丹波街道の
「火を
と誰かいう。
春先なのだ。まだ正月の九日という日である。
「よく燃えるな」
「火が飛ぶぞ、気をつけぬと、野火になる」
「案じ給うな。いくら燃え拡がっても、京都中は焼けッこない」
枯れ野の一端に
「あつい、あつい」
と今度は
「もうよせ」
草を投げる者へ向って、植田良平が、煙たい顔して叱った。
そんなことをしている間に
「もうやがて、
誰かいい出して、
「さよう?」
期せずしてみなの眉が、陽を仰いでみる。
「卯の下刻。――もはやその時刻だが」
「どうしたろう、若先生は」
「もう来る」
「そうさ、来る頃だ」
なにか緊迫してくるものを

「どうなされたのだろう?」
のろまな声をして、どこかで牛が長く啼いた。ここは元、禁裏のお
「――もう
「来てるかもしれん」
「誰か、ちょっと、見て来ないか。――蓮台寺野とこことは、五町ほどの距離しかあるまい」
「武蔵の様子をか」
「そうだ」
「…………」
すぐ行こうといって出る者もない。煙の蔭にみな
「――でも、若先生は、蓮台寺野へ出向かれる前に、ここでお支度をして行くという手筈になっているのだからな。もう少し、待ってみようじゃないか」
「それは、間違いのない手筈なのか」
「植田殿が、ゆうべ若先生から、
植田良平は、そういう同門の者のことばを裏書して、
「その通りだ。――武蔵はもう約束の場所へ、先に来ているかも知れないが、敵を
その朝。
この乳牛院の原へ、寄るともなく集まった者たちは、勿論、数から見ても、吉岡門下のほんの一部の人々に過ぎなかったが、その顔ぶれの中には、例の植田良平がいるし、京流の十剣と自称している高弟組の半分は見えているから、まず四条道場の中堅どころは、
師の清十郎は、ゆうべ、
(助太刀の事、かたく無用)
と、これは誰へも同様にいい渡したことらしかった。
また、門下のすべての者は、きょうの師の相手である武蔵という者を、決して、
(
とは軽視していなかったが、そうかといって、師の清十郎が、たやすく彼に敗れようなどとは、どうしても考えられないのであった。
(勝つに決まっているが)
という考えの上に、万が一にもという常識を乗せているのである。それにまた、五条大橋へ高札を掲げたりして、きょうの試合を公開した手前、吉岡一門の威容を張って、かたがた、清十郎の名を、この際、大いに晴れがましく世間へ喧伝させたいという――門下の者としては当然な
ところで――
その清十郎はどうしたのか、いっこう姿が見えないのである。
卯の下刻は、陽あしを見ても、もう迫っている。
「おかしいなあ?」
ここでは、三十余名の者が、そう呟きだして、植田良平の
「どうしたのだ、試合はいったい」
「吉岡清十郎は、どこに来ている?」
「まだ見えんが」
「武蔵とやらは」
「それもまだ来ていないらしい」
「あの侍衆は、何か」
「あれは、どっちかの、助太刀だろう」
「なんのこった、助太刀だけが来て、かんじんな、武蔵も清十郎も来ないとは」
人のいるところへ、人は
後から後からと、弥次馬はここへたかって来る。そして、
「まだか」
「まだか」
「どれが武蔵?」
「どれが清十郎で」
と、ざわ声を立てている。
さすがに、吉岡門下の一かたまりが見える附近へは立ち入って来ないが、乳牛院の原の
――その中を、城太郎は歩いていた。
例の体より大きな木剣を横たえて、足よりも大きな
「いないな、いないな」
と、人の顔をキョロキョロ物色しながら、この広い原のまわりを
「――どうしたんだろ? お通さんは、きょうのことを、知らないはずはないのになあ。……あれから烏丸様のお
彼のさがしているのは、武蔵よりも先ず、その武蔵の勝敗を案じて、きっと、今日ここへ来ていなければならないはずの、お通の姿であった。
小指に
きょうの試合は、とにかく、
けれど、その女の中に、お通のすがたは、いくら捜しても見当らなかった。
「変だなあ」
城太郎は野のまわりを、くたびれるほど歩いた。
(もしかしたら、あの日から――五条大橋でわかれた元日から――病気でもしているんじゃないかしら?)
そんな臆測を描いてみたり、なお突きすすめて、
「お杉
彼は、そう考えると、不安で不安でたまらなくなった。
その心配さ加減は、きょうの試合の結果がどうなるかというどころの比ではない。城太郎は、きょうの勝負を、少しも心配にはしていなかった。
野を
(お師匠さまが勝つ!)
と、信じて疑わないのであった。
(負けるものか、みんな
と、乳牛院の原に
――だから、そのほうにはなんの取り越し苦労もしていないが、お通の来ていないことは、彼を
彼女が――
五条大橋からお杉隠居に従って別れてゆく時、
(暇を見ては、わたしも、烏丸様のお
そういった。
たしかに、そういった。
だのに――あれから
(どうしたんだろう?)
という城太郎の不安は、もう二、三日前から持ち越して来ているものであった。それも今朝、ここへ来るまでは、一
「…………」
ぽつねんと、城太郎は、原の真ン中をながめていた。
「おかしいなあ、高札には蓮台寺野とあったのに。試合
誰もみな不審がらないでいる点を、城太郎だけが、ふと不審に感じ出していた。すると、彼の左右をながれて行く人混みのあいだから、
「わっぱ。――こら、こら、それへ参る
と、横柄に誰か呼ぶ。
見ると、それは城太郎にも覚えのある――つい八日前の元日の朝――五条大橋のたもとで、
「なんだい、おじさん」
一度でも顔を見ているだけに、城太郎は、馴々しくいう。
小次郎は、彼のそばへ寄って来た。なにかものをいう前に、先に足もとから頭へ、じろりと眸を上げるのが、この若者のくせであった。
「いつぞや、五条で会ったことがあるな」
「おじさんも、覚えていたかい」
「おまえは、女の人と一緒だったね」
「アアお通さんと」
「お通さんというのか、あの
「あるんだろ」
「
「ううん」
「妹か」
「ううん」
「じゃあ、なんだ」
「すきなんだよ」
「誰が」
「お通さんが、おいらの、お師匠様を」
「恋人か」
「……だろう?」
「すると、武蔵はおまえの先生というわけか」
「うん」
これは、明確に、誇りをもって、うなずいた。
「ははあ、それで今日も、ここへ来たのだな。――しかし、清十郎のほうも、武蔵のほうも、まだ姿が見えぬというて、見物が気をもんでいるが、おまえは知っているだろう、武蔵はもう、
「知らないよ、おいらも、捜しているんだもの」
後ろから二、三名、ばらばらと駈けて来る跫音がした。小次郎の鷹に似ている眼はすぐそれへ振向いた。
「や、それにおられるのは、佐々木殿ではないか」
「オ、植田良平」
「どうしたんです」
良平は、そばへ来て、捕まえるように、小次郎の手をにぎった。
「
「ほかの日には帰らなくても、今日さえ、ここへ来れば、それでよいのだろうが」
「ま、とにかく、あちらまでお越しを」
と、良平や他の門下たちは、
大刀を背に負っている小次郎の派手な身仕度を、遠くから見つけると、見物の眼はすぐ、
「武蔵、武蔵」
「武蔵が来た」
と、ささやき合った。
「ホ、あれか」
「あれだ――宮本武蔵は」
「ふうむ……たいそう
取り残された顔つきの城太郎は、辺りの大人たちが真顔になってそれを受けとっているので、
「ちがうよ、ちがうよ、武蔵様はあんな人だもんか、あんな
むきになってその
彼の訂正の届かない所にいる見物たちも、やがて、様子を見ていると、どうもそれらしくないことに気づいて、
「はてな?」
と、首をかしげはじめる。
原の真ン中へ出て行った小次郎は、そこに立つと、吉岡門下の四十名ばかりの者を、例の高慢な態度で見くだして、なにか
「…………」
植田良平以下、
そこで、佐々木小次郎が、一同へ向って、演舌していうことには、
「まだここへ、武蔵も清十郎も来ないというのは、吉岡家の
それだけでも、吉岡方の人たちを激昂させるに十分であるのに、その上にまた、
「わしのこの言葉は、清十郎どのへ対して、無二の助太刀でござりますぞ。この言葉以上の助太刀がどこにあろう。わしは、吉岡家にとって、天来の予言者だ。はっきりと、予言しておく。――やれば、清十郎どのは、気の毒だがきっと
かりそめにも吉岡門の人間として、これが、いい顔をして聞いていられるはずはない。植田良平の如きは、土気いろになって、小次郎をねめつけていた。
十剣の中の御池十郎左衛門は、我慢がならなくなったのであろう、小次郎がまだなにかいおうとする胸元へ、ぐっと自分の胸を寄せて行って、
「なにをいうのか、貴様は」
右手の
ニコと、小次郎は
「お気にさわったか」
「あたりまえだ」
「それは失礼」
軽くかわして――
「では、助太刀はしないことにしよう。気ままになされというほかはない」
「た、たれが、汝ごときに、助太刀を頼もうや」
「そうでもありますまい。
「それは、ただ客として、礼を与えたまでのこと。……思い上がったやつだ」
「ハハハハ、よそう、ここでまた、
「だ、だまれッ、貴様は、きょうの試合に対して、吉岡家へ、ケチをつけに来たのだな」
「人の好意すら、素直に受け取れなくなるということが、そもそも、衰運の人間のもつ根性だ。なんとでも思うがよい。
「いったな!」
険悪きわまる声が、
だが、小次郎は心得たものなのである。
群衆が遠くからその様子をながめて、どよめき出したところであった。
その人混みを突きぬいて、一匹の小猿が、原へ向って、まるで
小猿の前には、若い女が、これもまた、転ばんばかりの
吉岡門下の人々と、小次郎とのあいだに、すんでのこと、血でも見るかと思われた険悪な空気は、その朱実が、ふいに後ろからさけんだ言葉で掻き消された。
「小次郎様、小次郎様ッ。……どこですか、武蔵様のいるところは。……武蔵様はいませんか」
「……あ?」
小次郎が振向く。
吉岡方の、植田良平や、他の人々も、
「ヤ、朱実じゃないか」
と、つぶやいて、一瞬ではあったが、すべての者の眼と
小次郎は叱るように、
「朱実、なんでお前はここへ来たのか。――来てはならんといっておいたはずだ」
「わたしの体です。来ては悪いのですか」
「いけないッ」
朱実の肩をかるく突いて、
「帰れ」
小次郎のいう言葉を、彼女は息を
「いやです。――私は
急に、朱実は、声をつまらせてしゃくり上げた。あわれっぽい
「それを、なんですか、あなたは私を
「……気が
「いいます。気も
「…………」
小次郎は、舌うちをして、彼女の凄まじい
逆上していることは確かだが、朱実の口走っていることに嘘はないらしい。それが嘘でないとすると、小次郎という男は、この女性に温かい世話をかけながら、半面にはまた、この女性の心と体とを極端に
それを、人前で――しかもこうした場所で――
――すると。
いつも清十郎の供について歩く奉公人で、若党の
「た、たいへんだッ、皆さん、来て、来てくださいッ。――若先生が、武蔵のために、やられました。や、やられました」
民八の絶叫は、一同の顔から血の気を奪ってしまった。足もとの大地がふいに陥没して行くような驚きを、
「な、なにっ?」
異口同音に口走って、
「若先生が――武蔵に?」
「ど、どこで」
「いつのまに」
「ほんとか、民八」
奉公人の民八は、
「早く、早く」
と、
半信半疑であったが、嘘や間違いとも思われないのである。植田良平や御池十郎左衛門などの四十余名は、
「すわ……」
と、民八の後につづき、野火の
その丹波街道を北へ向って、五町ほども走ってゆくと、また、並木の右手にわたって、
つぐみや
「若先生っ、若先生っ」
もういちど、ありったけな声をふり絞って、大地へしがみつくように膝を折った。
「……やっ?」
「お、お」
「若先生だ」
突き当った事実のまえに、後から駈けて来る足がみな釘付けになった。見ると、
「――若先生」
「清十郎様っ」
「しっかりして下さいっ」
「われわれです」
「門下達でござる」
抱き起された頭は首すじの骨がくだけているように、ぶらんと重く
白い汗止めの鉢巻には、一滴の血もついていなかった。
「……息は、息は、あるのか」
「かすかに」
「おいっ、た、たれかはやく若先生のからだを」
「
「そうだ」
ひとりが背を向けて、清十郎の右の手を肩にかけて立ち上がろうとすると、
「痛いっ……」
清十郎が苦悶して、叫んだ。
「戸板、戸板」
と、いいながら、三、四名の者が、並木を駈け出して行ったと思うと、やがて附近の民家から、雨戸を一枚外して持って来た。
清十郎の体は、戸板の上へ仰向けに寝かされた。
戸板が割れるかと思うほど、清十郎は、その上で足をばたばたさせながら、
「武蔵は……武蔵はもう立ち去ったか。……ウウム、痛い。右の肩から腕の付け根だ。骨が、砕けたものとみえる。……ウウムたまらぬ。門人衆、右の腕を、付け根から斬り落してくれ。――斬れっ、誰か、わしの腕を斬れっ」
空へ眼をすえて、清十郎は
あまり
「御池殿、植田殿」
立ち淀みながら、その者たちは後ろを振向いて、先輩に
「あのように苦しがって、腕を斬れと仰っしゃるんですから、いっそのこと、斬って上げたほうがお楽になるんじゃありませんか」
「ばかをいえ」
良平も、十郎左衛門も、一言のもとに
「いくら痛んでも痛むだけなら
二、三名が、その支度に先へ駈け出して行った。
街道の方を見ると、並木の松の
それもまた、
「各

「よしっ」
「民八」
と良平はまた、
「ちょっと、こっちへ来い」
と、彼へも鬱憤を向けて、
「な、なんですか」
民八は、植田良平の恐い眼を見て、歯の根のあわない声を出した。
「貴様は、四条の道場を出る時から、若先生のお供をして出たのか」
「はい、さ、さようでございます」
「若先生は、どこで身支度をなさったのだ」
「この、蓮台寺野へ、来てからでございました」
「我々が乳牛院の原で、お待ちうけしていることを、若先生には、ご存じないはずはないのに、どうして、いきなりここへ
「手前には、なぜだか、一向にわかりません」
「武蔵は――先へここへ来ていたのか、若先生より、後から来たのか」
「先へ来て、あそこの、塚の前に立っていました」
「一人だな、先も」
「へい、一人でした」
「どう
「若先生が、手前に向って、万一、武蔵に
「ふ……ウム、そして」
「武蔵の少し笑っている顔が、若先生の
大風が掃いて行ったように、並木の道にはもう弥次馬の影も見えない。
清十郎の
「……おや?」
ふと足を止めると、戸板を支えてゆく前の者が、自分の襟くびへ手をやった。後の者は、空を仰いだ。
戸板の上へも、ハラハラと松の枯れ葉がこぼれて来たのである。見ると、並木のこずえに、一匹の小猿が、キョトンとした眼を下へ向け、わざとのように、
「ア痛ッ」
仰向いた顔の一つへ、松の
「ちくしょうッ」
その男が、
口笛がどこかで鳴った。
小猿は、とんぼを打って、並木の樹蔭へ跳び下りた。そして、そこに
「……オ!」
戸板をかこんでいる吉岡門下の人たちは、初めて、小次郎の姿と、もう一人の朱実をそこに見出したもののように、ギクと、眼の光を
「…………」
(
と、感じたらしいのである。
植田良平か誰かが、
「――猿だッ、人間でない奴の
戸板を
「しばらく」
駈け出して来たかと思うと、小次郎はいきなり戸板の上の清十郎へ向って、話しかけた。
「――どうしたッ、清十郎殿、――武蔵めにやられましたな。――打ちどころはどこ? なに右の肩か……アアいかん、袋に砂利を入れたように骨は
「――戸板を下ろしなさい。なにを、ためらっているのか。下ろせ、いいから下ろしたまえ」
そしてまた、瀕死の
「清十郎殿、起ってはどうだ。起てぬことがあるものか。
そういう小次郎の顔を、清十郎はじいっと見つめていた。
ふいに、がばっと、清十郎は起ち上がった。左の手に比べて、右の手は一尺も長いようにぶらんと他人の物みたいに彼の肩からぶら下がっていた。
「御池、御池」
「は……」
「斬れ」
「な、なにをですか」
「ばか、さっきからいっているではないか、わしの右手をだ」
「……でも」
「ええ、意気地のない……。植田っ、おまえやれ、はやくせい」
「ハ。……ハ」
すると、小次郎がいった。
「私でよければ」
「オ、たのむ」
小次郎は側へ寄った。清十郎のぶらんとしている手の先をつまんでぐっと上げ、同時に、
体の重心を失いかけたように、清十郎は少しよろめいた。弟子達はそれを支えながら、傷口を
「歩く。おれは、歩いて帰るっ」
死人がものを叫んでいるような清十郎の顔つきであった。
弟子たちに囲まれたまま、彼は十歩ほどあるいた。ポトポトと、その跡には血が黒く大地に吸われていた。
「……先生」
「……若先生」
門下の人々は、桶のように清十郎の身を囲んで立ち止まった。そして気遣わしげに、
「戸板で急いだほうが、はるかに、お楽であったろうに、小次郎めが、
と、彼の無責任な仕方を、ことばのうちに皆、
「あるく!」
一息つくと、清十郎はまた二十歩ほど歩いた。足が歩くのではない、意地が歩いてゆくのである。
しかし、その意力は、永くは持たなかった。およそ半町ほど行くと、ばたっと、門人達の手へ仆れてしまった。
「それ、はやく医者を」
狼狽した人々は、もう拒む力のない清十郎を、死体を扱うように
それを、見送ってしまうと、小次郎は、並木の下にじっと立っている朱実のすがたを振りかえって、
「見ていたか、朱実。――おまえにすれば、いい気味だったろうが」と、いった。
朱実は、青ざめた
「おまえがいつも、口ぐせのように、寝てもさめても
「…………」
朱実は、小次郎という人間が、とたんに、清十郎以上、呪わしい、怖ろしい、嫌な人間に思われてきた。
清十郎は自分をこうさせた、けれど清十郎は悪人ではない、悪人という程腹の黒い人ではない。
それから比べると、小次郎は悪人だ、世間で定義されているような悪人型ではないが、人の幸福を欣ばないで、人の
「帰ろう」
小猿を肩にのせて、小次郎はいいだした。朱実は、この男の側から逃げたいと思った。――しかし、妙に逃げきれないものを感じて、その勇気が出ないのである。
「……武蔵を捜してみたって、もう無駄だ。いつまで、この辺りにうろついているはずはない」
ひとり
(なぜ、この悪党のそばを、離れられないのか、この隙に、逃げてしまわないのか)
と、朱実は自分の愚かさを怒りながら、やはりその後に
小次郎の肩に止まっている小猿が、その肩の上から後ろ向きになって、キキと、白い歯を
「…………」
朱実は、小猿と同じ運命の者が自分であると思った。
そして心のうちで、ふと、あんな

――勝った。
武蔵は、心のうちで、自分へ凱歌をあげてみる。
(――吉岡清十郎に、おれは勝った。室町以来の京流の宗家、あの名門の子を、おれは倒した)
だが、彼の心は、すこしも歓んではこないのである。彼は、
ぴゅっ――と、低く
勝った後のさびしさ――というのは、賢い人たちの世俗的な感傷である。修行中の兵法者にはない言葉だ。けれど武蔵は、たまらない淋しさにつつまれて、果てなき野を独りあるいている。
(……?)
ふと彼は振向いてみた。
清十郎と出会った蓮台寺野の丘の松が、ひょろりと彼方に見える。
(二太刀とは打たなかった。
彼は、そこへ打ち捨ててきた敵の容態をふと案じた。手に引っ提げている木剣の
今朝――この木剣を帯びて場所へ来るまでは、敵には定めし大勢の
そこで、当の相手の清十郎に出会ってみると武蔵は、自分の想像していた人物とは、まったく違った人間のように思われて、
(これが、拳法の子だろうか)と疑った。
武蔵の眼に映った清十郎は、京流第一の兵法者とはどうしても見えない――いわば都会的な線のほそい
ひとりの奉公人を召し連れて来ているほか、介添も助太刀もいないらしいのである。お互いに名乗り合って立ち合う途端に、武蔵は、
(これは、やる試合でなかった)
と、胸のうちで悔いた。
武蔵が、求めているのは、常に自分以上のものだった。しかるに今、この敵を正視すると、一年も腕をみがいて会うほどの敵でなかったことが一目で
その上に、清十郎の眸には、まったく自信がなかった。どんな未熟な相手にも闘うとなれば、猛烈な自尊心はあるものだが、清十郎には、眼ばかりでなく、全身に生気が燃えていないのだ。
(なぜ今朝、ここへ来たのか、こんな自信がない心構えで――。むしろ、破約したがよかろうに)
そう思い
――なんとか、口実を作って木剣をひいたほうが相互のためだと武蔵は考えた。しかし、その機会はなかった。
「……気の毒なことをした」
武蔵は、もいちど、ひょろ長い松の
いずれにしろ、今日の事は終ったのだ。勝ったにせよ、敗けたにせよ、後までこだわっているのは兵法者らしくないことだ、未練というものである。
――そう気づいて、武蔵が足を早めだした時であった。
この枯野に、なにを探しているのか、草むらの中にうずくまって、土を掻き分けていた
「オ、ほ? ……」
驚いたような眼をみはった。
枯草と同じような
「……?」
武蔵も実はびっくりしたらしかった。道もない草むらだし、まるで
「……おばあさん、なにを
人懐かしい武蔵の気持だったのである。こう、彼はやさしいことばのつもりで話しかけた。
「…………」
その指先も、その
「オオ、もうそんなに青い菜が出ていますか、春だからなあ、
殊さらに親しみを見せ、そばへ寄って、
「――
誰かを呼びながら、
「…………」
武蔵は、あっけにとられたように、老尼の小さい体の行く先を見ていた。
ただ見れば、
人の名を呼んだところから考えると、そこには誰か、老尼の連れがいるにちがいない。そういえば、かすかな煙がその辺から
「せっかく、あの老尼が丹精して
武蔵は、そこらへこぼれた青い
老尼のすがたは、またすぐ見ることができた。一人ではない――ほかに二人の連れの者がいた。
その三人は一家族の者とみえ、北風を避けるために、ゆるい傾斜の蔭を選び、陽なたに
三人のうちの一人は下男で、もう一人はこの尼すがたの老母の息子らしかった。
息子といっても、もう四十七、八かとも見える人物で、京焼の
さっき、この老母が、
(
と呼んだことを思い合せてみると、この人の名は、光悦とよぶに違いない。
光悦といえば、今、京都の
加賀の
本阿弥の辻に住んでいるところから、人呼んで本阿弥光悦というが、本名は次郎三郎、また本業は刀の
そのうえに、光悦は、絵もよく描くし、陶器もやれば
けれど、光悦自身は、それほどな評価さえ、まだ自分を尽しているものとは受取っていなかった。
こういう話さえ
或る時。
光悦が、日ごろ親しい近衛
(これは、秀吉一箇の業とはいえない、国家の興廃にかかわることだから、わしは日本のために坐視していられない)
といい、時の天子に奏上して、征韓の役に従軍したいことを願ってやまなかったという風の変ったところもある。
また、秀吉がそれを聞いて、
(天下、無益の大なるもの、是れに
と、喝破したということであるが、そう
(光悦、おまえ今、書において天下の名筆を三人かぞえるとしたら、たれを選ぶな)
と、訊いた。
光悦は、さればにて候という
「――まず次はあなた様、その次は、八幡の
すこしのみ込めない顔つきをして、三藐院は、もういちど問い直した。
「まず次は……とおまえはいったが、その最初の第一番は誰なのじゃ」
すると、光悦は、にやりともせず相手の眼を見ていった。
「わたくしでございます」
――こういう
光悦は、指に絵筆をはさんでいた。膝には一帖の
――ふと、振向いて、
(どうなされたのです?)
と問うように、光悦は、下男のうしろに
その穏やかな眸に触れた時、武蔵は自分の気も
「御牢人さま。……なんぞ母が
膝の懐紙と指の絵筆を、
「あいや……」
自分も膝を地へ落して、武蔵はあわてて、光悦の辞儀をさえぎった。
「あなたがご子息でござるか」
「はい」
「おわびは、拙者からせなければならぬ。なんで、お驚きなされたか、自分にはとんと分らぬが、此方のすがたを見ると、ご老母が、この
「ああ、そうですか」
光悦は、それですっかり分ったように
「お聞きあそばしたか、
すると、彼の母は、いかにもほっとしたらしく隠れていた下男の背の蔭から少し出て来て、
「光悦や、それでは、その御牢人様は、なにもわし達に危害を加えようとするお人ではありませぬか」
「害意どころか、あなた様が小笊の若菜を捨てておいでなさったので、この枯野からそれだけの青い物をさがして
「それはまあ、済まぬことを……」
と、老母は武蔵の恐縮する前へ、
それから、心も打ち解けたように、この老母まで笑いこぼれながら、息子の光悦にこう話すのであった。
「わしは、今思うと、まことに済まんことじゃったが、この御牢人様を一目見た時、なにか、血臭いものが眼の前へ来たようで、体じゅうの毛あながぞくとひき緊められるように恐かったのじゃ。今、こうして見れば、なんの事もないお人じゃがの」
そう聞いて、武蔵こそ、この老母の何気ないことばに、はっと胸を
――血臭いお人。
世辞のない光悦の
おのれの身についているにおいというものは、誰でも自分には分らないものに違いないが、武蔵はそういわれて、卒然と、自分の影にこびりついている妖気と血なまぐささに気づいた。そして、この老母の澄んだ感覚に、かつて知らない
「武者修行どの」
光悦は、それを見のがさなかった。武蔵の
「おいそぎでなくば、少しおやすみなさらぬか。まことに
老母もまた、共に、
「もすこし菜を
とこの
うち解けて、だんだん聞いてみると、この老母は
およそ刀をさす人間で、本阿弥家の名を知らない人間はない。けれど武蔵は、その光悦という人や、光悦の母の妙秀という人を、その先入主にある有名なものとは結びつけて考えられなかった。この
妙秀は、
「このお子は、
と、息子へいう。
息子の光悦は、
「さあ、二十五、六歳でもございましょうかな」
と、武蔵を見て答える。
武蔵は首を振って、
「いえ、二十二歳です」
すると妙秀は、さも驚いたように眼をあらため、
「まだそんなにお若いのか、二十二ではちょうど、わしの孫というてもよい」
それからまた、
やさしい
常に、厳しい鍛錬の道に起き臥して、自分を
だが、武蔵には、それができない。
妙秀も、光悦も、この一枚の
なにか話を交わしているうちはいいのである、その間は武蔵も、この毛氈のうえの人たちと溶け合って、自分は慰められている。
けれど、やがて妙秀が
(なにが面白くて――この
武蔵には、この
(絵を描くためか?)
と、武蔵はまた考えて、光悦の広い背中を見まもった。
すこし身を横へねじって、その光悦の筆をのぞいてみると、
ここから少し離れている枯草のあいだに、うねうねと細い野川の水が這っていた。光悦は、その水の
(……ははあ? 絵もなかなか
武蔵はふと、そこへ自分の退屈を預けて
(――敵の
なにを
剣から画を考えても、ぼんやりとその程度には理解できる。――けれどなお分らないのは、妙秀や光悦が、いかにも楽しげにいることだ。
(
彼は、単純にそう片づけ、
(この
退屈はやがて、
「お邪魔をしました」
武蔵は、脱いだ
「……ホ、お立ちか」
妙秀は意外そうにいった。光悦も静かにふり向いて、
「せっかく、母が今、粗末ですが茶をさしあげようと思って、心をこめて釜の湯を見ております。まあよいではありませんか。――先ほど、あなたが母へ話していたのを伺うと、あなたは今朝、蓮台寺野で吉岡家の
かなり距離はあるが、やはりこの野つづきである蓮台寺野で、今朝がた自分と吉岡清十郎との試合があったことを、この光悦は知っていたのか。
それを知りながら、そんなことはまるで、よその世界の騒ぎとして、静かにこうしていたのか。
――武蔵は、もいちど光悦
「では、せっかくですから、頂戴してまいりましょう」
光悦はよろこんで、
「おひきとめするほどではありませんが」
と、すずり
光悦の手に持たれてそれが動いた時、厚い
下に置かれてあるのを見ると、そのすずり筥の
「…………」
飽かないように、武蔵は見いっていた。
十方の
「わたくしの手すさびですよ、お気にいりましたかな」
光悦のことばに、
「ほ? あなたは
光悦は黙って微笑するのみであった。手芸の美が、天然の美よりも、尊く見えるらしい武蔵をながめて、光悦は心のうちに、
(この青年も田舎者)
と、すこし
そういう
「見事ですな」
となおも、眼を離たずにいると、光悦はまた、
「今、わたくしの手すさびといいましたが、その構図に配してある
「近衛三藐院というと、あの関白家の」
「そうです、龍山公のお子様の
「私の叔母の良人にあたる者が、近衛家に長年勤めておりますが」
「なんと仰っしゃる
「松尾
「ほう、要人殿ならば、よう知っています。毎度近衛家にあがるので、お世話にあずかったり、また要人殿もよく、宅へ訪ねてくださるし」
「ア、そうでしたか」
「母者人」
と、光悦はまた、そのことを、母の妙秀にも話し直して、
「どこにご縁が繋がっているかわかりませぬな」
といった。
「おおそうか。ではこのお子は、要人殿の義理の
妙秀はそういいながら、
もう七十ぢかい老母であったが、
野人の武蔵は、光悦に
剣に形、作法などがあるように、茶にも、法があると聞いている。
今も、妙秀のそれを、武蔵は、じっと見ていて、
(立派だ)
と、思った。
(隙がない)
彼の解釈は、やはり剣に
達人が剣を
(道――芸の神髄――何事も達すると同じものとみえる)
うっとりと彼は考えていた。
だが。
われに返ってみると、
そこらの土を子供が
「…………」
光悦はと見ると、もう菓子を食べている。寒い夜に温かい物でも
「――光悦どの」
武蔵はいってしまった。
「武骨者です、実は、茶などいただいたことがないので、飲むすべも、作法も知らないのですが」
すると、妙秀が、
「なんのい……」
と、孫でもたしなめるように、やさしく
「茶に知るの、知らぬのという、智恵がましい
「そうですか」
「作法が茶事ではない、作法は心がまえ。――あなたのなさる剣もそうではありませぬか」
「そうです」
「心がまえに、肩を
「はい」
武蔵は、思わず頭を下げて、次のことばに耳をすましていたが、ホ、ホ、ホ、ホ、と妙秀はその後を笑い消して、
「わたくしに、剣のことなどは、何もわかりませぬがの……」
と、いった。
「いただきます」
武蔵は、膝が痛いので、
(苦い)
と思った。
それだけのことで、
「もう一ぷく、いかがでございますか」
「たくさんです」
どこが美味いのか、なんでこんな物を深刻らしく、味の
武蔵には、
柳生石舟斎も、老後をその道にかくれていた。思い出すと、沢庵坊もよく茶のことはいっていた。
――武蔵は、
石舟斎を思いだしながら、その茶碗をまえにおいて見つめていると、ふとまた武蔵は、あの時、石舟斎から贈られた一枝の
――白芍薬の花をではない、あの枝の切り口を。あの時うけた強い戦慄を。
(おやっ)
と、口に出たかと思うほど、武蔵は、その茶碗から心へひびいて来るなにものかに烈しく打たれた。
手を伸べて、抱きこむように、茶碗を膝へ乗せて見る。
(……?)
今までの武蔵とはまるで人が違ったような熱をおびた眼の光が、つぶさに、茶碗のそこや
(……石舟斎が切った芍薬の枝の切り口と、この茶碗の土を切ってある箆目のするどさと。……ウウム、どっちともいえない非凡人の芸の冴えだ)
(誰だろう、この
手に持つと離せない気のするような
武蔵は、訊かずにはいられなかった。
「光悦どの、私には、今もいったとおり、
「どうして?」
光悦のことばは、顔のようにやわらかい。厚ぼったい唇ではあるが、女みたいな愛嬌をこぼすことがある。少し
「――どうしてといわれると困るのですが、ふと、そんな気がするのです」
「どこか、何かを、お感じになったのでしょう、それを仰っしゃって下さい」
と、光悦は意地がわるい。
「さあ?」
武蔵は考えて、
「――では、いい尽くせませんが、いいましょう。この
「ふむ!」
芸術家の持ち前を光悦も持っていた。芸術の理解などは程度がひくいものと相手をきめてかかって、武蔵も低く見ていたのだった。ところが案外、いい加減に聞いていられないことをいい出しそうなので、急に女のような優しくて厚い唇が、難しく大きく
「――
「するどい!」
「それだけですか」
「いや、もっと複雑だ。非常に太っ腹ですな、この作者は」
「それから」
「刀でいえば、相州物のように、斬ればどこまでも切れる。けれど
「ウウム……なるほど」
「ですから、この作者は、人間としても、ちょっと底がわからないような人物だと私は思う。しかし、いずれ名のある名匠には違いありますまい。……ぶしつけですが、伺います、いったいなんという陶工ですか、この茶碗を焼いた人は」
すると光悦は、厚でな盃のふちみたいな唇を
「わたくしですよ。……ハハハハ、わたくしがいたずらに焼いた
光悦もひとがわるい。
武蔵に批評させるだけ批評させておいてから、さて、その茶碗の作者なら実はわたくしです、といったものである。
(この人はこんな
と、光悦の多芸多能の才に、いやその才よりも、粗朴な茶碗のような姿をしていて、実はその裡に隠している人間的な奥行の深さを――武蔵は気味わるいほどに思った。
彼が自負している剣の理から、この人物の底を計ろうとしても、持ちあわせの
こう感じて来たら、武蔵はもう弱い。その人間に対して、頭を下げずにいられない性分なのだ。自分の未熟さを、ここにも見出して、彼は大人の前に小さく
「あなたも、陶器はおすきのようだな、なかなかよく
光悦がいうと、
「いや、拙者は、皆目そのほうのことはわかりませぬ、あて推量です。失礼なことを申して、おゆるし下さい」
「それはそうでしょう、いい茶碗一つ焼くにも、一生かかる道ですから。けれど
光悦も多分に、武蔵の人間を、心のうちでは認めていた。しかし大人というものは、感心しても口で
つい、時の経つのを武蔵は忘れていた。そのうちに、下男が、菜を
その茶料理も、武蔵には、余りに淡味すぎて、
――けれど彼は、素直に菜や大根のうすい味を味わおうとした。光悦からも妙秀からも、習っていいものが多分にあることを知ったからである。
――が
「ご馳走になりました。先を急ぐ身でもありませんが、試合に及んだ相手方の門人が参ると、ご迷惑がかからぬ限りもありませぬ。――いずれまた、ご縁があれば」
妙秀は、立って行く武蔵を見送って、
「本阿弥の辻へも、おついでの折になど、立ち寄ってくだされい」
光悦もうしろからいった。
「武蔵どの、折を改めて、宅のほうへ、お越し下さい。――ゆるりとまた、話しましょう」
「参ります」
来るか来るかと思っていた吉岡方の者の影は、野のどこにも見当らない。――武蔵はもういちど振りかえって、光悦
自分の歩いている道は、ただ一
「…………」
武蔵は黙々と、野末へ向って、前のとおり
「なんて
場末の
「まあ飲めやい」
板を挟んで、
「暗いぞ、おやじ、鼻へ酒を入れちまうじゃねえか」
誰かがいうと、
「はい、はい、ただ今」
片隅の
「思い出しても、
「まあ、そう怒んなさんな、蓮台寺野の一件で、おれたちの
「だからよ、今頃まで、怒っているわけじゃねえ、
「だが、吉岡清十郎も、話に聞けば、あんまり
「清十郎が弱いのじゃない、武蔵という男が、途方もなく強いらしいんだ」
「なにしろ、たんだ一撃ちで、清十郎は左の手だか右の手だか、どっちか一本
「行ってみたのか、おめえは」
「おれは見ねえが、行ってみた連中の話を聞くと、そんなことだったらしい。清十郎は戸板にのせられて帰って来たが、
「後は、どうなるんだろう」
「門弟たちは、どうあっても武蔵をぶち殺してしまわなければ道場に吉岡流の名はあげて置かれねえというんで、頻りにいきり立っているが、清十郎さえ刃が立たない相手とすると、武蔵に
「伝七郎というのは、清十郎の弟か」
「こいつは、兄よりはずんと、腕のほうは出来るらしいが、手に負えない次男坊で、小遣いのあるうちは、道場へも寄りつかないで、親父の拳法の縁故や名まえをだしにつかって、諸所方々、食いつめ者のように、遊び歩いているという厄介者だ」
「そろいもそろった兄弟だな。あの拳法先生みたいな偉いお人の血すじに、どうしてそんな人間ばかり出来たんだろう」
「だから、血すじだけじゃ、いい人間は出来ねえという証拠だな」
――
「旦那さま、着物のすそへ、火がつきますで、もすこし後ろへ
いうと、男は、酒と火で充血した眼を、
「ウム、ウム。わかっているよ、分っているんだ、そっとしておいてくれ」
腕ぐみも解かなければ、腰も上げないのである。悪酔いでもしているのか、ひどく
その酒癖の悪そうな青すじの立っている顔をのぞいてみると、これは、本位田又八だった。
蓮台寺野の過ぐる日のことは、ここばかりでなく、行く先々でのうわさだった。
武蔵の名が有名になるだけ、本位田又八には、自分が
「おやじ、もう一杯
「お客様、だいじょうぶでございますか、お顔いろがすこし」
「ばかをいえ、顔の青くなるのはおれの持ちまえだ」
もうこの桝で何度飲んだろう。飲んだ当人よりも、おやじの方が忘れているくらいである。
飲みほすと、また黙然と、壁に倚りかかって腕ぐみしているのだ。あれだけの量を飲み、足元には炉の炎が立っているのにまだ顔には色が出ない酒だった。
(――なあに、おれだって今にやってみせる、なにも、人間成功するには、剣とは限るまい。金持になろうが、
耳にも聞きたくないと思いながら、腹ではそんな反感を繰返していた。今度のうわさを、大坂表で聞くとすぐ、京都へ足を向けて来たのも、べつになんの目的があるというわけでもない、ただ武蔵が気になってならないので、その後の様子を見に来ただけのことに過ぎない。
(――だが、今にあいつも、思い上がっているうちに、小ッぴどい目に
武蔵の名声が一敗地にまみれるような日を、彼は絶えず心のどこかで待っていた。そして、自分の上には、
「……アア
ひょろりと、火のそばから壁にすがって立ち上がった。ほかの客の顔はみな振向いて彼を見た。又八は、隅の大きな
あきれ顔に、ぽかんとしていた居酒屋のおやじは、又八のすがたが、暖簾の外にかくれると、気がついたように、
「もしっ、だんな」
と、追って出て、
「――お勘定をまだいただいてございませんが」
ほかの客も、暖簾の隙からみな首を突き出した。又八は、あぶない腰つきで立ちどまりながら、
「なに? ……」
「旦那、うっかり、お忘れなすったんでございましょう」
「わすれ物はねえが」
「
「アア勘定か」
「おそれ入りますが」
「金はねえや」
「えっ」
「……困ったなあ、金はねえ。ついこの間まではあったんだが」
「じゃあ、てめえは、初手から
「……だ、だまれ」
又八は、
「おれも二本差しているのだ。まだ、飲み逃げするほど落ちぶれちゃあいねえ。――酒の代にゃあ過ぎ物だが、取っておけ、
投げた物が印籠とは見えなかったのである。それを顔へぶつけられて、居酒屋のおやじが、痛いッといいながら両手で顔をおおうと、
「ひでえ奴だ」
と、又八の行為を憎み、
「飲み逃げ
「――たたんじまえ」
と、外へ出て来た。
いずれも多少なり酒気をおびている者ばかりだ。酒を飲む者ほどまた、酒の上の不徳漢をつよく憎むものである。
「くせになる、野郎、金を払ってゆけ」
と前後を取り囲んで、
「てめえのような奴は、おおかた年中、その手で飲み屋を飲み倒しているのだろう。――金がなければ、おれ達に、一つずつ頭を
こう連中がいきまいて、袋だたきの
「なんだ? おれを撲る? 面白い、撲ってみろ。――貴様達は、おれを誰だと思っているか」
「乞食よりも意気地がなくて、
「いったな」
青じろい
「おれの名を聞いて驚くな」
「誰が驚くものか」
「佐々木小次郎とはおれのことだぞ。伊藤一刀斎のおとうと
「笑わかしやあがる。きいた風な文句はいいから、金を出せ、飲んだ金を」
一人が、手を出して責めると、又八は、それに返すことばの代りに、
「印籠で足らなければ、これもくれてやるっ」
抜き打ちに、刀を払って、その男の手首を斬って落した。きゃっ――と大げさな悲鳴をあげたので、まさかと
「抜いたっ」
と、われがちに逃げだした。
又八は
「今、なんといった。返って来い虫けらども、佐々木小次郎の手のうちを見せてやる。――待てっ、その首を、置いて行け」
宵闇の中で、又八は、一人で白刃を振りまわしていた。おれは佐々木小次郎だと、頻りに見得を切っていたが、もう相手はひとりもいないし、暮れてきた夜空には、
「…………」
彼が居酒屋のおやじの顔へぶっつけた印籠は、おやじが逃げこんでしまったため、道ばたに落ちたまま、星の下に光っていた。
「――おや?」
すぐ後から、居酒屋を出て来た六部がそれを拾った。六部はなにか急ぎ足だったが、もう一度軒下へもどって行って、
「――あっ? これは旦那様の印籠だ、伏見城の工事場でむごい死に方をなされた
「佐々木様、佐々木様」
誰かうしろで呼ぶとは思っていたが、自分の名でない証拠である。酔っている又八の耳には、通らなかった。
九条から堀川のほうへ又八は歩いてゆく。いかにも自分の身を持て余している影だった。
六部は足を
「小次郎殿、お待ちなさい」
と、いった。
又八は、エ? ――と、しゃっくりでもするように振向いて、
「おれか」
というと、
「おてまえは、佐々木小次郎殿ではないのか」
六部の眼には、
「おれは、小次郎だが、……その小次郎だったら、なんとする?」
「訊きたいことがござります」
「な……なにをだ」
「この印籠はどこからお手に入れましたな」
「印籠?」
いよいよ彼の酒気はさめ加減になってくる。伏見城の工事場でなぶり殺しになった武者修行の顔つきが、ふと眼のそばにちらついた。
「どこからお手に入れた物か、さ、それが訊きたい。小次郎殿、この印籠は、どうしておてまえの持ち物になったのでございますか」
切り口上で六部は問いつめるのだった。年頃二十六、七の男で
「……誰だ、おぬしは一体」
やや真顔に返って、又八がこう相手を探ると、
「誰でもいいではないか。それよりも、印籠の
「元からおれの持ち物なのだ、出所もあるものか」
「嘘をいうな!」
急に、六部は、語気をかえて、
「ほんとのことをおいいなさい。場合によっては、飛んだ間違いごとになりますぞ」
「これ以上、ほんとはない」
「じゃあどうしても、おてまえは泥を吐かないな」
「泥とは何事だ」
勢い、又八も虚勢を張ると、
「この
六部の
「あっ――」
二、三間も
泥酔している相手なので、そう機敏な行動はできまいと
「おのれっ」
追いかけながら、樫の杖を、風へ乗せて又八の影へ投げた。
又八は、首をすくめた。杖はうなりを持って、耳のそばを通って行く――。これは堪らないと思ったらしい、又八は、いよいよ
だが又八は、からくもその杖の先から二度まであぶないところを
どこまで逃げて来ても、六部の跫音がうしろから聞える気がするのだ。はや六条か五条に近い町ならびである。又八は胸をたたいて、
「うう、ひでえ目に遭った。……もう来まい」
そこで、横町のせまい路地を覗きこんだのは、逃げ道を考えているのではなく、井戸を捜しているらしい。
その井戸が見つかったとみえ、又八は、路地の奥へはいっていった。細民街の中にある共同井戸である。
「……なんだろう、あの六部は」
人心地に返ってみると、気味のわるさが、また
金の入っている
「六部のやつ、あの印籠は、おれの主人の持物だといっていたが、――するとあいつは、死んだ武者修行の奉公人だろうか」
世間の狭さに、又八は始終追いつめられている気持だった。肩身がひけて、日蔭を歩けば歩くほど、いろいろな偶然が、鬼の影みたいに、追ってくる。
「杖か棒か、なにしろすごい物を
死人の金を
――働いて
「――そうだ、こんな物も、
中条流の印可目録を、着物のうえから触ってみながら考えた。いつも胴巻の中に突っ張っている巻物がそれだった。持って歩くにも相当厄介な品である。
――だが、又八はすぐ、惜しいとも思う。すでに金は一文もないし、身に持っている財産といえばその巻物一つだった。なんとかこれを種にして、出世の
その印可に書いてある佐々木小次郎の名を
「なにも、捨ててしまうには当るまい。おれはだんだん気が小さくなるようだ。その気の小さいのが出世の
そう肚は極めたものの、今夜の寝床のあてもなかった。泥と草で傾いているようなそこらの細民
さもしい彼の眼は、つい、そこらの家を
けれどそこには、一つ鍋に向い合っている夫婦がある。老母を囲んで
「おれにも、
急に、又八は、思い出された。
つい去年の暮、行き会って七日ほど一緒にいただけで、すぐ、つまらない
「――悪いなあ、かわいそうなおふくろだもの……。どんなに好きな女をこしらえてみても、おふくろほど、心からおれを愛してくれる女はなかった」
ここから
その頃、又八は、よくお杉から聞かされていたのである。
(なにが
――それからまた、春にでもなったら、お礼詣りをかね、後々も、本位田家のため御加護を
だから、或はもう、そこに老母は
六条坊門の通りから五条のほうへ歩いてゆくと、町ではあるが、この
彼は、
――だが、五条に近い松原の辺りまで来ると、犬の群れは、突然、吠える方向をかえて、又八の前後に
暗闇の中にうようよしている犬の影は、犬というよりは狼に近い。それが数えきれない数だった。中には、爪を立てて、その松の樹の五、六尺上まで跳びかかって
「……おや?」
又八は、樹の上を仰いで、眼をみはった。
犬に追われて樹の上へ逃げ登ったのか、それとも、樹の上にかくれていたために、野良犬が怪しんでその下を取り巻いたものか、そこのところは明瞭ではないが、どっちにしても、梢に
「――
又八は、犬の群れへ、
「こん畜生」
二つ三つ石も投げた。
四つ脚のまねをして唸れば、どんな犬も逃げるとかねがね聞いていたので、又八は、
「ウウー」
と唸ってみたが、ここの犬たちには、なんの
もっとも、相手は三疋や四疋ではないのだ、まるで
「こいつら!」
憤然と又八は起った。
かりにも、両刀をおびている青年が、四つ脚の真似をしているのを、樹の上から、若い女に見られていた恥辱を突然気づいたからである。
キャッーンと、ただならぬ一疋の悲鳴が起ると、すべての犬が、又八の方へ眼を向けた。そして彼の手にある
「これでもか」
刀を振りかぶって犬の中へ駈けこむと、彼の顔へぱっと砂をくれて、犬は八方の闇へちらかった。
「――女ッ、おいッ、降りて来い! 降りて来い!」
空へ向って呼ぶと、松の梢のあいだで、り、り、り、りん……と金属製の
「おや、
――とやはり朱実の声だった。非常に驚いた様子で、
「誰? ……誰? ……」
「又八だ、わからないか」
「えっ、又八さんですって」
「なにしているんだ、そんな所で。――犬なぞ怖がるおまえでもないくせに」
「犬が恐いのでかくれているわけじゃありません」
「降りて来たらどうだ、とにかく」
「でも……」
朱実は、樹の上から、静かな夜の
「――又八さん、そこを
「あの人? 誰だ、そいつは」
「そんなこと、いま話してはいられません。とても恐ろしい人です。わたしは去年の暮から、その男を、親切な人だと最初は思って、世話になっているうちに、だんだん私に
「お甲のことじゃないのか」
「お
「
「あんな人なら、なにも恐いことはありやしない。……あッ、来たらしい。又八さん、そこに立っていると、わたしも見つかるし、おまえも
「――なに、そいつが来たと?」
又八は、うろうろして、態度を決しかねていた。
女の眼は、男を指図する。女の眼を意識すると、男はがらにもない金力を出したり、英雄ぶって見せたりしたがる。
だから朱実が、いくら樹の上から彼に向って、
(
と教えても、
(はやく、隠れておしまいなさい!)
と危険を予報しても、そういわれればいわれるほど、彼は自分も男であることを
(それは大変)
と、急にあわてふためいて、そこらの暗がりへお尻を出して
「――あっ? 誰だっ」
こういったのは、もうそこへ
朱実の心配していた恐い男なる者が、ついに、ここへ来てしまったのである。又八の提げていた
「――誰だっ、汝は」
と、もう一声、頭から浴びせてかかった。
「…………」
朱実の恐がり方が大げさであったので、又八も一応はどきっとしたが、相手の影をよく見直すと、背こそ高くて逞しそうな骨格であるが、
(なんだ、こんな青二才が)
と、一見して思わせる程度の柔弱な
そこで又八は、ふふんと、鼻の先で安心したものなのだ。こんな相手ならいくらでもお相手申してさしつかえない。夕方ぶつかった六部のような人間では不気味だが、もう
(こいつが、朱実を苦しめているのか。生意気な青びょうたん
こう又八が胸のうちで、余裕のあるところを示して沈黙していると、前髪の若衆武士は
「何者だっ? ……汝は」
と、いった。
すがたに似あわない
「おれか、おれは人間だ」
と、こう
果たせるかな、前髪は、くわっと血を顔へのぼせたらしい。
「名もないのか。――名もない人間だと
激越に突っかかって来るのを、又八は、
「てめえのような、
と、やり返す。
「だまれっ」
若衆の背中には、中身だけでも三尺もあろうかと思われる大刀が斜めに乗っていた。
肩越しにのぞいているその
「そちとわしとの争いは後で決めよう。わしは、この樹の上にかくれている女を降ろし、この先の
「ばかをいえ、そうはさせねえ」
「なんじゃと」
「この娘は、おれが以前女房にしていた女の娘。今でこそ縁はうすいが、難儀を見すてては通れない。おれをさし
「おもしろい」
と、相手の前髪男は、又八の予期とはちがって、ひどく好戦的な物腰となり、
「見うけるところ汝も
「広言はよせ、考え直すなら今のうちだぞ、足もとの明るいうちに
「その言葉は、そのまま、そちへ返上しよう。――ところで、そこな人間殿、先程黙って聞いておれば、わしなどへ名乗って聞かすような名でないと、だいぶ
「おお、聞かせてもいいが、聞いて驚くな」
「驚かないように、胆をすえておたずねしよう。――してまず、剣のお流儀は」
そんなことを
「
「え、中条流を?」
小次郎は、少し驚き始めた。
ここで、圧倒的に出なければ嘘だと思ったように、又八は押しかぶせて、
「ではこんどは、そっちの流儀を聞かせてもらおうじゃねえか。勝負の作法というもの」
口真似して、やり返したつもりでいると、小次郎は、
「あいや、わしの流儀姓名は後から申し告げる。してしてそこ
問うも愚かというように、又八の答えは言下に出て、
「
「ホ? ……」
いよいよ、小次郎は驚いて、
「すると、伊藤一刀斎は、ご存じか」
「知っているとも」
又八は面白くなって来た。これはもう例の
そこで、彼は、すすんでいった。
「あの伊藤弥五郎一刀斎なら、なにをかくそう、おれには兄
「――では、重ねて伺いたいが、そういうあなたは」
「佐々木小次郎」
「え?」
「佐々木小次郎という者だ」
ていねいにも、二度までいったものである。
ここに至っては、小次郎も、驚きを超えて、
「フーム」
やがて小次郎は、そう唸りながら、
まじまじと無遠慮に自分を見ている眼を、又八は、ぐっと
「なんだっておれの
「イヤ、恐れ入った」
「帰れ!」
「アハハ、アハハハ……」
腹をかかえて小次郎は笑い出した。いつまでも、笑いの止まらない様子で、
「世間を歩くと、ずいぶん様々な人物にも出会うが、まだかつて、こんなに恐れ入った
「なに?」
「わしは一体、何者かと、あなたに訊いてみるのだが」
「知ったことか」
「いやいやそうでない、よくご存知の筈である。
「わからぬか、おれは佐々木小次郎という者だ」
「すると、わしは?」
「人間だろう」
「いかにも、それに違いない。しかし、わしという人間の名は」
「こいつが、おれを
「なんの、大真面目。これ以上の真面目はない。――小次郎先生、わしは誰だ?」
「うるせえ、てめえの胸に訊くがいい」
「しからば、自分に問うて、おこがましいが、わしも名乗ろう」
「オオいえ」
「だが、驚くな」
「ばかな!」
「わしは、岸柳佐々木小次郎だが」
「えッ……?」
「祖先以来、岩国の
「……や? ……じゃあ? ……」
「世間を歩くうちには、ずいぶん様々な人物にも巡り会うが、まだかつて、佐々木小次郎という人間に出会ったのは、この佐々木小次郎、生れて初めてだ」
「…………」
「実に、ふしぎなご縁、初めてお目にかかったが、さては、貴殿が佐々木小次郎どのか」
「…………」
「どうなすった、急に、ふるえておいでなさるようだが」
「…………」
「仲良くしよう」
小次郎は、寄って来た。そして、立ち
「――あッ!」
と、大きな声でいった。
次の声は、小次郎の口から出たもので、まるで槍を吐くように彼の影を
「逃げると、斬るぞッ」
――一跳びに、二間もあいだが開いたように見えたが、その又八の逃げて行く影へ、例の物干竿の
風に吹かれた木の葉虫のように、大地をごろごろと三つほど転がったまま、伸びてしまったのが又八だった。
背なかの
――と、小次郎はもう、
「――朱実っ」
樹の下へ寄って、こう叫びながら
「朱実、降りておいで。……もうあんなことはしないから降りておいで。……おまえの
樹の上からは、いつまで、なんの声もなかった。こんもりと松葉の闇は濃いのである。小次郎はやがて、自分も樹の上へよじ登って行った。
「……?」
朱実はいなかった。いつのまにか隙を見て樹をすべり落ちるなり逃げてしまったものと見える。
「…………」
梢に腰をかけたまま、小次郎はしばらくそこにじっとしていた。
(どうして、あの女は、おれをああ
小次郎には、それが分らなかった。自分で出来るだけの愛を彼女には
女性に対しては、小次郎の愛し方が、どういうふうに人とは違っているかという点を知ろうとするならば、他人ならば、彼の剣にあらわれる性格――つまり太刀すじというものを気をつけて
いったい、この小次郎という者は、鐘巻自斎の手許で、子飼いからの修行を受けている頃から、もう、鬼才だとか、
それを一口にいうと「
もちろんこの時代の剣は、兵法として、手段は問わないのであるから、どんなふうに粘っても、それを、汚いとは誰もいわなかった。
(あいつに、かかられては、かなわん)
と怖れをなす者はあっても、小次郎の太刀を卑怯だという者はない。
たとえば、彼は少年の頃一度、日頃憎まれていた兄弟子たちから木剣で手痛く打ち伏せられて、気絶してしまったことがある。少しひどすぎたと悔いて、その兄弟子が、水をふくませて
また、いちど負けたら、その敵を、彼は決して忘れない。闇の晩であろうが、
(ばか、試合は、試合の時にしろ)
というわけには行かないのであるから、小次郎を一度打ち込むと、
いつのまにか、また彼は、
(おれは天才だ)
と、自分でいっていた。
しかしそれは、彼の
(あれは天才だ)
と、ゆるしていたことは事実なのである。
郷里の岩国へ帰って、錦帯橋のたもとで、毎日、燕斬りの手練をつんで、独自な太刀を工夫してからは、なおさら、
(岩国の
と、人も
――だが、その粘りのある剣の異常な執拗さが、女性を愛す場合に、どういう形であらわれるかなどということは、誰も知る限りのことでないし、小次郎自身は、それとこれとは、まるでべつに考えているので、朱実が自分を嫌って逃げたことが、不思議でならない顔つきであった。
ふと気づくと、その時、樹の下に誰か人影がうごいていた。
小次郎が、梢の上にいることをその人間は知らないらしい。
「……や、誰か仆れているが」
と、又八のそばへ寄って、
「あっ、こいつだ」
と、梢の上までよく聞えてくるような大声でいって、いかにも驚いたらしい
「……はてな、斬られているようでもないし、体はまだ
呟きながら、又八の体を撫でまわしていたが、やがて腰についていた
気絶していることなので又八はなんの抵抗もするわけはない。六部は、そうしておいてから、又八の背を膝がしらで抑え、
ウウム――と又八が太い声を出すと、六部はそうして手当した者を、まるで
「起てっ、起つんだ!」
こう厳命して、足で彼を蹴飛ばした。
地獄の一丁目まで行って気がついたばかりの又八は、まだ十分われに返っていなかったであろう。半ば、夢中のように、体を
「そうだ、そうしていろ」
六部は満足して、彼の胴と脚の部分を、そのまま松の木の幹へ縛りつけてしまった。
「……あっ?」
又八は初めて、こう驚き声を洩らした。小次郎でなくて、六部であったことは、意外であったらしい。
「こら、
六部はこういって、おもむろに又八を
まず最初の折檻が、平手でぴしりと頬を打って来た。その手でまた、
「あの印籠は、どこから手に入れたものか、それを申せ、こら、申さぬか」
「…………」
「いわぬな」
と、六部は、又八の鼻をつよく
抓んでおいて、又八の顔を、左右へ烈しく振り動かすので、又八は妙な悲鳴をあげて、
「……ひゅう、ひゅう」
いう、という意味らしいので六部は鼻から手を放し、
「申すか」
こんどは明瞭に、
「いう」
と、又八が眼からなみだをこぼして答える。
こんな拷問に遭わされないでも、又八はもうあの事を、秘し隠しにつつんでいる勇気はないのである。
「実は、去年の夏のことだったので――」
と、伏見城の工事場で自分が
「……つい出来心で、その人の死骸から金入れと、中条流の印可と、それから
白状して、こう残らずいってしまうと、又八は、去年から絶えず心に病んでいた
聞き終ると、六部は、
「それに相違ないか」
又八は、神妙に、
「相違ありません」
といって、すこし
しばらく黙っていたと思うと、六部は腰の小脇差を抜いて、彼の顔の前へすっと出した。又八は、びくりと斜めに顔を上げ、
「き、きるのか、おれを」
「ウム、
「おれは、一切を正直にいったじゃないか。印籠は返したし、印可の巻物も返す。それから、金も今は払えないが、後日、きっと返すといってるのに、なにもおれを、殺さなくてもいいだろう」
「おぬしの正直はよく分っている。だが、仔細をいえば、わしは上州
そんな言葉は、又八の耳には通らなかった。死に直面しているのである。身をもがいて、自分の縄目をかなしみ、どうかして
「――謝る、おれが悪かったのだ、おれはなにも、悪い量見で、あの死骸から物を盗んだわけじゃない。死人がいまわの際に、たのむ……といったので、初めはその遺言どおりに、死人の身寄りの者へ届けてやるつもりでいたのだが、金につまって、つい預かっていた金へ手をつけたのが悪かったのだ。いくらでも謝るから、勘弁してくれ、どんなようにでも謝るから――」
「いいや、謝られては困る」
六部は、強いて自己の感情を抑えつけているように、首を振って、
「その折の詳しい事情は、伏見の町で調べてあるし、おぬしが正直者だということも見ておるのだから。――だが、わしは国もとにいる天鬼様の遺族に対して、なにか、慰めるものを提げて行かなければ帰れない事情にあるのだ。そこには、いろいろな
「おれが……おれが殺したのじゃないぞ。……おいっ、おいっ、間違えてくれては困る」
「わかってる、わかってる。――そこは十分承知しているが、遠い上州にある草薙家のご遺族たちは、天鬼様が、城ぶしんの作事場で、土工や
これこそ、ことをわけての頼みというものであるが、又八は、そう聞くと、いよいよもがいて、
「ば、ばかなことをっ……嫌だっ、嫌だっ、おれはまだ死にたくない体だ」
「ごもっともな仰せではあるが、さっき九条の居酒屋で飲んだ払いもできぬほど、その身一つさえ生きてゆくに持てあましておられるご様子ではないか。飢えてこのせち辛い世の中にうろついて、恥をかいておられるより、いっそ、さっぱりと
「滅相もねえ……おらお金なんぞはいらねえ、
「折角なれど、こう仔細を割っておたのみ申した上は、どうあってもおぬしに、主人の
源八は、
「待て待て! 源八」
と、誰かその時いった。
それが、又八の口から出た声であるならば、自分の無法の分っている感情を噛みころしても、目的のためには、
(何をっ)
といったような顔つきであったが――
「や……?」
眼を暗い空へ吊り上げて、耳のせいかとでも疑っているように、梢にうごく風を聴いていた。
すると、そこの宙の上からまた二度目の声がした。
「つまらない殺生をするなよ、源八っ――」
「あっ、誰だ?」
「小次郎だ」
「なに」
またしても小次郎だという人間が今度は空から降りて来そうなのだ。天狗の声にしては親しみがあり過ぎた。いったい幾人
源八は、
(もうその手は食わない)
というように、樹の下から飛び離れると、脇差の先を、宙へ構えて、
「ただ小次郎とだけでは分らぬ。どこの何の小次郎か」
「岸柳――佐々木小次郎さ」
「ばかなっ」
笑い飛ばして、
「その偽物はもう
「わしは
「ウム、小次郎の化け物、
「斬れたら、偽小次郎だろう、だが
「…………」
「いいか、おまえの頭の上へ跳ぶぞ、見事に、斬れよ。――だが、わしを宙斬りにし損ねると、わしの背にある物干竿が、おまえの
「アッしばらく――。小次郎様、しばらくお待ちください。……そのお声、思い出しました。また、物干竿の銘刀をご所持のうえは、
「信じたか」
「けれど――どうして左様なところへは?」
「後で話そう」
――はっと源八は首をすくめたのであった。仰向いている顔を越えて、小次郎の
だがそのころの小次郎は、こんな美々しい若衆ではなかった。目鼻だちは幼少からきかない気性をあらわして、
(見違えるような――)
源八は見惚れていた。
木の根に腰を下ろして、
「ま、そこへかけないか」
と小次郎はいう。
それから――二人の間に交わされた話によって――師匠の
また、その事件が、世間の中に、佐々木小次郎を二人
そこでまた、小次郎がいうには――他人の名など
「――どうだな、源八」
小次郎のことばに、
「そう仰っしゃって下さるからには、私にはなにも異存はございません」
「――では、わしはこれで別れるぞ、おまえも国へ帰れ」
「え、このまま」
「されば、実はこれから、朱実という
「ア、お待ちください。まだ、大事なものをお忘れでございましょう」
「なにを」
「先師の鐘巻自斎様から、甥の天鬼様へ託して、あなたへお譲りなされた中条流の印可の巻」
「ウム、あれか」
「死んだ天鬼様の
源八は、そういって、又八の
どうやら生命は助かりそうな様子なので、又八は、腹巻の底からそれを引出されても、惜しい気もちなどは少しもしなかった。むしろ、その後、
「これです」
源八が、印可の巻物を、亡き人に代って小次郎の手へ授けると、小次郎は、押しいただいて感泣するかと思いのほか、
「――
と、手も出さない。
意外な顔して、源八は、
「え? ……どうして」
「要らん」
「なぜですか」
「なぜでも、わしにはもうそんな物は、不要だと思うから」
「勿体ないことを仰っしゃる。自斎先生は、多くのお弟子のうちから、中条流の印可を授ける者は、あなたか、伊藤一刀斎か、こう二人よりないと見て、生前から心で許しておいでになったのですぞ。――やがて、いまわの際に、この一巻を、
「師恩は師恩、しかし、わしにはわしの抱負があるのだ」
「なんですッて」
「誤解するな、源八」
「余りといえば、師に対して、無礼でございましょう」
「そんなことはない。ありようにいえば、わしは師の自斎先生よりも、もっと秀でた
「本性で仰っしゃるのか」
「――勿論」
と、自分の抱負をいうのになんの遠慮があろうという態度の小次郎であった。
「せっかく、先生はわしへ印可を下すったが、今日においてすら、この小次郎の腕はもう先生以上のものになっていると、わしは自ら信じているのだ。それに中条流という流名も田舎びて、将来ある若い者には、かえって
謙譲などというものは、毛ほどもない言葉つきなのである。なんという思い上がった――高慢な男だろうか。
源八は、憎む眼で、小次郎のうすい唇を、じっとねめつけていた。
「――だがのう源八、
終りのことばは、こうていねいにいって、小次郎は、にやりと笑う。
高慢な者が意識していうていねいめいた言葉ほど、嫌味で小憎いものはない。源八はむかむかして、亡師に対するその
(ばかげている!)
自嘲して――さっさと
「おさらば」
一言捨てて、たったと
後見送って――
「ハハハハ、
それから今度は、樹の幹に
「
「…………」
「これっ偽者、返辞をせぬか」
「はい」
「おぬし、名は何という」
「本位田又八」
「牢人か」
「はあ……」
「意気地のない奴だ、師匠からくれた印可さえ返してやったわしを見習え。それくらいな気概がなくては、一流一派の祖にはなれんと思うからだ。……それをなんだ、他人の名をかたり、他人の印可を盗んで、世間を渡りあるくとは、さもしいにも程がある。虎の皮をかぶっても猫は猫でしかないぞ。あげくの果ては、こういう目に遇うのがオチだ。すこしは身にしみたか」
「以後気をつけます」
「いのちだけは助けてやる。しかし
いい渡すと小次郎は、何思ったか、
「ア。矢立を持たなかった」
小次郎がつぶやくと、
「矢立がお入用なら、てまえの腰にたしか差してあったと思いますが」
と、又八が媚びていう。
「そうか、おぬしが持ち合わせておるか、じゃあ借りるぞ」
筆を投げて、小次郎は読み返していた。
巌流――これはふと今、思いついた変え字である。従来は、岸の柳、岩国の錦帯橋で、燕斬りの修練をした思い出を、剣号にしていたのであるが、それを流名とすれば――巌流――このほうがいかにもふさわしい。
「そうだ、これから流儀は、巌流と
夜も更けた頃である。
紙一枚ほど削った樹の白い肌へ、小次郎は、矢立の筆を執ってこう書いた。
この者、それがしの姓をかたり、それがしの剣名を偽称し、諸国よからぬ事してあるきたれば、捕えて、面貌を衆に示すものなり
わが姓、わが流、天下に二なし
わが姓、わが流、天下に二なし
巌流 佐々木小次郎
「よし」墨のような松かぜが、松林の中を、ぐわっと
「ヤ?」
朱実の影でも見つけたのか、突然、

