麻を刈る

泉鏡太郎




 明治十二三年頃めいぢじふにさんねんごろ出版しゆつぱんだとおもふ――澤村田之助曙双紙さはむらたのすけあけぼのさうし合卷がふくわんものの、淡彩たんさい口繪くちゑに、黒縮緬くろちりめん羽織はおり撫肩なでがたけて、衣裝いしやうつまつた、座敷ざしきがへりらしい、微醉ほろよひ婀娜あだなのが、くるまわきたゝずんで、はるたけなはに、夕景色ゆふげしき瓦斯燈がすとうがほんのりともれて、あしらつた一本ひともと青柳あをやぎが、すそいて、姿すがたきそつてて、うただいしてあつたのをおぼえてる。いはく、(金子かねをとこなんにもらぬ微醉機嫌ほろよひきげん人力車じんりきしや)――少々せう/\間違まちがつてるかもれないが、間違まちがつてれば、藝妓げいしや心掛こゝろがけで、わたしつたことではない。なにしろうした意氣いきうたつてあつた。あるひくるまのはやりはじめのころかもれない。微醉ほろよひはるかぜにそよ/\かせて、身體からだがスツとやなぎえだちうなび心持こゝろもちは、餘程よつぽどうれしかつたものとえる。
 今時いまどきバアで醉拂よつぱらつて、タクシイに蹌踉よろんで、いや、どツこいとこしれると、がた、がたんとれるから、あしひきがへるごと踏張ふんばつて――上等じやうとうのはらない――屋根やねひくいからかゞごしまなこゑて、くびとらるのとはちがふ。第一だいいち色氣いろけがあつてはゞからず、親不孝おやふかうかへりみざるともがらは、男女ふたり相乘あひのりをしたものである。あへちうするにおよばないが、くるまうへ露呈あらは丸髷まるまげなり島田しまだなりと、散切ざんぎりの……わるくすると、揉上もみあげながやつが、かたんで、でれりとしてく。極端きよくたんにたとへれば、天鵞絨びろうど寢臺しんだいたてにして、男女ふたりところを、廣告びら持歩行もちあるいたと大差たいさはない。
 自動車じどうしや相乘あひのりして、堂々だう/\と、淺草あさくさ上野うへの銀座ぎんざばす、當今たうこん貴婦人きふじん紳士しんしいへども、これをたら一驚いつきやうきつするであらう。たれ口癖くちぐせことだが、じつ時代じだい推移すゐいである。だがのいづれの相乘あひのりにも、ひとしくわたしくわんせざることふまでもない。とにかく、色氣いろけいさゝ自棄やけで、おだやかならぬものであつた。
 ――(すきなおかた相乘人力車あひのりじんりきしやくらいとこいてくれ、車夫くるまやさん十錢じつせんはずむ、かはすかほに、そのが、おつだね)――流行唄はやりうたさへあつた。おつだねぶし名題なだいをあげたほどである。なんにしろ人力車じんりきしやはすくなからず情事じやうじ交渉かうせふつたに相違さうゐない。
 金澤かなざはひと和田尚軒氏わだしやうけんしちよ郷土史談きやうどしだん採録さいろくする、石川縣いしかはけん開化新開かいくわしんかい明治五年めいぢごねん二月にぐわつ第六號だいろくがう記事きじに、
先頃さきごろ大阪おほさかよりかへりしひとはなしに、彼地かのちにては人力車じんりきしやさかんおこなはれ、西京さいきやう近頃ちかごろまでこれなきところ追々おひ/\さかんにて、四百六輌しひやくろくりやう伏見ふしみには五十一輌ごじふいちりやうなりとふ。追々おひ/\増加ぞうかするよし……其處そこで、東京府下とうきやうふか總數そうすう四萬餘よまんよおよぶ。
 としるして、一車いつしや税銀ぜいぎんいつげつ八匁はちもんめづゝなりとせてある。勿論もちろん金澤かなざは福井ふくゐなどでは、俵藤太たはらとうだも、頼光らいくわう瀧夜叉姫たきやしやひめも、まだこともなかつたらう。東京とうきやう四萬よまんかずおほいやうだけれども、ころにしろ府下ふか一帶いつたい人口じんこうくらべては、辻駕籠つじかごほどにも行渡ゆきわたるまい、しかいつげつ税銀ぜいぎん八匁はちもんめ人力車じんりきしやである。なか/\もつ平民へいみんにはれさうにおもはれぬ。とき流行りうかうといへば、べつして婦人ふじん見得みえ憧憬しようけいまとにする……まととなれば、金銀きんぎんあひかゞやく。ゆみまなぶものの、三年さんねん凝視ぎようしひとみにはまとしらみおほきさ車輪しやりんである。したがつて、ころ巷談こうだんには、車夫くるまや色男いろをとこ澤山たくさんあつた。一寸ちよつと岡惚をかぼれをされることは、やがて田舍ゐなかまはりの賣藥行商ばいやくぎやうしやうのち自動車じどうしや運轉手うんてんしゆゆづらない。立志りつし美談びだん車夫しやふなんとかがざらにあつた。
 しばらくのあひだに、くるまのふえたことおびたゞしい。
 人力車じんりきしや――腕車わんしやが、※(「にんべん」、第4水準2-1-21)にんべんくるまつた、紅葉先生こうえふせんせい創意さういであるとおもふ。見附みつけはひつて、牛込うしごめから、飯田町いひだまちまがるあたりの帳場ちやうばに、(人力じんりき)を附着くツつけて、一寸ちよつとふん)のかたちにしたのに、くるまをつくりにへて、おほきく一字いちじにした横看板よこかんばんを、とほりがかりにて、それを先生せんせいに、わたしはなしたことがある。「そいつは可笑をかしい。一寸ちよつと使つかへるな。」と火鉢ひばち頬杖ほゝづゑをつかれたのをおぼえてる。
 ……あらためてふまでもないが、車賃くるまちんなしの兵兒帶へこおびでも、つじちまたさかまをすまでもないこと待俥まちぐるまの、旦那だんな御都合ごつがふで、を切拔きりぬけるのが、てくの大苦勞だいくらうで。どやどやどや、がら/\と……大袈裟おほげさではない、廣小路ひろこうぢなんぞでは一時いつとき十四五臺じふしごだい取卷とりまいた。三橋みはし鴈鍋がんなべ達磨汁粉だるまじるこくさき眞黒まつくろあまる。「こいつをらく切拔きりぬけないぢや東京とうきやうめないよ。」と、よく下宿げしゆく先輩せんぱいつた。

 十四五年前じふしごねんぜん、いまの下六番町しもろくばんちやうしたころも、すぐ有島家ありしまけ黒塀外くろべいそとに、辻車つじぐるま、いまの文藝春秋社ぶんげいしゆんじうしやまへ石垣いしがきと、とほりへだつた上六かみろくかどとにむかひ、番町學校ばんちやうがくかうかどにも、づらりとて、ものの一二町いちにちやうとはないところに、のほかに宿車やどぐるま三四軒さんしけん
