古人を
無用にも有用にも。遠くにも、身近にも。
山に対して、山を観るがごとく、時をへだてて古人を観る。興趣はつきない。
過去の空には、古人の群峰がある。そのたくさんな山影の中で、宮本武蔵は、私のすきな古人のひとりである。剣という
子どもが好きだ。
自ら伸ばそうともしない生命の芽を、また運命を、日陰へばかり這わせて、不遇を時代のせいにばかりしたがる者は、彼の友ではあり得ない。大風にもあらい波にも、時代がぶつけて来るものへは、大手をひろげてぶつかり、それに屈しないのが、彼の歩みだった。道だった。
近代の物力以上、近代人の知能以上、系図や家門が重んじられた社会制度の頃に生きて、一郷士の子という以外、彼は何も持たなかった。持てるようになってからも持たなかった。死ぬまで、離さなかったものがただ一つあった。剣である。その道である。
剣をとおして、彼は人間の凡愚と
剣を、一ツの「道」にまで、精神的なものへ、引上げたのも彼である。応仁から戦国期へかけて、ただ殺伐にばかり歩いてきた、さむらいの道は、まちがいなくそこから踏み直したといっていい。
眸が
そういう武蔵。いろいろな角度から、観る者の眼ひとつで、いろいろに観られる武蔵。
従って、名人論、非名人論、古くから
小説は必ずしも史実を追っていない。ただ古人の足あとをたよりに、その内面のこころへ迫ってみるしか
敢て不敵になって、書きはしたが、小説が読まれれば読まれるほど、作家の創意と、
薔薇を植えた者が、自ら薔薇を刈るに似ているが、小閑の鋏で、あちこち、少し史実と創意の枝とを
文学的信念が小説にはないからだろうと。友よ、笑う勿れ。この不敵者にも、多分な臆病がある。
大衆は大智識であるからである。
それと、自分の景仰する古人に対して、当然な、礼としても、私は畏れる。
昭和十四年・仲春
於草思堂
英治生
[#改丁][#ページの左右中央]
[#改丁]
この書は、たしかに、
私もまた、正直、なくてもいいものだ、と思っている。
だから当初、朝日新聞社からこれを出版したのは、特に武蔵研究などに関心をもつ一部少数の人たちのために、ごく少部数しか印刷していない。その後、再版もしていない。
ところが、読書子はないものねだりをする癖がある。また書籍は完全な消費物でもあるらしい。近来、随筆武蔵の方は、ほとんど市に見なくなってしまった。終戦後、熊本の宮本武蔵顕彰会の人も、これを探していたが、地方の古書店にも、書肆の図書目録にも、出ないというので、東京まで求めに来られたが、私の手もとにも、今は、備考の一冊しか残っていない。それもその後、いろいろな書入れをしてあるので、人には譲れず、むなしく、お断りした例も再三ならずある。
再版する程な著述ではないと思いもするが、たまたま、そんな希望者もあり、小説の重版後、さらに求められる声が多いので、こんども少部数を、趣味版的に、出すことにした。
この随筆の方に収めた内容は、すべて小説化しない武蔵の伝記、史料、遺蹟、口碑、遺墨など、そのままの物を、素材のまま、ならべてある。
要するに、小説素材のウラを展示したものにすぎない。読者は、ははあ、こういう物を以て、あの長編は書かれたのかと、小説構成過程や、作家の史料の扱いかたや、意図などを、知ることが出来ると思う。
また、それを書いていた当時の、史料あさりの紀行だの、読者から寄せられた考証だの、身辺雑記だの、落穂集的なものも、雑然と、筆のついでに、まとめてみた。
今日になっても、まだ折々に、武蔵史料の新しい発見などもあって――(終戦後世に出た有馬家文書の島原在陣中の書簡のような)彼に関する余話はなかなか尽きそうもない。殊に、彼の遺墨、二天の画は、よく話題を生んで、著者のところへも、時々未見の物を持ちこまれる人が多い。
けれど、実際には、武蔵の史証というものは、依然として、実に少ない。昭和十年以降、私が、新聞に連載として書いていた頃から、すでに、史料は
従って、そういう正史面からの武蔵研究と、小説の宮本武蔵とが、いつか一般の人の武蔵観に錯雑と混同してゆく
小説とあわせ読んだ場合、史実から見た小説。また、小説から見た史実。どちらから覗いても、或るおもしろさは得られよう。その他は、読む人の視角と取捨にまかせるとしておく。
この書の初版は、昭和十四年に出ている。その以後も、読者から寄せられた資料口碑の雑片は少なくない。武蔵の三百年祭は、昭和十九年だった。あの終戦に切迫した中だったのに、各地で遺墨展なども催され、その折の新しい発見もあった。また特に、武蔵の画集を刊行したいという社もあって、多年にわたり、資料蒐集に専念したH氏などが、その目的で、現地や諸方の所蔵家を巡って、いちいち実物について、撮影した多くの写真などもあった。いま、これに輯録したそれらの集積は、一時、かなり私の手許に
けれど、武蔵の俳句の載っている唯一の「鉋屑集」だの、島原在陣中の書簡だの、また春山和尚に関するものだの、従来の武蔵研究の上へ、さらに寄与しうる幾種かの未見資料を収め得たことは、その方面に興味をもつ人たちへは、いささか、歓んでもらえようかと思っている。
とにかく、ものを書くとか考えるとかいう仕事は、自分の生活を深くもし、多趣多味にもしてくれるが、一面、生涯の時間を、非常に短く思わせる気がしてならない。
自分が小説宮本武蔵をかいたのは、もう十年以上も前になるが、つい、まだ昨日のような気がするのである。そして国家のありかたも思潮も風俗もこの十年は空前な歴史を劃して、大きな変革をとげてきた。その中でも、封建的なものの紋章みたいな古来からの“剣”とか“剣の道”などというものは、その辞句すら忌まれて捨て去られた。まことに、自然なる時代感情と、文化整理であって、私なども、同様な感じをもっている。けれど、誤られているのは、剣にたいする一般の概念で、武蔵のあるいた道が、決して、そういう概念にある剣の道でなかったことは、小説のうちにも、書いているつもりであるが、この随筆武蔵による彼の略史伝、遺業、晩年の生活などを見れば、なおさら、人間としての彼の正味が、正確に認識されるであろうと思う。
現代人の思想が、切実ではあるが、一面、何となく貧困で、すこしも、人間の思想として、人間苦を息づかせる窓をひらかない理由は、余りに、現実に即した理念ばかりで、まったく、宇宙観に欠けているせいではなかろうか。
余りに現実的なということは、それほど、現実の世界が、現実以外にかえりみる寸隙も人間に余裕をもたせないほど、国際闘争に、社会事情に、各箇の食や住や職業の問題などの、生活全面に、切迫しているという、実証にはちがいない。
だからといって、人間は、実はどうにもならない宇宙環のうちでの生物であり、人為的な大きな国際制約の下からすら、一歩ものがれ出られるわれわれでもない。結果的に、理念の現実固着は、いよいよわれらの現実
いまだになお、多少、この書が求められたりする理由は、一箇の古人の生涯のあとに、何かしら、ひとつの宇宙観のながれが見られ、それが現代人の心に、ふと、むし暑い夜に仰ぐ天の川に似たような、心の窓をもたせるのではあるまいか。私はそんなふうに考えた。この書の中から、そうしたかすかな涼風でも、読みとられる所があれば、私は、望外なしあわせである。
――私は、前にも、幾度か云っている。史実として、正確に信じてよい範囲の「宮本武蔵なる人の正伝」といったら、それはごく微量な文字しか遺っていないということを――である。それは、むかしの漢文体にでもしたら、僅々百行にも足りないもので尽きるであろう。
ここには、その正味に近い史料に拠っただけの小伝をまず掲げておく。
ここには、その正味に近い史料に拠っただけの小伝をまず掲げておく。
現在、岡山県
いま、村に記念碑が建っている。そこが、むかしの
文学博士三島毅氏が、碑銘を。また元の熊本藩主細川護成氏が「宮本武蔵生誕地」と題字をかいている。川をへだてて、
そこは、むかしの竹山城下(現、英田郡大原下町)ともすぐ近い。
また、その城下から遠くない所に、
室町末期の、明応から文亀年間の頃、平田
将監の子に、
永禄年間には、京の御所(足利将軍家)へ出て、その技術を示し、地方では、かなり名誉の者であったらしい。
その子が、武蔵であった。
平田氏の祖先は、播州の豪族、赤松氏のわかれで、地方史的にみれば、土着人であり、いわゆる「地ざむらい」と呼ぶべき者であった。立派な家系として、土地では、認められていたことと思われる。
宮本の姓は、無二斎が、晩年、下庄からそこへ移って、おのずと、
べつに、
武蔵は、父の晩年の子だといわれている。母は、播州の人で、別所林治という人のむすめであるが、武蔵を生んだ後、佐用郡の田住某に、再嫁したとも伝えられている。が、よく分っていない。
武蔵は、一たん、その母と共に、連れ子となって、再嫁先へ行ったが、また戻されたなどという口碑もあり、彼の幼少は、家庭的に、めぐまれていた風ではない。ひとりの姉のことも、明瞭でない。
彼の生年は、天正十二年三月。幼名は、弁之助。後に、武蔵を称し、政名、
武技は、父に習ったとみてよい。ほかに師らしい人を経歴にもっていない。
荒巻神社の祭りに、太鼓を打つ二本のバチから発しる一音に感悟を得て、二刀を案出したというのは、土地にのこっている伝説である。
十三歳のとき、有馬喜兵衛という、新当流の武芸者と闘い、これに打勝ったということは、二天記、春山碑文、あらゆる信ずべき彼の小伝に書かれているが、詳細は分っていない。
彼を憐れむ僧庵の某が、事前に、彼をかばって、喜兵衛の怒りをなだめたが
十六歳、但馬国へ赴き、秋山某と試合したとあるが、それが、真実なら彼の初旅行はその時からといってよい。関ヶ原合戦以後、この地方にも、小波瀾があり、住人の流転が始まっている。武蔵も、いずれはその流亡者の一人だったことにはまちがいない。
武蔵の離郷前後のことでは、彼の郷土にゆくと、いろいろ云い伝えられている口碑はある。しかし、伝説的価値以上の根拠はない。厳密に、史実として、
関ヶ原役の後から、彼が、
碑文、二天記、その他の諸書。それと傍証的ないろいろの角度から見て、吉岡家との一乗寺
明確に、彼の存在や、言行を知りうるのは、何といっても、彼が、熊本に落着いてから後である。晩年の武蔵。それは、幾多の実証や文献を伴って、史伝として
漂泊、遊歴の人――といっても、それ以前には、小倉の小笠原右京大夫
その武蔵は、寛永十七年、
細川忠利の招きによるといわれている。待遇は、米三百俵。扱いは、岩間六兵衛。取次は坂崎内膳。いまその時に、彼が君侯にさし出した口上書なるものが遺っているが、それを見ても、相互、軽々しい約ではない。
武蔵自身が、自分を語っている上答書(履歴書と見てよかろう)であるから、原文のままを、ここに見よう。(著者解文)
われ等、身上 の事、岩間六兵衛を以て、御尋につき、口上にては、申し分けがたく候間、書付て御目に懸け候。
一、われら事、たゞ今まで、奉公人と申し候てをり候ところは、一か所もこれなく、年まかり寄り、その上、近年病者になり候へば、何の望みもござなく候、もし逗留仰せつけられ候はゞ、自然、御出馬の時、相応の武具をも持たせ参り、乗替へ馬の一疋も、ひかせ参り候やうに有之 候はゞ、能 しく御座候。
一、妻子とても、これなく、老体に相なり候へば、居宅家財等のこと、思ひもよらず候。
一、若年より、軍場へ出で候こと、都合六たびにて候、そのうち四度は、拙者より先を駆け候者、一人もこれなく候、その段は、あまねく何れも存ずる事にて、もつとも、証拠もこれあり候、然しながら、全く、身上 を申し立て致し候にては御座なく候。
一、武具の扱ひやう。軍陣において、それ/″\において、便利なる事。
一、時により、国の治めやう。
右は、若年より、心にかけ、数年たんれん致し候間、お尋ねにおいては、申しあぐべく候已上。
寛永十七年二月
一、われら事、たゞ今まで、奉公人と申し候てをり候ところは、一か所もこれなく、年まかり寄り、その上、近年病者になり候へば、何の望みもござなく候、もし逗留仰せつけられ候はゞ、自然、御出馬の時、相応の武具をも持たせ参り、乗替へ馬の一疋も、ひかせ参り候やうに
一、妻子とても、これなく、老体に相なり候へば、居宅家財等のこと、思ひもよらず候。
一、若年より、軍場へ出で候こと、都合六たびにて候、そのうち四度は、拙者より先を駆け候者、一人もこれなく候、その段は、あまねく何れも存ずる事にて、もつとも、証拠もこれあり候、然しながら、全く、
一、武具の扱ひやう。軍陣において、それ/″\において、便利なる事。
一、時により、国の治めやう。
右は、若年より、心にかけ、数年たんれん致し候間、お尋ねにおいては、申しあぐべく候已上。
寛永十七年二月
宮本武蔵
このほかに、熊本奉行所日記には、当時の武蔵の扶持状、その他が記載されている。何しても、忠利は、彼にたいして、座席は大組頭の格として、居宅は、本丸の丘のすぐ前にある古址千葉城の邸を以て、彼を迎えた。
破格な優遇といってよく、ために、多少、藩内の
武蔵は、それを苦痛に感じていたにちがいない。やがてこの知己忠利が逝くと、彼もまったく、俗交を絶って、その生活は、目立って、世外的な閑日に
熊本に落ちついた翌十八年、武蔵は忠利の命によって、彼の生涯にわたって研鑽してきた兵法二天一流の事――つまりその集大成を系列して、書いたものを、主家へさし出した。
「三十五箇条」
というのが、それである。
なお有名な、彼の「
死は、正保二年五月十九日。
しかし、病は、春ごろから、彼に、死期のちかいことを、悟らせていた。
ここへ来てからの、無二の友であり心契の人に、泰勝寺(細川家の菩提寺)春山和尚がある。
生前の約束によって、春山和尚が引導した。国主の代拝もあり、諸士会葬して、藩葬ともいえるような盛儀であったという。
時に、年六十四。或は二という説もある。
伝えられているものには、独行道二十一条というもあり、十九条、或は十四条など、まちまちであり、また章句の順序も一定していない。この十三句目の名利というのは、いわゆる現代語の名利の意味でないことはもちろんで、節義と解すべきである。
一、世々の道にそむくことなし
一、身に、たのしみを、たくまず
一、よろづに依怙 の心なし
一、身をあさく思ひ、世をふかく思ふ
一、われ、事において後悔せず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いづれの道にも、わかれを悲まず
一、れんぼの思ひに、寄るこゝろなし
一、わが身にとり、物を忌むことなし
一、私宅においてのぞむ心なし
一、一生のあひだ、よくしんおもはず
一、こゝろつねに道を離れず
一、身をすてゝも名利はすてず
一、神仏を尊んで、神仏を恃 まず
一、身に、たのしみを、たくまず
一、よろづに
一、身をあさく思ひ、世をふかく思ふ
一、われ、事において後悔せず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いづれの道にも、わかれを悲まず
一、れんぼの思ひに、寄るこゝろなし
一、わが身にとり、物を忌むことなし
一、私宅においてのぞむ心なし
一、一生のあひだ、よくしんおもはず
一、こゝろつねに道を離れず
一、身をすてゝも名利はすてず
一、神仏を尊んで、神仏を
彼は、今から約三百年余前の人である。その頃の社会に、
殊に、彼が生長し、また、志望して生き通した天正、慶長、元和、寛永、正保の長い期間は、戦国の動乱と苦境をのりこえて、日本の近世的な基礎をすえた
だが一応、彼をはっきり
中国山脈の山間の一城下に、彼が
武蔵の生れたつい二年前は、
わけて秀吉の中国遠征は、大規模な大軍をうごかして、中国一帯を、一時戦時色に染めたほどであったから、およそ戦争というものの実感と惨害は、この地方の郷土には、農民の端にまでよく分っていたに違いなかった。
老人は老人で、それ以前も絶え間のなかった――三好、細川、赤松、尼子氏などの治乱興亡の
その小牧の合戦があった年に、武蔵は一歳だった。そして彼が、十七歳で臨んだという関ヶ原の役までに、世の中は、急速に一転変をつげていた。やがて覇者秀吉の創造による秀吉文化に
小牧の合戦から関ヶ原までの十七年間。――武蔵の一歳から十七歳までのあいだの――彼の郷土である山間の人心は、どんなだったろうかと考えるに、その平和中、多少の泰平は
現に小牧の合戦の時でも、
天下動乱の色顕 はる。いかゞ成行 べき哉 らん。心ぼそきものなり。神慮にまかせて、明暮 するまで也。無端事 。無端事。
「小牧の合戦とはいうが、事実は秀吉と家康との二大勢力の衝突で、極く辺境な九州の一部と東奥の一地方をのぞいた以外の土地は、すべて動員された戦争だったから、武蔵の郷土
秀吉でさえ、北陸の
――此表 、十四五日之 内 に者 、世上之 物狂 も、酒酔之 醒 たるごとくに(後略)
と見えたりしている。その後には「けれど事実は、後世になってみると、それから関ヶ原の
それが、武蔵の生れた頃から青年期への時代であった。
関ヶ原の役の結果は、「……いかゞ成行やらん」としていた人心に、明白な方向を示した。
長期の風雲時代は、もう
二つの勢力が一つに統一されかかり、同時に時代の分水嶺から、不遇に去る者と、得意な機運に乗って出る者とが二分された。
武蔵は弱冠十七歳で、関ヶ原の戦塵の
それから戦後の行動は
けれどそれは名のある重臣のことで、十七歳の一軽輩なら、どうにでも方針はつく。
その証拠には、数年後に、京都一乗寺村の
どういう素質があったか、どういう修行をしたか、この間は余程考究してみる必要がある。
一乗寺村の試合などは、あの名だたる名家の剣と一門の
巌流島で佐々木小次郎を打ったのが二十九歳だったという。それから三年後、元和元年の大坂陣の折には、西軍について実戦もしている。
それ以後にはまた、
彼の全貌が、やがて大成された相を以て、はっきりと再び吾人の眼に
見るが如き彼の風采や、聴くが如き彼の言葉は、およそ熊本に落着いてから後の武蔵のものであって、それを通して彼の青年期や少年時代を推知する便宜も少なくはないが、余りに晩年の彼をもって、生涯の彼を律してしまうことも、
以上、武蔵の生きていた時代を、その年齢に応じて、四期に分けてみるならば、
天正十二年から、慶長五年の関ヶ原の役までを――(彼の少年期に)
慶長五年から、元和元年の大坂陣までを――(彼の青年期に)
大坂落城の元和元年から、五十一歳小倉の小笠原家に逗留までの間を――(彼の壮年期に)
それから後、六十二歳の最期までの間が、彼の晩年期として考えられるのである。慶長五年から、元和元年の大坂陣までを――(彼の青年期に)
大坂落城の元和元年から、五十一歳小倉の小笠原家に逗留までの間を――(彼の壮年期に)
そこで第一期の少年時代の世状と、彼の郷土における逸話や、関ヶ原へ出たことなど思い合せてみると、大体、その心持や当時の四囲の事情も
まず、思想的にも、彼は大きな教訓を、時勢の事実から与えられたろう。それから片田舎の眼界を、急激に、中央の
彼の素質が、関ヶ原を契機として、一転したことは、疑うべくもない。
それから第二期の――大坂落城と世間の

すでに二十一歳の折に、また二十九歳の青年時代に、一乗寺村だの巌流島で、あれほどに、しかも京都や九州の中央の地から、武蔵の名は、相当に当時でも喧伝されていたはずである。――そうした時代の
彼の目がけた「道」への究明と、それに伴う「人間完成」の鍛錬のためには、どうしてもそう成らざるを得なかったに違いない。たとえば、武蔵が生涯、妻を
彼が細川忠利から宅地をもらって、安住の日を得た時は、もう五十七歳だった。
おそらく、妻を娶る間も、何を顧みる間もなかったのである。それでもまだ
彼の一生涯のうちに、世の中は、前にいったような急転変を告げた。関ヶ原の敗戦に会い、その頃の“戦後派青年”のひとりとなって何も頼るもののない社会につき出されたのである。そして、暗黒な戦国末期から、次への過渡期を越え、江戸文化の初期にまで
急変してゆく世相の中に立っても、彼の志操は変らなかったが、境遇はそれに順応して行った。彼は処世
それにしても、彼の晩年の哲理だの、高潔な隠操生活などから推して、武蔵が、弱冠からすでに大成した聖者めかしていた人間とは、私も考えていない。
むしろ人なみすぐれた体力と意力の持主であったことから考えて、欠点や短所も多分にあったと観たほうが本当だろう。得て一道に没入してひたむきな人間は、社交的には、人あたりのごつい、
その他にも、随所随時に、武蔵の言行や逸話などを検討してゆくと、かなり肌に粟を生じさせるようなふしもあるし、もし現代のわれわれの中にいるんだとしたら、ずいぶん
それとまた、武蔵が、天正十二年の頃に生れたということがそもそも、すでに彼の素質に不遇を約束されていたような気もするのである。なぜならば、時流の大勢はもう
だが
それは寛永や慶安の頃になってもまだ、夢から覚めない無数の浪人があった程だから、大坂陣、関ヶ原役前の時人に、時流が見えなかったことは、むりもないのだった。武蔵なども、その弱冠の多血多恨な年頃には、やはり時流の誤認者のひとりだったかもしれないのである。そして時には時代に逆行し、時代に
しかし、それにも
彼以前にも、
武蔵は、その点で道風の興立と達成に、選ばれて生れ出た使徒であるといってもいい。彼の生い立ちや境遇からして、約束づけられたもののように、自然に実践を重ねて行った。
武蔵以前の、上泉、塚原、柳生の
幼少からの不遇や、時勢誤認の失意や、次々の苦悩のうちから、武蔵自身も、また自己の行くべき目標を、その一路に見出して、初めて「
有名な彼の遺文「
だからあれをよく観て武蔵の心胸を汲んでみると、武蔵自身が認めていた短所と性格の一面が歴然と分ってくるのである。たとえば、
我れ事に於て後悔せず
と、書いているのは、彼がいかにかつては悔い、また、悔いては日々悔いを重ねて来たかを、ことばの裏に語っているし、また、
れんぼの道、思ひよる心なし
と自ら書いているのは、彼自身が自身の心へ云い聞かせている言葉であって、その情血のうちには、常に手綱を離せないもし表面の文字どおりに、自身に何の不安も認めないし、
武蔵は、画家ではないが、画人ではあった。
もとより余技に描いたのであるが、その画は、卓抜した一見識のあるものである。武蔵研究のすすむにつれ、いまでは、日本美術史上からも、逸すことのできない一人となっている。
いま
それまでの
画史の上から
だから、彼としては、決して流行的な風潮に乗じたのではなく、むしろ、ようやく本来の
しかし、実際問題として、いくら剣によるひとつの自然直観がすぐれていても、筆のあつかいやまた、線描だの溌墨の技術には、相当な画修行もしたにちがいないことは、いうまでもない。ただ、彼の場合は、その最晩年作とおもわれるものを見ても、どこかに、
どうして、彼が、画を描くような気もちになったろうか。――理由はいろいろに考えられる。しかし、これは現代人のわれわれからは、一見奇異であるが、その時代の時代常識からいえば、べつだん、特別なことではないのである。驚くべきは、ただ、それが非常にすぐれたものであったというだけのことでしかない。
総じて――といってもいい程に、武蔵の生涯した時代にかぎらず、その以前の室町期でも、また以後の江戸初期の頃をながめても、一体に、むかしの人は、多芸多能であった。
こころみに、
剣の人でも、武蔵以外に、画人はないというわけではなく、自分は見ていないが、上泉伊勢守の新蔭堂に遺した自筆の
要するに、古人にとっては、余技もまた一つの人格構成の常識として、持たれていたにちがいない。現代人は、趣味を、自分の職業する“道”から忘れるために――慰労のために趣味に遊ぼうとするが――古人のそれは、反対に、自分の天職の“道”を中心において、その中心を研くために――画筆も
しかし、宮本武蔵という名ほど、長く誤られて来たものはなく、その起因は、江戸時代に行われた全く根拠のない院本物、演劇などから来た先入主である。武勇伝物、仇討物、武者修行物の講釈師張りな通念が、岩見重太郎も、塚原卜伝も、荒木又右衛門もみな同じような型に語りつたえ、その中に、武蔵の名も同型な観念にくるまれたまま、漠然と、しかも動かし難い、先入主のうちに久しくおかれていたのである。
従って、彼が画人であったことなどは、全然、一般には無関心であった。ごく最近まで、それを意外とする感は知識人にすら多かった。武蔵の遺墨展を見たり、遺作に接して、初めて、彼の芸術的な半面を知ったという画家すらあった程である。
従って、過去の画史画伝の諸書のうちでは、画人武蔵の地位も、極めて、傍系的な一余技作家の程度にしか扱われていないことは、その当時の常識として、仕方がない。
白井華陽の「画乗要略」には、
「宮本武蔵、撃剣ヲ善クス。世ニイフ所ノ二刀流ノ祖ナリ。平安ノ東寺観智院ニソノ画有リ、山水人物、法ヲ海北 氏ニ習フ。気豪力沈」
と、みえ、また「近世逸人画史」には、
「武蔵、肥前小笠原侯ノ臣ナリ。剣法ニ名高シ。絵事ノ事ハ絶エテ人知ラズ。ソノ画風、長谷川家ニ出ヅ。二天トイフ印章ヲ用フ」
そのほか、本朝画纂だの、古今書画便覧だの、古画備考だのという画史の記載も、ほとんど、こんな程度のものである。ただ、これらの画史伝のうちにも、往々、その頃の怪しげな流布本の武蔵伝をそのまま踏襲して、武蔵を、肥後熊本の加藤
彼の経歴ばかりでなく、その画評や画歴についても、臆測のみで、一つも史的な確実さのあるものは見あたらない。「ソノ画風、長谷川派(
ただここで、特に、一言を要するものは、「増訂古画備考」の著者が、
(――武蔵トハ、武蔵範高 トイフ者デ、剣客宮本武蔵ハ、絵ヲ描イテ居ナイ。所ガ、稀
、武蔵トイフ同称ノ為、誤ツテ、範高ノ絵ガ、剣客武蔵ノ筆ト誤伝サレテ来タモノデアラウ)
という疑問を出していることである。
この武蔵の画人否定論は、他書にもみえ、その出どころは「本朝画纂」の記事である。ところが、その本朝画纂の記載には、
「――宮本武蔵範高、小倉ノ人、剣ヲヨクシ、傍ラ絵筆ニ通ズ。人物山水ニ工 ナリ、画中二天ノ印アリ、範高ニ嗣 ナク、兄某家、小倉藩ニ仕ヘ、今、宮本八右衛門ト称ス」
とあって、まったく、でたらめに過ぎないことが、一見、明瞭である。小倉には、武蔵の養子伊織が仕え、その子孫はつい近年まで門司に住んでいたが、同地の郷土史研究会の会員たちに会ってたずねてみたときも、同家の系図には、範高などと名のった人物はいないということだし、宮本八右衛門なども、当時の読ミ本や芝居には出てくるが、実在の人名ではない。それだけでも、別人説は、とるに足らない問題だが、異説は、とかく人の好奇をそそるものである。この一異説のほかにも、武蔵画はすべて、細川家の
武蔵が、どうして、絵画に関心をもったか。また自身、画を描き始めたかという動機を想定してみる場合、そこに“禅”の仲介があったということを除外しては、考えられない。
室町初期以来の――いわゆる足利水墨の興りを観ると、宋末大陸の画風をもっとも早く日本に招来したものは、いうまでもなく、五山の禅僧たちであって、馬遠、
雪舟も、周文も、赤脚子も啓書記も、

