私はちと所要あって田舎の方へ参っていたが今日この席に立て標題のようなお話しをするようにとのこと、この日に限って御無沙汰するのも何だか気持がわるいし、またこの日を
撰で友を避けるというのも四十八ヶ年以来の習慣
方度に
背く。これゃ一つ参らねばなるまいといよいよ決心の
臍を固めて今朝田舎を後に都上りを致したようなわけである。こう申すと何だか皆様に恩を着せるようだがあまり有難いなどと思われては困る。なあに参りは参っても肝心のお話は
極々つまらない面白くないものだからただ
此処までやってきた私の厚意だけを汲みとってもらえばそれでもう沢山である。(笑声起る)
さてただ今お話しようというのは「エスキリストの友誼」ということであるが、これは何も私が勝手に撰だわけのものではなく役員の方で撰出せられたものである。が多少これに就て感ぜないというわけでもない。一体宗教家などいうものは専門的のものでも何でもないのだから宗教家には常識が欠けていてはならぬ。元来宗教その物がコムモンセンスのもので決して
センモンセンスのものでないのだ(大笑声起る)。常識で普通一般の人が知悉していることが宗教で決して格段に目新らしいものではない、非常に珍らしい珍奇なことをいう宗教家こそかえって非常に怪しい怪物なんだ。
一体
偉い人とは
如何者だろう。偉いというのは何も破天荒なことをのみいう人ではない。万人の言わんとし語らんとして未だ語り得ない事実を言てくれる。これが偉いのだ。衆人に秀れた人なのだ。もしも珍奇な破天荒な事実を明かす人のみが偉いと思ったら先ずさしあたり巣鴨近傍に行ってみるがいい。葦原将軍だとか天下の予言者だとかいう偉い連中はいくらもころがっている(笑声起る)。私は論語を読でいつも非常に感服するが論語の第一頁には何と書いてある。「有
レ朋自
二遠方
一来亦不
レ楽乎」別に目新しいことでも何でもない。酒屋の小僧でもいってることなんだ。けれどもこの一句が誰でもいってることで万人共通の感想だけになお以て嬉しい。衆人の言いたいことを僅々十個の文字の中に含蓄せしむる。これが偉い所だ。凡人の及ばない力量である。で私もキリストの友誼より
豪いことは言わぬつもり、否皆さんがとうに知ってることをいってみたいと思う。
新聞や雑誌などで盛に書いてるからとうに御存知だろうが昔アリストートルはゾーポリチコン Zo, Politikon といった。こんなことをいうと
希臘語なども私は知ってるようだが実はこれだけしけゃ知らない。でこのゾーポリチコンという希語を訳してみると「人は社会的動物なり」ということになるそうだ。人間はどうもそうらしい。相手を求めて交りをする。畜生でもそうだ。犬ころが、何か鳴いては求めている。じゃれ廻っては
切りに喜でいる。してみると犬も
慥かに社会的に出来てる。のみならず、犬は人と交って最も長いものだ。これは非常に面白い興味ある題目である。
何故狸や虎が家畜とはならなかったろう。竜は
何故人間の眼には早くから映っても家畜の中に加わらなかったのだろう。獅子は? 狼は? 熊は何故家畜として人間と交らなかっただろう、この問題は興味深いだけにちと面倒だ。とにかく現今家畜として人間と親しく交っているものが世界の生物が一万種ある中で僅々四十七種にすぎない。といっても今数えてみいと言われるとなかなか二十種も数え切れまい。いわんや普通専門家以外の人にとってはせめて五畜か六畜位に止まるであろうと思う。牛馬羊豚鶏……まあこんなところで結構だ。がしかし前にもいった通りで社交的方面から見ると家畜の中で、犬ほど長く人間と交ったものはない。馬よりか羊よりか何よりも早いのだ。まあ犬を御覧なさい。尾を振ってグウグウ唸って友を呼でいるのではないか。犬すらそうだ。また
烏合という文字がある。
烏もお友達を求め歩いている。けれどもこれらは委員会などいうような高尚な集りではなくて喰わんがためである。利益のために
集るのである。狼はよく群をなす。けれどもこれは親睦会を開いて楽しく笑話するためではない。狼は寄宿舎などにはおらぬ。では何のために集るか。やはり喰わんがためである。山影から馬が見えたとする。それッと
