我国の獅子舞は、起原をアッシリヤに発し、支那を経て輸入されたものであると、説く学者がある〔註一〕。しかしながら
全体、我国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(A)文献学的の稽査としては、喜多村信節翁の「

私は管見を述べる前に、既載の代表的研究の論旨を検討し、それを略記する。そして喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の
そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生の御説をそのまま拝借する者であって、別段に奇説も異論も有している訳ではない。ただしいて言えば、我国の鹿舞と支那から来た獅子舞とは、その目的において全然別箇のものがあったと云う点が、相違しているのである。殊に小寺氏のトーテム説に至っては、あれだけの研究では、にわかに
こう言うと、何だか柳田先生の御説に、反対するように聞えるが、角の有無を以て鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。能楽の「石橋」を見ても

勿論、獅子頭の角には、私の見たものだけでも、一本のと二本との区別があり、さらに一本のにも角らしいのと玉らしいものとの相違があり、二本のにもその生え工合の相違しているものがある。そして、一本角は能楽の利巾系のものであって、玉のようになったのは、これの退化したのではないかと思われるが、私の学力ではこれ以上のことは判然しない。二本角にあっては、武蔵国北豊嶋郡岩淵町大字赤羽の、八幡社の社宝である獅子頭は、春日の作と伝えているが、大きな角が約九十度位の角度で生えている〔註五〕。それから先年ネフスキー氏が、陸中国上閉伊郡土淵村で撮影した写真に拠ると、これも立派に二本の角を有しているが、その角は左右に開いている。さらに徳丸本の獅子頭の角(雄獅子は黒、中獅子は赤)は二本であるが、竜のそれの如くナセになっている。私とてもこうした角の生やし方は、その土地に限られた、所謂郷土舞踊の約束(または流派)に負うところのあるのは承知しているが、それかと云うてこの角の有無が、鹿と獅子との区別の決定要因だとは、考えられぬのである。
徳丸本の見学の帰途、雨の中を同行の永田衡吉氏と、獅子舞の見聞談を交えながら歩いて来たが、そのうちで永田氏の語られた左の一節は、一寸、私の注意を喚び起したものであった。曰く、
全体、ライオン系の獅子頭に、角があるということは、別段にそれが鹿であったという意味ではなく、舞踊の点から雄獅子を勇壮に、かつ男性的に見せる必要から、角を加えたものではなかろうか。実際、見た眼から言っても、角のある方が、如何にも立派に勇しく見えるのです云々(在文責記者)。
舞踊に関しては、全く門外漢の私とて、これについて兎角の批評は言えぬけれども、こうした見方も許されるものと考えている。そして、それと同時に獅子の角には、狛犬の角と関係のあることも、併せ考えなければならぬと信じている。現に見かけるところであるが、神社の広前に置かれてある狛犬には、狛犬だか獅子だか分らぬまでに
我が固有の鹿舞に、支那の獅子舞が附会習合された事は、柳田先生の説かれた如くであるが、さて、鹿舞と獅子舞との区別を、角の有無で判定するよりは、一人獅子(俗に立ち獅子と云い、一人にて獅子頭を被るもの)と二人獅子(頭と尾とに一人ずつ二人入るもの)とによって、区別したならば如何なものかと思われる。換言すれば一人
しかるに獅子舞の方には、一人立と二人立(稀には三人立のもある)とあって、前者には下総香取社、越後五泉町の秋祭の獅子〔註六〕。「