――はるさくらにぎはひよりかけて、なき玉菊たまぎく燈籠とうろうころつゞいて、あき新仁和賀しんにはかには、十分間じつぷんかんくるまぶこと、とほりのみにて七十五輌しちじふごりやう
 と、大音寺前だいおんじまへねえさん、一葉女史いちえふぢよしが、すなはそでいて拍子ひやうしつた所以ゆゑんである。
 ――十分間じつぷんかん七十五輌しちじふごりやうあへ大音寺前だいおんじまへばかりとははない。馬道うまみちくるままつた。淺草あさくさはうくはしことは、久保田くぼたさん(まんちやん)にくがい。……やま本郷臺ほんがうだい。……切通きりどほしはせきつてくるまたきながした。勿論もちろん相乘あひのりうづいて、ひととともにつてちる、江智勝えちかつ豐國とよくにあたりで、したゝかないきほひつたのが、ありや/\、とくるまうへで、たこをどつてく。でつかんしよに、愉快ゆくわいぶし、妓夫臺ぎふだい談判だんぱん破裂はれつして――すゝめツ――いよう、御壯ごさかん、どうだい隊長たいちやうと、わめふ。――どうも隊長たいちやう。……まことに御壯ごさかん。が、はずんでりて一淀ひとよどみして※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはところから、すこいきほひにぶくなる。らずや、仲町なかちやう車夫わかいしゆが、小當こあたりにあたるのである。「まねえがね、旦那だんな。」はなはだしきはかぢめる。彼處あすこけると、廣小路ひろこうぢかど大時計おほどけいと、松源まつげん屋根飾やねかざり派手はでせて、またはじめる。「ほんの蝋燭おてらしだ、旦那だんな。」さて、もつと難場なんばとしたのは、山下やました踏切ふみきりところが、一坂ひとさかすべらうとするいきほひを、わざ線路せんろはゞめて、ゆつくりと強請ねだりかゝる。ところを、からうじて切拔きりぬけると、三島樣みしまさま曲角まがりかどで、またはじめて、入谷いのや大池おほいけみぎに、ぐつとくらくなるあたりから、次第しだいすごつたものだ――とく。
 ……じついただけで。わたしおぼえたのは……そんな、そ、そんなしからん場所ばしよではない。くに往復ゆきかへり野路のみち山道やまみちと、市中しちうも、やままはりの神社佛閣じんじやぶつかくばかり。だが一寸ちよつとこゝに自讚じさんしたいことがある。さけ熱燗あつかんのぐいあふり、雲助くもすけふうて、ちや番茶ばんちやのがぶみ。料理れうりかた心得こゝろえず。お茶碗ちやわん三葉みつば生煮なまにえらしいから、そつと片寄かたよせて、山葵わさびきもののやうに可恐おそろしがるのだから、われながらおがさめる。さゝくたらしを、ほう/\といてうまがつて、燒豆府やきどうふばかりを手元てもと取込とりこみ、割前わりまへときは、なべなか領分りやうぶんを、片隅かたすみへ、群雄割據ぐんゆうかつきよ地圖ちづごとしきつて、眞中まんなかうめざうもつを、はしさきあなをあけて、はよくとほつたでござらうかと、遠目金とほめがねのぞくやうなかたちをしたのでは大概たいがい岡惚をかぼれ引退ひきさがる。……ともだちは、反感はんかん輕侮けいぶつ。精々せい/″\同情どうじやうのあるのが苦笑くせうする。とつた次第しだいだが……たゞくるまけてはかたがうまい、と――もつと御容子ごようすではない――いてる車夫わかいしゆめられた。ひろのりだと、した塀續へいつゞきなぞで、わざ/\振向ふりむいてつたことさへある。

 るのがうまいとしたから、ちることもよくちた。本郷ほんがう菊坂きくざか途中とちう徐々やは/\よこちたがてら生垣いけがき引掛ひつかゝつた、怪我けがなし。神田かんだ猿樂町さるがくちやうで、ほろのまゝ打倒ぶつたふれた、ヌツと這出はひでことたが、つけの賓丹はうたんふつもりで藥屋くすりや間違まちがへて汁粉屋しるこやはひつた、大分だいぶばうとしたにちがひない、が怪我けがなし。眞夏まなつ三宅坂みやけざかをぐん/\あがらうとして、車夫わかいしゆひざをトンとくと蹴込けこみをすべつて、ハツとおも拍子ひやうしに、車夫わかいしゆ背中せなかまたいで馬乘うまのりにまつて「怪我けがをしないかね。」は出來できい。師走しはす算段さんだん※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはつて五味坂ごみざか投出なげだされた、ときは、懷中くわいちうげつそりとさむうして、しんきよなるがゆゑに、路端みちばたいし打撞ぶつかつてあしゆび怪我けがをした。最近さいきんは……もつと震災前しんさいぜんだが……土橋どばしのガードした護謨輪ごむわさつふうちに、アツとおもふとわたしはポンとくるまそと眞直まつすぐつて、車夫わかいしゆ諸膝もろひざで、のめつてた。けだし、せずして、ひと宙返ちうがへりをして車夫わかいしゆあたま乘越とびこしたのである。はらふほどすなもつかない、が、れはあと悚然ぞつとした。……じつところいまでもまだ吃驚びつくりしてゐる。
 えうするに――くるまちるものと心得こゝろえるのである。しかして、惡道路みちわると、さか上下じやうげは、かならりて歩行あること――
 これ、當流たうりう奧儀おくぎである、となに矢場七やばしち土場六どばろくが、茄子なすびのトントンを密造みつざうするときのやうに祕傳ひでんがるにはおよばない。――じつは、故郷こきやうへの往復わうふくに、ころ交通かうつう必要上ひつえうじやうむを幾度いくど長途ながみちくるまにたよつたため、何時いつとなくるのにれたものであらうとおもふ。……