竹の四ツ手がついている
「エ、ホ」
「ヤ、ホッ」
まるで荷物みたいに
駕かきの脚が幅を飛ぶと、笊が浅いので、乗っている人間は、振りこぼされないように、前後の
「エ、ホ。エ、ホ」
駕かきとともに、
今――この松原の中の街道を、その駕が一挺に
夜半すぎると、この道すじにはよくそういった早駕や馬の
「ヤ、サ」
「エ、サ」
「あ、ふ……」
「も少し」
「六条だぞ」
この一団も、三里や四里の近くから来たとは思われない。駕かきも、駕に添って駈けて来る連中も、綿のように疲れきっていて、口から心臓を吐き出してしまいそうな
「六条か、ここは」
「六条の松原」
「もう一息」
「御舎弟、四条はもうついそこでござりますぞ」
一人が駕へいったが、駕の中の巨漢は、張子の虎のようにガクガク首を振りながら、
そのうちに、
「あっ、落ちる」
と、
「アア
という。
ちょっとの折でもあれば、みな休みたい気持だったので、
「降ろせ、
いうが早いか、
「ううう――」
「――伝七郎様、もう沢山はありませぬが」
駕へ竹筒の酒を渡すと、受け取って、それを一息に飲みほしたあげく、
「アア、冷たい! 酒が歯にしみる」
伝七郎と呼ばれた男は、やっと眼を醒ましたように大きく呟く。
その首を、ぬっと、四ツ手の外へ突き出して、空の星を仰ぎながら、
「まだ夜が明けないのか。……おそろしく早かったな」
「お兄上の身になれば、まだかまだかと、一刻も千秋の思いで、お待ちかねでございましょう」
「おれの帰るまで、兄貴の
「医者は
「……むむ、ご無念だろうな」
口を開いて、竹筒を逆さにしたが、もう酒はなかった。
「――武蔵めっ」
その竹筒を大地にたたきつけ、吉岡伝七郎は荒々しくいった。
「いそげっ!」
酒もつよいが、
(兄貴はだめだよ。あれやあ、親父の跡目など継がないで、おとなしく
これは伝七郎が面と向ってもいう
瀕死の清十郎が、
(弟に会いたい)
と、あの後でいったことも門弟達の胸を衝いたが、そうでなくとも、一門の者は、
(この不覚を
と、善後策を思う途端に、彼の名が誰の頭にも呼び起されていたのだった。
――御影附近というだけで何も分らなかったが、即日、門下の中から五、六名の者が兵庫へ立ち、ようやく伝七郎をさがし当ててこの早駕へ乗せたのだった。
平素、不仲な兄とはいえ、吉岡の名を賭して立合った試合に、兄が瀕死の重傷と敗北の汚名をうけて、今わずかに生死の境にある口から(弟に)と、会いたいような言葉を洩らしたと聞くと、伝七郎は一も二もなく、
(よし、行ってやる)
と、駕に身をまかせ、
(早く、早く)
と叱咤するので、駕かきの肩を乗りつぶし、もうここまでの間に
それほど
「――なんだろう?」
「ただの犬の声じゃないが」
耳も目も奪われている形で、伝七郎が
そこで伝七郎がまた、二度目の
「――御舎弟、ちょっとお待ちなさい。あれは何事でしょう?」
なにが何事なのか、いっこう
なにも事改まって、そう神経をつかうほどのことでもない。それは、何十匹か何百匹か知れないが、とにかく余程多いらしい犬の吠え合う声なのだ。
いくら沢山でも、犬の声は犬の声に
「行ってみろ!」
しかるに、伝七郎はこういい、先に立って自分もそれへ足を早めて行った。彼が起つからには、犬の声もただの犬の声でなく、何かの
「――やっ?」
「――や?」
「――や? 奇態な奴」
果たせるかな、想像以上なものを見た。
木の根に縛られている又八と、その又八を
犬に正義をいわせれば、復讐というかも知れない。又八の刀は先刻犬の血をそこらへ
そうでなく、犬の智能を人間の極く低い程度として見ると、こいつ意気地のない奴らしい、
それがみな狼に似て、腹といえば薄く、脊骨は
手も足もきかないので、彼の戦闘は、顔と言葉とで防ぐほかなかった。しかし、顔は武器にならないし、言葉は犬に通じない。
そこで、犬にも通じる言葉と、犬にも受け取れる顔つきの二つをもって、先刻から悪戦苦闘の防禦に必死なところであった。
「うううっ――。うわうッ。……うわうッ……」
猛獣の唸る
犬はタジタジとして少し
声が武器にならなくなると、こんどは顔つきで犬を怖れしめようと計った。
くわっと大きな口を開いて見せると、これには犬も一驚したらしい。眼玉を
そのうち、彼も百面相にくたびれてしまい、犬もすこし飽きた様子で、再び険悪になりかかったので、今度は一生の智恵をここに絞って、おれも諸君の仲間であって、諸君とは同じ生き物であるという親善の意を示す考えで、
「――わん、わん、わん! きゃん、きゃん、きゃん!」
犬の啼き声を、犬たちとともに、又八もやってみせた。
ところが、これが却って犬どもの軽蔑と反感を買ったとみえ、俄然、
かかりしほどに
法皇 は
文治二年の春の頃
建礼門院の大原の閑居
御覧 ぜまほしゅうは
思 し召されけれども
二月弥生 のほどは
嵐烈しゅう余寒も未だ尽 ず
峰の白雪消えかねて
大声張りあげて、平家文治二年の春の頃
建礼門院の大原の閑居
嵐烈しゅう余寒も未だ
峰の白雪消えかねて
幸いにそこへ、伝七郎らが駈けつけて来たので、犬は群れを崩して八方へ逃げてしまい、又八は見得もわすれて、
「助けてくれっ、縄を解いてくれっ――」
吉岡門人のうちには、彼の顔を見知っている者が二、三あった。
「おや、こいつは、よもぎの寮で見たことがある」
「お甲の亭主だ」
「亭主。――亭主はなかったはずだが」
「それは
とやかく取沙汰をし始めたが、かわいそうだ、解いてやれという伝七郎のことばに縄を解いて仔細を訊くと、ここにも又八のいいところはあって、ほんとのことは良心に恥じていわない。
吉岡の者と見たので、彼は自分の宿怨をちょうどよく思い出して、武蔵の名を引きあいに出し、自分と彼とは郷里も同じ作州であるが、彼は自分の
母のお杉は、そのため、もう老年なのに拘らず、武蔵を討ち、不貞の許嫁を成敗せねば郷土へ帰らぬと国を立ち、自分ともどもに、武蔵を討とうと狙っているような次第でもある――
最前どなたやら、自分をお甲の亭主だなどと仰っしゃったが、飛んでもない誤解で、よもぎの寮に身を寄せていたことはあるが、お甲と関係などはない、その証拠には、祇園藤次とお甲とは、あの通り親密で、今では手に手を取って他国へ駈落ちしている事実に
であるから手前には、そんなことはどうでもよいことで、今最も気にかかるのは母のお杉と
「有難うございました。吉岡家といい、手前といい、武蔵は
嘘というものは純粋の嘘ばかりでは成り立たないものと見える、又八がいっている中にも、多少のほんとは交じっている。
しかしさすがに、
(いずれが早く武蔵を討つか)
などとおしまいになって蛇足を加えたあたりから、自分でも気恥かしくなって来たとみえ、
「母のお杉が、清水堂に
ボロの出ないうちにとこういって、先へすたすた行ってしまったところなど、苦し
彼の語るのを、嘘かほんとか疑っているまに立ち去ってしまったのである。門下たちはあきれ顔に、伝七郎は苦笑をながして、
「なんだ……あいつは一体」
後見送って、思わぬ暇つぶしと、舌打ち鳴らしていた。
この数日があぶない――と医者がいってから四日目になる。その頃が最悪な容態だった。きのう辺りからはやや気分がよいらしく見える。
その清十郎は、今ぽやっと
(朝か? 夜か?)
と考えてみた。
枕元の
(鶏が啼いている)
まだこの世に生きている身かと改めて思う。
(生き恥!)
清十郎は、夜具の
泣いているように指の端が
(この先、どの
こう思うのであろう、男泣きにしゅくっと、
父の
(終りだ、もう吉岡の家も)
ぼーっとひとりでに枕元の有明
あの時の、武蔵のまなざし!
今、思っても、毛穴がよだつ。所詮は初めから自分は彼の敵ではなかったのだ。なぜ、彼の前に木剣を投げて、この家名だけでも立つ工夫を未然にしなかったか?
(思い上がっていたのだ。父の名声がそのまま自分の名声であるかのように。――考えてみれば、おれは吉岡拳法の子と生れた以外、なんの修行らしいことをして来たか。おれは、武蔵の剣に敗れる前に、一家の戸主として、人間として、すでに敗北の
閉じている
(なぜおれは蓮台寺野で死ななかったか。……生きたところで――)
と、右腕のない傷口の痛みに眉をふさぎ、悶々と、夜の明けるのを恐ろしく思った。
ど、ど、どっ――と門を打叩く物音がその時遠く聞えた。誰やらが次の間の人々を起しに来る。
「えっ、御舎弟が」
「今、お着きか」
あわただしく出迎えに立って行く者と、すぐ清十郎の枕元へ駈け寄って来る者とがあって、
「若先生、若先生、およろこび下さい。ただ今、伝七郎様が早駕でお着きになったそうでございます。すぐこれへ見えられましょう」
雨戸を開け、火鉢に炭をつぎ、敷物をおいて待つ間もなく――
「ここか、兄貴の部屋は」
伝七郎の声が
と思いながら、清十郎は、その弟に対してすら、いまの姿を見られるのが辛い気がした。
「兄上」
入って来た弟へ、清十郎は弱いひとみを上げて、笑おうとしたが笑えなかった。
ぷーん、弟の体から酒の香がにおう。
「どうなすった兄上」
伝七郎の余りに元気な様子は、病人の神経に重圧をおぼえるらしい。
「…………」
清十郎は、眼をふさいで、しばらく何もいわなかった。
「兄上、こんな時にはやはり、
そして、茶を入れて来た門人へ向い、
「おいおい、茶はいい。茶はいいから、酒を支度してくれ」
「はい」
「おいっ、誰か来て、この障子を閉めろ、病人が寒いじゃないか、馬鹿」
膝を、あぐらに崩して、火桶をかかえ込み、黙っている兄の顔を覗き込んで、
「いったい、勝負はどんな立合い方をやったんです。宮本武蔵などという者は、近頃ちょっと聞え出した男ではありませんか、兄貴としたことが、そんな駈出しの青二才に不覚をとるなんて……」
門人が、ふすまの境から、
「御舎弟さま」
「なんだ」
「お酒の支度ができました」
「持って来い」
「あちらへ用意してございますゆえ、おふろにでもお入りになって」
「湯になんか入りたくもない。酒はここでのむから、ここへ持って来い」
「え、お枕元で」
「いいさ、兄貴とは久しぶりで話すのだ。永い間、仲も悪かったが、こういう時には、やはり兄弟に
やがて、手酌で、
「うまい――」
と、二、三
「丈夫だと、兄上にも、久しぶりで一杯さすのだが」
などと独り語りにいう。
清十郎は、上眼づかいに、
「弟」
「ウム」
「枕元で、酒はよしてくれ」
「なぜ」
「いろいろ嫌なことが思い出されて、おれは不愉快だから」
「嫌なこととは」
「亡き父上が、さだめし、兄弟の酒には、眉をひそめておいでになろう。――おまえも酒の上から、おれも酒の上から、一つもいいことはしていない」
「じゃあ、悪いことをして来たというのか」
「……おまえにはまだ
「ハハハハハ、つまらんことをいっている。そもそも
銚子の底から、もうなくなった酒のしずくを杯へ切っていう。
「……弟!」
清十郎は、ふいに身を起しかけたが、片手のないために、夜具も自由に
「伝七郎っ……」
夜具の中から伸びた片手は、弟の腕くびをつよく握った。病人の力は、健康な者にも痛かった。
「お……と、と、と、兄貴、酒がこぼれる」
握られた手の杯を、伝七郎はあわてて持ちかえながら、
「なんです、改まって」
「――弟、おまえに望み通りこの道場を譲ろう。だが、道場を継ぐことは、同時に家名を継ぐことであるぞ」
「よろしい、ひき受けましょう」
「そう無造作にいってくれるな――おれの
「馬鹿なことを仰っしゃい。伝七郎はあなたとは違う」
「心を入れかえてやってくれるか」
「待ってくれ、酒はやめませんぞ、酒だけは」
「よかろう、酒も程には。……わしが
「女でしょう。――女ずきはあなたのいけないところだ。こんど体が癒ったら、もう決まった妻をお持ちなさい」
「いや、この機会にわしはすっぱりと剣を捨てた、妻など持とうという気持もない。――ただ一人救ってやらなければならない人間がある。その者の幸福になるのを見届けたら、もう望みはない。野末に
「はて? 救ってやらなければならない人間とは」
「まあいい。――おまえには後を頼むぞ。こういう廃人の兄の胸にもまだ、幾分かの意地とか面目とかいうものは、武士であるからには、未練だが、燃えいぶっている……それを忍んで、おまえにこう手をついていう。……いいか、おれの踏んだ
「よしっ……きっとあなたの汚名は遠からず
「……武蔵?」
と清十郎は、眼をみはって意外なことでもいい出されたように弟の顔を見つめるのだった。
「伝七郎、おまえは、おれが
「なにを仰っしゃるのだ、今さら、いうまでもありますまい。この伝七郎を迎えによこしたのは、そのおつもりではありませんか。また、拙者も門人も、武蔵が他国へ足をふみ出さないうちにと思えばこそ即座に、取る物も取りあえず、駈けつけて来たのではございませんか」
「思い違いも甚だしい!」
清十郎は首を振った。
先行きを見ているような眼ざしをもって、
「やめろ」
弟へ命じる兄の態度だった。
それが気に入らなかったに違いない、伝七郎は、
「なぜ?」
と突ッかかってゆく。
病人の顔は、弟のその語気から血の気を呼び出されて、うす紅くなった。
「勝てないからだ!」
激越に、こう吐くと、
「たれに」
と、伝七郎も蒼くなっていう。
「武蔵に!」
「たれが」
「知れているではないか。おまえがだ。おまえの腕ではだ――」
「ば、ばかなことを」
わざと大きく笑うように、伝七郎は肩を揺すぶった。そして、兄の手をふりほどいて杯へ自分で酒をついだ。
「――おい門人、酒がないぞ、酒をもって来んか」
声を聞いて、弟子の一人が、
「……おや」
眼をみはって、その門人は盆を下へ置くと、
「どうなさいました若先生」
夜具の中に
「呼べ。……呼んで来い。伝七郎にもいちどいうことがある。伝七郎をここへ連れて来い」
「ハ、ハイ」
弟子は、清十郎の語気が、はっきりしているので、ほっとしたらしく、
「はっ、ただ今」
と、あわてて伝七郎を捜しに出て行った。
伝七郎はすぐ見つかった。彼は道場へ出て、久しく見なかったわが家の道場の床に坐っていた。
「お兄上とは、もうお会いになりましたか」
「ム。今会ってきた」
「お
「そう
「え、口喧嘩を。……それは御舎弟がよくない。お兄上はきのう辺りから小康を得て、すこし容態を持ち直して来たばかりのお体。そういう病人をつかまえて」
「だが……待てよ、オイ」
伝七郎と古参門下とは、まるで友達づきあいの調子だった。
自分をたしなめかけた植田良平の肩をつかまえ、冗談の中にも自分の腕力を示すように揺すぶって、
「――兄貴はおれにこういうのだぞ。――おまえは、おれの敗北をすすぐために、武蔵と立合うつもりだろうが、所詮、おまえは武蔵に勝てん。おまえが
「なるほど」
「なにがなるほど!」
「…………」
捜しに来た門人が、その話のすきを
「御舎弟様、お兄上が、もいちど枕元へ来てくれと仰っしゃっておりますが」
後ろに手をつくと伝七郎はじろッと、その門人の顔を見て、
「――酒はどうした」
「あちらに運んでおきました」
「ここへ持って来い、皆で飲みながら話そう」
「若先生が」
「うるさい。……兄貴はすこし恐怖症にとッ
植田、御池、その他が口をそろえて、
「いやいや酒どころの場合ではない、吾々なら結構ですぞ」
伝七郎は、不機嫌に、
「なんだ貴様たちは。……貴様たちまで一人の武蔵に
吉岡という存在が大きかっただけに、受けた打撃もまた大きかったのである。
武蔵から与えられた木剣の一撃は、当主の肉体をああしたばかりでなく、既成勢力の吉岡一門というものを、根底から不具にしてしまった形だった。
(よもや)
と、自尊しきっていた一門の気持がみな崩れ出して、その後始末にしても、以前のような一致は欠いている。
いちど受けた
伝七郎を迎える前から、
(武蔵へ二度の試合を申しやって、雪辱を試みるか)
(それとも、このまま
というこう二つの意見は、古参門下の中にも対立していて、今も伝七郎の意思に同意の顔つきを示す者、暗に、清十郎の考えに共鳴しているらしい者とふたいろあった。
――だが、
(恥は一時のこと、万一これ以上不覚をかさねることでもあっては)
というような
殊に、
「――そんな
ここへ運び移されて来た杯を取って、めいめいに酒をつがせ、伝七郎は、きょうから兄に代って自分が経営にあたるこの道場に、まず自分流の気分を
「おれは、断言するぞ、武蔵を打つと! ……。兄がなんといおうと、おれはやる。武蔵をこのまま
「それはもう……」
と、口を濁した後で、
「御舎弟のお力は、我々も信じておりますが……だが」
「だが……なんだ?」
「お兄上のお考えにしてみると、相手の武蔵は一介の武者修行、こちらは室町家以来の御名家、
「――博奕だと」
伝七郎の眼がキラとむつかしく光ったので、南保余一兵衛はあわてて、
「アア、失言でした。そのことばは取り消します」
皆まで聞かずに、
「これ」
と、伝七郎は彼の襟がみをつかんで突っ立ち、
「……出て行け! 臆病者」
「失言でした、御舎弟……」
「だまれっ、貴様のような卑劣者は、おれと同席する資格がない。――去れッ」
突き飛ばしたのである。
道場の羽目板へ背をぶつけたまま、南保余一兵衛は真っ蒼になっていたが、やがて静かに坐って、
「御一同、永々お世話に相成りました」
それから正面の神壇へも礼儀をして、ついと、邸の外へ出て行った。
――目もくれないで、
「さあ、飲め」
伝七郎は、一同へ酒をすすめていう。
「飲んだうえで、今日からひとつ武蔵の宿所を捜し出してくれい。なに、まだ他国へは出ていまい。勝ち誇って、そこらを肩いからして歩いているに相違ない。――いいか、そのほうの手配と、次にはこの道場だ。こう
それから七日ほど後のこと。
「わかった!」
と外から
道場では、先頃から伝七郎自身が立って、予告しておいた通り、ひどく手荒い稽古をつけ始めた。
今も、彼のつかれを知らない精力に大勢が
「待て、太田黒」
伝七郎は木剣をひいて、今、道場の端へ顔をあらわして坐った男へ眼をやり、
「わかったか」
と、そこからいった。
「わかりました」
「どこにいたか、武蔵は」
「実相院町の東の辻――俗にあの辺で
「本阿弥の家に。――はてな? 武蔵のような田舎出の修行者ずれと、あの光悦が、どうして知り合いなのだろうか」
「縁故のほどはよく分りませぬが、とにかく、泊っていることは
「よしっ、すぐ出向こう」
支度に――と奥へ大股に入ってゆくと、ついて行った太田黒兵助や、植田良平などの古参たちが押し止めて、
「ふいに出向いて行って討つなどということは、喧嘩の意趣めいて、勝っても、世間がよくいいますまい」
「稽古には礼儀作法もあろうが、いざという実地の兵法に、作法はない、勝ったほうが勝ちだ」
「ですが、お兄上の場合がそうではなかったのですから。――やはり、前もって書状をつかわし、場所、日、時刻を約しておいて、堂々とお試合になったほうが立派かと存じますが」
「そうだ、そうしよう、お前たちのいう通りにするが、まさかその間に、また兄貴の言にうごかされて、門人までが止めだてはすまいな」
「異論を抱く者や、また吉岡道場を見限った恩知らずは、この十日ほどの間に、すべてここの門から出てゆきました」
「それでかえって、この道場は強固になった。祇園藤次のような不届き者、南保余一兵衛のような臆病者、すべて恥を知らぬ腰抜けは自分から出て行ったがよい」
「武蔵へ書面をつかわす前に、一応はお兄上の耳へも」
「そのことなら、お前たちではだめだ、おれが行って話を決める」
――と清十郎の居間から、
「おいっ、植田、御池、太田黒、ほかの者も、ちょっと顔をかしてくれ」
清十郎の声ではない。
顔をそろえて行って見ると、伝七郎が一人きりでぼんやり立っているではないか、こんな顔つきの彼を古参の者たちも初めてみた。伝七郎の眼は泣きかけているのだった。
「見てくれ――みんな」
手にひろげていた兄の置手紙を一同へ示して、伝七郎は言葉では怒っていた。
「兄貴のやつ、おれに向ってまた、こんな長たらしい意見手紙を書き、これを残して家出してしまった。行く先も書いてないのだ……行く先も……」
ふと、針の手を止めて、
「……誰?」
お
「どなた? ……」
縁の障子を開けてみたが誰もいないのである。気のせいであったと分ると、お通はさびしさに
(城太さんかと思ったら?)
心の中で
ここは三年坂の下だった。
ごみごみした街中ではあるが、往来の
お通の姿が見えるそこの一軒家も、裏はよその庭らしい木立に囲まれ、前の百坪ほどは野菜畑になっていて、その畑のすぐ向うには、朝から晩までひどく忙しげな物音をさせている
今は――どこへ行ったのか姿はここに見えないが、お杉隠居がなじみの旅籠で、京都に来ればここと決めてあり、ここへ来ればこの畑の中の
「お通さあ、
畑の向うで、台所の女が、こっちへ呶鳴っていた。
お通は、考えごとから醒めて、
「アア御飯ですか。――御飯ならば、お婆様が帰って来てから一緒に食べますから後にして下さい」
すると、台所の女はまた、
「ご隠居さあは、きょうは帰りがおそうなるといって出やはりましたがの。おおかた晩方までのおつもりで出やはったのでございましょうが」
「じゃあ私も、あまりお
「あんた、ちっとも物を召上がらんで、ようそうしておいでなはるなあ」
どこからともなく、
この辺には、
馬のいななきや清水の参詣人の跫音が、往来の方に
お通は、飛び立つように思い、そして武蔵のすがたを
(城太郎さんは、蓮台寺野へ行ってみたに違いない、城太郎さんが来れば詳しいことも……)
と、同時に城太郎の訪れを待つことも痛切になる。
だが、その城太郎がちっとも来ないのだ。五条大橋で別れた
(尋ねて来ても、ここの家が分らないのかしら? ……いいやそんなはずはない、三年坂の下と教えてあるのだもの、一軒一軒尋ねたって)
そう思ってみたり、また、
(もしや
とも案じてみる。
けれど、あの城太郎が、風邪で寝ているなどとは信じられない。――きっと
――けれどまた、考えようによれば、城太郎のほうでも同じように、
(なにも、遠い所じゃなし、お通さんだって一度ぐらいは、自分の方から来そうなものじゃないか。烏丸のお
そんなふうに待っているかも知れないと思う。
そこへ気のつかないお通でもなかったが、お通にしてみれば、城太郎のほうで来てくれるのはいと
今日のような留守をよい
(お通さんどこへ?)
と、旅籠の母屋からすぐ、さり気ない声がかかるのである。
なにしろまた、お杉婆さんといえば、この三年坂から清水の界隈でも、長い
(あの婆は気丈だ)
(えらい気丈者よ)
(敵討に出ているのだとよ)
そんな沙汰からいつとなく、婆の人気はひろまって、一種の尊敬にさえなっている。――だから旅籠の者などなおさらのこと、お杉の口から
(ちと仔細ある
とでも吹き込まれれば、それを守るに忠実なのは当然であった。
いずれにしても、お通はここから今では無断で出ることは許されない。
「…………」
障子の蔭へ身を
するとまた誰か外に人影が
「オヤ? 違ったかしら」
聞き馴れない女の声がする。
往来から路地をはいって来て、ここの袋地内の畑や
何気なく、お通は障子の蔭から顔を出してみた。
「あの……」
「……あの、こちらは、宿屋ではないんでしょうか。路地の入口に、はたごと書いた
と、引っ込みがつかないように、もじもじしていう。
お通は、それに答えるのも忘れて、女の顔から足の先までを見つめていた。その眸が異様に先へは受け取れたに違いない。袋路地と知らずに間違って入って来た女は、いよいよ、
「どこの家でしょう」
「まあ、よく咲いている」
と、テレた顔を上げて、
(そうだ、五条大橋で!)
お通はすぐ思い出したが、また人違いではないかとも迷って、記憶へ念を押してみるのだった。――元日の朝であった。あの大橋の
台所の女が、帳場へ告げたとみえて、表から路地を廻って来た
「お女中さま、お宿でございますか」
「ええ、どこなの?」
「ついそこの入口でございますよ、ヘイ、路地の右側の
「まあ、じゃあ往来に向っているんですね」
「往来でも、お静かでございますが」
「出入りに眼がつかないような家をと、捜していると、ちょうど路地の角に掛行燈が見えたから、この奥ならと思ってはいって来たんだけれど」と、お通のいる一棟をのぞいて、――
「ここは、お宅の
「はい、手前どもの別棟でございますが」
「ここならばいいのね……。静かそうで……どこからも、見えない」
「あちらの母屋にも、よいお部屋がございますが」
「番頭さん、ちょうどここにいらっしゃるのは、女のお方のようだし……私もここに泊らせてもらえませんか」
「ところが、もうおひと方、ちと気ごころのむつかしいご隠居がいらっしゃいますのでな……」
「かまいません。私はいいけれど……」
「後ほど、お帰りになりましたらば、
「じゃあその間、
「どうぞ。……あちらの部屋だって、きっとお気に召すと存じますが」
手代に
「…………」
お通は遂になにもいわずにしまった。なぜ
今行った女と武蔵は、いったいどういう間がらなのか。
それだけでも知りたい。
五条大橋で見かけた時には、かなりな時間を二人で話していた、いやそれもただの程度ではない、果ては彼女が泣き、武蔵がその肩を抱いていたではないか。
(よもや、武蔵様に限って……)
とお通は、自分の
――自分より美しい女。
――自分よりあの人に近づく機会の多い女。
――自分より才気があって男性のこころを巧みにつかむ女。
今までは、武蔵と自分としか考えていなかったが、お通は急に、同性の世界をながめて、自分の無力がかなしくなった。
――美しいなんて思えない。
――才もない。
――機縁にもめぐまれない。
こういう自分を、ひろい社会の多数の女性に
(城太さんの手がほしい!)
痛切に、お通はそう思った。そしてまた、
(
と思い、この頃のように、独り悩んでいる複雑な気持は、そうした
「――いるのか、いやらぬのか。――お通っ、なんでまた
いつの間にか夕闇の迫っていた軒先に、外から戻って来るなりこういうお杉隠居の声がしていた。
「お帰りなされませ。――今すぐ灯りの支度をいたしまする」
壁の後ろの小部屋へ立ってゆくお通の背へ、じろりと冷たい眼をくれながら、婆はほの暗い畳へ坐った。
灯りを置いた蔭へ手をつかえてお通が、
「お婆様、おつかれでございましょう。きょうはまたどちらまで……」
「問うまでもあるまいに」
と、お杉は、わざとのように
「せがれの又八を
「すこし脚でもお
「脚はさほどでもないが、陽気のせいか、この四、五日は肩が
なにかにつけて、この調子なのだった。しかし、それも又八を尋ねあてて、きれいに過去の話をつけてしまうまでの少しの間の辛抱――と、お通はそっと婆の
「ほんに、お肩が固うございますこと。これでは、
「歩いていても、ふと胸がつまるように思うことがある。やはり年じゃ、いつなん時、卒中で倒れるかも知れぬ」
「まだ、まだ、若い者も及ばないお元気で、そんなことがあってよいものではございませぬ」
「でものう、あの陽気な権叔父ですら、夢のように死んで
「お婆様……。武蔵様は、そんな悪い人では決してありませぬ。……お婆様のお考え違いでございます」
「……ふ……ふ」
肩を揉ませながら――
「そうじゃったの、そなたにとれば、又八を
「ま! ……そんな
「ないとおいいやるか。又八よりは、武蔵が可愛ゆうてなるまいがの。そう明らさまにいうたほうが、物事すべて、正直というものじゃぞ」
「…………」
「やがて、又八に出会うたら、この婆が仲に立って、そなたの望み通り、きっぱり話はつけてやるが、そうなればそなたと婆とは、あかの他人、そなたはすぐ武蔵のところへ走って行って、さぞかしわしら
「なんでそんなことを……。お婆様、お通はそんな
「この頃の若い女子は、口がうまい。ようそのように優しくいえたものじゃ。この婆は正直者ゆえ、そのように言葉はかざれぬ。――そなたが武蔵の妻となれば、そなたも後にはわしが仇じゃ。……ホホホホホ、仇の肩を揉むのも辛かろうのう」
「…………」
「それも、武蔵と添いたいための苦労であろが。そう思えば、堪忍のならぬこともない」
「…………」
「なにを泣いておいやる?」
「泣いてはおりませぬ」
「では、わしの襟もとへ、こぼれたのはなんじゃ」
「……すみませぬ、つい」
「ええもう、むずむずと、虫が這うているようで気持がわるい、もっと力を入れておくれぬか。……めそめそと、武蔵のことばかり考えておいやらずに」
前の畑に
「ごめん下さい。本位田様のご老母のお部屋はこちらでございますか」
と、
さげている提燈には――
と、書いてある。
「てまえは、子安堂の堂衆でおざるが……」
と提燈を縁において、使いの僧はふところから一通の書付をとり出し、
「何やらぞんじませぬが、
「それは、それは、ご苦労さまな」
と婆は人ざわりよく敷物などすすめたが、使いの僧はすぐ戻って行った。
「……はてのう?」
「お通っ……」
「はい」
と、小部屋の隅の炉ばたからお通が答える。
「もう茶など
「もうお帰りになってしまいましたか。それでは、お婆様に一ぷく」
「人に出しそびれたのでわしへ振向けておくれるのか。わしの腹は茶こぼしではないぞえ、そのような茶、飲みとうもない。それよりすぐ支度しやい」
「……え、どこぞへ、お供するのでございますか」
「そちの待っている話を今夜つけてやろうほどに」
「あ……では今のお手紙は、又八様からでございますか」
「なんなとよいがな、そなたは黙ってついて来ればよいのじゃ」
「それでは
「そなた、まだか」
「お婆様のお帰りを待っておりましたので」
「よけいな気づかいばかりしていやる。わしが出たのは
「はい」
「音羽山の夜はまだ肌寒かろう、胴着は縫えているか」
「お小袖はもう少しでございますが……」
「小袖を訊いているのじゃない、胴着を出してたも。それから足袋も洗うてあるか、草履の緒もゆるい。
返辞がしきれないほど、婆のことばが次から次へお通を追う。
なぜという理由もなく、お通はそのことばに一つも反抗はできなかった。黙って見ていられる眼にさえ、心が
草履をそろえて、
「お婆様、お出ましなさいませ、お供をいたしまする」
と、先へ出ていうと、
「
「いえ……」
「うつけた
「気がつきませんでした――今すぐ」
と、お通は自分の身支度は何をする間もない。
音羽山の奥といったが、いったいどこへゆくのだろうか?
そんなこともふと考えたが訊いたら叱られるであろうと思い、お通は黙って灯りを提げながら三年坂を先に立って歩いて行く――
しかし、心の裡で、彼女もなんとなくいそいそしていた。
(話がついたら、今夜のうちにも烏丸様のほうへ戻って城太さんの顔を見なければならない――)
三年坂は辛抱坂だった。石ころの多い
滝の音がする――水かさが増すわけでもないが夜は大きく耳へひびく。
「
清水寺のわきの山道をかなり登って来たのである。しかし婆は、息が
「――
そこの堂の前に立つと、すぐ闇へこう呼ぶ。
顔つきにも、声にも、真実の愛情がふるえていた。後ろに立っているお通には、べつな老婆のように思えた。
「お通、
「はい……」
「いない、いない」
婆は、口のうちで
「手紙には、地主権現まで来てくれとあったが」
「今夜と書いてございましたか」
「きょうとも
お通は
「お婆様、又八さんではありませんか。――誰か下から登って来るようです」
「エ、いたか」
崖の道をさし覗いて、
「伜――」
やがて登って来た者は、そういうお杉婆には目もくれないで、地主権現の裏へ廻り、またそこへ戻って来ると、立ちどまって、提燈の明りの上に浮いているお通の白い顔を、不遠慮な眼でじっと見る。
――お通は、はっと思ったが、先は何も感じない顔つきである。この元旦、五条大橋のそばでお互いに見かけているはずであるが、佐々木小次郎のほうには、覚えがなかったであろう。
「
「…………」
すると小次郎は、いきなりお通の顔を指さして、
「ちょうど、これくらいな年ごろの女だ。名は
「…………」
黙って、二人が顔を振ると、
「おかしいな? 三年坂の辺りで、見た者があると訊いたのだが、さすれば、この辺の御堂で夜を明かすつもりにちがいないし……」
初めは相手を置いていた言葉であったが、途中から独り言のようになって、それ以上は問いようもなく、なにかまだ、ふたことみこと呟きながら、小次郎はどこともなく立ち去ってしまった。
婆は、舌打ちして、
「なんじゃあの若者は、刀を負うているところを見れば、あれでも侍じゃろが、これ見よがしの
お通は、お通でまた、
(そうだ、さっき
武蔵と――朱実と――小次郎と――そう三人の関係を、いくら考えても解せない想像の中にのぼせて、ぼんやり見送っていた。
「……もどろう」
婆は、がっかりしたように、
すこし道を降りてゆくと、本願堂の門前で、また、さっきの小次郎に二人は出会った。
「…………」
顔を見あわせただけで、どっちも黙って通りすぎた。お杉が振向いて見ていると、小次郎の影は子安堂から三年坂のほうへ、まっ
「
つぶやいているうちに、婆の視線がなにへ触れたのか、ぎくと、背のまるい体に衝動を見せて、
「……ほう!」
婆の目にだけは、闇でもわかる人影だった。又八にちがいない。
(――来てくれ、こっち)
手で物をいっているのはその意味らしい。なにか、
「お通よ」
うしろを見ると、お通は十間ほど先に立って、婆を待っていた。
「――そなた、ひと足先へ行かっしゃれ。そうかというて、あまり遠くへ
お通が、素直にうなずいて先へ行きかけると、
「これこれ、
そして、すぐその体は、杉の
「又八ではないか」
「おばばっ」
暗がりから、待ちかねていたような手が出て、婆の手を固くつかんだ。
「なんじゃわれは、そんなところへ
もうすぐ、そんな
そう叱られても、又八は
「……でもなおばば、今も、たった今もここを通ったろうが」
「誰がじゃ?」
「太刀を背中に
「知っていやるのか」
「知らいでか、あいつが佐々木小次郎といって、つい先頃、六条の松原で、小っぴどい目にあわされた」
「――なに、佐々木小次郎? ……佐々木小次郎というのは、わがみのことではないのか」
「ど、どうして」
「いつであったか、大坂表でわがみが、わしに見せてくれた中条流の許し
「嘘だ、あれは嘘なんだ。――その
「…………」
呆れてものがいえないように、お杉は黙ってしまったが、ひと頃よりはまた
「そんなことはどうなとよい」
婆はもう、わが子の弱音を、それ以上聞きたくもないという顔して、首を振った。
「それよりは又八、おぬしは、
「えっ、叔父御が? ……ほんとですか」
「たれがそのような嘘をいおうぞ。住吉の浜で、おぬしと別れるとすぐあの浜で亡くなったのじゃ」
「知らなかった……」
「叔父御の
「いつか、大坂で会った折、
「そうか……あの言葉を覚えているか。では、おぬしに
「なんだ、おばば」
「お通のことよ」
「……あっ! じゃあ、おばばの側に添って、今
「これっ――」
たしなめるように、又八の前へ立ちふさがって、
「
「お通ならば……おばば……会わしてくれ、会わしてくれ」
うなずいて――
「会わしてやろうと思えばこそ連れて来たのじゃ。――したが又八、おぬし、お通に会ってどういう気か」
「悪かった――済まなかった――ゆるしてくれといって、おれは謝るつもりだ」
「……そして」
「……そしてなあ、おばば……おばばからも、おれの一時の心得ちがいを
「……そして」
「元のように」
「なんじゃあ? ……」
「――元のように仲をもどして、お通と
皆までいわせず、
「――ばッ、ばかっ」
お杉は、又八の横顔を、ぴしゃりと打った。
「アッ……な、なにをするんだ、おばば」
「たった今、おぬしはなんというたぞ。わしがいつかいうて聞かせた言葉は、
「…………」
「いつ、このおばばが、お通のような
「…………」
「
又八の襟がみを
又八は、首をがくがく動かしながら、眼を閉じて、母の
婆は、いよいよ歯がゆそうに、
「なにを泣くのじゃ。泣くほど犬畜生に未練があるのかっ。――ええ、もうおぬしという子はいのう!」
力まかせに、わが子を大地へ突き仆した。そして自分も
「これ」
厳しい母に返って、お杉は大地に坐り直した。
「今が、
――分りきったことを――というように、又八は横を向いたままなのである。
お杉は、わが子の機嫌を損じてもならないと、心の隅ではまた、気がねするように、
「のう、これ。お通ばかりが
「…………」
「――だがの、お通だけは、金輪際、本位田家の面目として、持たすことは相成らぬ。おぬしが、なんといおうが、まかりならぬ」
「…………」
「もし、飽くまでおぬしがお通と添う気なら、この婆が首打ってそれからどうなとしやるがよい。わしの生きているうちは――」
「おばば!」
突っかかって来たわが子の
「なんじゃ、そのいいざまは」
「じゃあ訊くが……いったいおれの女房にする女は、おばばが持つのか、おれが持つのか」
「知れたことをいやる、わが身のもつ妻でのうてなんとする」
「……な、ならば、お、おれが選ぶのが、あたりまえじゃないか。それを」
「まだそのように聞きわけのないことばかり……。
「だって……い、いくら親だってあんまりだっ、勝手すぎる」
この息子とこの母親とは、どっちも余り隔てを知らないために、ややともすると感情と感情ばかりが先に立って、感情を出した後から言語が出るという始末だった。そのためにかえって、お互いが理解をはぐらかし、すぐ
「勝手とはなんじゃ、
「そんなこといったってむりだ。おばば……おれはどうしても、お通と添いたい。――お通が好きなんだっ」
さすがに、青ざめている母の顔へ向ってはいえずに、又八は、空へ向いてうめいた。
お杉の尖っている肩のほねが鳴るようにふるえ出した、――と思うと、やにわに、
「又八、本性か」
と、いって、いきなり自分の脇差を抜いて
「あッ、おばばなにするっ――」
「ええもう、止めだてしやるな。それよりはなぜ、
「ば、ばかなことを。……おばばが死ぬのを、おれが……子が見ていられるか」
「では、お通をあきらめて、性根を持ち直してたもるか」
「じゃあ、おばばは一体、なんのために、お通をこんなところへ連れて来たのだ。おれにお通のすがたを見せびらかすのだ。――おれには、おばばのその肚がわからぬ」
「わしの手で殺すは易いことじゃが、元々、
「それじゃあ、おばばは、おれの手でお通を斬れというのか」
「……嫌か!」
鬼のことばのようである。
又八は、自分の母の中に、こんな声を出す性質があったろうかと疑った。
「嫌なら嫌といえ。
「だ……だって、おばば」
「まだ未練をいいおるか。エエ、もうおのれのような奴、子でない、母でない! ……。女の首は斬れまいが、母の首なら斬れるであろう。
元より
子のわがままもずいぶん親をてこずらすが、親の駄々も随分子どもをてこずらす場合がある。
お杉のもその一例に過ぎないが、この年寄は
又八はふるえ上がって、
「おばば! ……そ、そんな短気なことをしなくっても。……いいよ、わかった、おれは
「それだけか」
「
「
「ム。
婆は、うれし泣きに泣いて、脇差を捨てた手で、子の手を押しいただいた。
「よういやった、それでこそ本位田家の世継ぎ息子、あっぱれ者と御先祖さまも仰っしゃろう」
「……そうかなあ?」
「討って来い。お通は、すぐこの下の
「ウム……今行くよ」
「お通を首にして、添状付けて、先に七宝寺へ送りとどけてやろうぞ。村の者のうわさだけでも、わしらの面目が半分は立つ。――さて次には武蔵めじゃが、これも、お通を討たれたと聞けば、意地でもわしら
「おばばは、ここで待っているか」
「いや、わしも
「……女ひとりだ」
よろりと又八は立って――
「おばば、きっとお通は首にして来るから、ここで待っていたらいいじゃないか。……女ひとりだ、大丈夫、逃がしゃあしない」
「でも、油断をしやるなよ、あれでも刃物を見れば、相当に
「いいよ……なにくそ」
自分をこう
「よいか、油断するなよ」
「なんだおばば、尾いて来るのか。待っていろ」
「よいわ、
「いいといったら!」
又八は、
「二人でゆくくらいなら、おばば一人で行って来い。おれはここで待っている」
「なにを渋っていやるのじゃ、おぬしはまだ本心からお通を斬る気になっておらぬの」
「……あれだって人間だ、猫の子を斬るような気持じゃ斬れない」
「無理もない……たといどのように不貞の女でも、元はおぬしの
又八は返辞もせず、腕ぐみをしたまま、ゆるい崖の道を降りて行った。
さっきからお通は、塵間塚のまえに
(いっそ、こんな時に)
と逃げる隙を考えないでもなかったが、それでは
(もう少しの辛抱)
お通は、武蔵を思い、城太郎のことを考え――そしてぼんやり星を見ていた。
武蔵を胸に描いていると、彼女の胸には無数の星が輝いた。
(今に。今に……)
夢みるように、
たとい年月が経っても、それを裏切る武蔵ではないことを、彼女はかたく信じていた。
――ただ
(花田橋で別れたきり、会えもしない、話せもしない……。それでも自分はなにかしら楽しい。
針のむしろに坐って針の目を運んでいる間も――待ちたくない人を待って暗い淋しい中に佇んでいる間も――彼女はひとりで楽しむことに楽しんでいるのだった。そして他人には空虚に見える時が、いちばん彼女の生命の充実している時だった。
「……お通」
婆の声ではない。――誰かこう暗がりから呼ぶ者があった。お通はわれに返ったように、
「……え。どなたです」
「おれだよ」
「おれとは」
「本位田又八だ」
「えっ?」
「又八さんですって」
「もう声まで忘れたかい」
「ほんに……ほんに又八さんの声ですね。婆様に会いましたか」
「お婆は、
「又八さん、あなたはどこにいるんですか。暗くてあなたの姿はわかりません」
「そばへ行ってもいいかい。……おれは面目ない気がして、
「べつに……なにも」
「おれのことを考えていてくれたのじゃないのか。おれは一日だって、おまえのことを思い出さない日はなかったぜ」
そろそろ歩み寄って来る又八の姿がお通の眼に映った。お通は婆がいてくれないので、不安に襲われた。
「又八さん、お婆様から、なにか話を聞きましたか」
「ア、今この上で」
「じゃあ、私のことを」
「うむ」
お通は、ほっとした。
かねて婆も約束してくれた通りに、自分の意思は、婆の口から又八へ通じてくれたものと思った。そして又八はその承諾を与えてくれるために、ここへ一人で来たのであろうと解釈していた。
「婆様からお聞きならば、私の気持はもう分ってくれたはずですが、私からもお願いいたします、又八さん、どうぞ以前のことは、縁のなかったものと思って、今夜かぎり忘れてくださいましね」
「いや、まあ、お待ち」
顔を先に振って、そのことばの底にある彼女の意思を問おうとしなかった。
「――以前のことなんかいわれると、おれは辛い。まったくおれが悪いのだ。今さら、おまえにあわせる顔もない次第で――おまえのいう通り、これが忘れられるものならば、忘れてしまいたいと山々思う。だが思うだけで、なんの因果か、おれはおまえを
お通は、当惑して、
「又八さん、二人の心と心のあいだには、もう通うもののない深い谷間ができました」
「その谷間に、五年の年月が流れて行ったのだ」
「そうです、年月が返らぬように、私たちのむかしの心も、もう呼びもどすことは出来ません」
「で、できないことはないよ! お通、お通っ」
「いいえ。――できません」
お通のそういう
情熱が表にあらわれる時は、
そういう冷たい
――あの山寺の縁側で、なにか考えごとをしながら、うるみのある眼で、半日でも一日でも、空を見て黙っている時の孤児のすがたを。
母も雲――父も雲――
そう考えたので、彼は彼女のそばへそっと寄って、
「……やり直そう」
頬へささやいた。
「……ね、お通。――返らない年月を呼んでみたって始まらないじゃないか。これから二人して、やり直そう」
「又八さん、あなたはどこまで考え違いをしているのですか。私のいっているのは、年月のことではありません、心のことです」
「だからさ、その心を、おれはこれから持ち直すよ。自分でいいわけしても変だけれど、おれがやった
「どう仰っしゃっても、私の心はもうあなたの言葉を本気で聞こうといたしません」
「……わるかッたよ! こんなに男が謝っているのじゃないか……え、お通」
「およしなさい、又八さん、貴方もこれから男のなかへ生きてゆく男でしょう。こんなことに……」
「でも、おれには、生涯の重大事だ。手をつけというなら手をつく。おまえが、誓いを立てろというなら、どんな誓いでもきっと立てる」
「知りません!」
「そう……怒らないでさあ……ね、お通、ここじゃあ、しんみり話ができないから、どこか、ほかへ行こう」
「嫌です」
「おばばが来るとまずい。……早く行こう。おれには、とてもおまえを殺せない。どうして、おまえを殺せるものか」
手を取ると、その手は、又八の指をつよく振り切って、
「嫌ですッ。殺されても、あなたと一つの道を歩くのは嫌ですっ」
「嫌だと?」
「ええ」
「どうしても」
「ええ」
「お通、それではおまえは、今まで武蔵を思っていたのだな」
「お慕いしています――二世まで誓うお人はあのお方と心に決めて」
「ウウム……」
又八は身をふるわして、
「いったな、お通」
「そのことは、婆様の耳へも入れてあります。そして、婆様からあなたに告げ、この際、はっきりと話をつけた方がよいと仰っしゃるので、こういう折を今日まで待っていたのです」
「わかった……おれに会ってそういえと――それも武蔵の指図だろう。いいやそうに違いねえ」
「いいえ、いいえ。自分の生涯を決めること、武蔵様のお指図はうけません」
「おれも意地だ。――お通、男には意地があるぞ。てめえがそういう量見ならば……」
「なにするんですッ」
「おれも男だっ。おれの生涯を賭けても、武蔵と添わせてたまるものか。――許さぬっ! たれが許す!」
「許すの、許さぬのと、それは誰に向ってなんのことを仰っしゃるのですか」
「てめえにだ! また武蔵にだ! お通、貴様は武蔵と
「そうです……、けれども、あなたがそう仰っしゃる筋はございますまい」
「いや、ある! お通というものは、もともと本位田又八の許嫁だ。又八がうんといわねえうちは、誰の妻になることも出来ないはずだ。ましてや……武……武蔵ずれに!」
「卑怯です、未練です、今さらそんなことがよういえたもの。私はあなたとお甲という人との二人名前で、ずっと前に、縁切状をいただいてありました」
「知らないっ、そんな物をおれは出した覚えがない。お甲が勝手に出したのだろう」
「いいえ、その状には貴方が立派にない縁とあきらめて、他家へ
「み、見せろ、それを」
「沢庵さんが見て、笑いながら鼻をかんで捨ててしまいました」
「証拠のないことをいっても世間へは通るまい。おれとお通とが許嫁だということは、
「伺ってもむだなこと、そんな話、お通の存じたことではありません」
「……じゃあこれ程に、おれが頭を下げても」
「又八さん、あなたは今、おれも男だと仰っしゃったではありませんか。恥を知らない男などへ、どうして女の心がうごきましょう。女の求めている男は、
「なんだと」
「お離しなさい、
「ち、ちくしょうっ」
「どうするんですっ――なにをなさるのです」
「もう……これまでいっても分らねえなら、破れかぶれだ」
「えっ……」
「
袂を離したのは、刀を抜くためであった。
刃物を持った人間はそう
お通がとたんに、
ひいっ――と声をあげたのも、刃物の先よりも、又八の顔にあらわれたその
「よくも。――この
又八の刀は、お通の帯の結び目をかすめていた。
(逃がしては)
と、
「おばば、おばばっ」
と、お通を追いかけながら、一方へは呼び立てる。
声が届いたとみえる、お杉婆は
「おう」
といった。
跫音を目あてに走って来ながら婆は、
「仕損じたか」
自分も小脇差を抜いて、うろうろ
又八が
「そっちだ、おばば、捕まえろっ」
呶鳴りながら駈けて来るのを見て、婆は眼を皿のようにし、
「ど、どこへ」
と、道を
しかし、お通の影は見えないで、又八のからだが
「
「逃がした」
「阿呆っ」
「――下だ。あれがそうだ」
崖へ臨んで駈け降りていたお通は、崖の下の樹の枝に