水墨画の生れ出たこういう系脈から、その余風は、戦国期を通じて、江戸初期にいたるも、なお劃然とした一境地を、画壇のうちにもっていたのである。
武蔵が、師事したのではないかと臆測されている
武蔵の画が、友松に
しかし、こういう問題は、専門美術史家にとっても、まだ確説をみないむずかしい研究で、われわれ
剣と禅とは、所詮、べつな道ではあり得ない。
だから、剣の悟道の話は、即、禅に通じるし、禅林の
日常の心的生活においても、禅は、武士の常識ですらあった。まして、剣への直観を
遺墨として、今日伝来されている武蔵の画に「祖師像」の図が多いのを見ても、禅と彼との
先頃まで博物館の特別陳列室に出陳されていた重要文化財「
武蔵の書に、横ものの
直指人心
と書いた四字二行の遺墨があるが、その語そのままな鋭い澄明な眼が、あの「闘鶏図」にもその禅境がある。
近頃、俄然といっていい程に、彼の遺墨――殊にその画が世人から注目され出した。「枯木鳴鵙図」が重要文化財に指定されたのも、つい四、五年前のことである。美術批評家や鑑賞家の間にも、にわかに、彼の画について、論評や
では、武蔵はいったい、禅はたれに学び、画系は何派に属するものか。
生涯、彼が心を潜ませた方面においてすら、誰の門をたたいたか、誰と道契があったか、彼と禅家との交渉さえ、一字一行の文献さえ見出されない。いや、画系や禅家との交渉はおろかその本道とする剣道においてすら、
われに師なし
と、いっている。その通りなのかも知れない。五輪書の序文の一節、
兵法の理にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事に於てわれに師なし
の流儀で、他の余技、書道も茶もいったい武蔵の画などというものは、特に見解を持っていた人のほかは、つい近年まで顧みられもしなかったものである。以前は、美術倶楽部の売立の中などにも、二天の画などという物が出ても、商売人は勿論、鑑賞者も、一顧もしなかった。
それというのが、先にもいったとおり、二天という落款のある画は、あれは宮本武蔵のことではない。九州に同名の凡手の画家があったのだ。それが宮本武蔵と混同されて来たのだ。――という説が信じられていた先入主などもあったらしく、書画商などの間には、よくそういわれたものだった。
その間違いは、先に記した「本朝
宮本武蔵範高、小倉人、有二武略一、善二剣法一、傍通二絵事一
武蔵が範高などと名乗ったことはない。ついでに、彼の姓名や別号についていうならば、
幼名は 弁之助 。また、武蔵
姓名は 宮本氏(地名ヨリ)
新免氏(父無二斎ノ旧主ヨリ許サレタルモノ)
落款には 二天、または二天道楽
印章のみの場合
武蔵筆、と書く場合
折々に違っているが、また書などにはいかめしく、姓名は 宮本氏(地名ヨリ)
新免氏(父無二斎ノ旧主ヨリ許サレタルモノ)
落款には 二天、または二天道楽
印章のみの場合
武蔵筆、と書く場合
新免という姓は、晩年まで用いてはいたらしいが、その旧主から拝領の姓として重んじていたらしく、平常は宮本を通称としていた。そして名乗も、武蔵政名とよんだこともあり、氏も自身藤原とは書いているが、
いずれにしろ「本朝画纂」の範高はどうかしている。そんな間違いから一部に、二天別人説も出たのかもしれない。
事の
「近世逸人画史」
宮本武蔵、肥前小笠原侯の臣、剣名最も高し。絵事の事はたえて人知らず。その画風長谷川家に出づ
あたりはまだいい。肥前小笠原侯の臣はおかしいが、そうだが、「本朝古今書画便覧」の、
――武蔵、二天と号す。肥後熊本の城主、加藤主計頭清正の臣。宮本武右衛門の男、其実は、長州萩の城主毛利輝元の家臣、吉岡太郎左衛門の二男也。幼名官次郎、又画を善す。其画京師東事中、又相州小田原辺にあり。筆力長谷川等伯に似たり
などは、あまり無茶もすぎる記事である。たいがいこの筆法で、画の筆者の
長谷川等伯の流派を倣 った、とか。
海北友松に師事した、とか。
梁楷の画風を慕ってそれを習 んだ、とか。
とにかく何とかかんとか断じているのはおそろしい。それをまた、そのまま受取って帝室博物館編纂の「稿本日本美術略史」までが、海北友松に師事した、とか。
梁楷の画風を慕ってそれを
――武蔵画を好み、海北友松に学び、或は牧谿を模倣し、道釈人物花鳥を能くす。
などと書いているのは、その方面にはまるで素人のわれわれが見てもいけないと思う。不親切な記載の仕方であろう。ではいったい、武蔵は誰に依って、画を習ったのか。
再度、疑問が出ようが、武蔵自身が、あれほど明白に、五輪書の序文に「われに師なし」と云い、「――兵法の理をもつてすれば、諸芸諸能もみな一道にして通ぜざるなし」と書いているのだから、それを信じたらよいではないか。
また、あの五輪書の序は、その文にも見えるとおり、
兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬のこと、書物に書き顕 はさんと思ふ。時に寛永二十年十月上旬、九州肥後の地、岩殿山にのぼり、天を拝し、観音を礼し、仏前に向ひて――
から書き起して、
天道と、観音とを、鏡とし、十月十日の夜、寅の一点に筆を把 りて
と、で、自分などは、
なるほど、武蔵の画に接すると――といって私はまだ多くの真筆を観る機会にも恵まれていないのだが――一部自分が観た範囲においても、彼の画風というか、
だからというて、友松に師事したなどとは、何処からも証拠だてられるものはない。梁楷を学んだといっても、北宋の
この相似は、誰を
要するに、彼に師はない。また、物に誰を学んだというのでもない。彼も時代の中に在った人である以上、時代の現われを画に帯びていたまでのことである。
しかし、自分はじめ、細川家の屏風「
私はそれについてこう思う。
彼の画には、写生がない。また、南宋の筆意や、藤原鎌倉以後の仏画の影響も見られない。土佐派の
墨。――この東洋的な単一と深さと無限な色とを含んだものに、充分彼の好むところは合致していたし、また、墨なれば何処にでもあるし、遊歴中の身でも、読書随所浄土の式で、いつでも習画できるし、画三昧に
で、彼は墨画を主とした。
また彼の鑑画の眼は、その青年期の遊歴中に、自然養われたものだろうと思う。
武者修行と寺院との密接な関係を、ここでも考え合せずにいられない。
短い時は一夜二夜、永い時は半年も一年も、寺院に逗留していたことはままあろう。当時の民間では、容易に見難い名画とか美術品に親しむ機会は、貴顕の門を除いては、寺院のほかになかった。
そこには、中国からの宋、元の名画もあった。また、東山時代の巨匠たちの描いた
敢て誰の画風ということもなく、武蔵はそれらの画に親しむうちに、いわゆる彼のいう「一道に通ずれば万能に達す――」の信念で、独り描き独り楽しみ、いつとはなく彼の画格なるものができて来たのではあるまいか。またそこには、彼の天質に美を感味する素質と、それを表現する才能が、必然にあったことは勿論としてである。
それと、もひとつは、彼の知己、交友の感化というものも、非常にあったろうと思われる。茶の道に、或る日の閑雅を愛し、禅の交わりに、心の語らいをする友などあれば、そこには必ず画が語られ、書談が生じ、茶、禅、画といったような一味に
しかし、この知己の範囲も、武蔵の交友も、熊本に落着いた晩年以後のことは分っているが、五十歳以前の彼が遊歴中の前生涯では、殆ど分っていないのである。彼が
茶をやったのは、彼の何歳ぐらいからか。おそらくそれも、細川家へ行ってから後とは思われない。その以前小笠原家に足を留めていた折、また、出雲の松平家にあっても、諸家の門で茶の饗応にはしばしば招かれていたにちがいないし、禅家にも、ささやかな民家ですら、茶はさかんに行われていた時代なので、武蔵も壮年から或る程度のたしなみはあった筈に思われる。
茶事の場合は、貴賤の
今日の茶席に掛けても、武蔵の画が、茶席にぴたと融和しているのを見ても、武蔵が相当にふかく、茶人でもあったことを証拠だてていると思う。
一面、彼のあった慶長から元和にわたっての絵画や工芸は、
その中にあって、彼も或る頃には、供の者六、七名を連れて遊歴したこともあるとはいうが、彼の作画などには、いわゆる桃山時代色の
彼が
いちばん多い図は祖師像――
人物画では、布袋図、花鳥図では
あの画を、画として論じるならば、到底この程度の評語では尽きない。武蔵としても怖らく会心の作ではなかったろうか。あのかなり長条な
われに師なし。兵法の理をもつてすれば
と武蔵が自身いっている声がどこかで聞える気がする。どうして梁楷があの一枝の枯枝でも描こう。友松でもない、等伯でもない。いわんや後年彼が身を寄せた細川家の抱え絵師矢野考証好みする人は、その矢野三郎兵衛吉重の門人帳に、武蔵の名が見出されることや、また、同じ細川藩の抱え絵師であった点などから、晩年吉重について画を学んだとする者もあるが、早計であろうと思う。恐らくは訪問の折にその問帳へ記名ぐらいはしたかもしれず、また、吉重との間に絵画のはなしなどは交わされたこともあろうが、門人帳に麗々と載っていることからして不審である。田能村竹田が若年の時、たった一度、
また、事実、晩年の画をつぶさに見ても、吉重について、画風に変化が起ったような風も見えない。
ただ、熊本の野田家(武蔵の円明流の継承者で、細川藩の師範野田
そういう遺品があった点などから見るも、画事について、墨とか紙とか、用具などに、吉重から便宜をうけたり批評を聞いたりしたことはあるかもしれない。またそれに対して、
野田家のことに及んだので思い出したことがある。かつて私が熊本の史蹟を巡りに行った時、同行のN画伯の友人たちが集り、その野田家のうわさが酒間によく語られていた。
野田一渓種信というのは、細川藩の臣で剣道方を勤め、宝暦頃の人である。武蔵が藩に遺した円明二刀流の五代目の相伝を承け継いだ人物である。
武蔵の流儀は、彼が在世中の直弟子、寺尾藤兵衛
この野田一渓はまた、画をよくした。
武蔵の自画像といわれる画は、一渓が画いたとか、一渓が伝写したものとかいわれている。
そういう関係から、野田家には武蔵の遺墨や遺品が一まとめ持ち伝えられ、それは古い長持にいっぱいあって、つい大正の初年頃まで、野田の旧家の土蔵の奥に押込んであったそうである。
明治から大正頃の野田家の当主は、野田
で、当年の記憶から、N氏は私を同行して、その野田家を訪れ、遺品を見せてもらうことになっていたのだが、熊本在住の人に聞いてみると、その野田家はもう十数年前に、家宅も売払い、所蔵の品もすべてその前に散逸して、野田家の人々の行き先も消息も、今では知る者がないとのはなしであった。
そういう噂が出るたびに、N氏を始め熊本の人たちが、口を極めて惜しがっていたのは、武蔵の遺品がいっぱいあったという長持のことだった。
聞いてみると、野田家の息子は、父鋤雲氏の歿後、さかんに
ひと束に、丸めてあった画稿という中には、達磨の図とか、達磨の顔とか、肩のあたりまでとか、未完成で反古とした書損じが、同じ図ばかり何枚となく一まるめにしてあり、花鳥画ならば、やはり同様に三筆四筆落して途中で止めた物が、幾つか束になったまま、長持の
それを、書画商の智恵で息子どのが、自分で書き足したり、偽印を作って、
息子どのの友達のうちには、その恩沢の余慶にあずかった連中もあろう。当時を知っている人のはなしだから満ざら嘘とは思われない。世上流布されている武蔵の画のうちには、半分武蔵の真筆で、半分は野田の息子が
書き損じといえば、今、細川家所蔵の「蘆雁図」の
また或る時、
「自分の画はまだ到底、自分の剣には及ばないものだ。――なぜならば、きょう君公の御前で描けといわれた時には、どこかに、巧く画 こう、君公が見ていらっしゃるというような気があったので、拙 いものとなってしまった。――しかし今、自分の兵法の心をもって、無念無想の裡 に描 いたものは、自分の意にもぴったりした物に描き上がっている。太刀を把 って立出る時は、われもなく敵もなく、天地をも破る見地になり得る我も、画に向ってはまだ、剣道の足もとにも及ばない」
と、そういって嘆じたという。このはなしでも、彼の画が、単なる師法や模倣をうけて、甘んじていたものでないことは分る。
同時に、今日、重文にまで推されているほどな彼の画を、彼自身は、画はまだ自分の足もとにも及ばないもの――と嘆じていたかと思うと、いったい彼の剣道は、どれほど深遠な域にまで行っていたものか、想像も及ばない気がしてくる。
先に武蔵の印章のことをいったから、ついでに一言してみる。武蔵の画には、印章のみの物が多い。ほとんど、といっていい。
たまたま、武蔵筆ぐらいな、簡単な
もっとも、画風としても、それのないのが当然ではあるが、彼の画歴や年代を観る上においては、まったく何の手懸りも得られないので、その点が遺憾である。
印章には、
思うにこれは、武蔵自身が、印章などは、何の意にも介していなかったのではあるまいか。失えば失ったまま、要あれば要あるまま、自分で刻しては用いていたように考えられる。勿論、彫刻にも手すさびのあった彼ではある。けれどその印章の
かつて、新聞の小ニュース欄に、M家に伝わる武蔵の
私もまだ一見していないが、その屏風は以前から著名なものであった。M家の祖
この屏風と共に、M家に伝わっていた幅で、おどり布袋の図がある。杖に袋をかけた布袋がおどっている武蔵にしてめずらしく
武蔵の画は、何といっても、細川家と旧熊本藩士の家蔵として最も多く所蔵されて来たのは当然であるが、なお、姫路の本多家、小笠原家、
自分が宮本武蔵を小説に書いているので、私に見せたら分ると考えちがいするのか、自分が熊本地方を旅行している間は、毎日、旅館へやって来られて二天の画があるので
自分のような凡眼で見ても、そうして持ち込まれた画幅や書には、一点も真筆かどうだろうと迷うほどな物にも出会わなかった。すべてその作家のいたとか縁故の地ほど、その作家の真物は少なく、偽物の
禅家の書の落款を入れ替えたもの、或は狩野風の無落款な時代物へ印章を後から加えた物などは、まあまあいい方というくらいである。
また、常々自分の宅へ遠方から送りつけて来る物にも、まだ一遍も頭の下がるような物があったことはない。この手数のかかる
とにかくない。滅多にというより、絶対にといってよい程、真筆はない。
私の知人のあいだで、まぎれない真筆として拝見させてもらったのは、済々黌の井芹経平氏から遺物に贈られて持っているN氏の
かつて増上寺の前管長大島
結局、今、武蔵の真筆に接するには、遺墨展か博物館に出陳される折に見るしかない。勿論、巷間に絶無とはいわないが、以上のように稀れなのである。
その稀れなものが、しかも武蔵の作品中、第一の傑作といわれる「枯木鳴鵙図」を、偶然にも、自分の宅へ持込んで来たはなしがある。これは今の所蔵者は、長尾欽也氏とわかっていることだし、重要文化財に指定されて、その名幅たる位置も、厳然となっている今日なので、書いても決して、所蔵者をも画幅をも傷つけることにはなるまいと思われるので、閑話休題として、茶ばなしに語ってみる。
健忘症なので、もう十何年前になるか、八年ぐらい前か、よくは覚えていない。ただ、自分がまだ芝公園に住んでいた時代。そしてまだ朝日紙上に、小説宮本武蔵も書いていなかった頃である。――だから多分そのくらい前のことだったと思う。
時々、
風呂敷を解かないうちに、何かね、と訊くと、宮本武蔵の画ですという。まず訊くだけで閉口した。その頃まだ、小説は起稿していなかったが、武蔵については、名人である、いや名人とは言えないなどと、直木三十五や菊池寛など、同人間でとかくよく話題になっていたし、武蔵の絵などが、そう風呂敷につつまれて、簡単に先から持って来てくれるわけのものでないくらいは自分も知っていたからである。
しかし、これは名幅です。どこやらに出品したこともありますし、それに箱書は、渡辺
ところが、この減らず口の罰があたってしまったことになった。というのは、折角、箱の
箱は
どうしてこんな名幅が風呂敷にくるまれて転々しているのか。私はむしろ不審を抱いてしまった。たしかずっと以前にも、この幅は博物館に出陳されたことがあったと記憶している。また、この幅について伝わっている渡辺崋山の逸話は有名なはなしである。一番最初は、崋山が町の一店舗から発見したものである。で、箱書をも書いているので、崋山伝のほうにも、よく出るはなしだし、また、何かの美術書でも、この画の写真版は見たこともある。とにかく、こんな
崋山が発見したという逸話を
はいって、
そういうはっきりした来歴のある名幅なのである。この幅でもまた、先に書いたM家の花鳥屏風の図にしても、武蔵の画は、直観何ものか心線を打つものがあるとみえる。
花鳥屏風にはまた、こういう話もある。
わたしは、わたしのような一書生の貧屋に、こんな
で、どうして売りに出したのか、わけを聞くと、その店員の方は決して私みたいに、こんなものに驚いたりなどはしていない。殊に、宮本二天などはほとんど向く客がない。実は今度、倶楽部へ出す客の荷の中にあったのですが、お望みなら荷主にはなして先へお取りになっておけば、倶楽部でお取りになるよりはお安くもなりましょうし――というひどく簡単な挨拶だった。
欲しいと思った。何度も繰り拡げて、未練がましく見たものだったのだが、自分などの趣味につかう金ではとても届かない値だろうし、また、小向いでこんな物を取って、後で何ぞいざこざでもあったら嫌だし――などと思ったので、では倶楽部へ出るなら倶楽部で札を入れて貰うよ、とあっさり云って帰したものである。
が、それもつい忘れて数日経たぬうちに、私は関西へ旅行に立ってしまった。帰宅してからふと思い出し、あれの出る倶楽部はいつ頃かと、なお一脈の未練をもって電話して問合せてみたところ、もうきのうとか一昨日とか開札は終りました。へい、あの二天の画もさるお客がお取りになりまして――という返辞である。
まもなく郵便で開札の高値表が届いた。何気なく見てゆくと、宮本二天画、枯木鳴鵙図、五八〇円と落札値が出ている。
それでも、その店員も、また美術倶楽部の札元たちも、決してそれが安かったとは、誰もいっていなかったものである。それ程、わずか十七、八年前には、武蔵の画には、一般の鑑賞家もまた、美術商も無関心で、たまたま、望む客があっても、むしろ物好きに思われるほどだった。現在の所蔵主へ移るまでには、なおそれから幾人もの手を転々して、価格も数倍、数十倍に昂騰して行ったに違いなかろうが、さるにても国宝級のものが、つい十七、八年前までは、そんな境遇にあったということが、何かおもしろく思い出されるのである。
寛永二十年の晩秋、彼が、岩殿山の一洞に
霊巌洞は、熊本市の郊外二、三里の距離にあって、かつて自分もそこの岩殿寺や、山下庵や鼓の滝のあたりなどを、武蔵の遺蹟を訪ねながら一遊したことがある。
熊本市の西南を囲む金峰山一帯は、ちょうど、京都の東山といったような位置と景観をもち、市街からその金峰山の峰道へ入って行った山ふところが、岩殿山、
霊巌洞は、岩殿寺の奥之院というかたちで、寺からまた一山越えた山裏の中腹にあり、洞窟の前からも、有明の海が、はるかに見えた。
この辺りの、渓村や小さな滝津瀬などは、なかなか景趣に富み、肥後の小耶馬渓などともよばれている。旅客は、小さい枝付きの
土地の人はこう云い伝えている。
「武蔵は、この辺の土地が、好きだった。それは自分の生れ故郷の景色と、この辺の景色がよく似ているからであった。閑 があると、岩殿山へ遊びに来て、幼い日のことを思い出していた」
私は、武蔵の出生地の千葉城の居宅をあけて、始終、この山へ来ていたという武蔵の気もちには、ふと、人間の子らしい、そうした回顧もあったはずである。すでに、その頃の武蔵が、病がちで、余命を知っていたことも事実らしい。何よりは、精神的な打撃もあった。晩年無二の知己とたのんでいた細川忠利と別れたことは、多くの寂寞を彼に与えた。忠利死後は、藩にあっても、彼はまったく、日常の事を廃して、詩歌、茶道、禅画などに遊んで、そして、姿が見えないと思うと、この霊巌洞に来て、独り、座禅していたといわれている。
洞窟は、立って自由に
それにしても、中は、ほの暗く、しばらく立っていると、岩肌の
武蔵は、ここに、坐ったのだろうか。
そして、
五輪書の序文にある――旧暦十月上旬の頃といえば、もう冬で、洞壁の雫も、滴々の水も、氷のような冷たさであったろう。
こうして、数年、彼の
――世間、奇怪の説あり
と、一書に見える。つまり、霊巌洞中の彼のすがたや、山里の家から見える山中の燈火に、百姓たちが、いろいろ怪しんだものだろう。風説は、城下にも高かったらしい。そこで、藩老の長岡監物が、鷹狩に事よせて、武蔵の起居を、ここへ訪ねに来たりしている。おそらくは、世間の誤解もあるし、武蔵の老体を案じて、千葉城の宅へ戻るように、
だが、武蔵は、ついに、ここの洞中で、座禅したまま死んだのである――とは、ここの岩殿寺で云い伝えていることである。もっとも、家僕として、増田総兵衛、岡部九郎右衛門の二人が、朝暮に、何かの世話はしていたらしく、すぐ二人が、武蔵を、熊本の私邸まで、背負って帰った――そして数日の後に、息をひきとったので、岩殿山では、まだ絶命はしていなかった――ともいうのである。
後者の説の方が、前後からみて、どうも真実らしい。
いずれにせよ、彼の五輪書は、こういう環境と、彼のこういう心態のもとに、書かれた。
全文は非常な長文であるから、元より、一気に書かれたものでなく、翌年、或は、翌々年までへかけて、折々、筆をすすめたものだろう。
全文を、地、水、火、風、空、の五巻にわけてある。
第一の「地の巻」は、兵法の総論、二天一流の基盤を説いているので、これを、地と名づける。第二は、身と心との、自由、
第三は、「火の巻」である。第四「風の巻」それぞれあらゆる処身の妙を、微に入り、細にわたって、究理し尽してやまない。
その辞々句々を、細心に含味してゆくと、およそ、武蔵が、六十年の巷で、何を知って来たか、どう歩いてきたか、髣髴と、彼の生涯が、分ってくる。文字の表には、いわれてないことも、歴々と、彼の血みどろな解脱のすがたが――己れに
五輪書中、彼が、もっとも、力をそそいでいるのは、さいごの「空の巻」であろう。ここに至って、この書は、世の通念的な兵法書ではなく、荻昌国や以後の人もいったように、精密なる哲学書である。仏典、儒学、天文、諸芸諸道に参究して、そして、身一つを、犠牲として体得しえた、武蔵独自の哲学といってよい。
だから、彼を剣人というのも当らない。画人というのも当らない、哲人というのがほんとであるという人々もある。
哲人武蔵。それを知るには、五輪書を、精密に心読してみるにかぎる。ここにその全文を併載しようかとも考えたが、何分にも、長文すぎるし、