 汽車きしやは、米原まいばら接續線せつぞくせんにして、それが敦賀つるがまでしかつうじてはなかつた。「むきがに。」「殼附からつき。」などと銀座ぎんざのはちまきうまがるどころか、ヤタいちでも越前蟹ゑちぜんがに大蟹おほがに)をあつらへる……わづか十年じふねんばかりまへまでは、曾席くわいせきぜんうや/\しくはかまつきで罷出まかりでたのを、いまかられば、うそのやうだ。けれども、北陸線ほくりくせんつうじなかつた時分じぶん舊道きうだう平家物語へいけものがたり太平記たいへいき太閤記たいかふきいたるまで、だたる荒地山あらちやまかへる虎杖坂いたどりざか中河内なかのかはちひうちたけ。――新道しんだう春日野峠かすがのたうげ大良だいら大日枝おほひだ絶所ぜつしよで、敦賀つるがかねさきまで、これを金澤かなざはから辿たどつて三十八里さんじふはちりである。かに歩行あるけば三年さんねんかゝる。
 もつとも、加州かしう金石かないはから――蓮如上人れんによしやうにん縁起えんぎのうち、よめおどしの道場だうぢやう吉崎よしざきみなと小女郎こぢよらう三國みくにつて、かなさきかよ百噸ひやくとん以下いか汽船きせんはあつた。が、こともおろかや如法によほふ荒海あらうみあまつさ北國日和ほくこくびよりと、ことわざにさへふのだから、なみはいつもおだやかでない。敦賀つるが良津りやうしんゆゑ苦勞くらうはないが、金石かないははうふねおきがかりして、なみときは、端舟はしけ二三里にさんりまれなければらぬ。これだけでもいのちがけだ。冬分ふゆぶん往々わう/\敦賀つるがからふねが、其處そこ金石かないはながら、端舟はしけ便べんがないために、五日いつか七日なぬかたゞよひつゝ、はて佐渡さどしま吹放ふきはなたれたり、思切おもひきつて、もとの敦賀つるが逆戻ぎやくもどりすることさへあつた。

 上京じやうきやうするのに、もうひとつの方法しかたは、金澤かなざはから十三里じふさんり越中ゑつちう伏木港ふしきかうまで陸路りくろたゞ倶利伽羅くりからけんす――伏木港ふしきかうから直江津なほえつまで汽船きせんがあつて、すぐに鐵道てつだうつゞいたが、まをすまでもない、親不知おやしらず子不知こしらずおきわたる。……航路かうろも、おなじやうに難儀なんぎであつた。もしこれをりくにしようか。約六十里やくろくじふりあまつてとほい。肝心かんじんことは、路銀ろぎん高値たかい。
 其處そこで、暑中休暇しよちうきうか學生がくせいたちは、むしろ飛騨越ひだごえ松本まつもとけんをかしたり、白山はくさんうらづたひに、夜叉やしやいけおく美濃路みのぢわたつたり、なかには佐々成政さつさなりまさのさら/\ごえたづねたえらいのさへある。……げんに、廣島師範ひろしましはん閣下穗科信良かくかほしなしんりやうは――こゝに校長かうちやうたる威嚴ゐげんきずつけずれいしつしない程度ていどで、祝意しゆくいすこ揶揄やゆふくめた一句いつくがある。本來ほんらいなら、別行べつぎやうしたゝめて、おほい俳面はいめんたもつべきだが、惡口わるくち意地いぢわるいのがぢき近所きんじよるから、謙遜けんそんして、二十字にじふじづめのなかへ、十七字じふしちじ割込わりこませる。いはく、千兩せんりやう大禮服たいれいふく土用干どようぼし。――あるひいはく――禮服れいふく一千兩いつせんりやう土用干どようぼし――大禮服たいれいふく東京とうきやう出來できた。が、ばういたゞき、けんび、手套てぶくろしぼると、すわるのがへんだ。床几しやうぎ――といふところだが、(――親類しんるゐいへで――)用意よういがないから、踏臺ふみだい嵬然くわいぜんとしてこしけた……んぢや、とわらつて、當人たうにんわたしはなした。夫人ふじんおよ學生がくせいさんがたには内證ないしようらしい。――その學生がくせいころから、閣下かくか學問がくもんはら出來できて、わたしのやうに卑怯ひけふでないから、およぎにたつしてはないけれども、北海ほくかい荒浪あらなみ百噸ひやくとん以下いかおそれない。おそれはしないが、不思議ふしぎ船暈ふなよひひとよりはげしい。一度いちどは、あまりのくるしさに、三國沿岸みくにえんがんで……げて……いや、これだと女性ぢよせいちかい、いきなり飛込とびこんでなうとおもつた、とふほどであるから、一夏ひとなつ一人旅ひとりたびで、山神さんじんおどろかし、へびんで、いまひとおそるゝ、名代なだい天生峠あまふたうげして、あゝつたるゆきかな、と山蛭やまひるそではらつて、美人びじん孤家ひとつや宿やどつたことがある。首尾しゆびよく岐阜ぎふしたのであつた。
 みちちがふが――はなしついでだ。わたし下街道しもかいだうを、たゞ一度いちどだけ、伏木ふしきから直江津なほえつまで汽船きせんわたつたことがある。――のちにもふが――いつもはくだん得意とくいくるまで、上街道かみかいだう越前ゑちぜん敦賀つるがたのに――爾時そのときは、旅費りよひ都合つがふで。……いて、眞實ほんたうにはなさるまい、伏木ふしき汽船きせんが、兩會社りやうくわいしやはげしく競爭きやうさうして、乘客じようきやく爭奪さうだつ手段しゆだんのあまり、無賃銀むちんぎん、たゞでのせて、甲會社かふくわいしや手拭てぬぐひ一筋ひとすぢ乙會社おつくわいしや繪端書ゑはがき三枚さんまい景物けいぶつすとふ。……船中せんちうにてやうなことまをさぬものだが、龍宮場末りうぐうばすゑ活動寫眞くわつどうしやしん宣傳プロパガンダをするやうな風説うはさいて、らざるべけんやと、旅費りよひくるしいのが二人ふたりづれで驅出かけだした。

 侶伴つれは、のち校長閣下かうちやうかくかことではない。おなじく大學だいがく學生がくせい暑中休暇しよちうきうか歸省きせいして、糠鰊こぬかにしん……やすくて、こくがあつて、したをピリヽと刺戟しげきする、ぬか漬込つけこんだにしん……にしたしんでたのと一所いつしよに、金澤かなざはつて、徒歩とほで、森下もりもと津幡づはた石動いするぎ。……それよりして、倶利伽羅くりからかゝる、新道しんだう天田越あまたごえたうげで、力餅ちからもちを……べたかつたが澁茶しぶちやばかり。はツ/\とやつして、漫々まん/\たるおほきなかはの――それは庄川しやうかはであらうとおもふ――はしで、がつかりしてよわつてところを、船頭せんどうなかば好意かういせられて、ながれくだりに伏木ふしきわたつた。樣子やうすくと、汽船會社きせんぐわいしや無錢たゞ景物けいぶつは、裏切うらぎられた。うも眞個ほんたうではないらしいのに、がつかりしたが、とき景色けしきわすれない。ふね下流かりうちると、暮雲ぼうんきしめて水天一色すゐてんいつしよく江波かうは渺茫べうばうとほあしなびけば、戀々れん/\としてさぎたゝずみ、ちかなみうごけば、アヽすゞきか? をどつた。船頭おやぢ辨當べんたう使つかあひだ、しばらくはふね漂蕩へうたうながるゝにまかせて、やがて、かれひまして、ざぶりとふなべりあらさまに、割籠わりごむとてみづが、船脚ふなあしよりはながいて、うごくもののないおもに、其船頭そのせんどう悠然いうぜんとして、片手かたてあやつりはじめながら、片手かたてみづとき白鷺しらさぎ一羽いちはひながらりて、みよしまつたのである。
