給仕女のお菊さんは今にもぶらりとやって来そうに思われる客の来るのを待っていた。電燈の
お菊さんは
「……何を考えてるの、いらっしゃいよ」
お幸ちゃんの顔がこっちを向いたので、お菊さんは
「往くわよ」
「何をそんなに考えこんでるの、
それは近くの自動車屋の運転手のことで、お菊さんにはすぐそれと判った。買ったのかもらったのか、二三本葉巻を持って来て、それにあべこべに火を
「そうよ、俺は葉巻が好きでね」
お菊さんは男の
「そうよ、そうよ」
と、云ってお幸ちゃんが笑いだした。
「なんだい、なんだい、へんなことを云ってるじゃないか、なんのこったい」
お幸ちゃんと並んでいた学生の一人がコップを口にやりながら云った。
「面白いことよ、これよ、俺はこれが好きでね、
お幸ちゃんは笑いながら右の指を二本、口の縁に持って往って煙草を喫むまねをした。
「なんだい、そのまねは、
「運転手のハイカラさんよ」
「運転手って、自動車か」
「そうよ」
「それがどうしたのだ」
「おもしろいのよ、
お幸ちゃんはそれから声を一段と小さくして話しだした。お菊さんはまた入口の方へ眼をやって北村さんのことを考えだした。お菊さんの眼の前には、
「ここはおもしろい家だね、これからやって来るよ」
と、客が心持好さそうに云うので、
「どうぞ、奥さんに好くお願いして、いらしてくださいまし」
と笑うと、
「私には、その奥さんが無いのだ、可哀そうじゃないか」
客は金の指輪の見える手でビールのコップを持ちながら笑った。
「御冗談ばっかし」
「冗談じゃないよ、ほんとだよ、先月亡くなったのだよ、だからこうして飲みに来るのじゃないか」
その云い方がしんみりして嘘のようでないから涙ぐましい気もちになった。
「ほんと」
「ほんととも、だから可愛がってくれないといけないよ」
「お気のどくですわ、ね、え」
「お気の毒でございますとも」
客は淋しそうに笑って飲んでしまったコップをくれた。
「一ぱいさそう、おなじみになるしるしだ」
「そう、では、ちょっと
「ちょっとはだめだよ、多く飲まないと忘れてしるしにならないよ」
客はビール
「では、どっさり戴きます」
その客は北村さんと云う客であった。
「すぐこのお近くでございますの」
「すぐそこだよ、先月越して来たばかしなんだ、深川の方にいてね」
「大変遠方からいらっしゃいましたね」
「そうだ、深川の方で工場をやってたが、
もしかすると奥さんが亡くなったので、それで何をするのも厭になってこの山の手に引込んだのじゃないかと思った。
「人を使ってやる仕事はうるさいものでね、金にかかわらないよ」
「そうでございましょうね」
なんの工場であったか知りたかったので、
「なんの工場でございます」
「つまらん工場さ、針工場だよ」
針工場の意味が判らなかった。
「針工場って、どんなことをする工場……」
「メリヤスを織る針だよ」
他に
「お前さんはどこだね」
「私、愛知県よ」
「では、名古屋かね」
「名古屋の在ですよ」
「兄弟があるかね」
「ええ、兄が二人と、妹が一人あるのですよ、お百姓よ」
「お前さん、どこかへお嫁にでも往く約束があるの」
「そんな処ありませんわ」
「ないことはなかろう、お前さんのような好い女を、そのままにはしておかないよ」
「ありませんわ」
「往く処がなくっても、好い人はあるだろう」
北村さんは口ではあっさりと云ったが、こっちの手首に絡んでいた北村の手はほてっていた。
「私のような者は、見向いてくれる方もないのですよ」
「あるよ、あったらどうする、……あったら困るだろう」
「あったらありがたいのですわ」
「ほんと」
北村さんの眼はこっちの眼をまともに見つめた。……
「おかしいよ、お菊さんまた考えこんだよ、あ、あれだよ、お菊さんは……」
お幸ちゃんの声がするのでお菊さんは夢から覚めたようにしてその方を見た。お幸ちゃんは学生に首ったまへ手をやられたなりに、学生と並んで板壁に
「お幸ちゃんじゃあるまいし、あたいにゃ、若旦那はないのだよ」
「あるわよ、針工場さんがあるわよ」
「
お菊さんは云いあてられたのでちょっと気まりが悪かった。
「好いわよ、そんなに気まりを悪がらなくたって」
お幸ちゃんの首ったまを抱いている学生が口を挟んだ。
「針工場って、
「そうよ、針工場の旦那よ、親爺なんて云うとお菊さんが怒ってよ」
も一人の学生がそれを聞くとお菊さんのほうを見て云った。
「針工場夫人、ここへお
お菊さんはてれかくしに、
「そう、くださるの」
と、云って腰をあげてそのテーブルの方へ歩いて往きかけたところで、
「いらっしゃいまし」
お菊さんがそのまま老婆の前へ往って立った。
「出前を頼みたいが」
お菊さんは見知らないはじめての客であるからまず処を聞いた。
「
「はじめてですがね、この
お菊さんはもしかするとあの北村さんの家ではないかと思った。
「北村さん、
「魚のフライと、他に二つばかり、何でも好いから見つくろっておくれよ、家の旦那は時どきこちらへ来るそうだ」
「魚のフライに、お見つくろいが二品、あわして三品でございますね」
「そうだよ、早く持って来ておくれよ、旦那が、今晩は外へ出るのもおっくうだから、家であがるって待ってるからね」
老婆はそのままひょろひょろとするように出て往った。お菊さんは
「おめでとう、針工場さん」
お幸ちゃんに手をかけていた学生が笑った。
お菊さんは
お菊さんは不思議な家へ来たものだと思った。そして、早く玄関へ往って北村さんに
「来たのか、来たのか」
お菊さんはびっくりして立ち止った。黒い背のひょろ長いものが前に来て立っていた。それはさっき店へ来た老婆のようであった。
「遅くなってすみません」
「旨い物はそう手取早く出来るものでないよ、へ、へ、へ、さ、こっちへお
老婆は萌黄の茎を分けるようにしてひょろひょろと歩いて往った。お菊さんはその後から歩いた。そこはもう傾斜はなくなっていたが、雲の上にいるようで足に踏みごたえがなかった。
「ここだよ、ここからお入りよ」
お菊さんはもう玄関のような青ざめた光の中に立っていた。
「旦那、旦那、やっと来ましたよ」
老婆の声がしたかと思うと
お菊さんは北村へ出前を持って往ったきり帰らなかった。バーでは手分けをして捜索したが、だいいち北村と云う家もなければ、どこへ往ったのかさっぱり判らなかった。しかし、客には
「芝の親類へお嫁に往ったのですよ」
と云っていた。ところである雨の降る
「おい、も一人の女はどうしたのだ」
と、老人が云うのでお幸ちゃんは例によって、
「芝の親類へお嫁に往ったのですよ」
と云った。老人をそれを聞くとテーブルへ
「あの女が芝なんかにいるものかい、ありゃ雨で大河からあがって来た奴に
老人はこう云ってから、またこくりこくりとやりだした。