云え、
流石に偉いよ。」
こんなことを云っている
中に、噂の
主は
帯剣を
戞めかしながら入って来た。近所の人であるから、忠一とも
予て
相識っているのである。双方の挨拶は
式の如くに終った。
「何かお急ぎの御用ですか。」と、市郎が問うた。
「いや、急ぎと云うでも無いですが、今日は虎ヶ窟を検査に行くと、不思議なものを発見したのです。」
「ははあ、
何んなものを……。」
「岩穴の壁に沢山の字が書いてあるのです。
恐く字だろうと思うのですが、我々には
到底読めないので……。」
「字が書いてありましたか。」と、忠一は思わず
乗出した。
虎ヶ窟の壁に
文字の跡が有るというのは、
頗る興味を惹く問題であった。一座
悉く耳を傾けると、塚田巡査は首を
拈りながら、
「今も申す通り、我々には字だか絵だか符号だか実際判然しないのですけれども、
何うも
文字らしく思われるのです。
勿論、刃物の
尖で
彫付けたもので、何十行という長いものです。あれが
悉皆判れば
余ほど面白かろうと思うのですが、
何うでしょう、あなたには……。読んで下さることは
能ますまいか。」
「さあ、読めるか
何うか判らんですが、
兎にかく
何んなものだか、是非一度見たいもんですな。」と、忠一も非常の
乗気であった。
「今日は
既う遅いですから。
明日御案内を
為ましょう。」
「どうか願います。
若し
果して
其れが
文字であるとすれば、

に対する僕の意見が
愈よ確実になる訳ですから……。」
「何か

に
就て御意見があるですか。」
「忠一君には大いに意見があるんだそうで、今これから大演説を始めようと云う処へ、あなたが見えたんです。」と、市郎は笑いながら
喙を挟んだ。
「それは
好い所へ来ました。わたくしも参考の為に是非伺いたいものです。」と、巡査も熱心に膝を進めた。
「兄さん、お話しなさいよ。」と、冬子も
強請むように迫り問うた。
聴者が熱心であるだけに、
弁者にも大いに
挑発が付いて、忠一も更に形を改めた。
「いや、大いに意見があると云う程でも無いんですが、近頃僕が取調べた所では、概略
先ずこんな訳なんです。日本ばかりでなく、支那にも昔から
山鬼又は
野婆などと云う怪物の名が伝えられています。山鬼は日本で云う山男或は山

のたぐいで、野婆は即ち
山姥でしょう。
尤も地方に
因て
其名を
異にするようで、日本でも奥羽地方では
山人と云い、関東地方では山男と云い、九州地方では
山
と云い、ここらでも主に

と呼ぶ
様です。そこで
其
なるものは元来何であるかと云うと、大和民族の我々よりも早く既に
此の本土に棲んでいた人種で、
其中にはアイヌもありましょう、
所謂土蜘蛛という
穴居人種もありましょう、又は九州の
熊襲の
徒もありましょう。
斯ういう野蛮人種が我々大和民族と闘って、
或者は
亡された、
或者は山奥へ逃げ込んだ。
其の逃げ込んだ奴等が
深山幽谷の
間に隠れて、世間普通の人間とは一切の交通を
断って、何千年か何百年かの長い間、親から子、子から孫と
其血統を伝えて来たもので、
兎に
角人間には相違ないんです。現に誰も知っている一例を挙げれば、
肥後の山奥にある
五個の
庄です。壇の浦で
亡びた平家の残党は
彼の山奥に身を隠して、
其後何百年の間、世間には知られずに別天地を作っていました。」
「
成程……。」と、巡査は酷く感心して聴いていたが、市郎は少しく
頭を傾けた。
「君の説も一応は
道理の
様に聞えるが、五個の庄の住民は
矢はり普通の人間で、決して

や山男の
類では無いと云うじゃアないか。」
「無論さ。」と、忠一は
首肯いて、「五個の庄の住民は
何れも平家に
由縁の者で、彼等は久しく都の空気を呼吸していた。平家の
公達や
殿原は
其当時に
於る最高等の文明人種であったのだ。
随って彼等が
如何なる山村僻地に
流落しても、
或程度までは自己の有する文明を維持して行く力を
有っていたから、子孫相伝えて
兎も
角も
今日に至ったのだ。
之に反して、
彼のアイヌや土蜘蛛の種族は元来の野蛮人種で、
最初から自己の文明というものを所有していないから、彼等が山に隠れ、谷に
潜んで何十代を送る
間には、野蛮の程度が
愈よ加わるのみで、
寧ろ
漸々に退化して、人間か獣か区別が付かぬ
様になって
了ったのだ。昔から山

や山男と云うのは即ち
是だ。
彼の
頼光が
足柄山から山姥の
児を連れて来たと云うのが実説ならば、
其の金太郎と云うのは即ち山

の
一人で、文明の教育を受けた結果、後に
坂田金時という立派な勇士になったのだろう。」
「
成程……。」と、巡査は又
首肯いたが、市郎と冬子は
未だ腑に落ちぬらしく、
霎時は黙って考えていた。広間の方には坊さんでも来たのか、
鉦を叩く音が低く聞えた。
「
先ず
然う云う理屈であるから、我々の先祖は勝利者で、

の先祖は敗北者で、我々が

を恐るる筈は無いのだ。けれども、先祖の歴史を
委しく知らぬ我々が、何百年の
後、不意に山奥で
異形の者に出逢うと、何か一種の
魔者であるかの
様に考えられて、跡をも見ずして
逃帰るという事になる。又、彼等は先祖代々
深山幽谷に棲んでいるから、山坂を
駆歩くことは普通の人間よりも
素捷いであろうし、腕力も
亦強いかも知れない。
随って
種々の臆説が
甲から
乙へと
附会されて、何だか神秘的の色彩を帯びた怪談が伝えられる
様になって
了ったのだ、要するに

は、人間が
漸次に退化して
所謂猿人に近くなったものだと思えば
可い。」
忠一が息も
吐かずに弁じるのを、市郎は
徐に
遮った。
「まあ、待ち給え。君の議論も一通りは
解ったよ。けれども、長い年月の
中には、
何うか云う機会で

を
生捕る事もありそうなものだ。
若し生捕って調べたらば、総ての疑問は
疾うに解決されている筈だ。日本にも昔から
種々の冒険者もあれば、勇士もある。誰か
其の

を生捕るとか退治するとか云う人もありそうなものだったが……。」
「そんなことも無いでは無かったが、
惜むらくは
之を研究するほどの
熱心家も無し、学者も無かったらしい。現に今から百余年
前、天明年間に
日向国の
山中で、
猟人が獣を捕る為に張って置いた
菟道弓というものに、人か獣か判らぬような怪物が
懸った。全身が女の形で色が白く、
赤裸で黒い髪を長く垂れていた。猟人等は驚いて、
之は
恐く山の神であろうと、
後の
祟を恐れて捨てて置いたら、自然に腐って骨に
化って
了ったと、
橘南谿の
西遊記に書いてある。これなども山

の女性であったに相違ないが、
徒爾に腐らして
了ったのは
惜い事であった。同じく西遊記に山

の事も記してあったと記憶している。昔から諸国に
其んな例も沢山あったのだろうが、
唯其の一地方の
夜話に残るだけで、
識者が研究の材料には
上らなかったのだ。いや、
然ういう例に
就て、もっと面白い話が有る。これは日本の出来事じゃアないが、現に英国で
其の

を
取押えた人の実話だ。まあ、聞き給え。」
忠一の研究談は
尽る所を知らなかった。人々も耳を
澄していた。
「何でも西暦千七百二十年頃の事だ。プットバリーの講師にレヴェレンド・シメオン・ピジョンと云う人があった。この人の
邸で
屡々家禽を何者にか盗まれる。土地の者は
之をピキシーと云う怪物の仕業だと昔から唱えていたが、講師は
之を信じなかった。で、暗い晩に
鶏小舎の蔭に隠れて待っていると、例の如く午前一時頃に何者か忍んで来た。何でも
小児のような奴であった。講師は不意に飛び出して
取押えようとすると、賊は刃物を
振廻して激しく抵抗した。何しろ、
其奴の正体を見届けようと思って、講師は
先ず
燐寸を
擦付けると、
対手は
俄に刃物を
投り出して、両手で顔を隠して
了った。」
「むむ。」と、市郎も思わず蒲団から
乗出した。彼も

に対して、ピジョン氏と同じような経験を
有っているからであった。
「そこで難なく
取押えて、貴様は何者だと問うたが、賊は何とも返事を
為ない。
兎も
角も
家の中まで
引擦って行こうとしたが、燐寸の火が消えると共に、
対手は再び強くなって、講師を突き
退けて
何処へか逃げて行って
了った。が、
其の一
刹那に講師が認めた彼の姿は、極めて
背の低い、殆ど
赤裸で、皮膚の色は
赭土色で……。」
云う
事毎に符合しているので、市郎も巡査も同時に叫んだ。
「むむ、それから……。」
「それから講師が
現場を調べて見ると、そこには賊の刃物が落ちていた。
能く
能く研究すると、これは古代の
羅馬人が持っていた短い
剣の
類であった。
而巳ならず、
其附近にはローマンケーヴと昔から呼ばれている岩穴が有る。それや
是やを綜合して考えると、賊はピキシーと云う
怪物でも何でも無い、
恐く古代の羅馬人であろうと鑑定した。が、土地の者は容易に
之を信じないで、
矢はりピキシーの仕業だと云っていたので、講師は更に
斯う云う説明を加えた。」

の正体も
漸々に判りかかって来た。忠一は
咳して又語り続けた。
「ピジョン講師の説明に
拠ると、
其昔
羅馬人が英国へ侵入して来た時に、
其一部が
戦闘に
敗けて
此の地方へ逃げ込んで来た。が、
固より敵地であるから、到る処で
追詰め
追巻られた結果、山の奥深く逃げ
籠って
了った。
其子孫が相伝えて
今日に至ったのである。と云ったら、男ばかり
集っていて、
何うして子孫が絶えぬかと云う疑問が
起るに相違ないが、彼等は夜に乗じて
麓の里へ
降って、見当り次第に
小児を
攫って行く。で、女の
児は生長するのを待って結婚する、男の
児は自分達の
眷族にして
了う。
勿論、同族結婚などを
頓着しているのでは無い。
然ういう風であるから、肉体も精神も
漸次に退化して、殆ど猿のような野蛮人になって
了ったが、
兎にかくに今日まで
其血統を
維いでいられたのである。
併し彼等が
漸々に
亡びて行くことは争われぬ道理で、昔に比べると
其人数も非常に減って来たに相違ない。
軈ては自然と
亡び
尽すであろう。で、彼等は
平生日光を見ない穴の中に隠れ棲んでいて、暗い夜になると
窃かに出て歩く。その習慣が幾代も続いて来たので、眼の働きが甚だ弱いものになって
了って、火のような強い光線に出逢うと、眼を
明いては居られない
様になったのである。又、彼等の皮膚が
赭土色に
化って
了ったのは、生れてから死ぬまで岩石や赭土の中に棲んでいる為である。
其の
体躯が
小児のように小さいのは、同族結婚や野蛮生活に
因て身体の発育が衰えた為である。と、
先ず
斯う云うのだ。」
「いや、解りました。よく解りました。」と、塚田巡査が
先第一に降伏した。
「
成程、
然うかも知れませんねえ。」と、冬子も再び兄に反抗する勇気は無かった。
「実際、そうだろう。君も
些との
間に大分研究したね。」と、市郎も笑った。
三人を目前に
説破した忠一は、
自から得意の肩を
聳かす
様になった。
「であるから、この虎ヶ窟に棲む山