 いや、そんなことより、力餅ちからもちさへはぬ二人ふたりが、辨當べんたうのうまさうなのに、ごくりと一所いつしよをのんでおなかいてたまらない。……船頭おやぢさい糠鰊こぬかにしんで。……
 これにはいわしもある――糠鰯こぬかいわしおそるべきものに河豚ふぐさへある。這個糠漬このぬかづけ大河豚おほでつぱう
 なんと、糠河豚ぬかふぐを、紅葉先生こうえふせんせい土産みやげていしたをとこがある。たべものにけては、中華亭ちうくわていむすめはこ新栗しんぐりのきんとんから、町内ちやうない車夫しやふ内職ないしよく駄菓子店だぐわしみせ鐵砲玉てつぱうだままで、おもむきかいしないではかないかただから、おそ朝御飯あさごはん茶漬ちやづけで、さら/\。しばらくすると、玄關げんくわんふすまが、いつになく、めうしづかいて、懷手ふところですこうつした先生せんせいが、
いづみ。」
「は。」
「あの、河豚ふぐは、おまへつたか。」
故郷くにでは、惣菜そうざいにしますんです。」
「おいら、すこはらいたむんだがな。」
先生せんせい河豚ふぐ中害あたつて、いたことはないんださうです。」
「あゝ、うか。」
 すつと、のまゝ二階にかいへ、――
 いま、瀧太郎たきたらうさんは、まじろがず、一段いちだん目玉めだまおほきくして、しかぬかにぶく/\とれてあま河豚やつふからおどろく。
 新婚當時しんこんたうじ四五年しごねん故郷こきやうかへりみなかつた時分じぶん穗科閣下ほしなかくかは、あゝ糠鰊こぬかにしんひたいな、と暫々しば/\つて繰返くりかへした。
はれるものかね。」
「いや、うでない、あれは珍味ちんみぢやぞ。」
 そののち歸省きせいして、新保村しんぼむらからかへつて、
つたよ。――つたがね、……うもなんぢや、おもつたほどでなかつたよ。」
 うだらう。日本橋にほんばし砂糖問屋さたうどんや令孃れいぢやうが、圓髷まるまげつて、あなたや……あぢしんぎれと、夜行やかうさけをしへたのである。糠鰊こぬかにしんがうまいものか。
 さて、ばん伏木ふしきとまつた。

 夜食やしよくぜんで「あゝあ、なんだいれは?」給仕きふじてくれた島田髷しまだまげ女中ねえさんが、「なまづですの。」なまづ魚軒さしみつめたい綿屑わたくづ頬張ほゝばつた。勿論もちろん宿錢やどせんやすい。いや、あつものはず、なまづいた。洒落しやれではなしにおどろいた。みなとまへなまづさら、うらなつておもふに、しけだなあ。――かぜ模樣もやうは……まあどうだらうと、此弱蟲このよわむし悄々しを/\と、少々せう/\ぐらつく欄干らんかんりかゝると、島田しまだがすつとつて……九月くぐわつ初旬しよじゆんでまだ浴衣ゆかただつた、そでむで、しろうみうへへさしのべた。※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチ屋根やねなゝめに、やまへかゝつてさつなびいた。「模樣もやうでは大丈夫だいぢやうぶです。」わたしうれしかつた。
 おなじ※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチでも、金澤かなざは貸本屋かしほんや若妻わかづまふのが、店口みせぐち暖簾のれんかたけた半身はんしんで、でれりとすわつて、いつも※(「巾+白」、第4水準2-8-83)ハンケチくちくはへて、うつむいてせたは、永洗えいせん口繪くちゑ艷冶えんやてい眞似まねて、おほいなるものであつたが、これはせずして年方としかた插繪さしゑ清楚せいそであつた。
 ところ汽船きせんは――うそだの、裏切うらぎつたのと、生意氣なまいきことふな。直江津なほえつまで、一人前いちにんまへ九錢也きうせんなり。……明治二十六七年頃めいぢにじふろくしちねんごろこととこそいへ、それで、午餉ひる辨當べんたうをくれたのである。うつははたとへ、ふたなしの錻力ブリキで、石炭せきたんくささいが、車麩くるまぶたの三切みきれにして、「おいた。まだ、そつちにもか――そらた。」で、帆木綿ほもめんまくしたに、ごろ/\した連中れんぢうくばつたにせよ。
 一杯いつぱい……無事ぶじ直江津なほえつ上陸じやうりくしたが、時間じかんによつて汽車きしや長野ながのまつた。扇屋あふぎやだつたか、藤屋ふぢやだつたか、土地とちほしくらかつた。よくおぼえてはないが、玄關げんくわんかゝると、出迎でむかへた……お太鼓たいこむすんだ女中ぢよちうひざまづいて――ヌイと突出つきだした大學生だいがくせいくつがしたが、べこぼこんとたるんで、其癖そのくせこはいのがごそりとげると……靴下くつしたならまだい「なに體裁ていさいなんぞ、そんなこと。」邊幅へんぷくしうしないをとこだから、紺足袋こんたびで、おやゆびさきおほきなあなのあいたのが、油蟲あぶらむしはさんだごとあらはれた。……かれ金釦きんぼたん制服せいふくだし、此方こつちはかまなしの鳥打とりうちだから、女中ぢよちう一向いつかうかまはなかつたが、いや、なにしても、くつ羊皮ひつじがは上等品じやうとうひんでも自分じぶんはうささうである。すこ氣障きざだが、色氣いろけがあるのか、人事ひとごとながら、わたしぢた。
