山の
※ [#「虫+羸」、166-1]の巣より出で入 道の上 立ちどまりつつる ひそかなりけり

前に来たのは、ことしの五月廿日、
二三个処、道へ雪のおし出して居る所はあるが、大体は谷へ落してしまったから、大丈夫這入って来られるだろうとの返事があった。それでやっと、すこっぷを積みこんで、上にがっしりした男が助手に乗りこんで、山へ入り込んだ事であった。でも無事に、
居ついて十日にもなると、湯に入る度数もきまって来て、日に四度が、やっとと言うことになった。来た当座は、起きれば湯、飯がすんで湯、読み疲れたと言っては湯。こんな風にして、寝しなに這入る湯まで、日に幾度這入ったか知れない。冷える湯のせいで、あまり湯疲れを感じなかったからだろう。
一時が廻ると、西側の縁から日がさしこんで来る。山の日は暑いけれど、ほとりを伴うて居ないから、じっとして居れば、居られない程ではない。が、三時半にかっきりと、前山の外輪にそれが隠れて、直射は来なくなる。それまではきっと出あるく事にして居た。
古くから聞えて居る
白布の高湯は、少し前がつまって居るが、其でも、両方から出た端山間に、遠い朝日嶽など言う山の見える日が多い。見渡しの纏って居て、懐しい感じのするのは、何と言っても、信夫の高湯だろう。だが、米沢・新庄・鶴岡などの駅々で見た、宣伝びらでは、今年は信夫の湯に力を入れて評判を立てたようだから、定めてあの山の上の数軒しかない古い湯宿が、立てこんだことだろう。作事小屋・物置部屋などに、頼んで泊めて貰った客などもあるであろうと思う。
最上の高湯は、何にしても、人がこみ過ぎる。出羽奥州の人たちは、湯を娯しむと言うより、年中行事として、尠くとも一週間なり、半月なり、温泉場で暮すと言う風を守っている。そうした村々から、女房たちや若い衆が、大きな荷物を背負って、山を越えて来る。最上の湯は、其ばかりか、温泉その物が、利きそうな気をさせる。其ほど峻烈に膚に沁む。東北には
昼貌の花 今日ひと日萎れねば、山の雨気 に 汗かきて居り
最上の湯でのものだったと思うが、歌の方が却て、少し鄙びた感じを出し過ぎて居るようで、よくない。ひょっとすると、蔵王の山を一つ隔てた向う側の青根温泉で出来たものかも知れない。創作動機など言うものは、瞬間に通り過ぎるもので、こんな部分までも、記憶に残らないことがあるものである。
蔵王山の行者が、峰の
其処から西へ向けて、米沢海道を自動車で来ても、又道に沿うて居る奥羽本線の汽車からでも、ほんの一丁場と言ったところに、赤湯の湯場がある。青田の中で、ちょっとした岩山の裾によった処である。上ノ山をもう一層鄙びた風にした様なところで、湯村を離れて海道を歩いて見ると、飛びとびの村家の姿が、風情深く見られた。其処から又一丁場西へ来て、米沢である。白布との間が、自動車でせいぜい五十分しかかからないので、ついつい山をおりて、米沢へ出ることが多かった。
暑き日のたまさか 山をおり来たり、町場に入れば 疲れつつあり
百貨店のない都会は、何となく落ちついている。購買力を誇張しないだけでも、町びとの暮しが何となくしっとりした素朴を保って行くことが出来るのであろう。
半月ほどにしかならないが、やっと前に開通したばかりの鉄道線が、越後へ通って居る。米阪線と言うので、名は何だか