なる者の正体は、大抵想像するに
難からずで、
矢はり前に云ったような種類に相違ないんです。それにしても、
文字が彫ってあると云うのは
頗る面白い問題で、
若し
其の
文字の解釈が
能たら、

の正体は
愈よ確実に判りましょう。」
「
然うです、然うです。
明日は是非御案内を
為ましょう。今日は
丁度好い処へ
来合せまして、
種々有益なお話を伺いました。岐阜や高山から出張している同僚の者にも、参考の為に
能く云い聞かせましょう。」
塚田巡査が喜んで帰った
後は又
寂寞になった。
「馬鹿馬鹿しいの、
詰らないのと云うものの、君の
阿父さんが
斯んなことになろうとは、実に夢にも思わなかったよ。」と、忠一は今更のように嘆息して、「一体
其の

なる奴が、何故
然う執念深く君の一家に祟るのだろう。新聞に
拠ると、お杉
婆が
種々の原因を
作している
様だが実際
然うなのか。」
「さあ、それは僕にも
判然とは解らないが、
何うも
然う解釈するより他は無いのさ、僕の
祖父も

に殺されたそうだが、親父も
亦今度のような事になった。
究竟一種の因縁とでも云うのだろうよ。」と、市郎も嘆息した。
「むむ、それから……。」と、忠一は思い出したように、「あの柳屋の女ね、確かお葉と云った女だ。新聞の記事に
拠ると、
彼奴も何か今度の一件に
就て、関係があるらしいじゃないか。妙な事があるもんだね。」
「いや、関係があると云う訳でも無いらしいが……。」と、市郎は冬子を
顧って、「
兎にかく親父が
攫われた日に、お杉
婆に
誘われて山へ行ったことは
真実さ。何故行ったか判らないが、少し
狂気染みた女だから、何だか夢のように
ふらふら出掛けたらしいよ。で、
明る日
茫然帰って来たんだ。警察の方でも無論
之に目を
注けて、再三取調べたけれども更に要領を得ない。実際、親父の死に
就ては何にも知らないらしいんだ。」
「それで
何うした。」
「
何うも仕方が無いさ。相変らず柳屋へ帰って、唄なんぞ
謳っているそうだ。」
「
暢気な奴だな。
併し
彼の女の事だから、
然うだろうよ。」と、忠一も笑い出した。
忠一は
其夜、安行の霊前に通夜した。
明る日は
陰って寒かった。が、そんなことに余り
頓着する男では無いので、
草鞋穿きの
扮装甲斐甲斐しく、早朝から登山の準備に
取かかっていると、約束を
違えずに塚田巡査が来た。活発なる若い学生と勤勉なる若い巡査とは、
相携えて角川家を出発した。
「兄さん、気を
注けてお
出でなさいよ。」と、冬子は
門まで送って出た。
「心配するなよ。

を五六匹お
土産に持って来るから、
汁でも
拵える支度をして置くが
可いさ。」と、冗談を云いながら兄は去った。
巡査は
彼の事件以来、
日々通い馴れているので、
険阻の
山路も踏み迷わずに、森を過ぎ、岩を越えて、難なく虎ヶ窟の前に辿り着いた。足の達者な忠一は巡査に
些とも
後れなかった。
窟の入口には落葉を焚いて、一人の警部と二人の巡査が
張番していた。重太郎や

が
何時旧巣へ帰って来るかも知れぬので、
過日来昼夜交代で網を張っているのである。塚田巡査は挨拶した。
「どうです、奴等は姿を見せませんか。」
「影も形も見せないよ。多分山奥へ
逃籠って
了ったのかも知れないが、これだけの所を
山狩するのも大変だからなあ。」と、警部も少しく
倦んだ形であった。
塚田巡査の紹介に
因て、忠一は
直ちに穴へ入ることを許された。巡査の案内に従って、
松明を片手に奥深く進み入ると、
此頃は昇降の便利を計る為に、
横木を
架した
縄梯子が
卸してあるので、幾十尺の穴を
降るに格別の困難を感じなかった。二人は中途に
突出したる岩に立って、
霎時四辺を
照し
視た。
「この岩の上です。角川の
阿父さんの屍体が
横わっていたのは……。」と、巡査が指さして教えた。忠一は粛然として
首肯いた。
「まあ、順々に御案内しますが、

の棲んでいたのは
此下の穴です。」
巡査が松明を
振翳す途端に、遠い
足下の岩蔭に何かは知らず、
金色の光を放つ物が
晃乎と見えた。が、松明の火の
揺くに
随って、又
忽ちに消えた。
「おやッ。」と、忠一も共に火を
翳したが、岩に
遮られて何にも見えなかった。
「何でしょう、今光ったのは……。」
「さあ。」と、巡査は考えて、「何だか知らんが時々に光るのです。けれども、光線の工合で見える時もあり、見えない時もあるのです。私も
過日から不思議に思っているのですが……。」
斯う云いながら、巡査は無闇に松明を
振廻すと、火の光は
偶中りに岩蔭へ落ちて、
燦たる
金色の星の如きものが
暗に
浮んだ。が、あれと云う間に又
朦朧と消えて
了った。
「何だろう。」
「
兎も
角も行って見ましょうか。」
好奇心に駆られた二人は、松明を
振廻しながら更に降った。
「ここらでしたね。」と、巡査は
的も無しに又もや松明を
振廻すと、忠一も四方を
照して
視た。が、ここぞと思う
辺には何物をも見出さなかったので、二人は失望の顔を見合せて立った。
「不思議ですね。」
「
何うも不思議ですね。」
鸚鵡返しの声が終らぬ
中に、忠一の持った松明の
火先が左へ揺れると、一
間許り下の大岩の
間に又もや
金色が閃いた。
「あ、
彼処だ。」と、二人は
跳って飛び降りた。岩は
宛ら獅子が口を明いたような形で、
其の
喉とも云うべき奥の処から、怪しき
金色の光を発するのであった。二人は松明を
差付けて窺うと、これは意外、幾百年を経たりとも見ゆる金の
兜であった。
山

の棲家に金の兜を発見するとは、豚小屋から真珠を
掘出したようなもので、
何人も想像の及ばぬ所であろう。歴史の智識に富んでいる大学生は、早くも
之を鎌倉時代の物と見た。五枚
錣の
大兜、これが火の光に映じて輝いたのであった。それにしても、こんな貴重な物が
何うして
此処に隠してあったのか。

が
何処からか盗み出して来たのか、
但しは

以前にも
此処に棲んだ者があるのか。忠一も即座に判断は付かなかった。
兜は岩の上に据えられた。げにも由緒ありげな
宝物である。忠一も
霎時は飽かず眺めていたが、やがて手に取って
打返して見ると、兜の
吹返しの裏には、「
飛騨判官藤原朝高」と彫ってあった。
「飛騨判官というのは何者でしょうな。」と塚田巡査は首を
傾げた。
「飛騨判官朝高という人は、
曾て
此の
飛騨国の
地頭職を勤めたことが有る
様に記憶しています。
左様、何でも鎌倉時代の中葉、
北條時宗頃の人でしたろう。
蒙古退治の
注進状の中に、確か
此人の
連名もあったかと思いますが……。いや、それは調べれば
直に判ります。何しろ、面白いものを
掘出しましたよ。」
忠一は
此の歴史的遺物発見に
就て、
尠からぬ興味を覚えたらしく、大事そうに金の
兜を捧げて
起った。
「それから例の不思議な
文字というのは、
何処にあるんですか。」
「あの岩穴の中です。」
巡査は先に立って少しく登った。ここは
曩の日に、巡査等が

と
戦闘を開いた
古蹟である。低い穴を横に
潜って奥深く進んで行くと、天井は
漸くに高くなった。ここを行き過ぎると、更に広い場所へ出た。
行止りのように見えて、実は狭い
間道のある所であった。
「

は
彼の穴から逃げたのです。」と、巡査は残念そうに云った。
「ああ、そうですか。」と云いながら、忠一は
何心なく
四辺を見廻したが、
忽ち
あッと叫んだ。
ここにも彼を驚かすものが有った。それは
累々たる人間の骸骨で、規則正しく順々に積み上げてあった。年を経て全く枯れたる骨は、
松明の火に映じて白く光っていた。更に仔細に検査すると、下の方に敷かれた骨は普通の人よりも
稍大きい位であるが、上の方へ行くに
随って骨格が
漸々に縮まって、
終局には殆ど
小児のように小さくなった。
之を見ても彼等が
漸次に退化したことが
證明される。忠一は自己の想像の
謬らざりしことを心
窃かに誇った。
「これです。御覧下さい。」
巡査の
翳す松明は
傍の
石壁を
鮮明に
照した。壁は元来が比較的に
平い所を、更に人間の手に
因って
滑かに磨かれたらしい。
其の
面には何さま数十行の
文字らしいものが
彫付けてあった。忠一は眼鏡を拭って熱心に見詰めていた。
「どうも
文字のようですな。」と、巡査が
顧ると、忠一は黙って
首肯いたが、
軈て
衣兜から手帳を
把出して、一々これを写し始めた。石の
面には
所々缺けた所があるので、全く写し
了るまでには
尠からぬ困難と時間とを要した。巡査も
根好く待っていた。
「これは
確に
蒙古の字です。僕には全部は判りませんが、所々は
朧げに
其意味が推察されます。」と、忠一は手帳を
収いながら、「これに
因て考えると、
彼の