 ……おもことがある。淺草あさくさ田原町たはらまち裏長屋うらながやころがつてとき春寒はるさむころ……足袋たびがない。……もつと寒中かんちうもなかつたらしいが、うも陽氣やうきむかつて、何分なにぶん色氣いろけづいたとえる。足袋たびなしでは仲見世なかみせ出掛でかにくい。押入おしいれでふと見附みつけた。裏長屋うらながやのあるじとふのが醫學生いがくせいで、内證ないしようあやしみやくつたから、白足袋しろたびもちゐる、その薄汚うすよごれたのが、片方かたつぽしか大男おほをとこのだからわたしあしなんぞふたはひる。細君さいくん内證ないしようで、ひだり穿いた――で仲見世なかみせへ。……晝間ひるま出掛でかけられますか。つて路次ろじて、觀世音くわんぜおん參詣さんけいした。御利益ごりやくで、怪我けがもしないで御堂おどうからうらはうへうか/\と※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはつて、ざう野兎のうさぎ歩行あるきツくら、とちんかたちくと、たちまのちらつくくらがりに、眞白まつしろかほと、あを半襟はんえり爾側りやうがはから、
「ちよいと、ちよいと、ちよいと。」
白足袋しろたびにいさん、ちよいと。」
 わたし冷汗ひやあせながして、一生いつしやう足袋たびたうとおもつた。
 のちに――丸山まるやま福山町ふくやまちやうに、はじめて一葉女史いちえふぢよしたづねたかへぎはに、えりつき、銀杏返いてふがへし、前垂掛まへだれがけ姿すがたに、部屋へやおくられてると、勝手元かつてもとから、島田しまだの十八九、色白いろじろで、のすらりとした、これぞ――ついあひだなくつた――いもうとのおくにさん、はら/\とて、
「お麁末樣そまつさま。」
 と、をつかれたときは、あしすくんだ。下駄げた穿かうとする、足袋たびさきおほきなあながあつたのである。
 衣類きものより足袋たびく。江戸えどではをんな素足すあしであつた。のしなやかさと、やはらかさと、かたちさを、春信はるのぶ哥麿うたまろ誰々たれ/\にもるがい。就中なかんづく意氣いきむき湯上ゆあがりのあしを、しなに、もう一度いちどあつひたしてぐいとげて、ゆきにうつすりと桃色もゝいろしたつまさきに下駄げた引掛ひつかけたとふ。モダンの淑女しゆくぢよ……きものは不斷着ふだんぎでも、足袋たび黄色きいろよごれない、だぶ/\しないしわらないのにしてほしい。練出ねりだときことである。はたらくとへば、せつちがふ。眞黒まつくろだつてやぶれてたつて、煤拂すゝはらひ大掃除おほさうぢにはかまふものか、これもみぐるしからぬもの、塵塚ちりづかちりである。
 ――ときに、長野泊ながのどまりの翌日よくじつ上野うへのへついて、つれとは本郷ほんがうわかれて、わたし牛込うしごめ先生せんせい玄關げんくわんかへつた。其年そのとしちゝをなくしために、多日しばらく横寺町よこでらまち玄關げんくわんはなれてたのであつた。むやうに、門外もんそとやなぎくゞつて、格子戸かうしどまへうめのぞくと、二疊にでふ一人ひとりつくゑひかへてた書生しよせいて、はじめてつた、春葉しゆんえふである。十七だから、ひげなんかやさない、五分刈ごぶがりながかほで、仰向あふむいた。
先生せんせい。……おくさんは。……唯今たゞいまかへりました。」
「あゝ、泉君いづみくんですか。……先生せんせいからうかゞつてぞんじてります。うもうらしいとおもひました。ぼく柳川やながはふものです。此頃このごろからまゐつてります。」
「や、ようこそ、……うぞ。」
 慇懃いんぎんで、なかがい。これから秋冷しうれい相催あひもよほすと、次第しだいに、燒芋やきいもひツこ、煙草たばこ割前わりまへにらつて喧嘩けんくわをするのだが、――一篇いつぺんにはあづかはう至當したうらしい。
 ところで――ちゝの……危篤きとく……生涯しやうがい一大事いちだいじ電報でんぱうで、とし一月いちぐわつせついまだ大寒たいかんに、故郷こきやう駈戻かけもどつたをりは、汽車きしやをあかして、敦賀つるがから、くるまだつたが、武生たけふまででれた。みち十一里じふいちりだけれども、山坂やまさかばかりだから捗取はかどらない。むかし前田利家まへだとしいへ在城ざいじやう武生たけふやなぎみづをんな綺麗きれい府中ふちうである。

 佐久間玄蕃さくまげんば中入なかいり懈怠けたいのためか、柴田勝家しばたかついへしづたけ合戰かつせんやぶれて、城中じやうちう一息ひといき湯漬ゆづけ所望しよまうして、悄然せうぜんきたさうへとちてく。ほどもあらせず、かちつたる秀吉ひでよし一騎驅いつきがけにうませると、こしよりさいいだし、さらりとつて、れは筑前守ちくぜんのかみぞや、又左またざ又左またざ鐵砲てつぱうつなと、大手おほて城門じやうもんひらかせた、大閤たいかふ大得意だいとくい場所ばしよだが、そんなゆめず、もだかした。翌朝よくてうまだ薄暗うすぐらかつたが、七時しちじつたくるまが、はずむ酒手さかてもなかつたのに、午後ごご九時くじふのに、金澤かなざは町外まちはづれの茶店ちやみせいた。屈竟くつきやうわかをとこふでもなく年配ねんぱい車夫くるまやである。一寸ちよつと話題わだいにはらうとおもふ、武生たけふから道程みちのりじつ二十七里にじふしちりである。――深川ふかがはくるま永代えいたいさないのを見得みえにする……とつたもので、上澄うはずみのいゝところつてかすゆづる。きやくからめてつた賃銀ちんぎんあたまでつかちにつかんでしりつこけに仲間なかまおとすのである。そんな辣腕らつわんたちちがつても、都合上つがふじやう勝手かつてよろしきところくるまへるのが道中だうちう習慣ならはしで、出發點しゆつぱつてんで、とほし、とめても、そんな約束やくそくとほさない。が、親切しんせつ車夫くるまやは、そのしんずるものにつて、たのまれたきやくわたすまでは、建場々々たてば/\を、幾度いくたび物色ぶつしよくするのが好意かういであつた。で、十里じふり十五里じふごり大抵たいていく。廿七里にじふしちりのうちにつたのにははじめて出逢であつた。……