滝つぼに近いところとみえ、水音が闇を走ってゆく。足もとなどは見ようともしないのだ。お通は
「しめたぞよ」
というのが耳の後ろから聞える。お通はもう逃げても無駄な気がしてしまった。それに、前も横も壁で囲まれているように暗いそこは崖の低地でもある。
「又八っ、はよう斬れ。――それ、お通めが倒れくさったぞ」
婆に叱咤されて、今は完全に刃物に躍らされている人間の又八は、
「――畜生っ」
と、
木の枝の折れる響きがしたと思うと、その下から――きゃっと、生きたものの絶命と血しおが
「この
三太刀、四太刀、まるで血に酔ったように眼をつりあげた又八は、灌木の枝や萱の穂もろとも、刀も折れよとばかり、幾度もそこを撲りつづけた。
「…………」
撲りくたびれると、又八は血刀をさげたまま、茫然と、血の酔いから醒めかけた。
――
その一滴一滴が、お通の
「……ふ、ふ、ふ。……
お杉婆は、茫然としている息子の後ろから、そっと顔を突き出して、滅茶滅茶に
「よい気味! ……もうびくともせぬわ。――
「ホ、ホ、ホ」
婆は、息子の小胆をわらいながら、
「――意気地ないやつ。人間ひとり斬ったくらいで、肩で息をつくようなことでどうするぞ。
前へ出ようとすると、自失したように棒立ちになっていた又八の手が、握っている刀の
「――わっ、な、なにしやる」
あぶなく、婆も底のわからない灌木の中へ腰をつこうとしたが、
「又八、
「おふくろ!」
「……なんじゃア?」
「…………」
異様な声を、鼻と
「……おら……おらあ……お通を斬った! お通を斬った」
「
「哭かずにいられるかっ。……馬鹿、馬鹿っ、馬鹿婆アめ!」
「かなしいのか」
「あたりまえだ! おばばのようなくたばり
「知れた愚痴をいやる。それほど未練があるのなら、なぜ婆の首を打って、お通を助けなかったのじゃ」
「それが出来るくらいなら、おれは
「よしたがよい、なんのざまじゃ、それは……。折角、
「勝手にしろ。……おれはもう一生涯、やりたい放題のことをやって、出たら目に送ってやるぞ」
「それが
「困らしてやるとも、くそったれ婆め、鬼婆め!」
「オオ、オオ。なんとでもいうがよいわい。さあさあ、そこを
「た、たれが、薄情婆の談義などを聞くかっ」
「そうでない、胴を離れたお通の首を見てからじっと考えてみるがよいわさ。
「うるせえッ、うるせえッ」
又八は、狂わしげに、強くかぶりを振って、
「……アーア。考えてみると、おれの望みはやっぱりお通だった。時々、これじゃいけないと思って、なにか立身の
「よしないことをいつまで嘆いておじゃるぞ。その口で念仏でもいうてやったがまだましじゃぞ。……なむあみだぶつ」
いつの間にか、婆は又八の前へ出て、血を
……その底に、黒い仏体が
婆は、草や枝を折り敷いて、いんぎんにその前へ坐った。
「……お通、わしを恨むな、仏となれば、わしもそなたに恨みはない、すべては約束ごと。
手で探り寄りながら――探り当てた黒髪らしいものをきゅっとつかんだ。
「――お通さん!」
その時、音羽の滝のうえの辺りで、こう誰か呼んだ声が、樹の声か、星の声かのように、暗い風の中をまわって、この低地へも聞えて来た。
どう巡りあわせて、こんな所へ、
元より、偶然であろうはずはないが、いかにも唐突に似て、いつも自然である彼の姿が、今夜ばかりは不自然に思える。まずその
――なにしろ、あの
「おオい、どうじゃい、宿屋さん、見つかったかい?」
彼とは、べつな方角を捜しまわって来た
「見当りませんよ、どこにも――」
と、あぐねたようにいって
「変だね」
「おかしゅうございますな」
「おまえの聞き違いじゃないのか」
「いいえ、確かに、夕方清水堂のお使いが見えてから、急に、
「その地主権現というのが、おかしいじゃないか。この夜中に、なにしに行ったのだい」
「どなたか
「ならばまだいそうなものだが……」
「誰もいませんな」
「さあて?」
沢庵が、腕を
「子安堂のそばの
「だから、心配になるんだよ。ひょっとすると、もっと山の奥か、もっと道のないような場所かも知れぬ」
「なぜでございます」
「どうやら、お通さんは、おばばのうまい口に乗せられて、いよいよ、あの世の門口まで、
「あのご隠居は、そんな恐ろしいお方ですか」
「なあに、いい人間だよ」
「でも、あなたのお話を伺うと……思い当ることがございますんで」
「どんなこと」
「きょうも、お通さんと仰っしゃる
「あれはまた、泣虫でな、泣虫のお通さんというくらいなんだよ。……だが、この正月の
「息子の嫁じゃ嫁じゃと仰っしゃっておいででしたから、お
「さだめしお婆はたんのうしたろうが、
「あの隠居様などは、女の部類へははいりませんよ。ほかの
「そうではないな、どんな女たちにも、ちょっぴりずつはあるものらしい。お婆のは、それがつよいだけだ」
「お坊さんだから、やはり女子はきらいとみえますな、そのくせ
「いい人間であることにまちがいはないのだよ。あのおばばでも、清水堂へ日参するというじゃあないか。観音さまへ
「よくお念仏もいっておりますぜ」
「そうだろう、そういう信仰家という者は世間にたくさんあるものだよ。外では悪いことをしてきながら、家へはいるとすぐお念仏。眼では悪魔のすることを捜しながら、お寺へ来ればすぐお念仏。人を撲っても、後でお念仏さえいえば、罪障消滅、極楽往生、うたがいなしと信じている信心家だ。こまるね、ああいうのは」
といって、沢庵はまたすぐ、そこらの闇をあるき出して、滝つぼのある山の沢へ、
「おーいっ、お通さあん」
又八は、ギョッとして、
「やっ? おばば!」
と、注意した。
お杉も、気づいていた。鏡のような眼を宙へ上げて、
「なんじゃろ? あの声は」
と、つぶやいた。
しかし、つかんでいる死骸の黒髪と――その死骸から首を斬り離そうとして持っている脇差は、びくとも手からゆるめていない。
「お通の名を呼んだようだぞ。オオ、また呼んでいる」
「いぶかしいことよの。――ここへお通をさがしに来る者があるとすれば、城太郎小僧よりほかにないが」
「
「どこかで聞いたような」
「あっ、いけねえ! ……おばば、もう首など斬って持ってゆくのは止せ。
「なに、降りてくると」
「二人づれだ。見つかるといけない、おばば、おばば!」
危急を感じると、
「ええ、待ったがいい」
と、婆は、死骸の魅力にひきつけられていた。
「ここまでして、かんじんな
「あ」
又八は、眼をおおった。
お杉は木の小枝を膝で踏み敷いて、死骸の首へ
――と、突然、婆の口から意味のわからない言葉が走った。よほど驚いたものらしかった。持ち上げていた死骸の首を手から離して、後ろへ
「ちごうた! ちごうた!」
手を振って、起とうとするのであったが、起てないのである。
又八も、顔を寄せて、
「何が? 何が?」
と、
「これを見い」
「え」
「お通ではないわ! この死骸は乞食か、病人か、男であろが」
「あっ、牢人者だ」
じっと、死骸の横顔や
「変だな、この人間をおれは知っているが」
「なんじゃ、
「赤壁
これはいくら考えてみても、又八には考え当らないはずである。ここから程近い小松谷の
「――誰だっ。お通さんじゃないのか、そこにいるのは」
突然、二人の後ろへ、
「――あッ」
逃げるだんになれば、又八の若い跳躍は、当然、お杉が腰をあげてから走るよりも遥かに
沢庵は、駈け寄りざま、
「おばばだな」
むずと、
「そこへ、逃げてゆくのは又八ではないかっ。――これっ、
お杉の襟首を
婆は、沢庵の膝の下に苦しげにもがきながら、
「たれじゃ、
と、なお虚勢を失わない。
又八が引っ返してくる様子もないので、沢庵は手をゆるめて、
「わからぬか、おばば。やはりおぬしもどこか
「オーッ、沢庵坊主じゃの」
「おどろいたか」
「なんの!」
「どこ暗くのう世間をうろついている物乞い坊主、今はこの京都に流れておじゃったか」
「そうそう」
沢庵はにこりと
「ばばのいう通り、さきごろまでは
「何の用で?」
「お通にも会おうと思って」
「ふーム」
「おばば」
「なにかや」
「お通はどこへ行った」
「知らん」
「知らんことはあるまい」
「このおばばは、お通に
「……ヤ。お坊さま、血がこぼれております、生々しい血しおが」
明りへ
――隙を見て、お杉婆は突然起ちあがって逃げだした。
振向いて、沢庵はそのまま、
「待たっしゃれ! おばば! おぬしは家名の泥をすすぐとて
実に大きな声なのだ。
沢庵の口から出ているようには聞えないのである。宇宙が呶鳴ったようにそれは婆の全身をつつんで聞えた。
ぎくと、婆は足をとめた。顔の
「なんじゃと、わしが家名に泥のうわ塗りをし、又八をよけいに不幸にするとおいいやるか」
「そうだ」
「阿呆な」
せせら笑って――しかしなにをいわれたよりも真剣になって、
「
「痛いことをいう。そういってやりたい坊主も世間にはあるから、わしにも少し痛い。七宝寺にいた頃から、口ではおばばに
「オオさ、まだまだこの婆にはこの世に大望がある、達者は口ばかりと思うてか」
「まあいい。――済んだことは仕方がないとして話そうじゃないか」
「なにを」
「おばば、おぬしはここで、又八にお通を斬らしたな。
そういうだろうと待っていたように、婆はとたんに首を突き伸ばして笑った。
「沢庵坊、提燈持ってあるいても、眼を持って歩かにゃ世の中は暗やみじゃぞ。おぬしの眼は、飾り物か、ふし穴か」
この婆に
無智はいつでも、有智よりも優越する。相手の知識を、
ふし穴か、飾り物かと、婆に
で――ほっとした顔を彼がするとすぐ、
「沢庵坊、ほっとしたであろうが。おぬしは、そもそも、武蔵とお通とをくッつけた不義の
と、多分に遺恨をふくんだ口ぶりでいう。
沢庵は、逆らわずに、
「そう考えているなら、そうしておくもよい。――だがおばば、おぬしの信心ぶかいことをわしは知っているが、この死骸をすててゆく法はあるまい」
「死に
すると
「そういえば、この牢人者は、すこし
と話す。
そんなことは、どうでもいいように、婆はもう先へ歩いて道を捜していた。沢庵は、死骸の始末を旅籠の手代にたのんで、婆の後から
気になるとみえ、婆は振り
「――おばば、おばば」
又八だった。
さすがに子である、逃げたのかと思っていたら、やはり
沢庵の影を振向いて、
「だめだ……あの様子では、まだなにをいって聞かせても受けつけまい。世の中から、思い違いというものだけ除いたら、ずいぶん人間の苦労は少なくなるがなあ」
だがいったい、お通はどうしてしまったものだろう。
あの
けれど血を見たせいか、お通の生きている無事な顔を見ないうちは、なんとなく気が落着かない。夜が明けるまで、もひとつ捜してみようと思う。
そう決心していると、さっき崖を上がって行った旅籠の
行き仆れ牢人の赤壁
その穴があらかた掘れたかと思える頃、
「や、ここにも一人死んでるぞ、ここのは
誰かが
穴を掘っている場所からものの五間と離れていない場所なのだ。滝水の流れが
「これは、死んでない」
「死んでいるものか」
「気を失っているだけだ」
集まった
ここの家ほど「水」というものの性能を巧みに生活の中へ
――家を
所は、武蔵にとって記憶のふかい蓮台野からそう遠くない――
その辻を、本阿弥の辻と町の者が呼ぶ
(なるほど、こういうものか)
武蔵には、もの珍らかに見える世間なのである。下層部の町人たちの生活には、自分の生活も打ち混じって見て来ているが、この京都で誰それといわれるような大町人というものには、まったく縁のなかった彼である。
本阿弥家は、由緒のある
また大町人の根を洗うと
だから、武家と武家との権力の
実相院
水落寺の境内を通って、上小川へ落ちてゆく有栖川のきれいな水は、中途から光悦の宅地をせんかんと通過してゆくのである。――その水はまず、三百坪ほどな菜園の間を走り、
武蔵は、この家へ来て、この
ところが、よくよく縁があったというものか、再会の機が、あれから幾日も
――というのは、この上小川から下小川の東寄りに、
武蔵は幼少の時、よく父の口から、
(わしは今でこそ、こんな
といったようなことを常に聞かされていた。下小川の羅漢寺は、その赤松氏の宅地と隣り合っていた
下小川の流れに「らかん橋」というのが
「変ったのかなあ、この辺りも」
武蔵は、らかん橋の
らかん橋の下を流れてゆく浅いきれいな水が、時々、
見ると、その橋から見える左がわの岸の草むらから、チョロチョロと濁り水が吐き出されて、それが川へ
(ははあ、刀を
武蔵はそう思ったが、その家の客となって、それから四日も五日も泊ろうなどとは夢にも思っていなかった。
(武蔵どのじゃないか)
どこかへ出た戻りらしい
(よう訪ねて来てくだされたのう――光悦もきょうはいるほどに、まあまあ、そう遠慮などせいで……)
と妙秀尼は、彼を路傍で見つけたことの偶然を
光悦といい、妙秀といい、いつぞや外で会った時も、こうして家庭で会う時も、少しも変らないよい人たちだった。
(私はただ今、大事なお
光悦がいうので、武蔵は妙秀尼を相手にくつろいでいたが、その晩がつい遅くなってしまうと、まあ今夜はということになり、
――しかし、人の好意に甘えるのも程度がある。武蔵は、きょうはもう
「
などといわれ、武蔵はまた、つい彼の落ちついた生活の中に、自分の落ちつきを許してしまった。
「お飽きになるか、急にまた御用事でも思い立たれた節は、見らるる通りな無人の家、ご挨拶などには及びませぬから、いつでも気持の向いたまま、ご出立なさればよいではございませんか」
とも光悦はいってくれるのであった。
武蔵は、飽きるどころではなかった。彼の書斎をながめても、そこには和漢の書籍から、鎌倉期の絵巻だの、
わけても、武蔵が心を引かれたものの一つに、宋の
たて二尺、横二尺四、五寸くらい、横幅で紙質も分らないほど古びた
「御主人のお
武蔵が、ある時いうと、
「それは、あべこべでしょう」
と光悦が答えて、
「わたしの絵くらいな程度までは、誰にでも行き得る境地といってもかまいませんが、この辺になると、道高く、山深く、非凡過ぎて、ただ学べば行けるという境地ではありません」
といった。
「ははあ、そうでしょうか」
――そういうものかと、武蔵はこれから折あるごとにこの絵を眺めていたのであったが、光悦にいわれて見てから、なるほど、それは一見単純な墨一色の粗画に過ぎないが、その中に持っている「単純なる複雑」に、彼もようやく少しずつ眼をひらいて来た。
二個の
作者は、そんな意図はなく描いたのかもしれないが、武蔵はそうした意味にもこれを眺めてみるのだった。絵画を見るのに、絵画以外の
「武蔵どの、また
無造作に、彼の姿を見ていいながら、光悦は今、何か用ありげに彼のそばへ坐った。
武蔵は、意外な顔して、
「え、拙者にこの梁楷の
と固く辞退した。
「でも、お気に召したのでしょうが……」
と、光悦は彼の
「――かまいません、お気に召されたら、
「そう伺っては、なおのこと、私にはこの絵を頂戴する資格がございませぬ。――こうして拝見していると、頻りと、所有欲のようなものが動いて、自分も一つ、こんな名幅を持ってみたいという気持はして来ますが――持ったところで、家もなし、席も定まらぬ
「なるほど、旅ばかりしているお体では、かえってお邪魔ですな。お若いから、まだそんなこころもちにおなりになるまいが、人間、どんなに小さくともよいが、わが家というものを持たない人は、いかに寂しかろうぞと、私は思いやられるのじゃが。――どうです、ひとつこの京都の隅あたりへ、ざっとした丸木で一庵をお拵えになっておいては」
「まだ家がほしいと思ったことはありません。それよりも、九州の果て、長崎の文明、また新しい都府と聞く
「いや、あなたばかりでなく、誰でもでしょう、四畳半の茶室より、
といって、ふと、
「ハハハハ、私のような
「遊廓というと……遊女のいる
「そうです。私の友達に、
武蔵は、彼の言葉のもとに、
「よしましょう」
といった。
光悦は、
「そうですか。お気持がすすまなければ、お誘いしても仕方がありませんが、時には、ああいう世界に
すると――音もなく――いつのまにかそこへ来て、ふたりの話を興ありげに聞いていた母の妙秀
「武蔵どの、よい折ではないか、一緒に行かれてはどうかの。灰屋の
と、これはまた、光悦の気分まかせと違って、いそいそと
およそ、親と名のつく者なら、わが子が
(また、
と、
(もってのほかな!)
と、親子のあいだに
妙秀尼は、衣裳箪笥のそばへ寄って、
「帯はこれでよいか。小袖はどちらにしやるか?」
と、遊廓へ行くという息子の身仕度を、自分が遊山にでも出向くように、いそいそと気をくばる。
衣裳のみでなく、紙入れ、印籠、脇差なども派手やかなのを
「さあさあ、
そして、いつの間にか、武蔵の前にも、綿服ではあるが、肌着から上着まで、
初めは、
武蔵は考え直して、
「では、お言葉に甘えて、光悦どのに連れて行ってもらいます」
「オオ、そうなされ。――さ、衣裳もかえて」
「いや、拙者には、美服はかえって似合いませぬ。野に伏しても、どこへまいっても、この
「それはいけません」
妙秀尼は、変なところで、厳格になって、武蔵をこうたしなめた。
「貴方はそれでよいじゃろが、
「は、……それでは」
武蔵が素直に分って、着がえを済ますと、
「おお、よう似合う」
と妙秀尼は二人のさばさばした
光悦は、ちょっと仏間へはいって、そこへ小さい夕方の燈明を捧げていた。この
そこから出て来て、待っている武蔵へ向い、
「さ、お供いたしましょう」
連れ立って、玄関まで歩いて来ると、母の妙秀尼は、もう先に出て二人の
「おそれ入ります」
光悦は、草履へ向って頭を下げながら、足を下ろした。
「では
すると、妙秀尼は振り顧って、
「光悦や、ちょっとお待ち」
あわてて手を振って、二人の足を止め、自分は
「――なんですか?」
光悦が、不審がると、妙秀尼は門の
「光悦や、今のう、
まだ空は明るいが、
「……?」
光悦は、武蔵の顔を見た。
武蔵はすぐ、侍たちが、どういう者かを察したらしく、
「お案じなされますな、拙者へ危害を加えても、光悦どのへ害意のある者ではないと存じます」
「おとといも、そんなことがあったと誰かいうたの。おとといの侍は、一人であったらしいが、するどい
「吉岡の者でしょう」
武蔵がいうと、
「私もそう思う」
と、光悦もうなずいた。
そして下男へ、
「きょうの三人連れは、なんというて来たのか」
と、訊ねた。
それに答えて、わなわな
「はい……今し方、お職人衆もみなお帰りになりましたので、ここの門を閉めようといたしますると、どこにいたのか、三人連れのお侍方が、いきなり手前を囲んで、中の一人が、
「うむ……客といって、武蔵どのとはいわなかったのか」
「いいや、その後で申しました――宮本武蔵と申す者が、数日前から泊っているはずだと――」
「そしてお前はなんといった」
「わしは、かねて旦那様から口止めされてありましたで――どこまでも、そのようなお客様はおらぬと首を振りますと、いちどは怒って、偽りを申すな――と高声を張りかけましたが少し
武蔵はそれを側で聞いて、
「光悦どの、それではこうして戴きましょう。万一のことでもあって、あなたへお怪我でもさせたり、
「いや、何」
光悦は一笑に附して、
「そんなご
武蔵を
「母御様、母御様」
「忘れ物か」
「いいえ、今のことですが、もしあなた様が気がかりに思し召すなら、灰屋どのへ使いをやって、今夜のお誘いは
「なんの、わしが案じたのは、そなたの身より、武蔵どのに万一のことでもないかと懸念したのじゃ。――その武蔵どのがもう先へ出て待っているものを、止めてもかいはあるまいし、折角、灰屋様のお誘いでもある。機嫌よう、遊んで来なされ」
光悦は、母の閉めた潜り戸に、もうなんの心がかりもなかった。待っていた武蔵と肩を並べて、川ぞいの片側町を歩きながら、
「灰屋殿の
と、断った。
まだ夕空は明るかった。水にそって歩くのはなんとなく心の
「灰屋
武蔵がいう。
ぶらりぶらり足をあわせながら、それに答えて、光悦がいう。
「聞いているでしょうとも、
「ハハア、連歌師ですか」
「いえ、紹巴や貞徳のように、連歌で
「灰屋という姓は」
「屋号ですよ」
「何を売る店なので」
「灰を売るのです」
「灰を? ――何の灰をですか」
「紺屋が紺染めに使う灰なので、
「アアなるほど、あの
「それは莫大な金額にのぼる取引なので、室町の世の
と、光悦はそこで
「見えましょう、此処から。あの見るからに
「…………」
武蔵はうなずきながらふと、左の
(……はてな?)
と光悦の話を聞きながら考えているのであった。
――何が入っているのだろうか、右の袂は夕風がふいても軽くうごくが、左の袂がすこし重い。
(……おお?)
光悦の母の妙秀尼が入れておいてくれた物にちがいない。これを
「…………」
袂の中の革襷をにぎりながら、武蔵は振向いて、思わず頬へのぼってくる微笑を後ろの者へ見せた。
――その前からとく気がついていたことではあるが、本阿弥の辻を出るとすぐ、自分の後ろから一定の距離をおいて、のそのそと後を
それが、武蔵の微笑を見ると、はっとしたように一致して足を止め、なにか顔と顔を突き合せて
光悦はその時から、灰屋の門の前に立って、そこの鳴子に訪れを通じ、
ふと、後ろに見えない武蔵に気がつくと、光悦はまたもどって来て、
「武蔵どの、さあ、お入りください。遠慮はいらぬ家ですから」
と、何事もないつもりで門の外へいった。
いかつい大太刀の
(先刻のだな)
光悦はすぐ思い当った。
相手の三名へ、なにか穏やかに答えておいてから、武蔵は光悦のほうを顧みていった。
「すぐ後から参りますゆえ――どうぞお先に」
光悦は、静かな
「では、奥で待っておりますから、御用がおすみになりましたらば」
光悦が門のうちへ隠れると、待っていたように、三名の中の一人が、口を開いて、
「逃げ隠れしたの、いや逃げ隠れはせんのと、もうここでの論議は止そう。そんな用事で参ったのではない。――それがしは今もいったが、吉岡門下の身内で十剣の一人
袂を払って
「御舎弟伝七郎どのから
「ははあ……」
無造作に武蔵は
「承知した」
と、一言で答えた。
だがまだ、太田黒兵助は、
「
念を押して、武蔵の顔いろを
「
やっと三名は合点したらしく、
「異約あるにおいては、天下へ向って、
「…………」
武蔵は黙って、三名の
その態度がまた太田黒兵助には怪しまれてきたものか、
「よろしいか、武蔵」
と、
「時刻とても、これから
と、釘を打つ。
くどいという顔つきはしなかったが、武蔵のことばは至って短い。
「よい」
ぽつりといって、
「――では後刻」
灰屋の門内へ入りかけると、兵助はまた追いかけにいい浴びせた。
「武蔵、それまでは、この灰屋にいるのだな」
「いや、宵には、六条の
「六条? よし。――六条かこの
背中で聞きながら、武蔵は灰屋の
低い根笹と筆の
どこかで
「すぐお支度してみえますが、どうぞしばらくここで」
と、茶や菓子を運んで来て、庭向きの座敷へ席をすすめた二人の小間使の
「陽が蔭ってきたせいか、急に寒くなって来た」
光悦はつぶやいて、開いている障子を閉めるように小間使へいいつけようとしたが、武蔵が、
「
「いやべつに」
武蔵は正直にそういったまでで、ちっとも光悦がそこを閉めたいと思っている気持などは考えなかった。
彼の皮膚は気候に対して
小間使が燭台を持って来たのを
「小父さま、来ていたの」
「おじい様、呼んで来てあげようか」
光悦がいいといっても
障子を閉め、灯りがともると、この家のもつ和やかなものが、初めて坐った客にもよけいによくわかる。家族たちの遠い笑い声がかすかに洩れて来るのも居心地がいい。
もっともっと、武蔵が客として感じよく思えたことは、どこを眺めても、少しも金持くさくないことであった。むしろあらゆる素朴なもので、有る金のにおいを消そうとしているかのようにすら見える。どこか大きな
「いや、どうも、えろうお待たせして済まなんだ」
そこへ唐突に
光悦とはあべこべに、この人は鶴のように痩せていたが、声は、
「あ、そうか。そうでおざるか。
ここでも、叔父の名が出たので武蔵は、こういう大町人たちと、堂上の近衛家あたりとの関係をなんとはなくうっすら察することができた。
「さっそく行きましょうぞや。明るいうちに出て、そぞろ歩きと思うたが、もう暗うなったゆえ、
年に似あわずせかせかしている紹由と、おっとり構えこむと
その二人を乗せてゆく町駕の後から、武蔵も生れて初めて、駕という物に乗って、堀川のふちを揺られて行った。
「ウウ、寒」
「風が
「鼻が