なるものは
元の蒙古の子孫らしい。彼等が隠していた飛騨判官の兜と対照して研究したら、
頗る面白い歴史上の事実を発見するかも知れません。
唯、蒙古の人間が
何うして
斯んな山中に隠れ棲んでいたかと云うことが甚だ疑問ですが、東京へ帰って蒙古語専攻の学者に
此の文章を読んで貰い、又一方に飛騨判官の伝記を調べて見たら、秘密は自然に解決されるでしょう。何しろ、お
庇様で
種々の興味ある発見を
為ました。」
二人は再び縄梯子を伝って、穴の入口へ登った。窟の前に
屯していた警部等も、金の兜には驚いた。
「
何処に有ったのです、そんなものが……。」と、皆口々に問い寄るので、忠一は
先ず
其概略を説明した上で、これは
何人も
私すべきもので無い、事件が落着するまでは何分
宜しく保管を頼むと云えば、警部等も快く承諾した。で、兜は警官の手に渡して、二人は
早々下山の途に就いた。
やがて
麓に
近いた頃、忠一は
唯ある
樹根に腰をかけて
草鞋の
緒を結び直した。巡査は
之を待つ
間に
不図何を見出したか、
忽ち
疾風の如くに駈け出して、あなたの岩蔭へ飛び込んだ。忠一は
呆気に取られて見送っていると、
霎時して巡査は
悄々引返して来た。
「
何うしたんですか。」
「今あの岩の蔭に重太郎の隠れているのを見付けましたから、
直に
追掛けて行ったのですが、
彼奴中々足が
捷いので、
忽ち見えなくなって
了いました。残念なことを
為たです。」
巡査は酷く
口惜そうであった。
それから又二三日過ぎた。忠一は実家と角川家との
間を往来しながら、熱心に飛騨の古い歴史を研究して、飛騨判官の伝記及び彼と蒙古との関係を
明白にすべく努めていた。
一時は口も
利かれぬ程の重態であった坑夫
体の負傷者も、医師の
手当に
因て昨今少しく快方に向ったので、警官は
直ちに
取調を始めた。彼は中々の
横着者で、
最初は
兎角に自分の素性来歴を包もうと企てたが、要するに
其れは彼の不利益に
終った。彼が
不得要領の
申立をすれば
為るほど、
疑惑の眼はいよいよ彼の上に
注がれて、係官は厳重に
取調を続行した。
で、
或時係官がお杉と重太郎との
身上に
就て彼に語り聞かせて、お前を
傷けた当の相手は
恐く行方不明の重太郎であろうと告げるや、彼は
俄に色を変えて、「
然う云えば
過日、虎ヶ窟で見付けた
婆の死骸は
何うもお杉に
肖ていると思いましたよ。悪いことは
能ねえもんだ。私は実の
倅に斬られたんです。」と、
此に初めて自分の暗い秘密を
打明けた。
彼は重太郎の父の重蔵であった。今から殆ど三十年以前に、彼は角川家を出奔して、お杉と共に諸国を
流浪して歩いた。が、頼むべき
親戚もなく、手に覚えた職もないので、彼は到る処で
種々の労働に従事した。
其間にも酒や
博奕や女狂いや、悪い道楽は何でも
為尽した。
斯うなると、二人が仲にも温かい春の続こう筈はない。年上で嫉妬深いお杉は、
明暮に夫の不実を責めて、
或時はお前を殺して自分も死ぬとまで狂い
哮った。重蔵は
愈よお杉に飽いた。が、蛇の
申子と噂された程のお杉の執念は、
飽までも夫に
附纏うて離れなかった。彼は
幾度かお杉を
置去りにして逃げようと企てたが、
何日も不思議に
其の隠れ家を
見付出された。
「
妾を捨てて逃げるような料見だから、お前さんは一生涯
碌なことは無い。
終局には
必然酷い
死様をするよ。」と、お杉は鬼のような顔をして、常に夫を呪った。重蔵は
愈よお杉に飽いた。飽いたと云うよりも
寧ろ恐れたのであった。そんな
状態で幾年かを無意味に送る
間に、お杉は懐胎して重太郎を生んだが、産後の
肥立が
不良いので久しく床に就いた。
其隙を窺って重蔵は逃げて
了った。
今度は
既う諦めたのか、
但しは病中の為か、
流石のお杉も執念深く追っては来なかったので、これを幸いに重蔵は又もや
漂泊の旅路に
上った。
或時は
土方となり、
或時は坑夫となって、
甲から
乙へと
際限もなく迷い歩く
中に、二十年の月日は夢と過ぎた。彼の頭には
白髪が
殖えた。先頃までは加賀のあたりに徘徊していたが、近来飛騨に銀山が
拓かれて、坑夫を募集しているという噂を
聞込んだので、彼は同じ仲間の
熊吉と云う老坑夫を
誘って、殆ど三十年
振で
故郷の土を踏んだのである。
変遷の
著るしからざる
山間の古い
駅ではあるが、昔に比ぶれば家も変った、人も変った、自分も老いた。誰に逢っても昔の
身上を知られる
気配もあるまいと
多寡を
括って、彼は平気で
町中を歩いた。
旧主人の角川家の前も通った。
駅を抜けて
村境まで出ると、日が暮れかかって来て、
加之に寒い雨が降って来た。目ざす銀山まではまだ三里もあるので、二人は
其処らで野宿をすることに決めた。
ここらの案内は重蔵が
善く心得ているので、彼は熊吉を導いて
樅林の奥へ入った。木立の深い処には、人を
容るるに足るほどの天然の
土穴が
所々に明いているので、二人はここへ
潜り込んで、雨を避けながら落葉を焚いた。
此のままに眠って
了えば、彼等は平和に夢を結ばれたのであろうが、
斯る
徒の癖として重蔵は
懐中から小さな
賽を
取出した。二人は焚火の
傍で賽の目の勝負を争った。
斯る賭博に喧嘩の伴うのは珍しくない。二人は勝負の争いから
忽ちに喧嘩を始めて、熊吉は
燃未了の枝を
把るより早く、重蔵の
横面を一つ
撲った。熱いのと痛いのとで眼が
眩んだ重蔵は、
衣兜から
把出した
洋刃を閃かして、
矢庭に敵の
咽喉を
一抉りにした。が、
腹立紛れに人を殺したものの、わが
眼前に
横われる熊吉の屍体を見ては、彼も
俄に怖しくなった。
「どうしたら
可かろう。」と、彼は
犯跡湮滅に
就て考えた。
重蔵は
不図彼の

を思い出した。この殺人事件をして

の
所為であるかのように
粧って、
他の目を
晦まそうと考えた。彼は熊吉の屍体を抱き上げて、
咬殺した如くに
其の
疵口を咬んだ。が、
猶不安に思われるので、更に
洋刃を以て
其の顔の皮を
剥ぎ取った。
衣服も剥いで
赤裸にして
了った。
斯うして置けば
手懸も付くまいと、今度は
其死骸を
引抱えて行って、一
町ばかり先の小川の
畔へ捨てて来た。
この時、村の方から
松明の火が
近いて、大勢の人声や
跫音が乱れて聞えたので、
脛に
疵持つ彼は
狼狽えて逃げた。
而も人里の方へ逃げるのは危険だと悟ったので、彼は案内知ったる山の方へ逃げ込んだ。雨はますます降って来たので、彼は
唯ある大きな岩蔭に隠れて、眠るとも無しに一夜を明かした。夜が明けると、雨は止んだ。けれども、
麓では
昨夜の殺人事件の詮議が厳しかろうと推察されるので、彼は
直ちに山を
降るほどの勇気は無かった。
今日一日は山中に潜伏して、日の暮るるを待って里へ出る方が安全であろうと、
飢い腹を抱えて
当途も無しに
彷徨う
中に、彼は
大なる谷川の
畔に出た。
瞰上れば我が頭の上には、高さ幾丈の絶壁が
峭立っていて、そこは
彼の虎ヶ窟なることを思い
当った。若い男と女とが社会の
煩さい圧迫を
脱れて、自由なる恋を
楽んだ
故蹟である。
「俺もあの時は若かったな。」
重蔵も
漫ろに三十年
前の夢を辿って、谷川の
流に映る
自己の白髪頭を撫でた。それに付けてもお杉は
何うしたろう。生きては俺を恨んでいるだろう、死んでは俺を呪っているだろう。
「俺も悪いことを
為た。」と、彼は今更の
様に悔恨の情に打たれた。が、
其のお杉は二十年
前から
此の
旧巣へ戻って、
加之も今や
其の
老たる
屍を窟の底に
横えていようとは夢にも思い及ばなかった。何はあれ、ここは
屈竟の隠れ家である。万一、

が昔のままに棲んでいるならば、
之に乞うて
何等かの食物を得て、一時の空腹を
凌ごうとも思った。
其昔、

を友としていた重蔵は、
他の人のように

を恐しい者とも思わなかった。
寧ろ
旧い友達を尋ねて、当分の隠れ場所を借りようか
位に思っていたのである。
彼は窟に暫く棲んでいたので、岩穴から
此の川辺へ抜け出る
間通を心得ていた。彼は
直ちに
其穴を見出して、蛇のように
潜り込むと、暗い中で
恰も
彼の市郎に出逢ったのであった。市郎は彼が家出の
後に生れた
児であるから、
相互に顔を
見識ろう筈はなかったが、
其詞の
端に
因て、重蔵は早くも彼が角川家の
倅であることを悟った。で、一旦は
其奇遇に驚いたが、今は
其んなことを詮議する場合でない。彼は頼まるるままに角川家へ
使する
意で、
兎も
角も窟の外へ走り出た。
外へ出ると、又もや重太郎に逢った。が、これも
相互に顔を
見識らなかったので、二十年
振で初めて
邂逅った現在の父と子が、
此に
忽ち敵となった。二人は
引組んだままで崖から転げ落ちると、下には幸いに熊笹が茂っていたので、身体には別に
怪我もなかった。けれども、
格闘は
此のままに
止まなかった。二人は
此で又もや
組討を始めたが、若い重太郎は遂に
老たる父を
捻伏せた。彼は母の
仇と叫びつつ、持ったる
洋刃を重蔵の
喉へ
差付けたのである。
急所を刺された父は殆ど気を失って倒れた。重太郎は
恐く
何処へか
立去ったのであろう。それから塚田巡査に発見されるまでは、重蔵も夢心地で何にも知らなかった。
老たる浮浪者の
懺悔は
之で
了った。
「私も女房や子を捨てて逃げました。友達を殺して逃げました。それだけの罪でも
碌なことの無いのは
当然です。二十年
振で現在の子に
邂逅いながら、
其手に
掛って殺されると云うのも自然の因縁でしょう。
斯う何も
彼も白状して
了えば、私は人殺しの犯人ですから
何うせ無事には済みますまい。
寧そ
此のまま死んで
了って、地獄にいるお杉に謝った方が
可うございます。」
彼の眼には悔恨の涙が見えた。警官も医師も
其の自殺を
懼れて昼夜警戒していたが、彼は一旦快方に
赴いたにも
拘らず、
爾来再び模様が悪くなって、
囈言のように
斯んなことを叫び続けた。
「お杉……堪忍して
呉れ。俺が悪かった。お杉……お杉……重太郎……。熊吉、
赦して
呉れ。熱い、熱い、地獄の火が……。」
斯くして、三日の
後に重蔵は死んだ。人間の運命は不思議なもので、彼は
故郷の土と
化るべく、偶然にここへ帰って来たのであった。
十一月も
中旬になった。
飛騨の冬は
愈よ迫って来て、霜は
軈て雪となるらしい、鯨の群のような黒い雲が山から里へ
掩って来た。この三日ばかりは日も見えなかった、風も吹かなかった。
唯天地
暗澹の
中に、寒い日が
静に暮れて、寒い夜が
静に明けた。この沈黙は恐るべき大雪を
齎す前兆である。里の人家では
何れも
冬籠の準備に
掛った。
午後三時、一人の
青年が
村境の小高い丘に立って、薄暗い町の
方を遠く
瞰下していた。彼は重太郎である。大方の冬木立は
赤裸になった今日
此頃でも、
樅の林のみは
常磐の緑を誇って、一丈に余る高い梢は灰色の空を
凌いで
矗々と
聳えていた。この
深林を背景に、重太郎は無言の
俳優として舞台に立っていた。
彼は恋しいお葉と泣いて別れた。更に父と知らずして父を
傷けた。お葉が形見の山椿の枝を抱えて、一旦は
其場から姿を隠したが、
流石に遠くは
立去らなかった。彼は
木間や岩蔭に潜んで、絶えず
其後の模様を窺っていると、安行も死んだ、お杉も死んだ、

