懐しまれるのは去年の六月信州北穂の天狗の湯へ旅をしたときの思い出である。
立夏過ぎ一日二日、一行は松篁はじめ数人、私は足が弱いので山腹から馬の背をかりることにした。馬の背の片側にお炬燵のやぐらを結えつけ座蒲団を敷いて私がはいり、一方には重さの調節をとるようにいろいろの荷物をつけている、自分ながら一寸ほほえましい古雅な図である。馬子もちょっと風変りな男であった。馬はゆっくり落葉松や白樺の林の間をぬって進む。思いなしかわざと意地悪く道の端を歩くかのように、足どりにつれてグラリと揺られる私の身体は、何時も熊笹の生い上った深い山の傾斜の上につき出されているのでヒヤヒヤさせられた。ここかしこに山桜や山吹が咲きこぼれ、鶯の声や啄木鳥のくちばしの音が澄んできこえる。馬子は時々思いついたように馬を追いたてながらのんびりした調子で話しかけている。非常に絵が好きらしく「東京からはよく絵かきさんが来る」とか「京都の方からもいろんな人が来るし、宇田
(昭和十年)