「なにか降るぞ、今夜は」
「――春だというのに」
駕かき同士の高声だった。白い息をふいて柳の馬場へかかっていた。
三つの
――だがそのかわりに、この広い馬場の
「武蔵どの」
と、真ん中の駕のうちから後ろを
「あそこです。あれが六条の柳町で――この頃
「アア、あれですか」
「町中を出離れてから、またこんな広い馬場だの空地だのを通って、その彼方に
「意外でした」
「
「では、三年前には、まだこの辺は」
「ええ、もう夜などは、どっちを見ても真っ暗で、つくづく戦国の火の
といいかけて、しばらく、耳を澄ましてからまた――
「かすかに聞えて来たでしょう……遊廓の絃歌が」
「なるほど、聞えます」
「あの音曲などにしても、新しく
駕がその時、急に道を曲ったので、武蔵と光悦の話も、それなり打ち切られてしまった。
二条の遊廓も柳町とよび、六条の遊廓も柳町と
光悦も灰屋
「船ばし様」
「
と、林屋
船ばし様というのは、堀川船橋に
武蔵だけには、一定の住所もないし、従って隠し名もない。
名前の
扇屋といえば、今この、六条柳町に嬌名のたかい初代吉野太夫の名がすぐ思い出されるし、
一流とゆるされる
(――これは、
武蔵は、なるべく眼をうごかすまいとしても、つい、
「おや、どこへ行かれてしもうたのか」
杉戸の絵に
「こちらじゃ」
と、光悦が招いている。
遠州風の石組に、白砂を掃きならして、
「冷えるわい」
紹由は、猫背になって、ちょこなんと、もうその広い部屋の、一つの敷物に乗っかっている。
光悦も、先に坐り、
「さあ、武蔵どの」
と、真ん中に空いている敷物をすすめるのだった。
「いや、それは――」
と控えて、武蔵は下座に着いたまま、かたくなっていた。二人がすすめる座布団は、床の間の正面である。この物々しい建築と睨めッこして、そんな上座へ、殿様みたいに坐るのは、遠慮というよりも、武蔵はどうも嫌だった。しかし相手は、遠慮と取る。
「でも、こよいは、あなたがお客じゃから……」
紹由はすすめて、
「わしと、光悦どのとは、いつもいつも、まあ、こんなあんばいに、飽きもせで、飽かれもせで、日をつぶしている古友達。あなたとは初対面、まず、まず」
と、扱ってしまおうとする。
武蔵は、辞して、
「いや、それでは恐縮。わたくしのような若い者が」
すると、
「
と、突然くだけた調子でいって、ワハハハハと猫背の肩をゆすぶって笑った。
もう茶や菓子を持った女たちがうしろへ来ていた。席のきまるのを待っているのである。光悦は、武蔵の気持を救うつもりで、
「では、わしが」
と床の間へ直った。
武蔵は、光悦のあとへ坐って、幾分かいる所を得た気もちがしたが、なにかしら、大事な時間を、つまらなく
次の間の隅には、ふたりの
「――これ、なあに?」
「――
「じゃあ、これは」
「うさぎ」
「――こんどは?」
「……笠の人」
指と指を組みあわせて、
炉はもちろん茶式のもの、釜口から昇る湯気は、部屋を暖めるに役立っている。いつのまにか隣には人が
いやそれよりは、そこにいる人たちの血管に、ほどよく酒がめぐって来たのが、この部屋が暖かくなったと感じられてきたなによりの原因であろう。
「わしはなあ、こういうと、息子どもへ意見ができぬことになるが、世の中に、酒ほどよいものはないと思うておる。酒――はよくないものと、
この中で、誰の声より大きいのが、この中で誰よりもいちばん痩せている灰屋紹由の声だった。
武蔵が、一、二
いつ聞いても、それがいっこう「新説」でない
(船ばし様が、また始まった)
といわないばかりに、皆同じ表情のものを唇に持って、くすぐッたそうに聞いている顔つきを見ても分るのである。
だが、船ばし様の紹由は、そんなことにはすこしも頓着なく、
「酒がわるいものなら、神様はお嫌いなはずだが、酒は悪魔よりも神様のほうがお好きじゃった。だから、酒ほど清浄なものはない。神代には、酒を造る時、純清の
「ホホホ、まあ、きたない」
誰か笑うと、
「なにが、きたないか」
「お米を歯で噛んだりして造ったお酒が、なんできれいなことがあるものですか」
「ばかをいえ。おまえ達の歯で噛みつぶしたら、それや汚いどころじゃない、誰も飲み
と、すでに酔っている船ばし様は、そばにいた十三、四の
「――きゃアッ、いやあッ」
禿は悲鳴をあげて立つ。
すると、船ばし様は、にやにやと眼を右側へ転じて、
「ハハハ、怒るなよ、うちの女房――」
と、墨菊太夫の手をとって自分の膝の上に重ねて置く。それだけならよいが、顔と顔をつけて、一つ
光悦は、時折、杯に笑いをふくんで、女たちとも紹由とも、静かに
光悦は
「武蔵どの、飲まないか」
とすすめ、またしばらくすると、武蔵のまえにつめたくなっている杯が気になってならないように、
「どうじゃ武蔵どの、それを
と、飲ませたがる。
それが、度重なってくると、だんだん言葉もぞんざいになって、
「
「いただいています」
と、武蔵は、そんな時に返辞でもするのでなければ、口をきく折が見出せなかった。
「すこしも杯があかないではないか。はてはて意気地のない」
「弱いのです」
「弱いのは、剣術じゃろう」
と、ひどい皮肉をいう。
武蔵は、笑って、
「そうかもしれません」
「酒をのむと、修行の
「そんなことは考えておりませぬが、ただ一つ、困ることがあるのです」
「なんじゃな、それは」
「眠くなってしまうことです」
「眠くなったら、ここでも、どこへでも、寝てしもうたがよいではないか。そんな義理を立てるすじは毛頭いらん沙汰じゃ」
といって、
「太夫」
と墨菊太夫へいった。
「この息子、飲むと眠くなるのが怖いというておる。それでもわしは飲ませてしまうから、眠くなったら、寝かせてやってくだされよ」
「はい」
と、太夫たちは皆、笹色に光る
「寝かせてやってくれるか」
「ようござります」
「ところで、介抱役はこの中の誰だな。のう光悦どの、誰がよいか、武蔵どのに、気に入りそうなのは」
「さあ?」
「墨菊太夫は、わが家の女房――小菩薩太夫は、光悦どのが苦々しかろう。
「船ばし様、今に、吉野太夫がおみえなさりましょうが」
「それよ」
と、すっかり興に入っている
「吉野太夫、あの太夫なら、お客にもご不足はあるまい。……だがその吉野太夫は、まだ見えぬではないか。はやく、この息子どのに見せて上げてほしいなあ」
すると、墨菊太夫が、
「わたくし達とちがって、あの太夫様は、それはもう、引く手
「いいや、いいや、わしが来ていると告げれば、どんなお客も袖にして来るはずじゃ。誰か使い、使い」
のびあがって、紹由は次の間の炉のそばに遊んでいる
「りん
「おりまする」
「りん弥、ちょっとおいで、そなたは、吉野太夫つきの
その、りん弥という
「よいか、分ったか」
紹由のいうことばを、分ったような分らないような顔をして聞いていたが、
「はい」
素直に、つぶらな眼でうなずいて、廊下へ出て行った。
後ろの障子を閉めて、廊下へ立つと、りん弥はすぐ大きな声を
「
部屋の中の禿はみな、
「なアに?」
――明るい障子明りをうしろにして、そこに立ち並ぶと、禿たちは、りん弥といっしょに皆手を打ちたたいて、
「あら、あら」
「あら!」
「まあ!」
余りに部屋の外で、歓呼の足踏みが鳴るので、部屋の中で酒をのんでいる
「なにを、はしゃいでいるのじゃ――開けてみなさい」
紹由のことばに、
「お開けいたしますか」
女たちが、そこの障子を左右へひろく開け放った。
「――あ、雪」
と皆、知らなかったように呟いた。
「寒いはず……」
と光悦は、もう白く見える自分の息へ杯を含ませ、武蔵も、
「オオ」
と、眼をそこへ移した。
「お
太夫が叱っても、
「うれしい」
と、禿たちはお客などを忘れて、不意に訪れた恋人のように、
「つもるかしら?」
「つもるでしょう」
「あしたの朝は、どんなかしら?」
「ひがし山が、真っ白になって――」
「
「東寺の塔だって」
「金閣寺は」
「金閣寺も」
「
「鴉も――」
「嘘ばかり!」
いつもなら、わっと泣き出して度々ある禿同士の喧嘩が始まったであろうに、思いがけなく、降りしきる雪を浴びたので、落ちた禿は、偶然な喜びでも拾ったように、起きあがると、もっと雪の身にあたる外へ出て行って、
大雪、小雪
法然 さんは見えぬ
何してござろ
経 誦 んでおざった
雪食べておざった
突然、こう大声に歌いだして、口の中へ雪を吸いこむように身を何してござろ
雪食べておざった
その禿が、りん弥だった。
怪我でもしたのではないかと驚いて起ちかけた部屋の中の人々も、その勇壮活溌な舞を見て、
「もういい、もういい」
「上がれ上がれ」
笑いながらいたわった。
その代りに、りん弥はもう、
かんじんなお使者がそんなことになってしまったので、船ばし様のご機嫌をそんじてはと、誰かが気転をきかして、吉野太夫の都合をうかがいに行ったとみえて、
「ご返辞を受けて参りました」
と、その女が、紹由のほうへ囁いた。
紹由はもう忘れていて、
「ご返辞?」
と、いぶかる。
「はい、吉野太夫様の」
「ああそうか、来るか」
「お越しになることは、どんなことをしてもお越しになると仰っしゃいましたが……」
「……ましたが……。なんじゃ」
「どうしても、今すぐとは、ただ今お見え遊ばしているお客様がご承知してくださいませぬ」
「――不見識な」
と紹由は、機嫌がわるくなった。
「ほかの太夫ならば、そういう挨拶も通るが、扇屋の吉野太夫ともある
「いえ、そうではござりませぬが、こよいのお客様は、わけても、片意地で、太夫様が
「すべて、買手どもの心理は、みなそうしたものじゃろが。――いったいその意地のわるいお客とは誰じゃ」
「
「寒巌さま?」
苦笑して、紹由が光悦のほうを見ると、光悦も苦笑して、
「かんがん様は、おひとりでお見えか」
「いいえ、あの」
「いつものお連れと? ……」
「ええ」
紹由は、膝をたたいて、
「いや、おもしろうなったぞ。雪はよし、酒はよし、これで吉野太夫が見えれば申し分のないところ。光悦どの、使いをやんなされ。――これ、これ女、そこの
と、取り寄せて、光悦の前へ、
「何を書きますか」
「歌でもよいし……文でもよいが……歌がよいな、先がなんせい当代の歌人じゃから」
「こまりましたな。……つまり吉野太夫をこちらへくれという歌でしょう」
「そうじゃ。その通り」
「名歌でなければ先の意をうごかすことはできません。名歌などがそう即吟でできるものではございません。あなた様が一つ、連歌を遊ばして」
「逃げたの。……よろしい面倒じゃから、こう書いてやろう」
紹由は筆を執って――
わが庵 へ
うつせ吉野の
ひと本 を
それを見ると、光悦の吟興も、気が楽になったとみえて、うつせ吉野の
ひと
「じゃあ私が、下の句を書き添えてやりましょう」
花は高嶺 の
雲さむからめ
紹由はのぞき込んで、すっかり雲さむからめ
「よしよし。花は高嶺の雲さむからめ……か。これはいい、
と、結び封にして、墨菊太夫の手へわたした。そしてしかつめらしく、
「
といった。
かんがん様とは、
墨菊太夫はやがて、先方から返辞をもろうて来て、ふたたびそこへ坐り、
「かんがん様からお返し」
といって、
こちらからは、軽い気もちで、戯れの結び文でやったのに、作法振った文箱の返し方に、
「改まったな」
と、紹由はまず苦笑する。
そして光悦と顔を見あわせ、
「まさかこよい、わしどもが来ておろうとは思わなかったろうから、連中も、きっと驚いたに違いないわさ」
と、遊戯的に何かこう、してやったりというような気持で、さて、文箱のふたを開き、返辞の手紙をひろげてみると、それはなにも書いてないただの白紙ではないか。
「……? おや」
紹由はほかにこぼれた紙でもあるかと、自分の膝をながめ、念のため、文箱の中をもういっぺん
「墨菊太夫」
「はい」
「これはなんじゃ」
「なんですかわたくしには分かりませぬ。ただ、返辞を持ってゆけと仰っしゃって、これを、かんがん様から渡されたので持って来ただけでござりまする」
「ひとを、小馬鹿に召されたな。……それともこちらの名歌に、すぐ筆をとってよこすほどの返歌もうかばで、あやまったという降参状かな」
なんでも自己のよいように解釈して、やたらに興がるのが紹由のもちまえらしい。だが、その独りぎめに何も自信があるわけではないから、すぐ光悦へそれを示して、
「のう、いったい、その返しは、どういう量見じゃろう」
「やはりなにか、読めという
「何も書いてない白紙を、どう読みようもなかろうではないか」
「いえ、読めば読めないことはありません」
「では光悦どのは、これをどう読む?」
「――雪。……いちめんの
「ム、ウム、雪か。いやなるほど」
「吉野の花をこちらへ移してほしいという手紙の返しですから、これは、眺めて酒を
「ヤ、小憎いことを」と、紹由はくやしがって、
「そんな寒い飲み方をしていられるものではない。先様がそう出てござれば、こちらも黙ってひっこんではおられぬ。なんとしてでも、吉野太夫は、こちらの座敷に植えてながめねば納まらぬぞ」
紹由老人は、躍起になって、唇の乾きを
光悦が、まあそのうちに、と
武蔵は、そっと席を立った。
何を思って、黙って酒席を抜けて来たのか、武蔵は廊下へ出ることは出たが、
明るい表座敷のほうには、遊客の声や音曲が賑わいたっているので、そこを避けると、当然、うす暗い
「――あら、お客さま。こんなほうへ来てはいけません」
そこらの暗い部屋からひょいと出て来て、
座敷のあかりで見る時のあどけなさや可愛さはどこへかやって、ひどく自分たちの権利でも侵されたように、眼を
「いやなお人。こんなとこ、お客さまの来る所ではありません。はよう、あっちへ行ってください」
叱るように追い立てる。
美しく見せている自分たちの
「ア、……こっちへ来てはいけなかったのか」
武蔵がいうと、
「いけません、いけません」
武蔵はその禿を見て、
「お、そなたは、さっき縁がわから雪の中へ転げた、りん
「え、そうです。お客さまは、お
と、りん弥は、彼の手と自分の手をつないで先へ引っ張った。
「いやいや、わしは酔っているのじゃない。すまないが、そこらの開いている座敷で、茶漬を一わん喰べさせてくれないか」
「御飯?」
眼をまるくして、
「御飯なら、お座敷へ持って行ってあげますのに」
「でも、せっかく皆が、ああやって愉快に酒を飲んでいるところだから――」
武蔵のことばに、りん弥も首をかしげて、
「それもそうですね。では、ここへ持って来てあげましょう。ご馳走は、何がいいんです」
「なにもいらない、握り飯を二つほど――」
「おにぎりでいいんですか」
りん弥は、奥へ駈けて行った。武蔵の望んだものはすぐそこへ来た。明りもない
「そこの裏庭から、外へ出られるだろうな」
と、訊く。
そしてすぐ、武蔵が立って縁の降り口へ歩み出したので、りん弥は驚いて、
「お客さま、どこへ行くのですか」
「すぐ戻って来る」
「すぐ戻って来るといっても、そんなところから……」
「表口から出るのも
「じゃあ、そこの木戸を開けてあげますから、すぐ帰っていらっしゃいね。もし帰って来ないと、わたしが叱られるかもしれません」
「よしよし、すぐ戻って来るよ。……もし光悦どのが訊ねたら、
「つもりではいけません、きっと帰って来てください。あなたのおあいての太夫様は、わたしの付いている吉野太夫様ですからね」
雪の柴折戸を開けて、
「すまないが、どこかで
そこの娘にたのみ、その間、武蔵は
羽織を脱いで、ていねいに畳みつけ、筆と紙をかりうけて、なにか一筆しるした物を、結び文にして、その
「ご亭主」
と、奥の
「おそれいるがこの羽織を預かっておいてくれまいか。――もし拙者が、
「はいはい、おやすいことでございます。たしかにお預かりしておきまする」
「時に、時刻は今、
「まだ、そうなりますまい。きょうは雪もようで、暗くなるのが早うござりましたからの」
「今、扇屋を出てくる前に、あそこの
「ならば、それがおおかた、今、
「まだ、そんなものかのう」
「暮れたばかりでござりますもの。――往来の人通りを見ても知れまする」
そこへ娘が、わらじを買って来てくれた。武蔵は入念に、わらじの緒の
彼の境遇としては多すぎる茶代をおいて、編笠を一つもらい、それはただ手に持って、頭のうえに
四条の河原近くには人家の灯もまばらに見えるが、
たまたま見える微かな明りは、祇園林に包まれた
「さ、行こうか」
祇園神社の前に
今し方、花頂山の寺々から、ちょうど
「御舎弟さま。わらじの緒はだいじょうぶでござるか。こう寒い――凍るような晩には、きつい緒も、ぷつりと切れ
「心配するな」
吉岡伝七郎だった。
親族の者や、門弟中の
今、起って来た祇園神社の拝殿のまえで、伝七郎はもう全身一点のすきもなく決闘の身仕度を済まして来ていた。鉢巻、革だすき、いうまでもないことである。
「わらじ? ……わらじは、こういう折には
伝七郎は雪を踏みしめながら、白い息を大きく吐き捨てて、一同の中に歩いていた。
日暮れまえに、太田黒
場所 蓮華王院裏地
時刻戌 の下刻 (九時)
と、してあったのである。時刻
明日をも待たないで――今夜の
(猶予を与えて、もし逃げ出されては、ふたたび京都で彼をつかまえることは出来ないから)
という想定のもとに一致した作戦であって、その使いに行った太田黒兵助が、この群れの中に見えないところをみると、彼だけは、あのまま堀川船橋の灰屋
「……誰だ? 誰か先へ来ているようだな」
伝七郎はそういって、蓮華王院の裏の
「
「なに、御池や植田良平まで来ているのか」
伝七郎は、むしろ、うるさいといいたげな顔をして、
「武蔵ひとりを討つのに、仰山すぎる。たとえ、仕果しても、あれは大勢で討ったのだといわれてはおれの
「いや、時刻が来たら、われわれは立ち
蓮華王院の長い
――そんなことからふとこの場所を思いついて、こよいの試合場として、武蔵へいってやったのであるが、来てみると、弓以上、果し合いにはなおさら足場がよい。
何千坪かの雪の地域には、雑草や根笹の
「――やあ」
先に来て、そこで火を焚いて待っていた門人が、伝七郎を迎えるとすぐ火のそばから立って、
「お寒かったでございましょう。まだ時刻はよほどあります。十分、お体を暖めて、御用意にかかっても遅くはありません」
御池十郎左衛門と、植田良平のふたりだった。
良平の腰かけていたあとへ、伝七郎はだまって腰をおろした。支度はもう祇園神社のまえですっかり済まして来たのである。伝七郎は、
「――ちと早すぎたかな」
「いま来た途中に、腰かけ茶屋があったなあ」
「この雪で、もう戸を閉めておりましたが」
「たたき起せば起きるだろう。――誰かそこへ行って、酒を
「え、酒をですか」
「そうだ、酒がなくっちゃあ……とても寒いわ」
伝七郎はそういって、火を抱くようにかがみ込んだ。
朝でも晩でも、道場に出ている時でも、伝七郎の体から酒のにおいの消えたことがないことは知っているが、こん夜のような場合――やがて一族一門の浮沈を賭して当ろうとする敵を待つ今のわずかな間に、その酒が、伝七郎の戦闘力に、利となるか、不利となるかを、門弟たちは、いつもの酒とちがって、熟考せずにいられなかった。
この雪に、
「それに、御舎弟が、ああいいだしたものを、その気持をこじらせるのは、なおよろしくない」
こういう
「やあ来たな、どんな味方よりも、以上の味方は、これだ」
焚火のぬく灰にあたためた酒を、伝七郎は茶碗につがせ、こころよげに飲んでは、争気に満ちた息を吐く。
いつものように、量をたくさんに参られてはよくないがと、側にいてはらはらしている者もあったが、そんな心配までに及ばず、伝七郎は心得ていつもより少なくしか飲まなかった。自己の生命にかかわる大事を、すぐ前にひかえているので、豪放には
「――や、武蔵?」
不用意に、誰かがこう放った一声に、
「来たか」
焚火を囲んでいた面々が、腰を蹴られたように、一度にどっと立って、その
三十三間堂の長い建物の角に現われた黒い人影は、遠くから手をあげて、
「わしじゃ、わしじゃ」
と、断りながら近づいて来た。
壬生の源左衛門というこの老武士は、先代吉岡拳法の実弟にあたる人で、つまり拳法の子の清十郎や、ここにいる伝七郎にとっては実の叔父にあたる者だった。
「おう、これは
伝七郎も、この人が今夜ここへ来るなどとは思ってもいなかったらしく、意外な
「伝七郎、おぬしほんとに、やるのじゃなあ。……いや、おぬしのその姿を見て、ほっと
「叔父上にも、一応ご相談にあがろうと思っていましたが」
「相談、なんの、相談などに及ぼうか。吉岡の名に、泥をぬられ、兄を片輪にされて、黙っているようだったら、わしが
「ご安心ください。柔弱な兄とはちがうつもりですから」
「そこはわしも信頼しておる。そちが負けようとは思わんが、
「心得ています」
「勝とう勝とうと
「ハハハハ」
伝七郎はわらって、
「叔父上、寒さ
と、酒の茶碗を出した。
源左衛門はだまって、それを一杯飲んでしまうと、門弟たちを見まわして、
「各

すぐ耳元で大きく鐘が鳴ったのは、もう、だいぶ前のような気がする――
あれは確かに
(出遅れたな、武蔵は)
伝七郎は、白い夜を見まわしながら、ただ独り、燃え残りの
――ぽきっと、時々、凄じい音がした。三十三間堂の
その鷹の影にも似た男がひとり、その時雪を蹴って、
武蔵の行動を監視しつつ、宵のうちからここと聯絡をとって報告していた数名の中の最後の一人太田黒兵助だった。
今夜の大事が、もう
足も地につかない様子で、
「来ましたぞッ!」
と、そのまま告げた。
伝七郎は、これを聞く前に、
「来たか」
と、おうむ返しにいって、その足が無意識のように、燃え残りの焚火を踏みにじっていた。
「――六条柳町の編笠茶屋を出てから、雪がふるのに、武蔵め、牛のようにのそのそ歩いておりましたが、たった今、祇園神社の石垣をのぼって境内へはいりました。――拙者は、廻り道してここへ来ましたが、あののろい足つきでも、もう姿を見せるはずです、御用意を!」
「よしッ。……兵助」
「は」
「
「皆は」
「知らん。その辺にいては、眼ざわりだ、立ち去れ」
「はッ……」
といったが、兵助は、そこをはずして去る気にはなれなかった。伝七郎の足が、雪泥の中へ、火をすっかり踏みつぶし、武者ぶるいしながら
床下にいると、外にはないと思っていた風が
(……はてなあ?)
外は昼間よりもよく見えるのである。伝七郎の影は三十三間堂の下から約百歩ほど離れて、背のたかい
――だが、兵助が胸で計っていた頃あいは、とうに過ぎたのに、武蔵はまだここへ来なかった。宵のうちほどではないが、雪がまだチラチラとこぼれているし、寒さは肌に
――ざあッ、と突然伝七郎の神経を驚かしたものがあると思うと、それは、
もっとも、こういう場合の
伝七郎の気持も、太田黒兵助の気持も、その例に洩れない。殊に兵助は、自分のした報告に責任を感じてくるし、寒さは体から霜が立つようだし――もう、
たまらなくなって、彼は、
「どうしたのかなあ?」
床下から出て、
「兵助、まだいたのか」
伝七郎も同じ気もちでこう声を返した。どっちからともなく二人は接近していた。そしてすべてがただ真っ白な雪の夜を見廻して、
「……見えぬ!」
と、
「
伝七郎がつぶやくと、
「いや、そんなはずは……」
太田黒兵助はすぐ打消した。そして極力、自分の確かめて来たところをもって、自分で保証づけるように
「や?」
聞いている伝七郎の眼が急に横へ反れた。
――見ると、蓮華王院の
その二つの人影と、一点の小さな灯は、やがて、境の
「――夜分は、どこもかしこも、閉め切っておりますので、よう存じませぬが、たしか宵の頃、この辺りで、暖を取っていたお武家方がございましたから、それが、あなたの尋ねているお方達かもわかりませんが、もう、誰もいないようでございますな」
それは、僧の言葉だった。
それに対して、ていねいに、なにか礼をのべているのは、案内されて来た方の者で――
「いや、せっかくお休みのところを、お邪魔いたして申しわけありません。……あの
「では、たずねて御覧なさい」
「ご案内は、もうここまでで結構です、どうぞお引取りくださるように」
「なにか、雪見でもなさろうという御会合で?」
「まあ、そんなものです」
と、一方は軽く笑う。
僧は手燭を消して、
「いわでもがなのことではありますが、もしこの
「わかりました」
「では御免を」
僧は、そこの
残っていた一方の者は、じっと伝七郎の方を見ながらしばらく
「誰? 兵助」
「
「寺の者ではないらしいぞ」
「はてな」
歩むともなく、二人は三十三間堂の縁のほうへ、二十歩ほど近づいて行った。
すると、御堂の端のほうに見えた黒い人影も位置を移し、長い縁の中程あたりまで来ると、その足をぴたりと止めた。そして結びかけていた
そして、ふた息か三息、間をおいてから、
「――あっ、武蔵!」
伝七郎が大きくいった。
互いに正視し合って、
武蔵!
と伝七郎が最初の声を発した途端から、こう二人の立場は、すでに武蔵の方が、絶対に有利な地を占めていることをこの場合見のがすことはできない。
なぜ、というまでもなかろうが、一応、二人の対立している地歩を見るならば、武蔵は自分の身を、敵よりも何尺か高い縁の上に置いている。反対に伝七郎は、敵から眼の下に
それのみでなく、武蔵はまた絶対に
伝七郎の
だが、
「
こう、袖を払うように、伝七郎がいったのは、むしろ兵助が下手な手出しをしてくれるよりも、遠く離れて、一人と一人との絶対的なこの地域を、見守っていてくれた方が力に思われたに違いないのである。
「よいか」
これは、武蔵の言葉だった。
水をかぶせるような静かないいかただったのである。
伝七郎は、ひと目見るとともに武蔵の顔に対しても、その足の先までを、
(こいつか)
という憎念で見ずにいられなかった。肉親の意趣もある。
「だまれっ」
「――よいかとは、何がよいかというぞ。武蔵!
「下刻の鐘と、きっちり、同時にとは約束していない」
「
不利な立場のまま、
「今――」
と、軽く答えておいて、武蔵はその間に、機を
機を観るといえば、伝七郎は武蔵のすがたを眼の前にしてから、満身の肉に戦いの生理を起していたが、武蔵のほうでは、彼の肉眼に自分を示す前から、とうに戦いを開始しているつもりで、戦いの中身を持って臨んで来ている。
証拠だてて、彼のその心事をいってみるならば、彼はまず、わざと道でもない寺院の中を通過していた。もう
寺僧について、十分に、宵のうちからのこの附近の予備知識を得、そして茶ものみ、暖も取り、少し時刻が過ぎたのも承知しながら、唐突に、当の敵と面接するという策を取ったのである。
第一の機を、武蔵はこうして
「出遅れたうえ、まだ支度が整わぬのか。ここは、足場がわるい」
「今参る」
と、いった。
怒れば、必ず敗れる端をなすことを、伝七郎も知らないではない。だが、まるで故意のような武蔵の態度を見ていると、そういうふだんの修得と感情がばらばらにならずにいられないのである。
「来いっ! もっと広場のほうへ! お互いに、名はいさぎよくしておきたい。
ようやく彼が、
「なんの、吉岡伝七郎の如き、すでに去年の春、拙者が真二つに斬っている! きょう再び斬れば、おん身を斬ることこれで二度目だ!」
「なにっ! いつ、どこで」
「大和の国柳生の庄」
「大和の」
「綿屋という
「や、あの時?」
「どっちも、身に寸鉄も帯びていない風呂の中であったが、眼をもって、この男、斬れるかどうかを自分は心のうちで計っていた。そして、眼で斬った、見事に斬れたと思った。しかし、そちらの体には何の
「なにをいうかと思えば、愚にもつかぬ
「して伝七郎、道具は、木太刀か、真剣か」
「木太刀も持たずに参って何をいう。真剣は覚悟のうえで来たのと違うか」
「相手が木太刀を望みとあれば、相手の木太刀を奪って打つ」
「広言、やめろッ」
「では」
「おっ」
――伝七郎の
ふたりは、御堂の縁からそう何十間も先までは歩いて行かなかった。そこまで行く間が伝七郎にはもう待ちきれないものになっていた。やにわに、相手へ重圧を加えるような一
だが、力点の正確さが、敵を両断する正確さとはあながちいえない。対象のうごき方は、
きらっと、二すじの刀が、宇宙に
けれど、その速度にも、楽器の音階のように、
「…………」
「…………」
武蔵と伝七郎との、ふたりの刀も、お互いの刀が
「…………」
「…………」
それきり、ふたすじの刀は、さっきから切っ先と切っ先との間に約九尺ほどな距離をおいたまま、空間に固着しているのである。
伝七郎の眉毛に雪がたかっていた。その雪が解けると、露になって、眉毛からまつ毛の中へながれ込むらしいのである。ために時々、顔を

(――
伝七郎は、敵とこういう
(なぜ、きょうに限って、青眼につけてしまったか。いつものように
頻りと、その後悔が頭のなかを往来する。といっても人間のふだんにする思考のように脳だけで物事をのん気に判断していられる状態ではない。体じゅうの血管のうちを、どっどっと、音をたてて駈けている血がみな思考力を持ってそう感ずるのだった。頭の毛も、眉毛も、全身の毛髪はいうまでもなく、足の爪までが、生理的に動員されて、敵へ向ってそそけ立った戦闘の姿態を示しているのだった。
こう刀を構えて持つのは――
――武蔵の眼が、その機を、待っているからである。
その武蔵もまた、青眼に刀をぴたりと――やや
彼の
そういう意識が、脳裡にちらついている間は、相手の伝七郎がまるで
(これは)
と、武蔵も、その豪壮な存在からうける一種の圧迫感を、はじめはどうしようもなかった。
(敵は、おれよりも
正直に、武蔵は、そう思ったのである。
同じ
今――伝七郎の構えているさまを見ても、さすがに吉岡拳法というあれだけの先人が、一代を費やして工夫しただけのものが、単純のうちに複雑に、豪放なうちに賢密に、ひとつの整った剣のすがたを
で当然、武蔵は無謀になれなかった。
彼のひそかに自負している
その結果、心で払っても払っても、
(隙を)
と、眼に充血を来し、
(八幡)
と勝ちを祈り、
(勝たねば)
と、躍起な
多くの場合、たいがいな者が、ここで渦潮に巻込まれたように狼狽に
「…………」
「…………」
依然として青眼と青眼との対峙のままだった。雪は武蔵の髪の毛に積り、伝七郎の肩にも積っていた。
「…………」
「…………」
伝七郎と自分との約九尺ほどな距離の空間をチラチラと静かに舞っている雪の白さ――その雪の心が自分の心かのように軽く、その空間が、自分の身のようにひろく、そして天地が自分か、自分が天地か、武蔵はあって、武蔵の身はなかった。
すると、いつのまにか、その雪の舞う空間を縮めて、伝七郎の足が前へ出ていた。そして刀の先に、彼の意思が、ビクとうごきかけた。
――ぎゃっッ!
武蔵の刀は後ろを払っていたのである。その刃は、彼の背後から這い寄って来た太田黒兵助の頭を横に薙ぎ、ジャリッと、
大きな
四方の
「まッ、まてッ」
大地へ伸びた体を無念そうに曲げ、雪の中へ顔を埋めながら、伝七郎がこう
俄然、それに答えたものは、遥か
「おうっ」
「御舎弟の方だ」
「た、たいへんだ」
「みんな来いっ」
どどどどと、
いうまでもなく、遠く離れて、かなり楽観的に、勝負のつくのを待っていた親類の
「ヤ! 太田黒まで」
「御舎弟っ」
「伝七郎様っ」
呼んでも、手当しても、もういけないことはすぐ分った。
太田黒兵助の方は、右の耳から横へかけられた太刀が口の中まで斬られているし、伝七郎の方は、頭の頂上からやや斜めに鼻ばしらを少し
ともに、たった一太刀だった。
「……だ、だからわしが、いわんことではない。敵を
いつのまにかその人々の踏みつけている雪はいちめん桃色に変っていた。――自分も死者の方にばかり気をとられていたが、壬生の源左老人は、ただうろうろと度を失っている
「相手はどうしたっ」
と、呶鳴りつけた。
その相手の所在を、他の者も気にとめてないわけではなかったが、いくらキョロキョロしても、武蔵の影は、もう自分達の視野からは見出せなかったので、
「――いない」
「――おりません」
「いない
源左衛門は歯がみをしながら、
「わしらが駈け出すまで、たしかに突っ立っていた影がここに見えたのじゃ。まさか、翼のあるわけでもあるまい、一太刀、武蔵に
すると、そこにかたまっている大勢の中から一人があッといって、指さした。
自分たちの仲間から
「武蔵」
「オオあれか」
「うーむ……」
一瞬、なんともいえない
武蔵は、その時、伝七郎を倒した場所から最短距離の建物の
――それから。
相手方の様子を見つつ、壁を背にしたまま、徐々と横歩きにあるき、三十三間堂の西の端縁へのぼって、悠々とさいぜん立った所の縁の中ほどまで足を移していた。
そこから一応、
(
と、体の正面を、
「こちらの文のお返しに、白紙など

遊びに
「案内しやい」
と、墨菊太夫の肩につかまって立ち上がり、側から光悦が、
「まあ、まあ」
と、引き止めても、
「いいや、わしが行って吉野を連れてまいる――旗本ども、あの方々の席へわしを案内しやれ、おん大将の御出馬に候ぞ、われと思わんものは、
危なかしくってはらはらさせられるが、
わけてもまた、紹由老人のように、

「船ばし様、おあぶのうございまする」
と
「なんじゃ、馬鹿にするな。酔えば、足が、ひょろけるが、心は、ひょろけてはいないぞ」
と、むずかるし、
「では、おひとりでお歩き遊ばせ」
と離せば、廊下へ、ぺたと坐ってしまって、
「――すこし
と、いう。
いくら広いにしたところで、同じ家のべつな部屋へ行くのに、廊下続きでこうさんざん手間どらせて道中しているのも、紹由にいわせれば、これも遊びの一つというに違いない。
なんでも知らない顔をしながら、なんでも知っているこの酔客様は、途中でこんにゃくのようになって、
(青くさい
と、常々の剛毅が、酒に交じって、胸でむらむらしていることも事実であった。
「どこじゃ、かんがん様の遊んでござるお座敷は。……ここか、こちらか」
奥まったところの、花やかな
「やあ、誰ぞと思えば」
こんな場所に似合わない僧の
「あっ、ホウ?」
と、目をまろくし、かつ奇遇を
「坊主、おまえもいたのか」
沢庵の首すじへ抱きつくと、沢庵も口まねして、
「おやじ、おぬしも来ていたのか」
と紹由の首を抱えこみ、
「達者か」
「達者じゃ」
「会いたかった」
「うれしい坊主め」
しまいには、ぽかぽか頭をたたいたり、一方がまた一方の鼻の頭を
今そこにいた沢庵が、次の部屋から出て行ったと思うと、廊下のあたりで、しきりと障子ががたがた鳴り、恋猫と恋猫とがじゃれているような鼻声が聞えるので、烏丸光広は、
「ははあん、案の如く、うるさいのが、やって来たらしい」
そっと、苦笑をもらした。
光広はまだ若い、見るところ三十ぐらいな貴公子だった。裸にしても
(武家ばかりが人間のような世の中に、なんで
というのがこの人の口癖であって、優しい容貌のうちに烈しい気性を
(
これも光広が、いって
(武家は武門の一門を世職とするものだが、それが、政治の権を
というような意味であるらしかった。
その若くて悩む仲間には、
(ここへ来ると、人間らしい心がしてくるぞ)
とばかり飲んで騒ぐことを例としていたが、その顔ぶれとすこし違って、今夜の彼のお連れは、
そのお連れである近衛

けれどその薄あばたなら、鎌倉一の男、
顔じゅうを
「あの声は、
と、いった。
吉野の紅梅よりも濃い唇がおかしさを噛みこらえながら、
「あれ、ここへお見え遊ばしたら、どうしたらようございましょう」
困ったような眼元をする。
烏丸光広は、
「起つな」
と、吉野の
「沢庵坊、沢庵坊、そんな所で何をしておらるるか。寒いぞ、そこを閉めて出るなら出ろ、はいるならはいれ」
と、わざといい放ってみる。
するとその沢庵が、
「まあ、はいれ」
と障子の外から紹由老人を引っぱり込み、光広と信尹の前へ来て、ぺたりと坐った。
「よう、これは、思いがけぬお連れではあるぞ。いよいよ、おもしろい」
灰屋紹由は、こういうと、さすがにいくら酔っていても、少しも崩れない薄い膝の
「――お流れを」
と、辞儀した。
信尹はにやにや、
「船ばしの
「かんがん様のお連れが、お
と、杯を返す手からもうこの
「……ゆ、ゆるされいお館。へ、平常の、ご無沙汰はご無沙汰、会った時は会った時、なんの……関白でおざろうと、参議でござろうと……ハハハハ、のう沢庵坊」
と、またそばの坊主頭を脇へかかえ込み、信尹と光広の顔を指した。
「――世の中に、気の毒なものは、こ、このお
沢庵も、この
「思う、思う」
と、彼の腕の中からやっと首を
「これ、御坊からは、まだ戴いておらぬが」
と杯をせがむ。
そしてその杯を顔に乗せるように傾けて、また――
「なあ坊主、おぬしなどは
「そじゃ、そじゃ」
「好きなこともよう出来ず、さりとて
飲んで騒ぐことなら光広も負けないし、雅談や酒の量なら信尹もおくれを取っていまいが、こういきなり
その図に乗って紹由は、
「太夫。……太夫はなんと
「ホ、ホ、ホ。まあ船ばし様が……」
「笑い事でない、真面目に
吉野太夫の手を自分の胸に納めて、この
光広はおどろいて、手の杯をこぼしながら下へ置き、
「戯れもほどこそあれ」
と、紹由の手を

「なぜ、なぜ?」
紹由は、躍起となって、
「むりに連れて行くのではのうて、太夫が、来たそうな顔しているから連れて行くのじゃが。のう太夫」
間に挟まった吉野太夫は、ただ笑っているほかなかった。光広と紹由のふたりに左右の手を引っ張られて、
「まあ、なんとしようぞ」
と、困った顔をしていた。
ほん気な意地でも
「さあ太夫、どちらの座敷を勤めるか、この
と愈

「これはおもしろい」
と沢庵は、事の納まりをながめていた。いや眺めているばかりでなく、
「太夫、どっちへ
と彼までが、側から気勢をケシかけて、この納まりを
ただ温厚な近衛
「さてさて、意地の悪い客どもよな。それでは吉野もいずれへともいえまいが、そう無理をいわずに、皆が仲よく一座してはどうじゃの」
と、助け舟を出し、
「そういえば、あちらの座敷には、光悦がただ一人で置き放しになっているというではないか。誰ぞ、光悦をここへ呼んで参れ」
と、ほかの女たちへいって、この場合を
紹由は、吉野のそばへ坐り込んでしまったまま、
「いやいや、呼びに行くには及ばない。わしが唯今、吉野を連れてあちらへ行く」
手を振って止めると、
「なんのなんの」
と、光広もまた、吉野をかかえて離そうとしないのである。
「
と紹由は開き直って、酔いに
「ではいずれが、花の吉野へわけいるか。この
「酒戦とな。ことも
光広はべつの大きな杯を
「
「なんのさ、骨細な公卿どのを相手にするに。――いざまいろう。勝負勝負」
「なんでまいるか。ただ

「睨めッこ」
「やくたいもない」
「では貝合せ」
「あれは、
「憎いことを。しからば、じゃんけん!」
「よろしかろう。さあ」
「沢庵坊、行司行司」
「心得た」
ふたりは真顔になって、
吉野太夫はその間に、音もなく席を起って、松の位の
これは相討ちとなるほかあるまい。どっちも酒にかけては一かどの
吉野が去ると間もなく、
「わしも……」
急に思い立ったように、近衛
それでもまだ二人は酒戦をやめない。勝手にやらせておいて沢庵も勝手に寝ころぶ。そして、近くにいた墨菊太夫の膝を見つけて、そこへ断りなしに頭をのせてしまう。
そのまま、うつらうつらしているのは
(淋しがっているだろうな、早く帰ってやりたいが)
城太郎とお
その二人は、いま烏丸光広の館に世話されているのだった。伊勢の荒木田
その先頃といえば。
いつぞや清水観音の音羽谷で、お通がお杉
沢庵と烏丸光広とは、もう随分久しい交友であった。和歌に、禅に、酒に、悩みに、いわゆる道友の一人だった。
するとその友からこの間うち、
(どうだ、正月じゃないか、なにを好んで
と、そんな消息が来たので、沢庵はこの春
偶然、そこで彼は、城太郎少年を見かけた。
(それは、とんでもないことだ)
沢庵はおどろいて、その日のうちに、お杉婆の宿を捜しに出かけ、三年坂の
あの晩、沢庵はお通を無事に連れて、烏丸の家へもどって来たが、お杉のために極度な恐怖を経験させられたお通は、翌日から熱を病んで、今もって枕が上がらない。城太郎少年は枕元につき
「ふたりが、待っているだろうな」
だから沢庵は、なるべく早く帰ってやりたいと思っていたが、連れの光広は、帰るどころか、遊びはこれからだというように冴えている。
しかしさすがに、
武家政治がどうとか、公卿の存在価値とか、町人と海外発展とか、問題は大きいらしい。
女の膝から、床ばしらへ移転して沢庵は眼をつぶって聞いている。眠っているのかと思うと、時々、ふたりの議論の端を耳にしてにやりと笑う。
そのうちに光広が、
「やっ、近衛どのは、いつの間に帰ってしもうたのか」
と、不平に醒め、紹由もまた、興ざめたように顔を
「それよりも、吉野がおらぬ」
と、いい出した。
「
光広は、隅の方で居眠っていた
「吉野を呼んで来やい」
と、いいつけた。
りん弥は、眠たげな眼をまろくして、廊下を立って行った。そしてさっき光悦や紹由の通った座敷を何気なく覗くと、そこにたった一人、いつの間に戻って来たのか、武蔵が白い灯と顔を並べて、
「あれ、いつの間に。……ちっとも知らなかった、お帰りなさいませ」
りん弥の声に、武蔵が、
「今戻って来ました」
「さっきの裏口から?」
「うむ」
「どこへ行って来たんですか」
「
「いい人と、約束があったんでしょう、太夫様へいいつけて上げよう――」
ませた言葉に、武蔵は思わず笑って、
「皆様のすがたが見えぬが、皆様はどうなされたか」
「あちらで、かんがん様やお坊様と一緒になって、遊んでいらっしゃいます」
「光悦どのは」
「知りません」
「お帰りだろうか。光悦どのが帰られたら、拙者も帰りたいと思うが」
「いけません。ここへ来たら太夫様のおゆるしのないうちは帰られないんですよ。黙って帰ると、あなたも笑われますし、私も後で叱られます」
「ですから黙って帰っては嫌ですよ。私が来るまで、ここに待っていらっしゃい」
りん弥が出てゆくと、しばらく経って、そのりん弥から聞いたのであろう、沢庵がはいって来て、
「武蔵、どうした」
と、肩をたたいた。
「あっ?」
これはあっと驚くほどな出来事に違いない。さっきりん弥が、お坊様が来ているとはいったが、まさか沢庵であろうとは武蔵も思っていなかったのである。
「――しばらくでした」
座を
「ここは遊びの里だ、あいさつはざっとにしよう。……光悦どのも共に来ているという話だが、光悦どのは見えないじゃないか」
「どこへ参られたやら?」
「捜して、一緒になろう。おぬしにはいろいろ話したいこともあるが、それは後にして」
いいながら、ふと沢庵が隣の
あまり心地よげに寝ているので、揺り起すのも心なく思われたが、そっと顔を覗いているまに、光悦は自身から眼をさまし、沢庵と武蔵の顔を見くらべて、おや? と
「あなたと、光広卿だけのお席なら、あちらへお邪魔してもよい」
と、打揃って、光広の席へもどって来た。
しかしもう光広も紹由も、遊びの興は尽きた
酒もそうなるとほろ苦いし、唇だけがやたらに乾き、水を飲めば家が思い出されて来る。殊に、あれなり吉野太夫が姿を見せないのが、なんとしてももの足らない。
「戻ろうではないか」
「帰りましょう」
一人がいう時は、誰の気もちもそこに一致していた。なんの未練もないというよりは、これ以上、折角のよい気持が醒めるのを
――すると。
「お待たせいたしました。太夫様からのお
と、思いがけない迎えである。
「はてな?」
――お待たせいたしましたとは何のことか、光広も紹由も、いっこう
いちど
(どうしたものか?)
迷っているらしい一同の顔いろを見ると、二人の引船はまた口をそろえていった。
「太夫様が仰っしゃるには、先刻からお席を
こう聞いてみると、
「参ってみようか」
「せっかく、太夫がそういうものを」
そこで、禿や引船に案内されて
武蔵を除く以外の者は、すぐその趣向に、
(ははあ、招きは茶だな)
と、想像していた。
吉野が茶の道に
やや不安になって、
「これこれ、いったい
光広が
すると引船は、
「ホホホ、桑畑ではございませぬ。春の末には、毎年ここで皆様が
しかし、光広の不興げな顔は、寒さと
「桑畑であろうと、牡丹畑であろうと、こう雪が降り積って、
「おそれ入りました。その吉野様は先程から、そこでお待ちうけでございます。どうぞ、あれまでお
見れば畑の隅に一軒の
「さあ、こちらへ」
引船は、
「お越しでござりまする」
と奥へ告げる。
「ようこそ。――さあ、ご遠慮のう」
吉野の声が、障子の内で聞え、その障子に
「まるで都を遠く離れてでも来たような……」
と、人々は、土間先の壁にかけてある
浅黄無地の着物に、黒じゅすの帯をしめ、髪もつつましやかな
「ほう、これは」
「また、
と、一同は彼女のすがたを見ていった。
「ウウム、これはまた、がらりと、気が変ってよい」
あまり物を
「ごらんの通りな
と、いう。
なるほど――
寒い所を歩かせて来てここで
「さ、そちらのお方も」
と、吉野が少し席を
四角な炉を、六人して囲むので、自然
武蔵はさっきから、ひどく律義に
だから彼女に接する者は、買う客のほうが「
しかしその、面白そうでもない遊びのうちにも、客の作法とか、女性の礼儀とか、双方の心意気とかいうようなものは、厳然とあるらしいので、まるで不勝手な武蔵は、いきおい固くなっているほかなく、殊に、
「なぜ、あなただけ、そうご遠慮なさるのですか。ここへお出でなされませ」
吉野に幾度もいわれて、
「は。……では」
彼が自分のそばへ坐る
「あ、恐れ入ります」
武蔵が澄ましていれば誰も気づかなかったのに、彼が、自分の袂をのぞいて、こう礼をいったので、皆の眼が、ふと吉野の手へ移った。
彼女の手に畳まれた懐紙には、べっとりと、赤いものが拭きとられていた。
光広は、眼をそばだてて、
「ヤ! 血ではないか」
と、口走った。
吉野はほほ笑んで、
「いいえ、
と、澄ましていた。
めいめいが、一つずつ杯を持って、好む程度に、それを愛し合っていた。炉に燃える
「…………」
――ふと、そのうちに人々は、彼女の
(おや、この薪は)
と、誰かが注意はしていたが、誰もが皆黙っているのは、その焔の
わずか四、五本の細い薪で、部屋中は白昼色になっていた。
その薪から立つやわらかな焔は、ちょうど
「太夫」
ついに、一人が口を開いて、
「そなたが
光広が、こう訊ね出した時は、その光広も他の人々も、なにやら
「
と、吉野はいった。
「え、牡丹? ……」
これは誰しも意外らしかった。牡丹といえば草花のように思っているので、こんな薪になるほどな樹があろうかと疑えて来るのだった。吉野は、
「ご
と、いう。
光広は、それを紹由や光悦の眼にも示して、
「なるほど、これは牡丹の枝だ。……道理で……」
と、
そこで吉野が説明していうには、この
これを短く切って炉に
と、吉野は話し終って、
「そういう私なども、生きている間はおろか、ほんの、若いうちだけ見られて枯れて、後は
と、淋しげに
牡丹の火は、白々と燃えさかり、炉辺の人々は、
「なにもありませぬが、ここに
という吉野のもてなしぶりに、人々はすっかり満足して、
「なにもないどころか、これは王者の
と、どんな
「その代りに、なんぞ、後の思い出となるように、これへ一筆ずつ、お残し下さいませ」
と吉野が、
「沢庵坊、太夫がせっかくの求めじゃ。なんぞ書いてつかわされい」
光広が、吉野に代って
「まず、光悦どのから」
といった。
光悦は、黙って、紙の前へ膝をすすめ、牡丹の花を一輪描いた。
沢庵はその上に、
色香なき身をば
なにかは惜 ままし
をしむ花さへ
ちりてゆくよに
彼が歌を書いたので、光広はわざと詩を書いた。その詩は、なにかは
をしむ花さへ
ちりてゆくよに
忙裏 山我 ヲ看 ル
閑中 我山ヲ看ル
相看 レド相似ルニアラズ
忙ハ総 テ閑ニ及バズ
という閑中 我山ヲ看ル
忙ハ
吉野もすすめられて、沢庵の歌のすこし下へ、
咲きつつも
何やら花のさびしきは
散りなん後 を
おもふ心か
と、素直に書いて筆を何やら花のさびしきは
散りなん
おもふ心か
紹由と武蔵とは、黙って見ていただけである。
そのうちに紹由は、次の間の床わきに、一面の
人々が、
「それこそ、是非に」
と求めると、吉野は悪びれぬ
炉を離れて、次の間の
炉の炎が衰えて、暗くなりかけても、炉へ薪をくべ足すことを誰も皆忘れて聞き
曲が終ると、吉野は、
「ふつつかな
と、微笑しながら、琵琶を置いて、元の席へもどって来た。
それを
吉野は、彼を除いた以外の客へは皆、いちいち帰りの挨拶を交わしたが、武蔵にだけは、なにもいわなかった。
そして、他の人々に
「武蔵さま、
とささやいた。
武蔵は、処女のように、顔を赤らめた。聞えない振りを
「……ね、よろしいのでございましょう。このお方を、お泊め申しても」
吉野は、紹由へ向って、今度はそう訊いた。紹由は、
「よいともよいとも。たんと、可愛がってやって下され。わしらが、
武蔵はあわてて、吉野の手を振り払い、
「いや、私も、帰ります。光悦どのとご一緒に」
戸の外へ、無理に出ようとすると、どういう考えか、光悦までが、
「武蔵どの、まあそう仰っしゃらずに、今夜はここへお泊まりになって、明日、よい
と一緒になって、彼一人を、ここへ残して行こうとするのである。
遊びの世界にも、女性というものにも、まったく
もっとも、吉野と光悦以外の人達は、武蔵が困っている
「日本随一の果報者よ」
とか、
「わしが身代りになってもよいが――」
などと
(さては)
と、今さらのように気づいたことであった。
ここへ駈けて来た男は、吉野のいいつけを受けて、
「ほかのお方はともかく、武蔵様だけは、
と、探って来たその男は、息を
「――もうこの
そう報告する男が、がちがちと奥歯を
「ご苦労だった。もうよいからお休み」
その男を退けると、吉野はまた武蔵へいった。
「今のようなことを聞けば、あなたはよけいに、卑怯者といわれたくないと思い、死んでも帰ると仰っしゃるかも知れませんが、そんな
もうこの世界でも起きている
そのまま、夜明けを待つつもりなのか、武蔵は、ぽつねんと、土間の上がり
――ただ一人、
吉野は、客がいた時も、去ってしまった今も、同じように同じ位置に坐って、炉へ、
「そこでは、お寒うございましょうに。炉へお寄りなされませ」
この言葉は、彼女の口から幾度も繰返されていわれたが、武蔵はその都度、
「お
と、固辞するばかりで、吉野の顔をよく見ないのである。
二人きりになると、吉野もまたなんとなく
とはいえ、
ときおり、屋根の雪や
「……?」
吉野は、そっと武蔵を見た。――武蔵の影はその度に、
「…………」
「…………」
吉野は、なにかしら、ぞっとして来た。夜明け近くの寒さは骨の
そういう戦慄と、異性へ
「もう程なく夜も明けましょう……武蔵さま。いっぷくあがって、
「ありがとう」
言葉だけで、ちょっと会釈したまま、武蔵は依然と、背を向けていた。
「……どうぞ」
と勧める方の吉野も、これ以上は、
せっかく、心をこめて立てた茶も、
――そしてじっと、
「もし、武蔵さま」
「なんですか」
「あなたはそうやって、誰に備えているのですか」
「誰にではない、自身の油断を
「敵には」
「元よりのこと」
「それでは、もしここへ、吉岡様の門人衆が、大勢して、どっと
「……?」
「武蔵さま。女のわたくしには、兵法などという道は分りませぬが、宵の頃から、あなたの所作や眼ざしを
「なに」
武蔵は、土間から脚を上げて、彼女の坐っている炉前にぴたと坐り直した。
「吉野どの、この武蔵を未熟者だと笑うたな」
「お怒りなされましたか」
「いうた者が女だ。怒りもせぬが、拙者の所作が、今にも斬られる人間に見えてならぬとはどういう
怒らぬといいながらも、武蔵の眼は、決して、生やさしい光ではなかった。こうして夜明けを待っていても、自分をつつむ吉岡門の
ただの眼ではない、そのまま刀の先へつけてもいい眼が、じいっと吉野の白い顔を正視して、彼女の答えを待っているのである。
「――
容易に開かない
「なんの――」
「かりそめにも、兵法者の武蔵さまへ、今のような言葉、なんで
「では、聴かせい。どうして拙者の身が、そなたの眼には、すぐ敵に斬られそうなと、そんな
「それほどお訊ねならば、申してみましょう。武蔵さま、あなたは先刻、吉野が皆様へのお慰みに
「琵琶を。あれと拙者の身と、なんの
「お訊ねしたのが愚かでした。終始何ものかへ、
「いや、聴いていた。それほど、うつつにはおらぬ」
「では、あの――大絃、中絃、清絃、遊絃のわずか四つしかない
「
「仰せの通りです。それでよいのでございますが、わたくしは今ここで琵琶を一箇の人間として
吉野は、細い眉をちょっとひそめながら、詩を歌う節でもなく、そうかといって、ただの言葉でもない低声で、
大絃は
々 急雨の如く
小絃は切々 私語の如し
々切々 錯雑 に弾 ずれば
大珠小珠 玉盤に落つ
間関 たる鶯語 花底に滑 か
幽咽 泉流 水 灘 を下る
水泉冷渋 絃 凝絶 し
凝絶して通ぜず 声暫し歇 む
別に幽愁 暗恨の生ずる有
此時 声なきは 声あるに勝 る
銀
乍 ち破れて 水漿 迸 り
鉄騎突出 して 刀槍 鳴る
曲終つて撥 ををさめ 心 に当てて画 す
四絃一声裂帛 のごとし
「――このように一面の琵琶が
小絃は切々 私語の如し

