郵便配達が巡査のやうな靴音をさして入つて來た。
「福島磯……といふ人が居ますか。」
彼は
道頓堀の夜景は
「福島磯……此處だす、此處だす。」と忙しいお文は、銀場から白い手を差し出した。男も女も、襷がけでクル/\と郵便配達の周圍を

「標札を出しとくか、何々方としといて貰はんと困るな。」
怖い顏をした郵便配達は、かう言つて、一間も
四十人前といふ前茶屋の大口が燒き上つて、二階の客にも十二組までお愛そ(勘定の事)を濟ましたので、お文は漸く膝の下から先刻の厚い封書を取り出して、先づ其の外形からつく/″\見た。手蹟には一目でそれと見覺えがあるが、出した人の名はなかつた。消印の「東京中央」といふ字が不明瞭ながらも、兎も角讀むことが出來た。
「何や、
小さく獨り言をいつて、お文は厚い封書を其のまゝ銀場の金庫の抽斗に入れたが、暫くしてまた取り出して見た。さうして封を披くのが怖ろしいやうにも思はれた。
「福島磯……
お文はかう思つて、またつく/″\と厚い封書の宛名の字を眺めてゐた。
一しきり立て込んだ客も、二階と
新まいの雇女にお客と間違へられて、お文の叔父の源太郎が入つて來た。
「お出でやアす。」と、新まいの女の叫んだのには、一同が笑つた。中には腹を抱へて笑ひ崩れてゐるものもあつた。
「をツさん、えゝとこへ來とくなはつた。今こんな手紙が來ましたのやがな。獨りで見るのも心持がわるいよつて、電話かけてをツさん呼ばうと思うてましたのや。」
お文は女どものゲラ/\とまだ笑ひ止まぬのを、見向きもしないで、銀場の前に立つた叔父の大きな身體を見上げるやうにして、かう言つた。
「手紙テ、何處からや。……福造のとこからやないか。」
源太郎は年の
其處には箪笥やら蠅入らずやら、さま/″\の家具類が物置のやうに置いてあつて、人の坐るところは疊一枚ほどしかなかつた。其の狹い空地へ大きく
「
勘定の危まれた二階の客の、銀貨銅貨取り混ぜた拂ひを檢めて、それから新らしい客の通した麥酒と鮒の
「さうか、矢ツ張り福造から來たんか、何言うて來たんや。……また金送れか。分つてるがな。」
源太郎は眼をクシヤ/\さして、店から射す灯に透かしつゝ、覗くやうに封書の
「をツさんに先き讀んで貰ひまへうかな。……
かうは言つてゐるものの、封書は固くお文の手に握られて、源太郎に渡さうとする容子は見えなかつた。
「お前、先きい讀んだらえゝやないか。……お前とこへ來たんやもん。」
「私、何や知らん、怖いやうな氣がするよつて。」
「阿呆らしい、何言うてるのや。」
冷笑を鼻の

「そんなら
氣輕に尻を上げて、お文は叔父と板前の金太とに物を言ふと、厚い封書を握つたまゝ、薄暗い三疊へ入つた。
「よし來た、代らう。どツこいしよ。」と、源太郎は太い腰を浮かして、煙管を右の手に、煙草入を左の手に攫んで、お文と入れ代りに銀場へ坐つた。
豆絞りの手拭で鉢卷をして、すら/\と機械の

「此處へも電氣點けんと、どんならんなア。阿母アはんは
がらくたの載つてゐる三疊の棚を、手探りでガタゴトさせながら、お文は聲高に獨り言のやうなことを言つてゐたが、やがてパツと燐寸を擦つて、手燭に灯を點けた。
河風にチラ/\する蝋燭の灯に透かして、一心に長い手紙を披げてゐる、お文の肉附のよい横顏の、白く光るのを、時々振り返つて見ながら、源太郎は、姪も最う三十六になつたのかなアと、
毛絲の辨當嚢を提げて、「福島さん學校へ」と友達に誘はれて小學校へ通つてゐた姪の後姿を毎朝見てゐたのは、ツイ此頃のことのやうに思はれるのに、と、源太郎はまださう思つて、聟養子を貰つた婚禮の折の外は、一度も外の髮に結つたことのない、お文の新蝶々を、