「五輪書」序(原文)
兵法の道、二天一流と号し、数年
時に、寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地、岩殿山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵藤原玄信 、年つもりて六十。
われ若年のむかしより、兵法の道に心をかけ、十三歳にして、初めて勝負をなす、その相手新当流の有馬喜兵衛といふ、兵法者に打 かち、十六歳にして、但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝ち、二十一歳にて、都に上り、天下の兵法者に逢ひて、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ずといふ事なし。
その後、国々所々に至り、諸流の兵法に行逢ひ、六十余度まで勝負すといへども、一度もその利を失はず、その程、年十三より、二十八九までのことなり。
三十を越えて、跡をおもひ見るに、兵法至極して、勝つにはあらず、おのづから道の器用ありて、天理を離れざるが故か、又は、他流の兵法不足なる所にや。
その後猶も、深き道理を得んと、朝鍛夕錬 してみれば、おのづから、兵法の道に会ふこと、我れ五十歳のころなり。それより以来は、尋ね入るべき道なくして、光陰をおくる。
兵法の理にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事において、我に師匠なし。いまこの書を作るといへども、仏法儒道の古語もからず、軍記軍法の古きことも用ゐず、この一流の見立、実の心をあらはすこと、天道と観世音とを鏡として、十月十日の夜、寅 の一点に、筆を把 りて、書き初めるものなり。
われ若年のむかしより、兵法の道に心をかけ、十三歳にして、初めて勝負をなす、その相手新当流の有馬喜兵衛といふ、兵法者に
その後、国々所々に至り、諸流の兵法に行逢ひ、六十余度まで勝負すといへども、一度もその利を失はず、その程、年十三より、二十八九までのことなり。
三十を越えて、跡をおもひ見るに、兵法至極して、勝つにはあらず、おのづから道の器用ありて、天理を離れざるが故か、又は、他流の兵法不足なる所にや。
その後猶も、深き道理を得んと、
兵法の理にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事において、我に師匠なし。いまこの書を作るといへども、仏法儒道の古語もからず、軍記軍法の古きことも用ゐず、この一流の見立、実の心をあらはすこと、天道と観世音とを鏡として、十月十日の夜、
――筆はそれにつづいて、「地の巻」と書き起し、以下五巻の長文にわたっている。時刻は、寅の一点とあるから、寒烈な冬十月十日の、明けの
序文中、生国播磨の武士とあるのは、母方が播磨なので、云ったものか。祖先赤松氏の支流なることを云ったのか、どちらかであろう。
三十六度の勝負も、越し方を思うてみると、自分の道がすぐれていて勝ったのではなく、他流の不足のためであったと述懐している彼のことばは、永く後世の驕慢者にとって、大きな反省を与えるに足ろう。
五十を過ぎては、尋ね入るべき道もない――としている所、まことに、哲人のつぶやきらしい。しかも、かれはなお、
彼の遺作として、今日、伝えられている物には、何といっても、二天印の水墨画がその大部分をなしているが、ほかにも幾点かの
ここでは、彼の墨蹟について、少し立ち入ってみる。
しかし
それも主なものは、兵法に関する長文なもので、書自体が鑑賞されるような物は、ごく少ない。
森大狂氏が編纂した「宮本武蔵遺墨集」を始め、かつて高島屋で大規模な企画のもとに展観した時の目録を見ても、大体、筆蹟の物は、次の品目に限られていたようだ。
一 五輪書(長巻)地、水、火、風、空の五巻
一 三十五箇条序(巻)
一 兵法三十五箇条(冊子)
一 独行道(巻)
これらは、たいがい、藩主細川忠利のために書いたのと、自分の知己とする者のために贈ったのが、今日、伝存しているわけだが、中には、後に、門流の人が伝写した、悪意でない他筆の物も往々にしてあるので、それがよく武蔵の真蹟として混同されたりしている。一 三十五箇条序(巻)
一 兵法三十五箇条(冊子)
一 独行道(巻)
以上の中で、熊本の野田家に伝わった「独行道」は、正保二年五月十二日という奥書があり、武蔵が死の数日前に書いたものであることが明らかなために、まま彼の独行道を以て“武蔵の遺戒”とする人もあるが、独行道は、決して、ひとのための遺戒ではなく、彼が剋己して来た若年からの、彼自身の持って来た自戒であることは、その内容と文辞を見れば、疑う余地は全くない。
ところで、以上の兵法伝書の類を除いた、彼の墨蹟らしい物をあげてみると、
一 直指人心(四字) 大字横幅
一 戦気・寒流帯月澄如鏡 一行、竪
一 春風桃李花開時
秋露梧桐葉落時 二行、竪
この三点が、伝来も明瞭だし、熊本でも、古くから有名になっている。しかし、なお同筆と見られて、影のちがった物が、遺墨展などに見かけることもあるが、変った語だの歌だのを書いた書幅などは、ほとんど見ない。一 戦気・寒流帯月澄如鏡 一行、竪
一 春風桃李花開時
秋露梧桐葉落時 二行、竪
そこで、こういう点が考えられる。武蔵は、まま、気まぐれに、画は人にも示し、乞われれば
しかし書道の面から見ても、彼の書格には、一脈の禅味と気魄があって、凡筆でないということは専門家も一致して云い、古来定評のある所である。わけて、彼の仮名文字には、剣の人にも似げないやさしさがある。平安朝期の仮名の系脈をひいた風趣すらみえる。仮名の書家といわれる神郡晩秋氏などの細微な観賞にただすと、武蔵の仮名はあきらかに
「直指人心」の四大字がその風趣であり、「寒流帯月澄如鏡」の一行も、自ら題するごとく、戦気瀟々、肌に粟を覚えるような筆勢である。おそらく武蔵は、こういうものを書く時には、単なる書風とか文字とかいうものを見せようとして書いてはいないにちがいない。その語がいっている通り、直指人心の禅機を――また寒流帯月の剣の秘微を――その心境になり切ってただ無我の一
「春風桃李云々――」の二行は、有名な白楽天の長篇詩“長恨歌”の中の一章句である。長恨歌は、唐の玄宗皇帝とその寵姫
もちろん、武蔵は、長恨歌全文を、愛誦もし、白楽天のあの艶麗にして悠遠な構想と宇宙観の
前には、書き落してあるが、この二行の書のわきには、なお細字で、次のような辞句が書き添えてある。
「是兵法之始終也 」
おもしろいと思う。あいにく、長恨歌は余りに長篇だし難解でもあるので、ここに詳解し難いが、あの一篇を吟誦し去って――そして、コレ兵法ノ始ニシテ終リナリ――をごく最近、私は、武蔵の遺墨としては、真に珍しいといえる新発見の一資料に接することができた。それは武蔵自筆の書簡である。
由来、武蔵の書簡というものは、実に少ない。というよりも、書簡はないといってよいくらいだ。いったい、古人の経歴、性格、日常生活などをさぐるにあたっては、その自筆書簡ほど重要な手懸りになる物はないのだが、武蔵の場合には、ほとんど、その経歴構成の脊梁をなすべき――彼と周囲との消息の類が全く欠けている。これは、正確なる武蔵伝を
彼が、細川家に禄仕する前後の二、三の上申書みたいな物や、家老長岡監物宛の同型の物などは、書簡と見るわけにはゆかないし、それを除いては、従来、顕彰会本にも、各所で行われた遺墨展でも、書簡は一通も発見された例しがない。――
〔宮本武蔵書状〕(広島市八丁堀新見吉治氏旧蔵)
尚々 、此 与右衛門 儀 、御国へも可参 候間、被成御心付 候て被下 候はゞ、可忝 候、以上 其後者 、以書状不申上 、背本意 奉存候、拙者も今程、肥後国へ罷下 り、肥後守念比 ニ申候ニ付而、逗留仕居候、於其元 御懇情 ノ段 、生々世々忝奉存候、我等儀、年罷寄 、人中へ可罷出 様子無御座、兵法も不成罷体 ニ御座候、哀れ今一度、御意度得存候、然者、此与右衛門ト申者、我等数年、兵法などをしへ如在 なき儀ニ御座候間、御見知り被成候て、以来、被掛御目 候ハヾ、可忝候、猶重而 可得御意候、恐惶謹言(原文のまま、句点)
八月廿七日
人々御中【原寸、縦一尺一寸八分、横一尺六寸九分】
この一書簡も、つぶさに見てゆくと、なかなか手紙のもつおもしろさや示唆がいろいろある。八月廿七日
宮本武蔵
玄信(花押)
寺尾左馬様人々御中【原寸、縦一尺一寸八分、横一尺六寸九分】
武蔵が、細川忠利をたよって、熊本に来た当時のものであることは、すぐわかる。そして、年来、自分が目をかけている与右衛門という人物を、宛名の者へ、紹介しているのだが、この与右衛門なる者が、武蔵とどういう関係にあったか、従来の史料にはまったく見えていない。
文意によれば、武蔵自身「――兵法など教へあるが如く無きが如く」と微妙な云い方をしている。いわば弟子でもあり弟子でもないといったような関係らしい。しかし「年来」といっているから、熊本に来る久しい以前からの仲だったには間違いない。いずれにしても、彼と生活も共にしたり、或は、遊歴中にも同行していたような一人物ではなかったかと想像されるのである。
宛名の寺尾左馬という人物も、自分には心当りがない。細川家の藩老、寺尾孫之丞勝信、また信行などの同族の人で、しかも熊本を離れた知行地に在任の者でもあろうか。そんな考えもうかぶが、あてにはならない。宿題として、なお他日再考してみる。
書簡と武蔵との、概念をいうために、本題がすこし横道へ
いろいろ話しているうちに分ったのであるが、この人は、もと有馬家などへ出入りしていた青山学院附近のS古書店の息子だった。抱えて来た一括の古文書類は、その古書店をやっていたN青年の父親が、ずっと以前に、有馬家の書庫整理の際に、一まとめに買入れておいた物だという。
古文書類はすべて、寛永十四年に、肥前島原地方に起った世にいう“天草の乱”――切支丹軍の
その島原陣には、幕府から板倉重昌が司令となって遠征した。しかし思いのほか、切支丹軍の勢力は強大だったため、幕府は、さらに、松平信綱や戸田氏鉄などを、首将に任命して西下させたが、その間に、板倉重昌の戦死するなど、一時、西日本一帯に、騒然たるものがあって、翌年三月下旬に、やっと原城を陥落させ、ひとまず、平定を見たものだった。
原城は、もと有馬氏の分城だったが、この時、板倉成政に任せられていた。しかし、近藩ではあり、如上の関係から、有馬家は、終始、先鉾に立って、もっとも力戦した。
武蔵も、この折、豊前小倉の小笠原家の人数に加わって参戦していた。武蔵の養子宮本伊織が仕えていた関係によるのである。そして伊織は、侍組の一隊長という資格であったという。
N氏が私に拡げてみせた古文書のすべては、その時の有馬家の祐筆や陣務の士が、家録に備えたり、また幕府へ報告するために記録しておいたらしい地図、陣名簿、往復公文書の写しなどで、かくべつ私にとって、興味をひくほどな物でもなかった。
しかし、それと附随して伝世されて来た一函の書状筥があった。特にそれを納めるべく作ったもので、黒塗の上に、金粉文字で、「島原御陣之節之御書状十六通」という函題が蒔絵してある。
保存がよく、中の書状はみな、奉書折のまま、昨今の物のように思えるほど真っ白である。一通一通見てゆくと、みな島原在陣中のもので、宛名はすべて、
差出人の方の名には、参軍の各将の人々が殆ど見られる。松平信綱、立花宗茂、黒田忠之、寺沢
それとまた、後に武蔵が身をよせた肥後の藩主細川忠利の書面も、二通まで、この中に入っている。文言は、各将いずれも、かんたんな戦陣の儀礼的なものでしかなく、内容については、さして、これという程な価値のある物とも思えない。
ところが、この十六通のうち、ただ一通、非常に手ズレもしているし、汚れのひどい一書簡がある。これは、他の奉書文書とちがって、紙質も杉原紙のように茶がかっており、何しろ、そッと
これが、武蔵の書簡だった。
武蔵の書簡として、これ程、まざまざと、明瞭なものはない。自分も初めての触目だし、おそらくまだ世間にも紹介されたことのない物にちがいないので、
そこで手紙の内容であるが、その達筆とあの時代特有な文辞は、なかなか解読にむずかしく、おまけに紙ヤツレや淡墨の部分も判読するのに困難を極めるが、大体、次のように読まれる。(句点は著者。その他原文のまま)
玄信
宮本武蔵
有左衛門様小姓衆御中
文面で見ると、これは明らかに、武蔵が島原在陣中の、しかも原城陥落の激戦直後に
従来、彼が島原の乱に参軍したということは、碑文や後伝の書には記されているが、彼自身の足蹟として、証拠だてうる史料は何一つなかったのだが、この一書簡に依って、確実に、彼の島原参陣が明らかにされていることは、この書簡のもつ、もっとも大きな文献的価値といってさしつかえない。
殊にまた、彼の直筆として、「……せがれ伊織儀」と、伊織のことに言及している点など、親子の情も見るべく、歴々として、当年の心事を想到するに足るものがある。
文意の大体を、解説するならば――まずこうも云おうか。
さきには、お心づけの御尊書をいただいて、誠にありがとうございました。くだって、せがれの伊織も、御成の事に(何か随身の列に立つことでもあろうか? なお後考を要する)立つそうで、よろこばしく思っております。また、わたくし事は、どうも老人の足のこととて、これはどうか、お察しねがいたいものです。
あなた様、御旗下様、御家中たちへも、(手先にて申置候――ここ、意味不明、原城乗入れのことかもしれない)殊に、御父子におかれては、本丸までも、早々にお立ち入りになったそうで、まことに、目ざましい心地に打たれたことでございました。私は、あいにくと、石にあたって、脛 も立ちかねております。そのため、お目見得にもまだ伺えませんが、なお、かさねてお目にかかられるものと存じております。
――文辞は非常にかたいようだが、あなた様、御旗下様、御家中たちへも、(手先にて申置候――ここ、意味不明、原城乗入れのことかもしれない)殊に、御父子におかれては、本丸までも、早々にお立ち入りになったそうで、まことに、目ざましい心地に打たれたことでございました。私は、あいにくと、石にあたって、
元々、武蔵が遊歴中に、何かのことから縁故や恩顧をうけた藩としては、出雲の松平家、姫路の本多家、尾州徳川家、榊原家、小笠原家、またこの有馬家などが、挙げられている。中には、その当時にはあったこととして、一種の
それはともかく、この書簡は、武蔵と有馬家との関係を知る上にも、唯一の文献といってよく、すでに彼ばかりでなく、伊織もまた、有馬直純に、
――でもなければ、文中にあるように、貴人へ宛てる戦陣の中の手紙に、自分の足のことなどは、書くはずがない。
その足のことでは、武蔵はしきりに、自分の“老い”を
先に掲げた寺尾左馬宛の手紙は、この島原攻めの時より数年後のものであるが、その文中にも、「……われら儀、年まかり寄り」といったり、「人なかへまかり出るべき様子にもござなく」といい、さらには「――兵法も罷り成らざる
しかし、これは、われわれの観念にある「老い」とはだいぶ隔りのあるものであることはいうまでもない。老格熟達の風を尊ぶ古人たちの間では、四十歳をこえるともう自ら
いずれにせよ、この一書簡は、僅々数行の短文に過ぎないが、いろいろな面から考えて、近来、愉快な発見だった。しかも武蔵研究史料の上にも、従来の兵法に関する伝書的なものの無味
それが、細川
また尾張徳川家に伝わった「蘆葉達磨図」などもそうである。藩祖義直や、柳生兵庫などとも交渉のあった武蔵として、彼の画が、同家に伝わっていたことは、極めて自然なわけである。ところが、尾州家では、それをまったく、つまらない
重要文化財の「枯木鳴鵙図」すら、幕末ごろには、名もない古道具屋の店頭にさらされていた(このことについては、なお別項にしるす)程であるから、その余、一般の認識は、およそ察するに難くない。
だが、おもしろいことには、こういう流転や
大正四年の東京帝国大学卒業式にあたって、陛下の行幸に、従来の例をやぶって、文科部出陳として、美術を、天覧に供すことになり、そのとき選定されたのが、
一 蘆葉達磨図 徳川義親所蔵
一 枯木鳴鵙図 内田薫作所蔵
一 蘆雁図 細川護立所蔵
の三種だった。一 枯木鳴鵙図 内田薫作所蔵
一 蘆雁図 細川護立所蔵
そして、その説明の任に当ったのが、当時美術史担当の滝清一博士であり、陛下にも非常に興味をもって御覧になったそうであるが、武蔵の画が、公的に、美術史の上にとりあげられ、しかもその頃としては、破格といえる、天覧の光栄に会したことは、以後の一般の武蔵観に、大きな刺戟を与えたものであったことはまたいうまでもない。
画を描いた人である。また、あれほど一道に参究した彼である。五輪書の文章は、深遠、難解でもあるが、正しい文脈をそなえ、彼が、文筆にも無関心の人でなかったことが充分にうなずかれる。けれど、彼の詩歌として遺っている明かなものはない。ただ、伝えられる和歌数首と、俳句の一証が見られるだけだ。
武蔵の和歌として伝えられているのは、次のような、禅僧の歌にも似たものである。
○
世の中はたゞ何事も水にして渡れば替 る言の葉もなし
教内
人に習ひ我と悟りて手を拍 つもみな教内のをしへなりけり
教外
習ひ子は悟りもなくていたづらに明し暮すや教外ならむ
世の中はたゞ何事も水にして渡れば
教内
人に習ひ我と悟りて手を
教外
習ひ子は悟りもなくていたづらに明し暮すや教外ならむ
山水三千世界を万理一空に入れ 満天地をも
契るといふ心を題として
契るといふ心を題として
座禅
座禅して工夫もなさず床のうへにたゞいたづらに夜を明すかな
○
見るやいかに加茂の競馬の駒くらべ駆けつけ返すも座禅なりけり
稚拙といったら、実に稚拙である。和歌のかたちをかりて、べつな自分のいう所を述べているにすぎない。しかし、乾坤の一首のような内容、またその題語の調子などから見て、これは正しく武蔵の歌であると見ていいと思う。
このほかに、自分がかつて観た、彼の自画像の自賛の歌などもあるが、果たしてどうかは、確言できない。
それよりも私が興味ふかく思ったのは、往年、天理教の中山正善氏からわざわざ「武蔵の俳句がある」といって貸してくだすった天理図書館蔵本の「鉋屑集巻第二」という江戸初期頃の句集に、
わかっていそうで、皆目わかっていないのが、武蔵と禅門との交渉である。
誰かひとりぐらいは、禅家の人物で、武蔵と心交の篤いものが知れていてもよい筈であるが、二天記その他、信ずべき武蔵史料中には、一行半句、そのことには及んでいない。
もっとも晩年熊本へ行ってからは、
小説の上では沢庵を借りて、その空白を埋めているが、沢庵と武蔵との直接な関係は、文献には見当らない。
私が多年知りたいと念じていたのは、彼が
で、最初は沢庵の経歴を緯に、その交友と道業の知人を縦に、つぶさに調べて行ったが、沢庵と柳生家、沢庵と細川家、わけても沢庵と細川家の藩老長岡佐渡、その他京都を中心とする当時の文化人、
しかし私が、小説のなかに、沢庵を
創作の上では、それでも事足りてはいたが、一面そこの空白面は、史上の武蔵を突止める上において常に満されない気もちでいたところ、偶然、武蔵と禅門の関係について、ふとした物から一曙光を見出して、数ヵ月をその考究に費やして、まだ望むほどな解決は得られないが、ややそのことについて、暗示を得たここちがした。
それは一
それよりずっと前から、その経師屋は、私に、
――上野の寛永寺の
という話などしたが、武蔵の画というと、私はまたかという先入主に
表具も古い仕立のままで今日まで手入れをした跡はない。半切幅のやや
画は、朱衣を着た「祖師像之図」である。その
私はまずこれに面くらった。見当がつかないのである。およそ偽物の画というものには、必ず前例ある実物の偽印が用いられてある。殊に、武蔵の印章には、
それと、この画は、武蔵の画の
一見して、いけないと感じた。だが、祖師の眼光や、彩色の折、
賛をしている人も、いったい誰か、僧門の人には違いないがと、もう一度見直すと、
前法山 東寔敬題 ※[#丸印、U+329E、218-18]
千古難消満面埃
龍顔不悦赴邦出
梁王殿上一徘徊
十万迢々越漠来
これも最初私は、この通りに右から読んでいたのであるが、後に、新井千古難消満面埃
龍顔不悦赴邦出
梁王殿上一徘徊
十万迢々越漠来
それはとにかく、画にはいろいろな疑問もわくが、書は微塵も俗臭のない、しかも墨色もいちども水をくぐっていない、いかにもありのままなものなのである。
誰だろう、賛の筆者は。
いろいろ首をひねった揚句、ありあわせの禅林諸家の名や、仏家人名辞書までひっぱり出してみたが「
それよりも先ず「前法山」がわからなかった。
こういう風にこの幅は、全面疑問にみちている。それが私には面白かった。真偽はとにかく、もしかしたら、多年の宿題としている武蔵と禅家との交渉を知る何かの手懸りになるかもしれない。
これを
とにかく折角こういう宿題の物が出たのに、わけもわからず流転させてしまうのは惜しいし、以上の興味もあったので、仲介の云い値にまかせて私は手許に取っておいたが、さて毎日の新聞原稿にも追われているのに、面壁の祖師と睨めくらもしていられないので、いつか突っ込んだまま忘れ果てていると、ちょうど星ヶ岡茶寮の林柾木氏が、美術研究所の
その前に私は、京大図書館で近衛家の文書史料を調べている井川定慶氏に宛てて、いったい
井川君は元、知恩院の住で、僧籍で大僧都の肩書まである半俗半僧の
ところが、ちょうど林氏が訪ねてくる数日前、その井川氏から、明細なる回答が来ていたのである。それに力を得たので、実は、脇本氏にも
前法山
というのは、何を意味するか、自分にも分らないので、日時を費やしていたが、
円通寺は
前法山は、やはりサキノホウザンと読むので、前ノ法山ノ住――の略語であり、法山というのは、妙心寺の別称で、寺史古文書上では常用されている称だとある。
また、東寔については、妙心寺史に詳しいし、仏家人名辞書に載っている筈。ただし東寔で探したから索引できなかったのでしょう。東寔の名はあるが、それよりも愚堂で
と、ある。
東寔愚堂国師、天正五年四月八日、濃州伊自良 に生れ、母は鷲見氏、大智寺の開祖、鷲見美濃守 が末孫といふ。
師八歳の時、富山陽徳軒の宗固首坐について学文を修め、十三歳初めて詩を作り、詩才衆を愕 かす。
同年、東光寺の瑞雲 に参じ、十九の春諸方の名師の門をたたく。
慶長十年、播州姫路の三友寺に掛錫 し、一詩を賦 して寺を退き、後、駿河の清見寺を訪ふ。又、備前の泰恩寺に到り、天長和尚の関捩 を透破し、繋留 久しからず花園妙心寺聖沢院の庸山 の室に投じ(中略)――三十五歳、初めて法山第一坐となり、美濃正伝寺の請に応じ、尋 いで大仙寺の廃を興す。
寛永五年師五十二歳、堀尾吉晴 の女婿 たる石川忠総 の外護により、法山に瑞世 し、紫衣を賜り、爾来 諸国餉参 の衲子、師の道風をしたひその会裡に集るもの無慮――
愚堂の伝は、略伝としても、なかなかこんなことでは尽きない。骨相寒厳といった風貌の人で、逸事も非常に多く、わけて、後水尾上皇の御信任厚く、古来禁中での内裏殿上の説法は、禅林では愚堂を以て師八歳の時、富山陽徳軒の宗固首坐について学文を修め、十三歳初めて詩を作り、詩才衆を
同年、東光寺の
慶長十年、播州姫路の三友寺に
寛永五年師五十二歳、堀尾
また、当時の名僧大愚、一糸、雲居などとも交わりふかく、戦国中御衰微の甚だしいうちに、
寿齢八十五、寛文元年十月
法嗣として、十六哲がある。
無難、錐翁など、その系流から出ている。
在家の弟子には、
横道へそれたが、大体まあそんなふうに、祖師像の賛をした人の輪廓がわかったので、林氏を介して脇本楽之軒氏の感想をきいていただいたところ、楽之軒氏は率直に、――賛については、自分には不明なので感想もないが、画だけについていうならば、画の陰影に、どこか洋画の影響があった時代のにおいがする。すると時代はもっと下りはしまいか。殊に、武蔵の画には、彩画は殆どないとされている。その点もどうか。また、印章にしても、武蔵の印として見たことのない印であるから、しばらくは疑問に
そういう話だったとのことで、まず脇本氏は大体において、武蔵の時代よりは、もっと時代の下ったものという御見解らしく、とすればまた、自分の解しようにも、大いに益するところがあるので、礼状をあげておいた所、脇本氏から重ねて御返辞があり、いつか武蔵の画については、自分ももっと考究してみたいとの意向などあった。
すべて私にとっては、専門外の考究なので、脇本氏からそういわれると、そうかなあと思い、また突っ込み放しにしておいたが、ただ自分に、画はともかく、題語の愚堂和尚の賛が時折気になって、それだけはどう凡眼で眺めて、他人の戯れ筆や偽作とは思えなかった。いつ見ても、いかにも素朴な、禅林の人によくあるいかつさや誇筆の風もなく、素直で淡々たるものが、そのありのままな墨色と共に、見ていていい気もちを与えてくれるのである。
偶然のこと。或る日、新井洞巌翁が私の書斎へ来て、ふと壁間のそれへ眼をやると、
これはいいな。
と座を立って、ややしばらく見ていたが、座へ戻って来て、自分も、五十年に近い南画人生活のうちに、宮本武蔵の画と称するものは、ずいぶん見て来たが、きょうほど何か真に打たれたことはない。これは武蔵の画のうちでも真に傑作といえるものでしょう。細川家所蔵の幾点かの作品と、他二、三の著名な物のほかは、そう自分で深い感銘をうけたものはないが、これなどは、驚目に値するものである。もとより、
そうかなあ。ではいいのかもしれない。
と盲目の持主は、またやや曙光を見出して、そう思ってみると、画の筆魂が急に迫ってくる気もする。
それから数日後、舎弟が、東大図書室の蔵本中にある「新免家伝
急に思い出して、鷲尾博士ならば、仏家の筆跡や古文書の研究では、一人者であるから、
ところが、やがて持帰って来た弟のことばによると、鷲尾博士は一見して、こんなにはっきりしている物は研究の余地もありませんよ。紙質の古いところも元和から寛永、慶長までの間といって間違いはないでしょう。第一それに愚堂の書が明瞭である。愚堂の書は一体少ないものだけれど、自分も幾たびか見て来ている。武蔵の印もいいですなあ。朱と墨とが、描いた時に、どっちかが濡れている間に筆を重ねたので、そこがぼかされたようになっているが、洋画の影響といったような、意識的な技巧じゃないでしょう。とにかく、一見明瞭という物で、そう研究の何のと、宿題にする所のないものですよ。――といったような鷲尾博士の言だったというのである。
その折、鷲尾博士の言葉では、愚堂の書は、すこし若書きかも知れんなあと、
G氏は、紙屋川の法輪寺の住職で、ここは愚堂の師、大愚和尚の住んでいたお寺である。で、寺には今も大愚、愚堂の
で、二天画の祖師像に賛している東寔敬題の下の印章についてもG氏は一見すると直ぐ、
ああこれと同じ印章が、寺の所蔵の物にも
今年の春になって、そのG氏から、御親切に同じ印の捺してある愚堂の書幅と、大愚の文字など、種々、写真に撮ったのを送って下すった。両者つきあわせてみると、寸分異っている所も見出せなかった。
折ふしまた、
私とは十数年前、お互いに震災後の東京から焼け出され、その頃は芋畑やキャベツ畑ばかりで人家も稀れだった高円寺に住んでいた頃、駅の附近の町へ出ると、よく会う老人がひょこひょこ歩いているので、話してみると、篆刻をやるといい、家族もあらまし焼死して、老人ホームにいるのだとのことに、その時、英治という印を
いろんな話の末にまた、私が、
印のことは、貴方ならよく分るだろう。他のことは何もお願いしないが、この画の印章だけを、鑑てくれませんか。
祖師像を
――これは、
というて、決して偽印じゃないな。偽印というものは、巧くとも
いったい、昔の坊さんなど、よう自分で彫ったものでな。多くは木材じゃが、これなども、二つとも、木らしいな。
こういう
このくらいでもうこの問題は結んでよかろう。要するに、東寔敬題となる愚堂和尚の賛だけは、ほぼこれで真蹟ということはいえるだろうと思う。すでにそれが確かめ得れば、紙が古紙か否かなどは、自然に解決することで問題ではなくなる。残るのは画であるが、画のないうちに、賛を先に書くわけもない。――してみれば、愚堂はこれに賛する時に、すでにこの画は彼の眼に見ているのである。
つまらない者が描いた無意味のものに、愚堂ともある人が、賛をゆるすべきはずもない。しかも、敬題するわけは絶対にない。
愚堂にすれば、自分へ賛を乞われた画の筆者が、誰であって、どんな精神で描いたかも、十分知った上での落筆であろう。でなければ、謹厳、敬題とはすまい。
また、武蔵の画には、彩色を
この時代に武蔵の画を始め、他の画家の作にも、また禅家の詩作などにも、達磨を書き、達磨を詠じた作が非常に多いが、その風潮については、私にも一考あるけれど、ここでは余り多岐にわたるから
以上はただ、この画について、真偽の点を追ってみたに過ぎないけれど、私がほんとに知りたいのは、翁が今、不要意につぶやいたところの――武蔵と愚堂和尚との関係にある。
楽之軒氏のお説もあるし、自分はこれをまだ武蔵の真蹟として人に示そうとは思わない。ただ軽い自分だけの興味をもって、貧しい壁間に見ているだけだが、以上諸説を綜合して、ここにこの一画賛の成った機縁を一応認め、妙心寺の大宗愚堂国師と、一剣の道者武蔵とのあいだに、この合作を成す縁故があったものとしたら、
或は徒労かもしれないが、これをヒントにして、私はその後愚堂を中心として、妙心寺と細川家との長い関係や、また、細川藩の藩老長岡佐渡と妙心寺、及び沢庵と愚堂、熊本の細川家菩提寺の泰勝寺と春山和尚、春山と武蔵、春山とその師大淵――大淵和尚と引いて妙心寺や愚堂との入りくんだ関係にまで、物好きな
諸国を修行の床とし、旅を
士道に対して、百姓道を
そんなふうに
ただ時代に依って、それにも幾多の
「室町殿日記」に見られる十二代将軍義晴の天文十一年に、中国の武士
武者修行という文字はまだ用いられていないが、武士の中に、それらしい一色彩が書物に見え出しているのは、以上の二項あたりが、最も古いかと思う。
虚無僧寺史を見ると、それより以前、
総じて武者修行と呼ばれる者には、べつに一定の風俗
「てまえは諸国修行の兵法者である」
と名乗らないでも知れるような、独自な特徴を持った一つの風俗が生れて来たであろうことは想像に難くない。
足利将軍の十代
大勢の門下を連れ、厳しい弓具や物々しい騎馬旅装を引っ提げて、権門を叩いて、射芸の宣布に努めて諸国を歩いたとある。――しかしこういう旅行者も、やがて、後の流行時代には、総じて武者修行の名をもって呼ばれるようになった。
都新聞の学芸部長であった作家の
「何か武道に関する伊勢守の古い文献でも残っておりませんか」
と、お
その伊勢守や、塚原土佐守(卜伝)などが現われた天文、永禄、元亀の戦国初期になると、もう武道は社会の一角面に確立し、それを奉ずる兵法者という専門家の地位も明らかに出来ていたようである。
鎌倉の僧
卜伝、伊勢守などの名が、兵法家として、また、その道流を興して世上に認められていた弘治、永禄、元亀年間に亘る時代には、一方に松本備前守とか、
しかし、弓道では、前にいった日置流の
こういう時代潮流の中で、武者修行は、その発生期を経、愈