の
一人も死んだ。
其屍体は
何れも里へ運び去られたのである。
安行や

の死に
就ては、彼は何にも考えなかったが、お杉の死は彼の胸を深く
抉った。二十年来この窟に隠れ棲んで、殆ど人間との交際を
断っていた
此の
母子二人は、さながら車の両輪の如き関係であった。今や
其母を
亡って、彼は殆ど
片輪になって
了った。
曩の
夜、母から十日の内には死ぬと云い聞かされた時には、彼は心
窃かにお葉というものを頼みにしていた。が、それも
希望の綱が切れた。彼は枝を離れた
木葉のように、風のまにまに飛んで行くより他は無かった。
ここばかりが自分の天地でないことは、重太郎も
流石に知らぬでは無かった。母に別れ、お葉に離れて、必ずしも
此の山奥に棲んでいる必要は無いと思った。けれども、窟の底には母に教えられた大切の宝が有る。
之を
持出して
他に売れば、自分は
大金満家になれるのである。乞食を
為ないでも済むのである。ここを
立去る前に、
先ず
彼の宝を
持出さねばならぬと、彼は昼夜この
辺を徘徊して、
窃かに
好い機会を窺っていたが、
彼の事件以来、窟には多数の警官が絶えず見張っているので、彼も
迂濶に
踏込む隙を見出し得なかった。
と云って、
此のままに
立去るほどの
断念は付かぬ。断念の付かぬのも無理はない。重太郎は宝に心を
惹されて、
徒爾に幾日かを煩悶の
中に送った。
勿論、普通の人とは違って、山に馴れたる彼は寝床や食物には困らなかった。岩を枕にして眠った、
木実を拾って食った。
斯くして日を
暮す
間に、塚田巡査に一度見付けられたが、幸いに逃れた。
「あの宝は
俺の物だ。俺が持って行くのに不思議があるものか。」
重太郎は
斯うも考えた。けれども、自分の姿を見れば
直ちに追跡する警官等が、
其理屈を
肯いて
呉れるや否やを
危んだ。警官等は自分の敵であると彼は
一図に信じていた。
寧そ
腕力付で奪い取ろうかとも考えたが、剣を
佩びたる多数の警官と闘うことは、彼も
流石に
憚った。この場合、味方と頼むのは多年同棲したる

であるが、彼等も
其以来
何処へ隠れたか姿を見せぬ。母と友とに離れたる孤独の重太郎は、ここらあたりを出没して空しく夜と昼とを送っているのであった。
其間も彼は山椿の枝を放さなかった。紅い
蕾は
疾くに砕けて
了ったが、恋しき女の
魂魄が宿れるもののように、彼は
其の枯枝を大事に抱えていた。
今日も
漸く暮れかかって来た。灰色の低い雲は町の空一杯に拡がっていた。
「雪が来るな。」と、重太郎も思った。
更に山の方を
振返って見ると、
三方崩れの
彼方から不思議な形の
黒雲が
勃々と湧き出して来た。例えば大入道のような怪物が黒い
衣服の
裳を長く

いて、太い片腕を長く突き出したような形で、
徐に北の空から歩んで来た。重太郎は眼も放さずに怪物の
近くのを仰ぎ
視た。
普通の人は
之を不思議の雲と見るであろうが、重太郎は更に
之を不思議の物と見た。彼は
之を一種の悪魔であると思った。あの雲が出る時には必ず人間に
禍があると、
小児の時から母に教えられたのであった。
現在の重太郎に取っては、里の人間は総て我が敵であると云っても
可い。
其の里に向って、悪魔は天を
翔り行くのである。彼は云い知れぬ一種の愉快を感じて、
猶も雲の行方を睨んでいると、黒い悪魔の手は
漸次に拡がって、今や重太郎の頭の上を過ぎた。
彼は思わず
跪ずいて、天を拝した。
日は全く暮れた。悪魔のような
黒雲は町から村へと大きな手を拡げて
了った。ここに有るほどの家も人も、総て悪魔の黒い袖の下に包まれたのであった。
今までは凍り着いたように
静寂であった町も村も、
俄に何となく
閙しくなった。鴉や雀は何物にか驚いたように啼き出した。犬も
頻に吠え出した。山の方では猿が悲しそうに叫び出した。重太郎も一種の不安を感じて、何の
意も無しに丘を駈け降りた。
鳥の声は又止んだ、犬や猿も啼き止んだ。天地は再び
旧の
寂寞に
復ったかと思うと、灰のような
細い雪が音もせずに降って来た。
斯ういう
前触の気配を以て降って来た雪は、一丈に達せざれば止まぬのである。重太郎も骨に沁むような
寒気を覚えた。
「山へ帰って焚火でも
為ようか。」
懐中を探ると、
燐寸の箱は
既う
空虚であった。彼は
舌打して
明箱を
投り出した。
此上は何とかして燐寸を求め得ねばならぬ。重太郎は思案して町の
方へ歩み去った。燐寸の尽きたる時、これを人家より盗み去るのは彼が年来の
習であった。
今も
此目的で彼は町の
方へ忍び出た。
細い雪は益々烈しく降って来た。
駅へ入ると、大方の家は既に戸を閉じていた。雨風を恐れぬ重太郎も、
此雪には
流石に
面を向けられぬので、
成べく人家の軒下を伝って歩くと、暗い町の中で
唯一軒、
燈火の外へ
洩れる家を見た。
門には枯柳が骸骨のように立っていた。
「ああ、柳屋か。」
重太郎の血は
俄に沸いた。眼に見えぬ糸に
曳かるる
様に、彼は
ふらふらと
其の
門口に窺い寄ると、奥には春めいた空気が
漲って、男や女の笑い声が聞えた。やがて三味線の音が冴えて聞えた。
美濃の柳と、近江の柳。
風のまにまに縺れて解けて、
国は違えど、恋はする。
唄の声は
正しくお葉であった。重太郎は枯柳に
犇と
取付いて、酔えるように耳を
澄していた。雪はいよいよ
降頻って、重太郎も柳も
真白になった。
糸の
音が止むと、又もや
話声や笑い声が聞えた。
其中にお葉の声も聞えるかと、重太郎は
猶も耳を傾けていた。
客は
矢はり鉱山に関係の人らしい、
酔を帯びた調子は高かった。
「
何うだい、
到頭降って来たらしいぜ。
過日から催していたんだから、
滅多に止むまいよ。困ったもんだ。」
「
可いじゃありませんか。
何うせ寒い
中は休みでしょうから、当分はここの
家に
冬籠りを
為さいよ。」と、若い女の声。これはお葉ではなかった。
「だが、雪が降って
食物が無くなると、

が山から里へ出て来ると云うじゃアないか。
迂濶酔倒れている処を、
攫って行かれちゃア大変だからね。ははははは。」
「大丈夫、

は
既う
何処へ行って
了ってよ。」と、今度はお葉の声であった。
「ほんとうに
過日の
騒動は大変だったわねえ。」と、若い女が
相槌を打った。
「
妾あの
騒動じゃア
酷い目に逢って
了った。」と、お葉が
口惜そうに云った。
「お前も

に
攫われたんだと云うじゃアないか。」と、客は笑った。
「嘘よ。
妾はお杉
婆の
魔法遣いに電気を掛けられて、夢中で
ふらふら行ったんですわ。だから、何にも知りゃア
為ないのに、警察では
種々な詮議をして……。ほんとうに
忌になって
了った。角川の大旦那が殺されたと云うことも、
家へ帰ってから初めて聞いた位ですもの……。」
「でも、若旦那は運が
好かったのね。」と、若い女の声が聞えた。
「そうさ。
危くお杉
婆に殺される所を、若旦那が早く気が
注いたんで、お杉の方が
反対に穴の底へ
墜落ちて死んだんですとさ。何でも人の話で聞くと、お杉婆の身体は
粉微塵になって居ましたとさ。」
この説明はお葉の口から出た。これと聞くや重太郎は
俄に顔色を変えた。彼は
懐中から秘蔵の
洋刃を
把出して、例の「千客万来」の
行燈の火で
屹と
視た。
雪には少しく風が
交って来た。
燐寸を盗む為に里に出た重太郎は、今や柳屋の
門に立って、思いも寄らぬ秘密を聴き出したのであった。彼は理由を
能くも
糺さずに、
彼の怪しき坑夫
体の男を母の
仇と
一図に思い定めて、
其場を去らずに彼を
刺止めた。これで復讐の役目は
果したものと信じていた処が、今この人々の話を聞くと、それは自分の思い違いで、当の仇は角川市郎であった。自分に取っては恋の仇とも云うべき角川市郎であった。重太郎は驚き
且怒って、思わず拳を握った。
母の仇は必ず討つと、彼は
曩の日お杉に誓ったのである。
其仇の名は今やお葉の口から
洩れた。気の短い重太郎は
既う一刻も猶予はならぬ、仇の血を
衂るべき
洋刃を
把出して、彼は
俄に
身繕いした。奥では又もやお葉の笑い声が聞えた。が、恋しい人の
媚かしい声も、熱したる彼の耳には
既う入らなかった。復讐の一念に前後を
顧みぬ重太郎は雪を蹴立てて
手負猪のように駈け出した。
角川の家では
未だ眠らなかった。市郎の傷も
漸く
癒えて、
此頃は床の上に起き直られる
様になったので、看病の冬子は一旦わが家へ帰った。今日は忠一が昼から遊びに来ていたが、
此雪の為に今夜は泊る事となって、市郎の
枕辺で相変らず