「何んにも書いたらしまへんがな。……長いばツかりで。……病氣で困つてるよつて金送れと、それから子供は何うしてるちふことと、……今度といふ今度は懲り/\したよつて、あやまるさかい元の鞘へ納まりたいや、……決つてるのや。」
口では何でもないやうに言つてゐるお文の眼の、異樣に輝いて、手紙を見詰めてゐるのが、蝋燭の光の中に淡く見出された。
「まアをツさん、讀んで見なはれ。面白おまツせ。」
氣にも止めぬといふ風に見せやうとして、
「どツこいしよ。」と、源太郎はまた重さうに腰を浮かして、手燭の點けツぱなしになつてゐる三疊へ、大きな身體を這ひ込むやうにして坐つた。煙管はまだ先刻から一服も吸はずに、右の手へ筆を持ち添へて握つてゐた。
「をツさん、筆……筆。」と、お文は銀場の筆を叔父の手から取り戻して、
源太郎は、蝋燭の火で
「其の
手紙を三四行讀みかけた時、お文がこんなことを言つたので、源太郎は手紙の上に俯いたなりに、首を捻ぢ向けて、お文の方を見た。
「福造の居よる時から、さう言うてたがな、お文よりお磯の方がえゝちうて、福島と島やさかい、磯と文句が續いてえゝと、私が福造に言うてたがな。……それで書いて來よつたんや。われの名も福島福造……は福があり過ぎて惡いよつて、福島理記といふのが、劃の數が良いさかい、理記にせいと言うてやつたんやが、さう書いて來よれへんか。……
好きな姓名判斷の方へ、源太郎は話を總て持つて行かうとした。
「やゝこしおますな、皆んな名が二つづゝあつて。……けど福造を理記にしたら、少しは増しな人間になりますか知らん。」
世間話をするやうな調子を裝うて、お文は家出してゐる夫の判斷を聞かうとした。
「名を變へてもあいつはあかんな。」
そツ氣なく言つて、源太郎は身體を眞ツ直ぐに胡坐をかき直した。お文はあがつた蒲燒と玉子燒とを一寸
「この間も、選名術の先生に私のことを見て貰うた
到頭詰まつて了つた煙管を下に置いて、源太郎は沈み切つた物の言ひやうをした。お文は聞えぬ振りをして、板場の方を向いたまゝ、厭な/\顏をしてゐた。
源太郎がまた俯いて、讀みかけの長い手紙を讀まうとした時、下の
「おーい、……おーい、……讚岐屋ア。……おーい、讚岐屋ア。」
重い身體を、どツこいしよと浮かして、源太郎が腰硝子の障子を開け、水の上へ架け出した二尺の濡れ縁へ危さうに片足を踏み出した時、河の中からはまた大きな聲が聞えた。
「おーい、讚岐屋ア。……鰻で飯を二人前呉れえ。」
「へえ、あの……」と、變な返事をして、源太郎は河の中を覗き込んだが、色變りの廣告電燈が眩しく映るだけで、黒く流れた水の上のことは能く分らなかつた。
「をツさん、をツさん。」と、お文の聲が背後から呼ぶので、銀場を振り返ると、お文は兩手を左の腰の邊に當てて、長いものを横たへた身振りをして見せた。
「あゝ、サーベルかいな。」
漸く
「へえ、今直きに拵へて上げます。」と、黒い水の上に向つて叫んだ。
「さうか、早くして呉れ。」といふ聲の方を、瞳を定めてヂツと見下すと、眞下の石垣にぴツたりと糊付か何かのやうにくツ付いて、薄暗く油煙に汚れた赤い灯の點いてゐる小さな舟の中に、白い人影がむく/\と二つ動いてゐた。其の白い人影の一つが急に黒くなつたのは、外套を着たのらしかつた。
通し物の順番を追はずに、板前を急がせた水の上からの註文は直ぐ出來て、別に添へた一品の料理と香の物、茶瓶なぞとともに、こんな時の用意に備へてある長い綱の付いた平たい籠に入れて、源太郎の手で水の上へ手繰り下された。