直ぐに喰ってかかるのは狼だ。けれども、アリストテレースが言った意味の社交的ではないのだ。
此処を間違えてはならない。社会的に親善を図るのは人間のみである。論より証拠先ず人という文字を見て御覧なさい。昔は

こういう風な形で表わされたそうだが棒が二本あるじゃないか。
詩書精選という書には棒を二本引いてある。二ツの棒が互に相支えて行くのだ。これが人間である。人という文字は学術的に
旨く出来ているのみならず
能く人情をも尽している者と思うている。どうしても人間という者は一本立で行ける者ではない。あくまでも社会的である。アダムは
如何だ、ただ一人では
辛かろうというので神はイブを下した。
否アダムとかイブとかいう名前を付ける以上既に男女の別ある事を予言してるとみてよかろう。何もただ一つある場合に名称を下す必要はない。男があればこそ女もいる。世の中が男ばかり女ばかりの世界であったら男女の名称も自然不必要となってすたれてしまうはずである。山中に二種の猛獣がいる。そこで一方を獅子と
名け他方を虎と名ける。これは必要上区別するのだ。してみるとアダムと名称を与えた以上、既にイブは神の御心に生きていたのかも知れぬ。とにかく人間というものは孤独では行けない。友を呼び相手を求むる者である。
が
此処に一ツ注意しておきたいことは、
西洋の家庭が夫婦を意味すると同時に日本の家庭は親子である。これは至極大事なことで間違えてもらっては困る。西洋で一般にホームだとかファミリーだとかいっているのは夫婦であって親子を指したのではない。これに反して日本で家庭というと親子であって夫婦を指して言ったのではない。だから西洋のホームは二本立で同等であるが日本の家庭は上下があってその間に差別が付いている。夫婦が出来た以前アダムは天なる父とただ二人でいたがイブが出来てからは友達が一人
加って二本立のものとなった。要するに道徳の元は父に対する孝である。夫婦のためには友である。此処が今日お話しようとする題目なのだ。
勿論人類社会には友誼という者があるがこれは
畢竟するに道徳進化の最初の徳である。最もプリミティーブな元始的な道徳である。故に人は何処までも社交的性質のもので友なくては生存するわけには行かぬ。昔しロビンソン、クルッソーという
物好き男がいて淋しい孤島に人間がいないので遂には犬を友人に貰った。また
鸚鵡を友として僅に心の寂寞を慰めた。ロビンソンに限らず総ての人類がそうなのだ。牢獄の暗黒界にただ一人淋しく禁錮せられた可憐児は
如何する。ロシアではこの種の物語はいくらもあるが或る国事のために奔走した者が政府の
諱忌に触れて牢屋にぶっこまれた。厚い五、六尺もあろうと思われる壁の中に――
真暗な
咫尺も弁ぜぬ――獄舎の中に何年何十年と捕われていた時に彼は何を友としたか。
暗闇に
ちょろちょろ出てくる鼠を友人としたのだ。自分の生命を支うるに足らぬ粗末な黒パンの一片を
割いて鼠に与えて手なずけるのだ。こんな風で十年二十年の後牢屋を出て世の中に来ると全く言語も忘れ口も動かなかったとは彼の地の歴史に能く記してあることだ。人は如何なる場所、如何なる境遇にあっても、友を求むるの情は止まぬ。こんな例は数限りなくあるがとにかく人には友誼というものがなくてはならぬ。死ぬるまで変らぬ確固の一念がなくてはならぬと思う。
私は友を作るのに少くとも三ツの動機 motive があるように考える。第一は利害関係より生じたる友、第二が法律的関係、第三が愛の関係である。利害関係より生じたる友とは何であろう。
烏合の友である。喰い合いの友である。パックである。元より一時的の団体でフレンドシップやコンパニオンシップではない、集るものは烏合の衆だから
あてにはならぬ。「おい貴様何のためにあんな
奴と
交っているのだ」というと「何少し思うことがあるのだ」などと平気にすましこんでる。少し思うこととは何だろう。株を高く売ってもらうとか、安くて買えるとか、美しい妻君を周旋してもらうとか、よい金儲があるとか、
何れまあそんな利害的の関係があるのだからたまらない。烏が
旨い食物を得んがために