の研究談に耽っていた。
「雪が降ると世間が
静だね。」
「殊にここらは山奥だもの。」と、市郎は笑って、「まあ、これから来年の春までは、蛇や熊のように
穴籠りをして居るんだよ。」
「穴籠りと云えば、

の奴等は
此雪に
何うしているだろう。」と、忠一は自ら問い、自ら答えて、「あんな奴等だから、雪の
融けるまで
何処かの穴にでも
潜っているだろうね。」
「そうだろう。
併しあの以来、

の噂も消えた
様だよ。まあ、
好塩梅だ。何しろ、金の
兜は掘出物だったよ。」
「あれが
真実の掘出物と云うのだろう。僕も県史や飛騨誌などを調査した結果、飛騨判官朝高という人物の伝記も大抵判った。

は
愈よ
元の蒙古に疑い無しだ。」
「そうかねえ。」
この時、庭の竹藪で
がさりと云う音が聞えた。忠一は話を
止めて耳を立てた。
「何、竹が折れたんだろう。」
「いや。」と、忠一は考えて、「竹の折れる程は
未だ
積るまい。

じゃアないか。」と、笑いながら
猶も耳を
澄していた。
音もせぬ雪は一時間の
中に
余ほど
積ったらしい。庭には雪を踏む
跫音が
がさがさと聞えて、雨戸の外へ何者か窺い寄るような
気息を感じた。二人は顔を見合わした。
「いよいよ

かな。」
「
真逆……。」と、市郎は笑った。
何者か雨戸に触れた。
南天に
積っている雪が
ばらばらと落ちた。忠一は
衝と
起って縁側の障子を明けると、外の物音は止んだ。忠一は続いて雨戸を明けた。一面に
降頻る
粉雪は、戸を明けるのを待って居た
様に、庭の方から
忽ち
颯と吹き込んで来た。
「や、
酷く降るな。」と、忠一は袖で顔を払った。それから更に庭を見渡したが、白い木立、白い竹藪、その
他には何にも見えなかった。
「じゃア、風か知ら。」
云う
中に、彼は雪に
印せる人の足跡を見付けた。
確に人の足である。
加之も入口の
方から庭伝いに縁先へ来て消えている。何者か忍び込んだに相違ない。忠一は
愈よ眼を輝かして
四辺を見渡したが、
雪明では
何うも
判然と解らぬ。
「
鳥渡、
燈火を貸し給え。」
彼は
洋燈を
持出して庭を
照すと、足跡は
確に残っているが、人の形は見えぬ。
猶も
燈火を
彼地此地へ向けている
中に、雪は渦巻いて
降込んで来た。袖で
掩う
間も無しに、
洋燈の火は
雪風に吹き消されて、
室の内は
俄に闇となった。
忠一は
引返して
燐寸を擦ろうとする時、
一個の小さい人間が闇に紛れて
ひらりと飛び込んで来た。重太郎は縁の下に潜んで内の様子を窺っていたのである。暗い中でも眼の鋭い彼は、
洋刃を
逆手に
振翳して
直驀地に市郎の寝床へ
跳り
蒐った。
何者か知らぬが、不意に庭から飛び込んで来たので、忠一は早くも
其の
背後から
組付いた。重太郎は
焦って
振放そうと試みたが、
此方も多少は柔道の心得があった。
「こん畜生、
温順く降参しろ。一体、貴様は何だ、何者だ。」
重太郎は物をも云わなかった。
羽翅締めの身を
悶きながら、
洋刃を逆にして
背後を払うと、
切先は忠一が右の
臂を
擦った。これで思わず手を
弛める隙を見て、彼は一足
踏込んで当の
仇の市郎に突いて
蒐ると、
対手は早くも
跳ね起きて、
有合う
衾を投げ掛けたので、小さい重太郎は頭から大きい衾を
被って倒れた。
「占めたッ。」
忠一は衾の上から
乗かかって押えた。が、何しろ暗いので始末が悪い。
「早く
燈火を持って来い。燈火を……燈火を……。」と、市郎が呼んだ。
雪は降っても
未だ宵である。入口の
爐を囲んでいた人々は、この声を聞いて
ばらばらと
起って来た。
或者は手に
洋燈を持った。
「何です、
何うしたんです。」と、皆口々に問うた。
「賊だ、賊だ。賊を
取押えたんだ。」と、忠一は叫んだ。
「何、賊だ。」と、人々は眼を皿にして衾の
周囲に
どやどやと
集った。重太郎は
土龍のように衾の下で
蠢くのであった。が、彼も
流石に考えた。
斯る始末となって
多勢に
取巻れては、
到底本意を遂げることは
覚束ない。一旦はここを逃げ去って、二度の復讐を計る方が無事である。と、
斯う考えたので、彼は
故意に小さくなって、
宛がら死せるように
鎮っていた。
対手が
温順いので、忠一も少しく油断した。
「
燈火を
此方へ出し給え。
兎にかく
何んな奴だか
面を見て
与るから……。」
云いつつ
徐に衾を
剥ると、
待構えたる重太郎は全身の力を
籠めて
曳やと
跳ね返したので、不意を
食った忠一は衾を掴んだまま仰向けに倒れた。重太郎は
洋刃を閃かして
矗然と
起った。と思うと、
忽ちに人の袖を
潜って、縁先から庭へ
ひらりと飛び降りた。
「あ、逃げた。」
人々は続いて追った。忠一も
歯噛をして追った。重太郎は狐のように雪を飛んで、早くも門外まで逃げ去った。
けれども、
飽まで不運なる彼は
此で又もや強敵に逢った。巡回中の塚田巡査が
恰もここへ
来合せて、
角燈の火を
其の鼻の先へ
突付けたのである。重太郎も
之には少しく
怯んだ。
背後からは忠一を先に、角川家の人々が追って来た。前には巡査が立っている。敵に前後を挟まれた重太郎は、
先ず当面の邪魔を
攘うに
如ずと思ったのであろう、刃物を
揮って巡査に突いて
蒐った。巡査は
体を
替して
其利腕を掴んだが、
降積む雪に靴を滑らせて、二人は
折重って倒れた。
忠一は駈け寄って
其襟髪を取ろうとしたが、
此の場合、身体の小さいと云うことが重太郎に取っては非常の利益であった。彼は早くも忠一の足の下を
潜って這い抜けた。
加之も二
間ばかりは四つ這いになって走って、又
ひらりと
起ち
上った。犬だか人だか判らぬ。
「賊だ、賊だ。」と、人々は口々に叫びながら追った。
この騒ぎを
聞付けて、町の家々でも雨戸を明けた。「賊だ、賊だ。」と叫ぶ声が
甲から
乙へと伝えられた。重太郎は哀れや
逃場を失った。それでも彼は
猶一方の
血路を求めて、
唯ある人家の屋根へ
攀登った。
茅葺、
板葺、
瓦葺の嫌いなく、隣から隣へと屋根を伝って、彼は
駅尽頭の方へ逃げて行った。
追手は
漸次に
人数を増して、前から
後から雪を丸めて投げた。
此の
雪礫を防ぐ手段として、重太郎も屋根から石を投げた。雪国の
習として、板屋根には沢山の石が載せてあるので、彼は
手当次第に取って投げた。石の
礫と雪の礫とが
上下から乱れて飛んだ。
而も敵は益々
殖えるばかりである。
何処も同じ
彌次馬が四方から
集って来て、警官や忠一等に声援を与えた。
其中に長い
梯子を
持出して来る者もあった。塚田巡査は靴を脱いで屋根に登った。二三人の消防夫も続いて登った。
斯う肉薄して来られては
堪らぬ。重太郎も
流石に
根負がして、遂に屋根から飛び降りた。
但し往来の方へ出るのを避けて、彼は裏手の
方へ飛んだ。
重太郎の飛び降りたのは、
美濃屋という
雑穀屋の裏口であった。
追手の
一組は早くも
駅尽頭の出口を
扼して、
他の一組は
直ちに美濃屋に向った。ここらの
町家は裏手に庭や
空地を
有っているのが
習であるから、巡査等は
同家に
踏込んで
先ず裏庭を
穿索した。が、縁の下にも庭の隅にも重太郎の姿は見えなかった。
見えないのも道理で、重太郎はここへ飛び降りると、
直に垣根を
乗越えて、隣から隣へと四五軒も逃げた。折から烈しく降る雪は、彼の小さい足跡を
直ちに
埋め消して、人には
鳥渡判らぬのであった。
「この雪の降るのに何を騒いでいるんだろうねえ。」
お葉は
独語を云いながら裏庭の雨戸を明けた。柳屋の客も女も、この騒ぎを
聞附けて、
何れも表へ見物に出たが、お葉は「何の、
詰らない。」と云う風で、
先刻から一人残っていたのである。
彼女は大分酔っていた。
雪風に熱い頬を吹かせながら、お葉は
快心地に
庭前を眺めていると、松の樹の下に何だか白い物の
蹲踞んでいるのを
不図見付けた。どうやら人のようである。
「誰だい。そこにいるのは……。」と、お葉は試みに声をかけた。
声の
主を早くも
其れと知ったのであろう、白い物は
勃々と起き
上って、縁の
前へ忍んで来た。障子を
洩るる
燈火の光に
透して
視ると、それは雪だらけの重太郎であった。
先刻からの
格闘で疲れたと見えて、
流石の彼も切なそうに肩で息をしていた。
「まあ、
重さん。」
お葉も少しく意外に驚いて、
霎時其顔を眺めていた。雪は
小歇なく降っていた。
「
燐寸を
呉れないか。」と、重太郎は低い声で云った。
「燐寸が
欲いの。そんなものは
幾許でも上げるけれども、一体どうして今頃こんな所へ来たのさ。」
「
仇を討ちに行ったんだ。」
「
何処へ……。」
「角川の
家へ……。」
お葉は
愈よ驚いて、縁から
半身乗出した。
「それで
何うしたの。仇を討ったの。」
重太郎は
口惜そうに
頭を
掉った。
「角川の息子を殺して
与ろうと思って行ったんだけれども、見付かったんで
無効だった。それから大勢に
追掛けられて、やッと
此処まで逃げて来たんだ。」
「じゃア、今の
騒はお前さんだね。だが、角川の若旦那を何故殺そうとしたの。」
「
阿母さんの仇だ。」
「どうして……。」
「
先刻、お前が
然う云ったのを聞いていた。
俺が表に立っていると、お前が人に話していたんだ。」
お葉は又驚いた。自分の口から
斯んな騒ぎが
出来したとは、今の今まで
些とも知らなかったのである。
「そりゃア間違いだよ。お前さんの
鑑違いだよ。
成ほど、
妾は
然う云ったけれども、若旦那が手を
下してお前の
阿母さんを殺したんじゃアない。お前の阿母さんが
背後から不意に突こうとするのを、若旦那が気が
注いて急に
避けたもんだから、阿母さんは自分で
踉蹌けて
墜落ちたんだよ。
究竟、お前の阿母さんの方が悪いんだよ。ね、考えて
御覧。」
考えて見ろと云われて、重太郎は素直に考えていた。
「一体を云えば、お前さん達の方が仇なんだよ。角川の大旦那を殺したのは誰だえ。お前の
阿母さんや