大珠小珠 玉盤に落つ
水泉
凝絶して通ぜず 声暫し
別に幽愁 暗恨の生ずる

鉄騎
曲終つて
四絃一声
そこで言葉を切ると、吉野はそっと立って、さっき
「ふしぎな音色も、この板の体を割って、琵琶の心を覗いてみるとなんのふしぎでもないことがわかりまする。それをあなたへお目にかけましょう」
しかし、吉野は惜し気もなく、見る間に琵琶の体を
「ご
吉野は、
生々しい木肌を
「……?」
武蔵は、それと吉野の
「この通り、琵琶の中は、
「…………」
武蔵の眸は、琵琶の胴からうごかなかった。
「それくらいなこと誰でも分りきっていることのようで、実はなかなか琵琶の横木ほども、お
――
戸の隙まから、雪のために強い朝の陽がもう
白い木屑と
「……お。いつの間にか」
吉野は、夜明けを惜しむように炉の火へ
戸を開ける物音や、
けれど吉野は、いつまでも、ここの雨戸を開けようとはしない。牡丹の木はなくなっても、彼女の血はまだ温かだった。
あわただしく解け去った春の雪であった。おとといの降りはもう
「たのもう。物もうす」
背まで
烏丸家の玄関に立ち、さっきから、大声でこう申し入れていたが、出て来る者がないので、
「なんだい? お坊さん」
後ろからいう少年があった。
禅坊主は振向いたが、
(お前こそ何者だ?)
と問いたげな眼をして、その奇態な風態の子供を見まもった。
烏丸光広卿の
相変らず長い木剣を腰に横たえ、なにを入れているのか、
「お坊さん、お
と、いった。
「お施米。――そんな物をいただきに来たのじゃない」
若い禅坊主は、自分の胸にかけている
「わしは、泉州の南宗寺の者だが、このお
「おいらか、ここに泊っている者だよ。沢庵様と同じお客様なんだ」
「ほうそうか、然らば沢庵どのへ告げてくれぬか。――お国元の
「じゃあ待ッといで。今、沢庵さんを、呼んで来てやるから」
城太郎は玄関へ飛び上がった。汚い
あわてて、蜜柑を掻きあつめ、城太郎は往来を飛ぶように奥へ駈けて行った。ややしばらく経って彼はまたそこへ戻って来て、
「いないよ」
と、待っている南宗寺の使いへいった。
「いるかと思ったら、きょうは、朝から大徳寺へ行ったんだとさ」
「お帰りは分りませぬか」
「もう帰って来るだろ」
「では、待たせて置いてもらいます。どこかお邪魔にならないお部屋はありませんか」
「あるよ」
城太郎は外へ出て来た。この館のことならなんでも
「お坊さん、この中で待っているといいよ。ここの中なら邪魔にならないから」
と、牛小屋へ案内した。
広い邸内を庭づたいに走り、「西の
「――お通さん、蜜柑買って来たよ」
と、さけんだ。
薬を
従って、食慾がなかった。
自分の
(ああ、こんなに痩せて)
と、ふと驚く。
病気というような病気は自分でもないと信じているし、見舞ってくれた烏丸家の医師も、心配はないと保証していたが、どうしてこう痩せてしまうのかしら――そこについ神経質な悩みと
(蜜柑が喰べたい)
と、ふと洩らしたところ、この数日来、なんにも喰べないでいる彼女の容態をひどく心配していた城太郎は、
(蜜柑――)
と、問い返すと、早速、それを取りに、
台所の役人に聞いたところが、蜜柑などはお
(蜜柑はないか、蜜柑はないか)
と、捜し歩いたが、絹糸だの、木綿だの、油だの、毛皮だの、そんな店ばかり出ていて、蜜柑など一つだって見つからなかった。
城太郎は、どうかして、彼女の喰べたいという蜜柑を手に入れたいと思った。よその屋敷の塀の上にたまたま、その蜜柑があったと思って、盗んでもほしい気がして寄って見ると、それは
京都の町を、半分も捜してあるいた。すると、あるお
(泥棒、泥棒)
と追いかけて来るような気持がした。城太郎は、それが怖くなって、
(私は喰べませんから、
と、烏丸家の門の中へ逃げ込むまで、胸の中で
けれど、お通には、そんなことは話せない。枕元へ坐って、懐中の蜜柑を出して一つずつならべて見せ、そのうちの一個を取ってさっそく、
「お通さん、うまそうだぜ、喰べてごらん」
皮を
「どうしたのさ」
城太郎は、その顔をのぞきこんだ。
「……どうもしやしない。どうもしやしない」
といった。
城太郎は、舌打ちして、
「また、泣虫が始まったね。
「ごめんよ。城太さん」
「喰べないの」
「……ええ後で」
「
「美味しいでしょう、城太さんの気持だけでも。……だけど喰べ物を見ると、もう
「泣くからさ。なにがそんなに悲しいの」
「城太さんが、あんまり親切にしてくれるから、
「泣いちゃ厭だなあ、おいらも泣きたくなっちまわあ」
「もう泣かない……もう泣かない……かんにんしてね」
「じゃ、それ喰べてくれる。なにか喰べないと、死んじまうぜ」
「わたし、後でいただきます。城太さんお喰べ」
「おいらは、喰べない」
神さまの眼を恐れて、城太郎はそういいながら
「いつも、城太さん、蜜柑は好きじゃないの?」
「好きだけれど」
「どうして、きょうは、喰べないの」
「どうしてでも」
「わたしが喰べないから?」
「え。……ああ」
「じゃあ、わたしも喰べるから……城太さんも、おあがり」
お通は、顔を仰向けに直して、細い指で、蜜柑のふくろの
「ほんとはね、お通さん、おいら、途中でもう、たくさん喰べて来たんだよ」
「……そう」
乾いている
「沢庵さんは?」
「きょうは、大徳寺へ行ったんだって」
「おととい、沢庵さんは、よその家で、武蔵様に会ったんですってね」
「アア。聞いた?」
「え。……その時、沢庵さんは、わたしがここにいることを、武蔵様へ話したかしら」
「話したろ、きっと」
「そのうちに、武蔵様をここへ呼んでやると、沢庵さんは、わたしにおっしゃったけれど、城太さんには、なんにもいっていなかった?」
「おいらには、なんにもそんなことはいわないよ」
「……忘れているのかしら」
「帰って来たら、そういってみようか」
「ええ」
と、彼女は初めて、ニコと、枕の上から
「……だけど、訊くならわたしがいないところでね」
「お通さんの前で訊いちゃいけないの」
「きまりが悪いから」
「そんなことないさ」
「でも、沢庵さんは、わたしの病気を、
「アラ、いつの間にか、喰べちゃったぞ」
「なに、蜜柑」
「も一つ喰べない」
「もう、たくさん、美味しかったわ」
「きっと、これから、なんでも食べられるよ。こんな時に、武蔵様が来れば、きっと、すぐ起きられてしまえるんだがな」
「城太さんまで、そんなことをいって」
城太郎とこんな話をしているうちは、
そこへ、烏丸家の小侍が、
「城太どの、いますか」
と、縁の外からいう。
「はい、おります」
答えると、
「沢庵どのが、あちらでお呼びです。すぐおいでなさい」
と告げて去った。
「おや、沢庵さん、帰って来たのかしら」
「行ってごらんなさい」
「お通さん、さびしくない」
「いいえ」
「じゃあ、用がすんだら、すぐ来るからね」
枕元を、立ちかけると、
「城太さん……あのこと、忘れずに、訊いてね」
「あのことって?」
「もう忘れたの」
「あ、武蔵様が、いつここへ来るのかって、それを催促することだね」
お通の痩せている頬に、紅い血がかすかにさした。その顔を夜具の襟で半分かくしながら、
「いいこと、忘れてはだめですよ、きっとね、きっと訊いてね」
と、念を押した。
沢庵は光広の居間へ来て、光広と何か話している折だった。
そこの
「沢庵さん、なにか用?」
城太郎が後ろに立つと、
「まあ、坐りなさい」
と沢庵がいい、光広は、城太郎の不作法を
側へ坐るとすぐ、城太郎は沢庵へ向っていった。
「あのね、沢庵さんとこへ、泉州の南宗寺から、沢庵さんみたいな坊さんが、急用の使いに来て待ってるよ。呼んで来てあげようか」
「いや、そのことなら、今聞いた」
「もう会ったの」
「ひどい小僧だと、あの使いがこぼしていたぞ」
「どうして」
「はるばる来た者を、牛小屋へ案内して、ここで待っておれといったまま、捨てておいたというじゃないか」
「でもあの人が、自分から、どこか邪魔にならないところへ置いてくれといったからさ」
光広は、膝を
「ハハハハハ、牛小屋へ入れておいたのか、それは
と、笑った。
しかし、すぐ真顔に返って、
「では御坊には、泉州へ戻らずに、ここからすぐ
と、沢庵へ向って訊く。
沢庵はうなずいて、なにぶん、気がかりな書面の内容であるから、ぜひそうしたいと答え、支度といってもべつだんない身でもあるし、
ふたりの話の様子を、城太郎は
「沢庵さん、旅へ立つの」
「急に国元へ行かねばならぬことになってな」
「なんの用?」
「
「沢庵さんにも、おっ
「わしだって、木の
「今度はいつ帰って来るつもり」
「母の
「すると……困ったなあ……沢庵さんがいなくなっちゃうと」
と、城太郎はそこで、お通の気持を思い遣ったり、また彼女と、自分の行く先なども考え出して、心細くなったものか、
「じゃもう、沢庵さんとは会えなくなるの?」
「そんなことはない。またきっと会える。おまえ達二人のことは、お
「それが、おいらの力では駄目なんだよ。武蔵様が来てくれないと
「困った病人だのう。おまえも飛んでもない者と、この世の道連れになったものだ」
「おとといの晩、沢庵さんは、どこかで武蔵様に会ったんだろ」
「ウム……」
光広と顔を見あわせて、沢庵は苦笑をながした。どこでと、突っ込んで場所を訊かれては困りそうな顔つきであったが、城太郎の質問は、そういう
「武蔵様は、いつここへ来るの。沢庵さんが、武蔵様をここへ呼んでやるといったもんだから、お通さんは、毎日、そればかり待ってるじゃないか。ねえ沢庵さん、おいらのお師匠さまは一体、今どこにいるのさ」
その
「ウム……あの武蔵のことか」
あいまいに、こういったが、沢庵もその武蔵とお通とを会わせてやろうという、親切を忘れてしまっているわけではさらさらない。今日もそれを心にかけて、大徳寺の帰り途に光悦の家へ立寄り、武蔵の在否を訊ねてみたところ、光悦が困った顔していうには、どういうものかおとといの晩以来武蔵はいまだに扇屋から戻って来ない。母の妙秀尼も案じるので早く帰してくれるように、今も吉野太夫へ手紙を
「ホ。……では武蔵とやらいうあの夜の男は、あれきり吉野太夫の
光広は聞いて
半ばは、意外なこととして、半ばは軽い嫉妬も手伝って、
沢庵は城太郎のてまえ、多くをいわなかったが、ただ、
「あれもやはり、平凡な、つまらん人間でしかないとみえる。とかく若いうち天才らしく見える者ほど、行く末当てにならないものだ」
「したが、吉野も変りものじゃなあ。――どこがようて、あんな
「吉野にせよ、お通にせよ、女の気心のみは沢庵にも
独り言のように呟いてから、沢庵はふと旅の空へ心を急ぎ、光広へ向って、改めて別れを告げた上、なお当分の間ではあるが、病中のお通と、城太郎の身とをくれぐれも
沢庵さん、沢庵さん、と頻りに後から呼びかけて追って来る者がある。――城太郎だなと沢庵は困ったような顔つきを振り向ける。城太郎は息をきって、彼の
「後生だから沢庵さん、もいちど帰って、お通さんになんとかいっておくれよ。お通さんがまた泣き出しちまって、おいらには、どうしていいか分らないんだもの」
「おまえ、話したのか。――武蔵のことを」
「だって、訊くから」
「そしたら、お通さんが、泣きだしたというのか」
「ことによると、お通さんは、死んでしまうかも知れないぜ」
「どうして」
「死にたそうな顔しているもの。――こんなこといったよ。――もいちど会って死にたい、もいちど会ってから死にたいッて」
「じゃあ、死ぬ気づかいない。
「沢庵さん、吉野太夫って、どこにいる人」
「そんなこと訊いて、どうするつもりじゃ」
「お師匠さまは、そこにいるんじゃないか。さっき、お館さまと沢庵さんが、話していたろ」
「おまえは、そんなことまで、お通さんに
「ああ」
「それではあの泣虫さんが、死にそうなことを口走るわけじゃ。わしが戻ってみたところで、
「なんというの」
「御飯をお喰べって」
「なんだ、そんなことなら、おいらが一日に百
「そうか。それはお前のいう言葉が、そのまま、お通さんにとっては無二の名言なのだが、それさえ耳に通らない病人ならば、仕方がないから、なにもかも正直にいって聞かせるのだな」
「どういう風に」
「武蔵は、吉野という
聞くも
「そんなこと、あるもんか。おいらのお師匠さまは、そんな武士じゃない。そんなことをいったらお通さんは、ほんとに自分で死んでしまうぞ。なんだい沢庵坊主め、おまえこそ大馬鹿だ、大馬鹿三太郎だっ」
「叱られたな。ハハハ、怒ったのか、城太郎」
「おいらのお師匠さまのこと悪くいうからさ。お通さんのことを馬鹿だなんていうからさ」
「おまえ可愛い奴だ」
頭を撫でてやると、城太郎は、その頭をうごかして、沢庵の手を振り落し、
「もういいよ。沢庵坊主なんか、なにも頼まないから。おいら一人で武蔵様を捜して来て、お通さんに会わせてやるからいい」
「知ってるか」
「なにをよ」
「武蔵のいる処を」
「知らなくたって、捜せば知れらい。よけいな心配するな」
「
「頼まない、頼まない」
「そうぽんぽん当るな城太郎。わしじゃとて、お通さんの
「じゃあどうして意地悪をするんだい」
「おまえには、意地悪と見えるのか。そうかも知れんな。だが、武蔵もお通さんも、今のところ、どっちもまあ病人のようなものだ。体の
「だからいいよ、くそ坊主の
「わしの言葉が、嘘だと思ったら、六条柳町の扇屋へゆき、そこで武蔵が、どうしているか、見届けて来い。そして見たままの事実を、お通さんに話してやれ。いちどは歎きかなしむだろうが、それで眼が
城太郎は耳の穴へ、指で
「うるさい、うるさい、どん栗坊主」
「なんじゃ、わしの後を追いかけて来たくせに」
「坊主坊主、お
沢庵の背へ、こう
しかし、沢庵の影が、
あわてて
「おばさん!」
そして、いきなり、
「六条柳町ってどこ」
と訊ねた。
びっくりしたように女は、
「
「遊廓って何?」
「まあ」
「何するとこ」
「嫌な子だね!」
睨みつけて、その女は、通り過ぎてしまった。
なんでそうされたのか、城太郎はそんな不審にたじろいではいない。
扇屋の若い者は、何気なく入口の人影を見てぎょッとした。
「おじさん」
と城太郎がはいって来て、いきなりこう訊ねた。
「ここの
扇屋の若い者は、子供と分ってほっとしたような顔をした。けれど、先にぎょッとした驚きの反動がむかっと、その顔に筋を立てて、
「なんだ
「なにするんだ、おいらは、お師匠様に会いに来たんだぞ」
「ばか野郎、
「いないなら、大人しく、いないといえば分るじゃないか。なんだって、おいらの襟くびをつかむんだ」
「暖簾へ首を突っ込んで、気持のわるい眼で中を覗いていやがるから、おれはまた、吉岡道場の廻し者が来たかと思って、ひやりとしたじゃねえか。
「びっくりしたのは、そっちの勝手じゃないか、武蔵様は、
「こいつ、さんざん人に悪たいをついていながら、今度は教えてくれなんて、虫のいいことを
「知らなきゃいいから、おいらの襟首を離せ」
「ただは離さねえ、こうして離してやる」
耳たぶを強く持って、一廻り振廻して暖簾の外へ突き放そうとすると、城太郎は、
「痛い、痛い、痛い」
さけびながら腰を落し、下から木剣を抜いて、若い男の
「あっ、このチビ」
前歯を折られて、真っ赤に染まった
「誰か来てくれーッ。このおじさんがいけないよっ」
往来へ、こう大声で、危急を訴えながら、持っていた木剣は、その悲鳴とは反対に、いつか小柳生城で猛犬の太郎を
みみずの鳴いたような、細い
――と、向う側の格子先で見ていた客引き女が、軒ならびの格子へ向ってさけんだ。
「あらっ、あらっ、あの木刀を持った小僧が、扇屋の若い者を殺して逃げたっ」
すると、夜中のように人影のなかった往来に、わらわらと駈け出す者の影がみだれて、
「人殺し――」
「人が殺された」
と、血なまぐさい声が宵の風にながれた。
喧嘩沙汰は年中のことだし、血なまぐさいものを、秘密裡にまた迅速に、処理してしまうことにもこの
「どこへ逃げた?」
「どんな小僧か」
と、血相の
三筋の往来は、
どこに隠れていたか、城太郎は頃あいを見すまして、暗い路地から犬の子みたいに這い出した。そしていっさんに暗い方へ向って駈けた。
そのまま、ここの闇は世間の闇へつづいているのかと単純に思っていたのである。ところが、一丈もある
少し歩くと、明るい町尻の往来へ出てしまうので、城太郎はまた暗いほうへもどって来た。すると、彼の挙動に注意しながら、後から
「
白い手で招いた。
最初――城太郎は疑わしげな眼を光らして、しばらく、闇の中に立ちどまっていたが、やがてのそのそ戻って来て、
「おいらのことかい」
女の白い顔に、害意のないことを確かめると、彼はまた一歩、近づいて行きながら、
「なんだい?」
と、いった。
女はやさしく、
「おまえかい、夕方、扇屋の入口へ来て、武蔵様に会わせてくれといっていたという子は」
「あ、そうだ」
「城太郎というんでしょう」
「うん」
「じゃあ、そっと、武蔵様に会わせてあげるからこちらへおいで」
「ど、どこへ」
と、今度は、城太郎が尻ごみしてしまう。そこで女が、彼の安心がゆくように説明してやると、城太郎は、
「じゃあおばさんは、吉野太夫っていう人の
地獄で仏に会ったような顔を見せ、初めて心をゆるしたように
その引船のことばによると、夕方の騒ぎを耳にすると、吉野太夫はいたく心配して、もし捕まったら、自分が口をきいて助けてやるからすぐ知らせて来るように――もしまた、どこかに
「もう、心配おしでない。吉野様がお声をかけて下さりさえすれば、この
「おばさん、おいらのお師匠様はほんとにいるんだろうね」
「いないものを、なんでおまえを捜して、こんなところへ連れて来ましょう」
「いったいこんなところでなにしてるんだろ?」
「なにしていらっしゃるか。……それはもう、そこに見える田舎家の内においでになるから、戸の隙間からのぞいてごらん。……では、わたしは
引船は
ほんとかなあ?
ほんとにいるのかしら。
どうも城太郎には、素直に信じられないらしいのである。
あれ程、捜しに捜しぬいていた師の武蔵が、今、自分の立っているすぐ眼の前の小屋の中にいる――それがどうも彼には余り簡単すぎて受けとり難い。
では
家の横に、窓はあった。ただし彼の
「……ア、お師匠様だ」
覗き見した行為に顧みて、彼は、声をのんでしまったが、そこからでも手を伸ばしたいような懐かしい人の姿に、城太郎は久し振りで出会った。
炉のそばに、武蔵は、手枕をかってうたた寝していた。
「――
と、呆れ果てたような丸い眼が、そのまま、窓の竹格子に、貼り付いていた。
少し離れて、一枚の朱い
「こんな所で、絵なんぞ描いていたんだぜ。お通さんの病気を知らないでさ」
城太郎は、ふと、
この正月、五条大橋で彼が見つけた時も、武蔵は、若い娘に
(どうかしているぞ、この頃、おいらのお師匠さまは)
と、大人の
それからふと、
(よし、驚かしてやれ)
と、
「城太郎、誰と来た?」
武蔵の声である。
「え?」
また、覗いてみると、眠っていた人は、うす眼を開いて、笑っていた。
「…………」
返辞よりも先に城太郎は表の戸口へ駈け廻って、そこを開けるや否や、中へ入って武蔵の肩に抱きついていた。
「お師匠さま!」
「おう……来たか」
仰向いたまま、
「どうして分った? ……。沢庵坊にでも訊いて来たか。しばらくだったなあ」
むっくりと、武蔵は彼の首を抱いたまま身を起した。久しく忘れていた
――今、お通さんは
かわいそうだ!
お通さんは、お師匠さまのあなたに、会えばいいっていうんだ。それだけなんだ。
この正月の元日、五条の大橋でよそながら出会うことは出会ったが、お師匠さまが変ちくりんな女と仲がよさそうに話したり泣かれたりしていたので、お通さんはすっかり怒ってしまい、
むりもないや。
おいらだって、あの時、なんだかむしゃくしゃして、
でも、そんなことはもういいから、これからすぐに、烏丸のお
――以上の言葉は、城太郎が、未熟な弁を懸命にふるって、武蔵へうったえた沢山の
「……うん。……うん」
武蔵は何度もうなずいていう。
「そうか、……そうだったのか」
と、同じように。
そして
頼みに頼み、訴えに訴えぬいても、武蔵が、
(喧嘩してやろうか)
と、城太郎は、肚のなかで思ったほどだった。
だが、さすがに、武蔵へ向って、悪たい口は叩けないとみえ、彼は顔の表現をもって、武蔵の反省を求めていた。
彼が黙りこむと、武蔵は
(
と、心で
その画にも
「お客さま。洗濯物が乾きましたから持ってまいりました」
と、さっきの引船が、きちんと畳みつけた
「ありがとう」
武蔵は入念に、洗えて来た衣服の袖や
「きれいに落ちましたな」
「人間の血というものは、洗っても洗っても、なかなか落ちないものでございますね」
「これでよい。……時に吉野どのは」
「こよいも、お客方の席が、あちらにもこちらにもという有様で、わずかなお隙もございませぬ」
「思いがけないお世話になったが、こうしていると、ひとり吉野どのへ気づかいを
城太郎は顔つきを直して、やはりお師匠様は好い人だと思った。肚の中では、お通さんのところへ行ってやろうと、とうに決めていたに違いない。
そう独り決めして、にこにこしていると、武蔵は、引船が立ち去るとすぐ、小袖羽織のその
「きょうは、よいところへ来てくれたな。この着物は、いつぞやこの
「はい、
と、城太郎は神妙である。
この使いさえ済めば、武蔵はここを出て、お通さんの所へ来てくれるものと思い、それを楽しみに、
「じゃあ、行って来ます」
先方へ返す小袖羽織を風呂敷につつみ、べつに、武蔵から光悦へ宛てて書いた一通もその間へ挟んで背中へ負いかけていると、そこへ夜食を運んで来た以前の引船が、
(オヤ、どこへ)
と、眼をみはって武蔵からその
「まあ、飛んでもないこと」と、固く止めた。
なぜならば――
と引船が武蔵へ話す。
この子は夕方に、扇屋の店先で、店の若い者を、がらにもない木刀で撲りつけ、打ちどころが悪かったとみえて、その男は床についてうんうん
「……ははあ」
と、武蔵は初めて、そんな事件を知ったように、城太郎の姿を見直す。
城太郎は、隠していたことが武蔵にわかって、面目ないように、頭を掻き、だんだん
「だのに、そこへ今、ひょこひょことそんな物を背負って総門から行ってご覧――どうなるか」
と、引船はまた、それについて外部のもようを武蔵に告げるのであった。
――何分にも、おとといから昨日、今日と、三日にわたって、吉岡方の者が、あなたの身を
光悦様もおとといの夜、ここから帰る折にくれぐれも頼んで行かれたことだし、扇屋としても、そういう危地にあるあなたを、追い出すようなことはできない。殊に吉野様は細心な気づかいをして、あなたの身を
……しかし。
困ったことは、吉岡方の者が執念深く、この
(扇屋から出て来たら)
と、その機会を、手に
よくは分らないが一人のあなたを討つために、吉岡方の者は、まるで
「ですから、もう四、五日、じっとここに隠れておいで遊ばした方がよかろうと、吉野様もお内緒も心配していらっしゃいます。そのうちには、吉岡の衆も飽いてしまって、見張りを
武蔵と城太郎の二人へ、夕飯の給仕をしながらも、あれやこれや親切に引船はいってくれたが、武蔵は好意だけを謝して、
「思うところもありますから」
と、今夜ここを立つ意思は
で――光悦の家へ
使いは間もなく帰って来た。光悦からの返辞には、
折もあらばまた会い候わん、長き短き人の世の道、たのみ参らすにつけお身大事にいそしみ給われとのみ、よそながら祈り申されてこそ候え
月 日
と書いてあった。短文ではあるが光悦の気持はよく月 日
光悦
武蔵どの「そしてこれは、先日あなた様が光悦様のお家へ
と、使いの男は、こちらから届けた羽織小袖とひき換えに、武蔵が前から着ていた古い着物と
「
と、口上を伝えて、扇屋の
包みを解いて、以前の古い着物を見ると、武蔵はなつかしかった。あのやさしい気持の妙秀尼が着せてくれた
「
武蔵はふと孤愁に
すでに父母はない。自分を
彼は、しばらく
「さ、立とうか」
持ち馴れた刀を手に寄せ、固く締めた帯と
「行くの。――お師匠さま」
城太郎は先にそこを出て、
(これから烏丸様のお
雪の晩からこっち、毎晩、空は美しかった。城太郎は、これから武蔵を連れて行って、お通に
「城太郎、おまえは、裏木戸からはいって来たのか」
「え。裏だか表だか知らないけれど、さっきの女のひとと一緒に、そこの門から」
「では、先へ出て、待っていてくれ」
「お師匠さまは」
「ちょっと、吉野どのに挨拶を申して、すぐ行くから」
「じゃあ、外へ出て、待っているよ」
そんなわずかな間も、彼のそばを離れるのは、多少不安がないでもなかったが、今夜の城太郎はもう、なにを命ぜられても、至って素直になりきっていた。
この三日ほどを、この隠れ家のうちで、武蔵は、われながら、愚に返ってよく遊んだと思う。
例えていうならば、今日までの自分の心神や肉体という物は、ちょうど、
月にも
そうした精進一途な自分のすがたにも、彼は、正しさを信じているが、同時に、狭くて小さい一個の頑固者にすぎないものが――自分となることを彼はおそれかけた。
沢庵からずっと前に、
(おまえの強さは、
といわれたり、また奥蔵院の
(もっと弱くなれ)
と忠告されたりしたことを思いあわせると、武蔵はこの先ともに、この二、三日のような
そういう意味で、今、ここの扇屋の
(――その礼を、吉野どのに
と、武蔵は、扇屋の庭に
(ではここから)
と武蔵は、胸のうちで、別れを告げ、また三日にわたるあいだの彼女の好意にも、心から礼を告げてそこを去った。
――裏木戸から外へ出て、待たせておいた城太郎の影へ、手をあげて、
「さ、行こうぞ」
呼びかけると、その後ろから、城太郎とはべつに、小走りに追いかけて来た者がある。
りん弥は、武蔵の手へ、
「これ、太夫様から――」
となにか渡して、すぐ木戸の中へ駈けこんでしまった。
小さく結んだ一片の紙きれである。色紙ほどな懐紙であった。開いて、文字へ眼のゆく前に、ほのかな
ちぎりてはちる夜々のあだ花の数々よりも、樹 の間 過ぎ行く月のおん影こそ忘れ得ざらめ
しみじみ、語ろういとまもなく雲間のおわかれ、よその杯に、嘆けばと、人はわらい候わめど、ただ一筆のみを
しみじみ、語ろういとまもなく雲間のおわかれ、よその杯に、嘆けばと、人はわらい候わめど、ただ一筆のみを
よしの
「お師匠さま、それ、誰から来たてがみ」
「誰からでもない」
「女の人」
「知らん」
「なんと書いてあるの」
「そんなこと、訊かなくてもよい」
武蔵が畳みかけると、城太郎は背のびをして、
「いいにおいがする。
と、
伽羅のかおりは、城太郎の鼻にもわかるものとみえる。
さて、
城太郎は案じて、
「お師匠さま、そっちへ行くと、総門の方へ出ちまいますよ。総門の外には、吉岡の者が見張っているから危ないって扇屋の人もいっていた」
「うむ」
「だから、
「夜は、総門以外の口は、みな閉まっているそうではないか」
「
「逃げたといわれては武蔵の名折れになる。恥も外聞もなく、逃げさえすればよいと思うくらいなら、なんのこんな所から出てしまうのは
「そうですか」
と城太郎はやや不安な顔色を見せたが、「恥」を重んじない者は、たとえ生きていても無価値な人間として扱われてしまう武士社会の鉄則は、彼にもよく分っているから、反対はできなかった。
「――だが、城太郎」
「え、なんです」
「おまえは子供だから、なにもわしの通りに行動する必要はない。わしは総門から出て行くが、おまえは先に
「お師匠様が総門から手を振って出て行くのに、おいら一人、どこから外へ出て行くの」
「そこの柵を越えるのだ」
「おいらだけ?」
「そうじゃ」
「いやだ」
「なぜ」
「なぜって、たった今、お師匠さまがいったくせに。――卑怯者といわれるだろう」
「おまえには、誰も、そんなことをいいはせぬ。吉岡方で相手としているのは、この武蔵一名で、そちなどは、数のうちにはいっていない」
「じゃあ、どこで待ってたらいいの」
「柳の馬場の辺りで」
「きっと来る?」
「うん、必ず行く」
「また、おいらに黙って、どこかへ行ってしまうんじゃない?」
――武蔵は顔を横に振って、
「おまえに、嘘は教えぬ。さ、人通りのないうちに、はやく越えろ」
城太郎は、辺りを見まわして、暗い
(だめだ、おいらにゃ、とても越えられそうもないや)
自信のない眼で、城太郎は柵の高さを見上げていた。すると武蔵は、どこからか、一俵の炭俵をさげて来て、柵の下においた。
そんな物を踏台にしたって駄目だといわないばかりに、城太郎は武蔵のすることを見ていた。武蔵は、柵の間から外を
「…………」
「お師匠様、誰か柵の外にいるんですか」
「この辺、柵の外は、
「水なんかいいけれど、高くって、上まで手が届かない」
「総門のみでなく、柵の外部にも、要所要所には、吉岡の見張がいるものと思わなければならぬ。外が暗いから、それに用意をして跳び下りぬと、不意に、どんな者が、闇から刀を
「はい」
「わしが下から、炭俵を外へ
と城太郎の体を、肩ぐるまに乗せて立った。
「届くか、城太郎」
「まだ、まだ」
「では、わしの両方の肩に足をのせて、立ってみろ」
「でも、草履だから」
「かまわぬ、土足のままでよい」
肩車の上の城太郎は、脚をかわして、いわれた通り、武蔵の肩のうえに両足をのせて立った。
「こんどは、届いたであろう」
「まだです」
「やッかいな奴だの。身を
「できないや」
「仕方がない、それでは、わしの
「だいじょうぶ?」
「五人や十人乗っても大事はない。さ、よいか」
城太郎の足の裏に、自分の
「――ア、届いた、届いた」
城太郎は、柵の上に取り付いた。武蔵は、
炭俵は、どさっと、蘆の中へ落ちた。――なんの異状もないと見えて、その後から城太郎が跳び降りた。
「なんだ、水たまりも、なにもありやしない。お師匠様、ここは、ただの原ッぱだぜ」
「気をつけて行け」
「じゃあ、柳の馬場で」
城太郎の跫音は、闇の遠くへ、遠ざかって行った。
その跫音の聞きとれなくなるまで、武蔵は、柵の隙間へ顔を寄せてじっと立っていた。
――そして彼の行った先に安心すると、初めて身軽そうに、足を早めだした。
それまでの薄暗い
しかし――笠もかぶらずに、そのままの
「あっ、武蔵!」
と、そこらに
総門の両側には、
そのほか、編笠茶屋の
三日も前からのことである。
吉岡方の者は、武蔵が、あの雪の夜以来、ここから外へ出ていないことを確実につき止めていた。扇屋へ向けて、懸合いもしたし、探りもやってみたが、扇屋では、そんな客はいないというのみで取りあわない。
吉野太夫が彼の身を
で――遠巻きに、持久戦の策をとって、武蔵が、廓内から出て来るのを厳しく見張っていたのであるが、その折には必ず当の武蔵が姿を変えて出て来るとか、
――ところが、平然と、ありのままな姿を
大股な彼の足が、もう編笠茶屋の前も過ぎて、百歩も先をぐんぐんと歩いて行く頃になって、
「やるなッ――」
と、吉岡方の中から一人が叫んだようであった。
すると、声に合せて、
「やるなっ」
「やるな!」
同じ言葉を投げながら、どやどやと彼の後ろから前の方へと八、九名の影が駈け廻り、
「――武蔵待てッ」
と、ここに初めて、正面から激突をあげてきた。
――と、武蔵は、
「何かっ?」
と相手の耳へ不意と感じるような強さで答え、その答えとともに身を横へずっと
小屋の横に、
物音に、
「喧嘩か」
と、中から戸を開けかけた木挽の男は、外の景色をひと目見ると、
「わっ」
あわてて戸を閉め、内側に心張り棒をかって、それなり
吉岡方のものは、野犬が野犬を
真っ黒に、武蔵を取りまいた。
いや、その武蔵が、背中の一方を木挽小屋につけているので、その小屋もろとも、取り囲んだという形である。
「…………」
武蔵は、三面の敵の頭数を、じっと眼で読みながら、この状態が、どう変化してかかって来るか――それをじっと見ているような眸であった。
三十人の人間がかたまれば、それは三十人の心理ではない、一団はやはり一個の心理である。その心理が微妙な動きを取って来る機先を
案の如く、いきなり単独で、武蔵へ斬りつけて来るようなものはない。集合体の当然な姿勢として、多数が一つ個性にかたまるまでのしばらくの間は、ただがやがやと立ち騒いで、武蔵を遠巻きにしながら口々に
「……野郎」
とか、また、単に、
「青二才
とか
最初から一個の意思と行動を持っている武蔵のほうは、その間、わずかな間にしろ、彼らよりは十分な余裕を持っていた。大勢の顔の中で、どれとどれが
「拙者に、待てといわれたのは誰だ。いかにも、拙者は武蔵だが」
彼が、見渡していうと、
「われわれだ。ここにいる一同が呼びとめたのだ」
「では、吉岡の御門下か」
「いうまでもなかろう」
「御用事とは」
「それも、改めて、ここでいう必要もないと思う。――武蔵、支度はいいか」
「支度?」
ちらと唇が
鉄の桶みたいに、彼を囲んでいる殺気は、彼の白い歯から洩れた冷笑に、ふと毛穴の
武蔵は、語気を揚げて、すぐいいつづけた。
「武士の支度は、寝る間にも出来ておること、いつでも参られい。理も非もない喧嘩仕かけに、人間らしい口数や、武士らしい刀作法は、事おかしい。――だが、待て、一言聞いておきたい。各

「…………」
「意趣遺恨で来たか、試合の仕返しで来たか。それを訊こう」
「…………」
言葉のうちにでも、勿論、武蔵の眼――またその体に斬り込める隙が見出せたなら、
「いわずとも知れたこと!」
と、
ぎらっと、武蔵はその顔へ眸を射向けた。年輩、態度、この中では、吉岡方の然るべき者らしく思える。
それは、高弟中の
「師の清十郎敗れ、つづいて御舎弟の伝七郎様を討たれ、なんのかんばせあって、われわれ吉岡門の遺弟が、汝を無事に生かしておけるかっ。――不幸、汝のために、吉岡門の名は泥地にまみれたれど、恩顧の遺弟数百、誓って師の御無念をはらさいではおかぬ。意趣遺恨のという
「おお、武士らしい挨拶を承った。そういう趣意とあれば、武蔵の一命、或はさし上げぬ限りもない。しかし、師弟の
「だまれっ! 汝こそ、今日まで
「卑劣者は、人の心事も卑劣に邪推する、武蔵は、かくの通り、逃げもかくれもしておらぬ」
「見つかッたればこそであろうが」
「なんの、姿を
「然らば、吉岡門の者が、あのまま、汝を無事に通すと心得ていたか」
「いずれ、各


「なにをッ」
十郎左衛門ではない。十郎左衛門の横あいから一人が、こう
「――板倉が来るぞっ」
呶鳴った者がある。
その頃、板倉といえば、怖い役人という代名詞になっていた。
伊賀の四郎左か
みなにげる
伊賀どのはそも
千手観音か天目天 か
あまた目付に
百与力
などと、千手観音か
あまた目付に
百
今の京都の繁昌は、特殊な発達と、変則な好景気に浮わついていた。それはこの都府が、政治的にも、戦略的にも、日本の分れ目を握っていて、重要な作用を持っているからである。
だから、全国中でも、ここがいちばん文化も進歩していたが、思想的に
室町時代の初めから、土着の市民は殆ど、武家の
その上、
また、今に、徳川、豊臣の二つの勢力が、当然、なにかおっぱじめるに違いないから――犬も歩けば棒にあたるを空頼みにして、
その牢人と組んで、
それだけならいいが、そういう虚無的な人間も、いっぱしな政治観や社会観を放言し、そして、徳川とも豊臣とも色分けつかない偽装をもって、その時々の世情によって、
そこで徳川家康の
慶長六年以来、与力三十騎、同心百名を付せられて、この勝重が、京都の睨み役に任命された時、ちょっとした話が伝わっている。
家康から、辞令をうけた時、勝重はすぐ命を拝さず、
(
帰邸すると、勝重は妻に向い、任官の沙汰を告げていうには、
(古来から
すると妻は、つつしんで誓った。
(なんで婦女子が左様な口出しを致しましょう)
翌る朝、登城するとて、勝重が衣服を着ると、下着の襟を折って着ていた。妻が見て、それを直そうとすると、
(おまえはもう誓いを忘れているではないか)
と叱り、ふたたび妻を堅く誓わしめてから、はじめて家康の命を拝したというのである。
この覚悟で就職した勝重なので、彼のすがたは公明だった。同時に
さて、話はわき道へそれたが、今、
(板倉が来るぞ)
と、うしろで呶鳴った人間は誰だろうか。勿論、吉岡方の者はすべて、武蔵と対しているので、そんな言葉をいたずらに放つはずはない。
――板倉が来るぞ。
は当然、
――板倉の手先が来るぞ。
という意味に受取れたのである。
役人にでしゃばられては厄介な場合だった。けれど、こういう盛り場には、きまって見廻りが歩いている。それが、何事かと見て、駈けつけて来たのかも知れない。
それにしても、今の掛声は誰だろう。味方の者でなければ、往来の者の注意か?
――と、御池十郎左衛門はじめ、吉岡門下の眼が、思わず声の方へふと
「待て、待て」
押分けて、武蔵と吉岡門下のあいだへ、自ら立ち
「や?」
「お身は」
意外な眼を光らせて、自分へ集まる吉岡門下の大勢の眼と、武蔵の眼へ、その前髪は、
(わしだ! この顔は、双方とも前から記憶があるであろうが!)
そういわないばかりに
「今、総門の前で駕をおりると