上州
「看聞御記」には、伊勢守上洛の記事や、また、伊勢守が禁庭に召されて、その剣技をもって、

塚原土佐守(卜伝)にしても、東海道を上下する折は、いつも六十人ぐらいな従者門人をひき連れ、先供の者には
こう二人も、勿論、諸国廻歴と称し、当時の武者修行者のうちに加わるものではあるが、その生活や風俗は、決して、後に考えられたような樹下石上の旅行でなかったことは確かである。
だが、前の両者とか、伊勢の北畠具教とか、大和の柳生家とかいう兵法家は、やはり当時でも、少数な宗家的な存在であって、一般の武者修行といえば、型の如く、一剣一笠で樹下石上を行とし、克己を主旨として、諸国を踏破するのが、本来であったにちがいない。
彼が京都の民家に一泊した時、
茨組という暴民のことは「室町殿日記」にも見え、
――その装束 は、赤裸に茜染 の下帯、小玉打の上帯を幾重にもまはしてしかとしめ、三尺八寸の朱鞘 の刀、柄 は一尺八寸に巻かせ、鐺 は白銀にて八寸ばかりそぎにはかせ、べつに一尺八寸の打刀 をも同じ拵にて、髪は掴み乱して荒縄にてむづとしめ、黒革 の脚絆 をし、同行常に二十人ばかり、熊手、鉞 などを担がせて固め、人々ゆきあふ時は、
「あれこそ聞ゆる茨組ぞ。辺りへよるな、物いふな」
と怯 ぢ恐れてのみ通しける。
といったような不逞の団体であったらしい。「あれこそ聞ゆる茨組ぞ。辺りへよるな、物いふな」
と
林崎甚助は、後に、上杉謙信の幕下松田
ようやく、武者修行の風が興ると共に、武者修行を名として、仇討、隠密、逃避、その他いろいろな内情をも秘して歩く者が混入して来る傾向にあったことも争われない事実であった。
そしてそれらの雑多な者と、純粋なる求道的廻国者とは、殆ど見分けもつかず、一様に武者修行の名をもって、戦国期から江戸初期にかけては、諸国の都会をまた山村を、流寓して歩いている武士がずいぶんとあったものに思われる。
明智光秀は、信長に仕えるまでの壮年期を、武者修行して送ったと、どの伝記にも書いてあるが、さてどうだろうか。
山本勘助の伝にも、同様な履歴が見える。
こういう人たちの武者修行が、どんなものだったか、知る手がかりもない。勘助や光秀などは、後に、各

光秀の漂泊時代について少し考察してみると、彼の漂泊は二十八歳の弘治元年から始まっている。その年、美濃の斎藤氏の一族の乱で、
その以後、
こう見て来ると、二十八歳の離郷は、城地の滅亡が動機で、それからの十三年間の期間も、多くは大身の門に身を寄せ、また後半は仕官をしていて、その地域も限られているし、武者修行というような目的で、諸州を歩いたらしい足跡はない。勿論、その浪々中困窮はしたろうが、それが直ちに武者修行をして歩いたとはいえない。
むしろその点では、彼の旧主である
――中村能祐、龍空禅師 に勧めて曰く、家名を絶つは不孝の大なるものなり、子孫の為、図 るところあるべしと。禅師これに従ひ、蓄髪して、宅を蜂須賀邑 に構へ、足利氏を改めて、浜といひ、小六正昭 と称し、後蜂須賀氏に改む。(略)――是より子孫蜂須賀氏を襲ふて、累世 氏名となしぬ。
時に、松波荘九郎 といふ者、武者修行として、稀
、蜂須賀邑に到、日暮れ宿を求むるも応ずるものなし、小六正和、その居宅の檐下 に躊躇 せるを怪しみて故を問ひ、艱難相救ふは、武士の常情なり、宜しくわが家に留るべしとして、懇切に迎へ入れしかば、松波喜びて、他日必ず恩を報ずべしとて、印符 を分ちて去りぬ。即ち、後の斎藤山城守秀龍 なり。この旧縁により、正和、後秀龍に属し、蜂須賀領二百貫を領す。
この小六時に、

僧になったり、油売りしたり、実世間の流浪をいろいろな職業にわたって通って来た道三秀龍だけに、後の斎藤家と蜂須賀氏との関係を考えても、そんなことも、或はあったろうかと思われるはなしである。
しかし以上の戦国の武将たちの経歴として、一部にいわれている武者修行も、また、上泉伊勢守や卜伝のそれも、なお、仇討とか隠密とか別箇な目的をもって歩いたそれも、純粋な意味では真の武者修行ではない。姿を借りてその群れの中に伍していたか、或は時流が一様にそれらの人をもくるめて、武者修行と
武者修行には、やはり武者修行精神がなければならない。克己と求道のやむにやまれないものが、安住を捨てて、進んで艱難につくところに、その純粋な目的があった筈である。
禅門の雲水のように。
また当然な求道精神の
すでに足利末期の暗黒混濁な世相の底流には、その頽廃期に躍る人間とは正反対に、時流の息ぐるしさや腐敗から離脱して、
それは、武士訓の発生としてあらわれている。武士訓には、一族の主たる者が、その子弟のために書き与えたもの、或は一般の武士社会へ呼びかけたものなど、幾多があるが、その真意には、余りに
武士訓とは、いうまでもなく武士道徳の
その骨子は、鎌倉武士道の復古だった。また、そのうちには、後期の江戸武士道――山鹿素行の「士道」だの、山本
その古いものでは、楠公壁書だの、管領の
その中でも、大内
宮本武蔵の独行道十九ヵ条なども、彼の書いた武士訓の一つといえる。
武士訓は、大名や権門の人が、子弟や臣下に示すために書いたばかりでなく、武蔵のような一武人でも、名なき人々でも、自己の
同時に、道歌が興った。
細川幽斎などの作は非常に多い。
武蔵にもある。兵法家はまた、兵法の極意、言外の深意を伝えるに、よく歌をもってしたものである。
正しく武蔵の作歌と思われる歌には、
いづこにも心とまらば棲 みかへよ 長 らへばまた本の古郷
は、上泉伊勢守のそれらの剣道の極意歌なるものは、
なか/\に人里ちかくなりにけり あまりに山の奥をたづねて
である。剣法の示唆より、幾分か十兵衛の心懐を歌ったに近いが、余談にわたったが――
細川幽斎の武士道いろは歌だの、当時の武士訓や壁書など見ても、社会混乱と
その一端が、禅門に走り、または武者修行となって、ひたむきに、道を求めていたであろうことも考えられる。
そういう人のなかには、純粋な武者修行精神が抱かれていたろう。武蔵の如きは、真に、その一人だったと云い得る。
武者修行の世界ばかりでなく、純粋を求めるならば、その数は、その流行相と反比例して、極めて少ないのは当然である。
伊藤一刀斎、丸目

柳生兵庫などはべつだが、そのほとんどが流浪の牢人であったから、先ずよき主を探して、仕官に就くという目的が誰にも一応はあったであろうと思われる。武蔵にも勿論、彼の理想も註文もあったが、その気持があったことには変りがない。
応仁の乱以後、その牢人の数は、
興亡の激しい豪族間の遺族や郎党たちも、
それらも武者修行者の流れの中に、多分に交じっていた。
武者修行者の殖えたもう一つの理由としては、そこに自然、生活方法が開けて来たことにもよるであろう。いったい、当時のそうした遊歴者が、どうして生活の資を得ていたかという、経済面の点を、現代人はよく不審とするが、戦国時代などにあっては、その生活の自由性からも、また、四囲の社会状態からも、衣食においては、さして困難はなかったろうと考えられる。
塚原、上泉といったような豪族は、たとえ城地を去っても、なお、多くの家僕や門下を従えて往来していた程だから、これは問題ではない。
問題は、短くも数年、長きは十年も二十年も、一定の住居も持たないで、廻国と武芸に精進している沢山な孤行の剣人たちである。
が、それにも、主君の命を帯びて、表面は牢人し、敵国の地理兵力の状態を探っているのもあるし、また特殊な使命をおびて歩いている者などには、それぞれ資力が背後にあるから、これも問題ではない。
まったく、何の背景もない、当時の武者修行にとって、唯一の生活方法は、やはり他人の合力と、指南の報酬が唯一だったに違いない。
戦国期の中層民以下の社会では、彼らがそうして生活して歩くには、最もいい状態だったことは事実であろう。
まず、武者修行たちにとっては、寺院が開放されていた。武士と寺院との密接な関係、また、武者修行の心的修養に、打ってつけた場所として、寺院はいつでも彼らの一泊の乞いは容れてくれたろう。
それから、足利中期以後の物騒な世態の反動として、庶民のなかに、百姓にいたるまでが武術を愛した。領主の統治が
また、個人間のあいだにも、殺伐な風や、

信長か、秀吉だったか、制令を出して農家が武器を蓄蔵することを禁じ、各村落から押収したところ、驚くべき大量な刀槍が発見されたという例など見ても、当時の社会不安が
武者修行者の往来は、そんな時代の村落では、むしろ自分らの防衛者として、歓待して迎えた。山賊の話、人身御供の伝説などは、僻地の村民と武者修行との生活関係にも、一つの示唆をもっている。
宿泊や衣食は、そういう地方でも、彼らは困らなかった。また武技の教えを乞う者は、百姓町人のあいだにもあった。
仮にそういう便宜のない都会地でも、武芸者同士の相互扶助的な方法もあったろうし、また、
武蔵の青年期から壮年時代などにあっては、殊に武者修行の多かった時勢でもあり、また、それらの生活しよかった頃ではないかと思われる。
関ヶ原前後、また、大坂夏冬の陣の前後には、どこの大名も、いつ合戦が起るか、いつ陣務を急とするか知れなかった中に、表面は幾年かの
当然、全国の大名は、朝夕に武備を怠らなかった。しかし、限りある財力で限りない兵は養えないし、殊に、実力と人品の双備な人物と見ても、戦後の長い経営を思うと、目前の必要を感じても、そうそうは召抱えられなかった状態であった。
で、自然、捨て扶持、隠し扶持というものを、牢人に与えていた。いわゆるこうと思う人間には、平常に息をかけておくのである。
それが関東大坂の開戦となって、彼が
そういう牢人の生活費は、すべて幸村の手を通して、大坂城の経済から出ていたことはいうまでもないが、こういう一朝の場合に備えて心がけておく牢人扶養の仕方は、諸国の大名も皆やっていたこと勿論である。
で、多少なり、
武蔵も三十一歳の時、大坂陣の折には西軍に参加したといわれ、その所属や功績の程は明らかでないが、西軍に投じたには、何か一片の義心なり理由がそこにはあったものと想像される。
いずれにしろ、武者修行の生活は室町期の初期にあっては、禅僧の
また、多くの偽装浮浪者に対して、法令もやかましくなったため、正しい目的をもって廻国する者までが、いろいろ
それはちょうど、現在の社会でも、舌一枚で地方講演に廻るとか、講習会をしたり、或は画家が画筆をもって旅行しても決して、飢えることがないのと相似て遠くないものであった。
柳生家と将軍家との如く、或は他の藩主とその臣下の剣道家といったような、密接な関係のある者で、主命として廻国に出た者も決して尠くない。
柳生旅日記で聞えている十兵衛
かれの自筆本、
寛永三年十月、さる事ありて
という書き出しで
君の御前を退て和ならず山に分け入りぬれば、自ら世をのがると人はいふめれど、物うき山のすまひ柴 の庵 の風のみあれて、かけひならでは露訪 なふものもなし……(中略)
と、生活の様を叙して、序文の末章には、
――然れども又、かくの如く、われにひとしくあらん敵には、勝負いかんとも心得がたし。さるによりて思ふ事、至極をこゝに一々述、老父に捧げ奉れば老父の云。これら残らず行捨てたらんにしくはあらじとや。(中略)そのにごりなき心を自由に用ふる事いかに。時に沢庵大和尚へなげきたてまつり一則のこうあん(公案)お示しをうけ一心伝道たらずといへども、かたじけなくもおん筆をくはへられ、父がいしんてんしん(以心伝心)の秘術事理一体本分の慈味こと/\くつきたり
たづね行
道のあるじや
よるの杖
つくにぞいらね
月のいづれば
道のあるじや
よるの杖
つくにぞいらね
月のいづれば
よつて此書を月之抄とは名づくる也
と書いている。十兵衛が出奔を、脚色した柳生旅日記は、元より作為であるが、将軍家の命をうけて、隠密として廻国に出たのだという説は、かなり真実そうに彼の伝や剣書にも書いてある。しかし、この月之抄の序文を見ると、まったく山中に入って苦行独歩の修行をしていたのが事実らしい。
十兵衛はいったい非常に剛毅な気性で、幼少から片目がつぶれてたし、弟の飛騨守宗冬などより、気性もすぐれ剣も鋭かったらしいが、月之抄の序文でもわかるように文章を書くと典雅だし、その筆蹟なども優麗で見事である。宗矩の息子たちの中では、やはり十兵衛がいちばん人物だったように想像される。
隠密という特務に依って動いた者としては、むしろ柳生兵庫などの方が、その疑いが濃厚ではあるまいか。
兵庫
二十五の時肥後の加藤家から懇望されて、禄高五千石で
その折、祖父の石舟斎が、加藤清正に、
「兵庫儀は、殊のほか、短慮者でござれば、いかような落度 があろうとも、死罪三度までは、おゆるしありたい」
と、頼んで約束したという。だが、任地へ赴いてから、幾年も経たず、兵庫は加藤家を去っている。そして九年間、そのまま廻国を続けて、後に名古屋の徳川家に落着き、尾張柳生の祖となっている。
時勢が時勢だし、祖父の条件だの、清正の寛度などもあるのに、軽々に任地を去って、廻国していたなど、ただのわがままとも考えられない。すでにその頃、柳生石舟斎は子の宗矩をひいて、家康にも会い、将来の約言も得ていたから、少し
新聞小説論がやかましい。外国電報と時代小説は読みそうもない人達だけの声だから、他山の風として
案のじょうさっそく、予告を見たが十回も載らないうちに、そら講談だとおいでなすった。
なるほど、延享三年版の
花筏の作者は、
ここあたりの物が、講談の宮本武勇伝の出所らしい。僕らが幼少に見た演劇も、前述の花筏の段で演じていたことを覚えている、俗に大阪本といって貸本屋にかつがれていた岩見重太郎、丸目
しかしこれがなかなか馬鹿にできない読者を持った時代があるとみえ、現在でも宮本武蔵はすでに
しかし、こういう概念で武蔵を考えていたのは、決して低い民衆ばかりでなく、かなり知識的な人間でもまた、作家といわれる者にさえ、そういったこと以外、武蔵については知らないし、知っていても漠然と、俗説真説の両方ともあいまいに混同していた人は
そんな手合が、そら講談だとか、史実がどうとか、お先走って、活字の
東西朝日の夕刊面に、宮本武蔵を書いてから、
武蔵の研究とか景仰とかいうものは、近年の日本主義風潮の副産物ではない。楠正成は五百年祭に、弘法、法然は一昨年あたりからの宗教流行に、二宮尊徳は浜口内閣以後に、それぞれ傾向的な色彩で再検討にかけられたが、宮本武蔵はジャアナリストの必要では呼び出された例がない。ただ四年ほど前に直木三十五が、武勇伝雑話、上泉信綱と宮本武蔵、武蔵の強さ、等において武蔵非名人説を書いたり座談したりして、しきりと論敵を誘いかけたぐらいなものである。
だが、武蔵の真面目を
大川周明、安岡
それでいて、一般人の抱いている武蔵の空想像は、依然として、院本式な姿をすこしも
そういう強情なお客様の先入観へ向って、まるで懸けちがった武蔵を書いて出すことは、危険であり、夕刊小説として、損でもある。そうかといって講談本式な武蔵なら今さら書く必要もないし、またあれ以上うまくする自信は僕にない。
結局、今日の新聞小説に、宮本武蔵を書くとなれば、誰が書いたって、
尠くも在来の似ても似つかない武蔵の概念像を
そこで今、武蔵に関する参考書を並べてみるとなると、熊本の顕彰会本を始め、近刊では直木全集の一部、中里
それから、明治以前に版になっているもので、伝記としての参照の価値のない戯作本を
二天記というのは、後につけた書名で、最初は、書写しの反古綴に、筆記者がただ武蔵の武の字を冠して「武公伝」としておいたものだという。この書は、武蔵が晩年の骨を埋めた肥後の細川藩の士豊田又四郎が、武蔵の直話だとか、死後に整理した文書とか、門人の話などを抄篇したものだということになっているが、武蔵の死は正保二年であり、筆記者、豊田又四郎はそれから、百三年後の寛延元年に歿している人だから、おそらく嘘で、しかも又四郎の子彦兵衛、その子左近右衛門、三代の手を経て