「サンキユー。」と、妙な聲が水の上から聞えたので、源太郎は馬鹿々々しさうに微笑を漏らした。
雇女が一人三疊へ入つて來て、濡れ縁へ出て
「上町の旦那はん、……八千代はん、えらうおまんな。この夏
隨一の名妓と唄はれてゐる、富田屋の八千代の住む加賀屋といふ河沿ひの家のあたりは、
名妓の噂を始めた縮れ毛の、色の黒い、足の大きな雇女は、源太郎が何とも言はぬので、また欄干を叩いて喇叭節をやり出した。
手紙を前に披げて、ヂツと腕組をしてゐた源太郎は、稍暫くしてから、空になつた食器が籠に入つて雇女の手で河の中から
「これ、何んぼになるんやな。」と頓狂な聲を出した。
「よろしおますのやがな、お
算盤を彈きながら、お文が向うむいたまゝで言つたのと、殆んど同時に、總てを心得てゐる雇女は、濡れ縁から下を覗き込んで、
「よろしおます、お序の時で。」と高く叫んだ。水の上からも何か言つてゐるやうであつたが、意味は分らなかつた。やがて、赤い灯の唯一つ薄暗く煤けて點いてゐる小舟は、音もなく黒い水の上を滑つて、映る兩岸の灯の影を亂しつゝ、暗の中に漕ぎ去つた。
腕組をして考へてゐた源太郎は、また俯いて長い手紙に向つた。さうして今度は口の中で低く聲を立てて讀んでゐたが、讀み終るまでに稍長いことかゝつた。
お文は銀場から、其の鋭い眼で入り代り立ち代る客を送り迎へして、男女二十八人の雇人を萬遍なく立ち働かせるやうに、心を一杯に張り切つてゐた。夜の更けようとするに連れて、客の足はだん/\繁くなつた。暖簾を掲げた入口から、丁字形に階下の間と二階の階子段とへ通ふ
これから芝居の
「二十圓送れ……と書いてあるやないか。」と、源太郎は眼をクシヤ/\さしてお文の方を見た。
「さうだすな。」と、お文は輕く他人のことのやうに言つた。
「福造の借錢は、一體何んぼあるやらうな。」
疊みかけるやうにして、源太郎が言つたので、お文は忙しい中で胸算用をして、
「千圓はおますやらうな。」と、相變らず世間話のやうに答へた。
「この前に出よつた時は千二百圓ほど借錢をさらすし、其の前の時も彼れ是れ八百圓はあつたやないか。……今度の千圓を入れると、三千圓やないか。……
自然と皮肉な調子になつて來た源太郎の言葉を、お文は忙しさに紛らして、聞いてはゐぬ風をしながら、隅の方の暗いところでコソ/\話をしてゐる男女二人の雇人を見付けて、
「留吉にお鶴は何してるんや。この忙しい最中に……これだけの人數が喰べて行かれるのは、商賣のお蔭やないか。商賣を粗末にする者は、家に置いとけんさかいな、ちやツちやと出ていとくれ。」と、癇高い聲を立てた。男女二人の雇人は、雷に打たれたほどの驚きやうをして、パツと左右に飛んで立ち別れた。
「味醂屋へまた二十圓貸せちうて來たんやないか……味醂屋にはこの春家出する時三十圓借りがあるんやで。能うそんな厚かましいことが言はれたもんやな。」
何處までも追つかけるといつた風に、源太郎は、福造の棚卸をお文の背中から浴びせた。
「味醂屋どこやおまへん。去年家にゐて出前持をしてたあの久吉な、今島の内の丸利にゐますのや。あそこへいて、この春久吉に一圓借せと言ひましたさうだツせ。困つて來ると恥も外聞も分りまへんのやなア。」
また世間話をするやうな、何氣ない調子に戻つて、お文は
「味醂屋や酒屋や
染々と同情する言葉つきになつて、源太郎は太い溜息を吐いた。
「饂飩屋に丁稚をしてた時から、四十四にもなるまで、大阪に居ますのやもん、生れは大和でも、大阪者と同じことだすよつてな。