前髪の風采に似あわない雄弁だった。そしてその
「――そこで、双方に問うが、もしここへ、板倉殿の手の者でも来て、

彼の演舌に圧倒されて、吉岡方の者はみな黙りこんでしまった形であった。御池十郎左衛門は、小次郎がいい終ると、その言葉じりをすぐ取って、
「よしっ」
と強くいった。
「いかにも、道理はその通りに違いない。――だが小次郎、必ずその他日まで、武蔵が逃げ失せぬという保証を貴公はするか」
「してもよいが」
「あいまいでは承諾できぬ」
「だが、武蔵も生き物だし」
「逃がす気だな」
「ばかをいえっ」
小次郎は叱咤して、
「左様な片手落ちをなせば、貴公らの遺恨はわしへかかるではないか。その程まで、この男を
「いや、それだけでは、承知できぬ。――必ず、他日の果し合いまでおん身が武蔵の身を預かると保証するなら、一応、今夜のところは別れてもよいが」
「――待て、武蔵の腹を
小次郎はくるりと振向いた。さっきから、自分の背を射るように見ている武蔵のひとみを正面に
「…………」
「…………」
口のうごく前に双方の烈しい
このふたりは、先天的に合わない性格の持主とみえる。お互いが認めているものを、お互いに怖れ合っていた。若い自負心と自負心とが、触れるとすぐ
で――それは、五条大橋の時もまた今も同じ心理が
――でも、一言はあった。
やがて小次郎の方からである。
「武蔵、どうだ」
「どうだとは」
「今、吉岡側のほうへ、わしが談合したような条件で」
「承知した」
「いいな」
「ただし、
「この小次郎に、身を預けるということの不満か」
「清十郎どの、ならびに伝七郎どのと、二度の試合にも、武蔵は、みじんも卑怯は致しておらぬ。なんで残余の遺弟たちに、かく名乗りかけられて、卑怯な背を見せようか」
「ウム、堂々たるものだ。その広言を、きっと聞き取っておこう。――然らば武蔵、望みの
「日も場所も、相手方の希望にまかせておく」
「それも
「さだまる
「住居がわからなくては、果し合いの
「ここで、お決め下さらば、違約なくその時刻に、お出会い申す」
「ウム」
小次郎は
「相手方は、明後日の朝――
「心得申した」
「場所は、
「一乗寺村の下り松とな、よろしい、わかった」
「吉岡方、名目人は、清十郎、伝七郎の二人の叔父にあたる
相互の約束を取り決めると、小次郎はそこの
「そこらに、なんぞ不用な板ぎれがあろう。高札に建てるのじゃ、程よくひいて、六尺ほどの
木挽が板をひいて出すと、小次郎は吉岡の者を走らせて、どこからか筆墨を取り寄せ、達筆を
相互に
吉岡側の手で、それが最も人目につきやすい辻へ打ち建てられるのを見届けて、武蔵は
ぽつねんと、柳の馬場に、武蔵が来るのを待っていた城太郎は、
「遅いなあ」
駕の
酔っぱらいの唄がよろけてゆく。
「――おそいぞ、ほんとに」
もしや? という不安が彼にもないではない。城太郎は突然、柳町のほうへ駈け出した。
すると、
「これ、どこへゆく」
「あ、お師匠さま、あまり遅いから見に行こうと思ったんです」
「そうか。あぶなく行き違うところだったな」
「総門の外に、吉岡の者が、沢山いたろ」
「いたよ」
「なにかしなかったか?」
「ああ何もしなかった」
「お師匠様を捕まえようとしなかったの」
「ウム、しなかった」
「そうかなあ」
城太郎は、武蔵の顔を覗き上げて、その顔いろを読むようにまた訊いた。
「じゃあ、なんでもなかったんだね」
「ウム」
「お師匠様、そっちじゃないよ。烏丸様へ行く道は、こっちへ曲るんだよ」
「あ、そうか」
「お師匠様も、早くお通さんに会いたいでしょう」
「会いたいなあ」
「お通さんも、きっと、びっくりするぜ」
「城太郎」
「なに」
「おまえとわしと、初めて会った木賃宿なあ。あれは、
「北野のかい」
「そうそう、北野の裏町だったな」
「烏丸様のお
「ハハハハ、木賃宿とは、較べものにはなるまい」
「もう表門は閉まっているけれども、裏の
武蔵の無口を知りぬいているので、いくら武蔵が黙然と聞いていても、城太郎は独りで勝手にお
やがて、烏丸家の下部門がそこに見えると、
「お師匠様あそこだよ」
指さして、ふいに立ち止まった武蔵の眼へ、教えるように、
「あの塀の上に、ぽっと明りが
「…………」
「さ、お師匠様、はやくはいろう、今おいらが、門を叩いて門番さんを起すからね」
そこへ向って、駈け出そうとすると、武蔵は城太郎の手首をぐっと握って、
「まだ早い」
「どうしてさ、お師匠様」
「わしは、お館へははいらぬ。お通さんへは、おまえからようく
「え、なんだって。……じゃあお師匠様は、なにしにここまで来たのさ」
「おまえを送って来たまでだ」
ひそかに万一の変化をおそれて、敏感になっていた童心に、そのおそれていた予感が、ふいに事実となって、大きく映って見えたのであろう。
城太郎は、途端に、
「いけない、いけない」
絶叫に近い声を出し、
「だめだよ、お師匠様。――来なくっちゃだめだよ!」
武蔵の腕を懸命に引ッぱって、もうすぐそこの門の内にいるお通の枕元まで、どうしても連れて行こうとする。
「
武蔵は、夜気のうちにしんとしている烏丸家の邸内を
「まあ、よう聞け。わしのいうことを」
「聞かない聞かない! お師匠様はさっき、おいらと一緒に行くといったじゃないか」
「だから、ここまで、おまえと共に来たではないか」
「門の前までといやしないじゃないか。おいらはお通さんに会うことをいってたんだ。お師匠様が弟子に嘘を教えていいのかい」
「城太郎、そう
「侍はいつも、
「そうだ、自分で常にいい馴れている言葉も、そうしてお前の口からいわれると、かえって教えられる気持がする。――今度という今度こそは、武蔵も覚悟のとおり、九死のうち一生も
「なぜ。なぜ! お師匠様」
「それはお前に話してもわからぬ。お前も今に大きくなってみると分る」
「ほんとに……ほんとにお師匠様は、近いうちに、死ぬようなことがあるの」
「お通さんへはいうなよ。……病気なそうじゃが、体を堅固にして、ゆく末よい道を選んでたもれと……なあ城太郎……そうわしがいって行ったと申して、今のようなことは、聞かさぬがよいぞ」
「嫌だ。嫌だ。おいらはいうよ! そんなこと、お通さんに黙っていられるもんか。――なんでもいいからお師匠様、来ておくれよ」
「わからぬ奴!」
武蔵が振り離すと、
「でも! ……お師匠様」
城太郎は泣き出してしまい、
「でも! ……でも! ……それじゃあ、お通さんが、あんまり可哀そうだ……。お通さんに……今日のこと話したら、お通さんは、よけいに病気がわるくなっちまうにきまってら」
「――だからこういってくれ。
「…………」
泣きじゃくっている城太郎の姿を見れば、武蔵はまた
「いつ果てるか知れないのが兵法者の常、おまえも、わしが亡い後は、よい師を捜せよ。お通さんにも、このまま会わぬ方が、行く末になってみれば、あの人の
無茶はいうが、城太郎にも、武蔵の
「じゃあ、お師匠様」
手放しの泣き顔を、不意と、武蔵へ振向けると、最後の一
「――修行がすんだら、その時は、お通さんとも仲よく会うの。え、え。お師匠様の修行が、もうこれでいいと、いう時が来たら」
「それはもう、そうなればなあ……」
「それは
「何日ともいえぬ」
「二年?」
「…………」
「三年?」
「修行の道には果てがない」
「じゃあ、一生涯もお通さんと会わないつもり」
「わしに
武蔵が思わずその点まで口を
「だから、……お師匠様、そんな約束なんかしないことにして、ただお通さんと会えばいいじゃないか」
と、したり顔にいう。
武蔵は城太郎に対して、いえばいう程、自身のうちに
「そうはゆかないのだ。お通さんも若い女子、武蔵も若い男。しかも、おまえにいうのも恥ずかしいが、会えばわしはお通さんの涙に負けてしまう。きっと、お通さんの涙に今の堅い決心を崩されてしまう……」
柳生の庄で、お通の姿を見ながら逃げて去ったあの時の回避と――今夜の彼の気持とでは、同じ形にあらわれても、武蔵の心の内面には、大きな相違を自覚していた。
花田橋の時でも、柳生谷の時でも――以前はただ、青雲にあこがれる壮気と覇気――また潔癖に似た
またと生れ得ない世に生れてきた
しくしくと泣いている城太郎に、
(わかったか……)
と、武蔵のことばが耳のそばに聞えていたので、城太郎は
「――あッ、お師匠様っ」
ばたばたと城太郎は、長い
大声あげて、城太郎は叫ぼうとしたが、叫んでも無駄なことが分っているので、彼は、わっと泣きながら、築地に顔を押し当てた。
「…………」
いいことと信じてやった幼い一心が、大人の思慮によって
泣くだけ泣いて、声がつぶれると、肩で波打ちながら、まだしゃくりあげていた。
――と。
「……城太さん?」
疑うように呼んだ。
「……城太さんじゃないの?」
ふた声目に、城太郎は、ぎょっとしたような顔を向け、
「あっ、お通さん?」
「まあ、なにを泣いているんです――そんなところで」
「お通さんこそ、病人のくせに、どうして外へなんか」
「どうしてって、おまえくらい人を心配させる者はない。わたしにも、お
「じゃあ、おいらを捜しに出ていたの」
「もしやなにか、間違いでもあったのではないかと、寝ているにも寝ていられなくなって」
「ばかだなあ、病人のくせに。またこの後、熱が出たらどうするんだい。さあ、はやく寝床へ引っ込みなよ」
「それよりなんでお前は泣いていたの」
「後でいうよ」
「いいえ、
「寝てから話すからさ、お通さんこそ、はやく寝てくれよ。
「じゃあ、部屋へはいって寝ますから、ちょいとだけ話しておくれ。……おまえ
「ああ……」
「その沢庵様から、武蔵様のいらっしゃる所をきいておいた?」
「あんな情け知らずの坊さんは、おいら嫌いだ」
「じゃあ、武蔵様の
「ううん」
「分ったの」
「そんなこといいから、寝ようよ、寝ようよ。――後で話すからさ!」
「なぜ、わたしに隠すんですか。そんな意地悪をするなら、わたしは寝ずにここにいるからいい」
「……ちぇッ」
城太郎は、もいちど泣き直したいように、眉を
「――この病人も、あのお師匠様も、どうしてそう、おいらを困らすんだろうなあ。……お通さんの頭にまた、冷たい
片手にお通の手をつかみ、片手で下部門の戸をどんどん叩きながら、
「門番さん! 門番さん! 病人が寝床から外へ抜け出しているじゃないか。――開けとくれよ。はやく開けないと病人が冷えちまうよ!」
例の
「おふくろ」
と、部屋のうちを
「――なあんだ、また昼寝か」
と舌打ちして呟いた。
井戸端で一息つき、ついでに手足も洗って上がって来たが、
「……てえっ、まるで泥棒猫みたいに、暇さえあると、寝てばかりいやがる」
よく眠っていると思っていた
「なんじゃあ?」
と起き上がってきた。
「おや、知ってたのか」
「親をつかまえて、なにをいうぞ。こうして、寝て置くのがわしの養生じゃ」
「養生はいいが、おれが少し落着いていると、若いくせに元気がないの、やれその暇に手懸りを探って来いのと、びしびし叱りつけながら、自分だけ昼寝しているのはなんぼ親でも勝手すぎようぜ」
「まあゆるせ、ずいぶん気だけは達者なつもりでも、体は年に勝てぬとみえる。――それにいつぞやの夜、おぬしと二人して、お通を討ち
「おれが元気になるかと思えば、おふくろが弱音を吐くし、おふくろが強くなるかと思えば、おれの根気がはぐれてしまうし、これじゃあ、いたちごッこだ」
「なんの、今日はわしも骨休めに一日寝ていたが、まだおぬしに弱音を聞かせるほど、年は
「いやもう、聞くまいとしても、えらい噂だぞ。知らないのは、昼寝しているおふくろぐらいなものだろう」
「やっ、えらい噂とは」
お杉は膝をつき寄せて来て、
「なんじゃ? 又八」
「武蔵がまた、吉岡方と、三度目の試合をするというのだ」
「ほ、どこで
「
「……又八」
「なんだい」
「
「ウム、大変な人だかりさ」
「さては昼間から、そのような場所で、のめのめと遊んでいたのじゃろうが」
「と、とんでもねえ」
「それどころか、
ふとお杉は、
「又八、機嫌なおせ、今のは、ばばの冗談じゃ。
「
「おぬし、吉岡の門人衆のうちに、知っている者があるといったの」
「ないこともないが……そうかといって、あまりいいことで知られているわけでもねえからなあ、なにか、用かい」
「わしを
年寄りのせっかちというものはひどく勝手である。悠々閑と、今まで昼寝していた自分のことは棚へあげ、
「又八、早うせんか」
と、人の落ちつきに、眉をしかめて、当って来る。
又八は、身支度もせず、けろりとして、
「なんだい
「知れたこと、
「なにを……」
「
「アハハハ、アハハハ、……冗談じゃねえぞ、おふくろ」
「なにを笑うぞ」
「あまり
「それは、
「おれが暢気か、おふくろが暢気か、まア街へ出て、世間の噂をちっと聞いて来るがいい。――吉岡方は、先に清十郎を
「ホウ……そうか」
聞くだけでも耳が
「それでは、いかな武蔵めも、こんどはなぶり斬りに
「いや、そこはどうなるか分らない。多分、武蔵の方でも、助太刀を狩りあつめ、古岡方が大勢ならば、彼も多勢で迎えるだろうし、さてそうなれば喧嘩は本物、
「ウーム……それやそうじゃろが、じゃといって、わしら
「だから、俺はこう思うんだ。あしたの夜明けごろまでに一乗寺村まで行っていれば、果し合いのある場所も、その様子もきっと分る。――そこで、武蔵が吉岡の者に討たれたら、その場へ行って、
「なるほど……。
坐り直してお杉はまた、
「そうじゃ、それでも
独り言に、うなずいて、やっと年寄りのせっかちも、そこで落ちつくところに落ちついたらしい。
又八は、醒めた酒を思い出したように、
「さあ、そうきめたら、今夜の
「酒か。……ム、帳場へいうて来やい。前祝いに、わしも少し飲もう程に」
「どれ……」
と、
ちらと、白い顔が窓の外に見えたのであった。又八がびっくりしたのは、単にそれが若い女であったというだけではない。
「やっ、
彼は窓へ駈けよった。
逃げそびれた小猫のように、朱実は木蔭に立ち
「……まあ又八さんだったの」
彼女もびっくりしたような眼をそこにみはって。
そして、伊吹山のころから今もまだ、帯か
「どうしたのだ、こんなところへ、どうして不意に来たのか」
「……でも、わたしここの
「ふウム……、そいつあちっとも知らなかった。じゃあ、お甲と一緒にか」
「いいえ」
「一人で?」
「ええ」
「お甲とはもう一緒にいないのか」
「
「ウム」
「藤次とふたりで、去年の暮、世帯をたたんで他国へ
鈴の音がかすかに
「――誰じゃあ? 又八」
と、うしろでお杉がいぶかって訊ねた。
又八は
「おふくろにも、いつか話したことがあるだろう。あの……お甲の
「その
「なにもそう悪く取らなくてもいいやな。この
「え、そうなんです。まさか、ここに又八さんがいようなんて、夢にもあたし知らなかった。……ただ、いつぞや、ここへ
「お通はもういない。おめえ、お通となにか話したのか」
「なにも深い話はしなかったけれど、後で思い出しました。――あの人が、又八さんをお
「……ム、まあ、以前は、そんなわけでもあったんだが」
「又八さんもお
「おめえはその後、まだ、独り身かい。だいぶ様子が変ったが」
「わたしも、あのお
「あのお甲には、おれもおめえも、これからという若い出ばなを滅茶滅茶にされたようなものだ……。畜生め、その代りにゃあ今に、
「……でも、これから先、あたしどうしたらいいのかしら?」
「おれだって、これから先の道は真っ暗だ……。あいつにいった意地もあるから、どうかして、見返してやりてえと思っているが……。あアあ……思うばかりで」
窓越しに、同じ運命を
「又八、又八。用でもない人間と、なにをぶつぶついうているのじゃ。こよい限りでこの
なにかまだ話したそうな様子であったが、お杉に気がねして、朱実は、
「じゃあ又八さん、後でまた」
程なく――
ここの
夜食の膳には、
「いよいよ今夜のお立ちだそうでございますなあ。長いご逗留にも、なんのおかまいも申しあげませんで。……どうぞこれにお
「はい、はい。またお世話になろうも知れませぬ。
「なんだかこう、お名残り惜しゅうございますな」
「ご亭主、お別れじゃ、
「おそれいりまする。……ところでご隠居様、これからお
「いえいえ、まだ
「夜中に、お立ちだと伺いましたが、どうしてまたそんな時刻に」
「急にちと大事が起りましてのう。……そうじゃ、お宅に、一乗寺村の
「一乗寺村といえば、白河からまだずんと
亭主のいう腰を折って、又八が横から、
「なんでもよいから、その一乗寺村へ行く道筋を、巻紙の端にでも書いておいておくれ」
「承知いたしました。ちょうど一乗寺村から来ている
又八は少し酔っていた。やたらに
「行く先のことなんざ心配しなくともいい。道順だけ訊いているのだ」
「おそれ入りました。――では、
ばたばたと、
「旦那、この辺へ逃げて来ませんでしたか」
「なんじゃ。……なにが?」
「あの――この間から奥に一人で泊っていた娘っ子で」
「えっ、逃げたって」
「夕方までは、たしかに、姿が見えたんですが……どうも部屋の様子が」
「いないのか」
「へい」
「阿呆どもが」
煮え湯を飲んだように亭主の顔は変った。客の部屋の
「逃げられてから騒いだとて、後の祭りじゃ。――あの娘の様子といい、初手から
「相済みません。つい、
「帳場の立て替えや、
舌打ちして、亭主も
お杉は、自分だけ先に、飯茶碗をとって、
「又八、おぬしも、もう酒はよくはないか」
「これだけ」
と、
「飯はたくさんだ」
「湯漬けでも食べておかぬと、体にわるいぞよ」
前の畑や、路地口を、雇人の
「まだ捕まらぬとみえる」
と、つぶやいた。そして、
「
「そうかもしれねえ」
「お甲に育てられた
「……だがあの女も、考えれば、可哀そうなものさ」
「
「…………」
又八は、べつなことを考え出しているらしく、髪の根をつかみながら、横になって、
「
お杉は聞き咎めて、
「なにをいうぞ。お甲などという女を討ったところで、
「……ああ、世の中が面倒くさくなった」
「ご隠居さま。ちょうど
「どれ……
「もう出かけるのか」
又八は、伸びをして、
「亭主、さっきの食い逃げ娘は、捕まったかい」
「いや、あれ
縁先へ出て、
「オイ、おふくろ、なにをしているんだい? ……。おれを
「まあ待たぬかい、
「なにを」
「この旅包みの側へおいたわしの
「そんな物、おれは知らねえよ」
「ヤ、又八、来てみやい。この旅包みに、又八様として、なにやら紙きれが
「ふウん……じゃあ朱実が
「盗んで、罪をゆるしてくれもないものじゃ。……これ御亭主、客の盗難は、
「へえ……それではご隠居様には、あの食い逃げ娘を、前からご存じでございましたので。――ならば、手前どもで踏み倒された勘定や立て替えのほうを先に、なんとかしていただきたいものでございますが」
亭主がいうと、お杉は、眼を白黒しながら、あわてて顔を横に振った。
「な、なにを仰っしゃる、あんな
――まだ月がある。
朝といっても恐ろしく早いのだ。自分たちの影法師が白い道の上に、黒々と重なって動くのが、なんだか不思議に見える。
「案外だなあ」
「ウム、だいぶ見えない顔がある。百四、五十人は集まると思っていたが」
「この分では、半分かな」
「やがて後から見える
「吉岡家も
影法師の一かたまりが
「気の弱いことをいうな。盛衰はこの世の常だ」
と、誰か呶鳴るようにこっちへ向っていう。また、べつな一団が、
「来ない奴は来ないにしておけばいいじゃないか。道場を閉じたからには、めいめい自活の道を考える奴もあろう。将来の損得を思慮する人間もあるだろう。当り前なことだ。――その中で、あくまで、意地と義気に生きようとする遺弟だけがここにおのずと集まるのだ」
「百の二百のという人数はかえって邪魔になる。討つべき相手はたった一人ではないか」
「アハハハ。誰かまた、強がっているわい。蓮華王院の時はどうした。そこにいる連中、あの折、居合せながら、みすみす武蔵の姿を見送っていたのじゃないか」
ここは俗称
朝の月を貫いてひょろ長い一本松が
下り松を中心に、吉岡道場の面々は、
「この街道が三つに分れているので、武蔵がどこから来るかそれが考えものだ。同勢をすべて三手に分けて、途中に伏せ、下り松には名目人の源次郎様に、
地形を案じていう者があると、また一人が、
「いや、ここの足場は
と、一説を立てる。
人数の多数からおのずとわきあがる意気は天をも衝くように見えた。離れたり集まったりする影法師には皆、長やかな刀の
「――来た、来た」
まだ十分に時刻は早いと分っていながら、
「源次郎様だ」
「駕でござったな」
「なんといっても、まだお
人々の眼の向いた方に――遠く
「やあ、揃ったな、各

駕を捨てたのは老人だった。次の駕からまだ十三、四歳の少年が降りた。
少年も老人も、白鉢巻をして、高く
「これ、源次郎」
老人は、子へいい聞かせた。
「そちはこの下り松のところに立っておればよい。松の根元から動くでないぞ」
源次郎は黙ってうなずいた。
その
「きょうの果し合いは、そちが名目人になっているが、戦いは、他の門弟衆がやる。おまえはまだ幼いからじっとここに控えていればよいのじゃ」
源次郎はこっくりして、正直にすぐ松の根元へ行き、五月人形のように
「まだよい、まだちと早い、夜明けまでにはだいぶ間があるでな」
腰を探って、がん首の大きな
「火はないか」
と、まず味方に余裕のあるところを示すつもりで見まわすと、
「
御池十郎左衛門が前へ出ていう。
「それも一理あるな」
たとえ血脈の間がらとはいえ、幼少の子を果し合いの名目人に提供して惜しまないほどの
「――では早速、備え立てして敵を待とう。しかし、この人数をどう分けるというのか」
「この下り松を中心とし、三方の街道へ、各

「して、ここには」
「源次郎様のそばには、拙者、また御老台、その他十名ほどの者がいて、護るばかりでなく、三道のどこからか、武蔵が来たとの合図が起ったら、すぐそれへ合体して一挙に彼を
「待たっしゃい」
老人らしく、
「――幾ヵ所にも分割してしまうことになるなら、武蔵が、どの道から来るかわからぬが、真っ先に彼へぶつかる人数は、およそ二十名ぐらいにしか当るまい」
「それだけが、一斉に取り巻いているうちには」
「いや、そうでないぞ。武蔵にも、何名かの加勢がついて来るにきまっている。それのみでなく、いつぞやの雪の夜、伝七郎との勝負の果てに、あの蓮華王院での退きようを見ても、武蔵という奴、剣も鋭いかしらんが、
「いや、そうはいわさぬ」
「――というたところで後となれば
「わかり申した。つまり今度という今度こそは、断じて、武蔵を生かして逃がすようなことがあってはならぬということでしょう」
「そうじゃ」
「仰っしゃるまでもなく、万が一にも、ふたたび武蔵を逃がすような失策を生じたら、後でどう弁解しても、われわれの汚名はもう
御池十郎左衛門はそういって、辺りに群れを作っている人々のうちを見廻して、四、五人の名を呼びあげた。
半弓を
「お呼びですか」
と、前へ進んだ。
御池十郎左衛門は、
「ウム」
と
「御老台、実は、こういう用意までいたしているのでござる。もう御懸念は去りましたろう」
「ヤ、飛び道具」
「どこか、小高い場所か、樹の上に伏せておいて」
「醜い仕方と、世間の評がうるさくはないか」
「世評よりは武蔵を
「よし、そこまで、腹をすえてやる儀なら、異存はない。たとえ武蔵に、五人や六人の加勢がついて来ても、飛び道具があればよも討ち洩らしもいたすまい。……では評議に手間取っているうちに、不意を衝かれてもなるまいぞ。采配はまかせる。すぐ配備配備」
老人が、合点すると、
「では、
一同の頭の上へ、十郎左衛門が
三方の街道は、敵の出ばなを
また、その辺りの地を
鉄砲を持った男は、下り松の
枯れ松葉や木の皮が、ぱらぱらこぼれて来た。下に立っていた飾り人形のような源次郎少年は、
「なんじゃ、
「背中へ松葉がはいったんです。なんにも怖くなどありません」
「それならよいが、おぬしにもよい経験というものだ。やがて斬合が始まるから、よく見ておくのだぞ」
すると、三方道のいちばん東にあたる修学院道の方で、突然、
(馬鹿ッ!)
と、大きな声が聞え、ざざざッ――とその辺の
「
と、口走って、源左老人の腰へしがみついた。
「来たのだ!」
御池十郎左衛門はすぐ気配の立ったほうへ向って駈け出した。――しかし駈けてゆくうちに、変だな? という気持がした。
案の定、待ち設けていた敵ではなかったのである。いつぞや六条柳町の総門の前で、双方のあいだに立って口をきいたあの前髪若衆、佐々木小次郎がそこに突っ立って、
「眼はないのか、戦う前から眼が上がっていられるな。わしを武蔵と間違えて突ッかかるような浮き腰では心ぼそい。わしは、今朝の試合の見届け人として来たのだ。立会人へ、藪から棒に――いや藪から槍を突きつける馬鹿者があるか」
と、例の大人びた高慢顔で、そこらの吉岡門人を叱りつけているのだった。
しかし、
(こいつ、臭いぞ)
(武蔵に助太刀を頼まれて、先に様子を見に来たのかも知れぬ)
吉岡方の者は
そこへ十郎左衛門が駈けつけて来たので、小次郎のひとみはすぐ衆を捨てて、割り込んで来た十郎左衛門へ喰ってかかり、
「立会人として今暁これまでまいったるに、吉岡衆はわしをも敵と見てかかった。これはそもそも貴所のお指図でありまするか。しかるとせば、不肖ながら、佐々木小次郎も、久しく伝家の
こうした高飛車な物腰は、なんぞというと、この小次郎の
――だが、御池十郎左衛門は、その手は喰わないという顔つきで、
「ハハハハ、これはひどいご立腹だな。しかし、今暁の試合に、貴公を立会人として、誰が頼んだか。――当吉岡一門の者としては依頼した覚えがないが、それとも武蔵からお頼みをうけて来られたか」
「だまんなさい。いつぞや六条の往来に、高札を立てた折、
「なるほど、あの時貴公はいった。――自分が立会人に立つとか立たぬとか。――だがその折、武蔵も貴公に頼むとはいわなかったし、当方でもお願い申すといったつもりはない。要するに、貴公一人が事好みに、出る幕でもない幕へ、独りで役を買って出たのでござろう。そういうおせッ
「いうたな」
小次郎の激発は、もう虚勢ではなかった。
「――帰れっ」
十郎左衛門はさらにいって、
「見世物ではないっ」
と、
「……ウム」
息を引くように、青ざめた
「――見ておれ、うぬら」
彼が元の道のほうへ駈け出して行こうとすると、ちょうどそのとき、十郎左衛門より一足遅れてここへ来た
「お若いの、小次郎殿とやら、待ちなされ」
と、あわてて後ろから呼び止めた。
「わしに、用はあるまい。いまの一言、後で眼にもの見せてくれるから待っておれ」
「まあ、そういわないで、しばらく、しばらく」
老人はそういって、息巻きながら立ち去ろうとしかけた小次郎の前に廻って、
「
「そうご挨拶をされると恐縮します。四条道場には、以前、清十郎殿との
「ご
如才なく、源左老人は、この
これだけの備えがある以上、小次郎一人の助太刀など頼るにも当らない。けれど、この若者の口から自分たちの卑怯な戦法が
「なにとぞ、水に流して」
と、
「いや御老人、そう年上のあなたから何遍も頭を下げられると、若輩の小次郎はどうしてよいか分らなくなる。まずお手を上げてくだされい」
案外、あっさり機嫌を直して――それと共に、吉岡方の者へ、例の
「わしは元より、清十郎殿とはご懇意だったし、武蔵には、さっきもいうた通り、なんの
小次郎は耳を紅くしているかと思われるような語気で演舌するのだった。源左老人を始め皆彼の熱力のある舌に魅せられて黙ってしまった。そして、これほど好意を持たれている小次郎に対してなんであんな暴言を吐いたかと、十郎左衛門などはありあり悔いている顔つきであった。
そういう空気を見わたすと、小次郎はわが独壇場のように、いよいよ舌に熱を加えて、
「わしも将来は、兵法をもって一家を成そうとする者なので、単なる好奇心からではなく、努めて試合、真剣勝負などの際は弥次馬に交じって出かけます。傍観者となっているのもよい勉強になるからでござる。――けれどおよそ今日まで、

乾いた
「なるほど、渡り者の兵法者としては、武蔵はたしかに強い、驚くべき烈しい男にはちがいない。それはこの小次郎も、一、二度出会ってよく分っておる。――で実は、よけいなおせっかいに似たことだが、いったい
――と、朱実の名は隠して、
「その女から訊き、また諸方いろいろ
源左老人が、好意を謝して、そこに抜かりのないことを説明すると、小次郎はうなずいて、なおいった。
「そこまで行き届いておれば万が一にも、討ち洩らしはあるまいが、まだ念のために、もう一度、突っ込んだ策があってもいいと思う」
「――策?」
と源左老人は、小次郎の
「なんの、これ以上、策も備えも
いうと、小次郎はやや
「いやそうでないぞ御老人、武蔵がのめのめと、ここまで正直にやって参れば、それは各

「そしたら、笑うてくれるまでのこと――。京の辻々へ、武蔵逃亡と、高札に掲げて、天下へ笑い者にしてやるわさ」
「貴所方の名分は、なるほど、それでも半分は立つだろうが、武蔵もまた、世間へ出て、各

「はて、そんな策が、あろうかな?」
「ある」
小次郎はいった。
いかにも自信のある
「ある! 策はいくらでも……」
と、声を落して、ふと、常の
「……な。……どうです」
と、ささやいた。
「……ム、む、なるほど」
老人はしきりと
おとといの
(晩には)
と、
(鞍馬みやげじゃ)
と、
それから、もうひとつの方は、近所の店で求めて来た品らしく、
木賃の老爺は、すぐそれを持って、お針のできる近所の娘の家へ頼みにゆき、帰りの足も無駄をせず、酒屋から酒をさげて来て、山芋汁を
それを、枕元において、武蔵は眠りについたのであったが、ふと老爺が真夜中に眼をさましてみると、裏手の井戸ばたで、誰かさかんに水を浴びているような音がする。何気なく覗いてみると、武蔵はもう寝床をぬけて、月の光の下に
まだ月もそう西へは
――武蔵はそう答えて、
「おやじ、後を閉めておいてくれよ」
もうすたすたと、横の畑道から廻って、
老爺が、
つかの間であったが
「ゆるりと歩もう」
武蔵は、意識的に、大股な足癖を惜しんで――
「……さて、人間の世をながめるのも、今夜かぎりとなったな」
なんの
まだ、一乗寺
きのう一日、鞍馬の奥の院へ行って、
それに反して、今夜の
(――そうだ、
考えようともしないそんなことが
あまりにも、覚悟し切ってしまった、その死に対して、彼の知性はもう間に合いもしない――死の意義、死の苦痛、死後の先などと百歳まで生きてみても、解決しそうもないそんな問題に、今さら、
こんな深夜なのに、道のどこからともなく、
そこらの
「――自分より一足先に死んでいる人がある」
あしたは、死出の山で、その人とも、どこかで知己になりそうな気がして、
通夜のひちりきは、歩いているうち、もう余程さっきから耳には聞えていたのかもしれない。――その
はて? ――と武蔵は、自分の
そう、自分に訊ねて、ぴたと自己の足を大地に踏み止めてみた時、道はすでに
――と、その築地の角に、人影が一つ黒く、じっと立ってこっちを見ていた。
武蔵は足を止めた。
先に見せた人影は、反対にこっちへ歩き出して来る。その影に
「…………」
手足の先にまでこめていた或る力を急に抜いて、武蔵は無言のまますれちがった。
犬を連れた通行人は、通り過ぎてから
「お武家さま。お武家さま」
「……わしか」
四、五間を隔てたまま、
「さようでございます」
腰のひくい
「なんだな?」
「ひょんなお訊ねをいたしますが、この道筋に、
「さ。気がつかずにまいったが、なかったように思う」
「はて、それでは、この道筋でもないかしらて?」
「なにをさがしておるのか」
「人の死んだ家でございます」
「それならあった」
「お、お見かけなさいましたか」
「この深夜だが、
「違いございません。先に神官方が、お通夜に行っておりますはずで」
「通夜にまいるのか」
「てまえは鳥部山の
「吉田山の松尾? ――元吉田山にいてこの辺りへひき移って来た家と申すか」
「そうと知らなかったので、とんだ無駄足をいたしましてな。いや、ありがとう存じました」
「待て待て」
武蔵は二、三歩出て、
「近衛家の用人を勤めていた松尾
「その松尾様が、たった十日ほどわずろうて、お
「主人が」
「へい」
「…………」
――そうか。と
「……死んだか」
口の
しかし武蔵はそれ以上なんの感傷も
それよりは、武蔵はむしろ、飢えと寒さにふるえた元日の朝、加茂川の凍った水のほとりで焼いて喰べた餅のにおいの方が今ふと思い出された。
(
と思う。
良人にわかれて独りで暮す叔母を思う。
すぐ彼の足は、上加茂の流れの岸に立っていた。河をへだてて、満目に三十六峰が黒々と空からせまる。
その山の一つ一つが、皆、武蔵に対して敵意を示しているように見えた。
――じっと、そこに立ち尽していることややしばらくの後、武蔵は、
「ウム」
と、独り
河原へ向って、
「おおう……いっ」
武蔵の影が、加茂の舟橋の中ごろまで渡って来た時である。こう呼ばわる声がする。
「おオーい」
またしても呼び抜く。
武蔵は、二度足を止めたが、もう心にかけず、
と、一条白河のほうから河原づたいに、手をあげながら駈けて来るものがある。見たようなと思った眼に誤りはなかった。佐々木小次郎なのである。
「やあ」
近づきながらこう親しそうに小次郎は声をかけた。そして、武蔵の姿をじっと見、また舟橋のほうを見渡してから、
「お一人か」
といった。
武蔵は
「一人です」
と、当然のようにいう。
挨拶が少し前後している。それから小次郎は改めていった。
「いつぞやの夜は失礼いたした。不行届な扱いを受けて下すって、有難くぞんじています」
「いやその折はどうも」
「さて、――これから約束の場所へ赴かれるのか」
「はい」
「お一人で?」
「一人です」
武蔵の返辞も、前と同じであったのが、かえって、小次郎の耳にはよく聞えた。
「ふふむ……そうですか。しかし武蔵どの、貴所はこの間、この小次郎が
「いいやべつに」
「でもあの高札文には、この前の清十郎とそこ許との試合のように一名と一名に限るとは書いてないのでござるぞ」
「わかっております」
「――吉岡方の名目人は幼少のただ名だけのもの。あとは一門遺弟となっている。遺弟といえば、十人も遺弟、百人も遺弟、千人も……であるが、その点抜かられたな」
「なぜですか」
「吉岡の遺弟のうちでも、弱腰なものは逃げたり、不参らしく見ゆるが、骨のある門人は、こぞって、
「小次郎殿には、すでにそこをお見届けでござりますか」
「念のために。――そして今、こは相手方の武蔵どのにとって一大事なりと思慮いたしたので、一乗寺
「ご苦労に思います」
「
「自分一名のほか、もう一名、自分とともに歩いてまいりました」
「え。どこへ」
武蔵は、地上のわが影法師を指さして、
「ここに」
といった。
笑う歯が月に白かった。
冗談などいいそうもない武蔵が、ニコッと笑って不意に
「いや、冗談ごとではありませぬぞ、武蔵どの」
よけい真面目づくると、
「拙者も、冗談はいいませぬ」
「でも、影法師と二人づれなどとは、人を小馬鹿にしたおことばではないか」
「しからば――」
武蔵は、小次郎以上、きっと真面目な
「
「…………」
「
武蔵の信念は、言葉のひびきからも脈を
「彼が十人の多勢を
「なるほど、だが武蔵どの、みすみす負けと分っている
「ある場合もありましょう」
「ない! それでは兵法ではない、無法というものだ、滅茶だ」
「では、兵法にはないが、拙者の場合だけには、あるとしておこう」
「
「……ハハハハ」
武蔵はもう答えない。
しかし、小次郎は
「そんな兵法に
「活路は、今歩いている、この道こそ、拙者にとっては活路です」
「冥途の道でなくば、
「或はもう、今越えたのが三
「死神にとりつかれたようなことを仰っしゃる」
「なんであろうとよい。生きて死ぬる者もある。死んで生きる者もある」
「
独り語のように小次郎が
「小次郎どの――この街道は真っ直何処へ通じますな」
「花ノ木村から一乗寺
「下り松まで、
「ここからは、はや半里余り、ゆるゆる歩いて行かれても、時刻の余裕はまだ十分」
「では、後刻また」
武蔵がふいに、横道へ曲りかけると、
「ヤ、道がちがう。武蔵どの、そう行っては方角が違う」
あわてて小次郎は注意した。
武蔵はうなずいた。小次郎の注意に対して、素直にうなずいた。
しかし見ていると、曲った道をそのままなお歩いてゆく様子なので、小次郎はもいちど、
「道が違いますぞ」
声をかけると、
「はあ」
と、分っているような返辞。
並木のすぐ後ろで、窪地の傾斜に沿い、だんだん畑がある、
小次郎は、独りで苦笑を頬に流しながら、
「……なんだ、小用か」
「だいぶ西へ傾いて来たなあ。……この月がかくれる頃には、何人かの人命も消えてゆくのだ」
彼の好奇心は頻りといろいろな予想を描く。
武蔵がなぶり殺しにされることは、結局においては確実だが、あの男のことである、仆れるまでに何人の敵を斬るか。
「そこが見ものだ」
と、彼は思う。そして今からそれを予想してみるだけでも、ぞくぞくして来て、肌は総毛だち、血は全身を駆けて待ち遠しがる。
「滅多に
ちょっと、低地の道を
そしてまた、
「あの落ちつき澄ましている様子では、まったく死を決しているらしいから、かなりなところまで戦うだろう。なるべく、斬って斬って斬りまくってくれたほうが見ごたえがあっていい。……だが、吉岡のほうでは飛道具の備えまでしているといったな。……飛道具でどんと一発やられてしまっては、万事終ってしまう。……はて、それでは面白くないぞ。そうだ。そのことだけは、武蔵に耳打ちしておいてやろう」
だいぶ待った。
夜霧が腰に冷たくなる。小次郎は身を起して、
「武蔵どの」
呼んでみたのである。
おかしいぞ? ――と今頃になって思ってみることが、彼自身にもとたんに不安と
「武蔵どの」
崖下の農家は真っ暗な竹むらに囲まれていて、どこかで水車の音がするが、その流れさえよく見えない。
「しまったッ!」
水を飛んで、小次郎は向う側の崖の上へすぐ出てみた。人影らしいものは見あたらない。白河あたりの寺院の屋根、森、眠っている大文字山、如意ヶ岳、一乗寺山、
それから月が一つ。
「しまったッ。卑怯者め」
小次郎は武蔵が逃げたなと直覚した。あの落ちつきすましていた様子もそのせいであったかと今にして思う。道理で余りいうことも出来過ぎていた。
「そうだ、早く」
小次郎は身を
――遠く遠く、見ているまに駈け去って小さくなって行く佐々木小次郎の影を見送って、武蔵は思わずにたりと笑った。
たった今、その小次郎が立っていた所に、武蔵は立っているのである。なぜ、彼があんなにも捜したのに知れなかったのかを考えてみると、小次郎は居場所を捨てて他を捜したが、武蔵はかえってその小次郎のいたすぐ後ろの樹蔭に来ていたからであった。
――しかし、なにしろまずこれでよかった。と武蔵は思う。
他人の死に興味をもち、他人が鮮血を賭けてする
(その手は食わない)
武蔵は、おかしくなった。
頻りと敵の
(生きよう。勝とう)
と思えば助太刀もほしくなるかも知れぬが、武蔵には、勝てる気もない、
ひそかに、彼がここへ来るまでのあいだに探り得たところでも、今暁の敵は百数十名にものぼるらしく察しられた。あらゆる方法のもとに、自分を害さずば
けれど武蔵は、その中でもかつて沢庵のいった――
(真に生命を愛する者こそ、真の勇者である)
という言葉を決して忘失してしまっているわけではない。
(この
そしてまた、
(二度と生れ難いこの人生!)
を、今も、ひしと五体のうちに
だが。
――生命を愛する。
ということは、単に無為飽食を守っているということとはたいへんに意味が違う。だらだら長生きを考えるということではさらさらない。いかにしてこの二度と抱きしめることのできない
問題はそこにある。何千年何万年という悠久な
人間のすべての事業は、創業の時が大事で難しいとされているが、生命だけは、終る時、捨てる時が最もむずかしい。――それによって、その全生涯が定まるし、また、
けれど、そういうふうな生命の愛しようも、町人にはおのずから町人の生命の持ち方があり、侍には侍の持ち方がある。武蔵の今の場合には、当然、さむらいの道に立っていかによくこの生命の捨て際を、侍らしくするかにあることはいうまでもない。
さて――
これから一乗寺
その一つは今、佐々木小次郎の駈けて行った
これは最も近い。
そして一乗寺村までは、道も
すこし
もう一つは、今、彼の立っている所から東へ真っ直に、志賀山越えの裏街道をとり、白河の上流から
そのいずれから行くも、下り松の追分は、ちょうど谷川の合流点のような場所に当っているので、距離にしても、そう大差はない。
だがこれを――まさにこれから、そこに雲集している大軍にぶつかって行こうとする
――道は三つ。
――どう行こうか。
当然、武蔵はそこで慎重に考えそうなものであったが、ひらりとやがて身軽に動き出した彼の影には、そんな重苦しげな迷いの影は
――ひら――ひら――ひらと
では、三道のうち、いずれを選んだかというと、彼の足は、一乗寺方面とは反対な方角へ向いていた。三つの道のいずれも選ばなかったのである。その辺はまだ里ではあったが、狭い小道を通ったり畑を横切ったりして、一体、どこを目ざして歩いて行くのかちょっと気が知れない。
なんのためか、わざわざ
「…………」
黙々と、武蔵は、山ふところの闇へ向って登ってゆく。
今、通って来た右側の樹立の奥に見えた
さらに、もう一息、山道を登ってゆくと、東山殿の泉は、余りに近すぎて足元の木蔭にかくれ、加茂川の白い
下京から上京まで、両手をひろげて抱えきれるような展望だった。ここからは、遥かに、
(一乗寺下り松はあの辺り――)
と、指さして、ほぼ遠く察することもできる。
大文字山、志賀山、瓜生山、一乗寺山――と三十六峰の中腹を横に這って叡山の方へすすめば、ここからそう時を
武蔵の考えは、その戦法は――もう
「……やっ、お武家」
こんな所で人声は思いがけなかった。不意に、道の上から人の
「や? ……」
と、行き合った最初に、なにか驚いたような声を出したので、不審に思って、武蔵がじっとその顔を凝視すると、急に少し恐れを抱いたように、
「……あの、あなた様は」
と、ひどく低く頭を下げ、
「もしや、宮本武蔵殿と仰せられはいたしませぬか」
と、問う。
武蔵の眼が、ぎらっと松明の赤い光の中に光った。――当然な警戒だったのはいうまでもない。
「……宮本殿でございましょうな」
重ねて、その男は訊ねたが、
「誰だ? おん身は」
「はい」
「何者だ?」
「はい……烏丸家のものにござりますが」
「なに、烏丸家の……。わしは武蔵だが、烏丸家の御家来が、今頃、こんな山路へなにしに?」
「ア。……ではやはり宮本殿でござりますな」
いうと、その男は、後も見ずに山を駈け下ってしまった。
武蔵は、なにかはっと思い当ったように、足を早め出して、山伝いに、志賀山街道を横切り、どこまでも山の腹を、横へ横へと、急いで行った。
――一方。
そして、片手を口にかざして、
「オオイ、
と、同僚の名を呼ばわっていると、その同僚とはちがうが、やはり烏丸家の内に、ここ永らく泊っている城太郎少年が、
「なんだアい――小父さん――」
と、二町も先の西方寺門前あたりから遠く返辞が聞えてくる。
「城太郎かあ――」
「そうだアい」
「はやく来ウいっ――」
すると、また遠くから、
「行かれないよーっ……。お通さんが、ここまでやっと来たけれど、もう歩けないッて、ここへ仆れちまったから、行かれないよーっ」
烏丸家の奉公人は、
(ちぇっ……)
舌打ちを洩らしたが、前よりも高い声を張りあげて、
「はやく来ないと、武蔵殿がもう遠くへ
「…………」
すると今度は、返辞がして来ないのである。
――と思ううちに、
「おお」
近づくほどに、お通の顔は月よりも血の気がないものに見えた。痩せ細った手足に旅
「ほ、ほんとですか。……今仰っしゃったのは」
「ほんとだとも、たった今だ」
と、力をこめて話し、
「はやく、追って行けば会える。はやく行け早く!」
城太郎は、まごまごして、
「どっちへさ、どっちへさ。ただ早く行けじゃ分らないじゃないか」
病人と
お通の体があれから急に
恐らく、いつぞやの晩、
(武蔵様が死を決しておいでになるなら、わたしも
といい出したことから始まり、やがてはまた、
(死ぬ前に一目でも)
という病人の一念になって、それまで
さて、そうまでの一心を見ては、止めだてした烏丸家の人々も、
(捨てては
と、
或は、光広卿の耳へも入って、この
とにかく、彼女の弱い足取りをもって、この銀閣寺下の仏眼寺の門前へかかるまでには、烏丸家の
果し合いの場所は一乗寺とだけ分って、広い一乗寺村のどの辺かは明白でない。それにまた、武蔵が果し合いの場所に立ってしまってからでは追いつかないことなので、捜す者も、おそらく一乗寺方面へ通う道には、皆一人か二人ずつ奔走して、足を
しかしその
たった今、
「だいじょうぶ? お通さん、だいじょうぶかい?」
側についてはらはらして行く城太郎とも口もきかない。
いや、きけないのである。
死を覚悟して、無理無体に歩ませてゆく
「お通さん、この道だ、この道から横へ横へと、山の腹を縫ってゆけば、
「…………」
お通は黙ってかぶりを振った。一本の杖の両端を二人して持ち合いながら――永い人生の艱苦をこの一
「お師匠様アッ。……武蔵さまアッ……」
時折、城太郎が、ありッたけな声を絞って、行く手の方へ向って、こう呼んでくれるのが、お通にとってはなによりの力だった。
だが遂に、その力も尽きたように、お通は、
「城……城太さん」
なにか、いいかけたと思うと、彼の引っ張っていた杖の先を離して、沢の石ころや
削ったように細い両手の指が、口と鼻を抑えたまま、肩で戦慄しているので、
「ヤ! 血、血でも吐いたんじゃないか。……お通さん! ……お通さん……」
城太郎も泣き声出して、彼女の薄い胸を抱き起した。
かすかにお通は顔を横に振った。地に俯つ伏したままにである。
「どうしたの。どうしたのさ」
おろおろと、城太郎は彼女の背中を撫でていたわりながら、
「苦しいの」
「…………」
「そうだ、水かい、お通さん、水が欲しかないかね」
「…………」
お通はうなずいて見せた。
「待っといで!」
辺りを見まわして、城太郎は突っ立った。山と山の間のゆるい沢道である。水音は方々の草や木を
だが、そう遠くまで駈けなくても、すぐ後ろに草の根や
「…………」
水はよくよく澄んでいて、
病人に
「……あッ?」
大きく叫んだまま、彼の眼はなにものかに吸いつけられ、
「……?」
水の向う岸から五、六本の樹の影が、
「…………」
びっくりしたことは勿論、びっくりしたに違いないが、水面に映っている武蔵の影だけでは、城太郎はまだほんとに――物の現実に向ってびっくりしたのではなかった。
ふいに、
武蔵はそこに立っていた。
「おッ、お師匠様っ」
静かな水面の持っていた月雲の空は、とたんに真っ黒に乱れ濁ってしまった。水の
「いたっ、いたっ」
捕まえた者を引ったてるように、武蔵の手を、彼は夢中になって引っ張った。
「待て」
武蔵は顔をそ向けて、ふと
「あぶない、あぶない。すこし待て、城太郎」
「いやだっ、もう離さない」
「安心せい、おまえの声が遥かに聞えたから、待っていたのだ。わしよりも、早くお通さんに水を持って行ってやれ」
「ア、濁ってしまった」
「向うにもよい水が流れている。それ、これを持って行け」
腰の竹筒を渡してやると、城太郎はなに思ったか、手を引っ込めて、武蔵の顔をじっと見、
「お師匠様。……お師匠様の手で汲んで行っておやりよ」
「……そうか」
そして彼女の
「お通さん、武蔵様だよ、武蔵様だよ。……分る? 分る?」
と、ともどもいたわりを
お通は
「おいらじゃないんだぜ、お通さん、お通さんを抱いているのは、お師匠さまなんだよ」
城太郎がそう繰返すと、お通は遠くを見ている眸に、湯のような涙をいっぱいにたぎらせ、見るまに、その眼は、ぎやまん玉の曇りにも似て、やがて頬を下るふたすじの白珠とはふりこぼれると、
(……分っています)
と、いうように
「ああ、よかった」
城太郎は無性に
「お通さん、これでいいだろ。もう、これで気がすんだろう。……お師匠様、お通さんね、あれから、どうしても、もいちど武蔵様に会うんだといって、病人のくせに、いうこと
「そうか」
武蔵は、彼女を
「みんなわしが悪いのだ。わしの悪いところも詫び、またお通さんの悪いところもよくいって、体を丈夫にするように今話すから……城太郎」
「なに?」
「おまえは、ちょっと……しばらくの間、どこかへ離れていてくれぬか」
城太郎は、そう聞くと、
「どうして?」
と、口を
「どうしてさ。どうしておいらがここにいちゃいけないの」
と、不平なようでもあり、不審にも考えるらしく、動こうとはしないのであった。
武蔵も、それにはふと困ったらしい様子に見えた。すると、お通が頼むように、
「城太郎さん……そんなこといわないで、ちょっと、あっちへ行っていてください。……ね、後生ですから」
武蔵には口を
「じゃあ……おいら、仕方がないからこの上に登っているとすらあ。用が済んだら呼んでおくれ」
崖の
ようやく、少し元気を回復したらしく、お通は起って、鹿のように登って行く城太郎の影を見送り、
「――城太さん、城太さん。そんなに遠くへ行かなくってもいいのですよ」
そういったが、聞えたのか聞えないのか、城太郎はもう返辞もしない。
お通もまた、なにも今、そんな心にもないことをいって、武蔵に背を向けている必要もなかろうに――やはり城太郎という者が一枚抜けて、二人きりになったと思うと、
いや、
一方は背を向けて
「…………」
どういおう。
武蔵にはその言葉が見つからない。
どんな言葉をもっていっても、自分の心を現わすには足りないからであった。
すさび吹く千年杉の真っ暗な一夜――あの夜明けからのことを、武蔵は瞬間に胸にえがくことができる。眼には見て来なかったが、それからの五年あまりの彼女の歩いて来た道を――また一途に通して来た清純な気持を――武蔵は決して受け取っていないのではない、感じていないわけではない。
(おれこそ)
と、いつも思う。今もまた、そう思うのだった。
――だが、そういうわがことよりも
(もう……一
武蔵は、月の位置を見ている。自分の生きている間の時間を思わずにいられない。月はもう残月となっていた。いつのまにか、ずっと西に傾いて、光も白っぽく、夜明けはやがて近いのである。
その月と共に、死の山へ落ちてゆく寸前の自分である。今こそお通に向って、たった
真実。
しかし、いえないのだった。
胸にはいっぱいに持っている真実が、その真実をいおうとするほど、口には出て来ないで、いたずらにただ、空を見、あらぬ方を見てしまう。
「…………」
同じように、お通もただ地を見つめて、地に涙をそそいでいるしかなかった。――ここへ来るまでには彼女の胸にも、七堂
けれど――会ってみると、なにもいえない彼女だった。そんな
「…………」
どうしたものだろう。お通もいわず武蔵もいわず、こうしている間に時刻はいたずらに過ぎてしまう。
――はや暁に近いせいか、間の抜けた
「
武蔵はつぶやいた。この場合にそぐわない、取ってつけたような――と知りながら、
「お通さん、帰る雁が啼いてゆくなあ」
といった。
それを
「武蔵さま」
と、お通もいった。
あの頃は、単純だった。
お通がいつも仲よくしていたのは又八で、武蔵は乱暴だから嫌いだといっていた。武蔵が悪たれをいうと、お通も負けないで
しかし、そんな追憶に
「お通さん。そなたは今、体が悪いということだが、体はどうだね?」
「なんでもありません」
「もう
「それよりも、あなたは、これから、一乗寺の
「……う、む」
「あなたが、斬り死にあそばしたら、わたくしも生きていないつもりです。そのせいか、体の悪いことなど、忘れたように、なんともございません」
「…………」
武蔵は、そういうお通の顔の冴えを見て、自分の覚悟のほどが、いまだこの一女性にすら及ばない心地がした。
今の肚をすえるまでには、さんざん生死の問題に苦悩したり、日常の修養だの、さむらいとしての鍛錬だのを積んで来て、やっとこの覚悟になり得るまでになって来たと思うのである。――だのに、女は、そういう鍛錬も苦悩も
(――わたくしも生きていないつもりです)
と、すずやかにいう。
武蔵が、じっとその眼を見ているに、彼女のことばが、決して一
武蔵は
(どうして女は、こうなれるのであろうか)
同時に彼は当惑と、そして彼女の一生のために恐れて、自分までが乱れた。
「ばっ、ばかなっ!」
突然、彼は自分の口から吐いた自分の声に驚いた程、激越な感情の上に自分を乗せていっていた。
「わしの死には、意義があるのだ。剣に生きる人間が剣で死ぬのは本望であるばかりでなく、乱脈なさむらい道のために、進んで卑怯な敵を迎えて死ぬのだ。その後からそなたがともに死ぬ――その気持はうれしいが、それがなんの役に立とうか。虫のように哀れに生きて、虫のように
――見ればお通はふたたび大地に伏して泣いている様子なので、武蔵は、自分のことばのあまりに激し過ぎていたのに気づき、膝を折って、声を落し、
「だが、お通さん。……考えてみると、わしは知らず
ことばを休めて、
「お通さん!」
とさらに、ことばに力をこめ直して、武蔵はなおいった。
いつも無口で無表情な彼がめずらしく感情のなかに没し切って、
「鳥
「…………」
お通はなにかいおうとした。
「――そしてまた、わしは剣の道へ、身も心も打ち込んで行ったのだ。お通さん、この
なにもかも正直に――少しの嘘もなく、武蔵は自分の本心を――心の奥底まで、今こそいってしまおうとするのであったが、いたずらに、言葉の美飾と、感情の
「だから、人は知らないが、お通さん、武蔵という男は、そんな男なのだ。もっと、露骨にいえば、そなたのことを考え出して、ふと
――不意に、お通の細い手は、武蔵の逞しい
もう眼は泣いていなかった。
「……知ってます! そ、そんなことぐらい……そういう
「さすれば、わしがいうまでもなく、この武蔵と共に死のうなどという考えはつまらぬことと分っておろうが。わしという人間は、こうしているわずかな一
武蔵は、彼女の手をそっと
解かれた手は、またすぐその
「武蔵様、待って」
と、かたく
さっきから彼女にも、いいたいものが胸いっぱいに
武蔵が、
(虫のように生きて、虫のように死ぬ女の恋には、死の意義がない)
といったことばや、
(一歩、おまえから離れれば、わしはおまえのことなど、頭の隅にも置いていない男だ)
といったような言葉にも、お通は決して、そんなふうに武蔵を見て、
(もう二度と会えなくなるのだ)
と思うさし迫った感情に
「……待って」
といって、
しかし、いおうとすることのいえない――弱さの美しさ――単純なる複雑さ――に対して、武蔵も乱れずにいられなかった。彼の恐れている自分の性格の中の最も大きな弱点が、今、暴風のなかの根の弱い木みたいに揺すぶられていた。ともすればここまで持ち続けて来た「道への節操」も、地崩れのように、彼女の涙とともに泥になってなだれてしまいそうな気持がする。その気持を彼は恐怖する。
「わかったか」
武蔵が、ただいう言葉のためにそういうと、
「わかりました」
お通は微かに――
「けれど、わたくしはやはり、あなたがお死にになれば、後から死にます。男のあなたが、
乱れずにいった。
そして、もう一言、
「あなたは、わたくしのような者でも、心のうちだけでも、妻としてゆるして下さいますでしょうね。もう、それだけでわたくしは、すべての望みが満ち足りました。……この気持、大きな歓び、それはわたくしだけの持っていられる幸福です。あなたはわたくしを、不幸にしたくないからと仰っしゃいましたが、わたくしは決して、不幸に敗れて死ぬのではございません。――わたくしを見る世の中の人達が、皆わたくしを不幸だといっても、わたくし自身は、ちっとも、そんな不幸ではないのでございます――むしろ、ああなんといっていいだろう、死の夜明けが、楽しみで待ち遠で、朝の小鳥の
長くものをいうと、息が
――すると。
ふと彼女の眸を上げた崖の上の方で、
「キャーッ!」
突然、樹々の眠りをさまして
たしかに女の絶叫だった。
さっき城太郎が、その崖の道を上へ登って行ったはずではあるが、その城太郎の声では決してなかった。
誰の叫びか。また、何事が起ったのか。
われを呼び
(おさらば)
ともいわず――
「あっ、もう……」
お通が十歩追うと、武蔵も十歩駈けて、そして
「お通さん、よく分った。――だが犬死をしてはならないぞ。不幸に追い詰められて、死の谷間へ
いい続けた息のまま、武蔵はもう一言、
「いいか、お通さん! わしの後に
いい捨てると、もう、お通の次のことばが届かない方まで、彼の姿は遠ざかっていた。
「…………」
茫然とお通は残っていた。遠く去ってゆく武蔵の影は、自分の胸から抜け出した自分自体であるような心地だった。――別れという悲しみは、二つのものの離散から生じる感情なので、お通の今の気持には、別れの悲しみというような、そんなべつべつな意識の悲しみは持てなかった。ただ、大きな生死の
――ざ、ざ、ざ、ざ
とその時、崖の上から、土ころが彼女の足元まで崩れて来た。すると、その土音を追いかけるように、
「――わあっ」
と城太郎が、木や草を
「まあっ!」
お通でさえ、ぎょっとした。
なぜならば、城太郎少年は、奈良の観世の後家からもらった鬼女の
「ああ、驚いた!」
と、ふいに眼の前へ立って、両手を挙げたからである。
「なんですっ? 城太さん」
お通が問うと、
「なんだか、おいらも知らないけど、お通さんにも聞えたろ。キャーッっていった女の声がさ」
「城太さんは、それをかぶって、どこにいたの」
「この崖をずっと登って行ったら、そこにもこのくらいな道があってね、その道のもっと上の方に、ちょうど坐りいい
「それをかぶって?」
「うん、……なぜっていえば、そこいらでやたらに、狐が
東山から大文字の
「これさ、なぜそうせかせか急ぐのじゃ。待たぬかよ。又八、又八」
先へ行く息子の足に遅れがちになると、お杉婆は、意地も我慢もなくなったように後から
聞えよがしに、舌打ちして、
「なんだ口ほどもない。宿を立つ時、なんといっておれを叱りとばしたか」
待ってやらないわけにもゆかないので、又八はその度ごとに、足を止めて待ちはするが、こんな時とばかり、後からやっと追いついて来る
「なにをそう不機嫌にわしへ当りちらすのじゃ、
「これ待たぬか。少し休んで行こうぞよ」
「よく休むなあ、夜が明けてしまうぜ」
「なんの、まだ朝までにはだいぶある。常ならば、これしきの山道、苦にもせぬが、この二、三日は
「まだ負け惜しみをいってるぜ。だから途中で、居酒屋をたたき起して、人が折角親切に休ませてやろうとすれば、そんな時には、自分が飲みたくねえものだから、やれ時刻が遅れるの、さア出かけようのと、おれがおちおちと酒も飲まねえうちに立ってしまうしよ。いくら親でも、おふくろぐれえ
「ははあ、ではあの居酒屋で、
「いいよ、もう」
「わがままも程にしたがよい、大事をひかえて行く途中だぞよ」
「といったところでなにもおれたち
「ままよいわ、ここで
歩き出すと――又八はぶつぶつ独り
「ああ、ばかばかしいな。他人の殺した死骸から
(ああ嫌だ。ここから見てさえ町中が恋しい)
いつの間にやらまた、お杉婆はだいぶ後に取り残されていた。宿を立つ前から体が
「又八、少し負うてくれぬか。後生だによって、少し負うてくれい」
といった。
又八は、顔を
どこともわからない、たった一声したきりの悲鳴だった。次の悲鳴がしたら声の方角も的確に知れよう。――それを待つもののように、又八も婆も、じっと
「……あっ?」
突然、お杉婆がこういったのは、その不審な悲鳴がまた聞えたのではなく、なに思ったか、又八が不意に、崖の角につかまって、そこから谷へ降りて行こうとする様子を見たからであった。
「ど、どこへ行くのじゃ」
あわてて、
「この下の沢だ」
もう崖道へ身を沈めかけながら又八がいう。
「おふくろ、ちょっと、そこに待っていてくれ。――見て来るから」
「
お杉婆は、つい、いつもの口癖を出して、
「なにを捜しに行くのじゃ、なにを? ……」
「なにをッて、今、聞えたじゃねえか、女の悲鳴が」
「そんなもの尋ねてどうする気かよ。――あれっ、阿呆、
上から婆が
「ばっ、ばか者っ」
と月へ
「――待ってろようっ、そこで」
下から呶鳴ったが、その声がお杉には届いて行かないほど、彼の降りて来た崖は深かった。
「はてな?」
又八はすこし後悔した。たしかにさっきの悲鳴はこの沢の辺りのように思われたが、もし違っていると、無駄骨を折ることになる。
――しかし月の光も届かないほどなこの沢も、よく眼を働かしてみると小道がある。山といっても元よりこの辺りの山なのでそう深かろうはずはない。それに京都から志賀の坂本や大津へ通う近道でもあるので、どこへ降りても
さらさらと小さな滝や瀬になって落ちてゆく水に
「……女だ?」
又八は、岩の蔭にかくれた。さっきの悲鳴も、女のであればこそ彼は猟奇な興奮に駆られたのである。男の声であったら最初からこんな沢へ降りては来ないだろう。――それが今、その正体を
――何をしているのか?
と最初は疑っていたが、見ていると、疑いはすぐ解けた。女は、流れのそばへ這い寄って、白い
びくっと、女は鋭感に
「――おやっ?」
又八が、声を放つと、
「あっ?」
女も同じように驚いていった。しかしそれは、恐怖から救われたような声だった。
「
「……あ、あ」
そこの谷川で飲んだ水が、やっと今、胸へ下がったように、朱実は大きく息をついた。
けれどまだ何処かおどおどしているその肩をつかまえて、
「どうしたんだ朱実」
又八は、彼女の脚から顔を見上げて、
「おめえも、旅支度だな、旅へ立つにしても、こんな所を今頃――なにしに歩いているのだ」
「又八さん。あなたのおっ母さんは?」
「おふくろか、おふくろは、この谷間の上に待たせてある」
「怒っていたでしょう」
「あ、路銀のことか」
「わたしは急に、旅立ちしなければならなくなったのです。けれど、
さめざめと泣き声の裡に、朱実が謝るのを、又八はむしろ意外な顔して、
「おい、おい。なにをそう謝るのだ。……アア分った。俺とおふくろが二人して、おめえを捕まえるために、ここへ追いかけて来たと勘違いしているんじゃねえか」
「でも、わたしは、出来心にしろ
「それやあ、俺のおふくろの云い草だ。俺にとれば、あれぐらいな金、おめえが真実困っているならこっちからやりたいくらいだ。なんとも思っちゃいねえから、そんな心配はしないがいい。――それよりはなんのために、急に旅支度して、こんな所を今頃歩いているのか」
「
「フーム、すると、武蔵と吉岡勢との、きょうの果し合いの一件だな」
「……ええ」
「それで急に、一乗寺村へ行くつもりでやって来たのか」
「…………」
朱実は答えなかった。
一つ家に暮していた頃から、朱実が胸に
「そうそう」
急に言葉を変えて、
「今し方、この辺で、キャーッという悲鳴が聞えたが、あれはもしや、おめえの声ではなかったか」
と、この沢へ降りて来た目的に返って、そう訊くと、
「エ。わたしでした」
朱実はうなずいた。
そしてまだなにか、恐怖の夢でも見ているように、この沢の
そこでその事実を、彼女自身が話すところによると、こうである。
――つい今し方のこと。
彼女が、この沢の渓流を越え、そしてここからも見える眼の前の――
真面目には聞かれない話のようだが、朱実は真面目になって、
「遠くから見たんですけれど、体は
と、いう。
いかにも恐かったように、朱実がそう話すので、又八は、笑うまいとしながらもつい、
「ハハハハ。なアんだ」
と、
「伊吹山のふもとで育ったおめえが、
「でも、あの頃は、恐いこともなにも知らなかった子供ですもの」
「まんざら子供でもなかったらしいぜ。その頃のことを、いまだに胸に想って、忘れ切れずにいるのを見ても」
「それやあ、初めて知った恋ですもの。……だけどもう、私はあの人を、
「じゃあなぜ、一乗寺村へなど出かけて行くのか」
「そこの気持が自分にも分らないんです。ただ、ひょっとしたら武蔵様に会えやしないかと思って」
「無駄なこった」
ひどくそこで、又八は言葉に力をこめ、万に一つも勝目のない武蔵の立場と、相手方の情勢とをいって聞かせた。
すでに清十郎から小次郎と――幾人かの男性を通って、
だから彼女は、又八から、武蔵が今刻々、死の危機へ近づいている様子を
「…………」
行くての方角を失ったような眸をして、朱実は、又八のことばを、夢うつつに聞いていた。又八は、その横顔を黙って見ていた。――なにかしら彼女の
(この女は道づれを捜している――)
そう見える白い横顔だった。
又八は、ふいに、彼女の肩を抱えた。そして顔を押しつけるようにして、
「朱実。江戸へ逃げないか……」
と、
朱実は、息をのんだ。
疑うように、又八の眼をじっと見つめ、
「え。……江戸へ?」
ふと、自分に返って、現実の境遇を見直すように反問した。
彼女の肩へ廻している手に、又八はそっと力をこめて、
「なにも江戸表とは限らないが、人の噂に聞けば、関東の江戸表こそこれからの日本の
囁かれている彼女の顔がだんだん熱心に聞いていた。又八はなお口を極めて、世の中の広さや、自分たちの若い
「面白く暮すんだ、したいことをして送るんだ。それでなけれや生れた甲斐はない。もっと俺たちは図太い肚を持とうじゃねえか。線の太い世渡りをしなけりゃあ嘘だ。
「…………」
朱実は心を動かされた。よもぎの寮という家から離れ離れに世間へ巣立って、自分はその世間に
けれど、彼女の頭のどこかに、まだ捨て難い幻影がちらちらしていた、それは武蔵の影であった。焼けた家の焼け跡へ行って灰でも眺めてみたいとする――愚かな執着にそれは似ていた。
「嫌か」
「…………」
黙って、朱実はかぶりを振った。
「じゃあ、行こう。嫌でなければ――」
「だけど、又八さん、おっ母さんは、どうするつもり?」
「ア。おふくろか」
又八は、
「おふくろは、武蔵の
意気込んで、先へ歩いて見せると、朱実はまだなにか
「又八さん、ほかの道を行きましょう、その道は」
と、
「なぜ」
「でも、その道を登って行くとまた、あの山の肩に」
「アハハハ。口が耳まで裂けている
――駈け上がって行く二つの影が岩山の中腹ふかく隠れ去った頃、待ちくたびれたお杉婆の声が谷間の上で、
「せがれようっ……又八ようっ……」
空しく
チチ、チチ、チチ……
前に
「わしだぞ。立会人の小次郎なるぞ」
こう断りながら、大息を
跫音に、
「や、小次郎殿か」
四方に
「まだ見えませぬかの、武蔵
「いや、出会った」
と、小次郎は語尾を上げ、その言葉に衝かれ、さっと自分へあつまる視線のひらめきを冷たく見廻しつつ、
「出会ったが、武蔵の奴、どう思ったか、高野川から五、六町ほど連れ立って歩くうちに、不意に姿を消してしもうたのです」
いいも終らず、
「さては、逃げたなっ」
これは御池十郎左衛門だった。
「いや!」
と、その
「落着き澄ました彼の
「奇策。――奇策とは?」
無数の顔が、彼を囲んで、彼の一言半句も聞き洩らすまいとするように
「おおかた武蔵の助太刀のものたちが、どこかに
「ウウウム。……それはありそうなことじゃ」
源左老人が
「しからば、ここへ来るのも、もう間はないな」
十郎左衛門は、そういうと、持ち場を離れたり、樹の上から降りて集まって来た味方へ、
「戻れ戻れ。備えを崩しているところへ、武蔵方が不意に虚を衝いて来ようものなら、出鼻に不覚を取ってしまう。どれほどの助太刀を
「そうだ」
めいめいも、気づいて、
「待ちくたびれて、心に
「部署につけ」
「おう、抜かるな」
いい交わしながらばらばらと分れて、再び、藪の中や樹蔭や、また、飛道具を携えて
小次郎はふと、下り松の根方に、
「眠いか」
と訊いた。
源次郎は強く、
「ううん」
首で否定して見せた。
その
「では寒いのか、唇の色が紫いろしているではないか。
と、いい捨ててそこを立ち去った。
――一方、思い合せると、ちょうどその時刻。
志賀山と
(ちと遅くなった!)
と、その遅刻した差を取り戻そうとするかのように、急に脚を早め出していた。
下り松での出会は、
(お、北山
武蔵は、脚を止めた。そして自分の今踏んでいる山道のすぐ真下に見える
(近い!)
と感じた。
そこから下り松の辻まではもう七、八町しかない。北野の裏町から歩き出した距離も遂にここまでちぢまった。この間に月も彼とともに歩いていた。山の端にかくれたのか朝の月影はもう見えなかった。――しかし、三十六峰の
その偉大なる日課のまっ先に、もう幾つか呼吸する間に、自分の死が、一片の雲よりも淡く、その気象の中から消されてゆくのか――と武蔵は雲を仰いで思う。
雲の抱く
(よく死のう!)
と、武蔵はここまで来た。
(いかによく死ぬか?)
に彼の最大の最後の目的はあるのだった。
――ふと水音が耳につく。
一気に、ここまで脚を早めて来たので、彼は
(おれの精神は
ということをそれでも知った。そして直前の死そのものへ対して、少しも卑屈を感じない自己をすずやかに思った。今こそ、自分の
――だが、足を止めて、一息つくとすぐ、なにかしら後ろで自分を呼ぶものがあった。お通の声である。また、城太郎の声である。
(元より気のせいだ)
そう彼は知っている。
(取り乱して、後を追って来るような女ではない。わかり過ぎるほど、自分の心もわかっている女だけに――)
ということも彼は知っている。
けれどそのお通が後ろから声をふり絞って来るような気持が、なんとしても頭から払えなかった。
ここまで駈けて来る間にも、ともすると振向いてみた。今も、足を止めるとすぐ、意識のうちに、
(もしや?)
と、耳はそれへ傾いてしまう。
時刻に遅れることは、約束を
外敵はこれを粉砕するも
(くそっ、こんなことで)
と、心に
(
お通のことなど、
さっき
(男が男の使命に向って、挺身する時は、恋など、頭の隅にもおいていないのだ――)と。
そういいつつ今、果たして自分の頭の中から、お通のことは捨て切っているのだろうか?
(なんたる未練だっ)
心の中から、お通の幻影を蹴とばして、そしてそれから
――と、眼の下の大竹藪からさらにずっと山裾へかけて
「おっ!」
すでに近い。――一乗寺
――はっと、彼は地へ膝をついた。
岩の蔭、樹の蔭と、
(ウム、いるな!)
そこからはさらに近々と、辻にかたまっている人影までが
どうっ――と
霧の下り松は、その傘枝を震わせて、なにか予感を、天地へ告げているようだった。
眼に見えた敵の数はわずかであるが、武蔵は、満山満地がみな敵の居場所に感じられた。すでに死界の中に来ている肌心地だった。手の甲まで鳥肌になっていた。呼吸はおそろしく深く静かに、足の指の爪までがもう戦闘しているのである。ジリジリと、一歩一歩にすすむ足の指が、
――すぐ眼の前に、古い
見ると、麓の下り松のほうへむかって、石の鳥居がある。周囲は喬木と防風林でかこまれていた。
「オ。……お
彼は、拝殿の前へ駈けて行くなりそこへひざまずいた。何神社とも思わず無意識にべたと両手をついていた。折も折、心魂のおののきを彼も禁じ得なかった。――真っ暗な拝殿のうちに、一
「――八大神社」
彼は、拝殿の額を仰いで、大きな力を味方にもったような気がした。
「そうだ!」
ここから真下の敵へ
彼は、
手ばやく
――手をかけて。
(いや! 待て)
と武蔵は、手を離した。
(
といわないばかりな。
しかし、武蔵は自分の胸に、
(自分は今、ここへ、なにを願おうとしたのか)
をたずねてみて、はっと、手を
(もう宇宙と同心同体になっているはずの自分ではないか!)
と思う。
(ここへ来るまでに――いや常々から、
と、われを叱る。
それが今、計らずも、
さむらいの味方は他力ではない。死こそ常々の味方である。いつでもすずやかに、きれいに
(
と、悔いを心に噛み、
(――自分では、
お通には泣かなかった涙を、武蔵は
(――無意識であったのだ、
叱っても叱っても、叱りきれない
(愚鈍め)
すでに
だが――武蔵はまた卒然と、
「有難いっ」とも思った。
真実、神を感じた。まだ幸いにも、戦いには入っていない。一歩前だ。悔いは同時に改め得ることだった。それを知らしめてくれたものこそ神だとおもう。
彼は、神を信じる。しかし、「さむらいの道」には、たのむ神などというものはない。神をも超えた絶対の道だと思う。さむらいのいただく神とは、神を
「…………」
武蔵は、一歩
そしてすぐ、八大神社の境内から、細い
のめるような
武蔵が、一気に駈け下りてゆくと、石ころや土が、彼の
「あっ」
なにものかが目に触れたのであろう、武蔵は突然、体を
草はまだ朝露を一滴もこぼしていない。膝も胸も水びたしになってしまう。かがみ込んだ
――武蔵は見た。
樹の上に
しかもその男は飛道具を持っているらしい。それも半弓ではない、鉄砲らしいのだ。
(卑怯な!)
と、
(一人の敵に)
と、
だが、彼の位置からは、下り松の梢だけにしか発見できなかった。飛道具の者が皆、樹の上に
しかし、たった一つ武蔵にとって有利だったのは、樹の上の男も、樹の下の一かたまりも、みなこっちに背を向けていることだった。追分から三方へ道がわかれているだけに、彼らは背後の山を忘れていた。
這うように武蔵は徐々と身をすすめた。刀のこじりの高さよりも頭の方を低くして出て行った。そして
「――あッ」
梢の男が、ふと、その影を発見して、
「武蔵だっ!」
と、叫んだ。
天空からその声が響いたにも
彼は、その秒間だけは、決して
――こう計って、その秒間だけは安全と思っていた。
「なにッ――?」
「どこへっ」
これは、下り松の下を本陣として立ち並んでいた十名ほどの異口同音だった。
次の瞬間には、また、
「後ろだい」
と、
松の細かい葉を通って、火縄の火がチラ――とこぼれた。武蔵の
――みりっと樹の小枝の裂ける響きと、あッと
「――オおっ」
「武蔵っ」
「武蔵だっ」
後ろに眼を持たない人間である限り、この驚きは当然に見えた。
三道それぞれな所に、水も漏らさぬ前衛の備えを固めていただけに、なんの予報もなく、この中核部で、いきなり武蔵の姿を迎えようなどとは、夢想だにもしていなかった吉岡方の
わずか十名に足らないそこの人数ではあったが、不意に大地を
「こ、小橋っ」
「御池っ」
と朋友の名を、無用な高声で呼び合ったり、
「抜かるなっ!」
と自分の心胆さえ定まらないのに他を
「な、な、なにをッ」
「く、くッ! ……」
言葉にならない言葉の切れ端を歯の根から力み出したりして、どうにかぎらぎら抜きつれた刀と槍の幾筋とが、武蔵へ向って半円を備えかけたかと見えた時、当の武蔵は、
「
と、
正しく挨拶されたのも彼らにはまた意外だった。礼儀に対して礼儀を取らない恥は骨身にこたえたらしいが、
「遅いぞッ、武蔵っ」
「
ぐらいなことしかいえなかった。
にも
――びゅっ!
どこかで
武蔵の抜きはなった刀の刃風のようにもそれが聞えて、彼の顔へ向って飛んで来た一本の矢は、同時にパッと二つになって、肩のうしろと刀の切ッ先へきれいに落ちた。
――と見えた視線はもうそこへ置き残され、武蔵の体は髪を逆立てた獅子のように、松の幹に隠れていたそこの蔭のものへ向って一足跳びに躍っていた。
「キャッ。怖いっ!」
立っておれと
その叫びに、父の源左老人が、自分が真二つに割られたような声で、わあーッと
まるで
最初から重大視していた目的物でもあるかのように、武蔵はなにものも
それを
わけても源左老人は、
「――しゃあッ、よくもッ」
顔中から
一尺ほど――武蔵の右足が退がったと思うと、その足につれ体も両手も右へ斜めになり、源次郎少年の首すじを通って返ったばかりの切ッ先がすぐ、
「かッ」
「ウウふっ」
誰の
なぜならば武蔵の後ろから槍を突き出した者が、同時に前へよろめき出し、源左老人と折重なって
「出会えッ」
「此処だっ」
後の六、七名は時々、絶叫をふり
保元、平治の昔から、平家の
――一個の死者と三名の
梢の声――雲の声――
(下り松へ行けっ!)
何者かが、遥かから、声をからして教えていた。
近くの小高い丘の上だ。手頃なところを選んで、そこの岩に腰をかけていた佐々木小次郎が、いつのまにか岩の上に突っ起ち、三道の藪や木蔭に沈んでいる吉岡勢へ向って、
(わういッ、おおういっ。――下り松だっ、下り松へ出会えっ!)
鉄砲の音だった、その時、人々は強い音波に耳を
かたがた小次郎の声も、大勢のうちの誰かには聞えたはずである。
――
「ヤ、ヤ?」
「既にっ」
「追分、追分」
「出し抜かれているぞッ」
道の三方から各

