洋書では滅多にないことだが、日本のこの頃の本はたいてい箱入になっている。これは発送、返品、その他の関係の必要から来ていることだろうが、我々にはあまり有難くないことのように思う。だいいち本屋の新刊棚の前に立ったとき、そのためにたいへん単調な感じを受ける。どの本もどの本も皆一様に感じられる。どれかを開けて内容を調べてみようとしても、箱があるのは不便だ。開いて見て元の箱に納めようとすれば、本には薄い包紙が着けてあるので、私のような不器用者にはなかなかうまく
そのような意味で誰かの文庫を調べてみると面白い。沢山に本が集めてあっても案外使えない文庫がある。それは持主が自分の文庫を使っていない証拠であり、またそれをほんとうに愛していない証拠である。尤も使う目的にも使い方にも人によって色々相違があろう。そこで或る人の文庫を見ればその人の性格がおのずから現われている。そこに文庫の倫理とでもいうべきものがある。文庫を見れば主人が何を研究しているかというようなことが分る以外に、そこに更に深いもの即ちその人の性格が自然ににじみ出ているのが面白い。本は自分に使えるように、最もよく使えるように集めなければならない。そうすることによって文庫は性格的なものとなる。そしてそれはいわば一定のスタイルを得て来る。自分の文庫にはその隅々に至るまで自分の息がかかっていなければならない。このような文庫は、丁度立派な庭作りの作った庭園のように、それ自身が一個の芸術品でもある。
そしてこのように性格的或いは個性的であることを私は特に今日の出版業者に向って希望したい。我が国の本屋は外国の本屋に比べてどうも個性が薄いように感じられないであろうか。ドイツのトイプネルにしてもジーベックなどにしてもそこから出る本にはそれぞれ一定の特色がある。フランスあたりの本屋にしても、こんな本は多分アシェットから出ているだろう、恐らくアルカンから出ているだろうと見当がつくぐらいである。ところが日本では或る本屋が或る形式、或る種類の本を出して成功すると、すぐ他で模倣する者が大勢出て来る。その結果つまり互に弱め合うということになる。出版においても銘々がもっと創意を貴び合うようになってほしい。その本屋から出る本は内容
善い本を繰り返して読むということは平凡な、しかし思い出す毎に身につまされる読書の倫理だ。先達てもフロベールの手紙を読んでいたら、次のような文句があったので、私はまたアンダーラインした。「作家の文庫は、彼が毎日繰り返して読まねばならぬ源泉であるところの五冊か六冊までの本から成っているべきである。その余の本について云えば、それを知っているのはよいことだ、しかしそれきりのことである」。繰り返して読む愛読書をもたぬ者は、その人もその思想も性格がないものである。ひとつの民族についても同様であって、民族が繰り返して読む本をもっているということは必要だ。それが古典といわれるものである。かくの如き古典の復刻ということは出版業者にとってもひとつの重要な意味のある仕事でなければならぬ。しかしながらまたそのようなことは我々が多くの本を集めるということと矛盾しない。公共の図書館にしても個人の文庫にしても本が多ければ多いほどよいのはもちろんだ。本は道具と同じように使うべきものであるからである。そして使うということはそれを
どんな本を買って読むべきであろうか。既に数年を経て価値の定まった本をのみ読むようにエマーソンなどが教えている。しかしながら我々の読書欲はもっと新しいものを求め、また新知識を絶えず吸収するということは我々にとって必要である。私はそこで時々古本屋へ行って勉強するように勧めたい。本の夜店を見て歩くことなどもよい。箱入の新刊書のときにはどれもこれも同じように見えたものがここでは既にその間に区別ができている。絶版になって原価よりも高くなっているものもある。古本屋の陳列棚を見ておれば、どのような本が善い本であるかが誰にも自然に分るようになる。書物の良否についての鑑識眼は銘々の見地からその間におのずから養われる。古本屋を時々