 不忍しのばずいけ懸賞けんしやうづきの不思議ふしぎ競爭きやうさうがあつて、滿都まんとさわがせたことがある。いけ内端うちわ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはつて、一周圍ひとまはり一里強いちりきやうだとふ。いけを、あさから日沒につぼつ[#ルビの「につぼつ」はママ]まで、歩調ほてう遲速ちそくろんぜぬ、大略おほよそ十五時間じふごじかんあひだに、※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)いくまはりか、囘數くわいすうおほいのをもつ勝利かちとする。……間違まちがつたら、ゆるしツこ、たしか、たう時事新報じじしんぱうもよほしであつたとおもふ。……二人ふたりともまだ玄關げんくわんたが、こんなこと大好だいすきだから柳川やながは見物けんぶつ參觀さんくわんか、參觀さんくわんした。「三人さんにんばかりたふれてたよ、驅出かけだすのなんざ一人ひとりない、……みんうでんで、のそり/\とくさんで歩行あるいてたがね、あのくさむのが祕傳ひでんださうだよ、なかにはぐつたりとくびれてなんとも分別ふんべつあまつたとかほをしてたのがあります。見物けんぶつやままち一杯いつぱいさ。けれども、なん機掛きつかけもなしに、てくり/\だから、へんがした。――眞晝間まつぴるまつきものがしたか、ばかされてでもるやうで、そのね、ふさんだをとこなんざ、少々せう/\氣味きみわるかつた。なにしろみな顏色かほいろさをです」――此時このとき選手せんしゆ第一だいいちしやうたのは、いけをめぐること三十幾囘さんじふいくくわい翌日よくじつ發表はつぺうされて、としは六十にあまる、らう神行太保戴宗しんぎやうたいほたいそうは、加州かしう小松こまつ住人ぢうにん、もとの加賀藩かがはん飛脚ひきやくであつた。

 頃日このごろく――當時たうじ唯一ゆいつ交通機關かうつうきくわん江戸えど三度さんどとなへた加賀藩かがはん飛脚ひきやく規定さだめは、高岡たかをか富山とやまとまり親不知おやしらず五智ごち高田たかだ長野ながの碓氷峠うすひたうげえて、松井田まつゐだ高崎たかさき江戸えど板橋いたばしまで下街道しもかいだう百二十里半ひやくにじふりはん――丁數ちやうすう四千三十八を、早飛脚はやびきやく滿五日まんいつかふゆ短日たんじつおいてさへこれにくはふることわづか一日いちじつ二時にときであつた。常飛脚じやうひきやくなつ三月さんぐわつより九月くぐわつまで)の十日とをか――滿八日まんやうかふゆ十月じふぐわつより二月にぐわつまで)の十二日じふににち――滿十日まんとをかべつとして、はやはう一日いちにち二十五里にじふごり家業かげふだとふ。家業かげふ奮發ふんぱつすれば、あと三里さんり五里ごりはしれようが、それにしても、不忍池しのばずいけ三十幾囘さんじふいくくわい――いはんや二十七里にじふしちりづけの車夫くるまや豪傑がうけつであつた。つたものにとくはない。が、ほとん奇蹟きせきはねばならない。
 が、かほおぼえず、をしむらくはかなかつたのは、ちゝのなくなつために血迷ちまよつたばかりでない。幾度いくたび越前街道ゑちぜんかいだう往來ゆききれて、ちんさへあれば、くるまはひとりで驅出かけだすものと心得こゝろえたからである。しかし、上下じやうげには、また隨分ずゐぶん難儀なんぎもした。
 炎天えんてんうみなまりかして、とろ/\とひとみる。かぜは、そよともかない。斷崖だんがいいはしほけづつてしたす。やまにはかげもない。くさいきれはまぼろしけむりく。八月はちぐわつ上旬じやうじゆん……敦賀灣つるがわん眞上まうへ※(「石+角」、第3水準1-89-6)かうかくたる岨道そばみちを、くるま大日枝山おほひだやまよぢたのであつた。……
 上京じやうきやうして、はじめの歸省きせいで、それが病氣びやうきのためであつた。其頃そのころ學生がくせい肺病はいびやうむすめてた。書生しよせい脚氣かつけ年増としまにもかない。今以いまもつきもてもしないだらうから、御婦人方ごふじんがたには内證ないしようだが、じつ脚氣かつけで。……しか大分だいぶ手重ておもかつた。おもいほど、ぶく/\とむくんだのではない、が、乾性かんせいしようして、その、せるはうかへつたちわるい。

 午飯おひるに、けんちんをべていた。――なつことだし、先生せんせい令夫人れいふじん心配しんぱいをなすつて、お實家方さとかたがお醫師いしやだから、玉章ふみいたゞいて出向でむくと、診察しんさつして、打傾うちかたむいて、また一封いつぷう返信へんしよさづけられた。寸刻すんこくはや轉地てんちを、とふのだつたさうである。わたしは、いまもつて、けつしてけんちんをはない。江戸時代えどじだい草紙さうしなかに、まつもどきと料理れうりがある。たづぬるにくはしからず、宿題しゆくだいにしたところ近頃ちかごろ神田かんだそだつた或婦あるをんなをしへた。茄子なす茗荷めうがと、油揚あぶらあげ清汁つゆにして、薄葛うすくづける。至極しごく經濟けいざい惣菜そうざいださうである。いさゝかけんちんにるから、それさへもとほおもんぱかる。
 重湯おもゆか、薄粥うすがゆあるひ麺麭パン少量せうりやうはれたけれども、汽車きしやで、そんなものはられなかつた。乘通のりとほしは危險きけんだから。……で、米原まいばらとまつたが、羽織はおりない少年せうねんには、かゆてくれぬ。から翌日よくじつ。――
 ――いま、くるま日盛ひざかりを乘出のりだすまで、ほとんくちにしたものはない。直射ちよくしやするひかりに、くるまさかなやんでほろけぬ。洋傘かうもりたない。たてふゆ鳥打帽とりうちばうばかりである。わたしかた呼吸いきあへいだ。あまつさ辿たどむか大良だいらたけ峰裏みねうらは――此方こちらひとりむしほどのくもなきにかゝはらず、巨濤おほなみごとくもみね眞黒まつくろつて、怨靈をんりやう鍬形くはがた差覗さしのぞいてはえるやうな電光いなびかりやまくうつた。――動悸どうきをどつて、心臟しんざうけむとする。
 わたしは、先生せんせいなつ嘉例かれいとしてくだすつた、水色みづいろきぬべりをとつた、はい原製ばらせいすゞしい扇子あふぎを、ひざめて、むねしかつて車上しやじやう居直ゐなほつた。しかしてだいつて極暑ごくしよ一文いちぶんこゝろあんじた。とつ! 心頭しんとう滅却めつきやくすればなんとかで、さとればさとれるのださうだけれど、あついからあつい。さとることなんぞはいまもつて大嫌だいきらひだ。……