武蔵は今――鉄砲の
――と。いきなり武蔵は、七人の左の端にいた男へ、青眼の剣を向けたままだッと駈け出した。その男はしかも吉岡十剣の中の一人だった小橋
「――あ、あッ」
浮き声をあげて、思わず、片脚立ちに身を
武蔵の背を見て、
「やるなッ」
と、追い
武蔵の
(彼の
と
けれど武蔵の刀は、世の常の術者が振り込むように、一
彼は、師というものにつかなかったために、その修行の上で、損もし苦しみもしたろうが、師を持たないために、益もあった。
それはなにかといえば、既成の流派の形に
例えばこの際――彼が下り松の決闘で御池十郎左衛門を斬った時の刀法などでもしかりで、十郎左衛門はさすがに吉岡の
ところが、武蔵独自の剣はそうでなかった。彼の刀には必ず
わっ……とさけぶ間に、その燕尾の如く刎ね返った切ッ先にあたって、御池十郎左衛門の顔は、破れた
京流吉岡の伝統を負って立つべき十剣のうちの、小橋
物の数には入れるわけにはゆかないが、彼らの
――その時、十郎左衛門を斬った切ッ先の余勢をもって、彼らの乱れた虚につけ入ってゆけば、武蔵はさらに、幾つかの
だが彼はなに思ったか、
逃げるかと思えば、
「くそッ」
残った半数は歯がみをし、
「武蔵ッ」
「
「卑怯ッ」
「勝負はまだだぞ」
と
彼らの眼孔は、皆顔から飛び出しそうに光っていた。
「行ったぞッ」
「逃がすなッ」
そんな叫びを聞き捨てながら、武蔵は、最初の戦端を切った
――当然そこからは今、下り松の変を知って、
二つの勢いは、その
「や。むむ武蔵はッ」
「来ないッ」
「いや、そんなはずはないが」
「でも――」
押問答をしている間に、
「ここだッ」
武蔵がいった。
路傍の岩の蔭からおどり出て、武蔵は、彼らの列が通り越して来た道の中央に立っていた。
――来いッ。といわんばかりな第二の準備が彼のからだにできていた。
人間の腕の長さと刀の長さとを加えて、
――だが、衆の力というものはもとよりそう
一度は武蔵の敏速と、彼の
「ひッ、
腰も踵も、浮いて見えたが、
「
と、衆が衆の力を自覚し、その強味を負って、先頭の二、三名が、
「うぬっ」
「おれが仕止めるっ」
身を
怒濤へ向って泳ごうとするように、武蔵は闘いつつ後へ後へと押されるのみで、敵を斬るより身を防ぐに急だった。
手許へのめり込んで来て、斬れば斬れる敵すら
この場合、二人や三人の敵を斬っても、相手は総体の力からいえば、なんの
吉岡方は、勢いに乗った。
タタタタッ――と武蔵の
「あッ――?」
不意にまた、彼らは眼前の武蔵を見失って、そこの狭い道幅とたった一人の相手には、
――といってもべつに武蔵が、足に風を起して駈けたわけでも、樹の上に跳び上がったわけでもない。ただ、彼がたった一跳び、その道から藪の中へ身を
土のやわらかい孟宗竹の密林だった。青い
「待てッ。武蔵」
「
「背を見せる法やあるっ」
思い思いに、大勢は竹と竹のあいだを駈けた。武蔵はもう藪の
崖の上はゆるい傾斜を持っている
今の人数の三倍に
どこかで駄馬がいなないた。里にも山にも、もう往来はあるはずの時刻。
ことに[#「 ことに」は底本では「ことに」]この辺は、朝の早い法師たちが、叡山から下りて来るし、
そういう僧侶らしい者だの、
「斬合だっ」
「どこで」
「どこで」
人が騒ぎ出すと、里の鶏や馬までが騒ぎ立てた。
八大神社の上にも
――その一瞬の間に武蔵のすがたは見る影もなく変っていた。
「…………」
さすがに、呼吸も全身でつき始めてきた。
小手にも一箇所かすり傷を負っていた。さしたる傷ではないらしいが、
――いや、それよりも
吉岡方の傷負が斃れている位置は、決して一所にまとまっていなかった。
――といっても武蔵の行動には、いつでも一定の原則があった。それは、敵の隊伍の横へ当たらないことだった。努めて敵の展開してくる横隊の正面を避け、その群れの
だから、武蔵の位置からは、敵はいつでも、
しかし、いかに飛鳥の敏速があっても、彼にもたまたま
その時が、武蔵の危機だった。
また、武蔵の全能が、無我無想のうちに、高度な熱と力を発する時だった。
彼の手にはいつか、二つの剣が持たれていた。右手の大刀は血ぬられて柄糸も
だが武蔵は、二刀を持って敵と闘いながらも、まだ二刀を使っているという意識などは全然ないのである。
浪と燕のようなものだ。
浪は燕を
一瞬でも、静止はないが、双方の
「――あッ」
なんとはなく息をひいたり、
「――ウウム」
と、
「…………」
ず、ず、ずーとただ土に
――と、武蔵は。
ほっと、その
左剣は、前へかまえて、いつも敵の
大小二剣の尺と、両腕をいっぱいにひろげた尺とを合わせると、彼の
敵が、正面を嫌って、
(――右)
と
(左!)
と、直感すれば、ぱっと左剣が伸びて、その者を、二つの剣の中へかかえてしまう。
武蔵がそうして前へ突き向けている短い左剣には、磁石のような魔力があった。その先へかかった敵は、ちょうどモチ
けれど、剣法家としての彼は、まだ至って幼稚だったものといってよい。何流だの、何の
それとはあべこべに、吉岡方の十剣の人々を始め、末輩のちょこちょこしている人間まで、皆、京八流の理論は頭につめこんでいて理論だけでは、一家の
――逃げろうっ。
――一人の
――逃げろ、逃げちまえっ。
山がいう。
里の樹々がいう。
また、白い雲がいう。
足を止めた往来の者や、附近の百姓たちが、遥かに、重囲の中の武蔵を見て、その危なさに気を
たとえ地軸が裂け、
彼の身は、彼の心力だけにうごいている。眼に見える彼の体は、仮の
おそろしい心力が、身をもたましいをも、まったく焼き尽くしていた。武蔵は今や、肉体ではなくて、燃え
――と、突然!
わあっッと、三十六峰がいちどに
――た、た、た、たッ。
武蔵が、不意に、山裾から里へ向って、
もちろん。
七十名からの吉岡勢は、それに手を
「それッ!」
真っ黒になって、武蔵へ追いすがり、追いつきざま、五、六名が、
「――かっッ」
「今になって!」
組まんとするばかり
「ちいイッ」
右刀で、彼らの
「こんな奴ッ」
上から撲り落してきた槍を、カーン、宙へ
「――ちッ、ちッ、ちいっ」
右剣左剣、右剣左剣――とこもごもに火となり水と走って、食いしばっている武蔵の歯まで、口を飛び出して噛みついて来そうに見えた。
――わあっ、逃げたっ。
遠い所の
すぐ後から、
「返せッ」
「待てッ」
どうっと、続いて人数の一部がそこを降りたと思うと、そこでまた、思わず耳をおおうような絶鳴が二声ほど走った。崖の下にへばりついていた武蔵が、自分に
――びゅっ。
――ぶすんっ。
麦畑の真ん中へ、二本の槍が飛んできて、土へ深く突っ立った。吉岡方の者が、上から投げつけた槍である。しかし、武蔵の姿は泥の
「里の方だ」
「街道の方へ逃げた」
という声が頻りと多かったが、武蔵は山畑の
やっと、その頃。
「……
……与仏有縁
……仏法僧縁
……
……
……暮念観世音
……念々
……念々不離心」
誰か?
無動寺の奥まった
その独り
墨で洗ったような大床の廻廊を白い
「お客様」
稚児僧は、膳を隅へおいた。
そしてまた、
「……お客様」
膝をついて呼んだが、呼ばれた者は、後ろ向きになったまま背をかがめており、彼の入って来たのも気づかない様子なのであった。
数日前の朝――見るかげもない血まみれな姿して、剣を杖に、ここへ
といえば、もう想像がつこう。
この南嶺から東に
「……お
やっと、知ったように、
「オウ」
武蔵は、背をのばし、振りかえって膳と稚児僧のすがたを見ると、
「おそれいります」
坐り直して、礼儀をした。
その膝には、白い木屑がちらかっていた。細かい木屑は、畳や縁にもこぼれている。
「すぐ召しあがりますか」
「はい、戴きます」
「じゃあ、お給仕申しましょう」
「
「お客様、なにを
「仏様です」
「
「いいえ、観音様を彫ろうとしているのです。けれど、
手をだして、指の傷を見せると、稚児僧はその指よりも、武蔵の袖口から見える
「脚や腕のお
「……ア。その方も、お蔭でだいぶよくなりました。御住持にも、どうかお礼をいっておいてください」
「観音様をお彫りになるなら、中堂へ参りますと、誰とかいう名人の彫ったという作のよい観音様がありますよ。御飯がすんだら、それを見に行きませんか」
「それはぜひ見ておきたいが、中堂まで、道はどれほどあろうかな」
「ハイ。ここから中堂までの道は、わずか十町ほどしかございません」
「そんなに近いのか」
そこで武蔵は、食事が終ると、そのお小僧に
もうすっかりよくなったつもりでも、土を踏んで歩いてみると、左の脚の
けれど、
「お客様」
と、稚児僧は、その頭を見あげ――
「あなた様は、兵法の修行者でいらっしゃいましょう」
「そうだ」
「なんで観音様なんか彫っているんですか」
「…………」
「お仏像を彫ることを習うよりも、その暇に、なぜ、剣の勉強をなさらないのです?」
童心の間いは時によると、
――武蔵は、脚と腕の
下り松の根元で、闘いに入ろうとするや否、真っ先に斬り捨てたあの源次郎少年と――ちょうど年ばえも体の大きさも似て見える。
あの日。
幾人の
武蔵は、今も、思い出すことができない。――どう斬ったか、どうあの死地を脱したのか、それもきれぎれにしか、記憶がない。
ただあれから後、眠りについても、ちらついてくるのは――下り松の下で、敵方の名目人である源次郎少年が、
(――怖いっ)
と、一声さけんだのと、松の皮といっしょに斬られて大地へころがった、あのいたいけな可憐な
(
という信念があったればこそ、武蔵は断じて真っ先に斬ったのであるが――斬ってそしてこうして生きている後の彼自身は、
(なぜ、斬ったか)
と、そぞろに悔い、
(あれまでにしないでも)
と、自分の苛烈な仕方が、自分でさえ憎まれてならない。
われ事において、後悔せず
旅日誌の端に、彼はかつて、自分でこう書いて心の誓いに立てていた。――けれど源次郎少年のことだけは、いくらその時の信念をよび返して心に持ってみても、ほろ苦く、うら悲しく、心が
(いっそ、
とさえ思った。
殊に、この
手脚の傷の
「――お小僧」
武蔵はやっと、答える言葉を見つけ出していった。
「じゃあ、
「そうですね」
稚児僧は首をかしげて、
「そういえば、お坊さんでも、絵をかいたり、彫刻をしたりするんですね」
と、
「だから、剣者が彫刻をするのは、剣のこころを