漸く他人のことではないやうな物の言ひ振りになつて、お文は廣く白い額へ青筋をビク/\動かしてゐた。
「あゝ、『
「鱧の皮の二杯酢が何より好物だすよつてな。……東京にあれおまへんてな。」
夫の好物を思ひ出して、お文の心はさま/″\に亂れてゐるやうであつた。
「鱧の皮、細う切つて、二杯酢にして一晩ぐらゐ漬けとくと、
堺の大濱に隱居して、三人の孫を育ててゐるお梶が、三歳になる
「阿母アはん、好いとこへ來とくなはつた。をツさんも來てはりますのや。」と、お文は嬉しさうな顏をして母を迎へた。
「お
「あばちやん、ばア。母アちやん、ばア。ぢいちやん、ばア。」と、お梶は歌のやうに節を付けて背中の孫に聞かせながら、ズウツと源太郎の胡坐をかいてゐる三疊へ入つて行つた。
背中から下された孫は、母の顏を見ても、大叔父の顏を見ても、直ぐベソをかいて、祖母の懷に噛り付いた。
「あゝ
「其の子が一番福造に似てよるな。」と、源太郎は重苦しさうな物の言ひやうをして、つく/″\と姉の膝の上の子供を見てゐた。
「性根まで似てよるとお仕舞ひや。」
笑ひながらお梶は、萎びた乳房を握つてゐる小さな手を
「男やと心配やが、女やよつて、まア安心だす。」
戰場のやうに店の忙しい中を、お文は銀場から背後を振り返つて、厭味らしく言つた。
それを耳にもかけぬ風で、お梶は弟の前の煙管を取り上げて、一服すはうとしたが、煙管の詰まつてゐるのに顏を顰めて、
「をツさん、また詰まつてるな。
「福造から手紙が來たある。……一寸讀んで見なはれ。」と、源太郎は厚い封書を姉の前に押しやつた。
「それ、福造の手紙かいな……
封書を一寸見やつただけで、お梶は顏を顰め/\、毒々しい黒い
「まア一寸でよいさかひ、其の手紙を讀んどくなはれ。それを讀まさんことにや話が出來まへん。」
「福造の手紙なら讀まんかて大概分つたるがな……眼がわるいのに、こんな灯で字が讀めやへん。何んならをツさん、讀んで聞かしとくれ。」
煙管を下に置いて、巧みな手つきで短くなつた蝋燭のシンを切つてから、お梶はスパ/\と快く通るやうになつた煙管で、
孫はまた祖母の膝に戻つて、萎びた乳も弄らずに、罪のない顏をして、すや/\と眠つて了つた。
「福造の手紙を
源太郎はかう言つて、構へ込むやうな身體つきをしながら、
「まア何んや、
怖い顏をして、ヂツと聽いてゐたお梶は、氣味のわるい苦笑を口元に湛へて、
「阿呆臭い、それやと
「奈良丸を千圓で三日買うて來て、千圓上つて、損得なしの元々やつたのが、福造の興行物の一番上出來やつたんやないか。……其の外の口は損ばつかり。あんなことに手を出したらどんならん。……一切合財興行物はせんこと。店の名義は戻つてから身持を見定め、自分の借錢のかたを付けてから、切り替へること。それから、何うあつても家出をせぬといふ一札を書くこと。……これだけを
もう四五年で七十の
銀場のお文は知らぬ顏をして帳面を繰つてゐた。
夜も十時を過ぎると、表の賑ひに變りはないが、店はズツと閑になつた。
「阿母アはん、今夜泊つて行きなはるとえゝな。……今から
漸と自分の身體になつたと思はれるまでに、手の隙いて來たお文は、銀場を空にして母の側に立つた。
「去ねんこともないが、寢た兒を連れて電車に乘るのも敵はんよつて、久し振りや、そんなら泊つて行かう。……をツさんは、もう
其の日の新聞を披げた上に
「あゝ、
「狹いよつてなア此處は、……此處へ寢ると、昔淀川の三十石に乘つたことを思ひ出すなア。……
「をツさん、
何もかも忘れて了つたやうに、氣輕な物の言ひやうをして、お文は早や身支度をし始めた。