それでも、武蔵伝のまとまった物としては、これが最古のものである。二天記はまた他家へも盛んに伝写されたとみえ、小倉本、異本二天記などという別本もある。小倉には、武蔵の養子宮本伊織が家老をしていたので、宮本玄信伝が写本で伝えられたし、宮本氏系図があるし、なお史料として重要な武蔵の碑文がある。
文献としての古さだけからいえば、この碑文がいちばん武蔵の生前に近いのである。武蔵が死んで九年目に、養子であり小倉藩の家老であった宮本伊織が自身で建てたものであるから。――ところがこの碑文にさえ間違いや錯誤があって、僕らの
武蔵の二天流の剣道をうけ継いだという吉田
幕末の横井小楠が一読して、
「武蔵を伝して、先人未発の識見」
と賞めたのは、荻昌国の武蔵伝である。これは伝というよりは論評であって、武蔵の志業と人格に重点を措き、小楠の言のとおり二天記や墓碑よりもずっと彼の人間へ迫っている。荻昌国は角兵衛といって、やはり熊本の藩士である。
そのほかには何といっても、兵法書にはいちばん記載が多いのであるが、逸話をのぞいては五輪書や、三十五条などの遺文の採録と註解から出たものはない。あとは彼の余技に関するもの――
だいたい以上の範囲にわたって、僕らには直接見る機縁のない、彼の書簡とか余技の装剣画幅の類とかをのぞいて、それらの書は古版から活版までをくるめると、約七、八十種には及ぶであろう。いやもっとになるかも知れない。だが、もしそれらの全部を克明に隅から隅まで読む者があったら、いくら忠実な武蔵研究者であっても馬鹿である。
直木が、改造や文藝春秋に数回にわたって書いている「武蔵非名人説」のうちだけでも、ここに僕の挙げてない書名はたくさん引用されてある。上泉信綱を論じている段に「
けれど
工匠でも画家でも剣人のでも、どうも名人逸話には類型と伝説が多い。武蔵にも十三歳で有馬喜兵衛という剣豪を
十三歳で有馬喜兵衛を殪したという話も、武芸小伝によると、喜兵衛は、当時の剣道の大家松本備前守の刀系をひいている有馬豊前守の一族の者で、その豊前守は徳川家康の命で紀州家へ移ったという人物である、そういう一族の者で、しかも
武蔵の生れた郷里、作州吉野郡
これは武蔵自身が、晩年に著述した五輪書の序文にも正しく、
――われ若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三にして初めて勝負をなす、その相手新当流の有馬喜兵衛
と簡単に書いてあるが、事実がこの口碑のままかどうか。有馬喜兵衛ともある士が、小児の
武蔵が十三歳頃は、もう父の無二斎は歿していたが、屋敷はあった。寛永十五年頃に公命で取壊されるまで、三十間四方の石垣が残っていたというから、かなりな構えであったらしい。無二斎の名は、十手術の達人として四隣に有名であったから、歿したのを知らずに、喜兵衛がここへ訪ねて来たものとすれば
「
といって濁しているが、僕は史実としてやはり
これなどは、どう考えても、受けとり難い。よほど無二斎という人物が、子に対して特異な性情の人でない限りは考えられない話だ。諸書を照合してみても、武蔵が何処で父に死別したかは明確を得ないのであるが、どっちにしても、彼が十歳未満に歿していることはほぼ見当がつく。するとまだ乳くさいほんとの子どもの時だ。しかも彼は姉はあったらしいが、
しかし、こんな史実的に価値のない話でも、こういう村の口碑が彼の死後百年ちかい後の記述にも筆にされる理由には、何か、内容とはべつな暗示を持っていると僕は思う。そういう点でこの話は価値がある、それは何かというと、武蔵の幼少時の家庭の空気が、決して少年の肌を温かに養っているものでなかったということである。そうした家庭的欠陥は、彼のそばに母がなかったらしい所からでも実証される。
武蔵の母という人は、播州領の
なお、於政は後家であって、武蔵はそのために、幼少から播州と作州の実家との両方に往き来していたのだというような記述もあるが、
どっちみち、家庭に恵まれない冷たいものが、彼の幼時をつつんでいることは
後年の彼の流浪性は、そこに宿命していると思う。晩年、
直木三十五が最も憎む所の、武蔵が敵に対しての残忍なほどの冷厳さと、老後にも時々
彼が老後に自分のなぐさみに持った画筆のように、墨で
そういう家庭に育まれたせいと見るほかにないのは、もう一つ、武蔵のあれほどな遺文中にも、父母のことについては、一字も
そのうちの一章
どの道にも別を悲しまず
などは、いかに彼がそれへの
断っておくが、僕が、武蔵の史実は要約すれば、六、七十行に尽きるものしかないといったのは、どの書物も嘘や間違いを書いているという意味からではない。
著者の主観を読むならべつだが、単に、史料の参考に
宮本家の祖は元平田姓であった。明応文亀年間、平田将監という者があって、剣及び十手術に長じ、美作吉野郡の竹山城城主新免氏に仕えたのが中興の人となっている。
明応文亀というと、さあすこし遠い。山名、細川、畠山などの騒乱が
平田氏系図では、十手術も剣術も、その当時からあることに明記されているが、あることはあっても、本朝剣道の流派の祖ということになっている鹿島香取の
作家の
だが、その新免無二斎
御前試合というと、徳川期の吹上試合がすぐ考えられるが、足利義輝時代にはかなりそんな催しもあったろうと思われる。
吉岡家というものについては、それよりも武蔵と重大な宿命が後に生れる。武蔵が二十一歳で上京して、憲法の子清十郎、弟の伝七郎、子の又七郎の三名までを
この試合上の武蔵の態度を、直木は
この時の実状を伝えたものでは、武蔵伝に対して、それを
僕はその

こういった調子の書物である。このほかにこんな記事の載っている書物は一種もない。おそらく武蔵の名声に対して、後の吉岡側の縁類の者でも著述したのではあるまいか。そういう例はずいぶんある。直木はこの吉岡伝を取り上げて反対側の武蔵伝がすべてこの書の云い分を全く収録していないのは
どうもつい、死んだ直木をひき合いに出して、僕も口のない人間に独り論議をやってるようですこし気が
何も今、決してそれを遺恨に書いているわけじゃないが、正直にいうと、直木が呶鳴った頃は僕はほんの観念的にしか武蔵について知識がなかったのである。五輪書や
そこを直木が、得たりとつかまえ、翌月の文藝春秋で、
「吉川英治が読売でいってるように、私の云った十ヵ条と、武蔵の逸話を、ことごとく考証的説明がなければ信用できないというような論がでるかも知れない。だが吉川は私の論難に考証的根拠がないのを指摘しながら、自分が何ら考証的根拠を示さず、武蔵はえらいとか、精神力も彼の如きはとか、断言しているのは少しおかし過ぎる。どういう風に武蔵はえらいのか、その実例考証一々発表してもらいたい」
直木のこの手を喰うと、私はまんまと、武蔵以上
だが、僕はそのまま引き退がるつもりではなかった。宿題として、自分に答えうる準備ができたらお目にかけるつもりだった。以来忘れたことはない。事武蔵に関する限りどんなくだらない物でも、
新聞小説に武蔵を書き、ここにこんなことを書くのも、しかし、亡友の毒舌の恩である。あの男のことだから、ここまでのことでも、たくさん異論を抱くだろうが、死んだが損というものだ、こんどはそッちで苦笑していてくれ。
横道へ
とにかく「吉岡伝」は、武蔵伝の群書に対して、余りに権威がなさ過ぎる。
吉岡伝にあるように、武蔵が約束の日に、逃亡してしまったような事実がないまでも、もし武蔵の行動に、正々堂々がなく、残忍、
吉岡家にはまた、前の吉岡と後の吉岡との二軒あったという説もある、これは水南老人楠正位という人のいっていることだ。そのせいか、この家系も、吉岡憲法の事蹟も甚だややこしくて、年表と照合しないと、何が何だかわからないような話が多い。
憲法という名も、書物によっては、拳法とも書いてある。新聞小説のうえでは、どうも憲法という文字が、現代人には、政治上の同字にひびいておかしいから、僕は拳法のほうを用いている。けれど、拳法もまた、ほかの字義に通じるから変に気がさすとこれもおかしくないことはない、どうも困った名だ。
どっちがほんとかというと、憲法のほうらしい。それも憲法を
「物事をすべ能くする事」
ということを憲法といい、またこの憲法が、武蔵の父無二斎と、義昭将軍の前で試合をしたという事蹟は、前に否定したが、清十郎、伝七郎などと、武蔵が対立した頃は、もう子と孫の代であるし、それぞれ皆、相当な年齢に考えられるから、すでにその折の慶長九年には、吉岡憲法はこの世にいなかったことは確かだ。ところが、それからでさえ十年も後の慶長十九年六月に、禁裏にお
その話を
「あたまが高い」
と金棒で叩いた。憲法怒って、いちど禁門を出、着物の下に刀をかくして出直し、先の雑色を斬り伏せ、なおかかる者を打ち伏せ打ち伏せ、舞台まで血汐によごして狂い斬りに死んだという。
常山紀談などによると、所司代
慶長十九年といえば、大坂落城の直前で、冬の陣の起った年である。京坂間は物情騒然たるものがあった、禁裏を開放して、民衆を入れるなどということが例の少ないばかりでなく、社会情勢と一致しない。また、お能天覧がいぶかしい。なお
清十郎は、武蔵との試合の折、絶息して[#「試合の折、絶息して」は底本では「試合の折、、絶息して」]戸板にかつがれて帰り、後に傷の手当がかなってから僧門に入って生涯剣をとらなかったとあるから、この人物ではあるまい。
弟の伝七郎も、清十郎の子又七郎も、一乗寺
小説の宮本武蔵の上で、その発端に、僕は関ヶ原から書き出して、二天記、武蔵伝、その他諸書がほとんど一致している彼が十七歳の折参戦を書いているが、武蔵が果たして関ヶ原の役に出たかどうかも、厳密にいえば、まだまだ研究の余地は充分にあるのである。
ここでちょっと、朝日新聞の学芸欄で抗議された帝大の本位田祥男氏に物申しておくが、あなたは小説と歴史とを混同しておられる。また、史実というものを、よほど信仰的に思いすぎておられると思う。この前の拙稿でも露骨にいった通り、史書そのものからして実に玉石同盆という厄介なもので、滅多に
――宮本武蔵と私の祖先
という一文には、こちらからも申し分がある。
(――吉川氏の書く所は史実及び私の家の云い伝えと甚だしく異っている)
と冒頭して、本位田家の末孫として、大兄が祖先の寃 を明らかになさろうとする点は充分にわかるが、あの小説を読まれて、(本位田又八という男は、系図を見たが出ていない。〔中略〕新免家の侍帳にも見あたらない。そして、誰かが関ヶ原の戦いに出陣したかと探したが、どうも見つからない。〔中略〕若 し出陣したとしても、あんな軽輩としてではなかったろう――云々)
大兄にこういう手数までと冒頭して、本位田家の末孫として、大兄が祖先の

(――ともかく又八とお杉婆さんとは、吉川氏の純然たる創作であろう)
といっておられる通りである。しかし、その後で、
(――初めから武蔵の引立役に
小説の宮本武蔵を読んでくれている人にはわかっているだろうが、本位田又八は、元より大兄の先祖でも何でもないが、また、特に武蔵の引立役だの道化には少しも書いていないつもりである。ありふれた現代の青年の一つの型をとって慶長の戦国に呼吸させてみたまでのことである。また、武蔵その者も主人公ではあるが、べつだん英雄豪傑に曲げて書こうとする意志なども少しも持たない。おれの家の系図書にもない人間を
顕彰会本その他によく掲出されている本位田外記之助と新免無二斎との事件をとりあげて、
(平田無二はこのために
と大兄は、武蔵の離郷をそれと決めているが、十七歳の出陣説を抹殺する有力な確証でもなければ、これは断定できないことであろう。
第一、無二斎は、明確に歿年は分らないが、武蔵が極めて幼少の時に、既に他界している。それからまた、大兄も引証の書として「東作誌」の記載にもあるように、
宮本武蔵事、九十年以前ニ、当村出行仕候。ソノ節分家ノ系図証文道具等、与右衛門ニ渡シ、其後九郎兵衛請取、コノ人耕作勝手ニ付、宮本ヨリ十町バカリ下ヘ罷リ出、農人仕リ居リ候
とあるから、かなり成人の後、離郷したことは明らかで、なお同書の記事を史実とするならば、
武蔵浪人ノ節、家ノ道具十手三
、嫡孫左衛門ニ渡シ置候由、六十年以前ニ九郎兵衛時代ニ焼失――
ともあるし、また、
武蔵、武者修業ニ出立ノ時、森岩彦兵衛、中山村ノ鎌坂ニテ見送ル時、武蔵突キタル杖ヲ森岩ニ与ヘテ離別ヲ告グ木剣ナリ
長サ三尺五分、厚ミ一方ハ四分五厘、一方ハ二分五厘、正中ニ稜アリ、コヽニテ厚サ五分、上下共ニ端円ニシテ首尾同ジ、枇杷ノ木ニテ黒シ。同村森岩長太夫ガ家蔵タリ。ナホ外ニ、武蔵ガ念ズル観音ノ小像モアリシガ、近年紛失シタリトモイフ
明白に父の無二斎に連れられて播州へ行ったまま消息不明になった次第などではない。また、本位田外記之助との事件が、離郷の原因でないこともこれを見れば分るのである。もし、あの事件が禍根とすれば、武蔵の離郷がもっと幼少でなければ長サ三尺五分、厚ミ一方ハ四分五厘、一方ハ二分五厘、正中ニ稜アリ、コヽニテ厚サ五分、上下共ニ端円ニシテ首尾同ジ、枇杷ノ木ニテ黒シ。同村森岩長太夫ガ家蔵タリ。ナホ外ニ、武蔵ガ念ズル観音ノ小像モアリシガ、近年紛失シタリトモイフ
武蔵が、十七歳で関ヶ原の役に参加しているという諸書の推定は、父の主家
なぜならば、黒田家侍帳の方にも、新免伊賀守の名があるのである。その黒田家では、慶長五年の関ヶ原の際には、九州の大友
これが正しいとすると、諸

とにかく武蔵が参加した実戦というのは、このように不明なものだが、関ヶ原とか大坂役とかいう大戦以外の、歴史面にも記録されないような小合戦でも、当時は、戦と見たことに変りはないから、或はそういう場合をも数えているのではあるまいか。
いずれにしても、武蔵ばかりでなく、新免家の
これなどはいかにも、
本位田祥男氏は、僕の書いた小説の武蔵と又八の出陣を、あんな軽輩の筈はないといってるが、すでに父の無二斎の折に宮本家は主家の禄をうけていないし、せめてその父でもあればだが、歿後の一郷士の子が野心的に参加してゆくとなれば、あの程度でついてゆくほかはあるまい。また、当時の彼は、農になって鍬を持っても、商工業者にかくれて身を落しても、いつでも風雲の機会さえあれば、野望を持てるという信念があるので、決して、今の人間の没落のように
前の新免家の六人衆などでも、馬の草鞋を作って生活しているうちに、小倉の細川三斎公の耳に入って、
「
と、召出された。
ここがちょっと「話」になるから、ついでに書いておく。
細川家では、そういう零落している侍たちなので、六人へ対し千石を与えるといった、かなり慈悲なつもりであったろう。
ところがそのうちの六人衆上席の内海孫兵衛の老母が、
「いかに零落したればとて、一名二百石に足らぬ禄にて奉公さするは忍びがたい」
といって断わってしまった。
細川家では、六人のその身分を正して、内海にはべつに高禄をやることにした。そして城内へ召出したが、苦労人の老臣が三斎公に向って、
「彼らの家は、よほど零落もひどく見うけますれば、城内へお召寄せの前に、手当をおつかわし下さらぬと、服装などもいかがあろうかと思われますが」
といった。三斎公は笑って、
「身仕度を抱えるわけではなし、まあ、黙って見ていよ」
と

「あやうくよい恥をかくところだった」
と、後に三斎公へ自己の不明を恥じたということである。
この話を以て想像すると、新免家にも、相当によい侍がいたらしい。楠正位氏の関ヶ原参加否定説はともかくとして、同じような経路を
そういえば、武蔵の逸事として
しかし、世間にまだ伝えられていない「話」の程度の
本多忠勝の嫡子美濃守忠政は、元和三年に姫路の城主になって移封している。姫路には従前の関係で、武蔵の門下が多く、武蔵のうわさも従って忠政の耳によく入るので、武蔵を招き客分として待遇したり、また彼の道を聴いてふかく学んでいた。
忠政は寛永八年に歿した。子の
本家の家臣は、前々から武蔵の人物をよく知っているので、武蔵を
三宅軍兵衛、市川江左衛門、矢野弥平治などで、主人の入道丸の父忠朝は、大坂役の夏の陣で戦死して、剛勇
それに、入道丸方の分家本多では、前から東軍流の流風が尊重されていた。殊に、三宅軍兵衛というのは、
この男が、本藩に来てから、武蔵の流風を冷笑していた。或る時、前の四人連れで、武蔵に試合を申しいれ、藩主からの賜邸である武蔵の
武蔵の風貌というものを、諸書の信じられる記事から摘要して、ここにまとめてみる。背は六尺あったというが、
彼の肖像を見ると何さま
「では君は、この肖像を打ち込めるか」と、いうそうだ。
僕などには分らぬが、あの武蔵の肖像は、堂々たる構えだそうだ。両わきの腰の辺りに
十四畳の部屋に待っていた三宅軍兵衛たちの四名の来訪者の前に、台所の通路にあたる細廊下からのっそり出て来た武蔵の姿は、まずそんなものと想像していいだろう。前日、あらかじめ試合のことは使いで達してあるのだから、それは武蔵も承知してのことである。
その時の武蔵は、長短二刀の木剣をひっ提げて出て来たとある。そのまま、挨拶して、すぐといわれたので、四名はややあわて気味にみえる。武蔵が四人御一緒でもさしつかえないというと、軍兵衛は憤色をあらわして、一人すぐ立った。
七尺ほどな距離をおいて二人は対峙した。ほかの者は、次の間を開けて避けた。どっちもややしばらく動かない。すると、武蔵はするすると
そしてこう双方のひらいた場合を「
武蔵はやがて、長短の二刀を円極(
「無理なり」
といって、左の小太刀で刎ねのけ、右の太刀で三宅の頬を突いた。仆れた三宅を見て、連れが驚いて駈けよると、武蔵は、
「今、薬を進ぜる」といって、薬と木綿を持って来て与えた。
三宅軍兵衛は、その後、武蔵に師礼をとって、深く武蔵に心服してしまった。この話は、軍兵衛の口述として写本に伝わったもので、それも武蔵の逸事を伝えるために書かれたものでなく、
その軍兵衛が、常々、語り草にしたことには、自分の生涯のうちで、怖ろしいと思ったことが二つある。その一つは、故殿のお供をして、夏の陣にあった折、その日は城方の真田、毛利、すべての諸将が、討死の覚悟とみえた日なので、こちら方の
この本多藩での試合は、世間に伝わっていないが、武蔵を語るために語っている記事でないし、また武蔵の伝記を高揚するために書かれたものでもなく、他藩の者の聞書の中につつまれてあるだけに、却って信頼できるような気がする。
この試合談などから比較すると、船島における佐々木小次郎との試合などは、極めて記述が不足である。最も重大なる欠点は、相手方の小次郎の年齢が、諸説まちまちで確定のつかないことである。オール讀物の短篇に、鷲尾雨工氏が、船島の一篇を書いているが、それを見ている群集に小次郎の年齢を論じさせているのはちと苦しい。しかし、その推算を小次郎の師と伝えられている
二天記、武蔵伝などという信用できる筈の書が皆、こんな説のまま記載しているのだから惜しまれる。そうかといって、雨工氏の推算で行っては、結局、小次郎は六、七十歳の老人でないと合わないことになってしまう。結局、小次郎の師富田勢源の年歴から計算することも臆測に過ぎないことになるし、また、佐々木小次郎が六十以上の老人であったりすることは、船島の試合の手口から考えて甚だおかしい。有名だからここには詳記しないが、武蔵と小次郎との試合では、試合う前に、武蔵が精神的に七分の勝ちをつかんで臨んでいる。京都で吉岡清十郎一門と試合った時にも、同様な兵法を踏んでいるが、船島でも、武蔵は小次郎を
敵を精神的にみだしてから立ち向う。合戦ならば、その陣心に乱れを起さして
小次郎に対しては、第一にわざと約束の時を遅刻して行っている。小次郎がそれを責めると、きょうの試合は御身が負けた、といって精神的な動揺を彼に与えているし、さらに、それから悠々と支度をしたり、船中で
まさか十八歳ではあるまいが、また決して六十や七十の老熟円満な人物の試合ぶりとも見えないのである。細川藩でも、実際にそんな少年であったり、老先の短い老人であったら召抱えもしまいと思う。武蔵としても、あの試合は、自分から進んでやった試合でもあるし、殊に公開された勝負であるから、相手が、老人や少年なら望みもしまいし、またやっては不利である。勝っても不利な試合などを胸中常に兵法のある武蔵が進んでやる筈はないと思う。
では、小次郎の年齢は何歳ぐらいに見るのが至当かという問題になる。すでに巌流という一派を独創して、諸国に名も聞え、細川三斎が招いて抱えた程な人物とすれば、どうしても三十歳以後ではあるまい。しかしそうなると小次郎が富田勢源に師事したという諸説は空文になるが、僕の考えでは、勢源と小次郎とは、半世紀以上も時代がちがうから、直接の門弟ではなく、その系流の誰かに学んだのが、流祖勢源の直弟子のように後に誤記されたのではなかろうかと思う。
そう考えてゆくと、勢源の実弟治部左衛門は、豊臣秀次に刀術を教えているし、その門人山崎与五郎という上手は、富田家の
武蔵が船島で小次郎と試合うために、船中で削って行った
先頃京都の清水寺の一院で、土地の文学演劇壇方面の関係者、美術家、実業家などが一夕集まって、僕を中心に、武蔵の話をしたことがある。その時、O氏が、武蔵の使用した櫂の写しという物を持って来て、皆に見せた。
ちょっと持って見ると、僕らには、両手でも重くてうかつには持ち上げかねる重さである。木は
小次郎が、これで打たれたとすれば、脳骨が砕けたことは当然だろう。しかし、これが木剣のように自由に振れるかしらということが、誰にも疑問に考えられた。O氏はそれを僕に贈ってくれたので、東京へ持ち帰ったが、持って帰るにもかなり厄介な重量だった。
それについて、これも余り知られてない話だから紹介しておいてもよかろう。本多政朝、政勝の二代に仕えた重臣で、石川
そのうちに、客の一人が、武蔵の流儀について訊ね出し、二刀をつかうには、人一倍力量がなければなりますまいが、私のような力のない者にも、御流儀の修行ができましょうかと訊いた。
武蔵はそれに答えて、
「剣道は力を主とするものではないから、その御懸念はさらに
といった。すると客は、やや奇を好んで、
「甚だ失礼ですが、先生は長身でいらっしゃるし、お力の程も逞しいものと伺っていますが、両刀をおつかいになる場合は、およそどれくらいな程度までの物をお用いになりますか」
という。武蔵は首を振り、
「いやなに、各