がアがアいって集るのとちっとも変ったことはない。第二種のものは義理で出来たもので、いやでも友としての関係を依続せねばならないもの、例えば後見人だとか兄弟姉妹父子の関係だとかいうのがそれだ。後見人が如何にいやだと言っても父が死ぬる時分に遺言して
頼で行ったもの、義理にも
退けよう道がない。兄弟姉妹にもよくあることで、昔から「兄弟は他人の本」と言っているのは
其処だ。兄弟姉妹は元々同じ親から出たもので法律的に縁を切るわけには行かぬ。どんなにいやであっても交りだけはせねばならぬ。親子でもそうだ。このほど一女学生が来て「
親がもし悪人であったら殺してもいいでしょうか」と真面目に尋ねられたことがあった。恐ろしい話ではあるが、こんな乱暴な親が
偶には世の中にいるからなお以て恐ろしい。こないだも一封の手紙が来て「私の親は犯人ですが
如何したらよいでしょう」と尋ねてきたのである。親と子とには前にもいった通り切っても切れぬ関係がある。他人の始めである兄弟ですら左様である。いわんや他人に於てをやだ。第三は愛に依て結ばれたるもの、これが真の友誼である友人である。朋は月に非ずして鳳である。昔は月を二ツ
并べるのではなくして鳳を二ツ書いたものだそうだ。鳳は人を引き付ける霊鳥で東西共にいる。この珍らしい立派な鳥が二羽も并でいるのが今日謂うところの友である。一羽でも珍らしいのに二羽も集ってくれるので
難有さは二倍三倍百倍するに相違ない。これが真のフレンド friend で
独乙のいわゆるフロインド Freund である。フロイ即ち愛があって
此処に始めて友――真の意味に於ける――友が出来るのである。
漸く本題にはいりかけたが
是が即ちキリストの愛である。先ずヨハネ伝第十五章を見給え。
今より後われ爾曹を僕と称ず。そは僕は其の主の行ことを知らざれば也。我さきに爾曹を友と呼べり。我爾曹に我が父より聞きし所のことを尽く告しに縁る。
面白い有難い聖句である。自分を先生といわず旦那と呼ばず主人と思わずして師弟の関係以外君臣上下の階級を打破しようという。自分が
僕の地位に下るか、
僕を自分の位置に高めるか
何れにしても並行さして友と呼だキリストは
豪いに相違ない。なぜか、キリストは天父より聞いたすべてのことを与え尽したからである。僕とは一体何だろう。自己の意志(Free-Will)を持たないもの、換言すれば主君の命令を絶対に
遵奉すべきものこれである、右せよ、
諾。左向け、
諾。
僕の理想はこれだ。グリース有名の哲学者エピクテータス(Epictetus)は名前がちとおかしいが奴隷であった。その主人というのは不幸にもつまらない男で能く人を
苛める打つ。足を引っ張る。こんなことをして楽しんでいる男だった。或る日
切りにエピクテータスが足を引っ張り
捩じまわしては喜でいる。でエピクテータスはちと痛いので「そうなさると私の
脚は折れますよ」といった。その
中に主人はますます脚をねじまわしたので果して彼れの脚は折れてしまった。でエピクテータスはさもこそといわんばかりの顔付きで「そうら見て御覧なさい。今が今までそう言っていたじゃありませんか」と一向平気なものであった。さすがは哲学者である。かくの如く何もかも主人まかせで少しの意志
些の自由をも有せないものが
僕である。無論今日ではこの種の奴隷はいない。がしかし少しはいる。
睡くても主人が手を
拍てば
諾といって立たねばならぬ。空腹でも食事中でも、寒くっても熱くっても主人の
命なら
進でこれを弁ぜねばならない。これらも可愛そうに人並で充分眠って
旨いものを
喰べてみたいに違いない。しかしそんな自由は出来ない。主人の仰せに服従せねばならない。キリストが弟子に教え給うにも始めは一種の命令であった。ところがこれからはみんな天父の教えを知悉したのだから
僕とはいわぬ友と呼ぶと
仰宣ったのだ。こう考えてくると、同じ目的を以て同じ天父の意志を理解する者、これが真の友達でキリストが友に対する精神であった。語を換えていえば己れを標準にとらず天父を以て唯一のスタンダードとしこれを以て自己を解しているものが真の友である。
こういうと何だか前にのべた愛の事実とは矛盾するようだが決してさる気遣はない。「私あの