「いといで。眼がわるなつたけど、こなひだまでしてた仕事やもん、閑な時の銀場ぐらゐ、これでも勤まるがな。」と身を起して、お梶はさツさと銀場へ坐つた。
「またもや御意の變らぬ中にや、……をツさん、さア行きまへう。」
元氣のよいお文を先きに立てて、源太郎は太い腰を曲げながら、ヨタ/\と店の暖簾を潛つて、賑やかな道頓堀の通りへ出た。
「牛に牽かれて善光寺參り、ちうけど、馬に牽かれて牛が出て行くやうやな。」と、お梶は眼をクシヤ/\さして、銀場の明るい電燈の下に微笑みつゝ、二人の出て行くのを見送つた。
筋向うの芝居の前には、赤い幟が出て、それに大入の人數が記されてあつた。其處らには人々が眞ツ黒に集まつて、花電燈の光を浴びつゝ、繪看板なぞを見てゐた。序幕から大切までを一つ一つ、俗悪な[#「俗悪な」はママ]、浮世繪とも何とも付かぬものにかき現した繪看板は、芝居小屋の表つき一杯に掲げられて、竹に雀か何かの模樣を置いた、縮緬地の幅の廣い縁を取つてあるのも毒々しかつた。
お文と源太郎とは、人込みの中を拔けて、褄を取つて行く紅白粉の濃い女や、
「千日前ちうとこは、洋服着た人の滅多に居んとこやてな。さう聞いてみると成るほどさうや。」と、源太郎は
「兵隊は別だすかいな。皆洋服着てますがな。」
路次の中には寄席もあつた。道が漸く人一人行き違へるだけの狹さなので、寄席の木戸番の高く客を呼ぶ聲は、通行人の鼓膜を突き破りさうであつた。藝人の名を書いた
「このお多福古いもんだすな。何年經つても
妙に感心した風の顏をして、お文はおかめ人形の前を動かなかつた。笑み
子供の折、初めてこのお多福人形を見てから、今日までに、隨分さま/″\のことがあつた。とお文はまたそんなことを考へて、これから後、この人形は何時までかうやつて笑ひ顏を續けてゐるであらうかとも思つてみた。
「死んだおばんが、子供の時からあつたと言うてたさかい、餘ツぽど古いもんやらうな。」
かう言つて源太郎も、七十一で


こんなことを考へながら、ぼんやり立つてゐる中に、源太郎はフラ/\とした氣持になつて、
「今夜火事がいて、燒けて碎けて了ふやら知れん。」と、自分の耳にもハツキリと聞えるほどの獨り言をいつて、自分ながらハツと氣がついて、首を縮めながら

「何言うてなはるのや。……火事がいく、何處が燒けますのや、……しようもない、確かりしなはらんかいな。」
お文はにこ/\笑つて、叔父の袂を引ツ張りつゝ言つた。
「さア早う入つて、
「をツさん、をツさん……そんなとこおきまへう、此方へおいなはれ。」と、お文はさツさと歩き出して、
「あゝ、御寮人さん、お出でやす。まアお久しおますこと、えらいお見限りだしたな。さアお上りやす。」
赤前垂の肥つた女は、食物を載せた盆を持つて、狹い廊下を通りすがりに、沓脱石の前に立つてゐるお文の姿を見出して、ペラ/\と言つた。
「上らうと思うて來たんやもん、上らずに
かう言つて駒下駄を沓脱石の上に脱ぎ棄てたお文の背中を、ポンと叩いて、赤前垂の女は、
「まア御寮人さん……」と、仰山らしく呆れた表情をしたが、後から隨いて入つて來た源太郎の大きな姿を見ると、
「お連れはんだツか。……何うぞお上り。さア此方へお出でやへえな。」と、優しく言つて、窮屈な階子段を二階へ案内した。
茶室好みと言つたやうな、細そりした
「
向うの廣間に置いた幾つもの衝立の蔭に
「御寮人さん、お出でやす。」
「御寮人はん、お久しおますな。」
なぞと、痩せたのや肥えたのや、四五人の赤前垂の女中が代る/″\出て來た。其の度にお文が白いのを鼻紙に包んで