だろう。それだから、若旦那の方こそお前さん達を
怨んでも
可いのに、お前さんの方で
反対に若旦那を怨むなんて、早く云えば
外道の
逆恨で、理屈が
全然間違っているんだよ。ね、
然うだろう。
能く考えて御覧。」
再び考えろと云われて、重太郎は又考えた。いかに
野育ちの彼でも多少の理屈は
呑込めるのである。
加之も
是はお葉の説教である。復讐に
凝固った彼の
頭脳の氷も、愛の
温味で少しく
融け
初めて来たらしい。
「そうかなあ。」と、彼は
嘆息を
吐いた。
「そうさ。解ったろう。」
重太郎は黙って又考えていた。表でも裏でも大勢の
わやわや云う声が聞えた。
曩の日、椿の枝を折って別れてから、お葉は重太郎を憎んで居なかった。
怨むまじき人を怨んだのは、彼の
料見違いには相違ないが、人並ならぬ彼に
対って深く
之を責むるのは無理である。
兎にかく市郎の身に
恙なかったのは何よりの
幸福であったと、お葉は安堵の胸を
撫下すと同時に、我が
眼前に雪を浴びて、
狗児のように
跼まっている重太郎を哀れに思った。
「何しろ、
此方へお
出でよ。」
お葉は重太郎の手を取って、
縁に腰を掛けさせた。
「
可いよ。
追手の人が来たら隠して上げるから、安心してお
在。お前さん、寒かアないかい。」
お葉は座敷へ
復って、
徳利と
洋盃とを持って来た。
「お
燗が
熱過ぎているかも知れないが、一杯お飲みよ。
温暖になるから……。」
「こりゃア何だ。」
「お酒だよ。飲んで
御覧。
妾のお
酌ですよ。」
重太郎はお葉の酌で、
満々と
注がれたる洋盃を取った。が、生れてから
今日まで酒と云うものの味を知らぬ彼は、熱い酒を飲むに
堪えなかった。彼は一口飲んで
忽ち
噎せ返った。
「熱いの。」と、お葉は
微笑んだ。重太郎は顔を
皺めて
首肯いた。
お葉は更に
起って
縁先に出た。左の手には
懐紙を拡げて、右の
腕も
露出に松の
下枝を払うと、枝も
撓に
積った雪の塊は、綿を丸めたように
ほろほろと落ちて砕けた。
其の白い
一片を紙に受けて、「さあ、これで
温めて上げるよ。」
冷い雪はお葉の白い手から洋盃に移された。重太郎は無言で雪と酒とを
一所に飲んだ。が、口に馴れぬ酒は
矢はり
苦いと見えて、彼は
二口ばかり飲んで洋盃を置いた。
「
旨くないの。これを飲むと
温暖になるんだけれども……。」と、お葉は笑った、「じゃア、
妾が
助けて上げますよ。」
お葉は
其の洋盃を取って、一息に

と飲み干した。重太郎は眼を丸くして眺めていたが、やがて
懐中から椿の
折枝を
把出して見せた。いかに大切にしていても、
過日から水も
与らずに
我肌に着けていたのであるから、
蕾は
已に落ち
尽した、葉も已に枯れ尽して、枝も已に折れていた。恋しい人の形見と思えばこそ、花も葉もない
斯んな枯枝を、彼は幾多の不便を忍んで今まで身に添えていたのであろう。
「お前さんも可愛い人ねえ。」
お葉の眼には涙が見えたが、
衝と
起って再び座敷へ
復った。
床の
花瓶には
彼の椿が生けてあって、
手入の
好い
所為でもあろう、紅い花は已に二輪ほど大きく
綻びていた。
彼女は
其枝を持って出た。
「これ、
御覧。お前さんに貰った花は、
妾の方でも大事にして、
此の通りに花を咲かしてあるよ。」
重太郎は手に取って、紅い花をつくづく眺めた。彼は自分の
魂魄が
此花に宿って、お葉の温かき
情を受けているようにも思った。
「どうだい、よく咲いたろう。」
「むむ。」と、重太郎も
笑ましげに答えて、
猶も飽かずに
其花を眺めていたが、「ねえ、
此花を一つ
呉れないか。」
「ああ、
欲ければ上げますよ。
丁度二輪咲いてるから、お前さんと
妾とで
一個ずつ分けようじゃアないか。」
二輪の花を折って縁側に
列べると、重太郎は
其の
一個を取った。
「紙に包んで上げよう。」
お葉は白い紙に紅い花を軽く包んで渡すと、重太郎は菓子を貰った
小児のように、
莞爾しながら
懐中に収めた。
「お前さん、これから
何うするの。」
「宝物を
持出して
何処かへ行くんだ。」
「宝物ッて、金の
兜じゃア無いの。」
「むむ、何でも
其んなものだ。」
「そりゃア
既う駄目。警察の方で
引揚げて
了ったと云うことよ。」
「そうかい。」
重太郎も驚いて声を揚げた。
其声が
度外れに高いので、お葉は慌てて
四辺を
顧った。
母に別れ、
棲家を失った今の重太郎に取って、唯一の
依頼というのは
彼の
尊き宝であった。それを手に入れたいばかりで、彼は厳重なる警官の眼を
潜りつつ、
今日まで
此の
辺を
漂泊っていたのである。
而も
其の
希望の光は今や消えた。
「
俺ア
矢ッ
張り乞食をするより
他は無いんだなあ。」と、彼は泣かぬばかりに嘆息した。実際、彼は泣くにも泣かれぬ絶望の淵に沈んだのである。
「ほんとうに可哀そうだねえ。」と、お葉も共に嘆息した。
親戚も無し、
職業も無し、金も無い
此の人が、これから他国を
彷徨いて、末は
何うなることであろう。
何時までも乞食をしているより
他はあるまい。いや、
其の乞食すらも満足に
能るか
何うだか解ったものでは無い。
斯うなると、人間よりも犬の方が
寧そ
優である。お葉は犬にも劣った重太郎の不幸に泣いた。
が、二人は
何時までも泣いている場合でなかった。
追手は美濃屋の庭を探し
尽して、更に両隣を
猟り始めた。人の声が
漸次に
近いた。警官の
角燈が雪に映じて閃いた。
「あ、
此方へ来たよ。」
お葉が眼を
拭いて
起ち
上ると、重太郎も無言で
起った。雪を踏む大勢の
跫音が隣に
近いて来た。
危険が
漸く迫ると知って、重太郎の眼は
俄に
嶮しくなった。彼は例の野性を再び発揮したのであろう、
洋刃を
逆手に持って庭の
真中に進み出た。
「
其方へ行っちゃア危ない。
此方から
窃と出る方が
可い。」
お葉は素足で雪を踏んで、庭口の裏木戸を
音せぬように明けると、重太郎は何にも云わずに走って出た。何を思い出したか、お葉は急に「あ、
鳥渡……。」と呼び止めたが、重太郎は見返りもせずに駈けて行った。
たとい乞食をするにしても、
土方をするにしても、
之から
他土地へ行こうと云うには、多少の
路銀が無くてはならぬ。
咄嗟の
間にお葉は
之を思い出したのであった。
彼女は慌てて又もや座敷へ
引返して、
先ず
有合う
燐寸を
我袂に入れた。更に見廻すと、
床の
間の
傍には客の
紙入が遺してあって、人はまだ誰も帰って来なかった。お葉は
其紙入から札と銀貨を
好加減に掴み出して、数えもせずに紙に
包んだ。
之を
懐中に
押込んで、
彼女も裏木戸から駈け出した。
この時、塚田巡査を先に四五人の
追手が裏口へ廻って来た。素足で雪の中を駈けて行くお葉の姿を不思議と見たのであろう、巡査は
角燈を
翳して呼び止めたが、お葉は聞かぬ
振をして
駈抜けて
了った。
「変な奴ですな。」と、忠一が云った。
「あれは
此の
家のお葉という女ですが……。」と、云いながら巡査も考えた。
不徳要領の為に一旦は釈放したものの、お葉は

一件に
就て何等かの関係ありげにも見ゆる女である。それが今この場合に雪中を
跣足で
駈歩くのは、何か仔細があるらしくも思われるので、巡査も職掌柄、
直に
其跡を追って行った。
夜の雪はますます烈しくなって来た。風も
亦吹き
募って来た。天から降る雪と地に敷く雪とが一つになって、
真白な
大浪小波が到る処に渦を巻いて狂った。
其の凄じい
吹雪の中を、お葉は傘も
挿さずに夢中で駈けた。
「
重さん……。重太郎さん……。」
声は吹雪に
隔てられて聞えないので、重太郎の小さい姿は十
間ばかりの先に見えつ隠れつしながらも、お葉は容易に追い止めることが
能なかった。
加之も風の吹き廻しで、声は却って
後の方へ響くので、巡査は
彼女が重太郎を呼ぶ声を聞いた。忠一の耳にもお葉の声が聞えた。重太郎の名を聞いては
愈よ
捨置かれぬ、巡査も人々も続いて
其跡を追った。が、何分にも
眼口を
撲つ雪が烈しいので、人々は火事場の
烟に
噎せたように、殆ど東西の方角が付かなくなって来た。
この中でも、お葉は例の本性を発揮して、
飽までも強情に吹雪を
衝いて進んだ。
駅を出ると風も雪も
愈よ強くなって来た。山国の冬に馴れたる
彼女は、泳ぐように雪を掻いて歩んだ。が、心は
矢竹に