なんぢ炎威えんゐたゝかへ、うみやまくさいし白熱はくねつして、なんぢまなこくらまんとす。て、痩躯そうくをかつて、そでかざして病魔びやうまたてせよ。隻手せきしゆはらつてれ。たゝかひはよわし。あしはふるふとも、こゝろそらはせよ。しからずんば……
 などと、いやうも氣恥きはづかしいが、其處そこたふれまいと、一生懸命いつしやうけんめい推敲すゐかうした。このために、炎天えんてん一滴いつてきあせなかつたのは、あへうた雨乞あまごひ奇特きどくではない。める青草あをくさえむとしてみづかわいたのであつた。
 けれども、ふゆ鳥打帽とりうちばうかむつた久留米絣くるめがすり小僧こぞうの、四顧しこ人影ひとかげなき日盛ひざかりを、一人ひとりくもみねかうして勇氣ゆうきは、いまあいする。
こゝろそらはせよ。しからずんば――くるしいから、繰返くりかへして、
なんぢ炎威えんゐたゝかへ。うみやまも、くさいし白熱はくねつしてなんぢまなこくらまんとす。て……
 うゝ、と意氣込いきごむと、車夫くるまやながるゝあせひたひふるつて、
「あんたもあつからうなあ――や、あをかほをして!……もちよツとで茶屋ちややがあるで、みづなどまつせえ。」
 みづを……みづをとたゞつたのに、山蔭やまかげあやしき伏屋ふせや茶店ちやみせの、わか女房にようばうは、やさしく砂糖さたうれて硝子盃コツプあたへた。藥師やくし化身けしんやうおもふ。ひとなさけは、ときに、あはれなる旅人たびびとめぐまるゝ。わかいものは活返いきかへつた。

 僥倖さいはひらいこえなかつた。可恐おそろ夕立雲ゆふだちぐもは、くるまくにつれて、たうげをむかうさがりに白刃しらはきたかへした電光でんくわうとともにふもとくづれてはしつたが、たそがれの大良だいら茶屋ちやや蚊柱かばしらすさまじかつた。片山家かたやまがおそ縁柱えんばしら暗中くらがりに、しにして、もだえてふるうでからは、れた。なやましさを、がけたきのやうな紫陽花あぢさゐあをくさむらなかむでひやしつゝ、つものくるはしく大輪おほりんあゐいだいて、あたかわれ離脱りだつせむとするたましひ引緊ひきしむるおもひをした。……紫陽花あぢさゐみづのやうなつた。――一夕立ひとふゆだちしてぎながら、たうげにはみづがなかつたのである。
 やがて、ほししたあめとともにながれのはしる、武生たけふ宿やどいたのであつた。
 一宿ひとやどり。一宿ひとやどりして、こゝを、またこゝからつて、大雪おほゆきなか敦賀つるがしたこともある。くるまはきかない。俥夫くるまやあさまだき提灯ちやうちん道案内みちあんないつた。むらかゝると、降積ふりつもつた大竹藪おほたけやぶ弓形ゆみなりあつしたので、眞白まつしろ隧道トンネルくゞときすゞめが、ばら/\と千鳥ちどり兩方りやうはう飛交とびかはして小蓑こみのみだつばさに、あゐ萌黄もえぎくれなゐの、おぼろ蝋燭らふそくみだれたのは、ひわ山雀やまがらうそ目白鳥めじろなどのかりねぐらおどろいてつのであつた。
 たうげのぼつて、案内あんないわかれた。前途ぜんとたゞ一條ひとすぢみねたにも、しろ宇宙うちうほそふ、それさへまたりしきるゆきに、る/\、あし一歩ひとあしうづもれく。
 まとつた毛布けつとしろつた、ひとつめたい粉蝶ふんてふつてえむとする。
むかし快菴禪師くわいあんぜんじ大徳だいとこひじりおはしましけり。總角わかきより教外けうぐわいむねをあきらめたまひて、つね雲水うんすゐにまかせたまふ……
 ほとん暗誦あんせうした雨月物語うげつものがたり青頭巾あをづきん全章ぜんしやうを、ゆきにむせつゝたからかに朗讀らうどくした。
禪師ぜんじ見給みたまひて、やがて禪杖ぜんぢやうとりなほし、※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)そもさん何所爲なんのしよゐぞと一喝いつかつして、かれかうべうちたまへば、たちまちこほり朝日あさひふがごとせて、かの青頭巾あをづきんほねのみぞ草葉くさばにとゞまりける。
 あたりは蝙蝠傘かうもりがさかついで、やごゑけて、卍巴まんじともえを、薙立なぎた薙立なぎた驅出かけだした。三里さんり山道やまみち谷間たにまたゞ破家やぶれや屋根やねのみ、わし片翼かたつばさ折伏をれふしたさまなのをたばかり、ひとらしいもののかげもなかつたのである。ふたつめのたうげ大良だいらからは、岨道そばみち一方いつぱううみ吹放ふきはなたれるのでゆきうすい。くるま敦賀つるがまで、やつつうじた。
 街道かいだう幾返いくかへり。さもあらばあれ、くるしいおもひばかりはせぬ。
 紺青こんじやううみ千仭せんじんそこよりしてにじたてつてげると、たまはしおとてて、くるまに、みちに、さら/\とくれなゐけての、ひとつ/\のまゝにうみかげうつして、尾花をばな枯萩かれはぎあをい。つきならぬ眞晝まひる緋葉もみぢくゞつて、あふげばおな姿すがたに、とほたかみね緋葉もみぢ蒼空あをぞらつてうみる……
鹿じかなく山里やまざとえいじけむ嵯峨さがのあたりのあきころ――みねあらし松風まつかぜか、たづぬるひとことか、覺束おぼつかなくおもひ、こまはやめてくほどに――
 カーン、カーンとかねおとほそひゞく。つかもりえのきに、線香せんかうけむりあはち、こけいしやしろには燈心とうしんくらともれ、かねさらこだまして、おいたるはうづくまり、をさなきたちはつどふ、やまかひなるさかひ地藏ぢざうのわきには、をんなまへいて、あからさまにえりさぐわかをとこ。ト板橋いたばし欄干らんかん俯向うつむいて尺八ひとよぎり一人ひとりた。
 天上てんじやうか、奈落ならくか、山懷やまふところ大釜おほがまのまゝに、すごいほど色白いろじろをんな行水ぎやうずゐする姿すがたた。

書生しよせいさん、東京とうきやうれてつて――」
 あかたすきそらざまに、若苗わかなへくるまげて、たかわらつたむすめもある。……