鷹の巣と言う山の下にある温泉へ行こうと思って行ったのである。去年の秋の末、鉄道が通ったばかりの小国の村は、其でも終著駅らしい様子を、駅前の運送店や、飲食店に見せて居た。だが此も、もうここ半月位で、多くの客の素通りして行く静かな山間の宿場に還るのだと思うと、内容は違うけれど、田山さんの作物にあった「再び草の野に」と言う表題が、胸を掠めた。小綺麗な料理屋の二階から川を見おろす座敷に通って、鮎を焼かせようとしたが、まだ解禁にならないと言う。多くの平野の川々では、やがて復禁りょうの時期に入ろうとして居るのに、山の中ではまだ鮎が小さ過ぎると言って居る。旅行した先々で鮎を頼んで見ると、十月末になって、さび尽してもまだ禁猟にならない処もあり、禁猟など言うことが、鮎にあることすら知らぬ地方もある。中食の払いをして見ると、普通こう言う町でとる値段の倍以上もつけておこしたようである。此も後半月、汽車の通過するようになる時までだろうと思うと、おかしくなって来た。
秋の末になると閉めて帰り、春深く雪どけの頃、宿主は戻って来ると言った。信州の佐久の奥からやって来るのだと言う。そう言えば、此辺の景色が、千曲川の上流と何処か似て感ぜられる。景色のとり入れ方はむやみによいが、川の砂や石、第一、岩壁の色が、如何にも美しくない。其が味を薄くしている。ここで一晩とまった。村上あたりの中等学校の生徒だろう。五六人来て、宿の庭の岩陰に、てんとを張って居る。数年前から旅行すると、よくこうしたきゃんぷ連中に出あう。
荒川と言う其流れについて下って、高瀬とか言った宿屋数軒、外湯一棟と言う処も見て、湯沢温泉へ出た。そこで一軒、山の流れの行きどまりになったところの両側に跨って建って居る家に休んで、
下関の村は、
ことしはどう言う訣か、何処へ行って尋ねても、山は岩魚のとれない処が多かった。やまめや、かじかすらあまり喰わしてくれる処がなかった。白布も高湯まで来ると、川が細って居るが、それでも岩魚は、始中終とれて来た。尤、稀に大きいのがついて来るのを、「此川のですか」と問うと、きっと
時鳥は、其も時々だが、宿の前の右に山を負うた杉林の中で極って鳴く。忍び音と言うやつで、非常に声が小く、節が細かく聞きなされる。鶯ばかり居て、其外は、何の鳥も鳴かぬような山である。其ももう今になると、谷渡りなどは、あまり高音を揚げることが出来なくなっている様だ。山の
耳近く鳴く鶯は 篶のなか 青き躑躅 の 時に立ち居る
おほらかに 人のことばの思ほえて、山をあるくに いきどほりなし
おほらかに 人のことばの思ほえて、山をあるくに いきどほりなし
地竹に縁があるのもおかしいが、やっぱり今年は、度々これを喰べた。七月の五日、鶴岡の町であった先師三矢重松先生の歌碑の除幕式に出掛けて、其後ずっと出羽の山々を歩いて居た訣だが、あの次の六日の日は、羽黒山頂上の斎院で泊った。友人なる山の宮司が肝をいってくれて、
夕深く 山の自動車は 山鳥の道に遊ぶを 轢き殺さむとす
旅に出る前、私は斎藤茂吉さんに逢った。出羽の温泉の優れた処を教えて下さいと言ったところ、白布の外は
をみなごの立ち居するどし。山の子に よきこと言ひて 人は聞かさず
八月の中頃になって、ちっとでも東京に近寄って居ようと言う気が動いたのであろう。つい栃木県まで引き還して来た。そうして今は、奥那須の大丸塚に居る。傾斜の激しい長い沢が、高い処から落して来て、ここで急に緩くなって居る。そうした、両側の巌の間から湯が流れて、湯川になっている。旧暦の七夕の星空もここで見た。八月の九日月も、川湯に浸って眺めた。やがて、此月が円かになるまでは、ここに居ようと思って居る。
東京に帰らむと思ふ ひたごころ。山萩原に地伝ふ風音