っても
彼女は
矢はり女である。
村境まで来る
中に、遂に重太郎の姿を見失ったのみか、我も
大浪のような
雪風に吹き
遣られて、
唯ある
茅葺屋根の軒下に
蹉き倒れた。雪は
彼女の上に容赦なく
降積んで、さながら
越路の昔話に聞く
雪女郎のような
体になった。
この
茅葺は隣に遠い一軒家であった。
加之も
空屋と見えて、内は真の闇、
鎮り返って物の
音も聞えなかった。
お葉は雪を払いつつ又起き
上った。酒の
酔も全く醒めて
了った。
彼女も
流石に
狂人ではない。
此の
吹雪の中を
的途も無しに駈け歩いたとて、重太郎の行方は知れそうも無いのに、
何時まで
彷徨いているのも馬鹿馬鹿しいと思った。
「もう諦めて帰ろうか。」
それにしても
生憎に雪が酷い。
兎も
角も一時を
凌ぐ為に、
彼女は
此の
空屋の戸を明けようとすると、
半朽ちたる雨戸は
折柄の風に煽られて
礑と倒れた。お葉は転げるように内へ入った。
「おお、寒い。」と、
彼女は肩を
縮めつつ
四辺を見廻すと、暗い
家の中には何物も無かった。更に
雪明りで
透して
視ると、土間の隅には二三枚の
荒莚が積み重ねてあったので、お葉は
之を
持出して
先ず
框の上に敷いた。腰を
卸して
扨ほッと息を
吐くと、
彼女は今更のように骨に
沁む
寒気を感じた。
何か焚火でもする材料は無いかと、お葉は急に我が
袂を探ると、重太郎に
与ろうと思って
折角持って来た
燐寸は、
何時の間にか
振落して
了った。仕方がないと
舌打しながら、倒れた戸の
間から表を覗いて見ると、風も雪もますます
暴れて来た。こんな所に
何時までも
躊躇していたら、
凍えて死んで
了うかも知れぬ。夜の更けぬ
間に
些とも早く帰った方が
怜悧だと、お葉は
鬢の雪を払いつつ、
弛んだ帯を
締直して
起った。
この時、
がさがさと雪を踏む
跫音が聞えて、何者か
此の
門口へ走り寄ったらしい。
若や重太郎か、
但しは
追手の者かと、お葉は眼を据えて
透し
視る
間に、人か猿か判らぬような者が雪を蹴って
ちょこちょこと飛び込んで来た。
加之も
其れは
二人であった。と思うと、
後から又一人入って来た。後の一人は色の白い女を抱えているらしい。
「おや、何だろう。」
お葉も不思議に思った。暗い隅の方へ身を
退いて、
霎時其の様子を窺っていると、新しく入って来た三人は一種奇怪な声を出してキキと笑った。
其声は
確に
記憶がある。
曩の日
彼の虎ヶ窟で聞いた
山
の叫び声であった。

は
此の雪の夜に、
何処からか若い女を
攫って来たのであろう。お葉は
愈よ驚き
怪んで、
猶も
窃かに
其の
成行を窺っていた。
家の中は
何分にも暗いので、お葉は女の顔を
能く見ることが
能なかったが、
若し
其顔を知ったらば
彼女は更に驚いたに相違ない。今や

に
攫われて来た若い女は、
彼の吉岡の冬子であった。

は
何故に冬子を奪い出して来たのであろう。彼等の料見は到底普通の人間の想像し
得べき
限でないが、
兎にかく
或罪悪を犯すべき
犠牲として、若い
処女を担ぎ出して来たものと察せられた。冬子は口に桃色の
手巾を
捻込まれているので、泣くにも叫ぶにも声を立てられなかった。
我が恋の
仇とも云うべき冬子が
斯る危難に陥っていると知ったら、お葉は
此際何んな処置を取ったであろう。が、表より
洩るる
朧の
雪明では、お葉に
其れと
判然解らなかった。
彼女は単に

の
餌食となるべき若い女の不幸を
憫れんで、何とかして
之を
拯って
与りたいと思ったのである。
而も
対手は

三人で、
此方は女一人、
迂濶加勢に飛び出したら自分も
何んな酷い目に遭うかも知れぬ。お葉は息を殺して
猶も窺っていると、彼等は
頻にキキと笑いながら冬子を
彼の
荒莚の上に投げ出した。
冬子も一生懸命である。
裳を乱して一旦は倒れたが又
忽ち
跳ね起きて、
脱兎の如くに表へ逃げ出そうとするのを、

は飛び
蒐って又
引据えた。お葉も
既う見ては
居られぬ。さりとて何等の武器をも持たぬ
彼女は、
咄嗟の
間に思案を定めて、頭に
挿している銀の
簪を抜き取った。
目前の獲物に気を奪われていた

共は、暗い中から突然
跳り出たお葉の姿に驚く
間もなく、
彼女が
逆手に持ったる簪の
尖端は、冬子に最も近き
一人の左の眼に突き立った。不意と云い、急所と云い、彼は猿のような悲鳴を揚げて倒れた。
「

の
畜生め。何を
為やアがるんだ。早く
何処へ行って
了え。」と、お葉は
勝誇って叫んだ。思いも寄らぬ
救援の手を得た冬子は、
鞠のように転がってお葉の
背後に隠れた。
けれども、敵はまだ
二人を
剰している。
加之も
一人の味方を
傷けられた彼等は、
瞋って
哮ってお葉に突進して来た。
洋刃と
小刀は
彼女の
眼前に閃いた。冬子も恩人の危険を見ては
居られぬ、這いながら
一人の足に絡み付くと、

は鉄のような爪先で強く
蹴放したので、
彼女は
脾腹を
傷めたのであろう、一旦は気を失って倒れた。

は左右からお葉に迫った。
「
畜生……畜生……。」と、お葉は
罵りながら逃げ廻った。
追手の人々も
同く
村境まで走って来たが、
折柄の烈しい
吹雪に
隔てられて、
互に離れ離れになって
了った。
其中でも忠一は勇気を
鼓して
直驀地に駈けた。が、
咫尺も弁ぜざる
冥濛の雪には彼も少しく
辟易して、
逃るとも無しに
彼の
空屋の
軒前へ転げ込んだ。
雪明と一口に云うものの、白い雪も
斯う一面に烈しく降って来ては雨と変らぬまでに天地は暗いのである。
況て
鎖されたる
家の内は殆ど真の闇であったが、彼は
危くも吹き倒されんとする
雪風を
凌ぐ為に、
兎も
角も一歩踏み込もうとする途端に、内には怪しい
唸声が
断続に聞えた。
彼は
俄に
立止って声する
方を
透し
視たが、
生憎に暗いので正体は判らぬ。更に耳を
澄して窺うと、声は
一人でない、
尠くも
二人以上の人が倒れて
苦んでいるらしい。
扨はここにも何か
椿事が
起っているに相違ないと、忠一も驚いて身構えしたが、
燐寸を持たぬ彼は
暗を
照すべき
便宜もないので、
抜足しながら
徐々と探り寄ると、彼は
忽ち
或物に
蹉いた。
跪いて探って見ると、
之は女らしい、長い髪を乱して土に
曳いて、
其頬から
喉の
辺には
生温かい血が流れていた。
忠一も一旦は
悸然としたが、
猶其の様子を見届ける為に、倒れたる女を抱え
起して、比較的薄明るい
門口へ連れ出して見ると、
正しく女には相違ないが、もう息は絶えていた。
「これは一体何者だろう。」
彼は
猶能く
其顔を見届けようと、
朧の
雪明を
便宜に
凝と見詰めている時、
忽ち我が
背後に
方って物の
気息を聴いたので、忠一は驚いて
屹と
顧ると、物の
音は又
止んだ。
雪風はいよいよ吹き
募って、
此の一軒家は
大地震のように
めりめりと
揺いだ。
内には
此女の
他にも
未だ何者か倒れて居る筈であるから、忠一は再び探りながら入った。が、不意に
何んな敵が襲って来ぬとも限らぬので、彼は大いに用心して、土間に身を伏して這いながら進んだ。
微な
唸声が左の隅に聞えたので、彼は
其方へ探って行くと、一枚の
荒莚が手に触れた。莚を
跳退けて進もうとすると、何者か
其莚の
端を固く掴んでいるらしい。更に探って見ると、
果して
此処にも人らしい者が拳を握って倒れていた。
と思う途端に、又もや
背後に物音が聞えた。暗い中から猿のような者が刃物を閃かして来て、忠一の
頸を刺そうとするのであった。
はッと驚くと同時に、彼は幸いに這っていたので、
矢庭に敵の片足を取って引いて、倒れる所を
乗掛って
先ず
其の胸の上に片膝突いた。
「貴様は何者だッ。」
敵は何とも答えずに、力の限り
跳返そうと
悶いたが、柔道を心得たる忠一は急所を押えて放さぬので、敵は倒れながらに刃物を
打振って、下から忠一の
喉を突こうと企てた。が、右の腕も
緊と掴まれたので自由が
利かぬ。敵は獣のような奇怪な声を絞って、
頻に
唸った。
「さあ、どうだ、降参しろ。」
忠一は左に敵の腕を押えて、右の手で敵の
喉輪を責めた。敵は苦しそうに唸って
悶いていたが、もう
叶わぬと覚悟したのであろう、一生懸命に
跳返すと同時に、右の手に握ったる刃物を左に
持換えて、我と我が胸を力任せに
抉ると、
鮮血は
颯と
迸って、上なる忠一の
半面を
朱に染めた。
腥さい血汐に
眼鼻を
撲たれて、思わず押えた手を
弛めると、敵の
亡骸は
がっくりと倒れた。
目前の敵を
殪し得た忠一は、
先ず
ほッと一息
吐くと共に、
俄に
渇を覚えたので、顔に浴びたる血の
飛沫を
拭いもあえず、軒の外へ
ひらりと駈け出して、
吹溜りの雪を手一杯に
掬って飲んだ。風は相変らず
轟々と
吼えて、灰とも
烟とも
譬えようの無い
粉雪が、あなたの山の方から
縦横上下に乱れて吹き寄せた。
その
雪烟の中に迷うが如き火の光が
一点、見えつ隠れつ近寄って来たので、忠一は思わず声をあげて呼んだ。
「おうい、おうい。」
火の光は
漸次に
近いた。それは全身に雪を浴びたる塚田巡査の
角燈であった。
「やあ。」
「やあ。」
双方が顔を
見合せて叫んだ。
「あなたはお早い。
既うここへ来ていたのですか。」と、巡査は雪を払いながら軒下に立った。
「まあ、早く
燈火を見せて下さい。ここに大勢の人間が倒れているらしいんです。」
巡査は角燈を
翳して内へ入った。
今や
角燈の火に
照し
出されたる、
此の暗い
空屋の内の光景は
惨憺、実に眼も当てられぬものであった。
先ず入口に黒髪を
振乱して
横わっているのは
彼のお葉で、
彼女は胸や肩や
喉に
数ヶ所の重傷を負っていた。続いて眼に触れたのは醜怪なる