「こう片手に支えられる程の目量なら、かくの如くに、自由になりましょう」
と、立膝になると、左右の手を甲乙なく振り廻して見せた。二挺の鉄砲は、隆々と風を呼んで、見ている者の眼には、それがちょうど二箇の
武蔵が二刀を使ったかどうかということも、問題になっている。戦に当って、実際に二刀を使用したことはないようだ。また、武蔵の号を二天というが、二刀流とはいわない。円明流というのが宮本武蔵の流派である。
本位田祥男氏もいっているように、幼少の時、故郷の荒牧神社で、太鼓の
兵法の事総じて、
究極は実にここへ行って突き当るのだ。柳生派ではそれを「無刀」といい、武蔵は「万里一空」といったのである。で武蔵の著した兵法三十五ヵ条を見ても、二刀の利とか用いようなどということは
直木もいっているし、他の剣道史を書く人などもよくいうことだが、あの時代の剣客中で、武蔵には遺墨や遺著もあるので、一番伝記が明瞭であるとはよく聞く言葉であるが、武蔵の生涯は、決してそんなに
大分以前に開かれた文部省の重要美術審査会で、新たに重要美術品に指定された物のうちに、
宮本武蔵が愛用した刀だというので、古来から武蔵正宗と呼ばれて来たものだそうである。勿論、相州物で、刀身二尺四寸、幅九分一厘、肉二分というから、実物は見ないが、なかなか
この刀の伝来の説に依ると、享保年間、徳川吉宗が将軍家の勢力をもって、諸国から銘刀を
享保銘物帳にも記載されているということであるから、さだめしこの名刀は、吉宗の手にも愛されて、幕府の
文部省で認定したことだから「武蔵正宗」の説をここで問題に取り上げるのではないが、宮本武蔵ほどな男が、日頃どんな刀を身に帯びていたろうかと考えるのは、満ざら、興味のない
同じ頃、大阪の高島屋で、武蔵の遺墨展覧のあった折、たしか、刀はたった
賜天覧武蔵所持之刀 熊本島田家蔵
と、だけあって、作銘寸法などわからない。天覧を賜わった物とすれば、これも武蔵の愛刀の一つとして、相当な根拠のあるものであろうが、僕の記憶からさがし出すと、この
八代聞書の記載に依ると、
武蔵ノ常ニ佩 キシ刀ハ、伯耆安綱ナリシ由、然ルニ熊本ニ来リテ後、沢村友好(大学)ノ世話ニナリタリトテソノ刀ヲ礼トシテ贈リタリ。今モ、ソノ刀沢村家ニ在リ。
武蔵、夫ヨリ後ハ、佩用トシテ、武州鍛冶和泉守兼重ヲ用ヒキ、兼重ハ臨終ノ際、長岡佐渡ノ家ヘ遺物トシテ贈ラレ、脇差ハ遺言ニマカセ、播州ヘ送リ届ケシト云フ。
とあって、これで見ると、熊本へ来る以前の遍歴中は武蔵、夫ヨリ後ハ、佩用トシテ、武州鍛冶和泉守兼重ヲ用ヒキ、兼重ハ臨終ノ際、長岡佐渡ノ家ヘ遺物トシテ贈ラレ、脇差ハ遺言ニマカセ、播州ヘ送リ届ケシト云フ。
孤独だったせいか、武蔵は路傍の子どもを愛し、客を愛し、また老成した者より若い者を
春山和尚というと、ひどく老僧らしいが、武蔵の晩年、熊本に落着いていた頃は、まだ春山は三十代ぐらいな若僧であったろう。細川家の
よほど
以上の他にも、武蔵が吉岡伝七郎を斬った刀というのが伝わっている。
こういうふうに文献から
けれど、以上挙げた数点だけでも、おぼろながら彼の愛好の趣は察しることができよう。凡作は
柳生流の哲理の窮極は、無刀という、二字で尽きている。武蔵の円明二刀流の極意もまた、彼自身の書いた五輪書の空の巻の最後にいっている通り、兵法に実相と空相の二つあることを説いて、
空ヲ道トシ、道ヲ空ト見ルベキナリ
と、いっている。また、兵法三十五ヵ条の終りにも、彼は剣の哲理を、
万理一空
という四文字で筆を結んでいる。万理一空も、柳生流の「無刀」という極致も、要するに真理は一つところへ合致しているわけである。つまり兵法の最高の理想は武も要らないという境地にあるのだった。
二天記や熊本藩の者の云い伝えに依ると、老年になってからの武蔵は、平常、刀は差していなかったそうである。外へ出る時は、五尺ほどな杖を
杖とはいうが、しかしただの木杖ではないかも知れない。大和柳生谷の芳徳寺に残っている柳生十兵衛の杖というのは、一見、柳の枝か何かのように、しなやかに見えるが、杖の芯には、細い
武蔵の杖にも、のべ
武蔵が平常、人に話していた言葉には、刀脇差は、
彼がまだ壮年の頃、大坂にあって、或る夜町の辻へかかると、突然、物もいわずに斬りつけた男があった。腕を抑えて武蔵が
見ると、その男の手にある新刀は、なかなか
素姓を聞くと、下総国の
後に武蔵が、細川家の客分となって熊本に落着くと、この永国も彼の後を慕って、熊本へ移住して来た。そして武蔵の推挙に依って、それから永国は三十人
こういう話の残っているのをみても、武蔵が
有名な彼の「独行道」の言葉のうちにも、彼は、物事に好きこのむ事なし、とかまた、美宅古道具などを所持せず、とかいう箇条を挙げて、自分で
兵具は格別、余の道具たしなまず
と、わざわざ云い訳のように書き添えている。武蔵が刀に
こう想像して来ると、重要美術に指定された一点もまた、従来諸方から武蔵の遺品として出ている数々の刀も、それぞれ何らかの
けれどただ、それが一片の
しかし、そういう構成上の想像といっても、まったくいわれなき空想の上に建てたものでも決してないのである。沢庵が禅林中の人でも最も武道に関心のあったことは周知のことであるが、その関係は、文書の上では、柳生家との関係のことしか分っていない。果たしてそうだろうか。
いつか
といって、その程度で、武蔵とも何らかの関係があったろうと想像するのは、まだ
それに武蔵と沢庵とは、年齢もかなり近い。沢庵のほうがわずか十歳か十一歳の年長者であった。また、武者修行者と禅門との関係も密である。
なお、別方面から、もっと普遍してゆくと、沢庵と細川
そういう方から
紫衣褫奪事件とは、――嚮 に家康は、京都の大徳、妙心両寺に厳命して幕閣の裁可を経ずして猥 りに出世し、紫衣を用いることを堅く禁じた。(元和御法度書――元和元年)
しかし、家康が薨 じてのちは、この禁令も何時しか忘却されて、勅許を奉じて出世する者が尠 くなかった。そこで、幕府は、寛永四年、京都所司代板倉周防守重宗 をして、元和御法度書以後の出世にかかる者は、器量吟味の上、紫衣を褫奪 する旨を布達せしめた。
ところがその翌年、大徳寺において玉室 の法嗣 正隠 を出世せしめたので、幕府は厳重その非違を譴責 した。
大徳寺の諸老は極度に狼狽して、如何に申し開くべきかに迷ったが、沢庵はこれを見兼ねて自ら筆を採 り、玉室、江月、沢庵の連署を以って、此の度の出世は寺法先規に従ったまでで、決して違法には非ざる所以の返答書を認 めて、幕府に呈した。
これが益
当局の忌諱 に触れるところとなり、三僧を江戸に下して問責し、遂に沢庵を出羽上ノ山へ、玉室を奥州棚倉へ流刑に処した。時に寛永六年七月、沢庵は五十七歳であった。
しかし、家康が
ところがその翌年、大徳寺において
大徳寺の諸老は極度に狼狽して、如何に申し開くべきかに迷ったが、沢庵はこれを見兼ねて自ら筆を
これが益

当時、沢庵の学識道徳に傾倒する大名は
柳生但馬が沢庵に参禅したのは、かなり早くからであったらしい。一説に、関ヶ原以前と伝わっている。
沢庵は赦免の後、

家光は但馬について剣法を修め、技法においてはかなり
そこで、その一線を如何にして超ゆべきやとの問いに対して、但馬は、剣禅一致の妙境に悟入し得て、初めて剣の奥義が把握せられると答え、沢庵に道を聴くべきを
――沢庵は但馬のために、「不動智神妙録」一巻を作って、剣禅の関係を説き示した。
また、「太阿記」も剣道を仮りて禅を説いたものだが、これも同じく但馬のために作ったといわれている。
また、「太阿記」も剣道を仮りて禅を説いたものだが、これも同じく但馬のために作ったといわれている。
沢庵と細川越中守忠利との道縁は、さらに深いものがあった。それは、祖父幽斎、父三斎、子光尚と、実に細川家四代にわたる友情の帰依の歴史だったのである。
戦国の
幽斎と沢庵との交渉は、文献の上では、慶長七年、沢庵が三十歳の頃に始まっている。当時の沢庵は、未来の
(彼が法業の功を認められて、沢庵の号を授けられたのは、それより二年後の慶長九年である)
また、細川幽斎は、この頃、沢庵が和歌百首を詠じて批判を乞い、幽斎は深くこれを賞したと伝えられているが、単に和歌ばかりでなく、当代最高の文化人である幽斎から、この好学な青年僧は、あらゆる知識を吸収し、生長を助けられる処が多かったもののようである。
幽斎の子三斎
細川忠興は、父幽斎に比べると、武将的性格の濃い人物であったが、さりとて、武辺一辺では決してなかった。学を藤原
さらに三斎について注目すべきは、彼が徳川の
三斎は忠利に一書を飛ばして、
京にて禁中向の儀承候。主上之御事不及申、公家衆も事と外物のきたる躰と申。主上御不足の一つには、公家中官位御まゝに不成との事、または御料所増加にて被遣金銀も折々 被遣候へ共、是も毛頭御まゝに不成候。
と、皇室の
又、大徳妙真寺長老不届也と武家より被仰 或は衣をはがれ、また被成御流候 へば、口宣 一度に七八十枚もやぶれ候。
と、紫衣事件に対する武家のこれより先、慶長十五年に幽斎が七十七歳の高齢で歿した時も、三斎は
晩年の沢庵と三斎は、春花秋草に風流を談じて、交情愈

或る時、沢庵は三斎から蓮花を贈られて、
うきなからあはれことしの花もみつ これも蓮 のいけるかひかな
と三斎の屋敷の
こころをば花あるやどにとめられて 身こそはかへれ紫の庵
草庵に帰った沢庵は、一日の和楽をしみじみと三斎は沢庵より九つ年長であった。従って道の上では、勿論沢庵に満腔の敬意を払っていたに違いないが、交誼の関係からは、幽斎の子として、また、年長の心友として、むしろ沢庵が、一歩
そして忠利に至って、祖父が宗門の
武器に依って権威と名誉を獲た諸大名も、天下の
沢庵の門を熱心に叩いた諸侯としては、先に述べた柳生但馬の他、酒井忠勝、堀田
忠利は、父祖二代の文武を
忠利の歿後、沢庵は彼を追懐して、
胸襟雪月、心裡清泉、好事風流、出二其群一抜二其萃一、有徳気象、仰弥高鑽弥堅
と、最大級にその高風を讃えている。また、その肖像に、
公与レ余講交異レ他
と沢庵と忠利の親交は、幽斎、三斎を介して、若くして始まっていたに相違ないが、特に密度を加えたのは、やはり寛永九年以降であったろう。
赦免後の沢庵の在府期間を見るに――
最初は、江戸に帰った寛永九年七月から十一年五月まで。
次は、十二年十二月から十三年十月まで。
次は、十四年四月から十五年四月まで。
そして、十六年四月からは、江戸に常住している。
忠利は、九年十月に小倉から熊本へ移されて帰封したが、その在府期間は――
十年十月に
次は、十四年三月から十五年一月まで。
最後は、十六年三月から十七年五月まで。
と、両者はほとんど同時期に、江戸に滞在しているのである。勢い、その交渉は深くならざるを得ない。
富貴栄達を
寛永十二年の末、将軍の命に依って已むを得ず江戸に出ることになったが、参府前、但馬国主
近日江戸へ不被下候而不叶候故迷惑仕候
と述べ、また、同人宛の別の書面に、
(沢庵が将軍家に奉仕するのを厭 った最大の理由は、やはり紫衣事件に対する不満であったろう。この事件は、前にも述べたように、朝幕抗争の一所産であったが、事件の口火を切ったのは、金地院崇伝 だったといわれているのを見ても分るように、その裏面には、大徳妙心寺対鎌倉五山の反目が有力に動いていたのである。
「僧は山林樹下の者にて候に、官家之人も重宝からぬ口さし出申候から……云々」の一節の如きは、明かに、幕政を利用して宗門上の私意を遂げた、崇伝等に対する沢庵の皮肉である)
しかし、家光の再三の召しに依って「僧は山林樹下の者にて候に、官家之人も重宝からぬ口さし出申候から……云々」の一節の如きは、明かに、幕政を利用して宗門上の私意を遂げた、崇伝等に対する沢庵の皮肉である)
例えば、柳生但馬に見られる剣術の精神的深化や、細川忠利の如き名君的政治家の出現は、沢庵の存在を無視しては考えることは出来ないのである。
江戸の沢庵の生活を、物心両面で豊かにしたものは、若き友
沢庵は、花と並んで茶が好きであったらしく、機会あるごとに忠利から贈られる茶を、千金の宝の如く珍重している。また、季節の果物や国々の名産など、沢庵のわずかな欲望を驚かす数々の贈り物が、絶えず忠利から届けられた。
これらの好意に対する沢庵の喜びと感謝の表情は、忠利に宛てた書面の随所に見られるのである。
御礼存。先頃者 忠庵迄、乍恐伝語申候つる。御帰国前には、必一日可申承 候。於御尋者 、可為本望 候。一冊静に可被成御覧 候。御合点不参所候はゝ、貴面に又々可申入候也。
二人はまた能楽に一日の歓を尽すこともあった。
追而申候。昨日之松風、近比 見不申候面白能 にて候。松のむかふをまはりてとをられ候様子ともは、わさをきに持て仕候者の可成様子にてはなく候。つねに道なとわけてとをり候に、松の枝のさかり候を、をしのけてとをり候様もてあまさぬ見かけにて候つる。松風之時は、但馬殿も我なから我をわすれられ候哉 、さて上手かなと被申 候つる、藤永、朝長、何 れも/\出来申候、不存候者之 目に、さあるべきやうに見申 かよき上手と申候間、我等こときの目に能 見へ候か上手たるへきと存事 に候、
忠利の「忠利は寛永十四年頃から、ようやく
本草医学に明るい沢庵は、薬や養生法の注意を与えたり、力づけたりした。
(この方面の沢庵の著作としては「医説」「骨董録 」「旅枕」それぞれ一巻がある)
その結果、幸いにして回復に近づいたが、この時勃発したのが、九州の
(忠利の長子六丸は、寛永十二年七月、従四位下侍従に任ぜられ、家光の一字を与えられて、光尚と称した)
暴徒の勢いは意外にその間、沢庵もまた、大徳寺開山
かくして、この師弟の間に、再び愛慕の一年が流れ、十七年五月に、忠利は
忠利は五月十八日江戸を発ったが、その時沢庵は、あたかも熱海入湯中であった。病いがちな老体を
そこで彼は、忠利が小田原に着く頃を見計らって箱根の湯本に出向き、或いは最後になるかも知れぬ物語りに、暇乞いの一夜を明かそうとしたのである。しかし沢庵のこの計画も、悪天候と出水に
天気故此度不懸御目候事、千万々々御残多存候。来年御参覲之時分程御座有間敷 候へ共老々殊相煩申候故、重而 可懸御目儀、於我等者 不定之事候、致存命。重而今一度懸御目度存計候。
老少不定、沢庵は再び廻り来たる春の花を眺めることが出来たが、忠利は参覲の日をも再会の望みも空しく、若き友忠利を失った沢庵の
細川越中殿不慮 之御事、さても――無常変転、今不始事 ながら、今程昔語に被為成候 はんとは、誰も難思事共に候。
と
愚老事者。近年他にことなる御したしみにて候故、今もまことしからす、御国に御座候て、不日に御参府も候様におもはれ、さても/\と俄に又驚様 にて、独手 を打事まてにて候。
とあって、忠利の死が、細川越中守忠利法名を妙解院台雲五公居士と号す。
沢庵は秉炬 の語を作って、
夢回五十有余年。一枕春風胡蝶前。四海九州無レ処レ覓 。
離レ弦 聖箭過二西天一。
とその急逝を嘆じた。夢回五十有余年。一枕春風胡蝶前。四海九州
正保元年、光尚は忠利のために護国山妙解寺を熊本城外に草創し、沢庵を
十兵衛の
慶安二年丑己七月朔日 菅原三厳
むさし野に
折りべい花は
えらあれど
露ほくて
折られない
=笑はしきたとへ物語りながら、ひそかに心にかなひ侍 り此書を武蔵野と号
と、誌して、当時の江戸で唄われていたらしい俗歌から題名を取ったわけを誌している。内容は、柳生流三学から説いて、自己の見解と、剣禅の境地を、口語体交じりに書いているのであるが、大祖父の石舟斎のことを、おじいがこういった、また父の但馬守のことばを、チチがいうには、などと書いているところが、もう晩年に書いた物であるが、父祖に対する心持が現れていておもしろい。むさし野に
折りべい花は
えらあれど
露ほくて
折られない
=笑はしきたとへ物語りながら、ひそかに心にかなひ
結論の終りの章には、
=父母懐胎の時、チヤツト一滴ノツユヲウケテヨリ、ハヤ身モ心モ生ズルモノヨ、タトヘバ袖ノ上ニツユガアレバ月ノウツリ、草ノウヘニモツユガアレバ月ノウツル如クヨ
と書いたり、また、
=月白風清、コンポンニ至ツテハ、ナンニモナイトイフ処ガ面白ヨ、ナンノ道理モナキナリ
で、結んでいる。それから十兵衛の自作の歌に――「なか/\に人ざと近くなりにけりあまりに山の奥をたづねて」という一首がある。
古来剣道の名人上手といわれる人々には皆、その人の詠んだという極意の歌というのが、いくらもあるが、私は、十兵衛のその歌と、武蔵が自分の肖像画のうえに自題した歌――「理もわけも尽して後は月明を知らぬむかしの無一物なり」が、最も意味が深いし、歌としても優れているようで好きである。
[#改丁]
[#ページの左右中央]
[#改丁]
京都ほど分りよい町はおへんになあ、と京都の人はよう云わはるけれど、なんど行っても、僕には京都ほど勝手の知れない土地はない。もっともまた、いつ行っても、宿は都ホテルか中村屋か、でなければ
それを
N君は、東京の星ヶ岡茶寮の主人公でもあるし知己になったのもそこなので、もちろん東京人と思っていた所が、わたくしはこれでも生ッ粋の京都人ですよと誇ってわらう。まさか今さら
問題は、小説でそこを書く前に、武蔵が吉岡家の者と最後の死闘をやった場所の地理を、くわしく頭に入れておきたいということにある。武蔵が最初に吉岡清十郎と試合した場所は、
そこでどうしても、地理を知っておくというような予備知識も、重大な要意の一つになってくる。それにまた、うまく遺跡を探し当てれば、思いがけない他の発見もあるかもしれないなどという興味も手つだう。
で、私の尋ねあててみたいというその遺跡の地は一体どこかというと、二天記や小倉碑文などにも、わずか一行にも足らない文字であるが、一致している所をみると、かなり信頼してよい史証だと思う。だが、それも実地を踏んでみなければまだ断言しきれないような気持も幾分かあったが、とにかくその二天記や小倉碑文の記事をほんととすれば、
京洛東北ノ地、一乗寺藪ノ郷下リ
松ニ会シテ闘フ
とあるのである。松ニ会シテ闘フ
私の目的を聞くとN君は、そんなことなら何も厄介にして
光悦寺と聞いたので、私はすぐ連れて行ってもらう気になった。
「そうそう、あなたに会ったら
これは実際何を調べても
「さあ?」
と、N君は考えてから、
「丸太町辺ということは誰かに聞きましたが、それもよく分っていないようですね、鷹ヶ峰へ移住してから後のことは、光悦についてもいろいろはっきり知れているようですが」
純粋の京都人という人がこういうのだから、これは断念しなければなるまいかとその時は思った。それと共に、また前言を
光悦の住居の問題は、その後、知恩院のIさんがわざわざ送ってくれた「
だが、それを一読すると、いよいよ京都はややっこしい土地だという立証になる。それは京都の市制や地区行政がわるいのではなく、遠く武家争覇の頃から、応仁の乱や戦国を演じて来た主演者の兵火が禍いなのである。どこにだって日本中に、ここの地上ほど興亡治乱の
本阿弥光悦ノ宅趾
実相院町東南部ニアリ
と明記してあっても、別の項でその実相院町なるものを考究すると――五辻通り実相院町東南部ニアリ
及ビ、水落寺 ト堀川ノ
間五辻上ル所狼ノ辻ト
字ス。――又白峰宮ノ
東横ヲ本阿弥ノ辻子ト
字ス
これで見ると、本阿弥の辻は、白峰宮の辻という別名もあったらしい。何しろとても文字だけでは指さすことは至難である。そこで念入りに寛延版の京師内外絵図と、宝暦版の中京絵図とをくらべてみると、そのどっちにも、本阿弥の辻などという地名はない。間五辻上ル所狼ノ辻ト
字ス。――又白峰宮ノ
東横ヲ本阿弥ノ辻子ト
字ス
辻の話で、話もすこし横道のかたちである。私の目的は、今でも一乗寺村に下り松などという地名が残っているかどうか、残っていたら、武蔵が一生涯のうちでいちばん悪戦苦闘したであろう古戦場をつぶさに頭へ入れて帰りたい。そういう先の
往来でひろった車の運転手に、下り松という所があるかと聞くと、知りませんという出鼻のわるい返辞である。じゃあ、一乗寺村はと訊くと、こちらで村と云ったのを訂正して、一乗寺町ならありますという。
おやおや、そこはそれではもう町中になっているのかと思って、こちらは盲のお客、運転手にまかせていると、その運転手の一乗寺町といったのもどうやら怪しいのである。一乗寺修学院町という文字が何かで目についたし、一乗寺
「こんなほうか、君」
「ええ、こんな方です」
ひどくのみ込んでいる運転手なので安心はしていた。ところがどうやら近くなって来たのは
自動車を降りたわけも、目的地の見当がついたので降りたのではなくて、桑畑の
「なんていう所へやって来たんだ。君が知ってるというから安心していたのに、こんな所、自動車なんて一ぺんも通ったことのないような所じゃないか。はやくバックしろ、はやく」
T君はしきりに運転手へ怒りだしたが、運転手だって好きで来られる場所ではなかった。何しろその辺の草むらは、タイヤなどというものは頬張ってみたこともないように
何事やらん――と思ったように、竹やぶの中の百姓家から、お婆さんやら子供たちが出て来て見物してくれる。附近の山で山仕事していた男だの畑の女たちも崖の上から首を出す。自責を感ずるの余り
するとさっきから見物していたお婆さんや子供たちが、突然、何かわめいて車を追いかけて来た。運転手はやけくそにハンドルを廻し、その声をふり捨ててしまったが、後で訊くと、草むらに横たわっていた鍬の
ウインドを開けて、荒物屋の娘さんをつかまえて訊ねていた運転手は、ハンドルを持つとこんどは元気づいて、
「わかりました。
と、郊外の淋しい通りを、無遠慮に速力を出してゆく。
「じゃあ、下り松という地名が、今もあることはあるんだね」
このくらいの努力で分ったのは、むしろ多謝しなければならないと思った。しかしそれからまた、僕らは二度も車から降ろされて、路頭に迷った。先に来たのが
その間にT君が、往来の者をつかまえてウインド越しに何か云っていたと思うと、
「さあ、降りた降りた」
と、いやに元気づいている。
未発見の遺跡でも突きとめたというならよいが、こうありありと前人が碑まで建ててあったとなると、探し廻って来た顔がその前ですこし間が悪くなる。
しかしとうとう夜になって、
一乗寺山と瓜生山の
下り松という地名から考えても、この追分の角には、遠い武蔵のいた時代よりも、もっと遠い以前から特色のある松の樹があったにちがいない。
ここへ来る前に僕は、多少、一乗寺址の地歴を、辞書でひいてみたり、また下り松という地名の出ている書を掻き探してみたのであるが、吉田東伍博士が太平記や
修学院村、一乗寺ノ別名ナリ。昔ハ枝垂ノ老松アリテ、後世植継ギテ地名トナル。太平記ニハ、藪ノ里鷺ノ森下リ松トツラネテ書タリ。
とあって、呼ぶが如き松の樹のあったことを立証している。それから、武蔵より前に、史蹟として残っている話では、敦盛の子を法然が育てたという話はうそではないようだ。平家が都落ちの時は、越前
随連、成阿という二人の弟子は、上人のいいつけをうけて、
碑の石はまだそう古くない。裏面へまわってみると、もう
松はもうなくなったのだろうか。松はどこだろうと、
よく見ると、木のあたまに
下り松の所在が知れると、それからまた慾が図にのって、もう一つの宿題を解決してみたくなった。武蔵がここに立って多数の敵にまみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は、死を期したこの危地へ来る途中で、八幡宮の社前で足を止めたということが、これも確とした史実としてどの書にも伝えられている。
――勝たせ給え。きょうこそは武蔵が一生の大事。と彼は八幡の社頭を見かけて祈ろうとした。拝殿の
武蔵が自分の壁書としていた独行道のうちに、
我れ神仏を尊んで神仏を恃 まず
と書いているその信念は、その折ふと心にひらめいた彼の悟道だったにちがいない。武蔵にこの開悟を与えたことに依って、一乗寺下り松の果し合いはただの「この辺に君、八幡宮はないかい。いや、京都のほうから来るこの昔の街道のどっちかの途中に」
茶店でも近所でも、この附近や道すじには八幡の
鳥居をくぐると、すぐ狭い坂道をどうしても登って行くようになる。かなり急だ。登りきった所の右がわの
今頃何しに――と疑うように、尼さんが僕らの
八大神社はいうまでもなく、八つの神々を一つ地に
――だが、その高い土地から立って、一乗寺下り松の追分を眼の下に見おろすと、僕には何かしら当時――その
それは、
おびただしい吉岡の一門一族の人数はまた、どう武蔵を迎えたろうかを、そこに立って考えてみると、下り松と目印を中心にして、あの追分から三方にわかれている京都からの道へ、それぞれ備えを伏せて待っていたに違いなかろうと思う。
武蔵が無条件で臨む筈はない。彼は敵の配置をたしかめて知っていた。そうすると、京都から約束の場所へ来るにしても、彼らの備えている道を避けたことは当然である。――そう推理的にここの地勢を見てゆくと、武蔵があるいて来た道は、どうしても山づたいよりないことになるのである。
もう白い星が
武蔵は、山道を迂回して、敵の頭にあたるこの詩仙堂の上へ出て来たのではあるまいか。慶長のその頃には、石川丈山はまだそこに住んでいなかったが、八大神社はもっと神さびた拝殿や玉垣を持っていたかもしれない。いやここの社記に依らなくとも、この神社の地域の広さ、鳥居の大きさ、また
そしてここから静かに下り松を見る。とすると、実は絶好な足場なのである。高い土地から敵の背面を
(――八幡神社と二天記にある記録は、八大神社のまちがいじゃないかなあ?)
自問自答しながら山を降りて、ここの地形と下り松をスケッチ帖へ写そうと思ったが、修学院をぐわらぐわら帰ってゆく農家の車やトラックの往還に、もう晩だという往来中に立って鉛筆も
胸中山水という言葉がある。画人のためにつかわれているが、小説家にも実にこの胸中山水がある。いや或る地方に対しては、胸中故郷といっていいほどな思慕さえ抱いていながら、容易に行かれないでいる所は多い。
山陽線はよく通るが、滅多に途中で降りる機会がない。まして、岡山県
新聞の連載小説を持っているあいだは、元日の朝でも、眼のさめるとたんに今日は――とすぐ頭へくる。自動車が衝突しそうな瞬間にも、危ないと思う
「いったい何時間ぐらいかかるんですか」
運転台に納まっている朝日の支局の人が、
「ま。五、六時間でしょうなあ」
と、軽くいう。
帰りは佐用郡から三日月へ出て
牧野博士は、宮本村の一つてまえの大原の産だから土地に
「いや、胸中山水だからよいのですよ。耕地整理みたいに、余り歩いてしまうと、かえってああは書けなかったかも知れません」
と、負惜しみをいう。
山を
その宮本村附近は、どっちを向いても山で、平面の耕地は甚だ少ない。しかし山は
吉野川は山の腰を
雨の降る
自動車を停めたすぐ後ろの
「智善さんや。智善さんは来ていなかったかよ」
と、大勢の中へ呼び立てる。
八十幾歳というがまだ元気な老僧が、人を
耳の遠い智善さんは、まじまじと紹介者と私の顔を見くらべていたが、紹介者のことばが分ると、きょうあんたが来るということなので、その過去帳の写しをこれへ持って来ている。墓石の文字はもう判読できないが、多分この方が正確でしょうと云いながら、
従来、武蔵の父の新免無二斎なる人の在世年間やその歿年は、熊本の武蔵顕彰会本でも、幾多の武蔵研究家にも、推定だけでまったく不明に付されていたものだが、今、永幡智善翁の示すものを見ると、明白に
文亀三 癸亥 十月二十一日
武専院一如仁義居士 平田将監
永正三 丙寅年 七月十五日
智専院貞実妙照大師 平田将監妻 新免氏娘政子
天正八 庚辰年 四月二十八日
真源院一如道仁居士 平田武仁少輔正家(年五十歳)
光徳院覚月樹心大姉 平田武仁妻(四十八歳)
(天正十二年申三月四日)
他に武専院一如仁義居士 平田将監
永正三 丙寅年 七月十五日
智専院貞実妙照大師 平田将監妻 新免氏娘政子
天正八 庚辰年 四月二十八日
真源院一如道仁居士 平田武仁少輔正家(年五十歳)
光徳院覚月樹心大姉 平田武仁妻(四十八歳)
(天正十二年申三月四日)
後年、武蔵の自筆の手簡や文書などには、宮本姓を書いたり、新免姓を名乗ったりして、両方を用いていたらしいが、新免武蔵も宮本武蔵も勿論同一人で、従来はその理由をただ、父の無二斎の代に功があって、主人の姓を許されたのであるというだけにしか止まっていなかったが、これでみると、血縁的にも新免氏を称する理由が明白に証拠だてられている。
雨の中を迎えに出てくれた人達は、そこからまた、私たちを
本位田又八という名は、私の小説宮本武蔵の中にしばしば現れるところの仮想人物で、かつてこういう人間は自分の家系のうちに無いと、帝大教授の本位田祥男博士から抗議をうけ、それについてまた、私も弁明を試みたことなどもあるので、この日の宮本村訪問に際して、不意に出された同姓の名刺には、私もちょっと眼を
すると、その名刺の本位田兵之助が、鶴のような一老人を紹介され、
「本位田祥男の父です」と、いわれた。
私は愈