おもしろいぞえ、きやうまゐみちは、のぼしうもある下向げこもある。
 なんたくみもないが、松並木まつなみきあひ宿々しゆく/″\山坂やまさかけ、道中だうちう風情ふぜいごとし。――これは能登のと越中ゑつちう加賀かがよりして、本願寺ほんぐわんじまゐりの夥多あまた信徒しんとたちが、ころほとん色絲いろいとるがごとく、越前ゑちぜん――上街道かみかいだう往來ゆききしたおもむきである。
 はれくもりまたつきとなり、かぜとなり――ゆきには途絶とだえる――往來わうらいのなかを、がた/\ぐるまも、車上しやじやうにして、悠暢いうちやうと、はなとりきつゝとほる。……
 かゝおもむきつたため、わたし一頃ひところ小遣錢こづかひがあると、東京とうきやうまちをふら/\とくるま歩行あるくせがあつた。淺草あさくさでも、銀座ぎんざでも、上野うへのでも――ひと往來ゆききみせかまへ、千状萬態せんじやうばんたい一卷ひとまき道中だうちう織込おりこんで――また内證ないしようだが――大福だいふくか、金鍔きんつばを、かねたもとしのばせたのを、ひよいとる、早業はやわざ太神樂だいかぐらまりしのぐ……たれるまい。……じつは、一寸ちよつとりて蕎麥そばにしたいところだが、かけ一枚いちなんぞは刹那主義せつなしゆぎだ、泡沫夢幻はうまつむげん、つるりとえる。俥代くるまだい差引さしひくとそのいづれかをえらばねばならないふところだから、其處そこ餡氣あんけで。金鍔きんつば二錢にひやく四個よんこあつた。四海しかいなみしづかにしてくるまうへ花見はなみのつもり。いやうもはなしにならぬ。が意氣いきもつてして少々せう/\工面くめんのいゝ連中れんぢうたれ自動車じどうしや……ゑんタクでもい。蕎麥そばくひながらばしてないか。こひねがはくは駕籠かご二挺にちやうならべて、かむろに掻餅かきもちかせながら、鈴鹿越すゞかごえをしたのであると、をさまりかへつたおらんだ西鶴さいかくむかうに※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まはして、京阪成金かみがたなりきん壓倒あつたふするにらうとおもふ。……
 とき蕎麥そばへば――ていと――なし。――なんだか三題噺さんだいばなしのやうだが、姑忘聽之しばらくわすれてきけていふのは、かつて(いまうだらう。)なしべるとふとふ。やつがあるものかと、みなわらふと、「ひますさ。」とぶつ/\ふ。對手あひてにしないと「ぼくふとしんずるさ。」とほゝへこましてはらてた。

 わかときことだ。いまではかまふまい、わたしてい二人ふたりで、宿場しゆくばでふられた。草加さうかあめつたのではない。四谷よつやはづれで、二人ふたりともきらはれたのである。
「おい。」
 とてい陰氣いんきおこつた。
「こんなかた蕎麥そばはれるかい。場末ばすゑだなあ。」
 と、あはれや夕飯ゆふめし兼帶けんたいだいざるはしげた。ものだと、あるひはおとなしくだまつてたらう。が、對手あひてがばらがきだからたまらない。
「……蕎麥そばかたいのは、うちたてさ、フヽンだ。」
 うだ、うちたての蕎麥そばは、蕎麥そば下品げひんではだんじてない。胃弱ゐじやくにして、うちたてをこなしないがゆゑに、ぐちやり、ぐちやりと、つばとともに、のびた蕎麥そばむのは御勝手ごかつてだが、そのしたで、時々とき/″\作品さくひん批評ひへうなどするとく。――さぞうちたての蕎麥そばのゝしつて、なしつてることだらう。まだそれ勝手かつてだが、かくごと量見りやうけんで、紅葉先生こうえふせんせい人格じんかく品評ひんぺうし、意圖いと忖度そんたくしてはゞからないのは僭越せんゑつである。
 わたし怯懦けふだだ。衞生ゑいせいおどかされて魚軒さしみはない。が、魚軒さしみ推重すゐちようする。そのきらひなのは先生せんせい所謂いはゆるしゞみきらひなのではなくて、しゞみきらはれたものでなければならない。
 あさるとだいしたが、つむひもせぬ、これは浴衣ゆかたがけの縁臺話えんだいばなし。――
 すこすゞしくつた。
 あつさはうです。……まだみん/\ぜみきませんね、とふうちに、今年ことし土用どようあけの前日ぜんじつからとほくにこえた。カナ/\は土用どようあけて二日ふつかの――大雨おほあめがあつた――あのまへからした。
 蒸暑むしあついのがつゞくと、蟋蟀こほろぎこゑ待遠まちどほい。……此邊このあたりでは、毎年まいねん春秋社しゆんじうしや眞向まむかうの石垣いしがき一番いちばんはやい。震災前しんさいぜんまでは、たいがい土用どよう三日みつか四日よつかめのよひからきはじめたのが、年々ねん/\、やゝおくれる。……あきおそかつた。
 それ、自動車じどうしやたぜ、とをんなまじりで、道幅みちはゞせまい、しば/\縁臺えんだいつのだが、くるまめづらしいほどである。これから、相乘あひのり――とところを。……おゝ、銀河あまのかはえる――初夜しよやすぎた。
大正十五年九月―十月





底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
   1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
   1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
初出:「時事新報 第一五五二九号〜一五五四四号」時事新報社
   1926(大正15)年9月23日〜10月8日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「車夫」に対するルビの「くるまや」と「しやふ」と「わかいしゆ」、「船頭」に対するルビの「せんどう」と「おやぢ」の混在は、底本の通りです。
※表題は底本では、「あさる」となっています。
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2018年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●図書カード