「…………」
理に落ちかけると、お小僧はおもしろくなくなったとみえ、小走りに先へ駈けて、草むらの中の一
「お客様、ここにある
と、案内役の方に移る。
近づいて、
末の世を
おもへばさむし
俗生を救うためにある霊山が、人を救うどころか、却って俗生の人に飼われて、からくも
「サ、参りましょう」
先をうながして、お小僧が歩みかけると後ろから手をあげて、呼ぶ者があった。
無動寺の
ふり
「オイ
「中堂まで行こうと思って」
「なにしに」
「お客様が、毎日観音様を彫っているでしょう。ところが、巧くほれないと仰っしゃるもんだから、それなら中堂に、むかしの名匠が作ったという観音様があるから、それを見にゆきませんかといって――」
「では、きょうでなくても、いいわけだの」
「さ、それは知らないが」
武蔵へ
「御用もあろうに、無断でお小僧を
「いいえ、呼びにまいりましたのはこの稚児僧ではなく、あなた様におさしつかえなければ、戻っていただきたいと思いまして」
「なに、拙者に?」
「はい、折角、お出ましになった途中を、なんとも恐れ入りますが」
「誰か、拙者を訪ねて来た者でもあるのでござるか」
「――一応は、留守と申しましたが、いや今ついそこで見かけた、どうでも会わねばならぬから、呼び戻して来いというて、
――はて誰だろうか、武蔵は小首をかしげながらともかくも歩み出した。
山法師の横暴ぶりは、政権や武家社会からは、完全に追われていたが、
雀百までの
それが一かたまり、ざっと十名ほど、無動寺の門前で、待ちかまえていた。
「……来た」
「あれか」
耳打ちし合いながら、
(何用だろうか?)
迎えに来た者が知らないのであるから、武蔵には元よりわかっていない。
ただ東塔山王院の堂衆だということだけは途中で聞いた。しかしその堂衆のうちに、一人として
「大儀じゃった。おぬしらに用はない。門内へ
ひとりの大法師が、
そして武蔵へ向い、
「そこもとが宮本武蔵か」
と、訊ねた。
先が礼を
「されば」
と、
すると、その後ろから、ずいと一足進み出した老法師が、
「中堂
と奉書でも読むような口調でいった。
「――叡山は浄地たり、霊域たり、怨恨を負うて逃避するものの潜伏をゆるさず。いわんや、不逞闘争の
「……?」
武蔵は、
なぜだろう。不審なわけだと思う。初めこの無動寺へたどりついて、身がらを依頼した折に、無動寺では念のため、中堂の役寮へ届けを出して、
(さし
という許可をうけ、その上で、自分の滞在を許してくれたのであった。
それを急に、罪人でも追うように追い立てるには、なにか、理由がなくてはならない。
「仰せの
武蔵は一応、そうおとなしく受けておいて、
「――しかし、これはなにか、
突っ込むと、
「おう、そう訊くならばいってつかわそう。役寮においては最初、下り松にて吉岡方の大勢をただ一名で相手にしたさむらいと、おてまえに、
「……悪評」
武蔵は、さもあろうことのように
ここで、そんな噂をまた聞きした人々と、なにをかいい争おう。
武蔵は冷やかにもういちど、
「わかりました。否やもござらぬゆえ、明朝は、必ず立ち
答え放して、門内へはいろうとすると、その背へ、
「見よ!
「
「馬鹿ッ」
「なんじゃと」
「聞えたか」
こういったのは今、武蔵のうしろから、外道と呶鳴った法師だった。武蔵は心外そうに、
「役寮の命とあるゆえ、神妙に仰せごとを受け申しておるに、口ぎたない
「み仏に仕えるわれわれ、喧嘩など売る気はみじんもないが、おのずから
すると、他の法師も、
「天の声だ」
「人をもっていわしめたのだ」
加勢するように、
この山の法師といえば、舌長いことでは古来から有名である。堂衆というのはいわゆる学寮の生徒である。生意気ざかり、知識自慢、頭でっかちの
「なんじゃ、里のうわさが大きいので、然るべき侍かと思うたが、こう見たところ、つまらぬ奴じゃ、腹でも立てて来ることか、
黙っていればいるで、なお、毒舌をふるうので、武蔵もやや色を
「人をしていわしめるといわれたな。天の声といわれたな」
「そうだ」
「それは、なんの意味か」
「わからんのか。山門の衆判をいい渡されても、まだ気がつかんのか」
「……分らぬ」
「そうか。いや
「…………」
「武蔵。……そこ
「世評など、なにものでもござらぬ――いわしておけばいいのだ」
「ふふん、なにやら、自分が正しそうなことを」
「正しい! おれは
「待て。そうはいわさん」
「どこに武蔵の卑屈があったか。卑怯未練をしたというか。剣に誓う、おれの戦いには、微塵も
「
「ほかのことなら、聞き流しもするが、拙者の剣にかかわって、あらぬ
「然らば、いおうか。この問いに対して明答できるものなら答えてみい。――なるほど、吉岡方は目にも余る大勢であった。敢然、一人であたって戦いぬいたそこ
「…………」
武蔵の
「二代目清十郎は、片輪となって遁世し、舎弟伝七郎も、汝の手にかかって果て、後に残る血筋といえば……あの幼少源次郎しかないのだぞ。源次郎を斬ったのは、吉岡家に断絶を与えたも同様なのだ。……いかに武道の上とはいえ、血も涙もない仕方ではあるまいか。外道、
じっと、さし
「山門の憎しみもそのいきさつが知れて来たためじゃ、ほかのいかなる事情を
あらゆる
「…………」
甘んじて、武蔵は、その
――が、しかし、それに対して答えがなかったのではない。
(おれは正しい! おれの信念はちがっていない! あの場合、ただ、あれ以上に出るしかおれの信念を徹する仕方はなかったのだ)
彼は、心のうちで、いいわけでは決してない――今もこの信条は取ってうごかないのである。
では、なぜ源次郎少年を斬ったのか。
それに対して、彼は自分の胸のうちでは、明らかにいい切れる。
(敵の名目人とあるからには、それは敵の大将である。三軍の
なぜ、それを切って悪いか。また、こういう理由もある。
(敵は、七十人からの人数であった。いかに、自分が
もっと、もっと、彼をしていわしめるならば、剣の絶対的な法則とその性質からでも、理由はなお
けれど武蔵は、堂衆たちの
なぜなら、それほどの理由をかたく信念しても、他人でない彼自身の胸のうちに何ともいえない寝ざめの悪さ――
「……ああ、修行なんて、もう止めようか?」
うつろな眼をあげて、武蔵はなお、門前に立ちつくしていた。
暮れかかって来る夕風夕空の中に、白い山ざくらは散りまよっている。きょうまでの一心不乱も、その花びらのように
「……そして、お
彼はふと、町人の気楽さを思いうかべた。光悦や
(いや! ……)
大股に、彼は、無動寺の中へ姿をかくした。
部屋にはもう明りがともっていた。ここも今夜かぎりに去らねばならない。
(巧拙は問うところでない、供養の心もちが、
武蔵は、
そして彫りかけの観音像を膝の上に抑え、
――と、戸締りもない無動寺の大廊下へ、そっと這いあがって、のろまな猫のように、部屋の外にかがみこんだ者があった。
すぐ、武蔵はまたかがみ込んで、
宵のうちすでに、山は、深沈とふかい
武蔵はまったく彫刀の先に没しきっていた。彼の性情はなにへ対しても、一度それに向うと直ちに没頭しきってしまう。今――
「…………」
口のうちで唱えていた観音経の声が、我を忘れて次第に大きな声になってゆく、気がつくと急に声を落し、また、
「……ウム、どうやら」
背を伸ばした時は、東塔の
「そうだ、挨拶もせねばならぬし、この像も、今宵のうちに、住持におねがいしておこう」
ざっとした
で。――彼は彫り上げたそれを持って、やがて部屋を出て行った。
彼が去ると間もなく、入れ違いに
――すると、誰もいないはずのそこの障子が、その後で、ズズズと静かに、すこし開いて、また閉った。
やがてのこと――
武蔵はなにも知らず帰って来たのである。住持から受けて来たらしい
戸閉りはしないので、風はじかに四方にあたる。外の星明りに障子は
……かすかな
眠りのふかくなるほど、寝息も長く数えられた。と――隅の
ふと、武蔵の寝息が
――突然! ふわりっと、黒い真綿でもかぶさるように、武蔵の上へその人影がのしかかったのである――と見えたかと思うや否や、
「うっ、うぬっ。思い知れやっ!」
いきなり――脇差の切ッ先であった。寝首の
すると、その切ッ先の行方も分らぬほど――だあんッ――と横手の障子に、その人間は飛んで行った。
重い風呂敷づつみのように投げつけられた人間は、ひッと一声
投げつけたせつな、武蔵はその
だが、彼はそれには一顧もしないですぐ枕元の太刀をかかえ、
「待てっ」
と縁を飛び降り、
「折角の訪れ、ご挨拶を申すであろう。お返しなされ」
いいざま、大股に駈けて、闇の跫音を追いかけた。
しかし本気で追う気ではないらしく、乱れあって
投げつけられた
「……アッ。おばばではないか」
武蔵は抱き起こしてみた。
自分の寝首を狙いに来た首謀者が、吉岡の遺弟でも、この山の堂衆でもなく、老いさらぼうた同郷の友の母であったことは、彼にも意外であったとみえる。
「ああ、これで解けた。中堂へ訴え出て、わしの
「……ウウム、くるしい、武蔵、もうこうなる上は、ぜひもない。本位田家の武運がないのじゃ。ばばの首を討て」
苦悶しながら、お杉はやっとそれだけいった。
しきりと
その上、下り松へ行く途中、ああして又八から棄てられてしまったことも、さすがに老いの心へ大きな
「――殺せっ、この上は、ばばの首を斬れ」
と今、彼女がもがいていうのもそういう心理や肉体の衰えを考えてやると、あながち弱者のさけぶ捨てばちな狂言ではなく、真実、事ここにいたったと知って(もうこれまで)という観念のもとに、いっそ早く死にたいと願って、正直に
だが武蔵は、
「おばば、痛いのか。……どこが痛い? ……わしがついているゆえ案じぬがよいぞ」
両の腕に、軽々と、彼女のからだを乗せ、自分の寝床の中へ運んで、その枕元に坐り、夜の明けるまで、看護していた。
夜が白みかけるとすぐ、お小僧が頼んでおいた弁当をつつんで持ってきてくれた。――しかし方丈からは、
「お
という催促。
もとより武蔵もそのつもりなのである。すぐ旅装して立ちかけたが、さて困ったのは病人の
これを寺に計ると、寺でも、そんな者を残されて行っては迷惑といったような顔つきで、
「では、こうなされては
便宜をとってくれた。
大津の
「……ウウム……ウウム」
その婆を乗せた
「おばば」
武蔵は、慰めていう。
「苦しければ少し休もうか。――おたがいに急ぐ旅ではないからな」
「…………」
牛の背に
で――武蔵が優しく
(なんの、
と、
けれど、まるで自分を呪うために長生きしているかのようなこの老婆に対して、なぜか武蔵はそれほど強い憎しみも
力と力との対立では、余りに弱過ぎる敵であるせいもあろうが、その実、きょうまでの間に、
では、まったく、眼中にないのかといえば、故郷ではひどい目に遭わされているし、清水寺の境内では、群衆の中で、
(おのれ、どうしてやろう)
と、八つ裂きにしてもあき足らないほど、憎くも思い、
(悪婆!)
と、怒りにまかせて、この細ッこい
それに今度は、お杉婆そのものもまた、いつになく元気がない、ゆうべの
「おばば――牛の背も辛かろうが、大津まで行けば何とか思案がつこうで、も少しの辛抱。……朝から弁当も食べていないが、腹は
この峰づたいの天井から
「休もう。――おばばも牛の背から降りて、すこし、この草の上に体を横にしてはどうか」
武蔵は、牛の手綱を、樹につないで、お杉婆を抱いて下ろした。
「ア痛、ア痛」
お杉婆は顔をしかめ、武蔵の手を拒んで、草の上に
皮膚は土色に、髪はそそけ立ち、このまま、ほっておけば絶え入りそうな重態にも見える。
「おばば、水は欲しゅうないか。……なんぞ、食べ物でも少し口へ入れてみる気はないか」
武蔵はしきりと案じて、その背を撫でてやりながら訊ねたが、強情な婆は、
「弱ったのう」
武蔵は途方に暮れ――
「ゆうべから、水一滴口に入れず、薬をやりたいとは思うが人家もなし……疲れてしまうばかりじゃないか。……おばば、せめて、わしの弁当を半分ほどでも食べてくれぬか」
「けがらわしい」
「なに。
「たとえ、野末に行き倒れて、烏や
背を撫でている武蔵の手を、自分の背から
「ウム」
武蔵は、腹が立たなかった。むしろ婆の気持に共感ができるのである。この婆の抱いている根本的な誤解さえ除くならば、自分の気持も婆によく分ってもらえるであろうにと、それだけがただ嘆息されるのであった。
自分の母の
「でも、おばば、このまま死んでしまっては、つまらないじゃないか。又八の出世も見なければ……」
「な、なにをいう!」
噛みつきそうに、婆は歯を
「そ、そのようなこと、おぬしの世話にならいでも、又八は又八でいまに一人前になって行くわ」
「……それはなって行くだろうと
「武蔵! ……
とりつく島もない血相なのだ。たとえ好意にせよ、これ以上はかえって逆らうことになってしまおう。武蔵は、黙然と立って、婆と
すると、婆のそばで、話し声が聞える。
岩の蔭から振向いてみると、通りかかった里の女房であろう、
「なあ、お婆さんよ、わしの家にも、この間から病人が泊っていての、もうだいぶ
女の話が、高声にひびく。
婆は顔をあげて、
「ほ、牝牛の乳が、
と、武蔵に向ける時とはちがう
「有難うよ、おばあさん」
牝牛の腹の下から女は這い出した。
「ア。――待たしゃれ」
お杉婆は、呼び止めた。ひどく
そして辺りを見廻した。武蔵のすがたが見えないので、婆は安心したもののように、
「
お
「…………」
胃に満ちるまで飲んでから、婆は、ぶるっと身をふるわせ、すぐ吐きそうに顔をしかめた。
「……ああ、なにやら不気味な味よの。したが、これでわしも、達者になれるかも知れぬ」
「おばあさんも、どこか体がお悪いのかえ」
「なあに、大したことはない。風邪熱のあったところを少し手ひどく転んでの」
いいながらお杉婆はひとりで起ち上がっていた。牛の背に乗せられて、ウンウン
「
声をひそめて、寄り添いながら、もいちど鋭い眼を、武蔵のために配って、
「この山道を、真っすぐに行ったら、どこへ出るのじゃ」
「三井寺の上に出るがな」
「三井寺といえば、大津じゃの……。そこより
「ないこともないが、おばあさんは一体、どこへ行きなさるのじゃ」
「どこへでもかまわぬ。わしはただ、わしを捕まえて離さぬ悪者の手から逃げたいのじゃよ」
「四、五町ほど先へ行ったら、北へ降りる小道があるで、そこをかまわず降りて行けば、大津と坂本の間へ出るがな」
「そうか……」
と、婆はそわそわして、
「では、誰か後から追いかけて来て、お
いい捨てると、婆は、
「…………」
武蔵は見ていた。苦笑しながら岩蔭を起ってしずかに歩き出した。
だが武蔵は、そのことには触れないで、
「おかみさん、おまえの家は、この辺のお百姓か、それとも
「わしの家かえ? わしの家は、この先の峠にある茶店だが」
「峠茶屋か」
「ヘエ」
「ならば、なおのこと、都合がよい。おまえに駄賃をやるが、
「行ってもよいが、家に病人のお客人がいるでの」
「その乳は、わしが届けてやった上、おまえの家で、返事を待っているとしよう。ここからすぐ行ってくれれば、陽のあるうちに帰って来られよう」
「それやあ造作もねえこったが……」
「案じるな。わしは、悪者でもなんでもない、今の婆どのも、あの元気で走れるようなら心配ないから
武蔵は、矢立の筆を抜いて、すぐ手紙を
お通へ――である。
無動寺にいた幾日かのあいだにも、折あらば――と機を心がけていた彼女への便りを、
「では、頼むぞ」
と今、女に渡し、自分の牛の背にまたがって、そこから半里ほどを悠々と牛の歩みにまかせて歩いた。
ほんの走り書きの一筆であったが、使いに持たせてやった自分の手紙の中の文言を思い
「二度と、会えようとは思わなかったが」
と、呟いた。
彼の
生々と夏を待つ地上の何物よりも、晩春の
「……この間のあの容態では、まだ病床にいるかもしれない。でも、わしのあの手紙が届いたら、すぐ起きて、城太郎とふたりして追いついて来るだろう」
牝牛は時々、草を
楽しいことだけしか考えられない今の武蔵であったが、ふと、
「おばばは? ……」
と、谷間を見渡し――
「一人でまた、仆れたまま苦しんでいるのじゃないか?」
などと心配してみたりする。――それもこれも、今なればこそある余裕だった。
もし人に見られたら恥かしいと思ったが、お通へやった手紙の中に、彼はこういう意味のことを書いたのである。
花田橋のときは、そなたが待った
こたびは、わたしがそなたを待とう
ひと足先に、大津へ出、瀬田の
唐橋に牛をつないでいる
くさぐさの話、その節
彼は、そう書いた自分の文言を詩のように、口のうちで幾たびも暗誦し、さて――くさぐさの話のたねまで今から胸に描いている。こたびは、わたしがそなたを待とう
ひと足先に、大津へ出、瀬田の
唐橋に牛をつないでいる
くさぐさの話、その節
峠の背に、旗亭が見えた。
「……あれだな」
と思う。
近づいて、彼は牛の背から降りた。手にはここの女房からの届け物である乳の入っている
「ゆるせ」
軒先の
武蔵は、その老婆に向い、ここの女房に逢って、途中から使いを頼んだ仔細を告げた。そして乳の瓶をも渡そうとすると、
「へえ、へえ」
とばかり聞いていた老婆は、耳が遠いのか、その瓶を持たされると、
「これはなんでござりまするか」
と、
武蔵が、これは自分の曳いている牝牛の乳で、ここの女房が病人の客とやらへ飲ませたいためにこれへ
「ほう? ……乳でござりまするか……ほう?」
まだ分ったやら分らないような顔つきして、両手に瓶を支えていたが、やがて、処置に窮したように、
「――お客さあっ、奥のお客さあっ、ちょっくら来ておくんなされや。わしにゃあ、どうしてええか分らんがな」
狭い小屋の奥をのぞいて、唐突にどなった。
老婆に呼びたてられた奥の客なる者は、奥にはいなかった。
「――おう」
と、返事の聞えたのは裏口のほうで、やがてのそっと、一人の男が、茶店の横から顔を出して、
「なんだい、婆さん」
と、いった。
老婆はすぐ乳の
放心した人間のように、眼を武蔵の頬へ射向けているのだった。武蔵もまた
「……お、おうっ」
どっちからともなくこう
そして顔と顔とを接し合って、
「又八じゃないかっ!」
武蔵がさけんだ。
その男は、本位田又八だったのである。
変らない昔の友の声に耳を打たれると、又八もわれを忘れて、
「――やっ。
と、彼もむかしの呼び慣れた名をもって呶鳴った。武蔵が手を伸ばすと、又八も、うつつに抱えていた乳の瓶を思わず手から落して抱きついた。
瓶は砕けて、白い液が二人の
「ああ! 何年ぶりだろう」
「関ヶ原の
「……すると?」
「五年ぶりだ。――おれは今年二十二になったから」
「わしだって、二十二だ」
「そうだ、同い年だったなあ」
抱き合っている友と友を、牝牛の甘い乳の香がつつんでいた。
「偉くなったなあ、武やん。――いや今では、そう呼ばれても自分みたいな気がすまいな。おれも武蔵と呼ぼう。いつぞやの下り松の働き、その前のことども、噂は始終耳にしていた」
「いや、恥かしい。まだまだおれは未熟者だ。世間の奴が、余りにも不出来すぎるのだ。――だが又八、この茶店に泊っているという客は、おぬしのことか」
「ウム……実は江戸表へ行こうと思って都を立ったが、少し、都合があって十日ばかり」
「じゃあ、病人というのは? ……」
「病人」
又八は
「あ――病人というのは、連れの者だ」
「そうか。……なにしろ無事な顔を見てうれしい。いつか、大和路から奈良へゆく途中で、城太郎からおぬしの手紙を受け取ったが」
「…………」
急に、又八は眼を伏せた。
あの時、手紙の中に、
武蔵は、その肩に手をかけた。
ただわけもなく懐かしいのだ。
五年のあいだに生じた彼と自分との人間的な差などは念頭にもなかった。折もよし、ゆっくりと打ち
「又八、連れというのは、誰なのだ」
「いや……べつに、誰というほどの者でもないが、少しその……」
「じゃあ、ちょっと、外へ出ぬか。ここで余り
「ウム、行こう」
又八も、それを望んでいたらしく、すぐ茶店の外へ歩き出した。
「又八、おぬしは今、なにをやって衣食しているのか」
「職業か」
「ウム」
「仕官の口には
「では今日まで、遊んで暮してきたのか」
「そういわれると思い出す……。俺はまったく、あのお甲のやつのために、大事な一歩を
その
「坐ろう」
武蔵は、草にあぐらを組んだ。そして自分に対して、何となく、
「お甲のためだというが――又八、そういう考え方は男の卑劣だぞ。自分の生涯を
「それやあもとより、俺も悪い。……だがどういうのかなあ。俺は自分へ向って来る運命を、かわせないのだ。つい引き摺られてしまうのだ」
「そんなことで今の時代をどうして乗り切るか。たとえ江戸へ出てみても、江戸は今、諸国から腹の
「俺もはやく剣術でも修行すればよかったが」
「なにをいう。まだ二十二じゃないか。なんだってこれからだ。……だが又八、おぬしには剣の修行は人がらでない。学問をせい、そしてよい主君を求めて奉公の
「やるよ……俺も」
草の穂をむしり取って、又八は歯に
同じ山間に生れ、同じ郷士の子に生れ、年も同じなこの友に対して、たった五年の歩みの違いが、彼と自分と、こんなにも大きな差を作っていたかと思うと、堪らないほど、徒食の日が後悔されてくる。
噂だけを聞いて、武蔵にあわないでいたうちは、なんの
「なにを考え込んでいるのだ――。おいっ、
武蔵は、友の肩を打って、叩いてみても手に感じられるような、その軟弱な意思を叱った。
「いいじゃないか、五年道草をくったら、五年遅く生れて来たと思うのだ。だが、考えようによっては、その五年の道草も、実は尊い修行であったかもわかるまいが」
「面目ない」
「……オオ、話に夢中になって忘れていたが、又八、たった今おれは、おぬしの母親とそこで別れたのだぞ」
「えっ、おふくろと、あったのか」
「なぜ、おぬしは、あの母親の強気と我慢を、も少し血の中に貰って生れて来なかったのだ」
この不肖な子を見ていると、武蔵は、あの不幸な母親のお杉婆を、哀れと思わずにいられない。
(なんたるやつだ)
と、
(幼少から母にわかれて、母のない俺のみじめな寂しさを見ろ)
と、いってやりたい。
そもそも。
お杉婆が、あの
(又八が可愛い)
という以外の何ものでもない。その
淡い幼少の夢の中にしか母を知らない武蔵には、痛切にそれが分る。
(――だから、婆の
と、武蔵は今、又八の姿を見ているうちに胸の中で、独り問うて独り答えた。
(この息子が、偉大になってくれればいいのだ。武蔵以上の人間になり、俺を見返して、
そう考えると、彼の又八に抱く友情は彼が
「なあ、又八。おぬしは思わないか」
その真実が、彼のことばを、友情の裡にも荘重にして、
「あんないいおふくろを持って、おぬしはなぜ、あのおふくろに、
又八が、じっと耳を傾けて聞いてくれるので、武蔵も一息にそこまでいって、友の
「又八っ……。そんなことは、おぬしだって、百も承知に違いない。おれは、友達として頼むのだ。同じ郷土で育ったのだ。……なあおいっ、関ヶ原の合戦を望んで、槍を
結び合っている二人の手へ、又八はぼろぼろ涙をこぼした。湯のようにそれは熱かった。
これが母の意見だと、耳にたこという顔を示して、いつも鼻で
「……分った、分った、有難う」
繰返して、手の甲で眼を
「今日を心の誕生日として、おれも生れ直す。とてもおれは、剣で身を立てる素質はなさそうだから、江戸表へ行くなり、諸国を遍歴するなりして、そのうちに良師に出会ったら、就いて学問を励むことにする」
「おれも、ともに心がけて、良い師と良い主人を見つけてやろう。なにも学問は
「なんだか、広い道へ出た気がする。――だが、困ったことが一つある……」
「なんだ。どんなことでも話してくれ、将来ともに、この武蔵にできることで、そして、おぬしの身のためになることなら、どんなことでもきっとする。――それがせめて、おぬしのおふくろを怒らせた、わしの罪の
「いい
「
「……じゃあいってしまうが」
「ウム」
「茶店の奥に寝ているのは、女の連れなんだ」
「女連れか」
「それも、実は……。アア、やっぱりいい
「男らしくない奴だ」
「武蔵、気を悪くしないでくれ。おめえも知っている女だから」
「はてな? ……誰だ一体」
「
「…………」
武蔵は、はっと思った。
五条大橋で会った朱実はもう以前の真っ白な野の花ではなかった。
武蔵が今、朱実と道連れと聞いて、友のためにハッと思ったのは、そうした複雑な事情と性格をもっている女性と、この弱気な友との人生の旅が、どんな暗黒の谷間へ入ってゆくことか、余りにも見えすいた不幸な道連れ――と直ぐ思われたからであった。
また、どうしてだろうか。お甲といい、朱実といい、
「…………」
武蔵の黙っている
「怒ったのか。……おれは
と、いった。
「ばかな」
と、顔色を払って、
「余りにも、不運に出来ているのか、不運を自分で作るのか――と、おぬしのために、おれは茫然とするのだ。……お甲に
「ところが、おふくろの罰があたったのか、朱実の奴が、瓜生山で
その
そこへ、のっそり、
「お客さあ、ここにいなさったのけ」
「お連れの病人は、一緒に来ていなさらねえのかよ」
問う如くでもあり、問わざる如くでもある。
又八は直ぐ、
「朱実か。――朱実がどうかしたのか」
色を顔に出していう。
「寝床にいねえがな」
「いない」
「今し方までいただが」
武蔵には、なにか、説明はできないが、直感的に、思い当るものがあった。
「又八、行ってみい」
その又八に続いて、武蔵も茶店へ駈けもどり、彼女の寝床のあったという
「あっ、いけねえ」
又八は、きょろついて、叫んだ。
「帯もない、
「化粧道具は」
「櫛も、
たった今、将来の発憤を誓って、涙をこぼした顔に、
老婆は、土間口から覗いて、独り語のように、
「なんたらことじゃ。あの娘ッ子はの、いうたら、お客さんに悪いかしらんが、ほんまの病気じゃのうて、
そんな声には耳もかさない。又八は茶店の横へ出て、峰を
もう花も黒く散りしいている桃の樹の下に、寝そべっている
「…………」
「又八」
「…………」
「おい」
「ウム?」
「なにをぼんやりしているのだ。去った朱実が行く先、せめて少しでもよい身の落着きを得るように、二人して祈ってやろう」
「ああ」
と、気のない顔の前に、小さな風の渦がながれていた。黄いろい蝶が一つ、見えない渦の中に
「さっき、おれを欣ばしてくれた言葉。あれは、おぬしのほんとの決心だろうな」
「ほんとだ、ほんとでなくて、どうするものか」
噛んだままの唇から、
「おぬしの行く道は、自然に
と、眼につくそこらの
さらにまた、
「金はあるか、路銀は。……少ないがこれを持って行ったらどうだ。おぬしが江戸表へ出て志を立てる気なら、おれも一先ず江戸まで共に行こう。また、おぬしのおふくろ殿には、改めておれも心から話したいこともある。おれはこの牛を曳いて、瀬田の唐橋に行っておるから、きっと後から連れ立って来いよ。――いいか、おばばの手を曳いて来いよ」
武蔵は後に残って、
今朝は早かった、昨夜もろくに眠っていない。いつのまにか夢は二つの蝶になっている。一羽はお通だと夢の中で思っている。
――ふと眼をさますと、いつのまにか、陽は土間の奥まで
この下の谷間から石を切り出しているので、そこで働いている
「なにしろ、だらしがねえや」
「吉岡方か」
「あたりめえよ」
「ひどく
「
「おれなんざ、こう見えても、つり合ってるぜ」
「親代々、
それからまた、話はもどり、下り松で果し合いのあった朝、おれはあの近所だから見ていたという
その石切はまた、自分の目撃談を、もう何十遍も何百回も人中で聞かせているとみえて、おそろしく語ることがうまい。
百何十名の相手を敵にまわし、宮本武蔵という男が、こうやって、こう斬りこんでと、まるで自分が武蔵になった気かなにかで、おそろしく誇張して話している。
隅の
ところが、それを聞いて甚だ面白くない顔をしている一組が、その前から軒先のべつな床几を占めて聞いていた。
中堂の寺侍三名と、その寺侍たちに、この峠茶屋まで見送られて来て、
(では、ここで――)
と
石切たちは、その風采に恐れをなして、床几を去り、
そのうちに、黙って聞いているに堪えない虫気が起ったのであろう、佐々木小次郎は、石切たちの方へ向って、
「これ、職人ども」
と、呼びかけた。
石切の職人たちは、小次郎のほうを振向いて、何事かと皆、居住いを直した。
風采花やかな若衆武士が、
「へい」
と一様に頭を下げた。
「これ、これ。唯今、知ったか振りして、
小次郎は、鉄扇をもって、彼らの
「そのほかの者も、ずっとこっちへ寄れ。……なにも
「へ、へい」
「今、聞いておると、其方どもは、口を極めて、宮本武蔵を
「……は。……へい?」
「なんで武蔵が偉いか。其方どものうちにも、過日の件を目撃した者があるとのことだが、この佐々木小次郎もまた、当日の立会人として、親しくあの試合には双方の実情を
「…………」
「然るに――其方たちが、剣の何物なるかも知らず、ただ形だけの勝敗を見、衆愚のうわさに惑わされて、武蔵如き者を稀世の人物だの、無双の達人だのと申すが、それでは、この小次郎が、叡山の大講堂で演舌した意見が、皆、嘘のように相成ってしまう。――無智な
「……へ。……はい」
「そもそも――武蔵とはどんな肚の男か。あの試合を仕かけた彼の目的からそれを
「……?」
「なぜならば、初代拳法時代のおもかげもなく、京流吉岡が衰えていることは、誰にだってもう分っていたことなのだ。樹なら朽木、人間なら瀕死の病人にひとしい。
「……?」
「その心情のいやしいこと、
「…………」
「なるほど、数の上で見れば、一方は大勢、彼は一人に違いなかった。しかし、そこに彼の
立て板に水を流すような小次郎の弁舌だった。
「――
という論法から、小次郎は当日の勝負を、専門的知識にかけて、舌にまかせて論破する。
岡目八目という立場からいえば――武蔵のあれ程な善戦も、いくらでも非難することができた。
次にまたこの小次郎も、武蔵が名目人の一少年までを討ったということを、口を極めて、
さらに、彼の
「偽りと思うならば、その本位田の老母に聞いてみるがよい。わしは中堂に泊っている間に、親しくその老母とも会って聞き取ったことなのだ。もう六十にもなろうという純朴な
いい終って、さすがに
「アア、だいぶ陽が傾いて来ましたなあ」
と、連れのものを顧みる。
中堂の寺侍たちは、
「そろそろ、お立ちにならぬと、三井寺までゆかぬうち、山道で暗くなりましょう」
と注意しながら、自分たちも、
その谷間はもう紫ばんだ陽かげになり、ひよどりの声がけたたましく
「では、ご機嫌よう」
「また、ご上洛の折には」
と寺侍たちも、ここに小次郎の旅先を
小次郎は一人残って、
「ばあさん」
と、奥へ呼び、
「茶代をここへおくぞ。――それから、途中で暗くなった時の用意に、
老婆は、
「火縄けい。火縄ならそこの隅っこの壁にいくらでもかけてあるで、
と、いう。
小次郎はずかずか茶店の奥へ入って、隅の壁にみえる火縄の束から二、三本引き抜いた。
――と、釘を
――武蔵は、手枕の上から、眼を開けて、彼の顔を、まじまじと見ていたのである。
「……おう?」
と、いったのは武蔵。
白い歯を見せて、にやっと笑いながら、今眼が
やっと、床几を立ち上がった。そして軒先にいる小次郎の側へ歩いて来た。
「…………」
にこやかな
無意識に跳び退いた自分の敏捷を――必要のないあわて振りと――武蔵の眼が
で――とにかく、小次郎の顔いろと態度は、すぐいつもの
「……や。武蔵どの。……これにいたのか」
「いつぞやは」
武蔵がいうと、
「おう、いつぞやは、眼ざましいお働き、
負け惜しみの底に、苦い矛盾を肯定しながら、つい、こう小次郎はいってしまった。そして自分で吐いた言葉を自分で
武蔵は、皮肉であった。なぜなのか、この小次郎の
「その節は、立会人として、なにかとご配慮を。かつまた、ただ今は、いろいろ拙者に対して苦言を聞かしていただき、あれにて
「…………」
忘れずに憶えている――彼の一句に、小次郎は全身が鳥肌になった。これは穏やかな挨拶に似ているが、小次郎の胸に受けて聴けば遠い将来をかけて
また。
(ここではいわぬが)
という含みも言葉の裡にある。
おたがいが、さむらいだ。虚偽をゆるさないさむらいであり、曇りを捨ておけない剣の修行者である。是非を舌の先で争ってみたところで、水掛論に終るしかあるまいし、それで済むほど小さい問題でもない。
だが小次郎の眼からそれをみれば、あのような観察が起るし、小次郎の口からいわしめると、今いったような結論になる――とすると、この解決は、どうしても、武蔵が言外に含めたように、
(今はいわぬが、忘れぬぞ)
という、言葉の味をもって、未来を
複雑な感情は働いていたにしても、佐々木小次郎もまた、まったく根底のない出たらめを放言したつもりではない。彼は自分の観たところから公正な判断を下したまでだと思っているし、いかに武蔵の実力をあの程度に見ても、その武蔵が自分以上の人間だとは今もなお決して思っていない彼であった。
「……ウム、よろしい。憶えているといった
「…………」
武蔵は黙ったまま、また微笑してうなずいた。
「お通さん、ただ今」
奥へ呶鳴っておいてから、彼は、そこの家を
「オオ、
眉をしかめていながら、彼はいつまでも足を拭こうともせず、足で水を
この水はすぐそこの銀閣寺の苑内から流れてくる
だが、土は暖かく、彼の腰の下には、花すみれが
やがて彼は、濡れた足を草で拭いて、そっと縁側の方へ廻って行った。ここの家は、銀閣寺の別当
で――お通は、あれ以来、ずっとここに
勿論のこと、下り松における決戦の結果は
城太郎はまた、彼女の今の体にとっては、
その証拠には、お通は
「ああ、お
お通は、彼の元気な顔を、眼に迎えて、
「わたしは朝からただ、こうして坐っていた
「よく飽きないなあ」
「体は動かさないでも、心はさまざまに、遊ばせていますから。――それより城太さんこそ、朝早くから、どこへ行ったんですか。そこのお
「ちまきは後にしよう。お通さんに先に
「なあに?」
「武蔵様ネ」
「ええ」
「
「ア……叡山へ」
「きのうも、おとといも、その前も、毎日のように、おいら方々聞いて歩いていたんだよ。――するとね、きょう聞いたのさ。武蔵様は、
「……そう。……ではほんとに御無事でいらっしゃるのだわ」
「そう分ったら、一刻も早くがいい、またどこかへ行っちまうといけないからね。おいらも今、ちまきを食べたら支度するから、お通さんもすぐ支度をおしよ。――直ぐ行こう、これから訪ねて行こう、無動寺へ」
じっと、お通のひとみは、あらぬ方へ向いている。
城太郎は、ちまきを食べ、持つ物を身に持つと、再び、
「さ。行こうよ」
と、
だが、お通が起つ気色もなく、いつまでも、坐っているので、
「どうしたんだい?」
やや不満と不平をあらわして問い詰めた。
「城太さん、無動寺へ行くのは、止しましょう」
「ヘエ?」
少し、おひゃらかすように、城太郎は
「なぜさ」
「なぜでも」
「ちぇッ、女って、これだから嫌になっちまう。飛んでも行きたいくせにして、さあ、その人のいる所が分ったとなると、今度はヘンてこに澄まして、止そうのなんのとしぶくるんだもの」
「城太さんのいう通り、飛んでも行きたいほどですけれど」
「だから、飛んで行こうというのに」
「けれど。……けれどね、城太さん。わたしはいつぞや瓜生山で、武蔵様とお目にかかった時、これが
「だけど、生きているんだから、会いに行ってもいいじゃないか」
「いいえ」
「いけないの?」
「下り松の勝負はついても、まだ武蔵様の心としては、ほんとに勝ったと思っているか、どんな用心をして叡山に身を
「じゃあ、このまま十年も二十年もお師匠様からなにもいって来なかったらどうする?」
「こうしています」
「坐ったきり、空を眺めて暮しているの」
「ええ」
「変な人だなあ、お通さんという人も」
「わからないでしょ。……だけどわたしには分っているの」
「なにが」
「武蔵様のお心がです。――瓜生山で最後のお別れをする前よりも、あの後になってからの方が、わたしには武蔵様のお心が、ずっと深く分って来たからです。それは、信じるということなのです。以前は、武蔵様を慕ってはいました。
黙って、おとなしく聞いていたと思うと、城太郎はいきなり呶鳴るようにいった。
「嘘いってらあ。――女って、嘘ばかりいってるんだ。――いいよ、じゃあもうきっとお師匠様に会いたいといわないね! これから先はいくらベソを掻いたって、おいらは知らないぜ」
この数日の努力を、無にされたように、城太郎は腹を立てた。そして晩まで口をきかなかった。
宵に入ると間もなくであった。
烏丸家の侍は、一通の手紙を城太郎の手に授けて、
「これは、お通どのが、まだお
すぐ、使いは帰って行く。
城太郎はそれを手に、
「アア、お師匠様の字だ。もし、下り松で死んでいたらお師匠様ももうこの手紙は書けなかったんだなあ。……お通どのへ、と書いてあらあ。……だが、城太郎どのへとは書いてない」
お通は、奥から立って来て、
「城太さん。今、お
「そうだよ」
城太郎は意地を
「でも、お通さんには、用はないだろ」
「おみせ」
「いやだい」
「意地のわるい――そんなことをいわないで」
「それ御覧な。そんなに、見たがるくせにして。それを、おいらが会いに行こうといえば、痩せ我慢して、
お通にはもう、そんな言葉を聞いている耳はない。
心なしか、こよいは、灯も鮮やかに、
花田橋では
お許 に待たせたが、
こたびは
わしが待つであろう
瀬田の湖畔に
牛をつないで
と、武蔵からの便り。まざまざと、その人の筆、墨のにおい。お
こたびは
わしが待つであろう
瀬田の湖畔に
牛をつないで
墨の光までが、虹いろに見え、彼女のまつ毛には、きらきらと、珠の涙が咲いていた。
――夢かと思う。
あまりの
「……待つ身となると、待つ間の時の長さ。そうだ、少しでも早くお目にかかって」
こう、城太郎へ向って、語りかけているつもりではあったのだが、もう彼女の歓びは彼女を
手早く身支度をし、
そして、家の中にぶっ坐って、
「城太さん、おまえはもう、
「知らない、おいらは。――どこへ行くのさ」
てこでも動く顔つきではない。城太郎は、すっかりお
「城太さん、怒ったの」
「怒ったさ! 当り前だい」
「どうして」
「勝手だから、お通さんは。――おいらが折角捜し当てて来て、行こうという時には、行かないといっておきながら」
「でも、その
「その手紙だって、自分だけで見て、おいらには、読ませてくれないじゃないか」
「アアほんとに、それは悪かった。御免よ、城太さん」
「もういいよ、もう見たくなんかない」
「そう、ぷんぷん怒らないで、この手紙を見ておくれ。ね、なんという珍しいことでしょう。あの武蔵様が、わたしに手紙を下すったことなんか、これが初めてです。また待っているから来いなんて、優しいことを仰っしゃってくれたのも、これが初めてです。――それからこんな歓ばしいことは、私にとっても、生れて初めてではありませんか。……だから城太さん、機嫌を直して、私を瀬田まで連れて行ってください。……ね、後生だから、そんなに
「…………」
「それとも、城太さんは、武蔵様にもうお目にかかりたくないの」
「…………」
城太郎は黙って例の木刀を横に差し、
「行くなら行くで、早くお出でよっ! 愚図愚図してると、
「まあ、怖い人」
それから二人は、志賀山越えの道を、夜にかけ歩き出したが、先に怒った手前がある、道は寂しいが、城太郎は口をきかない。
すたすたと、先を歩いて行きながら、そこらの木の葉を

「城太さん、わたし、いい物持っていたのに、忘れていたのよ。あげましょうか」
「……なにさ」
「
「……ふん」
「おととい、烏丸様から、いろいろお菓子を持たせてよこして下すったでしょう。それがまだ残っているのだけれど」
「…………」
くれとも、
「城太さん、食べない? わたしも食べよう」
それからやっと、城太郎の機嫌がすこし直った。
志賀山越えを登りつめた時は、もう
「
「ええ、登りばかりだったから」
「もうこれからは、下り道だから、楽なものだよ。……ああ、湖水が見える」
「あれが
「あっち」
と指さして、
「待っているといっても、お師匠様は、こんなに早く行っているかしら」
「でも、まだ瀬田まで行くには、半日以上もかかるでしょう」
「そうだ、ここから見ると、すぐそこのようだけれど」
「少し休まない?」
「休もうか」
すっかり気持も解けたとみえ、城太郎はいそいそ休み場所をさがし歩いていたが、
「お通さん、お通さん、この樹の下だと朝露がなくっていいよ。ここへお
と、手招きした。
二本の
「なんの樹だろ?」
城太郎がいう。
お通も、眸を上げながら、
「
と教える。そして、
「わたしや武蔵様が、まだ幼い時分によく遊んだことのある、七宝寺というお寺の庭にも、この樹がありましたっけ。六月ごろになると、糸のような
「だから、ねむの木というのかしら」
「でも、文字で書くと、
「どうしてだろ?」
「どうしてでしょうね。きっと誰かが
「樹なんか、歓ぶも悲しむも、あるもんか」
「いいえ城太さん、樹にも心があるんです。よく御覧、この山の樹々のうちにも、よく見ると、独り楽しんでいる樹もあるし、独り
「そういわれてみると、そんな風にも見えてくるなあ。――するとこの
「わたしから見ると羨ましい樹に見えます」
「どうして」
「長恨歌を知ってるでしょう。白楽天という人の作った詩」
「ああ」
「あの長恨歌の終りのほうに――天に在っては願わくは比翼の鳥と
「連理って? ……何」
「枝と枝、幹と幹、根と根、二つの物でありながら、一つの樹のように仲よく立って、
「なんだあ……自分と武蔵様のことをいってるんじゃないか」
「いけない、城太さん」
「勝手におしよ」
「――夜が明けてきた。なんという美しい
「鳥がお
「城太さんも歌わない」
「なんの歌」
「白楽天といったので思い出したんです。いつか、城太さんが、烏丸様の御家来に教わっていた詩があったわね。覚えている? ……」
「
「ええ、あれ。あの詩を、聞かせて下さいな。
「……
花ヲ折ッテ門前ニ戯 レ
郎 ハ竹馬ニ騎シテ来リ
牀 ヲ遶 ッテ青梅 ヲ弄 ス……」
城太郎はすぐ「この詩かい」
「そう。もっと続けて」
「……
両小嫌猜 ナシ
十四、君ノ婦 トナッテ
羞顔 未ダ嘗 テ開カズ
頭 ヲ低 レテ暗壁 ニ向イ
千喚 一トシテ廻 ラズ
十五、始メテ眉ヲ展 ベ
願ワクハ塵 ト灰ヲ同 ニセン
常ニ存ス抱柱ノ信
豈 上 ランヤ望夫台
十六、君遠クヘ行ク……」
城太郎はふいに起って、じっと聞き入っていたお通を十四、君ノ
千
十五、始メテ眉ヲ
願ワクハ
常ニ存ス抱柱ノ信
十六、君遠クヘ行ク……」
「詩よりも、おいらは、お
まだ天地は濡れている。
家ごとの
夜来、
「オオ」
と、眼を、
――同じ時刻に、お通と城太郎のふたりも、志賀山越えの道から、この大津の屋根を眺め、湖畔へ向って、希望の足を躍らせているはず――
峠の茶屋から峰を
湖畔の瀬田で落ち合うまでもなく、ひょいと、そこらで
――といって、武蔵は決して、失望もしないし、会いそうなものだとも思っていなかった。
烏丸家へやった茶店の女房の返事によれば、お通は烏丸家にいないということであり、手紙は、烏丸家からお通の養生している先へこよいのうちに届けておくという消息であった。
その返事から考えると、自分の手紙が、お通の手にとどいたのは
そう武蔵は、胸づもりに、想像していた。
それに今はまた、これぞといって、先を急ぐ何事も心にはないし――牛の歩みも遅いと思わなかった。
――すると、民家と向い合っている
誰の和歌か。――思い出そうともせず、武蔵は、そこを二、三町行き過ぎてからふと思い出して、
「そうだ……太平記の中で」
と、つぶやいた。
太平記は、彼の少年の頃の愛読書の一つだったので、或る箇所は、暗誦しているくらいだった。
で――今見かけたその
――志賀寺の上人 は、手に一尋 の杖をたずさえ、眉に八字の霜を垂れ、湖水の波に水想観 を念じたもうに、折りふし、京極の御息女所 、志賀の花園の帰るさを、上人ちらと見そめ給い、妄想起りて、多年の行徳も潰 え、火宅の執念に一切を喪 い給う……
「少し忘れたな」武蔵はそう思いながらまた、うろ覚えのまま、
――柴の庵 に立ちかえり、本尊仏にむかい奉るといえども、観念の床 には妄想の化 の立 そい、称名のおん声だに、煩悩 の息とのみ聞えたもう。暮山 の雲をながむれば、君が花釵 かと心も憂く、閑窓 の月にうそぶけば、玉顔 われに笑み給うかと迷うも浅まし。
――今生の妄念ついに離れずば、往生の障 りともなりぬべければ、御息女所 に会い奉り、わが思いのふかき一端を申して、心やすく臨終もせばやと、上人杖をつき、御所へ参りて、鞠 の坪の下 に、一日一夜ぞ立ちたりける……
「おオいっ、旅の衆、牛に乗ってゆくおさむれえ」――今生の妄念ついに離れずば、往生の
誰か、その時、後ろから呼ぶ者があった。
いつか、牛は町の中にはいっていたのである。
問屋場の人足だった。
駈けて来て、牝牛の鼻づらを撫で、牛の頭越しに、武蔵を見あげて、
「おさむれえさん、無動寺から来なすったな」
といいあてる。
「ほ、よう知っているなあ」
「この
「なるほど、おまえが飼主か」
「おれの持牛じゃねえが、問屋場の牛小屋にいる牛だあな。
「よしよし、
「金さえ払えば、どこまで乗って行こうと、かまわねえさ。三百里先へ行こうと、道中の宿場問屋に渡しておいてさえくれれば、
「では、江戸表まで、いかほど払ったらよいのか」
「じゃあ、通り道だ、問屋場へ寄って、お名前を書いて行っておくんなさい」
なにかの支度にも好都合、武蔵はいわるるままにそこへ立ち寄る。
問屋場は打出ヶ浜の
瀬田はもう程近い。
湖畔のうららかな風光を、牛の足にまかせて行っても、大丈夫、
(まだ、来ていまい)
武蔵はそう思い、そして、今度お通に会うことには、なにかしら心に安んじるものを抱いていた。
それは、彼女に対する彼の、安心であった。下り松の死地を乗り越える前までは、武蔵は、女性というものに、堅い構えを持っていた。お通に対しても同様な
けれど、あの時の、お通の澄みきった態度、聡明な意思の処理を見てから、武蔵の彼女に対する気持は、ただの愛以上、深いものに改まっていた。
一般の女性を危惧するような眼で、お通をも危惧して来た自分の小心さが、彼女に対して済まなかったように今では思う。
そういう男の気持――安んじて女性にゆるしている気持――それは同じように、お通も、男性に対する信頼として、あれから後、胸のふかくに
武蔵はもう、何もかも、彼女にゆるしきっていた。今日会ったら、どんなことでも、彼女の願いなら
剣を、
今までは、それが
(そうだ、江戸表まで一緒に行って、お通には、もっと女性として学ぶべき修養の道に就かせ、自分は城太郎を連れて、さらに高い修行の道にのぼろう。そして、或る時節が来たら――)
そんな空想に耽ってゆく武蔵の顔に、湖水の波紋の光が、幸福の笑みを投げかけるように、
二十三間の小橋と、九十六間の大橋をつないでいる中之島には、古い柳の木があった。
瀬田の唐橋を、青柳橋とも呼ぶのは、その柳がよく旅人の目印にされるからであろう。
「あっ、来たよ」
と、その中之島の茶店から駈け出して、小橋の欄干につかまりながら城太郎は、一方には指をさし、一方の手では茶店の
「お師匠様だっ。……お通さんお通さん、お師匠様が牛に乗って来たよ」
往来の旅人も、この少年が、なにをそんなに狂喜するのかと、眼をそばだてて
「おお、ほんに!」
二人して、
「お師匠さまあっ」
「武蔵さま」
打ち振る笠、打ち振る手。
にこりとした武蔵の顔もはや間近であった。
牛はやがて、柳の木に繋がれる。――川を隔てて遠く見た姿には、狂喜の手を振ったり名を叫んだりしていたのに、その人の側に立つと、お通はもうなにもいい得ないのである。にこと眼で笑ったほかは、すべて城太郎が一人で引きうけて
「お師匠さま、もう傷は
「ふム、そうか、ふム……」
と武蔵も一々にこやかに
裏に、藤棚で
「オヤいけない、石山寺の上があんなに暗くなりました。一雨来ますよ。もっと奥へおはいりなすって下さい」
茶店の亭主が、あわてて
――サアッと、その弱々しい花から真ッ先に目がけられたように
「アッ、雷さまだぞ。ことしの初雷だ。お通さん、濡れちまうよ。お師匠さまも奥へおはいりなさいよっ、座敷のほうへさ。アアいい気持だ。この雨は、ちょうどいいや! ちょうどいいや」
なにが丁度いいのやら、深い意味でいうわけでは勿論ないが、そう彼にいい
「オオ、ひでえ!」
「まるで、夕立だ」
と、
見るまに四明ヶ岳も湖水も伊吹も乳色になって、ただ
「……あっ」
雷ぎらいの又八は、耳の穴をふさいで、楼門の雷神の下に縮こまっていた。
雲が
見かけない女である。
「あなた、又八様と仰っしゃるのでしょう」
そういうのだ。
又八が
いわれて見ると、なるほど、この神社の界隈には、
「……御用がおありならば、直ぐお帰りになってもよござんすから」
と、使いに来た女は、又八のためらいなどは無視して導いて行く。そして近くの
いったい、おれの友達というお客は誰かと訊いてみても、二階へ行ってみれば分ると、座興にするつもりで明かさない。
何分、雨に逢って、着物もずぶ濡れだから、一時
「頼むぞ、いいか」
何度も念を押すと、
「はい、はい。よい
女たちは、
(二階の客とは一体誰だろうか)
又八は頻りと考えてみたが思い当る者がない。けれどこういうところに場馴れない又八ではないし、またこういう雰囲気の中に入ると、彼の頭のつかい方や身ごなしは、ふしぎに冴えて精彩を発揮してくる。
「やあ、犬神先生」
いきなり先方の者からいった。人違いだったかと又八は
「や? ……おぬしは」
「お忘れか、佐々木小次郎を」
「犬神先生といわれたのは?」
「貴公のことさ」
「おれは本位田又八だが」
「そんなことは心得ているが、かつて六条松原の闇で、群犬に取り巻かれ、野良犬どもの中に坐って、百面相をしてござったのを思い出したから、お犬の神様と尊称申し上げ、犬神先生と呼んだのでござる」
「よしてくれ、冗談じゃあねえ。あの時は、ひどい目に遭わせやがったぜ」
「その代りに、きょうはよい目に遭わせてやろうと思い、迎えにやったわけだが、よく来てくれた。まあ、坐るがいい。――おい
「瀬田で、待っている者があるから、すぐお
「瀬田で、誰が待っているのか」
「宮本という、おれの幼少からの友達で――」
と、いいかけるのを
「なに、武蔵が。……ウウムそうか。峠の茶屋で約束したのか」
「よく知っているな」
「貴公の生い立ち、武蔵の経歴、みな詳細に聞いている。
「え。おふくろと会ったって? ……実あ、きのうから俺も捜し歩いているのだが」
「えらい
杯を洗って、
「さ、又八。旧怨を
頬を
だが又八は、手を出さない。
見栄っ張りな小次郎も、酔うとひとりでに、常の容態や端麗も構えから忘れてしまう。
「又八、なぜ飲まぬ」
「もうお
左の手が走ると、ぐっと又八の腕くびをつかみ、
「いかん!」
「でも、武蔵と」
「ばかをいえ。貴様一人で、武蔵と名乗り合ったら、立ちどころに返り討ちだぞ」
「そんな
「なに、武蔵に縋ってだと? ――」
「世間は武蔵を悪くいうが、それは俺のおふくろが悪くいい触らすからだ。おふくろは武蔵を思い違いしている。つくづく今度はそれが分った。同時に俺自身も悟った。おれはあの善友に
「アハッハハハ。わははは」
小次郎は手を打って笑い、
「お人好し! おいっ、おふくろ殿もいっていたが、なるほど、貴様は世にも稀なお人好しだ。武蔵に
「いや、武蔵は」
「まあ、黙れ、いうな。第一おふくろを裏切って
「なんといわれても、おれは瀬田へ行く。放してくれ。――おい女ッ、着物が乾いたろう、おれの着物を出してくれ」
「出すなっ」
小次郎は、酔った眼を吊り上げて、
「出すときかないぞ。――これ又八、貴様武蔵とそうなるならば、一応、おふくろに会って、よく得心させてゆけ。おそらくあの
「そのおふくろを捜しても見当らないので、一先ず俺は武蔵と一緒に、江戸表へ
「その
もちろん、ここは
日が暮れる、遂に、夜も更ける。
しらふでは小次郎に頭も上がらないが、酔えば俄然又八は、とらになり得るのだ。見ていやがれという気で彼は宵から飲み始めた。酒の勢いを駆って、小次郎を
寝たのが夜明け、眼をさましたのは既に
小次郎はまだべつの部屋で熟睡しているという。
赤く濁った瀬田川の水に、石山寺の残んの花もこれ
「牛を繋いで――といったが」
その牛は、小橋の
諸所を捜したあげく、中之島の茶店で聞くと、その牛に乗ったおさむらい様ならば、きのう店の閉まる頃までここに待ってござったが、夜に入ったので
見ると、なるほど、白い
「済まなかった。――では一足先に立って行ったか」
又八は、
初夏に向ってゆく旅だ。木曾路の新緑を浴びて、
(待っているぞ、後から追いついて来るがいい)
柳の枝に結び文を残して行った武蔵を慕って、又八は道を急いだが、草津まで行っても行き会わない、彦根、
「ハテ、先に来過ぎてしまったのかな?」
牛に乗った武士と訊いても、牛馬に
「やっぱり俺は、お人好しかな?」
迷い出すと
彼自身の惑いが、道を戻ったり、曲ってみたりするために、当然会えるはずの者に、よけいに行き会えないことになってしまう。
だが遂に、中津川の宿場端れで、彼は、先へ行く武蔵の姿を見つけた。
幾日目だろう。それは実に又八としては珍しいほどな熱意で追いついて来た目標だった。しかし彼は、武蔵の後ろ姿を見るとともに顔色を変えて武蔵を疑った。
牛の背に乗って行くのは、武蔵ではなくて、七宝寺のお通ではないか。――そのお通を乗せて牛の手綱を持って行くのが武蔵ではないか。
側にくッついてゆく城太郎の如きは、又八の眼中にはない、問題でもない。又八をして
今日までのどんな場合の憎悪の
「……アアやっぱり、思えばおれは、お人好しだったに
「暑い暑い。こんなに汗をしぼる山道って初めてだ。ここはどこ? お師匠様」
「木曾で一番の難所、
「きのうも二つ峠を越したっけねえ」
「
「おらあ、峠に
お通は、牛の背から、
「いいえ城太さん、わたしは
「ちぇっ、自分は、歩かないもんだからね。――お師匠様、あそこに滝が見えるよ、滝が」
「オオ、少し休もうか。城太郎、そこらへ牛を繋いで置け」
滝の音を心あてに、細道を分け入ってゆくと、滝つぼの崖の上には、人もいない滝見小屋があり、辺りには、霧に濡れた草の花が一面に咲きみだれていた。
「……武蔵様」
お通は、立札の文字を見て、その眼を武蔵に移してほほ笑んだ。
大小二すじの滝が、一つ渓流へ落ちている。やさしいほうが
「お通さあん、魚がいるよ」
答えないでいると、
「石で
やがてまた、しばらく経つと、
「わアあい」
と、飛んでもない方角に
山の端から陽が
滝見小屋の蔭に寄り添いながら二人は滝の音につつまれていた。
「どこまで行ってしまったんでしょう」
「城太郎か」
「ええ。ほんとに、しようのない子」
「そうでもないぞ、おれの子供時分にくらべると、まだまだ」
「あなたは、べつ者でしたもの」
「反対に又八はおとなしかったなあ。……又八といえば、とうとう
「でも、わたしは、ほっとしました。もし又八さんが来たら、隠れてしまおうと思っていました」
「隠れる必要はない。話してわからない人間はないはずだ」
「本位田家の
「お通さん……。おまえ、もいちど考えなおさないか」
「どういうふうに」
「思い直して、本位田家の人になる気はないかと訊くのさ」
お通はびくっと色を顔にうごかして、きっぱりいった。
「ありません!」
そして、蘭の花のように
武蔵は、よしないことをいったと心のうちで悔いた。今さら、分りきったことなのだ。時が
(……貴方のものです!)
白い
とうとうと地軸を震わせている滝の音は、そのまま自分の血の音のように武蔵は思われた。滝つぼの狂瀾と奔流を見て、
それにここ幾日の間、宿屋の
「…………」
ふいと、武蔵はそこを離れた。いや、逃げるようにであった。
お通を置き放して、
「ああ」
と、そこへ身を投げて坐った。
お通は、どうしたのかと疑って、すぐ追いかけて来るなり、彼の膝に
「どうしたんですか。武蔵様……武蔵様っ……。なにか、お気に
「…………」
「武蔵様っ、もしッ……」
彼が堅くなっていればいるほど――また、恐い顔をしていればいるほど、お通はその胸へ、必死にしがみついて、揺れ騒ぐ花のように、花の気づかない
「――おいっ!」
武蔵はいきなりそういった。猛然と、彼の
山つつじが
猿が啼く、
「いけないッ、いけませんッ、武蔵様ッ」
栗の
「そ、そんなことっ……。貴方ともあろうお人が」
と、悲しげに、彼女が、
「なななぜだっ?
――だが、手を放した途端に、お通はもうそこにいなかった。小さい匂い袋が一つ、
自分で、男性の胸に火を
「……ア、ア」
武蔵は、顔を俯つ伏せて、草へ泣き伏した。
きょうまでの
自分に
(おれは悪くない!)
自分の行為に対して、彼が心の中で頻りにそう呶鳴ってみるもののそれで心は澄んで来なかった。
(分らないっ、分らない)
彼には、
しばらくの間――そうして俯ッ伏したまま、土のにおいを
――落ちているお通の匂い袋を、足の下に踏みにじって、じっと、山の声を聞くかのように
「そうだ」
真っ直ぐに、滝のほうへ向って歩いて行った。あの下り松の剣の中へ、身を投げこんで行く時のように、濃い眉毛をがっきりと寄せて。
……鋭い小鳥の声が、
――お通は、武蔵のいたその場所から、わずか二十歩ほどしか逃げていなかった。白樺の幹にひたと身をつけて、彼女は
泣いていないお通の眼には、泣いている以上の、恐怖だの、迷いだの、悲しみだのが、掻き曇っていた。
この人こそと、信頼していた武蔵は、彼女が、自分の胸の中で、自分勝手に描いていた、幻想の男性ではなかった。
幻想の心臓の中に、忽然、
けれど、その恐怖と
もし
なぜ、二十歩ほどで足を止めて、後に心を惹かれているのか。――それのみでなく、やや動悸が落着いてくるに従って、彼女の心の中には醜い人間の本能の
(……怒ったんですか。……怒らないでくださいね。あなたが
暴風に吹き飛ばされたような独りぼっちを感じながら、彼女の胸の中の言葉は、ひたすら詫びているのだった。――武蔵自身が、自責したり苦悶したりしているほどに、お通は、彼のなした烈しい行動を、醜く思ってはいなかった。他の男性のように浅ましくは思えないのである。
むしろ、ふと、
(なぜ、わたしは? ……)
自分の盲目的な恐怖が、淋しくすら考えられ、その刹那の火花のような血の狂いが、後になるほどなにか慕わしくさえ思い出された。
(……おや? どこへ? ……。武蔵様は)
いつのまにか、そこに見えない武蔵の影に、お通はすぐ、自分が捨てられたのではないかと思った。
(きっと、怒って。……そうだ、怒って。……あ、どうしよう?)
すると、どこか高い所から、
「あっ、たいへんだ。お師匠様が滝へ身を投げたぞっ。――お通さアん!」
城太郎の声だった。
渓流を渡って、向う側の山の鼻に城太郎は立っていた。そこから
滝の響きで、よく聞き取れないらしかったが、城太郎の方から見ていると、お通も何を見たか、ハッと急に血相を変え、深い滝道の――霧と
城太郎は
お通も見た。
城太郎も見つけた。
――滝つぼの中にである。
お通は、
「あッ、お師匠様っ、お師匠様アっ」
「武蔵さまっ――」
声かぎりに、呼び交わしたが、その二人の叫びに挟まれても、武蔵の耳には、もう、とうとうと吼える滝の音のほかは、なにものの声も入るはずはなかった。
「…………」
ハッと、ただ一つでも、弱い呼吸をつくか、心に
しかも、頭上から落ちて来る滝の圧力は、何千貫という重さを負わされているような感じだった。肺も心臓も、
――それでもまだ武蔵は、たった今、そこに振り捨てて来たお通の面影を、熱い血の中から忘れ去ることができなかった。
志賀寺の上人でさえ、同じ血を持っていた。
弱冠十七歳の村童に、槍一本かつがせて、関ヶ原の風雲へ駆け向かわせたのも、この血の熱である。沢庵の
だが、その烈しいものが、お通という許された対象を通して、人間の本能に燃えつくと、彼が本来の野性は、ここ数年の間に、やっと少しばかり養い得たところの、修行や理性の力では、到底、制しきれないほど強いものとなって、狂い出し、乱れ出したのである。
この敵に向っては、さしもの剣も、何の用もなさないのだ。およそ、対象は、外にあって、形もあるが、この敵は、自己の中にあって、形がない。
武蔵は、狼狽したのだ。明らかに彼は、自分の心にあった大きな
そして、なくても困る、あっても苦しむ、すべての人間が
「――お師匠様アっ……お師匠様アっ」
と、その城太郎は、泣き声を出して、なおまだ叫びつづけていた。
彼の眼には、武蔵の生きんとする姿が、どうしても死なんとする姿にしか映らないのであろう。
「死ンじゃ嫌だっ、お師匠様っ、死なないで下さいっ」
自分もともに滝の痛みを
「あらっ、変だっ。……お通さんも?」
彼の解釈では――武蔵がなんのゆえか、滝つぼに入って、死ぬまでは上がって来そうもない
――だがその悲しみの
その証拠には、いつもの武蔵の声が、やがて滝つぼの中から聞えてきた。もとより何を叫んでいるのかは分らなかった。
峰の端から
「お通さアん!」
城太郎は
(そうだ、なにも、お通さんが安心してるくらいなら、おいらの心配することはない。お師匠様の気持なら、心の奥まで、お通さんが知ってる筈だもの)
絶壁を
ふと滝見小屋の方を眺めると、そこの
「……?」
ここにもまた、心の解らない人間がいるぞといわないばかりに、城太郎は
牛は、白い草の花の中に寝そべって、夕陽に眼やにを
「……いったい、こんなことしていて、
城太郎も仕方なしに、牛のそばへ寝ころんだ。