肥つた女中は、チリン/\と小さく鈴の鳴るやうな音をさして、一つ/\捻つた器具の載つてゐる杯盤を運んで來た。
「まア一つおあがりやへえな。」と、女中は盃洗の底に沈んでゐた杯を取り上げ、水を切つて、先づ源太郎に
「こんな下等なとこやよつて、重亭や入船のやうに行きまへんが、お口に合ひまへんやろけど、まアあがつとくなはれ……なア姐はん。」
自分に獻された初めの一杯を、ぐツと飮み乾したお文は、かう言つてから、二度目の酌を女中にさせながら、
「姐はん、このお方はな、こんなぼくねん人みたいな風してはりますけど、重亭でも入船でも、それから

「ほんまに隅へ置けまへんな。粹なお方や、あんたはん一つおあがりなはツとくれやす。」と、女中は備前燒の銚子を持つて、源太郎の方へ膝推し進めた。
「奈良丸はんと一所に行かはりましたのやもん。藝子はんでも、八千代はんや、吉勇はんを、皆知つてやはりまツせ。」
かう言つてお文は、夫の福造が千圓で三日の間奈良丸を買つて、大入を取つた時、讚岐屋の旦那旦那と立てられて、茶屋酒を飮み歩いた折のことを思ひ出してゐた。さうして叔父の源太郎が監督者とも付かず、取卷とも付かずに、福造の後に隨いて茶屋遊びの味を生れて初めて知つたことの可笑しさが、今更に込み上げて來た。
「阿呆らしいこと言はずに置いとくれ。」と、源太郎も笑ひを含んで漸く杯を取り上げ、冷めた酒を半分ほど飮んだ。
「お前の酒飮むことは、姉貴も薄々知つてるが、店も忙しいし、福造のこともあつて、むしやくしやするやらうと思うて、默つてるんやらうが、あんまり大酒飮まん方がえゝで。」
肴ばかりむしや/\喰べて、源太郎は物柔かに言つた。
「置いとくなはれ、をツさん。意見は飮まん時にしとくなはれな。飮んでる時に意見をしられると、お酒が味ない。……をツさんかて、まツさら散財知らん人やおまへんやないか。今度堀江へ附き合ひなはれ。此處らでは顏がさしますよつてな、堀江で綺麗なんを呼びまへう。」
かう言つて、お文は少しも肴に手を付けずに、また四五杯飮んだが、果てはコツプを取り寄せて、それに注がせて呷つた。
もう何も言はずに、源太郎はお文の取り寄せて呉れた
お文と源太郎とが、其の小料理屋を出た時は、
「
思ひ出した昔懷かしい話に、醉つたお文を笑はして、源太郎は人通りの疎らになつた千日前を道頓堀へ、先きに立つて歩いた。
「をツさんも古いもんやな。芝居の舞臺で見るのと違うて、二本差したほんまの
「これから家へ行くと、お酒の
かう言つて辻を西へ曲つて行くお文を、源太郎は追ツかけるやうにして、一所に

富田屋にも、伊丹幸にも、大和屋にも、眠つたやうな灯が點いて、陽氣な町も濕つてゐた。たまに出逢ふのは、送られて行く化粧の女で、それも狐か何かの如くに思はれた。
「
醉はもう全く醒めた風で、お文は染々とこんなことを言ひ出した。
「今、お前が福造に會ふのは考へもんやないかなア。」と、源太郎も思案に餘つた。
日本橋の詰で、叔父を終夜運轉の電車に乘せて、子供の多い上町の家へ歸してから、お文は道頓堀でまだ起きてゐた蒲鉾屋に寄つて、
三疊では母のお梶がまだ寢付かずにゐるらしいので、
「また留吉にお鶴やないか。……今から出ていとくれ。この月の給金を上げるよつて。……お前らのやうなもんがゐると、家中の示しが付かん。」
寢てゐる雇人等が皆眼を覺ますほどの聲を立てて、お文は癇癪の筋をピク/\と額に動かした。
「何んやいな、今時分に大けな聲して。……兎も角
まだブツ/\言ひながら、表の戸締をして、鍵を
(大正三年一月)