方好きよ」「あの方はほんとにいいのよ」などいう。それもよい。がまだ十分ではない。何か少し不足しているものがある。
互に気の合うた上になお天父の意志を理解する。
これがほんとうの友人だ。
ほんとうの友誼なのだ。クリスチャンラブ、「基督教徒の愛」というのは正しくかようなものを指して言ったのである。
「望みも恐れも共におなじ」というのが讃美歌の中にある。これは神に依ていつくしめるものは目的も
希望も
恐懼も同一になってしまう。ただ気が合うといっても何だか茫漠としたもので男ならその調子で一杯やろうというかも知れぬ。女ならきっとリボン会位は始まるだろう。だから真にキリストの意志を了解した愛でなければ頼むには足らぬ。「望みも恐れも目的もただ一つとなる」、これが所謂真のキリスト教的愛である。私はこれを名けて、ハイレベルヴァルチュー High-level Virtue という。といってもこれは熟した語ではない。ただ私が思い付いた一種の造語にすぎないものだからちょっと此処に断りをしておく。
幾度も前に繰り返したように単に気が合うというのみでは到底真の友とはいえぬ、謂わば水面の低いローレベルのヴァルチューである。男子などには殊にこの交りが多い。互に胸襟を開くなどいって一杯飲み合うことなどがある。しかしこれらは酒興に乗じて互に弱点をさらけだす位が関の山で何も得るところはない。即ち低き水面の友である。こんな友誼なら
掬摸児などにも能くある。一杯飲んで怪しからぬ
態をしてこうだああだと喋り出しては喧嘩になる。がまた感心なことには
直ぐ仲直りをする。これ互に暗い所があって弱点を握り合っているので仕方がない。相方幾分ずつ疑懼の念が動いてきて元の通り仲よしになる。謂わば罪が彼らの媒介をするのだ。だから親に孝養を尽すなどいうと彼らの仲間には嫌われる。あわれな
穢わしい友達じゃないか。で私どもは真の友として天父の意思を了解しているや否やを標準とせなければならぬ。
世の中には随分口先きのみ達者で実行の鈍いものがある。が口先きだけでも賢いのはせめてもの取り所だ。なぜならば立派なことをいやしくも口外した以上、そう
下卑た行の出来るはずはないから、まあ幾分か恕してやるべきである。世にはまた
偽小人というものがあって一見小人のように別にえらいことも何も言わぬが着々実行の上では立派な礼儀に叶った行為をなしている。元よりこの種の人は偽君子ほど多くはない。偽君子千人の中にせめて一人位なものであろう。世の中に多いものは小人と偽君子だ。口先では如何にも聖哲のようなことをいっているが実行は十分の一も出来ぬ。しかし十遍に一度位実行の出来るのはあるいは口先きで立派なことを言った結果であるのかも知れぬ。人には相当に廉恥心という者が
具ってるから自分の言った語に対しても行わねばならぬという場合も起って来るものである。だから実際には高き程度な友が実現せられないにしても互に話し合って置くことは至極大切なことと思う。
私は御覧の通り立派な者でも何でもないが好い友達があったためにこの夏も御陰で涼しい白地の服を着て赤い衣を着ることだけは免れている。今これらのことを考えてみると非常に
難有心持がする。私は十四、五歳の頃五、六人の親しい友があったが皆相応な地位を保っている。これらの旧友に会うと、職業や宗教的思想、人生の
観方などこそ随分違っているが心持は少しも変らぬ。及ばずながら共に共に天父の意を尽そうというのである。此の中には思想が深くて学問の広い内村鑑三君や、三宅君の如き兄分もいる。これらの人たちと上野の大仏あたりを夜の十二時頃散歩しながら豌豆を買って立ち喰いをしながら話し合ったことも、今日から見れば非常に懐かしい、今私が赤い衣物も着ずして三度の食事を無事に喰べて行けるのも皆これがためだと思って
窃に感謝している。(笑声起る)