三人の屍体で、
一人は眼を
貫かれた上に更に胸を貫かれ、一人は脳天を深く
刺れて、
荒莚の片端を
握んだまま
仰反っていた。最後の一人は左の手に
小刀を持って、我と我が胸に突き立てていた。
以上四人の浅ましさ屍体の
他に、
朱に
染みたる重太郎も
亦倒れていたのは意外であった。
其傍らには、彼の運命を象徴するような紅い椿の花が、地に落ちて砕けていた。
「もう
是だけかな。」
巡査は更に
四辺を見廻すと、
鮮血の
臭の
漲る家の隅に、
猶一人の若い女が倒れていた。これが最も忠一を驚かしたのであったが、冬子は単に気を失った
丈のことで、身には別に負傷の痕も無かったので、
手当の
後に息を
吹返した。
飛騨の山国の
風雪の
夕、この一軒家に於て
稀有の悲劇を演じたる
俳優の
中で、
僅に
生残っているのは幸運の冬子
一人に過ぎぬ。
随って
委しい事情は
何人も知るに
由ない。単に冬子の
口供を
基礎として、
其余は
好加減の想像を
附加えるだけの事である。
で、
諸人の説は
先ず
斯ういうことに一致した。虎ヶ窟に棲める

の
眷族は、
其数果して幾人であるか判らぬが、
曩の日
彼の市郎の為に
其の女性の
一人を
亡ったのは事実である。
其後彼等は警官に
逐われて山深く逃げ
籠ったが、食物は
兎もあれ、女性の
缺乏ということが彼等の
間に一種の不足を感じたらしい。そこで彼等三人は
此の大雪に乗じて里に
降り、
何処からか女を
攫って行こうと試みた。
之に
魅まれたのが
彼の冬子で、彼等は吉岡家へ忍び寄って窺う
中に、便所へ
通った冬子は手を洗うべく雨戸を明けたので、彼等は
矢庭に飛び
蒐って
彼女を捉えた。
猶其袂から
手巾を
取出して、声立てさせじと口に
喰ませた。
斯くして冬子は、
彼の
空屋まで
手取り
足取りに担ぎ去られたのであった。
空屋には偶然にも
彼のお葉が
居合せて、
彼女は冬子を
拯わんとして

と闘った。そこまでの事は冬子も知っているが、気を失って倒れた
後の出来事は
些とも判らぬ。又
何うして
此処へ重太郎が
引返して来たか判らぬ。
恐くは烈しい吹雪に
途を失って、再びここまで迷って来ると、
恰もお葉が

に殺されんとする所に会ったので、彼は又お葉を
拯わんとして闘った。
其結果、お葉も討たれ、重太郎も討たれた。
二人も枕を
駢べて死んだ。
究竟双方が
相撃となった処へ、忠一が
後から又
来合せて、残る
一人の

も自殺を遂げるような事になったのであろう。
但し
是は一種の想像に過ぎぬ。この以外にも彼等の
間に
何んな秘密の糸が
繋がれているかも知れぬ。普通の世間の出来事にも、人間の浅い
智慧では想像や判断の付かぬことは
幾許も有る。
況て

やお杉や重太郎等の関係に至っては、
尋常一様の理屈を以て推断することは
能まい。
これで何百年来この山国を
閙した

の
眷族も、
果して全滅したであろうか。
或は
猶其余類が山奥に
潜んでいるであろうか。それは
何人も
返答に
苦む所であるが、
兎にかく
此の物語はお葉と重太郎の最期を一段落として、読者と
別離を告げねばならぬ。
大雪は
其後幾日も
降続いて、町も村も皆
埋められた。悲劇の舞台たりし
彼の一軒家は、三日目の夕暮に遂に潰されて
了った。
* * *
* * *
市郎と冬子の結婚は、安行死去の為に来年まで延期されたので、忠一は
一先ず東京へ帰った。それから半月ほど経って
後、彼は市郎の
許へ長い手紙を
遣した。

に対する調査の報告書である。地方の各新聞は市郎に懇願して、
何れも
其記事を紙上に連載した。
原文は
頗る長いものであるが、大略
先ず
斯ういう事であった。
* * *
* * *
今から六百余年
前の
弘安年中に、
元の
蒙古の
大軍が我が九州に襲って来た。北條時宗
邀え撃って大いに
之を
敗ったことは、
凡そ歴史を知るほどの人は
所謂「
元寇の
役」として、
誰も
諳じている所である。
この
大戦に参加したのは九州の諸大名ばかりでない。鎌倉からも出征した、東海
東山中国からも出征した。
其当時、
飛騨国の
地頭職は藤原姓を
冒す
飛騨判官朝高という武将で、彼も蒙古退治の
注進状に署名したる
一人であった。
朝高は異国の敵を
撃破って帰った。彼は
凱陣の
家土産として百人の捕虜を
牽いて来た。飛騨の
国人は驚異の眼を以て、風俗言語の全く
異れる蒙古の
兵者を迎えた。
彼が捕虜を
牽いて来たのは、単に
其功名を誇るが為では無かった。九州の
戦闘に於て、最後の大勝利は幸いに我に
帰したけれども、
初度の
戦闘は
屡々我に不利益であった。敵の

と我の弓矢とは、
其威力に於て
著るしい相違があった。朝高は早くも
之を
看取して、我も彼と等しき巨砲を作ろうと思い立ったのである。が、
其製法を知る者は日本に無いので、彼は居城
高山を
距る
一里の処へ
新に捕虜収容所を設けて、ここに百人の蒙古兵を養い、彼等に命じて異国の

を作らせようと企てた。
斯時代に於て
斯着眼は
頗る聡明であると云わねばならぬ。が、彼の
企画は不幸にも失敗に終った。主将の意思は必ずしも
然うでは無かったのであろうが、敵を愛することを知らぬ部下の者共は、
此の異国の捕虜に対して
甚だしき侮辱と虐待を加えたので、彼等は
甘じて仕事に着かなかった。監督の武士と捕虜との間に
日々衝突が絶えなかった。朝高も
終局には
疳癪を
起して、彼等を
悉く斬れと命じた。
これが捕虜の
間にも
洩れたと見えて、百人の蒙古兵は風雨の夜に乗じて逃走を企てた。番兵が
追掛けて
其幾人を捕え、
其幾人を殺したが、
余の七八十人は山を越えて
何処へか姿を隠して
了った。飛騨は名に負う山国であるから、山又山の奥深く逃げ
籠った以上は、容易に
狩出すことも
能ないので、
余儀なく
其儘に
捨置いた。
斯くて一年ばかりも過ぎると、
或夜何者か城内へ忍び入って、朝高が
家重代の
宝物たる金の
兜を盗み去ったのである。無論、
其詮議は極めて厳重なものであったが、
其犯人は遂に見当らなかった。
或は
曩に逃走したる蒙古兵が、一種の復讐手段として
斯る悪事を働いたのではあるまいかと云う噂もあったが、
確な証拠も無くて終った。兜の行方は遂に不明であった。
朝高の家は三代で
亡びた。
其後幾多の変遷を経て、豊臣氏時代から徳川氏初年までは
金森氏ここを領していたが、金森氏が罪を
獲てから更に徳川幕府の
直轄となって、
所謂代官支配地として明治まで
引続いて来たのである。で、
此土地の人が

の名を唱え初めたのは、
何時の頃からか判然せぬが、古い昔には
其んな噂も聞かず、そんな記録も残っていないのを見ると、
恐く前に記した蒙古一件以後の事ではあるまいか。
他に新しい発見がない限りは、
先ず
彼の

を以て蒙古人の子孫と見るのが正当の解釈であろう。
彼等は収容所を逃れ
出でて深山の奥に隠れた。で、
彼のピジョン講師の説明した如く、人の目を避けて穴の中に世を送っていたのであろう。
最初は遠い山奥に棲んでいたので、
他の人間社会と接触する機会も
尠かったが、生活上の都合で
漸次に山奥から
降って来て、比較的に里へ近い虎ヶ窟に移り棲むようになったのではあるまいか。里人が
此の窟に対して、日本に無い虎という獣の名を
冠せたのも、何やら蒙古に関係があるらしくも思われる。里へ
近くに
随って、彼等は折々に人間に出逢うことが有る。又必要に迫られて、人家の食物を奪い、婦女
小児を奪うことが有る。人が

の名を口にするに至ったのは多分
此以後の事であろう。元来野蛮の蒙古人が山奥に棲むこと
多年、
其のますます蛮化したのは
怪むに足らぬ。
彼等の種族が
漸次に減って行くのも
亦当然の結果である。
而も
猶連綿として六百余年の

生活を継続し
来ったのは、彼等が折々に里を荒して、婦女を奪い
小児を
攫って行くが為に、辛くも子孫断絶を
免れ得たものと察せられる。
唯、いかに彼等が蛮化したとは云え、
僅に五六百年の深山生活に
因て、猿か人か判らぬまでに
甚しく退化するや否やと云うことは、少しく疑問に属するのであるが、
先ず右の如くに解釈するより
他はあるまい。
窟の内に彫ってあった
文字は
正しく蒙古の字で、自分等は
元の
民であるが捕われて
此国に
来った。日本の大将が残酷に
取扱うので、同盟して
此の山中に隠れたと云う意味を記し、最後に数十人の姓名が連署してあった。金の兜も
果して彼等が盗み出したのであった。
之に
因れば、蒙古人が
此の窟に棲んでいたと云うことは
已に疑いもなき事実である。が、蒙古人即ち

であるか。蒙古人は
疾くに
死絶えて、更に
他の

なる者が
代って棲むようになったのか。そこには
未だ幾分の疑いが無いでもない。
併し岩穴の中で発見された多数の骨が、
最初は普通人以上の骨格を有し、
其れが
漸次に退化して
小児のようになっているのを見ると、蒙古人が五六百年の
間に
著るしく退化して、遂に

となったとも云い
得べき相当の根拠が有る。
是等の理由に
因て、吉岡忠一は

を以て蒙古人の子孫と認めた。
此以上の考證は、
他の識者を待つのである。