地元の人たちはあらかじめ、私の史料
むしろ私に懐かしく思えたのは、
武蔵の父新免無二斎や、本位田家の祖先が伝えていた城主の居館の址は、今は形もなく、僅かに山頂の平地から山の東北面にかけて、往時の土台石とか、井戸の址とか、石垣の址などが残っているに過ぎないという。
しかし現今でこそ、この地方はまったく山間の僻村に過ぎないが、武蔵が出生した当時から新免
一体、この附近の文化発祥というものは、幾多の古墳や社寺の遺物を見ても、非常に古いらしい。讃甘村の名称にしても、伝説ではあるが、
それとこんな
その幾多の城主たちは皆、建武南北の治乱から、応仁の乱以後の地方的動乱の波及をうけ、戦国中期までの長い時代に亘って、中央の不安と共に、この山谷でも無数の小豪族と小豪族とが、征服しまた征服され、統一されまた解体され、子々孫々流血の中に生きて、限りなき治乱興亡を繰り返して来た
今それらの城主や戦蹟についていちいち記録を拾っている
新免家三代の在城期間は、明応二年から慶長五年までの約百年であった。関ヶ原の役に浮田家の敗滅と共に、新免家も亡び、竹山城もまた、徳川家の勢力に組み入れられてしまった。
関ヶ原の役には、武蔵も十七歳で戦に出て、その以後は、郷里に住んだ様子もないから、彼もまた、その少年期だけを、この山間城下の
武蔵の少年時代も、こうあったろうかと想像されるような村の少年達が、何百名か階下の講堂に集まって、私の講演を待っていた。校長や村長たちに乞われるまま、私はそこで約一時間ばかり、少年たちに、郷土と日本の力、古人は今も生きている――というような話をした。
それからすぐ私は、武蔵の出生地、新免無二斎の屋敷址へ行ってみた。ここも小学校から大原町へ行く往来のそばで、何町も離れていない所だった。道路を貫いて一すじの小川があり、その石橋を境にして、一方は荒巻神社の境内になっている。
宮本家の屋敷址というのは、その境内と小川を
今はそこに大きな碑が立っている。畑地の奥に
二天記に、武蔵が二刀流は、幼少の時、
宮本という地名も、この神社から起っているらしい。年代は
何でもないことのようだが、武蔵の紋が何であったかなども、やはり机の上の
それと、宮本村を辞して、山越えで佐用へ出て来る途中――殊に竹山城から少し先の低い
つい先頃、某社の記者が、
「この間、巌流島へ行って見て来たが、当時の遺跡や、土地の口碑を聞いて、いろいろ面白かったよ。吉川君に会ったら話してやりたいが」
と、消息を
実のところ、私は、巌流島まで渡ったのではなく、対岸の小倉市外の山から地形を
すでに七分どおりまで
汽車の時間の都合で、門司駅に降りた私の朝はすこし早過ぎていた。朝日新聞支社のT氏が迎えに来ていてはくれたが、ゆうべ受取った電報が急なので、巌流島へゆく船の都合がまだついていないという。
写真部のN氏も来ていて、その氏がいうには、わたしは何度もあの島へは行っているが、わざわざ上がって見るには及ばないでしょう。以前とは地形もまるで変っているし、特に見る物は何もありません。それよりは
大阪に約してある用事の都合で、私はどうしても午後の汽車で立たなければならないので、ではそうしていただこうと、支社の自動車にまかせてすぐ風師山へ向った。冬の
いうまでもなく、この辺は要塞法による撮影禁止地域だし、スケッチも禁じられている。私は
見たところ巌流島は、彦島の子島にすぎない一
彦島村役場の明治頃の土地台帳によると、巌流島全体の面積一
豊前民謡に
わしが心と巌流島は
ほかに木はない松ばかり
とほかに木はない松ばかり
――左様。……今は形も変り樹も少なくなっていますが、以前はもっと目につく島でありました。私が知ってからでも、松と山桃それに笹が沢山生 えていまして、松は相当に数があり、大きいのは一抱えぐらいのやつが両方の高見にずっと茂っていました。島のまん中は平地で、砂浜になって干潮の時は遠浅 の洲に続きます。漁に出て休む時は、潮のかげんでそこに舟をよせたものです。それに古い井戸が一つありましたよ。……云々
なお、詳しい調べに依ると、巌流島という名称は、もちろん慶長以後、武蔵と巌流の試合が
寿永四年正月。前内府 、以讃岐 、
城廓ト為サレ、新中納言知盛、
九ヶ国ノ官兵ヲ相具シ、門司
ヶ関ヲ固メラル。彦島ヲ以テ
営ト定メ、追討使ヲ相待……
云々(東鑑)
などの記載や、盛衰記の元暦元年の条には、義経の軍が兵船を仕立てて知盛の引島城(彦島)を攻略するの記事などが見えるが、そのほかの紀行や古歌などを見ても、特に船島の文字は見あたらない。城廓ト為サレ、新中納言知盛、
九ヶ国ノ官兵ヲ相具シ、門司
ヶ関ヲ固メラル。彦島ヲ以テ
営ト定メ、追討使ヲ相待……
云々(東鑑)
もっともこの辺り海峡一帯には、島とも
小倉市
古いその墓石は、誰が建てたのか、惜しいことに行方も知れないので記年も
現在の
佐々木巌流之碑
明治四十三年十月三十一日
舟島開作工事之際建之
とある物で、施主数名の名が刻してあるとのことだが、それらの人は、おおかた附近の漁民や船頭業の者らしく、島の土地が漸次、時代の工業的な光をうけ出した標識とも見られるのである。明治四十三年十月三十一日
舟島開作工事之際建之
この島の土地が、母島の持主の手から離されて、売りに出されてから、三菱合名だの正金だの神戸の鈴木だのと、幾度も所有者は変って来た。明治二十六、七年ごろには、
平家没落の時代から、この附近や
船人が、何かのことで、巌流島へ船を寄せても、巌流の墓石が見える時もあり、見えない時もある。――見えない時は凶事がある。見える時は運がいい。
また、すこし怪異めくが。
毎年、盆の十六日の晩には、巌流の墓石から、閃光を発して、火の玉が飛ぶ。すると対岸の小倉延命寺山のうえにある武蔵の碑からも、同じように火が飛んで、ふたつの火の玉が、年ごとに暗夜の宙で斬り合って消える……。
次の話はまた、近年なので、生存している者の口からいわれていることだそうであるが、それもなかなか妖気めいた説話で、いかにこの辺の海上生活者や海峡の雰囲気が、かつての要塞地以前、重工業の中心地以前にはロマンチストであったかが思われるのである。
その話というのは。
――つい大正年間、先に云った小
ところが、夜になると、ほとんど毎夜のように、番小屋の
番人の婆さんは気が狂って死んでしまった。残った爺さんの方も、郷里へ逃げ帰ってしまった。今でもそこの大松の下に、番人の爺さんが供養に建てた小さな
こういう船頭ばなしに近い話は、拾えばまだ幾らもあるらしいのである。以て、宮本武蔵と佐々木小次郎の遺跡に対する、この地方の土俗的な観念は
すぐ延命寺山の方へ巡るため、私たちは風師山の急坂な自動車路を、車の中でのめるように
ふつうの伝記ならば、先ず武蔵の生国、年代、家系というような生い立ちから書くべきだろうが、そんな形式にこだわらないつもりだから、僕はこの一月早春、熊本小倉地方を歩いて得た彼の晩年期の遺跡の踏査から先に書いてゆくこととする。
誰の言葉であったか、いつか有信館の座談の時に、
「宮本武蔵の墓と称するものは全国に六つある」
といったのを聞いたことがある。
墓ではなく、碑や遺跡も合せてのことであろうと察し、聞いたままに数えてみると、
愛知郡川名村新豊寺の碑
名古屋笠寺観音堂の碑
こう二ヵ所は、共に門流の人々の建立で、一つは延享年間に、一つは寛政頃に建てたものであるから、今も現存していると思うが、ついまだ自分は訪れてみない。名古屋笠寺観音堂の碑
次に有名なものでは、
小倉市外延命寺山の碑
熊本市外弓削村の武蔵塚
の二ヵ所である。碑として数えられるのは、以上四つしか自分には心当りがないが、全国に六ヵ所あるといった人は、それに武蔵が臨終に近い日まで想念の床としていたところの熊本市外弓削村の武蔵塚
熊本市外岩殿山の霊巌洞
と、それに武蔵遊歴中の遺跡であり、現存もしている
千葉県行徳村藤原の徳願寺墓
とを数え入れているのではなかろうかと思われる。しかしどっちにしても六ヵ所の墓が残っているというのは当らない話で、厳密にいえば、熊本の武蔵塚だけが、ほぼ墓所として確定されてある限りである。しかし、この一月頃、私がその実地へ立って仔細に見たところでは、武蔵塚も呼ぶが如く、塚であり碑であって、その碑面の文字にも明らかに、
新免武蔵居士之塔
と刻してある。塔という一字が何となくただの墓所とちがうような感銘を私に与えたことは否み得ない。それはとにかく、私は熊本へ着いた翌日の、早朝旅舎の一日亭から、自動車で第一にそこへ向った。観光局と市の吏員たちが案内役だった。熊本城と共に清正の経営になった軍馬
清正の経営に成った大道を自動車で快走しながら、ふと車の中で思い出したことは、後藤新平と京浜国道のことだった。今の京浜国道は、後藤新平が東京市長時代に設計されたものだと聞くが、最初、後藤市長の出したプランは現在の道路の約二倍以上な道幅のものであった。ところが市会にかかると、また後藤の大風呂敷が途方もない馬鹿な設計を
その京浜国道は、出来上ってみると四、五年を経たない間にもう狭いことに苦しみ出し、交通事故の第一の場所となってしまい、最近またすぐ同じ京浜国道を同じ地域に近い土地へ引っぱることで、多分な市費と市力を傾けながらごたすたやっているそうだ。
清正の案には、城を築くにも道を作るにも、そんな煩いがなかったのである。今もなお、颯々と、当時の清風は
武蔵塚という名称から想像して、そこへ行くまでは、さだめし村里の
入口を直ぐ右側に、絵ハガキや参詣者へのスタンプなどを備えている社務所風の家屋がある。そこを覗いてみたが誰もいないので、直ぐ彼方に見える塚のほうへ歩みかけると、その家の裏口から肩の
「きょうお出でになることを新聞で見ましたのでお待ちしておりました所です」
老人は、宮本武蔵顕彰会のここの事務所に住んで、武蔵塚を守っている松尾一郎翁だった。
「どうぞ」
と、先に立つ翁に従って、私たちは墓碑に参拝した。碑は約十坪ばかりの玉石の段に囲まれ、側には
一郎翁の話に依ると、武蔵塚を訪う人は年々多くなっているとのことである。
岡山県英田郡讃甘村宮本 平尾泰助
とある一名の参詣者だった。いうまでもなく、英田郡讃甘村は、宮本武蔵の生国の地である。故人とどういう縁故のある者の子孫かと、私は私の想像
余風といえば、武蔵の心業が日本の剣道精神を通じて、現代人の心にまで一つの大きな哲理と人生観を示唆し、隠れたる無数の武蔵崇拝者を持っている事実には、自分も朝日紙上に小説を発表した時の反響でも驚いた程であったが、今度この熊本地方を旅行してみても、しばしば、その事実を認めさせられて、今さらのように彼の孤高独行が、決して、その死後においては孤でなく独行でなかったことを知った。
ここの塚守の松尾一郎翁も、武蔵先生の事蹟についてと問えば、その細ッこい老骨の肩をそびやかしつつ、談じて飽く気色がない。
「てまいみたいな者が武蔵先生の墓のお守りを
抜けかかっている大きな前歯を出して一郎翁は笑った。無礼な参拝者が転んだという話からまた、翁はこの塚に関わる次のような伝説を話し出した。
一郎翁はこう話した。
「現在の碑は、御覧のとおり南に向いておりますが、昔は、すぐそこの街道へ向って、真正面に建っていた物で、附近の百姓どもは武蔵塚の前を馬で
武蔵の碑に
次に、この墓碑の下に埋葬されたという武蔵の遺骸は、二天記の記載に依ると、本人の遺言に従って、死骸には
武蔵が、こんな遺言をしたわけは、彼が養子の宮本伊織へ与えた最期の書状にも、また、日頃親交ある人々へ云い送った文書などでも明白にわかる。
われ君侯二代に仕へ、その恩寵 を蒙 ること頗 るふかし。願はくば、死せむ後も、太守が江戸表参覲の節には、御行列を地下にて拝し、御武運を護らんと思ふなれ。その故にわが遺骸は街道の往還に向つて葬るべし。
武蔵の心は、そこにあったのである。細川家の寵遇に対して彼がいかに感銘していたかも武蔵が
誰も知っている通りに、武蔵はその余生を熊本の城下に送り、当時の英主細川
彼が、その忠利に
細川家へ落着いた寛永十七年から歿年の正保二年まで、彼の余生はその間わずか五、六年しかなかった。
ところが、その細川忠利との間も、実際はわずか二年足らずしかこの世になかった。なぜならば武蔵が知遇を受けたすぐ翌年三月に忠利は五十六歳の惜しい年齢で世を去ってしまったからである。
乱世に呱々の声をあげ、中国山脈の
碑前を去って、私たちが自動車へ戻りかけると、その前から私たちの後ろに
「龍田山の
と、物静かに訊く。
泰勝院というのは、武蔵が晩年の心友であった
「もしお廻りになるなら、これから御案内いたしますが」
と、前の三名の人達が、自分たちの乗って来た自動車へ私をすすめてくれる。
だが、泰勝院は細川家代々の
武蔵が、細川家に晩生を
忠利と彼とが百年の知己の如く結ばれた
治民経国の学問――政治の理想と、剣の道とどこに合致するものがあるかと、或は疑いを抱く人もあろうが、柳生流の大宗、柳生石舟斎宗厳も、常に子弟に云って、
「わが流は天下を治むるの兵法ぞ」
と、末枝の勝敗にのみ走ることを
「天下統治の大法は吾れ宗矩について其の大要を得たり」
と常に語っていたということである。
その宗矩が、諸侯に剣道を授ける時には、「
それらの達人の理想するところを
誰の語であったか、古来剣の六則としていわれてきた言葉にこういう一章がある。
――庶人是を学べば則ち家を治め、君子是を学べば則ち国を治め、天子是を学び給へば即ち天下を治め給ふ。庶民より王侯君子にいたる総て其の道たるや一
それはそうと私は今、武蔵塚で話しかけられたまったく
かつて人の足に踏ませない
「これをお
と、カーキ色の洋袴を穿いて手拭をバンドに挟んでいる除隊帰りのような留守番の
急に
寛文十三年丑正月一日 春山禅師
と微かに読まれた。何と往生日のよい和尚であろうか。生前武蔵と
正保二年の二月頃から武蔵は病床についた。そして新緑の四月頃、もういけないと自覚すると、彼は恩顧になった人々や友人に
現今、泰勝院での馬場筋とよぶ所に、引導石というのが残っている。春山が引導を渡す時、武蔵の
なぜ本堂の霊壇で引導の式をやらなかったであろうか。引導とあるからには本堂で大淵がやって、また、寺内の石上で春山が二度も重ねてするわけはない。私はこの話は非常にふかい意味を持っているのではないかと思う。遺跡文献の甚だ乏しい武蔵の伝記検討には、こんな一
樹下石上は、武蔵の生涯の席であった。居宅に望む心なしという言葉だの、心常に兵法の道を離れずという言葉だの、彼が
細川藩の客分となって、千葉城址の高爽な住居に、余生を送る身となっても、武蔵のこの生活態度には、少しの変りもなかったのである。いやそうなればなる程、彼は青年時代からの氷雪の修行や、山野の漂泊を顧みて、身を畏れていたことと考えられる。
加うるに、老後、細川家の恩寵の厚きを思い、死に際しては国君の名代として、枕頭に
「わしが死んだら、わしの柩は、御身とよく腰かけて禅話をやったあの石の上にでも乗せてお身が引導をわたしてくれればそれで結構だ。ただ、遺骸には六具の甲冑を着せて、それを君公の
という程度の遺言をしたものと、私には考えられる。武蔵の生活や四囲の事情など、いろいろな方面から推してみて、現存している引導石は、非常に意味のふかい、また武蔵最大の
武蔵餅という看板が目につく。甘酒だの
その前に、自動車をおいて、私たちは延命寺山へ登って行った。閑静な住宅地のあいだに、土産物屋だの茶店など入り混んでいる坂や石段を踏んで行く。
桜の木が多い。上は小公園になっている。冬なので私たちのほかに人影もなかった。茶店もあらかた
台石を除いて、高さ一丈三尺余、横幅は広い部分で六尺から四尺ほどあるという。仰ぐと、碑面の上部に大字で、
天仰
意相
円満
兵法
と劃彫りに記してあって、その下部一面に、約千二、三百字の春山和尚の撰文が意相
円満
兵法
碑文は余りに有名だし、多くの武蔵関係書にも紹介されているからここには略しておくが、上部の八字の題字には、武蔵の円明二刀の心境がよく象徴されていると思った。この碑も、明治二十年前までは、小倉城下の
その石碑移転の際に、人夫が碑の下を発掘したところが地下から備前焼の
この話は、そう古くないことだし、前述の田向山というのは、小倉街道の――この地方称では鳥越街道という往還にも当り、参覲交代の諸大名が通過の折など、その供槍の者が槍を伸ばして碑の高さを計ったものだとかいう伝えもある。そして小笠原家の家臣宮本伊織が拝領して碑を建てた土地なので、拝領山ともよばれ、同家累代の墓所もそこにあったという。とにかく
それらのことを今、私がここに云い並べるよりは、小倉郷土会の主催にかかる「武蔵座談会」の席で、同地の郷土史研究家たちへ話した地元の古老向井氏の談の一節のほうが、遥かに分りよいし、実感も伴うわけだから、無断ながらここに引用さしていただくと。
(向井老の談)
……あの碑を田向山から今の延命寺へ移転いたしました当時、私はちょうど区長を務めておりました関係から、知っとるだけのことをお話致してみますが、明治二十年にあそこへ砲台を建設するために、碑を掘り出したのであります。それに使った男が二人、ひとりは金ひとりは仙と申しました。
座談会へ出て話せというお話がありましたので、昨日私は、その二人の家を訪ねて行ってみましたところ、二人とももう故人となり、そのうちの仙の息子に会いまして、訊ねましたところが、何も記憶はないが、その時拾って帰ったという一文銭を保存していると申しまして、此処に持参したものを貸してくれました。(青錆となった古銭の破片二、三を示す)
私もその当時の職掌がら、多少お世話もし、報告を受けていたわけでありますが、何でも碑の下を掘ったところ二つの大甕が現われて、その一つの石ブタを開くと、大たぶさを結び、紋服を着た大男の遺骸が、澄んだ水に浸っていたが、外気に触れると間もなく崩れたようになってしまったといって騒いだことは、今にたしかに記憶しております。何分、大きな墓石のこととて、移転は大仕事でした。第一運搬する道から拵えてかかったくらいで、人夫も相当たくさん使いました。当時女人夫は一日八銭、男が十二銭ぐらいであったと覚えております……云々。
……あの碑を田向山から今の延命寺へ移転いたしました当時、私はちょうど区長を務めておりました関係から、知っとるだけのことをお話致してみますが、明治二十年にあそこへ砲台を建設するために、碑を掘り出したのであります。それに使った男が二人、ひとりは金ひとりは仙と申しました。
座談会へ出て話せというお話がありましたので、昨日私は、その二人の家を訪ねて行ってみましたところ、二人とももう故人となり、そのうちの仙の息子に会いまして、訊ねましたところが、何も記憶はないが、その時拾って帰ったという一文銭を保存していると申しまして、此処に持参したものを貸してくれました。(青錆となった古銭の破片二、三を示す)
私もその当時の職掌がら、多少お世話もし、報告を受けていたわけでありますが、何でも碑の下を掘ったところ二つの大甕が現われて、その一つの石ブタを開くと、大たぶさを結び、紋服を着た大男の遺骸が、澄んだ水に浸っていたが、外気に触れると間もなく崩れたようになってしまったといって騒いだことは、今にたしかに記憶しております。何分、大きな墓石のこととて、移転は大仕事でした。第一運搬する道から拵えてかかったくらいで、人夫も相当たくさん使いました。当時女人夫は一日八銭、男が十二銭ぐらいであったと覚えております……云々。
甕は二つ出たとある。甕の一つには人間がはいっていたとして、もう一つの甕には何がはいっていたろうか。もしや武蔵の遺品などではなかったろうか。あったとしたらどうしたか。
そういった席上の質問に対して、向井老が答えた所を綜合してみると、はっきりは覚えていないが、宮本家の子孫も親しく立会ったことではあるしするから、遺品などが出たとすれば粗略にする筈はなく、これは多分確かと思うが、新しい甕の中へすべてを収めて、移転した延命寺山に建碑し直す時、新規の場所の地下に
それからまた、先に出た古い大甕の処置については、
(向井老談)
――何か入っていたとは聞いていましたが、それが何であったかは詳しく記憶しておりません。甕だけは、私が些細な代金で買取り、現に私の甥の家にあります。もう一つは当所の伊東家に保存してあるかと思います。
とも語っている。――何か入っていたとは聞いていましたが、それが何であったかは詳しく記憶しておりません。甕だけは、私が些細な代金で買取り、現に私の甥の家にあります。もう一つは当所の伊東家に保存してあるかと思います。
私を案内してくれた朝日の支社の人たちも、その話は信じているらしく、大甕を見た人の鑑賞に依ると、それは昔、水甕として使われたこの地方でいうハンド甕と称する種類の焼物だということであった。
ここでただ
武蔵の
けれど小倉の地方には、武蔵の遺骸は、歿後養子の伊織が迎え取って、田向山の菩提所に葬ったので、熊本のそれは分髪の墳墓であるというような説も一部にあることはあるのである。
細川家と小笠原家との姻戚関係だの、また、小倉の大淵和尚と、熊本の春山和尚との師弟関係だの――なお、武蔵を養父とする宮本伊織が小倉藩の家老であったなどの密接な点を考えてゆくと、いずれにせよ武蔵の遺骸問題もなかなか、そう簡単にどことも断定はできないものがあるように思われる。
ここで、碑の撰文を書いた人でもありまた、武蔵とは生前の交友蜜の如くであったという熊本の春山和尚とは、いったいどういう人か、一応
従来、熊本の顕彰会本の記事でも、その他の研究家の手になった書でも、武蔵と春山とは、道契浅からぬ間がらであり、晩年無二の親友であったというのみで、この僧の法系も人物もいっこうに明らかにされていない遺憾がある。
で、私はまず、春山の法系を知ろうために、熊本の細川家菩提寺の泰勝寺を訪れた際も、同地の智識にも、かなりたずねてみたが、泰勝寺第二世の名僧だったという以外にはよく分っていない。
鷲尾博士の仏家人名辞書その他にも、春山の名は見あたらない。禅家の正称でなく別号があるのかもしれないが、今日までは私にもまだ手懸りがないのである。ただ、泰勝寺第一世大淵和尚の法弟であったことは明白だ。それと大淵が、細川家の移封と共に、小倉から連れて来た者だろうという程度の推測まではつけてもいいかと思う。
法系的に見てゆくなら、春山その人を知るには、春山の師大淵とはどんな人かを調べたほうが手近である。
なぜならば、大淵の禅林における地位、または細川家との交渉はほぼ分明しているからだ。
大淵は、
泰勝寺の山号はいうまでもなく、細川家の中祖細川
もっとも幽斎よりずっと以前の細川
武門と禅林との交渉は、その多くが裏面史的なものであったことは、禅林の性質上、当然であって、同時にそれを
足利幕府の崩壊を前にして、三好細川の乱の後、将軍
藤孝が、信長へそれを計る前に、彼は
義景も、容易に藤孝のすすめを容れなかった。ところが、朝倉家の客臣に、ひとりの異材がいて、共に
「それを成就する大器の人は、尾張の織田信長なる者以外に人はない」
とのことだったので、共に
その機縁と明察をもって将来を見通した朝倉家の客臣は、明智光秀であった。
光秀と藤孝との知遇などは、従来の伝記としての明智光秀の履歴には見出されないことであるが、そういう史証が真偽はとにかく、禅門の法燈史などから出ているところに、かえって正面から史実として出されているものよりは真実性もあり史的性質のおもしろさもある気がする。
話は
大心院は、信長の
信長歿後の、妙心寺と藤孝の関係や、藤孝歿後の細川家との交渉やらを細述して行ったら限りもないからやめるが、とにかくそんな風に、幽斎藤孝の終った後も、三斎忠興、それから武蔵の知遇を得た忠利の代までも、その法系と藩とは、幽斎在世の当時ほどではなくても、中祖の菩提所を通じて、変らない関係にあったことだけは認められよう。
で、その檀林から、大淵が藩へ招かれたことも、極めて自然なのであるが、大淵の弟子として、春山和尚のあることは、妙心寺史中にもふしぎと出ていないのである。あるいは「
かえって、大淵の法孫として、
性天は、学匠として聞えていた。和州南都の人で、詩文に深く、草書を能くし、泰勝院細川幽斎公のために、宝永年間、
こうしたふうに大淵その人も、大淵の法孫の事歴も、ほぼ明白なのに、なぜ大淵の法嗣をうけて泰勝寺の二世に坐った春山の人間も事歴も、晩年の宮本武蔵と親交があったということを除いては、いっこうに分っていないのだろうか、不審といえば不審だが、また、考えように依って当りまえといえば当り前な気もするのである。
なぜならば、これは自分の私見からいうのであるが、小倉碑文の有名になったことや、武蔵の道友であったということなどから、春山和尚の名は、当人の実質以上に余り名僧かの如く引き上げられ過ぎて来たのではあるまいか。武蔵の歿年当時、春山は何歳だったかちょっと今手元の物では突きとめられないが、私が熊本へ行った折、泰勝寺の裏山にある春山の墓石から写し取って来た当時のスケッチブックを見ると「寛文十三年丑正月一日歿」とある。武蔵の歿年正保二年からかぞえるとちょうど二十八年目である。
また、春山の歿したすぐ翌年、延宝二年に(寛文十三年は改元延宝元年にあたる)――弟子観海が亡師春山の肖像を
武蔵は六十二歳で歿しているから、春山が同年齢に近い人だとすると、寛文十三年の歿年には、九十歳で一つ欠ける老齢になっていなければならないわけだが、弟子観海の肖像画やその他から推して考えてみても、どうも武蔵の晩年在世の頃には、春山はまだよほど若かったのではあるまいかと思われるのである。
その春山が、生前の
武蔵から見て、自分を慕い、自分に道をただしてくる泰勝寺の若い一禅僧があり、その師大淵は、妙心寺統の一巨僧だし、何かと物分りもよいし、過去の世事談をするうちにも、いろいろ思い合される人々の名も出てくるし、愛すべき壮年僧として、快くこれを迎え、時に剣を語り、禅を会笑し合っていた――というふうに春山その者を仮定して置くならば、春山の人物観も至極気が楽になる気がする。それを、晩年莫逆の友とか
どうですか、あちらの茶店で少し休んで、甘酒でものみながら、
――ははあ、そんな肖像画があるんですか。
と私がすぐ足を近くの茶店へ移してゆくと、N氏はあわてて、
――いや、肖像画といっても、宮本家(小倉の伊織系)に伝わったものの写しだそうですがね。
と、云い直した。
写しでも何でもよい。一見さして貰いたいと私はN氏へ頼んで閉っている茶店をのぞいた。自画像だとか、何処に伝わった物だとかいっても、武蔵の肖像画のほとんどといっていい物がみな伝写物なのだから、私の求めるのは、その題語に何か変った人の書でもないか、或は伝写にせよ、年齢風貌の異なっている物ならば、それからまた、その原図を想像し、武蔵のべつな風貌や年齢などの空想に資することができるが――ということだけに過ぎないのだった。
それと、小倉の宮本伊織の家筋に伝来されて来たという肖像画の真物は、熊本に伝わっている肖像とちがって、赤羽織を着て、長刀を座側の刀架けに懸け、筆を持って坐っている武蔵の坐像であるということをかねがね聞いていたのである。
大小二刀を左右の手にさげて
――いや、とんだ話になりましたよ。死せる武蔵、生ける盗賊を走らす、という
と、ひとりで哄笑しながら出て来たが、やがて説明していうには、その宮本武蔵の画像の
ところが昨日、警察署へ届け出ると間もなく、他の品物は出ないが、武蔵の幅だけは、電車道の四ツ角に、抛り捨ててあって、往来の者が警察へ届けて来ているから、早速受取りに来いという通知が来た。けれどおやじさんは
――泥棒先生、何か売れる書画でもあるかと思って、途中で幅を開けてみたところ、眼の凄い赤羽織の侍が、にゅっと出て来たので、きっとびっくりして捨ててしまったものでしょうな。泥棒先生のその時の顔を想像すると、どうもおかしくって堪らない。
と、腹をかかえる。私たちも茶屋のおやじへ気の毒を感じながらも、思わず笑って、まさか警察まで行くのも変だし、もう午後の汽車の時間に間もなくなったので、雪解けの道を拾いながらぞろぞろ延命寺山を降りて行った。甘酒すら売れない冬の山へ、何をしに何を見に、いったいやって来て、寒そうにいつまで石など仰いで行ったのだろうと不審がるように、近所の住宅の奥さんが、蒲団の干してある二階から私たちを眺めていた。
[#改丁]
[#ページの左右中央]
[#改丁]
宮本武蔵の生涯の逸話だけをここに拾ってみる。古人の逸話というものの中には、口碑、伝説、史片、曲歪、真偽さまざまであるが、その
逸話の上から観ると、武蔵の事蹟は、故郷にいた少年時代と、晩年の熊本時代に多く遺されている。それから考えても、中年期は住所を定めず、
しかし、右の二事件は、余り有名であるし、逸話というよりは物語になるから、ここにはわざと
幼い武蔵は、村の荒巻神社の境内へ行ってはよく遊んでいた。(この神社は現在も、岡山県英田郡讃甘村宮本に現存していて、宮本家の旧宅の跡といわれる石垣と小川一つ境にして隣り合っている)
或る時、そこの神楽殿で、楽師たちが
二本の
という当り前なことに、大きな疑問を抱き始めた。
それと、右
「これだ、これだ」
と、二刀の原理を、それが暗示となって、工夫し得たというのであるが、この話は、今も宮本村では信じられているが、幼少時代のこととしてはどうかと考えられる。
二刀流を工夫した動機としては、ずっと後に、
日頃、武蔵のこの態度を
「父の兵法を
と無二斎が
父子の間に、かほどまでな
一説に、武蔵は父の勘気を得て、播磨の一僧庵に身を寄せていたということである。
新当流の兵法者有馬喜兵衛が矢来を構え、金磨きの高札を立てて、他流試合の相手を求めたと伝えられるのは、この頃のことである。
手習の帰途、この高札に目をとめた悪童武蔵は、手習筆を以って墨くろぐろと塗りつぶし、宮本弁之助(武蔵の幼名)が挑戦する旨を大書して、僧庵に帰った。
その夜、喜兵衛の使いが、僧庵を訪れて試合
「
と百方陳謝した。
が、喜兵衛にしても、高札を塗りつぶされたからには、武芸者としての面目上、黙って引き下がるわけには行かない。
明くれば、弁之助挑戦の
「さ、早くお詫びするのじゃ」
庵主が命じる。
火のような怒りを発した喜兵衛は、太刀を抜き放ってこれに応ずる。と、矢庭に、弁之助は棒をすてて喜兵衛に組み付き、