赤羽八幡社の獅子頭

信西入道伝来の獅子舞図

平安朝の獅子舞(年中行事絵巻)
獅子舞は後世になると、もっぱら神社に属してしまったが、これは古くは寺院に属していて、葬礼または
それでは神社の獅子舞は、寺院のそれを学んだものかと云うに、私には決して左様であったとは信ぜられぬ。即ちここに我が固有の鹿踊へ、渡来の獅子舞が、附会したのであると考えるのである。
詳言すれば我国の鹿踊は、元から神社に附属(鹿踊の起原や発達を言わぬと、独り合点に陥る嫌いもあるが、それを言うと埒外に出るし、かつ長文になるので省筆する)していたのであるが、そこへ支那から来た獅子舞が、寺院に多く用いられ、神社(鹿踊)対寺院(獅子舞)と云った具合に、各々独自の境地を有していたのであるがそれが例の本地垂迹説の大成とともに、神仏一如の信仰となり、さらに和光同塵の思想となって、仏説で神道を支配するようになったので、遂に鹿踊と獅子舞とが、習合され渾成されるようになったのであると、考えたいのである。そして、この獅子舞が仏教の事相――と云うよりは葬礼に深い関係を有していたことは、これを各地の土俗に徴するとき、やや明確に知ることが出来るのである。
元禄年中に、古河古松軒の記した「四神地名録」に『荏原郡大森村巌正寺(浄土宗)にては、毎年七月の仏祭に村の若い者大勢集りて、終日獅子舞をして追善とす。
殯期至、親及最契之友、送獅豹、獅豹者、用花毯作身、木作首尾、一人裏於其中、開弔時、列於大門左右、及啓霊、獅豹先入於霊前舞踏、喪家先備制銭一千或両千、置於霊几、舞踏畢、臥干旁、従腹中出小獅討喜銭、即攫几前銭而去、間有用数人、仮戯場衣冠、於獅豹舞畢、演戯一折、然後啓霊、此等郷間皆親友為之、城市有用貧者、
この記事によれば、山東省(往古の呉国の在りしところで、我国と最も深い通商関係を有していた国である)では、死人があると、その親族や友人が、獅子を作って送り、霊を
(上略)設有人病者、必迎獅子至病人室中、周視一巡、以祓除不祥、初生小児、将渠含至獅子口中、謂容易長大云々。其期自元旦日始、至三初月三日止、各村輪次而舞、或全堂(一日)或半堂(半日)皆有定例、迎獅子神者、必斎戒茹素、格誠格敬、無敢稍怠、舞獅子之人、率本地祠丁、平日被役於人、独此日儼然尊大、一若渠即獅子神也。
こうした土俗も、支那の各省に渉り、仔細に詮索したらば、まだたくさんに存することと思うが、ここにはその手数を省き、わずかにこの一例だけで説を試みるとするが、これと共通した土俗は、我国の到る所に、今において存しているのである。中道等氏の本誌前号に記された、奥州の墓獅子の供養は、啓霊前に行われた獅子舞の延長とも、または獅子舞の地方的分化とも見られるのであって、さらに同氏の談によれば、東北地方には、小児の保健や除災のために、その小児の着衣を、獅子に神社祭の行列の先頭に、猿田彦と称する鼻高神が立つように、葬列の先頭に、獅子頭を捧げて行く土俗は今に各地に存している〔註八〕。私の郷里などで竜頭と称するのも、仔細に研究したら、或いは竜体獅子の変身であるかも知れぬ。古く遊行派のヒジリ達が、この獅子舞を取り込み、それを民俗芸術化して豊斎念仏にまで用いているのも、獅子が元々仏縁に関係が深かったためである。なお豊斎念仏にて行う獅子踊についても、記したいことがあるも、長文を恐れて省略に従うとする。
伊勢国には獅子の神事と土俗とが、他国に比して、一段と多く存しているようである。この原因についても、多少の臆説を有しているが、結末を急ぐために除筆して、これらの神事や土俗に関する管見を、記すにとどめるとする。そして、これらのうちに二つの関心すべきことがある、(A)は宇治山田市字
由来、我国の義犬伝説には、およそ三つの形式があるが、そのうちに狩犬が千頭の獲物を猟主に捕らせると、犬が猟主に仇をするとて、九百九十九頭のときに、その狩犬を殺すという、迷信から来た義犬伝説の一形式がある。そして、各地に存している犬供養塔は、概してこの種の伝説が基調をなしているのである。鯨や猪や鮭の供養塔は、これと違い沢山捕獲して、その生命を断ったために、建てて冥福を祈るというものである。そして、この信仰は、直ちに鹿の上にも見られることであって、殊に霊魂動物であった鹿は、他の鯨や猪などよりは、供養を受くべき資格が備わっているのである。その点から推して獅子塚の起りは、鹿塚であったのが、後に獅子に附会されてしまい、遂に三河国額田郡伊田村の獅子舞塚の如く、天子御悩の時、御願により、六十六ヶ国に獅子頭を納めたという、伝説を生むようになったのであると〔註九〕、考えたいのである。
私の雑考も、獅子頭の鼻毛の如く、それからそれへといたずらに長くなったので、この辺で打ち切ろうと思うたが獅子の鼻毛の出たついでに、これに関する一挿話を掲げて擱筆する。「三州吉田領風俗問状答」に『吉田(現今の豊橋市)
〔註一〕中央史壇の東洋美術号で赤堀又次郎氏はかく述べていられる。
〔註二〕小寺氏はその著に柳田先生の所説を引用していらるるので、こう言うても差支えないと思う。
〔註三〕関秘録(随筆大観本)巻八。
〔註四〕古河古松軒の四神地名録。
〔註五〕新編武蔵風土記稿。因に本誌第一巻(九五ページ)の余白に、能登十六氏の投稿で、越中国射水神社の獅子頭が竜頭であろうとの記事が見えている。
〔註六〕郷土研究第三巻第十二号。
〔註七〕甲斐の落葉(炉辺叢書本)
〔註八〕中道等氏の談によると、東北地方で見かけるとのことである。中山曰。神事の行列の獅子頭を先頭に立てるのは、除魔の信仰であることは勿論だが、蓋 しその初めは仏教のを真似たのであろう。
〔註九〕三河二葉ノ松巻五。
〔註二〕小寺氏はその著に柳田先生の所説を引用していらるるので、こう言うても差支えないと思う。
〔註三〕関秘録(随筆大観本)巻八。
〔註四〕古河古松軒の四神地名録。
〔註五〕新編武蔵風土記稿。因に本誌第一巻(九五ページ)の余白に、能登十六氏の投稿で、越中国射水神社の獅子頭が竜頭であろうとの記事が見えている。
〔註六〕郷土研究第三巻第十二号。
〔註七〕甲斐の落葉(炉辺叢書本)
〔註八〕中道等氏の談によると、東北地方で見かけるとのことである。中山曰。神事の行列の獅子頭を先頭に立てるのは、除魔の信仰であることは勿論だが、
〔註九〕三河二葉ノ松巻五。