しかし一方から考えてみると吾らはまた友たるに恥じぬ人格と人に愛せらるるだけの価値を有するということも必要である。さっきから度々いってる通り互に気が合うというようなそんな低い程度の友ではなく直に天父の意志を了解するものが欲しいのだ。といってもどうせ弱点のある人間だ。世の中にそう神様のように完全なものばかりはいない。否何れ人間と生れた以上は不完全なものにきまっている。だから人の弱点を探がさないで善い所のみをみる、キリストの御友達であったピーター、ヂョン、ゼームスの如き皆全然相反せる性格の人であったが、しかし或る点――天父の意志を了解せりという――点に於ては同一であった。この点に於て立派な真の友情が成り立ったのである。だから気に合うとか気に合わぬとかいうことは友情の上に於てさして重大な意味を持ってはいない、ただ天父の意志を了解せりや否やが大事である。此処に眉間に疵を
有ってる男があるとする。何だかいやだ、気に喰わないような心持がする。これは
浅間しいようだが実際である。しかしその男が軍人で、さる激戦の時、砲煙弾雨を犯して戦友を救わんがために紀念として与えられた疵であると知ったら
如何だろう。そんな高尚な意味のものなら三つも四つも欲しくなるに違いない。心の疵だって左様だ。あの人は妙に心がねじけている。がしかしその家庭の紊乱――生みの母がいなくて継母に
苛められ、異母弟に邪魔物にせられ――あらゆる苦しみ悲みの結果であると知ったら其処に同情の涙が流れないであろうか、自分がもしかその境遇にあったのならば如何であったろう。とうに死んでいたのかも知れぬ。それにしては彼の人はよくもまあ我慢をし忍耐をしたものであると憎しみよりか感服の涙が先きに立って来る。
どうか他人の罪は出来得る限り許してやりたいものだ。そしていい方面にのみ眼を注いで
[#「注いで」は底本では「注いて」]やりたい。昔
管仲は敵と戦って
遁げた。時人はこれを怯者と呼んだ。しかしその友人である
鮑叔は何といった。彼は家に老父を有している。父老いたるがために管仲は生命を全うしたのだ。孝なる哉管仲、孝なる哉管仲と賞嘆したではないか。私どもは出来ることなら鮑叔のような心の人になってみたいと思う。
試に一部の伝記を取って読んでみる。一頁二頁目位まではまあ無難であるが三頁四頁になると悲哀の色がほのみえる。十頁二十頁となると死を以て筆を
馳せたものが多い。ユーゴーの哀史を見ても直ぐにわかる。人は必ず懐中の哀史 Les Mis

rable を
有ってるものである。何もユーゴーの作物に限ったわけのものではあるまい。友をなくして始めて友情の有難味を悟る。けれども既に遅い。いくら悲んでみても一度ミスした友は帰らない。古歌に「知らざりき仏と共に隣りして、あけ暮しける我身なりしを」とあるが誠にそうだ。友を失ってなるほど彼はえらかった……と悟ることが往々にしてある。ああちっとも知らなかった、我は仏様と共にあけ暮した者を……ああ共に歌った友人、共にあの清き木陰に遊び戯れた友! 形体は既に消え散じて僅に友の人格 Personality のみが眼前に残されている時に仏様とはあんなものかしらと始めて心の眼を開くことがよく我らの中にある。独乙に有名なウヰーランドという文学者がいたが一日ネーカーの渡船場を渡ろうとする時かつて同行した二友のことを思い起した。一人は老人で一人は青年であった。若い男は血気にはやって遂に、戦塵一滴の露と消え、老人は衰弱のため既にこの世を辞してしまった。見渡せば水勢蕩々、緑樹の間古城の姿、山の形、舷を打つ小波も昔ながらに
些の異変はないがただ船中の様は昔に変る未見の船頭、懐かしい二人の友が見えぬ。ああ過ぎつる日共に楽しく語り笑いし友、永久
相見るの
機がないと思うと淋しさの念が鋭く胸を打って来る。やがては形骸以上直接に霊と霊とが相接して昔の友を呼び相語っているようで、考えてみれば二人の友はまた新らしゅう生れ変ってきたのではあるまいか。などと一念昔の親しき友情を偲んでいる中に、船はいつしか向うの岸に着いた。で船を出る時、船頭に
向て三人分の賃金を払って今僕の外に二人ほど友人が乗り込んでいたから……といって岸に上って
往ったと書いている。この詩はミス、オースチンの英訳が出来ているがこれこそ真のクリスチャンだ。
身体はなくても霊はある。バディーはなくても生きたソールが働いている。これがいわゆる真の友誼で一歩を進めたものがキリストエスの友誼である。(七月十七日講演)
〔一九〇八年八月一五日『明治の女子』五巻七号〕