喜兵衛は、勿論、
諸書みな、武蔵十三歳の時と伝えている。
関ヶ原出陣前といえば、十六歳から十七歳にかけての頃であろう。
武蔵は
「もしこの下を敵が駈け通らば、御身達は如何にするか」
武蔵が問いかけた。同輩達は口を揃えて、
「この夥しい
と答えた。
武蔵はこれを聞き、
「何故、かかる無謀な振舞いをするのか」
「上へは飛び立てぬ人間も、下へは、幾丈幾十丈ありとも跳び下りることが出来る。御身達が殺竹を怖れて、敵を追うこともかなわぬといわるるが心外ゆえ、傷つくとは知りつつ跳び下りて見せたのだ」
と答えたという。
尾張の城下を歩いていた武蔵は、一人の武士とすれ違いざま、
「久々に、生きた御人にお目にかかるものかな。
武蔵の言葉に、武士はにこと
「如何にも私は柳生兵庫――。そう仰せあるあなたは、高名な宮本武蔵殿ではおわさぬか」
と答えたという。
両士は忽ち、百年の旧知の如く打ちとけ、兵庫の屋敷に同道して、酒盃を
武蔵は後にこの時の心境を説明して、何故一見して兵庫と認めたかは、心機の妙、理外の理であって、言葉には表現し難い。また、二人が、剣を交えなかったのは、
武蔵の人物を見る眼識は、なかなか優れていたらしい。晩年、肥後藩に身を寄せてからも、次のような逸話が残っている。
一日、武蔵は主君忠利公に向って、
「家中剛毅の士多き中にも、只今、殊に器量抜群の人物を見受け申した」
と言上した。
「誰か」
と、忠利公が興深げに問う。
「名は存じませぬ」
「では、ここへ
座を立った武蔵が、
後年、江戸城修築の
日夜、言語に絶する
彼は
英雄、英雄を知るというべきであろう。
ひと年、武蔵は出羽の国を旅していたが、正法寺ヶ原へ差しかかると、
「
武蔵が声をかけると、童は
「折角旅人が乞わるるに、何を物惜しみ申すべき――」
と、手桶を置いたまま、すたすたと立ち去ってしまった。
翌日、
「行き暮れた旅の者、軒先なりとお借り申したい」
武蔵が案内を乞うと、
「昨日、
と云いながら出て来たのは、正しく泥鰌取りの
夜更くる頃、
(さては彼の童、夜盗の一味にてもあったか)
と、殊さら大きな
「刃を磨ぐ音に眠れぬとは、さても見掛けによらぬ臆病者じゃ」
という。
「怖ろしさに目を覚ましたわけではないが、何故この夜更けに、刃を磨ぐのじゃ」
少年は武蔵の不審に答えて、実は昨夜老父がみまかり、裏山の母の墓に並べて
武蔵は童の
武蔵は幼少の頃、頭に
また、彼の
それと門人の
身の垢 は手桶の水にてもそそぐを得べし、
心の垢はそそぐによしなし
という言葉の心の垢はそそぐによしなし
武蔵は或る時、
「
武蔵の厚意に少年は大いに喜び、「自分には養うべき老いた両親があるゆえ、修行の望みは充分あるけれども、
武蔵はその孝心に愈

武蔵の眼力に狂いはなく、少年の武芸学問は衆を超えて進み、後、宮本
その後、造酒之助は故あって、主家より
なお、この時、武蔵は必ず造酒之助が
「造酒之助来らば、今生の思い出に、十二分に馳走して遣わそう」
と側近に洩らしていたという。
武蔵はかつて、雲州松平家で家士と試合をしたことがあるが、八尺余の八角棒を持った強力の者が、書院の階段を下りる武蔵を待ち受けて、一気に
武蔵は、階段の二段目辺りより木刀を中段に構え、鼻先めがけて、ぐっと切先を突き出したので、のけぞった家士が
松平出雲守は、家士の余りの
「予自ら相手を致す」
と、
武蔵は、
「兵法の合点は、自ら試みられることこそ第一なれば、遠慮なくお相手を仕ります」
と答え、二刀を以って出雲守を追い詰め、座敷へ追いあげてしまった。
出雲守はなおも屈せず、上段より強引に撃ち下ろそうとするのを、武蔵がすかさず上に払うと、木刀は二つに折れ、一片は跳ね上がって天井板を打ち抜いた。
出雲守は初めて武蔵の非凡に舌を巻き、礼を厚くして教えを乞うたという。
或る時、小笠原信濃守の邸に、人々の集まった折、武蔵のことが話題にのぼった。勿論、彼の兵法を
ところが、
「いかに天下無双の武蔵なりとも、隙を狙って
と広言した。一座興じて、
「では、今宵武蔵もここへ参る筈ゆえ、見事撃ち取って見せぬか」
と、
料理人は物蔭に隠れ、武蔵をやり過ごして置いて、
「あッ」
と、
やがて、水よ薬よと人々が立ち騒ぐのを聞きつけて、
「何事か」
と、信濃守が尋ねる。
「只今、御前近くを騒がさんとする
と、武蔵が云った。
武蔵としては軽く打ったに違いないが、その料理人は一生不具になった揚句、よい笑われ者になった。
ある屋敷で、人に求められるまま、小姓の前髪の結び目に、一
また或る時、一匹の野良猫が庭を横切ろうとした時、武蔵が室内から振向くと、猫は進退の自由を失って、その場に
ある日、武蔵に会いたいという少年が来た。会って仔細を聞くと、
「父の
と、可憐な瞳を輝かせていう。
武蔵は切々たる少年の孝情に感じて、
「明日試合に
と励ました。
当日に至って、少年が足下を見ると、
「これぞ
と勇み立ち、武蔵に授けられた秘策をもって、見事大敵を突き殺した。
勿論、これは武蔵の奇略であった。試合の場所に蟻のいることを前以って知っていて、少年の心に自信と勇気を吹き込んだのである。
武蔵には生涯
彼は平常、幾つもの木綿袋に金を分けて天井に吊し置き、訪れる浪人者や、武者修行に出る門人達には、
「何番目の袋を路用として持ち行け」
と、いって与えたそうである。
細川家に身を寄せてから後のこと、ある日、武蔵は、忠利公の命で、御前で
後に門人に向って、「自分の画は到底剣には及ばない。その故は、君侯の命を受けて見事描かんと思う戒心があるからである。しかるに夜中悟るところあって、剣法の心を以って無念無想に描き上げたるに、初めて意に通うものが出来上った」と述懐した。
「
と、百本ばかりの竹を武蔵に示すものがあった。
武蔵は無造作に竹の一端を
「これだけは八幡大丈夫と存ずる」
「如何にも
と、互に
さすがの武蔵も老年に至って、ときに足元の危ないことがあったらしい。
長岡
「ヤッ」
と、掛声して上ったことがある。
その後、武蔵の屋敷近くに火事があったが、
人々余りの
「老いても
と、人々皆、感嘆したそうである。
熊本時代の武蔵は、連歌、茶、能、書画等の風流に遊んで、悠々たる
敵に向っては鬼神の如き武蔵も、平常は至って